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本尊と曼荼羅

611名無しさん:2006/10/28(土) 03:41:01
>犀角独歩さん

貴重なご意見、本当にありがとうございました。
これからも、独歩さんの書き込みを拝見するのを楽しみにしています。
頑張って下さいね。

612犀角独歩:2006/10/28(土) 10:27:25

名無しさん、お励まし、感謝いたします。

少し補足します。わたしは「どの宗派が」といった取捨は選択法として賢明とは思いません。それぞれ、善いところもあれば、悪いところもあるからです。ですから、善いところは採り、悪いところは採らず、人や、権威によらず、真実に基づくという在り方がよいのではないでしょうか。

いまの各宗派、おかしなところも多々ありますし、日蓮に遡源できないことも大半を占めます。しかし、700年来の発展と工夫に叡智を費やしたと思えるところも多くあります。反面、日蓮の素意であるといっても現代にはまったく用いることができない点もあります。これは『法華経』にしてもそうでしょう。

「伝持の人なければ、なお木石の衣鉢を帯持せるがごとし」とは『顕仏未来記』の一節ですが、日蓮の素意・原形教義とは違っても、しかし、いまに菩薩の実践をする人々は多くいます。その菩薩道が、仮に日蓮と違った形であったとしても、わたしは敬意を表します。

名無しさんが、「自己の優位性ばかり主張してきた」という点は、この菩薩の心とは反して映じる部分なのであろうと存じます。

613今川元真:2006/10/28(土) 18:53:55
犀角独歩さん、ありがとうございます。

614犀角独歩:2006/10/29(日) 18:20:22

本尊と漫荼羅について、やや管見を記してきましたが、ここで過去の議論も振り返りながら、少し整理しておきたいと思います。

中世以降の石山教学においては

釈迦如来=日蓮=本尊=仏=漫荼羅
法華経典=題目=本尊=法=漫荼羅

という連想によって成り立っているわけです。やや穿った言い方をすれば、御義口伝などにみられる本覚論的な短絡発想がここにあります。このような杜撰な考え方は、では、日蓮にあったのかという問いは立ちます。わたしは「ない」と考えるわけですが、しかしたとえば『本尊問答抄』における 題目=法華経 という挙証の有様は、これに当たると思えます。このことから、この書が真蹟であるか・否か、わたしは大いに疑ってかかるわけです。題目=本尊であるならば、「本尊と戒壇と題目の五字」という鼎立は、本尊と戒壇と本尊ということになってしまうわけで、三法門は成り立たないことになります。

題目本尊への疑問は、以上のような脈絡から思うところです。しかし、仮にこの書を真蹟として自問自答をすれば、『本尊問答抄』にいう題目本尊と、本門本尊は、では、同じなのかという問いは立ちます。

「法華経の題目を以て本尊」(定P1573)というときの法華経とは本迹両門に亘る法華経典の題目を意味すると採れます。一方、『本尊抄』の「事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之」(同P719)、『法華取要抄』の「此人得守護之力以本門本尊・妙法蓮華経五字令広宣流布於閻浮提歟」(同P739)、『法華行者値難事』の「本門本尊与四菩薩戒壇南無妙法蓮華経五字残之」(同P797)、『顕仏未来記』の「本門本尊与戒壇与題目五字」(同P815)でいう‘本門本尊’とは、迹門を簡んで本門とことわるわけです。

わたしが‘法本尊’という成句を奇異と感じるのは、迹門・諸法実相に事起こり本尊を陳べれば、それは一念三千法界からのことであるから、法本尊といえないこともないながら、本門寿量は、五百塵点成道という釈迦‘仏’を説く段であれば仏本尊に相違ないからです。つまり、本門とことわって本尊を陳べるのであれば、それは久成の釈迦‘仏’と最初一番成道・初発心の弟子‘四菩薩’との物語ということです。迹門・諸‘法’実相を簡んで本門本尊を取るという脈絡が看取できます。

では、この本門本尊と、法華経(本迹両門)題目の本尊と、それが同意なのでしょうか。

かつて問答さんと「法華経が先か、釈迦仏が先か」という議論をさせていただいたことがありました。これはまた、敢えて勝劣論的に記述すれば、法華勝釈迦劣という思弁を日蓮が有していたかどうかという問いでもあったわけです。妙法華・提婆品第12には「吾於過去 無量劫中 求法華経」と明記されるわけです。これを受けて日蓮は『日妙聖人御書』に「かの不軽菩薩は今の教主釈尊なり。昔の須頭檀王は妙法蓮華経の五字の為に、千歳が間阿私仙人にせめつかはれ身を床となさせ給て、今の釈尊となり給」(同P643)というわけです。つまり、不軽=檀王=釈迦仏とことわったうえで、因位において妙法蓮華経五字によったというわけです。この点は、たとえば『祈祷鈔』において引用される「諸仏所師所謂法」という『涅槃経』の文を、「涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説せ給へり。仏此法華経をさとりて仏に成」という法華・涅槃の見地から即断していくわけです。ここでいう法華経とは、『十章鈔』「阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時必ず止観なりき。口ずさみは必南無妙法蓮華経なり」(同P489)から類すれば妙法五字であるといえることになります。この文から、題目が本尊という結論が導き出されるわけではありませんが、生仏(衆生=凡夫・仏)ともに「口ずさみ」は妙法五字というのが日蓮の思弁であることが知られます。

敢えて、真蹟未遺を採って勘がえます。『立正観抄』には「此妙法諸仏師也。如今経文久遠実成妙覚極果仏之境界非爾前迹門之教主・諸仏・菩薩境界。経唯仏与仏乃能究尽者迹門界如三千法門迹門仏当分究竟辺説也。本地難思境智妙法迹仏等思慮不及。」(同P848)といいます。この迹仏の辺から一重立ち入るところに本門本尊を立てるのが日蓮の三法門における「本門本尊」ではないのか。とすれば、本門本尊は題目本尊を簡んだところの日蓮御立法門であり、『本尊問答抄』は、その先序の本尊を通じて語ったものに過ぎなかったのではないのかというのが、わたしの管見です。

諸賢の叱正を仰ぐものです。

615犀角独歩:2006/10/30(月) 08:11:37

一晩経って、読み直すと、自分の文章ながら、気に入らぬところが目に付くものです。

> 先序の本尊を通じて語ったものに過ぎなかった

この表現は意を尽くしていません。少し補足します。

┌法華経の題目=法華全編の題名
└─本門の題目=従地涌出品第15〜普賢菩薩勧発品第28の題名

文字通り読めば、上記のごとくなります。先の独学徒さんとの議論でも引用しましたが、「本迹雖殊不思議一」(文句)と至極されるのにもかかわらず、敢えて本門立てに日蓮は論じるわけです。

「師に握拳なし」ということは、日蓮には言えないわけです。
顕説と密事ということが適宜な表現かどうか一考の余地はありますが、いまは、これを採ります。仮に『本尊問答抄』が真蹟であったとすると、日蓮は顕説として法華経題目本尊を表にし、四菩薩にかかる密事として三法門を立て、ここに一重立ち入り迹門を簡んで本門立てに本尊と題目を論じたのではないのか、という仮説をわたしは考えたということです。

616天蓋真鏡:2006/11/01(水) 08:17:17
おはようございます。 手紙形式での挙証で確認するしかない訳ですから、具体的に詳しくは判らないかもしれないと言う事でしょうか。  本仏の像と本尊顕説の漫荼羅は一対として戒壇堂に掲げるべきだと論じる事ができますか。 私は極端でも信心学問修行を進められるのは漫荼羅しかないと論じたいのですけど。

617犀角独歩:2006/11/01(水) 09:14:27

天蓋真鏡さん

おはようございます。

『本尊抄』から整理すると、以下のように、わたしは考えています。

四菩薩┬摂受 ― 僧侶 ― 妙法五字授与 ― 漫荼羅
   └折伏 ― 賢王 ― 寿量本仏像と、その奉安堂塔伽藍の建造

さらに『本尊問答抄』を真蹟として扱えば、

   ┌題目 ― 今番下種 ― 法華経題目の本尊 ― 拡大解釈として漫荼羅本尊
三法門┼戒壇 ― 賢王の本門戒壇の建立
   └本尊 ― 久遠下種 ― 久遠本仏・四菩薩像本尊

以上、有徳王・覚徳比丘の故事から王仏冥合の見地から御立てたのが日蓮の法門であると観察します。

ですから、信仰面から、己を今番下種(いま釈迦の末法に生まれてはじめて下種されたという見地)漫荼羅本尊(派祖以降は祖師像も)、久種(久遠五百塵点、初発心の弟子四菩薩結縁による下種と見れば)一尊四士と、奉安本尊に格差が出るのではないでしょうか。

もちろん、‘くに’としての寿量本仏像・堂は、四菩薩賢王のなすことなので、各家庭での奉安は、各個人の感得の話ということです。

※上記図が、崩れて表示される方は、以下を参考してください
 http://www.geocities.jp/saikakudoppo/msfont.html

618犀角独歩:2006/11/01(水) 09:59:37

また、補足します。

『本尊問答抄』を真蹟として扱わない場合は以下のとおりです。わたしは、どちらかというと、この立場です。漫荼羅は、妙法五字授与・受持の允可の証といった感覚でとらえます。

