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本尊と曼荼羅
511
:
れん
:2005/11/21(月) 20:50:13
犀角独歩さん
>509
日憲師記述の中の“天八”ですが、當家諸門流繼圖之事の原本を見ないと正確な読み・文意は掴めませんが、「十羅、天八、佛…」の天八は「天、八、」とすべきところ、活字におこして編集の時に「天八」と括られた可能性もあると思うので、日憲師拝観の板本尊の天照・八幡が万年救護本尊の如き表記になっていた可能性はやや少ないと思います。少なくとも、日憲師の記述によるかぎり、板本尊の最上段の勧請が「釈迦多宝本化ノ四菩薩」と弘安式ですので、日憲師の拝観した板本尊の原本が蓮師御真蹟だったならば、天照・八幡は万年救護本尊の如く一行書きではなく通途の如き表記であったろうと考えております。
512
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/22(火) 06:17:58
>508,509 れんさん、犀角独歩さん
れんさんのご指摘である日憲師の記述による戒壇本尊の配座で章安が在座しているという特徴ですが、ご存知とは思いますが章安の在座は興師書写御本尊では一般的です。
『日興上人御本尊集』中の相貌が明らかな154幅中で六師勧請(天台、伝教、妙楽、龍樹、章安、天親が在座する)であるかどうかを分析すると
四師以下(章安を欠く)・・・・ 28幅
六師勧請 ・・・・ 124幅
五師勧請(章安を欠く)・・・・ 1幅
五師勧請(妙楽を欠く)・・・・ 1幅
合計 154幅
となっていて、実に80%(5幅に1幅)は六師勧請なのです。
つまり日興上人の御本尊では六師勧請が一般的なのです。しかしながら、れんさんが御指摘のとおり『御本尊集』の蓮祖御本尊で章安が現れるのは弘安元年八月の第53番本尊と第54番本尊だけなのです。六師勧請の御本尊は章安とともに天親菩薩の在座が特徴です。
六師勧請の観点から日憲師の記述をみてみましょう。
蓮祖の第53番本尊と第54番本尊では向って左に天台、章安、妙楽、伝教の四師が、向って右に龍樹、天親の二師が在座しています。
それに対して興師の御本尊では、六師勧請の場合はすべて、向って左に天台、章安、伝教の三師が在座していて、向って右に妙楽、龍樹、天親の三師が在座している場合と妙楽が左(四師)に龍樹、天親の二師が右に在座する場合の2種類に分類されます。
日憲師の記述では天、章、伝とあり、向って左の在座のようです。そうすると右に妙楽、龍樹、天親が在座しているはずなのですが日憲師の記述では見あたりません。日憲師の書き落としの可能性があると考えます。向って左に天台、章安、伝教の三師だけが在座していて妙楽、龍樹、天親の三師を欠く御本尊は蓮祖、興師ともありません。
日憲師の記述では、第六天魔王と阿修羅王を欠きますがこれも書き落としではないかと推測します。六師勧請の場合は蓮祖、興師とも第六天魔王を欠く御本尊が存在しないからです。但し、日憲師の記述で “阿闍”とあるのがあるいは阿修羅王と阿闍世王を現しているとも考えられます。日憲師の記述では対になった諸尊の場合、大日月、天八というふうに続けて書かれているからです。天照太神と八幡大菩薩の場合は、蓮祖も第16番本尊(万年救護御本尊)のように続けて書かれる場合がありますが、このような書き方は建治元年12月の第30番本尊をもって最後となり、以後は別々に書かれています。興師の御本尊も別々です。日憲師の記述から弘安期の御本尊の特徴を有していることは確実ですから、天照太神と八幡大菩薩は日憲師の記述された御本尊でも別々に在座していたと考えます。
日憲師の記述で、もうひとつの特徴は提婆達多の存在です。蓮祖御本尊の第53番本尊と第54番本尊は、提婆達多を欠きます。蓮祖御本尊のうち弘安期の御本尊では提婆達多は弘安二年二月以後に現れるからです。従って六師勧請の御本尊で提婆達多の在座は興師御本尊の特徴なのです。六師勧請の興師御本尊では提婆達多は在座している場合としていない場合があります。
また日憲師の記述では、日蓮御判とあります。これも興師御本尊にある書き方ですが、これは日憲師が“御判”と書くことにより“花押”を表現したと考えるべきでしょう。
以上のことから、私は日憲師が拝した大石寺の弘安二年十月十二日とある板御本尊の原本は興師御本尊(紙幅)であったと考えています。但し疑問もあります。日憲師の記述では大龍王を欠きますが、六師勧請の興師御本尊の場合、大龍王を欠くときは必ず提婆達多も欠いています。日憲師の記述では大龍王を欠くのですが、提婆達多が在座していることです。六師勧請ではない興師御本尊の場合に大龍王を欠き提婆達多が在座する例はあるので、あるいはこのような相貌の六師勧請の興師御本尊があったのかもしれません。
by 彰往考来
513
:
犀角独歩
:2005/11/22(火) 11:41:47
れんさん、有り難うございます。
彰往考来さん、一つ質問させてください。
日憲が見た「戒壇本尊」の原本が日興書写本尊を基にしたとすると、当時、石山は、該当する原本を所持していたということでしょうか。また、該当する日興本尊は、ある程度、特定できるものでしょうか。
514
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/23(水) 12:26:06
>512
とんでもない誤記をしていました。お詫び申し上げるとともに謹んで訂正いたします。
誤:実に80%(5幅に1幅)は六師勧請
正:実に80%(5幅に4幅)は六師勧請
彰往考来 拝
PS:513の犀角独歩さんのご質問には、追って回答したします。
515
:
ラスカル
:2005/11/23(水) 18:54:48
犀角独歩さん、ありがとうございます。改めて皆さんの寄せて下さった知識・情報を合わせて日蓮仏法とは何なのか考えてみたいと思います。
516
:
犀角独歩
:2005/11/23(水) 19:39:04
ラスカルさん
何かご参考になったところがあれば幸いです。
先は長いです。また、日蓮の外には、仏法の天地が広がっています。
いつか、その扉を開けてみてください。
517
:
れん
:2005/12/13(火) 19:58:53
彰徃考来さん
>512
彰徃考来さんの512のご投稿を拝して、日憲師が見た大石寺の“戒壇本尊”の原本は興師筆曼陀羅であった可能性はあると私も思いました。この場合の原本は、仙台佛眼寺の飛び曼陀羅の如く、興師筆曼陀羅(の模写?)に手を加えて蓮師の花押を書き入れ、それに憲師の記述の如き脇書を加えた…ものとなりましょうか。
要法寺の碩学であった富谷日震師は、たしか、その著「日興上人」において、興師代筆の蓮師曼陀羅といわれるものが静岡県感応寺に所蔵されていると記されていましたが、それが身延曽存の伝四条金吾代筆の曼陀羅の如きものか、仙台佛眼寺の飛び曼陀羅の程度のものか、現存するかどうかも存じませんが、一応、日憲師が見た石山彫刻本尊の成立を考える上で、石山ではありませんが、他山にもこのような伝来品の記録もあることも考え合わせて、彰徃考来さんの512においてのご見解に、その可能性ありと私も思いました。
>513 石山蔵の興師曼陀羅は、日興上人御本尊集や堀日亨師が雪山書房版富士宗学要集史料類聚別巻において公開された数幅の写真以外は現在でも未公開ですから、残念ながら現時点において特定は不可能ではないかと思います。しかしながら彰徃考来さんは何らかの史料をお持ちかもしれませんので、後々のご教示をお待ち申し上げるものです。
518
:
れん
:2006/01/08(日) 23:00:02
初期興門の文献『本門心底抄』に大聖云く…又云くとして、以下の文があります。
「妙とは言語道断・心行所滅の妙空・妙心・妙智なり、法とは十界十如・因果不二の法仮・法色・法境なり、蓮華とは当体・辟+言喩の二義なり、経とは聖教の都名なり、当に知るべし・妙は空・法は仮なる当体を中道実相の蓮華経と証し、十界三諦の顕本を広宣流布の曼陀羅と号するなり」
この文章の原型がどの位遡れるか、文献学的には不明ですか、文中の「十界三諦の顕本」については、同じく初期興門文献の『尊師実録』の異本にあるという御示聞書に
「本門の三法妙とは、仏法妙を以て能開とす、衆生心法を所開とす、故に迹門の三法妙を即顕本すれば成レ本、顕本とは三身無始の顕本是也、三身とは我等が己身の仏性顕本なり、惣じて我等己身の十界久遠の顕本是也、一観心の三法妙は己心の妙を能開とす、無始久遠の釈尊と無始の衆生を所開と為る間、十界倶に久遠と云ふ也、此に知ぬ寿量品の教主釈尊の顕本、即十界久遠の顕本也」とあるのが、一応同時代成立の文献の中で些か参考になりましょうか。
上記の文献からみますと、本仏寿量品教主釈尊の「妙は空・法は仮なる当体を中道実相の蓮華経と証し、十界三諦の顕本」=広宣流布の曼陀羅(この“広宣流布の曼陀羅”との表現は後の七箇相承の流通分の大曼陀羅という表現に一脈通じるものがあり興味深いです)とも読め、初期興門における、本尊である本門(寿量品)教主釈尊と蓮師が図顕した曼陀羅との関係の一端の法義を表しているかとも言えますでしょうか。
まぁ、正月惚けがてら、少々つぶやいてみました。(;^_^A
519
:
犀角独歩
:2006/03/18(土) 21:31:52
顕正居士さん
『日蓮聖人と真言密教』に、密教考証に関し、75に整理されたご教示有り難うございました。
同74に関して、こちらのほうで、ややご賢察を賜りたく存じます。
日蓮が言う本尊を考えるとき、これは当然、本門本尊・本門戒壇・本門題目(妙法蓮華経の五字)という三大法門となろうかと存じます。
本尊・題目に関しては『本尊抄』に論じられるわけですが、題目に関しては、ここにおいて妙法蓮華経は一念三千珠を裏んだ上行所伝という点が言われます。一方、本尊は、爾前二種の科を破り法華本門から本尊を立て、四菩薩との関連から仏像を論じています。
この道筋から言うと、この題目と本尊は、元来、別立てのものであり、故に本門の本尊と題目をそれぞれに陳べたと考えることはできないのでしょうか。具体的には本尊として一尊四士、題目として漫荼羅という違いです。
わたしは個人的には、漫荼羅と仏像を平面と立体の差異と見る日順説は疑問が残ります。また、もし平面と見るのであれば、一尊四示をもって宛てるより、一塔両尊四士でなければ、相応しないと思えるからです。しかし、一尊四士という仏像様式は『本尊抄』から類推できますが、一塔両尊四士という仏像奉安の発想は日蓮の遺文からは窺えず、一尊四士に留まるかと思えます。この様から考えるとき、日蓮自身には本門本尊を一尊四士、本門題目を漫荼羅とし、別のものと考えていたと類推するのです。これは、もちろん、あくまで、派祖の展開ではなく、開祖日蓮の段階での考えと言うことです。
一方、五百塵点成道釈尊を本尊とすると考えたいところなのですが、所謂四十五字法体段と称される記述の問題が残ります。また、関連するのでしょうか、三身所顕無始古仏のこと、この二点から考えても、図示の漫荼羅、もしくは一尊四士本尊というのは、その論理的構築を崩さないと考えられますか。
以上、二点、ご教示賜れば有り難く存じます。
520
:
顕正居士
:2006/03/19(日) 00:23:14
其本尊爲體本師娑婆上寶塔居空。塔中妙法蓮華經左右。釋迦牟尼佛。多寶佛。釋尊脇士
上行等四菩薩。文殊彌勒等四菩薩眷屬居末座。迹化他方大小諸菩薩。萬民處大地如見
雲閣月卿。十方諸佛處大地上。表迹佛迹土故也。如是本尊在世五十餘年無之。八年之間
但限八品。正像二千年之間。小乘釋尊迦葉阿難爲脇士。權大乘竝涅槃法華經迹門等釋尊
以文殊普賢等爲脇士。此等佛造畫正像。未有壽量佛。來入末法始此佛像可令出現歟。
「此佛像」は明らかに十界曼荼羅を述べています。「小乘釋尊」以下は、法華曼荼羅を画き、
一部を仏像として造っても、本化の四菩薩は画かれず造られなかったことをいうのであって、
一尊四士が「此佛像」ではない。では文字の十界曼荼羅が直ちに「此佛像」かというと、そう
ではなく、画像、木像として画き、造るという意味で、つまり文字の曼荼羅は設計図である。
そのような大造像が幾回もできるはずがないから、本門戒壇堂のことと日順は解釈したので、
これは原殿御返事の趣意に一致すると考えます。
本尊は「境」であり、題目は「智」であります。法華経の題目を本尊とせよというのは、もっとも
簡略するなら塔中の妙法蓮華經になります。ただし法華曼荼羅は前代からあるのですから、
本化の四菩薩を造るべきではある。けれども一尊四士には塔中の妙法蓮華經がないから、
一塔両尊四士のほうが本尊抄の文、又それを具体に表現した妙法曼荼羅の趣旨にかなうと
おもいます。
521
:
顕正居士
:2006/03/19(日) 02:53:05
「本尊」という語は密教に由来し、或る修法を行ずる際、或る尊を本尊とする。例えば求聞持法
には虚空蔵を本尊とする。修法は真言(マントラ、梵語の呪文)を主に唱える。「三大秘法」とは
日蓮密教の修法である。本尊は十界皆成の曼荼羅であり、真言は妙法五字である。
本尊とは境智冥合、入我我入の対境であるが、流用し根本尊崇の対象、すなわち教主の意味
に用いることがある。仏教の宗であれば、教の本尊は釈尊である。ただし、天台宗においては
久成の釈尊である、始成の釈尊ではない。久成の釈尊とは毘盧遮那仏あるいは無量寿仏の
ことである。宗の本尊は天台大師の本地である。最澄の表現では、
「毘盧遮那如来ニ帰命シタテマツル、亦釈迦ト名ク、像法転ズル時ニハ衆生ヲ利益シ、
薬師瑠璃光仏ト称号ス、亦西方ニ住シ有情ヲ饒益シタマフ」(根本中堂本尊事)
「法界ニ周遍シタフ大日如来・妙法教主、亦釈迦ト名ク、大悲余リ有リ、亦西方安楽世界ニ住シ、
阿弥陀ト名ク、像法転ズル時ニハ大方便ヲ以テ薬師瑠璃光仏ト称号ス、三世利益同体ノ慈悲ナリ」
(三仏礼誦文)
参考
「天台大師も本地薬王菩薩なり、能説に約する時は釈迦なり衆生の重病を消除する方は薬王
薬師如来なり又利物の方にて薬王と云う自悟の方にては薬師と云う、此の薬王薬師出世の時
は天台大師なり薬王も滅後に弘通し薬師如来も像法暫時の利益有情なり、時を以て身体を顕し
名を以て義を顕す事を仏顕し給うなり」(御義口伝)
522
:
犀角独歩
:2006/03/19(日) 12:13:03
顕正居士さん
520、521にご教示、有り難うございました。
「漫荼羅設計図説」と仮に名付けさせていただくこととしますが、こうなりますと、現存130幅に及ぶ、それぞれの弟子に授与した漫荼羅は、みな設計図であったということでしょうか。
また、仮にこのような壮大な立体像群を造ったとき、仏菩薩諸尊の形貌は仏師が巧みを凝らせばよいと思いますが、塔中の妙法蓮華經ばかりは、日蓮筆でなければ画竜点睛を欠く思いがあります。この文字は漫荼羅となりましょうか。
以前、この文「塔中妙法蓮華經」に就き、宝塔内の妙法蓮華經は法華経典ではないかと、わたしが提案したところ、問答名人さんは妙法五字であると意見が分かれた経緯があります。法華経典元来の全体の趣旨には経典崇拝(聖典崇拝)という文化背景をわたしは感じる故にこのような提案をなしたのですが、しかし、『本尊抄』の趣旨からすれば、日蓮においては上行初伝の妙法蓮華經五字が趣意があるわけで、そのように見なさないと末法の始め500年に始まる先代に異なる本尊義とならないことになります。
その意味で問答さんのお考えは至当であることになります。また、今回は、日順説を宜しくご説明くださったご教示に接し、説得力は感じるところですが、もし本門戒壇堂仏像群の設計図であれば、一幅あれば事足りること、また、首題は乎やり、日蓮筆であるべきことと、わたしには思えながら、複数の漫荼羅が現存し、かつ、妙法五字のみの染筆がのこらないという点は、どのようなご説明となるのか、重ねてご教示を頂戴できれば有り難く存じます。
523
:
顕正居士
:2006/03/19(日) 19:44:24
