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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

100犀角独歩:2002/10/20(日) 00:03

99 問答名人さん:

なるほど。さすがに鋭い。久しぶりに鳥肌が立ちました。
2年近く、共に考えさせていただいた弘安二年本尊と御遷化記録の流れが、ここに見られるというわけですね、この洞察力には敬服します。

では、弘安二年漫荼羅は戒壇漫荼羅ではなかったという前提において、このお考えに賛同します。

第一回オフ会で出た、興師・目師不仲説も思い出しました。これは、もう少し拡大して言えば興師門・目師門不仲説と言えば、より闡明になりますね。

石山で植えられた固定観念を引きはがして見直すと、富士門正史は実に言われてきたことと真っ向から違っていますね。

弥四郎国重が漫荼羅の対告衆ではなく、彫造者であると謎が解けたところから転がるように色々なことが見えるようになりました。

七師外道さんの書き込みがこの裏付けを大いに力付けてくれました。

101犀角独歩:2002/10/20(日) 00:21

重ねて問答名人さん:

一点だけ、お尋ねします。
「二千二百三十余年」は順師(興師門)・道師(目師門)、共通のキーワードですね。
弘安二年漫荼羅と、どのように会通してお考えになりますか。

102問答迷人:2002/10/20(日) 08:04

独歩さん

僕も昨夜来、そのことを考えておりました。

安国会の御本尊集で見ると、弘安二年についても、弘安三年についても、二十余年と、三十余年がそれぞれ存在します。

ただ、この御本尊集で見る限り、どちらの年も、二十余年と、三十余年の曼陀羅は御図顕の時期がかたまっており、バラバラに二十余年と、三十余年と認められたわけではないことが知れます。弘安二年については、二月に一幅、二十余年の曼陀羅が有りますが、あとは、九月までの全ての曼陀羅は三十余年と認められています。そして、十月、十一月については、二十余年と認められており、日興上人に与えられた曼陀羅が十月の御図顕で有れば、二十余年と認められていた可能性が否定できません。むしろ、二十余年と認められていたと考える方が自然で有るようにも思えます。また、例の、日禅授与本尊ですが、同様の推測で考えると、同じく二十余年と認められているものと思われます。この本尊が北山本門寺において、盗まれた弘安二年の本尊の身代わりとされた経緯からも、同じく、二十余年と認められていたから、という推測も成り立ちます。

さて、それで、あと残された問題は、

>「二千二百三十余年」は順師(興師門)・道師(目師門)、共通のキーワード

という点ですが、これについては、今のところ、適切な会通は出来ていません。

103犀角独歩:2002/10/20(日) 08:15

102 問答名人さん:

有り難うございます。

> 二千二百三十余年…今のところ、適切な会通は出来ていません

結局、この会通は、亨師もできなかったことなのでしょうね。

104三学無縁:2002/10/22(火) 18:45
なんだか大変なことになっているようですね。
七師外道さまの指摘された富士宗学要集講義録というのは初めて知りました。
堀上人が富士宗学要集の講義をされていたことはなにかの記述で読んだおぼえがありましたが、講義録のようなものがあったとは・・・。

これまでの論議を整理すると以下のようになりますでしょうか。(但し順不同です)

1.弘安二年の大御本尊については、そうであると考えられるものが三通りほどあり、どれかひとつに確定することは現段階では難しい。
2.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、仏滅年代表記からしても、相伝書に基く本尊ではない。
3.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊の直接の依拠となる真筆ご遺文はない。
4.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊について日蓮直弟が記した書面はない。
5.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、河辺メモの記述にある「日禅授与本尊」をベースにした可能性が大きい。
6.「日禅授与本尊」は北山厳護の本尊を剥離したものである。
7.日蓮が直接筆を執った紙本は北山にあり、剥離した下の紙本は法道院から大石寺に納められた。
8.熱原法難を大石寺は、本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊建立の契機であるというが、堀上人の記述などから、その説には無理がある。
9.熱原三烈士の名前についても大石寺の伝承は誤伝されてきた。
10.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、身延時代はもちろん身延離山後も紙幅であった可能性が高い。
11.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊が板に造立されたのは、日蓮死後50年から150年を経過してからと考えられる。
12.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、元は相貌だけが日蓮によって書かれた紙幅であり、表装もされていなかった。
13.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、元は日蓮自筆の紙幅に日興上人が年号を書き加えたものである。
14.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、日蓮自筆の紙幅に日興上人が年号を書き加えたものに、さらに後世の誰かが「本門戒壇…弥四郎国重…」を後加したものである。
15.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、半丸太の本尊部分と台座でできている。
16.後世の誰かが「本門戒壇…弥四郎国重…」を後加した部分は、本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊の台座部分にある。
17.後世の誰かが後加した「本門戒壇…弥四郎国重…」の部分には、金箔は施されていない。
18.元の紙幅については重須で盗難にあった。
19.日興上人による年記は、熱原法難追福もしくは記念の為のものである可能性が高い。
20.仏紀については後世の後加部分の記述であり、後加した者は、本尊相伝を知らなかったことになる。
21.条条事については、真筆といわれる写真があるるものの、正本か草本かは明確ではない。
22.条条事の本文は、石山系の出版物ごとに異同が多く、正本本文の確定はできていない。
23.条条事は、不自然な削損が数箇所ある。
24.条条事は、堀上人の校定によるものでも異同があり、淳師、松本佐一郎氏らの記す本文とも異なっている。
25.本門戒壇の大御本尊と称されるところの、現奉安堂安置の本尊は、正本堂から遷座されたというが、新たに化粧直しが施されたかのようである。
26.化粧直しには、漆の塗り替え、金箔の塗り替えなどが行われる為、相当の期間を要する。

まだまだ列記しなければならないでしょうが、疲れましたのでこのくらいにしておきます。

あ、あと身代わり本尊の他にも、「戒壇本尊正写本尊」というのもありますね。
これまで戒壇本尊というのは不可侵のものとされてきたという話でしたが、これは嘘ですね。
歴代で「戒壇本尊正写本尊」をものしたかたがいますね。
一幅は大阪の旧蓮華寺にあります。
あと何幅か現存しています。
これは堀上人による紫宸殿本尊の写真拡大とは比較にならないくらいの謗法ということにならないのでしょうか。

本日は所用のため、これで失礼しますが、条条事の比較については後日pdfファイルを用意させていただきます。

105犀角独歩:2002/10/22(火) 23:07

三学無縁さん:

有り難うございます。
“表面”上は、ほぼ整理されたように思えます。

いずれにしても板は、日蓮の筆ではなく彫造である。
この点は、動かし難い事実ですね。

そしてまた、「戒壇本尊正写本尊」という在家に隠される動かし難い事実。
身替本尊も含め、板、紙幅共に複数の…あえて、レプリカというのはやめますが…臨刻、臨写があるということ。

そして、さらに“裏面”にある問題もあるでしょう。しかし、いちおう、このスレッドのテーマは尽くされたことになるでしょうか。

それにしても、戒壇の漫荼羅肯定論者の方々から、まったく声が挙がりませんね。

106犀角独歩:2002/10/22(火) 23:13

↑と言っても、私も少し前まではこの肯定論者の一人でした。
 いまは、その反省を籠めて事実に正直であろうと思っています。

107トゴシ:2002/10/28(月) 17:43
突然、お邪魔します。ここのサイトを友人に紹介されてみたんですが、弥四郎国重が戒壇の大ご本尊様を造った人であるって、なんかものすごいことを書いていませんか。
そうしたら、今まで言われてきたことがみんなひっくり返っちゃうわけですよね。
ここって、とんでもないこと書いていませんか。

108五月雨:2002/10/28(月) 21:54

トゴシさん、初めまして

>そうしたら、今まで言われてきたことがみんなひっくり返っちゃうわけですよね。
ここって、とんでもないこと書いていませんか。

ここのサイトってホントにとんでもないことばかり、書かれていますよ(笑)
とんでもないことを言われても、全てに文証が備わっているので異論を挟むどころか、大いに納得してしまいます。元々に教わってきたことは全てが欺瞞に満ち溢れていることは、いまの宗門の姿が物語っていますよね。
「真実に正直であれ」この言葉が唯一日蓮聖人の教えに結び付いていくのです。トゴシさんも戸惑っておられるようですが、真実を正直に見てみませんか。

109犀角独歩:2002/10/29(火) 08:11

107 トゴシさん:

はじめまして。

そのように新たな疑問を抱かれていくところに前進がありますね。

110ワラシナ:2002/10/29(火) 18:06
no84 七師外道さん こんばんわ

>以上、堀日亨上人、富士宗学要集講義でのご発言。 、、に関して。

*「堀日亨上人の富士宗学要集講義が与えた影響」

0、私の印象ですが、終戦直後から行われたらしい同上人の御講義を受講された当時の青年教師の方々には大きな意味を持っていたと想像する。

1、なぜなら、その中のお二人、久保川法章氏、手塚寛道氏は、最終的には石山離脱ですから。お二人とも戒壇板御本尊には冷めた考えを持っている様だ。

2、石山離脱など除名でもされれば別だが普通の信者では考えられないことである。普通の教団信心では戒壇の御本尊様絶対を叩き込まれる教育を受けるわけで、御僧侶などはもっとだろうし、御本尊教義情報などでは信者とは比較にならないほど恵まれているにも拘らず、、だからである。
「戒壇の御本尊様絶対」の「絶対」とは,それ一点に心が縛り付けられていることをいうから、石山離脱できた、ということは、当たり前のことだが、お二人はもはや「戒壇の御本尊様絶対」の信仰には立てなくなっていたのであろう。

3、久保川氏の雑誌が手に入らないので、手塚氏の雑誌「あんらか」を毎月めくってみているが、現代文明の中で宗祖日蓮大聖人の仏法をよみがえらせるために御講などやっているくらいであるから御書の拝読が載ってはいるが当然のことながら「大石寺」「戒壇の御本尊」「法主」「御登山」の単語など一切出てこない。中古天台学の解説をしている関係で「血脈」は出てくるが、大石寺のそれを語るためではない。

111三学無縁:2002/11/04(月) 21:57
素朴な疑問をひとつ。

日蓮さんが亡くなった時に、枕元に曼荼羅が掲げられたといいます。
この曼荼羅はどのような曼荼羅だったでしょう。
一般的には、朗師だか昭師だかのところから急ぎもって来た曼荼羅で、いわゆる臨滅度時本尊というものだとされています。
ということは、日蓮さんは、身延から出かけたときに、曼荼羅を持っていなかったということでしょうか。
そうすると、身延から池上までの道中は、曼荼羅ではなく、随身仏に向かって読経唱題していたということになりましょうか。
しかも、石山では、当時、すでに板曼荼羅はあった、というのですが、あの大きな板曼荼羅は池上鶴林のときにはどこにあったというのでしょうか。
日蓮さんが出かけた後の身延に置きっ放しにして、いたのでしょうか。
弟子達は日蓮さんの訃報を知らされて、やはり置きっ放しにして、池上にかけつけたのでしょうか。
だとしたら、その時に、板曼荼羅を身延で守っていたのはなんと言う弟子だったのでしょうか。
そもそも、一閻浮提総与という、しかも本門戒壇に安置する大切な本尊を、日蓮さんはほったらかしにして、湯治に出かけた、ということになります。

1.日蓮さんは曼荼羅を持たずに池上まできた。
2.道中の勤行は一体仏に向かっておこなった。

つまり、弟子や信徒は曼荼羅に向かって勤行していたが、日蓮さんは違っていたということになりますね。

3.板曼荼羅は身延に置き去りだった。
4.置き去りの板曼荼羅を守っていたのは誰だかわからない。

もしかしたら、大切な板曼荼羅ですから、池上まで、日蓮さんは持ってきたかもしれませんが、だとしたら、なぜ枕元に置かなかったのでしょうか。

御遷化記録だか御遺物配分帳に、板曼荼羅の記録がないのも不思議ですね。

独歩さん、問答さん、いかが御考えでしょうか、御教示いただけたらと思います。

112犀角独歩:2002/11/05(火) 00:50

> 111 三学無縁さん:

この答えは言わずと知れています。
要するに身延には戒壇之本尊と言われるものは紙幅であれ、板であれ、存在していなかったということですね。少なくとも、その存在を示す資料・文献も、史実も何一つないと言うことです。
私も三学無縁さんのお考えに同様です。

113問答迷人:2002/11/05(火) 18:50

> 111 三学無縁さん

しかも、石山では、当時、すでに板曼荼羅はあった、という

この石山の説を否定すれば、つまり、日蓮聖人が亡くなられたときには、まだ板曼陀羅はなかったと考えれば、三学無縁さんがご指摘になられたような様々な疑問点は全て解消されます。つまり、それは、石山の説に無理があるということを強く示唆していますね。なお、僕は、戒壇板本尊は、紙幅の形でも、その当時は出来上がっていなかったと考えています。

114トゴシ:2002/11/05(火) 21:09

108の五月雨さん

お返事、遅くなりました。
ほんとにすごいこと書いてありますよ。
正直に見てみます。ありがとございます。

115五月雨:2002/11/05(火) 21:53

トゴシさん

本当にすごい事だらけの掲示板ですから、少し頭がふらつく恐れがあるかも(笑)しれないですが、ご一緒に真実を見てまいりましょうね。
今後ともよろしくお願いします。

116匿名で失礼:2002/11/06(水) 18:32
板本尊と相伝書、どちらが先に作られたんでしょうか。
板本尊作成の動機がよくわからないので、その経緯などをお教えください。

117問答迷人:2002/11/06(水) 19:02

匿名で失礼さん 初めまして

板本尊について述べている文書、日興跡条条事は、北山の日浄記によれば、大石寺第九世の日有上人が偽作したとされています。日興跡条条事は、内容的に、二箇相承の唯授一人血脈相承を前提にして初めて、意味を持ちますので、二箇相承が北山で先に作られ、それを受けて、戒壇板本尊が作られたと思われます。

118問答迷人:2002/11/06(水) 19:58

つづきです。

北山で、日禅授与本尊が、戒壇本尊として位置づけられ、重要視されていたことを受けて、大石寺にも、戒壇本尊が必要であるとして、対抗するために作られたのではないかと思っています。

なお、116で、匿名で失礼さんは、「相伝書」と書かれていましたが、117では、二箇相承の意味として扱わせていただきました。

119ほほう:2003/01/05(日) 14:18
とすると創価学会の模刻は謗法との根拠は無くなるわけですか?どちらにしろ当時の聖教に件の板本尊に向かって日達氏とかが法要した記事がありますから氏が許可を失念していたという創価学会側の主張もアナガチ嘘とは言えない訳ですな。

120名無しさん@おなかいっぱい:2003/01/05(日) 19:29
>>119
飛躍しすぎ。
 模刻本尊は事後承諾だろ。
 「こんな物は金庫にでもしまっておけ!」発言は有名。
 ちなみに破棄された模刻本尊、本山の使われていない施設の中に置いてあるソーダ。

121ひみつくん:2003/01/05(日) 21:20
模刻本尊には「池田大作」という本人自著のサインが掘り込んでるのだ。
これが問題なのら。
保管されているのは御宝蔵という発表だね、大石寺的には。

122そうかくずれ:2003/01/05(日) 23:02
南無妙法蓮華経が本尊ってことだとおもうけどね。
誰が書こうが関係ないように思う。
預言者的な扱いで、大聖人を本仏とする石山は、釈迦滅後2000年ってのが
何年であるか調べたほうがいいんじゃないか?

123犀角独歩:2003/01/05(日) 23:13

本尊模刻が謗法かどうかという議論に参加する気はありませんが、達師を怒らせたのは、開眼供養を池田さんが自分でやってしまったことでしょう。このような事例は他にもあって、学会最初の墓園、高尾墓園での春季・秋季の合同慰霊祭の導師を、坊さんを呼ばずに池田さんが自分でやってしまった。開眼供養、法要導師、この坊さんの仕事を池田さんが代わりにやってしまったことに、石山各位は腹を立てたのではないでしょうかね。

まあ、いまやっている友人葬というものの、原型を、もう30年以上も前にやってのけ、更に漫荼羅をも刻したうえ、開眼供養をやってのけた。なかなかの猛者ですね。

なお、模刻漫荼羅は八体、事後承諾か、事前承諾かということが言われていますが、私は昭和50年代後半、信濃町の銀舞会館に副会長指導を受けに行ったとき、そこに安置されてあった漫荼羅本尊は、正本堂建立後、一定役職者以上に下付された達師の「特別御形木本尊」の板、黒漆・文字金箔に仕上げられたものでした。しかし、これはついに学会からも、石山からも取り沙汰されることはなかったですね。取り沙汰されることすらなかったわけですから、これは事後報告どころか、未承諾板本尊の見本みたいなものであったことになります。

なお、上に記されている池田さんの自筆サインを板本尊に彫り込んだものは、私は写真で見た記憶があります。まあ、よくやるよ、という感想を述べるしかありません。

124犀角独歩:2003/01/05(日) 23:27

> 122

もっともなご意見であろうかと存じます。

125ほほう:2003/01/06(月) 01:25
しかし、皆さんの偽作論が事実とするなら事後であろうと根拠はなくなる。どころか、直後で会館で自分達で法要したあとに意義を唱える石山は集団ボケかということになる。まあ、みなさんの主張を見れば、石山は案外確信犯だったのではないか、とさえ思える。逆に戸田・池田両会長は堀氏から話を聞いて実は知っていた故の確信犯ともとれる。ならば日寛本尊を世界中に流布しても差し支えない事にもなるか?池田書写本尊なぞを予言する向きもあるが、学会がわざわざ自ら大量脱会材料を作ることは考えられない。むしろ、本尊不要論に走るであろう。

126ほほう:2003/01/06(月) 02:59
別に池田氏が自分の名前をあとから彫り入れようと弥四郎国重の話し聞いたら、全然問題無いじゃないですか。といってもみなさんの説が戒檀本尊成立の真相で事実だったらですよ?学会員にとってどうかは判りません。本尊が偽作と確定されたら、さーてさてさて、どうなるか?私なら原法華が滅後五百年に成立した釈尊出世の本懐・戒檀本尊も滅後ン年に完成した蓮祖出世の本懐。天台止観は弟子章安作の出世の本壊。とこじつけますがね。

127犀角独歩:2003/01/06(月) 10:16

> 125

確かにそのとおりでしょうね。

> 126

これはちょっと、違います。
蓮祖は自分の漫荼羅が印刷(形木)されたり、まして板に彫られるなど複製することを前提にしていなかったであろうし、また、重須資料からすれば興師は複製、彫刻を厳禁していたと見られる。となれば、そもそも戒壇之漫荼羅なるものが造立することも、石山が板漫荼羅を造ることも形木漫荼羅を作ることも、学会が模刻することも、寛師の複製を作ることも、すべて蓮興二師の意図からずれていると言ってきたのです。

そして、「さーてさてさて」と書かれたあとのことは、議論は進行形にあるということです。

128ほほう:2003/01/12(日) 00:43
では、日蓮は自分の書いたマンダラは後世どうあるべきと思っていたのだろう?一尊四士等の仏像形か?有相仏像は貴方達は否定していた筈だ。では?

129犀角独歩:2003/01/12(日) 08:07

仏像を誰が否定していたと?

130波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/12(日) 23:08
初期の富士門流で造仏が否定的だったか疑問。

祖師像も作ってるし目師が彫った鬼子母神像もあるよ。

131波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒):2003/01/13(月) 19:50
岡山の興風談所で出してい興師の御本尊集はおもしろいそうじゃないか。

132ほほう:2003/01/25(土) 22:53
是非教えて下さい。
あと、目師の鬼子母神についても。詳しく。
造仏否定していないのなら、精師に関する創価学会と妙観講の議論は無意味になりますな。
色相荘厳対凡夫の構図も崩れますかな?

133管理者:2003/06/25(水) 12:52

勝手ながら、「大聖人のお墓(ご遺骨)はどこにある?」スレッドの170レス以下をこのスレッドに引っ越しします。よろしくお願いいたします。

134管理者:2003/06/25(水) 12:53

170 名前: ガンコ 投稿日: 2003/06/20(金) 13:40


nb さん はじめまして、顕正会のガンコと申します。いつも資料を活用させていただいております。(感謝)

ちょっと関連質問をさせていただきます。
平成新編日蓮大聖人御書の巻末年表には「弘安2年 … 10・12 本門戒壇の大御本尊を造立す」とあって、これにはけっこう驚いたものでした。すでにこの掲示板でも戒壇の大御本尊様については繰り返し議論されてきて、わたくしのようなものには意見が錯綜してわけがわからなくなっているのですが、この平成新編の年表では最初から板に顕されたと読めるように思うのです。つまり、通常は造立ではなく御図顕と申し上げているのではなかったかと思うのです。
nb さんの上の書き込みよりすると、まさしく十月十二日に造立された、あるいは少なくとも身延期にはすでに板本尊になっていた、とのお考えでしょうか?
ちなみに顕正会では恐れ多いという理由からでしょうか、あまりこうした突っ込んだ内容はまず語られることはありません。


171 名前: k 投稿日: 2003/06/21(土) 19:03

私は大ご本尊はこの世に残される前に大聖人は亡くなったと思いますね。
蒙古が日本占領を果たしていたら身延で作られたとは思いますが、、。

熱原法難程度のことで大ご本尊を残すのであれば、それ以前に
大きな法難を大聖人はいくども受けていたのだから、それこそ
そういうときに大ご本尊を残していてもおかしくないでしょう。

板本尊などは、日興上人が本尊を板に刻むなどとは言語道断と
いっている。

私は題目をあげることで成仏できると思っていますよ。

大聖人の信仰の究極はお題目です。

135管理者:2003/06/25(水) 12:54

172 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 15:31

はじめまして、戒壇本尊は大聖人が残されたものでしょう。熱原以前の法難は、すべて大聖人ご自身が受けられた法難でしたが、熱原法難は興師をはじめとする弟子の戦いによって弟子が受けた法難で、それまでの法難とは根本的に質が違います。死しても信仰を退転せずに貫いた熱原三烈士の姿に、蓮祖は滅後末法の逆縁世界における立正安国の確立を観られて、その指標として戒壇本尊を造立されたものと拝察できます。
あと申し遅れましたか私は学会に所属しているものです。今後とも宜しくお願いいたします。


173 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 15:54

あと、日興上人が門徒存知事でいましめられたのは、板本尊造立そのものではなく、形木本尊=印刷本尊配布についてです。
弘安元年に係る本尊問答抄(興師写本・北山本門寺蔵)には「末代悪世の凡夫は(中略)法華経の題目をもって本尊とすべし」「仏は所生・法華経は能生なり」「全く能生をもって本尊とすべし」とありますが、これ等も単に題目を本尊とするという意味では無く、蓮祖が久成如来霊山隠居の滅後末法における本門下種の教主の上行菩薩の自覚に立って図顕造立された曼陀羅本尊を滅後末法の本尊に選定された事を表しているのでしょう。


174 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 16:18

その曼陀羅本尊があらわしているのは、釈尊の因行果徳のニ法=釈尊久遠本因本果の法門=事の一念三千を具足した妙法蓮華経の五字を受持することにより釈尊の因果の功徳を自然譲与され能所(日蓮大聖人とその弟子檀越)同体の即身成仏を遂げられた蓮祖の己証そのものでしょう。ですから、蓮祖の所化である弟子檀越の皆が目指すべき境地もまた蓮祖自筆の事の一念三千の曼陀羅本尊に表されていると拝するべきだと思います。

136管理者:2003/06/25(水) 12:55

175 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/22(日) 18:14


れん さん

>死しても信仰を退転せずに貫いた熱原三烈士の姿に

三烈士が処刑されたのは何時のことで、戒壇本尊を認められたとされているのは、何時のことだとお考えでしょうか。
創価学会では、れんさんの仰る趣旨の説明をしてきましたが、三烈士が処刑されたのは、翌年の四月八日であると考えるのが適切であろうと思われます。弘安二年十月の段階で、三烈士の処刑を予測したというのは、いかにも神憑り的に過ぎると思います。理由は、後年、処刑から十四年経った四月八日に、平左右衛門の一族が謀反の罪で処刑されて、一族が絶えた事を見られて、日興上人が三烈士の命日を追悼のために記念曼陀羅を書写されているからです。

詳しくは、堀上人の「富士日興上人詳伝」の84頁(創価学会で出している分冊文庫本のページ数は判りません)に、「翌年四月、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を斬首し十七人を追放したり。」とありますので、関係文献等、ご覧になられると良いと存じます。

>日興上人が門徒存知事でいましめられたのは、板本尊造立そのものではなく、形木本尊=印刷本尊配布についてです。

この事、何を根拠とされて、そのように断定されるのでしようか。根拠をお示しいただければ幸いです。

今後とも、よろしくお願いいたします。

137管理者:2003/06/25(水) 12:55

176 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 19:07

ご質問にお答えします。戒檀本尊が造立されたのは「右為現当ニ世造立如件、本門戒壇之願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日」との脇書によるならば、弘安ニ年十月十二日でしょう。問答迷人さんは、三烈士の処刑日を弘安三年四月八日とし、その根拠を堀日亨師の詳伝に求めていますが、私はそれに懐疑的です。興風談所の山上弘道師は「日興上人御本尊脇書について」における神四郎追善の興師本尊の脇書の解説において「日亨師は当御本尊の書写年月日と脇書の記述に注目され、『十四年といわれしを、年暦をたどれば弘安三年に当たり、それ


177 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 19:20

が記念曼陀羅書写の日は、かならず当時の命日と見るべきであれば、二十人の御勘気すなわち処分の年月日は、弘安二年十月十五日が一同ひとまず禁獄すなわち入牢で、神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する』と述べられている。傾聴すべき意見ではあるが、四月八日斬首説についてはどうであろうか。仏生日に斬首というのも考えにくく、更に四月八日が十月十三日に次いで本尊書写が多いという点も考慮する必要があろう。むしろ、法難から三十年の記念の年の、平左衛門親子が誅


178 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 19:55

せられた四月の、御本尊書写日(日興上人は十三日・八日を御本尊書写の日とされていたと推定される。『興本』三七ニぺージ参照)に書写されたと見るべきではないだろうか。」と述べ、三烈士の弘安三年四月八日斬首説に疑義を呈されています。私も山上師と同様の理由により、三烈士の処刑日を弘安三年四月八日とする説には同意できません。興師の弟子分帳の「ヒキメを以て散々に射って念仏を申すべきの旨再三之を責るといえども、ニ十人更に以て申さざるの間張本三人を召しきって断罪せしむる所なり。枝葉十七人禁獄せしむといえども終に放たれ畢ぬ」と

138管理者:2003/06/25(水) 12:56

179 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/22(日) 20:02


なるほど。山上師がそのような見解を示して居られることは、傾聴にに価すると思います。それでは、三烈士の処刑日は、何時であったとお考えでしようか。


180 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 20:20

の記述と熱原法難に関係する蓮祖より興師への賜書である「伯耆殿御書」(興写あり、弘安二年九月二十日)・「伯耆殿並諸人御中御書」(真筆一紙現存・同九月二十六日)・「伯耆殿御返事」(興写有り・同十月十二日)・「聖人等御返事」(興写有り・同十月十七日)から読み取れる法難の流れからすると、弘安ニ年九月中に熱原法華衆は鎌倉に召上されたと考えられ、早い時点(十月初め)で三烈士の斬首がおこなわれ、その後残る十七人が禁獄された(それが聖人等御返事にみられる御勘気)と推定されるます。その三烈士斬首の報に接した蓮祖が戒壇本尊を造


181 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/22(日) 20:28


もう一つの質問を補足します。

門徒存知事
一、御筆の本尊を以て形木(かたぎ)に彫(きざ)み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂(いわゆる)日向・日頂・日春等なり。
  日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵(きず)を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝(かたじけな)くも書写し奉り之を授与する者なり。

なぜ、印刷がいけないと言われているのか、これがあまり問題にされてきていないと思います。真言密教の曼陀羅では、梵字は、最初にア点を認め、それから梵字を認める訳で、ア点を彫刻してしまっては、梵字の功徳は無くなり、ましてや印刷してしまっては、形だけのまがい物になってしまうわけです。

この指摘は、当、富士門掲示板の過去ログ 「続 大石寺問題提起」スレッドの22レス以下で、無徳民さんが詳しく述べられたところです。

門徒存知事では、直接的には印刷本尊の否定をされているように読めますが、曼陀羅の本義から考えると、曼陀羅を彫刻する事も当然否定されるべき事であり、日興上人が本尊彫刻は認めていたという事にはならないと思います。如何でしょうか。

139管理者:2003/06/25(水) 12:57

182 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 20:39

立されたと考えられます。ですから興師の弟子分帳の文章の流れから勘考すれは、三烈士の処刑は戒壇本尊造立日(弘安二年十月十二日)以前、日にちは記録が残ってないので断定は出来ないが、十月初めのことと私自身は拝察しています。
次に興師の門徒存知事におけるいましめが、板本尊造立では無く印刷本尊であるとの根拠ですが、その根拠は柳沢宏道師著「石山本尊の研究」の一文にあります。お手数ですが手元にありませんでしたらご自分で取り寄せてお読み下さい。板本尊造立については、富士門に於いても上代において日尊師が行なっておりますし、保


183 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 20:54

田妙本寺に於いても南北朝期に蓮祖の御本尊や郷師書写の本尊を板に模刻にしています。石山末寺に於いても、蓮行寺には大石寺八世日影師の代に蓮祖の御本尊を模刻した板本尊があります。また、目を転じて、他門でも、民部日向師が正安年間に板本尊を造立しています。このように、興師の門下にも板本尊造立の史実がある以上、興師は板本尊造立そのものについては否定されなかったと見るべきでしょう。


184 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/22(日) 21:23


熱原の法難と日興上人への御本尊授与

大石寺第四世日道師の三師御伝土代の日興上人御伝草案に次のような記述があります。

「日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云、日秀日弁は市庭滝泉寺を擯出せられ給ふ。」(富士宗学要集第五巻八頁)

この記述は、山上師の説を裏付ける資料となっています。真相は、このようであったかも知れませんね。半年後の処刑説は、やはり、少し無理があるのかも知れません。また、れんさんの「弘安ニ年九月中に熱原法華衆は鎌倉に召上されたと考えられ、早い時点(十月初め)で三烈士の斬首がおこなわれ、その後残る十七人が禁獄された(それが聖人等御返事にみられる御勘気)と推定されるます。」との推測、大変示唆に富んでいますね。この点については、僕は四月処刑説に拘らないことに致します。

所で、この御伝土代の記述に依れば、「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」と有りますので、曼陀羅を認められて、そこに「日興上人」と認められたとされているわけですが、この本尊が戒壇板本尊なら、戒壇板本尊に「日興上人」の四文字が認められているはずですが、そのような記述は戒壇板本尊には見られないようです。この点、如何お考えでしょうか。

140管理者:2003/06/25(水) 12:58

185 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 21:37

最後に問答迷人さんの質問の補足についてお答えします。問答迷人さんは、曼陀羅の本義から考えると印刷本尊のみならず曼陀羅を板に彫刻することも否定されるべきであり、興師が本尊の彫刻は認めていた事にはならないと思うと述べています。だが、蓮祖の曼陀羅の本義は釈尊の因行果徳のニ法を具足した上行所伝の妙法五字の受持による釈尊の因果の功徳の自然譲与にある故に、板に御本尊を彫刻したからといって、妙法五字の功徳が無くなるというものではないですよ。ですから私は紙に図顕された本尊も板に彫刻された本尊も同じ様に拝しております。m(__)m


186 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 22:04

問答迷人さんが示された御伝土代の文ですが、前後の文脈を拝した上での私の見解は「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」の御本尊は御書に遊ばすのお筆誤ではなかろうかと思います。御書だとすれば聖人等御返事を指すものと拝せられます。戒壇本尊もほぼ同時期に造立されておりますから、道師の心中には戒壇本尊が蓮祖興師の熱原法難時の能所(所には熱原法華衆も当然入る)一体の信行により建立された事が深く脳裏にあったが故に御書と書くべきを御本尊と書き間違えられた拝察します。又、この御筆誤が戒壇本尊の存在を裏付けていますね。


187 名前: れん 投稿日: 2003/06/22(日) 22:40

なお、江戸期の石山貫首の文献ですが寛師「師弟冥合則事の一念三千なり。その事の一念三千とは即中央の本尊なり」、純師の衣証事記に「境母法身の日興左に居し、智父報身の日蓮右にして境智冥合する時、中央の大曼陀羅なり」とあり、中央の本尊=戒壇本尊は日蓮日興師弟能所一体の信行により成就されたことを示されています。故に戒壇本尊には「日興上人」と無くとも、日蓮日興能所同体の信行により戒壇本尊が詮顕されたこと明白ですから、問題はないと考えます。以上長々と失礼しました。明日仕事ですので、今日の所はこの辺で失礼いたします。m(__)m

141管理者:2003/06/25(水) 12:59

188 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/23(月) 05:41


れん さん

>道師の心中には戒壇本尊が蓮祖興師の熱原法難時の能所(所には熱原法華衆も当然入る)一体の信行により建立された事が深く脳裏にあったが故に御書と書くべきを御本尊と書き間違えられた拝察します。

もしそうだとすると、そのように重要な戒壇本尊の建立については、道師は、却って一切触れられていない事になってしまいます。御書と読めば、一応は辻褄が合うようですが、却って、熱原の法難、事に三烈士の殉教を機縁として曼陀羅を認められたという史実を隠すことになってしまう矛盾を孕んでいますね。この点、如何お考えでしようか。


189 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/23(月) 06:08


もう一点

>だが、蓮祖の曼陀羅の本義は釈尊の因行果徳のニ法を具足した上行所伝の妙法五字の受持による釈尊の因果の功徳の自然譲与にある

これは、曼陀羅の本義ではなく、観心本尊の本義ですね。混同されていませんか?

観心本尊抄には、曼陀羅という言葉は使われていません。蓮祖の妙法曼陀羅は,真言密教の「大曼陀羅」の応用であると思われます。愛染明王、不動明王の二尊は、蓮祖の妙法曼陀羅においては、梵字を持って認められています。この点については、保田に伝えられている、曼陀羅書写の相伝書に次のように有ります。これが直ちに蓮祖の相伝書で有るかどうかは別として、富士門流の上代に於ける曼陀羅観を表していると思われますので引用してみます。

「問て云く至心敬礼し本尊を拝見するに皆以つて漢字なり、何ぞ不動愛染に限つて西天の梵字を用るや、答て云く異説有りと雖も且く一義を述ぶ不動愛染の自躰梵字に於いて利益す可き故に漢字を略して梵字を載せ例せば陀羅尼品咒の如き梵音を聞いて得益す可き故に直ちに梵語を説いて漢語に翻ぜず、之に准じて知る可し云云。」(本尊三度相伝 富士宗学要集第一巻41頁)

ここに「不動愛染の自躰梵字に於いて利益す」と有ります。これは、密教の「法曼陀羅(種子曼陀羅)」の応用ですね。であるならば、ア点を無視した彫刻、形木は蓮祖の曼陀羅を踏みにじる物であろうと思う訳です。


190 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/23(月) 06:19


訂正です。

誤→保田に伝えられている
正→大石寺に写本の有る

富士宗学要宗の編者、堀師は「本山蔵水口日源筆を以つて此を写す」と注記されています。謹んで訂正させていただきます。

142管理者:2003/06/25(水) 13:00

191 名前: 一字三礼 投稿日: 2003/06/23(月) 09:29

横レス失礼します。
れんさん、はじめまして。質問させてください。

173
>久成如来霊山隠居
これはどのような意味でしょうか。

また、その根拠となる経典もしくは真蹟御遺文をお示しください。


192 名前: 愚鈍凡夫 投稿日: 2003/06/23(月) 21:03

れんさん始めまして。

レス読ませて頂きました。
気になったことがあったので、質問させて下さい。
石山の文献で、「戒壇之本尊」が明記されている最も古い文献を教えて下さい。
不思議なことに、蓮祖・日興師の真蹟遺文には明記されていないと思われますが、何故でしょうか。
参考までにお考えを披瀝下さいませんでしょうか。


193 名前: ジャージルーカス 投稿日: 2003/06/24(火) 11:29

れんさん

①「板本尊造立については、富士門に於いても上代において日尊師が行なっており」
②「保田妙本寺に於いても南北朝期に蓮祖の御本尊や郷師書写の本尊を板に模刻にして」
③「石山末寺に於いても、蓮行寺には大石寺八世日影師の代に蓮祖の御本尊を模刻した」
以上3点についての出典を教えてください。

また、れんさんの記述の中の「興本」とは「日興上人御本尊集」の事でしょうか。

143管理者:2003/06/25(水) 13:00

194 名前: れん 投稿日: 2003/06/24(火) 21:14

皆さんはじめまして。先程こちらを覗いてみましたら、沢山の方からのご質問があり、びっくりしました。明日仕事が早出なので、今日は問答迷人さんから呈された疑問にのみお答えさせて戴きます。問答迷人さんのご意見によると、私の解釈だと、却って三烈士の殉教を機縁として曼陀羅を認められた史実を隠すことになってしまう矛盾を孕んでいるとのことですが、私はそうは思いません。
少なくとも、石山門流内では戒壇本尊が熱原法難時の三烈士の殉教を機縁として蓮祖が造立された事は周知の事実であったでしょう。周知の事をわざわざ書く必要があります


195 名前: れん 投稿日: 2003/06/24(火) 21:30

でしょうか?第一、道師の不意の御筆誤により、逆説的に戒壇本尊が興師の御信力により造立された事が理解できるではありませんか。
次に曼陀羅の本義と観心本尊の本義を混同しているとの疑問ですが、観心本尊抄は蓮祖が曼陀羅本尊図顕の教義上の根拠を示したものです。その曼陀羅本尊の中心はお題目と日蓮花押です。これは、上行所伝の題目五字を受持することにより、釈尊の因果の功徳を自然譲与された蓮祖の己証でもある訳です。即ち観心本尊=お題目と日蓮花押と言えます。興師門弟の三位日順師すら蓮祖所図の曼陀羅は蓮祖の己証であると言っていま


196 名前: れん 投稿日: 2003/06/24(火) 21:47

す。私はその意味で上記の様に表現した訳です。問答迷人さんは観心本尊と蓮祖自筆の曼陀羅本尊の中尊の五字とを全く別物とお考えでしょうか?私はそれは違うと思います。理由は今述べた通りです。観心本尊抄には勿論曼陀羅と言う言葉はあらませんが、保田の文永十一年十二月の曼陀羅には蓮祖自ら大本尊と讃文を記しているではありませんか。又蓮祖の真筆断簡が現存する新尼御前御返事にも蓮祖自ら図顕する曼陀羅を御本尊と言われています。この様に、蓮祖自筆の自記により、蓮祖自筆の曼陀羅=観心本尊であることは明白です。
問答迷人さんは蓮祖の妙


197 名前: れん 投稿日: 2003/06/24(火) 22:03

法曼陀羅は真言密教の大曼陀羅の応用と思われると言われます。たしかに、蓮祖の出発点においては、台密僧であったのですから、その取材としてはそうと言えるかもしれません。しかし、その妙法曼陀羅の中心はあくまで蓮祖の己証である釈尊の因果の功徳を具足した上行所伝のお題目であり、これは終生変わりませんね。興師よりの口伝を三位順師が纏めた従開山伝日順法門には「御本尊の事、妙法蓮華経は万法含蔵の故に空なり、十界を顕し玉うは仮なり、しかも一幅の中に具足して闕減なきは中なり。我等が心王は妙法なり空なり、手足等は仮なり色心不ニなる


198 名前: れん 投稿日: 2003/06/24(火) 22:22

は中なり、本尊の境を己心の智を以て一躰不ニと拝見し奉れば境智冥合の即身成仏なり」とあります。この口伝は蓮祖自筆曼陀羅即観心本尊という私の意見の傍証となります。蓮祖の妙法曼陀羅本尊図顕の根拠はあくまで本門事の一念三千=釈尊因行果徳のニ法を具足した上行所伝の妙法五字の受持により釈尊の因果の功徳を自然譲与されたとする蓮祖の観心の成就にあり、その図顕の理由も我等末代の本未有善の荒凡夫の成仏を願われてのものであることは明白です。次に問答迷人さんはア点を無視した彫刻等は蓮祖の曼陀羅を踏み躙ることになるだろうとのことです


199 名前: れん 投稿日: 2003/06/24(火) 22:41

が、蓮祖や蓮祖の直弟子・興師門弟に板本尊造立の史実がある以上蓮祖やその門弟にはたとえ板に本尊を彫刻しても曼陀羅本尊そのものや曼陀羅本尊中の不動愛染の梵字の利益・功徳は損われないと考えておられたことが容易に分かりますね。蓮祖造立と伝える板本尊は戒壇本尊の他にも、小泉久遠寺に一体(典拠日蓮宗の本山めぐり)、山梨の日蓮宗寺院(寺名失念、典拠日蓮宗寺院大観)があります。又、当の真言宗でも中世の板碑をみれば分かりますが石板に梵字を陰刻してますよ。此等の事実を勘合すれは、問答迷人さんのご意見は否定されるべきものと私は考


200 名前: れん 投稿日: 2003/06/24(火) 22:52

えます。以上が問答迷人さんからの質問・疑問に対する私の回答です。なお、一字三礼さん、愚鈍凡夫さん、ジャージルーカスさんよりのご質問に対しては、仕事の都合もありますので明日以降に順次お答えさせて戴きます。御了承下さいm(__)m

訂正、(誤)山梨の日蓮宗寺院→(正)山梨の日蓮宗寺院に一体

144管理者:2003/06/25(水) 13:01

201 名前: 問答迷人 投稿日: 2003/06/24(火) 23:26


れんさん

>少なくとも、石山門流内では戒壇本尊が熱原法難時の三烈士の殉教を機縁として蓮祖が造立された事は周知の事実であったでしょう。

周知の事実であった事を示す証拠が何か有りますでしょうか?

>蓮祖造立と伝える板本尊

これは蓮祖の直筆曼陀羅を後世において板本尊にしたのでは無いのでしょうか?明確に蓮祖彫刻されたと伝えられているのでしようか。又、もし、そうなら、それは何年何月のことでしょうか?

