[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
聖典引用 板
1869
:
うのはな
:2013/01/05(土) 23:23:31 ID:Lu5TENfc
友達と読み物は明るいものを選べ
じかに阿弥陀仏の懐へパッと飛びこむのがよいのである(『女の教養』)
子供の友達は快活な明るい者を選ぶがよい。暗い陰気な子供とまじわらしていると、
自分の子供も暗い陰気なものになりやすい。したがって健康も害われやすいのである。
快活な明るい子供と遊ばせることにしただけでも、その子供が健康になった実例があります。
子供の読物は明るい、父母の愛や、友愛にみちた物語、、道徳的な、努力して楽しむ、困難を物ともせず
成功する立志伝または武勇伝などがよい。陰気な物語、お化けの出てくる物語、正しき者が滅びる物語などはよろしくありません。
子供は絶対に叱ってはならないということはない。過って悪を犯したり、人の迷惑になることをしたときのみは、叱っても悪くはない。
けれども「そんなことをする子は悪人です」などと、本人そのものを悪人と宣言するような叱り方をしてはならない。
もしそんな叱り方をするならば、子供は自分を悪人だと思いこんでしまい、善に遷る動機と勇気を見失ってしまう。
子供が過ちを犯したら、「あなたは善い子だのに、こんなことをするはずの子ではないのに、悪いと気がつかなかったのね。
もう悪いと気がついたらけっして悪いことをするあなたではありません」と断言するがよい。
『新しい結婚』 谷口雅春 先生著
1870
:
うのはな
:2013/01/05(土) 23:59:22 ID:vkulhJXI
『生長乃家』昭和五十一年十一月号 谷口雅春 先生 六日の法語
ストレスというもの
精神身体医学の世界的権威であるといわれている、カナダのモントリオール大学の
ハンス・セリエ博士という教授は、総ての病気は心の「ストレス」(stress)
から起ると、こういっているのであります。
「ストレス」というのは、心の沈みとか、歪みとか、あるいは異常痙攣とかいうようなものであります。
この語は本来、材料力学や工学上の用語だったのを、心の歪みに用いるようになったのであります。
例えば此処に屋根があるとします。此の屋根は地球の引力ー言い換えると“重力”で、(書籍の表紙を開いて屋根形に
俯向けて示しながら)こういうふうに重みで歪もうとしているのであります。
けれども、それがやっぱり真直ぐでいるのは、歪もうとする力に反対の、逆の押し返す力が内部に働いているのでありまして、
その両方の力が平均して、この屋根が歪まないで真直になっているのであります。
この相手の押しつける重力に応じてそれに抵抗して内部に起る逆歪みの力がストレスでありまして、昔はこれを“応力”と訳したものであります。
例えば家庭に於いて姑が嫁に圧力をかける、すると、こういうふうに(表紙を歪めて見せながら)圧力をかける、それでもそのお嫁さんは、内心は強く
反撥を感じていますけども、すました顔して、そして真直な平常の顔を現わしている。
けれども、これはそのお嫁さんの心が真直ぐなんじゃなくって、心の内部には、相手の圧迫に対する反対歪みという念が起って怺えている。
この何かの圧迫に応じて起る反対歪みの心を「ストレス」(応力)というわけであります。
1871
:
さくら
:2013/01/06(日) 06:18:00 ID:g0C9V0mg
新年明けましておめでとうございます。(遅ればせながら…)
トキ管理人さま
ご縁のあるみなさま
今年もさらなる飛躍の素晴らしい一年になりますことを、こころより祈念いたします。
P.S.トキさま
年末には、温かいご挨拶を賜りまして、ありがとうございます。
今年もますますのご活躍をお祈り申し上げます。
本日は、『大和の國の神示』が天降った日です。
拝
1872
:
さくら
:2013/01/06(日) 06:18:35 ID:g0C9V0mg
『大和の國の神示』 谷口雅春先生
われ再び大日本天津日嗣天皇と云ふ意味について語らん。
天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、天の下ことごとくが一つの光の世界になり、大和、平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。
日本民族が世界を治めるのでなく、
『天孫』すなはち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。
これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。
それが真の大日本世界國である。
大日本世界國と云ふことを狭い意味に解して、日本民族の國だなどと考へるから誤解を生ずるのである。
そんなものは、小日本であり、本當の大日本國ではない。
天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来ることを「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」と教へたのである。
天孫とは肉體のことではない。
「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、やはり肉體のことだと思つて執着が強いから大それた間違をして取返しがつかぬことになるのである。
神からみればすべての人間は神の子であるから、特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。
あまり自惚れるから間違ふのである。
大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。
理念の表現である。
「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津」すなわち「天の父の」、「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、「スメラミコト」すなはち「天降りましたる帝王」と云ふ意味であるから、
総じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる天降りましたる帝王」と云ふことである。
天の父のみこころが全世界に光被してあまねく平和になる世界になれば、それが本當の大和の國である。
それが本當の大日本天津日嗣すめらみことの治しめし給世界である。
肉體のことではない。
(昭和二十一年一月六日朝の啓示による)
1873
:
「靖国見真会」参加者
:2013/01/06(日) 10:24:39 ID:D6Ow5sls
「さくら」さんへ
一月六日に因み、「大和の國の神示」を引いていただき感謝申し上げます。
蛇足とは思いましたが、この「神示」を考察するにおいて、谷口雅春先生がどうお書きになっていられるかということも大事だと思い、ここに記されていただく次第です。
これは、「光明掲示板」において(3976)で書かせていただいたものの一部です。
〉谷口雅宣先生は、「神示」を解釈するに当たっては、それが生まれた時代背景を見逃してはならないと、常に口をすっぱくして指導してきました。
そうであれば、当然「大和の国の神示」ついても、それが生まれた時代背景を抜きにしてはいけない筈です。
ところが、谷口雅宣先生はこの観点を見事にスポイルしてしまっているのです。
この「大和の国の神示」をどう解釈するか、それについては、次の観点が要注意だと谷口雅春先生は次のように仰っています。
『大和の国日本』より引用させていただきます。(33頁)
…さてこの「大和の国の神示」は、昭和二十一年一月一日に「天皇の人間宣言」と世にいわれる詔勅が渙発された五日後の一月六日の朝に掲示されたものであります。そして当時のことを回想すると、神武天皇の「八紘為宇」の建国の理想は世界を征服して一つに統一するという侵略主義であって、その軍閥の中枢を成しているのが天皇であるといった判断を連合国がもっていて、日本を裁くところの極東軍事裁判(東京裁判)において、天皇を戦争犯罪人として出廷せしめようとする強い動きがあるなかで、私はこの啓示を受けたのであります。従って占領軍の天皇への風当たりを避けしめるためその表現には配慮がなされているわけであります。私は、天皇さまを、實相を直視して全知全能の神の御現われであるというように今も考えているのであります。そしてアインシュタインがいみじくも言った如く世界連邦が成立し、誰をその連邦の神聖な中心にすべきであるかというと、自然に日本天皇がその首座に推されるほかはないと信ずるものであります。
如何でありましょうか。
これが、谷口雅春先生の御心なのです。
最後の「信ずるものであります」
この谷口雅春先生のお言葉が、如実に示されたのが、先に私が引用した『限りなく日本を愛す』のこの箇所なのだと私は理解しています。
…「併し、時期が来ます。キリスト再臨の時が!天皇の實相が天降りたまひて、人の王であるところの天皇が、王の王であるところの實相をあらはし給ふ時が!!
谷口雅春先生のこの“真意”からすれば、谷口雅宣先生の今回の解釈は、極めて“恣意”に過ぎると言わざるを得ません。
谷口雅春先生の御心に反して、意図的に自分の主義主張に合うように、都合のいいように「神示」解釈を施している、そんな気がしてならないのです。
谷口雅春先生の“真意”に添うべく尽力するのが、少なくとも、法燈を継承したものの責務ではないでしょうか。〈
1874
:
うのはな
:2013/01/06(日) 14:24:11 ID:pdwtTUcA
合掌の中にすべてがある
最大多数の最大幸福が叫ばれています。他のための幸福を先にしたならば必ず
私益もそれに伴って流れ入って来るのでありますが、それを予想して働くのでは、
それはまだ捧げているとは言えないのであります。
唯無我奉公の心になって御心を本当に行じているところに、其処に必要なものが
おのづから与えられるのであります。日本人は『無我奉公』などと云う言葉をよく使い
ますが、奉公とは、社会的道徳を守り、社会の公けに奉ずることですが、日本人の社会道徳は
今まで随分ひどかったのであります。
これが現れて戦争中でも現地の器物や人間までも大切にしなかった。これはすべての物と人との
本質が『神』であると云うことを知らず、拝む心、合掌の心を知らなかった結果であります。
すべての物の本質を神として拝む心の中にこそ民主主義があるのであります。
『愛と光との生活』 谷口雅春 先生著 ※ 投稿者現代字に変更謹写 拝。
1875
:
SAKURA
:2013/01/06(日) 15:46:43 ID:tDwE4uGo
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======「生命の実相 37巻」からの抜粋 =======================
われわを生かすのは明るい思想である。さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。さし
昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。生命は暗黒の中にも光を見る。暗室に
置かれた豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、光の方へ光の方へと向いて行く。そ
して光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びてゆくにすぎないが、ひとたび光を得たときに
は太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。生命には光が必要なのである。光が全然ないとき
には、伸びかかった豆もやしも数日枯れてしまう。再び言う、生命には光が必要なのである。
新しい年には新しい心が生まれる。元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時
である。他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、わ
れわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。元旦からまず始めよう。それは明るい心
を持つということである。一度にあれこれもと考えて、それが実行できなかったら、新しい決
意も最初に一日から崩れてしまう。ただ今日いちにち明るい心を持つことにしたい。
ただそれだけ一つのことである。これだけのことならばわたしにもできると思う。
明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬ
ということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲
しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」としることである。
去年の暮はもう起こったからすんだのである。すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯に散る葉があるからこそ、春には美しい若葉の美が讃えられるのである。
つづく
1876
:
SAKURA
:2013/01/06(日) 15:48:58 ID:tDwE4uGo
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>投稿の続きです…。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その②
>>1875
>>その①の投稿の続きです
明るい心を持つには何事が起こっても怒らぬということである。何事が起こっても悲しまぬ
ということである。何事が起こっても失望せぬということである。何事が起こっても怒らず悲
しまず失望せぬためには、起こった事物は「もうすんだのだ」としることである。
去年の暮はもう起こったからすんだのである。すんだからこそ新しい年が来たのである。
木枯に散る葉があるからこそ、春には美しい若葉の美が讃えられるのである。
天地一新。悪しきことは未だかってひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
それはすべて一新しゆく姿である。 (谷口雅春著)
===========================================
PS:「トキ様」 へ
今年は【正月…早々の風邪】で、寝込み落ち込んでいましたら、今日の「雅春先生」の……
【元旦の言葉】が目にとまり、“パワ−・アップ”頂きましたでしょうかと【元気パワ−】!!
まだ、熱がありますが、それでも「意志・気力…」で、今!投稿させて頂いておりますモノ?
逆に申しますと…【年の初めに病気しました事は、きっと一年間は病気知らず!起動再開始!】
でしょうかと思いました次第です。…が?近くの病院で“薬の処方”をして頂き、いつもですと
その“薬…”を、TYOの先生に連絡して、アドバイスを頂くのですが??いつもの感じで…
TELしますと、先生は【国外脱出?旅行先が“タイ”】ということです。
ア〜〜〜〜〜ッ!!先生も東南アジアにと?これまた?また?落ち込みましたが、あそこには
【アンコ−ル・ワット】があります。…が?年早々〜〜〜“腰”にでも?身体の支障が、おき
なければいいのですが〜〜〜個人的に、ついつい思いながら、今回の私は「東南アジアの風邪?」を、空気感染にてうつされましので、【ネガティブ思想の芽生え…】を、360度転換しまして?
思いかえしましての【ポジティブ思想…】にて、【前以上に良くなるほかにな〜〜〜イ!】と、
【年の初めに際し、生活更新…】にて、一新し息を吹き返しましたかしら〜〜〜ン!
■サ〜〜〜ァ!今日もまた“一年間”私は、前以上に進む!〜〜〜進む!これが、私の中の
【心の光明面…ポジティブ思想に向かって邁進!】です。走って〜走って〜行こうと思います。
今日は、まだ熱もあります。…が?愛犬“ワン君”が、ちゃめっけたっぷりで“運動不足”
との意志表示ですので、出来る限り、後で【散歩…ウオ−キングする予定】で〜〜〜す。
■すべて“光”ある所に、すくすく伸びて行くのです〜〜〜ョネ!
今!私の“心…”も、太陽からの輝く光にサン〜サン〜照らされています。きっと!きっと!
あの【ゴ−ル…に向かい】夢中に、突き進んでいく内に、この“熱…”は、何処かに吹き飛ば
されて行く事でしょうかと。すべては【正しいモノのみが、最後に残るのです〜〜〜ョネ!!】
■■当に!完治の後は【一新して、生まれ変わる姿でしょう。…すべて一新しゆく姿…】
「トキ様」は、どう思われますでしょう〜〜〜か??
再合掌
1877
:
NANCY
:2013/01/06(日) 16:17:28 ID:tDwE4uGo
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>の投稿の続きです
■遅くなりましたが……
本年も、皆様方に取りまして、幸多き素晴らしい年になります事を、心よりお祈り申し上げます。
何卒、宜しくお願い申し上げます…。
===【谷口 清澄 先生著】==============================
■■何事が起こって来ようとも、それは常に絶好の機会である
もしあなたにとって苦しく困難な事が起こり「とても私には務まらない」と思ったら、その
時こそ飛躍のチャンスである。人は自分がやすやすと乗りこえられるハ−ドルを越えても、
何一つ進歩しない。
けれども、自分には出来そうもない事をやりとげた時は、大いに飛躍するのだ。
============================================
■今日の頂きました“言葉…”そうなのです〜〜〜ョネ!実は、私はお客様に“販売”すると
いう職種は、当に【晴天の霹靂…】でした。しかも長時間“立つ…”この事も、含めまして?
当時は?心に不安感?恐怖心?が充満していたモノです…。併しながら?不思議なモノです。
人間【土壇場…】と申しますか?いざ!
「心に自分の強い決意…」を秘め、トライ!しかも【目標数字…】認識しての販売は……
今でも忘れませんが【当に…不可能を可能…無限力が出ますモノ】
今回当時の事を思い出しながら【今!今!出来そうにもな〜〜〜ィ!その心を…今一度…
この大きな【 ハ−ドル=壁 】に向かいトライする!!この勇気を、過去の忘れ去った経験を
踏まえまして…【今日の言葉】から…再挑戦です…。
再合掌
1878
:
a hope
:2013/01/07(月) 07:19:28 ID:E6WSUXC.
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆似たものがあつまってくる(p117〜)
世の中のものは、なんでも類をもってあつまってくるものであります。
すべて似たものがあつまってくるのであります。
だから「泣きっ面に蜂」というとおり、泣いて悲しんでおれば、
泣かなければならぬ悲しいことがいくらでもやってきます。
朝に一ぺん悲しい思いをおこしますと、その日、一日じゅう、
なんだか悲しい事ばかり出てきて、なんでもつまらなくなってくるのです。
朝おきると、にこにこして、「お父さん、お母さん、おはようございます。ありがとうございます」
ということが出来て、うれしくなれば、その日一日じゅううれしいことが出てくるでしょう。
だから朝に嬉しい気持を持つことは一日じゅう、うれしい感じをつづけるのに便利です。
もし悲しいことがあっても泣かぬことです。
「私は神の子なんだもの、なにも悲しいことはない。私はうれしいのだ」と一生懸命おもうようになさい。
きっとうれしくなってきます。
(つづく)
1879
:
SAKURA
:2013/01/07(月) 18:45:18 ID:SbalnCM2
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』
======「生命の実相 37巻」からの抜粋 ====================
すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。「今」は常に生きている。「今」の中
にはあらゆるものが輝いている。「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。過去
にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。「今」天地一新したの
である。もう別の天地に生きているのである。過去に寒風に吹き暴されたことを嘆かない
で、「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。梅の花よりも尊く強く逞しきが人間で
ある。
喜ぶべきことしかないのが人生である。 (谷口雅春著)
==========================================
■現在の状態!置かれた環境を、ながめても、まず【過去の私…】に、振り返るのではなく
今!現在起きた事は、必ず“修復できる…”といった感じが、幾分“心の何処に?”芽生え
始めて来ました。…が?帰郷してからの、四年間…実に私の潜在意識には『時間の無駄…』を、
考えて行くより【今…】を生かすことに、集中!でしょうかと。? 【全力投球…】
そこから、まず!進む事になりそうです。クヨクヨする前に、まず“心を前向き…”に、
振り向くだけでも、前!前!に進む“原動力”になりますし、今からは、まず“進む事”が
それが【三歩進んで二歩下がる…つまり確実に一歩…前進】この事が【本年度の課題】です。
■【病気で倒れた事】は、今は静養中ですが?前以上に前に進める事を、信じて行く事も…
【心の法則…】ではと、要約!思えますこの頃になりましたかと。まず!今年は、
【爽やかに…感謝】でしょうか???今日も前に進む!爽やかななるSTARTで…!
気持ちは、次第にハイテンション!!『頑張ろう〜〜〜と!』…風邪の症状は、少しずつ良く
なってきています。…が?逆に言いますと、これだけ倒れた事で、きっと「免疫力がつき…」
今年は、これ以上おおきな「病気ナシ〜♫」です。そして、
改めまして…いろんな方との出会い…支え…があり、私が生かされている事に対しまして
■■【報恩の感謝】今年は〜〜〜走り続けましょうかと…。
再合掌
1880
:
NANCY
:2013/01/07(月) 19:12:29 ID:SbalnCM2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>の投稿の続きです。
===【 谷口 雅春 先生 著 】===========================
■■吾々の中に、すでに一切のよきものがある。
自信をお持ちなさい。あなたは神の子なんですから。あなたの実相は、現象的に表面に
あらわれている相よりも余程立派な優れた状態なのである。あなたは完全であり、
万徳を兼備しており、神通自在なのである。
劣等感に陥って、自分で自分を限ってはなりません。 『新版 栄える生活365章』より
============================================
■やはり“心の持ち方…”次第でしょうか??
