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日本男児と徴兵検査  M検・徴兵検査場の羞恥

1名無しさん:2019/07/28(日) 09:15:59 ID:DK9oyGfI
日本男児と生まれたからには貴賤上下の区別なく、その年末に満0歳になるものは
その年の夏ごろに徴兵検査をうけなければならなかった。
そこには婦人会や、うら若き処女会の女たちの見学も許された。
素っ裸にして行われる徴兵検査、そのなかでもハイライトはMとよぶ性器・肛門検査だった。
徴兵検査場で繰り広げられる羞恥の検査風景

2名無しさん:2019/07/28(日) 11:25:01 ID:DK9oyGfI
「兵隊になる最初の徴兵検査は単なる肉体検査というだけではなく、兵隊(兵隊は自分の意志で動いてはならない)となるための儀式でもあり、「しゃばっけ」を抜き、兵隊であることを肉体に叩き込む場でもあったという。
 毎日新聞社刊『写真昭和三十年史』には、大勢のそれこそ一糸まとわぬ壮丁(国民徴用)が一列に並ばされている後ろ姿の写真がある。並んだ裸の尻は壮観である。
「しゃばっけ」とは、羞恥心に代表される。二十歳といえば、まだ隠したい最中である。命令一下、さまざまなポーズをとらされる壮丁の羞恥は、M検において最高潮に達する。

3名無しさん:2019/07/28(日) 11:30:02 ID:DK9oyGfI
なにしろ親にも見せないところを何の容赦もなくむんずとつかまれて、数回しぼるようにしごかれたあげく、むきあげられるのだという。
 露出している者もさらに冠状溝までむきあげられるというから、包茎の者には大変なことだろう。ちなみに徴兵検査では六割がまだ包茎だったという。少年のように堅く包まれていて、日本男児のシンボルたるそれを羞恥に縮ませている者には、「活を入れる」と称し、意地悪な検査官なら、むかないかわりに、先端の敏感な部分を刺激して、「ホラ、ホラ、まだだめだ。まだ先が出てこんぞ!」とやる。意志に反して立つと「勘違いしていい気になるな!」と、なぐられる。
 そんな羞恥に、あとの者は「もうすぐ自分もあのようにされるのか」と思うと、気が気ではないという。
 なお、徴兵検査は婦人会が見学に来たそうで、羞恥にからだがほてるという。また地方によっては、最初から最後まで、身長も体重もすべてフリチンのブラブラで行なったということであり、『絵とき日本陸軍』(三恵書房)には、広い講堂の中で全裸で体重測定を受ける者や、次の順番を待つ者など、羞恥の検査場風景の絵も出ている。なお岩波文庫50『戦争と日本人』が復刻された。この中に徴兵検査の写真があり、全裸で並んだ壮丁の一人だけ前向きで、性器まで見えるということで、知る人ぞ知る伝説的な貴重な写真であるので、ぜひ見られたい。
 とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」、つまりお国のものであって、婦人会の前でも隠せないということになる。
 日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」
 


宮崎清隆著「青春監獄―初年兵日記」(東京ライフ社1955)
日華事変当時、軍都長岡における徴兵検査風景・・

澁谷知美著「立身出世と下半身」(洛北出版)では、M検について120ページにわたって、調査した内容を論考しています。また、薔薇族に掲載された笹岡作治の文章も引用されています。ご存じだと思いますが、コメントさせていただきました。

4名無しさん:2019/07/28(日) 11:35:09 ID:DK9oyGfI
>>3

とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」ではなく、「日本男児のシンボル」つまりお国のものであって、婦人会や未婚の処女会(おとめ会)の前でも隠せないということになる。
 日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」

5名無しさん:2019/08/22(木) 17:37:55 ID:DK9oyGfI
徴兵検査は出身地の和歌山県の小学校講堂で受けた。強制的に性器を人前に曝し、いじくられるという恥ずかしく、惨めで、切ない体験を今は懐かしく思い出すのである。
 徴兵検査会場には徴兵医官だけでなく、看護婦、軍人、市役所兵事掛の役人、さらには国防婦人会も手伝いに来ており大勢の人がいた。
 私が受けた和歌山の会場では越中褌着用であったが、地方によっては最初から最後まで、身長も体重もすべて全裸で行う場合もあったようで、東京の検査場で受けた同僚によると、集合するとすぐに全裸にされたそうである。褌も取り上げられた壮丁達は大勢の軍人や主婦たちまでもが見守る中で終日、全裸のまま検査を受けたと聞いた。

《ここで注意を要するのは こう云う〝男が全裸になる〟徴兵検査の場に、国防婦人会‥と云うような 年配の婦人会の連中が、お手伝いと称して 一日中‥検査場をウロウロしていたことである。当時‥壮丁の男が兵役に取られた銃後を 在郷軍人と婦人会で守ろう‥と云うのが大義名分であった。婦人会には 白い割烹着に名襷を斜めに掛けた国防婦人会と、草色の上っ張りに同じく名襷を掛けた愛国婦人会があり、おかみさん気質の国防婦人会と 奥様風の愛国婦人会が勢力争いをしていた。》

6名無しさん:2019/08/22(木) 17:44:02 ID:DK9oyGfI
私が受けた徴兵検査である。その日、小学校は休日だった。受付をすませ廊下で越中褌一枚の裸体となり徴兵検査場である講堂へ入る。正面の壇上には50代くらいのカイゼル髭の立派な徴兵検査官が座って全体を見渡していた。
 入り口から運動能力検査、体力検査、身長・体重・胸囲・座高・視力というように、順序よくその場が設定されており、最後の場所に「M検場」があった。そこはかつて私が小学生の時覗き見した場所だった。

 私ははじめの方だったから順調にゆけば早く終わるはずだったが、視力検査で引っ掛かり最後まで待たされたので「M検場」に到達した時は、すでに陽は西へ傾き、M検を受ける壮丁だけが残っていた。「M検場」は他の受検者から見えないように衝立で囲み隔離され窓は暗幕で隠されていた。工場で性器触診を受けた時は丸見えだったが、ここでは中が見えないので救われた気持ちになったが、一人づつ壮丁が衝立の中へ消えてゆき、順番が繰り上がってゆく間、衝立の中で何が行われているかを色々と想像させて、逆に見えないことに不安を感じ切なかった。

7名無しさん:2019/08/22(木) 17:48:21 ID:DK9oyGfI
どんな格好で剥かれるのだろう? 工場の時と同じなのだろうか? 勃起してきたらどうしよう? 検査医官はどんな人なのだろう? などと衝立の中の妄想に胸は高鳴り、褌の中では陰茎が疼きに悲鳴をあげて何度も勃起を繰り返した。
 いよいよ私の番がやって来た。早鐘のように心音がドクッドクッと打つのが聞こえる。そっと褌の上から陰茎に触れてみる。どうやら膨れてはいるが勃ってはいない事に安心する。その時、慌ただしく衝立の中から医官と看護婦が壮丁を中に残したまま出て来ると講堂の外へ消えた。前の壮丁の淋病が露顕したようであった。

 しばらくして医官が帰って来て「中へ入れ」と私を呼んだ。看護婦は前の壮丁の淋病処置に手を取られているのだろう、中にはいなかった。医官は書類を一覧すると椅子に股を拡げて座った。髭を生やした威厳のある老医であった。
 私は指定された床の足型の位置に立った。足型の幅は50センチほど開いていた。
「褌の前を外せ!」の声に越中褌の前垂れを尻の方へ引き抜いた。

8名無しさん:2019/08/22(木) 17:53:56 ID:DK9oyGfI
 「両手を後ろに組んで、腰を前に突き出す。もっと……もっと……。」促されるままに徐々に腰を医官の鼻先へ突き出すと医官は左手で陰嚢を握り包み、右手で陰茎を握り包皮を剥いて完全に亀頭を露出させると強く握り直し、陰茎全体を亀頭の方へ皮が突っ張るほどもみ上げた。
陰茎がちぎれるほど強く引っ張るのでかなり痛い。生温い掌が陰茎を締めて亀頭の方へ絞ってゆく。この動作を三度繰り返され、カリ首を強く締め付けられると、陰茎は敏感に反応を示し、奥底から感応してはならない疼きが沸き出し、半勃起の弾力ある状態になってしまった。勃起しては困ると他のことを懸命に考える。

 しかし医官の掌は容赦なく前より一層強く握り締めて極めてゆっくり亀頭の方へ数回絞りあげる。痛いほどの快感がビンビンと頭に伝わってきてどんなことも考えられない。
じっと切なく、残酷なしごきに耐えた。医官は尿道口の膿の有無を見定めようと亀頭をひねると親指と人差し指で鈴口を開いた。その瞬間、先走り液がプクッと飛び出した。待機中でも幾度となく出そうで危惧していた事が医官の前で起こった。
 陰茎が固くなってゆくのを感じた。もう、どうしようもない。医官が鼠蹊部軽侮の辺りを圧するために両手を離すと陰茎は意思とは関係なくズキン、ズキンと大きく波打ちながら急速に天に向かって勃起していった。恥ずかしさに生きている心地がしなかった。

 医官は見馴れた様子で別に気にとめる風もなく、陰茎を腹の方へ押しつけ睾丸を片方づつ丁寧に握り固さを検査している。私は放心したように彼の掌の動きを無感覚に見詰めていた。それほど陰茎勃起はショックだったのである。
「後ろを向いて……床に掌をついて……」四つん這いになり医官の眼前に尻を高く差し上げた。「もっと高く……」両手で強く肛門を開き、金属棒のようなものを押し込んでぐっと拡げたような感じがした。
冷やりとして痛かったが、同時に快感とも違う痺れるような妙な感覚が陰茎を走った。ふと、自分の股間を見ると先走り液が粘い糸を引いて垂れ下がっていた。

9名無しさん:2019/08/22(木) 17:56:30 ID:DK9oyGfI
陰茎は完全勃起に近いくらい大きく膨らんでいた。顔が真っ赤に火照っているのが分かった。「竿も睾丸もよく発育している。よい道具である。大事にせい。」と言って尻を叩かれた。 向き直ると医官は、天を突いて勃ちきっている陰茎を引き下げ、握手でもするように握って前後に動かした。恥ずかしさと照れくささに私は頭を掻いた。まさしくその姿は小学校六年生の時、盗み見したこの場所で頭を掻いていたあの筋肉隆々たる壮丁の姿と同じであった。逃げるようにして出口に向かい急いで越中褌の前垂れで隠したが、興奮した陰茎は怒張したまま収縮せず前垂れを突き上げていた。

 横から越中褌の中が丸見えで、衝立の外へ出ようにも出られず困ってしまった。すでに次の壮丁が入って来て医官の前に立っている。困っている私に気が付いた医官が側に寄って来て褌の前を外し、いきなり睾丸をピシリとはじいた。
屈み込むほどの激痛だったが、その瞬間陰茎は力を失っていた。心得た処置であった。出口で次の壮丁の陰部を見ると、すでに包茎の陰茎が水平近くまで持ち上がっていた。包皮が半剥けになり虚空に息づいていた。直立不動の姿勢で、間近で腰掛けている医官に陰茎を突きつけ、恥ずかしい扱きが始まるのを待っていた。◇

10名無しさん:2019/08/22(木) 18:00:53 ID:DK9oyGfI
老兵(自分の‥の意味)の徴兵検査の日でした。
 神戸連隊区司令官《少将》をお迎えして、小学校の講堂で施行されました。
 丸坊主丸裸、僅か20センチ角の綿布に紐をつけて腰に結び付けて前を隠しただけで、いろいろの動作をするのです。
 大日本帝国国防婦人会と称する団体から大勢の見学者がきておりました。
 初めのうちは恥ずかしくて身の竦む思いでしたが、すぐになれました。
 年配の女性もいましたが大半は若い女性でした。
 老兵の受験番号は15番でした。各種検査が終わり最後に、司令官の前に進み出て、各自の番号と名前を大声で名乗るのです。

 これに対して司令官は、甲種合格から、第1乙種、第二乙種、第三乙種、丙種、戊種の六段階の成績を言い渡されるわけです。老兵までの14人中には一人も甲種合格者は居りませんでした。老生が進み出て《15番 田邊○》と大きな声で名乗ると、司令官も大きな声で、《田邊○甲種合格》といってくださいました。すると見学の婦人団体の中から、ホーッというどよめきの声が上がりました。どうゆう意味のどよめきかいまだにわかりません。其の時の老兵の心境は面はゆい誇らしい、何か一言では言えない複雑な気持ちでした。
 当時の老生の体格は身長 162.5センチ、体重 52.5kgでした。半年後の入隊時には163 センチ 53kgでした。

11名無しさん:2019/08/22(木) 18:07:43 ID:DK9oyGfI
結局、国防婦人会のオバちゃんやオカンも軍部に利用されてたんやね。
徴兵検査の若者が女性の前でもフリチンで堂々としてられるための胆力を付けるためのデコイいうか?
モデルと言うか?
そういう意味では本籍地で検査は行なわれたろうから、幼なじみの初恋の女性、今は嫁いでよその男の妻になっている彼女に見られることもあったわけだ。そんな場合は辛かったろうな、
そんな彼女の前で四つん這いにさせられて、勃起してしまったら、死にたいくらい辛いだろうな。
彼女の方は幼なじみの◯◯君のエレクトした竿を見て(うちのひとのより逞しいわあ、、)

12名無しさん:2019/08/22(木) 19:28:39 ID:DK9oyGfI
少年自衛官
昭和30年に「少年自衛官制度」(自衛隊生徒)が発足した、これは15歳〜217歳までの男子で、中学三年生が受験する。ここでは性器・肛門検査(M検]が課されていた。本当に脱いでしまわないといけない。

ある本に昭和37年の「少年自
衛官の身体検査」の写真があった。何の検査だか部屋の前で
白いパンツ一枚の受験生が並んでいる。
それを全部脱いだ全裸の受験生の姿を想い描いた。

また40年代の「アサヒジャーナル」には、少年自衛官が手足を伸ばして4つんばい姿で肛門検査を受けているところを衝立の陰から移したカラー写真がのっていた。

13名無しさん:2019/08/23(金) 14:29:22 ID:DK9oyGfI

宮崎清隆 著 「青春監獄 : 初年兵日記」東京ライフ社1955

14名無しさん:2019/09/07(土) 22:37:47 ID:DK9oyGfI
昭和20年まで、この国に生を受けた男子は、20歳になると貴賎上下の別なく、本籍地で徴兵検査を受ける事が義務だった。
 徴兵検査では、通称M検と呼び、頭のてっぺんから性器肛門まで男の全てを徹底的に検査したという。兵隊は自分の意思で動いてはならない、徴兵検査はそれを直接体に叩き込む場でもあったようです。 
 徴兵検査には、婦人会(既婚)や処女会(未婚)の女の見学があった。徴兵検査場で花婿を探す者もあったという。徴兵検査礼状には「フンドシ着用のこと」となっていてフンドシ一枚でてきぱきとうごくのだが、普通、M検はついたての中でやったそうだ。昔はよく体操の時、体操着を忘れるとフリチンでさせたりした事もあったそうだが、どこの世界にも間抜けなヤツはいるもので、100人200人となると必ず一人や二人はいるもの。特に都会でサラリーマン生活をしていて、フンドシなど付けた事がなくパンツをはいて来た物は、ビンタを食らった上、フンドシ姿も気恥ずかしいだろうに可愛そうにその場でパンツを取らされ、そのまま最初から
フリチンのブラブラの素っ裸で検査場に出ていかなければならなかったという。勿論隠したり女々しいことは許されない。
 本籍地の同級生や、同級の女が見ていてもその前でフンドシ一枚すらつけない露もない姿で朝から終わりまで地獄の羞恥の一日。強制露出の一日。また九州やその他の地区では、全員最初から素っ裸で行われたという。都会暮らしのインテリでも、たとえば九州出身者は、地もとの九州の小学校の講堂とかでうける。徴兵検査令状には「ふんどし着用のこと」とは書いてなく、忘れるても心配ない。全員、全てが検査場に着くと、着ている物は全て脱ぎ生まれたままの姿になるからである。朝顔の蕾でも、ずる剥けでも、大きくても小さくても、毛深くても、色が白くても黒くても素っ裸で隠さずてきぱきと行動しなければならない。

15名無しさん:2019/09/07(土) 22:42:06 ID:DK9oyGfI
身長・体重は勿論M検さえ全裸、ついたてもない広々とした講堂の中で、様々な羞恥が繰り広げられる。
 当時20歳の身長は5尺5寸といわれ、165センチ台、今の中学生でもそのくらい。M検では6割が包茎だったという。性器検査は、徴兵検査のハイライト。まず陰嚢をぐいと掴みぐりぐりした上で、親指人差し指で、指を丸めるようにして陰茎の根元を掴み下に向けて絞るように強くしごくようにも揉みしだく、その上で包皮を剥く。剥くといっても環状溝があらわになるまで完全に剥くので生易しいことではない。たとえ、ずる剥けの性器でも、さらに引きつるほど剥き上げる、朝顔の蕾では大変なこと。
 しかし、剥くのよりもっと大変な目にあうこともある。徴兵検査場では、その雰囲気からして、とても立つような雰囲気ではないという。最初から裸で女がいたら、とても恥ずかしく立たないで縮みあがってしまうだろう。これから恥ずかしい事の順番を待つ者もたまらない。包茎の一物を縮こませ、毛の中に隠れてしまうくらい羞恥にどうしようもないという者もいる。嫌らしい検査官は剥く代りに先端の皮や少し顔を出している亀頭を指でさする。そして、敏感なところをいじめられようやく起ちあがった頃、もじもじして逃れようとするのを、「どうした、まだまだ、まだだめだ・・まだ頭が出てこんではないか。もっと先が出てこんと検査できんぞ…」とやる。勿論出そうになっても手で押さえて隠したり抵抗は許されない。次の順番を待つ同じように縮こませている者も、次は自分も同じ目にと思うとたまらなくなってくる、そして早く女があっちへ行ってくれないかなと祈る。

16名無しさん:2020/02/16(日) 12:44:36 ID:DK9oyGfI
>>12
少年自衛官
昭和30年に「少年自衛官制度」(自衛隊生徒)が発足した、これは満15歳〜17歳までの男子で、中学三年生が受験する。
ここでは性器・肛門検査(M検)が課されていた。本当に)全部脱いでしまわないといけない。

17名無しさん:2020/02/16(日) 12:53:42 ID:DK9oyGfI
少年自衛官

自衛隊で曹クラスの補充のため,15歳以上,17歳未満の中学卒業生を採用し,所定の教育を行なった自衛隊員。陸上自衛隊では少年工科学校,航空自衛隊では航空教育隊生徒隊,海上自衛隊では第1術科学校で,4年の基礎教育を行い任官させる。

18名無しさん:2020/04/06(月) 23:38:37 ID:DK9oyGfI
大正14年生まれだから 徴兵検査(昭和18年)旧制高校入試(昭和18年)大学入試(昭和20年)とたてつずけに恥部の検査を受けたのですが これらはどれも年配の医者にやられるので それ程恥ずかしい事なかったのですが 医者になっているとはいえ かつての教え子にやられるのは特別恥ずかしかった。

19名無しさん:2020/05/31(日) 10:13:48 ID:DK9oyGfI
M検
h ttps://ja.wikipedia.org/wiki/M検

20名無しさん:2020/05/31(日) 10:16:25 ID:DK9oyGfI
こんな野蛮な徴兵検査が
h ttp://bungaku.cocolog-nifty.com/barazoku/2015/06/post-75d3.html

21名無しさん:2020/06/10(水) 15:07:05 ID:DK9oyGfI
昭和20年まで、日本男児と生まれたからにはM検といって性器・肛門検査を受けた。日本男児とM検は切っても切れない関係で、徴兵検査から解放された戦後も、大学入試ではM検が課されていた。


M検は12〜20歳の一番恥ずかしい年頃にM検が集中していた。最年少は逓信省航空乗員養成所の12歳である。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、予科練、陸軍少年兵、海軍特年兵、満蒙開拓少年義勇兵、国民徴用令、徴兵検査、さらに軍需工場の少年工採用まで、実にさまざまなところで行なわれていた。
 
パンツ一枚なんて小学校、中学校では当たり前、大学。専門学校、軍関係学校の入試ではパンツ一枚すらも許されず、全部脱いでしまわねばならないのが当たり前だった頃、中学生ともなればどの進路をとるにしてもM検の関門があった。旧制中学校’(五年制)には軍人が派遣され時々、校庭の隅でパンツもつけない素っ裸で整列させられḾ検が行われていた。

22名無しさん:2020/06/11(木) 09:59:17 ID:DK9oyGfI
徴兵検査風景
投稿日 : 2015年5月25日 | カテゴリー : 兵役関係
「受検期来る、壮丁者諸君の覚悟如何」
今では、この檄文を見て判る人は少ないかもしれない。これは戦前の徴兵検査を受ける青年に与えられた激励文で、大正二年五月十九日付け「牟婁新報」一面トップに掲載された田辺町の一住民の論文である。

今から七十年前の随分古くさい文章なので、今日の世相とは相容れないのは当然だが、この時代の徴兵検査のようすや当時の情勢をよく表しているので、その概要を転載してみる。

諸君は活気に満ちたる青年である。男の中の男とは諸君の如き年頃を言ふのである。 一度奮起せば山をも抜き、海をも覆へさん活気横溢の時代は今である。諸君は今や、近く徴兵検査を受くべき絶好の機会を迎へているのである。

それ兵役は日本男子の大名誉である。若し国家兵力なくんば国民一日たりとも高枕安臥する能わざるのみか、忽ち敵国の襲来をうけ我が同胞は奴隷的待遇を受けねばならぬ。

されば諸君、諸君は今その兵役の第一歩の徴兵検査を受けるのであるが、受検には極めて慎重を期し公正正直に受けねばならない。然るに昨年は忌まわしい徴兵忌避沙汰が現れたるは何たる情けない事か。予輩は実に切歯憤激の至りに耐えぬ。

されば諸君、いやしくも壮丁受検者となって試験場に立つ以上その言動は公明正大でなければならぬ。寸分も自己の良心を欺く様な事があってはならぬ。あの軍医が多少軍権を笠に着て少々の過ちを大喝叱咤する事があろうとも諸君は此れが為自己の良心を欺いてはならない。

要するに壮丁諸君は受検場に臨む前日より心身を休め、沈毅の態度を持し試験場に臨んでは周章狼狽する事なく、検査官の間う事にはよく判じ別段噛みつきもしないから正は正、邪は邪、正直に答へればよい。

換言すれば国民一般平時常時を通じての観念である。その観念あればたとえそれが不合格であったとしても決して落胆するに及ばず、何も軍人になった者ばかりが陛下に尽くすのではない。各人各様その職場にて努力するのも之れ陛下に尽くすのである。

あえて所感を記して諸君の参考に供する次第で失敬の点あれば御了承を乞ふ。

23名無しさん:2020/06/11(木) 10:00:33 ID:DK9oyGfI
以上の通りであるが「上御一人のために」という考え方や、国防という名のもと、徴兵制度によって我々の父や祖父が兵隊にとられた、あのもの悲しい思い出が、よその国のことのように思われる檄文である。

その徴兵検査もなくなって久しい。再び、こんな非人間的な制度が復活することがなく、昔の語り草で終わることを願う。
今日の人が聞いたら寒気がするような言葉かも知れないが、戦前の満二十歳以上の若者にとって、避けられない関門がこの徴兵検査であった。徴兵検査は、明治五年十一月二十八日の徴兵令施行以来、国民の三大義務の一つとして始まったのである。

私は明治の徴兵検査については語れないが、大正・昭和のそれについて書き残して置きたいと思う。
日清・日露の両戦争に勝ちを収めた勢いもあって、大正の平和な時代でも軍部の権力は絶大であった。徴兵検査は連隊区司令部から検査官や軍医がやってきて実施するのだが、これに加えて各郡の郡役所や町村役場からも係員が派遣されるので、地域的にも大きな公的行事の一つになっていた。

◎ 壮丁者名簿の提出
各役場では毎年三月一日までに、その年の徴兵検査の該当者(数え年二十一歳の者で、生まれ年の十二月一日までに生まれた者。十二月二日以後の出生者は翌年回しとなる)を調査して連隊司令部へ報告しなければならない。

検査は原則として本籍地で受けるのだが、職場や住まいの関係で寄留先で受けることもできる。ただし二月までに戸主は関係役場へ届け出ておかなければならない。

◎ 壮丁者名簿の記入事項
これには①氏名 ②生年月日 ③戸主との続柄 ④本籍地 ⑤現住所 ⑥学歴 ⑦職業 ⑧特技 ⑨賞罰 ⑩その他、本人の秘匿事項や性質まで書かれていた。

話によると、明治の末頃、兵事係が湯崎のA青年の性格が「粗野である」と書いたのを、後になって当人が知り、本人が役場へ怒鳴りこんできたので、兵事係が大弱りしたという一幕もあったらしい。

◎ 徴兵忌避と延期願い
各地の役場では該当者の洩れがないか調査は厳重であったが、この検査の届け出は、原則として戸主と本人ということになっていて、これを怠ると三円から三十円までの罰金を科せられる厳しいものであった。  しかしその反面、少しばかり情のある措置もとられていた。それは、壮丁者が入営することによって、暮らしを支えることが出来ない家庭には、本人と市町村長名で「徴兵延期願い」を出すこともできるという規定があったことである。

◎ 徴兵検査の時期
司令部では各町村から提出された壮丁者名簿によって徴兵検査の計画書を作成することになる。
検査は毎年四月から五月にかけて行われたが、検査官が日高郡からやって来た場合は田辺町の郡役所議事堂で五日間、串本町小学校講堂で一日。東牟婁郡からやってきたときは、その反対の日程で実施することに大体決まっていた。

大正十五年郡役所が廃止されてから、私達が受験した昭和十二年頃までは田辺中学校講堂が試験場に使われていたのである。

◎ 検査前の準備
徴兵検査は普通の身体検査とちがって、軍隊教育の一環として位置づけられていたので非常に厳しく、受験者の態度や言動はきびきびしたものでなければならないと、前々から聞かされていた。

「誰々は怒鳴られたんや」とか「誰々は遅うまでひっぱられたんや」というような噂をたびたび聞いていたので、なんとなく恐ろしいような気がしていた。特に性病などを患っていようものなら、大声で叱られ、非国民扱いされるというので、性病に罹った若者は大慌てで治療に通ったものである。