「本尊」は一般的にはむしろ修法者の当身の本尊のことだから、携帯可能な規模であって、
日蓮授与の曼荼羅はふつうの意味の本尊です。ただし日蓮のいう「事」とは「事造」などの
意味ではなく、具象の意味であろう。また三大秘法は個人の即身成仏だけでなく鎮護国家を
目指すのだから、東大寺大仏とか東寺講堂の造営に匹敵するようなビジョンがあるべきで、
「來入末法始此佛像可令出現歟」はそういう趣意におもえる。いわゆる「事檀」です。
日蓮の宗教はいわゆる「対抗宗教改革」で目標は王朝仏教への復古であるが、手段として
改革派と同様の形態を採ったのだとおもう。だから伽藍仏教、祈祷仏教への志向は相当に
強かったのではないだろうか。維新により「王朝」のほうは復古したので、「事檀」思想が
蘇った。しかしもう王朝仏教への復古というようなビジョンは全然なくなっていました。
なお首題は宝塔を文字で表現したのだから、具体に二仏並座の宝塔を画く、あるいは造る
のが自然で、題目塔はどうも変に感じます。
524
:
犀角独歩
:2006/03/19(日) 23:45:55
顕正居士さん
重ねてご教示有り難うございます。
> 首題は宝塔を文字で表現
録外ではありますが『阿仏房御書』に「宝塔又南無妙法蓮華経也。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此五大は題目の五字也。然者阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房。此より外の才覚無益なり。聞信戒定進捨慙の七宝を以てかざりたる宝塔」とありますので、ここに照らせば、仰るところは了諾はできます。
たしかに妙法蓮華経が宝塔であれば、一念三千の珠を裏むという点は頷けます。
真跡遺文を中心に思考する習慣がついているために、この点は考慮しませんでした。
再考してみることといたします。
もう一点。これは質問というわけではないのですが、日興は「奉懸本門寺」と複数の御筆漫荼羅に添え書きをしました。この日興の意図は仏本尊というより、既に曼陀羅を以て本尊としていると映じます。ところが、ご指摘のとおり、伝・日順文献では仏像造立の図であるとするわけです。重須談所という同一の場で、この相違は師弟において齟齬を来している如くで不思議に観じます。
525
:
顕正居士
:2006/03/20(月) 01:15:04
本門寺には本堂、祖師堂、垂迹堂、講堂、戒壇堂、その他多数の堂宇があるでしょうから、
なんら矛盾はないとおもいます。羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)は東寺講堂が最大規模らしい。
安易に建立できるものではない、一尊四士だけでは「壽量佛」の十分な姿ではないという
理由から、時期が来るまでは紙幅の曼荼羅を本尊とする、これは日興、日順、日尊共通の
思想に見えます。ただし時期を待つうちに、富士の方では色相荘厳の像は無作三身の仏
に相応しくないという思想が生じた。しかし紙幅の曼荼羅は個人に授与されたもので寺院
の本尊として考案されてはいない。それで寺院には板曼荼羅を造立するようになった。
尊門では時期が来たら造像する思想が失われなかった。だからこれを調整する必要が
生じて、日寛は色相荘厳像は大石寺の教義に合わないと決着した。一尊四士のかわりに
板曼荼羅を造立する根拠、および失われた目標の代替として提出したのが戒壇板本尊で
ある。おおよそそういう経緯でしょう。
526
:
れん
:2006/03/20(月) 07:31:21
横レス失礼いたします。
顕正居士さん
525の御見解に賛同いたします。
日尊は京都要法寺蔵の元亨四年正月八日付けの日興漫荼羅に「奥州新田蓮蔵阿闍梨弟子日尊」とあり、日尊は日目の弟子であり、日目も、日道等の他の日目の弟子も、当時の見解は本門寺の戒壇には日蓮大漫荼羅図に則った仏像安置であったろうと愚考します。
日代も葦名阿闍梨御房御返事(正本・西山本門寺蔵)に日尊の弟子日尹に「但御弘通之趣、如今者所存同申也」と述べ、次下に「中仏像造立事本門寺建立時也、未無勅裁、国主御帰依之時三ケ大事一度可令成就給之由御本意也、御本尊図為其也」とありますので、日尊・日代・日順の文献に見える広布時仏像造立・戒壇安置説は当時の初期興門(富士門)共通の見解であり、門祖日興自身の見解でもあったろうと愚考します。
しかして、顕正居士さんが525にて御指摘の通りの後世にこの思想が石山等において失われ、石山においては特に彫刻本尊の造立・登場と相成ったと、私も思います。
527
:
犀角独歩
:2006/03/20(月) 07:50:11
顕正居士さん
重ねてご教示、まことに有り難うございます。
元来、漫荼羅が仏本尊群の設計図であったけれど、その原意が損なわれたのちに板漫荼羅に移行したというご賢察は説得性を感じました。
528
:
れん
:2006/03/20(月) 09:36:37
またまた横レス失礼します。
日蓮図顕の大漫荼羅の用途について、顕正居士さんが525にて示された御賢察ご指摘の点とともに、特に個人授与の大漫荼羅については、日女御前御返事に
「宝塔品の御時は多宝如来・釈迦如来・十方の諸仏、一切の菩薩あつまらせ給ぬ。此宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間、八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」(平成新修745ページ)
とあり、この記述により、釈尊の因行果徳の二法が具足した妙法五字の受持により、“宝塔品”が「八葉の心蓮華の内におはします」を見仏する(観心?)ための用途もあったのではないかとも愚考しています。
日蓮真蹟不現存ゆえの参考資料ながら日興・日源の写本が現存する本尊問答抄に「仏は所生法華経は能生なり」と法勝仏劣を述べているようですが、次下に「仏は身なり法華経は神(なましい)なり」と後世の門下教学で云々されるところの人法一箇の如き思想、原意的には生仏一如・法仏一箇の如き思想が見えますが、日女御前御返事の方が教学的に論述されていない分素朴で、案外大漫荼羅の用途の一側面を表しているのではないかと考えました。
話が変わりますが、今月17日に小松先生の日蓮聖人御遺文講義に初めて参加させて戴きました。参加を御許可いただいた福神研究所様、ご高配いただいた犀角独歩さん、そして、宗学の範囲ばかりでなく、仏典に対する幅広く深いご素養をもとに御賢察をご教示下さる一字三礼さんに重ねて深く感謝申し上げますものです。
529
:
れん
:2006/03/20(月) 09:44:19
528の訂正
誤)原意的には生仏一如・法仏一箇の如き思想
正)原意的には法仏一如・一箇の如き思想
530
:
犀角独歩
:2006/03/20(月) 11:03:38
日蓮の漫荼羅図示というのは、当初、わたしは今で言う揮毫のような手軽さで考えていたのですが、『教化情報』に載った桐谷征一師の説明、また、中尾堯師の話を伺って、この点を改めました。
図示を希望する弟子檀那はまず紙を供養する。紙は楮を選び、その紙の表面を木槌で叩いて平滑にし図示した。継いでもあるわけですから、このようなことを職があったのか、また、弟子にやらせたのか、それはわかりませんが、図示するまでにかなり工程があったことになります。
また、授与された漫荼羅は折り畳んで懐中に入れて肌身離さず持っていた、板に張られていた、風に靡いて劣化したあとが確認されるので幟のように工夫されていたといいます。折り畳めば御守のようですし、板に張れば本尊のようですし、道場の所表ともなります。幟とすれば標識的な役割を持たせたことになります。ただ、このような活用は、日蓮が意図したことなのかという点では多少ならずとも疑問が残ります。
日蓮自身が、では、曼荼羅を弟子に授与したのか、また、その曼荼羅をどのようなものであると考えていたのか、なかなか、その点は、授与されたほうもわからなかったのだというのが中尾師の解説でした。
日蓮は伊東流罪の折、自ら刻んだのであろう一体仏を終生持仏として、それを本尊として寓居に安置していたことが窺われ、一方、自分用の漫荼羅を所持していた事績は窺えないわけです。それにもかかわらず、弟子檀那は漫荼羅を本尊として拝んだか。わたしには、どうもあり得ないことと思えます。
四菩薩を副えることは重須方では、元来、日興の義としており、これを盗んだのが、日澄でしかし、のちに帰伏したという筋でした。また、冨木常忍を対告衆とする『四菩薩造立抄』は忘れがたい文献ですが、ここからは漫荼羅=仏本尊設計図と読めるかどうか。何よりこの書が真筆であるかどうか未決な訳ですが、四菩薩は『本尊抄』同様、重要な意義を持っていることは窺えます。
弘安期に至るまで、その消息分には仏本尊(釈迦像)の造立を伝える記事が見られるわけですが、では、戒壇の仏本尊と、それを分けるところは、これは、やはり、四菩薩を副えるかどうかという点にあったように思えます。
佐渡の地の漁農に従事する人々は、紙すら見たことがなかったのではないのかというのは、中尾師の指摘でした。渡辺照宏師の記述ですが、未開地に行って、薬を飲んで、添付してあった効能書きを捨てたところ、その人々がそれを拾い、張って一所懸命に拝んだ…、作り話のようにも思えますが、しかし、日蓮漫荼羅にも同様な側面はあったのではないかと思えます。
三大法門ということを改めて考えてみると、本門題目(妙法蓮華経)の五字は上行所伝として、日蓮はこの宣布を指名としたことが窺われます。
一方、本門本尊と戒壇は、前者はその義を日蓮は述べ、後者は密事とし、その造立と建造は王法に事寄せたのではないのかと思えます。
523に顕正居士さんが「伽藍仏教、祈祷仏教への志向は相当に強かったのではないだろうか」というご指摘は、わたしはこの度、草案『取要抄』を読み、その思いを強くしました。
漫荼羅の授与は日蓮が正当な弟子檀那として認める允可の意義を含むと、わたしは考えます。もし、仮にそれが設計図であるとすれば、未来、国は造立すべき戒壇の本堂の本尊を、そこに内秘したとみるのは、なかなか、胸がすく、日蓮の情熱も感じるところでした。
531
:
今川元真
:2006/03/20(月) 12:22:45
借金大国・仏教世界・リクルート等どれも一大事なハンドルネーム変えの今川元真です。●《天台密教→本門》 漫陀羅≒教義 日蓮聖人在世の鎌倉時代なので、摂受折伏する本尊漫陀羅(依法不依人ならば漫陀羅で説教化導すべきでは?) 皆成仏道で依法不依人だから一人ひとりの修行道具として下賜したのでは無いでしょうか。 日興伝持の漫陀羅の盗難は噂の説? ●法華経の伝法のあらましを書き表わした漫陀羅は、御書・遺文の代替であり教法本尊≒教主シャクソンを証す。其して、修行道具。御書・遺文の後先は前後が融通が効いても漫陀羅の十界勧請は動かない世界観。 教法本尊である題目 経の本尊、本門のシャクソンを脇士と為す一閻浮提第一の本尊(本尊問答、観心本尊) 色心不二、依正不二などから見ても国家の組織システムのような戒壇堂はあった方が良いかもしれませんが、説教化導の中心に漫陀羅を安置する事で良しとしたのだと思います。戒壇堂は広宣流布の暁。道場で戒壇が漫陀羅で、本門の本尊・戒壇・題目が日蓮仏法の柱だと考えたいです。
532
:
文殊
:2006/03/22(水) 23:13:39
宗祖の真言宗批判は湛然─知礼─柔義の対破思想の批判的側面が考えられます。
「真言諸宗異目」(中山法華経寺真筆)では伝教大師の『法華秀句』を引用し
つつ法華経の優位性を強調する。「四信五品抄」(中山法華経寺真筆)に見る
台密対破。日郷門流に相伝される「不動愛染感見記」の宗教体験の記号言語化は
区別する必要があります。
533
:
文殊
:2006/03/22(水) 23:39:53
「四条金吾殿御返事」(日興写本北山本門寺)には「此等の梵音声一切経と成つて
一切衆生を利益す、其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御声を文字と成し
給う仏の御心はこの文字に備われり」「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は
一つなり、然れば法華経の文字を拝見させ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたり
と・おぼしめすべし」と東密の絵曼荼羅思想に対抗して文字曼荼羅思想が窺えます。
534
:
顕正居士
:2006/03/23(木) 00:19:22
ところで本尊抄を大きなフォントで縦書きにして見た。
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/japan/
のファイルをもとにUNICODEで字を補った。現漢文の書は時にこうして眺めるのもよいとおもう。
http://www.geocities.jp/xianzhengjp/honzonsho
検索は普通にできます。「本尊」、「己心」などの語句で検索するととそれなりに発見があります。
535
:
文殊
:2006/03/23(木) 22:52:41
天台は、六道・三界といった仏教的世界観に忠実に従い、そこに居住する衆生
の実在を踏まえて『法華経』の説示内容を解釈していることに留意する必要が
あります。天台三大部の議論の背景に経典の記述世界を認める立場といえます。
経典の記述世界を認めない近代仏教学とは径庭がある。そもそも論議の前提が
異なり噛み合わない。近代仏教学・原始仏教回帰・真蹟遺文絶対思想は分別心
に覆われているといえます。「思議を超えたことがらは、分別心を超えた最深
最奥より湧き上がる真に法を求める心に依って理解されなければならない」と
柏倉明裕氏は説示する。「印仏研」51・1。宗祖の法華経観・本尊観は仏眼・
仏智の対象であり、仏の認識・観察対象といえる。ご自身の随身一体仏
と弟子檀那に対する曼荼羅本尊授与は仏と三十七道品・三十二相・十八不共法
を完備しない凡夫とは界位が根本的に異なるゆえに相反するものはない。
「故自他行業自在無碍譬如魚練水鳥翔虚空」と寛師が「末法相応抄」に。
末法は正像前代と大きく異なり、散心ゆえに禅定・観仏・見仏修行が困難にな
り得道できなくなっている時節である。対境としての曼荼羅本尊が喫緊の要と
なったのでしょう。
536
:
犀角独歩
:2006/03/24(金) 07:08:34
> 論議の前提が異なり噛み合わない
議論の前提が違うと違わないの問題ではなく、重要な点は、天台も、日蓮も、日寛も、事実ではないこと事実であると思いこんでいた、簡単に言えば、誤認に基づいて理論を組み立て、行動した。つまり、間違えたということです。
そもそも、間違いから発したようなものが仏智だなんだと言えるのかということです。
信じたければ、信じるのは勝手ですが、そんなものは、事実から見れば、中世キリスト教の天動説と一緒であり、妄信という謗りを免れないことです。
信じてきたものの前提が間違っていた、さて、そのとき、どうするのか、言い訳に終始して、しがみつくのか、事実に基づいて、再構築するのか、どちらが、真実、事実に基づく仏智なのか、客観的に考えてみることが必要だということです。
537
:
犀角独歩
:2006/03/24(金) 09:12:15
少し書き足せば、もし、天台、日蓮、日寛が現在に生き、我々が知り得た事実、法華経は後世の創作であるということを知っていても、結論が同じであったかどうか。わたしは同じ結論にはならないであろうと思います。
ならないけれど、現在、知り得る事実に基づいて、しかし、なにがしかの教理と行動を打ち立てたであろう思います。それによって、打ち立てられるものは、果たして、その当時の常識・仏教で組み立てられたものと、どちらが勝れたものであるのか、また、もし、現在に生きていれば、どのようなことを打ち立てのか、そのように考えることには、意義があると思います。