   ┌題目 ― 今番下種 ― 法華経題目の授与 ― 受持の漫荼羅
三法門┼戒壇 ― 賢王の本門戒壇の建立
   └本尊 ― 久遠下種 ― 久遠本仏・四菩薩像本尊

619天蓋真鏡:2006/11/01(水) 15:44:11
出かけていたのですみません。 【摂受&折伏の立て分けはなるほどですが、奉安本尊は仮の本尊ですか。允可証は末法無戒の戒壇の役割を果たさないのか。+戒壇は授与の場でしょうか、と質問がでます。】【「諸経の王・法華経→天台密教→法華一乗、本尊表現変化(幟、板貼、守札)、本仏(主師親)シャクソン色像・三法門(本尊・戒壇・題目)漫荼羅心図・法華経行者」上行→不軽→沙弥】

620犀角独歩:2006/11/01(水) 19:58:21

天蓋真鏡さん

ちょっと、ご質問の趣旨が斟酌しきれないのですが、思う範囲でお応えします。

> 奉安本尊は仮の本尊

これは漫荼羅本尊のことを指してのことでしょうか。
「仮」というより、仏像は久種により、漫荼羅は今番下種の差かと。
僧侶はあくまで漫荼羅授与が至極とするわけですから、自ら漫荼羅を下した国主が、やがて、本仏像・堂を建造するのを待つひねもすよもすがらということと考えます。

> 允可証は末法無戒の戒壇

これは、意味を採れません。ただ、一点。無戒の戒壇ということは論理矛盾です。戒壇を謳う日蓮が戒を当然、重視したでしょう。いわゆる菩薩戒です。
重須の地から日順が比叡山に遊学したことは、当然、この受戒を意味したでしょう。また、日興、日目、日郷、日尊などの天奏は、本門戒壇建立から、寿量本仏像・堂の造立・建立を目指したものであったと読みます。

> 戒壇は授与の場でしょうか

いえ。戒壇は受戒の場です。

> 諸経の王…

これ以下は意味を採れませんでした。

621天蓋真鏡:2006/11/01(水) 21:30:31
レスありがとうございます。          ●漫荼羅本尊授与が僧の最も大事な課題になるのでしょうか。一尊四士像&戒壇堂は気長に待つというのは解せません。御書遺文にも弟子にもはっきり伝わらないのは日蓮聖人が時世を判断して密事にした? ●無戒は「無戒の僧」とか表現した事があったと記憶にたったので、すみません。 ●授戒は僧だけと言う事でしょうか。

622犀角独歩:2006/11/03(金) 08:13:34

天蓋真鏡さん

> 漫荼羅本尊授与が僧の最も大事な課題

「最も」という比較勝劣の問題ではないと存じます。重大な役割の一つであろうということです。
先に独学徒さんが、日蓮が目の不自由な方にも漫荼羅を授与されたことが記されていました。一念三千の珠を裏む妙法蓮華経五字の受持は、その文字が見えるとか、声を出して唱えられるかとか、もっと詰めれば、受け取ったことを理解できない知的障害ではだめであるとかということではないのでしょう。見えなくとも、唱えられなくても、意味がわからなくても、上行所伝の妙法五字の認められた漫荼羅を受けることで仏種を植えるところに、その意義があるのではないでしょうか。

さらに進めれば、法華菩薩道とは、単に弘教に留まるのではなく、その五字を受持した自分が何をなすのかという具体的、且つ自主的行動を、おのが内心から涌く信念に基づき正道へ薫発することを訓えたのが『立正安国』ではないですか。

> 一尊四士像&戒壇堂は気長に待つというのは解せません

これは解せないと言われても致し方がないところです。

> 密事

この点は、『取要抄』『以一万察抄』、ならびに『「法華取要抄」の草案について」(『大崎学報』第154号所蔵、都守基一師の論文)を参考になさってください。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

> 無戒は「無戒の僧」とか表現

『御衣並単衣御書』に「日蓮は無戒の比丘」(定P111)
『法衣抄』に「日蓮は無戒の比丘、邪見の者なり」(定P1854)

たしかに上述のごとくあります。
ただ、ここで注意すべきは両書とも‘衣’について、論じている点です。
前書の前文を読めば「法華経説人は、柔和忍辱衣」、後書の前文にも「柔和忍辱衣と申て衣をこそ本」といいます。

では、言うところの「戒」とは何でしょうか。『盂蘭盆御書』に「此僧は無戒也無智なり。二百五十戒一戒も持ことなし」(定P1775)といい、続けて「威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり」ともいいます。すなわち、日蓮が自身を「無戒」というとき、それは二百五十戒といった戒を示す衣と威儀を斥け、法華経衣座室三軌中「柔和忍辱衣」によることを示すところに主眼があるのではないでしょうか。これは菩薩戒を採ってのことと考えます。

なお、日蓮が阿闍梨であったことは『行敏御返事』の「日蓮阿闍梨御房」(定P496)では記されています。また、弟子も阿闍梨号を有すことは周知の通りです。

阿闍梨については『日蓮宗事典』には、以下のようにあります。
簡潔な整理なので、参考に供せます。

「梵語で聖者、尊者、応供養等と訳す。『四分律行事抄』には五種(出家・受戒・教授・受經・依止)の阿闍梨が説かれている。『大日經』には、灌頂の阿闍梨となる人は一三種の徳を具足すべきことが述べてある。後世には師から許される場合と、官より賜る場合とある。聖人は門下の人格、法臈、学解等を認定して許された。本宗では、一〇〇〇日の加行を成満した修法師は伝師部の許可を得て称することができるとされているが成文はない。」
「a ̄ca ̄riya の音写で、阿遮梨、阿遮梨耶などとも音訳し、軌範師、親教師、正行の意である。もとはバラモン僧が弟子を養成する際に、ベーダの儀礼規則などを伝授する役の名称であったが、これが仏教教団でも取り入れられて、諸の規範を身をもって示し弟子を指導することのできる勝れた師範(教授)であるということを意味するようになった。そして『四分律行事鈔』上之三によると、五種の阿闍梨をあげている。即ち、出家・受戒・教授・受経・依止である。つまり教団に於ける学問的、徳行的な意味での最高の位にある僧に対する敬称として使われている。従って自ら阿闍梨号を称するなどは論外と言うべきものである。なお『宗定法要式』(二四四頁)では、「大衆の中で諸役をつとめる者である」とごく簡単に解説している。」

ここに「受戒」の文字が見られます。

> 授戒は僧だけ

さて、日蓮は、どのように考えていたか、わたしは決せません。
あるいは漫荼羅授与に「受持即持戒」の意味があったかどうか、さて、どうでしょうか。

623犀角独歩:2006/11/03(金) 08:27:45

補足します。

戒については『下山御消息』をご覧になるとよろしいかと存じます。

624犀角独歩:2006/11/03(金) 08:32:42

【622の訂正】

誤)『御衣並単衣御書』に「日蓮は無戒の比丘」(定P111)
正)『御衣並単衣御書』に「日蓮は無戒の比丘」(定P1111)

625天蓋真鏡:2006/11/05(日) 11:23:52
■法華経の如来神通力、心(精神)から湧いてくる力を鎌倉時代の僧・日蓮は意識していたのでしょうか。■皆成仏道の個人と在家出家の社会システム・公の道場を見据えて鑑みる必要があるので、三法門は漫荼羅中心三位一体、戒壇堂諸設備は時(聖人君子もしくは少欲知足の聖僧)至るまでの予定予測予言で質問納め得ます。■日蓮・法華一乗・漫荼羅中心、以後・祖師信仰・戒壇堂諸設備建立へ移行で宗教の歴史も全く同じで無くても繰り返すのでしょうか。

626犀角独歩:2006/11/05(日) 14:01:31

625 天蓋真鏡さん


> 法華経の如来神通力、心(精神)から湧いてくる力を鎌倉時代の僧・日蓮は意識していた

寿量品にいう神通力は如来に係ることなので、日蓮自身が心から涌くこととして、認識していたとは、わたしは思いません。真蹟遺文中に、我が身に充てた引用は、通読する限りなかったと記憶します。ただ、「心(精神)から湧いてくる力」は、もちろんのことを意識されていたと思います。

> 三法門は漫荼羅中心三位一体

言われるところの「三位一体」とは「父と子と精霊」という意味ではなく、一体とつかねるところに趣旨があるのでしょうか。日蓮の真蹟遺文からすれば、「一大秘法…所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄也」(定P900)が三法門に展開されるのかということなのでしょうか。

『本尊問答抄』を真筆とし、また、草稿『取要抄』を採って、開合を示せば、以下のようかと。

                ┌本門本尊─寿量仏─三身所顕無始古仏
一大秘法─妙法蓮華経(題目)本尊┼本門題目─本門の妙法蓮華経
                └本門戒壇─密事

なお、同抄の真偽、ならびに、三法門との不整合を心境の変化からご説明くださった顕正居士さんのご賢察を紹介しないことは気が引けます。以下のとおりです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/383

> 日蓮・法華一乗・漫荼羅中心

この記述の意味をわたしは採りかねますが、「漫荼羅中心」という点は引っかかります。『一谷入道御書』に「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」(定P996)とありますが、これはまさに漫荼羅における「日蓮花押」を意味するのではないかと、考えています。