>当の真言宗でも中世の板碑をみれば分かりますが石板に梵字を陰刻してますよ。

梵字を陰刻してはならないとは僕は言っていません。曼陀羅の梵字は彫刻してしまっては意味がないと申し上げているのです。板碑は曼陀羅ではないでしょう。

なお、「曼陀羅」と「御本尊」については、今は論点がずれますので省かせていただきました。


202 名前: ジャンノレン 投稿日: 2003/06/25(水) 09:45

問答名人さま、はじめまして。ジャンノレンです。

この問題についてはすこし当スレッドテーマ「御遺骨は何処」とずれがあるのではないかと思います。
御存知のように既に独歩さんと問答さんの対論があったわけですから、煩雑を避ける意味でそれとは別
なテーマを設けて議論し合うのが適当かと思うのですが、如何でしょうか?
このテーマについては私も少々御質問致したい事もありますので、れん様が了承されるのでしたら
是非とも、新スレッドをお願い致したいものです。


203 名前: 管理者 投稿日: 2003/06/25(水) 12:48


ジャンノレンさん
れんさん
皆さん

ジャンノレンさんの仰るとおり、議論が最もふさわしいと思われるスレッドに引っ越しして戴きたいと存じます。行き先は「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」スレッドとします。よろしくお願いいたします。

145れん:2003/06/25(水) 21:07
「本門戒壇大御本尊様の偽作説」についてですか…。正直言いまして、私は今まで言い古されてきた感のある戒壇本尊偽作説について、今更改めてその議論に加わる気は全く有りません。結論を言えば戒壇本尊の真偽を論じたところで、そこからの議論からではとうてい蓮祖や富士の法門を闡明にすることは出来ませんので…。但し、昨日の時点までに戴いたご質問には、お答えしなければなりませんので、以下お答え致しますm(__)m

146れん:2003/06/25(水) 21:22
問答迷人さんへ。周知の事実であった事を示す証拠ですか…。少なくとも、石山門流内においては、この七百年間、戒壇本尊に対して何ら異論無く伝承されてきた事実が証拠と言えるでしょう。次に蓮祖造立と伝える板本尊の件ですが、それぞれの出典には、小泉久遠寺のものは弘安四年の造立との寺伝を記載しており、山梨某寺のものは、弘安五年に蓮祖より檀越の秋山氏に授与されたものとの寺伝を記載しています。ことの真偽を確かめたければ、ご自分が実地調査されることです。もっとも、板本尊は文字が彫刻されているので、墨の濃薄や筆圧からの筆跡鑑定は

147れん:2003/06/25(水) 21:36
出来ませんが…。次に板碑は曼陀羅ではないでしょうとのことですが、蓮祖興師より少し後ですが、日有師は卒塔婆(板碑)は野原の本尊なりと示されていますよ。問答迷人さんは曼陀羅の梵字は彫刻したら意味が無くなると言われますが、私の手元には蓮祖の真蹟集成や新定御書、富要や歴代法主全書がありますが、曼陀羅の梵字を彫刻したら意味が無いなどと言う仰せは一度も拝したことはありません。それは結局人の意見を聞き齧った上での思い込みに過ぎません。問答迷人さんは密教の教義と相伝の一文に執着して自義を立てますが、そのような人を蓮祖は「暗

148れん:2003/06/25(水) 21:50
者は其の文を守る」と戒められておられますよ。要は戒壇本尊が信じられないとのことなのでしょうか。それでも上行所伝の妙法五字を受持し(受持一念信本因)、不軽品の修行(口唱本果)は出来るでしょう。蓮祖の末弟を自認するならばそこから始められては如何ですか?戒壇本尊を信じられないであろう問答迷人さんに対しても蓮祖は広大なる大慈大悲をもって包まれて居られます。「信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏となるべきなり」(法華初心成仏抄)と。合掌m(__)m

149れん:2003/06/25(水) 22:07
一字三礼さんへ。ご質問の久成如来霊山隠居の意味とは、久遠実成の釈尊の四節三益に漏れた滅後末法の本未有善の我等衆生への下種は本眷属の地涌の菩薩に全てを託し、久遠実成の釈尊自らは滅後末法の裟婆世界に出世なされずに霊山に隠居して、本眷属たる地涌菩薩達の弘経を見守られている…という程の意味です。その根拠となる御書は「教主釈尊多宝十方の諸仏は法華経を以て已今当の諸説に相対して皆是真実と定め然る後世尊は霊山に隠居し…」(曽谷入道殿許御返事・真蹟千葉県法華経寺蔵)

150れん:2003/06/25(水) 22:23
愚鈍凡夫さんへ。石山の文献で戒壇本尊が明記されているのは十四世日主師の「日興跡条々事示書(歴全第一巻四五九ページ)です。また主師撰の譲座本尊示書には戒壇本尊の脇書が書写されているとのことです。戒壇本尊が蓮祖興師の真蹟文献に明記されてない理由ですが、戒壇本尊に限らず、現存する他の御本尊についても触れられた例は殆どありませんね。上代では師弟関係のみにより御本尊は相続されたのであり、御本尊が寺有財産として明記されて伝承されるようになったのは近世に入ってのことです。故に真蹟文献に明記が無いのも頷けられる訳です。

151れん:2003/06/25(水) 22:42
訂正
(誤)寺有財産として明記されて
(正)寺有財産として目録等に明記されて

152れん:2003/06/25(水) 22:58
最後にジャージルーカスさんへ。大夫日尊師造立の板本尊の脇書は富士宗学要集第八巻所収の曼陀羅脇書等に掲載されています。又これに関する有師御談が物語聴聞抄にあります。次に保田妙本寺蔵の板本尊の出典は千葉県史料金石文篇一ならびに千葉県の歴史資料編中世3所収の妙本寺所蔵曼陀羅本尊目録です。日影師代造立の板本尊(所蔵について蓮行寺は信行寺の記憶違いでした)の出典は大黒喜道師編著「日興門流上代事典」です。なお、私の記述の中の興本とはご推察の通り「日興上人御本尊集」です。

153問答迷人:2003/06/25(水) 22:59

れんさん

>私は今まで言い古されてきた感のある戒壇本尊偽作説について、今更改めてその議論に加わる気は全く有りません。

了解です。無理に参加される必要は何ら有りません。

>周知の事実であった事を示す証拠ですか…。少なくとも、石山門流内においては、この七百年間、戒壇本尊に対して何ら異論無く伝承されてきた事実が証拠と言えるでしょう。

全く証拠にも何にもなっていないと思います。「この七百年間、戒壇本尊に対して何ら異論無く伝承されてきた」かどうかが問われているわけですから、頭からそのように決めつけても何ら意味の無いことでしょう。

154れん:2003/06/25(水) 23:11
以上ですが、今年はじめにこちらの存在をしり、時々覗かせて戴いていましたが、皆さんの真摯な議論の内容は、これからの私の信仰活動の参考になりました。こちらで皆さんと思う存分議論したい気持ちが無いわけではありませんが、私は仕事も学会活動も忙しい身の上ですので、やはり、現実生活の方を優先せざるを得ませんので、残念ですがこれにて失礼いたします。問答迷人さんをはじめ皆さんには短い間でしたがお相手をして戴き誠に有難うございました。最後に順逆二縁の皆様の皆悉成仏をご祈念させて戴き、これにて失礼させて戴きます。
m(__)m

155愚鈍凡夫:2003/06/25(水) 23:26
>>150: れんさんへ。
お忙しい中、質問に答えて下さって有り難うございます。

>戒壇本尊に限らず、現存する他の御本尊についても触れられた例は殆どありませんね。

そうでしょうか。
「御本尊図して進候」(「報恩抄送文」 学会版P330 未決書)
「御守書てまいらせ候」(「日眼女造立釈迦仏供養事」 学会版P187 曽存)
「おさなき人の御ために御まほりさづけまいらせ候」(「妙心尼御前御返事」 学会版P1477 写本大石寺蔵)
このように、一機一縁であっても遺文に残っているものもありますが・・・・。
最も、「日眼女造立釈迦仏供養事」、「妙心尼御前御返事」の記述は守本尊ですが。
れんさんは、「戒壇之本尊」も一機一縁の本尊と同等であるから御遺文に明記されていないとの認識でしょうか。

「日興跡条々事示書」とは、「日興跡條條事」に注釈を加えた書でしょうか(拝見したことがないので)。
れんさんは「日興跡條條事」を日興師の真蹟だとお考えでしょうか。

質問ばかりで済みません。暇な時で結構ですから、お考えをお示し下さい。

156ガンコ:2003/06/26(木) 11:28
いつの間にか引越しが行なわれたようですが、誤解があるといけないので申し上げます。

わたくしの書き込みから移動になっていて、ややもすると文面からしてガンコはとうとう偽作説に転向したかと思われそうですが、違いますので日蓮正宗関係者は誤解なさらないようにお願い申し上げます。
ただし、わたくしはもともと偽作説に大きな関心がありまして、もはや今の時代、その問題に蓋をしてしまうわけにはまいらないだろう、この先ずっと信仰していくのであれば必ず直面する問題であろうから、避けては通れないであろうから、れんさんのような戒壇本尊信奉者にどんどんお出まし願いたいと思って、わたくしなりの疑問を申し上げたのでした。
それにしても、れんさんは創価学会の方だそうですが、学会って結構ステキじゃないですか。それとも、れんさんは特別なんでしょうか。

157八苦の因:探求者:2003/06/26(木) 19:58
、、ご参加の待避の「ご自由は在ります、」が、146さんの件「七百年間、何ら異論無く伝承されてきた事実が証拠、」には、「何という、無責任!!、?」かと、。「何故に”異論”が存在しえ無かったのか、?」=、、「末代信者の=成仏?堕地獄?をも左右しかねない=最重要課題では、?」と存じて居ましたが、。、「ソンナものええヤンか、? 明日のオマンマのほうが大事だから、、」ともとれるでしょうか、? 本当の成仏、?を渇望する「庶民無視のお言葉」のようにも、感じましたが、? 言い過ぎなら訂正も視野です、。

158論議歓迎委員会:2003/06/26(木) 22:46
皆様:れん さまがご提言された数々のご提言は「サスガ」かと。ただ「日蓮本仏論の援護者には、なるようです、」。 今でも「かような御方も多々御在り、、」です。できれば”ニワトリ”を突き殺す、のはヤメテ、「当欄への新参者として、暖かく御迎えする”度量=ハラかまえ”はご必要、?」でしょうか、、?

159疑問自覚支隊会:2003/06/28(土) 23:15
略  れん さんのお言葉はご参考にはなります。しかし、たしか三位日順は最後は連祖に敵対した方??、日有の最後は、何故かライの業病だった方でしょうか、? れんさんは「この過去スレッド(石山系教学を完膚無きまで破折された、)を単に”言い古された、”」という件は、「過去文への反感と不信服、反論所有者、」のお一人でしょうか、、??

160愚鈍凡夫:2003/06/28(土) 23:44
>>158:

>できれば"ニワトリ”を突き殺す、のはヤメテ
コケコッコーってかぁ(ケンタッキーの爺さんに是非、言ってほしかった)。
同じギャグ2回も使うなって!!(独り言です。済みません) (;^_^A アセアセ…

>>156: ガンコさんへ。
この際、顕正会から創価学会に鞍替えしますか(寄らば大樹の陰ともいいますから)。
大きなお世話じゃボケって?!

161ガンコ:2003/06/29(日) 11:11

あなたも独り漫才の好きな人ですねえ・・・

浅井の本を以下、書き写します。
「・・・彼は平成五年五月三日の記念勤行会なる集会で、クリスチャンの安斉伸(上智大学名誉教授)との対談を紹介し、安斉伸が「池田名誉会長が板曼荼羅に偏狭にこだわっておられないことに、非常に感動しました」と賛嘆したことを伝えている。(聖教新聞・平成5・5・5)
御本仏の出世の御本懐たる戒壇の大御本尊に「偏狭にこだわらぬ」とは何事か。大御本尊に背き奉ること、これより甚だしきはない。
・・・さらに池田は、学会版経本の観念文と、改正した学会会則の文言から、「本門戒壇の大御本尊」の御名を故意に削除している。これは、学会員に戒壇の大御本尊を捨てしむる魂胆からである。」

というような指導をわたくし達はつねに受けているわけで、学会員はみんな右にならえでもって池田先生がおっしゃっているのだから間違いない・・・なんて思っているのだろうと。実際わたくしに、戒壇の大御本尊はニセモノである、と言い放った学会員もいたものですから。
ただ、河辺メモあたりから、学会の主張も微妙に変化したようにも感じます。つまり、日顕上人を悪者にする好い材料があのメモだったのでしょうから、それに整合性をつけるため、一転して再び戒壇本尊信奉者のポーズをとっているような・・・。よくわかりませんけどね。状況によってころころ変わるから。

わたくしがステキと言ったのは、戒壇本尊信奉者受難の掲示板に短期間とはいえ、ああやって論陣を張ってらしたことを言うのです。本当なら、日蓮正宗関係者こぞって反論ののろしを上げなければおかしいわけです。

「じゃあ、お前は何をやってるんだよ」
「え? わたくしですか? いや、あの、その・・・」(動揺)

162ガンコ:2003/06/29(日) 11:24

疑問自覚支隊会って、なんだかどんどん変な名前になってますけど・・・

>たしか三位日順は最後は連祖に敵対した方??

三位日順は日興上人の御弟子ではなかったかしら??

163ジャンノレン:2003/06/29(日) 12:00
ガンコさん、はじめまして。ジャンノレンです。
私は順師が好きでして、すこし誤解を解いておきたいと思います。

三位日順師はもともと、日頂上人の孫弟子で頂師の弟子日澄師が本・迹門のことについて
富士を訪ね興尊に指南を受けた後、千葉の中山の真跡を閲覧の後に富士に帰伏した人の弟
子です。天台に学び天才といわれて富士に帰山の後は重須初代学頭日澄師没後、二代とし
て興尊より任命を受け、有名な五人所破抄や本因妙抄口決、用心抄、本文心底抄、摧邪立
正抄等があります。重須学頭になった頃には片眼が失明されており、その後全盲となられ
た。しかし口述をもって著作に励まれ文和三年七月十五日大沢の草庵にて入寂、六十一。

しかし、大聖人門下には三位とか新田卿とか侍従公とか公家高官の名前が多いですな。
このあたりはジャージさんが詳しいのではないでしょうか。

164ガンコ:2003/06/29(日) 12:33

あっ、どうもです。ご丁寧に解説いただきましてありがとうございます。わたくしは見てのとおりのシロウトですので、今後ともご指導くださいますようお願い申し上げます。

ところで、別の掲示板にジョンノレンという方がいらしてたのですが、あなたは親戚の方ですか?

165ジャンノレン:2003/06/29(日) 13:13
ガンコさま、ご挨拶有り難うございます。ジョンノレンさんは別の掲示板でご活躍でしたので
紛らわしくないようにこの様な名前にしております。生来ビートルズに親しんでおりましたので
敬愛の意味も含めてミーハーな名前ですいません。今後ともよろしくお願い致します。

166愚鈍凡夫:2003/06/29(日) 14:33
>>159:疑問自覚支隊会さんへ
>たしか三位日順は最後は連祖に敵対した方??
三位房と勘違いされているのではないですか。

日順師の師である日澄師は六老僧の一人日頂師の弟で、当初は日向師に師事していたが、後に日興師に師事するようになったのではなかったでしょうか。この時、日順師は日澄師と共に日興師の弟子になったのではなかったですか。
日澄師が重須談所の初代学頭、日順師が二代学頭ですね。
日順師は、教学力もさることながら絵心もあり、全盲となった晩年に於いても日興門下の育成に尽くされた方と伺っております。

167ジャンノレン:2003/06/29(日) 17:46
三位日順師は永仁二年甲州下山生まれ、八歳ににて寂仙房日澄師に依って出家。寂仙房日澄師は
下総国葛飾郡八幡荘若宮の富木常忍入道の子にして最初は仰せの通り民部日向門下にて出家、兄
は日頂上人の故に舎兄について修学をされた。興尊の本尊加筆には「因幡郡富城五郎入道の息伊
予日頂の舎弟寂仙房」とある。頂師の檀那筋には三大秘法抄の賜りを受けた太田殿がおられ、先
に日澄・日順両師が富士に帰伏されたのちに、伝説では頂師が先非を興尊に詫びられたとある。
三大秘法抄は頂・澄・順師の系統から富士にもたらされたと堀上人講述では述べられている。ち
なみに太田殿は宗祖が上行菩薩の再誕と見ておられたと同書で述べられている。また日頂師はそ
の後に一寺建立(寺名不明)され富士帰山後、十四年を経て文保元年三月八日同寺にて寂された
とある。(以上は日興上人略伝)

168ジャージルーカス:2003/06/29(日) 19:10
ジャンノレンさん

> しかし、大聖人門下には三位とか新田卿とか侍従公とか公家高官の
> 名前が多いですな。
> このあたりはジャージさんが詳しいのではないでしょうか。

いえいえ、私如きものに問わずとも、才気溢れるジャンさんこそ御存知でしょうが。
さて、三位だの、新田(卿)だの、侍従公だの確かに官位ですな。
まずもって「新田(卿)阿闍梨」の「卿」とは「公卿」の事ですな。
公卿とは、上級貴族を言い、位階が三位以上の人、または参議以上の要職
(=大臣・大中納言・参議)に就いている人(人々)を言います。
 つまり、位階が四位でも参議職に就いているなら、その人は公卿です。

こんな高級官位をたとえ阿闍梨号であろうとも、勝手に授けることは
出来ませんよね。
そんなことの出来る、大聖人様の御家柄は何だったのでしょうかね(笑)。

 それはさておき、最初天奏の任を「新田卿阿日目上人」が行ったのは、自然
なことだったと言えましょう。仮に目師の本当の出生が「公卿」だったとすれ
ば、直接天子拝謁が出来たのです。つまり公卿とは殿上人ですから謁見が可能
だったのです。

169ジャージルーカス:2003/06/29(日) 19:31
次に
宰相殿等もいますよね。
宰相とは何でしょうか。
「宰相、諌議大夫、相公、八座、吏部尚書」は全て「参議」の唐名です。
参議とは「太政官」の職名で、「太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、
中納言」に次ぐ高位の職名です。

侍従公の侍従ですが、官位としては高くはありませんが八省のうち
「中務省」の職名です。
ここに四条殿の別名「中務」との関係も浮かんで参りますが・・・。

170疑問自覚支隊会:2003/06/29(日) 20:46
各位様。私めの錯覚により「三位違い」をご指摘ドーモです。 当時のかたの「官職」のようですが、「皇族に近い方から今の”高級官僚に近い”方」の御信者の広い御支持を受けられて居たのがオボロゲながら判明しつつあります、。 ワシは一応「過去欄は読了」しまして「過去からの石山系のズサンさやエエカゲンさやオタメゴカシ(偽造・偽作の作為、)」などがドシロートのワシにも良く分かり「、勝負あり!一本!!」と確信せざるをえませんでした。しかし昨今「、当HPの検索拡大の波及から、れん さんのような”逆襲”を試行」する方々も在るかも、? 当欄の猛者連様方には「キバッテ・チョーよ!(爆笑)」と声援送りタシ。

171ロン:2003/06/30(月) 18:47
初めまして、早速ですが「石山系の、、、偽造、偽作の、、」とはどういうことでしょうか? 戒壇様さえ「ニセモノ?」ということでしょうか? 素人様の独断でしょうか?

172疑問自覚支隊会:2003/06/30(月) 19:26
、、小生、中学は不登校、四流高校は「赤点ばかり」の「落ちこぼれ」でした。「アホの馬鹿者」です。 詳細に関しましては「当HP」様の「御知恵、、」をお借りしたいと存じます、。

173問答迷人:2003/06/30(月) 20:06

>「石山系の、、、偽造、偽作、、」

この掲示板の過去ログでは、「偽造、偽作の可能性が否定出来ない。偽作と断定できる明白な根拠はないが、限りなく疑わしい。」という事が指摘されています。

174ラン:2003/06/30(月) 20:26
「疑わしい」は、50 VS 50 でしょうか? 80 VS 20  でしょうか?

175テン:2003/06/30(月) 20:44
、、美濃周人様,, 安永弁哲様方の「全著作品、、」など、「十数回読了、」しました、。 「???」が「深まる、バカリ、」でした。「本命はイズコニ、、??」でしょうか?

176問答迷人:2003/06/30(月) 21:17

僕の感触は、95 VS 05 位かな

177心 55:2003/07/02(水) 21:29
 真偽は「各大学の物理研にて”残留放射線濃度の測定”で30日〜75日以内の正確度」での測定、分析が可能の様です。 是非「試験片を数カ所にて御測定」して「天下に疑惑を晴らして」くださいませ。

178心 55:2003/07/02(水) 21:44
尚、私、S会時代、数回「旧奉安殿の特秘=戒壇様?」を直接に拝見した者です。 墨やウルシの経年劣化は在りましたが、日蓮自筆とは、今思えば”違い”ましたし、「表面も”チョウナ”以上のツルツルの”カンナでの削り”の様でした」。 ご承知のように(美濃周人氏指摘済み)「”カンナ”は日蓮御坊没後150〜200年御の道具」のようです、。 今後の歴史的な御検証や御考察などは「後生の民の為」にも、真摯な御議論は御必要の様ですか、?


179希望88:2003/07/02(水) 22:20
レス介入失礼、。 じつは、私もジカに、旧奉安殿で最前列での、足の踏み場も腰の降ろし場も未考慮での「座って!」の号令=「叫声、歓声、、」を、うち消す「題目の呼び込み的な、号令=題目、!」などの体験者です。
 やはり「表面はツルツルのカンナ状の削り」の様でした。また「自筆のご本尊様よりも”字数が少ないナー?”」と、今、思えば、ソー感じました。これは相当数の方の実体験者が居りましょう。我田引水のヤラセか??

180レントゲン:2003/07/03(木) 01:55
半丸太だそうですので、X線透視による年輪測定で判断できると思いますよ。
なんら損傷を伴わず出来るので、是非すべきだと思います。

181考古学 研者:2003/07/04(金) 22:31
、、、。 考古学的には「1万〜45万年前の現物標本片がタッタ0.1グラムさえあれば、その存在時代がその表面にに付着している残留放射線アイトソープの濃度の分析・測定によりまして、その誤差は15日以内の精度で判明」可能のようです。 特に、国立名古屋大の「物理学部放射線研究室」が有名のようです。

182愚鈍凡夫:2003/07/04(金) 22:48

どちらにせよ、「戒壇之本尊」の科学的検証は、石山がそれこそ命がけで阻止しますよ。
もしもの時は、石山の存在意義すら失うわけですから。

183地球岬 110:2003/07/05(土) 17:59
No.110サンを読み、私、北海道室蘭市=深妙寺にて昭和36年極寒の冬に、厳しくも暖かい「御受戒の当時」を、思い出します。今、久保川 法章師ならば「昨今の現状を、どう分析され、その良き展望の可否は、どう御判断されるのか、」など是非お伺いしたいものです、。 当時確か「成仏の最重要性こそ、日蓮の魂??」申しておられましたが? 是非当欄への御登場をご期待申しあげます、。

184地球岬 110:2003/07/06(日) 21:18
続:: 風聞では、久保川 様は 大阪の古刹の蓮華寺住職〜正信会〜破門〜正信会脱退〜吹田市に独居建設〜独立派立ち上げ〜???のようですが、今こそ本音を御発言の時かと、存じまするが、、???
 常々「謗法厳戒〜法華折伏破言門理」しつつ「真筆本尊への南無こそ」、「末法今時の成仏の直道、」と叱咤激励されておられた御方の御意見は???イカニ??

185函館:2003/07/15(火) 19:51
「戒壇之本尊」
本物だと科学的に立証出来たなら、日蓮正宗に帰伏するのかね。
ニセモノじゃなきゃこまるんだよね。こういった話には。

186愚鈍凡夫:2003/07/16(水) 03:30

みなさん、おはようございます(早すぎるちゅうねん!!)。

>>185 函館さんへ
もし、科学的検証で「戒壇之本尊真偽問題」に決着がつくなら、みんな大歓迎じゃないでしょうか。
相承書や相伝書の洗い直しをしなければなりませんので、科学的検証で決着がつく問題ではありませんが、とりあえず真偽問題が大きく前進することは間違いないですよ。

187苦悩乱者:2003/08/10(日) 17:14
戒壇の御本尊の真偽問題は元々,大石寺が即物的に解釈しているような発言をしている
事が,反対派の標的になっているものと思われます。云く「戒壇の御本尊様と御法主」に背いて
唱える「題目」では成仏できない」に象徴されるように。古来,富士派(現在の大石寺の流れ)は
法論で不利と見るや「だんまり」を決め込んだり,「戒壇の御本尊」所蔵の事実と
「血脈」という義を伴わない言葉のみを拠り所としてきたと見えます。
私の知る限り,私の目で見た資料(読み捨ててきた為にここに即座に示せませんが)
からは,誠実な「法論」は有りません。
元々,御本尊とは私たち末法愚悪の衆生,我等の己心中にも「仏性」ありとして
(「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」参照)
その己心中の仏性、一念三千,妙法蓮華経を末法に入って,初めて御図現して下された
もので、真実の御本尊は私たちの己心に有るのです。一閻浮提総予と云われるのもその意味
です。戒壇の御本尊に背くとは「この真実」に背く事。決して誰かの{占有」に非ず。

188苦悩乱者:2003/08/10(日) 18:03
187 からつづき
本物か偽物かを明らかにする事には,あまり意味がありません。本物だったら宗門が正しく
偽物だったら,宗門は間違いというのは,法門或いはみ教えとしての上ではなくて,不謹慎な
表現をすれば,歴史的遺産として即物的に本物か偽物かが判定されるだけです。
大切なことは,正しい法門の上に正しく御本尊があるべきということでしょう
「但し,妙法蓮華経と唱え持つと云うとも若し己心の外に法有りと思わば妙法に非ず・・」
そもそも妙とは何と云う心ぞや,只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは
心も及ばず語も及ばずという事なり、古来戒壇の御本尊は遥拝形式だったのです。
ですから,何処に居ても,何処から御本尊を拝しても戒壇の御本尊に背く事にはなりません
但し,清浄な宗門に有る時は別です。私(達)は追い出されたのですから

189ガンコ:2003/08/10(日) 19:16

苦悩乱者さん、はじめまして、ガンコと申します。いちおう顕正会員です。

>本物か偽物かを明らかにする事には,あまり意味がありません

・・・しかし、ニセモノだったら何百万人もの人間をだましてきたことになります。わたくしはけっこうだいじな問題だと思いますが。

>古来戒壇の御本尊は遥拝形式だったのです

これは・・・いったいどういうところから出てきたのでしょうか? ヘンなはなし遥拝といえば顕正会、顕正会といえば遥拝といってもいいように思うのですが、いかがなものでしょうか?

190インド最下層人:2003/08/10(日) 19:27
なかなか困難?? 「その時代に生きるベストは??」 「時代の各人はそれなりに展開されました様です、」。 「いかなる生き方がワーストで??いかなる生き方がベスト、、??」なのでしょうか、、ネ、、??  自分もわかりません、、。 よろしく、、。

191荒木伸吾:2003/08/10(日) 22:06
 ガンコさん、横レス失礼いたします。
 石山累代檀家の「荒木伸吾」と申します。

>>本物か偽物かを明らかにする事には,あまり意味がありません
>・・・しかし、ニセモノだったら何百万人もの人間をだましてきたことになります。わ>たくしはけっこうだいじな問題だと思いますが。

だましていたことにはなりませんよね。伝に曰わく「御戒壇様は大聖人様が、お認めになられた」と言うのが当宗です。その伝に従うのが相伝仏法ですよね。
昔、有る方の書き込みに「御戒壇様が、物質的に二代目だろうと三代目だろうと、御戒壇様に流れる法を拝する」と云ってましたが、まさにその通りなのです。
創価学会や妙信講のように、物質信仰をしていた方はショックを受けるでしょうが、代々の檀家は、最初から物質信仰してませんから、全く気にならないです。
 物質は、成住壊空するのですから、それが永遠な訳は無いのです。
 我が家には、石山歴代の板本尊と宗祖、開山の両御影がありますが、それも一応「日○上人作」となってますが「100%それを証明せよ」と云われたら返事のしようがありません。我が家に数百年相伝護持されてきたから、本物として拝しているのです。それが
相伝と言うものです。
 石山歴代も宗祖以来750年の嫡々代々とされてます。皇室も神武天皇以来万世一系とされてます。それを科学的に証明するのは意味がありません。科学的に解明しても、それでも「伝に曰わく」を否定する根拠にはならんのです。「伝に曰わく」と「科学に曰わく」は乗っている土俵が違うのです。

>古来戒壇の御本尊は遥拝形式だったのです
>これは・・・いったいどういうところから出てきたのでしょうか?
>ヘンなはなし遥拝といえば顕正会、顕正会といえば遥拝といってもいいように思うので>すが、いかがなものでしょうか?

 違いますよ。現在でも猊下は、毎日の丑寅勤行では、御戒壇様を遙拝所から遙拝しますよ。
 御内拝はあくまでも御内拝であり、苦悩乱者さんは、昔は御内拝が無かったから、遙拝しか無かった事を言われているんでしょう。

 PS。
 余談ですが、我々は御内拝している「御戒壇様」を、一応「御戒壇様」として拝してますが、それは御前様が御戒壇様と御指南なされているからであり、それのみが根拠です。もしかしたら、御内拝しているのは、信徒が拝する為に作られた御身代わりの御戒壇様であり、その本体は今でも秘蔵堅固しているかも知れません。物質としての御戒壇様は、御内拝を許してますが、法としての御戒壇様は今でも秘蔵堅固なのです。

192苦悩乱者:2003/08/10(日) 22:33
189 ガンコ様
はじめまして いきなりの参加で失礼致します。本名は大熊善晴と申します。埼玉在住です。今後とも
よろしくお願いいたします。食事やら散歩やらで遅くなりました。おわびいたします。
その通りだと思います。いつの頃からでしょうか?やはり日有上人でしょうか?私も偽物説に同調します。
しかし,本物でしたら本山に帰伏しますか?大切なのは法門だと思います。私は貫頭の「信心」に依って
御本尊は本物にもなり偽物にもなると考えているからです。ですから,即物的にみた御本尊の真偽は
あ・ま・り・意味が無いと申したわけで,しかし「即物的に本物だから」と信じている人にとっては
大事な問題です。形有るものはいずれ壊れるものですから「本物」にこだわると未来の人々が困るわけです
今も困っていますけれど!!
それから,遥拝の事は正信会の御僧侶に聞きました。委しい資料は持っておりません
申し訳ありません。川澄 薫師の仏道雑記(一)カ行 御宝蔵と題して関連する事柄
が述べられています。ただ,遥拝の文字はありません。誰か「遥拝」について委しくご存知の方
応援をお願いできれば幸いです。私も探してみます。
それから,ガンコ様は顕正会の方との事,元,国立戒壇論で犠牲になられた講中とお聞きします
破門されれば「遥拝」にならざるを得ませんね。法華経にも,聖書にも,法滅侭経にも
正しい者(私自身に於いては全てにとは申しませんが)は追われると書かれて居ります
ただ,いつの日か全ての人々が手を取り合って微笑む時が来る事を願って歩いてゆきたいと
思っております。ニセモノかもしれない「戒壇の御本尊」の前まで。・・・
今日はこれで,失礼致します。


私は無宗派一本寺と名乗る手塚寛道師の所に居ります。

193ガンコ:2003/08/11(月) 02:10
荒木伸吾さん、どうもです。

有る方というのは菊水護国さんであろうかと思うのですが、まあ、ご存知かと思いますが他にも同じような意見の方がいらっしゃいまして、また、顕正会では偽作説など絶対に口に出来ないのですが、そういう環境の中でわたくしはかえって興味津々なのです。

土俵が違うとおっしゃいますことは理解できないわけではないのです。しかし、まあ、なんと申しましょうか、伝に曰くであっても、それが正伝か誤伝かということがあるわけで、その辺があいまいだから分裂を繰り返しているとも考えられるような気もするんです。

ただし、わたくしはけっして否定派ではありません。何度も書いていますがもはや目をつぶって済ませられる問題ではないから、恐れ多いけれどもじぶんなりに考えていかなければいけないと思っているわけです。

遥拝所のことはいちおう存じ上げております。なんとなく、苦悩乱者さんのおっしゃりようが顕正会的に思えたものですから、その意味で質問しました。

194ガンコ:2003/08/11(月) 02:31
苦悩乱者さん

>食事やら散歩やらで遅くなりました。おわびいたします

あの、そういうことは気になさらなくてけっこうかと思います。とくにわたくしなんかはすっとぼけてお返事さし上げないことがよくありますから、ぜんぜん大丈夫ですよ。

>しかし,本物でしたら本山に帰伏しますか?大切なのは法門だと思います。私は貫頭の「信心」に依って御本尊は本物にもなり偽物にもなると考えているからです

帰伏するかどうかといえば帰伏しますが、ご存知のように顕正会は戒壇本尊絶対尊崇主義です。ゆえあって、今は外にいるだけで、いずれは復帰できるものと考えます。

貫首によって本物にもなり偽物にもなるというのは難しい概念ですね。顕正会ではそうはいいません。あくまで御本尊絶対を主張しています。ただ、この経の心に背いては功徳がない、との御指南から、御本尊は絶対であるが信心が間違っていると功徳は出てこないといった指導がなされています。ですから表現が違うだけで同じことなのかもしれませんね。

195苦悩乱者:2003/08/11(月) 10:28
ガンコ様

>あくまで御本尊絶対を主張しています。・・・・絶対であるが信心が間違っていると功得は出て来ないと言った指導が為されています。ですから表現が違うだけで同じ事なのかもしれませんね。

微妙なところですが,ほぼそのようですね。
キーポイントはニつ有ると思います
1、時の貫頭と謂えども信心を間違う事がある。(総じて全ての指導者も間違う事がある)
2、「御本尊は絶対」であるけれど,その御本尊の真実の当体は「何処」におわすか?
1、は遺誡置文ですね。
2、は相伝書に「○○○○」,「××××」と言う二つの柱が有ります。
現在では,相伝書に詳しい方であれば,誰でもご存知だと思います。
ただ,半年ほど前に,ある正宗の御僧侶にお聞きしたところその名前すら知りませんでした。
御僧侶:「なんだそれ?どんな字を書くの?」
私  :「(しらばっくれて),字は知りません,言葉で聞いたものですから」
御僧侶:「あなたは,何処に所属しているの?」
私  :「手塚寛道先生のところです」
御僧侶:「ああ,あの人ね,学者だからね,いろいろと作っているからね,
     又,作ったんだろう。そういうことを全部忘れて此処に来なさい」・・趣意
又、二ヶ月程前のこと,別の正宗寺院の法華講の方との会話

私  :「二つの相伝のこと,「○」,「×」知っていますか?」
彼  :「いや,知らない,どういう字を書くの」
私  :「いえ,教えられません」
彼  :「ま,いいや,大体解るから」・・趣意
後になってその方には,「字」までは伝えました。
内容は,「甚深の血脈なり,その器に非ざれば伝えず」という程の内容です。
寛道師の御説法によると,日有上人以後には,それが消えてしまっている。どこを
探しても出て来ないとのお話でした。それ以後は,日寛上人まで待たなければなりません。

196苦悩乱者:2003/08/11(月) 12:58
訂正 192

× 川澄 薫師
○ 川澄 勲師  でした

197苦悩乱者:2003/08/11(月) 17:13
荒木伸吾様
貴重な情報を有難うございました。

昔は御内拝は無かったのですね。

198ガンコ:2003/08/11(月) 18:38
苦悩乱者さん

>「御本尊は絶対」であるけれど,その御本尊の真実の当体は「何処」におわすか?
>相伝書に「○○○○」,「××××」と言う二つの柱が有ります
>内容は,「甚深の血脈なり,その器に非ざれば伝えず」という程の内容です。寛道師の御説法によると,日有上人以後には,それが消えてしまっている。どこを探しても出て来ないとのお話でした。それ以後は,日寛上人まで待たなければなりません。

さっそく甚深の御法門を開陳いただきまして、まことにありがとうございます。
御本尊の真実の当体・・・といえば本門戒壇の大御本尊以外の何ものでもない、というのがいわゆる“物質信仰”の料簡であって、おそらくあなたにしても荒木さんにしてもそれとは違った見解なのでしょう。わたくしのような法門未熟のものにはよくわかりません。ゆえに、相伝書にあらわれている二つの柱とは何を指すものか見当が付きません。また、日有上人以後、日寛上人までのあいだ、「消えてしまっている」というのはすごい話で、わくわくします。ここの掲示板にはけっこうシビアというか冷めたというか、まあ、それが現代感覚なのでしょうけど、消えたり現れたりするようなことを認めない人がいますが、わたくしはいちおう認めるものです。

この数ヶ月、わたくし個人としてはいわゆる曼荼羅正意にこだわって考えてまいりました。と申しますのは、われわれ正宗系にとっては常識であっても、他門の人には通用しないということをまざまざと思い知らされたわけです。そういう掲示板なんですよ、ここは。ですから、御相伝書にしてもその信憑性からして疑っている人が多くいますので、そうした質問が出るかもしれません。

とりあえず、わたくしにとってはたいへん興味深いお話なので、もう少し詳述いただきたく存じます。

199苦悩乱者:2003/08/11(月) 21:02
ガンコ様

今よく言われる血脈相承云々ということですね,血脈が切れているか,切れていないかなどと言うお話ね,金口嫡々だとか,そういうふうなお話というのは,何処を根拠にして説かれるかというと,この「富士門流見聞家中抄」上中下三巻これが
材料になっているのです。
ここまでで,ご容赦下さい。
疑わしいと思う方は,批判するにせよ無視するにせよご自由です。
寛道師は「来る者は拒まず,去るものは追わず」の姿勢を貫いておられるようです。
又,真実に法を求める者でなければ,法は説かないとも申されたことも有ります。
私がこのネット上でこれ以上のことを言い述べることは,古来「相承」に関わる事柄
ですので,憚りがございます。お察し下さいますよう御願いいたします。
ガンコ様には,永遠の迷路にはまり込まないようお祈り申し上げます。

200ガンコ:2003/08/12(火) 03:01

苦悩乱者さん

やっぱり下種仏法というのは公にできない部分があるものなんですね。信心のレベルが最高度に達していなければ開示せられない、そういうことはあるかもしれません。

永遠の迷路・・・すでにはまり込んでいるかもしれない気がしております。わたくし、ときたま(いつも?)とんでもないことを書いてしまう悪い癖がありまして、しばしば顰蹙を買っております。すでに迷路に入っている証拠かもしれません。なにか脱出のヒントがありましたら、ご教示願いとうございます。


話がずれますが、あるサイトに手塚先生の「法華本門思想通要」がほんの一部分ですが載っておりまして拝見しました。
昭和42年の段階で、本門戒壇の国家的建立を仰せになっておられ、なるほど時流にへつらわぬ人なんだなあ、と思いました。

201苦悩乱者:2003/08/12(火) 14:54

ガンコ様

手塚先生について,少々お話させていただきます。
本門戒壇につきましては,その後「心に本門の戒壇を」ということを根本義としておられます。国家体制というものは永い目で見るとき,実に不安定なものであることはご承知のことと思います。その時々の国家体制により「全世界立」になったり「王立」になったり「将軍立」,「天皇立」,「大統領立」「そおか!おうこくりつ」になったりするのですね。みな同じことです。それを500年前の「あそこ」にこう書かれていた,いや750年前はああだったと言って争っても,根本は変わらないわけです。

>なにか脱出のヒント・・・

仏法僧の三宝に帰依するのが,仏家の基本だと思います。「三帰五戒」ですね。・・・ただ,それが大非常に大大変大大難しいのですね。法華経に「其智慧門 難解難入」とはこういう事も含まれているのかも知れませんね。でもご安心下さい。「法華経をあだむ人に二人有り,一人は先生(前世)に善根ありて今生に縁を求めて菩提心を発して仏になるべき者は或いは口閉じ或いは頭破る,一人は先生に謗人なり今生にも謗じ生生に無間地獄の業を成就せる者あり,是はのれども口則ち閉塞せず」・・法蓮抄・・現在の状況は明らかに「破和合僧」つまり「法華を讃すといえどもかえって謗ず」の大大謗法の状態であることは疑いのないことです。
この様な時に,現状を憂う余りに精神的にも肉体的にも疲弊してしまった人に,やれ「罰」だ「私」に背くからだといっては,和解への努力もせず,布教もせずに贅沢三昧をして遊んでいる人,(それも普通の遊びでは無い)と比べてどちらが「道心堅固」か一目瞭然でしょう。日寛上人のお言葉に「疑いは必ずしも良くは無いが,疑いは解脱への門」・・趣意・・というお言葉があります。まして大聖人様への疑いでは無く,現状への疑いならば尚更の事と思います。・・・解決策としましては,とにかく真面目で誠実な御僧侶を探されて師とされるのが良いでしょう。

>信心のレベルが最高度・・・・

唯受一人のレベルのことですね。 ダイバタッタでは困るのです。

202ガンコ:2003/08/12(火) 16:13

苦悩乱者さん

わたくしは長いこと国立戒壇宗(=顕正会)に身を置いてきたものですから、「心に本門の戒壇を」ということがぴんとこないんです。いま、二箇相承の議論がはじまりましたけど、三大秘法抄も含めまして、これらが真書であるならば戒壇建立はまさに大聖人の御遺命です。
また、国家体制云々ですが、わたくしはあくまで天皇立であろうと考えています。これについてはいずれ詳述したいと思っていますが、さすがに大変なテーマですのでなかなか考えがまとまりません。結論だけ申せば、天皇陛下たった一人であっても明確に帰依入信の意志を表明できれば戒壇は建つ、と思います。

>とにかく真面目で誠実な御僧侶を探されて師とされるのが良いでしょう。

浅井じゃダメですか? 我が師匠は「身はこれ在家なりとも心は出家である」等とよく言っておりました。もっとも、顕正会も組織が大きくなって一部の幹部以外はじかに浅井から指導を受けることはありえないので、師匠とはいえないかもしれないですが・・・

203苦悩乱者:2003/08/12(火) 17:18

ガンコ様

>浅井会長じゃダメですか?

客観的に見て正当な批判や法門に対する質問に,誠実に対応できる人物でなければならないと思います。「・・心は出家」と言えば,道心ある者全てということでしょう。

>天皇陛下たった一人であっても・・・・・

それでも良いと思います。さすが国柱会の思想を受け継いでおりますね。但し,そのときは,本物の「大聖人様」が居られないと,もう,ものすごいことになりそうですね。「大聖人様」は絶対であらせられます。「御本尊様」は絶対であります。ですから絶対に間違わないのです。その「絶対」であらせられる処の「人法一箇ましまされる御本尊様」に背くということは,師敵対,大謗法なのでございます。堕地獄の大悪因となるのでございます。信心堅固な皆様は決してそのようなことにはなりませぬよう,気をつけてゆかなければなりません。天皇陛下様の為,御法主上人様の為,一生懸命にお題目を上げましょう。・・・あのー,一つ御質問が・・・,何だ?この日興上人様の,この遺誡置文に,時の貫頭たりと謂えども仏法に違背して・・・・,ああ,それね,そこに書いてあるだろ!,貫頭って,今は御法主なの!,貫頭じゃないの!,「法の主」,解る?「法のあるじ」!間違うわけ無いでしょ!「法の所有者」が!。深々の法門は唯受一人の御内証の世界です。凡人には解らないの,・・・でも大聖人様は御書に凡夫僧と・・・,大聖人様が凡夫であらせられる訳が無いでしょ!御謙遜されての御文なのです。・・・

こんな光景を想像してしまうのですが。いかがですか?
今でも「大聖人様」がお二人ほどおいでのようですが,それだけでもけっこう大変なことになって居るみたいですし。

204苦悩乱者:2003/08/12(火) 18:02

管理者さん

ガンコさんとのやりとりになってしまいました。すみません。

御本尊のことは「絶対にニセモノを作れないもの」それが「御本尊の本体です」

205ガンコ:2003/08/12(火) 19:40

>>天皇陛下たった一人であっても・・・・・

>さすが国柱会の思想を受け継いでおりますね

いやいや、ちがいますって。誤解のないように申し添えますが、あくまでわたくしの個人的見解です。顕正会ではそんなこと言ってません。(ただ、浅井は内心、思ってるかも)

206Jルーカス:2003/08/12(火) 22:36
>>>天皇陛下たった一人であっても・・・・・
>>さすが国柱会の思想を受け継いでおりますね
>いやいや、ちがいますって。誤解のないように申し添えますが、あくまでわたくしの個人的見解です。顕正会ではそんなこと言ってません。(ただ、浅井は内心、思ってるかも)

横レス失礼。
浅井さんがどのような考えをしているかはともかく、このガンコさんの考えは私も全く同感なのです。
と言うより、三大秘法抄には「王臣(官位を持つ人間)一同」となっておるわけですから、天子様とその臣下一同の帰依で十分だと考えます。
「すると民衆は」と言う質問が出てきそうですが、そもそも近代以前に民衆は王臣の庇護の下のみに存在する小さな存在だったのですから、王臣が帰依すれば良かったのです。
私は大聖人様の御妙判を見れば見るほど「差別主義」が強いと考えてしまいます。
創価学会の言う「絶対的な平等思想」「仏法民主主義」等は全くナンセンスと感じてしまいます。
当宗は宗務行政の長であるH総監御自身が「民主主義否定論者、君主制賛美論者」ですから、元々創価学会と当宗は水と油だったのでしょう。
私は大聖人高貴出生説を、支持してますから、大聖人ほどの尊王思想家はいないと考えております。
そこに戦前「日蓮主義」が台頭する根があったような気がします(もっとも田中氏や石原氏などの曲解引用には辟易しますが)。

207ガンコ:2003/08/13(水) 00:08

>私は大聖人様の御妙判を見れば見るほど「差別主義」が強いと考えてしまいます。

世間的には「差別主義」といえば悪い意味しかないんでしょうが、Jルーカスさんは別の意を含んでいらっしゃるんでしょうね。説明するのは難しいですが。

208愚鈍凡夫:2003/08/13(水) 01:59
横レス失礼します。
蓮祖の出生に関して、次のような論文を見つけました。

「宗祖のご舎弟・貫名藤平家の伝承考」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho30/s30_105.htm

「然るに日蓮は東海道十五箇国の内第十二に相当る安房の国長狭の郡東条の郷片海の海人が子なり」(「本尊問答抄」 学会版P370 未決書)
「何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり」(「佐渡御書」 学会版P958 未決書)

とありますが、やはりJルーカスさんもこの両書を偽書とお考えでしょうか?