気持ちが“明るく持てる事”は、その時の精神状態は、やはり『自信…』が、大なり小なり?
ある面では、持っていますかと。
今!『大学受験…シ−ズン』になりましたが?やはり『自信…』がなく受験しますと…
【結果も〜〜〜><】それなりの事しか?出て来ませんモノ。勿論【努力…】は必要ですが…!
そうです〜〜〜ョネ!『ネガティブな感情…不安・恐怖…etc』 は、その通りの事しかと?
今の私は当時を振り返りますと…【自分自身の力を限定…自己限定の結果】が、その通りに、
現実となって表れたモノと【確信…】出来ますでしょう。
【揺るぎのない強い意志・信念…にてのチャレンジ…】は、それなりの【結果…】が、
出て来ますモノと、今は断言できますでしょうか?そして、『親の信じる心…』この事も、
【想念感情…】として相手(子供達)にも伝わりましょうかと。
そうなのです〜〜〜ョネ!これは【最大の援軍…両親の信じる“信力”…】でしょうと!!!
再合掌
1881
:
うのはな
:2013/01/08(火) 00:08:40 ID:hdrUUxBw
生長の家入門講義(八) 谷口雅春 先生
第六十九章 本当の〝富〟とは如何なるものであるか
最後に経済問題の話をしたいと思うのであります。大抵の人は〝富〟というのは紙幣が
沢山あることだと考えたり、あるいは土地や建物や物質が沢山あるのが〝富〟だと考えたりするのであります。
然しそれは本当の〝富〟では無いのであって、〝富〟の物質的幻影であります。
本当の富というものは神様のお拵えになった実相世界、本当の世界、神の国にあるところの人間を幸福にするアイディアそのものが
〝富〟であります。神様は無限の〝智慧〟であり、〝愛〟であり、〝富〟の源泉であられますから、神の子たる人間が幸福に、豊かに、
健康に生活するために必要なあらゆるアイディアを持っておられるのであります。
神様の、その人間を幸福にするアイディアの放送を、我々が受信機となって、それを受取ってそれをテレビの様に人生の画面に姿を
現わせば現実の〝富〟になって出て来るのであります。
ある人が〝富〟を得ようと思って神様に祈りました。そしてこう言いました。
「神様私に百万ドルを与え給え」と、一心に祈りました。その人は紙幣が沢山有るのを〝富〟だと考えていたのであって、
紙幣さえ沢山有れば何でも出来ると考えておりました。その人は神様にどうぞ私に百万ドル与え給えと一心に祈りましたから、神様はその祈りを
聞き給うて、〝天の使〟を多勢集めて言われました。神様はこう言われたのです。
『皆さん、私は聖書の中で「求めよ、さらば与えられん」と約束しました。
ところが彼は私に百万ドルを与え給えと祈っているのであるから、それを与えなかったら私は嘘をついたことになるから、それで是非とも
お前達は此の神の世界を探し廻って、紙幣を百万ドル集めて彼にやってくれ』
神の天使ーエンゼル達は、羽を拡げて神様の命令に従って、神の国中百万ドルの紙幣を探し廻って歩きました。
やがて天の使達は神様の前にやって来まして、『神様まことに申訳ございませんけれども、神様の御命令で此の実相の国じゅう探し廻って百万ドル紙幣を
集めようと努力いたしましたけれども、百万ドルどころか壱ドルの紙幣も見当たらないのであります。どういう訳かといろいろ考えて見ましたのですが、
実相世界には貨幣制度が無いのでございまして、紙幣を一枚も印刷したことがないので、いくら探しても見つからない訳がわかりましてございます』と言いました。
つづく
1882
:
うのはな
:2013/01/08(火) 00:30:57 ID:bnNIA3Jo
第七十章 神の国の〝善きアイディア〟を得る祈り
これは寓話でありますが、物質の富ばかり追いかけ廻している人達は、
此の愚かなる百万ドルの紙幣のみを求めている人と同じであります。物質の
富というものはそれは恰度太陽から来るところの光と熱みたいなものでありまして、
我々はそれを光と感じ、熱と感ずるのでありますけれども、太陽の世界へ行ったらあれは
水素の原子核融合によりまして、ヘリウムに原子転換するときの、その放射線が送られているの
でありまして、その目に見えない放射線が地球の人間界に入って来ると、それが光と熱とに感じられるのであります。
それと同じように神様の世界にある人間を幸福にする善きアイディアが、肉眼に見えないけれどもそれが人間界に
入って来た時に、それが人間を幸福にする色々の〝富〟の形と変わって来るのであります。
それゆえに皆さんが、富を得ようと思うならば、〝我に百万ドルの紙幣を与え給え〟と祈るよりも、次の如く祈るといいのであります。
その祈りの言葉は次の如くであります。
「私の天分にかないまする出来るだけ多くの人を幸福にする善きアイディアを与え給え。善き智慧を与え給え。そしてそのアイディアを実現
する力を与え給え」
このように念じてから、多勢の人を幸福にする善きアイディアが光明燦然と輝きながら自分に天降って来る有様を、心の目でじいっと見つめて、
暫くそれに精神を統一してそれを既に受けたと思って「有難うございます」と感謝の語を念ずるといいのであります。
実例をもって話したいと思います。今から約八年前、生長の家本部へ訪れて来た人があります。
その人はリコーというカメラ会社の社長であります。名前は市村清といいます。
市村清さんは私に面会を求めて「先生にもっと早くお礼に上らなければならなかったけれども、然しあまり事業が忙しいのでお礼に参上することが
遅れまして申訳ありません。本日、更めてお礼に上りました」と言われました。
つづく
1883
:
a hope
:2013/01/08(火) 07:11:19 ID:PzSu3pbw
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆明るい心には暗いものははいらぬ(p118)
たびたび云うようですが、吾々は心に明るい希望をもつようにしなければなりません。
なんでもよくなることばかりを考えるのです。
よくなることばかりを考えていれば、よいことばかり出てくるのです。
明るいことばかりを考えていたならば、わるいことは考えられなくなります。
人間の心は明るいこと、暗いことを一しょに考えることは出来ないのです。
つねに心に明るい希望をいだいておれば、暗いことや、陰気なことや、
悪いことは考えられませんから、自然によいことばかりが出て来るようになるのであります。
(つづく)
1884
:
うのはな
:2013/01/08(火) 12:49:08 ID:HwTu0TYs
>>1882
続
市村さんは続いて言われました。
「今から三十年程前に、わたしは肺結核に罹って入院しておったんでありますが、その時は
結核の特効薬は未だ発明されていないので、もう結核に罹ったら死ぬ、もう特定の療法が無い。
空気療法、安静療法、医者の薬も気安めになるくらいで、段々悪くなって死に近づいておりました。
「ところが一人の友達が『生命の實相』という本を持って来て、君、これを読め、〝人間は神の子・病気は無い〟
という哲学が書いてある。病気本来無いという哲学が分ったら、そんな病気はけし飛んでしまう。
だから是非読めといって本を置いて行きました。それを読むに従って、人本来無病という哲学を知って、そして速やかに
病気が癒って私は退院して、今に到るまで三十年間一度も病気に罹ったことはありません。
ところがその『生命の實相』には、経済問題の事も書いてありました。
そして〝富〟を得るために如何に祈るかということが書いてありました。
それで私は毎日寝しなに神想観をして、祈ることを始めたのであります。
『生命の實相』に書いてある通り、こう言って祈りました。
〝私の天分にかないます出来るだけ多勢の人を幸福にする善きアイディアを与え給え。
そしてそれを実現する力を与え給え〟と祈りました」
つづく
1885
:
うのはな
:2013/01/08(火) 16:00:23 ID:Hn6nsTC2
>>1884 続
第七十一章 祈りが叶えられるためにまず大切なことは
皆さん、これは、〝典型的な祈り〟であります。誰でも天分にかなうものを祈らなければ
いけないのであります。バラの木がバラの美しき花を咲かしめ給えと祈るんだったら、その祈りをかなえられる
わけであります。然しそのバラの木が、杉の木が亭々と高く延びているのを見て羨ましがって「私はバラの木でこんなに
背が低いのでございます。あの杉の木のように亭々と高く伸ばして下さい」と祈っても、それは叶えられないのであります。
もし、此の谷口がプロレスの選手になって、「どんなに強いプロレスの相手にでも打ち勝つような、筋肉隆々とした体格にならせて
下さい」と祈っても、それは叶えられないのであります。然しもし私が、「神よ、私の天分にかないますところの、人類の魂を救済する善き智慧を
与え給え、その真理を人類に普及する手段を与え給え」と祈ったら、そういう智慧と手段とは与えられるのであります。
そして、それは多くの人類を幸福にする智慧でありますから、その智慧が天降って来てそれを普及したら、自から富にもなるのであります。
併し、今は自分のことは言わないで、市村清さんの体験の話のつづきを言います。
つづく
1886
:
志恩
:2013/01/08(火) 16:53:31 ID:.QY5jUA6
〜生長の家の「今の教え」の考え方は、「鶏肉」は「肉」ではない
という認識です。〜
生長の家青年会の、公式のホームページに、
「クリスマス・イヴをノーミートで過ごしませんか?」
というスロ-ガンが掲載されてます。
【生長の家青年会では、12月24日を
「ノーミート・デー」と定めました。その間、肉食の弊害に関する情報や、
肉を使わない「ノーミート料理」をネットで紹介するなど、
肉食の習慣を改善するためのキャンペーンを展開します。】と載せているのです。
普通でしたら、どのご家庭でも
クリスマス・イヴの食事の主役は、なにを食卓にだすでしょう?
ずっと昔から、海外では「七面鳥の丸焼き」ですが、
日本では、主役は通常「ニワトリの丸焼き」(ローストチキン)と、決まっています。
しかし、生長の家は「ノーミート運動」をやっているので
その,習慣をやめましょう。肉を食べないクリスマス・イヴを,実践しましょう。
と、公式のホームページで,青年会 全信徒に、呼びかけているのです。
http://www.jp.seicho-no-ie.org/yyaa/no-meat/nm-111224-event.html
この写真には「牛」「豚」だけでなく、「ニワトリ」も「肉のなかま」として、写っています。
つまり、生長の家の信徒の多くは,鶏肉も、「肉」として認識していることになります。
純子先生のブログ”恵味な日々”の12月24日の
表向きの写真には、
純子先生が「お料理に腕を振るいました」というコメントを述べられ、
テーブルに並べられた表の写真には、主役である筈の【ローストチキン】はありません。
【ノーミート料理の部分だけ】を写した写真を載せているのです。
これを閲覧された信徒たちは、
「さすが、ノーミートを推進されている純子先生でいらっしゃるわ。
ノーミート料理だけで、12月24日の誕生パーティをされたんだ」と、
勘違いして思うでしょう。
しかし、番記者様が,光明掲示板に、載せてくださった 裏写真 のほうには、
大きめの「ローストチキン レッグ」が、同じテーブル上の皿に、堂々と写っている。
テーブルの奥の方にも、いくつか写っている…
それで、な〜んだ、ということになりまして、
お二人の相変わらずの、隠蔽体質というか、言行不一致という点を、
光明掲示板のほうで皆様で、論議していたわけなのです。
鶏肉は肉ではないと,ご主張されるなら、主役であるローストチキンを
表の写真として、堂々と載せないのはなぜでしょう。
そして、先にも書きましたが
生長の家の公式の青年会のホームページに
「肉(ローストチキン)を食べないクリスマス イヴを実践しましょう」
などと、信徒に呼びかけたのは、なぜでしょう。
このような行為は、信徒からみたら、雅宣総裁先生ご夫妻に対して
いよいよ不信感を抱く恐れのある行為のように思います。
世間一般常識である「ノーミート」とは、いうまでもなく
「牛、豚、鶏肉」を食べない事をいいます。
今回判明したことによりますと、
雅宣総裁先生ご夫妻は、「鶏肉」については、「肉ではない」という
お考えだということが分りました。
純子先生の出版された肝腎のノーミートの本にも鶏肉は、肉ではない
ということも、ひとことも触れられていないのですが。
ですから、知らなくて,ノーミーとを実践せねばと真面目に捉えて
鶏肉も 食べない信徒の方々も、多くいらっしゃると思います。
そういうわけで、皆様、
今の生長の家の教えの考え方は、鶏肉は 肉 ではない、という考え方だそうですから
今後は,心置きなく 鶏肉 を 召し上がって下さいませ。
1887
:
志恩
:2013/01/08(火) 17:02:26 ID:.QY5jUA6
トキ様
間違えて、聖典版に書き込みました。
すみませんが、
1886と、ここの削除を お願いします。
1888
:
SAKURA
:2013/01/08(火) 17:30:31 ID:s5HxQYFA
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======「生命の実相 37巻」からの抜粋 ====================
人生の唯一の目的は神の国をこの世の実現するということである。神の国は天人常に
充満し、絶えず天鼓の響妙に、摩訶曼陀羅華の花降る世界である。
天鼓とは天の鼓ではない。人間の人を賞め讃える声である。曼陀羅華とはインドにある
華ではない。華の笑むように和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが天上か
ら降る曼陀羅華である。
これら天鼓と曼陀羅華とで飾られた妙なる世界の姿が天国である。天国とは別の世界の
ことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。 (谷口雅春著)
==========================================
■天国とは別の世界のことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。
確かに、そう思います。今回の私は“東南アジアの風邪?”にかかり、医者から“皇室の方々”
もひかれた同様な症状なのです〜〜ョネ!この様に、病院に行って診察を受けまして、担当
医師の言葉を、聞きまして“ビックリ・マ−ク”でした。…が?実に、私なりに、
…風邪に至りました“経過報告”を、事こまやかに伝えましての【診断結果…】でした。…が?
【 初めて東南アジアの風邪? 】肺炎にまでは至らずこの事だけでも幸いで…空気感染です
から、今から急増の兆しのインフルエンザ対策も含めまして【煙草を吸われる方よりその周辺部
の人に影響…】とよく耳にしますが…益々と用心なのです…。
【煙草を吸われていらっしゃいますと、どうしても慢性的な気管支の炎症を起こしやすくなり、
空気の通りが悪くなるためしつこい「せき」の原因ともなり、更に2次感染として、第三者に、
空気感染にて細菌・ウイルスが侵入する事になりますので…今の【日本人の体力?】に、どの
ように感染しますかは、問題です。更に、“おかしな菌??”が、入ってきていますから、尚の
事【精神力は、前以上に強靭なる戦い!!】の必要性でしょうかと。??
つづく
1889
:
SAKURA
:2013/01/08(火) 17:32:11 ID:s5HxQYFA
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>投稿の続きです…。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その②
>>1888
>> その① 投稿の続きです…。
■何故!どうして!【 国 際 運 動 】という言葉自身…もう一度考える必要性を感じ
ます次第です。…が?さて、今の状態が「現象…」なのでしょうか?私は、その状態を、
体験しまして、今回はこれを活かす事が【実相世界に入っていく】このような気持ちになり
今の私は、まだ、自分自身で“料理が出来る体力”に、まず【感謝…】し、口にご飯を通す
事も出来ます事に【感謝…感謝…していく内に、此処天国が見えてくるのでは〜〜〜?】と。
では【天国…は何処?】自分の“心の力量”にも見えるものですから、【地獄も天国も紙一重…】
なのでは〜〜〜と思いますモノ。そのように考えて行きますと、今の於かれた私は、きっと
潜在意識の中に、無意識な何かにしばられた“心…”が、何処かにあり、これが形としての
今回の【病気としての風邪…】になったのでしょうかと。きっと【私の心の影…】と思います。
今の私は、まず【現象人間の戦い…吸血鬼・ゾンビ達とのかかわりを一切もたない事!】で
しょうか〜〜〜>< 今だに、こちらが捕まえる心があるのでは?と思いながら、まだ!
まだ!【自分の“心…”での天国の量り…】を、見比べている処でしょうか???
■今回の私は、前以上に【心 の 法 則】の勉強中です。“言葉は神”ですので、
【天国は、まじかに、私の心にある!!広き門を広げる心…まるで天の岩戸をあける心】
この様な心境の私でしょうか〜〜〜???
再合掌
PS: トキ様 へ
【天国とは別の世界のことではない。われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。】この
言葉…いかように思われますのでしょうか??当に此処【地上天国とするために…真理】を、
人々の心の中に“種”をまいていく事が「生長の家」の信者としての使命かと??
今日も、【ネット・ニュ−ス】にて、若者が【自殺…尊い命を…】本当に“悲しい出来事”です。
http://mainichi.jp/feature/news/20130108dde041040007000c.html
■自殺:体罰受けた高2、自宅で バスケ部主将「顧問から」と手紙−−大阪
1890
:
NANCY
:2013/01/08(火) 17:59:59 ID:s5HxQYFA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>の投稿の続きです。
===【谷口 清超 先生著】=============================
■ 困難と見えるものは、成功への足がかりである
「困難」と見えるものは、成功への足がかりなのだ。人間は、如何なる困難にもへこたれず
それを逆に活用し、そこから又と得難い教訓を学びとって、初めて立派な人間となることが
できる。
困難にうちひしがれることなく、決然として立ち上がろう。そして、生き生きと積極的に
生き抜いていこう。 『真実を求めて』より
============================================
■【困難…】この言葉は、だれしもが必ず一度は“脳裏”に浮かぶ言葉でしょうかと。つまり、
この時の、自分の“心…”は、すでに自分自身の“力…無限力”を、否定し、精神的には
「マイナス要因…ダメ!ダメ!」という気持ちにて、既にそこからが『負け組?』でしょうか?
【生長の家…無限力】この信念・意志力ですと、自ずからそれなりの“行動…”となりましょう。
私もこの“意志力…気薄”の時は、まず!【言葉の力…魔術】にて、自己暗示を入れます…。
【出来る!間に合う!…】何度も〜何度も〜脳裏にinput!!で〜〜〜す。
そうしますと…「心の持ち方…気持ちの上での変化」が生まれまして、次第に「プラス要因」の
心の方へと、方向転換です。こうなりますと“やった〜〜!次は”行動…“へと繋がりますモノ。
「清超先生の言葉」どおり、積極的思考にて、与えられた【人生…】を、前向きに進んでいく
この思いを、常に心に持ちたいと思います。…が?