検査の日が近付くと、よその土地へ働きに行っていた者も、何をおいても帰らなければならない。受検する壮丁が、みんな揃ったところで、在郷軍人会は彼らを集め、検査についての注意や要領を教えていた。

役場からは「徴兵検査心得」というパンフレットをくれた。それには、

① 頭髪を短く刈っておくこと
② 耳の穴を清潔にしておくこと
③ 褌は新しいものを付けていくこと
④ 前日は入浴しておくこと
⑤ 検査場では眼鏡をはずすこと
⑥ 当日は酒を飲んで行ってはいけない
⑦ 控室では歌を唄ったり煙草をすったりしてはいけない

などを、細目にわたって記載されていた。

24名無しさん:2020/06/11(木) 10:01:39 ID:DK9oyGfI
◎ いよいよ検査の日
私達の検査は昭和十二年五月某日であった。朝早く役場へ集合して、宮崎兵事係と在郷軍人会の岩城さんに連れられ、巡航船で田辺へ渡った。検査会場の田辺中学校に着くと、もうすでに他町村の壮丁たちが大勢集まっていた。そして、いよいよ八時から検査が開始された。

はじめは恐ろしさで緊張がとれなかったが、身長・体重・胸囲と検査が進むにつれ、次第に気分がほぐれてきた。
しかし、囲われた場所で行われる性病検査のときは、やはり緊張した。チンポコを見せると、手でギュウと握って、強くしごかれるのである。童貞だった私には性病など無関係であったが、それでもこの検査を終わるまでは心配でたまらず、終わってホッとしたものだ。

これが終わると今度は肛門検査がある。「痔」の有無を調べるのであろう。軍医に尻を向けて四つん這いになり、肛門を検査してもらった。やっとすべての検査が終わって、最後に偉い検査官(多分陸軍少佐であったと思う)から「甲種合格」の判定を受けたときは、さすがに喜びがこみあげてきた。

私のように、これという欠陥なしにパスする者はよかったが、目や耳の疾患をもつ者は、「お前、徴兵忌避とちがうのか」と疑われ、簡単には検査が済まないようであった。

某青年が仕事中の事故で右手親指を失っているのを見て「徴兵忌避」ではないかと疑われ、徹底的に調べられたというし、大正時代に、林という若者が、目が悪かったというだけで、一番最後まで残されたという話も聞いた。

ある年の検査では、ひ弱な体質の秀才青年が、少し胸囲が狭かったのが原因で、大勢の受検者の前へ引き出され「こんな胸幅の細い男はお国の役に立たん――。もっと鍛練して頑丈な体にしておけ!」と叱りつけられたという。

幸いにも、私達の受検したときは、幸い全員無事に終わり会場を出ることができた。外には写真屋が待ちかまえていて、皆で記念写真を撮してもらった。これは毎年の習慣的行事だったようである。

大正時代の新聞を見ると、当時の「池田写真店」や「武田写真店」が徴兵検査の壮丁者には大割引致しますと、大きな広告を出していた。


◎ 徴兵検査を無事に終えて
徴兵検査が終わると、われわれは天下晴れて一人前の大人である。徴兵検査は、今日の成人式に相当するものだろう。

当時は若者の年令を判断するのに、「あの人、まだ検査前やとォ」と言ったり「あの人、検査もう済んでいるんやでェ」
という風に、検査を境にして一人前、半人前の尺度としていたようだ。その一人前に自分も仲間入りすることが出来たのである。

子供の時分から「兵隊さん」というと、岩城徳松さんや三木佐助さんのように、普通の人より偉いんだと思っていたが、その兵隊に自分もなれるんだと思うと誇らしい気持ちになってきた。

検査を終わって帰るとき、巡航船の中で田野清君から「今晩、かき舟へ集まって合格祝賀会をやろうではないか」と誘いがあり、むろん承知した。

午後七時に会場へ行くと、十五、六人の同級生たちが集まっていた。小学校卒業以来、初めての寄合いで次から次へと話は尽きない。小学校時代の思い出や恩師の消息、「彼女」の話しや入営する人への激励など。 話が戦争のことに及ぶと、日露戦争や満州事変の勝ち戦さの勇ましい言葉ばかり飛び交った。

よもやそれから一カ月後に支那事変が始まり、乙種・丙種の区別なく全員が出征するハメになろうとは誰が想像したであろうか――。

← 日露戦争(明治三十七・八年戦争)
忠魂碑建立の由来(宮崎 伊佐朗氏の講演より)

25名無しさん:2020/06/11(木) 10:03:33 ID:DK9oyGfI
>>22-24
白浜町の語りべの話

26名無しさん:2020/06/11(木) 10:15:47 ID:DK9oyGfI
陸軍身体検査規則
昭和3年3月26日陸軍省令第9号

徴兵検査における身体検査(徴兵身体検査)、陸軍志願者身体検査および陸軍航空勤務者身体検査
条文リンク
官報 国立国会図書館デジタルコレクション

陸軍身体検査規則(昭和3年陸軍省令第9号)とは、陸軍において、徴兵検査における身体検査(徴兵身体検査)、陸軍志願者身体検査および陸軍航空勤務者身体検査について定めた陸軍省令である。
目次
1 徴兵身体検査
1.1 背景
1.2 手法
1.2.1 体格
1.2.2 身体欠損
1.2.3 性病検査
1.2.3.1 陰部之検査
1.2.3.2 肛門之検査
1.2.4 体力検査
1.2.5 呼吸器系
2 陸軍志願者身体検査
3 陸軍航空勤務者身体検査
4 関連

徴兵身体検査
背景
徴兵で兵にとられることに本心は拒絶する者も少なくなく、徴兵制度が開始されて以降、なんとかして徴兵を逃れようとする者は後を絶たなかった。 陸軍側は兵数を確保するためにも、偽装徴兵逃れを許すわけにはいかず、それらを看破する手段を持つことが強く望まれていた。 本規則はこのような陸軍の意向に沿う形で作られた軍医のための、身体検査マニュアルである。
それまで一般社会にて生活してきた被験者にとっては、牛馬の品定めのごとく体の各器官を点検されるという体験は、屈辱的な体験であり後に軍の思い出として語られることとなった。もっとも、軍医からすれば(場所によっては)膨大な人数の対象者を一々検査するため、機械的な検査にならざるを得なかった点もある。
手法

27名無しさん:2020/06/11(木) 10:16:28 ID:DK9oyGfI
1941年頃の日本で行われていた徴兵検査の光景
検査を受けることは国民(厳密には男性)の義務であり、従わぬ、あるいは躊躇する者には容赦なく罵声が浴びせられ、さらには木刀で強打されることもあったという。

体格
徴兵された新兵は、現代の健康診断でも行われているのと同様に身長、体重、胸囲、視力などを測定した。 視力は裸眼視力0.6以上、20度(現在の単位だと±2Dに相当)の眼鏡をかけて各眼0.8以上で色盲でないこととされた。後に戦局の悪化に伴い色盲の条件は廃止された。
体格についても脂肪過多、扁平足、腫瘍、禿頭などの異常が無いことを求められた。 身長は155センチ以上を優良とし、145.5センチ以上が合格とされた。 アメリカ軍の基準が170センチ以上だったことを考えると、欧米の検査基準に比べると著しく低いが、当時の日本人の平均からするとこれが許容できる範囲だった。 これですら、戦局悪化に伴い条件が緩和されていった。

身体欠損
五体満足であり、身体に欠損箇所が無いことが求められた。 このため、徴兵逃れのために自分の指を切り落とす者も現れたほどであったが 戦局の悪化に伴い、小指など一部欠損者については合格とされるようになった。 右手の親指か人差し指が欠損している場合は銃を持つことが出来ないため不合格とされた。
入れ墨は欠損とはならなかったが、漁師が身元確認のために入れているなどの理由が無い限り、犯罪者予備軍のような扱いを受けた(自衛隊では不合格となる)。

性病検査
性病の有無も重要な検査項目であり、軍医の前に立たされ、一切の衣類を脱ぎさる旨の指示を受ける。 丸裸にされた被験者は体の隅々の器官を軍医の鋭い目のもとにて観察検査されることになる。 特に、陰部および肛門部は詳細に検査され、性病や痔疾の有無がチェックされた。これを世間ではM検と呼んだ。
以下、規則第二十三条を元に検査の具体的手法の一部を紹介する。

陰部之検査
陰部を検査する際には、被験者に褌を取るように指示し、両足を開き、軍医の前に立つように命令した。鼠蹊部・陰茎・陰嚢・精系・睾丸・副睾丸の異常の有無を慎重に観察・触診し検査する。 その後「排尿に困難はないか、残尿はないか」と詰問する。 続いて、軍医は自らの手を用いて、被験者の陰茎の尿道球部より口部に向かって尿道を按圧して、膿が無きこと硬結の無きことを検査する。 必要があるならば、その場で排尿を指示し、その尿の性状を検査した。 (この検査は現代人の感覚からすれば耐え難い屈辱である。だが、当時の医療水準では大変重要な検査であった。この検査は性病の有無の確認を主目的としている事が推測できる。当時の性病は有効な治療法が乏しく、戦地で性病が蔓延した場合、軍の運営上の危機に直結する。このような事情から上記のような検査が行われたのであろう。)

肛門之検査
肛門と会陰を検査する際には、丸裸の被験者に体を前屈して両手を床上にて支えて臀部を高く上げるようにまず指示する。 軍医は、自らの両手で臀部におき、肛門部を大きく左右に開いて、痔核・痔瘻・脱肛、その他病変の有無を詳細に検査した。

体力検査
欠損が無く体格が許容範囲であっても一定以上の体力が無いと軍務は不可能であるため、筋力などを見る簡単な検査が行われた。
体力検査は地域によってやや異なり、農家の多い加古川で検査を受けた三島由紀夫は十貫(約40キロ)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの体力検査を受けた。

呼吸器系
入営後は集団生活を送るため結核などの呼吸器系の感染症は蔓延しやすく、呼吸器が弱い者は長時間の行軍が出来ないため、身体検査と同時に検査が行われていた。特に結核と思しき症状は周囲への感染を防ぐため即日帰郷となった。
三島由紀夫は検査に合格したが、招集の数日前に母親からうつされた風邪を軍医が肺病と誤診し即日帰郷となった。また宮沢賢治は第二乙種合格で免除された後、病院で検査を受けると胸膜炎が発覚するなど、厳しく判定されたことで兵役免除となった者も多い。

陸軍志願者身体検査

28名無しさん:2020/06/11(木) 10:20:43 ID:DK9oyGfI
徴兵検査の光景
検査を受けることは国民(厳密には男性)の義務であり、従わぬ、あるいは躊躇する者には容赦なく罵声が浴びせられ、さらには木刀で強打されることもあったという。
体格
徴兵された新兵は、現代の健康診断でも行われているのと同様に身長、体重、胸囲、視力などを測定した。 視力は裸眼視力0.6以上、20度(現在の単位だと±2Dに相当)の眼鏡をかけて各眼0.8以上で色盲でないこととされた。後に戦局の悪化に伴い色盲の条件は廃止された。
体格についても脂肪過多、扁平足、腫瘍、禿頭などの異常が無いことを求められた。 身長は155センチ以上を優良とし、145.5センチ以上が合格とされた。 アメリカ軍の基準が170センチ以上だったことを考えると、欧米の検査基準に比べると著しく低いが、当時の日本人の平均からするとこれが許容できる範囲だった。 これですら、戦局悪化に伴い条件が緩和されていった。
身体欠損
五体満足であり、身体に欠損箇所が無いことが求められた。 このため、徴兵逃れのために自分の指を切り落とす者も現れたほどであったが 戦局の悪化に伴い、小指など一部欠損者については合格とされるようになった。 右手の親指か人差し指が欠損している場合は銃を持つことが出来ないため不合格とされた。
入れ墨は欠損とはならなかったが、漁師が身元確認のために入れているなどの理由が無い限り、犯罪者予備軍のような扱いを受けた(自衛隊では不合格となる)。
性病検査
性病の有無も重要な検査項目であり、軍医の前に立たされ、一切の衣類を脱ぎさる旨の指示を受ける。 丸裸にされた被験者は体の隅々の器官を軍医の鋭い目のもとにて観察検査されることになる。 特に、陰部および肛門部は詳細に検査され、性病や痔疾の有無がチェックされた。これを世間ではM検と呼んだ。
以下、規則第二十三条を元に検査の具体的手法の一部を紹介する。
陰部之検査
陰部を検査する際には、被験者に褌を取るように指示し、両足を開き、軍医の前に立つように命令した。鼠蹊部・陰茎・陰嚢・精系・睾丸・副睾丸の異常の有無を慎重に観察・触診し検査する。 その後「排尿に困難はないか、残尿はないか」と詰問する。 続いて、軍医は自らの手を用いて、被験者の陰茎の尿道球部より口部に向かって尿道を按圧して、膿が無きこと硬結の無きことを検査する。 必要があるならば、その場で排尿を指示し、その尿の性状を検査した。 (この検査は現代人の感覚からすれば耐え難い屈辱である。だが、当時の医療水準では大変重要な検査であった。この検査は性病の有無の確認を主目的としている事が推測できる。当時の性病は有効な治療法が乏しく、戦地で性病が蔓延した場合、軍の運営上の危機に直結する。このような事情から上記のような検査が行われたのであろう。)
肛門之検査
肛門と会陰を検査する際には、丸裸の被験者に体を前屈して両手を床上にて支えて臀部を高く上げるようにまず指示する。 軍医は、自らの両手で臀部におき、肛門部を大きく左右に開いて、痔核・痔瘻・脱肛、その他病変の有無を詳細に検査した。
体力検査
欠損が無く体格が許容範囲であっても一定以上の体力が無いと軍務は不可能であるため、筋力などを見る簡単な検査が行われた。
体力検査は地域によってやや異なり、農家の多い加古川で検査を受けた三島由紀夫は十貫(約40キロ)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの体力検査を受けた。
呼吸器系
入営後は集団生活を送るため結核などの呼吸器系の感染症は蔓延しやすく、呼吸器が弱い者は長時間の行軍が出来ないため、身体検査と同時に検査が行われていた。特に結核と思しき症状は周囲への感染を防ぐため即日帰郷となった。
三島由紀夫は検査に合格したが、招集の数日前に母親からうつされた風邪を軍医が肺病と誤診し即日帰郷となった。また宮沢賢治は第二乙種合格で免除された後、病院で検査を受けると胸膜炎が発覚するなど、厳しく判定されたことで兵役免除となった者も多い。
陸軍志願者身体検査
陸軍航空勤務者身体検査

29名無しさん:2020/06/11(木) 10:34:40 ID:DK9oyGfI
こんな野蛮な徴兵検査が!

 日本の自衛隊は志願制だから、強制的に韓国のように軍隊にとられることはない。日本の敗戦前は徴兵制だったから、21歳になると徴兵検査を受けなければならなかった。

 1980年(昭和53年)の『薔薇族』7月号に貴重な記録が残っていた。

「私は徴兵検査を郷里で受けた。当時、この徴兵検査という制度はきびしいものであり、またひとつの若者のセレモニーでもあった。第一日目は、軍服を着た軍医大殿が、最初に訓示を行い、その後、各教室に分かれて入って、筆記試験を受けた。
 その内容は一般的な社会常識と、科学、数学などであったと思う。30分もあれば簡単にできる問題だったが、1時間半いっぱいまでねばっている人もいた。

 2日目は当初から身体検査だった。前日より、いや、それよりも以前から通知が有り、身体検査当日は、必ず褌をつけてくるよう指示があった。したがって200名の男子が、一斉に裸姿になっていた。

 最初は眼、口腔、耳、鼻などの検査が行われた。そして手足の障害者について行われた。
 最後は内診、そして陰部、肛門の順に検査が続けられる。陰部、肛門を担当するのは、少尉ぐらいの軍医であったと思う。

 5人ずつが1列になって続いて検査を受けるのだが、その軍医は5人集まると大声で「おれの前に来たら、すぐに褌をはずせ、貴様らの金玉を検査するので、足を半歩開け」と言ったことを覚えている。
 そしてまた「それがすんだら、すぐ後ろを向いて四つん這いになれ。肛門を検査する。それで終わりだ。以上」と、いかにも軍隊調で言うのだった。

 軍隊という世界は、これまったく男の世界だ。男ばかりの世界であったら、なんであんなにもはっきりと露骨に言うのだろうか? と、みな唖然として聞いていた。
 一瞬静かになった。突然、陰部、肛門検査の軍医がおろおろしている私らに対して、「早く来んか」と大声を発したので、またびっくりした。
 みんな最初はこの雰囲気に飲まれていたが、だんだん慣れてくるにしたがって、笑い声や、こそこそ話も出てきた。

 私より7人先のずんぐりした男を何気なしに見るtお、越中褌の前に垂れている部分が持ち上がり、明らかに勃起していることに気がついた。
 こんな雰囲気の中で勃起するなんて、たいした度胸の持ち主だと、私はひそかに感心したものだ。もっとも当の彼は少し恥ずかしそうに手で押さえていたが……。

 陰部、肛門の検査は順調に進行した。軍医の検査が、私の所よりよく見えるようになった。
 みな恥ずかしそうに褌をはずして立つ。ほとんど同年輩の者ばかりなのに、あそこだけはさまざまで、大きいの小さいの、短いの、ホウケイ、ムクレ、大型雁等などさまざまだ。

 いくらなんでも、一日に何百人ものチンを検査したら、さぞ、いやになるのではないか、それにほとんどが緊張して縮み上がっているものばかりで……と、私は軍医に同情を覚えた。
 軍医は鼻先に立った若者の褌をはずした。それを見ながら、陰茎の周囲や、睾丸を引き上げて注意深く見る。そしてそれがすむと陰茎の皮を親指と、人差指で根元まではじき、今度は親指と人差指、中指を使ってしごき戻すのである。

 なんでそんな方法で診察するのかというと、陰茎を根元からしごき戻すと、性病持ちの人は尿道から、うみがでるのだ。」

 平和が続いているから、こんな野蛮なことをされないですんでいるが、戦争にでもなったら、また、こんなことに。(つづく)

30名無しさん:2020/07/23(木) 13:49:09 ID:DK9oyGfI
★徴兵検査

「おい次ッ、606番、和田兵助!」「はい!」「前に出ろ」
 広い大講堂いっぱいに、こんな珍名が大声で怒鳴られている。和田兵助と呼
ばれた男は、全裸のまま飛び出してきた。「お前が和田兵助か?」「はい」
「遅い! どこをうろついていたんだ!」
口の悪そうな徴兵検査官の軍医の大喝一声、ペコンと頭を下げて前に進みでた男、「便所に行っておりました」「何ッ便所……? 今頃便所に何の用か! 遠慮せずもっと前に出て、股を開け! おい、お前、病気が見つからんように、
便所でムスコの手入れをしてきたんだろう?」
 こんな冗談とも真剣ともつかないことを口にしながら、軍医はにんやりと顔
を見上げ「おまえの名前を下からよんだら何というか? 素晴らしくよい名
前だな。」

 時は、日支事変勃発間もない、昭和十三年七月の頃。佐渡の潮風ふきこむ新潟は柏崎海岸の一角にある柏崎小学校運動場の一隅、数え年二十一歳、今でいうならば成年の日を迎えた男児のしるしとして、今日は花も実もある現役兵としての徴兵適齢の検査日。徴兵検査場には今しも壮丁たちの珍景あれこれがくりひろげられている。

日本男子としてこの世に生を享けたからには法律の定めるところ、何人たり
ともこの年には必ず一度は経験しなければならない成年期への関門。国民皆兵、軍国華やかなりし頃この関門通過に、甲、乙、丙、丁等の合格不合格の名誉と光栄をになう手形が渡されんとしていた。
 ここは昔上杉の領。音に聞こえた軍都高田城下の軍門に馳せ参じる壮丁は新入兵の卵といったところ。その壮丁達の顔色はどれも、これも赤銅色。だが内心は恐らく一種の恐怖的な不安感におののいているのであろう。

 今朝は定刻九時から数百名の徴兵適格者によって検査会場はごった返していた。会場は戸板でおおざっぱに仕切られていた。軍隊から派遣された検査官は市町村役場の兵事掛に忙しく指揮していた。診察衣の下からいかめしい軍服の金ボタンや軍刀をのぞかせながら、威圧するかのように肩をいからせている。

31名無しさん:2020/07/23(木) 13:51:06 ID:DK9oyGfI
徴兵検査は人体と名のつくところはすべて隅から隅まで詳しく調べる。はじ
めは型通りの頭の先から爪先までの身体検査に始まり、やがて腰下の方になってくる。動物が這うような恰好の四つん這いになり肛門検査、さらに精密検査は遠慮容赦もなくびしびしと行われ、最後の仕上げは男子の象徴検査でようやく無事通過と相成る。

 椅子にどっかり腰を下した軍医は毎度のことといわぬばかり、いかめしい表
情をくずさない。馴れた手つきで、だらりとぶら下った象徴を掌に軽くのせ目
方でも計っているかのようだ。と思ったら「あッ!」という声をあげるいと間も
あたえぬ早業で、その掌は半ば程、伸び始めてきている海綿体の表皮にいやッ!というほど喰らいついてきた。その親指、人差指、中指の三本でにぎりしめ上下に二、三度しぼるように強くしごく。こんな時、日頃悪い遊びをしている連中や、女のためにムスコを酷使して花柳病などに冒されている連中は正に顔色なしである。
 
ここでは徹底的な花柳病の有無の検査がなされる。かりに花柳病に罹っている事が発見されたら、それこそ大変。ちょっとやそっとでは相済まない。数百
名の壮丁がひしめく満座の中で、大声で「非国民」「国賊」呼ばわりにされて
恥をかかされ、そのよってきたる原因経過を、その附添の村役場吏員連のいる前で「村の不忠者」として追求されるのである。
 運良くここの検査をゴマ化して、どうやら通過したところで、入隊後の月例
身体検査で発見されたら、なお大変である。即刻、聯隊(連隊)会報によって
重営倉入りというわけである。
「おい、和田兵助!きさま、妻があるのか!」「いいえ、まだ独り者でありま
す」「お前、今日まで何回女郎買いに行ったか!」「いいえ、まだ一度も経験
ありません……」「うそつけ!この砲身は相当使った形跡があるぞ!見ろ!お
前のこの砲身は真っ黒じゃないか。かつての激戦を物語る硝煙の名残だ……」
 検査官の軍医中尉は、ニコリともせず顔色一つ変えず、なんらの遠慮容赦も
なく言いにくいことを平気で、ずばずばと蛮声高く詰問している。身に覚えのあ
る者は、なぜかひっきりなしの便所通いで手入れに余念がない。こんな時この
検査場に肉親や恋人達が自由に立会参観できたら何と壮観であろう。凡そ花
柳病と名のつくいまわしい病気も減ってくるであろうし、その珍問答に赤面す
るそれらの人々の光景もまた愉快なる哉である。
 和田兵助は相変らず強気の答弁である。
「いや……そんなことは……」
 軍医は半ば真剣、半ば破顔して、
「いやもへちまもない! そうでありましたと率直に答えるのだ。軍医のわし
に発射経歴を誤魔化せると思っておるのか。これが商売で国家に御奉公しているのだ。砲身をちょっと握ればそんな事はすぐ判る。大事に使えば一生使えるぞ。少し兵器は大切にしろよ……」「はい」
和田兵助は赤面しながら顔をうつむけて、頭をかきながら、混雑した人ごみの
中にふんどしをかかえるようにして急ぎ足で姿を消してゆく。

32名無しさん:2020/07/23(木) 13:52:29 ID:DK9oyGfI
 まだその後に何人もが列をつくって、わが番は如何にと待っている。
「おい、次!」「はい、玉木チンズ」「何だァ?」「玉木チンズです……」
「チンズ?チンズとは何だ?」「そうです、チンズ、チンズです」
 軍医はどうも発音が怪しいので、机の上の検査証を手にとって見た。「なん
だ、玉木金治か……」
 この玉木金治、東北弁まる出し、どもるようにして恐る恐る検査官の前で褌
を外した。軍医は小首をかしげながら
「これは何の跡だ?……お前何か性病をやったことがあるな?」「ありませ
ん」「うそつけ!どうもお前の代物は人並はずれて馬鹿大きく、しかも 馬並
に変形しているではないか……なぜ、ここの毛を剃っているのだ、そばに切傷
のあともあるではないか?第一お前の品物は見たところ実に色が悪いなぁ……」
「はい、すべて生れつきであります」
 こんな露骨な問答がおくめんもなく大声で交わされている。傍らで内心ぶる
ぶる震えながらひとごとではないと、じっと見守っている自分の番を待つ者は
これもまた脛に傷持つ者であろう。地獄の閻魔大王の前に引出された心境もかくやと思われる。
「まあ、まけておけ!入営まで完全に修理しておくんだな……」「よし、次!」

 どうやら男のシンボル検査もいよいよ最後の一人となった。この最後の男、
何故か前に進み出るのを嫌がるようにためらっている。
「どうした!一歩前進!、姓名は?」「はい、宮本忠冶です」「どうした忠治!
、もつと前に突き出さんと小さくて見えんぞ。遠慮せず俺の鼻先まで延ばして
みろ!」「は、はい……」「ほう、お前のものはまたバカに小さすぎるではな
いか。小さい頃、病気でもしたのか、それともお前の親が前世において何かい
たずらでもしたその報いかな?」「はい、あの……私が幼い頃、よく寝小便の
たれ流しをやったそうで、それで母がこれを治すために私のホースの頭の先にお灸をすえたということです。別に病気はありません」「ふぅん、忠治、心配
は無用だ。これは発育不完全という代物で縮小型だ。まわりの雑草ばかり繁茂していて、御本尊様はさっはり栄養不足ではないか、だが別に戦闘には影響ないだろう。かえって軽くてよいかもしれんな……まあ軍隊に入るまでには大きく育てて来いよ。将来お前自身のためにも、国家のためにも、いざ鎌倉という時には困ることがあるぞ……判ったか……。」

 どうやら半日間で一通り検査も終ったようであった。
                    (宮崎清隆著「青春監獄」(東京ライフ社 1955)
h ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/33/1054372095