> 、以後・祖師信仰・戒壇堂諸設備建立へ移行で宗教の歴史も全く同じで無くても繰り返すのでしょうか。

何が繰り返すと仰っているのか、主語が判然としません。ご説明いただければと存知ます。

627犀角独歩:2006/11/05(日) 15:15:09

独学徒さんの掲示板を拝見したところ、『報恩抄』についてのれんさんとの議論がありました。わたしも考えるところがあるので、投稿させていただこうと思いましたが、すでにできなくなっていましたので、こちらに記すことにいたしました。
http://bbs6.fc2.com/php/e.php/fujikyougaku/

「は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(定P1428)

れんさんが「本尊としての“本門の教主釈尊”とその脇士となる“宝塔の内の釈迦…”とはいかなる関係にあるのでしょうか?この二重の釈迦の記述、そこのところがしっくりこない」と疑問を呈してお出ででした。

この点は、わたしも、問答さん方と過去に議論をしました。
管見では、二重の釈迦というより、釈迦と釈尊の相違が、ここにあるのだと考えます。便宜に従って慣習的に用いられている成句をもって記述します。霊山虚空宝塔の釈迦とは近成の仏であり、いわば迹門・宝塔品の辺、比して釈尊とは久成五百塵点久成の本門寿量品の辺。同仏には違いありませんが、天地雲泥の相違を日蓮は書き分けたのではないでしょうか。
(記すまでもありませんが、釈尊とは釈迦牟尼世尊の略ですから、釈迦には違いありません。つまり、牟尼世尊という尊称の有無で書き分けているわけです)

たとえば、『一代五時鶏図』では、倶舎・成実・律、法相・三論と天台と各宗を挙げ、通じて釈迦如来を本尊と記します。けれど、最初の三宗は劣応身、次の二宗は勝応身、天台宗では「久遠実成実修実証の仏」と付記します。名前が同じでも、ここに厳然たる差があります。(同P2341)

つまり、本門教主釈尊は、迹門宝塔品から事起こる近成の段階の釈尊(迹門)を基として証される故に、この記述となっているのではないでしょうか。対して釈尊は久成(本門)の証です。

そもそも二重に名前が出ることがおかしいとなると、上行と日蓮、同一体であれば、両方の名が載ること自体おかしいことになります。日教の教学などでは、互為主伴をもって捌かれるところですが、この点も、問答さん、愚鈍凡夫さん、また顕正居士さんなどと一年半ほど前に議論した点でした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/119-

なお、「本尊図」について、独学徒さんの漫荼羅とは別に興門に伝わるのではないかという推論は興味深く拝読しました。

わたし自身は興門所伝の、仏像奉安を「漫荼羅の図の如し」という点にはまったく懐疑的です。かつては、この所伝を受け、大本門寺の仏像奉安、ならびに堂塔伽藍配置を想像したこともありましたが、現段階では寿量仏像奉安と漫荼羅図は別立てと考えます。要は示そうとするものが違うということです。

れんさんが仰るとおり、妙法蓮華経は像で形貌を造ることはできません。となれば、揮毫ということになりますが、そもそも、仏像造立に文字を置かなければならないとするのは、仏像奉安=漫荼羅図という固定観念による短絡であるとわたしは考えます。その意味での、興門所伝への懐疑です。

考えるに、漫荼羅相貌中で重要な「日蓮」は御影像で表すことはできても、しかし花押(判形)は表せません。殊に花押とは本人の証なのであって、日蓮以外が記した花押は模写であって何の証にもなりません。妙法蓮華経・日蓮花押とは漫荼羅の証であるのに対して、寿量仏像には四菩薩が証であるという差異が、ここにあるのではないですか。つまり、仏像奉安と、漫荼羅では、素よりその役割が違うので、漫荼羅を立体化したのが仏像であるという考え自体はなはだ短絡と言うしかないと、わたしは考えるわけです。

628れん:2006/11/05(日) 17:19:23
犀角独歩さん
>627
私の愚論に対する御批正かたじけなく存じます。仰るところ全くその通りと存じますが、あの報恩抄の文章に対応する様な蓮師御筆はいまのところ御筆漫荼羅しか発見されてないところから、独歩さんに“短絡”と言われるであろうことは百も承知の上で、“その場合”を想定した場合の試論を述べてみました。
実際のところ、蓮師以後の室町中期の石山文献でさえ、本門三法門を「仏と土と教法」と言い、表現するのであって、後の門下教学解釈は置いて、原意から見て、仏…即ち“本門の教主釈尊”(久成釈尊)が本尊であることは動かないわけですね。
独歩さんに御批正の労をおかけ致しましたこと、お詫び申し上げる次第です。

629犀角独歩:2006/11/05(日) 18:00:12

れんさん

決して、わたしはれんさんのご投稿を指して、「短絡」と記したわけではなく、富士門下の、たとえば日順の記などについて言ったことです。

ついでに愚考を記せば、「日蓮花押」というのは、今で言えば、自著・押印(もしくは書き判)ですね。これはいわば‘認め’ですから、造形化などできるはずはないわけです。サイン押印する代わりに、自分の写真とか像を置くなどあり得ないことです。ところが漫荼羅を設計図と想定して各尊像を造り、並べるとなると、日蓮御影を置くことになります。なぜ、これが是なのか?というのが、わたしの疑問です。

また、漫荼羅には、讃文、また、経釈文の書き込みがあります。いったい、これがどのように立体像化できるのか、漫荼羅では書いてあるが、仏像奉安では要らないなどとできるのかという疑問も生じます。

以上の疑問はしかし、漫荼羅図=仏像奉安と考えた場合のことです。仏像は仏像、漫荼羅は漫荼羅と、別に考えれば、こんな会通は不要となります。
仏像は本門寿量仏の造形化。漫荼羅は妙法蓮華経の授与/受持で「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」という弟子允可の証、経釈の書き込み等は祈祷、守の意と、その用途を別と考えたほうが、すっきりと理解できるというのが、わたしの管見です。

630天蓋真鏡:2006/11/05(日) 18:26:47
■三つの法門一つ欠けても信学行の成就にならないと云う意味で、三つの法門は一体。 ■成仏得道で『唱題修行』が基本基軸になるなら漫荼羅中心に為らざるを得ないのではと個人的に断じます。      ■聖人君子を奉り諸設備を整えても形骸化する(してしまうかもしれない)危うさを歴史を調べれば調べるほど目につくでしょう。「未だ且つて成仏した者など存在しない」と言われたら尚更、歴史の運命、ヒトの非力を想像します。恐竜のように長く人類は続くのかとも夢見ます。

631犀角独歩:2006/11/05(日) 18:52:55

630 天蓋真鏡さん

> 三つの法門一つ欠けても信学行の成就にならないと云う意味で、三つの法門は一体

信行学と三法門と、どのような関係があるとお考えですか。
わたしはここに、直接の教学会通は希薄であると思うのですが。

> 『唱題修行』が基本基軸になるなら漫荼羅中心に為らざるを得ない

そうでしょうか。唱題行は漫荼羅図示以前から行われていましたし、漫荼羅授与はごく限られた人にしかなされていません。唱題と漫荼羅受持は不二の関係と思えないのですが、どうでしょうか。

632天蓋真鏡:2006/11/05(日) 22:26:48
■教学的繋がりは無いでしょうが、前提(信学行)と本義(三法門)が揃い成仏得道への道が開かれると考えられませんか。■漫荼羅は允可証と言っても「信じさせ給え」と呼ばれたもの。其れに天台密教から法華一乗に軌道修正する方向は示されている。漫荼羅は道場を示す看板であると同時に戒壇の代わりになる導師(個人的には戒壇と同じと思います)なのでは無いですか?成仏は日蓮の力では無くて信心学問修行に特に信に依ると書いた事があったと存じます。題目と戒壇と本尊は法華経と漫荼羅と仏彫像を意味すると断じたいのです。三つ揃い合わせないなら日蓮の教えの法門では無いでしょう。漫荼羅が突出したのは歴史の妙。

633犀角独歩:2006/11/06(月) 05:35:23

632 天蓋真鏡さん

わたしが今回のご投稿を完全に判読できたかと問われれば、あまり自身がありませんが、感覚的ながら、ほぼ賛同します。

一信二行三学と順位を言われますが、殊ここ当掲示板においては、むしろ逆で、学に始まり、では、行ずる価値ありや、信ずる価値ありやと問うているのかもしれません。

634犀角独歩:2006/11/06(月) 09:31:13

633「自身がない」は「自信がない」でした。

戒壇という一点のみ。実に悩ましい問題で、漫荼羅奉安の場所がそれに当たるというのは、門下にある程度、通じた解釈かもしれません。わたしは漫荼羅奉懸は道場結界の意義、さらに図示された諸尊勧請、さらに法華会座、霊山より虚空会を仰ぎ見る観といったところで、これが戒壇かと言えば、さて、どうかと考えます。戒壇とは授戒、潅頂といった儀式の場ですから、道場とは別立てでしょうが、その代用を兼ねるものとは言えるかもしれません。しかし、やはり、代用の域を超えないと思います。

実際のところ、日蓮は、ほとんど戒壇については言及していないわけで、このことから、当初、わたしは日蓮は本尊と題目を述べ、戒壇を語る以前に没したのではないかと考えていました。しかし、その考えを改める機会となったのが都守師の秀逸な論攷の拝読であったわけです。「密事」です。この戒壇に係る説明をしっかりと聞いた弟子がいたかどうか、「それは日興上人だ!」と富士の僧俗は言いたいところでしょうが、さて、どうでしょうか。