再合掌
1891
:
goro
:2013/01/08(火) 18:23:19 ID:nCo1DokU
皇室と国民 元侍従次長 木下道雄著
昭和44年10月 財団法人 皇居外苑保存教会発行
目次
1.まえがき
2.陛下と皇室財産
3.荒天下の分列式
4.鹿児島湾上の聖なる夜景
5.天皇とその御責任
6.皇居勤労奉仕発端の物語
7.敬重すべき二つのやまとことば「しらす」と「うしはく」
8.国民に対する陛下の御期待
9.あとがき
1.まえがき
我々日本人には、民族としての長い間の君民同和の歴史があり且つこれに伴う信仰がある。
終戦時、占領軍と共に国内に持ち込まれた「自由」と「民主主義」とに関する半知半解の鵜呑みの模倣は三十余年後の今日、果たして国内各地に意外な程の無秩序な混乱をかもしつつある。
元来、我々は海外のよきものを採り入れて之を活用することに特に優れた才能を持った国民である。儒教も採り入れた。仏教もとりいれた。これらは、ともに、国民の共同生活の上で、且つまた、一家、一族、一国の秩序、組織を固める上で非常に役に立った。
この経験を生かし、「自由」も「民主主義」も単なる模倣をやめ、われわれの叡智と信仰を以って、これをよりよきものに向上させ、以て世界平和の中核たらしめようではないか。
この国民運動を起こすに先だち、まず承りたいのは、陛下の御心境である。
(註)
「自由」も「民主主義」も口先だけでは何もならぬ。「教とまごころと信仰」とを以て必ずこれを包
をことを忘れてはならない。これを怠れば、世の中はたちまち混乱し、悪党横行の天下となる
こと必定。民主主義の元祖の如くいわれるリンカーン大統領も米合衆国の南北戦争のさなか、
ゲッチスバーグの古戦場跡の建墓式式典で「われわれは神のみ前に跪いて「自由」という言葉
の意味を、もう一度よく考えなおしてみようではないか」と言う意味のことを聴衆に訴えているし、
また「孟子」にも、仁義に関し、自重自由の重んずべきことを思わせる自暴自棄論があるでは
ないか。
1892
:
goro
:2013/01/08(火) 18:33:12 ID:nCo1DokU
私は大正十三年の夏、三十七歳の時、内閣書記官から東宮事務官兼東宮侍従に転任を命ぜられ、親しく東宮殿下(今の天皇陛下)の御身辺に侍することとなった。友人などからは、さぞ窮屈だろうなどと同情の言葉をもらったこともあったが、私としては始めこそは、見るもの、聞くもの、皆珍しく思ったこともあったが、だんだん落ちついてくると、ちょっと暫く海外旅行をしてきた者が久しぶりで日本の港の土を踏んだときの気持ちのようなものを感ずるようになった。
それは、こここそは、ほんとうの日本だな、と言うような気持ちだ。なぜそんな気持ちになったか、その理由を尋ねられてもちょっと説明はできないが、とにかく、そんな気持ちになったことは事実であり、思えば不思議な事である。私が転任したのは東宮殿下御結婚直後のことであり、殿下のお年が二十三、妃殿下(今の皇后さま)のお年が二十一、おん父君、大正天皇が久しく御病気であらせられたため、東宮殿下が天皇に代わって摂政のお仕事をしておいでになったときであった。
両殿下の周囲には珍田東宮大夫、入江東宮侍従長、奈良東宮武官長、島津東宮女官長という年長のかたがたは別として若い連中としては東宮侍従が七人、東宮武官が陸海各二人、東宮女官が五人、侍医が四人いたが、これらの者は各一人づつ宿直するのが定めであった。当時、両殿下のお住まいは今の赤坂迎賓館であり、正面から向かって右半分が置く宮殿、左半分が表宮殿として使われており、摂政殿下の御政務室、謁見室その他東宮職の事務室、宿直室等は全部表宮殿にあり、奥宮殿は御家庭向きのところとして使われていた。
夜、我々が宿直をしながら雑談をしていると、ときどき、殿下が仲間入りをなさる。われわれは殿下が仲間入りをなさったからといって別段四角張りもしなかったが、ただ他人の批評特に悪口は絶対につつしむことに申し合わせていた。その内に私は、はっきりした解決がつかないまま、一抹のの疑問を胸中に抱くようになった。それは何かというと、世の中には身分の高い貴族の家や大金持ちの家に生まれ、幼少のときから多くの召使に世話を受けて育った人で非常に聡明な人物も少なくないが、残念ながら殆んどが一種の通弊を持っている。それは何かというと、周囲の人々に対する好き嫌いの感情が露骨に顕れるということで、自分では努めて抑制しているつもりでも、どことなく、それが現れてくる。
ところが、殿下は常に十数人の男たちに囲まれておられながら誰彼への好憎の念をいささかもお持ちにならない。そこで私はひそかに考えた。殿下に限ってこの共通の弱点をお持ちにならないということは一体何に起因するのであろうか。殿下の御幼少の頃から殿下をお預り申して専心その御教育につとめたのが東郷元帥、乃木大将、杉浦重剛先生の諸氏であるから、その懸命の努力の結果であろうか、それとも、これが皇室の御伝統であろうか。
1893
:
goro
:2013/01/08(火) 18:34:12 ID:nCo1DokU
たまたま、その秋、殿下は京都に御旅行になり、京都御所内にある仙洞御所に一週間御滞在になったことがある。京都御所内には数棟の土蔵があるが、その内の一つ、別に目立たぬ普通のお蔵のようであるが。これが所謂東山御文庫で皇室にとっては非常に大切なお蔵である。扉には勅封が施されてあり、毎年秋季に東京から特に侍従が差し遣わされ、開扉の上約一ヶ月かかって内蔵品を曝涼するのが霊となっている。内蔵されているものは御歴代の宸翰、旧記の類である。
殿下の京都御滞在が、ちょうど、この曝涼期間であったため、一日、殿下はお蔵拝見においでになった。私もお供をしていたため内部を拝見する機会を得たのであるが、多くの陳列品のうち、たまたま私の目にうつったのが光格天皇の御書簡であった。明治天皇より三代前の光格天皇は幼少僅か九歳で閑院宮家から入って継がせられ、御先々代、御桜町上皇(女帝)の並々ならぬ御訓育を多年に亘り受けさせられた次第であるが、御年二十九歳のとき、その上皇に対し、したためられた御書簡がこれであった。別にゆっくり拝読したわけではなかったが、
「仰せの通り、身に欲なく、天下万民をのみ慈悲仁恵に存じ候うこと、人君たるものの第一の教云々」
のお筆の跡に、私は一瞬電撃を感じた次第であった。大江戸城によって天下を睥睨する徳川幕府全盛の時代にあって、三十六峰に包まれた、ここ京洛の地、清くさやけき御所のうちには、人知れず寂かに天下万民をのみ念とせられる御精神が脈々として皇統のうちに流れていた長い年月のあったことを初めて知り、私はおのずから身の引き締まるのを覚えた次第であった。
右の御書簡の外、色々なお歌等を拝見しているうちに、私は大いに覚るところがあった。東山御文庫に充満する空気は「無私、ただ、くにたみを念う」の一言に尽きる、と私は観たのである。その夜、京都市民の盛大な提灯行列が催され、一群また一群と数万の人々が仙洞御所の御門前を通り、万歳の声は広い御苑内を埋め尽くした。
殿下は提灯片手に御門のところに立たせられて歓呼の声にこたええられ、私もお側におったが、そのうちに私の両眼から玉のような涙が次から次へと出てきて、何ともしようがない。いくら暗がりでも、あたりの人に余り恥ずかしいので、私は提灯の列を横ぎって反対側の人のいない芝生に逃れでて遠慮なく泣いた。
1894
:
a hope
:2013/01/09(水) 07:08:56 ID:PzSu3pbw
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆悲しい事よりも嬉しい事の方がたくさんある(P118〜)
前にあった悲しいことを考えるな。
それはもう過ぎさってなくなったものなのです。
自分を害した人を考えるな。
それも、すでにすんだのです。
今、自分は幸福だと考えなさい。
どんなに悲しいことがあっても、それは一つではありませんか。
もう一つ悲しいことがあるというのですか。
それをあわせても二つではありませんか。
しかも、それは、今ではないでしょう。
それは昨日のことか、一時間前のことか、十二分まえのことか、ともかく、もう、すんだことでしょう。
嬉しいことは一つや二つではないではありませんか。
お父さんもいらっしゃるし、お母さんもいらっしゃるし、家もあるし、洋服もあるし、靴もあるし、本もあるし、御飯も食べられるし
……まだまだうれしいことがたくさんあるではありませんか。
そんなに嬉しいことが、たくさんあるのに、一つや二つの悲しいことばかりを考える必要はないではありませんか。
悲しいこと、暗いこと、腹の立つことは心に中からすてましょう。
そして、よいことばかりを、うれしいことばかりを、心に花園でそだてましょう。
(後半につづく)
1895
:
a hope
:2013/01/09(水) 07:11:56 ID:PzSu3pbw
(
>>1894
のつづき)
心のお庭には、うれしい花を植えましょう。
悲しい心は雑草ですから、ぬきすてましょう。
腹の立つのも雑草ですから抜きすてましょう。
たのしい思い出だけをのこしておきましょう。
つねに、自分はうれしいのだ、幸福なものだとお考えなさい。
自分をかわいそうなものだと思ってはなりません。
人間は思ったとおりになるのですから、自分を幸福なものだと考えたら幸福になります。
つねに、自分は幸福だ、今までどんなことがあったにしても、
もう此の『生活読本』を読み出したら幸福になるより仕方がないと信じなさい。
一日かならず十ページは、よい本を読むように心がけなさい。
その十ページがきっとあなたの心に元気をつけ、勇気をださせ、心を美しくし、
一しょうけんめい勉強する力を出させてくれます。
つまらない本をよむと、心の中につまらない事がつめこみますから、
一年二年とたつうちには、あなたはつまらない人間になってしまいます。
毎日十ページでもよい本を読めば、あなたの心に毎日よい事がつめこまれますから、
一年、二年とたつうちには、あなたはきっと立派な人になっています。
(つづく)
1896
:
a hope
:2013/01/10(木) 08:08:53 ID:PzSu3pbw
「久遠生命」の神示
(無相円相一切相の神示)
吾が臨(きた)れるのは物のためではない、生命のためである。
肉のためではない、霊のためである。
これを覚(さと)るものは少ない。
物の生滅に心を捉われ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったとこに信仰を失い、
身体が健康になったときに神を讃(たた)え、家族の誰かに病苦が起ったと云っては信仰を失うが如きは、
神を信じているのではなく物を信じているのである。
物は結局移り変わるものであるから、物の御利益の上に建てられた信仰は、物の移り変わりによって壊れるのである。
神が病気を治して見せるのは、肉体は心でどうにでも移り変わらせることが出来ると云う事実を見せて、
『体(たい)』は念(こころ)の影だと云う真理をさとらせるためである。
念の影だと云う『体』とは肉体ばかりのことではない。
幽体も霊体もすべて念の影である。
『死は無い』というのは肉体のことではない。
現に肉体細胞は刻々死滅し流転している。
生き通しであるのは、斯(か)くならしめている『生命』のみである。
『生命』のみが吾れであり汝であり、そのほかに吾れも汝もないのである。
此の『生命』をみたまと云う。
みたまの形は珠(たま)のように真ん円いからみたまと云うように解するものもあれども、真ん円いのは形のことではない。
神は本来形無く、空(くう)のうちに円満具足して自由自在であるから仮に称して円相と云うのである。
自由自在なるが故に或る時は竜神の姿を現じ、また或る時は衣冠束帯の姿を現じ、或る時は天使天童の姿を現ずる。
いずれの姿も権化(こんげ)であって偽(いつわり)ではない。
しかし一つの形に執(しゅう)して、それのみを吾であると思うものは、吾が真実を知らざるものである。
吾が全相を知らざるものである。
汝ら心して真(まこと)を知れ。
汝たちも神の子であるから我れと同じきものである。
肉体は汝の一つの現れであって汝の全相ではないのである。
(昭和七年四月十日、神示)
感謝 合掌。
1897
:
a hope
:2013/01/10(木) 08:47:14 ID:PzSu3pbw
(帰幽の神示)
汝の肉体は汝の念弦(ねんげん)の弾奏する曲譜である。
生命が肉体に宿ると云うのは二元的な考え方であって真理ではない。
正しく言えば生命はその念弦の断ずる曲譜に従って肉体を現すのである。
肉体と云い、複体と云い、幽体と云い、霊体と云うはこれ悉(ことごと)く念の映像に過ぎない、
汝の念譜(ねんぷ)の種類に従って或いは肉体を現じ、或いは複体を現じ、或いは幽体を現じ、或いは霊体を現ずる。
すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない。
人は神の子であるから不死である。
念譜の形式が変るに従って汝の仮有(けう)の形式が変るのである。
すべての人の仮有は念の異(ことな)るに従って、その顕現を異(こと)にする。
念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は高いに顕現し、今迄の念の顕現たる肉体は速かに自壊自消(じかいじしょう)する。
これを人々は死と呼ぶが死ではない。
それは『生命』が念の弦をもって一曲を弾じ終ってそれを止め、他の奏曲に移らんとするにも等しい。
『生命』の弾ずる念の曲譜の形式に大変動を生ぜず、その念弦の律動にただ調和を欠きたるのみなるを病と云う。
かくの如き病は、念弦の律動の調子を直せば治るのである。
併(しか)し如何にもその念弦の律動正しくとも初歩の一曲は必ず終って一層高き形式の曲譜を学ばねばならない。
吾が云う意味は、地上の生活は必ず終らねばならないと云うことである。
地上の生活は汝の初歩の一曲である。
速かにこれを終るものは、初歩の教本を速やかに終えたものである。
一曲が終らんとするを悲しむな。
それはなお高き一曲に進まんがためである。
その前に調律者が来て汝の念弦の調子を正すであろう。
この調律のために一時汝の仮有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。
此の世の一曲が終る前に肉体の調子が乱れたように見えるのは此の調律のためであって真(しん)に調子が乱れたのではない。
汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。
一曲は終るとも弾き手は終るのではない。
弾き手は神の子であって不死であるぞ。
(昭和六年六月二十六日、 神示)
感謝 合掌。
1898
:
さくら
:2013/01/11(金) 03:50:56 ID:VxpE5cyY
合掌ありがとうございます。
本日は、『聲字即實相の神示』が天降った日です。
改めて謹写させて頂きます。
拝
1899
:
さくら
:2013/01/11(金) 03:51:26 ID:VxpE5cyY
『聲字即實相の神示』 谷口雅春先生
吾が第一の神殿は既に成れり。
名付けて『生命の實相』と云ふ。
完成の年になりて吾が第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。
七つが事物の顕現の周期律になつてゐる。
吾れに神殿は不要であると嘗て示したことがあらう。
吾は道(ことば)であるから、吾が道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。
吾が道(ことば)を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。
『生命の實相』は吾が本體であり、無形の『生命の實相』を形にあらはしたのが『生命の實相』の本である。
『言葉』を載せた書物を『本』と云うのも、『言葉』こそ事物の本であり本質であり、本體であり、本物であるからである。
『言葉の宇宙』が先づ出來て、『形の宇宙』がその映像(かげ)としてあらはれるのである。
今迄の宇宙は、『言葉』が實相を語らず、不調和で濁つてゐたから、宇宙の萬物の運行が亂れて生活苦や、病氣や、天災や戦争など色いろ不調和なことばかり起つたのである。
『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が實相を語り、善き圓滿な調和した言葉の『本』が調うたのであるから今後は何事も急轉直下する。
『生命の實相』を披らくだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己生命の實相を知り歓喜踊躍して手の舞ひ足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。
その歓びの相こそ人間の生命の實相である。
吾が道(ことば)を『生命の實相』と呼ばしめ、それを本の形にして、披らいて讀むものにさせたのも象徴的因縁あることである。
『生命の實相』を展開けば形の理想世界が成就するのである。
今は過渡期であるから、假相(かりのすがた)の自壊作用として色色の出來事が突發する。
日支の戦ひはその序幕である。
神が戦ひをさせてゐるのではない。
迷ひと迷ひと相搏つて自壊するのだ。
まだまだ烈しいことが今後起こるであらうともそれは迷ひのケミカライゼーションであるから生命の實相をしつかり握つて神に委せてゐるものは何も恐るる所はない。
(昭和七年一月十一日神示)
1900
:
a hope
:2013/01/11(金) 08:05:08 ID:PzSu3pbw
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆父母に立派な本を選んでもらいなさい
どんな本が立派な本かは、お父さんや、お母さんや、先生が知っていられます。
よい本は出来るだけたくさん買ってもらいなさい。
本というものは、「心」が外の景色を見るための窓のようなものです。
私が中学生の時分には、中学に図書室(本をならべたへや)がありまして、
昼の休憩時間に一しょうけんめい読んだものです。
それが今でもたいへん私の役に立っているのであります。
「本のない部屋は窓のないようなものだ」といった人もあります。
よい本がならんでいるのを見るだけでも、自分の心に楽しいよろこびをあたえるものです。
よい本をしっかり読まない人で、立派になった人はありません。
ほかの玩具(おもちゃ)や、遊び道具を買ってもらうよりも、よい本をお父さま、
お母さまに買ってもらって、それをつねに読むように心がけなさい。
(つづく)
1901
:
通りすがり
:2013/01/11(金) 08:40:37 ID:???
>>1899
一行目の「吾が第一の神殿は既に成れり。」は、中央揃いでよろしいですか?