33名無しさん:2020/07/23(木) 13:56:35 ID:DK9oyGfI

終戦事情 養成工へのM検
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これは昔、高齢者から聞いた本人の体験談を、パソコンに打ち込んだものです。
以下にある「私」とはその高齢の軍隊体験者の事です。
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  昭和26年3月、ある大手造船会社の本社人事部に勤務していた私は瀬戸内海に面した工場の労務課へ転勤を命ぜられた。その工場は戦時中は軍艦を造船しており、海軍の管理下にある軍需工場であった。
 一週間後、広島にある工場に着任した私は、今春4月に入社する養成工達の教育と、寮での生活指導を業務担当として命ぜられた。

 当時は終戦の混乱もようやく落ちつき、世の中は朝鮮戦争特需で好景気の活況を呈し始めていた。造船業界も戦後の永い沈滞期を脱して一挙に戦時中にも匹敵するような好況に沸いていた。
 必然的に作業員不足が起った。特に将来の現場中堅幹部育成の必要性が痛感され、この会社でも戦後初めて養成工採用を再開することとなったのである。

 この工場では戦時中、高等小学校を卒業した少年達を養成工として採用し工場内の青年学校で教育、訓練していた。
 戦後は青年学校も廃止されていたので、取り敢えず戦時中に青年学校の校舎として使われていた教習所を養成校の寮として転用し、三年間の教育を施すこととなったのである。採用試験はすでに1月に終り、33名の採用が決っていた。
養成工は甲種養成工員として高校卒業予定の13名、そして乙種養成工員としてこの春新制中学校を卒業予定の15才の少年達20名であった。

 手始めに教育計画をたてることになり、先ず4月1日の入社式と、その後の身体検査の要網を作成することにした。
 労務課のロッカーの中にある古めかしい『職工身体検査規程』を引っぱり出して読むと、なんと作業員採用時の身体検査には、性病検査の項目がありM検のやり方まで指定されていたのには、息をとめる程の驚きを覚えた。
 思わず、かつて私が国民体力検査の名の下に強制的に受検させられた性器触診や徴兵検査でされたM検を光景を思い出したのであった。『職工身体検査規程』に書いてあるM検手順はまさしくのその時の軍隊のM検であった。

 戦争当時、この造船場は軍需工場であったため、秘密保持や品質管理などいたるところを海軍による管理規定された工場であった。それだけでなく当時は、働いている工員には春秋の健康診断において海軍式の厳しいM検が行われた様である。社内の規則よりも海軍工廠の規則が総てにおいて優先されていたからである。

 終戦後この工場では新規採用を全くしていなかったので、この『職工身体検査規程』は一度も適用されず、また改訂もされなかった。そのため古めかしいとは言え、この規程は昔のまま生きており、当然、入社時の身体検査は戦時中の海軍工廠の規則どおりに行うことになるのであった。

 4月1日、講堂に紅白の幕を張り巡らし、工場長の形式的な訓示や労務課長の入社後の心得等の話があり、食堂での赤飯の昼食が終わると、午後一時から講堂内部を模様替えして身体検査を始めることとなった。
 私は率先、外科の記録係を買って出て、工場診療所の医師の横へ机を持込み座り込んだ。身体検査は身体測定から始まり、眼科、内科、血沈、外科と進むようになっていた。外科は講堂の隅を紅白の幕で囲った一画で検査した。M検もここで行われた。

34名無しさん:2020/07/23(木) 13:57:57 ID:DK9oyGfI
33名の養成工達は講堂の入口で服とシャツをぬぎ、パンツ一つになると、順番に諸検査を終わり、次第に外科の囲いへ近づいてくる。
 重労働の多い現場作業員として採用したからであろうか、比較的体格の良い子が多かった。いよいよM検の番となった。中学校卒業の乙種養成工から始った。
 5人ずつ、幕の中へ入り、私が検査票を受取ると、手足の運動機能の検査が始まった。ところが、先頭を進んできた小林という少年が両足を思い切り左右に拡げると、ビリッと大きな音がしてパンツの股が裂けてしまった。たちまち、黒い陰毛と太い陰茎が露出した。
 良く見ると、パンツは手作りであった。当時、市販のパンツは少ない上に高価だった。養成工達の家庭は貧しく手縫いのパンツは珍しくなかったのである。しかい、そんなハプニングは序の口であった。
 医師が真赤になった小林少年にパンツを脱いで診察台の上へ仰向けに寝るように命じたのはちょっと意外であった。戦時中、私が受けたM検はすべて起立したまま足を開いて受ける事と決っていたからである。
 小林は破れたパンツを脱ぎ、診察台の上に登ると、両手で前を隠して仰向けに寝た。後に並んだ4人の少年はジッと診察台の上の小林を眺めている。今までM検の儀式を経験したことのない15歳の少年達は恐怖と好奇心の入りまじった複雑な表情で注目している。その視線の集中したところに、小林は身体を固くして天井をにらみながら横わっていた。
医師は診察台の横に立つと、やおら小林の両手を払いのけ、胸の上に組ませると、鼠けい部をグッと押し、次に陰嚢を握って脱腸の有無をたしかめると、いよいよ性病検査に移った。

 医師は先ず小林の包茎の太い陰茎のつけ根を左手でギュツと握り固定すると、右手の三本の指で包皮をめくった。小林は顔をしかめて声にならない声でウッとうめいた。頭を出したピンク色の先端は既にぬめぬめとした粘液で湿めっているように見えた。医師はさらに二度、三度と亀頭のある先端部に向って絞り出すように陰茎をしごいた。竿はみるみる太さを増していき、胸で組んでいる小林の両手に力が入った。
 M検が終り医師が左手を離すと陰茎は勢いよく腹に当って音を立てるほど固く勃起させられていた。凄い勃起が私からもはっきり見えた。その光景を後ろに並んだ4人は息をのんでじっと見つめていた。
 つぎに医師は小林を横臥させ、両脚を折り曲げて両手で抱かせた。医師の指が肛門を押し拡げた。すぐに右手でピシャリと尻を叩くと痔の検査は終った。
 小林の後に続く4人は顔を赤くしてこの儀式を眺めていた。小林が診察台から降りて破れたままのパンツをはき前を押えながら幕の外へ出ると、入れ替りに安田が観念したようにパンツを脱ぎ、診察台に上った。安田は最初から両手を胸で組み目をつぶっていたが、その陰茎は恐怖のためか、すっかり縮んでしまっていた。ただ皮を剥くまでもなく亀頭はほとんど露出していた。次の中村は最初からグニヤリとしていて、医師は包皮をむきあげるのに困っていたようであった。
 乙種養成工全員の検査が終ってから数えて見ると、15歳の彼らの陰茎は殆ど包茎で完全な露茎は20人のうち、わずか2人であった。真性包茎はおらず全員亀頭は露出可能であった。陰毛は一人を除き全員発毛していた。唯一人小柄な菊田少年のみが未だ発毛せず、百合の蕾のような陰茎がスベスベした白い股間に直立していた。検査中に勃起してしまったのは20名中6名であった。
 次の甲種養成工達は年齢が18歳と年長であるだけに包茎の者が5名、露茎が8名であった。また半勃起程度になった者はいたが完全勃起にいたる者はいなかった。

35名無しさん:2020/07/23(木) 14:04:26 ID:DK9oyGfI
身体検査が終ると、全員工場の大浴場で入浴の作法を学ぶ。これは養成工担当の守衛が指導した。
 海軍下士官上りの守衛は最初から六尺褌一つになり、自分も浴場へ入り入浴作法を教える。先ず養成工達の頭を手拭でしっかり鉢巻きさせ、かかり湯をさせた上で浴槽へ入らせる。もちろん浴槽内で手拭を使うことは禁止である。養成工同士の背中の流し合いやシャワーのかかり方までこのとき習うのである。陰部を手拭で隠したり手で押えたりすることは厳禁である。そのためか入社当初、陰部露出を恥しがっていた養成工達も二ヶ月ぐらいたつと、浴場内を全開で堂々と歩き廻るようになり、包皮をむいて洗うようなことも平気になっていた。中には仲間同士くらべ合い、番付を作って回覧する者も出て、教職員会議の話題となった程である。

 養成工は全員工場附属の独身寮生活である。四人一室のベッド生活である。甲種、乙種を適当に取混ぜた部屋割りとした。
 舎監は姫路刑務所出身の看守上がりの中年者であった。独身寮では万事が軍隊あるいは刑務所式の号令である。毎朝の点呼では姿勢矯正が最大のポイントであった。起床後、廊下に整列し点呼を受けるが態度や姿勢が悪いと舎監の手にした竹刀が飛ぶのである。時にはズボンを脱がせて尻を叩くので、浴場では尻に青い筋が何条もついている養成工を見たものである。

 寮生活で最も重い罪は窃盗である。終戦後間もない頃で物資不足は深刻であり、工場内で物品や金銭の盗難が頻発していた。
 三回目の給料日の当日、恐れていた盗難事件が起った。場所は養成工寮、金額は現金三千円であった。当時の三千円は大金である。
 さっそく寮生全員が集められ、厳重な身体検査と所持品検査が実施されたが金は出てこない。結局凝わしい人物を全員で投票させることにしたところ、票はある特定の少年に集中した。この少年は西尾といい模範少年として中学校から推薦のあった子であった。西尾少年は舎監室へ呼ばれ私も立会人として入室した。
 舎監が激しく尋問するが、もちろん西尾は否認する。窃盗を認めれば会社を辞めなければならないことは誰でも知っているので本人も必死で知らぬ、存ぜぬの一点ばりである。
 業を煮やした刑務所看守出身の舎監は、「身体に聞いてみようか。」とすて台詞を残して部屋を出ていった。暫くして戻ってきたときは、木槌を持っていた。
 怪談な顔の私を見てニヤリと笑った舎監は、やおら本人の上着を脱がせ、シャツ、パンツもとり全裸にした。さらに両手を後に廻し縛りあげた。その上で陰茎を掴んで机の上に出させ、恐怖で縮んでいる陰茎の根元を左手で押えると、右手で木槌を握り亀頭めがけて振りおろした。ギャツと悲鳴をあげた西尾少年は二度、三度と打撃を受けると、最後には泣き出し、「すみません。借りただけてす。勘忍して下さい」というと、その場にヘタヘタと倒れてしまった。暫く寮で謹慎させることにしたが、数日後、労務課長の断が下り、荷物をまとめて淋しく工場を去っていったのであった。

 養成工は毎朝寮から工場まで学生服姿で列を組み出勤し、工場に着くとすぐに作業服に着替える。養成工の作業服の下着はインキンが寮に蔓延するのを防止するため越中褌と指定されていた。だから、更衣室では下半身裸になる。毎日、朝晩2回、陰部を露出する事になる訳である。下半身裸といえば検便もそうであった。私の在職中、二度ばかり寮で赤痢患者が発生したが、その都度、養成工全員缶詰めとなって保健所の検便を受けた。四っ這いのまま、裸の尻に検便棒を突込まれるのである。これも海軍式の検便検査である。この検査に興奮する少年もいて鉛筆を使っての検便遊びが流行し、後には年長の養成工が年少の後輩の肛門を掘るような事件が起った。

36名無しさん:2020/07/23(木) 14:04:59 ID:DK9oyGfI
さてお盆の5日間の夏期休暇が終って寮へ帰ってきた養成工達を待っていたものは職種決定のための適性検査であった。
 適性検査にはいろいろあり、握力や背筋力検査から始まって、平行棒や鉄棒、マット等を使っての運動能力検査、学科テストと多種多様であったが、圧巻はやはり身体検査、特にM検と痔、脱腸の検査である。
 戦時中、若い徴用工や養成工で性病にかかる者が実に多かったそうである。その頃はまだ赤線という公認売春があった為、寮生が夏期休暇の間に性病に罹患する事が心配された。「寮の外で夏季休暇の解放感を味った養成工がどんな悪い遊びをしてきたか分らない」、「厳重な身体検査と性病検査が必要である」、と労務課長が強く主張したため、この適性検査の時のM検は軍隊式以上のたいへん厳しくものであった。

 このときも私は進んで記録係を引受け医師の隣で逐一検査の様子を観察した。春の入社検査とは異なり外科検査場には紅白幕も衝立の囲いもなかった。
 全員が並んで待っている場所で、一斉に下着を取らせ全裸にした上で、順番に医師の前に立ち検査を受けさせた。
 まず入念に根本まで包皮をむき上げて亀頭部を診て、尿道口を指で開いて粘膜を調べる。その後、何度も陰茎を前後にしごき不審な粘液の漏出がないか、睾丸を握り痛みがないかを確認して性病検査を行った。陰茎検査が終ると四つ這いにさせて肛門を押しひろげ検査を行った。この時のM検はまさしく海軍工廠の規則どおり行われ、戦時中の徴兵検査と同じ方法であった。
 
 春のM検と違って顔を赤くしたり、小刻みに手足をふるわせて恥ずかしがる少年達はもはやいなかった。それよりも堂々と股間を突きだし、医師から執拗に何度も陰茎をしごかれるため、固く完全勃起させた少年が多く半数以上いた。M検に快感を感じ、一種の期待感をもつようになったためであったろうか
 18歳の甲種養成工に対しては尿道口に粘液が漏出するまで何度も何度も陰茎を入念にしごき、出てきた粘液を顕微鏡で見て性病検査をした。特別に丁寧な粘液検査を行ったので全員が勃起させていた。


 この頃から寮の中での養成工の自慰行為が教職員会議で問題になった。
 当時はオナニーとはいわず、自慰、手淫、自涜(じとく)等と呼ばれていたが、世間一般にも、自慰は体によくない事、体や心の発育に有害である、と考えられていた。したがって養成工達の自慰行為をなんとか押えるのも教職員の役割であった。

 たまたま夏の終わり頃、工場の作業現場で倒れる養成工が二人出た。直接の原因は高熱作業と高い温度とであったが、調べてみると前日の夜、寮で手淫をやっていたことが判った。同室の15歳と18歳の養成工が相互手淫をしていたのである。
 さっそく手淫対策が教職員会議の重要議題となった。丁度その頃、養成工の余暇指導のため、野外活動関係の書籍を集めていた私は、盆休みに神戸の実家へ帰ったとき、三宮附近の古本量で英文の米国ボーイスカウト用ハンドブックを手に入れ、読んでいたが、その中に
 「自慰は悪習であり、断固として男らしく闘わねばならない。悪習防止の訓練としては、夜寝る前に冷水を満した盥(たらい)の中に腰をつけ、足を外に出して腰部を冷やすのが有効である」
という記事があり、これにヒントを得て早速就寝前に冷水浴を実行させるよう進言した。
 この提案が採用され、寮の洗面所の前に大盥を二個備え付け、冷水を満たし、少年達を下半身裸にして腹水を使わせることとなった。足を外に出したまま股を開き、腰から下を冷水にひたす。股を大きく拡げないと、容赦なく舎監の竹刀が飛ぶのである。然し、水浴は結局永続きしなかった。秋風が吹く頃になると誰も嫌がってやらないのである。
 代って、舎監の手淫防止案が採用された。夜、養成工が寝るときはパンツ一枚の裸とし布団の上に両手を出させる。夜中に舎監が抜打ちに各部屋を巡回する。そして、朝の点呼のとき舎監がパンツに精液のシミがないかを点検するのである。同時に寮の大便所を改造し、扉の下部を30センチ程切詰め、外から用便者の臀部が覗けるようにした。このように養成工達の手淫は徹底的に管理された。

37名無しさん:2020/07/23(木) 14:06:46 ID:DK9oyGfI
朝の点呼のとき、パンツに手淫の痕跡を発見されると、その場でのビンタだけではすまない。重い罰が加えられた。最初は舎監室で尻をムキ出しにして竹刀で殴るだけであったが、三度、四度の常習者に対しては、日曜日に特訓と称するシゴキが実施された。
 先ず、懲戒を受ける養成工は教習所付設の相撲場へ連れだされる。舎監や戦時中養成工教育を受けた二十才台の先輩達の手によりたちまち丸裸にされる。陰茎をむき上げて締込みをさせる。その上で一日中徹底的に稽古をつけられるのである。倒れると水をかけられる。竹刀で殴られる。遂にクタクタになり、手淫をする気もなくなる仕組みであった。
 しかし、それでも人生で最も精力旺盛な年令の少年達のことである。秘かに夜のベッドや朝の便所で手淫をする者が後をたたなかった。


 さて翌年四月、二期生が入寮してからは年長養成工によるシゴキが激しく行われた。自分達が新人生時代に受けたM検を二期生に強制したり、舎監が不在の日には寮の廊下でヤカンがけ大会(勃起させた陰茎にヤカンをかけどれだけの重さまで持ちこたえるかを競う)が開かれたようだ。また二期生全員を全裸にしても姿勢矯正訓練も行われたと後日一期生から聞いた。

 寮での相互手淫は常識になっていたが、その程度はまだ手緩い方であった。
 二期生の適性検査のとき、同期生切っての美少年、小川の肛門にかなりひどい裂痔が発見されたのである。入社のときの身体検査では全く異常のなかった少年であった。
 医師が追及すると、小川は「相撲の締込がきつくて、擦れて傷がつきました」という。寮では一期生と二期生を一室に同居させていたので、多分に人為的な裂傷である疑いがあった。然し、本人は頑として「相撲で吊り上げられたときの傷です」と否定する。結局、それ以上の追求はできず、うやむやとなってしまった。

 二期生の適性検査のあと、しばらくした日曜日、私のアパートヘ一期生の甲種養成工岡田が遊びにきた。例の小川少年と同室の寮生である。岡田は漁師の子で腕力が強く、養成工の勝ち抜き相撲では何時も五人抜きの常連であった。暑い夏の午後でもあり、今のように冷房もない時代である。私もパンツ一枚、彼もパンツ一枚になって向き合っての雑談であった。
 話が二期生の適性検査のときのM検の実況談になると、彼のパンツの前が盛上ってくるのが判った。
とうとう自制しきれなくなった私はやおら右手で岡田のものをパンツの上から握ってみたが、彼は一寸表情を堅くしただけで逃げようともしない。押し倒してパンツを脱がせてみると、既に陰茎は屹立し、陰茎の頭は全く剥けて湿っていた。亀頭に指をふれると身体をよじらせる。彼の両手を後へ廻して日本手拭で縛り押えつけて俯伏せにし、「お前、小川にいたずらしたやろ」というと、耳まで赤くして「そやけど、してくれと頼まれたんや」と答える。「ウソツケ、小川がどんな痛い目したか、思い知れ」と、彼の肛門ヘ太い万年筆の軸を突込んでかき廻した。万年筆が思ったほど太くなかったためか、彼はあまり痛がらず身もだえしてハァハァと荒い息をしていたが、最後に身体をねじって横向きになると白い液を大量に噴射した。


 このような養成工残酷物語にも、少年達とのプレーにも、やがて終止符を打つときがきた。昭和三十年代後半、日本経済が高度成長期に入ると、高校、大学の進学率が高くなり、もはや学業、体力ともに優秀な養成工を採用することができなくなった。会社は養成工採用を打切り教習所は廃止され、私も新しい職務につくため工場を後にし、養成工の少年達と別れなけれはならなくなったのである。
 幾年月が流れ、私も熟年といわれる年令に達した。しかし今もなお瞳を閉じ、若かりし日々を憶うとき、必らず瞼に浮ぶのは、今は遠き養成工達の姿である。顔を赤らめ、身体を固くしながらも、パンツを脱ぎ、診察台に身を横たえ、初めてM検を受けたあの健気な少年達の姿である。

38名無しさん:2020/07/23(木) 14:10:25 ID:DK9oyGfI
7月半ばになると合宿説明会があるからと関係者が公民館に集合しました。
このとき色々な説明や注意事項、今後の予定、各自治会の分担などが話し合われ、決まりました。

 説明会も終わって、学校の先生や自治会、婦人会の人が帰って行った後も我々は残されていました。
そして寺澤先生と受検者5人だけになると、先生は受験時の身体検査について話されました。

「陸軍幼年学校の受験では、将来、軍人として将校になるのにふさわしい生徒を選抜するために厳密な身体検査が行われる。諸君らもすでに先輩に聞いて知っているとは思うが、身体検査においてはM検と言ってチンボコを詳しく見る検査も行われる。これはチンボコに病気がないか、十分発育しているかという事を調べるものである。
将校のチンボコが病気では軍人として勤まらないのは当然であるが、それだけでなく、チンボコや金玉の発育状態が将来、将校になるのにふさわしいかどうか詳しく徹底的に検査されるから覚悟しておくように。
 いまから受験の時とおなじように諸君らのチンボコの発育状態を検査して、問題があれば合宿までに医者に診てもらう事にする」
と言われました。

 そして先生は性器検査がどのように行われるか状況説明されました
 「性器検査では検査を受けている者の横に裸のまま並んで待つ。この時、前の者の検査をよく見て受検手順を覚え、間違えないようにすること。
 陰茎検査では包皮を剥き上げて強く握られる。このとき包茎であることは不合格にはならないが、剥き上げたとき痛がると病気と勘違いされて不合格になる可能性がある。だからすぐに剥けるように、また剥かれたとき痛くないように包茎は治しておかないといけない。
 次に金玉の検査をされる。普通の大きさの金玉が二つあれば合格だが片方しかないと不合格になる。同じように脱腸も不合格である。
 性器のあとは肛門検査となる。床に書いてある、手形と足形に合わせて股を広げ四つん這いとなって、脚をピンと伸ばして検査官に高く尻を突き出す。すると肛門をグィッと広げて検査される。痔があると減点となる。
 以上、陰茎検査、陰嚢検査、痔をみる肛門検査で性器検査は終了である。
病気でなければ不合格になることはないが、発育不全では得点が下がるので、包茎は医者に見せて治しておいた方がよいのだ。」
と先生は説明されました。我々5人は全員黙って話を聞いていました。

39名無しさん:2020/07/23(木) 15:30:01 ID:DK9oyGfI
作者      タイトル          雑誌号数    出版月
笹岡作治    ああ、M検物語        薔薇族12号   S48年7月
笹岡作治    地獄の顔          薔薇族15号   S49年1月
笹岡作治    小僧残酷物語        薔薇族17号   S49年5月
笹岡作治    続・若者狩り        薔薇族23号   S49年12月
笹岡作治    百姓哀歌          薔薇族24号   S50年1月
笹岡作治    名もなき草紙作者でありたい 薔薇族25号   S50年2月笹岡作治    若者狩り          薔薇族20号   S49年9月
笹岡作治    若者狩り          薔薇族20号   S49年9月
笹岡作治    褌談議           薔薇族28号   S50年5月
笹岡作治    新・若者狩り        薔薇族31号   S50年8月
笹岡作治    素っ裸の儀式-大日本帝国海軍のM検薔薇族86号 S55年3月
笹岡作治    調教の館"一褌亭"      薔薇族345    H13年1月
東京都・太   少年曲馬団の思い出     薔薇族32号   S50年9月秋田春彦    薔薇の履歴書(小説)     薔薇族18号   S49年7月愛知・M     体臭の思い出(薔薇模様欄)  薔薇族22号   S49年11月
千葉・M     赤銅色の男たち       薔薇族25号   S50年2月
東京・S     もう一度、あんな体験を   薔薇族25号   S50年2月花田勇三    炎と煙(小説)        薔薇族29号   S50年6月江口良一    一兵士の告白(小説)     薔薇族34号   S50年11月1????      素裸の信号訓練      薔薇族38号   S51年3月
竹内幹行    わが戦争体験-2 露営の夜  薔薇族39号   S51年4月
笹岡作治    わが戦争体験-3 海軍内務班 薔薇族40号   S51年5月
村田研之介   わが戦争体験-4 最後のちぎり薔薇族41号   S51年6月
志野三郎    愛と死の果てに 前編 後編 薔薇族48/49号  S52年1月
農上輝樹    現職・自衛隊記〜汗くさい男の記録薔薇族37号 S51年2月
山口淳     潰された夜(小説)      薔薇族57号   S52年10月
農上輝樹    薔薇と軍隊(小説)      薔薇族79号   S54年8月
花里良太    初年兵残酷物語(小説)    薔薇族79号   S54年8月相原誠     愛と死を賭けて ある将校の記録 薔薇族93号 S55年10月
斎藤謙一    文学に現れたM検       薔薇族??号   S61年3月
中茎丁男    我々の興味をそそってやまないM検とは-1
        -羞恥の受験体験、興奮の立ち会い目撃-    薔薇族??号

40名無しさん:2020/07/23(木) 15:31:19 ID:DK9oyGfI
S63年1月
M検願望     我々の興味をそそってやまないM検とは-2
        -婦人会の前で冠状溝まで剥き上げられて-   薔薇族??号     
S63年3月
中茎丁男    続・われわれの興味をそそってやまないM検とは?(2)
        -軍隊体験記録-全裸で砲身を真上に向けて発射!-      
        我々の興味をそそってやまないM検とは-3  薔薇族??号S63年5月

海野武男    全裸の行列! ああ、海軍オトコの検査   薔薇族 ??号  
山本有三    俺の初年兵時代-下        サムソン    
読者欄     刑務所内での秘められたセックス 薔薇族59号 S52年12月芦立鋭吉    終戦残虐秘話-憲兵狩り      風俗奇譚  S35年11月
獅々村裕    味津夫と徴兵検査        風俗奇譚  S37年8月
小田利美    軍隊は男の修羅場        風俗奇譚  S38年1月
松下とおる   かわいい当番兵         風俗奇譚  S38年7月
裸夢坊     明日知れぬ青春(栗花悦声)   風俗奇譚  S44年12月
菅良太     回想録 縄のない緊縛      奇譚クラブ S35年7月
真金鍛次郎   体験記 逃亡徴用工       奇譚クラブ S34年3月増刊号
内田武男    グンタイ・はだか・ふんどし   奇譚クラブ S36年5月
辻正敏     軍隊生活日記          風俗奇譚  S44年7月臨時増刊号
内田武男    水兵生活と褌          奇譚クラブ S32年9月
森井晃     陸軍中尉時代の回想       奇譚クラブ S27年8月
白石悠     大阪陸軍幼年学校        奇譚クラブ S28年10月
龍田信二    稚児兵士幹部候補生       奇譚クラブ S29年6月
香川章二    帝国海軍の私刑         奇譚クラブ S32年12月 昭吾    マゾヒストとしての二等兵時代の思い出 奇譚クラブS31年8月
森原太一    我が軍隊時代の懐古       奇譚クラブS28年3月
和田昭彦    M検の効用            さぶ   1985年9月
水野武男    戦時M検の思いで -後ろを向いて四つん這いになれ- さぶ  
篠田二郎    少年M検体験記          さぶ   1984年12月 
東山友和    実録手記、中学生M検物語     さぶ  
山田力     ああ海軍残酷物語 (海軍少年兵) さぶ  
山口吾一    初年兵快感物語(投稿小説)    さぶ52号 1979年6月       
巨根好き    軍隊には当番兵という慰安夫がいた  サムソン  
中村早男    M検受験準備           ????  
篠田二郎    養成工残酷物語-少年たちのM検-  ????  
        鳴呼海軍予科練習生の悲劇    さぶ