635れん:2006/11/06(月) 10:23:27
犀角独歩さん、御多忙のところ、ご返事有難うございます。
>629
仏像は仏像、漫荼羅は漫荼羅…仏像は本門寿量佛の造形化…漫荼羅は妙法蓮華経の授与/受持…弟子允可証…経釈の書き込み等は祈祷守りの意とその用途を別と考えたほうが、すっきりと理解できる…

仰る通りですね。蓮師のパトロンであった富木日常師は自らの寺院の宝物目録に妙法蓮華経漫荼羅と一尊四士を第一に掲げているので、富木日常師の寺院の本堂には寿量佛の造形化=一尊四士と漫荼羅が安置されていたと考えられるところですね。四菩薩造立抄は蓮師御筆はおろか南北朝末期まで門下の記述が見えないので、偽書である観心本尊得意抄とその内容が共通する部分があることから同一作者による作文と愚考しますが、一尊四士の造立は富木氏の宝物目録に見えることから早ければ蓮師在世の造立も考えられると思われます。
日興は、他の本弟子老僧には批判の資料が残りますが、不思議に富木日常師に対する批判の筆は残ってないので、「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」と記す日興にとって、富木日常師の一尊四士と漫荼羅の本堂奉安はむしろ蓮師の意に沿い、また我が意を得たりとの思いで好意的に見ていたのかも知れませんね。

636天蓋真鏡:2006/11/06(月) 22:01:32
■賛同ありがとうございます。 ■授戒=成仏にならないなら、教学(体系)的意味で「戒壇」の要素を含んでも良いのでは、と思い考えます。完全完璧では無いので、個人の成長次第で其れぞれの三法門が完成するのではと断言したいです。個人の成仏と仏国土の現出を想うなら、漫荼羅だけで無くて、社会の環境を鑑み戒壇堂等諸設備を建立するのは当然と言えば当然でしょう。

637天蓋真鏡:2006/12/06(水) 14:42:12
補足・戒壇は個人一人ひとりに対して、戒壇堂は出家僧に対して、の広なり狭なりの意味があるのでは無いですか。とシンプルに支持してます。

638天蓋真鏡:2008/05/04(日) 11:25:00
管理者さん、ありがとうございます。 本尊も曼荼羅も内証を示してるのでは無いでしょうか。

639たけぞう:2008/12/31(水) 17:11:26
犀角独歩さんへ
今年1年間ありがとうこざいました。
以前から読む専門でした。今年こそは発言をと思っていましたがやはり教学レベルが高く、低度の低い発言となってしまわないかと、結局何ら投稿せず読む専門で1年が経過しました。
 創価学会に入り50年がたちました。
実質活動していたのは高校生と大学生の時だけで、それからは組織活動もせず聖教新聞も読まない幽霊会員です。
しかし、御本尊と唱題と御書は好きで、50年間1度も勤行をかかしたことが無いのだけは自慢です。
組織活動から離れた理由、やはり池田名誉会長への生理的嫌悪感でしょうか。
それに学会最高幹部の体質でしょうか。
余りに学生部で活動しすぎたため、かなり高い役職になり、最高幹部と接する機会が多くなり、組織の裏を見たというか、幹部の人間性を疑ったというか。
そして最近にみる、池田名誉会長の勲章集め、へきへきとしています。
ですが、妻は副本部長、私の兄弟も妻の兄弟も全員学会人、姪や甥も学会人、孫まで家にきて「ナンミョーーー」ですから、事あらたげたくないということだけで、学会に所属しています。
 日蓮非本仏論、これは私なりに御書を読み、本因妙抄、百六箇抄に唐突に出てくる久遠元初という概念、法華経、御書には出てこないのに、なんで六巻抄を擁護するような考え方が出てくるのだろうと思い、自分なりに偽書と決めつけていましたので、掲示板を読み意を強くしました。
そして、創価教学がおかしいのは六巻抄のせいだというのが私なりの持論でしたので、六巻抄ログも抵抗なく読めました。
驚いたのは、本尊と曼荼羅です。
50年間なんの疑いもなく、本尊 = 曼荼羅 でしたが、最初は何を問題にしているのだろうでした。
途中から意図するところが分かり、また最初から読み始めました。
学会の解説本がいかにいい加減なものか、実に思い知らされました。
犀角独歩さんも、学会と法華講、組織活動していたわけですから、本尊 = 曼荼羅 が当たり前のように思われていたと思います。
そこに疑問を持つという着眼点に驚いてしましいます。
 日蓮非本仏論、これはかなり以前から私の持説でしたが、こうして掲示板で第三者から理詰めで来ますと、やはりカルチャーショックはあり、それでは本仏はと問われて、、口ごもってしまいます。
まだ教学の範囲内ですと頭の中で整理出来ますか、一度御本尊の前に座ると、釈迦、久遠実成の釈迦というのがピンとこず、やはり日蓮聖人を感じてしまいます。
日蓮が墨に染めながして云々、そうだよな、「信」だよな。
それがいつわらざる心境です。
 5年程前、私事で大きな問題にぶつかり、一生分の題目を唱えました。
声をからし、泣きながら、もう乞食信心と言われてもいい、何しろ助けてくれという気持ちで唱題をしていました。
そして、日蓮聖人の足下にひれふして泣きながら助けを求めている自分がいました。
その問題も唱題で乗り越え、今日に至っております。
そうした体験をふまえ、南無妙法蓮華経に南無するという言葉が私としてはピッタリときます。
教学でなく、実際の信仰からいくと、そうとらえるしかないと私も思います。
確かに、日蓮非本仏論です。しかし、本仏の前に日蓮聖人の存在は偉大すぎます。
 本尊≠曼荼羅 かもしれません。
教学的には私も自分なりに研鑽したいと思います。
しかし、50年間 「 本尊 = 曼荼羅 」 で唱題してきたし、現在も唱題しているので、信仰上はやはり曼荼羅を御本尊様とみて唱題していくと思います。
 現役を引退し隠居生活に入り、ここ数年晩年の過ごし方を試行錯誤してきました。
仕事だけの人生でした。自分の人生でやり残したのは何か、真剣に考えた結論が信仰でした。
新しい気持ちでと座談会にも出席しました。
しかし、心を満たしてくれはしません。そして結論として出た答えは御書の研鑽でした。
自分が学んだことを学会人に話しても通じません。
やはり私も、独歩のようです。
私も努力いたします。どうか、私が皆さんと一緒に対話出来るまで、この掲示板存続させてください。
 この1年間有り難うこざいました。
来年は良いお年でありますように。
駄文で失礼いたしました。

640犀角独歩:2008/12/31(水) 20:40:57

たけぞうさん

ご丁寧なご挨拶、畏れ入ります。
大晦日で、ばたばたしております。
改めてご挨拶申し上げる所存です。
有り難うございます。

641幻論乙坊:2009/01/01(木) 19:39:13
諸賢
破顔一笑
明けましておめでとう御座います。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。

本年よりHMをしゅんかん→幻論乙坊に変更致しました。

643問答迷人:2009/01/01(木) 21:37:46

たけぞうさん

>南無妙法蓮華経に南無するという言葉が私としてはピッタリときます。

蓮祖がそう教えている箇所が有るのでしようか。「南無妙法蓮華経に南無」とは仰っておられないと思いますが・・・

蓮祖が教えられたのは、「法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えよ」では無かったですか。
或いは、「曼陀羅を信じて南無妙法蓮華経と唱えよ」

本来は、妙法蓮華経の五字が上行菩薩が久遠釈尊から付属を受けた正体ですから、その『妙法蓮華経の五字に南無する』というのが教えの筋道でしょうが、
南無する、というのは『命を捧げ尽くす』という意義ですから、良く凡夫の為し得ることでは有りませんので、蓮祖は末代幼稚の為に曼陀羅を表し、授与して、『この曼陀羅を深く信じて南無妙法蓮華経と唱えよ。そうすれば、妙法蓮華経の五字に南無したのと同じ功徳が得られるのだ。」と教えられたと僕は拝しています。

末代凡夫の我々が妙法蓮華経の五字に南無することが容易に出来るのなら、曼陀羅を授与する必要性は無かったのではないかと思います。

如何お考えになられますか。

644たけぞう:2009/01/02(金) 14:03:09
問答迷人さんへ
>>南無妙法蓮華経に南無するという言葉が私としてはピッタリときます。
>如何お考えになられますか。
私が投稿したのは、犀角独歩さんへ感謝の念を示したいだけでことで、議論する気持ちはありませんので、返信はお控えください。
私は50年信じてきた創価教学をいま洗濯し始めたばかりで、私の考えは現在構築中で発言する段階にはありません。
南無妙法蓮華経への南無は、私の考えでなく、書き投稿に共鳴を受けて書いただけで、深い意味はありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
152 名前: 独歩 投稿日: 2001/10/19(金) 15:38
妙法蓮華経に南無するというより、聖人御立の南無妙法蓮華経の南無しているのです。
ですから、経典における瑕疵については、その可能性を視野に入れたところで、私の信仰は揺らぎません。

645たけぞう:2009/01/02(金) 14:05:22
× 書き投稿
○ 下記投稿

646問答迷人:2009/01/02(金) 14:15:30

たけぞうさん

>私が投稿したのは、犀角独歩さんへ感謝の念を示したいだけでことで、議論する気持ちはありませんので、返信はお控えください。

了解いたしました。

647ドラ:2009/02/13(金) 09:11:10
すみません。ちょっと教えて下さい。
日寛上人筆 享保九年六月日の曼荼羅ですが、
これは現在、どこに所蔵されているのでしょうか。
http://lovestube.com/up/src/up5644.jpg
どなたか、ご存じの方はよろしくお願いします。

648ドラ:2009/02/14(土) 08:55:54
すみません。消えてしまいましたね。
こちらが新たなアップロード先です。
http://sakuratan.ddo.jp/uploader/source/date104608.jpg
よろしくお願いします。

649スポットファイア:2009/02/15(日) 22:34:54
あの曼荼羅は日正寺所蔵だと思います。

日寛師の曼荼羅は全国に多数あると考えられますが、何故首題が白く塗りつぶされて
いるのでしょうか?