1902
:
goro
:2013/01/11(金) 11:45:39 ID:nCo1DokU
>>1893
の続き
殿下は、この万歳の声を、どんなお気持ちでお聞きになっておいでになるだろうかと思うと、涙が止まらない。今日の昼、ごらんになった東山御文庫内の烈々たる芳香は、いま殿下を厳しく且つ暖かく包んでいるに相違ない。いま聞こえるこの万歳の歓呼の声は、結局は歴代の聖天子の御余得に対する京都市民の感謝の声ではないか。積徳の余栄に、いま、このお若い殿下が酔われてはならぬ、と思うと、居ても立ってもいられない気持ちになった。
やがて提灯行列も終り、殿下は御殿にお帰りになったが、泣きぬれた私は、もはや人に顔を見られたくないから、そっと後から御殿に足をふみ入れはしたが、明るい室には顔を出すのも恥ずかしく、薄暗い廊下で、ありあわせの巻紙を引き割いて、鉛筆で自分の思うところを、無遠慮に且つ露骨に、したためていた。
先刻から私が姿を消してしまったのを心配して、広い御殿の中を捜してくれていた先輩の西園寺御用掛が、薄暗い廊下で私を見付け、声をかけてきたので私は余計なことは云わず、ただ、これを殿下に、と私の書いた紙片を同氏に渡したまま、私は旅館に早々に退出してしまった。床に横たわっても興奮は治まらない。自分は奈良に正倉院という世界的に有名なお蔵のあることは知っていけれども、この京都の御所の内に、かくも立派な東山御文庫のあることを少しも知らなかった自分の愚鈍を憐れむと共に、長い年月の間、静かに流れつづけてきた、この皇統無私の御精神に対し、知らぬこととは云いながら、いささかの感拝の念をも起こしたことのなかったことは、誠に相すまぬことだったと思う自責の念に深くさいなまれた。
翌朝、御殿に参上すると、西園寺先輩が「君、殿下に鉛筆の走り書きなどを上げるのは失礼だよ」と新米侍従の私をたしなめながらも、「だから僕は、あれを殿下に読んでおきかせしたよ」と、誠に行きとどいたことをしてくれた。後で殿下にお目にかかったら、大そう真面目なお顔つきで「昨晩は、よいことをいってくれて、ありがとう」とお小言の影すらもなかった。
長い間、私が考えつづけてきた心中の疑問は、この一瞬に解決した。皇統無私の御精神は、そのまま殿下がうけついでおいでになる。これに磨きをかけて差し上げたのが東郷、乃木、杉浦の諸公だ、というのが、この時から私の確信となった次第である。思えば、私が若き日に、お供をして東山御文庫内で、光格天皇の御書簡を拝見したという一事は私にとっては忘れがたいことであり、爾来私が日本皇室の伝統的御精神ということについて特別の関心を持つようになったのも、このためではないかと思っているし、また、古文書の保存ということが、いかに大切であるかということを思い知らされた次第でもあった。
1903
:
さくら
:2013/01/11(金) 12:27:46 ID:VxpE5cyY
>>1901
通りすがり様
ご指摘、ありがとうございます。
実は、いつもはじめの文字のスペース一つでは、一マス空けることができなくて、
余分にスペースを打ちすぎてこのようになりましたという、…ミスです。
ひとマス空けて、左揃えで読んで頂けましたら、有難いです。
せっかくの神示が、見づらい様子になりまして、申し訳ありません、
これからもご教示、よろしくお願い申し上げます。
拝
1904
:
通りすがり
:2013/01/11(金) 14:54:22 ID:???
>>1903
さくら様
お返事ありがとうございます。承知いたしました。
あと、普通ならちっちゃい「っ」だと思いますが、旧仮名遣いだから大きい「つ」になっているのでしょうか?
細かいことを申し上げますが、お許しくださいませ。
1905
:
さくら
:2013/01/11(金) 17:04:47 ID:VxpE5cyY
>>1904
通りすがり様
はい、ご指摘の通りです。
旧仮名遣いであるので、
例えば、「なっている。」のちっちゃい「っ」が、「なつてゐる。」と表記されておりました。
行き届いた配慮で、目を通して頂きまして、ありがとうございます。
どうぞよろしくお願いいたします。
拝
1906
:
うのはな
:2013/01/11(金) 22:06:58 ID:DYtKCfk2
>1881 生長の家入門講義 『生長乃家』 誌 谷口雅春先生
1881から続けて謹写させていただいてきましたが、都合により
中途で終了します。
関連する話が光明掲示板にありましたので御参照下さい。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1037
1912
:
さくら
:2013/01/12(土) 07:05:27 ID:77/ZZxYM
『静思集』 谷口雅春先生
*
「潔く生きると云うこと。
潔く生きるとは我と云うものが無くなることである。
一寸でも我があったら潔くなれない。
潔くとは一寸も引っかからずにサラリと水のように神様のみこころに流されて行くことである。
「法、法の中に住せず」と云う語『観普賢菩薩行法経』にあるが、
萬法すなわち萬ずの現象が、住まらず、
流水のように引っかかりなく、はからい心なく、そのままに流れ行くことである。
我があっては、そう云うように引っかからずにいる訳には行かない。
我が無くなったのが佛である。
我と云う固塊がほどけてしまって、ただ「神」がうちから湧き出て来ることである。
強いて言えば、「衆生の内から湧き出て来た神」がほとけである。
「ほとけとは衆生が悟りを開いたものである」と云う意味は斯う云う意味である。
衆生が悟りを開いて佛となるが、その佛なるものは、
同時に超越的なところにあって、この世界をあるべきようにあらしめているところの神である。
此の世界をあるべきようにあらしめていることを此の世界を「神が造った」と云うのである。
そして、その神を創造神と云うのである。
こう考えて来ると、衆生の内から湧き出て来るところの内在の神(佛性)と、
この外から、又は超越的なところから、この世界をあるべきようにあらしめていること「神」とは、本来「一つ」である。
神佛一體論は斯うしたところからも頷ける。」
1913
:
SAKURA
:2013/01/12(土) 14:08:11 ID:U9ONro8Y
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 ====================
『生命の実相』を読んで薬を廃めて病気の治る人もある。薬を廃めないで治る人もある。
またかえって薬を拝んで服むようになり、心境の一変とともに病勢とみに減ずる人もある。
これはその人のひとりひとりの心の悟りである。刺身包丁を見て、それで人殺しをする人も
あれば、自殺する者もある。また包丁は包丁だけに魚肉だけを料理して喜ぶ人もある。先
日はまた医師がメスを出すのを見て発狂して鉄道自殺を遂げた美貌の若き母があった。そ
れはまたその人ひとりひとりの心境の問題である。たまたま包丁で人殺しをしたり、メス
を見て発狂または自殺をしたりする人があるからとて、包丁やメスは危険であるからとい
って、その発狂や所有を禁止したり、メスや包丁を殺人罪で告発したら滑稽であろう。
『生命の実相』には病人に対してむやみに医薬の服用を止めよと書いたところは一句もな
い。たとえば『生命の実相』の巻頭の神示には、
「もし病人にして医薬を服用する者あらんにはそれを四口に分けて飲み、この同じ想念
をなして飲めば病必ず速やかに癒えるのである。すべての他の人の罪を赦すは、吾らの
過ちをまた大生命なる神より赦されんがためである。もしわれらが心を閉じて他を赦
さなければ、大生命の癒能もまた閉ざされてわれらに流れ入ることはできないのである。」
この『同じ想念』をなすというのは「一口目を手にしては、これ今まで過ちて人に対して
憎み怒りし自己の罪が神によって赦されんがための供物であると念いて服み、二口目を手
してはこれすべての人の罪が神によりて赦されんがための供物であると念いて服み、三
口目を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんがた
めの供物であると念いて服み、四口目に一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪をこの水
のごとくわが心より洗い流して心にとどめざらんがための象徴(しるし)であると思って
服(の)む」べきことがその前行の文章に書いてあるのである。
これは薬物服用の際における心の持ち方の懇切なる指導である。それが『生命の実相』
の、特に巻頭に書いてあったのは、それが重大な事柄であるからである。近代のサイコア
ナリシス(精神分析)は観念泄瀉が心的原因の病気の治療に大いなる効果のあることを証明
した。この神示にははっきりと書いてあるところの方法は、医薬の服用と同時に観念泄瀉を
行なう方法であるともいえるのである。
つづく
1914
:
SAKURA
:2013/01/12(土) 14:10:18 ID:U9ONro8Y
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>投稿の続きです…。
■■『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
>>1913
その①の投稿の続きです
■『生命の実相』は現に医薬を服用していない者に
「医薬を服め」とは勧めてはいないが、「病人にして医薬を服用する者あらんには……かく
かく心持にて服め」と書いてあるのであって、「服むな」とか「その服用を廃せよ」とは書
いてはない。しかるに『生命の実相』を読んで、薬を廃める者があるのは、仏教的真理「色
即是空」(物質本来無し)、または諸法皆空(現象本来無し)の思想に目覚めた結果、自己内在
の生命の自然超能力に頼ることを重んじて物質的薬剤に頼ることを軽視するようになる
からである。 (谷口雅春著)
==========================================
■今年の年頭から“風邪?”にかかり、昨日(11日)まで【検査の結果…】が分かるまで、
自宅療養でした。昨日にて検査結果の中身が分かり、一安心です。(ホッ〜☆)検査はまだ軽症
との事で…飛沫感染によるモノであり、喘息にもかからずよかったと思います。【感謝…】
やはり細菌がまだ体内に少しあり、もう少しで、完治する様ですが、本当にこのような“風邪”
今までの中で初めてでした。たまたま数日前、少し快方に向かい【神社のお札】だけは?
年明けて勿論「亡き母」の事もありますが…一度も神社へ伺う事もできず「自宅待機…」で
した。そして9日に体調がいいので、何となく行く事に、その帰り、また“フラ〜〜〜?”と
してしまいますから「コ−ヒ−ショップ」により休憩しますと!><10分もたたずに、
“変な?変な?仲間”が場違いかと思う人が?隣に坐り…一瞬の感にて?【吸血鬼仲間…】と
分かり“コ−ヒ−”も飲めずに、その場を立ち去りました。…が?体調が、幾分ふらつき状態
ですから、また、もう一軒の「コ−ヒ−店(ドト−ル)」に立ち寄りますと、また15分後に
今度は【吸血鬼…男自身?】が、変態みたいに寄ってきますから、私達は、あわてて立ち上がり
その場から逃げ去った状況でした。その間、一瞬でありますが飛沫感染にて、相手の細菌が強く、また幾分ぶり返しの状態です。【吸血鬼達…?】は自覚がなく、病院にいっても担当医に病気の
症状を明確に伝えないのが実情かと?果たして“説明”が〜〜〜?【尾行でも…感染かと】
■ある担当医師は、このような“人種?”がいて、通院に来てなく困りモノ!!更に、
飛沫感染症の場合は、周囲の人の事も考慮するのが「人間としてのモラル」とおっしゃつて…
【吸血鬼達…】は、単なる“風邪…”だろうと、安易な考えにての行動でも、最終的な結果は、
かなり悪いのです〜〜〜ョネ!この様な人が、此処九州は、自覚のない人が多くて、今回の
“風邪…”も確かに…
■【生長の家の御教え…病気はない!!】と自覚しても、一応【神の警告…】として、私どもに
“予防対策のお知せ”だと、今回思えたのです。…が?先日は「東京のホ−ム・ドクタ−」先生
が、旅行中で留守でしたから、東京の行きつけの「薬剤師…」に問い合わせますと【大丈夫…】
ホ〜ッ☆と…安心して服用しました。【感謝…】この様に“薬…”も時と!場合!には、やはり
【神様の導き…】と思い、今は、服用出来る事に、ただただ【素直に感謝…】して服用していき
ましたが、更に、今日からはまた
❤〜【医者の薬の勧めに従いまして…神の導きによります処の“一口目”〜〜〜“四口目”に
実行していきます】この事に【感謝…】の念が……
本当に今回の“風邪症状”は軽症にて済みまして【大安心…】でした。きっと、あの日
一生懸命【先祖供養…】しました時、いつもより“ロ−ソクの減り方”が早くて??もしかし
ますと【義春様…が私達は?どんな人物かと?見に来て下さいましたのでしょうか???】と、
ついつい思いましたが、今回は【感謝して…素直に薬に依存】しました次第です。…が?
■「医薬を服め」とは勧めてはいないが、「病人にして医薬を服用する者あらんには……かく
かく心持にて服め」と書いてあるのであって、「服むな」とか「その服用を廃せよ」とは書
いてはない。…この“言葉”がしっかりと潜在意識に入りましたかと。
再合掌
1915
:
a hope
:2013/01/14(月) 07:13:45 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
・本は先生よりも十倍安くてためになる
よい百科事典(なんでもあるじびき)や、歴史の本や、生長の家の『人生読本』や、
清超先生の童話『黄色い灯台』などは、つねに机のそばにおいて読むようにしますと、ためになります。
たのしみに、十ページ、二十ページと読んでいるうちに、いつのまにか、よい先生についているよりも、
もっと自分に力がつき、もっと自分の心が美しくなり、深切なよい自分になってしまうのです。
本というものは、それを書いた人が、自分の知っているうちで、
一番立派なものを書いて出しているのですから、学校の先生について習う時間の十分の一ぐらいの時間と、
十分の一位の費用で、もっと立派な智慧と、よい心とを植えつけてくれるものなのです。
(つづく)
1916
:
うのはな
:2013/01/14(月) 13:49:10 ID:O14KGmdU
太陽の讃歌
わたしが昔見た光は 月光帯びて幽谷を流れる水であったのに
今わたしの見る光は 旭日を映した真赤な大海洋になっている
いつのまに
こんなに大きな海原に出て来たのか私は知らない
ただわたしは
海の波のその一つ一つが 唇をそろえて太陽をたたえる
その讃歌を聞くのみだ
ああわたしも
太陽を讃えたくなった 太陽をほめる千万の波の唇と共に
わたしも声をそろえて 生命の讃歌をうたおう
『ひかりの語録』より 谷口雅春先生著
1917
:
うのはな
:2013/01/14(月) 15:59:45 ID:j/a0WopM
「保守」の本当の意義について
神は無限であり、その無限内容を常に新しき創造をもって顕現したまうのである。
陳きものは謝り行き、新しきものが常に創造せられつつあるのである。
私たちは陳きものが新しきものによって取って代られることを悲しんではならないのである。
けれども私たちは神の創造の根本構図を破壊することを「新しき創造」だと考えちがいしてはならないのである。
例えば、人体の根本構図は胴体を中軸として四肢が適当な位置に適当な長さで調和した姿で備わっている筈なのに、
それが人体の根本構図であるのに、サリドマイド睡眠剤を服用した母親から生まれた奇形児の如きは、これまでになかった
両腕の不足している「新しき形態」であるけれども、それは「新しき創造」ではなく、歪められた創造であり、神の創造であり、
神の創造の根本構図が破壊されたイビツの姿であるに過ぎないのである。
これは一例であるけれども、何でも破壊して「新たなる形」を表現するのが「新いい進歩」だとか「革新」だと思ってはならないのである。
前衛書道や、活け花のオブジェというものの内には、このようなサリドマイド的奇形があるのである。ここに真の「保守」が却って本当の尊さの
あることを知らなければならないのである。
「保守」とは決して何でも古いものを踏襲するというような浅い意味ではないのである。
「保守」とは本来の「神の構図」を崩さないように守りながら、その構図の線に則って新たなる発展をなすことなのである。
人体が躯幹四肢を完全に備えながら、それが貧弱ではなく益々その美を発揮するようなものである。
それ故に私は今日、次の如く、真理を心の中に吟唱するのである。
〝神の構図われに流れ入り給いて、わが人體は益々美しく強健となり、わが為すことは神の愛に
かなうところの自ずからなる善行となるのである。ありがとうございます〟
『白鳩』五月号 昭和四十六年 谷口雅春 先生 ○ 投稿者現代字に変更写 拝。
1918
:
NANCY
:2013/01/14(月) 22:34:19 ID:2h8iqLlY
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>1880
>>1890
の投稿の続きです
===【谷口 清超 著】================================
■すべての物は、みな一つの神の命のあらわれである。
万物は本来みな「神」である。その根本を忘れ、神を否定したり無視したりして、
地球の万物を単なる物質だとみて暮らすことから、“エネルギ−浪費”の方向に文明を
推し進めて行ったのである。
この点を強く反省し、現象の奥に宿る「神」への感謝・礼拝・報恩を忘れないことが
大切である。 『一番大切なもの』より
============================================
■私達は、今日の生活基盤は【自然との共存である地球…】この事自体を【唯物論…】的な
捉え方をしている人もおおいのでしょうか?今日は、関東方面の気象は【大雪…】とのこと。
それにはそれなりの“エネルギ−(暖房)”が必要になりますでしょうかと。例えば……
石油・ガス・原子力エネルギ−…昔の木炭・石炭…etcも含めまして?
このエネルギ−も「神の国にからの宝物」として【感謝…】を忘れない事が…
如何なる状況になりましても必ずや「神の賜物」を受け取ることになりますでしょうかと。
先日の【中国の大気汚染…ニュ−ス】は、此処の企業・事業団体が…利益追求という事で、
“生産過剰”・“大量消費”…から生じて来ましたのですからそこに【需要・供給のバランス】
とは程遠い【現象界での利益追求】でしょうかと。いつも「神に心を振り向けます事は…」
そこに【無限の富者となる真理…この法則】を、悟る事となりますでしょうかと。
■■常に【現象の奥に宿る「神」への感謝・礼拝・報恩を忘れないこと】が、
神からの賜物を受ける事になりますでしょう…。今以上に、心を明るくもって
“神の波長”にあう心を常に起こさなければなりません〜〜〜ョネ!どんな時でも…!!!
再合掌
1919
:
a hope
:2013/01/15(火) 07:21:47 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
着物など節約して本を買いなさい(p122〜)
着物や洋服や靴は「つぎ」が当っているもので我慢しても、その代わりによい本を買ってもらいなさい。
着物や洋服や靴がどんなに立派であっても、ぜいたくな感じを起させるだけで、別によい事は教えてくれません。
それよりも良い本はつねにあなたによい事を教えてくれるのであります。
よい本を書斎(べんきょうのへや)にならべておくことは、良い先生をやとっておくのと同じことで、
時として、よい百科事典は良い先生よりも、なんでもくわしく知っているのであります。
着物や靴をせつやくして本を買いなさい。
あなたの身体の筋肉は、それをよく運動させることによって立派になり、
力瘤(ちからこぶ)がもりあがるように発達(ちからづよくなる)します。
あなたの精神は心を運動させることによって発達するのです。
心の運動を充分させるには、よい本を読むことによってであります。
よい本を読んで、人に深切にすることが善いことだとわかれば、
人に深切を実行することによって心の中の愛(しんせつのこころ)が発達します。
本をよむと、昔のえらい人の言葉にもじかにふれることが出来ます。
昔のえらい先生も、今のえらい先生も、一堂(ひとつのいえ)にあつめてその教えを受けることが出来るのです。
(つづく)
1920
:
さくら
:2013/01/15(火) 07:47:23 ID:LeI7UqPY
合掌ありがとうございます。
本日は、『完成(ななつ)の燈臺の神示』が、天降った一月十五日ですので、
謹写させて頂きます。
拝
1921
:
さくら
:2013/01/15(火) 07:48:24 ID:LeI7UqPY
『完成(ななつ)の燈臺の神示』 谷口雅春先生
時が來た。
今すべての病人は起つことが出來るのである。
最早、あなたにとつて病氣は存在しない時が來たのである。
二千年前、キリストが『汝の信仰によつて汝の信ずる如くなれ』と云ふ唯一語で、
遠隔の地にゐる病人を癒やした其の眞理が、
すべての人類に開顕される時期が來たのである。
『生長の家』を讀み眞理を知るだけで遠くにゐて病氣が治る事實を見よ。
此の燈臺より眞理の光を受くるものは、
創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの『罪』と『病』と『死』との三暗黒を消盡するのである。
光が近付くときすべての暗黒は消える。
『眞理』が近づく時、すべての『迷』が消える。
『迷』が消える時、『迷』の産物は『罪』『病』『死』とは消える。
疑はずに吾が光を受けよ。
われは『完成(ななつ)の燈臺』に燈を點ずるものである。
(昭和六年一月十五日神示)
1922
:
閲覧者
:2013/01/15(火) 17:21:26 ID:???
