わたしにとって、本尊であるとか、信仰対象であるとか、そんなものは、もはやどうでもよく、単なる構成要素分析の材に過ぎません。わたしにとって、仏道は、その本来の意義である実践修行と精進、苦の克服と平安の境地に至ることに目的があります。その意味において、日蓮は(顕正居士さんが神仏習合、神本仏迹で再構築されたという)日本化された仏教という創作世界の住人であったにせよ、その生き様を見据えはするものの、その限りであり、では、 Buddha といえ、決して超人でも、SFのように夢想された絶対者でもなく、我ら修行の祖である目覚めた者、苦を克服した者であるという範囲で考えています。