650ドラ:2009/02/17(火) 06:28:50
スポットファイアさん、日正寺ですか。
ありがとうございます。

実は写真は下のページから拝借したものです。
http://sudati.studio-web.net/nisehonzon1.html
最初から主題がマスクされていました。

651大縫 薫:2009/02/19(木) 21:04:12
学会携帯曼陀羅は会員の必須アイテムみたいに扱われていますが、それに
付随する収納ケースが多種多様あるのには驚かされました。

因みに入院先の病院の看護師が首から同様の物を掛けていたのが印象的です。
http://www.sokei-net.com/omamori.html

652ドラ:2009/03/01(日) 08:24:56
またよろしくお願いします。

開眼供養に関してなのですが、最近の学会などは開眼供養は必要ない、
正宗は開眼供養は必要であると言っていますが、
そういう問題とは別に、この本尊は開眼されている、されてない、というのは
見て分かるものなのですか? 前々から素朴な疑問でありまして。

654管理者:2009/03/01(日) 09:15:26

ドラさん

この件は既に議論がされています。以下のスレッドをご覧下さい。

「本尊の開眼は誰が行うのか」スレッドです。



http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/kaigen.htm

655問答迷人:2009/03/01(日) 11:26:16

ドラさん

結局、ダルマに目を入れて開眼、という具合に外見に変化があれば誰が見ても判りますが、曼陀羅の開眼供養では、外見上、何の変化も無いわけですから、誰が見ても判らない、という事だと。

656顕正居士:2009/03/01(日) 13:42:38
>>652
>この本尊は開眼されている、されてない、というのは見て分かるものなのですか?

開眼されていない本尊というものはありません。それは単なる仏像、仏画、曼荼羅です。
寺院、家庭、個人が自分の礼拝対象として安置してはじめて本尊になります。
本尊は必ず誰かの本尊です。この際、通常は入仏式を行います。開眼供養ともいいます。
ですが必ずしも坊さんにやって貰わなくても、自分の本尊として安置し何らかの礼拝を
行えばそれが入仏になります。
仏像、仏画、お札などの礼拝物を作製した後、「魂入れ」を行うことはあります。しかし、
これはまだ誰の礼拝対象にもなっていないので、入仏(開眼)とはまた違うものです。

657ドラ:2009/03/02(月) 08:50:04
管理者様

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/kaigen.htm
たいへん、勉強になりました。

問答迷人さん

> 結局、ダルマに目を入れて開眼、という具合に外見に変化があれば誰が見ても判りますが、

そうなんですよ。第三者の目には分かりませんからね。だから、裏書きに、開眼済みは
小さくチェックマークを入れるとかフォーマットでもあるのかなと思って質問した次第です。

顕正居士さん

>開眼されていない本尊というものはありません。それは単なる仏像、仏画、曼荼羅です。
>寺院、家庭、個人が自分の礼拝対象として安置してはじめて本尊になります。

いや、おっしゃる通りです。本尊というのは礼拝対象として作成されるわけですからね。
ただ、質問するさいには詳しく書きませんでしたが、どの時点で本尊になるの
かも知りたいわけなんですよ。 石山の言葉では明確に本尊になる時点を言い
切ってますよね。つまり、丑寅勤行の際に猊下が開眼供養をした時点で本尊に
なると。ということは、逆に言えば、それまでは本尊ではないということにな
ります。

じゃあ、開眼済みか開眼済みでないかは、どこで見分けるのか。
学会あたりは、昭和の草創期に大量に配布された御本尊は、法道院で印刷され
て、猊下の開眼をうけることなく、日本中の末寺に配布されていった。と言っ
てるわけです。もちろん、大石寺は否定してますが。

結局、第三者の目にわかる形になってない以上、、開眼してある、してないと
いう議論は水掛け論ですな。
「してある」ということも証明できなければ、「してない」という事も証明できない。

658顕正居士:2009/03/03(火) 16:51:30
>どの時点で本尊になるのか
入仏式を行った時点、すなわちなんらかの礼拝を行った時点です。

>開眼済みか開眼済みでないかは、どこで見分けるのか。
礼拝対象として安置されているかどうかです。

見れば判ります。安置してあるのは本尊、幾つも曼荼羅を持っていても
しまってあるのは本尊ではなく、単なる曼荼羅です。

659ヨシヨシ:2009/07/22(水) 19:31:58
曼荼羅を板へ彫刻して漆で塗りその上から金箔を押す、初めて見た方々は荘厳に見えることでしょうね。
仮に奈良の大仏も綺麗に見えると思います。
それを、金集めにする日蓮正宗、また人の可能性を否定して都合悪くなると
(信心で受け止めるんだよ)と言い、寛曼荼羅に祈れば福が来るというのは暴言ですね。

660問答迷人:2009/07/22(水) 20:12:41

>それを、金集めにする日蓮正宗、

日顕師は明確に本門戒壇板曼陀羅が偽物である事を知っていたにも拘らず、内拝と称する御開扉を止めず、御供養と称して御開扉料を取り続け、あまつさえ、河辺メモが世間に出てしまって、戒壇板本尊が偽物だという事がばれてしまったのにも拘らず、河辺メモの中身を煙に巻くような稚拙な弁解で否定し、逃げ切ろうとしています。このような不誠実な行為は信徒を根底から欺くものであり、許し難い卑劣な蛮行と言わざるを得ません。この事だけは声を大にして明確にしておきたいと思います。

>人の可能性を否定して都合悪くなると(信心で受け止めるんだよ)と言い、

これは具体的には何が有ったのでしょうか、差し支えなければお教え下さい。

>寛曼荼羅に祈れば福が来るというのは暴言ですね。

寛曼荼羅というのは、日寛師書写の紙幅曼陀羅のことでしょうか。

661ヨシヨシ:2009/07/22(水) 21:01:53
問答迷人 こんばんは。

>人の可能性を否定して都合悪くなると(信心で受け止めるんだよ)と言い、

これは具体的には何が有ったのでしょうか、差し支えなければお教え下さい。

私の身体の痺れが非常に強いために精神疾患はないんですが、一時精神安定剤
を飲んでいた時期があり飲むことによって痺れを軽減できたのです。
その時に私の所属する幹部に事の真相(病いの事)を話した所、’(君は少し落ち着け)
などと言われ(そうじゃない)と私が反論すると(信心で受け止めなさい)
と言われ、何かこれは違うと感じ色々調べた結果二箇相承が偽書ということに
ぶつかり、脱会する事になりました。


>寛曼荼羅というのは、日寛師書写の紙幅曼陀羅のことでしょうか。

仰る通りです
享保5年脇書きの無い紙幅曼荼羅です。

662問答迷人:2009/07/22(水) 21:25:21

その幹部の方は、恐らく医学に暗く、自分のしている信仰にも暗い人なんだと思います。

安定剤は、余程強いものでない限り、副作用は少なく、習慣性も無く、無難な薬剤だと思います。
病は信心で受け止めるべきものではなく、医者に掛かって治療すべきものだと思います。勿論、医者を選ぶ必要が有りますね、特に手術は職人仕事ですから、腕の良医者を選ぶべきです。信心の眼で良い医者を選ぶべきだ、と指導するなら分かりますが、信心で受け止めよ、とは意味不明ですね。

戸田さんも、「幾ら祈っても、炊飯器にスイッチが入っていなければご飯は炊けない」と指導していましたね。何でもかんでも信心、では現実に直面している人を納得させる事は不可能ですね。

なお、寛師曼陀羅が悪いとは僕は思いません。現に僕は今も日顕師を激しく非難しながらも、日顕師書写の紙幅曼陀羅を仏壇に掛けて、日々勤行・唱題しています。どの曼陀羅にせよ、日蓮聖人の曼陀羅を基本にしたものであれば、何も問題はない、と考えています。

>二箇相承が偽書

よく気が付かれましたね。僕も同意です。日蓮正宗が他の日蓮宗各派に対して優位に立てための、虚仮脅しの道具だと考えています。

663ヨシヨシ:2009/07/22(水) 21:34:29
問答迷人さん

>なお、寛師曼陀羅が悪いとは僕は思いません。現に僕は今も日顕師を激しく非難しながらも、日顕師書写の紙幅曼陀羅を仏壇に掛けて、日々勤行・唱題しています。どの曼陀羅にせよ、日蓮聖人の曼陀羅を基本にしたものであれば、何も問題はない、と考えています。


そうでしたか。
私は、寛師の本尊は学会へ返還しましたが幸いにコピーしたものがあり一体掛け軸に貼り
所有しています。現在では聖人が亡くなられるときに掛けられていた曼荼羅(鎌倉 妙本寺所蔵)
を掛けています。
私もまだまだ、題目を卒業できていません。
しかし、以前よりは減りました。
昔ならば毎日やらないと罪悪感は出てしまいやっていましたが現在は調子がいい
時にしかやらなくなりました。