41名無しさん:2020/07/23(木) 15:32:14 ID:DK9oyGfI
野々村剛治   続 軍服の青春         薔薇族??号  1986年?    
川谷謙司    飢餓の墓標      さぶ      1989年1月
篠田三郎    最後のキャンプ      さぶ増刊号   80年1月号
中村早男    自衛官の義務         さぶ  S52年11月号加藤典男    1日だけの兵営生活    さぶ増刊号No25 S59年7月5日
和田昭彦    M検のすすめ           さぶ増刊号1985年4月号
和田昭彦    褌 この愛すべきもの      さぶ  1988年7月
中村早男    ある自衛隊員のカワイイ話    さぶ   1976年4月
野々村剛治   軍服の青春1-浩二の歌    薔薇族増刊号3  1982年夏号
野々村剛治   軍服の青春2-軍隊という男の世界薔薇族増刊号4 1982年秋号
野々村剛治   軍服の青春3-一期一会    薔薇族増刊号5  1983年冬号
野々村剛治   軍服の青春4-再会      薔薇族増刊号6  1983年春号
野々村剛治   軍服の青春5-葉隠譜    薔薇族増刊号7  1983年夏号
野々村剛治   軍服の青春6-流れ星    薔薇族増刊号8  1983年秋号
野々村剛治   軍服の青春7-鬼憲兵    薔薇族増刊号9  1984年冬号
野々村剛治   軍服の青春8-完結編 国破れても武装の恋は 薔薇族増刊号10 1984年春号
芦立鋭吉    男性に加えられた「珍刑」  風俗奇譚   S35年10月
芦立鋭吉    「男」に加えられる責め   風俗奇譚   S35年8月
菅良太     戦争残虐4つの物語      風俗奇譚   S36年3月
芦立鋭吉    赤褌斬り込み隊       風俗奇譚   S36年3月
花田勇三    炎と煙0-海の神輿    さぶ増刊4月号No.8 1980年4月花田勇三    炎と煙3-鉄橋      さぶ増刊7号 No.10

42名無しさん:2020/07/23(木) 15:33:19 ID:DK9oyGfI
ジョージ島袋   米軍性器洗浄所〈幼年学校M検〉風俗奇譚 S46年10月臨時ジョージ島袋   マッサージ師Yさんの思い出  風俗奇譚  S47年3月
ジョージ島袋   アメリカの浣腸院       風俗奇譚  S45年4月
ジョージ島袋   A大学泌尿器科         風俗奇譚  S45年12月
赤間祐助    俺をデブ専にした親父    さぶ増刊号  1979年10月
兵庫県・T    元警察官の告白       薔薇族43号昭和51年8月
獄収一     S少年刑務所体験記 自伝 体験談 
赤山陽介    馬洗い          薔薇族29号  昭和50年6月   
小畑一三    褌談議          薔薇族57号  S52年10月1日
愛読者60代   泌尿器科の診察室     サムソン    読者欄
一読者     精液検査         サムソン    読者欄
前立腺肥大男60代    先生の魔法の指  サムソン    読者欄 
 大学受験のM検(薔薇模様欄)    薔薇族??号   
????          大学受験とM検        カルテ通信49号 

(その他)
宮崎清隆    「青春監獄」-見破られた徴兵忌避  東京ライフ社1955 
木谷      身体検査の歴史とM検-徴兵検査と国民体力検査の時代-       
木谷      身体検査とM検-国民徴用と身体検査- 
木谷      身体検査とM検-国民体力検査
高橋鉄     人性記 現代人の性体験報告   三有出版1968  

(以上4件国会図書館) 
 獄収一     体験告白記 すばらしき拷問   風俗奇譚 S46年10月

43名無しさん:2020/07/23(木) 15:40:19 ID:DK9oyGfI
★徴兵検査2-etoki.jpg
737×481 80 KB 徴兵検査

「おい次ッ、606番、和田兵助!」「はい!」「前に出ろ」
 広い大講堂いっぱいに、こんな珍名が大声で怒鳴られている。和田兵助と呼
ばれた男は、全裸のまま飛び出してきた。「お前が和田兵助か?」「はい」
「遅い! どこをうろついていたんだ!」
口の悪そうな徴兵検査官の軍医の大喝一声、ペコンと頭を下げて前に進みでた
男、
「便所に行っておりました」「何ッ便所……? 今頃便所に何んの用か! 遠
慮せずもっと前に出て、股を開け! おい、お前、病気が見つからんように、
便所でムスコの手入れをしてきたんだろう?」
 こんな冗談とも真剣ともつかないことを口にしながら、軍医はにんやりと顔
を見上げ「おまえの名前を下からよんだら何んというか? 素晴らしくよい名
前だな。」

 時は、日支事変勃発間もない、昭和十三年七月の頃。佐渡の潮風ふきこむ新
潟は柏崎海岸の一角にある柏崎小学校運動場の一隅、数え年二十一歳、今でい
うならば成年の日を迎えた男児のしるしとして、今日は花も実もある現役兵と
しての徴兵適齢の検査日。徴兵検査場には今しも壮丁たちの珍景あれこれがく
りひろげられている。

 日本男子としてこの世に生を享けたからには法律の定めるところ、何人たり
ともこの年には必ず一度は経験しなければならない成年期への関門。国民皆兵、
軍国華やかなりし頃この関門通過に、甲、乙、丙、丁等の合格不合格の名誉と
光栄をになう手形が渡されんとしていた。
 ここは昔上杉の領。音に聞こえた軍都高田城下の軍門に馳せ参じる壮丁は新
入兵の卵といったところ。その壮丁達の顔色はどれも、これも赤銅色。だが内
心は恐らく一種の恐怖的な不安感におのいているのであろう。

44名無しさん:2020/07/23(木) 15:41:01 ID:DK9oyGfI

 今朝は定刻九時から数百名の徴兵適格者によって検査会場はごった返してい
た。会場は戸板でおおざっぱに仕切られていた。軍隊から派遣された検査官は
市町村役場の兵事掛に忙しく指揮していた。診察衣の下からいかめしい軍服の
金ボタンや軍刀をのぞかせながら、威圧するかのように肩をいからせている。

 徴兵検査は人体と名のつくところはすべて隅から隅まで詳しく調べる。はじ
めは型通りの頭の先から爪先までの身体検査に始まり、やがて腰下の方になっ
てくる。動物が這うような恰好の四つん這いになり肛門検査、さらに精密検査
は遠慮容赦もなくびしびしと行われ、最後の仕上げは男子の象徴検査でようや
く無事通過と相成る。

 椅子にどっかり腰を下した軍医は毎度のことといわぬばかり、いかめしい表
情をくずさない。馴れた手つきで、だらりとぶら下った象徴を掌に軽くのせ目
方でも計っているかようだ。と思ったら「あッ!」という声をあげるいと間も
あたえぬ早業で、その掌は半ば程、伸び始めてきている海綿体の表皮にいやッ!
というほど喰らいついてきた。その親指、人差指、中指の三本でにぎりしめ上
下に二、三度しぼるように強くしごく。こんな時、日頃悪い遊びをしている連
中や、女のためにムスコを酷使して花柳病などに冒されている連中は正に顔色
なしである。

45名無しさん:2020/07/23(木) 15:41:53 ID:DK9oyGfI
 ここでは徹底的な花柳病の有無の検査がなされる。かりに花柳病に罹ってい
る事が発見されたら、それこそ大変。ちよっとやそっとでは相済まない。数百
名の壮丁がひしめく満座の中で、大声で「非国民」「国賊」呼ばわりにされて
恥をかかされ、そのよってえたる原因経過を、その附添の村役場吏員連のいる
前で「村の不忠者」として追求されるのである。
 運良くここの検査をゴマ化して、どうやら通過したところで、入隊後の月例
身体検査で発見されたら、なお大変である。即刻、聯隊(連隊)会報によって
重営倉入りというわけである。

46名無しさん:2020/07/23(木) 15:42:49 ID:DK9oyGfI
「おい、和田兵助!きさま、妻があるのか!」「いいえ、まだ独り者でありま
す」「お前、今日まで何回女郎買いに行ったか!」「いいえ、まだ一度も経験
ありません……」「うそつけ!この砲身は相当使った形跡があるぞ!見ろ!お
前のこの砲身は真っ黒じゃないか。かつての激戦を物語る硝煙の名残だ……」
 検査官の軍医中尉は、ニコリともせず顔色一つ変えず、なんらの遠慮容赦も
なく言いにくいことを平気でずはずばと蛮声高く詰問している。身に覚えのあ
る者は、なぜかひっきりなしの便所通いで手入れに余念がない。こんな時この
検査場に肉親や恋人達が自由に立会参観できたら何んと壮観であろう。凡そ花
柳病と名のつくいまわしい病気も減ってくるであろうし、その珍問答に赤面す
るそれらの人々の光景もまた愉快なる哉である。
 和田兵助は相変らず強気の答弁である。
「いや……そんなことは……」
 軍医は半ば真剣、半ば破顔して、
「いやもへちまもない! そうでありましたと率直に答えるのだ。軍医のわし
に発射経歴を誤魔化せると思っておるのか。これが商売で国家に御奉公してい
るのだ。砲身をちょっと握ればそんな事はすぐ判る。大事に使えば一生使える
ぞ。少し兵器は大切にしろよ……」「はい」
和田兵助は赤面しながら顔をうつむけて、頭をかきながら、混雑した人ごみの
中にふんどしをかかえるようにして急ぎ足で姿を消してゆく。

47名無しさん:2020/07/23(木) 15:43:43 ID:DK9oyGfI
 まだその後に何人もが列をつくって、わが番は如何にと待っている。
「おい、次!」「はい、玉木チンズ」「何だァ?」「玉木チンズです……」
「チンズ?チンズとは何だ?」「そうです、チンズ、チンズです」
 軍医はどうも発音が怪しいので、机の上の検査証を手にとって見た。「なん
だ、玉木金治か……」
 この玉木金治、東北弁まる出し、どもるようにして恐る恐る検査官の前で褌
を外した。軍医は小首をかしげながら
「これは何んの跡だ?……お前何か性病をやったことがあるな?」「ありませ
ん」「うそつけ!どうもお前の代物は人並はずれて馬鹿大きく、しかも 馬並
に変形しているではないか……なぜ、ここの毛を剃っているのだ、そばに切傷
のあともあるではないか?第一お前の品物は見たところ実に色が悪いなぁ……」
「はい、すべて生れつきであります」
 こんな露骨な問答がおくめんもなく大声で交わされている。傍らで内心ぶる
ぶる震えながらひとごとではないと、じっと見守っている自分の番を待つ者は
これもまた脛に傷持つ者であろう。地獄の閻魔大王の前に引出された心境もか
くやと思われる。
「まあ、まけておけ!入営まで完全に修理しておくんだな……」「よし、次!」

48名無しさん:2020/07/23(木) 15:44:17 ID:DK9oyGfI
どうやら男のシンボル検査もいよいよ最後の一人となった。この最後の男、
何故か前に進み出るのを嫌がるようにためらっている。
「どうした!一歩前進!、姓名は?」「はい、宮本忠冶です」「どうした忠治!
、もつと前に突き出さんと小さくて見えんぞ。遠慮せず俺の鼻先まで延ばして
みろ!」「は、はい……」「ほう、お前のものはまたバカに小さすぎるではな
いか。小さい頃、病気でもしたのか、それともお前の親が前世において何かい
たずらでもしたその報いかな?」「はい、あの……私が幼い頃、よく寝小便の
たれ流しをやったそうで、それで母がこれを治すために私のホースの頭の先に
お灸をすえたということです。別に病気はありません」「ふぅん、忠治、心配
は無用だ。これは発育不完全という代物で縮小型だ。まわりの雑草ばかり繁茂
していて、御本尊様はさっはり栄養不足ではないか、だが別に戦闘には影響な
いだろう。かえって軽くてよいかもしれんな……まあ軍隊に入るまでには大き
く育てて来いよ。将来お前自身のためにも、国家のためにも、いざ鎌倉という
時には困ることがあるぞ……判ったか……。」

 どうやら半日間で一通り検査も終ったようであった。

49名無しさん:2020/07/23(木) 15:45:40 ID:DK9oyGfI
昭和44年、岐阜県の県立岩○高等学校で、人権無視の健康診断があった。

「週間新潮」よると、I高等学校は男子265名、女子10名の共学校。5月15
日の午後、二年生を全裸とし校内の医務室で男女別 5人一組呼び出し、一人ずつ
全裸とし、ヘルニアと痔を調べるからと全裸の検査を行った。
 翌日校長のもとに届いた検査書によると、大腿部膿瘍1名、陰部白癬(インキン)
3名、痔核7名が報告されていたという。5人一組で、一人ずつ友達の目の前でパ
ンツを脱ぎ全裸となり受検。徴兵検査と同じやり方で行ったのか。
 生徒には事前には知らされてなく、その場で突然全裸になるように言われたよう
だ。「パンツも脱ぐのよ、全部。」と言って出てきた女子は教室に帰って泣き出し、
次回(6月)に受ける予定の者は、学校をやめちゃいたいとまで言い出す騒ぎとな
ったと報じている。

50名無しさん:2020/07/23(木) 15:46:26 ID:DK9oyGfI
 中学3年の時、身体検査でパンツ一枚で並んで保健室の外で順番を待っている
時、先に終わった者から「チョーヘイケンサするからパンツ脱げって。」と言われ
た。「チョーヘイケンサ」の意味はわからなかったが、パンツ脱げって本当かなと
思って心配してしまった。担がれただけだったが、パンツ一枚で並んでいるのでも
恥ずかしいのにパンツを脱げっていうのはショッキングで、今でもというか、今だ
からその時の事を思うと興奮してしまう。
 その頃オナニーを盛んに行っていたし、毛も生えていた。本当に脱ぐ事になった
生徒の気持ちは良くわかる。
 後で知ったのだが、同じ位の年頃で本当にパンツ脱がされた者もいたんですね。
受験を含め「パンツ脱げ」がほとんどなくなったのは、前に書いたように戦後も昭
和30年代後半以降らしいです。

 戦前は健康診断という言い方はせず体格検査と言った。将来軍人になるのにふさ
わしい発育をしているかを検査する事を目的としていた。学校の体格検査において
は、男子生徒は小学生はもちろん中学生でさえ、身長体重の計測も含めてパンツを
取り、今なら人権問題になるチンボコ、キンタマ丸だしの素っ裸で行ったそうです。
 三島由紀夫の[仮面の告白]にも、中学生の時の記述にそれらしき文章がある。
彼は学習院中等科に通う生徒であった。中学生の時から少年愛だった彼は友達の裸
体を見たいという願望を抱いていたが、体格検査という絶好の機会を忘れていて、
逃したと悔やむのである。
 その当時、昭和15年9月26日から国民体力法(昭和15年法律第105号)が施行
された。17歳以上の男子は法律により、職場あるいは学校で体力検査を受ける事
が義務になった。中学生は中学5年(今の高校二年生)になると受けさせられたと
いいますが、実際は学校の判断で中学4年、早いところでは中学3年から行った地
域もあったそうです。
 検査の中身は普通の体力検査と徴兵検査と同じM検を含む徹底的な身体検査だそ
うです。検査が済むと「国民体力検査手帳」が交付され、検査を受けるごとに確認
印が押されるのだそうですから逃れるわけにはいきません。
 やり方は学校により違ったようですが、全員一律の順番で行う方式と、各検査項
目を随意、自分で決めて受ける方式があったらしい。
 ある体験者の場合、検査票が各自に渡されパンツ一枚で自分で決めた順に受ける
方式だったそうです。M検は恥ずかしいので誰もいない時に検査場に入ったが、す
ぐやらず10人位集まったところでようやく始り、結局10人の前で、最初にパン
ツを脱がされて検査を受けたという。

51名無しさん:2020/07/23(木) 15:47:17 ID:DK9oyGfI
 陸軍大将など軍のエリートを養成する陸軍幼年学校という東京、広島、仙台な
どにあったが中学一年又は二年生(13歳)しか受けられない。府立一中など優秀
中学の最優秀生徒が先生に言われて良くわからないまま願書を出したと言うが、徴
兵検査と同じM検があったそうだ。一般筆記試験の後、二日がかりで行われる徹底
的な身体検査でM検は衝立の中で行ったという。
 床に手形、足型が書いてあり、もう一つ大きな〇印とベッドが置いてあるという。
衝立の中には常に受験生二人が入っている。一人は検査を受ける者、次に受けるも
う一人は大きな〇印の中で待つ。徴兵検査と同じM検は型があって難しいので、ま
ごつかずテキパキ出来る様に次の者に見せるのだそうだ。すぐ目の前では前の者が
パンツも取らされ、誰にも見せたことのない恥ずかしい処に正視に堪えない詳しい
検査がおこなわれている。
 次の者はそれを見せ付けられ、パンツの紐を緩め順番を待つ。昔はゴムは貴重な
戦略物資でゴムの代りにパンツは紐、紐だからすぐ脱げないのだ。紐を緩めて待て、
とはすぐ脱げるようにと言う事だけでなく、次は自分の番だという事の自覚を持た
せ、最後の心の準備をさせるという意味もある。恥ずかしい盛りの13歳の少年の
恥部を検査するM検である。13歳といえば、まだ可愛い包茎盛り、それを徴兵検
査と同じに環状溝までひん剥く。なかなか剥けず、包皮を揉みしだいたりして剥き
あげる。無理矢理剥きあげて嵌頓になった場合のためにベッドが用意されていて、
そこで元に戻す。
 13歳といえばまだ発毛の兆しがあるかなきか、あるいは発毛してまだ日が浅い
頃だ。石井磨と言う人が、昭和17年に当時中学生3500人に対し直接検査(M
検)した記録によると、当時発毛の平均年齢は14.4歳だったという。
 13歳の少年にとって見るほうも、見られる方も恥ずかしくてたまらないだろう。
待つ間、目の前の光景に勃ってしまうものも多いそうだ。テントを張ってしまい、
順番がきても、恥ずかしくて前かがみにしていて脱げないそうだ。「どうした、何
をしている」と言われ、顔を真っ赤にして脱ぎ、木の枝のようになったものを晒し
て前に立つ。検査官に「元気があってよろしい。」と言われるが、勃ったものに触
って剥くとなると、堪えられず発射してしまう者も出るそうで、そのため雑巾が用
意されていて、床を汚したものは自分で拭かされるのだそうだ。そういう光景を次
は自分もあのようにされるのだと思いながら待つのである。13歳の少年には残酷
なことである。 

 陸軍士官学校、海軍兵学校いずれも中学5年で受けるのだが、身体検査は最初か
らフリチンのブラブラの素っ裸でしたそうだ。15歳で受ける予科練、14歳の少
年戦車兵、少年航空兵などの少年兵。海軍特別年少兵14歳、高校・大学入試など、
昔は身体検査は裸(素っ裸)つまりまでパンツを脱ぐのが一般的だったようだ。

 兵隊は自衛官、少年兵は自衛隊生徒(少年自衛官)、陸軍士官学校は防衛大学校
と名前は変ったが、いずれも今でもM検が実施されている。つい最近、新聞に人権
無視として出たりしたがやめることはないようだ。

52名無しさん:2020/07/23(木) 15:48:18 ID:DK9oyGfI

 高橋鉄著「人性記」に、旧制高校入試の時のM検の夢をみて漏らしてしまった
(夢精)というのがある。いつの時代にもM検は男子にとっては最大の恐怖。
 戦後、日本男児が徴兵検査におけるM検の恥辱から開放された後も、大学入試の
M検は昭和30年代半ば頃まで続き、今なら人権問題になっているような検査があ
ちこちで行われていたことは前回書いたとおり。
最近では広島県警採用試験の全裸身体検査が問題になった、
以下参照。: サンデー毎日  昭和63年年12月11号
       朝日新聞    昭和63年12月22日

また、つい最近(2001年9月)大阪で勤務成績の悪い若い社員を全裸にして、
チンポ丸出しでキタの繁華街を歩かせると言う事件があったそうだ。 
  



 強制露出といえば徴兵検査。徴兵検査って知ってますか。昭和20年まで、この
国に生を受けた男子は、20歳になると貴賎上下の別 なく、本籍地で徴兵検査を
受ける事が義務だった。
 徴兵検査では、通称M検と呼び、頭のてっぺんから性器肛門まで男の全てを徹底
的に検査したという。兵隊は自分の意思で動いてはならない、徴兵検査はそれを直
接体に叩き込む場でもあったようです。 

 徴兵検査には、婦人会(既婚)や処女会(未婚)の女の見学があった。徴兵検査
場で花婿を探す者もあったという。徴兵検査礼状には「フンドシ着用のこと」とな
っていてフンドシ一枚でてきぱきとうごくのだが、普通、M検はついたての中でや
ったそうだ。昔はよく体操の時、体操着を忘れるとフリチンでさせたりした事もあ
ったそうだが、どこの世界にも間抜けなヤツはいるもので、100人200人とな
ると必ず一人や二人はいるもの。特に都会でサラリーマン生活をしていて、フンド
シなど付けた事がなくパンツをはいて来た物は、ビンタを食らった上、フンドシ姿
も気恥ずかしいだろうに可愛そうにその場でパンツを取らされ、そのまま最初から
フリチンのブラブラの素っ裸で検査場に出ていかなければならなかったという。勿
論隠したり女々しいことは許されない。
 小山内宏著三恵書房1975刊「絵とき日本陸軍」「絵とき日本海軍」に絵があ
る。また、NHK取材班編「赤紙」創元者1997に徴兵検査の素っ裸の写真が載
っている。(この写真は、毎日新聞社1955「写真・昭和30年史」の写真であ
る。)岩波写真文庫101(復刻ワイド判50)「戦争と日本人]岩波書店198
7に素っ裸で こちらを向いている伝説的な写真が載っている。

 本籍地の同級生や、同級の女が見ていてもその前でフンドシ一枚すらつけない露
もない姿で朝から終わりまで地獄の羞恥の一日。強制露出の一日。また九州やその
他の地区では、全員最初から素っ裸で行われたという。都会暮らしのインテリでも、
たとえば九州出身者は、地もとの九州の小学校の講堂とかでうける。徴兵検査令状
には「ふんどし着用のこと」とは書いてなく、忘れるても心配ない。全員、全てが
検査場に着くと、着ている物は全て脱ぎ生まれたままの姿になるからである。朝顔
の蕾でも、ずる剥けでも、大きくても小さくても、毛深くても、色が白くても黒く
ても素っ裸で隠さずてきぱきと行動しなければならない。
 身長・体重は勿論M検さえ全裸、ついたてもない広々とした講堂の中で、様々な
羞恥が繰り広げられる。[赤紙]や「絵とき日本陸軍」「絵とき日本海軍」のとお
り。

53名無しさん:2020/07/23(木) 15:49:22 ID:DK9oyGfI
 当時20歳の身長は5尺5寸といわれ、165センチ台、今の中学生でもそのく
らい。M検では6割が包茎だったという。性器検査は、徴兵検査のハイライト。ま
ず陰嚢をぐいと掴みぐりぐりした上で、親指人差し指で、指を丸めるようにして陰
茎の根元を掴み下に向けて絞るように強くしごくようにも揉みしだく、その上で包
皮を剥く。剥くといっても環状溝があらわになるまで完全に剥くので生易しいこと
ではない。たとえ、ずる剥けの性器でも、さらに引きつるほど剥き上げる、朝顔の
蕾では大変なこと。
 しかし、剥くのよりもっと大変な目にあうこともある。
徴兵検査場では、その雰囲気からして、とても立つような雰囲気ではないという。
最初から裸で女がいたら、とても恥ずかしく立たないで縮みあがってしまうだろう。
これから恥ずかしい事の順番を待つ者もたまらない。包茎の一物を縮こませ、毛の
中に隠れてしまうくらい羞恥にどうしようもないという者もいる。嫌らしい検査官
は剥く代りに先端の皮や少し顔を出している亀頭を指でさする。そして、敏感なと
ころをいじめられようやく起ちあがった頃、もじもじして逃れようとするのを、
「どうした、まだまだ、まだだめだ・・まだ頭が出てこんではないか。もっと先が
出てこんと検査できんぞ…」とやる。勿論出そうになっても手で押さえて隠したり
抵抗は許されない。
次の順番を待つ同じように縮こませている者も、次は自分も同じ目にと思うとたま
らなくなってくる、そして早く女があっちへ行ってくれないかなと祈る。

54名無しさん:2020/07/23(木) 15:49:54 ID:DK9oyGfI
 ところで、日本男児が敗戦により羞恥と屈辱から開放された後もなお、大学入試
などでは、昭和30年代半ば頃までM検が行われていた。昭和30年代の旺文社の
受験雑誌[蛍雪時代]の相談欄などにも、よく載っていた。
 「M検で亀頭部が露出しないと合格しないのでしょうか。」、「包皮が3分の1
程度しかめくれていませんが大丈夫でしょうか。」とか、「無毛と言っても良いほ
どの上、局部は非常に小さいのです、来年入試を受けてもよいでしょうか。
」、「包皮に粟粒のような物が出来、進行する様子も痛くもありません。入試に影
響しますか。」(以上昭和28年12月号)、「小生ふとした事から手淫を覚え、
悪い事とは知りながら行ってきました。陰茎は短小で風呂にも行けません。入試で
はサイズは影響しますか。」(以上昭和32年1月号)