>>1921
新さくら様でしょうか?
とても読みやすく、旧漢字で謹写してくださりありがとうございます。
1923
:
SAKURA
:2013/01/15(火) 21:28:47 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その① ―
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 ====================
ある強化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。彼はその教化団体で救
われ人生観が一変し、性格が一変し、生活が一変したものであるからそのことを聴衆に
語りたかった。どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、自分の過去
の生活を述べねばならない。彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって女を騙
したことや、酒を飲んだことなどを過去の生活を懺悔のつもりで五十分間も喋り続けた。
そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、その転向の明暗を明朗
(はっきり)させるつもりであったのだが、彼が五十分間も自分の過去の罪悪を喋っている
間に、聴衆は『そんな悪い人の話は聴く必要はない』と一人去り二人去りして、彼が本当
によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。
懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、ついに人の信用を墜すものである。言
葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。美人の色の白さを引き立てるた
めの斑点美粧も、それが顔反面イッパイに及ぶようになっては痣としてまちがえられる。
光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。
(谷口雅春著)
========================================
つづく
1924
:
SAKURA
:2013/01/15(火) 21:30:43 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その② ―
>>1923
>>投稿の続きです…。
PS:「トキ様」へ
■そうで〜〜〜ョネ!【他人の過去…】は、その人自身の問題に関してですから、やはり、正直申し
ますと【ア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!くどくど論】を言われますと、第三者も“聞く耳…心”も、次第に
失せていきますのが…人間の【心理…】かと。私も「吸血鬼・ゾンビ…」の事を、此処で記しますが、
個人的感情にて、やはり“頻繁に尾行”されてくると…この連中に!!〜〜と思ってしまいますモノ!
でも、やはり、まず!【今の“こころ”を進化…】しなくてはいけませんのです〜〜〜ョネ!
今回、或る本から【御霊様…】になりますと〜〜〜〜〜><現実世界と異なりまして、
■【肉体もない!!洋服すべて、物質は無い!!のです。】よく言われます処の『生長の家…』では、
【物質がないという事は、私たちが今、お互いにコミュニケーションとして相手に伝えます手段としての、
“空中で言葉(ボディ−ランゲッジ含む)”として発します『言葉…』もないのです〜〜〜ョネ!
そうしますと?どの様に、相手に伝える為には??如何になされていますかと言いますと……?
■【テレパシ−】からなのです〜〜〜ョネ!
例えば、現象界で【言葉…】に発する前に、その脳裏に思った【思念…念】と申しますか?
…この事?なのです【その心…】が相手に、瞬時にして伝わるのです〜〜〜ョネ!
■■ 【 ジュリアンの伝言 】でも、見透かされると…この表現を、確か記載されていました。…が?
その通りで【 こころのパイプレーション!!】そのモノなのです。そして、
【 ネガティブな心=感情 】は、絶対に相手に通じないようになっていますから、例えば…
自分の“嘆き”とか?“恨み・中傷の感情(言葉)”…は、まず!!通用しないのですから・・…
【 意 識 は 私 は 神 の 子!と……私は!私は!と〜〜〜】言い続けることに集中でしょうか?
この様に、相手からの“ネガティブ言葉・・・感情”を、いつまでも、いつまでも……ダラダラと聞いても、
【それは、自分自身が、精神をポジティブなる!!明るい方向へと持って行かない限り…
「現実世界=現象世界」以上に…次なる「霊の世界…」では、誰も聞いてくれないのだと思いました。
ますます【今を活かす事…ポジティブ=善】この事が【魂の向上…信仰上】の大切な要素としての
エネルギーでしょうか??実は、この事は〜〜〜〜〜!!
■■今日の朝方【 亡き母から…の伝言 】の様に…私の脳裏に、突然浮かんでしまいまし次第です。
再合掌
1925
:
goro
:2013/01/16(水) 00:03:36 ID:nCo1DokU
1902の続き
殿下と皇室財産
或る時、ある地方に大水害があったので、御手元金のうちから、数百万円を救恤のために御下賜されることになった。その手続として、必要な書類が大臣官房から侍従職に廻ってきたので、私はそれを持って陛下のお室に参り、ご覧に入れた。御覧になるや否や、陛下はすぐに裁可の印をお捺になった。
当時の数百万円は、今の時価でいうと、莫大な金額になるが、そんなことは何とも思っておいでにならない。全て大臣の処置に信頼をおいておいでになる。私は、その書類を頂いてお側をはなれようとして、フト、お机の上を見ると、ちょうど、そのとき、なにか調べものをしておいでになったらしく、小さな仏和辞書がおいてある。それが、もうボロボロになって、いかにもおひきにくそうであったから、「陛下、その仏和辞書を新しいのに、おかえ致しましょうか」とお尋ねしたところ、ご心配そうに、「金はあるだろうか」とおききになる。「ございますとも」と申し上げて、直ちに書店に同じものをを注文したことがあるが、その代価は、たしか二十円たらずであった。
御救恤金といい、仏和辞書といい、購入財源は皆、皇室財産の収入によるものであるが、当時(昭和の初年)、皇室財産は森林だけでも全国に百三十万町歩もあり、その大部分は大河川の水源
地その他、交通不便な山奥等個人経営には不適当な地方ではあったが、それでも、一定の伐採計画に従って、年々市場に供出される木材の収入は、相当多額に上ったため、国内の一部の論者は、皇室財産を目して、国内大財閥の一となして、とかく批判の声をあげるし、省内でも、この問題について会議を開いたこともあったが、私は、皇室財産は国民のための貯蓄であって、いかに多くとも心配ご無用の一点張りで議論をおし通したことを覚えているが、これは、あの「金はあるだろうか」の御一言のうちに含まれている陛下のお心持ちが、深く身にしみていたからこそ、躊躇なく発言し得た私の確信であった。
終戦後、皇室財産の殆んど全部が、政府の所管に移ったが、陛下としては、国民が、金が入り用で自分たちの貯金を引き出した、としか思っておいでにならないだろう。もともとお自身のものとは、考えておいでにならなかったのだから。
1926
:
志恩
:2013/01/16(水) 06:34:37 ID:.QY5jUA6
>>1922
:閲覧者様
「
>>1921
新さくら様でしょうか?」と,コメントされてますが、
さくら様と、SAKURA様は、別人です。
1927
:
さくら
:2013/01/16(水) 08:02:34 ID:e8ieIrPA
>>1922
閲覧者様
志恩様
お言葉、ありがとうございます。
新さくらといえば、新年になり、「重い衣」を脱いだような心地がいたします。
(…薄着になったわけではなく心が軽くなった、気持ちです)
ご指導(お手柔らかに…)お願い申し上げます。
拝
1929
:
閲覧者
:2013/01/16(水) 17:45:13 ID:???
>>1926
志恩様 ありがとうございます。
久しぶりにきまして、去年いらしたさくら様ではない感じがしましたので新しいさくら様かと思いました。
1930
:
閲覧者
:2013/01/16(水) 17:48:05 ID:???
>>1927
さくら様 ありがとうございます。
昨年こちらを閲覧しておるときのさくら様はもっとじゃじゃ馬な感じに思えました(失礼)
すっかり上品になられましたね、別人みたいです(苦笑)
1931
:
NANCY
:2013/01/16(水) 19:13:05 ID:dGeUHjWM
管理人「トキ様」へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。
■此処に、無関係な“質問…投稿”と、思いますが??投稿させて頂きます。
■■>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
上記に関連するテ−マなら、広く受け付けます…云々…< (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
上記の規約が冒頭に記載されています。それが■【 聖 典 引 用 板】のポリシ−かと。
しかし、此処最近は【 お互いに讃嘆する?・自画自賛? 会議場所…】になっていますかと??
>>1926
>>1927
>>1929
>>1930
>>を閲覧しますと……
本来はの【 聖 典 板 …】にして頂きたいのですが??
■■これが【生長の家…分派】の方々の【規約に反する事…】をしても“素晴らしいとする行動”
と、世間一般でいえますのでしょうか?? 疑問ですが〜〜〜?
■新し〜〜〜イ!信者の方が、すべての【生長の家…○○会】へ、入信して来ますでしょうか? 再合掌
1932
:
goro
:2013/01/16(水) 23:02:53 ID:nCo1DokU
1925の続き
荒天下の分列式
大正十五年の暮れ、大正天皇の崩御に伴う諒闇(つつしみ)の昭和二年も静かに過ぎ、人々は左腕の喪章もとりはずして、いよいよ、今上陛下の即位の大礼を迎える昭和三年に入った。この年の秋、京都で行われる即位式の日程も発表される。京都から東京にお帰りになったら、何日には陸軍大観兵式、何日には海軍大観艦式、何日には何と、奉祝の行事は、次から次へときまっていく。行き逢う人ごとに、お目出とうと喜びの声は全国をおおい、津々浦々、人みな勇み浮き立っている。
宮内省も大礼の準備に忙しくなり始めたが、これに引きかえ、この頃から、陛下の側近に奉仕する侍従のわれわれは、何ごとか沈思黙考の陛下のおん憂いのお姿を煩雑に拝するようになった。お口に出しては何も仰せにならないが、それだけに、御心中は深くお察し申し上げなければならない。
摂政御在任五年、御践祚後すでに一年余、無私、ただ国と民との将来の安危を憂える一念で、政治の機微に触れてこられた陛下のお胸のうちに、いま来往するものは、果たして何であろうか。
第一次世界大戦後、巴里の講和会議において、わが国の提唱にかかる人種平等案の否決は、たしかに世界平和のため、由々しき悪因ながら、覆水ふたたび盆には、かえらない。これに端を発し、大正十三年北米合衆国に於ける排日移民法の実施、昭和二年より三年にかけての、中国に於ける日貨排斥運動、及び欧米一部人士の使嗾によるよる排日教育の激化、ジュネーブに於ける日英米海軍軍縮会議の決裂、済南に於ける日支両軍の衝突、更に近くは、満州における張作霖将軍の爆死事件等、国家の前途、西に東に、黒雲むらがり電光ひらめくのを、陛下は、いち早く望見しておられたのではなかろうか。
この国家の難局を打開する一人の政治家もなきか。議会たのむに足らずする軍部の台頭に、国民はまさに歓呼の嵐を送ろうとしている。やんぬる哉、邦家の艱難必ず来ると、もんもんの幾日夜、遂に国民と同艱共苦の御覚悟を固められたのも、この頃ではなかったか、と私は思う。
1933
:
a hope
:2013/01/17(木) 07:31:49 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆本を可愛がって読めば力がつく
勉強室は、すきな本をたくさんならべておいて、気がむいたとき、
自然に、自分でよろこんで読むことにする方が、力がつくのであります。
いやいや人から「読め」といわれて、気がすすまぬのに読んだのでは、
心の窓がしまっていて、本に書いてあることが充分頭へはいらぬのであります。
本を可愛がって、その本をひらくことが、楽しい気持ちになって「わたしの可愛い本よ」といって可愛がってから本を読めば、
本に書いてあることが、一層よく心の中にはいって来るのであります。
食物もよくかみしめて消化して吸収(からだにすいこむ)しなければ力になりません。
本を読んでも、よくかみしめて、それをしみじみ味わって読まねば、あまり力にならないのです。
よくかみしめて読む方法は、五、六行よんでから、その本をとじ、
眼をとじて、その意味を心の中で思い浮かべて深く味わって見ることです。
私などは少年の頃、こうしますと、眼(まなこ)をつぶると眼の前に、
その本のページの形が眼に浮かんで来て、その通りのことがおぼえられたものです。
これは一種の記憶法にもなるのであります。
本を読みながら、時々、眼をつぶってそれを考えて、一々首をすこし動かし
「うなずく」ようにすると、よくおぼえられるものです。
(つづく)
1934
:
SAKURA
:2013/01/17(木) 13:45:53 ID:RZS.njMc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
>>1924
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================
善人ということは正しいばかり善人ではない。善悪の標準は生長の家の出現によって変化し
たのである。正しくても暗い人は善人ではない、その人は自分を殺し、他を殺すからである。
正しくとも捉われる人は善人ではない、その人は自分を窮屈にし、他と争い、自分を殺し、
他を殺すからである。正しくとも力の弱い人は善人ではない、彼は自分を殺し、他を助ける
ことができず、同時に他を見殺しにせねばならぬからである。
どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。真っ直などということだけ
が善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。人時所三相応せるものが善である。生か
すことが真理である。まっすぐばかりが善だと思っているために腹が立てたり、胸が塞がっ
て死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。 (谷口雅春著)
===========================================
PS:「トキ様」
ここで”投稿… “させて頂いておりますと、いつの間にか?という表現が適しますかはさておき、
何が正しいとか?…ゆずりあい?…理解しましょう?の様な柔軟姿勢のものがいつしか無く、
まるで『勝ち組・負け組・対抗論』のように、目に移る時もありますかと。今回も!また…
『新しい板…スレッド』を作成されます…云々…???
そして、「内容…」は、懸案中の規約??と申しますか??
【教えのすばらしさを讃歌・謳歌するオンリ−場所とか??】私は、何か変な〜〜〜ァ感じです。
【この……“ 教え ”の解釈論は、どのように受け止めたら宜しいのでしょうか??】…が?
いつもクレッション・マ−クに思います。私どもの表現から申しますと【生長の家…分派】の
方々の“提案”らしいのですが?きっと、これも【分派…の皆様方】でのメイン・ボ−ドになります
でしょうかと。そして『舞台設定…に多々作る』ような場合もありますかと?その感じでしょうか?
つづく
1935
:
SAKURA
:2013/01/17(木) 13:48:58 ID:RZS.njMc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
>>1924
>>1934
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その②
>>1934
その①の投稿の続き…。
■果たして【和解…】この事は、何処までのお考えなのでしょうか??既に【原宿教団…】から、
個人的理由?その退職に於けます理由は多々でしょうが?自分が“一番正しい”と言った考え方
が、潜在意識の根底にありますでしょうから、これも【認めない心…】ですかと。ですから、
今の状態では、良〜〜〜〜〜く!考えましても【無理な関係…】にも反面見えます。…が?
私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います。やはり…
活かす事は、生活面でも活かす事でしょうか???今から“世の中”がもっと混沌とした状態に、
なりそうな感じで ><モット!【 思考豊かな表現 】ができる状態の私に【こころ…豊か】に
今の私は、【全てを活かす事…感謝…】が課題なのでしょうかと。?
「トキ様」…本当にいろんな方がいますから、またいろんな思考もありますでしょうかと。やはり
これは、どうしても【自分での尺度で物事を、測っている面】が多々でしょうと。その様に思い
ます。…?唯!この点が、難しいです〜〜〜ョネ!!このような時は、やはり【神想観…】に
なるようです。【 正 し い 理 念 】…神様からの“メッセ−ジ”かと。
❤〜【 人・時・所・三相応せるものが善である 】そうです〜〜ョネ“
混沌とした、現代社会では、ますますと時代状況によって【方便…】を用いての“説き方”には
変化があって当然ですかと。それでも【正しい理念】が必要でしょう。それには【神からの啓示】!
■【神と常に一体…真の神の子ですから…】全ては【祈りに…始まり…祈りに…終わる】という事
でしょうか??
再合掌
1936
:
NANCY
:2013/01/17(木) 19:43:31 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>1880
>>1890
>>1918
>>1931
の投稿の続きです
===【 谷口 雅春 先生 著 】===============================
■ 生 活 を 芸 術 化 せ よ (女性の幸福365章 より)
放蕩息子となって、現象の“ 夢 幻
の 世 界 ” を貧しい思いを起こして彷徨(さまよ)
い歩いてはならない。智慧の灯火をともしてあなたの行く手を照らして
進むがよい。人生は、「人間・神の子」
という実相の聖地にたどり着くため
の巡礼の旅路である。 *普及誌に掲載
=============================================
■上記の「雅春先生の言葉」は、【普及誌…白鳩No.30】に、記載されています“言葉”です。
今回の【生長の家…お家騒動】に関しまして、この『 放蕩息子…云々… 』と、値しますのでしょうか〜〜と
いう事なのでしょうかと。??
現原宿教団…『谷口雅宣総裁先生…』と、自分自身の“解釈論”つまり“捉え方”が…
各々の【分派の皆様方…】に於きましては、そぐわない?相反するモノと、言う事でしょう。??
私ども“一般信者…末端信者…”にまで【お家騒動…】が明確に解ったのは、此処最近ですかと。
■原宿本部の【生長の家…雅春先生が建立まして長崎に行かれるまでの拠点地】になりますが??
そこから、何らかの個人個人の考え方により、去られまして…『複数の分派…設立』となりました。…が?
■【創立者…谷口雅春先生】の、生長の家…信者に託されました【使命感??】と申しますか、
【生長の家…門をくぐる】事が、つまり“聖使命会員”とか?“活動・・・”とか?それも必要でしょうが、
根本は【生長の家…信者】とは、本来、この人生に於きまして【魂の向上…つまり!!成長】と言う
事になりますのでしょうか??