209Jルーカス:2003/08/13(水) 11:18
愚鈍凡夫さん
私は両書を偽書とは考えておりません。
大聖人がもし自らを「高貴な○○の子」等と表現したら、現在のように下層大衆への広まりが無かったと考えます。
ですから、宗祖の自称は自らを「下層民」の見方として顕すための方便だったと考えます。

210Jルーカス:2003/08/13(水) 11:24
訂正及び付随
「下層民」の見方は「下層民」の味方の誤りでした。

なお、付随しますと記録に依れば宗祖は叡山の「学生」として修行されています。
もし「身分無き海女の子」だったとすれば、叡山では「堂衆」として修行されているはずです。
当時叡山で学生として修行するには、一定の身分が必要だったことは天台では常識です。

師の法然が「学生」だったのに、弟子の親鸞が「堂衆」にしかなれなかったのはそのためです。

211苦悩乱者:2003/08/13(水) 17:16

本門戒壇建立について

始めに,敬語のような表現は苦手なので変な敬語になったり,長い文章になると地が出てくるので私の普段の言葉で書かせてもらいます。   

皆さんの意見を荒々読みました。大変勉強されていますね。私は教学はあまり有りません。御僧侶の説法と新聞,わずかな説法集が主です。ですから資料を駆使して語るのは苦手ですので,もし私の「言」について資料などお持ちの方等居ましたら,提供していただくと助かります。

なるほど,なぜ分裂してゆくのかが解ったような気がします。釈尊仏教が分裂を繰り返した挙句には,一部の支配階級の民衆支配の道具に成り下がり栄華を極める。実はその栄華こそが「法滅のしるし」であることに気がつかずに喜んでいる支配層,恐らく,バラモン教しかり,仏教しかり,ユダヤ教しかり,キリスト教しかり,イスラム教しかり,だったのでしょう。歴史家の方この辺の所応援願います。
どこかのスレットでガンコさんが,小乗の釈尊も大乗の釈尊も同じ釈尊のはずなのにという「実に的を得た」ことを書いていましたね。実はこれは,仏教学者が見ると「頓珍漢」なことなのです。それぞれ違うのです。ここが「みそ」ですね。信仰者からみると「悟り」は一つしかありませんそれ以上の数の「悟り」など,「ええっ」まだあるの?と言うわけですよね。もう勘弁してよ,ここまでだって大変だったんだから,小乗のさとり,大乗のさとり,法華のさとり,・・・大混乱ですよね。本当はどうなのと,学者さんがたは,「考えるのが好き」なのです。さとりとはどのようなものか?ああでもある。うんこうでもある。いやそうじゃない。いやそうでもある。
結局,学者さん方が無責任に自分の頭の中でつくりあげていったのが,いろいろな釈尊なのです。悪いのは,人師,論師です。御書にありますね。真実を知らないで自分で結論して,しかも「さも自信ありげに」それを広めるわけです。本当はわかっていないのにですよ。それは我々見たいな人間が言っている分には他愛のないことですが,少し力のある人がそれをやったらどうなりますか?そういうことが,またまた再現したのです。「種の妙法」の中で

三大秘法抄の解釈はルーカスさんの解釈で正しいと,私は思います。ただ確か「万民一同」と書かれた御書もありますよね。さてどっちだろう?と,私は,社会体制も変わり,順縁広布もしていない内からそういうことで争っても仕方ないでしょうと,思います。「捕らぬ狸の皮算用」。まあこういうところで話し合うのは良いのですが,組織を挙げて,組織を挙げてでも良いですが,冷静ならば,仲間割れしなければ,でも仲間割れしてしまった。後の祭りです。富士の教えはもともとは,逆縁広布にあったと言われています。つまり「下種」の意味です。

212苦悩乱者:2003/08/13(水) 20:18

本門戒壇建立について 補足

>それで民衆はという質問が・・・・・

民衆は後から,たぶん強制的に信仰するようになるでしょうね。君主制ならば。その意味では,絶対的に正しくなければならない訳です。
すると,絶対的に正しい君主はありえるか,「有り得る」,「有り得ない」と今度は,「絶対君主」をめぐって論争が始まります。私個人は絶対君主が有ってほしいな,と言う願望です。
民主制,君主制どちらもユートピアですね。ユートピアの語源て何でしたっけ。ウー・トポス?どなたか解説お願いします。そこで登場するのが「心に本門の戒壇を」です。一人一人の心の中にある仏界を,水をやり,太陽にあて,ご飯を食べさせて大きく,大きくさせて心にユートピアを築く
壮大な作業ですが,その気になれば出来ますと,教えてくれた末法本仏の真実,忘れてしまったのが末法衆生。

213愚鈍凡夫:2003/08/13(水) 22:18
>>209 >>210 Jルーカスさんへ
レス有り難うございました。
了解しました。

214苦悩乱者:2003/08/15(金) 18:41

愚鈍凡夫さん

本尊問答抄が真偽未決とされているのですか?私は資料に関しては無智なので知りませんでした。それでは,ほとんどの人が,(富士門も含めて)御本尊が何なのか,迷うのも無理は無いですね。本来,富士の教えは,「法前仏後」です。これを「鶏が先か?,卵が先か?」という命題で論議すると,永久迷路に入り込むことになるのです。理由はご承知ですね。「鶏と卵」を「種と果実」に置き換えても同じ事です。果実の中に種があるのですから,この問題は,富士門流の人々でもごく一部の人しか理解していない事と見受けられます。「義に依って語に依らざれ」とは,この事です。

215愚鈍凡夫:2003/08/15(金) 19:30
>>214: 苦悩乱者さんへ

>「鶏と卵」を「種と果実」に置き換えても同じ事です。
は、「鶏と卵」を「果実と種」に置き換えても同じ事です。
ではないですか(揚げ足取りではありません。悪しからず)。

これはガンコさんがよく引用される一節ですが、
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(「本尊問答抄」 学会版P365)
との文証には悩まされますよね。
「本門の本尊(本門の教主釈尊)」=「法華経の題目」なのか・・・・・?
それじゃ、「本門の本尊」と「本門の題目」とを分ける意味がないんじゃないの・・・・・?
「観心本尊抄」の何処にそんなこと書いてある・・・・・。
てな具合に。
これは、飽くまでも私見ですが、
真蹟のない「本尊問答抄」より、真蹟のある「観心本尊抄」に重きを置くのが筋だと思います。

216苦悩乱者:2003/08/16(土) 15:39

愚鈍凡夫さん

215>「鶏と卵」を「果実と種」に置き換えても同じ事,ではないですか。

ご指摘の通りです。順番を間違えました。しかしながら,言わんとしていることは,理解していただけたと思います。ただ,今の私達にとっては,この順番の間違いだけでも十分に迷路に入り込む危険性を秘めている事を認識しなければならないのだと,改めて感じました。本当に有難うございました。

>「本門の本尊(本門の教主釈尊)」=「法華経の題目」なのか・・・?

これも,「法華経の題目を以って本尊とすべし」,この御文だけを,文上で読むと「意味不明」になると思いますね。文上では種脱相対が現れていないからです。文底を読むと言うことの意味は,最終的には種脱相対して読むということだと,私は理解しています。そこで疑問が湧きますね,種脱相対して読むとはどういう意味なのか?ということです。それは,1、「依法不依人」,2、「依義不依語」,3、「依智不依識」,4、「依了義経不依不了義経」この法四依の中の一番目の一番大切な「御教え」「法」=「妙法」=「妙法蓮華経」=「種の妙法」=「本因妙」=「根本」=を「文」の底に読み取る。と言うことなのだと,私は解釈しているのです。但し,この解釈を超えるものが見つかれば私は,それに従います。種脱相対は無いと言う身延流?の解釈は,御書拝読の時,永遠の迷路にはまり込む最大の原因となるものです。観心本尊抄には,「種脱相対が説かれていない」と言うのは完全な「誤謬」でしょう。たった「一文字,二文字」の中にも全身全霊が込められていることを感じ取ることが出来ない人の言うことであって,その様な人には,諸経典の中に教主釈尊の真実の心をも読み取れないものと思います。もし,それは違う,「教主釈尊の真実の心」を私は読めると言うのであれば,それは,私は「種脱相対」を知っていると言うのと「同義」であると言うことです。本尊問答抄にも,観心本尊抄にも「種の妙法」は説かれています。「法(dhamma)」については,中村 元選集 第11巻 ゴータマ・ブッダⅠを読んでみると良いと思います。

>それじゃ,「本門の本尊」と「本門の題目」とを分ける意味が無いんじゃ・・?

「三即一」つまり,三大秘法は一大秘法=本門戒壇の御本尊に摂(おさ)まる,開けば三,閉じれば一というように聞いています。私が考えますには,「本門戒壇の御本尊」という時,この中に戒壇と御本尊二つが現れています。御本尊の主題は「南無妙法蓮華経 日蓮 花押」ですね。これが三つ目の「本門の題目」だと思うのですが。・・・・この様に理解していても最後の「信」=「真実の信」が無ければ本当の意味を持たないと言うのが,「日蓮大聖人様」の説かれるところの「事」の「み教え」だと思われます。自分の所に「財産」を集め,「権力」を手にして,己の欲望をほしいままにする。それも「仏法」を利用して!!,その様な人は,明らかに「ニセモノ」だと思います。

>真蹟の無い「本尊問答抄」より,真筆のある「観心本尊抄」に重きを・・・

私には「観心本尊抄」より「本尊問答抄」のほうが解りやすいのですが,他門流の人が承知出来ないのであれば,仕方が無いと思います。・・・それにしても,大切な法門書,相承書真筆がみごとに無くなってしまっていますね。これもしかしたら,「テロ」的所業かもしれませんね。あたかも信じているような「フリ」をして,得度する。そして密かに機会をうかがって,御堂に火をはなつ・・・,うがちすぎでしょうか? キリスト教会のこと,少しお話します。宇野正美と言う人の国際時事情報誌「エノク」を1999年頃にとっていたのですが,そこに「マラノ」のことが書かれていました。実には「ユダヤ教徒」でありながら,「キリスト教徒」のように振舞って,牧師,神父,枢機卿等になってその内部より教会を破壊する「悪魔」です。「師子身中の虫」にそっくりですね。愚鈍凡夫さん,ひとつお聞きしますが,もし,「戒壇御本尊」と「相承書,法門書」と「お肉芽」との三つを前にして火事に出会ったとします。すぐにでも逃げなければ命が無い。しかし,命より大事なものが目の前にある。そこに「梵天」が現れて,炎のことは気にしなくも良い,それは私があなたに見せている幻影であるからあなたは死ぬような無い,しかし,この三つの宝物は焼けるだろう,どれでも良い,あなたが最も大切だと思うもの「一つだけ」を持ち出しなさい。「一つだけ」です。と言われたら,「何」を助けますか?,「戒壇の御本尊」は日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ところの御本尊です。







「三即一」と言われているのを

217愚鈍凡夫:2003/08/16(土) 20:06
>>216:
アレレ、レスが返ってきてる。苦悩乱者さんどうもです。

> これも,「法華経の題目を以って本尊とすべし」,この御文だけを,文上で読むと「意味不明」になると思いますね。

文上で読むと何故、「意味不明」なのでしょうか。「法華経の題目を以って本尊とすべし」と明確に仰せだと思いますが。

> 文上では種脱相対が現れていないからです。

勉強不足で済みません。文上で種脱相対が現れた真蹟遺文を紹介してくれませんか。

> 種脱相対は無いと言う身延流?の解釈は,御書拝読の時,永遠の迷路にはまり込む最大の原因となるものです。

逆もまた真なりですね。

> 本尊問答抄にも,観心本尊抄にも「種の妙法」は説かれています。
教学研鑽の糧にしたいので、ぜひ御教示下さい。

「中村 元選集 第11巻 ゴータマ・ブッダⅠ」
書籍のご紹介有り難うございました。書店で探してみます。苦悩乱者さんは、蓮祖の法と中村元氏の翻訳した法とは同じだとの解釈でしょうか?

> 「本門戒壇の御本尊」という時

とは、大石寺の「戒壇之本尊」のことですか。曼荼羅自体が戒壇の意味を含んでいますが。

> 自分の所に「財産」を集め,「権力」を手にして,己の欲望をほしいままにする。それも「仏法」を利用して!!,その様な人は,明らかに「ニセモノ」だと思います。

その通りだと思います。

> 「テロ」的所業かもしれませんね。あたかも信じているような「フリ」をして,得度する。そして密かに機会をうかがって,御堂に火をはなつ・・・,うがちすぎでしょうか?

あたかも日蓮聖人の法門のような「フリ」をして、聖滅後に「相伝書」「相承書」を創作する。この可能性をどう思われますか。

小生は、学会風に申しますと、信心が足りないせいか、未だ梵天・帝釈を見たことがありません。従って、苦悩乱者さんの問いにはお答えしかねます。しかし、小生ならば、消化に全力を注ぎます。

218苦悩乱者:2003/08/16(土) 21:36

愚鈍凡夫さん

もし,よければメールでお会いしませんか。いろいろと教えていただきたい事が沢山ありそうなので。それと,暇があるのは今月までですので,ここへの書き込みも,そうそう出来なくなるものですから。

>文上で読むと何故。。。。

「法華経の題目」=「種の妙法」である事が解らない可能性もあるからです。

>文上で種脱相対があらわれた真蹟を・・・・

「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」ですね。

>逆もまた真なり・・

逆はいけません!

>・・・是非ご教示・・・

「観心本尊抄」では,学会御書p.249終わりから2行目,「但し彼は脱此れは種なり」ですね。
「本尊問答抄」(これは興師写本のようですが)では,同p.3654行目,下段から,涅槃経の第四・・中略・・諸仏の師とする所は所謂法なり・・以下略・・それから同p.367 5行目,「法に依って人に依らざれ」等云々,法華最第一と申すは法に依るなり,・・以下略・・でしょうか。

>中村元氏の翻訳した法とは同じ・・・

「法」には,二もなく三も無いと思います。

>とは,大石寺の「戒壇之本尊」のことですか・・・・・

同じ,その様に解釈していますが,担,「即物的」にではないのです。大石寺に清流が流れているときと,そうでない時で拝し方が変わるのです。「神(たましい)」がもう居られない。ちょうど,日興上人の身延離山の時のように,日興上人は離山ですが,我は破門です。

>相伝書,相承書を創作する。・・・

可能性は有ります。

>お答えしかねます。

解りました。あくまで仮のお話なのですが,私なら絶対「相伝書」を護ります。

以上です。

昨日は帰省しておりました。9月になりますと暇も余り無くなりますので,書き込みも少なくなると思います。

それでは,

219愚鈍凡夫:2003/08/17(日) 00:32
苦悩乱者さん。レス有り難うございました。
レスの内容を読んで、質問がいろいろとあるのですが、お忙しいようですので深追いはしません。
小生、少しばかりボランティアの真似事みたいなことをしています(弱い立場の人の力に為るためです)。
その辺の事情からメールアドレスを公表できません。
いつか、苦悩乱者さんにメールできる時が来ましたら、メールさせて頂きたいと思います。
説明はできませんが、その辺の事情を察して頂ければ幸いです。
ここの掲示板は、最低1日1回は覗いていますので、何かあればレスして下さい(私信に使うなボケ。問答迷人さんの代弁)。

220苦悩乱者:2003/08/17(日) 16:37

愚鈍凡夫さん

議論というものは,大体が自分の云いたい方向へと自然に行ってしまうものですね。気をつけなければならないのですが,反面,仕方ない面もあると思います。戒壇の御本尊は本来「目に見えないもの」を「仮」に顕して下されたものですから,「仮」のものに執着しても真実は見えてこないものです。石山も「仮」のところにしがみつかなければならなくなってしまった所に,この悲劇があるように思われます。このあたりが,私の結論になります。

>ボランティアの・・・・

素晴らしい事ですね。私も土手の遊歩道のゴミ拾いを,適当にやっております。

それでは,お付き合いいただいて有難うございました。

又の機会まで・・・

「連帯を求めて孤立を恐れず」・・・ 昔知った言葉です。

221常徳庵:2003/08/17(日) 21:32
188以降の苦悩乱者さん・ガンコさん等の“遙拝形式”論の方々へ

>古来戒壇の御本尊は遥拝形式だったのです。

この形式については、否定した方がよいと思います。

いま、出典を1点だけタイトルをしめします。

「総本山大石寺諸堂建立と丑寅勤行について」(達師説法より)2点同じ様な内容ですが、少し手が入っているようですが、資料的には○2の方が、良いと思います。○2の方は、宗門・正信会の、僧侶で親しければ閲覧・コピー等許可されると思います。この出典は、珍しい物ではありません。

○1 「大日蓮」S46年の雑誌に掲載されています。(月・号数不詳です)

○2 雑誌「蓮華」の別冊の形で、S46年6月20日発行

是を持っている方もいるでしょうが、この議論が成される事自体、不思議です。
“新設”を立ち上げると後世にまで残ると、宗学・宗史の研究へ非常に邪魔と成りますし、また、上記を読んで理解出来ないときは、もう少し宗史を勉強なり研究する、必要が有るのではと、考えますし、その他の出典、または半非公開の資料もありますが、宗史に明るい人でないと、却って(研究課題として)混乱する事と成りかねませんので、あえて1点のみを、紹介いたします。

222常徳庵:2003/08/18(月) 00:26
荒木伸吾さん

その前に、221の自身の投稿が、余りにも不信節と思い補足いたします。

>188 古来戒壇の御本尊は遥拝形式だったのです。

(追記)出典の意図について、小生が今研究中で結論の域にまだ至っていませんが、達師が明快に戒壇様について、出典本に記されて居りますので、参考文献として明示致しましたが、その意味が分から無い方への、インホメーションです。
この中に「内拝制度」も含まれる為、小生に躊躇いが発生したもので、「否定」とだけ記載したので、江戸前期には「遙拝形式」「内拝制度」は、存在せず本堂安置にて、誰でもが参拝(戒壇様の事です)出来たと、思われます。
この事の理由と、それ以前の状態が……  そこで皆様の意見ないし所感を、寄せられればと、思い切って・書く(躊躇いが)ことに……  精師の代と学会ではいわれて、また達師も同様な発言を、しておりますが? 形式・制度を触れると、どうしてもその問題を避けて通るのが出来ませんので、敢えて此処まで開示します。
“古来”と記す事は、今は不問とさせる事の方が現状に於ける認識として、良いかとも存じますので…… 但し“古来”として論議すると、古来説の方は多分その自説を、持ち続けると論議に破綻を障じる事と成るでしょう。

221で○文字の中に数字を組み入れましたが、分解して仕舞いました。失礼しました。

>191 違いますよ。現在でも猊下は、毎日の丑寅勤行では、御戒壇様を遙拝所から遙拝し>ますよ。
>内拝はあくまでも御内拝であり、苦悩乱者さんは、昔は御内拝が無かったから、遙拝し>か無かった事を言われているんでしょう。

この説は、江戸中期頃から後期頃の、金沢武家信徒の伝説が今日まで、伝わって誤解を産んでいると思います。理由は上記の中での記述より理解して下さい。

223kane:2003/08/18(月) 01:06
はじめまして。kaneと申します。

>>221
>>古来戒壇の御本尊は遥拝形式だったのです。

>この形式については、否定した方がよいと思います

との件ですが、『連陽房雑雑聞書』には、日有上人からの聞書として、下のように
記されております。

一、仰ニ云ク、今当宗ノ御勤ハ日月自行ノ御時ノ勤也、是レ尤宗旨ノ勤ナル間是レ
ヲ本ト為ス也。朝天エ十如是寿量品、御本尊エ方便品ノ長行寿量品両品也、御影堂
ニテ十如是寿量品計リ也、御堂ノ勤ヲ御坊ニテ遊ス時ハ天ノ法楽ノ先ノ如ク御本尊
ノ勤ノ前ノ如ク御影ノ御勤ハ不レ讀也、当宗ノ宗旨タル勤ハ案シ定メテ加様ニ讀ミ
申ス也云云。

「日月自行ノ御時ノ勤」「是レ尤宗旨ノ勤ナル間是レヲ本ト為ス」とあるからには、
これは朝夕(および当時は正午も?)の勤行の事ではなく、丑寅勤行についての話
であることは明白であります。そして、14世日主上人による大石寺古地図によれば
大坊からみて御影堂-本堂は北東の方角にあったとされている訳ですから、この中の
「御堂ノ勤ヲ御坊ニテ遊ス時」というのは、まさしく丑寅における「戒壇大御本尊
遥拝」の原型であったろうと私は思っておりますが、この義はいかがでしょうか。

224常徳庵:2003/08/18(月) 13:04
Kaneさん  (その1)

回答の前に、222の投稿の訂正をさせて下さい。
  不信節=不親切。
  インホメーション=インフォメーション
失礼しました。

223 kaneさんのご指摘、有り難う御座います。
僕は歴史が専門ですので、教学的回答は期待しないで下さい。

1)まず、有師の聞書の引用については、222をご覧の上ででしょうか、それと221
出典を見た上でのご指摘なのか、確認した上なのか小生が分かりません。
そこを確認されたのか、ご返事の上でお答えしたいと思います。

2)有師の聞き書きの中で、勤行について「?」が有りましたので、答えます。
歴史上、勤行についての、検証は僕としてはまだ研究をしていませんが、勤行の作法の(化義)時代の変遷は、分かりませんが、有師の頃には「三時の勤行」が行われていたようで、初めてしりました、有り難う御座います。
僕の記憶の中で、三時の勤行については、幕末から明治初期に、霑師の書状に一度、三時の勤行について記述されているのが、記憶にあります。(記憶ですので三時か三度かは、はっきり覚えていません)
これは玄中寺の開基檀那への僧侶の派遣に当っての、依頼状の中に記されたものの中に
有ったと、記憶してますが、出典を探すのは大変なので経緯については、これまでで、この三時の勤行とは、当時までの長い年月、行われていたとは驚いております。
本題は、この「三時」の内容ですが、是は石山のことではなく末寺に於ける、僧侶の事で現代では、遠く及ばない事柄で、1日3回の勤行が行われていたとゆうことです。
3回の行う時間ですが、この中に丑寅勤行も含まれて居たようです。
ですから有師の時代には、既に行われていたんですね、この聞き書きは僕も読んではいますが、歴史事項のみで後は流し読みですので、kaneさんへの回答の一つにでも成ればと、記す次第です。

3)主師の古絵図に関しては、質問の内容が分かっての上での質問になっていませんので、僕の方から逆に質問致します。
Q1) 興尊の時代より、江戸中期までの石山の境内の変遷を、主(おも)だった事項ででも良いですから、答えて下さい。(長く成りましたので、分割します)

225常徳庵:2003/08/18(月) 13:05
Kaneさん  (2)

Q2) “遙拝”について、「戒壇様」が有師の時代に、どこに安置されていたのですか?
Q3) 三堂伽藍について答えて下さい(出来れば富士門流全体まで)
Q4) 主師の絵図について、「北東の方角」とありますが、確信ありますか。

取り合えず以上、4問お答え下さい。回答は急ぎませんので、一括して長文の時は、分割して下さい。

>「御堂ノ勤ヲ御坊ニテ遊ス時」

この設問は、kaneさんの回答のあとにします。

教学面での回答を希望されるのでしたら、僕より他の方のほうが、正・傍・反の答えが得がれると、思いますが、僕への回答を求められると、歴史考証の上での事になります。
また、引用文も切り文でなく、前後の文章もある程度入れてください。
いちいち、その出典を見ながら文章を構成するのは、大変な作業に(僕の場合)成りますので、宜しくお願い致します。
ただ、僕が全て分かっているとゆう間違いをしないでください、僕も分からない時は、はっきりと表現いたします。

失礼がありましたら、ご容赦ください。

226ガンコ:2003/08/19(火) 07:09
常徳庵さん、おはようございます。

とても専門的で、わたくしにはついていけない領域ですが、いろいろと教えていただければ幸いに存じます。
ただ、失礼ながら、やや文章が不明瞭であって、よく飲み込めません。それと、わたくしのばあい、ご提示いただきました資料を容易に入手できない立場のものですから、余計になんだかわからないのかもしれません。

>江戸前期には「遙拝形式」「内拝制度」は、存在せず本堂安置にて、誰でもが参拝(戒壇様の事です)出来たと、思われます。
>この事の理由と、それ以前の状態が……

つまり、江戸以前の状態がどうであったのか、わからないという意味でしょうか? 

その上のほうで
>小生が今研究中で結論の域にまだ至っていませんが

とおっしゃっていますが、下のほうでは
>但し“古来”として論議すると、古来説の方は多分その自説を、持ち続けると論議に破綻を障じる事と成るでしょう

つまり、いまだ研究途上だが、「古来遥拝説」はあきらかに間違いだとおっしゃるわけでしょうか?

ちなみに、わたくしはなんにもわかっていませんので、ただ質問させていただいているだけです。逆に質問されてもこまっちゃう・・・その程度の知識しかありませんので、よろしくご承知おきを願います。

227常徳庵:2003/08/20(水) 07:15
ガンコさん

初めまして? 自己紹介なしで、お会いしたかも…… 

書き込みの多い方だけに、鋭い指摘、推察に敬意を表します。
本来は、書き込みをしない考えで、ネットを読ましてもらう積もりで、4ヶ月程前より拝見していましたが、(パソコンにはじめて触れたのが1年程前なので)僕の考えとのギャプに余りにも差を、感じまして、つい書き込みをしてしまいました。
タイピングもままならない状態で、書き込む結果となり、返信も遅れがちですが、今後も宜しくお付き合い願います。

221と224との相違については、自分でも意識して書いております。
本来、224は書く積もりがなかったので、矛盾を覚悟で書いた次第です。
プロの学者であれば、今自分の手元以下の資料で、論文を書けるのですが、僕の性格で推論の上で、論文を書くのが嫌でこの様な記述となりました。
自分の事情で、ガンコさんを惑わす結果となり、申し訳なく思っております。
224の記述に関しては、今後の論文を書くにあたって支障の無い程度にと、その一部を書いたもので、ご推察の程お願いします。

尚、出典の達師の資料に関しては、菊水さんか、妙薬さんと連絡が取れるのでしたら、当方への連絡情報が教えて下さると思います。

228菊水護国:2003/08/20(水) 08:34
ガンコさん
突然ですが、通常書き込みは現在自粛してますので一言だけ。

>尚、出典の達師の資料に関しては、菊水さんか、妙薬さんと連絡が取れる
>のでしたら、当方への連絡情報が教えて下さると思います。

と常徳庵さんが申されてますが、私へメール下されば宜しいかと思います。
大昔(爆)メール頂いたことがあると記憶してますが、保存してないので
宜しく御願いします。

229苦悩乱者:2003/08/20(水) 11:06

常徳庵さん
菊水護国さん

始めまして,苦悩乱者です。よろしくお願いいたします。

御投稿,ほんとうに有難うございます。

私は,断定的な書き方をしてしまう事がしばしばですので反省しておりますが。現在,富士門に関係している人々,特に,真面目に法門を学ぼうと志している方々が非常に混乱している。そういう状況が如実に現れています。私は,私なりに結論ずけてはいるのですが,なにせ,「真蹟遺文」以外は受け入れない方も居られまして,「一文不通」の末法荒凡夫である事を自覚する事が大切だと思うのですが,・・・それはさておき,「遥拝」についてですが,「古来遥拝だったのです」。は,私の推論です。解ったような表現をした事,申し訳ありませんでした。時節の混乱ということでしょうか?,ただ,古来「遥拝」が(で,ではなく)有ったことだけは,確認できる事であると思います。そこで,疑問が生じる訳です。「何故?」,「御本尊」のお膝元で「遥拝」をなされるのか?という疑問です。ここからは推論になりますが,「魂魄」とは目には見えざるものです。その「目に見えざる処のもの」をあえて「仮の姿」(形あるもの全て無常を逃れられず)として顕してくだされた,そのことを伝えたいが為に「遥拝」があるのではないか?と考えるわけです。又、御本尊授与についても,「富士一跡門徒存知の事」に云く,日興の弟子分に於いては,在家出家の中に或いは身命を捨て・・中略・・在所を追放せられ一分信心のある輩に,忝くも書写し奉り之を授与するものなり。と仰せのように,信心堅固な者でなければ,「御本尊」を頂けなかったと思われます。当然に外の人は「遥拝」になります。ただ,この書も真蹟でないのです。そこで繰り返しますが,「真蹟」以外は信じない方も居られるのです。教主釈尊の諸経典も真蹟が存在しないのにもかかわらず。ですから,わたしは,あえて,もし火事にあって,「御本尊」を守るか,「相伝書,法門書」を守るか,どちらか一方を選びなさいと言われれば,躊躇することなく,後者を護ります。と書いたわけです。「御本尊」が護られてきても,「やれ偽者だ」「いや本物だ」と混乱するのです。真蹟が残っていればなあ,とつくづく思ってみても後の祭りなのですが。・・・

私は,犀角独歩さんとのお話し合いに入りますので,暫くの間,おいとま致します。「富士の清流」の再興をお祈りいたします。

230ガンコ:2003/08/20(水) 23:33

常徳庵さん、どうもご挨拶が遅れました。

わたくしは顕正会員でして、顕正会しか知らない今の大半の顕正会員と同じく、「遙拝勤行があたりまえ」という認識しかなかったわけです。
ですから、難しいことはなんにもわからないのですが、まあ、ここで学ばせていただいてだいぶんわかってきた、といったところです。

いちおう、会長の浅井は立場上、遙拝勤行の正当性を論じておりますが、直接的にはもっと簡単な話です。つまり解散除名処分になっちゃって御本尊をおろしてもらえなくなって、それでも新しく入信したいという人のために考案した形式・・・じっさい、法華講・学会などからの入会者以外はみんなこの形式でやっているのですから、どうにかうまくはいっていると言えるでしょう。
わたくしがつねづね御宗門に復帰できることを願うと申しているのは、この遙拝勤行が間違っているからと言うつもりはありませんが、ただ、いわゆる御遺命守護完結との兼ね合いで矛盾をきたしてきたことは否めないからです。この辺のことは知らない人には申し訳ありませんが、今は詳細に説明することをしませんのであしからず。

それと、苦悩乱者さんとは必ずしも同意見ではありませんが、まさに形式ではなく、心こそ大切なれ、であろうと思いますので、けっこう遙拝勤行ってステキだと思います。

ヘンな文章でごめんなさい。

それにしても、菊水さん・妙薬さんとお知り合いとは。
お二方は、去年の秋わたくしがこの掲示板に書き込みをするようになって、早々にお声をかけてくださった方々であり、忘れるものではありません。
なんだかネットの世界は広いのか狭いのか、よくわかりませんね。

231ガンコ:2003/08/20(水) 23:58

菊水護国さんったら、もう。自粛なんかおよしになって、どんどん書き込んでくださいよ。

メールの件は、どうしようかなあ・・・

232常徳庵:2003/08/21(木) 03:41

ガンコさん

僕のメール・アドレスが分かりましたか?

ガンコさんの、メール・アドレスを、僕のほうへ教えて下されば、「大日蓮」の方でしたらスキャン画像にて、「達師の説法」をEメールにて、送信いたします。

Eメールにての、送信をしたことないんで、操作手順を教えて下されば、全文送信致します。

233常徳庵:2003/08/21(木) 06:09
苦悩乱者さん

229の君の書き込みについて、もっとキチンと書き込みしなさい。
その書き込みでは、誤解を残したまま敵前逃亡と、言ってもおかしくない表現です。
特に前半と、後半で、君の意見に明らかに、自己反省に矛盾がみられる。
君の書き込みで、賛同者が居るとしても、前半では「断定的な書き方をしてしまう」と書いて、後半では、」推論として、自説を正当化しようとしている態度に、きみの本性が見えてくる。
もっと、素直な書き込みが出来ないのですか?
その上、この掲示板から逃げるような書き込みをして、自己反省も軽く受け流す君のスタンスは、卑怯と批判されても仕方がないと思う。
推測自己判断も良いであろうが、229の書き込みは、余りにも無責任である。
今後、君の何処の掲示板で見つけたら、徹底して付きまとうと考えている。
君の考えであろうが、出典を示さず推論として、書き殴る無責任、要領良く書いてお茶をにごす、この態度に不快感を最大限に観ずる者を感じる。
もっと責任を認識しなさい。

234苦悩乱者:2003/08/21(木) 13:58

常徳庵さん

レスを有難うございます。

文章をお見受けいたしますところ,御僧侶であられるお方とお見受けいたします。

私は,プンダリカに参りますので,今暫くご容赦ください。

御書システムも手元に届きましたので,以外に早く戻れるかもしれません。
どうか,暫くのご容赦を,おねがいいたします。

>徹底して付きまとうと考えている。

よろしくご指導の程,お願いいたします。

235ガンコ:2003/08/22(金) 12:48

>私は,犀角独歩さんとのお話し合いに入りますので,暫くの間,おいとま致します。
>私は,プンダリカに参りますので,今暫くご容赦ください。

いやいや、これはもう、大変なものです。おそらく、みんなぶったまげているでしょう。

236苦悩乱者:2003/08/23(土) 09:29

235 ガンコさん

>いやはや,これはもう・・・

いやはや,これはもう,仏陀まげてしまいました。

あれ,間違えてしまいました。
「ぶったまげて」でござおます。
あ!又、間違えました。
ござおます。ではありません。
ございます。です。

237苦悩乱者:2003/08/23(土) 10:22

常徳庵さん

今,御宗門では,祖道の復興を目指されていると,お聞きしました。祖道と申しますと,宗,開,目師の道と解されますが, >222 古来と記すことは,今は不問とさせる事の方が・・・  つまり,「解らない」という事ですね。嫡々代々の御法主様もご存知ないのですか? 御返事をお待ちしております。

238苦悩乱者:2003/08/23(土) 12:20

>222→>233でした、訂正します。

239苦悩乱者:2003/08/23(土) 17:36

常徳庵さん

>233 古来と記すことは、今は不問とさせる事の方が・・・

法水を受け継がれたところの、嫡々代々の御法主にお聞きになってください。

お待ちしております。

私にとって、これはとても重大な事柄ですので、是非ご教示ください。

時間が掛かりますようでしたならば、一度その旨お知らせください。

尚、>236の表現は少し品が無いので取り消します。

いきなり、「君」呼ばわりされたり、犀角独歩さんに送りました開目抄の抜粋(御書システム、興風談所)を一笑に付されたりと、すこし頭に血が上ってしまったものですから、

尚、「御本尊」のこと、
御義口伝、第四是人持此経安住稀有地の事 (学御 p.763)

・・・今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者の稀有の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり、・・・、と仰せですが、この御文の解説をも、常徳庵様にお願いいたします。

240kane:2003/08/24(日) 00:11
>>224

(1)221にお示しの文献は手に入らずまだ読んでおりません。

(2)この連陽坊聞書の朝・正午・夕の「一日三時の勤」の中に
「丑寅」は入ってませんよね。朝は「辰巳」となっております。
 
 だからやっぱり、220の文にいう「宗旨の勤」ってのは、「一日三時の勤」とは
また別、ってことなんじゃないのですか?
 
#いま保田で午の勤行やってるらしいよ、大石寺でやめちゃったもんだから対抗
意識でやってるのかねえと私の指導教師から教わりましたが、ほんとかなー・・・。

(3)
Q1) 興尊の時代より、江戸中期までの石山の境内の変遷を、主(おも)だった事項ででも良いですから、答えて下さい。(長く成りましたので、分割します)

私は学者ではありませんからちょっと無理ですよそんなの。
やってもいいけど富士年表の丸写しになるだけです。
信心している者の関心というのは、必ずしも、ものしり競争には向きませんのです。
歴史がご専門でしたらまずそちらでまとめて下さればよいのでは・・・

Q2) “遙拝”について、「戒壇様」が有師の時代に、どこに安置されていたのですか?

いつの時代だろうと、”「客殿」の奥深くにまします”のでしょう?
これより外の才覚無益なり、というのが信心する者の立場ですよ。

Q3) 三堂伽藍について答えて下さい(出来れば富士門流全体まで)

わかりません。

Q4) 主師の絵図について、「北東の方角」とありますが、確信ありますか。

違いましたか?違うならば御教示下さい。

241苦悩乱者:2003/08/24(日) 11:06

240 kaneさん

始めまして、苦悩乱者です。よろしくお願いいたします。

> だからやっぱり、220の文にいう「宗旨の勤」ってのは、「一日三時の勤」とは
  また別、ってことなんじゃないのですか?

私も同様に考えています。「宗旨の勤(つとめ)」という所が重要だと思います。
現在の御宗門は「そのへん」をご存知無いのでは?と考えております。

常徳庵さん、「そのへん」のところをご教示下さい。

242苦悩乱者:2003/08/24(日) 11:09

常徳庵さん

>233 古来と記すことは、今は不問とさせる事の方が・・・

法水を受け継がれたところの、嫡々代々の御法主にお聞きになってください。

お待ちしております。

私にとって、これはとても重大な事柄ですので、是非ご教示ください。

時間が掛かりますようでしたならば、一度その旨お知らせください。

どうぞ、よろしくご教示のほどをお願い致します。

243愚鈍凡夫:2003/08/24(日) 17:02
藤波太郎さんこんにちは、

重須談所2代学頭三位日順師の『本門心底抄』を拝読していて、ふと疑問が湧いてきたので質問させて下さい。
日順師の記述によると、本門戒壇の本尊は大曼荼羅でないように思うのですが、現在、北山本門寺では以下の文証をどう解釈されているのでしょうか。

「此の上に本門の戒壇建立必定なり、所以は何ん・涌出神力の明文に本化の大人を召して久成の要法を授く、故に経には・後五百歳中広宣流布・於閻浮提無令断絶と説き、釈に・当知法華真実経・於後五百歳必応流伝と明せり、加之・天台は下方を召し来る亦三義有り・是れ我が弟子応さに我が法を弘むべし・縁深広を以つて能く此の土に遍く益すべしと、道暹云はく・付嘱とは此経唯下方涌出の菩薩に付す、何を以ての故に爾る・法是れ久成の法に由るが故に久成の人に付す等と経釈符契の如し、行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。」(本門心底抄)

「仏像を安置することは本尊の図の如し」
とは、仏像の座配を大曼荼羅の通りにせよとの御指南と受け取れるのですが。

また、『日順雑集』には、
「一、私に云く戒定慧とは妙法蓮華経なり、難じて云く戒定慧は三なり五字は一なり如何、答ふ三にして而も一、一にして而も三なり、戒壇本尊妙法の五字は面は三にして其の躰一なるか、山家大師云く虚空不動戒・虚空不動定・虚空不動慧・三学倶伝名て妙法と曰う○云云、宝塔品に云く此経難持○云云。」(日順雑集)
とあります。
ここでの
「戒壇本尊妙法の五字は」
とは、「法華経の題目を以て本尊とすべし」(「本尊問答抄」 学会版P365)
との仰せと符合するのですが・・・・・。
ご存知の範囲で結構です。宜しくお願いします。

244愚鈍凡夫:2003/08/25(月) 23:20
問答迷人さんへ。お元気ですか。

>>243:に引用した『本門心底抄』の一節を通し、蓮祖は六老僧に対して平等に法門を伝授したのだと益々確信を深めました。
ただ、聖滅後にそれぞれの弟子たちが都合のいいように法門を変えていったのでしょうね。
石山や重須も、その時々の都合で変えていったのでしょうね。
日順師の書に「戒壇之本尊」に繋がるような記述があるかと思って探してみたのですが、残念ながら見つかりませんでした。
日順師は日興師在命中に帰依したのですから、日興師から蓮祖の法門を直に指南されたものと思います。日順師の遺文(とされるもの)に「戒壇之本尊」の記述がないのは、蓮祖から日興師に特別な相承がなかった傍証になるのではないでしょうか。
ところで、『本門心底抄』は資料として信頼を置いてもよいのでしょうか。
ちょっとその辺が気になったものですから。お尋ねします。

245犀角独歩:2003/08/26(火) 07:19

横レス、失礼。
興門の本尊意識の変遷は、やはり、執行海秀師の、以下の論考を読まず、語るべきではないと思います。

初期の興門教学に於ける本尊意識の展開
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_003.html

246愚鈍凡夫:2003/08/26(火) 22:46
犀角独歩さんへ

245:にお示しの論文、ダウンロードしてハードディスクに入ってました。まだ読んでいませんが。(;^_^A アセアセ…
早々、勉強させて頂きます。有り難うございました。

247犀角独歩:2003/08/27(水) 17:27

愚鈍凡夫さん:

ここ富士門流信徒の掲示板で議論しているような内容は、既に40年も前に、執行師が語っています。わたしは、『興門教学の研究』を読了したとき、「ああ、もっと早く読んでいればよかった」と悔やまれたものでした。

執行師は、亨師はもとより、達師とも親交があったようです。達師が執行師を石山に招いたのは夙に有名なことであると風聞しています。そのようなことから、石山の坊さん、案外、「事実はわかった」うえで、石山人として振る舞っているのではないのかとわたしはあやしんだりしているわけです。その最たる例を「河辺メモ」と思っている次第です。

248空き缶:2003/09/06(土) 22:14
初めまして「空き缶」と申します。
大石寺の板曼荼羅(通称:本門戒壇の大御本尊)について。
誰の造られたものであっても御本尊に変わりはありませんが。少なくとも日蓮聖人御在世中に造られたものではないでしょう。
願主「弥四郎国重」は新田小野寺家の家系の人物で、日道氏と親戚関係にある方です。
日目上人・日道氏・日行氏・日時氏、すべて新田小野寺家です。この家系をうまく利用したのが「本門正宗」なるところでしょう。
新田小野寺家は国学院大学等の国文系の大学の図書館に行けば、家系図や関連資料が見つかります。
つまり、願主「弥四郎国重」は日蓮聖人御在世中の人ではありません。
尚、日精氏の家中抄には弥四郎国重は日道氏を大石寺に移した人であることが出てきます。

249愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 00:07

「弥四郎国重」についての資料(コピペですが)

『日蓮聖人年譜』(日精)
「此処の地頭は南部六郎実長なり後に入道して法寂房日円とぞ申しける、先祖は新羅三郎義光の五男信濃守遠光の三男、南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」
「実長子息多々なり、嫡子弥四郎国重」

『富士門家中見聞抄目録』(日精)
「日円の本尊には法寂坊授与とありて年号なし、日番の本尊には年号ありて授与書なし(共に富士久遠寺に在り)、弥四郎国重事 日道を大石寺に移す」

『富士大石寺明細誌』(日量)
「同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり霊端に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ」
「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝る云云」

第17世日精師は「弥四郎国重」を波木井六郎実長の子としています。
聖滅350年以上も後の法主が「弥四郎国重」に御執心なのは奇妙ですね。これ以前の石山に、「弥四郎国重」の資料はないようですよ。
念のために。

250空き缶:2003/09/07(日) 00:38
愚鈍凡夫様
弥四郎国重に関してご意見ありがとうございます。
大石寺になくとも、武家の台頭の契機となった「源平合戦」宇治川先陣争いに登場する小野寺道綱について大学の図書館で調べればでてきますよ。
【新田小野寺氏】
この一族は二代目道綱が恩賞として賜った奥州新田郡に孫重房が入植し、地頭職を務めた。彼らは「小野寺」の名から「新田」「登米」「三迫」「加賀野」など、自ら入植した土地の名を負った。狭い領地を一族に分割相続したこと、また葛西氏が当地に入植したこと、さらに、刀を置き、出家し法界にあらたなる地位を求めるものが少なくなかった。このため一族の繁栄に陰りが見えた。この家系からは、日蓮宗の高僧日目上人をも排出した。

「系図」
    重房┬ 某 ─行重─日行   
     ├重秀        
     └重綱┬重道─重行  
         ├頼綱┬行時─日時
      │  ├日道
      │  ├国道
      │  └道章
      ├頼道─行道
      ├信綱─国重
      ├日目
      └行道
下のほうに出てくる「国重」は弥四郎と称していました。調べればわかりますよ。
尚、日道氏は「本門寺座主」であったとでてきます。

家中見聞中の「弥四郎国重事 日道を大石寺に移す」と符合します。

251愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 02:33

空き缶さん、挨拶が遅れました。愚鈍凡夫です宜しくお願いします。

空き缶さんの記述は下記のHPからのコピペですか?