 慶応では学科試験の後、「明日は身体検査を行います。全てを検査します、清潔
にしてきてください。」といわれる。当日、20人一組としパンツ一つで並ぶ、ま
ず最初の者がモデルになって型を説明、肛門検査も行う。人前でパンツを脱ぐなど
死ぬほど恥ずかしいおぼっちゃんでも、順番が来たら直ちに脱ぎ差って、前に立つ。
M検で不合格になった者として、痔婁(千葉大)、副睾丸炎(神戸大)その他があ
る。徴兵検査の型を踏襲し、包皮は環状溝が出るまでばっちり剥き上げられるそう
だ。
当時18歳の平均身長は160センチ、今の中学生位。当時大学に進学するのは、
今よりずっと少ない。中には例外もいたことだろうが、勉強(とオ○ニー)しか知
らない受験生を素っ裸にして性器から肛門まで男の全てを検査したのだ。受験が迫
り、孤独な深夜の受験勉強に疲れすることは皆同じ、嫌な事で進まないと手は股に
向かう。そして引っ張り出し……。もう絶対しないぞと心に誓いつつ、またしてし
まう。一夜に何回も何回もしてしまう、それが受験生だ。
 受験生にとって、M検とはその恥ずかしい秘密を明かす場でもある。毎日一人嫌
らしくいじめているところを晒すのだ。包皮に包まれている者は、精液が恥垢とな
ってたまっている。M検で包茎をめくったら、亀頭にいっぱい黴が生えていたとい
う。
 そんなことを大勢の前でしたという。M検を受けなかったら、どんなに良い成績
を取っても合格はない。順番が来たら、どんなに恥ずかしくともパンツを取り去り
生まれたままの裸で進み出る。肛門検査も手足をピンと伸ばして股を広げ、手形足
型に合わせ検査官の前に尻を晒す。どうしても手足が曲がってしまうらしいが、ピ
ンとなるまで検査をしない。次の順番を待つ者も次は自分があのようにと思うと他
人事ではない。M検場は次々に剥き上げられる受験生の恥部から発する恥垢の匂い、
クーパー氏腺の匂いなど男の匂いでいっぱいになるそうだ。

55名無しさん:2020/07/23(木) 15:50:27 ID:DK9oyGfI
昭和30年、九州大学の受験願書に添付する身体検査票に、性器・肛門の検査項
目が追加されたと蛍雪時代に乗っている。
願書に添付する身体検査票に通常の身体検査は従来からあったのだが、新たに大学
病院で性器・肛門についても検査を受け提出するとある。
 つまり受験時の身体検査以外に、願書を出す段階で、事前に大学病院の厳重な検
査をされるのだ。大学病院というところは普通の病院の外来ではない。学問研究や
医学生、インターンの修習・実習のため、インターンや看護婦が何人も見学し、受
験生一人に対し、教授が検査のあと、何人ものインターンが一人ずつ交替で触って
検査し、検査実習をする。受験生にしてみれば、拒否すれば願書提出できないのだ。
インターンの目の前でパンツをとらせ、拒否出来ない受験生に自慰行為をさせ、平
常時と勃起時のサイズや角度、硬さ、採取した精液の量、睾丸のサイズなど、普通
ではなかなかできない検査実習や、「受験生」という名の健康な青年の貴重なデー
タでも取ることでもできる。1000人いれば貴重なデータとなる。「学用患者」
といって、こういうことは大学病院では広くあるという。

 昭和30年台後半の受験雑誌にも[大学入試では、裸になるのでしょうか。]と
いう相談がのっていた。その頃はもうなくなっていたようだが、多分先輩か何かの
話を聞いたりしたのだろうか。
その受験生の心配は痛いほどよくわかる。オナニー盛りの男子として、毎日毎夜い
じめているところだ。身体検査では上半身は裸になるのだから、心配していること
は、パンツを脱ぐか、つまり全裸にならなければいけないのか、という事だ。少し
前までは本当に全裸にならねばならなかったのだ。受験雑誌の受験案内には、「男
子のみ性器検査あり」とか書いてあったという。
 M検は昭和33年4月の売春防止法施行以後公式的にはなくなったことになって
いるが、いくらかはまだ実施ししていて、プレーボーイ誌によると京都府立医科大
学では昭和40年代後半になってもまだやっていた。入試と卒業時に検査。入試で
包茎の受験生のをめくり上げたという。まだ生まれて一度も剥けた事がない、勉強
とオナニーしか知らないまじめな受験生も全て裸に剥いて検査していたのだ。そう
いうまじめな受験生にとって、裸になるのでしょうかという心配は良くわかる。な
お、今でも防衛大入試や自衛隊生徒(少年自衛官)、自衛官、警察官の試験などで
行われているという。

56名無しさん:2020/07/23(木) 15:51:05 ID:DK9oyGfI
男子中学生のおねしょ・・狭い尿道を手術で治す
 h ttp://www.yomiuri.co.jp/iryou/renai/20020726sr11.htm
6年生の時も冬には週3、4回夜尿があり、中学1年生になった98年、D子さんの疲れもピークに。そんな時、新聞記事で愛知県の豊川市民病院の小児泌尿器科外来を知り、夏休みにE君を連れて行った。 1か月後、尿道口から細い管を通して造影剤を入れ、排尿させてエックス線で観察する検査を行った結果、尿道の一部が狭いことが判明。年末に再度行った造影検査で、右の尿管への逆流が見つかった。翌99年3月、E君は手術を受けた。尿道口から内視鏡を挿入、尿道の狭くなった部分に長さ5、6ミリの切れ目を入れ、尿道を広げる手術だ。逆流は消え、尿の勢いも強くなり、夜尿は徐々に減少した。中学3年生だった一昨年の5月を最後に、それ以来、1度も布団をぬらしたことはない。
 D子さんは「夜尿のない毎日が夢のようです」と喜んでいる。 ただし、造影検査は激痛を伴うため、むやみにはできない。手術自体も、子ども専用の小型の内視鏡が必要なので、夜尿症に詳しい専門医の診断と治療が欠かせない。
○川市民病院で、昨年春までの5年余に、膀胱や尿道などの奇形が疑われる夜尿症の子108人(5―17歳)に造影検査を行った結果、尿道が狭い子は17人、逆流のある子は25人いた。後者のうち尿道も狭い4人(E君を含む)は手術し、いずれも逆流が消え、夜尿も無くなった。

57名無しさん:2020/07/23(木) 19:20:52 ID:DK9oyGfI
膀胱尿管逆流症の診断には通常次の検査が必要です。
1.超音波検査(エコー):腎実質の変形(腎瘢痕)や腎盂腎杯の変形をチェックします。
2.ウロダイナミックス検査(尿流測定、膀胱内圧測定、尿道内圧測定など)

膀胱にどのくらい尿が貯められるか、その時膀胱は緊張して尿を貯めているのかリラックスしているのかなどの膀胱の機能と膀胱から尿が逆流したりしていないかなど膀胱と尿道の形態を調べる検査です。具体的には,膀胱容量、膀胱内圧、尿道内圧、尿流量、膀胱の形、膀胱尿管逆流現象の有無、残尿の有無などを調べるためです。

検査は膀胱鏡検査室とは違うレントゲンの撮影できる検査室で行います。膀胱鏡検査台に乗ってもらって固定して行います。尿道口からほそいチューブを膀胱まで入れます。
チューブは中が2つの通り道に分かれていて1つからはレントゲンで写る薬(造影剤)の入ったお水を注入し、もう1つの通り道では膀胱の圧を測定します。膀胱内圧を正確に測定する場合は、もう1本お尻からもチューブを入れます。

これは膀胱の働きを調べると同時にレントゲンで写る造影剤を膀胱内に注入することで膀胱の形、膀胱尿管逆流現象の有無、最後に排尿してもらって尿道の状態、残尿の有無を調べるためです。
またチューブが正しい位置にあるかどうかも確認できます。


3.排尿時膀胱尿道造影:超音波(エコー)検査もありますが、レントゲンによる排尿時膀胱尿道造影が最も一般的で最も確実です。尿道からカテーテルを膀胱に入れそこから造影剤(バリューム)を流して尿管、膀胱、尿道の状況を観察します。膀胱尿管逆流症の有無、尿管や腎盂腎杯の形態、膀胱や尿道の形態等がわかります。別の レントゲンのある部屋で行います。胃の造影と同じ台で脚を広げて固定する支台がついています。
4.膀胱尿道鏡:膀胱尿管逆流症に合併する尿道の異常や尿管口付近の異常の有無を検索します。膀胱鏡検査台で開脚し固定して行います。
経尿道的手術:尿道からメスのついた手術用膀胱鏡を膀胱内に挿入し手術する事が出来ます。尿管口(尿管の膀胱への出口)にテフロンやコラーゲン等を注入する方法で60-80%の成功率といわれています。徐々に注入物は消失する可能性があり、無症候性に膀胱尿管逆流症が再発し腎機能に悪影響を与える可能性も否定できません。
でウロダイ・・・かっこいい?名前の検査ですが・・・おしっこを貯めて来院。呼ばれて、中の専用トイレの容器に放尿で量と勢いの検査下半身裸にされて(もろだし)、膀胱に器具をあてて残尿の確認なんかあっちこっちに器具をつけられて(看護婦に)、おまけに肛門に器具を挿入されて、抜けないようにテープで固定そして、先生が来てちんちんからも管を入れるそう・・・皮をむかれて、消毒されて(看護婦も見てます)そして細い管を尿道に・・・(つらかった・・深呼吸しろったって・・・)
 その後、説明されて検査開始生理食塩水を入れるそうで・・・冷たい物が膀胱に入ってくるのを感じました初めておしっこをしたくなったら合図をしました。続いて、ゆっくりになって、我慢をします。我慢できない位で声をかけます。そのまま、おしっこをするように力みます・・・・を繰り返しました。そして、すべての器具をはずされて、お尻やちんちんを拭かれて着替えて終わり着替えてるときにもうれつにおしっこをしたくて、出たら慌ててトイレへ・・・放尿時に・・・激痛・・・最後に血がしたたるし・・・最悪でした

58名無しさん:2020/07/23(木) 19:22:15 ID:DK9oyGfI
膀胱尿管逆流症の診断には通常次の検査が必要です。
1.超音波検査(エコー):腎実質の変形(腎瘢痕)や腎盂腎杯の変形をチェックします。
2.ウロダイナミックス検査(尿流測定、膀胱内圧測定、尿道内圧測定など)

膀胱にどのくらい尿が貯められるか、その時膀胱は緊張して尿を貯めているのかリラックスしているのかなどの膀胱の機能と膀胱から尿が逆流したりしていないかなど膀胱と尿道の形態を調べる検査です。具体的には,膀胱容量、膀胱内圧、尿道内圧、尿流量、膀胱の形、膀胱尿管逆流現象の有無、残尿の有無などを調べるためです。

検査は膀胱鏡検査室とは違うレントゲンの撮影できる検査室で行います。膀胱鏡検査台に乗ってもらって固定して行います。尿道口からほそいチューブを膀胱まで入れます。
チューブは中が2つの通り道に分かれていて1つからはレントゲンで写る薬(造影剤)の入ったお水を注入し、もう1つの通り道では膀胱の圧を測定します。膀胱内圧を正確に測定する場合は、もう1本お尻からもチューブを入れます。

これは膀胱の働きを調べると同時にレントゲンで写る造影剤を膀胱内に注入することで膀胱の形、膀胱尿管逆流現象の有無、最後に排尿してもらって尿道の状態、残尿の有無を調べるためです。
またチューブが正しい位置にあるかどうかも確認できます。


3.排尿時膀胱尿道造影:超音波(エコー)検査もありますが、レントゲンによる排尿時膀胱尿道造影が最も一般的で最も確実です。尿道からカテーテルを膀胱に入れそこから造影剤(バリューム)を流して尿管、膀胱、尿道の状況を観察します。膀胱尿管逆流症の有無、尿管や腎盂腎杯の形態、膀胱や尿道の形態等がわかります。別の レントゲンのある部屋で行います。胃の造影と同じ台で脚を広げて固定する支台がついています。
4.膀胱尿道鏡:膀胱尿管逆流症に合併する尿道の異常や尿管口付近の異常の有無を検索します。膀胱鏡検査台で開脚し固定して行います。
経尿道的手術:尿道からメスのついた手術用膀胱鏡を膀胱内に挿入し手術する事が出来ます。尿管口(尿管の膀胱への出口)にテフロンやコラーゲン等を注入する方法で60-80%の成功率といわれています。徐々に注入物は消失する可能性があり、無症候性に膀胱尿管逆流症が再発し腎機能に悪影響を与える可能性も否定できません。
でウロダイ・・・かっこいい?名前の検査ですが・・・おしっこを貯めて来院。呼ばれて、中の専用トイレの容器に放尿で量と勢いの検査下半身裸にされて(もろだし)、膀胱に器具をあてて残尿の確認なんかあっちこっちに器具をつけられて(看護婦に)、おまけに肛門に器具を挿入されて、抜けないようにテープで固定そして、先生が来てちんちんからも管を入れるそう・・・皮をむかれて、消毒されて(看護婦も見てます)そして細い管を尿道に・・・(つらかった・・深呼吸しろったって・・・)
 その後、説明されて検査開始生理食塩水を入れるそうで・・・冷たい物が膀胱に入ってくるのを感じました初めておしっこをしたくなったら合図をしました。続いて、ゆっくりになって、我慢をします。我慢できない位で声をかけます。そのまま、おしっこをするように力みます・・・・を繰り返しました。そして、すべての器具をはずされて、お尻やちんちんを拭かれて着替えて終わり着替えてるときにもうれつにおしっこをしたくて、出たら慌ててトイレへ・・・放尿時に・・・激痛・・・最後に血がしたたるし・・・最悪でした

59名無しさん:2020/07/23(木) 19:23:20 ID:DK9oyGfI
大学病院だけでなく地方の一般の中核病院でも、若い医師や医学生の研修・実習を受け入れています。自分もそのひとりです。この夏休みにも医療現場の実態を身分しました。泌尿器科では夜尿症外来での基本的な問診や診察や手技の実習です。夜尿症は男子が女子の2倍くらいです。

夏休みは多くの小中学生が、さまざまな疾患や病気で病院に来ます。

中学二年生のS君は、小学校のときから夜尿症が続いていて、三年生の修学旅行はぜひ楽しんで行きたいということで、お母さんと診察を受けに来ました。

よく目にする普通の中学生で、昨年の春休み(中1)、初めて受診、ブレザーの制服姿で、まだ声変わりがすんでいないようでした。

通常5才を過ぎても夜尿が多くみられる場合を夜尿症といいます。夜尿症は6才で6〜15%、10〜11才を過ぎると2〜3%にみられ、男の子の方が多い傾向にあります。

5-6歳までは焦らず、慌てずで治っていく例も多いのですが、小学校中学年、高学年以上で持続する場合は、外陰部や尿路系疾患、膀胱尿管逆流症や腎尿路奇形等の器質的疾患や膀胱機能の異常等の機能的疾患が考えられます。また、第二次性徴遅延型などもあります。

「生活指導」・「行動療法」・・・夜尿アラーム療法、点鼻薬など薬物治療だけでなく、病院の泌尿器科で徹底的に検査してもらうことが大切で、最近はいい検査器具が揃ってますので、検査して問題が確定すれば手術や治療で、オネショしていたのがウソのように完治するでしょう。

夜尿症の原因に、膀胱尿管逆流症など膀胱機能が悪かったり、尿道が細かったりする泌尿器科学的異常がある場合が多くあります。

○膀胱尿管逆流症
確定診断は排尿時膀胱尿道造影にて行います。膀胱尿管逆流症は尿路感染症で発見されることが多い疾患ですが尿失禁や夜尿症の検査で発見されることもあります。

膀胱尿管逆流症の診断には通常次の検査が必要です。S君も治すためには、こうした検査を受けることになります。恥ずかしい盛りの中学生が恥部をすっかり開陳し、そのうえ何度も、長時間、完全に掌中に委ねるとはとても恥ずかしいことのはずです。

よく駅のトイレで中学生くらいの男の子がさも恥ずかしそうに、左右に気を使って両手でしっかりガードしてるのをみかける。でも、修学旅行でオネショするのと、密室の中で、ちょっとの間開陳してもらうのとどっちが恥ずかしいのでしょう。

S君には、問診診察や尿検査、血液検査などの基本検査の後、まず性器と下腹部の触診および視診をすることにしました。普通は下半身裸になってもらすのですが、思春期で最初でもあるので、ベッドに
ズボンをはいたまま寝てもらいます。そして男の子の大切なところを見せてもらいます。

そして、寝たところでズボンのバンドを緩めます。そしてチャックをはずし、前をはだけます。S君はあっ!いったひょうじょうです。ちょっとだますようなかたちです、そしてトランクスを下げ下腹部だけ出します。

下腹はまだすべすべしてます、そこを触診していきます。そしてさらに下げて男の子の器官を見せてもらいます。

付け根に発毛の兆しがあります。そしてまだ硬く包まれた部分を開き,陰のうの内容を触れます。何しろ多分誰にも触れさせたことのないところのはずだから、とても恥ずかしいらしく緊張が見られることもあり、この部分はこれから詳しく徹底的な検査が行われるので、その心の準備程度にしました。

60名無しさん:2020/07/23(木) 19:25:06 ID:DK9oyGfI
すぐ終わりトランクスを上げ、チャックを上げ、ベルトを元に戻してあげると元の中学生に戻りりましたが上気してたようです。

一番恥ずかしい年頃でもあり、これから先予定してる本格的な数々の検査に耐えられるかといったところです

1.超音波検査(エコー):腎実質の変形(腎瘢痕)や腎盂腎杯の変形をチェックします。
2.ウロダイナミックス検査(尿流測定、膀胱内圧測定、尿道内圧測定など)

膀胱にどのくらい尿が貯められるか、その時膀胱は緊張して尿を貯めているのかリラックスしているのかなどの膀胱の機能と膀胱から尿が逆流したりしていないかなど膀胱と尿道の形態を調べる検査です。具体的には,膀胱容量、膀胱内圧、尿道内圧、尿流量、膀胱の形、膀胱尿管逆流現象の有無、残尿の有無などを調べるためです。

検査は膀胱鏡検査室とは違うレントゲンの撮影できる検査室で行います。膀胱鏡検査台に乗ってもらって固定して行います。尿道口からほそいチューブを膀胱まで入れます。

チューブは中が2つの通り道に分かれていて1つからはレントゲンで写る薬(造影剤)の入ったお水を注入し、もう1つの通り道では膀胱の圧を測定します。膀胱内圧を正確に測定する場合は、もう1本お尻からもチューブを入れます。

これは膀胱の働きを調べると同時にレントゲンで写る造影剤を膀胱内に注入することで膀胱の形、膀胱尿管逆流現象の有無、最後に排尿してもらって尿道の状態、残尿の有無を調べるためです。
またチューブが正しい位置にあるかどうかも確認できます。

3.排尿時膀胱尿道造影:超音波(エコー)検査もありますが、レントゲンによる排尿時膀胱尿道造影が最も一般的で最も確実です。尿道からカテーテルを膀胱に入れそこから造影剤(バリューム)を流して尿管、膀胱、尿道の状況を観察します。

膀胱尿管逆流症の有無、尿管や腎盂腎杯の形態、膀胱や尿道の形態等がわかります。別の レントゲンのある部屋で行います。胃の造影と同じ台で脚を広げて固定する支台がついています。

4.膀胱尿道鏡検査:膀胱尿管逆流症に合併する尿道の異常や尿管口付近の異常の有無を検索します。膀胱鏡検査台で開脚し固定して行います。
経尿道的手術といって、尿道からメスのついた手術用膀胱鏡を膀胱内に挿入し手術する事が出来ます。尿管口(尿管の膀胱への出口)にテフロンやコラーゲン等を注入する方法で60-80%の成功率といわれています。

徐々に注入物は消失する可能性があり、無症候性に膀胱尿管逆流症が再発し腎機能に悪影響を与える可能性も否定できません。

そして、次回は膀胱尿道について精密検査するので、膀胱鏡検査の予約をいれました。泌尿器科の検査はみな恥ずかしい検査ですが、この膀胱鏡検査は特に恥ずかしい検査ですが重要な検査です。

S君にも、まずオチンチンの先から管を入れて膀胱の中を検査しますと、その説明をして重要な検査だからと納得してもらい、次回2週間後の日時を説明してわかれたのです。

私はあのときのきれいな肌、触ったときの秘部の柔らかな感触、硬く包まれたもの、思春期の男の子特有のあのたまらない恥じらいのしぐさを思い出した。2週間後からは固定して本格的に診るのだ。

61名無しさん:2020/07/23(木) 19:29:01 ID:DK9oyGfI
出勤してすぐ、泌尿器科の受付をし、仕事をしていました。夕方になるかな?と思っていたら意外にもお昼休みに呼び出しがありました。
 問診の後、エコーを撮ってみたのですが、何も無いようです。でも、これで無罪放免にはなりませんでした。人間ドックで「11mmの突起状」などと書かれた紹介状を渡されているので、いい加減に「大丈夫だろう」とは言えないのでしょう。当然ですね。

 「一番はっきりするから、やっぱり見てみようよ」と説得され、膀胱鏡検査を受けることになりました。

 内視鏡室と書かれた部屋に入ると、そこには検査用の椅子が置かれていました。どこかで見たことのある、あの婦人科の診察台のような椅子です。看護師に促されて、ズボンとパンツを脱いで、その椅子に座りました。両足の太ももを半円筒状の台に乗せると股を開いた格好になります。麻酔はゼリーと座薬でするのですが、担当するのは若くてきれいな看護師さんでした。でも、恥ずかしいと思う余裕さえありません。日常ではありえない格好で下半身を剥き出しにして看護師と向かい合うという異常な光景の中、私の頭の中は、前日までに読んだ、闘病記サイトの「激痛」「地獄の苦しみ」という言葉で満ち溢れて、きっとあそこも縮み上がっていたに違いありません。

 椅子を回転させて看護師さんの方を向いたとき、目の前をカーテンが覆いました。下半身だけがカーテンの外にある状態です。そして、あそこの先から麻酔のゼリーが注入されていきました。先っぽに痛みが走りますが、それほどの苦痛ではありません。座薬も入れられて、「15分ほど待ってください」と言われて椅子を起こされたのですが、見ると、あそこにガーゼを当てて、緘しのようなもので挟まれています。あそこにハサミのようなものをぶら下げたままの格好で、麻酔が効いてくるのを待っていました。

 しばらくして、主治医がやってきて、「さあ、やろうか」と言って、始まりました。もう、逃げられません。

 また、椅子が倒されて、仰向けになりました。やがて、あそこの先に痛みを感じたと思ったら、硬い棒が体の中に入ってきました。「口を大きく開いて。深呼吸して」という先生の言葉に逆に緊張してドキドキしながら、「グッグッ」と痛みをこらえていました。しばらくすると、突然ふっと軽くなる感じがしました。「膀胱に入ったんだ」と直感して、「入ったんですか?」と聞いてみたら、「入ったよ」と言われて、ちょっと安心しました。というのも、事前にホームページで読んでいた「激痛」「地獄の苦しみ」というほどの痛みはなかったからです。「もう、入ったのか。良かった」って、安心したんです。でも、それは間違いでした・・・。

 膀胱鏡って360度は見えないんですね(70度と30度の鏡を使ったと検査後に仰っていました)。膀胱内を見渡すためには、膀胱鏡を上下左右に動かす必要があるんですね。

 「力入ってるなあ。もっと力抜いて」と言われて、お腹のあたりを押さえられながら、膀胱鏡を上下左右に大きく動かされました。その痛いこと!なんとか力を抜こうとするのですが、動かした時のグサッという感じの痛みが来ると、無意識に体に力が入ってしまいます。

 しばらくして先生が「もう、やめよう」と言って、膀胱鏡を抜きました。カーテン越しに見たそれは、まるでゴルフクラブを持っているかのように見えました。

膀胱鏡の写真(ホームページのカタログ写真から)

 検査が終わっても、しばらくは放心状態で、下半身裸で股を広げたままボーっと椅子に座っていました。看護師さんが渡してくれた紙で下半身を拭くと、そこには血が・・・。

 麻子はもっと苦しんだんだから、もっと痛い検査や治療にも耐えたんだから、こんなことで痛いなんて言っていたら、麻子に恥ずかしい。頭ではそう思うんです。でも、駄目ですねえ。体が痛みを感じるんです。そして、心が恐怖を感じるんです。ほんとに、情けないことですけど。

 診察室に戻って先生から結果を聞きました。最初にパッパッと見た限りでは何も無い感じだが、すぐに出血してきて何も見えなくなった。99%大丈夫だと思うが100%ではないので、念のためにCTを撮って確認しよう。ということになりました。

 結果はまた後でと言うことだったのですが、6時を過ぎても呼び出しが無いし、どうしたんだろう?と思っていると、先生から電話が入りました。「結論から言うと、何も無い」ということでした。

62名無しさん:2020/07/23(木) 19:32:11 ID:DK9oyGfI
椅子の座面には汚れてもいいようにシートが敷いてあり、
   下着を取ってそこに座るように言われました。
   膀胱鏡は、尿道口から小さなカメラを入れて、膀胱の中を見る検査です。
   本来ならば、他人様に見せることのない部分を、お医者さまとはいえ見せなければなりません。
   下半身の病気って本当に恥ずかしい。
   けれど治すための検査です。
   しばらく座っていると、看護婦さんが尿道口周辺の消毒にやってきました。
   中絶手術後の出血のため、生理用ナプキンを使っていたのですが、
   ナプキンが肌に合っていなかったのか、かぶれが出ていて、
   この消毒がひどくしみました(泣)。
   検査も痛そうだなぁ。。。
   半分腰が引けていました。
   先生がみえて、検査が始まりました。
   どれくらいの大きさのカメラなのか、確かめようと思っていたのですが、
   モニターの方を向いているように指示があったので、見ることができませんでした。
   痛かったかどうか、と聞かれると、痛くなかった答えます。
   尿道口にカメラが当てられ、押された感覚はありました。
   そのあと少し違和感はありましたが、尿道を通ってしまうと、
   あとは膀胱に水を注入して膨らませ、内部を見ていくだけなので、
   検査自体は胃カメラのときよりも短くすみました。
   検査結果は検査室を出て、泌尿器科の診察室で聞きました。
■■■膀胱鏡検査■■■
◎方法
・下半身脱衣し砕石位
・両下肢に足カバーをつける
・腰から下はバスタオルで被う
・外陰部・尿道口を清拭・消毒→男性は尿道麻酔
・膀胱鏡挿入

◎看護上の留意点
・露出は最小限に
・危機に対する不安感軽減→カーテンで腹部を横に仕切る
・無菌操作
・挿入時は口呼吸で腹部の力を抜く
・室内は薄暗くし、保温に留意
・一般状態の観察
・検査後は水分を十分に摂取し排尿を促す
・検査後、排尿痛や尿道出血を伴う→事前に説明

