したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

日本男児と徴兵検査  M検・徴兵検査場の羞恥

23名無しさん:2020/06/11(木) 10:00:33 ID:DK9oyGfI
以上の通りであるが「上御一人のために」という考え方や、国防という名のもと、徴兵制度によって我々の父や祖父が兵隊にとられた、あのもの悲しい思い出が、よその国のことのように思われる檄文である。

その徴兵検査もなくなって久しい。再び、こんな非人間的な制度が復活することがなく、昔の語り草で終わることを願う。
今日の人が聞いたら寒気がするような言葉かも知れないが、戦前の満二十歳以上の若者にとって、避けられない関門がこの徴兵検査であった。徴兵検査は、明治五年十一月二十八日の徴兵令施行以来、国民の三大義務の一つとして始まったのである。

私は明治の徴兵検査については語れないが、大正・昭和のそれについて書き残して置きたいと思う。
日清・日露の両戦争に勝ちを収めた勢いもあって、大正の平和な時代でも軍部の権力は絶大であった。徴兵検査は連隊区司令部から検査官や軍医がやってきて実施するのだが、これに加えて各郡の郡役所や町村役場からも係員が派遣されるので、地域的にも大きな公的行事の一つになっていた。

◎ 壮丁者名簿の提出
各役場では毎年三月一日までに、その年の徴兵検査の該当者(数え年二十一歳の者で、生まれ年の十二月一日までに生まれた者。十二月二日以後の出生者は翌年回しとなる)を調査して連隊司令部へ報告しなければならない。

検査は原則として本籍地で受けるのだが、職場や住まいの関係で寄留先で受けることもできる。ただし二月までに戸主は関係役場へ届け出ておかなければならない。

◎ 壮丁者名簿の記入事項
これには①氏名 ②生年月日 ③戸主との続柄 ④本籍地 ⑤現住所 ⑥学歴 ⑦職業 ⑧特技 ⑨賞罰 ⑩その他、本人の秘匿事項や性質まで書かれていた。

話によると、明治の末頃、兵事係が湯崎のA青年の性格が「粗野である」と書いたのを、後になって当人が知り、本人が役場へ怒鳴りこんできたので、兵事係が大弱りしたという一幕もあったらしい。

◎ 徴兵忌避と延期願い
各地の役場では該当者の洩れがないか調査は厳重であったが、この検査の届け出は、原則として戸主と本人ということになっていて、これを怠ると三円から三十円までの罰金を科せられる厳しいものであった。  しかしその反面、少しばかり情のある措置もとられていた。それは、壮丁者が入営することによって、暮らしを支えることが出来ない家庭には、本人と市町村長名で「徴兵延期願い」を出すこともできるという規定があったことである。

◎ 徴兵検査の時期
司令部では各町村から提出された壮丁者名簿によって徴兵検査の計画書を作成することになる。
検査は毎年四月から五月にかけて行われたが、検査官が日高郡からやって来た場合は田辺町の郡役所議事堂で五日間、串本町小学校講堂で一日。東牟婁郡からやってきたときは、その反対の日程で実施することに大体決まっていた。

大正十五年郡役所が廃止されてから、私達が受験した昭和十二年頃までは田辺中学校講堂が試験場に使われていたのである。

◎ 検査前の準備
徴兵検査は普通の身体検査とちがって、軍隊教育の一環として位置づけられていたので非常に厳しく、受験者の態度や言動はきびきびしたものでなければならないと、前々から聞かされていた。

「誰々は怒鳴られたんや」とか「誰々は遅うまでひっぱられたんや」というような噂をたびたび聞いていたので、なんとなく恐ろしいような気がしていた。特に性病などを患っていようものなら、大声で叱られ、非国民扱いされるというので、性病に罹った若者は大慌てで治療に通ったものである。

検査の日が近付くと、よその土地へ働きに行っていた者も、何をおいても帰らなければならない。受検する壮丁が、みんな揃ったところで、在郷軍人会は彼らを集め、検査についての注意や要領を教えていた。

役場からは「徴兵検査心得」というパンフレットをくれた。それには、

① 頭髪を短く刈っておくこと
② 耳の穴を清潔にしておくこと
③ 褌は新しいものを付けていくこと
④ 前日は入浴しておくこと
⑤ 検査場では眼鏡をはずすこと
⑥ 当日は酒を飲んで行ってはいけない
⑦ 控室では歌を唄ったり煙草をすったりしてはいけない

などを、細目にわたって記載されていた。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板