「新・小野寺盛衰記 新田小野寺氏」
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/niita_onoderashi.htm

確かに、
国重) 信綱の子。弥四郎と称す。『古城書上』のなかに栗原郡金成町普賢堂の「普賢堂」城主小野寺弥四郎とみえる。彼のことか。
とありますが、弥四郎という名の人物については、

①新田四郎信綱嫡男説。
②波木井六郎実長嫡男説。
③富士下方市庭寺在住の農夫説。
④光日房実子説。
とあるわけです。
従って何れの人物が、
「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
の弥四郎国重かは不明なわけです。
空き缶さんが御提示下さった資料は、当然、研究者たちは知っているわけです。
それでも、決め手に欠けるというの現状ではないしょうか。
尚、ここの掲示板でも弥四郎国重については、議論されてきました。しかし、結局身元を特定できなかったと記憶しています。

それでは、今日はここまで。お休みなさい。

252空き缶:2003/09/07(日) 12:26
愚鈍凡夫様
はい、コピペに使用したのはそのページです。
『小野寺一族』 日本家系図協会 なども是非参考にしてみてください。
弥四郎国重はほぼ特定されます。
波木井実長嫡男説は捏造説でしょう。
その他は「弥四郎」違いだと思います。
「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
明らかに日蓮聖人の筆ではないでしょう。
おおかた重須から大石寺に移る際に日道氏が「日禅授与」の本尊でも書写したんではないでしょうか。
日蓮聖人の授与書きと日興上人の添書きを除いて。この本尊も北山本門寺では万年救護本尊ですし。
北山のそれと西山の万年救護本尊はほぼ同文の日興上人添書がみられますね。もっとも北山のそれは東京法道院を経由して現在は大石寺にありますが。
大石寺も思い切って写真公開すればいいものを。
本家本元の「万年救護本尊」は日郷上人に伝り現在は保田妙本寺の所蔵であることは皆様ご承知の通りです。

253愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 13:08

弥四郎国重に関して、
要するに空き缶さんの主張は、石山の歴代法主(第9世日有師以降?)の誰かが弥四郎国重(新田四郎信綱嫡男?)の名を借りて、「戒壇之本尊」の願主とした。ということですか。
そういうことなら小生も同意です(ただ、弥四郎国重の身元について、まだ疑問が残っていますが)。

> 北山のそれは東京法道院を経由して現在は大石寺にありますが。

あれ、そうだったんですか。
日応師が売りに出されていたのを密かに買い取り、東京法道院に預けたという本尊は、北山の弘安三年日禅授与本尊(万年救護本尊)のコピー本尊だと思っていました。
したがって、本物は今も北山にあり、広宣流布の暁には北山本門寺の戒壇堂に御遷座申し上げるものだと思っていました。
ところで、日禅授与本尊の写真はネット上に出ていますよ。

「弘安三年 日禅授与本尊」
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

254空き缶:2003/09/07(日) 17:20
日禅授与の本尊は大石寺に現在所蔵されている方が本物で北山のは模写版だと思っています。
私はこの本尊を書き写した人と、板に彫刻した人は異なる年代の人物だと推察致します。

255犀角独歩:2003/09/07(日) 18:50

○日禅授与漫荼羅が二体ある理由

ご参考に
『(続)大石寺の歴史』から転載

*** 以下転載 ***

94 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:51


ワラシナさん:
問答名人さん:

過去ログで禅師授与曼荼羅、石北両山にある話題の時、ユーモアを交えて、ワラシナさんは以下のように指摘されました。

…大聖人様もお忙しい中よく二つも書いてくださいました。
だけど、ここで思い出されたのが、かって「徳明」氏に教えられた真跡紙幅本尊の
クローン複製法?です。和紙の表層をうまくはがせば、そっくりコピーさんがもう
一丁できあがる、というあの話です。
のり弁当ののりをはがせば、醤油に染みたおかかは均等ではない。しょうゆにしみ
だご飯と染みない白いご飯の部分が混ざった感じになっている。
表層一枚をはがして下に残った本尊の表面は、墨の汁が表層のやつほど濃くはない
だろう。こういうことがあるんじゃないかな、と考えています。
(大石寺の歴史 158)

この方法を、『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
既読であろうかと思いますが、取りあえず、転載します。

剥離表層(これは主として御本尊に見られるものと云われる)、剥離すると本体と影本という両本が出来るが何れも偽物ではない。本体と影本と並べて見ると容易に判別できるが、殆ど所蔵が離れているので一箇処に並べてみることが出来ない(P14)

ロムの方々に少し説明を付せば、川辺メモで問題になった禅師授与曼荼羅は石山にあることになっているのに、実は北山にもあるという指摘をワラシナさんがしてくださった。

なぜ、二体あるのかを説明されたのが、上記のワラシナさんの投稿でした。
和紙が厚みがあるので、うまくすると表層をうまく剥がせ、2枚にすることができる、剥がしても墨は裏のほうまで染みているので、表層を取られても、墨痕・文字はしっかりと残る、そのために真筆の曼荼羅を二体(本体・影本)に分けられる。この方法を使って、二体に分けた禅師曼荼羅が石北両山にあるのではないのかという話です。

*** 転載おわり ***

なお、この話には尾鰭があります。北山が金に困ったとき、この剥離表層によって影本を作り、それを石山に売ったということでした。やや本門寺根源の名誉を傷つける話で、恐縮ですが、繰り返しますが、未確認の噂話です。念のため。

256空き缶:2003/09/07(日) 22:39
先ほどは仕事の休憩時間に携帯から書き込みました、先ほどの続きです。

私も板に彫刻したのは「日有氏」であると推察します。書き写された「日禅授与曼荼羅」を掘り下げたものと思っています。いくらなんでも真筆の掘り下げはしないでしょう。
そして、書き写したのは日道氏か日時氏あたりではないかと思います。日時氏の方が「河辺メモ」と符合しますが。
しかし、これは後世の人々をだます為ではなく、日郷上人のもと「保田妙本寺」に宗祖正御影と万年救護本尊がわたってしまったために、その代わりのものとして日興上人の添書により「万年重宝」「本門寺に懸け奉るべし」と書かれたもう一つの万年救護本尊である「日禅授与曼荼羅」の書写版をもってこれに変えたものと推察いたします。
現在の大石寺の通称「本門戒壇の大御本尊」は熱原法難ではなく、道郷紛争を縁として造られたものと思っています。
現在の大石寺の御影が日時氏の代に造られたものであることや、日時氏も保田妙本寺に重宝類の返還を求めていることなどからそう推察いたします。
遠い過去の話ですので、これが完璧といえるものはありませんが。

257愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 23:20

空き缶さん、日曜日のお仕事ご苦労様です。
「弘安三年日禅授与本尊」が石山の「戒壇之本尊」のベースになったとする説に反対はしません。むしろ、その可能性は極めて高いのではないかと思います(こういう言い方をするのは、直接証拠がないからです)。
そして、便宜的にレプリカ本尊と呼びますが、そのレプリカ本尊が最初に重須から石山にわたったのはいつか?
となると、全く資料を持っていませんので、何とも言えません。
ただ、現在の半丸太状の「戒壇之本尊」が現れたのは、第9世日有師から第17世日精師の時代で、ほぼ間違いないと思います(もとより、直接証拠は提示できません)。

ただ、言えることは、

『弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯●漫荼羅と称す)』(富士宗学要宗第8巻P215)

の文証と、「弘安三年日禅授与本尊」が現存するということは、事実であるということですね。

258愚鈍凡夫:2003/09/07(日) 23:45

あっ、
犀角独歩さん。資料の提供有り難うございました。
確かに過去ログをROMした時、読んだ記憶があります。

259空き缶:2003/09/08(月) 00:09
愚鈍凡夫様
「日禅授与の本尊」は日興上人の添書と通称「弟子分本尊目録」に記された文とがまったく同一です。
西山の万年救護は若干相違があるようです。いずれにしてもこの二山が本門寺を名乗ったのはこれらの本尊を所持していたからですよね。
本門寺構想は日蓮聖人の構想というよりは、日興上人の構想であると思っています。
そして本門寺は決して一つの建物を指していうのではないとも思っています。教宣拡大の拠点を「本門寺」と考えていたと推察いたします。
「本門寺重宝也」との日興上人の添書をみる本尊は現存するだけでも5つあります。
しいて特別な建物といえば、国主帰依により立てられる本門寺かなと思いますが。そのときに本堂に安置されるべき本尊は保田妙本寺所蔵の万年救護本尊と宗祖正御影であると思います。

260愚鈍凡夫:2003/09/08(月) 05:57

皆さんお早う御座います。

>>259:空き缶さんへ。

空き缶さんは北山や西山のことに詳しそうなので、1つ質問させて下さい。
小輔房日禅師は、大石寺創建時には南之房を建立し、後に富士郡上野に東光寺、駿河府中に妙音寺を建立しましたよね。
なのに何故、蓮祖から弘安3年に授与された大曼陀羅が北山にあるんでしょうか。その辺の事情をご存知なら御教示下さいませんか。

> 教宣拡大の拠点を「本門寺」と考えていたと推察いたします。

まあ、大石寺は本門寺を名乗ることが出来るのは当山だけと、霑志問答以来声高にアピールしているようですが、実際には登録商標みたいなもんで、どちらかといえば付けたもん勝ちの雰囲気もありますね。

> そのときに本堂に安置されるべき本尊は保田妙本寺所蔵の万年救護本尊と宗祖正御影であると思います。

広宣流布の暁には、保田妙本寺の「万年救護本尊」と蓮祖御影をセットにして安置するのですか?
大胆な発想ですね。率直に面白いと思います。確か、田中智学は「佐渡始顕本尊」だったと思いますが(関係ないか。 (^◇^;))。
それを支える論拠を何かお持ちでしょうか。文証をお持ちであれば、是非紹介して下さい。

重宝の話が出たので「重宝」と加筆された大曼荼羅を紹介します。
ここの掲示板からのコピペです(どなたの投稿か忘れました。済みません)。

○興師における蓮祖漫荼羅への「重宝」の加筆

弘安二年太才己卯十一月日、俗日僧に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり

弘安三年太才庚辰卯月日 下総富久成寺。

弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院。

建治二年二月五日、(興師加筆)日興が祖父河合入道に之を与へ申す、(今切去りて無し)、(首題の下に)本門寺に懸け万年の重宝たるなり

(弘安二年か)(興師加筆)因幡の国富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与へ申す、(同上)本門寺の重宝たるべきなり、京都妙覚寺。

弘安三年太歳庚辰九月三日、俗日目に之を授与す、(興師加筆)富士の上方上野弥三郎重国に之を与ふ、日興(同上)正和元年出□三郎左□に之を与ふるなり、京都妙蓮寺。
弘安三年太歳庚辰五月八日、沙門日華に之を授与す(興師加筆)甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子たるに依つて之を与へ申す所件の如し、(同上)大本門寺の重宝なり、京都本能寺。

弘安三年太歳庚辰五月八日、沙門日華に之を授与す(興師加筆)甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子たるに依つて之を与へ申す所件の如し、(同上)大本門寺の重宝なり、京都本能寺。

弘安四年太歳辛巳四月廿五日、比丘持円に之を授与す、(興師加筆)甲斐の国大井の庄の庄司入道の女子、同国曽根小五郎後家尼は日興が弟子なり仍て之を与へ申す、(同上)之を相伝す孫大弐公日正(同上)本門寺重宝たるべきなり、京都本満寺。

261れん:2003/09/08(月) 06:10
横レス失礼いたします。愚鈍凡夫さんおひさしぶりです。以前日興跡条条事等について意見を聞かれましたが多忙のためレス出来ずにいたこと失礼いたしました。さてご質問の件ですが、石山歴代中戒壇本尊の存在を文献に記したのは十四世日主師で日興跡条条事示書に「富士四ケ寺之中ニ三ケ寺者遺状ヲ以テ相承被成候。是ハ惣付属分ナリ。大石寺者御本尊以テ遺状被成候、是則別付属唯授ノ一人意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、従興師正応之御本尊法体御付属(中略)八通四通者惣付属カ、当寺一紙三ケ条之付属遺状者文証寿量品儀ナリ」また主師は譲座本尊示書に弥四郎国重云々の

262れん:2003/09/08(月) 06:31
戒壇本尊脇書を書写していますので、主師が条条事示書に記した「本門戒壇御本尊」とはこちらで皆さんが真偽を論じられている大石寺の板御本尊で間違い無いでしょう。日興跡条々事そのものについての意見ですが、写真で筆跡を見るかぎり、道師から主師までの歴代の筆癖は感じられず興師晩年の筆癖が見られるので、興師撰の文献としてよいと思います。また、条々事については九世有師の連陽房聞書にも趣意引用があり六世日時師談の大石記にも「此の方にも(日興)上人の御筆を載せたるなり」とその存在を明かしているので、客観的にみても板御本尊と日興

263れん:2003/09/08(月) 06:57
跡条々事の存在は大石寺の文献上同寺六世日時師の代まで遡ることができるでしょう。有師の教学の直接の根拠が日時師の著作である「四帖見聞」(不現存)であると有師聞書「聞書拾遺」にありますし、日時師は目師弟子の民部日盛師とも師弟関係があったので(日盛師の自筆文献に日時相伝之とある)、肯定的に見れば時師の記録は信用してよいと思います。なお、保田の万年救護御本尊についてですが、妙本寺に別幅の副書があり本門寺建立之時懸本御影堂可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之とあります。右参考までm(__)m

264ガンコ:2003/09/08(月) 07:59
空き缶さん、はじめまして、わたくしガンコと申します。

わたくしは戒壇の大御本尊を信仰する教団の末席につらなるものですが、ひじょうに興味深いお話なのでずっと拝見しておりました。
シロウトながら疑問に感じたことがありますので、質問させてください。

かつて河辺メモが問題になったとき、日禅授与曼荼羅は大石寺にはなかったのだから日有上人ないしそれ以降の時代に当該曼荼羅を模して戒壇の大御本尊を造立したということはできない、といった見解もあったように思います。(うるおぼえ)
しかし、あなたのおっしゃるように、日道上人ないし日時上人が書写→日有上人以降造立であればなるほどあり得るかなあとも思われますが、細かい点で疑問がないわけではありません。
まず、日興跡条々事をどうご覧になられるか? ま、まさか、保田の万年救護本尊のことだとおっしゃる?
つぎに、あなたは書写版と模写版という言葉を使っていますが、厳密な意味で日道上人ないし日時上人は書写されたのか模写されたのか、どっちでしょうか? つまり、大石寺の御上人が本尊を書写されるばあい、日付と名前と判形をワンセットであそばすわけでしょうから、それをせずに弘安二年十月十二日として大聖人の御判形を入れたとなれば・・・愚鈍さんはレプリカと柔らかい表現をされていますが、もうこれは贋造といわざるを得なくなると思われます。
また、独歩さんはかつて、戒壇の大御本尊の脇書は、この本尊は弥四郎国重が造立した、つまり板本尊を造らせたのは弥四郎国重という人物である、と読むべきであるとの仮説を示されたことがあります。あなたは弥四郎国重を新田小野寺の家系としますが、いつの時代でしょうか? 日道上人と同時代?
わたくしの申し上げたいことは、戒壇の大御本尊が日有上人以降に造られたとするならば、まず日道上人ないし日時上人の段階で紙幅贋造、つぎに日有上人以降に板贋造、ようするに二段階の贋造がなされたことになり、もはや大聖人の御法魂などとは言えたものではない、ということであります。しかし、そ、そんな、バカな! という思いが強いです。

さて、あなたは日道氏・日行氏・日時氏などとおっしゃいますが、そうすると大聖人・日興上人・日目上人・日郷上人・・・ということでしょうか?

これはまた大変だ。

265犀角独歩:2003/09/08(月) 08:32

れんさん:

はじめまして。少し興味のある話題なので、質問させてください。

> 日興跡条条事示書
> 主師…譲座本尊示書

これら文献の証憑性は如何ばかりのものですか。
また、いずこでこの文献を見ることができますか。
亨師が富要に載せなかった理由はなんであったのでしょうか。
わたしは、この資料は不見聞です。

> 日時師の著作…「四帖見聞」

これもわたしは見ておりません。
いずこに載る資料でしょうか。
ここでいう「四帖」とは、『四帖抄』のことではないのでしょうか。
通常、これは有師が隆師から相承されたものとしますね。

「永亨四(壬子)富士を出で華洛に至り奏聞す、在洛の内、尼崎の日隆と相看したまふ、隆公四帖書を以て有師に進らす有師拝受して之れを見ず」(家中見聞下)

隆師の存命は元中2(1385)年〜寛正5(1464)です。
方やお示しの時師は生年は不明ながら寂は応永13(1406)でした。
となると、時系列が一致しないことになります。

あと、時師に係る文献は『本因妙抄』『三大秘法抄』などの重大な古写本ありとされながら、どうも証憑性に乏しいように思えますが、この点は如何でしょうか。

既に記してきましたが、わたしは戒壇之漫荼羅は、国重の、円師の嫡男伝説に仮託して精師が造立であると考えています。その根拠は精師造立の御影堂は精師の筆で「本門戒壇堂」と記され、それに比するように板漫荼羅には「本門戒壇願主」とあるからです。もちろん、「本門戒壇願主」の既述があったから「本門戒壇堂」としたと考えることはできますが、そうなると、その主たる漫荼羅を、何故のちに宝蔵に遷してしまうのか、この点で腑に落ちません。

精道師(のちの達師)の『板本尊偽作論を粉砕す』、あるいは応師『弁惑観心抄』には、有師が「戒壇之大御本尊を模刻」したとの記載がみられます。この本尊の相貌はわたしは未見聞なので、なんとも言えませんが、むしろ、この漫荼羅こそ、板漫荼羅の祖型と見るほうが時系列的には自然であると感じます。

> 万年救護御本尊…妙本寺に別幅の副書

これは誰の筆なのでしょうか。

以上、勝手ながら、質問させていただきました。
ご回答をいただければ幸甚です。

266れん:2003/09/08(月) 09:07
独歩さんはじめまして。ご質問の件にお答えします。まず主師撰の条々事示書・譲座本尊示書ですが、条々事示書は日蓮正宗歴代法主全書第一巻の主師の部に収録されています。譲座本尊示書は興風談所刊行興風紀要創刊号八十ページに御筆写真が掲載されています。条条事示書については写真がないので、本当に主師のものかはわかりませんが、譲座本尊示書については歴代全書口絵に掲載された他の主師正文書の筆跡と比較して主師のものであることは確かです。石山を否定し破折されようという御方が、歴全や富士宗学全集(富士学林研究教学書)に目を通してお

267れん:2003/09/08(月) 09:29
られないのには、正直びっくりしました。せめて、大黒喜道師の日興門流上代事典くらいは座右において、富士宗門史を研さんすべきと存じます。次に時師の四帖見聞ですが有師聞書の一つである聞書拾遺(これも歴代全書に収録)に「若しも世の末にならは高祖の御時之事仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候」とあり、また、雑雑聞書にもこれについて「大石寺は四帖の聖教とて先師の作有之」ともあり、いわゆる慶林隆師の四帖抄とは別のものです。時師の文献そ

268れん:2003/09/08(月) 09:53
のものに対する証憑性についてですが、独歩さんがあげた本因妙抄・三大秘法抄写本についてですが石山側はこれらを時師本と発表していますが歴全掲載の自筆文書・奉蔵於奥法宝に掲載された自筆書写本尊の御筆写真にみえるたしかな筆跡と比べると時師筆とは相違が感じられますので、それらの写本を時師本と断定しそこから時師のものの証憑性を論じるのは早計と存じます。最後に万年救護本尊の別幅副書ですが、千葉県の歴史掲載の妙本寺所蔵曼陀羅本尊目録に出ておりますが、正本を拝していないので、誰の御筆かわかりません。独歩さんが実地調査されて、

269れん:2003/09/08(月) 10:12
そのうえで、ご自身でご判断された方が賢明と存じます。わたしは独歩さんの板曼陀羅精師造立説は仮説としてはおもしろいとおもいますが、主師のたしかな文献がある以上それは成立しないと存じます。条条事(板御本尊を含めて)の存在は大石記の記述により六世時師の代まで遡れる以上、真作ならばそれでよし。偽作ならは時師以前に行われたと見るべきと存じます。いずれにせよ、ここに提示した資料をもとに皆さんがより深く議論されることを願います。私は多忙にてこれから仕事ですのでこれにて失礼します。m(__)m

270犀角独歩:2003/09/08(月) 11:04

れんさん:

有り難うございます。
歴全が手許にないことは残念ながら、事実です。
それを置き、

> 時師の四帖見聞ですが有師聞書の一つである聞書拾遺(これも歴代全書に収録)に「若しも世の末にならは高祖の御時之事仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候」とあり、また、雑雑聞書にもこれについて「大石寺は四帖の聖教とて先師の作有之」ともあり、いわゆる慶林隆師の四帖抄とは別のものです

これは、どのような意味でしょうか。
隆師からの有師が受けたことについては、執行師も記していました。
また、精師の既述は引いたとおりです。

隆師から有師が四帖抄は受けていないということなのでしょうか。是一。
時師が見聞した「四帖」とは何のことでしょうか。是二。
『雑雑聞書』は有師の雑談を記したわけですね。有師が隆師から受けたのが史実であれば、ここでいう四帖とは隆師から受けた四帖抄となりませんか。そうでないとすれば、この四帖とはなんでしょうか。是三。

時師が言う四帖抄とはどのようなものなのでしょうか。「慶林隆師の四帖抄とは別のもの」と仰る以上、四帖抄も読まれてお出でなのでしょう。また、四帖見聞を精査された れんさん であれば、容易に判読できようかと存じます。ご教示いただけますか。四帖抄は手許にあります。時師文の中の四帖、また有師が言う四帖と比較すれば、すぐにわかります。時師・有師のいう四帖をご提示ください。

宜しくお願いします。

271空き缶:2003/09/08(月) 11:59
空き缶です。22時以降に仕事から戻り次第お返事します。
一言だけ、興風談所の「日興上人全集」と「御書目録日記事」に関する研究は一見の価値がありますよ。
先にあげられた写本の日時説はかなり疑問です。真筆といわれる日興上人の遺文は写真で見比べることができます。

272犀角独歩:2003/09/08(月) 16:19

ガンコさん:

> 独歩…本尊は弥四郎国重が造立…板本尊を造らせたのは弥四郎国重という…仮説

よく覚えていらっしゃいますね。

昨年の10月18日の投稿です。

*** 転載はじめ ***

「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白」

もし、この言葉が本当に刻まれているのであれば、弥四郎国重とは、この板曼荼羅を造立したその人なのでしょう。造立した人とは実際に木に刻み彫刻した人、あるいは仏師に、その彫刻を依頼した人という意味です。

どのような経緯で板に彫刻したのか、また言うところの本門戒壇の願い主とは、どんな意味なのか、弥四郎国重が誰であるのか、それは皆目わかりませんが、この「造立(ぞうりゅう)件(くだん)の如し…敬白」とは造立した本人が記す銘文の常套句です。

*** 転載おわり ***

しかし、これは仮説ではありませんよ。
刻まれていれば事実です。

最近は、板漫荼羅はもっぱら禅師授与漫荼羅を使ったということで、論が進みますが、安永弁哲師は妙海寺漫荼羅説を採っていました。

この類似を精道師時代の達師も認めており、返して、『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』の21項に「妙海寺本尊の模作という僻見を破す 妙海寺の本尊こそ富士所伝本尊の臨写なる教ゆ」(P62)という一項を設けています。しかし、これは一つ大きな落とし穴を自分で掘っています。つまり、“石山は板漫荼羅の臨写を許していた”ことを紙背に書き示したことになるからです。

余談ですが、この本の発行者は「日蓮正宗布教会 代表 細井精道」となっています。そして、印刷者は「東京都文京区音羽町三ノ十七 浅井甚米兵衛」です。ご存じでしたか。「昭和三十一年九月廿五日印刷 昭和三十一年九月三十日発行」となっています。
こんな印刷権のお株を学会に取られてしまったのが浅井さんであったということなのでしょうね。

これまた余談ですが、ここに「日有上人が戒旦御本尊の身替りの御本尊を模刻遊ばされたのは事実」と記してあります。これは応師『弁惑観心抄』の「日有彫刻ノ本尊假立シテ且ツ戒壇ノ本尊に擬セシナリ…惟フニ後世是ヲ訛傳シテ日有眞ノ戒壇ノ本尊ヲ彫刻スルノ説ヲナセシナラン」(186頁)を受けたものであろうことも既述したことでした。

これらに関連して、板漫荼羅創作者は有師であると言われますが、これを伝える北山浄師の文献は伝聞だけでその存在が確認されていません。そのために、果たして有師造立説はどのようなものかという疑問を呈したのは三学無縁さんであったと記憶しています。

いずれにしても「本門戒壇本尊」であるというその文字が蓮師とは別人のものであるわけで、これでは後人が勝手に言いだして書き足したことを意味するわけです。

元の本紙が蓮師のものであるか、それとも他漫荼羅の写し(妙海寺漫荼羅/禅師授与漫荼羅)なのか、さらに言えば、諸尊の文字をかき集めたパッチワークなのか、その点ははっきりしません。しかし、漫荼羅相貌、「弘安二年十月十二日」の文字、「本門戒壇」の文字がそれぞれ別々であり、「造立は以上の通りです。敬って申します」と書いてあるわけです。少なくとも蓮師がこの漫荼羅相貌を記した意図に「本門戒壇本尊」はなかったことは動かない事実でしょう。

わたしもとても残念に思った一見でした。
度々、名前を出しますが、この前、三学無縁さんにお会いしたとき、「初めてネット上で議論をし始めた頃、独歩さんはまだ板漫荼羅真筆論者でしたね」と揶揄されました。まったくそのとおりで、板漫荼羅からの卒業は、ここ富士門流信徒における議論を通じてのことです。しかし、板漫荼羅を卒業することは、思っていたよりも、まるでストレスのないことでした。もちろん、罰も当たりませんでしたよ(笑)

また、投稿してしまいました。

273れん:2003/09/08(月) 18:30
独歩さんは石山時師の著作の四帖見聞と八品隆師の著作の四帖抄を混同されているようでこれにはまいりました。私は執行師の言われるごとく有師が隆師から四帖抄を受けられたのは史実と思います。が、有師の談話によると、それとは別に時師の著作に石山の法義について纏められた四帖見聞なる書があったということです。時師の四帖見聞について、私が興風談所に問い合わせたところ令道尊師より現存しないようですとのお便りを戴きました。また、日興門流上代事典に「日時『四帖見聞』不現存。日有聞書『聞書拾遺』に若しも世の末にならは高祖の御時之事、

274愚鈍凡夫:2003/09/08(月) 18:42

れんさん。覚えていて下さったんですね。書き込んだ本人はすっかり忘れていました。
済みません。m(_ _;)m
文証を引用しながらの論理展開、かなりマニアックですね。さすがです。
これからも、時間のあいた時にレスして下さい。とても参考になります。

> 歴全掲載の自筆文書・奉蔵於奥法宝に掲載された自筆書写本尊の御筆写真にみえるたしかな筆跡と比べると時師筆とは相違が感じられますので、それらの写本を時師本と断定しそこから時師のものの証憑性を論じるのは早計と存じます。

ちょっと気になったんですが、本尊書写は、どちらかというと模写に近いのではないでしょうか。勿論、歴代法主の曼荼羅に、それぞれの個性を感じますが、同じ写すのでも、写本と曼荼羅は精神状態が違うと思われますので、一概に石山説を否定出来ないのではないかと思いますが。いかがでしょうか。

275れん:2003/09/08(月) 18:48
仏法世間ともに相違する事もやあらんとて日時上人の御時、四帖見聞と申す抄を書き置き給ふ間、我か申す事私にあらす、上代の事を不違申候』とあるが、その内容は不明である。たたし、同じ日有聞書の『雑雑聞書』に『一、大石寺は四帖の聖教とて先師の作有之、此の内日目の耳引き法門と云ふ事有之。本尊の大事也、三箇の秘法也』とあり、この『四帖の聖教』が本書を指すならば、その中に『日目耳引き法門』が記されていたことになる」と解説されています。まさか朗師系の八品隆師の四帖抄に日目耳引き法門は記されてないでしょう。日目耳引き法門もネタ

276れん:2003/09/08(月) 19:11
元の時師の四帖見聞が不現存(曽存)ですので、全容は不明ですが関連するものとしては興風叢書〔4〕宗旨建立三四会合抄上巻に「日目上人直授相承云、三口一徹一徹三口、所謂本門三大秘法大事是也」とありますので、まぁ、時師に四帖見聞という著作があったのは事実だろうと思います。現存していれば、いまいち不明な上代の石山法門を考究する重要資料だったのにと残念に思います。それから本尊書写の件ですが目師〜日有師の本尊を拝すると正確には日興上人の書写された御本尊を書写されているのに気付きます。上代では宗祖の御本尊を直接には書写され

277れん:2003/09/08(月) 19:36
ずに師弟相対の上から日興上人の御本尊を書写されていた化儀が伺えます。なお、日興門流上代事典には宗祖真蹟の研究に従事石山にて戒壇板御本尊直拝した稲田海素師の「板本尊は宗祖の御真筆を模写して板にはり彫刻したものである。模刻の原本は私が大石寺へお参りした時、客殿の高い所に掛けてあった。私はそれを一目見た時、これだと直感した。板本尊の原本は確かに御真筆である」(木下日順「板本尊偽作の研究」)との談話を掲載しています。板本尊の原本の御真蹟が大石寺にあるとのことですが、現時点では非公開ゆえ不明ですね。では失礼します。

278空き缶:2003/09/08(月) 23:19
空き缶です。遅くなりましてすみません。
話が前後してしまいますが、目師が日道氏に譲ったのは目師のいわば私有財産ともいうべき、南条家の田地でしょう。
日目譲状の中身はそうなっています。また、日目譲状は嘉暦二年の執筆で日興上人御在世中です。
「日興跡条々事」なるものが何時の執筆かは明確ではありませんが、八十八歳まで御存命であった日興上人が八十一歳の嘉暦二年以前に書かれたとも思えません。
よって、もし目師が日道氏に「日目譲状」をもって大石寺を譲り渡していたとしたら、日興上人からすら譲り受けていないものを、目師が勝手に日道氏に譲ってしまったことになります。そんなことはまずありえないでしょう。
したがって、大石寺は目師から日道氏への相続が無かったと認めるか、「日興跡条々事」は偽書であると認めるか二つに一つしかないのです。

279空き缶:2003/09/08(月) 23:54
続きです。
もし日興跡条々事が真書であれば、そこに出てくる「弘安二年大御本尊」は保田妙本寺所蔵の万年救護本尊でしょう。
現存する日蓮聖人御真筆の本尊の中では唯一「大本尊」と讃文にお認めの本尊です。
また日精氏の家中抄にも弘安二年に宗祖から日興上人に授与されたのは「万年救護本尊」であると出てきます。
つまりこの本尊は、文永十一年十二月に認められ、弘安二年十月に授与されたものと思います。
観心本尊抄を佐渡にて執筆されて、流罪赦免後、鎌倉を経由して身延に移り認められたこの本尊こそ観心本尊抄にいわれた、「一閻浮提第一の本尊」であると思っています。

この「大本尊」(万年救護本尊)と宗祖正御影が保田妙本寺に渡ってしまったことから、通称「戒壇の大御本尊」は造られたものとみています。
それから私は途中からですが、「書写」から「書き写す」と表現をかえさせていただきましたが、目師以降の諸氏は日興上人の御本尊を書写されています。しかし私の憶測の「日禅授与の本尊」を日道氏あるいは日時氏が書き写す、との考えは宗祖真筆本尊の書き写しなるがゆえに、通常の「書写」とは違い「日付・名前・判形」はされずにあくまでも「万年救護本尊」のかわりとしての「真筆書き写し」として考えています。

280空き缶:2003/09/09(火) 00:17
愚鈍凡夫様
空き缶さんは北山や西山のことに詳しそうなので→すみません詳しくありません。
なのに何故、蓮祖から弘安3年に授与された大曼陀羅が北山にあるんでしょうか。その辺の事情をご存知なら御教示下さいませんか。→単純に日禅師が日興上人より二年早く亡くなっていますので、日興上人が預かったものと思っています。

広宣流布の暁には、保田妙本寺の「万年救護本尊」と蓮祖御影をセットにして安置するのですか→「広宣流布の暁」ではなく当時としての「国主の帰依」のときに建てられる「本門寺」に安置する予定であったと推察いたします。
宗祖御影については目師の「日興上人御遺跡事」にみえますが、「万年救護本尊」については「日興跡条々事」が真偽未決となった現在のところ、まったくの憶測にすぎません。これからもっと勉強します。

281犀角独歩:2003/09/09(火) 10:38

れんさん:

案外決めつけて裁いてしまうような論調が目立つ方なのですね。

> 石山時師の著作の四帖見聞と八品隆師の著作の四帖抄を混同されている

わたしは混同しているのではなく、この「四帖」を問うただけですよ。
時師の四帖見聞と隆師の四帖抄を混同したのではありません。
時師が見聞したという四帖とは何か、これは隆師の四帖ではないのか、と記したのです。あまりに斜にわたしの文章を見ないでいただきたいですね。

見聞という限り、それは何かを見聞きしたという意味です。つまり時師の四帖見聞は四帖を見聞きした内容を記したものと思われます。ですから、その時師が見聞した四帖とはなにかを問うているのに、なぜそれが四帖見聞と四帖抄の混同になるのでしょうか。
判読を違え即断して裁かれたたのには「まいりました」。

いずれにしても、四帖見聞は現存しないであれば

> 慶林隆師の四帖抄とは別のものです

という断定はおかしなことになります。「と思われる」というならまだしも、時師が言う見聞の意味がわからないのに、どうして、「別のもの」と断定できるのでしょうか。

けんか腰にならずに落ち着いた答えをいただきたかったと残念に思います。
四帖とは何かとの問を「四帖見聞が現存しない」とまったく見当違いの答えを得たわけですが、要は時師の言う四帖が何かを れんさんはおわかりにならないことだけはわかりました。

> 板本尊の原本の御真蹟が大石寺にある

創価学会でもまことしやかに語られる話ですね。
しかし、この件については「非公開」なのではなく、石山は明確に否定しています。
学会が「戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法に謹刻させたもので、大聖人の直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されています」と公言したことに対して、石山側は「直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されてる」と言っていますが、大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても、彼等の言う「紙幅の戒壇の大御本尊」なるものは存在しません。このような前代未聞の珍説がどこから生まれたのか判りませんが、これも創価学会お得意の、ないものをあったが如く偽る、悪しき体質の一例です」と真っ向から否定していました。

ただし、複数の末寺に板漫荼羅の筆致まで忠実に臨写した紙幅漫荼羅が下付された事実があるわけで、板漫荼羅と同じ相貌を持つ紙幅漫荼羅があれば、それを臨写と見るほうがむしろ自然です。
稲田海素師はその事情を知らず即断した可能性は否定できないでしょうね。

282ガンコ:2003/09/09(火) 11:01
独歩さん

戒壇本尊にまつわる諸問題をあらまし総括してくださいました。
そして、その落ちがまた味わいのあるものでしたね。いわく、

>板漫荼羅を卒業することは、思っていたよりも、まるでストレスのないことでした。もちろん、罰も当たりませんでしたよ(笑)

罰はこれからかもしれませんよ(笑)

話は脱線しますが、
>印刷者は「東京都文京区音羽町三ノ十七 浅井甚米兵衛」です。ご存じでしたか

前にもお書きになっていらしたと思います。それまではまったく知りませんでした。

>こんな印刷権のお株を学会に取られてしまったのが浅井さんであったということなのでしょうね。

これは初耳ですが、確かに学会の大躍進時代のことですから、なるほど、とも思いましたが、別の要素もあろうかと考えます。
すなわち、翌昭和三十二年に浅井は法道院を離脱して妙信講を立ち上げるわけです。つまり、わざわざ敵をつくるようなことをやっちゃった。法道院の御住職は実力者であったと聞きますので、こういう人を敵にまわしちゃダメですよね。
じっさいには、宗門からの発注を年次別に調べたりして、その変化を検討しないことにはわかりません。もっとも、そんな資料は出回ってはいないでしょうから、ことの真相をいちばん知るのは浅井本人でしょう。

すみません。みなさんの議論から大幅にかけ離れてしまいました。

283犀角独歩:2003/09/09(火) 11:18

ガンコさん:

> 罰はこれからかもしれませんよ(笑)

あ、そうですか。じゃあ、楽しみにしておきましょう。
わたしの宗教探求のテーマは「不信の探求」「なぜ神仏は不信者を救わないのか」です。罰を当てることしかできない法理や絶対者ならばこちらから願い下げです。
むしろ、そんないい加減な言動に、反対に天誅を下している気分でわたしはいますよ(笑)

> …法道院の御住職は実力者…

早瀬慈師のことでしょうか。
総監にもうなっていましったっけ、あの頃には。

> すみません。みなさんの議論から大幅にかけ離れてしまいました

いや、この責任はわたしにあります。わたしがお詫びいたします。

284犀角独歩:2003/09/09(火) 11:38

【283の訂正】

誤)「不信の探求」
正)「不信の救済」

285ガンコ:2003/09/09(火) 12:02

空き缶さん

>日目譲状の中身

これがわかりません。具体的にどのような文面なのか、ご紹介いただきたいです。(長文のものでしたら、大事な部分だけでも)

>目師以降の諸氏は日興上人の御本尊を書写されています

これは、れんさんも同様のことを言われているのですが、どういうことでしょうか? 大聖人の御真筆御本尊と日興上人御書写の御本尊とでは決定的な違いがあるのでしょうか?
よく考えてみると、れんさんは戒壇本尊信奉者であるから、おそらくは戒壇本尊をはじめとして弘安年中の御本尊を念頭に置かれて相違点を見いだされたのでしょう。しかし、あなたは万年救護本尊信奉者であるから、救護本尊と日興本尊をくらべて、以下、大石寺歴代上人の御本尊がどちらに似ているかといえば、そりゃ当たり前じゃないの、ということになるかと思うのですが、ちがいますでしょうか?
もしそうであるならば、なぜに日興上人は万年救護本尊を書写し奉らなかったのか? つまり、あなたのいう「一閻浮提第一の本尊」「国主帰依の時、本門寺に懸け奉る本尊」を日興上人は書写せず、おしなべて弘安式の御本尊を書写して弟子檀那に授与せられているのはなぜなのか? 
一閻浮提第一の本尊がいわゆる文永・建治の御本尊で、日興上人が書写せられて弟子檀那に与えた御本尊が弘安式であるという、その必然性はいかばかりでしょうか?

ちなみに、わたくしは日興上人の御本尊はもとより、大石寺歴代上人の御本尊をほとんど拝見したことがありません。ですから、上記はすべて伝聞で書いております。ゆえに何かとんだ勘違いをしているかもしれませんし、ずいぶんと失礼を書いているかも知れませんが、なにとぞご容赦くださいますようお願い申し上げます。

286空き缶:2003/09/09(火) 12:57
ガンコ様
筆不精(?)な為、具体的にできずに申し訳ありませんでした。
「日目譲状」は継命新聞社の「日目上人」に掲載されています。正本は大石寺所蔵です。歴代法主全書1−P217か日蓮宗宗学全書の2−P203にも掲載されています。今度、前文アップに挑戦しますのでもう少し時間を下さい。(漢字の変換等がきついんですよね)

日興上人以降、一定のルールのもとで本尊書写は行われたと思います。その教材的な役割を果たしたのが妙本寺から大石寺に伝わった「御本尊七箇大事」や身延に伝わる「御本尊七箇大相承」であると思います。日興門流と身延の曼荼羅本尊がよく似ているのはこの為であると思います。
「戒壇の大御本尊」も「万年救護本尊」も、また殆どの宗祖真筆本尊は「御本尊七箇大事」・「御本尊七箇大相承」にいわれる御本尊の書き方とは違っています。日興上人の御本尊も一部違うものがあると聞きますが、少なくとも日興上人以降は「御本尊七箇大事」・「御本尊七箇大相承」をもとに書かれていると思います。
それから万年救護本尊の書写については、日郷上人が禁じており、本堂等への安置も禁じております。役目を果たすその日まで厳護するといった趣旨であったと思います。そのことから日興上人も同じようなスタンスだったと考えます。
いわれてみれば、日興上人の御遺文を拝する限り、日興上人御自身は「宗祖御影」を御本尊としていたとしか思えませんね。もともと大石寺でも「本堂」と呼ばれていたのは現在の「御影堂」ですから、本門寺に安置するのは「宗祖御影」だけでしょうか?
一説には「御影」には中に御本尊(曼荼羅)が入っているといわれますが、どうなんでしょうね。

287ガンコ:2003/09/09(火) 18:30

空き缶さん、どうもです。

初歩的な質問ばかりで申し訳ありませんが、もうちょっとだけ教えてください。

そうすると、保田の妙本寺の本堂にはいずれの御本尊が安置されているのでしょうか?

また、保田の信者さんはどのような御本尊をお受けしているのか?

あなたはいちばん最初に、
>大石寺の板曼荼羅(通称:本門戒壇の大御本尊)について。
誰の造られたものであっても御本尊に変わりはありませんが

と、おっしゃっていますので、勝手に推測するに、日蓮正宗の御本尊を今も安置している信者さんがいるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

それは置くとして、新しい信者さんはどうするのか、それが気になったのですが、いかがなものでしょうか?