63名無しさん:2020/07/24(金) 09:28:57 ID:DK9oyGfI
風俗奇譚」 昭和37.年8月号「読者サロン」より

大勢の一糸まとわぬ壮丁が整列して、検査官の号令一下行動する検査場のながめは、すばらしいものでした。
徴兵検査でかかせないのはM検で、当時の青年たちの恐怖のまとでした。徴兵検査では、これが公衆の面前で、何の遠慮容赦もなく行われ、軍医の手でつかまれたり、周りで見学している婦人会の人の視線がそこに集まるのを感じて、全身が厚くなる思いでした。当時は、性器の検査は、入試の身体検査や国民体力検査でも行われ、
何度か経験がありましたが、女性を交えてた大勢の前で検査されたのは初めてであり、そのときの光景を思い浮かべ、そのことだけで、徴兵検査が再開され羞恥と屈辱の検査風景画実現してほしいものです。検査が済むと入営です。
入営時の身体検査は体重とM検だけで性器の検査が以下に重視されてたかがわかります。・・
入営後、古兵によって加えられるヤキ入れなど、私刑が皆初年兵を裸体にし、時には褌まで取らせて行われたのは全国同じだったでしょう。・・
     h ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/33/1054372095/
     h ttp://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=boylove&vi=1190343261&rm=100

64名無しさん:2020/07/25(土) 08:58:55 ID:DK9oyGfI
>>30
「808番 和田平助 おらんか」・・
軍都長岡における羞恥の徴兵検査場 広い徴兵検査場 素っ裸の壮丁に加えられる羞恥の検査風景
( 宮崎清隆著「青春監獄」(東京ライフ社 1955)「青春監獄」)

65名無しさん:2020/07/25(土) 09:06:43 ID:DK9oyGfI
>>43-48

軍都長岡における徴兵検査風景 婦人会も見学する素っ裸羞恥の徴兵検査場
(宮崎清隆    「青春監獄」-見破られた徴兵忌避  東京ライフ社1955()

66名無しさん:2020/07/25(土) 19:27:02 ID:DK9oyGfI
徴兵検査の光景
検査を受けることは国民(厳密には男)の義務であり、従わぬ、あるいは躊躇する者には容赦なく罵声が浴びせられ、さらには木刀で強打されることもあったという。

体格
徴兵された新兵は、現代の健康診断でも行われているのと同様に身長、体重、胸囲、視力などを測定した。 視力は裸眼視力0.6以上、20度(現在の単位だと±2Dに相当)の眼鏡をかけて各眼0.8以上で色盲でないこととされた。後に戦局の悪化に伴い色盲の条件は廃止された。
体格についても脂肪過多、扁平足、腫瘍、禿頭などの異常が無いことを求められた。 身長は155センチ以上を優良とし、145.5センチ以上が合格とされた。 アメリカ軍の基準が170センチ以上だったことを考えると、欧米の検査基準に比べると著しく低いが、当時の日本人の平均からするとこれが許容できる範囲だった。 これですら、戦局悪化に伴い条件が緩和されていった。

身体欠損
五体満足であり、身体に欠損箇所が無いことが求められた。 このため、徴兵逃れのために自分の指を切り落とす者も現れたほどであったが 戦局の悪化に伴い、小指など一部欠損者については合格とされるようになった。 右手の親指か人差し指が欠損している場合は銃を持つことが出来ないため不合格とされた。
入れ墨は欠損とはならなかったが、漁師が身元確認のために入れているなどの理由が無い限り、犯罪者予備軍のような扱いを受けた(自衛隊では不合格となる)。

性病検査
性病の有無も重要な検査項目であり、軍医の前に立たされ、一切の衣類を脱ぎさる旨の指示を受ける。 丸裸にされた被験者は体の隅々の器官を軍医の鋭い目のもとにて観察検査されることになる。 特に、陰部および肛門部は詳細に検査され、性病や痔疾の有無がチェックされた。これを世間ではM検と呼んだ。
以下、規則第二十三条を元に検査の具体的手法の一部を紹介する。

陰部之検査
陰部を検査する際には、被験者に褌を取るように指示し、両足を開き、軍医の前に立つように命令した。鼠蹊部・陰茎・陰嚢・精系・睾丸・副睾丸の異常の有無を慎重に観察・触診し検査する。 その後「排尿に困難はないか、残尿はないか」と詰問する。 続いて、軍医は自らの手を用いて、被験者の陰茎の尿道球部より口部に向かって尿道を按圧して、膿が無きこと硬結の無きことを検査する。 必要があるならば、その場で排尿を指示し、その尿の性状を検査した。 (この検査は現代人の感覚からすれば耐え難い屈辱である。だが、当時の医療水準では大変重要な検査であった。この検査は性病の有無の確認を主目的としている事が推測できる。当時の性病は有効な治療法が乏しく、戦地で性病が蔓延した場合、軍の運営上の危機に直結する。このような事情から上記のような検査が行われたのであろう。)
肛門之検査
肛門と会陰を検査する際には、丸裸の被験者に体を前屈して両手を床上にて支えて臀部を高く上げるようにまず指示する。 軍医は、自らの両手で臀部におき、肛門部を大きく左右に開いて、痔核・痔瘻・脱肛、その他病変の有無を詳細に検査した。

体力検査
欠損が無く体格が許容範囲であっても一定以上の体力が無いと軍務は不可能であるため、筋力などを見る簡単な検査が行われた。
体力検査は地域によってやや異なり、農家の多い加古川で検査を受けた三島由紀夫は十貫(約40キロ)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの体力検査を受けた。
呼吸器系
入営後は集団生活を送るため結核などの呼吸器系の感染症は蔓延しやすく、呼吸器が弱い者は長時間の行軍が出来ないため、身体検査と同時に検査が行われていた。特に結核と思しき症状は周囲への感染を防ぐため即日帰郷となった。
三島由紀夫は検査に合格したが、招集の数日前に母親からうつされた風邪を軍医が肺病と誤診し即日帰郷となった。また宮沢賢治は第二乙種合格で免除された後、病院で検査を受けると胸膜炎が発覚するなど、厳しく判定されたことで兵役免除となった者も多い。
陸軍志願者身体検査
陸軍航空勤務者身体検査

67名無しさん:2020/07/25(土) 19:28:38 ID:DK9oyGfI
こんな野蛮な徴兵検査が!

 日本の自衛隊は志願制だから、強制的に韓国のように軍隊にとられることはない。日本の敗戦前は徴兵制だったから、21歳になると徴兵検査を受けなければならなかった。

 1980年(昭和53年)の『薔薇族』7月号に貴重な記録が残っていた。

「私は徴兵検査を郷里で受けた。当時、この徴兵検査という制度はきびしいものであり、またひとつの若者のセレモニーでもあった。第一日目は、軍服を着た軍医大殿が、最初に訓示を行い、その後、各教室に分かれて入って、筆記試験を受けた。
 その内容は一般的な社会常識と、科学、数学などであったと思う。30分もあれば簡単にできる問題だったが、1時間半いっぱいまでねばっている人もいた。

 2日目は当初から身体検査だった。前日より、いや、それよりも以前から通知が有り、身体検査当日は、必ず褌をつけてくるよう指示があった。したがって200名の男子が、一斉に裸姿になっていた。

 最初は眼、口腔、耳、鼻などの検査が行われた。そして手足の障害者について行われた。
 最後は内診、そして陰部、肛門の順に検査が続けられる。陰部、肛門を担当するのは、少尉ぐらいの軍医であったと思う。

 5人ずつが1列になって続いて検査を受けるのだが、その軍医は5人集まると大声で「おれの前に来たら、すぐに褌をはずせ、貴様らの金玉を検査するので、足を半歩開け」と言ったことを覚えている。
 そしてまた「それがすんだら、すぐ後ろを向いて四つん這いになれ。肛門を検査する。それで終わりだ。以上」と、いかにも軍隊調で言うのだった。

 軍隊という世界は、これまったく男の世界だ。男ばかりの世界であったら、なんであんなにもはっきりと露骨に言うのだろうか? と、みな唖然として聞いていた。
 一瞬静かになった。突然、陰部、肛門検査の軍医がおろおろしている私らに対して、「早く来んか」と大声を発したので、またびっくりした。
 みんな最初はこの雰囲気に飲まれていたが、だんだん慣れてくるにしたがって、笑い声や、こそこそ話も出てきた。

 私より7人先のずんぐりした男を何気なしに見ると、越中褌の前に垂れている部分が持ち上がり、明らかに勃起していることに気がついた。
 こんな雰囲気の中で勃起するなんて、たいした度胸の持ち主だと、私はひそかに感心したものだ。もっとも当の彼は少し恥ずかしそうに手で押さえていたが……。

 陰部、肛門の検査は順調に進行した。軍医の検査が、私の所よりよく見えるようになった。
 みな恥ずかしそうに褌をはずして立つ。ほとんど同年輩の者ばかりなのに、あそこだけはさまざまで、大きいの小さいの、短いの、ホウケイ、ムクレ、大型雁等などさまざまだ。

 いくらなんでも、一日に何百人ものチンを検査したら、さぞ、いやになるのではないか、それにほとんどが緊張して縮み上がっているものばかりで……と、私は軍医に同情を覚えた。
 軍医は鼻先に立った若者の褌をはずした。それを見ながら、陰茎の周囲や、睾丸を引き上げて注意深く見る。そしてそれがすむと陰茎の皮を親指と、人差指で根元まではじき、今度は親指と人差指、中指を使ってしごき戻すのである。

 なんでそんな方法で診察するのかというと、陰茎を根元からしごき戻すと、性病持ちの人は尿道から、うみがでるのだ。」

 平和が続いているから、こんな野蛮なことをされないですんでいるが、戦争にでもなったら、また、こんなことに。

68名無しさん:2020/07/25(土) 19:31:46 ID:DK9oyGfI
笹岡作治    ああ、M検物語        薔薇族12号   S48年7月
笹岡作治    地獄の顔          薔薇族15号   S49年1月
笹岡作治    小僧残酷物語        薔薇族17号   S49年5月
笹岡作治    続・若者狩り        薔薇族23号   S49年12月
笹岡作治    百姓哀歌          薔薇族24号   S50年1月
笹岡作治    名もなき草紙作者でありたい 薔薇族25号   S50年2月笹岡作治    若者狩り          薔薇族20号   S49年9月
笹岡作治    若者狩り          薔薇族20号   S49年9月
笹岡作治    褌談議           薔薇族28号   S50年5月
笹岡作治    新・若者狩り        薔薇族31号   S50年8月
笹岡作治    素っ裸の儀式-大日本帝国海軍のM検薔薇族86号 S55年3月
笹岡作治    調教の館"一褌亭"      薔薇族345    H13年1月
東京都・太   少年曲馬団の思い出     薔薇族32号   S50年9月秋田春彦    薔薇の履歴書(小説)     薔薇族18号   S49年7月愛知・M     体臭の思い出(薔薇模様欄)  薔薇族22号   S49年11月
千葉・M     赤銅色の男たち       薔薇族25号   S50年2月
東京・S     もう一度、あんな体験を   薔薇族25号   S50年2月花田勇三    炎と煙(小説)        薔薇族29号   S50年6月江口良一    一兵士の告白(小説)     薔薇族34号   S50年11月1????      素裸の信号訓練      薔薇族38号   S51年3月
竹内幹行    わが戦争体験-2 露営の夜  薔薇族39号   S51年4月
笹岡作治    わが戦争体験-3 海軍内務班 薔薇族40号   S51年5月
村田研之介   わが戦争体験-4 最後のちぎり薔薇族41号   S51年6月
志野三郎    愛と死の果てに 前編 後編 薔薇族48/49号  S52年1月
農上輝樹    現職・自衛隊記〜汗くさい男の記録薔薇族37号 S51年2月
山口淳     潰された夜(小説)      薔薇族57号   S52年10月
農上輝樹    薔薇と軍隊(小説)      薔薇族79号   S54年8月
花里良太    初年兵残酷物語(小説)    薔薇族79号   S54年8月相原誠     愛と死を賭けて ある将校の記録 薔薇族93号 S55年10月
斎藤謙一    文学に現れたM検       薔薇族??号   S61年3月
中茎丁男    我々の興味をそそってやまないM検とは-1
        -羞恥の受験体験、興奮の立ち会い目撃-    薔薇族??号

69名無しさん:2020/07/26(日) 16:31:58 ID:DK9oyGfI
「兵隊になる最初の徴兵検査は単なる肉体検査というだけではなく、兵隊(兵隊は自分の意志で動いてはならない)となるための儀式でもあり、「しゃばっけ」を抜き、兵隊であることを肉体に叩き込む場でもあったという。
 毎日新聞社刊『写真昭和三十年史』には、大勢のそれこそ一糸まとわぬ壮丁が一列に並ばされている後ろ姿の写真がある。並んだ裸の尻は壮観である。
「しゃばっけ」とは、羞恥心に代表される。二十歳といえば、まだ隠したい最中である。命令一下、さまざまなポーズをとらされる壮丁の羞恥は、M検において最高潮に達する。
 なにしろ親にも見せないところを何の容赦もなくむんずとつかまれて、数回しぼるようにしごかれたあげく、むきあげられるのだという。
 露出している者もさらに冠状溝までむきあげられるというから、包茎の者には大変なことだろう。ちなみに徴兵検査では六割がまだ包茎だったという。少年のように堅く包まれていて、日本男児のシンボルたるそれを羞恥に縮ませている者には、「活を入れる」と称し、意地悪な検査官なら、むかないかわりに、先端の敏感な部分を刺激して、「ホラ、ホラ、まだだめだ。まだ先が出てこんぞ!」とやる。意志に反して立つと「勘違いしていい気になるな!」と、なぐられる。
 そんな羞恥に、あとの者は「もうすぐ自分もあのようにされるのか」と思うと、気が気ではないという。
 なお、徴兵検査は婦人会が見学に来たそうで、羞恥にからだがほてるという。また地方によっては、最初から最後まで、身長も体重もすべてフリチンのブラブラで行なったということであり、『絵とき日本陸軍』(三恵書房)には、広い講堂の中で全裸で体重測定を受ける者や、次の順番を待つ者など、羞恥の検査場風景の絵も出ている。なお岩波文庫50『戦争と日本人』が復刻された。この中に徴兵検査の写真があり、全裸で並んだ壮丁の一人だけ前向きで、性器まで見えるということで、知る人ぞ知る伝説的な貴重な写真であるので、ぜひ見られたい。
 とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」、つまりお国のものであって、婦人会の前でも隠せないということになる。
 日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」
 



宮崎清隆著「青春監獄―初年兵日記」(東京ライフ社1955)
日華事変当時、軍都長岡における徴兵検査風景・・
渋谷知美著「立身出世と下半身」(洛北出版)では、M検について120ページにわたって、調査した内容を論考しています。また、薔薇族に掲載された笹岡作治の文章も引用されています。ご存じだと思いますが、コメントさせていただきました。


  少年も受けた国民徴用検査
昭和14年   16歳ー50歳  男子
昭和19年   12歳ー60歳  男子

毎日新聞社「写真 昭和30年史」1956.3に、昭和14年の国民徴用身体検査の写真が載っている。

広いどこかの小学校ので広い教室か講堂で、開け放たれた窓、褌一枚すら許されない生まれたまま素っ裸のフリチン
について姿の気をつけてください若者20人くらいが整列に検査官のこれから行う厳しい検査について訓示を受けているところ。検査官の前にはこれから容赦なくM検で剥き上げ、肛門を開いた指を消毒する洗面器が置かれ
これから行われるM検という厳しい身体検査をうかがわせる。

徴兵検査と違って10代から40代まで。

・・40代の男たちの中で、右端のは16、17歳くらいの
ほんの少年。綺麗で細い少年体形、姿態、瑞々しいお尻・・まだ硬く包まれているのだろう・
小沢真人・NHK取材班「NHKスペシャル 赤紙 男たちはこうして戦場へ送られた」創元社1997.7
にも同じ写真が小さいが載っている。


恥ずかしい検査が常識の世界
h ttps://jbbs.shitaraba.net/otaku/16648/

70名無しさん:2020/07/30(木) 08:17:56 ID:DK9oyGfI
陸軍身体検査規則 徴兵と志願、12歳のM検
[書誌情報]

責任表示:
木谷俊男 編著
出版者:
[木谷俊男]
出版年月日:
2003.2
請求記号:
AZ-666-H3
書誌ID:
000004023794

71名無しさん:2020/08/02(日) 09:21:28 ID:DK9oyGfI
婦人会まで見学した軍隊のM検!
 なんで『薔薇族』の読者って、こんなに軍隊の「M検」に興味があるのだろうか? バックナンバーをめくっていくと、「M検」に関する記事が何度も出てくる。

 1988年の1月号No180に投稿されている「われわれの興味をそそってやまないM検とは? 婦人会の前で、冠状溝までむき上げられた」を読んでみると、この人は戦後の生まれで、ご自分の体験ではない。

 読者にとって多数の若者がオチンチンを他人にいじくりまわされるという行為に、興奮し、想像をたくましくするのだろう。

 ぼくは中学1年生のときに窓越しに、M検の現場を目撃している。もう敗戦が色濃くなってきていた、終戦の前の年に世田谷中学に入学したが、2年生以上は工場などに行かされて、1年生しか残っていない。

 若い兵隊はいなくて、年をとって肉体も貧弱な兵隊が招集されて、学内に宿泊していた。全員が素裸にされて、「M検」をされているところを目撃してしまったときのことをよく覚えている。今どきの人には考えられない野蛮な行為だ。

「兵隊になる最初の徴兵検査は単なる肉体検査というだけではなく、兵隊(兵隊は自分の意志で動いてはならない)となるための儀式でもあり、「しゃばっけ」を抜き、兵隊であることを肉体に叩き込む場でもあったという。

 毎日新聞社刊『写真昭和三十年史』には、大勢のそれこそ一糸まとわぬ壮丁が一列に並ばされている後ろ姿の写真がある。並んだ裸の尻は壮観である。

「しゃばっけ」とは、羞恥心に代表される。二十歳といえば、まだ隠したい最中である。命令一下、さまざまなポーズをとらされる壮丁の羞恥は、M検において最高潮に達する。

 なにしろ親にも見せないところを何の容赦もなくむんずとつかまれて、数回しぼるようにしごかれたあげく、むきあげられるのだという。

 露出している者もさらに冠状溝までむきあげられるというから、包茎の者には大変なことだろう。ちなみに徴兵検査では六割がまだ包茎だったという。少年のように堅く包まれていて、日本男児のシンボルたるそれを羞恥に縮ませている者には、「活を入れる」と称し、意地悪な検査官なら、むかないかわりに、先端の敏感な部分を刺激して、「ホラ、ホラ、まだだめだ。まだ先が出てこんぞ!」とやる。意志に反して立つと「勘違いしていい気になるな!」と、なぐられる。

 そんな羞恥に、あとの者は「もうすぐ自分もあのようにされるのか」と思うと、気が気ではないという。

 なお、徴兵検査は婦人会が見学に来たそうで、羞恥にからだがほてるという。また地方によっては、最初から最後まで、身長も体重もすべてフリチンのブラブラで行なったということであり、『絵とき日本陸軍』(三恵書房)には、広い講堂の中で全裸で体重測定を受ける者や、次の順番を待つ者など、羞恥の検査場風景の絵も出ている。なお岩波文庫50『戦争と日本人』が復刻された。この中に徴兵検査の写真があり、全裸で並んだ壮丁の一人だけ前向きで、性器まで見えるということで、知る人ぞ知る伝説的な貴重な写真であるので、ぜひ見られたい。

 とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」、つまりお国のものであって、婦人会の前でも隠せないということになる。

 日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」

 この投稿者、M検を想像し、カキまくって書いたに違いない。

72名無しさん:2020/08/02(日) 09:23:51 ID:DK9oyGfI
訂正

とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」ではなく「日本男児のシンボル」、つまりお国のものであって、婦人会の前でも隠せないということになる。

 日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」

73名無しさん:2020/08/04(火) 15:46:42 ID:DK9oyGfI
昔の海軍兵学校の入学時の身体検査、旧制中学5年生、当時の少年「現在の高校二年」たちは今と違ってトテモうぶであった。当時の受験雑誌にはよくM検のない高校はどこですかというような質問があった。当時は殆どの高等学校の入試身体検査でM検と称して局部の検査があった。私が始めてM検されたのは中学4年の夏休みの海軍兵学校の身体検査のときである。その時は満16歳、私は毛が薄くてその時はまだパイパンだった。そしてせんずりのしすぎか中学入学前から完全に剥けていた。しかし、まだその方面の知識の薄い私は、剥けているのが悪いことに思っていた。さて、いよいよ身体検査のM検のことを思い出すと。他の検査を終えて、いよいよ肛門・陰部の検査である。その区画にはカアテンで仕切られていた。丁度誰もいないようなので、カーテンを開けて入っていった。その時の服装はパンツ1枚。なかには軍医と看護兵が1人いた。看護兵がパンツを脱いでと言った。言われるままにパンツを脱いで、軍医の前に行く。軍医は私の一物を握り、根元までグイグイと扱いて、尿道に膿が出ないか調べる。私は完全に剥けていたから痛くなかったが、包茎の人は痛かったと思う。ついで睾丸をさわり、少し揉んでいた。それから後ろを向けと言われ、前に手を付かされ、肛門の検査。何かを入れられたがすごく痛かった。このときはカーテンのなかは三人のみだった。
ついで、合格して最終の身体検査があった。この時は広い場所で区画は仕切られておらず、流れ作業のように行われた。即ち、人の見ている前で全裸になり、軍医に前と同じにしごかれた。前以上恥ずかしかった。しかし、他の人のしごかれるのが見られた。これは、これから海軍で長いこと一緒に勤務する同級生、お互い隠すことのない仲間になれということだったと思う。今の若者は、特別の者を除いてM検などされないで幸福だが、戦後数年経過するまでは、徴兵検査や学校の入試の身体検査でM検が行われた。今は、高校、大学の部活動や寮生活で遊び半分に行われているかもしれないが、昔は100人の成年男子100人すべてM検を受けたのである。

74名無しさん:2020/08/04(火) 15:56:52 ID:DK9oyGfI
9『少年が怯えた 徴兵検査のM検 Ⅱ』
《昭和十年代の世の中は戦争一色で 今時のようにエロもグロも見られ無い時代だったが、食う物に困っても子供は生まれ 生まれた子は年頃になると、自然に見よう見まねで 固く勃ったマラを弄りセンズリを掻いた。(続く)
(承前)戦災で家が焼けると 家族が一部屋で暮らすことも多く、現在の中高年には そんな環境で両親の赤裸々な媾合を目撃した人も多いと聞いている。そんな半ば開いた情況の中でも 少年に取って性は神秘であり、必死になって 他人の目から隠そうとした。
そんなときに東京周辺でも空襲が始まり 少年にも幼年学校・兵学校を始め、予科練や整備科練習生等の受験が勧められた。そしてその受験要領を見ると 身体検査項目の処に、必ず書いてあるのが 「生殖‥器」の奇怪な文字だった。
学校での性教育なども無く 自分の勝手に勃ち捲くるマラを持て余し、密かなセンズリの快楽を 友達と話し合うことも出来ず、途方に暮れる少年の前に また問答無用で「生殖‥器検査」と云う難題が突き付けられたのである。
そして耳に這入って来る情報は これから述べるような、客観的で リアルなものでは無く、誇大で羞恥心に耐えられ無い 恐ろしい性が蹂躙される世界だったのである。》

75名無しさん:2020/08/04(火) 15:58:03 ID:DK9oyGfI
【思い出話】 「春樹の雑記帳」h ttp://homepage3.nifty.com/harukinote/ より
(前略)
[戦時中] 1.徴兵けんさ
 昭和19年4月から学徒勤労動員で長崎のM造船へ行った。朝8時から5時まで船台周辺で鉄板に穴を開ける作業をした。別のクラスは船台の上でリベット打ちをしていた。私は満で20才になり徴兵検査受験の通知が来た。3日程の休暇?で本籍地で現住所の熊本へ帰った。栄養不足と過労と風邪気味でしんどかった。友人に聞いていたヒロポン(今の覚せい剤)の小瓶を薬局で買い、白く小さな錠剤を一つ飲んで検査に向かった。城内の第六師団司令部の講堂みたいな処であった。
 集まった100人ほどは越中褌一つで整列し順番に身長体重視力などの検査を受ける。

そして土嚢こう挙と言って20kgほどの土嚢を或る時間で何回持ち上げられるかのテストがあった。今朝はあれほどだるかったのに身体がしゃんとして軽く、すいすいと土嚢を持ち上げてしまった。後から友人がお前は砲兵に廻されるぞと言っていた。
最後は簡単な衝立の陰の軍医の前に進み、褌の前を横にずらすと軍医が一物を握って検査する。次ぎは後ろを向いて四つん這いになり痔の検査で終わる。その付近には白い割烹服に愛国婦人会のたすきを掛けたおばちゃんたちが十人ほど見物していた。
服を着て整列すると一人ずつ前に呼び出され、私は検査官から良い体をしておるが近眼だから第一乙種と言い渡された。(尚私は国立大の工学部へ進学したので、卒業まで徴兵猶予があり、大学1年の終わりに終戦となった)

《この例などは 既に戦局が不利になり、もう兵隊の質を言っておられず 数を集めるのに狂奔していた軍や政府の、足掻きに似た空気が仄見える 徴兵検査の情況である。》

【余談】
《これからは 余談だが、私は 自分のバイ気質に気付いてから、昔の徴兵検査のときに ゲイかバイの検査官が居たらどうだったろうか‥と、妄想を 逞しくしたことがあった。ところが やはり居たのである。次の告白は 戦中はノンケだったと云っているが、読むと‥充分に その気があって徴兵検査に臨んでいたことが察せられる。
これはもう‥窃視なんて云うものは無く 仕事で、ソノ気なのにそれを隠して 他人の勃起したマラを握り、棹を絞り扱いて 性病の検査の名目で先走りまで確かめるのだから、恐らく数人も検査すれば 検査官自身のパンツの中はズルズルになっていたと思う。つくづく‥抜き打ちで 検査官の勃起と先走り情況を調べてやりたかった気がする。》