664問答迷人:2009/07/22(水) 23:06:00

ヨシヨシさん

>私もまだまだ、題目を卒業できていません。

僕は、富士門流に日蓮聖人の教えが伝わっていると堅く信じていました。しかし、二箇相承もウソ、百六箇抄も本因妙抄も他門の後世の作り物、戒壇板本尊も偽物、唯授一人の血脈相承もウソ、お肉牙もマガイモノ・・・調べれば調べるほど大石寺門流の嘘八百にほとほと嫌気が差しました。

それでも日蓮聖人が僕は人間として好きです。これはどうしようもない。好きなものは好きとしか言いようが無いわけです。それで、残された人生、日蓮聖人が見た世界を追体験しようと心に決めたわけです。

日蓮聖人の教えは、突き詰めるところ、曼陀羅信仰に尽きる、と思っています。日蓮曼陀羅を信仰して、どんな世界が見えるか、とことん極めてみようと思っています。

唱題は多くは無いですが、一日一時間と決めて、毎朝唱えています。これは、僕の道楽の様な物かも知れません。誰にも勧めていません。勿論、寺院参詣をやめた段階で、家族は誰一人、勤行・唱題をしなくなりました。これは当たり前だと思います。一日一時間唱題する僕を、どんな眼で見てるのかな、と時々思いますが、まぁ、親父の道楽、ぐらいに正当に評価してるんだと思っています。

665ヨシヨシ:2009/07/23(木) 08:49:47
問答迷人
おはようございます。

私も日蓮聖人の生き様と言いますか悪については一歩も引かないという強い意志
持たれていた方のように思えます。
私も子供が二人おり、長男は高校1年、次男は中学2年です。
いつも一緒に勤行・唱題しておりましたが最近は私はやりませんが子供たちは
一生懸命によくやっています。
たまに、題目をしている姿を見て涙することがあります。
お子様も信じていらっしゃるんではないでしょうか。
私も一時は一生懸命やりましたが身体の状態が酷くなるので控えるようにしています。
ですが一説で聖祖は曼荼羅本尊に題目をしていなかったというお話を聞いた事が
あります。ご存知ですか?

666ヨシヨシ:2009/07/23(木) 09:02:45
訂正


問答迷人さん
おはようございます

が正解です。
さん が抜けており大変に失礼しました。
申し訳ありません。

667問答迷人:2009/07/23(木) 09:15:06

ヨシヨシさん

>一説で聖祖は曼荼羅本尊に題目をしていなかったというお話を聞いた事があります。ご存知ですか?

日蓮聖人はお題目を唱える事は、ご臨終の時までずっと続けられたものと考えています。曼陀羅は、日蓮聖人が体得されたところの「一大秘法」の具体化表現ですから、一大秘法を体得されている日蓮聖人には曼陀羅は必要ではなかったと思っています。ただ、弟子檀那と一緒にお題目を唱える場合は、曼陀羅に向かわれたのではないかと考えています。

668問答迷人:2009/07/23(木) 11:52:09

「本門の本尊」と「紙幅曼陀羅」について

日蓮聖人は「本門の本尊」という法門を説きました。「本門の本尊」が一番詳しく説かれているのが、「観心本尊抄」という事になろうかと思います。

『其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり。是くの如き本尊は在世五十余年に之無し、八年の間但八品に限る。正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗並びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。』(大石寺版御書全集)

669問答迷人:2009/07/23(木) 12:20:56

ここで、『末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。』とあるのは、未来において「本門の戒壇」を建立して、その時に、この「本門の本尊」たる『妙法蓮華経の五字と釈迦多宝等の諸仏菩薩等の仏像群』を出現させるべきと考えておられたと思います。

それでは曼陀羅は何か、紙幅曼陀羅は、戒壇が建立されて本門の本尊が出現するまでの間は、紙幅曼陀羅を以って「本門の本尊」とする、とのお考えであったろうと思います。つまりは紙幅曼陀羅を仏壇に掛けて信仰の対象とすれば、その曼陀羅は意味としては「本門の本尊」に相当すると考えて良いと思います。

670ヨシヨシ:2009/07/23(木) 12:56:25
問答迷人さん

本門の本尊とは、我々が拝している曼荼羅を指しますね。
つまり化儀においての本尊という解釈でよろしいのでしょうか?
または、釈尊の分身仏として捉えていけばいいのでしょうか?
先ほどは、大変失礼致しました。

671問答迷人:2009/07/23(木) 14:11:27

ヨシヨシさん

>本門の本尊とは、我々が拝している曼荼羅を指しますね。

いえ、そうではなくて、本門の戒壇が建立された時に出現させるべき「妙法蓮華経の五字と仏像群」を「本門の本尊」と日蓮聖人は述べています。
本門の戒壇が建立されるまでは、仏壇に曼陀羅を掛けて「本門の本尊」の意義を表す、と言った意味合いであろうと思います。曼陀羅が直ちに「本門の本尊」であると考えるのは、少し拡大解釈になってしまうのではと思います。

>化儀においての本尊という解釈でよろしいのでしょうか?

「本門の本尊」については、「三つの法門」と述べられていますので、「化儀」と捉える事は違うのではないかと思います。

>釈尊の分身仏

釈尊の分身は十方分身諸仏であり、曼陀羅の意味は、そうではないと思います。

「本門の本尊」は「本門の釈尊」であり、「久遠の釈尊像」と捉えるのが自然だと思っていますが、この点は、諸賢のご意見を僕も承りたい所です。

672ヨシヨシ:2009/07/23(木) 16:14:11
問答迷人さん

>「妙法蓮華経の五字と仏像群」を「本門の本尊」と日蓮聖人は述べています。
聖祖は既に文永8年に曼荼羅を顕していますがここで上文の意味なるかと思っています。

、>「三つの法門」
とは三大秘法のことでしょうか?

674問答迷人:2009/07/23(木) 16:43:27

ヨシヨシさん

>聖祖は既に文永8年に曼荼羅を顕していますがここで上文の意味なるかと思っています。

所謂「楊枝御本尊」ですね。この曼陀羅を出発点として、次々と諸尊が書き加えられ、所謂日蓮曼陀羅の形が出来上がっていったものと思われます。この曼陀羅には仏像群は無く、観心本尊抄の形に日蓮聖人の表現が固まってゆくには、まだ少し時間が必要だったのだと思います。

>「三つの法門」とは三大秘法のことでしょうか?

日蓮聖人の真跡遺文には、一大秘法という表現は有るものの、三大秘法という表現は有りません。「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」これらを、「三つの法門」と述べられています。

675ヨシヨシ:2009/07/23(木) 17:40:09
問答迷人さん

先程は失礼致しました。
やはり、真筆を使わなければ駄目ですね。

676問答迷人:2009/07/23(木) 18:07:34

ヨシヨシさん

先ほどは有難うございました。

>やはり、真筆を使わなければ駄目ですね。

七百年の歳月の中で、各宗派とも、独自の教学を組み立ててきたのだと思います。日蓮聖人その人に迫ろうとするなら、幸いにして真跡遺文が、大切に保管されてきていますので、それを基準にして、日蓮聖人の考えを直接探るのが確実な方法論だと思っています。

三大秘法という使い方を日蓮聖人がされていないのには、やはりそれなりの理由が有っての事だと思われます。有りの儘に、主観や宗派の教学を交えることなく真跡遺文を拝読する時、そこから見えてくる世界が有ると思います。そして、それは、各宗派で定説となっている事を覆すような内容の場合もありますが、ただひたすらに遺文のままに考える事が大切なんだと思っています。この真跡主義は犀角独歩さんが教えてくださった方法論です。

677ヨシヨシ:2009/07/23(木) 19:10:38
問答迷人さん

なるほどですね。
さすがは独歩さんですね。
先覚者と言わなければなりません。
一大秘法、三大秘法、六大秘法と何故二つも余計に定義を作ったのか?
謎ですね。
一大秘法=南無妙法蓮華経 三大秘法=本門の戒壇、本門の題目、本門の本尊
六大秘法=事と義の戒壇 信と行の題目 人と法の本尊
謎ですね。

678ヨシヨシ:2009/07/23(木) 19:13:29
問答迷人さん

では、六大秘法は更に謎ですね。
一大秘法だけで充分と言う事ですね。
どうでしょうか?
平成新修日蓮遺文集は今現在どこで出版していますか?

679問答迷人:2009/07/23(木) 19:55:08

ヨシヨシさん

>一大秘法だけで充分と言う事ですね。

そういう事ではないと思います。一大秘法は日蓮聖人が体得された秘法であり、それが法華経神力品で釈尊が上行菩薩に付属された秘法「妙法蓮華経の五字」なんだと日蓮聖人は言うわけです。

しかし、一大秘法は日蓮聖人だけが体得した秘法ですから、他の誰にもその中身は分からないわけです。そこで、日蓮聖人はその一大秘法を観心本尊抄において、「本門の本尊」として表現され、又、曼陀羅として書き現された訳です。日蓮聖人にしか分からない一大秘法が本門の本尊として表現された事により、一大秘法が万人に開かれた法門となったわけです。

>平成新修日蓮遺文集は今現在どこで出版していますか?