288愚鈍凡夫:2003/09/09(火) 19:34

横レス失礼します。
空き缶さん、日本語変換システムに仏法用語変換辞書の導入をお勧めします。

からぐらライブラリー → 「日蓮仏教語辞書」
http://www.ginpa.com/karagura/library.html

「仏法用語一発変換辞書」
http://www.kongodo.net/contents02/dic/index.html

下記は、仏法とは関係ないですが、古語入力などに便利な変換辞書ライブラリーです。

「人文系FEP辞書」
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/myokyo/fep_link.htm

289空き缶:2003/09/09(火) 22:32
すいません、今晩は書き込み出来そうにありません。明日の正午以降にお返事します。

290れん:2003/09/09(火) 22:48
時師の四帖見聞の四帖について独歩さんは隆師の四帖抄であり、隆師の四帖抄を時師が注釈されたものとのご見解であること了解しました。私は有師の聞書の記述から時師が先師である日行師や民部日盛師から伝え聞いた蓮祖・開山・目師以来の富士の法義・化儀を四帖の冊子に纏めたものと理解していました。見解の相違といえばそれまでですが、私の“読解力”の足りなさからの独歩さんへの非礼をお詫びいたします。また紙幅についてのご教示ありがとうございました。参考にいたしますm(__)m保田十四世日我師は観心本尊抄抜書において「久遠寺の板本尊今大石

291れん:2003/09/09(火) 23:15
寺に在り大聖御存日の時ノ造立也」とあるので、郷門にても大石寺の板曼陀羅は蓮祖の造立されたものと伝承されていた様ですので、空き缶さんの保田の万年救護本尊=本門寺本堂安置の本尊との結論は早計だと存じます。本門寺本堂安置の本尊は大石寺の伝承をとれば板曼陀羅、三位順師の心底抄、日代師の説をとれば、曼陀羅本尊に則った造像安置となりましょう。大石寺も主師の大石寺図絵によると主師の代までは本尊堂を中心に右に天経(天拝をする場所)、左に御影堂という堂宇の配置でしたので本堂に本尊御影を安置する化儀は精師以後のことと存じます。

292空き缶:2003/09/10(水) 02:38
ちょと時間が出来たので一言だけ。私は我師については、いまいち信頼をおきかねております。

293犀角独歩:2003/09/10(水) 06:11

れんさん:

> 独歩…時師の四帖見聞の四帖…隆師の四帖抄を時師が注釈されたもの

いやいや、そう即断しているわけではないのです。

> 私は有師の聞書の記述から時師が先師である日行師や民部日盛師から伝え聞いた蓮祖・開山・目師以来の富士の法義・化儀を四帖の冊子に纏めたものと理解していました。

ただ、仰る如き四帖の聖教として4冊にまとまる帖装本があれば、その疑問の余地はありません。このような本があるのでしょうか。あるいは、そのような内容が伝わるのでしょうか。

むしろ、わたしもこのように想像しないわけではないのです。
しかし、もしそのようなものがあれば、その後に伝わっておかしくないと思うわけです。ところが、この「四帖」という表現は、有師聞書以降、絶えてしまっていると映じます。精師家中には見えますが、ここでは間違いなく隆師四帖抄を指しています。
仰るような4冊であれば、これほど、貴重なものはないのに、その後、重要視された記録がないことを奇妙に思うわけです。

四帖とは仰るとおり、たぶん4帖の冊子であるのは、その通りのように思えます。
「帖」とは一般には半紙20枚、美濃紙48枚、あるいは海苔10枚を表す単位ですね。
しかしまた、糸で括った一つのまとまりを表す単位。ですから、縫い合わせて作る袈裟も「一帖、二帖」と数えます。たぶん、昔は巻物が主流であったのに、のちに和綴本の如き形態の冊子が作られるようになった、これは糸で綴じていますから、帖で数えるようになったのでしょうか。ただし、法帖という場合もありますね。
いずれにしても四冊(帖)の和綴本を意味するかのようです。
隆師の四帖抄、すなわち『法華天台両宗勝劣抄』も全四巻である故に四帖抄の通称があるのだろうと思います。

ですから、四帖とは四冊の本なのでしょうが、時師がいう四帖とはいったいなんであろうか、皆目見当がつかないので、質問させていただいたわけです。これはもちろん れんさん を批判したり、投稿に難癖を付けようなどと言う意図は毛頭なく、該博な知識をお持ちとお見受けしたので、投げかけたばかりでした。

時師が言う四帖と、有師聞書にいう四帖が同一のものであるかどうか、前書が伝わらない以上、この同一視は避けるべきであるとわたしは思います。ただ、もちろん、そのように憶測することも一つの可能性としては否定するべきではないとも思います。

時師がいう四帖、しかし、意味がわかりません。
有師の時代以降、隆門は夙に隆盛しますので、以降、四帖と読めば、隆師「四帖抄」を疑うのは、わたしはおかしなことではないと思います。しかし、時師はそれより古ですから、先の質問となったわけです。

有師聞書にいう「四帖の聖教」は、やや文が載りますので、想像できる範囲は広がります。
れんさんは、「蓮祖・開山・目師以来の富士の法義・化儀」と考えられるという。
仰るとおり、この文から隆師四帖抄以外の可能性は読めます。むしろ、そうであるとも窺えるわけです。
けれど、わたしはこの考えに素直に腑に落ちないのは「聖教」という語彙に基づきます。聖教は蓮師も「一代聖教」という成句を以てこの語彙を使用されています。しかし、この場合、意味するところは経典ですね。となれば、四帖の聖教とは4冊の経典という意味になりますが、経典は経巻で帖装本とはしないので、この意味とは採れません。尤も法華経折本(法帖)の場合は1品1帖ですから、四品を指すと読むことはできるかも知れません。しかし、これはたぶん違うように思えます。仮に2品1帖とする法帖があれば、8品4帖となり、八品正意を表す如くですが、これはどうでしょうか。

日蓮門下では蓮師遺文を指して、聖教と呼ぶことはあるので、特に選ぶ御書4抄を、こう称した可能性はあります。本尊に係る御書四帖、となれば、開観は上下で4巻となりますから、そのことであろうかと思いました。しかし、これまた、想像の域を超えません。

ところで、聞書では目師の耳引法門も載せますから、仰るような代々が伝える法義・化儀の可能性も考えられます。ただ、ならば、なぜ、その後、「四帖の聖教」として伝わらないのであろうかと疑問が残るわけです。

ご承知のところがあれば、ご教示いただければ有り難く存じます。

294れん:2003/09/10(水) 06:37
独歩さん、ご教示有難うございますm(__)m 私も残念ながら時師撰の四帖見聞について今まで投稿した内容以上のことはわからないというのが実際です。独歩さんの仰る通り有師以降この書の存在に触れる石山文献が皆無なのは確かに不審なのです(日目耳引き法門の一部と推察される日目直授相承の引用は因師の三四会合抄にありますが)。この点この掲示板を見ている石山累代檀家の方や石山僧の方・また石山法縁の方でご存じの方にご教示戴きたいものです。

295犀角独歩:2003/09/10(水) 07:13

れんさん:

有り難うございました。
また、不明な点がありましたら、ご教示をお願いします。

296犀角独歩:2003/09/10(水) 07:15

↑不明な点がありましたら、質問させてください。 ご教示をお願いします
 という意味でした。失礼しました。

297空き缶:2003/09/10(水) 11:52
愚鈍凡夫 様 ありがとうございます。導入を検討します。
ガンコ様
保田妙本寺には日興上人の御本尊を板に彫刻したものを本堂に安置しています。
大石寺の日有上人より早く彫刻されています。

私は家が遠い(一都一県をこえていかねばなりません)ので、チョクチョク顔を出しているわけではありませんが、ご指摘の通り、殆どの方が日蓮正宗時代の本尊と教本を使用していると思っています。
日寛上人・日達上人のご本尊が多いのではと思っています。もともと日蓮宗でしたので、身延系の御本尊を所持されている方もいると思います。保田独自の形木本尊も以前(日蓮正宗時代)からあるみたいですが、私は知りません。
保田の教本は、二座の御観念文が変わっていると聞いています。「万年救護本尊」になっています。
特別御形木や常住本尊のようなものは無かったと思います。その代わり、信行学に邁進された方には日興上人の御本尊を形木にして下付しています。
私は、保田妙本寺の御影様にお会いしに行くことがありますが、御講等には参加しません。
今度、仕事の都合がつけば「お虫払い」にはいってみたいと思います。

298空き缶:2003/09/11(木) 02:13
daihonnzannmyouhonnji@groups.msn.com ←こちらに「日目譲状」アップしました。
MSNコミュニテイ−の「大本山妙本寺」です。境内の写真もアップしています。宜しければ御覧になってください。

299ガンコ:2003/09/11(木) 12:41

空き缶さん、いろいろと教えていただきまして、ありがとうございました。

現状として、妙本寺さんの方にもクリアしないといけない課題があるんだなあ、と感じました。もっとも問題山積の大石寺にくらべれば、大したことないのかもしれませんが・・・

日目譲状、拝見しました。
なるほど、日興跡条々事と時間的に矛盾するとのこと、ようやく意味がわかりました。
まあ、会通の仕方はあるのでしょうが、わたくしとしては今のところ何とも申し上げられません。

300空き缶:2003/10/12(日) 10:28
大石寺「戒壇本尊」について、久々に書込みします。


この板本尊の、謎の鍵を握る「弥四郎国重」は宮城県の人と思われます。以前示された「小野寺系図」の説明に『「古城書上」のなかに栗原郡金成町普賢堂の「普賢堂」城主小野寺弥四郎とみえる。』とあったと思います。「栗原郡金成町」とは宮城県で旧新田坊地(目師から道師に相続された土地)内であると思われます。
そして近年、この金成町からそう遠くない宮城県中田町から「日時上人追善板碑」が発見されていることから、私は時師と小野寺国重の関係性に確信をもちました。「河辺メモ」の鑑定がかなり精査されたものであることは、これまで「有師説」中心であった「戒壇本尊論」に時師の名前を連ねたところでしょう。細かい部分は、現在も研鑚中ですが、「時師模写有師彫刻説」は近い将来明確になるでしょう。

301犀角独歩:2003/10/12(日) 12:26

300 空き缶さん:

・弥四郎のこと

「弥四郎」という名前は『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』に見えます。

一、富士下方市庭寺ノ弥四郎入道者 越後房ノ弟子也 仍テ日興申与之

少し資料を追い切れていませんが、所謂、熱原法難における三人の処刑の前に、弘安2年4月8日、大宮浅間神社分社で行われた流鏑馬神事の雑踏で「四郎男」が刃傷、次いで8月“弥四郎”が首を斬られるという事件がありました。この段階で「弥四郎」の名前が見られます。しかし、あまりこの事件と名前が重大視されないのは何故なのであろうと、わたしは以前から訝しく思ってきました。
また、これはまったくの偶然、あるいは類似かも知れませんが、興師漫荼羅加筆では

弘安三年太歳庚辰九月三日、俗日目に之を授与す、(興師加筆)富士の上方上野弥三郎重国に之を与ふ

という資料が見られます。「弥三郎重国」「弥四郎国重」この奇妙な類似にわたしは興味を惹かれてきました。
また、『板本尊偽作論』を著した安永師はそれまで説を踏襲してか、板漫荼羅と妙海寺漫荼羅の類似を指摘しています。この漫荼羅には「弥三郎国安」の名前が見られます。

いずれにしても「弥四郎国重敬白…造立如件」と板漫荼羅には銘記されているわけですから、これを作ったのは間違いなく弥四郎国重でしょう。しかし、果たして実在の人物なのでしょうか。以上のようなソースのなかから捏造された架空の人物である可能性は否定できないと思います。


・日有彫刻説

この点については『大石寺の歴史』などのスレッドで過去にけっこう話し合ったものでした。わたしのささやかながら知識では、この有師彫刻説は『大石寺誑惑顕本書』のなかに登場し、そのなかで重須浄師が述べた話として扱われています。これを先の安永師も取り上げています。該当の文書は

日有開山ノ本懐ニ背キ未聞未見ノ板本尊ヲ彫刻シ猶己義荘厳ノ偽書ヲ作ル

でした。引用する志師の文を挙げれば

其彫刻は現に久遠院弁妙・国学の友大堀有忠に(今猶存生)語って云く大石寺に戒壇の本尊あり惜いかな九代日有師之を彫刻して其の本紙を失す(両山問答(本門寺問之部)(富士宗学要集第七巻44頁))

となっています。
しかしながら、ここで取り沙汰される浄師文書というのはその正本、写本に当たれないと言います。この指摘をしてくれたのは三学無縁さんでした。

ところで、達師は精道師時代に、安永師への反駁書で有師彫刻説を否定しています。
これは応師『弁惑観心抄』を踏襲したものでした。そこでは

日有彫刻ノ本尊假立シテ且ツ戒壇ノ本尊に擬セシナリ…惟フニ後世是ヲ訛傳シテ日有眞ノ戒壇ノ本尊ヲ彫刻スルノ説ヲナセシナラン(186頁)

といい、有師が身替り板漫荼羅を造ったことが記されています。精道師の説明ではこの板漫荼羅には有師の花押が施されているとのことでした。

有師彫刻説と聞くと、どうもわたしは以上の過去の議論を思い起こすわけです。
わたしは有師彫刻説にもっとも消極的なのは、彼の本尊観です。南条住師を通じて院師に遺した『化儀抄』に

一、当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし

とあります。もし、有師が板漫荼羅彫刻の張本人であれば、何故、当宗の本尊を「戒壇之大御本尊」と言わなかったのでしょうか。また、彫刻者であれば「造立如件」として自らの名前を記さなかったのでしょうか。

板漫荼羅を彫刻造立したのは、その板に刻まれる如く、弥四郎国重その人なのであって、では、しかし、それが実在の人物か否かが問題となるところでしょう。それ以外の彫刻説は刻まれた銘記に反するものと言うしかありません。もし有師が彫刻の人であれば、なぜその造立を「弥四郎国重敬白…造立如件」としたのかが説明されなければならないことになります。

302空き缶:2003/10/13(月) 12:01
独歩さん

限定300部で世に出回った、「小野寺盛哀記」(深澤多市著)を入手しました。「小野寺盛哀記」は主として「仙北小野寺家」(東北地方の小野寺家)に関する郷土資料なので、当初あまり関係ないだろうと思っていたのですが、読むにつれて「仙北小野寺家」は「新田小野寺家」の分派であり、上代仙北小野寺家には日目上人の長兄といわれる「小野寺重道」の名前もありました。

そして、日目→日道の「日目譲状」の文と宮城県から発見された「日時上人追善板碑」、普賢堂の小野寺弥四郎などが、少しずつ点と点としてみえてきたわけです。未だ線となってつながっていませんが、新しい発見があれば書き込ませていただきます。

303犀角独歩:2003/10/13(月) 13:58

空き缶さん:

変な横槍を入れてしまった形になって御免なさい。
是非、発見がありましたら、御披露ください。

304犀角独歩:2003/10/17(金) 11:11

302の空き缶さんのご指摘が、小野寺さん辺りが述べる小野寺・日目論の系譜に牽強付会されないことを祈ります。

305空き缶:2003/10/17(金) 18:17
独歩さん

本当ですね、本門正宗なる団体は「小野寺系図」をうまく利用しています。

事実とこじつけをまぜこぜにしています。私は事実を、関連書籍から読み出してまいります。

306犀角独歩:2003/10/17(金) 18:49

305 空き缶さん:

安心しました。
ご健闘をお祈り申し上げます。

307空き缶:2003/10/22(水) 13:41
東京女子大学民族調査団報告書「普賢堂の民族」に、普賢堂近郊では、鎌倉期以降も「チョンナ」と呼ばれるものが使用されていたと出ている。
図も出ているが、まさしく古い鉞(まさかり)のようなものである。この「チョンナ」は以下に言われた、「手斧」(てちょうな)と同様のものであろうか?

「その御本尊様はもう六百八十年も前に出来た板御本尊で御座いまして、これは当時鉋(かんな)というものが無かった、鎌倉時代で御座いますから、あの板御本尊様は明らかに鉋では造ってないのであります。」
「みんな手斧(てちょうな)、手斧といっても戦国時代或いは室町時代できる丁鉋(ちょうな)でなくてもっと古い鉞(まさかり)みたいな手斧で削られて居るので御座います。」
「それが歴然としてあの板御本尊様に残っておるので御座います。」

以上、日達上人談。

308犀角独歩:2003/10/22(水) 14:10

この前、ある人と話したこと。
もし、板漫荼羅が蓮師作、あるいは法師彫刻であれば、弥四郎国重とは蓮師、あるいは法師その人となる。「造立如件…敬白」と書いているわけですから(笑)

達師のこの説明、ちょっと恣意的というか思い込みが強すぎると思うわけです。
いわゆる工具というのは現在のような流通社会のように、すぐさま取って代わっていくものなのでしょうか。
鎌倉時代に使われていたものが、その後も数百年使用されていき、それとは別に新しい道具も同時並行に使われはじめるという想像は大きく外れていないと思うわけです。そうすれば、鎌倉時代から時を経て、手斧が使われても不思議はないでしょう。

実際の話、この前、薬師寺かどこかの修復をするとき、たしか手斧を使っていました。
その使用を、テレビで観ましたが、達師が言うように滑らかに削れないどころか、手斧刃の幅の削り屑が巻紙を宙に舞わせるよう何メートルも切れずに宙に踊り、その切削面は鏡のように滑らかなものでした。

わたしはこの達師談、思い込みがなせる業であると感想を懐いています。

309愚鈍凡夫:2003/10/23(木) 23:13

>>307:空き缶さん。 >>308:犀角独歩さん。

「戒壇之本尊」について日達師は、
「また戒壇の御本尊様は楠の板である。楠の板で大部古くなりほこりが後ろの方にたまり今度御水洗いする事になり洗ったのである。実際に大御本尊は楠の板で其の時分はカンナがなかった。鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。だからあの御本尊は手斧けずりである。それを見ればすぐ分かる。それを知らないで漆を塗ってあるからあれは足利時代に出来たとか最近は徳川時代に出来たなどととんでもない事を言う。
 ところが、あれは後ろを見るとみんな削ったあとがちゃんと残っている。それを見ても明らかに鎌倉時代である。
 しかも手斧で明治時代の人は知っている。丸いものではない。 あの時代には鉞(まさかり)みたいな手斧で削った。其の板です。実際に見ればはっきり分かる。そういう事はこちらも誰も言わないけれども信者の人なら申しても差し支えないから申し上げます。」(1972(昭和47)年9月12日 日正寺 竜口法難会砌)

と述べられていますが、残念ながら鎌倉時代の作であるとの論証にはなっていませんね。
「手斧削りであるが、室町時代の作である。」といっても不自然ではないような言い方ですよね。削り後から道具を想定して、年代を決めるとの言うのはいささか乱暴ではないかと思います。

310愚鈍凡夫:2003/10/23(木) 23:26

訂正

誤→ 削り後から道具を想定して、年代を決めるとの言うのはいささか乱暴ではないかと思います。
正→ 削り跡から道具を想定して、年代を決めるとの言うのはいささか乱暴ではないかと思います。

です。悪しからず。 m(__)m

311沖浦克治:2003/10/28(火) 22:56
 空き缶さん
  
 沖浦です
 
 あなたの熱心なご研鑚と、公平な態度に感服いたしております。
 今後とも研鑚にお励みになられ、結果を私どもに還元していただければ幸いに存じます。
 蓮祖御真蹟の曼荼羅を網羅しているサイトがあります。
 以下に書き込んでこきますので、貴殿の参考になれば幸いに存じます。
 すでにお知りの際はご容赦くださいませ。

 http://www.lbis.jp/gohonzon/

312空き缶:2003/10/28(火) 23:35
沖浦さん

いつもお世話になっています。

かねてから言われている通り、この問題への取り組みは迷路に入るようなものですが、何かの参考程度にでもなれれば幸いです。

「弥四郎国重」とは、「姓」を省いた「名」の部分だけであると言う事が出来ます。
つまり、名しか書かれていないと言うことは「弥四郎国重」が姓を記さなくても、すぐに誰であるかわかると言うことで、身内であることを示しているのではないかと思います。
その点から、独歩さんのご指摘を考慮しまして「時師模写」の「国重彫刻」にこの上なく傾きかけています。
時師の宿敵伝師も、板曼荼羅を造っています。万年救護本尊の件と併せて、時師には板本尊造立の動機があります。

あと参考までに、時師の追悼記念板碑がみつかった「宮城県中田町」は新田小野寺氏がいたところであることが判りました。新田小野寺氏の所領は、南北朝の戦乱で東北両勢力が衝突する激戦地となり、一族は戦災を逃れようと周辺地域に離散してしまったとのことです。

313空き缶:2003/10/29(水) 22:07

保田妙本寺所蔵「万年救護本尊」について

「万年救護本尊」の名称については、一時「西山本門寺」に遷座していた時期(家中抄)がありましたが、再び保田に戻った時に背面に「万年救護」と書かれていたそうですが、だれが書いたのかご存知の方いますか?

いろんな説がありますが、西山に遷座していた理由は伝師と時師の係争における、伝師の係争費用捻出の為に「質」に入れていたものと思われます。

314愚鈍凡夫:2003/10/29(水) 22:29
>>313:空き缶さんへ

> 万年救護本尊」の名称については、一時「西山本門寺」に遷座していた時期(家中抄)がありましたが

ということは、
大石寺→小泉久遠寺→保田妙本寺→西山本門寺→保田妙本寺
という流れと言うことですか?

> 再び保田に戻った時に背面に「万年救護」と書かれていたそうですが、だれが書いたのかご存知の方いますか?

意味がよく飲み込めないのですが、富士年表にある、
1279(弘安2)年 日興に文永11年12月の本尊〔万年救護本尊〕を賜う(聖613・保田妙本寺蔵)
この本尊とは違う可能性もあるということでしょうか?

315空き缶:2003/10/29(水) 23:17
愚鈍凡夫さん

お久しぶりです。
恐らく「質」に入れていた場所が「西山」だと思いますが、どうでしょう?
そして、「質」から買い戻した時に背面に「万年救護」と書かれていた、ということです。
家中抄にはそこまで詳しく出ていませんが、一時西山にあったことは出てきますね。「日興より又日目に付嘱して今房州に在るなり(この頃西山に移しうる故今は西山に在るなり)。」=日蓮正宗聖典P613
保田には伝師が時師との係争費用に困って、「万年救護本尊」を質に入れたことが伝わっています。
このことから推察するに、この時の「質屋」こそ「西山」であったのではないかと思うのです。

そして、西山から保田に戻ってきた時に「万年救護」とご本尊の背面に書いてあった、といわれているのです。

家族の大反対があって、お虫払いにはいけませんでした。いければこの眼で確認ができると思っていたのですが、とにかく妙本寺周辺は遊ぶところも無く家族を説得することが出来ませんでした。(涙。。)

この件に関する、詳しい文献や情報があれば是非教えて下さい。

316愚鈍凡夫:2003/10/30(木) 00:32

空き缶さん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。

あいにく「万年救護本尊」の資料を持ち合わせていませんので、空き缶さんの研鑚の結果を楽しみにしています。 m(_ _)m

それではお休みなさい。

317空き缶:2003/10/30(木) 01:17
愚鈍凡夫さん
どうもです。

独歩さん、れんさん、何か良い情報はありませんでしょうか?

318犀角独歩:2003/10/30(木) 03:16

空き缶さん:

お久しぶりです。
ご投稿をお待ちいたしておりました。
「質」と裏書「万年救護」の関係、たいへんに興味深く読ませていただきました。
面白いですね。
わたしはこの点について、今のところ情報を持ち合わせていませんが、何か知るところがあれば投稿させていただく所存です。
続投を期待しております。

319犀角独歩:2003/10/30(木) 09:54

空き缶さん:

> 伝師も、板曼荼羅を造っています

この点、もう少し解説いただけませんでしょうか。
れんさんにもご指摘を受けてお恥ずかしいところなのですが、日宗全、石山歴全などが手元にないために、このような点に疎いのです。よろしくお願い申し上げます。

320れん:2003/10/30(木) 11:45
皆さんお久しぶりです。伝師の板曼陀羅は郷師書写本尊の摸刻です。保田の万年救護本尊については千葉県の歴史以上の文献は手元にありません。独歩さん。歴全は東京神田のT堂で入手可能です。宗全は山喜房仏書林で扱っています。右ご参考までm(__)m

321犀角独歩:2003/10/30(木) 12:17

れんさん:

有り難うございます。
最近、ご投稿が少なく残念に思っています。
是非ご賢察をご教示ください。

322無徳:2003/10/30(木) 18:02
れんさんはじめまして、

T堂とは神保町の東洋堂のことと思いますが、歴代法主全集は全7冊で15万円も
しています。もっと安価で入手する道は有りませんでしょうか?

ちなみに日蓮宗宗学全集は古本の場合全23巻で8万円、新本では11万円でした。

どなたかこれらを安価で購入できる方法がありましたら情報をアップして下さい。

323無徳:2003/10/30(木) 18:08
訂正___東洋堂ーーー東陽堂

324れん:2003/10/30(木) 18:13
無徳さんはじめまして。石山の歴全の第二巻・第三巻はバラで、第一巻は予約で買いました。バラでは一冊二千円くらいです。バラで(店に置いてあるものから)買い足していけば、安く揃えられるはずですm(__)m

325無徳:2003/10/30(木) 19:17
れんさん早速のレスありがとうございます。

そうですか、バラで売っているところがあれば比較的安価で手に入るかもしれま
せんね?

しかし、バラの歴全に出会うのが大変みたいですね(笑)

326犀角独歩:2003/10/30(木) 19:34

324 れんさん:

横レス失礼いたします。
文献の収集においてもここまで懇切丁寧なご教示、敬服いたします。
こうして1冊1冊蒐集された文献をさらに綿密に精読、勘案される姿勢に頭が下がります。

327偽者曲者:2003/11/13(木) 06:14
大石寺の板曼荼羅の結論はこれが正しい
歴代芸花のいうことは絶対なのだ。の富士門日興門流の言い分に100歩譲って
今の花和尚が偽物といったのだから日興門流には偽物のはず。だが、信徒を釣る道具として本物としている。
他日蓮各派は日蓮を本尊としないので論外
学会は信心で拝めばすべてが本尊だから、たとえ身にいけなくても本物の本尊ということになる。
でもただの物だよねこの本尊まったくよそにもとむることなかれただ「キ○○○○○の肉○に・・・」だから信心がないとすべて偽者なんだよね。
どっちに信心があるかは自由に論争してくれ

328日真名氏飛び出す:2003/11/14(金) 00:34
>学会は信心で拝めばすべてが本尊だから、たとえ身にいけなくても本物の本尊ということになる。

日蓮さんは、そんなこといってませんよねえ。
学会も石山も己義によって教学を「作っている」から、そういう考えがでてくるわけでしょう。
どちらも今の日本に存在するのは、うっとおしいなぁ、と思わずにはいられません。

329空き缶:2003/11/15(土) 00:40
空き缶です。久々に書き込みいたします。

話題がチョッとずれますが、身延には多数の「板曼荼羅」があると聞きます。
その中でも、日向上人の「正安二年庚子十二月日。右日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を造立す」との添書をみる、宗祖真筆曼荼羅の板本尊が宝蔵に厳護されていると聞きます。
直拝したわけではないので、その真偽は不明ですが、この板本尊が実在すれば日法上人彫刻の板本尊(山梨県:妙本寺所蔵)よりも古く、日蓮門下最古の板本尊となると思います。(もちろん大石寺所蔵の通称「本門戒壇の大御本尊」を後世の作とした場合ですが。)

この件に関しまして、皆様のご意見を拝したく存じます。

330求道者、、99:2003/11/15(土) 21:16
 ご参考に大変になりました。 「いかがわしい?本尊紙片が蔓延中」のようですが、、。 教団VS信者という「視点」からは「???」が「最大事、、?」なのでしょうか、、? ?? 「??」、、。

331三学無縁:2003/11/15(土) 21:33
いつまでも「お形木」だけしか授与しない教団はいかがわしいと思えます。
また、いかがわしい信徒であれば「お形木」だけしか授与されなくても当然とも思えます。
しんし、最初から、基本的には「お形木」だけしか授与しないつもりで信徒を増やすという行為や考えは「ぬすっ○猛々しい」としか思えません。

329の空き缶さんのご質問にある、「日蓮幽霊成仏得道乃至法界衆生平等利益の為に之を造立す」という、いわゆる「日蓮幽霊本尊」ですが、「幽霊」という言葉は、いつごろから使われはじめたものでしょうか。
わたしは、この板本尊については時代が下るのではないかという気がするのですが。

あと一点、石山の板曼荼羅ですが、本当に「楠」なのでしょうか。上代の誰かが「楠」と書いたからそう思っているだけではないのでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。

332れん:2003/11/15(土) 21:40
空き缶さん。日向師の造立の板曼陀羅は堀日亨師の著作によると、蓮祖図顕曼陀羅の摸刻の様です。非公開ですので、直見出来ないので真偽はわかりませんが、堀日亨師の鑑定が正鵠を得たものならば、大石寺所蔵、伝蓮祖図顕造立の板曼陀羅(通称本門戒壇大本尊)は度外視しても、日向師の造立板曼陀羅は蓮祖門下で最初に板曼陀羅を造立した例として貴重なものであることは論をまたないと存じます。「日蓮宗の本山めぐり」によりますと郷門の富士久遠寺の客殿の板曼陀羅は蓮祖が日法師に命じて彫刻したものとされています。m(__)m

333空き缶:2003/11/16(日) 21:22
三学無縁さん

すみません、お返事が遅くなりました。
「幽霊」という用語の使用開始年代についてのご指摘、ありがとうございます。
詳しくは「わかりません」が正直なところです。

ご存知とは思われますが、日興上人が身延離山の直前に、波木井実長に宛てられた書状に「与波木井実長書」があります。
そこには身延山久遠寺を指して、「上行菩薩日蓮上人之御霊崛也、怨霊悪霊もなたむべし」(日宗全2巻P169)とあります。
この書状は日宗全では「正本富士大石寺に在り」(同P170)と出てきますが、大石寺系の他の文献(興風談所:日興上人全集等)では正本不伝とされています。
このように、真偽のほどは判別できませんが、「幽霊」と「怨霊悪霊」が宗祖滅後に、時間的にそうはなれることなく日向上人・日興上人の御二人によって使われた可能性がある、とはいうことができると思います。

れんさん

小泉久遠寺の板本尊、その真偽についてはいかがでしょうか。ご意見を伺いたく存じます。
同じ郷門の寺院ですが、「日法造立説」にいまいち不信があります。

334れん:2003/11/16(日) 21:38
空き缶さん。小泉久遠寺の板本尊については、「日蓮宗の本山めぐり」以上の資料がありませんし、直見しておりませんので真偽の程は分かりません。まあ、伝蓮祖図顕の板本尊が小泉久遠寺にも伝承されているということを押さえておけばよいと存じます。m(__)m

335空き缶:2003/11/17(月) 12:00
幽霊について、日蓮宗の御僧侶よりご指摘と御教授をいただきました。

『今法蓮上人の送り給える諷誦の状に云く「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当り一乗妙法蓮華経五部を転読し奉る」等云云、』(法蓮抄)

『内房よりの御消息に云く八月九日父にてさふらひし人の百箇日に相当りてさふらふ、御布施料に十貫まいらせ候乃至あなかしこあなかしこ、御願文の状に云く「読誦し奉る妙法蓮華経一部読誦し奉る方便寿量品三十巻読誦し奉る自我偈三百巻唱え奉る妙法蓮華経の題名五万返」云云同状に云く「伏して惟れば先考の幽霊生存の時弟子遥に千里の山河を凌ぎ親り妙法の題名を受け然る後三十日を経ずして永く一生の終りを告ぐ」等云云、』(内房女房御返事)

336空き缶:2003/11/17(月) 12:04
れんさん

小泉久遠寺は、きっとどの宗派・団体よりも妙本寺を厳しいい眼差しでみていることでしょう。

でも、東光寺や小泉久遠寺は一度いってみたいです。

337寛星:2004/02/10(火) 10:44
はじめまして。
ぜひ、教えていただきたいことがあります。

>84 七師外道さんの投稿ですが、
>相貌は宗祖の筆。
>年号は日興上人の筆。
>弥四郎云々は他筆。
>身延時代は紙幅。
>板に彫ったのは離山後。
>紙幅は重須で盗難にあった。
>以上、堀日亨上人、富士宗学要集講義でのご発言。

>87
>C富士宗学要集講義録(各受講者による記録)
>84はCより

>89
>講義録によれば、
>重須で盗難にあった20幅の本尊に紙幅の本紙が含まれていた。
>年号の字体は日興上人のものである。

大変、驚きました。
七師外道さんへ、
これはどなたによる記録なのでしょうか?
また、これはどのようなタイトルの講義録なのでしょうか?
もしくは最低でも、その講義録の引用部分の前後も含め、
ぜひ、ぜひ、教えてください。
また、古い投稿でしたので、七師外道さんをご存知の方、どうかお知らせ願います。
また、皆様の中で、この件についてご存知でしたら、どうかご教示願います。
私の知る限りの講義録には、探せ出せませんでした。
内容に驚いているのではありません。
堀上人がこのようなことを言われるはずがないと思っていました。
大変に貴重な、また重大な投稿ですので、どうか教えてください。

338犀角独歩:2004/02/10(火) 12:49

337 寛星さん:

はじめまして…、でしたでしょうか。

さて、七師外道さんがご覧になっておられれば、是非、解説いただければと存じます。この件は三学無縁さんもお詳しいところでした。

指摘される相貌については、この講義に限らず、概ね言われているところです。
所謂「戒壇之大御本尊」の筆跡まで正確に写した紙幅臨写は何体か存し、その相貌からも以上のことは指摘されてきました。また、問答名人さんが宝蔵番の僧侶の話として伝えて点とも合致しています。

しかし、知る限り、この講義録が巷間に流布しているとは風聞していません。
ただし、わたしは個人的に亨師はこれぐらいのことを言う方であると思います。
また、以上の筆録は至極自然な記述であって、この内容がまた河辺メモと脈絡を持つとも想像されたわけでした。

339寛星:2004/02/13(金) 12:14
犀角独歩さん、御丁寧にありがとうございました。
そして勉強不足ですみませんでした。

>さて、七師外道さんがご覧になっておられれば、是非、解説いただければと存じます。この件は三学無縁さんもお詳しいところでした。

七師外道さん、三学無縁さん、どうか御教示願います。

>指摘される相貌については、この講義に限らず、概ね言われているところです。

それは堀上人が言われたのでしょうか?それとも他の人の発言なのでしょうか?

>所謂「戒壇之大御本尊」の筆跡まで正確に写した紙幅臨写は何体か存し、その相貌からも以上のことは指摘されてきました。

日禅授与の御本尊のことでしょうか?
この件で、私が気になるのは「筆跡まで正確に写した」のなら、今の御戒壇様と大きさまで同じ御本尊だったと考えられますが、私には日禅授与の御本尊の大きさがわかりません。
ご存知でしたら教えていただけないでしょうか?

>また、問答名人さんが宝蔵番の僧侶の話として伝えて点とも合致しています。

ものすごく興味があります。
問答名人さん、どうか御教示願います。

>わたしは個人的に亨師はこれぐらいのことを言う方であると思います。

どのようなことから、そう思われるのか、ぜひ教えていただきたいと思います。

その他、堀上人が御戒壇様について発言されていることをご存知の方、どうか宜しくお願いします。

340問答迷人:2004/02/13(金) 13:55

寛星さん はじめまして

お呼びか掛かりましたので、レスさせていただきます。

>宝蔵番の僧侶の話

昨年、聖教新聞配達員さんが、是非合わせたい人がいる、と言って、一人の僧侶を連れてこられました。所謂、「宗門離脱僧」の方で、兵庫県の人でした。名前は失念しましたが、必要なら確認出来ると思います。話が、河辺メモに及びましたとき、僧侶から、「実は私は、御宝蔵の番をしていたことがあり、戒壇の大御本尊をごくまじかに拝したことがある。曼荼羅部分の文字は草書のような崩し文字だが、下部分の、弘安二年等の文字は、楷書のような文字で、明らかに筆跡が違っていた。」と話していました。

僕は、上の部分と下の部分とが合成されて、戒壇板本尊となったのだと理解し、そういうことか、と聞きましたら、「そう思う」との返事でした。

341犀角独歩:2004/02/13(金) 14:00


339 寛星さん:

>>指摘される相貌については、この講義に限らず、概ね言われているところです。
> それは堀上人が言われたのでしょうか?それとも他の人の発言なのでしょうか?

亨師の言としても伝わりますし、その他、例えばN師などもそのような発言をなさっていますでしょう。この点はネットで簡単に僧侶と雖も名前を公開することは憚れますので、お会いする機会があればお話できようかと存じます。

>> 所謂「戒壇之大御本尊」…臨写
> 日禅授与の御本尊のことでしょうか?

違います。「戒壇之大御本尊」そのものの臨写です。
この件も、名前を挙げれば、石山古刹なので、まあ、気の毒ですから名は伏せることにします。しかし、そうわたしが記せば、通じている方々は「何を今更」とお笑いになるところでしょう。

また、これもいまでは固く閉ざされてその存在を確認できませんが、正本堂遷座の折、修繕の際に聖教新聞社カメラマンが「戒壇之大御本尊」を克明に撮影していると言います。つまり、学会ではこの相貌については既にわたしが記すことは承知のうえで、旧態依然とした寛師・人法一箇一閻浮提総与の大御本尊を普遍化しようとしているのでしょう。顕正会で言えば、彼の浅井子息は既に戒壇之大御本尊が後世の創作であることをほぼ了解しているとも漏れ伝わります。もちろん、石山の中枢において、以上のようなことは周知の事実なのであって、それが河辺メモという形で明るみに出たと言うことなのであろうと思えます。それぞれトップクラスはその事実を知りながら、信者と平僧を操作する格好の“道具”として「戒壇之大御本尊」を利用しているのが実態なのだとわたしは観察しています。

いずれにしても、わたしは何度となく繰り返していますが、墨で書いた筆跡を彫るのは仏師という職人の仕事なのであって、板に刻まれた段階で、それは正本ではなく模刻であるということです。

>> わたしは個人的に亨師はこれぐらいのことを言う方であると思います。
> どのようなことから、そう思われるのか、ぜひ教えていただきたいと思います。

亨師は他五老門下とともに日宗全の編纂に当たった学者です。
わたしが亨師を知る延山の研究者から昔話を聞いたとき、その方は言ったものでした。

「僧侶は、対機で話しますよ。日亨さんは石山向けにはその教学的な傾向に沿って話してましたし、日蓮宗に来れば、それなりに通日蓮宗の一般論から話していました。要は石山向けの話と、外部向けには話分けをしていましたよ。それと、日亨さんの編纂、発言とされる学会に係る出版物の多くは学会教学向けにかなり“編集”されています。ですから、出版物に残る日亨さんの言がそのまま日亨さんその人の考えだと思ったら大きな間違いです。あれは都合よく編集され利用された日亨上人というブランドに過ぎません。では、真の日亨さんの実像を知るためにはどうしたらよいのか。それはあの難読の『堀ノート』を解読をすることがもっとも手っ取り早いでしょう。ところが、日亨さんの字は実に読みづらいばかりではなく、その直筆が石山アナウンスと違っていることを知る“者”によって、門外不出として閉ざされてしまい、その研究はできないようにされているわけです」

> 堀上人が御戒壇様について発言

亨師は、「ご戒壇様だって火にくべれば燃える。木でできたものだから老朽化してなくなることもある。その時は自分が書く」というような内容の発言をしたと聞いています。
熊田葦城著『日蓮上人』の巻頭に「戒壇之大御本尊」の写真の掲載を許したのも、言うまでもなく亨師その人でした。

342れん:2004/02/13(金) 18:57
戒壇之板本尊について、問答名人さんのお話・犀角独歩さんのお話非常に参考になります。荒木清勇著「聖教乃正義」や熊谷葦城著「日蓮上人」の口絵に掲載された写真を拝すると題目の無のヒゲが二点あること、不動・愛染の起筆が身延曽存の弘安二年七月日春授与の蓮師図顕曼陀羅と同じなので、戒壇之板本尊の原本は恐らく蓮師弘安二年図顕曼陀羅と存じます。脇書の「右為…願主…敬白」は富士門上代の題目板牌と同じ書式です。年号の下、月日を二行書きに記すのは興師独自の書式ですので、年月日は興師筆とされた亨師の言は尊重すべきでしょう。m(__)m

343愚鈍凡夫:2004/02/13(金) 20:38

横レス失礼します。
事実かどうか知りませんが、「戒壇之本尊」と関連して、こんな話もありますよ。

「小笠原は大御本尊の写真を「二円」で「お守り」として売り 日開は御本尊を差別化し「尊号」をオマケにつけ商品とした」
http://www.houonsha.co.jp/jiyu/17/639.html

344れん:2004/02/14(土) 10:49
愚鈍凡夫さん。ご指摘の通り、十年くらい前の聖教新聞に確かに戒壇之大御本尊に関して小笠原慈聞師云々の記事がありましたね。私は昭和五十年代に今は無き正本堂で戒壇之大御本尊の御開扉(御内拝)を受けましたが、席が大御本尊から余りに遠かったので、筆跡などは全然わかりませんでした。巷間に出回っている大御本尊の写真も、周知の通り写真写りがかなり悪いので脇書が全然読めませんね。なお、私の把握している大御本尊の相貌は柳沢宏道師著「石山本尊の研究」に翻刻されているものに拠っています。m(__)m

345犀角独歩:2004/02/14(土) 11:38

れんさん:

> 不動・愛染の起筆が身延曽存の弘安二年七月日春授与の蓮師図顕曼陀羅と同じ

この漫荼羅は御本尊集に掲載されているものでしょうか。
いま、見たところ弘安2年7月というと以下の漫荼羅しか載っていません。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/065.html

わたしは両脇にある変形梵字様(これが本当に不染・愛染なのか梵字種子なのかは決しきれないでいますが、それは置き)の第一画に注目しています。建治から弘安に掛けて‘−’(横棒)で書かれていたものが弘安2年4月頃から変化が生じ、ご指摘の年月、すなわち弘安2年7月には完全に‘・’(黒丸)に変わっています。れんさんがご指摘になる春師漫荼羅はこのようになっているのでしょうか? となれば、他の現存漫荼羅書法の推移の例外を示すものとして興味が惹かれます。

この変形梵字様の第一画は、板漫荼羅の場合、蓮師の筆にしては形が整いすぎていること、また第二画がまっすぐ下ろされず鍵方になっていることから蓮師筆と異なるように見えることは、まあ置くにしても、その書式は建治年間の特徴を示しているように見えます。わたしは漫荼羅の各部位そのものも寄せ集めの可能性があると思っています。

しかし、もし、ご指摘の(曾存)漫荼羅が、そのようになっているとすれば、わたしのこの考えを改めたいと思います。ご教示いただければ有り難く存じます。

やや、蛇足ですが、達師はこの第一画を板漫荼羅に準じてか‘−’で記しますが、顕師は‘・’で記すことが多い。書写漫荼羅は板漫荼羅と相貌が違うことは今更言うまでもありませんが、この書法の両師の違い、わたしは不思議に思ってきました。あまり石山の歴代住職の書写漫荼羅を並べてみたことないので、他の歴代がどう記しているのか知りません。

また、「奉書写之」の“之”は板漫荼羅のことであるというのが石山の言いようですが、こんな一点を見ても、重須資料が示すように“之”は書写した漫荼羅そのものを指すと見るのが至当と思えます、これまた蛇足ですが。

> 脇書の「右為…願主…敬白」は富士門上代の題目板牌と同じ書式

これは石山では目師の造立は知っていました。板碑(いたび)は木偏の板は形状を表すばかりで、実際の目師のそれは石偏の碑が表すとおり石でできた卒塔婆でしたね。
興師なども造立しているのでしょうか。

> 年号の下、月日を二行書き…興師独自の書式…年月日は興師筆…亨師の言は尊重

なるほど。この点をれんさんは着目されていらっしゃるのですか。参考になりました。

三学無縁とお話したとき、彼が板漫荼羅の日付を興師筆とされる根拠は、(1)字が興師筆であると見える(2)蓮師は漫荼羅記載の日付は「大歳己卯」など干支を記されるのに、興師はこれをしない、拠って、板漫荼羅の日付記載は蓮師の書法ではなく、興師のやり方であるというご指摘でした。これはまた、亨師の鑑別の在り方に倣ったもののようでした。

346犀角独歩:2004/02/14(土) 11:41

343 愚鈍凡夫さん:

この話を読んで、わたしが直ちに思い起こしたのは創価学会の「携帯アクセサリー本尊」(笑)
寛師漫荼羅ならよくて戒壇本尊は駄目。『地涌』の記述は、目くそ鼻くそを笑う類の笑い話と読めました。

347犀角独歩:2004/02/14(土) 12:58

345の補足

所謂「戒壇之大御本尊」の変形梵字様の第一画は「―」になっている。この書き方は御筆漫荼羅では弘安2年7月以前のものである。つまり、弘安2年10月というのは筆法の推移と一致しない。けれど、れんさんが示される春師漫荼羅で変形梵字様の第一画が「―」なっているとなれば、筆法推移の例外があることになり、よって板漫荼羅が弘安2年10月の筆と考えられなくもないことになるという意味です。

御筆漫荼羅集では弘安2年10月はありません。一番、近いところでは11月です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/068B.html

この変形梵字様と板漫荼羅は明らかに違っています。

板漫荼羅
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

所謂「戒壇之大御本尊」のそれは建治年間の特徴を示していると見えます。

あと、これまた蛇足に属することですが、写真で見る板漫荼羅の上部両隅に鶴丸紋が刻まれているのが確認できます。それが板漫荼羅と一体なのか、枠なのか、わかりません。が、もしこの部分が一体であれば、造立当初から鶴丸が付いていたことになります。
蓮師が鶴丸紋を使った形跡はなく、石山でも蓮師の紋は転法、寺紋を鶴丸と言います。
つまり、身延山久遠寺で造立したのであれば、石山鶴丸紋が付くはずはありません。なぜなら、弘安2年に大石寺はまだ創建さえされていないからです。
つまり、この鶴丸紋が板と一体であれば、この造立は石山において、それも鶴丸紋が使用されるようになったあとのこととなるわけです。

相貌の示すところは建治様、付された紋は石山のもの、幾重にも論難されて致し方のないところであると言うほかありません。

348犀角独歩:2004/02/14(土) 13:07

【347の訂正】

誤)この変形梵字様と板漫荼羅は明らかに違っています。
正)この変形梵字様と板漫荼羅のそれとは明らかに違っています。

349犀角独歩:2004/02/14(土) 13:14

さらに自己レスです。

> 変形梵字様の第一画

上に点を二つ打たれていますから、これは第三画というべきかも知れません。
考えながら書いている手前、記述が揺れている点、ご勘弁ください。
申し上げたい意味はおわかりいただけようかと思います。
ご判読いただければ有り難く存じます。

