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日本男児と徴兵検査  M検・徴兵検査場の羞恥

24名無しさん:2020/06/11(木) 10:01:39 ID:DK9oyGfI
◎ いよいよ検査の日
私達の検査は昭和十二年五月某日であった。朝早く役場へ集合して、宮崎兵事係と在郷軍人会の岩城さんに連れられ、巡航船で田辺へ渡った。検査会場の田辺中学校に着くと、もうすでに他町村の壮丁たちが大勢集まっていた。そして、いよいよ八時から検査が開始された。

はじめは恐ろしさで緊張がとれなかったが、身長・体重・胸囲と検査が進むにつれ、次第に気分がほぐれてきた。
しかし、囲われた場所で行われる性病検査のときは、やはり緊張した。チンポコを見せると、手でギュウと握って、強くしごかれるのである。童貞だった私には性病など無関係であったが、それでもこの検査を終わるまでは心配でたまらず、終わってホッとしたものだ。

これが終わると今度は肛門検査がある。「痔」の有無を調べるのであろう。軍医に尻を向けて四つん這いになり、肛門を検査してもらった。やっとすべての検査が終わって、最後に偉い検査官(多分陸軍少佐であったと思う)から「甲種合格」の判定を受けたときは、さすがに喜びがこみあげてきた。

私のように、これという欠陥なしにパスする者はよかったが、目や耳の疾患をもつ者は、「お前、徴兵忌避とちがうのか」と疑われ、簡単には検査が済まないようであった。

某青年が仕事中の事故で右手親指を失っているのを見て「徴兵忌避」ではないかと疑われ、徹底的に調べられたというし、大正時代に、林という若者が、目が悪かったというだけで、一番最後まで残されたという話も聞いた。

ある年の検査では、ひ弱な体質の秀才青年が、少し胸囲が狭かったのが原因で、大勢の受検者の前へ引き出され「こんな胸幅の細い男はお国の役に立たん――。もっと鍛練して頑丈な体にしておけ!」と叱りつけられたという。

幸いにも、私達の受検したときは、幸い全員無事に終わり会場を出ることができた。外には写真屋が待ちかまえていて、皆で記念写真を撮してもらった。これは毎年の習慣的行事だったようである。

大正時代の新聞を見ると、当時の「池田写真店」や「武田写真店」が徴兵検査の壮丁者には大割引致しますと、大きな広告を出していた。


◎ 徴兵検査を無事に終えて
徴兵検査が終わると、われわれは天下晴れて一人前の大人である。徴兵検査は、今日の成人式に相当するものだろう。

当時は若者の年令を判断するのに、「あの人、まだ検査前やとォ」と言ったり「あの人、検査もう済んでいるんやでェ」
という風に、検査を境にして一人前、半人前の尺度としていたようだ。その一人前に自分も仲間入りすることが出来たのである。

子供の時分から「兵隊さん」というと、岩城徳松さんや三木佐助さんのように、普通の人より偉いんだと思っていたが、その兵隊に自分もなれるんだと思うと誇らしい気持ちになってきた。

検査を終わって帰るとき、巡航船の中で田野清君から「今晩、かき舟へ集まって合格祝賀会をやろうではないか」と誘いがあり、むろん承知した。

午後七時に会場へ行くと、十五、六人の同級生たちが集まっていた。小学校卒業以来、初めての寄合いで次から次へと話は尽きない。小学校時代の思い出や恩師の消息、「彼女」の話しや入営する人への激励など。 話が戦争のことに及ぶと、日露戦争や満州事変の勝ち戦さの勇ましい言葉ばかり飛び交った。

よもやそれから一カ月後に支那事変が始まり、乙種・丙種の区別なく全員が出征するハメになろうとは誰が想像したであろうか――。

← 日露戦争(明治三十七・八年戦争)
忠魂碑建立の由来(宮崎 伊佐朗氏の講演より)


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