既に絶版の様で、入荷不可とされていますね。たまにネットオークションで見かけますが・・・。

680ヨシヨシ:2009/07/24(金) 10:34:58
問答迷人さん

一大秘法を聖祖は説かれて後の三大秘法の表現は三つの法門を指しているのですね。

681問答迷人:2009/07/24(金) 11:41:40

ヨシヨシさん

日蓮聖人が佐渡流罪を赦免され、身延に入山直後の文永十一年五月二十四日に執筆された法華取要抄(真跡在中山法華経寺)に次のようにお示しです。

『問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。』

同じく法華取要抄の末文には次のように述べられています。

『是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。』

「三大秘法」と言う表現は無く、あくまでも「三つの法門」ですね。

682ヨシヨシ:2009/07/24(金) 15:54:41
問答迷人さん

仰る通りです。
三大秘法という言葉はいつ頃から言われるようになったのでしょうか?

683問答迷人:2009/07/24(金) 16:17:53

ヨシヨシさん

>三大秘法という言葉はいつ頃から

調べてみます。少し時間をください。恐らくは日有上人以降かと。

684ヨシヨシ:2009/07/24(金) 17:59:05
問答迷人さん

了解しました。

685hage:2009/07/24(金) 20:28:52
富士派以外でも、例えば私のところでも、

本門の本尊、本門の戒壇、
本門事行、八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経(本門の題目)

とお唱えしますよ。

686問答迷人:2009/07/24(金) 20:59:16

hageさん

おうかがいします。八品派では『三大秘法』と言う言い回しは有るのでしょうか、それとも『三つの法門』ですか?

687hage:2009/07/24(金) 23:16:09
問答迷人さん

八品派でも『三大秘法』と言う言い回しはあるようです。
私は詳しくないのですが、八品派の中でも「三大秘法」の解釈が分かれています。
佛立宗系の御本尊には『三箇秘法之中一大秘法』とありまして
三大秘法は本門の題目の一大秘法の中にあるもの、即ち本門の題目を離れて
本門の本尊も本門の戒壇もないので、本門の題目の中にこそ、その本尊も戒壇も
具わっているというのが『三箇秘法之中一大秘法』ということであるそうです。

しかし、八品派の佛立宗系以外では「三秘総在」といいまして、
本門の本尊の中にも三秘が具わり、本門の戒壇の中にも三秘が具わり、
本門の題目の中にも三秘が具わるところの一箇の大法即ち
上行所伝の南無妙法蓮華経であり、
門祖日隆聖人は
「本門三大秘法惣在の本門の本尊の南無妙法蓮華経」と仰せで、
本門の題目とは仰せでなかったようです。

688問答迷人:2009/07/26(日) 18:46:22

ヨシヨシさん

三大秘法の言い回しの件、とりあえずの検討結果をご報告します。


【富士宗学要集にみる「三大秘法」という成句の年代検討】

01 要法寺日辰師1560年の写本「上行所伝三大秘法口訣」(富要1-045)

02 大石寺31世日因師1757年の著作「有師物語聴聞抄佳跡」(富要1-185)

03 妙本寺日我師1545年の著作「化儀秘決(私記)」(富要1-273)

04 妙本寺日我師1545年の述作「年中行事」(富要1-327) 

05 日順師の記録とされる「本因妙口決」(富要2-069)

三大秘法抄の引用有り。内容は本因妙抄と重なる。三大秘法抄には日時師1397年写本、本因妙抄には日時師1391年写本がある。恐らくは、日時師辺りの時代に、日順師に仮託して作成されたものであろうと思われる。

06 西山8世日眼師(生年不生-1486年)述「日眼御談」(富要2-131) 1560年の写本

07 左京日教(日叶)師1428年の著作。「百五十箇条」(富要2-169)

08 左京日教(日叶)師1488年の著作。「類聚翰集私」(富要2-303)

09 大石寺26世日寛師(1665-1726年)「六巻抄」(富要3-069)

10 大石寺26世日寛師(1665-1726年)「寛記雑々 蓮祖義立の八相」(富要3-240)

以上の検討で、恐らくは三大秘法の名は1400年頃、三大秘法抄の出現により、門下全般に定着したものと思われます。

富士宗学要集第一巻から三巻までの検討結果。四巻以降の検討によって新たに知見が得られた場合は、追加報告いたします。

689ヨシヨシ:2009/07/26(日) 19:35:14
問答迷人さん

先程は失礼致しました。
これだけの文があるということは三大秘法は定着するはずですね。
しかし真蹟から見た場合で論じていかなければなりませんね。

>「三大秘法」と言う表現は無く、あくまでも「三つの法門」ですね。
こちらがやはり大切ですね。

690問答迷人:2009/07/26(日) 19:50:01

hage さん

>門祖日隆聖人は「本門三大秘法惣在の本門の本尊の南無妙法蓮華経」と仰せで、

日隆上人の門流独立は、1429年との事ですので、その日隆上人が「三大秘法」の成句を使われている事は、上記の「1400年頃」という検討結果と矛盾しない事が確認できました。有難うございます。

691れん:2009/07/26(日) 20:52:53
横レス失礼します。

三大秘法抄に就きましては、管見の史料によりますと、応永十八年(西暦1411年)成立の日陣師“授戒之作法”に「蓮祖大聖人作文、三大秘法抄並十重禁抄…」(十重禁抄とは本門戒体抄のこと)とあり、三大秘法抄は西暦1411年以前の成立であることは間違いないですね。話題に挙がった日隆師所持本(応永頃の書写とされる)の三大秘法抄には、「此御抄大不審也」(典拠、日本思想大系 日蓮)とあり、日隆師は本抄に不審感を感じていたものと見えます。

いずれにせよ、三大秘法の成句は三大秘法抄をその初めとし、三大秘法抄は西暦1400年代初頭に宗祖門下各門流に伝播していたことは上記の史料で明らかですね。日興門流の文献では本門三法門の呼称の初見は大夫日尊師の弟子日印師の“遣日代師状”(西暦1344年)に「大聖人三ケ大事」、日代師の“葦名阿闍梨御房御返事”(西暦1344年)に同じく「三ケ大事」とあるのが最も早いでしょう。日時師のものとされる石山の三大秘法抄と本因妙抄は、近年の研究で、筆跡から日時師筆は否定されているので、石山での三大秘法の語彙の初見は左京日教師の各著述といえるものと愚考します。

693問答迷人:2009/07/26(日) 21:12:59

れんさん

有難うございます。

>日時師のものとされる石山の三大秘法抄と本因妙抄は、近年の研究で、筆跡から日時師筆は否定されている

そうなんですか。そうすると、大石寺への「三大秘法」語句の初見は、又しても、左京日教師なんですね。ご賢察を御教授いただき、誠に有難うございました。

逆に言うと、この「三大秘法」語が含まれる「義浄坊御書」は偽作の疑いが極めて高いと言うことになりますね。

694れん:2009/07/26(日) 21:53:30
問答名人さん

宗祖ご自身は、問答名人さんがすでに御指摘されました通り「本門三法門」と書かれており、日興門流では、上代日興師直弟子門下の世代では「三ケ大事」の呼称が用いられ、西暦1400年代初頭に三大秘法抄が宗祖門下各門流に伝播して以降、日興門下各門流においても左京日教師の活躍年代である西暦1400年代後半辺りを初見として「三箇秘法」「三大秘法」の呼称が定着していく時系列であるという感触ですね。


となると、仰るところの義浄房御書は、ご指摘のように「三大秘法」の語彙を使用していますから、“三大秘法抄”の影響下で、応永以降に作成された可能性も出てくるので、無批判には宗祖著述の御書としては受容出来ない、少なくとも、学術的には御真蹟の現存する御書、興師・法師等の宗祖直弟子の写本の残る御書よりも、信用度はかなり落ちる部類の御書であることは確かですね。

695独学徒:2009/07/26(日) 21:54:24
れんさんに続き、横レスにて失礼します。

「三大秘法」の成句自体は、岡宮光長寺に古写本を蔵する日弁上人の申状に「法華本門三大秘法を弘め」(日蓮宗宗学全書第1巻89頁)と出てきますね。

同じく日宗全第1巻には、日弁記と伝わる「円極實義抄下」が掲載されここにも「三大秘法」(73頁)の成句が登場します。

もしかしたら「三大秘法」の成句は、天目・日弁の系統から出たのではと思えます。

696問答迷人:2009/07/26(日) 22:21:44

れんさん

>義浄房御書・・・信用度はかなり落ちる部類の御書

やはりそういう結論になりますね。有難うございました。


独学徒さん

日弁上人の申状、並びに円極實義抄下の、それぞれの推定年代はどのようでしょうか。

697独学徒:2009/07/26(日) 22:53:06

問答迷人さん、

日弁上人の申状は、1,293年(永仁元年五月十六日)となっています。
円極實義抄下は年代不定ですが、概ね1300年代との推論もあれば、執行師のように写本奥書の文明8年(1476年)に日弁に仮託して偽作されたものとの見解もあるようです。
興風談所は資料システムの記述からは、一応「円極實義抄下」の内容から、1300年代成立を支持しているように思われます。

698れん:2009/07/27(月) 08:52:43
独学徒さん

「三大秘法」の成句の使用例に日弁師の申状がありましたね。ただ、日蓮宗宗学全書第二巻に、参考文献として“直授日弁”として、上行所伝三大秘法口訣と同内容の八品派の相伝書が載ります。ですので、八品派の相伝に絡んで、この日弁師の申状に“三大秘法”の成句が、後代に加筆された可能性も否定出来ないので、私としては“三大秘法”の成句の初見として日弁師の申状を挙げるのには、やや躊躇するものがあります。