【魂 の 日 々 の 向 上!】かと。そうしますと、各々の“心”には、当然ながら、
【人 間 は 真 神 の 子】と言う認識が、自然に潜在意識に入り、そうしますと“行動”も、
それなりの“行動”になりますかと。そうしますと…『お家騒動は???』如何なものでしょうか??
❤…最終的には【 実 相 】この姿が、現われますでしょうかと……。
この『魂 の 向 上 の 旅』へ……私は、今を活かし、日々邁進すべきと、新たなる自覚となりました。
再合掌
1937
:
goro
:2013/01/18(金) 00:15:24 ID:nCo1DokU
>>1932
の続き
東京府でも、奉祝行事として数々の催しを企てたが、そのうちで最も大がかりなものは、府下の大学、高等学校、中学校、青年訓練所の男女学生及び在郷軍人等約五万の参加の下に、代々木練兵場に於いて挙行する男子の分列式及び女子の奉祝歌奉唱の行事であった。ところが、これを伝え聞いた隣の千葉、埼玉、山梨、神奈川の四県から約三万の参加申込があり、結局参加総人員は八万となってしまった。こんな多人数になると、雨天順延ということは、どうしても、できない。それは、これらの多数の人員を泊める宿舎が東京にはないからである。また青年訓練所の勤労青年の参加がある以上、毎月一日と十五日との公休日を除いては、他に適当な日がない。更にまた、雨天でも決行するということになると、代々木は泥濘が甚だしいので、二重橋前の広場以外には適当な場所がない。
以上の訳で、東京府としては、両陛下が京都から御帰京後、十二月十五日午後二時より一時間二十分の間、晴雨に拘わらず二重橋前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の一府四県の青年男女八万の分列式及び奉祝歌奉唱の式を行い、これに陛下の御親臨を仰ぎたいという案を以って、あらかじめ、宮内省に申し入れがあった。
この申し入れに関し、宮内省でも会議を開いたが、一同は相当難色を示した。殆んど一ヶ月に亙る御即位の各種の行事で、陛下も随分お疲れであろうし、且つ既に寒冷季に入った十二月中旬に、一時間二十分にも及ぶ長時間、野外にお立ちを願うことは、御健康上、いかがであろうか、殊に晴雨に拘わらずということであると尚更である。一木宮内大臣は非常に心配されたが、とにかく、事は陛下ご自身の御行動に関することであるので、席上私に、陛下の御内意を伺うべく指示があった。これは昭和三年の夏の末ごろであったと記憶する。
1938
:
蟋蟀
:2013/01/18(金) 01:10:22 ID:???
goro閣下
よーく読んでね。
>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
1939
:
志恩
:2013/01/18(金) 02:19:43 ID:.QY5jUA6
蟋蟀
あなたこそ、goro様の文を、
よーく読んでね。
天皇陛下のことを、書いて下さっているのですよ。
今の教えでは、説かなくなった、されど、雅春先生の時代では説かれていた
天皇陛下の大事なお話を,書かれているというのに、
なにを、あなたは、ねぼけたことを 言ってるの !
おみおつけで 顔 を洗って 出直して おいで !
1940
:
志恩
:2013/01/18(金) 02:40:07 ID:.QY5jUA6
蟋蟀(こおろぎ)様
こおろぎ様の敬称が抜けていました。
すみませんでした。
1941
:
ガガ・ミラノ
:2013/01/18(金) 03:27:11 ID:acQyNrDM
ガガ・ミラノ
100%実物は撮影する,
全部商品,送料無料!
www.2chshop.net
ガガ・ミラノ www.br-sale.com
1942
:
NANCY
:2013/01/18(金) 06:42:25 ID:5Z7kf.HM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>1880
>>1890
>>1918
>>1931
の投稿の続きです
===【 谷口 雅春 先生 著 】===============================
■ 生 活 を 芸 術 化 せ よ (女性の幸福365章 より)
放蕩息子となって、現象の“ 夢 幻
の 世 界 ” を貧しい思いを起こして彷徨(さまよ)
い歩いてはならない。智慧の灯火をともしてあなたの行く手を照らして
進むがよい。人生は、「人間・神の子」
という実相の聖地にたどり着くため
の巡礼の旅路である。 *普及誌に掲載
=============================================
■上記の「雅春先生の言葉」は、【普及誌…白鳩No.30】に、記載されています“言葉”です。
今回の【生長の家…お家騒動】に関しまして、この『 放蕩息子…云々… 』と、値しますのでしょうか〜〜と
いう事なのでしょうかと。??
現原宿教団…『谷口雅宣総裁先生…』と、自分自身の“解釈論”つまり“捉え方”が…
各々の【分派の皆様方…】に於きましては、そぐわない?相反するモノと、言う事でしょう。??
私ども“一般信者…末端信者…”にまで【お家騒動…】が明確に解ったのは、此処最近ですかと。
■原宿本部の【生長の家…雅春先生が建立まして長崎に行かれるまでの拠点地】になりますが??
そこから、何らかの個人個人の考え方により、去られまして…『複数の分派…設立』となりました。…が?
■【創立者…谷口雅春先生】の、生長の家…信者に託されました【使命感??】と申しますか、
【生長の家…門をくぐる】事が、つまり“聖使命会員”とか?“活動・・・”とか?それも必要でしょうが、
根本は【生長の家…信者】とは、本来、この人生に於きまして【魂の向上…つまり!!成長】と言う
事になりますのでしょうか??
【魂 の 日 々 の 向 上!】かと。そうしますと、各々の“心”には、当然ながら、
【人 間 は 真 神 の 子】と言う認識が、自然に潜在意識に入り、そうしますと“行動”も、
それなりの“行動”になりますかと。そうしますと…『お家騒動は???』如何なものでしょうか??
❤…最終的には【 実 相 】この姿が、現われますでしょうかと……。
この『魂 の 向 上 の 旅』へ……私は、今を活かし、日々邁進すべきと、新たなる自覚となりました。
再合掌
1943
:
NANCY
:2013/01/18(金) 06:44:34 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
>>1924
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================
善人ということは正しいばかり善人ではない。善悪の標準は生長の家の出現によって変化し
たのである。正しくても暗い人は善人ではない、その人は自分を殺し、他を殺すからである。
正しくとも捉われる人は善人ではない、その人は自分を窮屈にし、他と争い、自分を殺し、
他を殺すからである。正しくとも力の弱い人は善人ではない、彼は自分を殺し、他を助ける
ことができず、同時に他を見殺しにせねばならぬからである。
どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。真っ直などということだけ
が善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。人時所三相応せるものが善である。生か
すことが真理である。まっすぐばかりが善だと思っているために腹が立てたり、胸が塞がっ
て死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。 (谷口雅春著)
===========================================
PS:「トキ様」
ここで”投稿… “させて頂いておりますと、いつの間にか?という表現が適しますかはさておき、
何が正しいとか?…ゆずりあい?…理解しましょう?の様な柔軟姿勢のものがいつしか無く、
まるで『勝ち組・負け組・対抗論』のように、目に移る時もありますかと。今回も!また…
『新しい板…スレッド』を作成されます…云々…???
そして、「内容…」は、懸案中の規約??と申しますか??
【教えのすばらしさを讃歌・謳歌するオンリ−場所とか??】私は、何か変な〜〜〜ァ感じです。
【この……“ 教え ”の解釈論は、どのように受け止めたら宜しいのでしょうか??】…が?
いつもクレッション・マ−クに思います。私どもの表現から申しますと【生長の家…分派】の
方々の“提案”らしいのですが?きっと、これも【分派…の皆様方】でのメイン・ボ−ドになります
でしょうかと。そして『舞台設定…に多々作る』ような場合もありますかと?その感じでしょうか?
つづく
1944
:
SAKURA
:2013/01/18(金) 06:55:25 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
上記の■
>>1943
の“投稿…”は ―――> 【正しくは…【SAKURA…】の投稿です。
↓ ↓ ↓
投稿者の名前…【NANCY】 × 間違いです。申し訳ござしません。
1945
:
SAKURA
:2013/01/18(金) 06:56:32 ID:5Z7kf.HM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
>>1924
>>1934
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その②
>>1934
その①の投稿の続き…。
■果たして【和解…】この事は、何処までのお考えなのでしょうか??既に【原宿教団…】から、
個人的理由?その退職に於けます理由は多々でしょうが?自分が“一番正しい”と言った考え方
が、潜在意識の根底にありますでしょうから、これも【認めない心…】ですかと。ですから、
今の状態では、良〜〜〜〜〜く!考えましても【無理な関係…】にも反面見えます。…が?
私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います。やはり…
活かす事は、生活面でも活かす事でしょうか???今から“世の中”がもっと混沌とした状態に、
なりそうな感じで ><モット!【 思考豊かな表現 】ができる状態の私に【こころ…豊か】に
今の私は、【全てを活かす事…感謝…】が課題なのでしょうかと。?
「トキ様」…本当にいろんな方がいますから、またいろんな思考もありますでしょうかと。やはり
これは、どうしても【自分での尺度で物事を、測っている面】が多々でしょうと。その様に思い
ます。…?唯!この点が、難しいです〜〜〜ョネ!!このような時は、やはり【神想観…】に
なるようです。【 正 し い 理 念 】…神様からの“メッセ−ジ”かと。
❤〜【 人・時・所・三相応せるものが善である 】そうです〜〜ョネ“
混沌とした、現代社会では、ますますと時代状況によって【方便…】を用いての“説き方”には
変化があって当然ですかと。それでも【正しい理念】が必要でしょう。それには【神からの啓示】!
■【神と常に一体…真の神の子ですから…】全ては【祈りに…始まり…祈りに…終わる】という事
でしょうか??
再合掌
1946
:
志恩
:2013/01/18(金) 07:03:52 ID:.QY5jUA6
SAKURA様
>>私は私の考え、思考ですが【人それぞれが、同じ“思考”を持つ事は、昔の“軍体調〜♫”の様にも
見え隠れします。…本来は、捉え方の問題ですから、個性があるモノと思います<<
昔の軍隊を、小バカにした言い草ですね。
昔の軍隊が、あったればこそ、今のわれわれの安泰があるのと 違いますか?
1947
:
NANCY
:2013/01/18(金) 07:16:04 ID:5Z7kf.HM
管理人「トキ様」へ
おはようございます……。 ロ−マ字(大文字)【NANCY】です。
■此処に、無関係な“質問…投稿”と、思いますが??投稿させて頂きます。
■■>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
上記に関連するテ−マなら、広く受け付けます…云々…< (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
上記の規約が冒頭に記載されています。それが■【 聖 典 引 用 板】のポリシ−かと。
しかし、此処最近は【 お互いに讃嘆する?・自画自賛? 会議場所…他…】になっていますかと??
昨日も…この事は“投稿…”致しましたが??
本来の【 聖 典 板 …】にして頂きたいのですが??
■■これが【生長の家…分派】の方々の【規約に反する事…】をしても“素晴らしいとする行動”
と、世間一般で、通用しますのでしょうか?? 疑問ですが〜〜〜?
本当に!何度も〜何度も〜このボードの“規約を破る事”が〜【分派の皆様方の方針】なのでしょうか?
【雅春先生の御教え…の魂の向上】を、考えますと…
■新し〜〜〜イ!信者の方が、すべての【生長の家…○○会】へ、この様な行動では、果たして?
入信して来られますでしょうか?
再合掌
PS:
此処は【聖典ボード…】ですので…【投稿者…様】に対する意見・質問は【 他 の 部 室 板 】でと?
「管理人…トキ様」が、以前!確か?おっしゃいっていましたが……??
1950
:
goro
:2013/01/18(金) 11:10:58 ID:nCo1DokU
蟋蟀殿
>このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連して、雅春先生や
御高弟、他の真理の言葉のみを掲載していくという板です。
アナタも確認されているように「他の真理の言葉」を紹介しています。
昭和天皇が御即位されてまもなくの頃、お側に仕えておられた木下元侍従次長の回想録です。
在りし日の昭和天皇の面影を偲び、謹んで転載させて頂いています。
国民のことを「オオミタカラ」とお思いくださり、国民を限りなく慈しんでくださる
天皇陛下をお慕いするヨスガにしていただければ幸いです。
志恩様いつもいつもフォローしてくださり、心から感謝しています。
ありがとう御座います。
1951
:
goro
:2013/01/18(金) 11:14:45 ID:nCo1DokU
>>1937
の続き
私は早速、陛下に式の次第を御説明して御内意を伺ったところ、十二月十五日という式の日取りについて、暫く考えておいでになったが、夜の祭りにさえ差支えが起こらぬならば、他はすべて、それでよろしいとの御意見であった。夜の祭りとは例年十二月十五日の夜には、賢所御神楽の儀という祭事が執行されるので、陛下のお寝みになるのは、どうしても、夜半の十二時を過ぎる日なのである。
御同意と同時に、陛下は二つのことを私に御指示になった。一つは、もし雨が降ったならば、青年たちには遠慮なく雨具を着用させること、もう一つは、ご自身のお立ちになる場所には、たとえ、いかように大雨が降っても、天幕は張ってはならぬということであった。これは明らかに、もし雨が降るならば、青年たちだけを雨の中に立たせてはおかない。御自身も共に、というご覚悟であろう。
陛下の御同意を得たので、分列式の準備は東京府庁の手で着々と進められた。私は宮内省側の主務官を命ぜられ、東京府と連絡して式の準備に取り掛かった。計画の一番の難点は十二月十四日の夜半から十五日の朝にかけて、千葉、埼玉、山梨、神奈川の各県から続々と臨時列車で入京する三万余の集団を、いかように手順よく二重橋前の広場付近に集結させ、定刻に分列式及び奉唱式に参加させるかということであったが、これは予め府から陸軍省に交渉し、今村(均)中佐以下数名の将校の努力によって立派に計画実施された。また式のとき、陛下のお立ちになるところとしては、二重橋前の傾斜地の中央に、四尺ばかりの高さの一坪の台を設けることにしたが、
私は陛下の御指示どおり、係りの者に、いかように雨が降っても、天幕を張ってはならぬ旨、予めよく申し渡しておいた。
いよいよ十二月十四日、準備万端でき上がったが、ただ気にかかるのは天気予報だ。明日晴天なりとは一言も言ってくれない。夕刻に私は式場を一巡したが、玉座には私の指示どおり天幕は張ってなく、ただ白布で木部が巻いてあるだけであった。私は我が家に帰って、お天気の心配をしながら床についたが、十五日の夜明けに豪雨の音で目が覚めた。豪雨も豪雨、近年稀な大雨で、しかも西北の強風にあおられて、雨戸も開けられぬような嵐、庭の木も枝も折れんばかりに、ゆさぶられている。驚いた私は、すぐさま宮内省に急いだ。
1952
:
さくら
:2013/01/19(土) 07:13:39 ID:e8ieIrPA
平成25年、今年は第62回神宮式年遷宮です。
式年遷宮広報本部公式ウェブサイト
http://www.sengu.info/about.html
「神宮の祭りの本義は、天皇が御親ら皇祖天照大神(こうそあまてらすおおみかみ)をおまつりされるところにあります。それは、神勅にもとづき第10代崇神(すじん)天皇の御代までは皇居内で、また皇居を離れられた約2000年前からは伊勢の地で、どの時代も皇室の弥栄、国家の安泰、国民の平安、五穀の豊穣を祈るお祭りが変ることなくおこなわれてきました。そのことは、かつては斎内親王(いつきのひめみこ)が天皇に代わって神宮にお仕えになり、現在では、祭主(さいしゅ)が天皇の御手代(みてしろ)としてお仕えになっておられることからも理解できることでしょう。このように神宮のまつりは常に歴代天皇のみ心を体して続けられているのです。
神宮には年間に千数百ものお祭りがあります。これらの祭りは、恒例祭(こうれいさい)と臨時祭(りんじさい)と遷宮祭(せんぐうさい)とに分けることができます。
恒例祭とは、毎年定められた月日に行われるお祭りです。その内、神嘗祭(かんなめさい)と6月・12月の月次祭(つきなみさい)は古来、三節祭(さんせつさい)といわれ、とりわけ重要なお祭りです。これに祈年祭(きねんさい)と新嘗祭(にいなめさい)を加えて、五大祭(ごだいさい)と呼ばれます。祈年祭、月次祭(つきなみさい)、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭には、天皇陛下より幣帛(へいはく)が奉られ、月次祭を除くお祭りには天皇が勅使(ちょくし)を差し遣わされます。
神嘗祭は、一年で最も大きなお祭りです。祭器具等を新しくし、その年の新穀をまず天照大神にささげ豊穣を感謝するとともに更なるご神徳をいただくというところにこのお祭りの意義があります。
豊受大神宮(外宮)では毎日、天照大神をはじめ神々に朝夕食事をさし上げるお祭り(日別朝夕大御饌祭・ひごとあさゆうおおみけさい)が鎮座以来欠かすことなく続けられています。
臨時祭とは、皇室・国家に重大事があったとき、臨時に行われるお祭りです。
遷宮祭とは、20年に一度お宮を立て替え御装束・御神宝をも新調して、大御神に新宮へお遷りいただくお祭りです。式年遷宮は神宮最大の重儀で大神嘗祭(おおかんなめさい)ともいわれ、社殿や御神宝類をはじめ一切を新しくして、神嘗祭を完全なかたちでとり行うところに本来の趣旨があります。」
1953
:
さくら
:2013/01/19(土) 07:14:13 ID:e8ieIrPA
「 遷宮はなぜ二十年
神宮の神殿は東と西に同じ広さの宮地があり、
二十年ごとに同じ形の殿舎をつくる。
そのことによりもっとも古い建築が苔むす姿でなくて、いつも新しいままでどの時代にも存在してきた。
これは自然の生物が、個体の命を維持するために生まれ変わるのと同じ発想である。
このあたりまえのような文化の伝承の方法が、世界のどの国にもみられないのだ。
いま、文化に関心をもつ世界の人々が「伊勢」に注目してくれるのは、この発想とその約束を守りつづけてきた日本の伝統と心にある。
遷宮といえばお宮を移すだけと思われるかもしれないが、そこには稲作を根本とする古代の深遠な思想と信仰がある。
それは伊勢の神宮が新しくなることで、日本の国も生まれ変わり、国の魂が新しく強く若返り、日本の精神がみずみずしさを取り戻し、日本のあるべき姿と民族の自覚を高め、信念と誇りを新たにして、永遠の発展を祈ろうという信仰である。
式年遷宮のめざすところは「常若(とこわか)」という神道の理想であると私は思う。
この言葉は平安時代の遷宮の記録にすでにみられるが、太陽の信仰に基づいていると思う。天照大神に象徴される太陽が、毎朝、東の空に新しく生まれ変わって昇り、お正月にはさらに新鮮な初日の出としてよみがえるのである。
日本の国は常に二十歳のころのように若々しく元気で、「弥栄」をめざしたいという信仰である。
それにはなるべくいつもフレッシュな状態を保つべきであり、その理想をめざして古代は社殿も一年に一度新しくしていたのではなかろうか。
詳しくは拙著『伊勢神宮 知られざる社のうち』に書いたが、毎年遷宮するなんて、そんなことはできないだろうと思われるだろう。
だが榊のヒモロギに御神体の御鏡をかけてお祭りをしたような太古は、神嘗祭に新しい祠をつくり、そこに新米をお供えしたのであろう。
その名残は、いまも「神嘗祭は神官のお正月」といい、できる限りの祭具や調度品もこの大祭の前に新調していることにもみられる。
だが、千三百年前に大きな立派な神殿に発達すると、毎年は遷宮できないから、何年ごとにしようかと天武天皇も考えられたのだろう。
1954
:
さくら
:2013/01/19(土) 07:14:46 ID:e8ieIrPA
(つづき)
しかし、なぜ二十年にしたのかは、どこにも記されていない。
すべて後世の人が理由づけしたのだ。
まず木造建築と萱の屋根の耐久年限である。
確かに素木の御殿は、二十年たてば部分的に傷みができ、清々しい美しさは失われ、尊厳な姿を保つには限度がある。
だが建物の朽損だけが理由でない、二十年は時代の大きな区切りである。
人生も二十、四十、六十の還暦と世代の区切りであり、現代でこそ平均寿命が八十歳にもなったが、ついこのあいだまで「人生わずか五十年」であった。
それが千三百年も昔のことだから、その平均寿命はずっと低かったはずである。
つまり技術や信仰を次世代に伝承するにも、精いっぱいの年限だったと思う。
また二十年に一度、正確には十九年七か月だそうだが、正月と立春が重なるという大陸渡来の暦学の知識からという説や、古代天皇の宮殿が御一代ごとに遷都されたこと、また米の力というか貯蓄しておける年限が二十年であるという新説もある。
しかしいずれにしてもそれはまことにふさわしい年限であった。
耐久面からみても二十年を過ぎると傷みは急速に早まり、遷宮後の古材を再利用するにもできなくなる。
わかりやすい例は、五十鈴川にかかる宇治橋の大鳥居は、内側が内宮の、外側は外宮の御正殿の棟持柱を再利用して、さらには参宮街道の鈴鹿峠のふもと、関の追分や、桑名の七里の渡しの鳥居となって合計六十年のつとめを果たし、さらにまた氏神のなにかに利用されたりして、ほとんどの古材は神宮と緑の深い神社に払い下げられて再利用される。
このように式年遷宮の制度はまことに理にかなっており、これを千三百年も守りつづけてきたことに頭が下がる。
松の木はいつも緑をたたえ、不易のシンボルとされるが、緑を維持するために松は密かに古い葉を落とし、私たちの身体も常に細胞を新陳代謝することで、みずみずしさを保っているのと同じシステムを取りいれたのである。」
『伊勢神宮の衣食住』矢野 憲一 著
1955
:
NANCY
:2013/01/19(土) 16:41:44 ID:dGeUHjWM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【NANCY】です。
>>1635
>>1639
>>1643
>>1766
>>1778
>>1829
>>1877
>>1880
>>1890
>>1918
>>1931
>>1942
>>
の投稿の続きです
===【 谷口 雅春 先生 著 】=============================
■ 希 望 を 実 現 す る 三 つ の 肥 料 普及誌に掲載
希望を実現するためには、“希望の樹”に肥料をあたえなければならないのである。そ
の肥料には三種類ある。霊的肥料と、精神的肥料と、物質的肥料とである。すべて与え
た程度に報いかえされるのが法則である。 肥料を“希望の樹”に与えないでいて、その
“希望の樹”が大なる成功の実を結ぶと考えてはならないのである。
霊的肥料を与えるには神想観をして、 実相無限の供給を感じて、観の中で、その仕事
を“無限供給の霊”の中に包んでしまうがよい。すると実相 “無限の供給の世界” から
その事業が育てられ、その事業を育てるに必要な人材や資料や要素が自然に集って来る
ことになるのである。次に精神的肥料は愛と智慧とをその仕事及びその仕事の協力者及
び従業員に注ぐことである。 愛がその仕事に注がれず、また仕事をしてくれる人に愛を
注がないでいたら、その事業を育成するために必要な主要な精神的肥料が与えられない
ことになるのである。
希望を叶える365章 より
=============================================
■【人生という舞台…】必ずや「夢…希望」を抱きながら、それを「実現…」させると云う事で
それに必要な多々なる“事物…”に、トライ!でしょうかと。常に【ポジティブ感!!】かと。
本日の「雅春先生の言葉」に【希望の樹…実現】の為の三大肥料…つまりは、
【霊的肥料と、神的肥料と、物質的肥料…】との“言葉…”を、頂きました。最も重要とします
【霊的肥料…】この為には【神想観…】によります処の“イメ−ジトレ−ニング”を、
日々の“行”として行い、“無限供給の霊”から必要とする物・事…集まって来るのですネ!