350犀角独歩:2004/02/14(土) 14:26

どうも読み直すと自文のあらばかりが目につきます。

誤)春師漫荼羅
正)春師授与漫荼羅

のことです。訂正訂正で幅を取ってしまうこと恐縮です。

351愚鈍凡夫:2004/02/14(土) 14:37

>>344:れんさん、レス有り難うございます。

>>346:犀角独歩さん、レス有り難うございます。

実は小生も、
「だったら、ミニチュア漫荼羅付きロケットはなぁ〜に」 (^0^))☆爆笑☆((^Q^)v
と、突っ込みを入れながら読みました。

1279(弘安2)年10月の漫荼羅について、

№067
図 顕:弘安2年10月
寸 法:3紙 丈91.2㎝ 幅49.1㎝
要 文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:沙弥日徳授与之
所 蔵:埼玉県新曽妙顕寺
別 名:子安本尊

1279(弘安2)年11月の漫荼羅について、

№068-1
図 顕:弘安2年11月
寸 法:3紙 丈78.5㎝ 幅46.1㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:優婆塞日安授与之
所 蔵:静岡県沼津妙海寺
別 名:

№068-2
図 顕:弘安2年11月
寸 法:2紙 丈59.8㎝ 幅40.8㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:神奈川県小田原浄永寺

№069
図 顕:弘安2年11月
寸 法:2紙 丈68.8㎝ 幅45.2㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:沙門日永授与之
所 蔵:京都府立本寺

№070
図 顕:弘安2年11月
寸 法:1紙 丈45.1㎝ 幅30㎝
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:優婆塞日久
所 蔵:千葉県隋喜文庫
別 名:四天王画像本尊

ご参考までに。 m(_ _)m

352犀角独歩:2004/02/14(土) 15:40

愚鈍凡夫さん:

有り難うございます。
弘安2年10月の御筆漫荼羅は現存があったのですね。

これは独り言ですが、所謂「戒壇之大御本尊」、この相貌、見れば見るほど、その素本は蓮師の筆なのだろうか?と首を傾げるところが多くあります。先に指摘した変形梵字様の運筆は他の御筆とまるで違っています。また、花押にしてもその書き出しがまん丸で、こんな筆は他に例を見ません。わたしには蓮師が記した花押を彫ったものとは見えません。

「在家の分際で御本尊のことをとやかく言うと罰が当たる」なんていう脅しをまともに食らっていたときは、拝んでいたもののその実態を見ないように思考停止。その心理操作が溶けてリラックスして眺める板漫荼羅は蓮師の筆をうまく真似た贋物と思える幾つかの証拠を直視できます。

353犀角独歩:2004/02/14(土) 17:07

質問が選考して考えながら、考えると坑がありますね。
もう少しちゃんと推敲して投稿しないといけません。
347「御筆漫荼羅集では弘安2年10月はありません」の記述を撤回し、お詫び申し上げます。

弘安2年10月現存No67の漫荼羅は以下のものですね。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html

「戒壇之大御本尊」とはまるで違います。

御本尊集が発刊されてから歳久しいわけですが、よくぞいままで板漫荼羅の弘安二年御筆説が生き残ってきたものだと逆に感心します。

「御本尊を写真に撮るのは謗法だ」なんだと情報操作が功を奏してきたということなのでしょう。それにしても、そういう連中が、写真を撮って製版印刷して信徒会員に販売しているわけです。顕正会にしても、使い回される漫荼羅は同様に作られたものであることが少しも議論されていません。

まあ、しかし、700年前の歯肉が生きてるだとか、「戒壇之大御本尊は日蓮大聖人にまします」なんていう土俗信仰を一歩も出ないことが、21世紀のいまのいま、まだ罷り通るわけですから、ここでの議論は終わらないわけです。

これをマインド・コントロールの思考停止というか、宗教病理というか、そこまで言わなくても、人間の未練というものは如何ともし難いところがあるものだと感じる昨今です。

354れん:2004/02/14(土) 17:53
犀角独歩さん。身延曽存の春師授与蓮師曼陀羅(身延亨師摸写本)は、雄山閣から刊行された、日蓮聖人真蹟の世界上・山中喜八選集Ⅰに写真が収録されています。ご参照ください。石山板曼陀羅は不動の起筆が・で愛染の起筆が‐ですが、身延亨師の摸写本をみるとやはり不動の起筆は・で愛染の起筆は‐ですので、一応板曼陀羅の原本は蓮師弘安二年中図顕の曼陀羅ではないかと推定した次第です。故に石山板曼陀羅が後世の創作であるにせよ、その原本が弘安三年の日禅授与曼陀羅とする説には私は消極的なのです。

355れん:2004/02/14(土) 18:32
訂正。
誤→身延亨師の摸写本正→日春授与蓮師曼陀羅の身延亨師の摸写本m(__)m

356空き缶:2004/02/14(土) 19:20
お久しぶりです。にわかにこのスレッドが賑わいはじめ、いてもたってもいられなくなりました。

大石寺所蔵の通称「本門戒壇の大御本尊」は、「有師物語聴聞抄佳跡上」によれば、「次に本門戒壇の御本尊、寸尺、長四尺七寸五分、横弐尺壱寸七分、厚弐寸弐分御首題御勧請皆金薄入りなり、仏滅後二千二百廿余年等と云云」とあり、その讃文は「仏滅後」からはじまっています。
ある立正佼成会の有能な青年の指摘によれば、蓮祖の御筆曼荼羅の讃文は弘安元年七月以降は全て「仏滅度後」ではじまっており、弘安二年造立といわれる戒壇本尊の讃文が「仏滅後」ではじまっているのはおかしいといわれていました。
確かに現存する蓮祖の御筆曼荼羅は、弘安元年七月以降は全て「仏滅度後」ではじまっています。紙幅版の戒壇本尊が建治年間中に顕され、弘安2年に模刻されたのでしょうか?だとしても、弘安期御顕示の本尊こそ究極であり、それ以前は未究極とする大石寺側の論理にも反してしまいます。

また、私も已前は戒壇本尊は「日禅授与の御本尊」の模刻であり、日時師が模写し日有師が模刻したという仮説を立てていました。しかしこれは大きく見直さなければならないと反省しています。
恐らく日時師の代に模刻されており、元となった御本尊は複数の御本尊ではないかと思います。つまり完全なる偽作本尊であると思います。

357れん:2004/02/14(土) 20:31
石山板曼陀羅の御図顕讃文の問題について。身延曽存弘安二年太才己卯二月日優婆塞日戴授与蓮師御筆曼陀羅には「佛滅後二千二百三十余年…」とあり、御本尊集に未収録ながら、竹内理三氏編鎌倉遺文に活字にて翻刻・収録されている鎌倉妙本寺蔵弘安二年太才己卯十一月日沙門日行授与蓮師御筆曼陀羅の御図顕讃文も「佛滅後二千二百二十余年…」とありますので、蓮師は弘安二年までは曼陀羅の御図顕讃文において佛滅後・佛滅度後を併用されていた可能性がありますので、石山板曼陀羅の讃文が佛滅後だからといって、原本の蓮師筆を疑うのは早計です。m(__)m

358愚鈍凡夫:2004/02/14(土) 21:12

>>356:空き缶さん、ご無沙汰しております。
讃文の件、れんさんの仰る通りですよ。

讃文に「仏滅後」とある蓮祖漫荼羅は22幅存在します。

№020 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:大阪府堺妙国寺

№021 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:神奈川県比企谷妙本寺

№022 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:新潟県佐渡妙宣寺

№023 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:新潟県佐渡妙宣寺

№024 文永12年4月
讃 文:「仏滅後二千二百卅余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」
所 蔵:静岡県吉美妙立寺

№027 建治1年11月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府妙顕寺

№030 建治1年12月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:神奈川県比企谷妙本寺

№031 建治2年2月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮之内未曽図画大漫荼羅也」
所 蔵:兵庫県尼崎本興寺

№032-1 建治2年2月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:兵庫県尼崎本興寺

№032-2 建治2年2月5日
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県西山本門寺

№033 建治2年2月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県重須本門寺

№034 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本圀寺

359愚鈍凡夫:2004/02/14(土) 21:18

№035 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:千葉県茂原藻原寺

№036 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:東京都烏山妙寿寺

№037 建治2年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県玉沢妙法華寺

№041 建治3年2年
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本圀寺

№042 建治3年2年15日
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:静岡県鷲津本興寺

№043 建治3年?
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本能寺

№044 建治3年4月
讃 文:「仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:新潟県佐渡妙宣寺

№045 建治3年10月
讃 文:「仏滅後二千二百余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府本能寺

№046 建治3年?11日
讃 文:仏滅後二千二百余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也
所 蔵:京都府本圀寺

№048 弘安1年4月21日
讃 文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
所 蔵:京都府立本寺

「あ〜っ、しんどかった」(独り言) (・・;)

360愚鈍凡夫:2004/02/14(土) 21:22

以上、
讃文に「仏滅度」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって、蓮祖は「仏滅後」と「仏滅度後」とを厳密に区別していなかったのでないでしょうか。したがって、1279(弘安2)年図顕の漫荼羅に「仏滅後」とあっても不思議ではないと思います。

361れん:2004/02/14(土) 21:23
蛇足ながら、御本尊集「奉蔵於奥法宝」に収録されている石山歴代(蓮師〜有師)の曼陀羅を並べてみますと、目師以降有師までの歴代は基本的には蓮師の曼陀羅を直接書写するのではなく、興師書写の曼陀羅の相貌を書写しているのに気付きます。なお興師の不動愛染の起筆は‐。目師も同上。道師は・行師は‐。時師は初期は‐、晩年は・。影師は‐。有師も‐を使用しています。まぁ梵字の起筆については、歴代でも、一定してない印象を受けます。板碑については興師が作ったかは知りませんが、興師在世に造立されたものが「日目上人」に収録されています。

362問答迷人:2004/02/14(土) 22:12

愚鈍凡夫さん

>360 讃文に「仏滅度」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって、蓮祖は「仏滅後」と「仏滅度後」とを厳密に区別していなかったのでないでしょうか。

空き缶さんが指摘された、「蓮祖の御筆曼荼羅の讃文は弘安元年七月以降は全て「仏滅度後」ではじまっており、」を逆に358 359は裏付けているように思います。蓮祖は弘安元年七月以降、それまで、統一していなかった表現を「仏滅度後」に統一された可能性は否定出来ないと僕は思います。そして、戒壇板本尊が弘安二年の図顕でないとする説の、一つの傍証にはなると思います。

363愚鈍凡夫:2004/02/14(土) 22:13

>>360:
訂正
誤→讃文に「仏滅度」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって
正→讃文に「仏滅後」とある現存する蓮祖漫荼羅からいって

です、悪しからず。 m(_ _)m

あっ、
>>352:犀角独歩さん、レス有り難うございます。

今の「戒壇之本尊」は、いったい何代目なんでしょうね・・・・・。

364愚鈍凡夫:2004/02/14(土) 22:33

問答迷人さん、レス有り難うございます。

> 蓮祖は弘安元年七月以降、それまで、統一していなかった表現を「仏滅度後」に統一された可能性は否定出来ないと僕は思います。

一つ質問させて下さい。
「仏滅後」、「仏滅度後」両方の表現を使用していたのを「仏滅度後」と統一表記された理由は何でしょうか。
それともう一点、腑に落ちない処があります。それは、
「仏滅後二千二百三十余年」
「仏滅後二千二百卅余年」
「仏滅後二千二百二十余年」
「仏滅後二千二百余年」
これらの違いなんです。例えば、№045 1277(建治3)年10月の漫荼羅は「仏滅後二千二百二十余年」と記されているのに、№048 1278(弘安1)年4月21日の漫荼羅では「仏滅後二千二百三十余年」となっています。
これらのことからの推察ですが、やはり、「仏滅後」、「仏滅度後」を厳密に区別されていたとは思えないのですが。

365愚鈍凡夫:2004/02/14(土) 22:51
>>359:

訂正
誤→ №041 建治3年2年
正→ №041 建治3年2月

誤→ №042 建治3年2年15日
正→ №042 建治3年2月15日

です、悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!

366空き缶:2004/02/14(土) 23:49

 皆さん、こん○○わ。

 逆のパターンでも同様なんです。あくまでも現存する御筆曼荼羅におけることですが、弘安元年七月已前は讃文のある御本尊は全て「仏滅後」ではじまっています。

 つまり弘安元年七月已前は「仏滅後」、それ以降は「仏滅度後」、きれいに分かれています。

367れん:2004/02/15(日) 21:40
空き缶さん。弘安元年七月已前は讃文のある御本尊は全て「佛滅後」ではじまっているとの御主張ですが、中山曽存の建治元年太才乙亥十二月日蓮師図顕曼陀羅には佛滅度後とあり、安国会の御本尊集収録のものでも、京都本圀寺蔵・建治三年太才丁丑十一月日蓮師図顕曼陀羅は佛滅度後ではじまっています。これらの資料により、弘安以前の蓮師曼陀羅に於いても少数ながら佛滅度後の讃文の例がある以上、空き缶さんの弘安元年已前は全て佛滅後ではじまっているとする主張は見当違いです。なお興師には、初期に佛滅後と書写した曼陀羅が三幅現存します。m(__)m

368空き缶:2004/02/16(月) 01:26

れんさん、こん○○わ。
 あくまでも「現存する御筆曼荼羅」と前置きしている通りです。れんさんご指摘の「曽存」の御本尊はあくまでも「曽存」であり、「現存」ではないですね。

 御本尊鑑などといわれる「臨写版」は、筆跡まで似せて書いた模写であるといわれますが、「佐渡始顕本尊」一つとってみても、相貌が異なっていたりして、あくまでも「模写」は「模写」であり、真筆とは違うのではないかと思います。
 これは讃文ではありませんし、直拝したわけでもありませんので、あくまでも資料を元にしたことですが、大石寺所蔵の日禅授与曼荼羅と北山本門寺所蔵の万年救護本尊の御端書きは、若干異なっているはずです。同年月日の御顕示でともに「日禅」に授与された御本尊ですので、どちらかが模写であると思われますが、これらの資料から感じることは模写と真筆の御筆としての信頼度の違いです。
 
 京都本圀寺蔵・建治三年太才丁丑十一月日御顕示の、通称「切謁本尊」につきましても、他の資料によれば讃文は「仏滅後」ではじまるとされるのが通説ではないでしょうか。保存状態も悪く、素人の私ではなんともいえませんが。

 もちろんこれらの考えは、戒壇板本尊の真偽それぞれの立場によって、見方・考え方が異なるのは当然であり、戒壇板本尊を信じておられるれんさんの立場からすれば、曽存本尊の讃文や安国会編の御本尊集は、最も信頼性のある資料でしょう。
 しかし、人はそれぞれの立場によって偏ったものの見方をしますので、私的にはやはり「現存する御筆曼荼羅」では弘安元年七月前後をもって、讃文は「仏滅後」から「仏滅度後」へと変化しており、その意味からも戒壇板本尊へは疑義を呈せざるをえません。

369れん:2004/02/16(月) 04:45
空き缶さん。京都本圀寺蔵の建治三年十一月の蓮師曼陀羅の讃文は間違いなく「佛滅度後」ですよ。これは、手元にある安国会編の御真蹟御本尊集縮刷版・山中喜八師著日蓮聖人御真蹟の世界・日蓮聖人真蹟集成第十巻御本尊集に収録の鮮明な御筆写真で確かめましたので間違いないですよ。私個人の立場は石山板曼陀羅を否定も肯定もしません。この板では単に石山側の伝承とアナウンスを尊重しているだけの話です。また板曼陀羅の相貌からみて、曼陀羅部分の原本は一応弘安二年の蓮師曼陀羅だろうと推定しているだけです。m(__)m

370犀角独歩:2004/02/16(月) 12:30

354 れんさん:

最初にわたしは板漫荼羅が禅師授与漫荼羅の模刻であると考えていません。
けれど、その一部は使った可能性はあるのだろうか程度に漠然と破考えています。

春師授与蓮師曼陀羅掲載資料のご提示有り難うございました。探してみてみようと思います。けれど、簡単に見られそうもないので、以下の点、ご教示いただけませんか。

春師漫荼羅の梵字変形様の「愛染」と言われるところの書き方ですが、どうなっていますでしょうか。2画目は「|」とまっすぐ伸びていますか。それとも右に曲がりそれから下がっていますか。

もう一点、花押の書き出しは 0 のようにつぶれた扁平になっていますか、それとも ○ になっていますか。

以上、2点、わたしは板漫荼羅の運筆はとても蓮師のものと思えない点なので、この漫荼羅の祖本が他筆ではないかと疑っている点です。この点、春師授与漫荼羅ではどうなっているのでしょうか。

もう一つ、山中師本にある春師漫荼羅は模写のようなので、これを直ちに御筆と考えることはできませんが、仮に正本を正確に写しているとする場合、板漫荼羅と春師授与漫荼羅は梵字変形様の不動・愛染の1画が ・− となっている点で、その他の漫荼羅の書き方と際だって異なっていることになります。全体の筆法変遷の流れから見れば、いわば例外的と見えます。つまり、わたしはこのような筆法は蓮師に見られず、むしろ他筆、疑えば偽作と見るわけです。しかし、れんさんは、それを例外と見ず、むしろ積極的な弘安2年段階の筆法と考えられる根拠はなんでしょうか。

371空き缶:2004/02/16(月) 16:34

 れんさん、こちら→http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/046.htmlでは、「仏滅後」となっています。私の素人判断でいきますと、「建治三年御顕示」であれば「仏滅後」だろうとの見解から、こうなっているのではないでしょうか。

 御覧の通り、この御本尊は保存状態が悪く、本当に建治三年の御顕示かどうかは疑問が残っているものです。讃文が「仏滅度後」であるとするならば「弘安三年御顕示」と考えることも可能なのではないでしょうか。

372れん:2004/02/16(月) 18:14
犀角独歩さん。身延曽存の春師授与曼陀羅(身延亨師模本)の愛染と花押の筆跡ですが、これはここに書くより、百聞は一見にしかずで、ご自分で山中師のご本に掲載された写真を見られた方が、より正確な判断を下せると存じますので、あえてここではご質問の回答は記しません。私見では石山板曼陀羅は蓮師と興師の曼陀羅からのパッチワークではないかと思います。石山には弘安二年の蓮師曼陀羅が二幅(八月と十一月のもの、いずれも非公開)有りますので、そこからのパッチワークは考えられるのではないかと思っています。

373れん:2004/02/16(月) 18:29
空き缶さん。私はPCをまだ持っておらず、手持ちのケータイでは、そのサイトを見れないので分かりませんが、本圀寺蔵の建治三年十一月の曼陀羅の花押はバン字花押であり首題の経字も第二期ですので全体として建治式の相貌であり、弘安三年の図顕とするのは不可です。PCのサイトの不鮮明なものを見るより、安国会から出している縮刷版を見た方が、蓮師曼陀羅について、より正確な判断を下せる筈です。なお、縮刷版御本尊集は山喜房仏書林から購入できます。m(__)m

374空き缶:2004/02/16(月) 19:40

れんさん、京都本圀寺蔵の御筆曼荼羅では例外的なものが他にも見受けられます。弘安三年御顕示といわれる「今此三界本尊」の相貌などは、弘安期の御本尊としては例外中の例外なのではないでしょうか。
「日朗御譲状」を宗祖真筆として伝えていた京都本圀寺ですので。私はより信頼度の高い御筆によればよるほど、弘安元年七月前後をもっての讃文の変化は動かし難いものと思っています。

375れん:2004/02/16(月) 21:04
空き缶さん。自説に固執する気持ちは理解できますが、自説にそわないものは否定するという姿勢はよくないと思います。蓮師の御真蹟を集成した片岡随喜師山中喜八師は専ら御真蹟をもって御真蹟を判ずる方法により、蓮師御真蹟の真偽を決せられたものでその鑑識は信頼できます。故に日朗譲状を真蹟と伝えた本圀寺のものは信用出来ないというのは、些か根拠が稚拙と思います。板曼陀羅の原本が蓮師曼陀羅か否かは、資料不足で決し得ませんが、蓮師曼陀羅の讃文は建治から弘安二年までは仏滅後と仏滅度後を併用されたと考えるのがより史実に近いでしょう。

376空き缶:2004/02/16(月) 23:28

 れんさん、私は京都本圀寺所蔵だから偽物の曼荼羅であるといっているわけではないのです。「切謁本尊」に「建治三年」の文字がはっきりみえていれば、考えを変えます。
 しかし、建治三年説は花押などの種類より推定されたものであり、「今此三界本尊」のように弘安年期の御本尊としては例外的な相貌などがあることから、建治三年説は推定の域を出ないのではないかと思うのです。
 
 もちろん、れんさんは豊富な資料を元に論じておられますので、大変参考になることばかりでありがたいと思います。
 今後の勉強に、資金と時間の余裕をみつけては、該当資料を手元に置いて学んでみたいと思います。

377犀角独歩:2004/02/17(火) 09:15

372 れんさん:

わたしがれんさんに意見を求めたのは、模刻である板漫荼羅と模写である春師授与漫荼羅の不動愛染(と言われる梵字変形様筆法)から、何故弘安2年と自説を立てられるのかという点でした。真筆を筆法の変遷によって判断すべきであるところ、模写を持ってきてまで、弘安2年に拘る理由がわからないということです。空き缶さんに「自説に固執する」という言葉を投げかけていますが、無礼を顧みず率直に申し上げれば、わたしにはむしろれんさんのこの姿勢は自説に固執しているようにお見受けするわけです。

> 私見では石山板曼陀羅は蓮師と興師の曼陀羅からのパッチワーク

これ以上、議論を繰り返しても意味はありませんが、敢えて繰り返せば、蓮師の筆法から見るとき、弘安2年の段階で板漫荼羅の如き、書き方にはなっていません。殊に板漫荼羅のそれは運筆すら蓮師とは異なるのであって、到底、真筆を素本にして彫ったとは思えないわけです。また、花押の書き出しも蓮師真筆とは異なるのであって、これまた真筆を素本にしたとは言い難いところがあります。故に蓮師・興師漫荼羅に材を採ったパッチワークであるという意見にはいちおう賛同するものの、さらに他筆を以て補ったものであろうというのがわたしの意見であるは記しておくことにします。

378寛星:2004/02/17(火) 11:20
横レス、すみません。
犀角独歩さん、問答名人さん、いろいろと御教示下さり、ありがとうございました。
しかし、私の求めていた堀上人の具体的な講義(書籍)名は、知ることができませんでした。
皆さんにとっては、堀上人がどのように発言しようが、どうでもいいかもしれませんが、私はファン(こんな言い方は関係者に怒られるかな?)なので、どうしても具体的な事実を知りたかったのです。
ですから投稿元の七師外道さん、どうか御教示願います。

犀角独歩さんへ、
>亨師は、「ご戒壇様だって火にくべれば燃える。木でできたものだから老朽化してなくなることもある。その時は自分が書く」というような内容の発言をしたと聞いています。

私の知る限りでは、ご本尊を守る意味での発言と知らされています。
それは、『仏教思想と富士教学』(大橋慈譲著)の中に、
『亨師の御考えは、冷厳な歴史学者としての醒めた眼が絶えずあった。私共は、ついつい信心と云うものが先きにあり、兎角信心していると云う安易が先き走り勝ちとなる。それに対して、常々、自己を振り返えろ、御本尊様は、守る対称であって、守って貰らうものではない。御本尊様どうぞお守り下さいと願はなくとも、守られる様な信心に立ち、その様な行いをすれば、自然に仏様は守って下さるものだと云われた。亦、或る時、余りにも、冷厳な科学者的な亨師の観方に対し、私は信仰的に不安になり、では、「戒壇の御本尊様でも、火にくべれば燃えてしまうのですか」とお尋ねしたら、平然として眉毛も動かす事なく、只一言「勿論燃えてしまうさ」と答えられた。然うして、暫くして、幼稚な私を憐れむ様に、「然し、今戒壇の大御本尊が、燃やされようとしているのに、お前達は、黙って見ているのか、それを生命を掛けて守らんとする。その精神が、末代迄存続させるのである。」「黙って、居る様な信心でどうする」と言葉鋭く云われた。』(P313)とあります。

また『追考 聖訓一百題』の中には、
『此(こ)の信心の下に、修行と学問との二の道がある。如何(いか)に正義な熱烈な信心を有(も)っていても、修行と学問とで、其(それ)を助長して行かぬと、或は落着(おちつき)もなくなり、進歩も覚束なくなる。其処(そこ)で、「行学絶エナバ仏法ハ有ルベカラズ」と御警告なされた。小乗経の三十七道品(どうほん)は、一寸(ちょっと)迂遠(うえん)のやうであるけれども、其(その)意向(こころもち)を常に用いて、行学に励まねぱならぬ。自行学だけでは利他の益を失して、信心者の行為でなし。「自行化他ニ亘リテノ南無妙法蓮華経」と特示せらるる大則に背く事である。「我モ致シ人ヲモ教化侯へ」と云はるゝのが、即(すなわち)、自己の行学と共に他に行学を勧めよ、実戦せしめよ、と仰せらるゝのである。
 併(しか)し、単独の行学ぱかりでは目的帰趣が変になる恐れがあるので、又、原(もと)に帰りて「行学ハ信心ヨリ起ルベク侯」と念を押された。此(これ)は総体にかけてである。
 若(も)し中々に行学が起りにくき者には、強いても励ましても、即ち作意的に行学を奮起さする必要もあらう。又、其者(そのもの)に、種々の行学を起すべき善き環境を与へる必要もあらう。千里を遠しとせずして御本山へ登り、戒壇大御本尊の御内拝を遂ぐる等は、其(その)最(さい)なるものであらう。斯(こ)う云ふときは、或は「行学ハ信心ヨリ起スベク侯」と云ふても差支へない事になる。其(それ)は「行学ハ信心ヨリ起ルベク侯」と云ふ御文を曲解すれば、自然に放任(まか)すると云ふ風にも聞ゆるから、其(そ)うならぬ様に、一層切実に「行学ハ信心ヨリ起スベク侯」と考へた方が善いのである。
 無論、現代の様に、無信、無行、無学の僧俗のみ倍増して、偶(たま)に行学に熱注(ねっちゅう)するかと思へば、動(やや)もすれぱ飯食ふ種とのみ意得て、邪道に驀進する徒のみ多き時代には、殊更(ことさら)に「信心ヨリ起スベク侯」であらう。』(P75)とあります。

少し長くなりましたが、堀上人は、周囲が御戒壇様に対し動揺するような発言は、されなかったのではないかと思っています。

379犀角独歩:2004/02/17(火) 18:07

378 寛星さん:

> 具体的な講義(書籍)名

これは具体的な講義名も、書籍名もないからでしょう。

> 現代の様に、無信、無行、無学の僧俗のみ倍増して、偶(たま)に行学に熱注(ねっちゅう)するかと思へば、動(やや)もすれぱ飯食ふ種とのみ意得て、邪道に驀進する徒のみ多き時代

まったく奉安殿から正本堂、奉安堂に至る現代まで、拝観料一律3000円を取って板漫荼羅を見せ物にする大石寺の醜態に、既に厳しい警鐘を鳴らしていた言葉として重みを感じます。

> 堀上人は、周囲が御戒壇様に対し動揺するような発言は、されなかったのではないかと思っています

まあ、そのように信じられたいのでしょうね。お気持ちはわかります。
しかし、七師外道さん、三学無縁さんが述べられるところは、板漫荼羅の実際の有様とも一致し、その発言元を亨師としている点は否めません。この事実を私は厳正に受け止めています。

なおわたしも亨師のことは好きです。亨師が内外を問わず、多くの尊敬を得たのは「戒壇之大御本尊」を絶対至上とするような、つまらぬ護宗・護教の狭隘な偏執者ではなかったからであろうというのは先のわたしの発言の趣旨です。

なお手元に『堀ノート』(手書き複写本)の持ち主をご紹介できます。ご覧になりたいのであれば、ご連絡ください。ご自分の手で確認されるのも一考であろうかと存じます。

380れん:2004/02/17(火) 20:30
犀角独歩さん。レスありがとうございます。私があえて弘安二年説にこだわったのは、板曼陀羅に弘安二年十月十二日とある以上、創作するにあたって、それ程時期のずれたものは使用しなかったのではないかと考えたからでした。私は間近で板曼陀羅を見たことがないので、何とも言えません。実見すれば、曼陀羅・脇書が何のパッチワークの産物か大体判断出来る筈ですが、とりあえずそれは永久に無理でしょう(笑)。それから、独歩さんが寛星さんに紹介していた堀ノートは私も拝読してみたいですね。よろしければ私にもご紹介いただければ幸甚です。m(__)m

381犀角独歩:2004/02/17(火) 20:41

れんさん:

> 弘安二年十月十二日とある以上、創作するにあたって、それ程時期のずれたものは使用しなかったのではないかと考えたから

なるほど。これは納得がいきます。

> 間近で板曼陀羅を…実見

れんさんのような博識、目利きの方にご覧いただければとわたしも希望します。
しかし、この夢はかないそうもありません(笑)わたしも同様です。
ただし、この正確な臨写は見ることは可能のようですね、例のR寺で。

> 堀ノートは私も拝読してみたい

わたしはギブアップしました。亨師の手書きは実に難読です。
もし、よろしければ個人的にメールをお寄せください。
中継ぎをすることはできます。

382れん:2004/02/17(火) 22:05
犀角独歩さん。レス有難うございます。例のR寺とはあのR寺でしょうか?中杉弘氏の刊行した板本尊偽作論にR寺に紙本があるとありましたが、それが、板曼陀羅を正確に臨写した写本なのでしょうか?堀師の手書きは確かに難読でしょうね。故山口範道師の御本に掲載されていた堀師の筆跡は大変達筆で、活字に慣れている現代人には難読なのは想像がつきます。実に難読なのは承知の上で、堀ノートを読む価値はあると思うので、独歩さんに中継ぎをお頼みしたいと思います。ただ、独歩さんに個人的にメールをお寄せするにも、アドレスがわからないのですが…。

383犀角独歩:2004/02/17(火) 23:01

れんさん:

R寺、安永師の本の中で触れていましたっけ?
読み直してみます。

わたしのアドレスは
saikakudoppo@rio.odn.ne.jp
です。ちなみにHPは
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
最近、更新していないのですが。
れんさんはPCはおやりにならないのでしたね。
まあ、参考までに。

384れん:2004/02/18(水) 21:13
犀角独歩さん。レス有難うございます。先程、ケータイで、メールを送ってみましたが、さすがにケータイでは送信不可でした。近々(とは言ってもあと数か月程先ですが…)資金が出来次第パソコンを購入するので、パソコンを購入して、メールが送れる環境になりましたら、改めて独歩さんに「堀ノート」の中継ぎを依頼させて戴きますね。あと、板本尊偽作論で触れられているR寺の摸本の件ですが、安永師の板本尊偽作論の本文の中ではなく、安永師と中杉氏の対談の中で、中杉氏の発言の中に出てきます。右参考までm(__)m

385犀角独歩:2004/02/19(木) 09:11

れんさん、どうも。では、PCの導入をお待ちすることといたします。

386犀角独歩:2004/02/19(木) 09:13

ここのところの投稿内容をやや整理して、まとめてみました。

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

387犀角独歩:2004/02/19(木) 10:35

ついでに一つ。

○本門戒壇願主

「為現当二世造立如件本門戒壇願主弥四郎国重法華講衆等敬白弘安二年十月十二日」

この文に拠れば、弥四郎国重は本門戒壇の願い主であるといいます。
重要なこと、本門戒壇本尊の願い主ではなく、本門戒壇の願い主です。
つまり、この板漫荼羅に刻まれた記述は二箇相承と真っ向から矛盾しています。

「国主被立此法者
 冨士山本門寺
 戒壇可被建立也」

ここに明確に戒壇を建立するのは「国主」であると明記されています。
では弥四郎国重は国主なのか、もちろん、そうではないでしょう。
それにもかかわらず、板漫荼羅の記述では弥四郎国重がその国主になってしまっています。

388ガンコ:2004/02/20(金) 14:45

独歩さんにご質問申し上げます。

本門戒壇の大御本尊様の脇書きは、この板本尊が弥四郎国重によって造立されたことを意味するむね、かねてよりご主張であられましたが、今回あらたに、一期弘法抄との齟齬を指摘されました。
独歩さんのお考えを文脈より推察申し上げますと、板本尊の造立に相前後して、本門戒壇に相当する、あるいは本門戒壇を僭称する、そのような堂宇が建立されたということでしょうか?
箱物行政的にいえば、オリンピックが開催されるので、りっぱな競技場をつくる・・・あるいは逆に、先にりっぱな競技場をつくっちゃって、それを売りにしてオリンピックを招致するみたいなことです。

ちなみに顕正会では、「本門戒壇願主」と読まないで、「本門戒壇也」で改行して「願主・・・」となっております。

389れん:2004/02/20(金) 17:03
横レス失礼します。ガンコさん。顕正会では「本門戒壇之」を「本門戒壇也」と読んでいるのですね。「本門戒壇之」は堀日亨師の読みで、土屋日柱師は「右現當二世/造立如件/本門戒壇也(也カ之カ字ガ明瞭セズ)/願主弥四郎國重/法華講衆等/敬白」(松本道本著弘安二年大曼陀羅と日興師所収)と記しています。柱師は「本門戒壇也」と記しながらも「也カ之カ字ガ明瞭セズ」と注記しているので、板曼陀羅ないしR寺(日蓮実宗の方でしょうか?)に所蔵されているという正確な臨写本における表記がどうなっているか、少なからず興味があります。

390れん:2004/02/20(金) 17:13
訂正。
誤、右現當二世
正、右為現當二世
m(__)m

391ガンコ:2004/02/20(金) 20:16
さすが、れんさん。
わたくしはさっぱりわかりませんが、あるいは浅井自身の目でそのように判断したかもしれません。
おそらく奉安殿の建立以前に、浅井は御宝蔵での御内拝を何度か経験しているでしょうから。

392空き缶:2004/02/20(金) 20:23

こん○○わ。
 六老僧の一人日頂上人は、宗祖御在世中の弘安五庚午三月十五日に南條亀之助に対し、御本尊を書写して授与されています。これは千葉県の日蓮宗本山真間山弘法寺に所蔵されており、「日蓮宗の本山めぐり」に写真が掲載されています。

 この日頂上人書写の御本尊は、主題の下が「日蓮在判」となっており、昭朗二師よりも興師の書写する御本尊に近い書き方であると思います。
 昭朗二師は主題の下に、自分の名前を書き日蓮聖人は天台・伝教と同じ位置に勧請されています。向師は主題の下に「日蓮聖人」と書き、主題の下に「日蓮在判」とするのは興師独特の書写スタイルかと思っていました。
 戒壇本尊についても、宗祖御在世中の造立ではないとしても、その製造過程は一つの資料からは断定できない謎が、数多く含まれていることを痛感する次第です。
 皆様の所論は非常に勉強になりました、ありがとうございました。

393犀角独歩:2004/02/20(金) 20:41

ガンコさん:
れんさん:

まず、れんさん、「也」「之」のご説明有り難うございます。
ところでこの一文字はあったのでしょうか。
資料によってまちまちです。

さて、ガンコさん。
これは前々から主張してきたことですが、板漫荼羅の造立者を、わたしは精師ではないのかと考えてきました。その理由は既に述べましたが、建立した御影堂を彼が「本門戒壇堂」と書き残し、その堂宇の宮殿、御影の背に置かれたのが板漫荼羅であったからです。
つまり、本門戒壇堂に「造立如件本門戒壇」と刻まれた板漫荼羅が置かれた相関関係に着目していると言うことです。その意味で精師は御影堂を本門戒壇堂と僭称したとも考えています。

なお、漢文的な脈絡から言えば、「之」が「也」であるというのはどうでしょうか。
なぜならば「造立如件」は定型文であって、現代表記で言えば句点(。)で終わる一文です。そのあとにまた、句点で終わる「也」が来るというのはいかにもおかしな文章です。仮に「本門戒壇也」とすると、この語には述語(動詞)に相当する語がないことになります。まあ、読めないことはないでしょうが、「本門戒壇の願い主」のほうが、ずっと自然な文章であると思います。

いずれにしても、繰り返しになりますが、弥四郎国重は本門戒壇の願主であり、本門本尊の願主ではないことに変わりはありません。二箇相承と齟齬を来している、まことにもってそのとおりでしょう。

あと、これは余計なことですが、御宝蔵内拝を、ガンコさんは倉の中に信徒が入って間近に板漫荼羅を謁見できると思っているようですが、信者は、宝蔵前の露天石畳に端座していたわけです。間近に拝せたわけではありません。

394犀角独歩:2004/02/20(金) 20:44

空き缶さん:

> 向師は主題の下に「日蓮聖人」

これは興味が惹かれました。
もう20年も前のことですが、讃岐大坊(本門寺)に参詣したことがあります。
ここの本堂の漫荼羅は興師筆で主題の下に「日蓮聖人」と書かれてあったと記憶します。

395空き缶:2004/02/20(金) 21:21

 犀角独歩さん、こんばんわ。
 日目上人も興師御在世中に同様のご本尊を、書写されており小泉久遠寺に所蔵されているはずです。
 重須の日妙師も「日蓮上人在判」というご本尊を書写しており、中山系の日高師なども主題の下は「日蓮聖人」です。
 噂の中老日法師の板本尊(山梨県妙本寺蔵)も主題の下は「日蓮聖人」ですね。
 興師の御本尊書写の方式も徐々に変化し、最終的には「御本尊七箇之相承」に記されているような方式になったのではないかと思います。
 この辺は、れんさんがお詳しいのではないでしょうか。身延では、行学院日朝師以降に主題下「日蓮在判」が書かれるようになったと思います。

396犀角独歩:2004/02/20(金) 22:10

空き缶さん:

そうなんです。「日蓮在御判」というのは蓮師の相承ではないじゃないかというのがわたしの言いたいことでした。

397れん:2004/02/20(金) 22:32
空き缶さん。興師書写の曼陀羅では、独歩さんの言われる讃岐本門寺蔵正応三年十月八日のお曼陀羅は日蓮聖人ですね。あと興師筆では山梨正法寺蔵の正応年間のものに日蓮聖人とあり、石山末の上行寺蔵の正応五年十月十三日の興師筆には日蓮聖人御判とあります。目師筆では小泉久遠寺蔵正中三年のものと、柳目妙教寺蔵の元弘三年十月十三日のものは日蓮聖人、松江妙興寺蔵の正慶二年二月彼岸のものは日蓮御判とあります。石山歴代曼陀羅では道師・行師・有師は日蓮在御判とありますが、時師・影師は日蓮聖人在御判とあり特徴的です。右ご参考までm(__)m

398犀角独歩:2004/02/21(土) 06:30

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
付録と参考を書き足し、更新しました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

399れん:2004/02/21(土) 21:18
犀角独歩さん。私も「日蓮在御判」は蓮師から興師への相伝ではないと考えます。それは興師の初期の書写曼陀羅と目師の曼陀羅に「日蓮聖人」とのみあることが証しています。なお興師が昭師・朗師の如く図顕形態を採らずに書写形態を採用したのは、曼陀羅を図顕したのはあくまで師である蓮師であり、自らはあくまで蓮師の弟子であるとの立場の自覚から蓮師の図顕した曼陀羅を書写するということになったのだと考えます。また、参考資料ですが蓮師の檀越四条頼基氏が弘安四年太才辛巳十一月に蓮師の曼陀羅の代筆をしており、それには依厳命謹敬所奉書写也

400れん:2004/02/21(土) 21:32
藤原とあります(原本は身延曽存、身延亨師摸本存、山中喜八著作選集日蓮聖人真蹟の世界上所収)。想像をたくましくすれば、弘安四年十一月は興師は身延在山と思われ、四条頼基氏が蓮師の厳命により曼陀羅を書写したのを拝見したと思われるので、四条氏の例にならって、蓮師滅後、興師は曼陀羅を図顕するのではなく、「書写」するという形態を採用したのではないかとも愚考しております。まぁ、これも限られた資料からの推定にすぎませんが。m(__)m

401れん:2004/02/21(土) 21:44
訂正。
誤、目師の曼陀羅に「日蓮聖人」とのみある正、手元に御筆写真がある目師書写曼陀羅三幅の内二幅までが興師の初期の曼陀羅書写様式に従い「日蓮聖人」とのみある m(__)m

402犀角独歩:2004/02/22(日) 00:31

399〜401 れんさん:

たいへんに貴重なご教示有り難うございます。
実に興味深く拝読させていただきました。
檀越が代筆、これが事実であれば、蓮師の漫荼羅観は、わたしが想像していたよりさらに奥深いと感慨も新たな感慨がありました。新鮮な歓びといってもいいかも知れません。
御礼申し上げます。

403空き缶:2004/02/23(月) 20:06
皆さん、こん○○わ。
もし、御覧になっていない方がいらっしゃれば、ご参考までに。

日法上人彫刻の板曼荼羅です。

http://fujigoko.tv/furusato/bunka/act08.html

法華宗の一末寺である山梨県の妙本寺に厳護されています。本山から奉納せよと迫られたときに、湖の底に沈めてまで護ってきた重宝だそうです。
1月14日がお虫払いであったようです。

404犀角独歩:2004/02/24(火) 12:03

> 403 空き缶さん:

中央題目の下、「日蓮大聖人」となっているように見えますが、そうでしょうか。
この漫荼羅、以前、どこかで偽作説を読んだような記憶があったのですが…、ちょっと、思い出せません。
相貌様式は弘安3年以降の御筆によっているようにな感じですね。

405犀角独歩:2004/02/24(火) 12:19

空き缶さんがお示しの板漫荼羅は、その形態は漫荼羅というより、以前にれんさんが紹介された板碑、外教の神座・位牌に準じた作りに見えます。

さて、これが本当に法師の作であるとするとき、最も古い板漫荼羅であることより、むしろ、わたしは「日蓮大聖人」という尊称が上古に使われた例として着目します。

在世であれば「日蓮御房」、あるいは「日蓮阿闍梨」、興師であれば「日蓮聖人」、像師以降で「日蓮大菩薩」などの尊称で、曼陀羅の書き様としては、空き缶さんが、そして、れんさんが明確にしてくださったように、ごく上古では「日蓮聖人」、のちに「日蓮在判」「日蓮在判」となっていく推移があったようですね。

それなのに、この板漫荼羅では「日蓮大聖人」、法師作であれば、驚愕に値します。
いや、もちろん、だから、偽作であるなどというわけではありません。
見聞して「ほぉ!」と驚きに、息を漏らしての投稿です。

406空き缶:2004/02/24(火) 13:04

 犀角独歩さん、こんにちわ。

 確かに主題の下は「日蓮大聖人」となっています。日春上人三十三回忌に彫られたもののようです。

 興風談所の御書システムのHP「コラム」にも法華宗寺院での新発見などがレポートされていますが、法華宗関連の寺院には上古の貴重な資料が眠っているような気がします。

407一字三礼:2004/02/24(火) 17:09
横レス失礼します。
れんさん
399〜400
>蓮師の檀越四条頼基氏が弘安四年太才辛巳十一月に蓮師の曼陀羅の代筆をしており、それには依厳命謹敬所奉書写也藤原とあります(原本は身延曽存、身延亨師摸本存、山中喜八著作選集日蓮聖人真蹟の世界上所収)。

こちらにご紹介くださった四条頼基氏の書写曼荼羅の主題の下はどのように書かれているのでしょうか。「日蓮聖人真蹟の世界」を持っておりませんのでよろしければお教えください。
文脈から四条氏書写の曼荼羅こそが、蓮祖公認の書写形式のようにも考えられます。

408れん:2004/02/24(火) 19:30
一字三礼さん。身延曽存四条頼基氏代筆弘安四年太才辛巳十一月日の曼陀羅の首題の下は、日蓮(花押)となっています。身延乾師の霊宝目録には当曼陀羅を、真題目御曼陀羅。総ハ四条金吾殿筆、梵字御判ハ高祖御筆、但首題上ハ大聖人御認カとありますので、曼陀羅全体と日蓮の署名は四条氏の代筆と思われますが左右梵字と花押は蓮師御筆のようです。残念乍ら身延亨師の摸写はお世辞にも上手とはいえないので、座配を識る参考にするのみで、明治八年の大火で原本が焼失してしまった故、花押が蓮師のものか、四条氏が花押まで写したものかは分かりません。

409一字三礼:2004/02/24(火) 21:06
れんさん
詳しくご教示いただきありがとうございます。
とても参考になります。
>梵字御判ハ高祖御筆、但首題上ハ大聖人御認カとあります