このような類推は、かつて確か顕正居士さんがどちらかで行っていたと記憶します。
われわれの人生はお芝居ではありません。「法華経はお釈迦様が説いたものであると、信じることにしよう」などという台本で生きることはできません。それは、まさに仮想現実、夢想世界の住人に成り下がる以上の意味はないからです。
しかし、われわれは、そのご認識に基づく経典、教理、漫荼羅本尊でも、一つの信仰体験を利得した。いわば、これは「仏の爾前教」「方便の説」であったようなものでしょう。では、事実証拠に基づいて、実教・真実を再構築できるのかという模索がなければ、日蓮門下人は、内部だけにしか通用しない妄想世界の住人になってしまう、いや、既になっている、だから、再構築する道はないのかというのが、ここ数年の当掲示板の議論であったとわたしは考えます。また、そのような模索に賛同されるれんさんの思索、また、ロムの空即是進化さん等のまなざしがあったのであろうとも思います。
538
:
顕正居士
:2006/03/24(金) 13:48:19
近代人の普遍的思惟は古代人、中世人、近世人の努力の結果に到達したものです。古人の
思惟は今人の思惟とは異なります。古代、中世の仏教徒の歴史観は当時の思惟方法に即し
理解される必要があります。
インドには歴史というものがないといわれる。これには事情がある。「通常のインド的気候の
環境においては、貝葉はほぼ二〇〇年程度で白蟻等に食われて用をなさなくなる。つまり、
インドにおいては、通常の記録は二〇〇年ごとに筆写し直さなければ失われてしまうのである」
『インドにおける「とき」---劫・輪廻・業---』
http://www.aa.tufs.ac.jp/~tjun/articles/jikan_frame.html
後漢においてすでに紙が発明された中国とは決定的な相違がある。魏晋南北朝時代までに
インド、西域で約千年間に作製された経論が伝来翻訳された。ここに経部はすべて開祖釈尊の
説として内容を分類する「教相判釈」が起こった。インドには各自に経論を伝持する二十一部が
存在し、さらに大乗があった。それらの内容が何らか開祖釈尊に由来するであろうという仮定を
した。しかし経論中にはある程度の史伝が含まれているから、大雑把な歴史は把握された。
「前の五百年が間は小乗経ひろまらせ給ふ。ひろめし人々は迦葉・阿難等なり。後の五百年は
馬鳴・龍樹・無著・天親等、権大乗経を弘通せさせ給ふ」(随自意御書)
大乗経についてはインド以来、これを報身仏(毘盧遮那仏)の説とする。それらが現実の経典
として存在する理由は、応身仏(釈迦仏)の説法中にも高位の菩薩(法身の大士)は大乗経の
内容を感見し、別に結集し竜宮などに埋蔵し、後に竜樹などがこれを見出したとするのである。
歴史的仏陀(応身)と神格的仏陀(報身)は区別されており、大乗経は神格的仏陀の説とする。
そして歴史的仏陀の説は当時の仏弟子(声聞)の機根に応じた厭世教であるとして中国人や
日本人はこれを重んじなかった。すなわち古代、中世の仏教徒は近世以後の仏教徒のように
経典成立史を解明するには至らなかったが、今、仏教の知識が少ない人々が大乗経も釈迦仏
の説とおもっているのとは全くちがうのであります。
539
:
文殊
:2006/03/25(土) 00:39:58
西嶋和夫氏は「中論の新しい解釈について」(「印仏研」48・1)の論文で
竜樹『中論』に見る羅什訳とサンスクリット原典との対比・考証を通じて
竜樹思想を空を説き無を説く非実在論的な思想と説示する羅什訳を「重大
な誤訳から導き出された重大な錯誤」(245)、「羅什訳が竜樹の眞意を抹殺
する結果を招いている点は、大いに関心を払うべきであると思われる」(2
46)「そして痛感されることは、仏教経典の中国語訳を基礎とする仏教思想
研究が、意外に危険な陥穽を含んでいるのではないかという一点である」
(247)天台、日蓮、日寛はまさに誤訳の羅什訳を教理の基礎にしていた。
また、湯山明氏、辛島静志氏によるチベット語・漢語翻訳文との比較研究は
富士門流石山系教学の今後の帰趨に少なからずのインパクトを与えることに
なるでしょう。それに「東洋学術研究」連載の西夏語写本翻訳研究も見逃し
得ない。21世紀になって日寛教学はターニングポイントに直面している。
犀角独歩さん、顕正居士さん、れんさんによる「21世紀の日蓮教学」再
構築の方向性には賛同しますが、戒壇本尊脱構築を前提とする厳しい急進的
アプローチには留保させていただきます。できるだけ日興門流の歴史と伝統
を現代に生かしていきたいと考えています。
540
:
今川元真
:2006/03/25(土) 06:29:48
諸法無我・諸行無常・ネ槃寂静の三法印まで帰るしか無いのか。段階的摂受折伏を繰り返したオリジナル的な思想なら学問できるか。意思と意志の相違で是正できるか。
541
:
犀角独歩
:2006/03/25(土) 09:45:01
539 文殊さん
いつも含蓄のあるご投稿、有り難うございます。
> 「21世紀の日蓮教学」再構築の方向性には賛同
恐れ入ります。
> 戒壇本尊脱構築を前提とする厳しい急進的アプローチ
わたしの方向性は、このような表現とはやや違います。
戒壇本尊、つまり、大石寺所蔵の彫刻に係る動向を、戦後の日本における最大の宗教詐欺であると考えています。(断定するわけではありません、考えるということですが)
創価学会は宗教年間によれば、最高で1800万人信徒と発表しています。正本堂供養者名簿800万人実名によったともいいます。そのときの集金額は350億円ともいわれますが、これらの人々の集合と散財は、すべて「戒壇本尊」が日蓮出生の本懐であるという大前提に基づいたものでした。この「被害金額」は、しかし、ここに留まるのではなく、○兆円レベルのものでしょう。(それは創価学会にせよ、大石寺にせよ、その潤沢な資金力は半世紀で構築したその顧客はほかならぬ信者会員であったという因果関係から言えることです)このように人々が扇動され、騙された根本に、この看板の彫刻がある以上、事実を究明することは、むしろ、義務に近いとわたしは考えています。
いくら、高尚な教義理論、境地を語ったところで、詐欺行為を知って語らなければ、その境地がメッキに等しいでしょう。
『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版・訳:浅見定雄師)のなかでスティーヴン・ハッサン師は
「エドマンド・バークの言葉を使えば、『悪が勝利するのに必要なのは、良い人が何もしないことだけ』」(P354)
という言葉を引用しています。わたし自身は「良い人」ぶるつもりはありませんが、事実を知った以上、この点を語らないわけにはいきません。
また、そのような悪行に与同している自覚のない人々には、その自覚を持たせる必要性を感じます。それを「急進的」といわれるのであれば、敢えて、その批判を受けても、わたしは糾弾を停めようとは思いません。
なぜならば、「戒壇本尊」は日禅授与漫荼羅を原本として臨模・作為された模造品であり、日蓮の出世の本懐などということは虚偽以外のなにものでもないからです。そして、その模造品が戦後最大の宗教被害をもたらした以上、その点を糾弾しないわけにはいかず、奉安堂建立の如く、また、この彫刻を悪用して、宗教ビジネスが繰り返されている事実がある以上、次の被害を食い止める資料を提供することは、この彫刻を一度でも薦めた人間は、その責務を負うと考えるからです。
542
:
犀角独歩
:2006/03/25(土) 09:45:32
―541からつづく―
> 21世紀になって日寛教学はターニングポイントに直面
これはまったくそのとおりですが、しかし、ターニングポイントを迎えているのは、日寛教学ばかりではなく、それを金科玉条と仰ぐ、創価学会も、ひいては大石寺も同様です。創価学会ではいまだに日寛書写漫荼羅を会員頒布の本尊としているわけです。そもそも『東洋学術研究』とは、池田大作さんが創設した東洋哲学研究所(旧:東洋学術研究所)発刊の季刊学術誌です。つまり、創価学会は、既に実態を掌握したうえで、会員からの反発が起きない牛歩戦術で緩やかな路線変更を進めているわけです。昭和20年代・30年代入信の人々が死に絶える頃、この路線変更は、一つの山場を迎えるというスケジュールなのだろうと観察しています。虚偽発声の当事者・大石寺にとって日寛は揺るがぬ中興の祖です。すなわち、日寛を仰ぐ、一切にとっての、ターニングポイントであるわけでしょう。
しかしながら、このターニングポイントは、単に日寛に留まらず、近代科学の夜明けとともに、日本仏教全般にわたるターニングポイントでもあったわけです。
信者達は別に気づくわけでもなく、それぞれの集団のなかで、満足しているのだから、述べる必要はないという考えもあるでしょう。
しかし、このような考え方は、ならば、阿弥陀如来を仰ぎ、南無阿弥陀仏と称える人もそれで満足しているのだから、それでよいではないかということになります。ひいては、自爆テロをするものも、キリストの名をもって世界戦略をするものも、それはそれということなります。
宗教が個人レベルで他に被害を与えない限りにおいては、そのような考えはよいでしょうが、一たび、宗教被害という悪弊に至るとき、それを見て見ぬふりをすることは、宗教以前の問題として、社会正義に反することなりますので、それなりの行動を採らざるを得ないということです。
> 日興門流の歴史と伝統を現代に生かしていきたい
以上の点から、このような個人のお考えはけっこうなことながら、模造品を日蓮出世の本懐といって犯した罪の意識も反省もない創価学会を含む大石寺門下の無責任かつ無反省、もっといえば、無自覚は、現代に受け入れられるものではありません。それはあたかもテロで人々に被害を与えたあとで、その加害者の神を信じろというようなものでしょう。
反省と訂正なきところに未来はありません。
宗教は空理空論ではなく、この現実社会に存するものです。
ご一考ください。
543
:
文殊
:2006/03/26(日) 08:58:39
宋代天台の二哲二連枝、知礼と遵式は天台実相論をベースにしながらも、
略観修行・陀羅尼品・天台浄土に見る天台教学の簡素化を図り、王族か
ら漁民にいたるまで積極的に大衆受容を進めようとしました。遵式の念仏
結社は現在の在家教団の濫觴ともいえる。時代は下って、真筆本尊格護の
北山本門寺、保田妙本寺が少数派に止まっているのかは、強固な在家教団
が不在であったからだと思惟します。正本堂前夜に戒壇本尊は偽作と保田
妙本寺の万年救護本尊を求めていった人たちもいた。しかし、あくまでも
少数です。同じ富士門でも石山は日寛から花野充道氏まで理論的学匠を輩
出して文書布教による大衆受容に積極的であるのに対し、北山・要山・保
田は、本尊鑑定に耐えられる真筆本尊・真蹟遺文を多数存しているのに、
日寛系教団に勝つことができないのか不思議です。正本堂については長考
させてください。
544
:
犀角独歩
:2006/03/26(日) 09:52:17
文殊さんが書かれた富士門下の御筆大漫荼羅と偽作の関係が信者数を少数と大衆受容の相関比較は面白いですね。読んですぐわかるところは、大衆受容に熱心なところは偽作で、御筆格護は少数派ということです。
要は、大衆は、贋作で動くという分析になっています。
> 正本堂前夜に戒壇本尊は偽作と保田妙本寺の万年救護本尊
これは動いた人々が少数であるというより、受け入れ側(坊さん・寺)のキャパ、受け容れる‘装置’の相違で見るべきではないでしょうか。
> 花野充道氏まで理論的学匠を輩出して文書布教による大衆受容に積極的
この「文書」というのは、何を指すのでしょうか。形木で摺った本尊(江戸時代の日寛)、大衆受容側の現在の印刷本尊のことでしょうか。
それとも要法寺と開版した『御義口伝』の如きもの、また、創価学会の宗教法人に認められた出版業商法を指してのことでしょうか。
なお、花野氏は優秀な学者で、松本・袴谷両師との論争は、駒沢大学でも実見し、なかなか関心がありますが、彫刻の真偽を言わず、寺院経営で食をつないでいては、画竜点睛を欠くというか、石山門下の好きな言葉「正直な信心」というものに汚点と映じ、その点を差し引かれてみられてお気の毒です。食品分析研究に熱心な会社が、使用禁止の添加剤の入った食品を販売している会社の研究員のような印象を受けます。この人を日寛から系譜と見るより、堀日亨以来の仏教界と通用のある人物と見るほうが至当であると思えます。日亨は創価学会の圧力から石山内に隠居、外部との接触が断たれた。花野氏は、阿部氏の逆麟に触れながらも処分を免れ、外部との通用もある相違がある。なのに、彫刻の真偽を言わないのか。これは上述の比較からすると、偽作側の営業態度と言うことになりますか。
> 日寛系教団に勝つことができないのか不思議
金と人を集める技術を弄した偽作側と、学術研究をした少数派の相違ですね。
前者は、人のはいる器(組織)を用意したけれど、後者は葬式と墓以上のものは用意しなかった結果。不思議がるほどの内容とは思えません。
> 正本堂については長考させてください
上述した偽作側・大衆受容の装置としての組織構築、真筆側・寺請制度以来の風習を引きずった寺院檀家のための寺という相関図を考慮した分析を期待します。
545
:
顕正居士
:2006/03/26(日) 11:37:35
興門5派、北山、上野、西山、保田、要山の中で最終的に大石寺が優勢になったのは何といっても
堅樹日寛があらわれたからでしょう。他派には対抗できる近世興門宗学の集大成者は出なかった。
決定的要素は学問です。しかし日寛の後継者はその学問を継承発達させるのではなく、他派との
争論に使用し、一時の方便である板本尊に執着し、興門を統一するどころか、ますます孤立させた。
けれども近代にはまた堀日亨が出て各派我田引水の自山正嫡論を修正するように資料を用意した。
日寛宗学と日亨史学がなければ、創価学会といえどもこれほどの大勢力にはならなかったでしょう。
だが今回も同様にその学問を継承発達させず、他派との争論に使用し、依然、板本尊に執着した。
そして今は創価学会、正信会、顕正会との誹謗合戦のさなかにあり、いまさら二箇相承や板本尊を
引っ込めれば、こぞって宗門の責任が追及されるでしょう。まあ、もう取り戻しは不可能と考えます。
546
:
文殊
:2006/03/27(月) 18:44:24
花野氏は公式的には今も戒壇絶対論者のはずです。興風談所に行かず、山家に
とどまっている理由の一つに戒壇絶対帰依があったと思われます。体制内改革
の立場でかつ外部との通用があるという法教院閉鎖修道体系の中では異例の
学僧ですが、果たして戒壇絶対論と氏の長年にわたり唱導する本覚思想との
整合性が取れるのかと思います。文書の流通では日寛系諸教団が旧本門宗系
を圧倒している。旧本門宗は学僧・仏教研究者の人材育成を怠っていたと
の非難は免れないでしょう。
547
:
犀角独歩
:2006/03/27(月) 22:03:02
545、546 両ご賢察には賛同します。
548
:
文殊
:2006/03/28(火) 01:21:58
「久遠寺の板本尊今大石寺にあり大聖御存日の時の造立也」(保田日我
『観心本尊抄抜書』)東我西辰の面影なく、日目直伝相伝法門存しつつ
も結句は、互いに反目しながらも日寛書写曼荼羅本尊を尊崇・対境とし
ている日寛系諸教団(最大公約数として)の独走・寡占を許している。
旧本門宗系は、三師塔があっても学林なし。寺域は葬儀用施設と有料
駐車場では興尊の厳風はどこに行ったのか。上野大石は古文書学・鑑定
の目利きから見ると何もないところですが、花野充道氏・高橋粛道氏・
長倉信祐氏の学僧がいる。人は石垣、人は城か。堂宇ではなく弟子・
門下の優劣で勝負は決します。中国天台山家山外論争の帰趨は、広智
尚賢をはじめとする知礼が育成した弟子たちが次々と勢力を拡大した