76名無しさん:2020/08/04(火) 15:59:57 ID:DK9oyGfI
「ノンケであった徴兵医官の頃」
(身体検査、M検の記録保管庫:保管書庫1A 身体検査関連 より)
慎太郎's HP 「徴兵検査・強制露出の記録保管庫」
h ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hinoki/4247/
これは昔、高齢者から聞いた本人の体験談を、パソコンに打ち込んだものです。
以下にある「私」とはその高齢の軍隊体験者-黒岩さん-の事です。
***********************************************************************
 戦時中、男は満20歳になると必ず徴兵検査を受ける事になっていた。そして身体強健な者は兵役に服したのである。
 徴兵検査では厳密に全身各部を詳しく診る。およそ身体と名の付く部分はすべて診る。最後には全裸にされ陰部及び肛門の検査も行われる。当時、私は徴兵医官としてこの検査を担当していたのである。
 軍医として勤務していた頃、私はノンケであり男性の性器に特別な興味と云う程のものを感じた事もないし、月例検査で兵隊達を全裸で並べて置くことも日常茶飯事であった。軍隊では兵隊をこのように素っ裸にして並ばす事はいくらでもあり、当時は何とも思っていなかった。

 しかし、この歳になり徴兵医官だった昔を懐かしく思い出す。なぜ今になって思い出すかと言うと、60歳近くになってこの(ゲイの)道を覚え、今さらながら戦時にノンケであった事を残念に思うからである。
 私は終戦で軍医を辞めてからは、故郷で内科医を開業していた。
 ヒョンな事からこの道をむりやり教えられ、それから男の体に興味を持つようになった。しかし田舎の開業医ではあまり派手なことも出来ず、時々、都会で欲望を満たす程度である。徴兵医官時代にこの道に興味があれば、どんなに楽しかったであろう。(中略)

 これは私が検査官の間に一度だけあった珍しい出来事である。
 壮丁は漁師と思われる日焼けした若者であった。その陰茎は越中褌を外したときからすでに完全勃起していた。恥ずかしさの為か、興奮している為か、顔が紅潮していた。大きさはありふれた普通の陰茎であった。
 私が陰茎の根元から先端に向けて扱いた時、陰茎がビクンと上反りに固くなり、射精を始めてしまった。精液は私の胸のあたりに飛んだ。陰茎を握っている私の掌の中で、ビク、ビクと数回、しゃくり上げながらタップリ射精し、止められなかったようである。
 その時は興奮し易い体質であろうと思いながら精液を拭いてやったが、尿道口からの分泌物の検査が出来なかったため、順番を後回しとし再検査を行った。2回目は勃起していなかったので通常に検査し合格となった。当時の私には思いもよらなかったが、もしかしたら、この道の若者だったのかもしれない。
 初めから勃起している例は極めて少ないが、検査中に勃起が始まってしまう事はそんなに珍しいわけではない。しかし、射精にまで至るのはあまり聞かない。

77名無しさん:2020/08/04(火) 16:01:53 ID:DK9oyGfI
 最初は平常状態であった陰茎が検査の触診をしている間に勃起してしまう壮丁はかなり居た。その当時は恥部に触られ若干の刺激を受けるのだから止むを得ないのだろうと思い、検査をできるだけ短時間にサッとして、屹立しないうちに済ませてやろうと思った。
 そういう壮丁達はきっと生殖器検査への不安と好奇心と羞恥心などで興奮していたのであろう。全裸で私の前に立った時に陰茎の先端がかなり粘液で濡れている者も居たから、自分の番が来るまでに幾度か勃起と収縮を繰り返していたに違いない。大抵は今にも膨れ出しそうな不安定な感じで、ダラリと伸びるだけ伸びた様な恰好をしている。
 壮丁の顔は懸命に勃起の防戦に苦慮している表情である。このような場合は、他と同じようにごく普通に検査をするだけで、すぐに勃起してしまう。陰茎を掴んで皮を剥き、次にぐいーと扱いて尿道口を見てから手を離す頃にはすでに陰茎が膨れ始めている。
 急いで睾丸の検査を済ませるが両股を撫でて診る頃には亀頭がズッキンズッキンと持ち上がり始めて、もう止めることが出来ない。
 その後、後ろ向きの四つん這い姿勢で肛門を診るのだが、それが終わって立ち上がった時に収縮していればよいが、若い者は一旦勃起しかけると、ひとまず屹立まで進まないと、途中で収縮する事は冷水でもかけない限り難しい様である。

78名無しさん:2020/08/04(火) 16:03:25 ID:DK9oyGfI
 勃起してしまった陰茎で、特に変わったものとして、長さは普通だが根元が極端に太くて亀頭が細く尖っているものや、反対に茎部分は人並み以下に細いのに亀頭がちょっと想像できない程大きくて、亀頭がちぎれはしないかと思う様なものがあった。また殆ど真横に勃起する物もあれば、前と後ろが逆になるほど捻れ曲っているものもあった。強度の下反りも時折り見受けられた。他と比べて特徴を持つ人は緊張し過ぎてかえって勃起してしまうのか、色々と変わった形を見る事ができた。

 殆どの者は勃起しないで、平常状態のままになっているのが普通であるが、私が見た範囲では医学的正常者は長さが2.5cmから15cmであった。
 2.5cmの壮丁は検査のため勃起させたら5.5cmとなったので合格にした。そして15cmの壮丁も参考のため勃起させて確認したら19cmとなり合格としたが、あまり硬くならなかった。

 完全露茎は少なくて大部分は仮性包茎である。包茎の場合は越中褌を外して私の前に立った時に自分で剥かせた。どうしても剥けない真性包茎の場合もある。
 軍隊では入隊すると生殖器検査がたびたびあり、亀頭部分をいじくられる機会も多く、包茎では困ったことになる。軍隊では何事も他の兵隊と同じであることが望ましく、性器の状態についても同様で、露茎または簡単に剥ける仮性包茎であることが望ましい。そのため真性包茎の者や、剥く時痛がる者、あるいは皮がやっと剥けても先端が赤く湿潤な者には手術を奨める。軍隊に入ってから亀頭をいじられる検査や訓練の時に痛くて困るからである。(中略)

 中年以後にこの(ゲイの)道を知り、同性の性器に歪んだ興奮を感じる様になった今、時々思い出す懐しい昔の経験である。
 もし、再び生殖器を集団検査する仕事につく事が出来たらどんなにか素晴らしい事であろう。かつては実際に毎日、壮丁の陰茎を握って検査を行ってきたのである。
 現在ではその場面を想い出すと、後頭部が疼いてくる様な性的興奮を感じるのである。表面は真面目な顔をして、色々とイジリ回して必要以上の刺激を加え、その変化の状況を眺めて内心で楽しんだらよかったと悔やまれる。

 今ふたたび、徴兵医官として毎日何百人もの陰茎をいじくり回す生殖器集団強制検査をする事ができるのであれば、陰茎を剥き、睾丸を握って遠慮なく壮丁の性器を精査する事と思う。 立派な陰茎、大きな睾丸をした壮丁には特に丁寧に検査を行う。
 壮丁が必死に勃起を押さえようとしている半勃起状態の陰茎も必要以上にイジクリ回して完全勃起に導いて詳細な検査を行う。
 私の顔に陰部がくっ付きそうなほど腰を前に突き出させ、陰嚢の皺や陰茎の血管の一本も見逃さないように精査をするであろう。わざと勃起させた陰茎を刺激して、亀頭の鈴口を指で開いて、溢れる分泌物を調べるであろう。◇

《実は私は このようなM検は戦中のことで、敗戦後には行われ無くなった と思っていた。ところが今回‥このようなM検資料を漁っていたら M検が戦後も10年近く続けられたと聞いて驚いた。それは東大を始めとする主要大学や 当然のように自衛隊で、そして女性の社会進出に伴い 自衛隊に於いては女性自衛官にまで行われたことを知り、心底‥ホントかよ!?‥と 仰天した。
しかも内科検診に至っては 性病検査と称してあの産婦人科の診察台、私も一度見たことがあるが 何とも残虐とより云いようの無い、足を乗せる台が 大股開きに開いて天井に突き上げている‥診察台に乗せられるのだ。そして既婚未婚を問わず 逆さに持ち上げられ剥き出しになった局部を覗かれて、性病の検査だけで無く (ついでに?)性交渉の有無や発育状況までも検査されるのだと云う。
あんな診察台は 男性経験を済まし、数多くの媾合を経て 妊娠でもした女性が乗るものだと思っていた。それが‥男を知らない処女が大股を開き 男の検査官に、陰毛を掻き分けられ 大陰唇を冷たい器具で拡げられ、小陰唇のビラビラから 処女膜の情況まで観察されるのである。処女の恥ずかしさは云うに及ばず 未婚でも男性経験があれば、小陰唇のビラビラは黒ずみ 処女膜はとっくに破れて退化しているだろう。そこで‥泣き出す女性自衛官も居ると云うが 尤もだと思う。》

「M検室 Ⅰ」より 
 (名無し2chより) (2008/02/01 採録)

79名無しさん:2020/08/04(火) 16:04:52 ID:DK9oyGfI
(名無し2chより 採録)             ★
直接には関係無いが、(健康診断では無く)身体検査の原点を知る上で参考になるので参考までに記します。真偽について若干判らない所もありますが、かなり当たっている、処があるようなので。‥健康優良児審査では、「身体の傷跡」について、精密に調べたと言います。

26歳 女性(元自衛官)
あゆみ、と言います。
私は(他からのコピーですが)、入隊直後に受ける身体検査の事を書きます、元自衛官なのですが、入隊直後(確か二十二才の時)に受けた身体検査です。
身体検査は三人一組で、検査室に入れられました。そこで着ている服を全部脱いで全裸になるように言われました。さらに髪の長い娘は、ゴムを渡され、髪を後ろで束ねるように言われます。

そして全裸のまま、直立不動の姿勢で医務!官(男性)の前に立たされ、身体を見られました。その時、私は恥ずかしさで膝が震え、後ろにいた医務官(こちらも男性)に、キチンと背筋を伸ばすように注意されました。こうして身体の傷跡や欠損の有無を確認されると、身体検査に移ります。この後の検査は、全て全裸で受けました。この部屋では身長、体重、視聴力、採血、レントゲン、心電図と進み、内科検診はカーテンに区切られた場所に入って実施されました。

皆さんがご想像の通り、自衛隊では男女を問わず、全員が性病検査と称して局部を検査されます。
女性は産婦人科の診察台に上がって、女の部分を全部調べられますね。断言できませんが、性病の検査だけでなく、性交渉の有無や発育状況までも調べられている筈です。
男子の方は、入隊後に女友達伝いに聞いた話ですので、実際は分から無いのですが、指で局部を触られるばかりで無く、包茎の人はキチンと皮が剥けるか、包皮を剥かれたりするそうです。
また尿検査の尿は、自分でコップに採ってくるのでは無く、診察台に乗せられている時に、導尿されて取られました。男性の方はどうだったのかしら、と思いながらこの文章を打っています。

なお余談ですが、身体検査のときに恥ずかしさのあまり、泣き出したりグズグズしていた女の隊員は、その日の夜に女性管理官に集められて、説教と懲罰が与えられました。泣いた事で支障を来たし、全体に迷惑を掛けたという理由でした。
その時私は、自衛隊員としての厳しさを知りました。個人のプライバシーよりも全体の規律を重んじ、自己を捨てて国家に仕える意思を持たねばならないのです。他人に見られたくない局所までも調べられる事で、それらを思い知らせる意味合いもあるのでしょう。


貴重な証言ありがとうございます。「全身の傷の検査」と言うことで、そこまでの検査があったことは貴重な証言です。女子自衛官でも同様にあったってことは本当ですか。また、防衛大入試でも同じでしょうか,それとも防衛医大だからでしょうか。なお、全身の傷の有無については、健康優良児審査でも行われたといいますが‥。◇

80名無しさん:2020/08/04(火) 19:25:12 ID:DK9oyGfI
昭和十九年、政府は兵員の補充を迫られ徴兵検査の年齢を一年早めた。この年は十九歳と二十歳の若者が受けることになった。

 徴兵検査でM検という触診がある事は大人から聞いていたので小学生の頃から知っていた。

 六年生の時のことだ。

81名無しさん:2020/08/04(火) 19:26:02 ID:DK9oyGfI
小学校の講堂は毎年徴兵検査場に使用されていた。この頃から既に大人の男性性器に興味を覚えていた。 先生からは「絶対講堂へ近づいてはなりません」と厳しく言われていたが、どうしても覗いてみたい誘惑に駆られ、僅かな時間を盗んで講堂に行き、「M検場」とおぼしき暗幕の下ろされた窓に近づき、僅かな隙間から中を覗いた。

 胸がドキドキしていた。

 なんとも変な顔をして頭を掻きながら下を向いている全裸の若者の上半身が見えた。下半身は白衣の検査医官に邪魔されてなにをされているのかよく分からない。大人たちはチンポを剥かれるのだと言っていたがどう剥かれるのだろう?

 もっと下を見てやろうと窓をよじ登ったとき始業を告げる鐘が鳴りあわてて教室へもどったが、赤銅色の胸のよく発達した、胸毛の筋肉隆々たる若者がちらっと見せた太い陰茎が眼にちらついて、小さな陰茎を机の下で突っ勃てていた。これが私が徴兵検査の「M検」に、たまらない興味と堪えられない羞恥心を持つようになる最初の体験だった。

 そしてその事をはっきり意識したのは、昭和十五年に制定された国民体力法という法律に基づく「疾病検診」を受けさせられた時だった。

 この法律は十七歳から徴兵検査を受けるまでの二十歳まで、毎年受けなければならないもので、検査実施の季節が来ると厭な気分になった。「疾病検診」には性器触診があり、他人に性器を見られ触られることが耐えられないほどに恥ずかしかったからである。

 この法律により日本男児として生まれたからには誰でも、十七歳からは毎年一回は性器触診を強要されたのである。それ以外にも当時の日本では入学試験や入社試験など何かあるごとに厳密な身体検査が行われ、年に数回は性器触診を受けさせられたのである。

 そして二十歳になり徴兵検査を受け、兵隊として入営すると月例検査と称する、更に厳しく恥ずかしいM検を毎月実施されたのである。それ以外にも初年兵は先輩古兵から性的いたずらとも思える性器露出を何度も強制されるのが軍隊と知った。

 しかし、初めはあれほど恥ずかしかった性器検査も繰り返し受けるに従って、やがて恥ずかしいだけでなく何か待ち遠しい様な気持ちになってきたものである。

82名無しさん:2020/08/04(火) 19:26:49 ID:DK9oyGfI
当時、私はある会社の軍需工場に勤めていたが、そこは全国から勤労青少年が集まってきており、彼らと一緒にこの「疾病検診」の性器触診を工場医の手で受けた。

 心底厭だったが有無を言わさず裸にされ、最初から最後まですべての検査が全裸で行われた。「M検場」は講堂の隅につくられていたが、囲いもなく遠くからでも丸見えであった。自分の順番が近づき、全裸の若者が白衣姿の年配の工場医から長い陰茎の皮をずるりと剥かれて、検査されている姿を間近で見た時、全身の血が逆流し、頭がボーッと麻痺したようになった。

 自分もすぐにこんな事をされるのかと思うと逃げ出したくなった。しかし、気持ちとは反対に眼は次々と剥かれてゆく受験者の性器に引き寄せられ、私の陰茎は徐々に膨らみかけていた。全裸のまま、両手を腿に付け直立し、性器を隠す事も許されない状況であった。全員無関心を装いながら、勃起しようとする衝動を必死で抑えていた。一寸したことにも敏感に反応をする年頃だった我々にとって、皆の視線を感じながら順番に陰茎を剥かれ握られるのは酷だった。

 二年目の時だ。私の前の番で触診を受けていた先輩が、「穴検」のために向きを変えようとしてよろめいた。期せずして彼の陰茎が気を付けの姿勢で順番待ちしていた私の掌に当たった。しごかれて少し勃起していたようで、弾力のある柔らかな温かい感じが掌に残った。これが他人の陰茎に触った最初だが、白衣の工場医が彼の双丘を押し拡げ肛門を覗き込んでいる姿と共に後々この場面を思い出しては手淫をするようになった。

 工場医の前に立った時、抑えきれず、すでに陰茎は水平近くまで鎌首を持ち上げていた。

 「ほうッ!立派な一物になったね」工場医は困惑している私の顔をちらっと見上げ、小声で、「私のも大きいが、君の方が太いだろうなあ、今度入浴した時、比べて見るかね」冗談とも本気ともつかぬことを、こともなげに言いながら左手で陰嚢を包み、右手で陰茎をギュッと握り締めた。

 思わず反射的に腰を引こうとしたが、工場医はより強く握り、ゆっくりと亀頭の方へ絞るように揉み上げた。二回、三回と繰り返されると若い陰茎はたちまち反応し、勃起させてはならないという切ない思いに反してますます堅さを増していった。

 工場医はよく知っている職員だったから、にやにやされると受検者全員からも見詰められているような気がして、顔から火が出るほどに恥ずかしかった。

 しかし、恥ずかしさと同時に、自分の性器を他人にいじくられ検査される切なくも待ち遠しいような気持ちもあった。この疾病検診は徴兵検査の予備体験となった。翌年の徴兵検査のM検を想像するといじくられる恥ずかしさと同時に、何かを期待するような嬉しさに陰茎が疼くようになった。

83名無しさん:2020/08/04(火) 19:29:12 ID:DK9oyGfI
私は満十九歳の春、帰郷して母校の講堂で徴兵検査を受けた。強制的に性器を人前に曝し、いじくられるという恥ずかしく、惨めで、しかしどこか切ない体験を今は懐かしく思い出すのである。

 徴兵検査は地方によっては最初から最後まで身長も体重もすべて全裸で行なった。

 また徴兵検査会場には国防婦人会も見学に来ており、大勢の主婦たちの見守る中で終日、全裸のまま検査を受けるのである。

 丸裸にされた壮丁は、自分の体が自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっている性器でさえ”男子のシンボル”でなく”日本国男児のシンボル”、つまりお国のものであって、大勢の国防婦人会の主婦たちの前でも隠さず、堂々とさらけ出して、規律正しく行動することを要求されるのである。

 日本男児と生まれたからには、何人もこの生殖器検査を数回以上受け、性器を恥ずかしがるなどと言う感情は許されなかった。

 当時、男は徴兵検査を受けて一人前になると言われていた。それは徴兵検査が疾病検査とは異なり病気の検査だけでなく、生殖器としての機能も調べるからである。徴兵検査を受ける事で男性生殖器である睾丸や陰茎を握ぎられ、亀頭溝まで完全に皮をめくって生殖機能を触診検査をされる。それでようやく奇形も性病もない、男性生殖器を使ってもよい健全な男であると証明されたのである。

84名無しさん:2020/08/04(火) 19:30:32 ID:DK9oyGfI
 その日、小学校は休日だった。

 受付をすませ廊下で越中褌一枚の裸体となり徴兵検査場である講堂へ入る。私の地方では全裸でなく越中褌で検査を受けた。正面の壇上には50代くらいのカイゼル髭の立派な徴兵検査官が座って全体を見渡していた。

 入り口から身長・体重・胸囲・座高・視力・色盲検査というように、順序よくその場が設定されており、最後の場所に「M検場」があった。そこはかって小学生の時覗き見した場所だった。

 私ははじめの方だったから順調にゆけば早く終わるはずだったが、視力検査で引っ掛かり最後まで待たされたので「M検場」に到達した時は、既に陽は西へ傾き、壮丁はM検を受ける者だけが残っていた。

 「M検場」は他の受検者から見えないように衝立で囲み隔離され窓は暗幕で隠されていた。

 工場で性器触診を受けた時は丸見えだったが、ここでは中が見えないので救われた気持ちになったが、一人づつ壮丁が衝立の中へ消えてゆき、順番が繰り上がってゆく間、衝立の中で何が行われているかを色々と想像させて、逆に見えないことに不安を感じ切なかった。

 どんな格好で剥かれるのだろう? 工場の時と同じなのだろうか? 勃起してきたらどうしよう? 検査医官はどんな人なのだろう? などと衝立の中の妄想に胸は高鳴り褌の中では陰茎が疼きに悲鳴をあげて何度も勃起を繰り返した。

85名無しさん:2020/08/04(火) 19:31:42 ID:DK9oyGfI
 いよいよ私の番がやって来た。

 早鐘のように心音がドクッドクッと打つのが聞こえる。そっと褌の上から陰茎に触れてみる。どうやら膨れてはいるが勃ってはいない事に安心する。

 その時、慌ただしく衝立の中から医官と看護婦が壮丁を中に残したまま出て来ると講堂の外へ消えた。前の壮丁の淋病が露顕したようであった。

 しばくして医官が帰って来て「中へ入れ」と私を呼んだ。

 看護婦は前の壮丁の淋病処置に手を取られているのだろう、中にはいなかった。医官は書類を一覧すると椅子に股を拡げて座った。白髪の老医であった。私はその股間に指定された足型の位置に立った。

「褌の前を外せ」の声に褌の前垂れを尻の方へ引き抜きいた。

「両手を後ろに組んで、腰を前に突き出す。もっと……もっと……。」

 促されるままに徐々に腰を医官の鼻先へ突き出すと医官は左手で陰嚢を持ち上げ、右手で陰茎を握り亀頭の方へ皮が突っ張るほど剥き上げた。

 少し痛かったが、なんとなく気持ちよさを感じていた。

 生温い掌が陰茎を締めて亀頭の方へ絞ってゆく。この動作を三度繰り返され、カリ首を強く締め付けられると、陰茎は敏感に反応を示し、奥底から感応してはならない疼きが沸き出し、半勃起の弾力ある状態になってしまった。

 勃起しては困ると他のことを懸命に考える。

86名無しさん:2020/08/04(火) 19:33:21 ID:DK9oyGfI
しかし医官の掌は容赦なく前より一層強く握り締めて極めてゆっくり亀頭の方へ数回絞りあげる。痛いほどの快感がビンビンと頭に伝わってきてどんなことも考えられない。

 じっと切なく、残酷なしごきに耐えた。

 医官は尿道口の膿の有無を見定めようと亀頭をひねるようにして鈴口を開いた。

 その瞬間、先走り液がプクッと飛び出した。待機中でも幾度となく出そうで危惧していた事が医官の前で起こった。

 陰茎が固くなってゆくのを感じた。

 もう、どうしようもない。医官が鼠けい部の辺りを圧するために両手を離すと陰茎は意思とは関係なくズキン、ズキンと大きく波打ちながら急速に天に向かって勃起していった。恥ずかしさに生きている心地がしなかった。

 医官は見馴れた様子で別に気にとめる風もなく、陰茎を腹の方へ押しつけ睾丸を片方づつ丁寧に握り固さを検査している。

 私は放心したように彼の掌の動きを無感覚に見詰めていた。

 それほど陰茎勃起はショックだったのである。

「後ろを向いて……床に掌をついて……」

 四つんばいになり医官の眼前に尻を高く差し上げた。

「もっと高く……」

 両手で強く肛門を開き、金属棒のようなものを押し込んでぐっと拡げたような感じがした。

 冷やりとして痛かったが、同時に快感とも違う痺れるような妙な感覚が陰茎を走った。

 ふと、自分の股間を見ると先走り液が粘い糸を引いて垂れ下がっていた。陰茎は完全勃起に近いくらい大きく膨らんでいた。顔が真っ赤に火照ってるのが分かった。

 「竿も睾丸もよく発育している。よい道具である。大事にせい。」と言って尻を叩かれた。

 向き直ると医官は、天を突いて勃ちきっている陰茎を引き下げ、握手でもするように握って前後に動かした。恥ずかしさと照れくささに私は頭を掻いた。

 まさしくその姿は小学校六年生の時、盗み見したこの場所で頭を掻いていたあの筋肉隆々たる若者の姿と同じであった。彼も勃起していたのかもしれない。

 逃げるようにして出口に向かい急いで越中褌の前垂れで隠したが、興奮した陰茎は怒張したまま収縮せず前垂れを突き上げていた。横から越中褌の中が丸見えで衝立の外へ出ようにも出られず困ってしまった。

 すでに次の壮丁が入って来て医官の前に立っている。困っている私に気が付いた医官が側に寄って来て褌の前を外し、いきなり睾丸をピシリとはじいた。屈み込むほどの激痛だったが、その瞬間陰茎は力を失っていた。心得た処置であった。

 出口で次の壮丁の陰部を見ると、すでに包茎の陰茎が水平近くまで持ち上がっていた。包皮が半剥けになり虚空に息づいていた。直立不動の姿勢で、間近で腰掛けている医官に陰茎を突きつけ、恥ずかしいしごきが始まるのを待っていた。

h ttp://nonbiritona.sumomo.ne.jp/paku_archives/3paku/pakurina/07nonjanal/non02-05.html#3

87名無しさん:2020/08/04(火) 20:20:14 ID:DK9oyGfI
昭和十九年に海軍に入隊した私の兵種は衛生兵と決まった。

 軍隊での兵務内容にはいろいろあったが、ここでは性器の露出に関係する場面だけを記すことにする。ただし、もちろんこれは兵務のごく一部である。

 私は出生地が福井の漁村であったためか徴兵検査で乙種合格すると海軍に入隊に入ることに決まった。昭和十八年四月のことである。海兵団入団の日、見送ってくれた両親と海兵団の門の前で別れ、分隊ごとに約百名ぐらいずつ各兵舎にひとまず案内された。各分隊とも下士官指導のもとに、古参の兵が引率する。入隊して最初の行事は入営時身体検査である。

 身体検査では全裸にされ詳しく全身を検査をされる。兵舎の筵(むしろ)の上で分隊百名は全裸となり、靴から褌まで一切の私物を持参の風呂敷で包む。そして紐でしばって荷物札をつけ名前を記入する。荷物は、係の手で門前の親もとに届けられ、見送りのない者の荷物は国もとへ返送される。

 こうして我々新兵は入営後、30分も経たないうちに個人の持ち物は全て取り上げられて、すっ裸にされ自分の身体だけが唯一の頼りという大変心細い状態に追いやられた。それから全裸のままで身体検査の順番を待つのである。その間越中褌ひとつ与えられず、古兵達の好奇の視線を前にただ恥ずかしそうに並んで待っていた。

88名無しさん:2020/08/04(火) 20:21:20 ID:DK9oyGfI

 身体検査は分隊毎に行われるのだが、自分の分隊の順番が来るまでにはだいぶ時間があった。その待ち時間のことであった。下士官が席を外すのを見計らうかのように、古参兵達がおもしろ半分に我々の生殖器検査を始めると宣言したのである。