書写という形式ではなく、1種の合作のようですね。
ここから推測できる事は、梵字悉曇は普通の書とは異なった筆法や、摩多・体文等の約束事があるので、特に訓練をしていない四条頼基氏では書けなかった、もしくは蓮祖ご自身が書かせなかった。
また、蓮祖の花押はサインなので代筆者でも書きこまなかったのではないでしょうか。
「所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候事、怖入候」(波木井殿御報 弘安五年九月十九日)と興師代筆の書面でも判形は自身で書くのが通例だったと想像できますが、花押自体がバンやボロンの梵字を意匠化したものであったので、やはり四条氏には書けなかったのかもしれませんが。

410れん:2004/02/24(火) 22:05
一字三礼さんの仰る通り、たしかに弘安四年十一月の身延曽存の四条頼基氏の代筆曼陀羅は、全体の相貌から見れば、蓮師と四条氏との合作といった方がよいですね。蓮師の遺文によれば、この頃は蓮師が病床にあったようですから、蓮師の信頼が厚かった檀越の四条氏が特に選ばれて曼陀羅の代筆を命じられたのでしょう。曼陀羅の梵字と花押は、一字三礼さんのご指摘の理由により、蓮師ご自身が筆を執られたものと拝するのが至当と存じます。m(__)m

411犀角独歩:2004/02/24(火) 23:50

れんさん:

> 蓮師の信頼が厚かった檀越の四条氏

蓮師の傍らにはいつでも誰かしら弟子(僧)がいたと思われるのですが、それにもかかわらず、四条氏に代筆させた理由はなんであったのでしょうか。
これが本当に史実であるとするとき、単に信任が篤かったからだけでは、説明が付かないように思うのですが、この点はどうお考えになりますか。

412みかん:2004/02/25(水) 01:16
411
独歩さんも書いてますが「弟子(僧)がいたと思われるのですが」です。
鎌倉時代の日本仏教の世界に於いて、在家にマンダラを代筆させるという
ことはとても考えにくいと思いますが。史実なんですかねぇ。
理解に苦しみます。

あと花押というものの性質上、花押の代筆ってのはあるんですかねぇ?
もし例があるならどなたかお教えいただければ幸いです。

413れん:2004/02/25(水) 03:36
犀角独歩さん。四条頼基氏はたとえば崇峻天皇御書に「返す返す今に忘れぬ事は頸切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん…」(身延曽存)とあり、特に蓮師との精神的絆が深かったように思われます。当然他にも僧分の弟子が蓮師の側に居たでしょうが、特に四条頼基氏に曼陀羅の代筆を命じられた理由の一つは、蓮師と四条氏の竜ノ口法難を通じて築かれた相互の信頼関係によるものと考えます。ただし四条氏代筆の曼陀羅は原本が焼失し、現在においては真筆か否かが判断出来ないのはとても残念です。

414れん:2004/02/25(水) 03:56
みかんさん。四条氏代筆の曼陀羅の原本が明治八年の身延の大火で他の蓮師御真蹟類と共に焼失してしまった現在においては、四条氏の曼陀羅代筆が史実か否かは最終的な判断は出来ませんので、四条氏代筆曼陀羅はあくまで参考資料に留めざるを得ないのですが、四条氏代筆(と伝承されてきた)の曼陀羅がかつて身延山に所蔵されていたということは、記憶に留めておくべきであると存じます。m(__)m

415一字三礼:2004/02/25(水) 09:25

蓮祖は曼荼羅を書くにあたっては、選んで濃墨を使い、筆法ではひげ文字を発明し、消息文の類に書かれた文字との明確な差別化をはかった。そうして出来あがった曼荼羅本尊には授与された者達をして、その中に本門釈尊を観させ、法華経の会座を観させ、また要の法華経であったり、自身のお守りとも信じさせた。このように信者達に授与した曼荼羅に、イコン的な意味付けを可能にしたのは、蓮祖の法華経を通じた人生に裏打ちされた「筆法」であり、そこに信者達は霊的なものを感じたのではないでしょうか。
一方四条氏は、御書で度々指摘されているように、直情径行の短気者で法門の知識も心許ないので法論を控えるように諭される、在家の檀越です。
それでもまだ、聖人の弟子の出家者が書写・代写した曼荼羅であれば、蓮祖の幾分の1かでも宗教的なものを感じることは可能でしょうけれど、四条氏からはどうでしょうかね。

つまり、蓮祖は信仰上の重要な役割に、僧俗の別やら仏法知識の有無・人格の別を全く意識されず、ただ信心のみを評価したということでしょうか。
まあ、四条氏代筆の曼荼羅の存在が事実であれば、ですが。

416犀角独歩:2004/02/25(水) 10:18

れんさん、有り難うございます。
四条氏代筆、その実否は今となっては確認は困難ながら、知識として、たしかに記憶に留めておいてもよいことですね。

417犀角独歩:2004/02/25(水) 19:31

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

図版解説を増やし更新しました。
ご高覧を賜れれば幸甚です。

418一字三礼:2004/02/25(水) 21:16

為現当二世造立如件本門戒壇願主弥四郎国重法華講衆等敬白

「為現当二世」って本門戒壇大本尊建立の動機としていかにも表現が小さいような気がします。
たとえばこれが、「為末代一切衆生造立如件・・」とか「為塵未来際令法久住・・」のような文言であればまだしも。

419空き缶:2004/02/25(水) 22:26

 犀角独歩さん、こん○○わ。

 日法上人彫刻の板曼荼羅ですが、独歩さんのいわれるとおりですね。
 門下御本尊集の日法上人書写の御本尊をまじまじとみて確認しました。
 岡宮光長寺蔵の二鋪の曼荼羅御本尊の主題下は、一鋪が「沙門日法」もう一鋪が「日法」となっています。相貌的には弘安式であると思いますが、主題下に自分の名前を書き、宗祖を人師として勧請するところは昭朗二師の図顕式と同じですね。
 但し、伝教大師らとともに「人師」として勧請されている宗祖の表記は二鋪とも「日蓮大聖人」となっています。
 以上参考までに。

420みかん:2004/02/25(水) 23:20
ぶっちゃけ、身延山久遠寺に四條金吾と日蓮合作の曼荼羅がありますたってのは、
中山法華経寺に日蓮聖人お手彫りの鬼子母神像があるとか、
葛飾柴又の帝釈天(題経寺)に日蓮聖人お手彫りの帝釈天像があるとか、
大石寺に日蓮大聖人真筆の本門戒壇の板曼荼羅があるとか、
そういうのと同じレベルの伝説にしか思えないのは、
わたしが疑り深すぎるからですかねぇ。

421sat:2004/02/26(木) 00:43
>わたしが疑り深すぎるからですかねぇ。

そうでしょうねぇw。

皆様、曼荼羅の話となると楽しそうでいいですね。

422犀角独歩:2004/02/26(木) 05:02

まとめてごめんなさい

418 一字三礼さん:

お久しぶりです。
このご指摘、思わず、納得。たしかに個人や講衆なんてちまちました少人数の願いというのは本門戒壇にはいかにもみみっちい気がします。

419 空き缶さん:

わたしは個人的に「日蓮大聖人」という尊称が上古に遡れれば、ちょっと楽しい気分になります。

420 みかんさん:


疑り深すぎるのは、たいへんにけっこうなことであると思いますね。

421 satさん:

以前にお出でになったsatさんですか?
ならば、お久しぶりです。

423sat☆:2004/02/26(木) 08:23
>>422

>以前にお出でになったsatさんですか?
>ならば、お久しぶりです。

いえ、違います。同じHNの方がいたんですか、失礼しました。

区別をつけるために☆を付けます。

424一字三礼:2004/02/26(木) 16:39

犀角独歩さん
レスありがとうございます。ご無沙汰しております。

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
参考にさせていただいております。
3月になれば法華講の方達がいらっしゃるので、穏やかに本門戒壇之大御本尊の疑問点を質問してみます。
前回、法華講の方達とお話した後、これを読んでもらえれば誤解が解けると「佛教概観史表」をいただきました(笑)。久しぶりに読んでみて、改めて「久遠元初本因妙の仏」ってギリで反則な感じがしました。

425犀角独歩:2004/02/26(木) 17:14

424 一字三礼さん:

> 法華講の方達…誤解が解けると「佛教概観史表」を

笑わせていただきました。
一字三礼さんも「能ある鷹は爪を隠す」よろしく紳士的にお話になったのだろうと想像でき、微笑ましくも感じました。

> 「久遠元初本因妙の仏」…

この表現、たしかにすごいと思いますね。本因は台説で菩薩を意味するわけですから、語彙として成立しないわけですね。わたしは言葉を扱う仕事柄、こうした論理矛盾を来している語にはアレルギーがあります。

創価学会の時「死後の生命」という言葉がよく使われたのですが、これを読み下すと「死んだのちの生きている命」となり矛盾を来します。これでは「腐ったのちの新鮮な魚」というほどアバンギャルドな表現だと思ったわけです。
まあ、余計なことを書いております。

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』をご高覧を賜ったこと、嬉しく存じます。
自説に執着する気は毛頭ありません。忌憚なきご感想とご叱正を併せて賜れればこれに過ぎる歓びはありません。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

426犀角独歩:2004/02/26(木) 17:20

419 空き缶さん:

> 伝教大師…「人師」…宗祖の表記は…「日蓮大聖人」

あ、なるほど。そう説きますか。
これはわたしは考えていませんでした。
書写漫荼羅では蓮師も勧請ですか。
また魯鈍な不勉強を曝すみたいでれんさんに嗤われそうですが、「日蓮」を勧請するというような考えを示す文献というのはあるものでしょうか。
それとも、空き缶さんの独走ですか。
これはちょっと、心の琴線を弾かれました。

427空き缶:2004/02/26(木) 18:37

犀角独歩さん、こんばんわ。

 >「日蓮」を勧請するというような考えを示す文献というのはあるものでしょうか。

 どうなんでしょう?身延の本尊論資料の中にあれば面白いですが、私はしりません。
 ただ、日像師の書いた曼荼羅御本尊には「日朗上人」が勧請されており、日親師の書いた曼荼羅御本尊には「日常上人」が勧請されています。
 恐らく、書く人が尊敬する人物を「人師論師」のところに勧請しているだけだと思いますが。

428愚鈍凡夫:2004/02/26(木) 19:53

横レス失礼します。

以前、ネットで「南無日蓮大導師」とある重須学頭第5代日斉師の漫荼羅(1332(正慶1)年書写)を見たことがありますよ。

429犀角独歩:2004/02/26(木) 22:01

空き缶さん:
愚鈍凡夫さん:

なるほど。人師勧請ありですね。
そういえば、延山朝師末のお坊さんと話していたとき、「御漫荼羅に日朝上人を…」と話していたのを思い出しました。

この辺りは、興師門では案外ピンとこないところでした。

有り難うございました。

430愚鈍凡夫:2004/02/26(木) 23:03

犀角独歩さん、レス有り難うございます。

サイト名を思い出しましたので、漫荼羅をご確認下さい(写真と解説付)。

「霊的ポルシェビキ第一段!!!」
http://www.elnolte.ne.jp/hokke/honzon/

431空き缶:2004/02/27(金) 00:58

 愚鈍凡夫さん、こん○○わ。
 
 波木井坊竜尊氏のHPですね。確か、日有師書写の曼荼羅本尊も出ていたと思います。

432犀角独歩:2004/02/27(金) 17:01

愚鈍凡夫さん:
空き缶さん:

有り難うございました。
富士門もちゃんと調べれば、漫荼羅書写はバラエティがあり、書写の権能も一人(いちにん)に限ったわけでもなく、れんさんも資料を上げてくださったとおり、蓮師からの口伝相承かと思しき「在御判」も後天的なものであった。
なかなか興味深い議論が続いて有意義だと思っています。

433愚鈍凡夫:2004/02/28(土) 10:29

>>431:空き缶さん、フォロー有り難うございました。

犀角独歩さん、上代の漫荼羅書写は結構アバウトですね。

「あんたら何でもアリか? みたいな」 (^◇^;)

宗門があまり表に出したくない気持ちが、何となく分かるような気がします。 (・・;)

434てて:2004/02/29(日) 22:46
独歩さんの所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について読みました。
誰も反論なしなの??

435犀角独歩:2004/03/02(火) 15:02

愚鈍凡夫さん:

> 上代の漫荼羅書写は結構アバウト

要は蓮師もその図示に試行錯誤の形跡が見られるように、上代の弟子達もいろいろ考えて書いたのでしょうね。そのうち、「本尊相伝」みたいなことが言われはじめて、そのとおりに書くと言った定着が生じたのでしょうか。

これら相伝の成立というのは、考えられてきたより、後天的なことのように思えます。

436犀角独歩:2004/03/02(火) 15:05

ててさん:

はじめましてで、よろしいのでしょうか?
ご高覧いただきましたこと、感謝申し上げます。
皆さん、特に反論その他をなさらないということはお読みいただいておらないか、あるいはご賛同下さってのことと拝察いたしております(笑)

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

437犀角独歩:2004/03/02(火) 17:28

― お願い ―

どなたか、なるべく明瞭な日禅授与漫荼羅の画像をご紹介いただけませんでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。

438空き缶:2004/03/02(火) 17:37

 『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』に賛同します。
 犀角独歩さんのレポートによって、この「真偽」については、「偽」であることが濃厚となりました。
 
 「真」の本尊はいずこに。

439れん:2004/03/02(火) 18:14
富木常忍氏の著と伝えられる観心本尊抄私見聞には「観心本尊抄ノ外ニ本尊ノ口伝アリ。日朗・日興等ニ相伝有之。日朗ヘノ相伝ハ名越谷ニアリ。日興ヘノ相伝ハ有富士。又常忍坊ニ有相伝。此等ノ意ナルカ」とあります。朗・興・常の三師に共通の本尊相伝は本尊三度相伝があります。興師関係では興師観心本尊抄を弘安四年三月五日に書写しており、同五年五月に本尊点画相伝(未見。写本石蔵)の撰述が伝えられています。興門の本尊相伝は三度相伝・点画相伝の他、鏡像円融御本尊口決・本尊七箇相承・順師心底抄引用の文・御本尊梵字口決・本尊秘伝抄がありますね。

440れん:2004/03/02(火) 18:17
訂正。
誤、興師観心本尊抄
正、興師は蓮師撰述の観心本尊抄

441七師外道:2004/03/02(火) 18:40
胸中の肉団に、であろう。
何を以って「真」とするのか。
何が故に「真」と言えるのか。
「真」であることに、如何様な意味があるのか。
「真」ではなく、「偽」であることで不都合があるのか。
蓮祖の教えとは、モノの真偽によって左右される程度の教えであるのか。
紙であろうが板であろうが、それにしか帰結収斂し得ない信仰は、蓮祖とは無縁であろう。

ちなみに、亨師は複数の僧侶に対して、件の本尊は紙幅であり、離山時も紙幅であった、と明言されている。
但し板に彫られたのが持仏堂時代か石山時代か重須時代かは判らない、とも言われている。
尤も、それが本掲示板で考察されてきたように、条々本尊、盗難本尊、三十余年本尊、などであるかどうかは不明である。
亨師と云えど、石山の徒であって、そこに護教的姿勢を看取する必要があろう。

石山系板本尊を精査されるが宜しかろうと愚考する。

442れん:2004/03/02(火) 19:26
私も、空き缶さんと同様に板曼陀羅そのものの考察に於いては、犀角独歩さんのレポートに賛同いたします。
七師外道さん。初めまして。「紙であろうが板であろうが、それにしか帰結收斂し得ない信仰は蓮祖とは無縁であろう」とのお言葉には同感です。胸中の肉団に感得できるのは、板でも紙でも仏像でもなく、蓮師が逆縁の為の下種の要法と決せられた所聞の法躰である上行所伝の妙法蓮華経の五字七字に他ならないですから。
私自身大変な未熟者ですが七師外道さんにおかれては今後とも宜しくお願い致します。
m(__)m

443ドラ:2004/03/03(水) 13:29
本尊論は我々ではなかなか難しいと思われます。よくここまで研鑽したと関心しますね。
石山の方達が論議なされてるのであれば、ちょっと不思議です。自分たちの本尊とする
対象物の正邪?本偽?なのでしょうか。連祖の弟子で連祖を仏であると示したのは、御開
山日興上人だと聞いてます。世の中でたった一人しか日蓮という人間を仏様だと見切っ
たのはすごいと思います。連祖のたった一つの願いは何だったんでしょう。物や形ある
ものの執着でしょうか。私は違うと思います。世の中の人々が平等に平和に暮らすこと
です。その為に本門の法華経を現したと感じます。大事なことは心です。信仰そのもの
が生活に現れ、その人の心に現れるのではないでしょうか。ご本尊にはなにも問題はな
いのです。こちら側に本仏の功力を引き出せる信念と力があるかが問題なんです。信仰
者は、そう考えるべきではないでしょうか。『信じる』この言葉はとても難しい表現で
す。が、そこに仏になる種があるのかもしれませんね。

444犀角独歩:2004/03/03(水) 17:57

空き缶さん:
れんさん:

ご賛同有り難うございます。

七師外道さん:

お久しぶりのご登場、嬉しく存じます。

ドラさん:

はじめまして。

> 本尊論は我々ではなかなか難しいと思われます

そうですか。ドラさんにとっては難しいとお感じになるということなのでしょうね。

ともかく、信行の問題は信行の問題です。板漫荼羅真偽論に置き換える必要はありません。
板漫荼羅の問題は板漫荼羅の問題です。いまはビジュアル的に凝視する視線を逸らさないで、その正体を正視してまいることが大切であると、わたしは訴えているわけです。

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

445ドラ:2004/03/03(水) 20:03
物事を追求することは、学術的にも後生のためにも良いとおもわれます。難しい
というのは、私は仏ではないので、その真意までは答えることができません。自
らの言葉で話すということは、その責任を背負うわけです。背負いきれない事は
どうしても説明できません。ということです。昔からこの話はあったわけですね。
最近、石山の日顕猊下がそのことを言い出して顰蹙されましたね。が、その真実
はいかがなものなのか、独歩さんが自信がある研究ならもっと広いメディアで訴
えるべきですね。板漫荼羅を根本としている大石寺との直接的な見解も知りたい
です。この件について石山ではなんといってますか?

446ドラ:2004/03/03(水) 20:04
十分にわかりますよ。物事を追求することは、学術的にも後生のためにも良いとおもわれます。難しい
というのは、私は仏ではないので、その真意までは答えることができません。自
らの言葉で話すということは、その責任を背負うわけです。背負いきれない事は
どうしても説明できません。ということです。昔からこの話はあったわけですね。
最近、石山の日顕猊下がそのことを言い出して顰蹙されましたね。が、その真実
はいかがなものなのか、独歩さんが自信がある研究ならもっと広いメディアで訴
えるべきですね。板漫荼羅を根本としている大石寺との直接的な見解も知りたい
です。この件について石山ではなんといってますか?

447犀角独歩:2004/03/04(木) 00:52

ドラさん:

> 難しいというのは、私は仏ではないので、その真意までは答えることができません。

あなたが仏でないことはわかりますが、それが答えられないこととどのような関係にあるのでしょうか。仰っている意味がわかりません。

> 背負いきれない事はどうしても説明できません

説明ができないのであれば、このような公開の議論になじみません。
書き込まれても意味がないのではないでしょうか。

> 自信がある研究ならもっと広いメディアで訴えるべきですね。

そのつもりでおります。

> 板漫荼羅…石山ではなんといってますか?

はて、なぜわたしに問うのでしょうか。
石山の見解は石山にお問い合わせください。

448愚鈍凡夫:2004/03/04(木) 06:48
皆さんお早うございます。

犀角独歩さん、『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』読ませて頂きました。とても参考になりました。有り難うございます。
人の信仰心を商売にする悪徳商法まがいのカルト宗教が存在するかぎり、真相の科学的究明、論理的究明は必要不可欠だと思います。そして、宗教が人の心を扱う以上、様々な批判を受けるのは当然だと思いますし、その批判に真摯に答えるのも宗教の使命かと思います。
その意味で、犀角独歩さんの探求心には頭が下がります。良ければ、これからも成果を発表して下さい。楽しみにしています。

確か、石山には未公開の11舗の蓮祖漫荼羅が伝わっていると思いますが、これらの漫荼羅を参考に「戒壇之本尊」が創作されたとした場合、「一閻浮提総与」とある方がまだしも説得力がありそうな、あの「弥四郎国重云々・・・・・」なる不可解な脇書の意図するものは何なんでしょうね。「二箇相承」とも合いませんし。それと、

「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相傳す。本門寺に懸け奉るべし。」(日興跡條條事)

これは何故、「弘安二年の戒壇之本尊」ではなくて「弘安二年の大御本尊」なのでしょうか。
富士門流の伝承によると、「本門寺に懸け奉る」大御本尊は「万年救護本尊」ではないかと思うのですが。少なくとも保田・北山・西山に伝わる「万年救護本尊」はそう言う意味だと思います。

449犀角独歩:2004/03/04(木) 10:29

448 愚鈍凡夫さん:

ご高覧、有り難うございます。

> …「弥四郎国重云々・・・・・」なる不可解な脇書の意図するもの

案外、つまらないことであるかも知れません。
あるとき、板漫荼羅を作った、その人は本門戒壇を渇望していた。で、そのことを踏まえて自分の名前を彫った。歴史に名前が残るような特別な人ではなかったので、そのまま何も伝わらなかったか。あるいは、既に伝承が途絶えてしまった弥四郎国重伝説(たとえば円師嫡男説)などから、板漫荼羅を作るときにこの名前を使っただけ。

> 「二箇相承」とも合いません

ポイントはここですね。国主でもない弥四郎国重が本門戒壇願主では整合性がありません。

もっとも二箇相承は北山に仮託して作られた書でしょうし、板漫荼羅は石山で作られた。板漫荼羅が作られた段階の石山では二箇相承の存在を知らなかった、反面、二箇相承を作ったほうは板漫荼羅を知らなかった。別々に、その存在を知らずに作られたとすれば、そこに整合性がなくて当たり前とわたしは考えます。

> これは何故、「弘安二年の戒壇之本尊」ではなくて「弘安二年の大御本尊」なのでしょうか。富士門流の伝承によると、「本門寺に懸け奉る」大御本尊は「万年救護本尊」

わたしもこの点に注目しています。
なにより御筆漫荼羅で「大本尊」と書かれたのは所謂万年救護本尊しかないわけです。ですから、わたしはこの1舗に限り、本尊と呼び、あとは漫荼羅と記してきました。
蓮師の決めごととして「大本尊」といえばこの1舗に限る。あとは漫荼羅ですね。まあ、やや広めれば「護本尊」として漫荼羅はありますが。

石山の伝承では万年救護本尊は弘安2年に興師が相伝したといいますから、この点では整合性があります。しかし、そうなると、板漫荼羅の存在が消えてしまうので、諸説紛々でこっちを立てればあっちが立たずとなっているのでしょうね。

450れん:2004/03/04(木) 18:34
日興跡条々事の弘安二年大御本尊について、富士学林研究教学書所収の日精師正稿本とされる富士門家中見聞稿本零編には「日興宛身所給等ハ者是万年救護御本尊事也、今在房州妙本寺也」とあります。この内、万年救護の四字を縦線で抹消して横に板と記し、房州妙本寺が同様に消されて当山と書き直されており、この書きなおしに対し堀日亨師添注は因師カと推測しています。ともあれ大石寺歴代の一人である精師が弘安二年大御本尊を保田妙本寺の万年救護大本尊であると明記していることは看過すべきではないと思います。
m(__)m

451空き缶:2004/03/04(木) 19:39

 なるほど、しかし因師も「袈裟数珠之事」では「当山日目上人の相伝悉く房州保田に有る故」(富士宗学要集第1巻)と書かれていますが、この「日目上人の相伝」こそ「万年救護本尊」ではないかと思いますが?

 ただ、この万年救護本尊の副書(千葉県の歴史中世3)によれば、本門寺の「本御影堂」に懸け奉る万年の重宝とみえます。
 「日興上人御遺蹟之事」(正本:大石寺蔵)によれば、本門寺本堂に安置するのは「日蓮聖人御影」と例の申状と下文になっています。
 これらを整理すると、本門寺本堂(本御影堂)に安置するのは「宗祖正御影」とその背面に「万年救護本尊」を懸けるといったものが、「日目上人の相伝」ではないでしょうか。

 この「本門寺本堂安置の御本尊」が大石寺より小泉久遠寺〜保田妙本寺と遷座され、代替として建立されたのが「本門戒壇之大御本尊」だと思いますね。
 したがいまして、日時師の代に建立されたと思います。以前にもカキコしましたが、宮城県内にて彫られたのではないかと推察します。私は奥四箇寺に関連情報があると思います。「奥人」等はかなりいいところをついていると思いますがいかがなもんでしょう?

452れん:2004/03/04(木) 20:46
なるほど。万年救護大本尊の別幅副書と目・仙・善三師連署の日興上人御遺跡事の記事を勘合すれば、本御影堂=本門寺本堂とも読めますね。その奉安形式も蓮師御影の背後に万年救護本尊を懸けると見たほうが至当かもしれません。しかし蓮師より朗・興・常三師に相伝されたと見るべき本尊三度相伝には「本門寺ノ戒壇ハ西面ニ可立也」とありますので、本門寺本堂と所謂本門寺ノ戒壇とは別棟と理解すべきではないてしょうか。なお石山板曼陀羅は石山で作成されたとみるべきでしょう。奥人の記事は妙教寺の板曼陀羅についてであって、石山のではないと思います。

453空き缶:2004/03/04(木) 21:49

れんさん、「妙教寺の板曼陀羅」とは、奥人第三号の以下の板倉表具の目録の事でしょうか。

24.日時上人 応永十一年六月日
  奥州柳目法華講衆現当二世の為也
  板倉表具廿八の廿二

○.日時上人 今不伝 古目録に見ゆ
  板本尊、但し脇に日主上人御判有之
  是は客殿に奉安置申候

また、日目上人の家系である「新田小野寺」は、宮城県内の奥四箇寺と極めて古深く、道・行・時の三師もまた新田小野寺の家系である事はほぼ間違いないと思われます。
また、この家系に弥四郎国重がいたとする説もあります。(日目上人の兄である新田信綱の嫡男説)
以前れんさんがおっしゃっていた「板碑」も、奥州のもののことではないでしょうか?

454れん:2004/03/04(木) 22:24
空き缶さん。私は手元に奥人がないので、記憶で書きましたが、私が言った奥人の記事とは空き缶さんの引用された板倉表具目録です。なお、私は弥四郎国重が新田小野寺氏一門であるとする説には否定的です。鎌倉・南北朝・室町期の新田氏関係の正文書にその名が全く見られないのが理由です。現時点においては弥四郎国重はあくまで不明の人物として扱った方が賢明です。また、富士門流上代の板牌は、奥州四箇寺周辺にもありますし、九州宮崎の定善寺周辺にもありますので、板牌に関しては何も奥州のものに限っては言っていません。
m(__)m

455空き缶:2004/03/04(木) 23:34

 れんさん、「弥四郎国重」については小野寺氏の方も探されましたでしょうか?
 私は自宅近くの国文系大学の図書館にて、系図と鎌倉遺文などを探っているところです。(といってもまだ2回しか足を運んでいません)
 奥州の新田氏は2代目以降、姓を小野寺に戻した家系が半数くらいあったようです。といっても、れんさんのおっしゃる通り、なかなか正資料に出会えません。
 奥州の旧新田坊は、現在の法竜山本源寺ですので正信会の方なら虫干しなどで何か発見できないかナーと思ってしまいます。

456れん:2004/03/05(金) 08:50
空き缶さん、私も小野寺氏を含めて新田氏関係の正文書・系図を鎌倉遺文等で調査しましたが、弥四郎国重が新田小野寺氏の出身であることを証する同時代の正文献史料は皆無であり、弥四郎国重の小野寺氏出自説も、信憑性は全く無いと判断されます。本源寺は同寺二十二世日賀師の重宝目録に「当寺の什物は寛文十一年に炎上つかまつり一物もござ無く候、先年は道師御消息ならびに興師御本尊・御消息・目師御消息沢山有りといえども右の炎上に焼亡つかまつり候」とあり江戸期に宝物を失っており、上代の物は無いので調べても骨折り損でしょう。m(__)m

457犀角独歩:2004/03/05(金) 11:32

れんさん:
空き缶さん:

非常にすばらしい議論が続いているところで横レス恐縮です。
弥四郎国重のことが話題になっていますが、『大石記』でしたか、日道が弥四郎国重を大石寺に移したという記述があったと記憶するのですが、これ何を意味するとお考えでしょうか。わたしは意味が取れないのです。

あと特にれんさんにお尋ねしたいのですが、「板碑」というのは、従来の位牌に変わるものとして発案された法具とわたしは考えてきました。また現石山では墓石に題目を刻むことを塔婆、また略本尊と解する故、この染筆も石山住職に申し出ることになっています。まあ、この是非はどうでもいいのですが、時系列で見ると、位牌・板碑・卒塔婆・墓石という順位で添加発展したとわたしは考えてきました。
この基である「板碑」をどのようなものとお考えになっておられますか。

458れん:2004/03/05(金) 18:46
犀角独歩さん。ご指摘の弥四郎国重が出てくる文献は大石記ではなく精師の家中抄です。手元の資料によると、「弥四郎国重事日道を大石寺に移す」は伝写の誤りで、精師の正本には日番御本尊一幅の下に弥四郎国重と細注してあったのを後の誰かが「しかして日道を大石寺に移す」という文に連接して、現在の写本の形になったものとのことです。ですから、弥四郎国重と日道師は何らの関係なく、文脈からは、日目師が日道師を大石寺に移したと理解するのが至当と判断されます。

459愚鈍凡夫:2004/03/05(金) 19:06
横レス失礼します。
「日興跡條條事」を拝する度に思うのですが、

「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相傳す。本門寺に懸け奉るべし。」(日興跡條條事)

この「弘安二年の大御本尊」は、「弘安二年(授与)の大御本尊」とも、「弘安二年(図顕)の大御本尊」とも、どちらにも解釈できるのがミソですね。文案を考えた人物にとっては、"してやったり"って処でしょうか。
でも、5000年先を考えれば、「戒壇之本尊」・「万年救護本尊」、共に朽ち果てて跡形もなく消えてしまうんですよね。そのことを考えた時、蓮祖は形に表した本尊に拘っていたのだろうかとの疑問が湧きます。むしろ蓮祖滅後の弟子たちが、主導権を握るため、それぞれが自流に有利なように相伝書なるものを創作していったように思います。
それでもこれからは、データはすべてコンピュータに入っているでしょうから、レプリカなら簡単に大量生産できるんでしょうけど・・・・・。

失礼しました。議論を続けて下さい。 m(_ _)m

460れん:2004/03/05(金) 19:10
板碑に関しては、私自身たいした知識は無いのですが、日目上人(継命新聞社刊行)によると、板碑とは一般に「故人の供養のため、あるいは生前に供養を営む「逆修」のために造立した塔婆の一種」とされています。事実、宮城上行寺五世日勢師が造立した日時師三回忌の題目板碑には「謹以奉造立処塔婆也」とあり、板碑は富士門流上代においても塔婆として扱われていた様です。私の推測では、インドで成立した卒塔婆や中国で成立した位牌がそもそもの原型でそれから板碑や墓石・(板)塔婆が派生したのではないかと考えています。以上ご参考までに。m(__)m

461空き缶:2004/03/06(土) 01:15

 れんさん、そうですか。弥四郎国重が新田四郎信綱の子であれば、伊豆の可能性もありますね。
 そうなると、関連資料が要法寺系にある可能性も否定できないですが。
 ただし「建武元年新田孫五郎国宣執達状をめぐる奥法華宗の考察」その四(妙教寺住職:菅野慈俊)によれば、妙教寺客殿の板本尊は「日時上人の板本尊」であったとの事ですので、日時上人の時代に奥州でも板本尊が彫刻されはじめた可能性は否定できないと思います。
 それから、以前転載しました新田小野寺系図は「建武元年新田孫五郎国宣執達状をめぐる奥法華宗の考察」その3や「日目上人」に掲載の系図(富士日興上人詳伝の系図)とほぼ同じでしたので、新田四郎信綱の子に弥四郎国重がいるとした説もひょっとしたら、と思ったのですが・・・。

462れん:2004/03/06(土) 18:00
空き缶さん、伊豆と言えば中伊豆町柳瀬に所在する旧興門派八本山の一つだった日尊師開山の実成寺がありますね。そちらを調査されてみるのも良いでしょう。京都要法寺の資料は富谷日震師の本宗史綱に殆ど翻刻されていると思いますが、弥四郎国重については見るべきものは無かったと記憶しています。妙教寺の客殿の板曼陀羅は、板倉目録の文章を見ますと、時師の曼陀羅を摸刻したもので主師の花押があるのをみますと主師が造立した板曼陀羅と考えられますので、妙教寺の板曼陀羅を時師の代のものと考えるのは早計と存じます。

463れん:2004/03/06(土) 18:26
なお日興門流上代事典で石山系の板曼陀羅を調べますと、京都要法寺蔵の日尊師造立の板曼陀羅(暦応三年造立)・栃木信行寺本堂安置の板曼陀羅(応永十九年造立)・石山九世有師造立の板曼陀羅(応永二十七年・文安二年造立)は悉く石山蔵の弘安三年太才庚辰三月日・蓮師図顕曼陀羅(紫宸殿曼陀羅と伝承。但し京都要法寺にも詳細不明ながら紫宸殿本尊と称する蓮師曼陀羅があるとされている)の摸刻とのことです。石山末寺でも、石山八代影師の代には板曼陀羅の造立が確認されるので、石山板曼陀羅の造立時期もやはりこの時代前後かもしれませんね。

464犀角独歩:2004/03/07(日) 13:59

れんさん:

いつもながらご丁重なご教示有り難うございます。
たいへんによく理解できました。

465犀角独歩:2004/03/07(日) 20:17

459に愚鈍凡夫さんが引かれる条々事、

「日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の‘大本尊’日目に之れを授与す、本門寺に掛け奉るべし」(

と、寛師の記述は大御本尊ではなく「大本尊」となっています。
この点は諸本によって異なります。いったい、どちらが本当なのでしょうかね。

文意からすれば、これは「大本尊」であり、れんさんもご指摘くださったとおり、精師にしても万年救護本尊を指したものであったと推されます。
家中抄では

「一、日秀阿闍梨の跡并に御筆大本尊、日代阿闍梨に補任せしむる所なり、日興が門徒等此ノ旨を存すべきなり、若シ此ノ状を用ひざる者は大謗法の仁たるべきなり、仍テ置キ状件の如し。
元徳四年二月十五日 日興在判」

とあることとも整合性が見られます。
また、『祖師伝』でも同様の記事を伝えています。

実際のところ、「大本尊」とはその紙上に実際に「大本尊」と記される所謂万年救護本尊を指したことは動かし難いと思えます。

条々事の記載が「大本尊」であるのか「大御本尊」であるのか、(この本が興師のものであるかどうかいまは別として)それは置くにしても、冨要で見る限り、『富士大石寺明細誌』から六巻抄ではいわゆる戒壇大本尊と解釈されるに及び、現在に至っています。

これまた、横レスになりますか。れんさん、空き缶さん、議論を続けてください。お邪魔しました。

466空き缶:2004/03/08(月) 00:16

犀角独歩さん、こん○○わ。私は、れんさんはじめ皆様に教えて戴く側で、とても論議に加われそうにありません。
 
 ただ、富士年表によれば日郷師も板本尊を模刻していますので、一応。ただし蓮祖の曼荼羅ではなく日興上人の御本尊と記憶しています。違いましたっけ?

 あと、日尊師の模刻本尊は日目上人の御本尊もあったと思いますが、蓮祖曼荼羅だけでしたっけ?

467犀角独歩:2004/03/08(月) 00:45

空き缶さん:

仰る辺りのこと、わたしは不案内です。
要するに、板漫荼羅は蓮師御筆ではなく派祖のものであるというご指摘でしょうか?

468犀角独歩:2004/03/08(月) 01:09

重ねて空き缶さん:

> とても論議に加われそうにありません

少し酔っていて、ご投稿のツボを外していました。
論議に加われそうもないどころか、いまや中心になっていらっしゃいますよ(笑)
わたしは毎日、楽しく拝読させていただいております。

469れん:2004/03/08(月) 12:57
空き缶さん、郷師も板曼陀羅を造立したのですか?手元の資料では、保田妙本寺系では郷師の弟子大輔阿日賢師が文和三年十一月八日に藤原国安とともに郷師書写曼陀羅(康永三年八月一日、首題下は日蓮聖人、相貌は興師の十界円具曼陀羅と同じ。)を摸刻造立したのが初見ですが。郷師が板曼陀羅(興師の曼陀羅を摸刻?)を造立したというのは初耳ですので、詳しくご教示戴ければ幸甚です。又、日尊師が日目師の曼陀羅を板曼陀羅に摸刻造立したというのも初耳ですので、これについてもご教示戴ければ幸甚です。m(__)m

470空き缶:2004/03/08(月) 15:15

れんさん、私の勘違いです。確かに模刻は日伝師の代です。

 目師曼荼羅模刻の件も、れんさんがそうおっしゃるなら私の勘違いであると思います。確かに手持ちの富士年表を検索しましたが出てきませんでした。

471犀角独歩:2004/03/08(月) 17:57

れんさん:

> 栃木信行寺本堂安置の板曼陀羅…紫宸殿曼陀羅

とのことですが、これは間違いないのでしょうか。
わたしの手元に写真があります。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/singyoji_mandara.jpg

この板漫荼羅に酷似する本尊集所載ではNo.82となります。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/082.html

このことから、この板漫荼羅はNo82模刻であろうと類推されます。

また、れんさんの失笑を買ってしまうかも知れませんが、この漫荼羅が、所謂「紫宸殿本尊」と称されるものなのでしょうか。ご教示いただければ有り難く存じます。


以下、余談です。

わたしの手元にこの板漫荼羅を写したものがあるのですが、この題目の「經」の字の旁の二画から四画、弘安三年時点では、蓮師が「ツ」のように各部分ですが、ここが弘安二年の筆法の如く一筆で書かれたものとなっています。全体のバランスはたしかに弘安3年の如くですが、この部分のみ筆法が時代性と異なっています。

山中喜八氏の『御本尊集目録』によれば、
「『御本尊写真鑑』巻之一に収載してある弘安二年三月 沙弥日載授与之本尊は、当御本尊を模写したもののようである」(P121)

とあります。この記載からすれば、載師授与漫荼羅を模写とはいうものの、No82漫荼羅を真筆と認めていると読めます。

このNo82の漫荼羅は本当に蓮師御筆漫荼羅なのでしょうか。
取り立てて山中氏の鑑識にケチをつけるつもりはありませんが、やや疑問が残ります。

472れん:2004/03/08(月) 18:49
犀角独歩さん。故山口範道師の日蓮正宗史の基礎的研究の記事によりますと御本尊集八二番一一一番一一六番の所蔵不詳の曼陀羅は大石寺蔵と記載しています。独歩さんの御教示で信行寺の板曼陀羅が八二番の摸刻であることが分かりましたので、八二番の曼陀羅が石山で紫宸殿御本尊と言われる曼陀羅ということですね。真偽については御本尊集では七八番までが経の書体が第三期に属し、以後が第四期になります。経の書体から見れば八二番は私見では八一番の次よりむしろ七七番の前後に置くのが至当と思います。私としては八二番は真筆と見てよいと思います。

473れん:2004/03/08(月) 20:03
蛇足ながらもう一言。山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」並びに大黒喜道師の「日興門流上代事典」の記述と、犀角独歩さんの提示された資料により、御本尊集所収の八二番曼陀羅は石山蔵のもので今日紫宸殿御本尊と言われる曼陀羅と見て間違いないとおもいますが、当曼陀羅を実見した山中喜八師は「右下隅に授与書の存したのを、裁落した形跡がある」(御本尊集八二番備考(1))と述べており、八二番曼陀羅が真筆で、且つ石山蔵の紫宸殿本尊に間違いなけれは、当曼陀羅は本来は蓮師が弟子或いは信者個人に授与された曼陀羅であり、後世、石山の所

474れん:2004/03/08(月) 20:16
蔵に帰して以後、何らかの理由で当曼陀羅の授与書が削除され、さらに天皇が石山に帰依の際、天皇に授与する曼陀羅という意義が付加されたと見るべきでしょうね。ですから、本来当曼陀羅はやはり、蓮師が弟子某或いは檀越某個人に授与されたもので、紫宸殿とか師資伝とかと言うのは後世に当曼陀羅に付加された意義付けに基づく名称にすぎないと私は考えます。m(__)m

475犀角独歩:2004/03/09(火) 10:00

れんさん、有り難うございます。

『本尊集』のなかに石山所蔵漫荼羅がある話は知っており、そのなかに所謂『紫宸殿本尊』と呼称されるに至る漫荼羅が入っていることも仄聞していました。

真行寺漫荼羅が「紫宸殿本尊」、これは意外でした。
しかしなにより、驚いたことは、わたしが本尊集の並びから単にその時期を測ったのに対して、れんさんがその並びに新説を立てられたことでした。月日が未詳である場合、このような並び替えは可能ということになりますね。

れんさんがNo.77前後と仰ることは「經」の旁から見るとき頷けます。『本尊集』でその形貌がもっとも似通っているのがこの漫荼羅の經だと思えるからです。それを踏まえた真筆とのご判断も理解できます。山中氏の經書体分類からも言えようかと思えます。

この点は十分に頷き肯定します。そのうえで、中央題目と花押が全体を占める割合がNo.77、すなわち弘安3年2月前後ではやや尚早と見え、この点、一考を要するとは思います。その意味から、わたし個人はこの漫荼羅が真筆であることへ、やや疑問を残そうと思います。ただ、それはれんさんのご賢察に異議を唱えるものではありません。

たいへんに有意義な考証をお聞かせいただきましたことを感謝申し上げます。

476犀角独歩:2004/03/09(火) 10:06

【475の訂正】

誤)真行寺
正)信行寺

477愚鈍凡夫:2004/03/09(火) 12:35

番 号: №82
図 顕: 1280(弘安3)年3月
寸 法: 3紙
讃 文: 「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書: (削損シアリ)
所 蔵: 不明

もし、この漫荼羅が「紫宸殿本尊」であるならば、次の文は何を意味するのでしょうか。

「大石寺に戒壇の本尊あり、惜哉九代目日有師之を彫刻してその本紙を失す」(宝冊)

この「宝冊」に載せてあるのは石山・日謄師の言葉であったと思いますが、石山では「紫宸殿本尊」の模刻が誤って伝えられたとしているのではなかったでしょうか。さらに石山の伝承では、「戒壇之本尊」を略奪しようとする者があったので、日有師は「戒壇之本尊」の身代わりとして「紫宸殿本尊」を模刻し、「戒壇之本尊」を駿東郡に避難させたという事件があったとのことですが。
史実としての石山史ではなく、あくまでも伝承というのが"ミソ"ですね・・・・・。
ひょっとして№82の漫荼羅は・・・・・、戒壇之・・・・のオ・リ・ジ・ナ・ル。
まさか、んなワケないよな。 (^◇^;)

478犀角独歩:2004/03/09(火) 14:28

477 愚鈍凡夫さん:

いいところまで来ています。しかし、実はとんでもないどんでん返しがこの一文に含まれています。

これから板漫荼羅のとどめを刺す考証を書籍として発表しようと思っていますので、詳しくはそちらをお読みいただきたいと思います。乞うご期待。

479空き缶:2004/03/09(火) 15:30

犀角独歩さん、「書籍として発表」との事、まちどおしいです。
 一般書店で入手可能な書籍となるのでしょうか?