ことによります。「山外」の智円も、従義も後に続く弟子がいなかった。
ただ法教院純粋培養教育からでは龍象は出ることはないでしょう。
一般大学に行かせない鎖国教団には明るい未来はありません。
549
:
文殊
:2006/03/30(木) 00:50:00
三論教学が仏の教えの言葉に対する観念の固定化や実体的把握を排除し、
教えに執われない如来の真意を求め、幾重にも執着を破し続け、無所
得空を徹底化させ、仏法を深く探求することを目指しているのに対し、
天台教学では、治生産業等の一切諸法の全てがそのまま即実相である
世間即仏法論、知病識薬授薬の積極的衆生教化、大乗菩薩行の重視が
あります。天台の師南岳慧思の法華経第一・禅定重視・折伏主義の
思想的影響が看取されます。日蓮門下最大手の日寛系諸教団は仏教
史上の南岳─天台─妙楽の系譜に連なるといえる。ここでは、本尊義
は問いません。
550
:
犀角独歩
:2006/03/30(木) 07:39:43
> …日寛系諸教団は仏教史上の南岳─天台─妙楽の系譜に連なる…本尊義は問いません
これは、仰っている意味は介しかねます。
日寛はたしかに天台学に秀で、その独自教学の構築は、以上の系譜を籍りています。しかし、そこで究竟としたのは「弘安二年十月十二日・一閻浮提総与・本門戒壇之大御本尊」であり、日蓮已来自身に至るとする唯授一人の血脈相承でした。日蓮は三国四師を言うわけですから、その脈絡とすると見ることはできますが、日寛の結論は、まさに、この唯一絶対の本尊思想以外の何ものでもありません。
551
:
一字三礼
:2006/03/30(木) 08:55:06
> 549
> 天台の師南岳慧思の法華経第一・禅定重視・折伏主義の思想的影響が看取されます。
南岳慧思は「折伏」もしくは「折伏主義」という用語を用いたのでしょうか。
また、その「折伏主義」の思想は南岳慧思のどの著作に示されているのでしょうか。
552
:
文殊
:2006/03/30(木) 23:06:51
犀角独歩さんの本尊研究の批判ではありません。旧本門宗系に対する
批判です。「不動愛染感見記」真偽論争に関しても護持する保田妙本
寺が挙証・反論すべきでしょう。文書・電子の両面にわたり当事者が
沈黙していることは、世間に門を閉ざしていることになるでしょう。
「印仏研」掲載論文も花野氏・菅野氏に二分されている。広義の
日寛系諸師は言論活動は活発だと思う。最近では松岡幹夫氏の近代
日蓮主義研究も出てきた。日寛系諸教団の青年・女性層に対する
布教(折伏)は勢いがある。広義の日朗系諸教団は社会福祉活動を
広範に展開している。日本山妙本寺のように強義の反戦・非暴力
運動も見逃し得ない。イラク反戦も街頭に立った。パレスティナ
にも積極的にコミットメントしている。では中間線に位置する
旧本門宗系はどうか。教化の面でも現代の大乗菩薩道といえる
社会福祉活動でもするわけではなく有料駐車場貸し出しと墓地
経営のみではないか。
553
:
文殊
:2006/03/30(木) 23:28:25
日寛は重須生御影信仰に対抗するため、富士門内での教学的な
主導権を確保するため『六巻抄』でクー・デタに成功した。
流れは京都・重須から大石寺に変わった。「板法華」在家団体
の登山参詣で寺門は栄えることになった。日寛は知略に長けた
政僧の側面も併せ持っていたといえます。生御影から板本尊に。
日寛教学は八品教学を参照しつつも「板本尊」絶対帰依信仰と
大石寺歴代万世一系思想の唱導という明快な結論で大衆受容を
積極的に行ったことは決して侮れないものがあります。
554
:
文殊
:2006/03/30(木) 23:43:05
南岳慧思の折伏主義についてですが、慧思の仏法護持のために
悪比丘に対して破折した事跡を類推解釈して当て嵌めました。
直接、大正蔵の明文にあたっていません。今後発言は慎重に行い
ます。
555
:
犀角独歩
:2006/03/30(木) 23:51:20
文殊さん
わたしは、拙稿を批判されたとは取っていません。
日寛に本尊義なしという記述であると早計したからでした。
552、553の解説については、賛同します。
556
:
顕正居士
:2006/03/31(金) 02:08:19
南岳慧思が論争家であったことは
「淮南郢州刺史劉懷寶共遊郢州山中。喚出講摩訶衍義。是時為義相答。故有諸法師起大瞋怒。
有五人惡論師以生金藥置飲食中令慧思食。所有餘殘三人噉之一日即死。慧思于時身懷極困。
得停七日氣命垂盡。臨死之際一心合掌向十方佛懺悔。念般若波羅蜜作如是言。不得他心智
不應説法。如是念時生金毒藥。即得消除還更得差。從是已後數遭非一」
南嶽思大禪師立誓願文
http://www.suttaworld.org/big5-txt/sutra/lon/other46/1933.htm
ただし、論争を折伏というのは「法華折伏・涅槃摂受」の文脈でいうことで、日蓮がいう折伏は
反対の「法華摂受・涅槃折伏」のほうの意義である。このことは次のスレッドで議論されました。
摂受と折伏について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/l50
557
:
顕正居士
:2006/04/01(土) 02:28:47
>>552
それらの寺院は葬儀、法要を通常に執行しているでしょう。檀徒はカルト経営などは需めていません。
>>553
板本尊のために日蓮正宗は終わりかかっていますが。文殊さんがおっしゃるように現状のままだと
20年後にはこの宗派には学卒の坊さんはいなくなります。
30年ほど以前には日蓮正宗の公称檀信徒数は日本の諸宗派の中で最大でした。であったのに今も
専門の日蓮学者は一人もいません。単称日蓮宗にはどれだけいますか。カルトが宗教に進化する
ことはない。大石寺は既成宗派ではあったはず。それがほぼカルトに転落して来ている。融通念仏宗
とか時宗とか檀徒数万しかいないところもちゃんと持続している。堅樹日寛は素晴らしい宗学者ですが
板本尊は彼の学問の致命的な欠陥です。執行海秀はそれが日寛の説であるか疑っていたが、そう
考えざるを得ない文章はある。それを教義の中心に据えたのは大石日応だとおもうが。
558
:
犀角独歩
:2006/04/01(土) 08:41:17
顕正居士さん
板本尊…執行海秀…日寛の説であるか疑っていた
この執行師の文章とは何でしょうか。
ご教示いただければ有り難く存じます。
559
:
顕正居士
:2006/04/01(土) 12:52:16
独歩さん。
日寛のいう三秘総在の本尊なるものがただちにかの板曼荼羅を指すのか否かは判然としない、
という趣意の文です。『日蓮宗教学史』だったとおもいますが、もしかしたら違うかも知れません。
560
:
文殊
:2006/04/01(土) 16:28:19
北山の玉野日志貫首は富士教学の近代化・日興門家融会を模索していたが、
病に倒れ彼の試みは受け継がれることはなかった。欧州留学する学僧が
富士門では皆無であった。真宗が教学の近代化に成功したのに対して、
富士門では大学もつくれずに、教学論争に明け暮れたといえる。驥尾
日守の「末法観心論」と大石日応の「弁惑観心抄」。後書は現在法教院
教学で「六巻抄」より重視している。結局越洋会からは一般教養を欠く
が故に学者は輩出はされないでしょう。顕正居士さんのご教示の通り
です。慧思・摂折論議の学恩に深謝します。
561
:
犀角独歩
:2006/04/01(土) 17:41:11
顕正居士さん
ご教示有り難うございます。
教学史を再読してみようと思います。
『六巻抄当家三衣抄第六』に「蓮師御伝記八に云わく、弘安二年富士の戒壇の板本尊を造立し奉る」という一節がありますから、この点は動かないと思います。
しかし、ご指摘の通り、日寛ほどの天台の学者が板本尊に帰着したことは、たしかに不思議と思えます。
562
:
顕正居士
:2006/04/01(土) 21:04:08
22世の日俊がすでに三秘が一秘の本門本尊に集約し、かつその本門本尊とは大石寺の板本尊のこと
であると述べているそうです。
http://www.nichiren.com/jp/thesis/thesis_1.pdf
三大秘法とは日蓮宗の戒定慧三学であるが、「秘法」というから「事相」の意義がある。したがって大石寺
の板本尊が宗祖在世に造立され、事戒壇の本尊として予め奠定されたというのなら、そういう教義も理由
がないとはいえません。しかし板本尊がそうであるという根拠は脇書に「戒壇願主」とあるからに過ぎない。
宗祖が予め事壇の本尊を奠定したという史料は皆無である。
こういう無理な教義が出て来た背景には大石寺などで発達した教主論、仏身論があり、久遠本果の釈尊
ではなく久遠本因の釈尊を末法教主とする、久遠本因の釈尊とは宗祖と行位全同の名字即の菩薩である。
名字即の菩薩であるから色相荘厳の像ではあらわせないという教学です。しかし一尊四士にかわる寺院
の本尊は何か必要である、それは板曼荼羅を造立する。ここにおいて宗祖在世に板曼荼羅が造立された
根拠になる板本尊が重要な意義を帯びたのでしょう。
もとは大石寺のほうから説が出て、犀角独歩さんが検証されたように、板本尊は北山の万年救護曼荼羅
を板にしたのでしょう。ですから脇書はそのことが忘却された後に、宗祖の在世に板曼荼羅が造立された
根拠として誰人かが付加したのであろうと想像します。
563
:
れん
:2006/04/01(土) 23:00:49
横レス失礼します。
顕正居士さんが示された石山22世日俊師の彫刻本尊に関するコメントですが、私の携帯では見れないので、以下に備忘ならびに参考のためを含めて、列記しておきます。
「興師目師遺状被遊戒壇之本尊御座大石寺之貫主成致報恩謝徳導師事餘身喜何事過之耶」(歴全第三巻所収 初度説法)
「此三大秘法者何者、本門本尊者当寺戒壇板本尊非、其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇非、日興正傳之題目非本門題目耶」(同上)「此三大秘法者云其體云事一念三千南無妙法蓮華経云者也。各題目修行本因妙南無妙法蓮華経本門題目也。本因對向本果妙佛界所具戒壇本尊也。本果所住本國土即是戒壇地也。三大秘法云向本尊勵信心唱題目即是本因本果本國土三妙合論事一念三千申法門大旨思召」(同上)
この日俊師の「初度説法」を読みますと、俊師は条々事の“弘安二年大御本尊”なるものを、彫刻本尊に規定しており、顕正居士さんのご指摘の通り、その彫刻本尊中心の三秘論を展開されているところ、俊師の影響を寛師は受けていると見て間違いなさそうです。
石山が彫刻本尊を作成したのは、重須の生御影に対抗するための手段としてという側面が強いでしょうね。その時期は、私の勝手な想像としては、一つの可能性としては、安土桃山期に大石・重須が甲駿地方の戦火に罹災し堂宇が焼失した後の、両山の堂宇の復興の時期と見た方が良いかと愚考しております。
564
:
文殊
:2006/04/01(土) 23:08:28
22世日俊は北山に色衣・鬼子母神で教義論争をしかけていたはずです。
北山が寺社奉行に訴えて一悶着となった。日俊は要法寺系でありながら、
日精造仏を一掃してしまった。日寛は実見しているはずで影響を受けて
いると考えます。石山・八品共同経営の細草壇林夏安居における天台学
修学では、同時に慶林日隆教学をも学んでいるはずです。尼崎流を一歩
先に進めたといえるのではないかと。日寛自身、大石寺再興にあたって、
山内に何も相伝法門もなかったことはわかっていた。それで慶林日隆の
著述を参照したと推定されます。通常、飯高壇林をはじめとする壇林
教学では天台三大部・妙楽釈・従義補注を領解するのに大変で、肝心の
宗学研鑚が充分とはいえなかったのですが、日寛は石山再建の危機意識
が常に本尊論・教判論・仏身論の理論再構築に向かっていたと考えます。
565
:
犀角独歩
:2006/04/02(日) 14:01:11
れんさん
> 此三大秘法者何者、本門本尊者当寺戒壇板本尊非、其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇非、日興正傳之題目非本門題目耶
これは、どのように読むのでしょうか。
「この三大秘方途は何物ぞ、本門の本尊とは当寺の戒壇板本尊に非ず、その戒壇本尊の座する地は広付に至らざるまではこの地は戒壇に非ず、日興正伝の題目に非ず本門題目か」
でしょうか。「本門本尊者当寺戒壇板本尊非」が、わたしの読み下しのごときであれば、これはどのような解することになりますか。
566
:
れん
:2006/04/02(日) 18:58:17
犀角独歩さん
>565
歴全の当該文に付されている句読点を参照して読み下しますと以下のとおりです。
「此の三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや、其の戒壇の本尊の座す地は広布の至らざる迄は戒壇に非ずや、日興正傳の題目は本門題目に非ずや」
俊師の解釈につきましては、読んで字の如くだと思います。
文殊さん、ご教示有難うございます。
>日寛自身、大石寺再興にあたって何も相伝法門もなかったことはわかっていた…
初期石山において、相伝法門なるものがあったとすれば、それは六世日時師がれれまで伝えられてきた法門化儀を纏めたものと思います。日有の聞書拾遺に「此の大石寺は高祖より以来今に仏法の付属切れず次第して候間得給へる人様は仏法世間の御沙汰、高祖の御時に少しも違はず候。若しも世の末にならば高祖の御時の事、仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我が申す事私にあらず、上代の事を違せ申さず候。他門徒の趣は代々の意楽意楽に各々に建立候間上代の事御存知なく候間一向細工事に成り行き候と云々」と述べている四帖等がそれです。日寛師の文段にせよ、六巻抄にせよ、それ迄にすでに巷間に流布されていた自山の条々事を含む興門の文献をもって自山の正当性を主張していますが、なぜか四帖をはじめとする自山分の“相伝”については引用しません。それは恐らく、六巻抄や文段は当時の檀林教学に則って組み立てたもので、自山分の四帖などはそれこそ貫主一人の秘伝として、公開しなかったものとみるのが至当と愚考します。
567
:
れん
:2006/04/02(日) 19:53:35
566の誤字訂正。
誤)れれまで
正)それまで
568
:
文殊
:2006/04/02(日) 21:04:29
「日時上人は御勤の座ごとに御せつかんを召され候ひしなり」(「有師物語
聴聞抄佳跡上」『富要集』第1巻240頁)に数少ない六世時師の事跡に
日興門家化儀の厳格な伝統遵守と大石寺家統率の覇気を窺えます。重須・
西山が分立、そして下条妙蓮寺までが石山離れ独立本山の動きを公然化。
時師とすれば、鉄の規律で大石寺家の求心力を高めようと画したと思われ
ます。但し何故寛師が時師秘儀を引用せず、天台・妙楽・伝教、要法寺系
相伝書引用の所謂「顕教的解釈」に終始しているのかは判然としません。
現代法教院教学では天台三大部四明釈義一色に染まっていて、時師上代法
門、南宋従義流は完全に排除されていますが、漢字文化圏から急速に離脱
している21世紀日本では、古文書の解読が急務でしょう。そして、解読
された古文書から何を次代の世代に最良のものを伝えていくかは課題です。
れんさんの富士教学再構築の試みは貴重です。新資料のご提示お願いしま
す。また富士五山は重須談所を復活させて全文書を公開すべきです。
569
:
犀角独歩
:2006/04/02(日) 23:51:55
れんさん、有り難うございます。
文末に「非」をつけて、「非ずや」ですか。うーん、なるほど。
そう、読ませようと言うことでしょうね。
文殊さん、
> 日興門家化儀の厳格な伝統遵守
だいたい、そんなものがあるのでしょうか。