それは、確かに「納得…」です。以前の事ですが……
「店舗…を持ちたい〜〜〜ワ!」と、おもいました時に、【紙にその青写真】を、
事細かに記載しまして…当時『神想観…』を、揺るぎない気持ちにて、毎日!毎日!【お祈り…】
に、徹しますと…それなりの【店舗…】が見つかり、その時“資金…”が〜〜〜><手元には、
ほとんどなく、それでも【神想観…】つまり【お祈り…】に徹しますと…それなりの物事が、
確かに“スム−ズ”に、不思議なのですが…集まってきます〜〜〜ョネ!
■当に…“必要”に応じ〜〜〜“事”に応じ〜〜〜かと。
此処最近は【魂の向上…】が、停滞気味でしたかと。もう一度…【夢…】にむかって…そう!
『希望の樹…実現』に向かい、まず!【霊 的 肥 料 …神 想 観】にて“無限の供給の世界”
からの【扉…を開く】を、強く!強く!信じましてトライ!トライ!
この事を【実現させるために…行動】かと。
只今【私 の 今 回 の 希 望 の 樹 … 青 写 真 作 成 中…】進行形ですが?
再合掌
1956
:
SAKURA
:2013/01/19(土) 17:43:40 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
>>1934
>>1935
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その① ―
======【生命の実相 37巻】からの抜粋 =====================
たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。そうでなければ極
端に反抗的に乱暴である。
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、その
人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものであるとい
うことを幼い時から子供に知らすことが肝要である。
子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、腹立ち声を出すことはなん
の益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。その性質は生長後も時として「生
涯つきまとい。その人の運命の重荷となることがあるものである。親が子を害していると
知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して本能的に恐怖
の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。もし子供をよ
くしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、普通の話以上の高声
を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。もし相手に訓示を
与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、それは反抗となってせっかく話したこと
が反対の結果になることがある。
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。高音を出して恐れ
させれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。
貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、物を教えるときに使う荒立
った高声である。 (谷口雅春著)
========================================
PS:「トキ様」 ヘ
私も「亡き 父」からよく叱られた方でしょうかと。??確かに“叱る事”はその子の為にとの、
“想い…”からとは理解していますでしょうが?意外と、叱られている間は、その相手の感情
からの“恐怖心”が先走り、何も覚えていないし?聞いていない?のではと、思います。…が?
つづく
1957
:
SAKURA
:2013/01/19(土) 17:46:02 ID:dGeUHjWM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
>>1934
>>1935
>>1956
投稿の続きです…。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 ― その② ―
>>1956
その①の投稿の続きです…。
■今回の【大阪での高校生の自殺】も、そうでなのしょうかと。
【運動クラブ…】に、そのような“先生…”がいるようです。私の高校時代の頃です。
友人が「テニス・クラブ」に入って“部活活動…”をしていました。或る時の事です。
「テニス・クラブの早朝訓練…」があり、友人は事もあろうに“寝坊”して“遅刻”したのです。
その時、笑い事ではありませんが「テニス・クラブ」の何人かも“遅刻”をしてしまい、その
「テニス・クラブ担当の先生」は、そうなのです!!【テニスのラケット】で“顔…”を叩いて
いったのです。朝の授業時間が、いつものように始まりまして、その友人は、いつもより遅く教室
に入ってきました。その時の“顔…”は、当然の事ですが、はれていますから“ビックリ…”
■授業の担当の先生が、“赤くはれている顔…”を、見るやいなや“ビックリ…”それで、先生は
彼女のそばに来て“声…”をかけて理由を聞きますと、瞬間!泣きだしながら「テニス・クラブでの
たたかれた話」を担任に話をしますと…クラスの全員が、彼女の話の内容が、余りにも“スゴイ〜”
クラス全員が、みんな〜〜〜頭に来て、その授業時間は、とう〜〜とう〜〜担当の先生は、切り替え
まして【道徳の問題…】についての授業になりました。私は?チョッピリですが【どうして〜〜〜?
数学の授業が道徳の授業になるの〜〜〜】と、あの頃は、考え方が自己中心的?でしょうか……
それでも、担任の先生の“お話…”を聞きながら【叱ると言う行動・虐待!】を、考えこんでしま
いました。当時のこの担任の先生は〜〜〜
やはり【虐待・荒い罵倒をした口調の声】は、何の効果もないし、逆に、精神の問題にまで発展する
事になりうると…かなりの立腹にて、とう〜〜とう〜〜これがきっかけで【問題…】は大きくなって
いったのです。この「テニス・クラブの先生」は、過去に“栄光”のある先生で、この先生のお陰で
私の学校は【テニスが強い…】と云うイメージが定着しまして、当然ながら、結構ですが〜〜〜
【大会優勝…】も結構あった様ですかと。…が?正直、この【大会優勝…】などの名声!!これは
生徒にとって何の“益…”があるのでしょうかと??個人的な考えですが、結局!大人の【テニス
クラブの先生の勲章】だけしか、残らないと思った次第なのです。この様に、その人の為に【叱って
いる事】は、自分の“欲得?つまり”名声?“を、優先にしているのではと、あの時思ったものです。
■私は“独身…”です。…が?「里親」になるとしたら、やはり!子供の為になる【教育…】は、
まず【言葉=言霊】から、始まるのでしょうかと。??此処で〜〜〜
【叱 る と 優 し く 教 え る 事 】とは違うのです〜〜〜ョネ!!私の場合は、母が
“頭の回転が早い”ので「亡き父」にしますと、いつも「亡き母」の方が、有利に見えて、「亡き父」
にしますと私を見ますと、一番母に似ていますのでしょうか?【八つ当たり??】だったのでしょう
かと。今にしてみれば、当時の父の気持ちが、理解できる様になりましたでしょうか?本当に、当時
の私は【叱られるという事…】がわからずに、いつも“一人で腹立ち”を、父に対し抱いていました。
…が?今にしてみますと、本当に【真理の把握…】をするだけで、物事が解決するのです〜〜ョネ?
■「トキ様」も属言います【スパルタ教育…】は、どう思われますでしょうか??そして、
“腹が立つ事”がありましたら、その感情を、どのように対処されていますでしょか??
同じように、やはり【神にお任せして神想観…】でしょうか??やはり【お祈りが一番…】かと。
再合掌
1958
:
goro
:2013/01/19(土) 19:56:45 ID:nCo1DokU
>>1951
の続き
二重橋の前に行ってみると、なんと玉座には金色燦たる菊花御紋章のかがやいた天幕が一張張ってあり、且つは正面を除く三方も色幕で雨水が入らぬように囲ってあるではないか。何たることをしてくれたかと、腹も立ったが、さすがにこの大雨では係りの者も張らずにはおけなかったのだろう、と思い直して、別に小言もいわず、そのまま侍従職に急いだ。
雨はいよいよ降りしきるばかりで、一向やむ様子もない。十時頃私は一人で、楠公銅像付近を見廻ってみた。ここは女史の団体、七千名の集合地点に当てられていたので、心配のあまり、見に行った訳だった。見ると雨宿りする蔭もないので、新聞紙或いはふろしきを頭にのせて、立ちながら早昼をたべている。傘を持っているものもいるし、持っていないものもいる。持っていない者は多分きのう家を出て汽車で来た人たちであろう。
侍従職に帰って、陛下に、女子の部隊はいま、かくかくの有様で、陛下のおいでをお待ちしております、ということも申上げたが、十一時半頃になって、あまり雨が降るので心配のあまり、一木宮内大臣と関屋宮内次官とが珍田侍従長の室に来られ、私を呼ばれたので、行ってみると、大臣は私に、この大雨でも分列式をやるのか、と尋ねられる。予定通りやります、と私は答えた。大臣は更に「玉座に天幕は張ってあるだろうね」と念をおされたので、私は今朝不本意ながら天幕の張ってあるのを見てきているので、張ってあります、と答えると、大臣は重ねて、「陛下は天幕の中におはいりになるであろうか」と心配そうに尋ねられる。そこで私は、「たぶん、おはいりにならないと思います」とほんとうのことを答えた。すると大臣は、「それは、よろしくない。きょうは、こんな荒天であるから、ぜひ天幕の中におはいりになるように、これからお願いしてくる。がしかし、防水マントのご用意はしてあるか」とまた問われるので、「それは準備してあります」と私は答えた。
御座所で、陛下との大臣の間に、今日は非常な荒天でございますから、どうか天幕の中で御親閲を願いとう存じます、と申し上げられたが、陛下は常になく、大臣の言葉をお聞き入れにならない。そこで大臣は例を軍隊にとって、一軍の司令官というものは、たとえ部下の兵たちが敵の弾雨の下に立つからといって、司令官自身第一線に立つものではございません。司令官には全軍を指揮する大切な任務がありますので、遙か後方で指揮をとります。陛下は長い間大礼の諸行事でお疲れの際でありますから、きょう青年たちが雨に打たれるからといって、ご自身も雨の中に立たれることは間違っております。
1959
:
goro
:2013/01/19(土) 19:59:36 ID:nCo1DokU
>>1958
の続き
ぜひ天幕の中に、と重ねて進言されたのであるが、陛下は仲々お聞き入れにならず、司令官でも、時と場合によっては、第一線に立つことがある。今日はその積りであるから、天幕はとり除くように、とのお言葉に、さすがの大臣もお返しする言葉がなく、然らば防水マントはお着用になるように、とお願いし、それは着ようとのお言葉を得て、侍従長室へ帰ってこられ、私に玉座の天幕をとりはずすように、と指示された。
午後一時頃、私は天幕をとりはずすため、係りの者をつれて現場に来た。当日、分列式陪観のために招待を受けた向きは、外国大公使を始め、内閣総理大臣以下各大臣、陸海軍元帥以下将星、貴衆両院議長議員その他沢山の人達であったが、もはやその六分通り陪観席を埋めて、雨傘や、カーキ或は黒のマントが入り混じっている。
この人々の面前で、私たちが玉座の天幕を撤去しはじめたのを見て、みな驚いたらしく、式が中止になるのではないか、場所が変更になるのではないか、など心配して、数々の人々が、わざわざ陪観席から私の立っているところまで来て、何故にこの大雨の中で、玉座の天幕をはずすのか、という質問だ。私は、その方々には、一々、陛下の思召によって撤去しているのです。と答えておったら、そのうちに今村中佐の部下の若い将校が陸軍の本部から走ってきて、私に同じ質問をするから私も同じ答えをした。その若い将校は、朝からの活動で、ずぶぬれの有様だったが、非常な感激の様子で、ああ、そうでしたか、と陸軍の本部に馳せ帰ったが、直ちに伝騎数組を派遣して、この時刻に、すでに皇居の周辺に集結している約八万の青年たちに、陛下の思召により玉座の天幕撤去の旨を伝達せしめた。この伝令の声が、青年たちの胸に、いかように響いたかは、いうまでもない。
当日、朝早くから、武装した約四万の青年の集団は、皇居の大手門外から九段下にかけて、あのコンクリートの道路上に立ったまま、大雨に打たれ、寒風にさらされ、式の開始を長い間、待っていたのだ。体は濡れにぬれて冷えきっている。眠気は出る。腹はへる。恐らく不平だらだらののものも沢山いたであろう。そこに今の伝令の声、思召により天幕の撤去、裏を返せば、君たちがぬれるなら、私も濡れようという陛下のお声だ。
感激の嵐、急に熱い火の玉が、からだの中を走り廻り始めたのであろう。皆いちどきに、雨の中で外套を脱いでしまった。脱ぐには脱いだが、これを巻いてまた背嚢につける場所の余裕が無い。分列行進のときに、紅張した顔で、外套を左わきに抱え、右肩に銃を担った異様な姿で、大地もくだけよとばかり、靴音高く、ザック、ザックと感激に満ちた眼光で、陛下を見上げながら、玉座の前を通過していた青年集団の張り切った姿を、私は今でも忘れない。
1960
:
goro
:2013/01/20(日) 16:21:34 ID:nCo1DokU
>>1959
の続き
雨は幸い小降りとなったが、身を切るような寒い北西風は相変わらず吹きまくっている。私は二時少し前、陛下の防水マントを持った野口(明)侍従と二人で、玉座のところに先着して、陛下の御到着をお待ちした。正二時、陛下は二重橋正門から自動車で式場に御到着御下車、野口侍従は直ちに陛下のお後からマントをお掛けした。陛下はお手ずからマントのホックをかけながら、二、三歩砂地を踏んで、四段ばかりの階段を玉座にお上りになったが、台上にお立ちになるや否や、どういう訳か、またマントを後ろにお脱ぎ捨てになってしまった。階段の下には、ちょうど奈良(武次)侍従武官長がおられたので、落ちてきたマントをお受けはしたが、ここで重ねて武官長台に登って陛下にマントをお勧めするという訳にはいかなかった。というのは、壇上にお立ちになると同時に、君が代の軍楽、全員捧げ銃、式場は一瞬にして厳粛なる空気に包まれてしまったのである。
それから一時間と二十分、私たちは玉座の後方にいたが、寒さが身にしみて胴ぶるいが止まらない。足をやたらに踏んで、かろうじて堪えていたが、陛下は高い台の上に御起立、さぞ、お寒かったろうに御前を通過する各集団の敬礼に、挙手の礼を賜る外は微動だになさらない。
陛下が皇居にお帰りになってから後で、夕刻、私は陛下に、なぜ、あのときマントをおぬぎすて遊ばされたか、お尋ねしたところ「皆が着ておらぬから」との御言葉であった。もし、雨天ならば、参加者一同には雨具を着用させ、御自身もマントをお召しになるおつもりであったのに、玉座の階段をお上がりになる瞬間、一同が雨具を脱いでいることが、お目にとまり、それならば自分も、と台の上からマントをお脱ぎ捨てになったのであろう。玉座の天幕が撤去されたときけば、青年たちは雨具を脱いでしまう。青年たちが雨具をつけていない姿をごらんになれば、こんどは陛下がマントを捨てておしまいになる。これは皆、寒い雨風の中で、次から次へと起こった出来事であった。何という心あたたかい上下の感応であろう。私が、陛下の、国民と共に同艱共苦の御覚悟を如実に見せていただいたような気がしたのは、この時である。
1961
:
goro
:2013/01/20(日) 16:23:45 ID:nCo1DokU
>>1960
鹿児島湾上の聖なる夜景
今は故人となられたが、大審院(今の最高裁判所)判事の三宅正太郎くんが書かれた本に「嘘のゆくえというのがある。この本のうちに「宮城前」という、まことに面白い、日本人と独逸人との「ものの考え方」のちがいを書いた一文がある。これを、かいつまんでいうと、三宅君が昔、独逸に留学中に知りあった一人の老判事が、東洋旅行の途中、日本に立ち寄って三宅君を訪問したことがあった。一日、三宅君は彼を案内して、東京見物にでかけ、まず二重橋前に行ったところ、時は恰も日支事変勃発直後のことであり、多くの在郷軍人が動員令を受けて、自分の所属する連隊に馳せ参ずるに先だち、二重橋前に来て、陰ながら、陛下に、只今から、戦いに行って参ります、とお別れを申し上げている光景が、そこに展開されていた。