「まもなく軍医による正式の身体検査があるが、その時にまごついて我が分隊の名誉を傷つけないよう注意しなければならない。そこで今から生殖器検査を受けるための訓練を行う」と古参兵から言われた。

 すでに全裸で性器を晒している新兵達は、3人ほどの古参兵に命令され直立不動の姿勢で立ち性器を検査された。そして勃起する程まで執拗にいじくり廻され、生殖器の品評会をさせられた。

 自分の分隊に身体検査の番がくると、引率されて医務室前の中庭に集合する。全裸で戸惑っている私たちは、すのこ板を渡って医務室前の控所に整列する。手で陰部を隠すことは禁止されている。古参兵は意地悪そうに陰部のあたりを眺めまわす。

 四列に並んだ新兵達の先頭には衛生下士官が4人いて検査をしている。陰茎をつかんで皮をむき上げてから厳密丁寧にしごく。それがすむと別の衛生下士官の手で四つんばいの肛門に硝子の丸棒をつっこまれて検便をした。軍医は椅子に座って眺めているだけであった。

 身体検査が終わると、再び全裸のまま行列を作ってすのこを渡り元の兵舎にもどる。やがて自分の分隊の受け持ちとなる下士官に一人ずつ名前を呼ばれる。氏名、出身地、生年月日などを申告すると、顔と陰部をじろりと眺められてから、越中褌を手渡される。

 その後下着、軍服、靴を支給され格好だけは海軍二等水兵となった。

89名無しさん:2020/08/04(火) 20:22:52 ID:DK9oyGfI
しかし翌日から始まった新兵教育訓練ではやっと支給された軍服も役に立たなかった。

 訓練中に着衣する事が許されないのである。新兵達への訓練は、正しい姿勢で兵隊らしく規律ある行動が出来るようになるまでは全裸で行われると言うのが、ここの新兵教育隊の慣例だったのである。

 海軍に入営した兵隊が一番最初に受ける訓練は兵隊の基本、命令にしたがって規律正しく行う行進である。その訓練はすっ裸で行われる。兵舎で越中褌を外して全裸のまま集合させられた。

 何百人もの全裸の新兵が号令にあわせて、規律正しく、掛け声をあげながら集団行進するのである。性器に対する羞恥心をなくす事と行進の姿勢矯正には全裸がもっとも効率的なのである。

 号令の従って準備体操をしたり、駆け足しをしたりしていると全裸の陰茎がブラブラ動いて太腿に当たったりするため、どうかすると勃起してしまう事がある。だいたい一班50人のなかで2人か3人は勃起させていたが、それでも何事もなかったかのように、隠しもせず勃起陰茎をさらしたまま大きく腕を振り行進していた。また号令をかけている上官も勃起陰茎を見てもまったく気にしていないようであった。

 キンタマをぶらぶらさせ、時には勃起してしまった陰茎ですら、隠すこともできずに晒らけ出したまま明るい太陽の下で終日、全裸の徒歩訓練させられる、それが軍隊なのである。

 全員の姿勢が矯正され、兵隊らしく号令通りに行進できるまで連日、全裸での訓練が続いた。性器への羞恥心を無くさせるため、大小さまざまな性器を訓練と称してわざと露出させるのである。

 軍隊では「集団陰部露出」を強制される場面は珍しい事ではなく頻繁にあった。それは陰部露出が新兵を早く兵隊らしくする方法の一つと考えられていたからである。

 兵隊となったからには、その肉体はすでに個人のものでなく軍隊のものである。その肉体の一部分である性器に対して個人的な感情や羞恥心を持つことは許される事ではなかったのである。

90名無しさん:2020/08/04(火) 20:24:13 ID:DK9oyGfI
性器に対する羞恥心を早く捨てさせる事も兵隊に必要な訓練であり、上官の任務であった。

 折にふれ、部下の兵の性器を露出させ、あるいは性器をもて遊ぶようにいじくり、性器の対する羞恥心を無くさせる事が軍隊における上官の任務のひとつであったという事である。罰直としての砲身磨きや集団発射訓練もその手段である。

 特に発射訓練は班全員が上官の号令に従って一斉に射精するという点で兵隊の羞恥心をなくすと同時に、兵隊にとって一番大事な素養である。「上官の命令には絶対服従し、命令どうりに行動する」を教えるのに最適な集団訓練であり、新兵にはよく行われた。

その他に性器露出を伴う兵隊生活には以下のような物があった。

91名無しさん:2020/08/04(火) 20:25:49 ID:DK9oyGfI
■月例検査

 毎月行われる身体検査で、身長、体重を折れ線グラフにして検査表に記入される。

 体重が減っている者は、軍医あるいは衛生兵による診察が行われる。またこの月例検査では性器の検査も行われる。将校クラスを除いては、月例検査は一人の抜けも許されないほど厳格に行われた。

■性器露出を伴う罰直

 軍隊では失敗をすると厳しい制裁を受ける。その中には強制陰部露出を伴うな罰ちょくも数々あった。

「砲身磨き」とはよく初年兵に課した罰ちょくの一つである。鉄製の本物の大砲ではなくて、すべての男子が股間に所有している大砲を磨くこと、すなわちセンズリを掻くことである。

 また「セミ」、「ウグイスの谷渡り」は陸軍で広く用いられていた。いずれも褌を取らされ、強制陰部露出して課せられる罰ちょくである。

 ●有名なセミというのは昆虫の蝉の生態が語源になっている罰ちょくである。

 セミが木でミーンミーンと鳴いている。鳴きやんで飛んで行くとき、せみは小便をしてから飛んで行く。この生態のまねをさせられるのが「セミ」という罰ちょくである。

 方法は

 ・越中褌一つまたは全裸。どちらかは内務班の伝統により様々。

 ・兵舎内の柱に登らされる。登ると上でミーンミーンと鳴いてセミのまねをする。

 ・ひととき、「もっと威勢良く鳴け」とか、いたぶられたあと、「よし、小便して逃げろ」と命令される。

 ・柱に両足を絡ませ片手でチンポを握って、振り、小便をするまねをする。

 ・これで許してもらえる場合もあるが更に、

 ・「小便が出てないぞ、小便がでなければチンポをしごいて白い水を出せ」と 命令される場合もある。

  しかたなくしごくが、無理な体勢で、勃起はしても射精までは難しく、

  射精のまねごとのよがり声を出せば途中で許してもらえる 場合が多いという

 セミは大体以上であるが、屋外の場合は木に登らされるとか月例検査でチンボが大きいと思われると狙われやすいとか、チンポをしごいて射精のまねをしても上官が「よし」という終了の合図を出さないとかの変形もある。

92名無しさん:2020/08/04(火) 20:27:07 ID:DK9oyGfI
 ●ウグイスとは語源である「ウグイスの谷渡り」を省略したもの。

 軍隊で「ウグイスをやれ」といわれたら、ウグイスのまねをしてホーホケキョと鳴くのだが、普通にウグイスの物まねする訳ではない。

 ・越中褌ひとつ、または全裸にさせる。

 ・兵舎の中にずらっと並んでいる寝台を谷にみたてて、順番に訪れ、鳴き真似をする。

 ・具体的には寝台と寝台の狭い間をくぐり抜けて一つの寝台の上に乗りホーホケキョと鳴く。

 ・次の寝台はその下をくぐりぬけて、その次の寝台の上にあがり、鳴く。

 ・このウグイスの谷渡りを一列に並んだ寝台の端から端までやれされる。

以上がウグイスであるが、変形も色々あり、ウグイスの鳴き声の代わりにP屋(軍隊用の女郎屋)の客引きのまねをさせられる方法もあった。

■吹き流し

 兵舎の入り口などに吹き流しの格好で直立不動にさせる。吹き流しの格好とは、越中褌1つにし、前布を引き抜いて性器を露出させ、越中褌の布がお尻の後ろで風にはためいている状態で立たせておくという罰直である。

■砲身磨き

 兵営では班ごとに連帯責任を課された。たとえば中の一人がヘマをすると班全員に罰直が行われる。

 兵隊への罰直に”砲身磨き”という方法がある。軍隊では鉄砲は大切に整備し磨きをかけなければならなかったそうで、夜にその点検があったという。

 そして、もし鉄砲の磨きが不足と判断されると、その班全員が、砲身を磨いて”発射検査”を受けなければならなかったのだという。

 ここで砲身というのが銃ではないという事で、そこが罰直の罰直たるところ。自分の股間にぶら下げている生身の銃身を磨くのである。

 各自支給されている銃の砲身は常にピカピカに磨いておく事が大事であるが、股間にぶら下げている生身の銃も時々磨かされるのである。もちろん磨くだけでなく発射性能も検査される。

93名無しさん:2020/08/04(火) 20:29:14 ID:DK9oyGfI
■発射訓練

 兵隊は自分の意志で動いてはならない。上官から命令されたときだけ、号令通りに動かないといけないのである。そのため上官の命令による集団行動を徹底的に訓練されるのが軍隊である。

 その訓練を徹底するため精液の発射というもっとも個人的な行動まで、号令に合わせて班全員が一斉に射撃できるようになるまで訓練される。

 早漏ぎみあるいは遅漏の者がいる班は発射のタイミングがずれるので、全員が一斉に発射できるまで生殖器が赤くヒリヒリなっても何度も発射訓練される。

 徴兵検査で包茎が認められた壮丁には、入営日までに包茎手術を受けておくように指導される。衛生面の観点以外に、このような訓練に備え、早漏になりにくい完全露茎にしておいた方がいいのである。

 発射訓練は、たとえ兵務とはまったく関係ない射精という個人の秘め事であっても、上官から命令されればその命令に従って動くという「立派な兵隊」となるための訓練でもある。

「娑婆っけ」を抜き兵隊である事を肉体に叩き込むために発射訓練を好む上官もいた。

■当番兵

 そのほか罰直ではないが当番兵という役割も廻ってくる。

 中尉以上の上官の部屋掃除、洗濯など、身の回りを世話をおよそ1ヶ月間当番制でするのである。

 軍隊では新兵の性器を露出させるだけでなく、上官も平然と性器を新兵達に露出する。入浴中に背中を流すついでに前まで綺麗にさせられる事もよくあることであった。

 また腰を揉めと言われて始めたら、センズリの手伝いをさせていたという事もあり、時には尺八を所望される事もある。肩の凝っている上官が部下に按摩をさせるのと同じ気持ちで、上官は勃起した性器を新兵にさらして揉ませるのである。

h ttp://pakurogu02.fc2web.com/pakuri3/05/member/001otakara/tetuo/tetuo11-kinnji.html

94名無しさん:2020/08/04(火) 20:30:51 ID:DK9oyGfI

senzurinitouhei senzurinitouhei
検診の使役兵の一人に奥野古年兵がいた。奥野は、志願兵であった。奥野は、故郷で、伯父の診療所を手伝っていた。その経歴が買われたのか、衛生兵として従軍した。いつ外地へ飛ばされてもよい時であったが、何故か内地任務であった。

 奥野は、この三年の間、幾度も新兵の徴兵検査に立ち会っていた。数百、数千のM検、穴検をやってきた。奥野古年兵の手にかかると、どんなセガレでも固くなっていた。その手腕の結果、彼が誰よりも多くの病気持ちのセガレを見つけ出していた。

 奥野は使役に出掛ける前、内務班の仲間たちに

「俺の凄腕を見にこいや」と吹聴をした。

 見物に集まった古年兵は、彼の手練の確認に来ていたのかもしれなかった。

「こら、そこばっかり固まるな、そこの色の黒いの、こっちイこい」

 使役兵は、再三、若者たちを呼びつけねばならなかった。その三人は手荒ではなく、むしろ丁寧である。見物の古年兵たちがこの三人を中心にして集まっているのも仕事が事務的ではないからだ。

 健次は、空いている使役兵の前に立ち、名前を告げ、記録用紙を渡した。

 使役兵は何も言わずに、記録用紙に目を通し、健次の顔を見上げた。その目が健次の胸、腹、股間に移っていった。使役兵が感嘆の目を向けた。奥野使役兵であった。

「田村健次か、うむ、よい体をしておる」

 奥野は、自分の喉が乾いているのを知った。

 奥野は、健次の胸、腹、尻を手の平で撫でた。それは、男の体を触ると言うよりも、女の体を撫でるような仕草であった。

 充分な栄養と力仕事が若者の筋肉を育てている。張りつめた皮膚は、うっすらと脂肪を浮かべ、滑らかである。目の前には充分な太さを持った男根が垂れ下がっていた。

「よし、股を開いてここに立て」

 奥野は、健次の男根を見つめながら声を放った。その言葉が、喉の奥に絡んでいた。

 奥野の言葉に従って、健次が前に立つと、奥野の手がいきなり、男根を握り締めた。柔らかな男根は、手の中に充分な質量を示していた。思わず健次が腰を引くと、奥野が低い声で怒鳴った。

「こら!しゃんと立たんかい!」

 それは、健次が初めて聞く、軍隊の叱責の言葉であった。

 性病の検査は男根を扱き、尿道からの分泌液をみる。

 奥野の手慣れた手が、男根を扱きだした。

 萎縮して縮んだ男根には痛いほどの扱きを与える。被検査者があきらめを感じるまで扱くのである。被検査者は、その痛みから逃れるため、身体の力を抜く。少しでも検査者の言いなりになった方が早く終わると考える。身体の力を抜くと男根からの刺激が徐々に脳に伝わる。男根は徐々に大きくなる。

 奥野は、健次の重量感ある男根を愛しむように扱いた。それは、検査のためというよりも、健次の男根の感触を楽しむような手つきであった。

h ttp://novel.bookstudio.com/author/10910/14161/5.htm

7 リアクション

95名無しさん:2020/08/04(火) 20:34:52 ID:DK9oyGfI
fundoshinitouhei fundoshinitouhei
昭和十九年に海軍に入隊した私の兵種は衛生兵と決まった。

 軍隊での兵務内容にはいろいろあったが、ここでは性器の露出に関係する場面だけを記すことにする。ただし、もちろんこれは兵務のごく一部である。

 私は出生地が福井の漁村であったためか徴兵検査で乙種合格すると海軍に入隊に入ることに決まった。昭和十八年四月のことである。海兵団入団の日、見送ってくれた両親と海兵団の門の前で別れ、分隊ごとに約百名ぐらいずつ各兵舎にひとまず案内された。各分隊とも下士官指導のもとに、古参の兵が引率する。入隊して最初の行事は入営時身体検査である。

 身体検査では全裸にされ詳しく全身を検査をされる。兵舎の筵(むしろ)の上で分隊百名は全裸となり、靴から褌まで一切の私物を持参の風呂敷で包む。そして紐でしばって荷物札をつけ名前を記入する。荷物は、係の手で門前の親もとに届けられ、見送りのない者の荷物は国もとへ返送される。

 こうして我々新兵は入営後、30分も経たないうちに個人の持ち物は全て取り上げられて、すっ裸にされ自分の身体だけが唯一の頼りという大変心細い状態に追いやられた。それから全裸のままで身体検査の順番を待つのである。その間越中褌ひとつ与えられず、古兵達の好奇の視線を前にただ恥ずかしそうに並んで待っていた。

 身体検査は分隊毎に行われるのだが、自分の分隊の順番が来るまでにはだいぶ時間があった。その待ち時間のことであった。下士官が席を外すのを見計らうかのように、古参兵達がおもしろ半分に我々の生殖器検査を始めると宣言したのである。

「まもなく軍医による正式の身体検査があるが、その時にまごついて我が分隊の名誉を傷つけないよう注意しなければならない。そこで今から生殖器検査を受けるための訓練を行う」と古参兵から言われた。

 すでに全裸で性器を晒している新兵達は、3人ほどの古参兵に命令され直立不動の姿勢で立ち性器を検査された。そして勃起する程まで執拗にいじくり廻され、生殖器の品評会をさせられた。

 自分の分隊に身体検査の番がくると、引率されて医務室前の中庭に集合する。全裸で戸惑っている私たちは、すのこ板を渡って医務室前の控所に整列する。手で陰部を隠すことは禁止されている。古参兵は意地悪そうに陰部のあたりを眺めまわす。

 四列に並んだ新兵達の先頭には衛生下士官が4人いて検査をしている。陰茎をつかんで皮をむき上げてから厳密丁寧にしごく。それがすむと別の衛生下士官の手で四つんばいの肛門に硝子の丸棒をつっこまれて検便をした。軍医は椅子に座って眺めているだけであった。

 身体検査が終わると、再び全裸のまま行列を作ってすのこを渡り元の兵舎にもどる。やがて自分の分隊の受け持ちとなる下士官に一人ずつ名前を呼ばれる。氏名、出身地、生年月日などを申告すると、顔と陰部をじろりと眺められてから、越中褌を手渡される。

 その後下着、軍服、靴を支給され格好だけは海軍二等水兵となった。

 しかし翌日から始まった新兵教育訓練ではやっと支給された軍服も役に立たなかった。

 訓練中に着衣する事が許されないのである。新兵達への訓練は、正しい姿勢で兵隊らしく規律ある行動が出来るようになるまでは全裸で行われると言うのが、ここの新兵教育隊の慣例だったのである。

96名無しさん:2020/08/04(火) 20:37:06 ID:DK9oyGfI
海軍に入営した兵隊が一番最初に受ける訓練は兵隊の基本、命令にしたがって規律正しく行う行進である。その訓練はすっ裸で行われる。兵舎で越中褌を外して全裸のまま集合させられた。

 何百人もの全裸の新兵が号令にあわせて、規律正しく、掛け声をあげながら集団行進するのである。性器に対する羞恥心をなくす事と行進の姿勢矯正には全裸がもっとも効率的なのである。

 号令の従って準備体操をしたり、駆け足しをしたりしていると全裸の陰茎がブラブラ動いて太腿に当たったりするため、どうかすると勃起してしまう事がある。だいたい一班50人のなかで2人か3人は勃起させていたが、それでも何事もなかったかのように、隠しもせず勃起陰茎をさらしたまま大きく腕を振り行進していた。また号令をかけている上官も勃起陰茎を見てもまったく気にしていないようであった。

 キンタマをぶらぶらさせ、時には勃起してしまった陰茎ですら、隠すこともできずに晒らけ出したまま明るい太陽の下で終日、全裸の徒歩訓練させられる、それが軍隊なのである。

 全員の姿勢が矯正され、兵隊らしく号令通りに行進できるまで連日、全裸での訓練が続いた。性器への羞恥心を無くさせるため、大小さまざまな性器を訓練と称してわざと露出させるのである。

97名無しさん:2020/08/04(火) 20:38:38 ID:DK9oyGfI
軍隊では「集団陰部露出」を強制される場面は珍しい事ではなく頻繁にあった。それは陰部露出が新兵を早く兵隊らしくする方法の一つと考えられていたからである。

 兵隊となったからには、その肉体はすでに個人のものでなく軍隊のものである。その肉体の一部分である性器に対して個人的な感情や羞恥心を持つことは許される事ではなかったのである。

 性器に対する羞恥心を早く捨てさせる事も兵隊に必要な訓練であり、上官の任務であった。

 折にふれ、部下の兵の性器を露出させ、あるいは性器をもて遊ぶようにいじくり、性器の対する羞恥心を無くさせる事が軍隊における上官の任務のひとつであったという事である。罰直としての砲身磨きや集団発射訓練もその手段である。

 特に発射訓練は班全員が上官の号令に従って一斉に射精するという点で兵隊の羞恥心をなくすと同時に、兵隊にとって一番大事な素養である。「上官の命令には絶対服従し、命令どうりに行動する」を教えるのに最適な集団訓練であり、新兵にはよく行われた。

その他に性器露出を伴う兵隊生活には以下のような物があった。

98名無しさん:2020/08/04(火) 20:39:50 ID:DK9oyGfI
■月例検査

 毎月行われる身体検査で、身長、体重を折れ線グラフにして検査表に記入される。

 体重が減っている者は、軍医あるいは衛生兵による診察が行われる。またこの月例検査では性器の検査も行われる。将校クラスを除いては、月例検査は一人の抜けも許されないほど厳格に行われた。

■性器露出を伴う罰直

 軍隊では失敗をすると厳しい制裁を受ける。その中には強制陰部露出を伴うな罰ちょくも数々あった。

「砲身磨き」とはよく初年兵に課した罰ちょくの一つである。鉄製の本物の大砲ではなくて、すべての男子が股間に所有している大砲を磨くこと、すなわちセンズリを掻くことである。

 また「セミ」、「ウグイスの谷渡り」は陸軍で広く用いられていた。いずれも褌を取らされ、強制陰部露出して課せられる罰ちょくである。

 ●有名なセミというのは昆虫の蝉の生態が語源になっている罰ちょくである。

 セミが木でミーンミーンと鳴いている。鳴きやんで飛んで行くとき、せみは小便をしてから飛んで行く。この生態のまねをさせられるのが「セミ」という罰ちょくである。

 方法は

 ・越中褌一つまたは全裸。どちらかは内務班の伝統により様々。

 ・兵舎内の柱に登らされる。登ると上でミーンミーンと鳴いてセミのまねをする。

 ・ひととき、「もっと威勢良く鳴け」とか、いたぶられたあと、「よし、小便して逃げろ」と命令される。

 ・柱に両足を絡ませ片手でチンポを握って、振り、小便をするまねをする。

 ・これで許してもらえる場合もあるが更に、

 ・「小便が出てないぞ、小便がでなければチンポをしごいて白い水を出せ」と 命令される場合もある。

  しかたなくしごくが、無理な体勢で、勃起はしても射精までは難しく、

  射精のまねごとのよがり声を出せば途中で許してもらえる 場合が多いという

 セミは大体以上であるが、屋外の場合は木に登らされるとか月例検査でチンボが大きいと思われると狙われやすいとか、チンポをしごいて射精のまねをしても上官が「よし」という終了の合図を出さないとかの変形もある。

 ●ウグイスとは語源である「ウグイスの谷渡り」を省略したもの。

 軍隊で「ウグイスをやれ」といわれたら、ウグイスのまねをしてホーホケキョと鳴くのだが、普通にウグイスの物まねする訳ではない。

 ・越中褌ひとつ、または全裸にさせる。

 ・兵舎の中にずらっと並んでいる寝台を谷にみたてて、順番に訪れ、鳴き真似をする。

 ・具体的には寝台と寝台の狭い間をくぐり抜けて一つの寝台の上に乗りホーホケキョと鳴く。

 ・次の寝台はその下をくぐりぬけて、その次の寝台の上にあがり、鳴く。

 ・このウグイスの谷渡りを一列に並んだ寝台の端から端までやれされる。

以上がウグイスであるが、変形も色々あり、ウグイスの鳴き声の代わりにP屋(軍隊用の女郎屋)の客引きのまねをさせられる方法もあった。

99名無しさん:2020/08/04(火) 20:40:36 ID:DK9oyGfI
■吹き流し

 兵舎の入り口などに吹き流しの格好で直立不動にさせる。吹き流しの格好とは、越中褌1つにし、前布を引き抜いて性器を露出させ、越中褌の布がお尻の後ろで風にはためいている状態で立たせておくという罰直である。

■砲身磨き

 兵営では班ごとに連帯責任を課された。たとえば中の一人がヘマをすると班全員に罰直が行われる。

 兵隊への罰直に”砲身磨き”という方法がある。軍隊では鉄砲は大切に整備し磨きをかけなければならなかったそうで、夜にその点検があったという。

 そして、もし鉄砲の磨きが不足と判断されると、その班全員が、砲身を磨いて”発射検査”を受けなければならなかったのだという。

 ここで砲身というのが銃ではないという事で、そこが罰直の罰直たるところ。自分の股間にぶら下げている生身の銃身を磨くのである。

 各自支給されている銃の砲身は常にピカピカに磨いておく事が大事であるが、股間にぶら下げている生身の銃も時々磨かされるのである。もちろん磨くだけでなく発射性能も検査される。

■発射訓練

 兵隊は自分の意志で動いてはならない。上官から命令されたときだけ、号令通りに動かないといけないのである。そのため上官の命令による集団行動を徹底的に訓練されるのが軍隊である。

 その訓練を徹底するため精液の発射というもっとも個人的な行動まで、号令に合わせて班全員が一斉に射撃できるようになるまで訓練される。

 早漏ぎみあるいは遅漏の者がいる班は発射のタイミングがずれるので、全員が一斉に発射できるまで生殖器が赤くヒリヒリなっても何度も発射訓練される。

 徴兵検査で包茎が認められた壮丁には、入営日までに包茎手術を受けておくように指導される。衛生面の観点以外に、このような訓練に備え、早漏になりにくい完全露茎にしておいた方がいいのである。

 発射訓練は、たとえ兵務とはまったく関係ない射精という個人の秘め事であっても、上官から命令されればその命令に従って動くという「立派な兵隊」となるための訓練でもある。

「娑婆っけ」を抜き兵隊である事を肉体に叩き込むために発射訓練を好む上官もいた。

■当番兵

 そのほか罰直ではないが当番兵という役割も廻ってくる。

 中尉以上の上官の部屋掃除、洗濯など、身の回りを世話をおよそ1ヶ月間当番制でするのである。

 軍隊では新兵の性器を露出させるだけでなく、上官も平然と性器を新兵達に露出する。入浴中に背中を流すついでに前まで綺麗にさせられる事もよくあることであった。

 また腰を揉めと言われて始めたら、センズリの手伝いをさせていたという事もあり、時には尺八を所望される事もある。肩の凝っている上官が部下に按摩をさせるのと同じ気持ちで、上官は勃起した性器を新兵にさらして揉ませるのである。

h ttp://pakurogu02.fc2web.com/pakuri3/05/member/001otakara/tetuo/tetuo11-kinnji.html

100名無しさん:2020/08/05(水) 08:47:19 ID:DK9oyGfI
小山内宏著三恵書房1975刊「絵とき日本陸軍」「絵とき日本海軍」に絵
がある。
また、NHK取材班編「赤紙」創元者1997に徴兵検査の素っ裸の写真が
載っている。
 (この写真は,毎日新聞社1955「写真・昭和30年史」の写真である。

岩波写真文庫101(復刻ワイド判50)「戦争と日本人]岩波書店1987
に素っ裸で こちらを向いている伝説的な写真が載っている。
本籍地の同級生や、同級の女が見ていてもその前でフンドシ一枚すらつけな
い露もない姿で,勿論隠したり女々しいことは許されない。朝から終わりまで
、地獄の羞恥の一日。強制露出の一日。


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