お尋ねしますが、日興が残した厳格な化儀とはいったい、どのようなものでしょうか。また、それは日蓮とどのように違うのでしょうか。
570
:
文殊
:2006/04/03(月) 07:56:06
伝統的な通説に依ったものです。改めて日興門家の化義の他門に比較
してその厳格性を考証となると難しいものがあります。朗門・像門
そして日向『金網集』研究の進捗を参照しなければ厳格性が挙証で
きません。日蓮と日興の教学的体質が異なるかについても精密な分析
が必要を痛感した次第です。護教論でなく学問的ルールに則っての
です。
571
:
犀角独歩
:2006/04/03(月) 08:26:07
日時はたしか仙波檀林に学んだといった資料があったと記憶します。
文殊さんが仰る「伝統的な通説」というのは、何を指すのかわかりませんが、上代の石山住職を手繰ると、出生は南条家との縁、学問は仙波檀林に行き着くようで、重須の檀所はともかくとして、石山が日興の厳格な化儀を伝えたとはとても思えません。
また、日興にしても、一尊四士義はともかくとして、日蓮の教義からはあずかり知れない‘御影’信仰にウエイトが掛かっていたわけで、それが絵像か・木像かいまひとつはっきりしませんが、ともかく、日蓮像を拝んでいた。日興は造仏は廃し、日蓮の厳格な教えに従って、漫荼羅正意だなどという現在のアナウンスはまるでウソで、実際は一尊四士という厳とした造仏論を有し、さらに御影崇拝という非日蓮義も有していました。そのうえで、漫荼羅を本尊と規定していったわけです。重須の盗難事件の実否を問う声は聞こえますが、これが事実であれば、盗難品のなかには日興像もありました。つまり、生存中から、日興本人の像が拝まれていたということでしょう。このような日興が、日蓮の化儀を厳格に伝えたというのは、事実に反します。もちろん、遺文蒐集、学問という面では重須檀所を中心に業績はもちろんあったでしょう。
日興の極端な賛美は、近年、日亨氏の功績により、さらに最近では興風談所の業績から内外ともに、さらに高まっていますが、わたしは、文殊さんが挙げる石山の学僧?の評価も含めて、もっと冷静かつ客観的にみたほうが事実究明には役立つと考えます。
まして、日時に関しては、この人物と時代は、問題が山積で、実質、日目と南条家の寺であった大石寺の独自形成の鍵を握るものであると考えられ、日興の厳格な継承者とはとても思えません。
なお、「護教論でなく学問的ルール」については、まったく賛同いたします。
それ故の以上の管見です。
572
:
れん
:2006/04/03(月) 09:42:00
文殊さん、私如き、無知の者に過分のお言葉をおかけ戴き、誠に恐縮です。
さて、日時の事績につき、手持ちの文献資料で確認できるのは以下の通りです。
石山蔵・肝心要義集中巻抜書冒頭に「肝心要義集 日時相伝之。日行之」とあり。
同寺蔵・日目弟子民部日盛書写の日満抄奥に「日時相伝之」とあり。
同寺蔵・民部日盛筆の「御筆集」の現存表紙裏に「謹奉相伝之。日時(花押)」とあり。
同寺蔵・上野下御房日舜書写「報恩抄」奥に「民部阿闍梨日影授与之。応永九年卯月十一日、日時(花押)」とあり。
日精「家中抄」日順伝によれば、石山には日時所持の「五人所破抄」が曽存し「応永四年丁丑十一月日 釈日時之」の奥書があったという。
石山僧完則による「大石寺宝蔵目録」によれば“日時筆”の「色心実相境智根源決」があるという。妙観文庫目録によれば具名を「妙法蓮華経色心実相境智根源口決」といい、日時筆のほか日精の写本もある模様であるが、一般には非公開で内容不明。
日有の聞書拾遺によれば、日時は四帖見聞を著述し、雑雑聞書によれば、その中には「本尊ノ大事」「三箇ノ秘法」について述べた“日目ノ耳引法門”なるものが記されていたという。これも内容不明。
日時師につきましては、独歩さんが「この人物と時代は問題が山積で、実質、日目と南条家の寺であった大石寺の独自形成の鍵を握るものである」と述べておられる通りと存じます。以上ご参考まで。
573
:
れん
:2006/04/03(月) 12:03:07
若干、日時の事績に補足を加えれば、嘉慶二年(1388)十月十三日、石山から小泉に移された日蓮影像に替わって、新たな御影建立、自筆書写漫荼羅28幅現存、大石記(おおいしき)の口述が挙げられますね。
あと、日時の御影建立につきましては、日什師の門弟日運師の門徒古事に、
「雖然或御影堂造立候間、無隙云々。使者云、御影堂ヲウラレ候テモ先ツ奏聞ヲ可被本云々。主人云、サニテハ候エトモト計云々。サテハメツラシキ沙汰ナレ、是大石寺云々」
とあり、これは嘉慶元年の京都妙顕寺の山門衆徒による破却を伝聞した什師が蓮師諸門徒に使者を派遣して日蓮門下は同心して天奏すべきであると伝えたときの、使者と大石寺主人とのやりとりを記録したものですが、この門徒古事に出てくる“大石寺主人”とは、翌年の御影建立成就、そして御影堂造立といっていることから石山六世日時を指しているのは間違いないようです。
574
:
文殊
:2006/04/04(火) 01:16:29
「本門寺」建立運動が日興教学の核心でしょう。非寛容・非妥協の戦闘
集団を形成したことが他門から畏怖されることになったといえるのでは
ないでしょうか。日興はモーゼに資質が似ているかもしれない。本門寺
建立の理想郷のために門下に対しては絶対服従を強いた。師弟の契約が
重須に多数格護されている日興直筆の本尊授与であったといえます。
京都布教を果たした像門は民間信仰を包含した寛容的な教学を形成して
いったでしょう。三十番神信仰。時代に合わせた柔軟な教学解釈は京都
町衆の広汎な支持を集めた。現在の社会福祉活動につながっています。
これに対し、日興教団は少数精鋭の「選民思想」を有していたがゆえに
他門との間に蹉跌が恒常的に生じたと思われます。一尊四士本尊観は
来るべき本門寺奉安本尊、日興書写曼荼羅本尊は教団の縦のライン師弟
関係強化のためと日興は構想していた。西山・尊門は忠実に継承したが、
大石寺は重須への明らかな対決意識から曼荼羅本尊正意にと急激に傾斜
していったのでしょう。起源は日時と思われます。犀角独歩さんご摘示
の日興本人の像は日興の教団におけるカリスマ的権威・日興崇拝を現し
ているのでしょう。れんさんの資料収集の熱意に心を打たれました。
妙観文庫はなぜ法教院に遠慮しているのでしょうか。旧共産圏が次々と
新資料を公開しいる時節なのに、未だに石山圏は21世紀になっても
冷戦思考にとらわれているのでしょうか。
575
:
犀角独歩
:2006/04/04(火) 07:56:58
文殊さん
> 一尊四士本尊観は来るべき本門寺奉安本尊
日興は、複数の御筆大漫荼羅に添え書きをし、「奉懸本門寺」と記しています。また、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』という題名が示すとおり、漫荼羅を本尊と規定しています。この一連の流れから見ると、日興が本門寺に懸けるとした本尊とは一尊四士ではなく、日蓮御筆本尊の、しかも自ら「奉懸本門寺」としたものと考えられますが、この点は如何でしょうか。
日道の頃から、漫荼羅正意を喧しく言うようになったというのは執行海秀師の分析でした。日道は南条家で、日目の甥でしたか。しかし、その修学は北山に坊を置き、日順に師事したのでしたね。さて、当時の大石寺に日蓮御筆漫荼羅があったのかどうか。
漫荼羅正意というのは大きく二つの考えがあると思えます。一つは日興の如く日蓮御筆漫荼羅を本尊として、本門寺奉懸を考えること、もう一つは寺院経営者が自ら認めた漫荼羅を本尊として、仏本尊を斥けて、書写漫荼羅を本尊とさせること。
当然、この二つは日興その人から始まっているわけですが、北山には御筆漫荼羅はあったでしょうが、石山はどうであったか、なければ、石山には当初、御筆漫荼羅を奉懸といった漫荼羅正意は実質的に不可能であったことになります。つまり、このことが、のちに「本門戒壇之大御本尊」を捏造する動機になっていったのではないかと、わたしには思えます。
その件は、のちに譲ることとして、日興は身延にあっては一体仏本尊への崇敬を示し、重須でも、一尊四士仏本尊を掲げて自説とし、のちに御筆漫荼羅本尊へと移行していったと見るのが至当ではないでしょうか。そして、その影響下に石山日道も、また、のちに西山に移動を余儀なくされる日代もあった。当然、妙蓮寺日華もあったのではないでしょうか。石山から漫荼羅正意が起こったというのではなく、石山日道もまた、重須の日興・日澄・日順という師資の影響から、漫荼羅正意であったというのが事実ではないかと思えます。
576
:
犀角独歩
:2006/04/04(火) 15:18:38
読み直して、ちょっと、文が美(うま)くないので、訂します。
> 重須の日興・日澄・日順という師資の影響から、漫荼羅正意であった
と、記したのは、日興が仏本尊を斥けて曼荼羅正意を提唱したという意味ではありません。顕正居士さんが引用された伝日順文書に見られるとおり、当時、仏本尊が禁戒に属していたと見ることはできません。
わたしは個人的に、仏像を出家が造営するのはもっぱら持仏であり(日蓮伊東自作の例)、他は曼荼羅をもって弟子檀那に授与。在家の信徒は、その財力を持って、それぞれに仏像を像立、これには一尊四士を日興は勧めた。日興等が公武共に奏じ、その功なれば、ここに漫荼羅の授与はあるでしょうが、ここで仏像が像立されれば一尊四士というのが、元来、日興であったと思います。
しかしながら、御筆漫荼羅に「奉懸本門寺」と添え書きし、漫荼羅を本尊と規定するに至った日興が、御影信仰を醸造しながら、では、仏本尊をどう捌いたのかは、実に興味深いテーマであろうと思えます。この時点で、日興は漫荼羅正意と即断すれば、物語としては完結しますが、しかし、尊門にせよ、日順にせよ、仏像禁忌は窺えず、むしろ、広布戒壇に事寄せて、これを認める以上、ここに仏本尊は生きています。
日興在世より100年も経った頃、「隋身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ」と言うも、その後、ヒステリックなまでの仏像忌避に比べれば、また、その造立を制止しておらず、緩やかです。つまり、これは日興在世であればなおさらのことであろうと類推できます。
いずれにしても、御影信仰は、造像崇拝の一種であることは紛れもない事実であり、久種に遡って師資を論じ、ついには「三身所顕無始古仏」という峻厳なまでの法華道を歩んだ日蓮の教学的な姿勢からすれば、祖師信仰、ひいては御影信仰というのは、なんともはや、仏道という点から見れば、後退である映じなくもありません。キリスト者の「偶像崇拝」などをここに引用する気は毛頭ありませんが、造仏は日蓮義であれば、これを斥けてはならず、一方、祖師信仰は本門寿量本仏久種覚知からの信仰を確立した日蓮の教えに悖るものと、わたしには映じます。
577
:
文殊
:2006/04/04(火) 21:47:14
「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身、無始古仏也」「地涌千界菩薩己心釈尊
眷属也」「上行無辺行浄行安立行等我等己心菩薩也」「我弟子惟之、地涌千界
教主釈尊初発心弟子也」「此時地涌千界出現、本門釈尊為脇士、一閻浮提第一
本尊可立此国」の文からは「我等己心釈尊・無始古仏・教主釈尊・本門釈尊」
が仏との解釈になります。日興の御影信仰は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」
と径庭があることになります。「奉懸本門寺」は犀角独歩さんのご指摘の通り
です。
578
:
文殊
:2006/04/06(木) 12:58:40
「報恩抄」では「教主釈尊」、「本尊問答抄」では「題目の五字」と
日蓮の本尊観は変遷しているが故に、後世の日蓮教団は教義論争が
現在にいたるまで絶えなかったのでしょう。日蓮自身が明示しなかった
ことと、中間の宗学者の諸解釈が厚い雲のように覆われている結果、
真意の究明は難しくなっています。
579
:
犀角独歩
:2006/04/16(日) 09:27:23
日興御影崇拝について自己レス
『富士一跡存知事』に
「一、聖人御影像の事。
或は五人と云ひ、或は在家と云ひ、絵像木像に図し奉る事在々所々其の数を知らず、而して面々各々不同なり。
爰に日興が云はく、先づ影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為なり、是に付け非に付け有りのまゝに移すべきなり。之に依って日興門徒の在家出家の輩、聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体に異ならずと雖も大概麁相に之を図せり、仍って裏に書き付けを成す云云。但し彼の面々に図する像一つも相似せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり、相似の分なけれども自余の像よりもすこし面影有り。而る間後輩に彼此の是非を弁ぜんが為に裏に不似の書き付け之を置く」
とあります。「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」とは、実に合理的というか、俗信的な要素は微塵も感じられません。これが実際の日興の思想を受け継いだものであれば日興における御影崇拝は、そこに日蓮の面影を求めたものであり、像に神秘的な力が存するといった器物信仰とは違っていたのであろうと想像されます。よって、先の投稿を補填し、改めることといたします。
580
:
犀角独歩
:2006/04/28(金) 12:43:46
>
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/563-567
過去の議論を蒸し返す形になりますが、563にれんさんが引用された石山歴全の「此三大秘法者何者本門本尊者当寺戒壇板本尊非其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇非日興正傳之題目非本門題目耶」に付された訓点には異議があります。
「非」は通常、文頭に付き否定する語で、文末に耶が付けば疑問形でしょうか。すると、その本則に従ってこの文を分割すると、
本門本尊者当寺戒壇板本尊
非其戒壇本尊座地広布不至迄此地戒壇
非日興正傳之題目
非本門題目耶
となり、この場合、本門の本尊とは当寺戒壇板本尊(なり)
其の戒壇本尊の座地、広布に至るまで此の地戒壇に非ず・
日興正伝の題目に非ず・
本門の題目に非ずや
ここで非〜耶の最後の文章だけであって、まあ、それをその前の二区に兼ね、それぞれを「非ずや」と読めないことはありませんが、いずれにしても、非は冒頭に付くべきで、その意味で歴全の訓点で、非を文末に付けて「非ずや」と読ませるのは、どうも納得がいきません。
581
:
犀角独歩
:2006/05/06(土) 12:05:54
かつて、ワラシナ師と、話しあった四大天玉の配置に関するところを、やや、まとめ、ブログにアップしました。
ご批正を賜れれば、有り難く存じます。
四大天玉の配置、日蓮が間違ったということはないと、わたしは考えます。意味があったのだと。その信頼からの管見です。
四大天玉の配置について
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50543409.html
582
:
パンナコッタ
:2006/05/14(日) 23:39:13
NO,13の本尊を見ると四天玉に東西南北が冠されて、下段の増長と広目が通常とは逆になっていますね。
その後、通常配置(時計回りに右上から東西南北)になりますが、
NO,34以降、毘楼博又(広目)・毘楼勒又(増長)と又逆になります。
弘安期に入りNO,65迄続く、この東南西北形式(途中59・60は通常配置)が在る事を踏まえれば、
蓮祖が単純に間違ったと言う事は、やはりあり得ないと思えますね。