応召の目印のたすきを肩にかけた若者たちは、或は親兄弟と共に、ある群れは旗を立て、またある群れは賑やかな楽隊を伴い、いく群れとなく広場は織るが如くに雑踏している。三宅君たち二人は、この、またとない珍しい光景を眺めていると、そのとき、東京駅の方から、田舎の人らしい親子三人連れが、こちらに近づいてくるのが目に止まった。年老いた父親と応召の息子とその妹らしい三人だが、たった今、東京駅について、また、どこかに旅立っていくのであろう、手には旅の荷物を持っている。三人は遠慮がちに二重橋の奥の玉垣のところに近づく。どうするかと見ていると、彼らは、そこに荷物をおいて、いかにも敬虔な態度でお祈りをしている。
これを、先程から、じーっと見ていた独逸の老判事は、二重橋の上方にある伏見櫓(倉庫)を見上げながら、そっと声を呑んで、「皇帝陛下はいま、あのお城の窓から、こちらを見ておいでになるのか」と三宅君の耳にささやいた。察するところ、この人の考えでは、国民のこんな敬虔な態度は、皇帝陛下の見ておいでになる前でなければ、ありえないことだ、と思ったのであろう。この問を受けた瞬間、三宅君の脳裏にひらめいたのは、かの目をいからせ、腕を振って、群衆を前に、叱咤激励、獅子吼する彼の国の独裁者の姿であった。また、かくしなければ、国民の心を捉えることができない国柄と、我が日本の国柄との、いちじるしい違いを深く心に感じながら、三宅君は「否」とのみ答え、感極まって、しばしその場を立ち去りかねた、という物語である。
これを読んだとき、私は、ぜひ三宅君に見せて上げたい、と思うものがあったが、残念ながら、遂にその機会を得ずに終わった。それは他でもない、ただ一幅の絵である。私の眼底に鮮やかに残る、鹿児島湾上の聖なる夜景が、それである。
1962
:
goro
:2013/01/21(月) 22:13:19 ID:nCo1DokU
>>1961
昭和6年の秋、熊本地方で陸軍特別大演習があり、陛下は往路は汽車で熊本までおいでになったが、おかえりは、演習終了後、汽車で鹿児島へ、鹿児島からは軍艦榛名で横須賀へ向かわせられたことがあった。当時、私は行幸任務を主管する大臣官房総務課長として、お伴のうちに加わっていた。忘れもせぬ、時は十一月十九日、日没と同時に、榛名は供奉の駆逐艦四隻を随え、県市民の盛大なる奉送裡に、煙副桜島を後に、いま静かに鹿児島湾を南下しつつある。
艦上に立って見上げると、ゴツゴツした小山のような巨艦の檣頭には天皇旗がへんぽんとひるがえり、忙しく立ち働く水兵たちはみな喜色満面。自分たちの艦に、天皇旗を掲げるということは譬えようもない喜びなのである。御召艦と決定してからの、伝染病予防のための長い間の上陸禁止、艦内整頓、清掃のための日夜の猛作業、みなこれ今日の栄えある日を迎えるためだったのではないか、喜ばずにおられようか。
艦内に於ける陛下の御生活は、いつも極めて御愉快であり、ご自由である。陸上に於けるが如き警戒、警衛は一切ない。全艦みなこれ国家の干城、一人の狂者もおらぬからである。作業にいそしむ水兵たちの群がるなかを、お一人で割っておはいりになる、そのおたのしみ、肩と肩とのすれあい、若者たちの熱気のうちに、われ国民と共にありの御気分を満喫されるからであろう。
榛名で、陛下の御居室兼食堂に充てられたのは、後甲板の真下の司令長官室であった。お室の入り口のすぐ近くに長官専用の階段が上へ通じているから、いつでも、ご自由に、後甲板においでになることができる。この後甲板は陛下の最もお好きな場所で、雨が降っても心配がないように、上にはズックのおおいが一面に張ってある。夜は広い甲板の中央のところに、電灯がたった一つつくだけで、うす暗いところではあるが、夜でも、よくここにおでましになる。折りたたみの軽いズックの椅子が数脚、それから、陛下はタバコをおすいにならないが、他の者のために、火縄のついた大きな灰おとしの真鍮の壺が二、三あるだけで、装飾は何もない。ただ、遠望の御用のために、脚付きの望遠鏡が右舷にも左舷にもところ、どころに備え付けてあるのと、海図の机が一つ、この海図には担当の将校が鉛筆で、艦のコースを書き入れている。
これを見ると鹿児島湾の幅は約二十キロ、鹿児島市から湾口までの距離は約八十キロ、艦のコースはちょうど湾の中央線を、まっすぐに湾口さして南下し、それから、太平洋を黒潮の流れに乗って横須賀へ向かうことになっている。見渡せば、左舷、大隅半島の陸地も、右舷・薩摩半島の山々も、共に十余キロの彼方、夕闇のうちに、薄黒く見えるだけである。
1963
:
goro
:2013/01/22(火) 20:28:39 ID:nCo1DokU
>>1962
の続き
間もなく、六時の夕食の時刻となったので、われわれは艦内に降りて、士官の食堂で食事にとりかかった。航海中、陛下の御夕食には艦長以下上級将校が、代わるがわるお相伴に召されるのを例としていたが、このときは出港直後のことであり、艦長以下一同、業務多忙のため、陛下は御居室でお一人でお食事中であった。ちょうど六時半頃であったか、私は皆と食事中、フト昔の記憶が頭に浮かんできた。それは大正十四年の夏、まだ皇太子であらせられたときのことであるが、軍艦長門で樺太に御旅行になったことがある。
ある日、樺太の南端にある大泊の港から、西海岸にある本斗、真岡の方へ回航の途中、その夜、長門は海馬島という絶海の孤島の島かげに仮泊する予定になっていたので、夕食後、われわれは、殿下を中心に、後甲板で涼しい汐風に吹かれながら、黒ずんだ小さな海馬島の小高い丘が、だんだん近づいてくるのを、物珍しく眺めていた。当日は風波がかなりあったので、艦は丘の風下にあたる静かなところに泊めるために、速力を落とし、徐行して、ぐるっと島を廻っている、その時、突然、夜やみの波の間、艦のすぐ近くに、何やら、泣くような、叫ぶような大声がきこえてきた。
舷窓をもれる明かりに照らしだされたところを見ると、日の丸の旗を舳先に立てた一そうの小舟が、荒波にもまれながら、艦と並行して、六人の若者が一生懸命に櫓をこいでいる。左手に、しかと、とも櫓を握って指揮をしているのは、一見、六七十の老父のようであったが、紋付、羽織、袴に、右手に山高帽を高々と差し上げながら、なにか叫んでいる。風が強いため、その言葉はききとれなかったが、嬉し泣きに泣いていることだけは、よくわかる。
私は、一ヶ月前、下検分でこの島にも立ちよったので、島の事情は知っていた。昔から、この島には、百人あまりの日本の漁民がいて、ここを根拠地として漁業を営んでいるのである。きょうの夜、殿下の御召艦が、ここに仮泊することは、みな、知っていたので、恐らく島の人たちは総出で、船をだして、沖で殿下をお迎えする積りでいたのだろうが、日が暮れて、波荒れ狂う夜闇の海上で、そのうちの一艘が、やっと長門の艦影を発見し、少しでもお側に近づこうとして、えいえいと漕いでいたのである。
われわれは、後甲板の上から、帽子やハンカチを振って挨拶をかわしたが、艦がいくら徐行しているとはいえ、二つの船の速力には格段のちがいがあるので一瞬の間に別れてしまった。私は、もしほんとに、手がとどくなら、抱き合って、一緒に喜びたい、と思ったが、まことに残念なことであった。
1964
:
goro
:2013/01/23(水) 10:35:33 ID:nCo1DokU
>>1963
の続き
このことを、私は食事中に思い出し、ここも波の静かな鹿児島湾内のことであるから、いつ、どこから、船が来ないとも限らない。今は陛下もお食事中であろうし、我々も皆食堂にいる。後甲板には、いま、誰もおらぬだろう。もし船でも来たら、相すまぬことになる、と考え、皆より早く食事をおえ、大急ぎで後甲板に駆け上がった。艦内は非常によく照明されていて明るいが、後甲板の上は、まことに暗く、電灯の下ならともかく、少しはなれたら、人の顔も、よく見分けのつかぬ有様であった。
ところが、誰もおらぬとばかり思って飛びだした私の目にうつったのが、右舷の手すりのところに、西を向いて立っている、ひとりの人の後ろ姿であった。望遠鏡から手をはなし、挙手敬礼の後ろ姿。
ハテ、今ごろ、誰が、と思って、近づいてみると、こは、いかに、陛下ではないか。さては、奉迎船が下にきているな、と私はすぐ右舷に馳せよって下を見たが、船らしいものは見えない。ハテ、なにか望遠鏡でごらんになったのかな、と思って私も近くの望遠鏡に目をあててみたが、明るいところから、急に暗いところにくると、目が慣れていないので、なかなか見えない。ジーッとがまんして、のぞいていると、そのうちに、だんだんと目がなれてきて、薩摩半島の山々の輪郭が、ぼんやりながら見えてきた。
時刻から推測して、指宿の沖合あたりかな、と思った。そのうちに、こんどは、海の色と陸の色との区別が付くようになり、水陸の境目つまり海岸線一帯に、延々果てしなくつづく赤い紐のようなものが見える。ハテ、これは何だろうか、と考えていたら、次に見えてきたのは、この赤い紐の上、小高いところに、幾百メートルかの間隔をおいて点々ともえさかる篝火。これで私は万事を了解した。
当夜は月もなく、星も稀な、曇りがちの空模様で陸からは軍艦の姿は見えないが、時刻から考えて、今ごろは陛下のお船が沖を通過になるときだ。と語り合い、薩摩半島の村々に住む人々、老いも若きも、ちょうちんやたいまつを持って海岸に立ちならび、また若者たちは山々に登って篝火をたき、半島に住む村びと、こぞって陛下をお見送りしているのである。
陛下は、いま、望遠鏡で、これを発見遊ばされ、うす暗い甲板の上から、ただ、おひとりで沿岸一帯の奉送の灯火に対し、はるかに、御挨拶をなさっておいでになったのである。
1965
:
うのはな
:2013/01/23(水) 21:28:39 ID:Gsql6f66
国旗「日の丸」 阿久根 貢
形あるものは心の具象化
すべて形あるものは心の影である。換言すれば内部生命の動きはそれが具象化して
形にあらわれるということであります。それによって、何故日本皇室の御紋章が十六菊であるかと
言いますと、「菊」というものは「聴く」ということを象徴的にあらわしたのであります。
ヨハネ伝にありますように、全てのものはことばによって作られているのであります。
「治める」というのは「収める」と語源が同じで、自分の方へ取り込んでしまうものでありますが、
そのような収め方は日本天皇の治め方ではないのであります。
日本天皇の治められるのを「しろしめす」というのは、「知る」という語の敬語であります。
即ち十六方の民のコトバを聴いて、それを知り給うことが「しろしめす」ということであります。
蓮華蔵世界である実相のハチスの中心から現象界が開き出でて、いろいろの民族や国民が現われて来ている。
その民族や国民の声を聞き給うて、十六方向にある所の世界のすべての民の言葉をその心の思いを
悉く聞いてそれを知らしめして、その民の声をそのままに政治を行われるというのが、天皇が国を治めしめし給う
所の治め方であります。
だから日本天皇の政治のあり方を「しろしめす」というのであります。
『愛国心の教育』 生長の家教育者研修会
1966
:
SAKURA
:2013/01/23(水) 22:08:52 ID:ropSe4RI
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1653
>>1654
>>1661
>>1674
>>1675
>>1744
>>1753
>>1765
>>1779
>>1780
>>1783
>>1792
>>1792
>>1793
>>1796
>>1801
>>1804
>>1812
>>1813
>>1821
>>1822
>>1836
>>1837
>>1842
>>1843
>>1852
>>1875
>>1876
>>1879
>>1888
>>1889
>>1913
>>1914
>>1923
>>1924
>>1934
>>1935
>>1956
>>1957
投稿の続きです…。
ここは、まるで【四 無 量 心 の 心 の 世 界 観】
日常生活面を、それなりに考えていきますと、私なりの「雅春先生の哲学」が見えまして、更に“人
生観”が〜〜実に!感慨深いものになりますので、私なりに「生命哲学…勉強会」を〜♫〜では“続き
投稿”していきます。「雅春先生の例え…」として、投稿されていらっしゃいました記憶があります。
■■ 『生命の実相哲学シリ−ズ…SAKURA論』 その①
===【生命の実相…2巻 抜粋】==============================
■【五感的存在の否定】 その①
>>皆さん御承知のアイシュタイン博士でありますが、この科学界の大天才が「相対性原理」
という法則を発見した。この学説はなかなかむずかしいもので世界中で数人の天才しか本当
に理解しえないであろうと、アイシュタイン博士自身が言っているほどの学説・・・・
・・その学説の中心となるのは、われわれの五官で知ることの出来るものは、われわれの
知覚力との関係上、相対的にそう見えるにすぎないので、存在の本当の相(すがた)がわか
るのではないかということであります。
>>その一、二の例をここに解りやすく…云々…
>>たとえばある薬を服ませれば、その人には手に持った時計が床の上まで落ちるのに二十四
時間もかかって落ちるように感じられる。それかといってそう感じる人の方がまちがっている
という証拠がはない。
>>ふつうの人がはいろいろの食物や栄養をとって、それが吸収されて知覚機関に循環してい
る結果、手に持った床の上に落ちるまで瞬時しかかからないように感じられるのであります
>>・・・すべてこれは関係上の問題すなわち相対的の問題であって、本当にその時間がどれ
ほど長くかかっているものであるかは、五官では解らないのであります。(一部抜粋)
==============================================
■人によって【時間の観念…】は、本当に違うのです〜〜〜ョネ!
例えば、この時期ですと、ついつい“学生時代”を思い出します。受験の時間は、その内容に、
ある時は「難問の難しい問題〜〜><」が、出ますと、それを理解するまでは、時は、一瞬止まっ
たような感じでしょうか??そして、解答を出すのに“イライラ…焦り”かと。逆に、その問題
が、簡単に解決しますと、その時間は“時間もクリアする…”従いまして、残りの時間も“タップリ”
別の表現ですが、例えば、仕事として“販売の時…”は、売れています際、お客様との回転率が、
多く、本当に“時間の経過”も、“ア〜〜〜ッ!”という間に過ぎていきます。…が?逆に、
お客様との接客が少ない…つまり回転率が殆ど無い場合には、実に悲惨な状況ですかと。(微笑)
実に、ものすごく一日が?時間が?長〜〜〜く!感じられます。このような心理が、全ては……
【人間の心…】から、きているのではと思うのです。
狭量の“考え方”は、またそれも、ある面では【時間経過が無駄!】に過ぎていくのでは?
【時間は常に、刻々と平等に過ぎ去るモノ】では?しかしながら、【心の捉え方…】で、
一日に於けます「時間観念…」が変わり、過ぎ去り、終わっていくのです〜〜〜ョネ!!
つづく
1967
:
神の子さん
:2013/01/23(水) 23:59:28 ID:pic01rm6
無料ですよ。
1968
:
a hope
:2013/01/24(木) 08:38:55 ID:TqpbsVIM
新版 生活読本 谷口雅春先生著(日本教文社)
第十一章 心の花園に美しい花を咲かせましょう
◆本の良い処を考えて吸いとれ
ただ読みっぱなしでは、それの中にある知識は本を書いた人のものにすぎません。
それをよく心でかみくだいて自分のものとした時にのみ、それがはたらく智慧になるのであります。
むやみに、たくさん読んだからとて力にならないのは、むやみにたくさんたべたからとて、
人間の肉にならないのと同じであります。
考えながら、うなずきながら、心の中へ飲みこむようにしながら読むことが大切であります。
本に読まれてはならないのです。
本は読まねばなりません。
読む分量ばかり多くて、読んだことについて深く自分で考えてみない者は、
本に読まれたのであって、本を読んだのではないのであります。
「ことごとく書を信ずれば書なきにしかず」という諺(ことわざ)もあります。
書に読まれてしまっては、自分の力はつきません。
自分で本の善いところを吸いとるだけの力がなくてはなりません。
(つづく)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板