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日本男児と徴兵検査  M検・徴兵検査場の羞恥

37名無しさん:2020/07/23(木) 14:06:46 ID:DK9oyGfI
朝の点呼のとき、パンツに手淫の痕跡を発見されると、その場でのビンタだけではすまない。重い罰が加えられた。最初は舎監室で尻をムキ出しにして竹刀で殴るだけであったが、三度、四度の常習者に対しては、日曜日に特訓と称するシゴキが実施された。
 先ず、懲戒を受ける養成工は教習所付設の相撲場へ連れだされる。舎監や戦時中養成工教育を受けた二十才台の先輩達の手によりたちまち丸裸にされる。陰茎をむき上げて締込みをさせる。その上で一日中徹底的に稽古をつけられるのである。倒れると水をかけられる。竹刀で殴られる。遂にクタクタになり、手淫をする気もなくなる仕組みであった。
 しかし、それでも人生で最も精力旺盛な年令の少年達のことである。秘かに夜のベッドや朝の便所で手淫をする者が後をたたなかった。


 さて翌年四月、二期生が入寮してからは年長養成工によるシゴキが激しく行われた。自分達が新人生時代に受けたM検を二期生に強制したり、舎監が不在の日には寮の廊下でヤカンがけ大会(勃起させた陰茎にヤカンをかけどれだけの重さまで持ちこたえるかを競う)が開かれたようだ。また二期生全員を全裸にしても姿勢矯正訓練も行われたと後日一期生から聞いた。

 寮での相互手淫は常識になっていたが、その程度はまだ手緩い方であった。
 二期生の適性検査のとき、同期生切っての美少年、小川の肛門にかなりひどい裂痔が発見されたのである。入社のときの身体検査では全く異常のなかった少年であった。
 医師が追及すると、小川は「相撲の締込がきつくて、擦れて傷がつきました」という。寮では一期生と二期生を一室に同居させていたので、多分に人為的な裂傷である疑いがあった。然し、本人は頑として「相撲で吊り上げられたときの傷です」と否定する。結局、それ以上の追求はできず、うやむやとなってしまった。

 二期生の適性検査のあと、しばらくした日曜日、私のアパートヘ一期生の甲種養成工岡田が遊びにきた。例の小川少年と同室の寮生である。岡田は漁師の子で腕力が強く、養成工の勝ち抜き相撲では何時も五人抜きの常連であった。暑い夏の午後でもあり、今のように冷房もない時代である。私もパンツ一枚、彼もパンツ一枚になって向き合っての雑談であった。
 話が二期生の適性検査のときのM検の実況談になると、彼のパンツの前が盛上ってくるのが判った。
とうとう自制しきれなくなった私はやおら右手で岡田のものをパンツの上から握ってみたが、彼は一寸表情を堅くしただけで逃げようともしない。押し倒してパンツを脱がせてみると、既に陰茎は屹立し、陰茎の頭は全く剥けて湿っていた。亀頭に指をふれると身体をよじらせる。彼の両手を後へ廻して日本手拭で縛り押えつけて俯伏せにし、「お前、小川にいたずらしたやろ」というと、耳まで赤くして「そやけど、してくれと頼まれたんや」と答える。「ウソツケ、小川がどんな痛い目したか、思い知れ」と、彼の肛門ヘ太い万年筆の軸を突込んでかき廻した。万年筆が思ったほど太くなかったためか、彼はあまり痛がらず身もだえしてハァハァと荒い息をしていたが、最後に身体をねじって横向きになると白い液を大量に噴射した。


 このような養成工残酷物語にも、少年達とのプレーにも、やがて終止符を打つときがきた。昭和三十年代後半、日本経済が高度成長期に入ると、高校、大学の進学率が高くなり、もはや学業、体力ともに優秀な養成工を採用することができなくなった。会社は養成工採用を打切り教習所は廃止され、私も新しい職務につくため工場を後にし、養成工の少年達と別れなけれはならなくなったのである。
 幾年月が流れ、私も熟年といわれる年令に達した。しかし今もなお瞳を閉じ、若かりし日々を憶うとき、必らず瞼に浮ぶのは、今は遠き養成工達の姿である。顔を赤らめ、身体を固くしながらも、パンツを脱ぎ、診察台に身を横たえ、初めてM検を受けたあの健気な少年達の姿である。


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