意図した事(蓮祖の世界観)が途中で変わり、又、考えが変わりというのを繰り返して、
あの四天玉の配置が成ったように見受けられますね。
583
:
犀角独歩
:2006/05/15(月) 09:36:29
582 パンナコッタさん
そうなんです。そのような点をワラシナ師と、まだこの掲示板ができる以前か・その以前か、お話をしたことがあったのです。
石山の堂塔配置は南面ですが、五重塔ばかり西面になっているわけですね。この整列は他派に抜きんでたものであると、わたしは思います。(五重塔が仏法西漸というのは、この点を鈍らせる話ですが、まあ、それは置いて)
わたしの過程が合っているかどうか、いずれにしても、南面、西面、どちらにしても日蓮の最終的に落着した四大天玉の配置は、どちらでも合致することになります。たぶん、護本尊であったろう御筆では、四大天玉が勧請されていないわけです。懐中に折り畳んで所持する訳ですから、この方角がないこともまた、一致するとも思えるわけです。
585
:
犀角独歩
:2006/05/16(火) 06:13:47
松岡幹夫氏の『大石寺門流の本尊書写権に関する史的考察』という文を読んだのですが、これは石山門の僧侶にだけ「上人」をつけるという実におかしな文章でした。論文としては、異常な文体であるというのが第一印象です。
それはともかく、このなかで
「日興上人…特徴は、大聖人の本尊を忠実に『書写』された…中尊…日蓮在御判…大聖人を御本仏と仰ぎ…戒壇本尊を書写した証として「奉書写之」と認められている」(P28)
http://www.totetu.org/h/pdf/k013_024.pdf
という一節があり、吃驚しました。
松岡氏は、彫刻を書写したと断言しているわけです。日蓮を本仏と断言するのも学術畑では異様です。それにしても、よくまあ、こんな嘘が書けるものかと呆れました。
日興の本尊をざっと見ただけでも、「日蓮聖人御判」(正応5年10月13日上行寺蔵ほか)とあるものもあり、また、「奉書写之」の4文字となっていないわけです。
彫刻本尊の座配が“公開”されていないのにもかかわらず、これを忠実に書写したとはよく言ったものだと驚くわけです。
殊に日興書写のはじめを弘安10年10月13日と記すのはよいとしても、この本尊などは天台・伝教が日蓮とほぼ横並びで、その上に天照大神・八幡大菩薩があるという、極めて特異な座配となっているわけです。これは、その後、定型化する石山本尊とも異なっています。
1997年の文章をいまさら取り上げて云々するのも何ですが、この手の文章を臆面もなく、いまだにアップしている東洋哲学研究所と、このサイトには疑問を懐かざるを得ないと慨歎するところです。
586
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 10:44:19
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1694
から移動しました。
独学徒さん
レス、有り難うございます。本尊と漫荼羅については、2002年の段階で、いちりんさんからのご提案があり、スレッドが立って、議論されてきたことでした。
問答さん、Libraさんとも盛んに語り合いました。それでも、いまに至るまで、統一した見解は生まれていません。
よって議論の継続という意味も籠めて、せっかく、スレッドが立っていますので、こちらに移動しました。
門下一般での議論で感じることですが、真蹟遺文に限り、日蓮の素意を探ろうとしても、「自分がいままで信じてきた有様」「自分の所属する門派の解釈」という“まず答えありき”となって、その肯定論として、為にする屁理屈を押しつけることは、著名な学者、権威者のほうも顕著で、その真実を覆うことは、溜息が出るところです。つまり、それらは参考になるどころか、障害となるばかりです。
わたしは思想を考えるうえで、語彙の使用をしっかりと整理しておかないと、解釈者と日蓮の素意がごちゃ混ぜに議論される徒労に引き込まれることになる過悪に何度となく遭遇してきました。これは、学問的な素人ばかりではなく、尊敬を集める学者や、古文書読みの人々にも共通するところで、これを権威と感じる人々は、日蓮の真蹟遺文の言葉ではなく、この権威に泥んでしまうわけでした。
わたしは、そのような弊害を廃し、日蓮その人に真意に迫りたい、ただ思いのみがあります。
既に何度の記したことですが、天台、妙楽といったまだ真言勃興以前の時代を生きた人々に、そもそも「本尊」という語彙の用法はありません。日本天台宗においてはしかし、当然、本尊語の使用が頻繁に行われることになりますが、つまりこれは、真言密教との密接な関係から生じていった習合であるというのが、かつての顕正居士さんのご指摘であったと思います。わたしはその時点で、本尊観は需家からもたらされたものではないかと類推していました。もちろん、この側面もありますが、やはり、顕正居士さんの仰るところが正鵠を得ていたといまは考えています。
少し前の議論で、独学徒さんが三宝に充て、本尊をお考えになっておられましたが、これはなかなかわかりやすいところであろうと思います。さらに広げれば、孝という側面からいえば、親は本尊でしょうし、忠と言えば主君は本尊、また、師匠もまた本尊と見なされ、像に刻まれてきたのが日本という風土でした。また、門下一般でみれば、鬼子母神、七面大明神などは本尊として崇敬され、富士門でも日蓮は御影として本尊とされます。そのような観点からすれば、「漫荼羅も本尊のうち」という見解は成り立つのだろうと思えます。ただ、日蓮の場合、その語彙の用法においては、それほど、ラフな使用の仕方はしていないと観察するわけです。いま、ここで論じることは、門下解釈ではなく、日蓮の祖意です。
さて、学会を含む石山では「本尊と者勝たるを用べし」という一節を切り文解釈し、唯一絶対最勝の本尊を選ぶという思惟に基づき、挙げ句、模造品である彫刻を信じ込ませるという作為を行ってきました。この操作に一度、ひっかっかり、脱却しながら、しかも、それでも、唯一の本尊を選ぶという操作が既定概念として残ってしまっているという様を、わたしは観察するわけです。これは超えるべきハードルの第一となります。
587
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 10:44:48
―586からつづく―
「最高の本尊」へのこだわりは、では、どこから生じるのか、それは日寛義に違いありませんが、その基底をなすのは『本尊問答抄』でしょう。その趣旨に従えば、「法華経の題目を以て本尊とすべし」ということになります。弘安元年の書とされる当抄は日興写本を遺すことから、準真蹟と扱われるわけですが、わたしは、この書にはどうも違和感を禁じ得ません。
わたしが『本尊問答抄』が、本当に日蓮の文なのかと疑うのは、あまりに雑駁な論理展開に不審を懐くからです。
先のも挙げた「本尊と者勝たるを用べし」とする根拠として「法師品…薬王在々処々若説若読若誦若書若経巻所住之処皆応起七宝塔極令高広厳飾」としますが、日蓮は他書で一部(法華経全文)を斥けて題目を採っているのに、この文証は経巻一巻の読・書を言い、さらに経典塔の建立を促すものです。この文では、まったく題目をもって本尊とする根拠になっていません。さらに「天台大師法華三味云於道場中敷好高座安置法華経一部」といいます。言うところの「一部」とは一部分ということではなく、法華経典の全巻を意味するのは古語の用法であるわけです。
この第一問答は、題目本尊と言いながら、その根拠として、法華経典安置をもって充てるという実に杜撰なものとなっています。このような稚拙な問答を日蓮が構えるとは、とうてい信じがたいと言うのが正直な感想です。この有様は、その後の問答でも同様であり、法華経典を根拠に挙げて、題目本尊を証しようとする論の運びは、なんら説得性を有しません。なぜならば、日蓮は法華経典を簡び、題目の五字を採ったからです。
さらに指摘すべき点は、法華経の題目は題目であって、法ではないということです。日蓮の思惟からすれば法華一経の意(こころ)ということなのでしょうが、こころはしかし、法ではありません。さらに言えば、法華経の題目は五字の首題であって、漫荼羅の全体ではありません。つまり、この抄は、法本尊の根拠にも、漫荼羅本尊の根拠にもなっていないわけです。
また、題目本尊と観心本尊は、大きな隔壁があります。この点を顕正居士さんは『本尊問答抄』を真蹟と判断されたうえで、日蓮の心境の変化ととらえていたと記憶します。しかし、わたしは、むしろ、当抄への疑義とする心境を持つ者です。
また、題目を本尊とするとき、三つの法門(疑偽書で三大秘法と称される)における「本門の本尊と戒壇と題目」は、問答抄の題目=本尊の趣旨で読み替えれば「本門の本尊と戒壇と本尊」ということになってしまい、鼎立する三法門は意味をなさないことになります。このような齟齬を来すことが日蓮の教学変化であるとすれば、‘三大秘法’をもって日蓮の極意とすれば、論理矛盾を来すことになるでしょう。
以上が法本尊前夜における、まず第一の疑義です。
588
:
独学徒
:2006/10/22(日) 17:21:48
犀角独歩さん、引き続きの御教授ありがとう御座います。
誠に怠惰ながら、興風談所の「御書システム」の力を借りて、日蓮真蹟遺文(曾存・直弟子写本も除外)に限って、なおかつ「観心本尊抄」執筆後という条件で検索しますと、法本尊をうかがわせる文言は「上野殿母尼御前御返事」に記される内容として以下のものがありました。
『後七日を仏弟子に渡して祈らせしに、馬鳴と申す小僧一人あり。諸仏の御本尊とし給ふ法華経を以て七日祈りしかば、白鳥壇上に飛び来たる。』
ここでは法華経をもって、「諸仏の御本尊」と述べられています。
但しこれは、「経」をもって「法」と考えた場合のことです。
また「漫荼羅」をもって「本尊」とすることをにおわせる記述として、「是日尼御書」の以下の文言が確認されます。
『又御本尊一ふくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならすゆきあひたてまつるへし。恐恐謹言。』
これら「法本尊」「漫荼羅本尊」をうかがわせる文書が希少なのに比べ、「釈迦仏本尊」については、「善無畏抄」や「報恩抄」のほか、「法華行者値難事」においても、次の如く述べられています。
『追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師なり。但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず〈此れに口伝有り〉。天台・伝教は之れを宣べて、本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之れを残したまふ。所詮 一には仏授与したまはざるが故に、二には時機未熟の故なり。』
この『本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字』から観取される「本門の本尊」は、まさしく釈迦仏以外に考えられません。
しかして、蓮師の教示に「法本尊」「漫荼羅本尊」という本尊観が皆無であるとは言い切れないものあるように感じられます。
加えまして、「新尼御前御返事」に多用される「此の御本尊」という表現は、文意からは「漫荼羅」を指しているように感じられます。
この点につき、御見解、御教授の程お願い申し上げます。
589
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 19:01:54
588 独学徒さん
今回のご投稿の由は、2002年春頃、問答さんと議論した内容と重複していますが、その後、考えの変化も当然ありましたので、再度、記すことといたします。
> 法本尊をうかがわせる文言は「上野殿母尼御前御返事」に…馬鳴と申す小僧一人…諸仏の御本尊とし給ふ法華経…「経」をもって「法」と考えた場合
この文は、まず、日蓮漫荼羅について論じていると言うより、諸仏と馬鳴のことを記したものですね。また、諸仏が本尊とするところを、凡夫が直ちに本尊とするのは可なのかという問題提議ができます。なぜならば、文字が同じでも、上行所伝されていない妙法五字を持っても日蓮の教義からすれば、意味をなさないからです。
また、仰せの通り、これは法ではなく、経典です。法華経本尊とは経典本尊であり、法本尊とは別であると思いますが如何でしょうか。ちなみに石山・学会教学では、法=法華経=題目=本尊と同一視することに成り立っていますが、日蓮の教学は、そうはなっていません。
> …「是日尼御書」…御本尊一ふくかきてまいらせ候
この文は、2002年4月の段階で、わたしも当スレッドの冒頭で引用し、独学徒さんと同様の提議を行っています。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/3
ただ、これは断片で、資料としてはやや不足があるように思えます。この点はあとで述べます。
> …「法華行者値難事」…本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字…「本門の本尊」は、まさしく釈迦仏以外に考えられません
これはまさにそのとおりであろうと存じます。『開目抄』には
「諸仏を本尊とする者釈尊等を下す…天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり…倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり…法相・三論は勝応身ににたる仏を本尊とす…華厳宗・真言宗は釈尊を下て盧舎那・大日等を本尊と定…仏をさげ経を下。此皆本尊に迷…人皆禽獸に同ぜし…寿量品をしらざる諸宗の者畜同…寿量品の仏をしらざる者父統の邦に迷る才能ある畜生」
と言います。尤も同抄は焼失していますから、真蹟資料とすべきかは議論がわかるかもしれません。
592
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 19:09:13
―589からつづく―
> 「新尼御前御返事」に多用される「此の御本尊」
この書を、問答さんは2002年4月に取り上げられました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/2
執筆は文永12年2月ですから、『法華取要抄』と『撰時抄』の間ということになります。つまり、三法門(本尊・戒壇・題目)という自説を敷衍したと考えるのが自然ということになりますね。となれば、言うところの本尊は、先に挙げた『開目抄』の脈絡で、「五百塵…本尊」は『本尊抄』にいう「寿量仏」、『法華取要抄』にいう「本門の本尊」に契当すると見るべきではないでしょうか。
詰めていないのですが、漫荼羅を本尊という用法は、特に「守」「護」「まほり」といった御守本尊で使用が見られるという点で、一字三礼さんとわたしは意見を同じくしております。
やや雑駁な分類の仕方になりますが、日蓮漫荼羅の場合、四大天玉が四角に置かない図は、御守と見なしてよいのではないと、わたしは考えます。ですから、『是日尼御書』にいう本尊は、こちらではないのかとわたしは類推します。
ちなみに、創価学会の携帯本尊なるものは、この形式ではない漫荼羅を縮小して御守のごとく扱っていますが、如何にも素人騙しという観を否めません。尤も、これは携帯本尊ということで、御守とは区別されるのでしょうか。しかし、そうなると、携帯本尊とは何ぞや?という疑問は彷彿とします。脱線しました。
日蓮は観心本尊(寿量仏/三身所顕無始古仏)といったのちに、本門本尊を言います。ここに飛躍があるわけはありません。本門本尊が観心の寿量仏であり、その脇士が四菩薩、そして、戒壇と題目の三つを立てる法門にぶれがあると思えません。