699天蓋真鏡:2009/08/09(日) 10:51:40
問答迷人さん諸賢の方々の意見は 三つの法門は 本仏釈尊の内証足る本門の本尊、国師の戒律を承る本門の戒壇、法華経行者日蓮が会得した本門の題目で良いのですか

700問答迷人:2009/08/09(日) 13:55:53

天蓋真鏡 さん

三つの法門については、日蓮聖人が諸御書にお示しです。

文永十一年の法華取要抄には次のようにお示しです。
「問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。・・・中略・・・ 是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に疑ひ無き者か。」

又、翌年、文永十二年の曽谷入道殿許御書には次のようにお示しです。
「大覚世尊寿量品を演説し、然して後に十神力を示現して四大菩薩に付嘱したまふ。其の所属の法は何物ぞや。法華経の中にも広を捨てヽ略を取り、略を捨てヽ要を取る。所謂妙法蓮華経の五字、名体宗用教の五重玄なり。」
「此の四大菩薩は・・・中略・・・但此の一大秘法を持して本処に隠居するの後、仏の滅後、正像二千年の間に於て未だ一度も出現せず。所詮仏専ら末世の時に限って此等の大士に付嘱せし故なり。」


これらの御書を要約すれば次のようだと思います。

◎ 釈尊が四菩薩に付属した法は「妙法蓮華経の五字・一大秘法」である。
◎ 末法に四菩薩が出現して「本門の本尊と戒壇と題目の五字」の「本門の三つの法門」を建立して、それによって妙法蓮華経の広宣流布は間違いないのである。

つまりは、『釈尊から一大秘法の付属を受けた四菩薩が「本門の三つの法門」たる「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」を建立して妙法蓮華経を広宣流布する。』という大枠は定まっています。その大枠の中で、三つの法門のそれぞれの意味・意義を捉える必要があると思います。僕は、「一大秘法を具体化した『本門の本尊』」「本門の本尊を安置した戒壇堂たる『本門の戒壇』」「本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える『本門の題目』」と捉えています。

701天蓋真鏡:2009/08/12(水) 12:36:07
レスありがとうございます。 問答迷人さんは 本尊戒壇題目の並べ方等で貴方の解釈が日蓮の意思と同じと考えますか? 漫荼羅は三つの法門の具現化への前提だと解釈しますか? 自分は釈尊像漫荼羅経典蔵と殿堂を建立するよりは個人の修行と三国四師を勉強するのに個人一人ひとりが漫荼羅を所持する事と勉強会を催す事が21世紀には良いと思います。 問答迷人さんや他の方々はどれだけお考えでしょうか。

702問答迷人:2009/08/14(金) 11:33:07

天蓋真鏡さん

>本尊戒壇題目の並べ方

文永十一年の「法華行者値難事」『本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」
文永十一年の「法華取要抄」『本門の本尊と戒壇と題目の五字』
建治二年の「報恩抄」『一つには・・中略・・本門の教主釈尊を本尊とすべし。二つには本門の戒壇。三つには・・中略・・南無妙法蓮華経と唱ふべし。』

並べ方は、以上の真跡遺文が何れも「本尊→戒壇→題目」となっていますから、この順序で日蓮聖人のお考えと合っていると思います。

>貴方の解釈が日蓮の意思と同じと

はい、そのように考えています。

>漫荼羅は三つの法門の具現化への前提だと解釈しますか?

はい。三つの法門を説きながら、実際に後世に残したのは、曼陀羅と題目です。曼陀羅は三つの法門の具体化の第一歩で有ったと思います。

>自分は釈尊像漫荼羅経典蔵と殿堂を建立するよりは個人の修行と三国四師を勉強するのに個人一人ひとりが漫荼羅を所持する事と勉強会を催す事が21世紀には良いと思います。

「本門の本尊」の造立と「本門の戒壇堂」の建設は、日蓮聖人の目指したところだと考えています。但し、それが、今日に通用するかどうかは難しい所ですね。真跡遺文を見る限りにおいては、日蓮聖人は「本門の戒壇」について、詳しく述べられていない事から、聖人のお考えは不明と言うしか有りません。僕はこの点については敢えて考えは今のところ持っていません。白紙です。

703天蓋真鏡:2009/08/16(日) 06:51:44
問答迷人さん、解り易い挙証ありがとうございます。鎌倉時代の法華経行者・日蓮は東大寺延暦寺に続く本門の基軸を建立しようと民を諭し公を導こうと尽力したのは調べれば調べるほど確実な事は此の掲示板で折りに触れ明かされてきた事でしょう。 21世紀は仏像か掛軸か経典どれかに拘らず、 妙法蓮華の心を一人ひとりが理解し得るのか、 表現出来るのかが、 宗教の存否を決めるのでは無いかと想像しました。

704天蓋真鏡:2009/12/06(日) 12:06:03
問答迷人さん、自分は 一大秘法は要で本仏釈尊から伝わる南無妙法蓮華経で、三つの法門は三つの解釈だと思います。 本尊は南無を付けて尊敬。戒壇は行者自ら戒める意。題目は法華経出典で流布して我も彼も唱えるキーワード。 漫荼羅は法華経の伝播と継承の説明に使用する図式。

705問答迷人:2009/12/06(日) 19:38:37

天蓋真鏡さん

>一大秘法は要で本仏釈尊から伝わる南無妙法蓮華経

そのように日蓮聖人は捉えておられたと存じます。

>三つの法門は三つの解釈だと思います。

一大秘法の解釈であり、具体化であると存じます。

どのように具体化されたか、三つの法門のそれぞれについて検討すると、

本尊については、観心本尊抄に「本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。」と述べられています。妙法蓮華経の五字を中心として諸尊が立ち並ぶ本尊を日蓮聖人はお考えになっておられたと存じます。

戒壇については、日蓮聖人は具体的にはお示しでは有りませんが、妙法蓮華経の五字の曼陀羅を中心にして諸尊の仏像を配した本尊を安置する戒壇堂の建立を目指して居られたのではないかと考えています。

題目については、諸御書に於いて、一大秘法・妙法蓮華経の五字への帰命を誓い、南無妙法蓮華経と口に唱える事を具体的にご教示なされています。

706天蓋真鏡:2009/12/07(月) 15:23:27
レスありがとうございます。 いくつか追加質問させて頂きます。 本尊に掲げる漫荼羅の諸仏に廬遮那仏阿弥陀仏大日如来薬師如来は図示もしくは彫像されるのか。戒壇堂はやはり富士山の麓なのか。 自分としては彫像は難儀かなと。 釈尊立像と文字漫荼羅と経典巻を戒壇堂や各地寺院に奉戴する事が良いかなと思います。 戒壇は五重塔中心か戒壇堂中心か大伽藍形式か。もっと細かに言うなら 聖人国師と天皇主上、 戒壇と御所を並べて建てた方が良いのか。

707問答迷人:2009/12/07(月) 17:29:31

天蓋真鏡さん

>本尊に掲げる漫荼羅の諸仏に廬遮那仏阿弥陀仏大日如来薬師如来は図示もしくは彫像されるのか。

御本尊集を見ると色々な諸尊勧請の形式が見られます。例外的に書かれる事は有っても、本尊抄に「十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。」と有りますので、虚空にいらっしゃらずに大地に処されている訳ですから、基本的には図示或いは造立される対象とはならないのではないのか、と思います。

>戒壇

戒壇について日蓮聖人が論及された真跡遺文が存在しませんので、お答えする事は僕の力の及ぶところでは有りません。折角ご質問いただきましたが御免なさい。

708天蓋真鏡:2009/12/09(水) 14:09:09
問答迷人さん、レスありがとうございます。 自分も勉強不足で質問が雑でごめんなさい。

709問答迷人:2009/12/10(木) 09:49:40

天蓋真鏡さん

>勉強不足で質問が雑

いえいえ、そうは思いません。諸説が入り乱れていますので、どれが日蓮聖人の御本意なのか計りかねる所です。

一つ、僕が今考えている仮説を書き込ませていただきます。ご叱正戴ければ幸いです。

『一大秘法三法門について』

一大秘法が「妙法蓮華経の五字」で有ることは真跡に述べられていることですから明らかであると思います。(曽谷入道許御書)

この一大秘法・妙法蓮華経の五字を図顕されたのが本門の本尊。
この一大秘法・妙法蓮華経の五字を奉安し奉るのが本門の戒壇。
この一大秘法・妙法蓮華経の五字を口唱し奉るのが本門の本尊。

こう考えると、一大秘法・妙法蓮華経の五字』の具体化が三法門であり、三法門と言っても一大秘法がその正体であり、一大秘法の他に三法門が有るわけではない、そういう関係として整理出来るのではないかと考えています。

710天蓋真鏡:2009/12/10(木) 15:16:50
問答迷人さん、ありがとうございます。 では、とどのつまりは「鎌倉時代の僧・日蓮がどこまで考えて書いたのか」に尽きます。 自分は法門は解釈で、 問答迷人さんが考える一大秘法の具体的な用い方には踏み込んでません。自分は信の表現から 問答迷人さんは義の表現から申し述べたのかもしれません。 自分は結果論で言うなら問答迷人さんの考え方に賛成です。法華経の行者を自認する日蓮は其の様に組み立て説明するとシンプルに思います。


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