本尊とは己心に観じるところ、口に唱えるのは、上行から伝わる一念三千の珠を裏(つつ)む妙法蓮華経の五字、戒壇とは、彰往考来さん、れんさんも頷かれた尊敬する都守基一師が『大崎学報』第154号所蔵論文で明確化された『取要抄』の「雖然 伝教大師 天台所存所残一事得此之上 天台未談之迹門円頓戒壇始日本建立之 仏滅後千八百余年 月支漢土日本無之 第一大事秘事也 問云 天台伝教所残之秘法何物乎」から師が結論される「「本門の戒壇については、従来聖人自身による説明がないために、あるいは理の戒壇、即是道場の戒壇という理解も行われてきた。しかし以上の文脈による限り、本門戒壇とは伝教大師が叡山に建立した迹門円頓戒壇に続いて、末法の時代にどこかに建立されるべき事相の戒壇の意であると理解するのが自然である」(P121)でしょう。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html
日蓮における本尊観は、本尊・戒壇・題目と鼎立する以上、寿量釈尊以外であるはずはないと思います。ただし、先にも種々挙げましたが、鎌倉時代、本尊とは、広い意味で使われていたわけですから、その用法から在家教化の消息文で、漫荼羅、もしくは御守符を本尊と記すことがあっても、齟齬を来したと見る必要を、わたしは感じません。
593
:
独学徒
:2006/10/22(日) 21:32:26
犀角独歩さん、今更ながら私の議論がいかに過去の議論の蒸し返しかと、恥ずかしくさえ思います。
これまでに既に出尽くした議論で、お時間をとらせてしまい恐縮です。
これも既に解決済みのことかもしれませんが、敢て恥を覚悟で質問させていただきます。
尊敬する先生の御所論では御座いますが、「戒壇」について「末法の時代にどこかに建立されるべき事相の戒壇の意」との事ですが、これでは一大秘法の「南無妙法蓮華経」、所謂「本門の題目」に集約されるようには思えません。
富士門所伝の如く、広宣流布の時は仏像建立、それに至るまでは大漫荼羅をもって本尊とするという考えは、既に大漫荼羅それ自体が「仮本尊」としての役割しかないということになります。
しかし日興は、「本門寺に懸け万年の重宝」と添書するわけで、これは広宣流布しようとしまいと、大漫荼羅は本門の寺の「末法万年の重宝」というわけです。
私は日順・日代の思想に反しますが、日興のとった振舞から考えれば、大漫荼羅を奉掲したる場所こそが「戒壇」なのではないかと考えます。
「本門の本尊」たる教主釈尊、「本門の戒壇」の証たる大漫荼羅奉掲の道場、口唱するところの「本門の題目」、このように考えれば宝前の様相は、犀角独歩さんも仰せになられていましたが、大漫荼羅と釈尊は同所に置かれてこそ初めて三大秘法の整った修行の場となるのではないでしょうか。
つまり大漫荼羅の役割は、守りとしての役割のほか、奉掲の場所を直ちに「本門の戒壇」とする役割があったのではないでしょうか。
そうであれば時代が下るにつれ「戒壇の証」が「戒壇の本尊」、そして大漫荼羅そのものが、「本尊」と誤解されるようになっていくことも十分に考えられます。
そして「本門戒壇の大御本尊」として、特化した大漫荼羅が、富士門から出現して行くことも十分におこりうるものだと思います。
以上、根拠薄弱な個人的思いの強い投稿となりましたが、御教授いただければ幸です。
594
:
犀角独歩
:2006/10/23(月) 11:19:38
593 独学徒さん
> 一大秘法の「南無妙法蓮華経」、所謂「本門の題目」
「南無妙法蓮華経」と「妙法蓮華経」は、なかなか微妙なところです。
「其所属之法何物乎。法華経之中 捨広取略 捨略取要。所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄」(曽谷入道殿許御書)
ただし、これを是好良薬として受ける側からするとき「南無妙法蓮華経」となるのでしょう。
「是好良薬寿量品肝要名体宗用教南無妙法蓮華経是也」(本尊抄)
この薬はしかし、衆生が直ちに取ることはできません。遣いによってもたらされるわけですね。「遣使還告」がそれです。では、この薬(妙法蓮華経)を仏に所属され、遣いとされたのが上行を代表とする四菩薩である。故に末法にいたるに、ただ、この秘法の肝要のみが残されていた、というのが日蓮の主張です。
この所属の妙法蓮華経の受持、南無妙法蓮華経の口唱を、では、何に向かってするのかという問いは、実は漫荼羅・本尊を考えるうえで大きな問題なのだとわたしは考えます。妙法蓮華経に対してでしょうか。わたしは違うと思います。その本来の所持者、仏に向かってではないでしょうか。そして、その遣いをとして、自分にこの良薬(妙法蓮華経)をもたらしてくれた菩薩に向かってということになりませんか。なぜ、寿量久遠仏に向かうのか。それはすなわち久遠下種覚知から仏恩にいたるからでしょう。しかし、この妙法蓮華経は既に上行等四菩薩に所属されたものですから、その仏との取り次ぎに四菩薩が介在します。となれば、仰ぐ寿量本仏の様式はすなわち一尊四士となるということでしょう。しかし、これは仏像の話ではなく、己の心に観じる本尊であることが第一義です。所属の正体を‘伝える’具体的な方途が漫荼羅図示授与であったと、わたしは拝察します。
そしていつしか、その日蓮の教えを仰ぐ為政者が出現し、堂塔伽藍を建立すれば、そこにその久遠寿量本仏と四菩薩を建立し、ついには、迹門戒壇に代わる、本門戒壇もなることを日蓮は標榜していたのだと考えます。(詳しくは、機会を得ればそのときに記しますが、寺院仏像の建立は在家為政者の所行という考えを日蓮は有していたと考えます)
本尊は仏か・法か、いわゆる法勝人劣、もしくは法華経勝仏劣という勝劣論は、わたしは勝劣派ならではなの悲しき性がいたす選択(せんちゃく)なのだと思えます。仏も法も、共に尊いのでしょう。
たとえば、ある人が「この薬をあの人にあげなさい」と、遣わしてくれたとします。その薬を飲んで病が癒えたとき、「薬のおかげで治った。薬をくれた人のおかげでも、遣いのおかげでもない」と考えるのでしょうか。薬をくださった方、それを持ってきてくれた方に感謝の念が生じるのではないでしょうか。わたしは薬をくださった方に手を合わせます。そして、遣いに感謝し、薬を正しく服用するでしょう。
この薬とは教法であり、それはもちろん妙法蓮華経でしょう。その効能はつまり本仏釈尊と菩薩を己心に観じるところに三千を成就することですね。
この服用方法は信心口唱で、南無妙法蓮華経となるのでしょう。
では、南無妙法蓮華経に向かって、南無妙法蓮華経と唱えるのでしょうか。そうではなく、南無妙法蓮華経と本仏釈尊に向かい、誓い唱えるということでしょう。本門寿量本仏に向かって唱えるところが本門の題目であるということではないでしょうか。南無妙法蓮華経が漫荼羅なら、本仏は仏像です。以上が日蓮の思惟であろうかと存じます。
> 富士門所伝の如く、広宣流布の時は仏像建立、それに至るまでは大漫荼羅をもって本尊とするという考えは、既に大漫荼羅それ自体が「仮本尊」としての役割しかないということになります。
595
:
犀角独歩
:2006/10/23(月) 11:20:15
―594からつづく―
ここからは派祖日興以降の論議となりますね。
> …日興…広宣流布しようとしまいと、大漫荼羅は本門の寺の「末法万年の重宝」…奉掲したる場所こそが「戒壇」…道場
日興がこのように考えていたかどうか、その資料は実に乏しいわけですが、少々考えてみたいところです。
> 大漫荼羅の役割は、守りとしての役割のほか、奉掲の場所を直ちに「本門の戒壇」とする役割があったのではないでしょうか。
ならば、なぜ日興が「本門寺奉懸」と添え書きした大漫荼羅はいずれの寺にもかかっておらず、その寺が本門寺と呼ばれていないのでしょうか。わたしは寡聞にして存じ上げませんが、当の重須本堂、本門寺を名乗る各寺院では、では、日興が「本門寺奉懸」と記した漫荼羅がかかっているのでしょうか。
また、日興、そして、日目、日郷が天奏にかくも執念を示したのでしょうか。
つまり、このことこそが、戒壇未成就を示すことなのだとわたしは考えます。
この意味において、日興は、日蓮の戒壇義をある程度、そのままに継承していたのだろうと思えます。(戒壇は遺された密事であるということです)
ただし、その本尊義、もっと言えば漫荼羅に関する考え方は、日蓮、日興では大きく違っていると思えます。日蓮における漫荼羅図示は伝法証符の意味合いを持ち、しかし、日興にとっては、漫荼羅は本尊となっていった相違です。さらにその重須において、やがて漫荼羅は未来建立の戒壇堂の仏像奉安を示す図と解釈されるにいたり、さらに漫荼羅正意の偏執と、日蓮御影信仰の勃興は、仏本尊廃棄へと傾いていったと整理できようかと存じます。
なお、戒壇と道場は、その意義を大きく異にするのではないでしょうか。
日蓮は比叡山において菩薩戒を受けた人なのです。日昭にしてもしかりでしょう。他の阿闍梨号を有す弟子方は、どうであったのか、この点は実に悩ましい問題であるわけです。『取要抄』から看取できる日蓮の戒壇建立構想はしかし、比叡山戒壇を否定したところにあったようには思えません。その点は日興門下でも同様で、その証左が日順の比叡山遊学です。
現代となっては戒壇・受戒など等閑にされたところですが、この現代感覚で、戒壇を考えれば、上古の意味は取れないでしょう。
一方、道場とは、法華修行の場であって、受戒の場・戒壇とはその意義が違います。これは憶測の域を出ませんが、漫荼羅奉懸をもって、道場荘厳とした可能性は大いにあり得るとわたしは考えています。殊に日蓮の弟子僧の多くは、天台宗寺院寓居の修行者であり、いわば法華宗(天台宗)日蓮派といった立場であったわけでしょう。寓居する各寺院には、それぞれの本尊(仏像)が安置されてあるのは当然です。そこにおいて、日蓮が一門の道場として、かりそめの道場と荘厳する具として、漫荼羅奉懸はあったのではないかと想像します。
> 「戒壇の証」が「戒壇の本尊」、そして大漫荼羅そのものが、「本尊」と誤解されるようになっていく
これは、日興からも乖離する何ら重宝を有していなかった日目・南条の私寺が祖師・派祖の意図も汲めず画策していったところなのでしょうね。
> 「本門戒壇の大御本尊」として、特化した大漫荼羅が、富士門から出現
ここに至る経緯はかなり複雑であり、この一連の歴史推移を認識することは骨が折れます。何より、現代の各集団のアナウンスがまったくのご都合と捏造にまみれているために事実を覆い隠しもしています。また、日興から重須、京、西山、保田という広がりから、石山での特化はそれぞれ別事として整理する必要もあります。
> 口唱するところの「本門の題目」…宝前の様相…犀角独歩…大漫荼羅と釈尊は同所に置かれてこそ初めて三大秘法の整った修行の場
釈迦仏像を置き、漫荼羅も奉懸すれば、道場でもあるという気分を有します。また、私事として、菩薩道誓戒の場として道場を考えれば、個における戒壇と安ずることはできようかと存じます。
596
:
独学徒
:2006/10/23(月) 21:34:54
犀角独歩さん、
594での御教示、誠にその通りと思いました。
>では、日興が「本門寺奉懸」と記した漫荼羅がかかっているのでしょうか。
これにつきましては、それを証明する資料は全く存じ上げません。
憶測の域を出ませんが、当初は安置され、やがて宝蔵へしまいこまれたのかと想像はしています。
それでも日興添書のある大漫荼羅が他門あるということは、奉掲していたどころか売ってしまったという、全く犀角独歩さんの御指摘を裏付ける事実のみ明確なところは、なんとも言い訳もできないところであります。
私は、本門本尊が為政者によって造立され、本門戒壇も為政者によって建立されるとなりますと、蓮師の残したものは本門題目のみということになります。
しかし大漫荼羅は未曾有のものでありますし、それ相応の用途があったのではないかと思えてならないのです。
そのため真言における曼荼羅の用途を、執拗にお聞きしたりしていました。
「摩訶止観」、凡夫が心(摩訶)を止まって(止めて?)観る為の道具か。もしくは「観心本尊」、凡夫が心に本尊を観るためのイメージトレーニングの道具か、などを愚考し、意見させていただきました所存です。
「戒壇」と「道場」の意義の違い、御指摘ありがとう御座います。
大漫荼羅奉掲の場所を持って「戒壇」とする愚考は、国主帰依無きゆえに、本門本尊はないけれども、大漫荼羅奉掲の場所を「戒壇」と考えれば、後代の門下が叡山に行かなくとも受戒を受け出家得度する場所は確保できる。
そんな発想も成り立つのではないかとの愚考でもあります。
>また、日興、そして、日目、日郷が天奏にかくも執念を示したのでしょうか。
私もこれらの天奏は、「本門戒壇」建立の懇願とずっと思っていたのですが、ここ数日は「本門本尊」造立の懇願ではないかと考え始めているところです。
つまり「本門本尊」未成就のため、天奏を繰り返したのではないかと。
それがいつの間にか、大漫荼羅をもって「本門本尊」との誤解がはじまり、それによって「本門戒壇」未成就の思想に代わっていったのではないかと愚考し始めたところです。
>かりそめの道場と荘厳する具として、漫荼羅奉懸はあったのではないかと想像します。
これも非常に頷けるご投稿です。
本門本尊が国主造立とすれば、各地の門下・信徒のところでは、特に一尊四士の造立のできない場所では、大漫荼羅奉掲をもって道場を荘厳することは、もっとも自然な感じがします。
ここ数日の議論は、私は何一つ資料を使いこなせることなく、愚考を書き連ねる状況が続いております。
これも私が、何もわかっていない何よりの証左かと存じます。
お付き合いいただいております、犀角独歩さんの学恩に心より感謝申し上げる次第です。
597
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 09:45:35
596 独学徒さん
> …本門本尊…本門戒壇も為政者によって建立…蓮師の残したものは本門題目のみ
なるほど、そのようなニュアンスで受け止めていらっしゃいましたか。
より正確に素描してみますか。
日蓮が、敢えて「本門」とことわるのは、迹面本裏と成句される天台は方便品(迹門)諸法実相をもって表とするわけですから、ここに両師の相違は明らかです。では、「本門の」とするところは三つの法門であるというわけです。つまり、日蓮は本尊、戒壇、題目の‘法門’を遺したわけです。それに受持する未来の為政者はしかし、その法門に基づいて、本門の本尊像、つまり、一尊四士という奉安様式の仏像を建立するわけです。こちらは仏像です。つまり、日蓮は法を伝持、為政者は仏像を造立するという役割の差です。この点は戒壇も同様です。
ですから、日蓮が本尊、戒壇を遺さないというのは、やや不正確な表現ではないかと思います。
> 大漫荼羅は未曾有…それ相応の用途があった
これは、わたしももちろん、そう思います。
執行師の言を籍りれば、己心の釈尊の、その己心を表現したわけですから、しかし、たしかに未曾有に相違なきところと存じます。
> 「摩訶止観」
わたしは何度となく記してきましたが、『摩訶止観』について、たとえば、同書を岩波文庫で発刊した関口真大師は
「摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である」(岩波文庫9頁)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117694/33
というわけです。
598
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 09:46:38
―597からつづく―
では、「摩訶」とmahāの音写で、「偉大な」といった意味合い、止観については、たとえば、『日蓮宗事典』では以下のように記されます。簡潔なので説明に換えます。
「止は梵語 s'amatha, 観は Vipas'y-ana ̄の訳語。本来止と観とは別個のものであるが、二つを併称することによって、一つの用語を形成している。また「止観」と言った場合、天台大師智邈によって講説された『摩訶止観』を指す場合もある(聖人の用例)。更にまた智邈が主張した、漸次・不定・円頓の三種止観を略称するものと解される場合もある。
止観は天台大師智邈によって、最も重んじられたので、それは智邈によって提唱されたものの如く思考されるが、既にこの止観については阿含経典に諸説がある。しかもこれらの叙述は端的に止観の意味を伝えているものとして注目される。即ち『長阿含経』巻九に、「云何が二の修法なる、謂わく止と観となり」といい、また『増一阿含経』巻一一には、「阿練比丘は常に二法を修行すべし。云何が二法なるや、所謂止と観となり」と説かれている。『成実論』巻一五には止観品があり、次の如く叙述される。「問うて云く。仏は処々の経中に諸比丘に告ぐ。若しくは阿練若処に在るも、若しくは樹下にあるも、若しくは空舎にあるも、応に二法を念ずべし。所謂止と観となり。若し一切の禅定等の法皆悉く応に念ずべきに、何が故に但だ止観のみを説くや。答えて曰く。止は定に名づけ、観は慧に名づく。一切善法の修より生ずるものは、此の二を皆摂す。及び散心に在る聞思等の慧も亦此の中に摂す。此の二事を以って能く道法を弁ず。所以は何如ん。止は能く結を遮し、観は能く断滅す。止は草を捉うるが如く、観は鎌にて刈るが如し。止は地を掃うが如く、観は糞を除くが如し。止は垢を掃うが如く、観は水にて洗うが如し。止は水に浸すが如く、観は火に熟するが如し。止は癰に附するが如く、観は刀にて決するが如し。止は脈を起すが如く、観は血を刺すが如し。止は制して心を調え、観は没する心を起す。止は釜に灑ぐが如く、観は火に炙るが如し。止は繩を牽ぐが如く、観は[戔*(利-禾)]を用うるが如く。止は鑷にて鑷刺するが如く、観は剪刀にて髪を剪るが如し。止は器諟の如く、観は兵[木*(祓-示)]の如く。止は平立の如く、観は箭を発するが如し。止は膩を服するが如く、観は薬を投ずるが如し。止は泥を調するが如く、観は印を印するが如く。止は金を調するが如く、観は器を造るが如く。又世間の衆生は皆二辺に堕す。若しくは苦、若しくは楽なり。止は能く楽を捨し、観は能く苦を離る。又七浄の中の戒浄心浄を止と名づけ、余の五を観と名づく。(略)七覚分の中の三覚分を止と名づけ、三覚分を観と名づけ、念は則ち倶に随う。八道分の中、三分を戒と名づけ、二分を止と名づけ三分を観と名づく。戒は亦止に属す。又止は能く貪を断じ、観は無明を除く」とある。これによって、止と観とのそれぞれがおよそ判明するが、止とは境であり、観とは智であることが一般的な止と観の意味である」
([]はJIS外 参)
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/gaijihyoki.html
)
599
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 09:47:36
―598からつづく―
> 「観心本尊」、凡夫が心に本尊を観るため
凡夫が、ですか。所謂「一心三観」における空化中を三身所顕無始古仏と観ていくことですから、凡夫のよくなせるところではないのでしょう。ですから、形貌によって、それを示す必要があります。すなわち、仏像です。
参)「若一法一切法 即是因縁所生法。是爲假名假觀也 若一切法即一法 我説即是空空觀也 若非一非一切者即是中道觀。一空一切空無假中而不空 總空觀也 一假一切假無空中而不假 總假觀也 一中一切中無空假而不中 總中觀也。即中論所説不可思議一心三觀」(摩訶止観5)「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也」(本尊抄)
これを万人にわかるように書き表したのが漫荼羅などといいますが、日蓮在世時代、一般民衆の識字率はいうに及ばず、武士階級でも四人に一人ほど、読めなかったというわけですから、文字漫荼羅は、知的特権階級の具であったことが知られます。仏像画以上に民衆には難解であったことでしょう。であるからこそ、唱題という行が有効であり、かつ、視覚に直接、訴える仏像が望まれたのではないでしょうか。
> 「戒壇」とする愚考は、国主帰依無きゆえに、本門本尊はないけれども、大漫荼羅奉掲の場所を「戒壇」と考えれば、後代の門下が叡山に行かなくとも受戒を受け出家得度する場所は確保できる。
これは戒壇の根本的な意義を欠いていませんか。
たとえば、東大寺戒壇院について、以下のような説明があります。
「大仏開眼より2年後、聖武天皇は唐から鑑真和上を迎えて大仏殿の前に戒壇を設けました。そこで天皇、皇后をはじめ500人が受戒」
http://www.crdc.gifu-u.ac.jp/mmdb/marc4/nara/toudaiji/21.html
天皇の受戒、これは大きなキーワードです。
伝教が比叡山に戒壇院を勅許されたことにより、国家公認の僧の受戒をこの場で行うことができるようになったわけですが、日蓮においては、意義はそこに留まらないと、わたしは考えます。
簡潔に記しますが、大乗戒壇、ここで授けられるところは「菩薩」戒です。以下の『本尊抄』を想い出してください。
「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王」
賢王は菩薩であるというのです。天台・伝教已来の佳例を踏む日蓮が「菩薩」であるというとき、それは法華受戒を受けた王であることを意味します。つまり、王が菩薩であるためには、受戒を絶対の要件とするのであり、そのためには戒壇は不可欠であるということです。本門本尊仏像を造立する王が受戒を受けるに相応しい場、それは迹門戒壇でしょうか。本門戒壇ではありませんか。
この戒壇は修行のための道場とは、根本的に意味を異にします。
『以一察万抄』『取要抄』に、日蓮が未来事相戒壇建立を密事としながらも標榜したのは、本門本尊寿量仏像を奉安する寺院建立において、折伏を現ずる折伏菩薩の賢王は、まず、本門戒壇において戒を日蓮の許に受け、菩薩の菩薩たる所以を具体的に対してのち、本門本尊堂を建立していくという図式を意味していませんか。
以上のことは、中世における檀家制度、さらに民主国家の現在とは遙か隔世の感に霞んだ、鎌倉往時の、日蓮の思惟であったと、わたしは拝します。現代の感覚で推し量っては想像だにもできないところでしょう。
600
:
今川元真
:2006/10/25(水) 16:25:48
横レス失礼致します。 日蓮聖人は四箇格言を鎌倉時代の僧の有様から言う。そして、天台密教から法華一乗を思考する。法華経(心)漫荼羅、仏像(色)行者、衣装(事実?)茶・糞雑衣(ゴウタマ・シッダルタ応誕を意識→経典から出る尾鰭の広がり方も考え方の一つひとつ)、灰・位階出自隔て無い(権威権力を持つ人々を意識して当然)
601
:
今川元真
:2006/10/25(水) 16:43:31
21世紀の学問【仏教経典・法華経・諸経の王、シャクソン・教主、日蓮・導師、漫荼羅・養育親】【法華経受持、如意宝珠・一念三千、如来神通力・陀羅尼真言、自然治癒力】【漫荼羅を信じさせ給え、信・仏、学・法華経、行・唱題】 先師先達と奉る訳では無いのですが、犀角独歩さん関係者各位の皆さんの知識情報意見を開示して頂ければと思います。 其れから管理人さん関係者各位方々、挙証出典に真、偽、未決、等書いて頂ければと思いますが、如何でしょうか。宜しくお願いします。
602
:
犀角独歩
:2006/10/25(水) 19:09:11
今川元真さん
> 知識情報意見を開示
この意味を斟酌しかねるのですが、もう少し記していただけませんか。
603
:
独学徒
:2006/10/25(水) 19:28:02
犀角独歩さん、今回は何度目から鱗が落ちたかわかりません。
大漫荼羅の用法についての愚論を、散々述べさせていただきましたが、犀角独歩さん御指摘の通り、漢字の読めない人が大半であった時代に、文字漫荼羅では何のイメージもできようはずがありませんね。
また蓮師は盲目乗蓮にも大漫荼羅を授与していることから、肉眼で文字漫荼羅をみて何かの修法とすることは、あらためて考えずらいと思いました。
また本門戒壇が賢王の菩薩戒受戒の場所との御教授、私は想像もしていなかった事でした。
やはり私には、正本堂=本門戒壇という概念が残っていたのでしょう、本門戒壇は信徒が本門本尊の開帳を受ける場、僧侶が受戒を受ける場という考えしかありませんでした。
自分では創価学会をはじめとする、彫刻信仰圏の思想からは脱却していると思っていましたが、思わぬところで自信に内在する彫刻信仰の痕跡を発見させられました。
あらためて感謝する次第です。
ありがとうございました。
最後にもう一つ御教授をお願いいたします。
大漫荼羅の用途、これを犀角独歩さんはなんであるとお考えでしょうか。
604
:
犀角独歩
:2006/10/26(木) 09:47:31
独学徒さん
> 大漫荼羅の用途
いくつかあるとは思います。また、派生的、発展的に、その‘用途’の変遷、もしくは応用はあるとも思います。
しかし、その根本は‘受持’ということではないでしょうか。より正確に記せば、授与であり、受持です。
『本尊抄』に「召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也」とあります。
菩薩は授与し、衆生は受持する関係です。この五字の具体的な授与と受持とは、たとえば、石山門・日寛の言を挙げれば受持即信心などといいます。要は妙法五字を信じ、唱えるところにその受持があるというわけです。これは間違いとは言えないでしょうが、しかし、肝心の部分を欠いています。この日寛は解釈の五字と受持の関係は、観念に堕しています。
もっと具体的ではないでしょうか。つまり、妙法五字の授与・受持とは漫荼羅の授与・受持なのだと、わたしは近来、気が付きました。
日蓮は「上行菩薩所伝妙法蓮華経五字」(定P815)を、具体的に漫荼羅に記し、衆生に授与したのでしょう。つまり、我らが日蓮が唱え始めた妙法蓮華経を受持するとは、この漫荼羅を受持することをもって実際の事相として実現するのでしょう。単に法華経を読み、遺文を読み、口伝えに妙法蓮華経と唱えただけでは名ばかりのものでしょう。これでは久遠釈尊 ― 上行菩薩 ― 日蓮と受け継がれた妙法蓮華経とは違います。日蓮は自分が受持した五字を、漫荼羅に記し、衆生に授与したのだと考えます。これが日蓮の漫荼羅の‘用途’の第一であろうと、わたしは考えます。
さらに次段階としては、この漫荼羅を受持した法師は、この漫荼羅にある妙法蓮華経を読み諳んじ、そして、上行・日蓮の意を通じて解し説き、そして、また次に‘書写’して、その妙法蓮華経を授与していく無限連鎖が門下一般に広がっていったのでしょう。日蓮義において、妙法五字の受持とは漫荼羅奉戴ということではないでしょうか。
やや話の間口は広がりますが、『新尼御前御返事』では、漫荼羅を、如何様に扱うかを垣間見る思いが、わたしはします。「此五字の大曼荼羅を身に帯し心に存」(定P867)すというのです。別例を挙げれば、まさに『本尊抄』にあります。
「五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」(定P720)
このような点を考慮するとき、漫荼羅は奉安というより、折り畳み、袋に入れ、頚から紐につないで懐中に持していた様が窺えようかと存じます。受持の延長に漫荼羅の‘用途’として、守本尊といった側面が見られることになります。
しかし、これに収まらない大幅の漫荼羅は現存しているわけです。
中尾師の談ですが、現存する漫荼羅を観察すると、「板張り」にされていた形跡があるもの、また、幟のように扱われた形跡があるものが残っていると言います。前者は、道場結界の具という‘用途’であり、後者は布教の旗印として‘用途’であったのかもしれません。しかし、宮殿・厨子に奉安するような仏像と同じような扱いは見られません。
ところで、漫荼羅は五字のみならず、そこに霊山・虚空の有様が図示されています。つまり、これは妙法五字がどのように所伝されていったのかを図式化し、それを示したのではないでしょうか。では、四大天玉は、と言えば、既に戒壇の有様がここに記され、さらに愛染・不動の勧請、さらに経文等の書き込みは、符(祈祷祈願)としての‘用途’も籠められていたことを意味するのだと思えます。これらの様を見るに、実に多岐にわたる要素を日蓮漫荼羅は有していることになります。
いずれにしても、漫荼羅は、上行所伝の妙法蓮華経を、具体的に授与し、受持するという儀式に、その意義があったと観察します。
授与と受持は、血の温もりのある関係であると思えます。
その意味において、図には違いありませんが、その授受に係る意がなければ、それは写真と同じです。妙法五字もまた、ただ形ばかりのものに過ぎません。『御本尊集』の‘本尊写真’が本尊ではないことと同様です。
やや敷衍すれば、この授受の漫荼羅を帯さないものが、造立する一尊仏像四菩薩脇士像も、同じく形ばかりのものということになるのであろうと観察します。
以上が、日蓮の意図した漫荼羅の意義であったと、わたしは考えます。
605
:
問答迷人
:2006/10/26(木) 16:57:50
独学徒さん
犀角独歩さん
>いずれにしても、漫荼羅は、上行所伝の妙法蓮華経を、具体的に授与し、受持するという儀式に、その意義があったと観察します。
犀角独歩さんの、このご見解、全く賛同します。本尊抄と一致し、極めて解かり易く、しかも的を射抜いた見解だと思います。流石ですね。感服しました。
606
:
今川元真
:2006/10/26(木) 21:05:36
犀角独歩さん、間が空いてしまってすいません。私は調べるデータが乏しかったり何を最優先で見易くメモるかで辻褄が合わない事を書いてしまう事が多いです。皆様方の与り知らぬ事とは存じますが、何かしら知識情報を御存じなら教えて頂きたいと厚かましくも書いてしまいました。
607
:
独学徒
:2006/10/26(木) 22:56:54
犀角独歩さん、
問答名人さん、
私も問答名人さんと全くの同意見です。
本尊・戒壇に続き、大漫荼羅の用途につきましても、懇切丁寧に御教授意戴きましたこと、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
608
:
犀角独歩
:2006/10/27(金) 11:30:05
問答名人さん
ご賛同、恐縮です。
独学徒さん
適切なご質問をいただき、答弁することで、管見を整理することができました。有り難うございました。
今川元真さん
お知りになりたい具体的な知識情報をお尋ねいただければ、わかる範囲でお応え申し上げる所存です。
609
:
名無しさん
:2006/10/27(金) 20:24:35
以前書き込みしました名無しと申します。
謹んで犀角独歩さんに率直にお聞き致します。
現在、日蓮系の宗派はたくさんありますが、その中で、一番日蓮の教えに忠実な
(もしくは忠実に近い)宗派はどことお考えでしょうか?
各宗派が自己の優位性ばかり主張してきた過程には、うんざりしています。
嘘やだましもかなり多いようで、本当の事が知りたいですね。
610
:
犀角独歩
:2006/10/27(金) 22:13:38
名無しさん、こんばんは。
> 一番日蓮の教えに忠実な(もしくは忠実に近い)宗派はどこ
ここ数年来、当掲示板で皆さんと考えてきたところから申し上げれば、「ない」というのが率直な答えです。ないから、宗派、学者、権威者の言に惑わされず、日蓮その人を考えようということでした。
ただし、各宗派が悪意を持って日蓮の教えを枉げたというより、700年という時間の経過とは、斯くなるものなのだというのも正直な感想です。
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