480犀角独歩:2004/03/09(火) 15:39

空き缶さん、有り難うございます。

通常ルートだと余計な経費がかかりますし、時間もかかるので、まずは直販にしようと思っています。
できれば、ネット本屋では扱ってもらってもいいかなと。
また、なるべく早く出そうと思っています。

板漫荼羅の真偽談義は決着がつきます。これで終わります。

481れん:2004/03/09(火) 17:17
犀角独歩さん。石山系教団問題を含めた所謂カルト問題に対する幅広い学識と深い認識と鋭いご考察の眼力をお持ちの独歩さんなら、独歩さんの書は必ずや素晴らしい著書であると私も思っています。一日も早く拝読できる日をお待ちしております。m(__)m

482愚鈍凡夫:2004/03/09(火) 18:50

>>478:犀角独歩さん、
ワーイ!ワーイ!!楽しみにしています。 ☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡

出版されたら、是非読ませて頂きたいと思います。 (^∧^) 合掌

483犀角独歩:2004/03/10(水) 07:09

れんさん:

過分なお言葉をいただき、勇気百倍です。
有り難うございます。


愚鈍凡夫さん:

なんか嬉しいですね。
元気百倍になりました。

484愚鈍凡夫:2004/03/10(水) 12:54

**************************************************
まず1点目として、両御本尊(戒壇之本尊・日禅授与漫荼羅)の相貌の違いについて、大石寺理事・小川只道尊師に取材。小川尊師は、
「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
ですが、幾度(いくど)も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに『経』の字の違いはハッキリわかります。
また、ことに違うのは、『日蓮』の御署名と御花押の部分ですね。大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。また、大御本尊は御署名の『日』文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は『日』文字の上に御花押の上部が重なっていますし、御花押全体の形態もかなり違っています。これらの違いは、御虫払いの時に気をつけて拝していただければ、一目で判るはずです。
もちろん、日禅師授与の御本尊に『模写の形跡』など、私が拝してきた限りでは、見当たりませんでしたよ」
と、そもそも両御本尊を間近で拝するならば、「模写」云々の疑難を生じさせる点は何もないことを明言された。
(『慧妙』020601)
**************************************************

この記事を読んで、
それならば、「戒壇之本尊」と「日禅授与漫荼羅」の鮮明な写真をHPに公表してくれ。
と、思わず突っ込んだのは小生だけだろうか。 (^_^;)

創価学会破折 「大御本尊偽作発言」破折
http://members.at.infoseek.co.jp/netplane/daigohonzongisaku.html

485犀角独歩:2004/03/10(水) 20:21

> 本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊…ほぼ同時期…感じが似ているのは当然

小川さんというのは『本尊集』を見たことがないんでしょうかね。

(板漫荼羅図示とする)弘安2年10月日の御筆漫荼羅 No67
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html

(日禅授与漫荼羅前日)弘安3年5月8日
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/092.html

弘安2年と3年ではその相貌の相違は歴然としています。
この二つの漫荼羅、どこが似ているというのでしょうか。

愚鈍凡夫さん、やや昔の話題に戻りますが、有師が造立したという石山称するところの紫宸殿漫荼羅は「籠抜(籠写)」という方法で模写したそうですね。
本紙の上に紙を当てて、文字の輪郭だけを写し取る方法です。こうして模写した文字を「籠字」というのだそうですが、亨師の漫荼羅脇書きの記述のなかに、それをそのまま残す漫荼羅のことが書いてあっったのを思い出しました。

「控(うつろ)字御本尊施入状、祖滅百七十三年、弘安二年の御本尊御名判だけ普通にて他は全く籠字の珍宝を日永が久遠寺日安に授与したる添状なり、近古の写本富士久遠寺に在り」

「弘安二□太歳己卯二月日(ウツロ字の本尊と称す御名判だけ黒字にして他は皆籠字なり、日永日我の授与書あり、上の妙本寺の古文書の下に出す)、 小泉久遠寺」

この二つの記述は同じ漫荼羅を指しているのでしょうか。
れんさん、空き缶さんも何かご承知のことがございましたら、ご教示ください。

486空き缶:2004/03/10(水) 22:55

 犀角独歩さん、私も該当個所につきましては富士宗学要集8巻意外の資料を持ち合わせていないと思います。

 と、いうことで、れんさん、お願いします。

487空き缶:2004/03/11(木) 00:13

 訂正
 誤:富士宗学要集8巻意外
 正:富士宗学要集8巻以外

488れん:2004/03/11(木) 01:01
残念ながら、私も小泉久遠寺の弘安二年太才己卯二月日の控え字の曼陀羅については、富士宗学要集以外の資料は持ち合わせておりません。ただし「日蓮宗の本山めぐり」の記事によると小泉久遠寺の客殿には、蓮師時代(所伝では弘安四年に日法師が彫刻)に造立と伝承されている板曼陀羅を安置しているとのことで、あくまで推定の域は出ないものの、小泉久遠寺の籠字(控え字)の曼陀羅と同寺客殿の板曼陀羅とは何らかの関係が有りそうですね。m(__)m

489みん:2004/03/11(木) 01:21
犀角独歩さま
書籍の出版、待ち遠しいです!完成の折にはぜひ掲示板で発表して下さいませ。あと購入方法も♪

490犀角独歩:2004/03/11(木) 10:50

空き缶さん:

有り難うございます。


れんさん:

> 久遠寺の籠字(控え字)の曼陀羅と同寺客殿の板曼陀羅とは何らかの関係

なるほど。これは興味深い点ですね。
有り難うございました。


みんさん:

有り難うございます。
発刊の節は管理人さんにもお願いして、そのようにできればと願望は懐いております。

491愚鈍凡夫:2004/03/11(木) 12:43

>>485:犀角独歩さん、御教示有り難うございました。

しかしなんですね、
高僧が「塗り絵」の下書きをしている姿を想像すると、そこはかとなく悲哀を感じますね。

う〜ん、ものは考えようと言うことでしょうか。 (-。-;)

492犀角独歩:2004/03/11(木) 13:52

愚鈍凡夫さん:

板漫荼羅はいつ作られたか?
なかなかこの特定は難しいですよね。
これを考えるに当たり、古文書の正確な成立年代を類推する、その時のいくつかのタームから現物の存在を類推するわけですよね。

たとえば「弘安二年」「大本尊」なんて言葉がそうです。あとになってくる「戒壇」なんかも加わります。「万年救護」なんていうのも入ってきます。
ところが新しいものを持ってきて、それに弘安二年の意義付けをし、大本尊と呼び、戒壇と関連させてしまうと、元々あったものが忘れ去られて、そっちのほうが本物のように扱われるようになってしまう。そのまま、伝聞されて時間が経つと、その作為が消え去ってしまうわけですよね。

『大石寺誑惑顕本書』というのがあります。この書はある意味、そんなことを十分に考えさせられる本です。ここでも、本門戒壇、本尊、万年救護なんていう富士門において重要なタームがたくさん出てきます。で、石山感覚で読むと、戒壇本尊と書かれていれば「本門戒壇之大御本尊」、つまり板漫荼羅だと思うわけですが、よく読むとそうではなくて、これが禅師授与漫荼羅を意味していたりします。同様に万年救護本尊て書いてあるから、例の「上行始顕」の讃文がある‘大本尊’であると思うとこれまた禅師授与漫荼羅であったりします。

こうなると最重要漫荼羅は石山ではいた漫荼羅、北山では禅師授与、西山・保田では万年救護で、それぞれの漫荼羅が最重要の問屋みたいにそれらの意味を全部持っている論調となります。

おまけに、これは三学無縁さんが、主張されるところですが、このなかで引用される重須・浄師の言とされる有師、並びにその彫刻批判は、正本に当たれないというわけです。ところがそんな追究なしに、戒壇本尊彫刻は有師、そして、道師は病気で杉山隠居が典型的な批判となるわけです。

また、板漫荼羅は楠で作られた、まあ、これは精師の記述に見られ、その原木は七面山の池に浮かんだ、で、安永師は七面山に楠は生えてないよと『板本尊偽作論』で書きました。それからというもの、大概の板漫荼羅批判者は筆頭にこれを言います。これまた、三学無縁さんのご指摘ですが、安永師のネタもとは、なんと戦前に名を馳せた石山僧であるというから驚きました。

それにしても、板漫荼羅が「出世の本懐の大御本尊」と言われる、それはすごいものだとわたしなんかも子供心に感動していたものなんです。しかし、あとから考えると、その本懐を遂げたはずなのに、それからも、現存するだけでも、50舗も漫荼羅を図示しているわけですね(笑)

本懐を遂げたら、そのあとはナシでしょうにね。

しかし、この板漫荼羅によって、戦後、発表を素直に信じれば、昭和42、3年には正本堂供養に800万人が実名で500億円にも届く供養をし、その後、昭和58年には信徒数1650万人と豪語したわけです。いまでは顕正会が女子高校生中心に100万人集めて大騒ぎしていますが、こんなのは当時を知っているものからすれば、おままごとの分類です。

実否は知りませんが、創価学会は半世紀で7兆円の資産を構築し、顕師が「粥を啜っても」とお涙頂戴したのに、実際は1兆円は持っていると言います。6万人、30万人だと動員して正本堂を解体して、奉安堂をさらに造り、今度は60万登山と言っているそうですね。
これも、あの板漫荼羅から起きた顛末。もうこんなことは終わりして欲しい。
日蓮信仰の家に生まれた自分は、恥ずかしく思うわけです。

しかし、出口は見えました。板漫荼羅判断の基本的なテキストを残し、ここ半世紀の愚行が繰り返されないようにすることを、いまの自分の使命である、否、かつて本仏と仰いだ日蓮への報恩と思っています。

493れん:2004/03/11(木) 16:59
そういえば、石山の板曼陀羅は帝釈天玉を「釈提桓因大玉」と表記していますが、蓮師真筆の曼陀羅を見ると、弘安二年十一月(御本尊集第六十八の二番の曼陀羅)までの弘安期の曼陀羅における帝釈天玉の表記は釈提桓因とあるものはすべて「釈提桓因玉」なんですよね。弘安二年十月の時点で「釈提桓因大玉」とあるのは現存する蓮師真筆からみると蓮師の通格に反しており、この点からも、板曼陀羅が偽作であることは証し得るでしょう。

494犀角独歩:2004/03/11(木) 17:07

【492の訂正】

誤)石山ではいた漫荼羅
正)石山では板漫荼羅

誤)戒壇本尊彫刻は有師、そして、道師は病気で杉山隠居
正)戒壇本尊彫刻は有師、そして、同師は病気で杉山隠居

相変わらずの打ち間違い失礼しました。
あと、わたしは『大石寺誑惑顕本書』を褒めているわけではありません。
資料性はあるということです。
しかし、これをお読みなった方は少ないように思えます。
刊行本に付録で付けてもよいと考えています。平易に現代語に開いたほうが好いのでしょうか。
あと付録として考えているのは『大石寺本尊真偽問答』。40年ほど前のものですが、こちらも平易な現代語に開いたほうが好いのでしょうか。

皆様のご意見を頂戴できれば有り難く存じます。

『大石寺本尊真疑問答』
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/n_kusuyama_001.html

495空き缶:2004/03/11(木) 17:17

犀角独歩さん、「刊行本に付録で付けてもよいと考えています。平易に現代語に開いたほうが好いのでしょうか。」との事ですが、両方は紙面上無理でしょうか。(非常にわがままな意見でした)

496犀角独歩:2004/03/11(木) 17:31

495 空き缶さん:

あ、そうですね。両方載せれば資料性は保持でき、理解の便宜にもなりますね。
両書ともそれほど長編ではないので十分に可能ですね。
ご意見、有り難うございます。

497犀角独歩:2004/03/11(木) 17:32

493 れんさん:

ご指摘のところ、頷けます。なるほど。
『悪書板本尊偽作論を粉砕す』のなかで細井精道師(のちの達師)は

「戒旦の御本尊は釈提桓因大王となっておられる」(P62)

と記しています。自爆していますね。

余談ながら、この書で噴飯ものなのは

「安永君は板御本尊の下方部に仏滅後二千二百二十余年未曾有の大漫荼羅の御文が入れてあるというが、よくも斯様な出鱈目が言えたものであると唯あきれる許りである。一度も拝せずして世上の与太議論の書を半囓りして論ずるから根も葉もないことを誠しやかに論ずることにんある、茲には御本尊の御文はかくかくだということは言はぬ」(P12)

と記すことです。この精道師の言をそのままに取れば、この端書のことを記した精師も、霑師も、亨師も、皆「出鱈目」「与太議論」を言った張本人となります。そして、挙げ句に「御文はかくかくだということは言はぬ」と逃げてしまっていることです。威勢が好いだけの逃げ口上で終わりです。

498犀角独歩:2004/03/11(木) 17:34

また、打ち間違えました、失礼

【497の訂正】

誤)論ずることにんある
正)論ずることになる

499れん:2004/03/11(木) 17:37
犀角独歩さん。
「大石寺誑惑顕本書」「大石寺本尊真疑問答」
残念ながら両書共に私は未見の資料です。資料的価値から言えば、私も原文と現代文に開いた解読文の両方を付録として掲載した方がよいと思います。m(__)m

500愚鈍凡夫:2004/03/11(木) 18:13

犀角独歩さん、ご苦労様です。
さぞかし、いろんな想いが交錯する中での執筆だったと想像しています。

先日、下記のHPを読んでいて思いました。
後世の我々が見たら時には滑稽にも思えるのですが、偽作を作った本人の気持ちはどうだったんだろうかと。
こうであってほしいとの気持ちから史実を曲げたのだろうか。それとも、自宗の利益のために史実を曲げたのだろうか。はたまた、後世の学者・学僧達をからかうためなのか。果たして、罪の意識はあったんだろうか・・・・・。
等々、色々と考えさせられました。

日持師の場合は、国策という特殊事情がありましたが、蓮祖の場合も本質は同じではないかと思います。

「伝・宣化出土日持上人偽造遺物について」
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/nitiji.htm

501れん:2004/03/11(木) 18:15
497 犀角独歩さん
細井師の「悪書板本尊偽作論を粉砕す」のその記事は本当に自爆ですね(笑)。まぁ、学問的批判に耐えられない「威勢がよいだけの逃げ口上」で終わるのは石山の僧侶方の悪い癖ですね。m(__)m

502犀角独歩:2004/03/11(木) 22:34

れんさん:

有り難うございます。
『大石寺本尊真偽問答』はわたしのサイトでアップしてあるのですが、PCはご覧になれない環境でいらっしゃいましたね。もし機会がありましたら、ご高覧を賜れれば有り難く存じます。

それにしても、古文書に広く通じられるれんさんが、初学を意識されて現代文の掲載をお薦めくださる辺り、さすがだと思います。

石山僧、威勢好いだけ。そうなんですよね、なんでああも事実から目を背けるのか、溜息が出ます。

503犀角独歩:2004/03/11(木) 22:40

500 愚鈍凡夫さん:

これまた、痛いものを出してこられましたね。
いや、これはしかし、まあ、気の毒な事件であったとわたしは思っていますよ(笑)

事実証拠をしっかりと掌握する基本を外すとこうなるわけですね。
しかし、こんなサイトがあったのですか。
まったく愚鈍凡夫さんの見識の広さにはいつも驚かされます。

504近江屋:2004/03/12(金) 18:25
すごい書き込みの目白押しで気絶しそうです。戒壇の大ご本尊様をこんなに言っているのに誰も反論なしなんでしょうか。
ガンコさんほか、顕正会の皆さんもだんまりですか。トホホです。もうおしまいじゃないですか。

505犬は吠える、されど・・・:2004/03/12(金) 21:29
 近江屋さん。しょせん内拝も許されず霊宝御虫払にも参詣できなくなった
人たちが、不鮮明な写真と他門関係のいい加減な伝聞記録と、それから、過
去に彼ら自身が大石寺に参詣した(おそらくは半分居眠りしながら)時のあ
やふやな記憶だけを頼りに、勝手な憶測を書き並べているだけでしょう。は
っきり言って間違いだらけです。実際にこの目で大御本尊様の相貌を拝させ
て頂いている我々からしてみれば、一連の書き込みは「VOW」なみに爆笑を誘
うものです。

 さて、どこがどう違うか指摘するには大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌
を教えてあげないといけない訳ですが・・・もったいないから教えません。
既にここまで偽作説を言い切っている人たちですから、今さら教えてあげた
ところで、意地でも間違いは認めないでしょうからね。何事も、ケチをつけ
ようと思えばいくらでもつけられるものです。

 偽作説ばかり達者で成仏法が説けないのでは話になりません。偽作論者の
諸君がいくらガンバっても、偽作論を信じたって別に成仏はできません。功
徳はなんにももないのです。肝心なのは、正しい本尊とは何であるかという
事をまずはっきりさせて、その御本尊様を信じ抜いて、その結果として自分
自身が成仏を遂げていくことです。仏教オタクになったって仕方ないのです。

 戒壇の大御本尊様とは別に、何か真に正しい本尊が存在するならば、それ
は何であるか。これを明らかにできるならば、偽作論キャンペーンなどは無
用なのであります。結局それを明らかにできないから、偽作論を振りかざす
のでしょう。

 何よりも、御本尊様の事を畏れ多く思う気持ち。そして偽作論者の諸君に
対する呆れと哀れみ。この板を見ている他の法華講員の方々も、おそらくそ
うした気持ちから、発言を控えているのでしょう。

 真剣に法を求めるならば、何事も書物の上だけでなく、実地に見聞して確
かめていくべきかと存じます。あと、過去に御開扉を受けられたことのある
方は、もっと真剣に、その時のかすかな記憶をいま一度想起してみて頂きた
い。そうすれば間違いに気づけるでしょう。私がいま皆さんに言えることは
これだけです。

506犬は吠える、されど・・・:2004/03/12(金) 21:44
「何がVOWか、無礼な」と切り捨てられて終わりにされそうなので、その一例
を挙げておきます。

>>347
>あと、これまた蛇足に属することですが、写真で見る板漫荼羅の上部両隅
>に鶴丸紋が刻まれているのが確認できます。それが板漫荼羅と一体なのか、
>枠なのか、わかりません。

アハハハハハ

こんな事も覚えてない方が写真なんぞを頼りに偽作説を弘めていることこそ、
大聖人様に対し奉り「無礼」千万であろう、との感想を、私のような者は抑
えることができません。

507空き缶:2004/03/12(金) 23:00

 犬は吠える、されど・・・さん、貴方の書き込みは日蓮正宗が反論不能である事を物語っています。
 
 「他門関係のいい加減な伝聞記録」といいますが、れんさんが引用された「研究教学書」とは富士学林(日蓮正宗僧侶育成機関)の教科書ではないですか。
 私の引用した、日蓮正宗聖典も富士宗学要集も「他門関係のいい加減な伝聞記録」でしょうか?
 
 通称「本門戒壇之大御本尊」は、高度情報化社会という時代の到来によってその役目を終えようとしているのです。

508犀角独歩:2004/03/13(土) 02:43

> 犬は吠える、されど・・・さん:

板漫荼羅信仰者がどんな人間であるのかを遺憾なく露呈していて愉快な投稿でした。

正しい本尊がなぜ正しいと言えるかを書けず、「正しい正しい」と繰り返しても、はじまりません。

正しい証拠を論理だって説明してはじめて正しいと証明されるでしょう。
正しいというのであれば、ここに雄弁にその証拠を‘もったいぶらず’に記されればよい。自称正しい本尊を信じるあなたと、あなたがいう板漫荼羅偽作論者と、どちらが誠実かつ理を尽くしているかは、ロムの皆さんの判断に委ねればよいだけのことです。

なお、わたしは板漫荼羅は200回以上も見聞しています、生まれて40年間、信者でしたから。

347の書き込みはわたしのものですから、一言記せば、鶴丸部が枠か一体なのか、「覚えていない」のではなく、写真からも、現物を見ても、「わからない」と記しているのです。このように文章を改竄して批判するようなみっともない真似は、板漫荼羅信奉者の多くがあなたのようにの姑息な真似をする人間だと思わせることになるだけです。他の信奉者に気の毒ですからおやめになったほうがよろしい。

くだらない嫌みを書き連ねるより、板漫荼羅が本物である確たる証拠を書き記せばよいだけのことです。それができない自身の無力をよくよく確認するべきです。

509犀角独歩:2004/03/13(土) 04:19

さてと、重ねて犬は吠える、されど・・・さん:

自ら自分を「犬」だと卑下することはありません。
以下、ご自身の書き込みに一々に明快な回答をなし、信奉者の威風堂々たるところをお見せください。

> 不鮮明な写真

この不鮮明な写真を『日蓮上人』に掲載させたのは大石寺でしょう。
精道師は「写真を出したならば世間に知らしめて非常に効果があると考え大石寺に願ってやったこと」と記しています。
不鮮明な写真が悪いのであれば、鮮明な写真を呈示すればよろしい。

> 他門関係のいい加減な伝聞記録

どことどこが他門の、いい加減な伝聞記録であるか、指し示していただきたい。

> (おそらくは半分居眠りしながら)

見たような言いがかりはやめていただきたい。

> はっきり言って間違いだらけです

どこがどのように間違いだらけであるか明記していただきたい。

> 成仏法が説けないのでは…

ほお、では、あなたは成仏法を持っていると。では、あなた方の中で、どこの誰がいつ成仏したのですか。

> 正しい本尊とは何であるか

ですから、それが所謂「戒壇之大御本尊」であることを、ここに文理証拠を挙げて雄弁に語ればよいのです。

> 何か真に正しい本尊が存在するならば、それは何であるか。これを明らかにできるならば、偽作論キャンペーンなどは無用なのであります

そのとおり。正しい本尊と思うものが、なぜ正しいと言えるかを説明されればよろしい。そうすれば、真偽考証は必要ありません。ただし、わたしが書いたことはキャンペーンではありません。自分が信仰してきたものの疑問点を呈示したことです。

> 実地に見聞

このことは既に記したとおりです。

> アハハハハハ

このような人を侮蔑する擬音を記せば、むしろ、その程度の低さから物笑いになるのはご自身ということになるでしょう。また、改竄した姑息さは先に記したとおり。

> 大聖人様に対し奉り「無礼」千万

蓮師に無礼千万なのは、勝手に板に彫刻し、基の御筆漫荼羅にない文字を書き足したりすることを言うのです。そのような事実があれば、そのことこそ、無礼千万に当たります。
「もったいないから教えません」などと、さも知ったかのように記してごまかしてはいけません。ここは公開の議論の場です。記せなければ、知らないと判断されるのは当然です。教えられる能力があるか否かは、実際に教えることができる書き込みをしたことのみで計られるのです。書き込めなければ、ただのはったり、虚仮威し、そんなことを「戒壇之大御本尊」信奉者はやるのかと落胆を誘うだけのことです。

では、解答ください。

510犀角独歩:2004/03/13(土) 04:45

―509からつづく―

そう。これは感想、いや感嘆ですが、犬は吠える、されど・・・さん。あなたはよほど眼がよろしいのでしょうね。5000人余も収容できるあの広い奉安堂で、板漫荼羅に書かれた文字の一々が実地見聞すれば見えるというのには驚きました。殊にわたしが問題視した「造立…敬白」の文字が読み取れるというのであれば驚嘆に値します。

わたしは奉安殿、正本堂参拝の経験しかありませんが、むしろ、不鮮明とはいえ、『日蓮上人』に掲載された写真のほうが、考証の段では、よほど参拝した記憶よりあてになります。また、わたしが真偽考証に充てたのは明瞭に読み取れる題目、花押、愛染です。この大きな画像も不鮮明であると言い張るわけでしょうか。納得が行きません。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

また、もう一つ。板漫荼羅の(内拝という名の)公開は年がら年中実施されているのに、霊宝御虫払に限って論うのでしょうか。まさか、この時しか見られないとでも思い込んでいるわけですか。どうも記述に不自然さを感じます。

511富士桜:2004/03/13(土) 08:23
ここの所ずっとこのスレッドを目にしてきました。

>わたしは奉安殿、正本堂参拝の経験しかありませんが、むしろ、不鮮明とはい
え、『日蓮上人』に掲載された写真のほうが、考証の段では、よほど参拝した
記憶よりあてになります。

今月の8日(月)に内拝させていただきました。
平日と言う事もあり奉安堂のほぼ御法主上人の後ろに座りましたが「造立…敬
白」はまず確認する事は出来ません。そして一番近くまで行けたとされる奉安
殿の一番前でも正確に見えませんでした。
ただ、この独歩さんの510に貼り付けてあった大御本尊は確かに不鮮明です
ね。この花押の下にも何かがいっぱい書かれているのは見えます。その程度な
んですけど。
自分も何が書かれているのか知りたくて何かのレクリエーションで御鍵取りの
御僧侶の方とお話をしたんですけど、間近であっても絶対に自分の目で確認す
る事はない、と話は終わりました。。。

そうだ!独歩さん平日でよろしかったらなんだったら今度、御開扉御一緒しま
しょうか?本気で。内拝券はちゃんと用意します。顔がばれないようにしてく
ださい(笑)

512犀角独歩:2004/03/13(土) 09:46

富士桜さん:

お久しぶりです。もうすぐ桜の季節ですね。
先にここにも書きましたが、旧暦の2月16日、身延から北山に行って来ました。
既に富士の桜は咲き出していました。


> 今度、御開扉御一緒

このお誘いは有り難く拝受申し上げます。
先だっても同じように誘ってくださった方がいました。
しかし、なかなか難しいですね、わたしは面が割れていますから(笑)
入れてくれるというのであれば、それは「喜んで」というところです。

> 花押の下にも何かがいっぱい書かれているのは見えます

これなんですが、金箔が施されていますか?
不鮮明ながら、写真でわかるように、当初、ここには金箔はかかっていなかったのです。写真は宝蔵でのものですが、たしか奉安殿の段階でもかかっていなかったと思います。
では正本堂では? 聞いた範囲では、かかっていることを覚えている人はいないんですね。

いったんの奉安殿への移管の段階ではどうであったのでしょうか。ご記憶にございませんか。

これは仮定なのですが、奉安殿の段階で件の箇所に金箔がかかっておらず、奉安堂の現段階でかかっていれば、少なくとも、所謂「戒壇之大御本尊」は2体はあることになります。

あくまでも未確認のことですが、奉安殿から正本堂へ移管したとき、修繕が間に合わなかったために‘もう1体’を安置したなどと言われています。これはもちろん、事実関係を確認したことではないのですが、移管に立ち会った経験者のなかから上がった話であるといいます。

また、中世から「戒壇之大御本尊」は板であることが言われ、その厚さまで伝えられてきたのですが、正本堂以降、達師は「半丸太」であると明言し、宗の内外を驚かした経緯がありました。そのようなことから複数存在するのではないのかと囁かれてきたわけです。
写真が不鮮明なことはたしかにそのとおりです。
ですから、わたしは鮮明な写真を呈示すること、「戒壇之大御本尊」の学術的な科学調査を行うべきであることを主張してきたわけです。

放射性炭素年代法を用いれば、造立年代はわかるわけです。(正本堂移管の折、腐朽で崩れ落ちた木屑を関西方面で分析した話も伝わりますが、これはその実否が確認できません)

詳しい相貌は、写真で発表すれば明確になります。
何か不鮮明な写真の責任はわたしにあるのではなく(笑)『日蓮上人』に掲載を許した大石寺にあるわけです。もっと、鮮明な写真を載せればよかったわけです。また、山口師が指摘するように所蔵3舗の漫荼羅を本尊集にも載せたわけですから、「戒壇之大御本尊」の写真を公開することを、躊躇する必要はありません。「信心のない人間に見せる必要なし」というのであれば、なぜ『日蓮上人』に掲載したのか、3舗の漫荼羅はなぜ掲載したのか、自己矛盾を来すでしょう。

都内に少なくとも2カ所、大阪に1カ所、「戒壇之大御本尊」の相貌を正確に写した「正模写」の紙幅漫荼羅が現存することは、その各寺院の宝物帳の記載から明らかになっています。板漫荼羅が駄目であれば、この正模写の発表で替えても事態は進展します。

しかしなされないでしょうね。理由は至って簡単です。発表すれば、直ちに板漫荼羅の正体がわかってしまうからでしょう。学術調査をしないこと、写真を発表しないこと、その諸尊座配・その他の彫刻の記述すら発表しないのは、それなりの理由があるのでしょうね。

いずれにしても「広宣流布の暁までは秘蔵厳護」するはずが、5000人以上も収容できる建物で年がら年中、公開されているのは、自語相違の非難を免れません。5000人×2000円=1回1000万円、プラス支部登山その他となれば顕師に直接の奉供養も加わります。
30万登山、30万×2000円=6億円、また、奉供養の平均を(少なく見積もって)3000円であったとしても顕師個人には9億円の収入があったことになります。

信徒に仕組まれた「戒壇之大御本尊」への渇仰恋慕心は、実にこんな経済効果をもたらしています。「内拝という名の公開」をやめず、それにもかかわらず、その実態を明らかにしない矛盾はここにもその理由があるだろうと思えます。

513犀角独歩:2004/03/13(土) 12:39

○達師漫荼羅の「經」と「愛染」

敢えて写真は載せませんが、『悪書板本尊偽作論を粉砕す』の発行者代表・精道師が、石山住職になったのち、正本堂供養者のなかで特定の役職を持った学会員に下付した所謂「特別御形木本尊」が我が家にあります。この「經」と「愛染」は板漫荼羅の写真とその部位と同等の形貌です。

經旁の最終画は「止筆」となっており、愛染は他の御筆漫荼羅と異なり板漫荼羅のそれと同じ筆法となっています。この事実は、つまり、板漫荼羅の該当箇所が、そのようになっていることを物語っているのでしょう。その意味で、達師は板漫荼羅は、蓮師が身延で弘安2年10月12日に図し、法師がそれを彫刻したという伝説を信じていた人なのであろうと思えます。となれば、本人もそのように信じていたわけですから、宗内僧俗を誑かす意図はなかったのであろうと、わたしは善意に採っています。

ただし、著述した『悪書板本尊偽作論を粉砕す』は、その後の石山文書で覆された点がいくつかありますので、その点を何点か紹介しておこうと思います。

○弥四郎国重

「茲に其の対告衆弥四郎国重殿を熱原に求めれば、当時の信徒中弥四郎の名は幾人かあつたことは記録によって明らかであるが、最も此の場合該当せられるのは神四郎兄弟であって、むしろ神四郎が弥四郎であつたと断定するのが至当である(これは茲に科学的な考証を掲げる必要があるがいまは省略しておく)」(P19)

と、弥四郎国重=神四郎説を開陳します。
しかし、『日蓮正宗要義』では

「本門戒壇の大本尊は唯一究竟の大目的の下に、大聖人境界中の弥四郎国重の願いによって顕され」(P203)

と恰も非実在の人物と扱う如きとなっています。

○離山に百貫坊が背負う

「御板御本尊を百貫坊に背負わせて粛々と身延の山を御去りになった」(P49)

とありますが、『日興上人正伝』ではこの記載が見られません。

○妙海寺漫荼羅

「日華上人授与…弘安3年5月8日…妙海寺所蔵の本尊こそ、此の日華上人御授与の本尊を臨写したものであることは歴然たるものがある」(P68)

という。これは安永師が板漫荼羅は妙海寺漫荼羅の模写であるという説に対する反駁です。しかし、つい最近、この漫荼羅について、歴史的な大発見がありました。同漫荼羅中に蓮師の指紋が発見されたことです。
http://news.nichiren-shu.jp/01_news/2003/031210/sub_0001.htm

精道師に言わせれば、妙海寺漫荼羅は臨写であって真筆ではないというので、となるとこの指紋は誰のものとなるのか。さて、御筆本尊集にこの漫荼羅を含めた山中喜八師、また、科学的な調査・修復を行った中尾峻師が間違えたのか、それとも、精道師一人の思いこみであるのか興味が惹かれる点です。

514犀角独歩:2004/03/13(土) 12:47

513に紹介したページは開くと自動的ジャンプしてしまうようなので、掲載文を以下に転載します。

*** 以下転載 ***

日蓮聖人ご真筆曼荼羅本尊から指紋

大きな発見につながる可能性…

 静岡県沼津市の妙海寺(笹津海道住職)で格護されている弘安三年五月の日蓮聖人曼荼羅本尊から聖人御自身のものとみられる指紋が見つかった。これは今年の三月から進められていた修復調査で明らかになったもので、中尾堯・立正大学名誉教授が確認。聖人の実像を肌で感じることのできる大きな発見につながる可能性が高い。(本紙九月二十日号「ご真蹟に触れる」に一部既報)
 指紋が見つかった曼荼羅本尊は、日蓮聖人六十歳の弘安三年(一二八〇)五月八日に顕示されたもので、大きさは丈九九㌢×幅五四㌢。指紋は向かって左下の「大増長天王」(図①)と中央下の花押の部分(図②)に合わせて約十ヵ所みられ、遠目では気づかないが、近寄って目をこらして見るといくつかの指跡を見ることができる。
 中尾教授によると、日蓮聖人が曼荼羅本尊を揮毫される際、「大増長天王」の部分は四天王の中でも最後に書かれ、墨の乾かないうちに署名と花押に移る。その時〝天〟と〝王〟の付近に左手を添えられ、偶然にも指紋が残ったと推測される。
 また料紙の表面には、滑りのよいように木槌でたたいて紙の目を緻密に加工する「打ち紙」の技法が施され耐水性に優れているため、墨跡が乾きにくかったことも影響しているとみられる。
 さらに花押部分の指跡に関しては、ちょうど同じ日に揮毫された日華上人授与の曼荼羅本尊(法華宗本門流本山・京都本能寺蔵)の存在も関係しているという。すなわち日蓮聖人は本能寺蔵の曼荼羅本尊を先に揮毫されたために、二幅目(妙海寺の曼荼羅本尊)を書き上げ、最後に筆をおろした時には、その労力の大きさから思わずフラッと料紙に両手を付かれたという想像も成り立つとしている。
 中尾教授は「文字中に残された指紋からは、日蓮聖人が渾身の力を込めて曼荼羅本尊を揮毫されていた尊いお姿が伺われ、聖人の実像を身近に感じることのできる数少ない例となるのではないか」と語っている。

11月19日に特別開帳
 修復を終え、およそ八ヵ月ぶりにお曼荼羅をお迎えした妙海寺では、十一月十九日に特別開帳が行われ、多くの檀信徒が参集した。午後二時、堂内にお題目が響く中、宝前に曼荼羅本尊が掲げられると、参加者からは一様に感嘆の声が。その後、間近まで進み、一人一人が合掌して曼荼羅本尊を拝した。
 続いて、列席していた中尾教授が今回の修復と指紋発見の経緯を参加者に説明し、笹津住職は「日蓮聖人を身近に感じてさせていただく有り難い機会となりました」と挨拶した。参加者も「日蓮聖人がそこにいらっしゃるようで、喜びでいっぱいです」と声をそろえて感動を共有していた。
 妙海寺は、日蓮聖人が当地に八日間滞在し津波除けの祈祷を行ったのが始まりといわれ、現在も八日堂の法会として毎年大晦日から正月八日まで祈祷会が行われる。最終日にあたる八日の午前六時頃には、今回の弘安三年の曼荼羅本尊を含めた、合わせて三幅の日蓮聖人曼荼羅本尊が掲げられ、多くの参拝者が訪れる。

http://news.nichiren-shu.jp/01_news/2003/031210/sub_0001.htm

515犀角独歩:2004/03/13(土) 16:37

【513の訂正】

誤)科学的な調査・修復を行った中尾峻師が間違えたのか
正)修復の際、確認した中尾堯師が間違えたのか

516犀角独歩:2004/03/13(土) 18:21

暁鐘別冊『本門戒壇大御本尊遮難「魔説“板本尊偽作論を摧く”』は『悪書板本尊偽作論を粉砕す』と同内容なのかと即断していたのですが、やや出入りがありました。

・石山本と暁鐘本の相違点

石山本では
前編『板本尊偽作論を破す』、後編『日蓮正宗歴代管長裏面史の邪論を破し真実を記す』となっていますが、暁鐘本では、これを入れ替え
第1編『「歴代管長裏面史」の妄論を破す』、第2編『「板本尊偽作論」を破す』
となっています。

・「板本尊偽作論を破す」では以下の点で相違しています

石:前編(1)まえがき(2)偽作論の性格を論ず
暁:第2編はじめに

石:(3)5曲説を難ず
暁:5歴代に対する曲説を破す

石:(3)11有師偽作説は誑説なるを明す
暁:11有師偽作・癩病説は誑説なるを明かす

石:(3)14日法上人の本尊彫刻を史伝において明かなり
暁:14「日法上人は本尊彫刻せず」の妄説を破す

・「歴代管長裏面史」では以下の点で相違しています。

暁鐘本では石山本にない以下の歴代が添加されています

日目、日道、日有、日鎮、日院、57世以後、日亨

また暁鐘本では冒頭に「悪書再刊の背景 ― 正理研究会の狂気の実態」という一文が付されています。

内容的に以上の出入りがありますが、暁鐘別冊『本門戒壇大御本尊遮難「魔説“板本尊偽作論を摧く”』は、石山宗務院発行代表精道師『悪書板本尊偽作論を粉砕す』を底本にしていることは明白なのに、そのいずこにもその断りがないのは著作権その他の出版常識からすれば特異なことで、仮に現石山がそれを許可したことでも、読者の便宜に適っていないと思えます。

517犀角独歩:2004/03/13(土) 19:58

れんさん:

恐縮ですが、質問させてください。
少し古い話なのですが、

> 277
>…日興門流上代事典…稲田海素師の「…板本尊の原本は確かに御真筆である」(木下日順「板本尊偽作の研究」)

というご紹介をなさっていましたが、この稲田さんのご覧になったというのはいつのことであるかおわかりになりますか。ご教示いただければ有り難く存じます。

518れん:2004/03/13(土) 20:51
犀角独歩さん。残念ながら私には稲田海素師が石山に参詣した時期は分かりません。稲田師は蓮師遺文の編纂のため蓮師真蹟の研究をされましたが、稲田師が研究のため真蹟所蔵寺院を歴訪された時期は主に戦前だと思いますから、私の推測では稲田師の石山参詣は戦前のことだと思います。m(__)m

519犀角独歩:2004/03/13(土) 20:56

518 れんさん:

早々のご教示痛み入ります。
「戦前のこと」、その範囲でも十分に参考になりました。
有り難うございました。

520れん:2004/03/13(土) 21:10
稲田師の件とは関係ありませんが、興門資料刊行会から再刊された松本佐蔵氏の「弘安二年大曼陀羅と日興師」(原本は昭和五年刊)には「御本尊を彫刻せられた時は墨漆の御仕揚げであったが年代を経た為め参詣者には唯だ黒く見受け判明せぬのを慨き石山廿四世日永師の代に腰書以上の御文字へ金箔でおし金装置をせられたが腰書即ち次に記する「現當二世」云々の記入は初めの墨漆の儘であるから明瞭に拝めない」とあります。日法師彫刻云々は伝説ですが、曼陀羅部分の金箔装置が近世江戸期であったのには私には驚きでした。m(__)m

521れん:2004/03/13(土) 21:14
訂正。
誤。御本尊を彫刻
正。御本尊を日法師が彫刻

522富士桜:2004/03/13(土) 21:24
犀角独歩さん:

丁重な御挨拶ありがとうございます。
そぐわない問いかけにも関わらず恐縮しています。

>旧暦の2月16日、身延から北山に行って来ました。既に富士の桜は咲き出していました。

はい、読ませて頂きました。失礼を承知で書かせていただきますが、何か独歩さんらしい墓参に思えました。
偶然ですが実は自分その日鎌倉に行きました。辻説法跡や極楽寺や鶴岡八幡宮を回って竜口寺に見学させてもらいました。鎌倉も暖かかったですが、そうですか桜は咲き始めているのですか。これには驚きましたが、昨今の気温を考えれば、すでに確かに春は訪れていますね。

>御開扉御一緒

こちらの件は了解いたしました。
う〜ん。
金髪にしてカラーコンタクト入れて海外信徒に成りすます、と言うのはどうでしょう。
余計怪しまれますね・・・嘘です。(笑)
気が向いたら声をかけて下さい。
独歩さんの事情を詳しく存知していませんが、何があったにしろ「お前は入るな!」と自分の目の前で独歩さんが言われたら自分は体張って抵抗します。

余計な話が長すぎました。すいません。独歩さんの問いに答えたいと思います。

>不鮮明ながら、写真でわかるように、当初、ここには金箔はかかっていなかったのです。写真は宝蔵でのものですが、たしか奉安殿の段階でもかかっていなかったと思います。
では正本堂では? 聞いた範囲では、かかっていることを覚えている人はいないんですね。

写真自体がモノトーンなので金箔をこちらの写真では確認出来ませんが、現在までに自分が拝してきた大御本尊、それは奉安殿〜奉安堂を通し、すべてに金箔が施されています。
独歩さんがおっしゃる奉安殿とは旧奉安殿(正本堂前)なのかは区別がつかないのですが、
自分が入信した時期の奉安殿は、正本堂から奉安殿に御遷座され、時間的にはしばらく経った事なのでしょうけれど。
奉安殿の頃には月2〜3回は内拝し、御法主上人のすぐ後ろ、最前列にも何度となく座りましたので、今でもはっきり覚えています。
もし花押の下に金箔がされていなかったら、奉安堂の時点で自分も気がつくと思います。

あまり関係ないですが明らかに「あれ?金箔が明るくなった・・・?」と感じた時期があります。
それは平成13年の終わりくらいだったと思います。
後日談で確認した話ですが、その頃平日の御開扉が緊急で中止になったようで、大御本尊の化粧直しとお聞きしました。これは来る平成15年宗旨建立750年の為と地元の壇家筋の方にお聞きしましたので確かな話だと思います。

>詳しい相貌は、写真で発表すれば明確になります。
何か不鮮明な写真の責任はわたしにあるのではなく(笑)『日蓮上人』に掲載を許した大石寺にあるわけです。

確かに!絶対独歩さんのせいじゃないです。(笑)
ただ、この時代の写真技術はどうだったのかなぁ?とも思います。
もちろん明治時代の写真は現代でもくっきりはっきり残っているものも数多くありますがカメラの性能や現像、現代とは比較にならないと思います。
当然その写真を大石寺が認可、と言う意味ではわからないですが、あくまでも日蓮宗側の資料として許可された事、と自分も聞いています。
でもこの写真。
以前オフ会で管理人さんから頂いたCDRの中に入っていた大御本尊とは違いますよね?
なんかあちらの方が綺麗に撮れていたと思いました。

523富士桜:2004/03/13(土) 21:25
>都内に少なくとも2カ所、大阪に1カ所、「戒壇之大御本尊」の相貌を正確に写した「正模写」の紙幅漫荼羅が現存することは、その各寺院の宝物帳の記載から明らかになっています。板漫荼羅が駄目であれば、この正模写の発表で替えても事態は進展します。

この話で思い出しましたが、独歩さんも多分御存知の方かも知れませんが
(品川の寺院M氏。葬儀仕事をされていましたが本年お亡くなりになりました)
第二次世界大戦の折、大御本尊が群馬の末寺に疎開されていたと言うお話です。
その時期、大御本尊の身代わり?かどうか仕事中の話でしたのでちゃんと聞けなかったのですが、当時の御法主上人(日恭上人だったと思います)が大御本尊を緊急用?の脇書きをされ御本尊を書写された、と聞きました。
独歩さんの言う宝物帳の記載の御本尊を一致するかどうかは今は定かではないのですが正模写の期日が戦争当時だとしたら、それなのかなぁ?と思いました。

このお話とは関係がないですが。
この大御本尊の偽作説についてなぜ創価学会が矢面に立って言ってこないのかな?と言う事です。これは自分の勝手な疑問なのですが。
創価学会の老舗「赤澤朝陽」さんの所や、創価学会側には、おそらくどこも持っていないような大御本尊の鮮明な写真。それこそ後ろから前から横から記録され、また寸法までもきっちり正確に把握されていることは事実のようです。
大石寺をぶっちぎるにはそう言う話が出てきてもいいと思ってました。
レプリカとか・・・作っちゃったりするんですかね???
もしそうだったら完全無欠なもう一つの大御本尊が完成すると思います。
勝手な愚論でした。。。

あまり参考にならなかったかも知れませんがお許しください。
それでは失礼しました。

526犀角独歩:2004/03/14(日) 10:12

520 れんさん:

これはまた、貴重なお話を伺いました。
全面ただ黒漆、これはたしかに見づらいですね。
「腰書」という表現が当を得ていると余計なことで感心しました。

527犀角独歩:2004/03/14(日) 10:13

富士桜さん:

> 何か独歩さんらしい墓参

わたしらしいですか。そうですか。そうお感じになりますか。
身延の宗廟とあの場所はいいですね。
「ここは聖人がお出でになった場所なんだ」という思いがあります。
伽藍のほうにある真骨堂より、ずっと静寂でいいですね。
一度、真冬に行ってみたいと思います、雪に埋もれた草庵跡と宗廟、まさに蓮師の往昔を彷彿とするだろうと。

北山の興師正墓。荒れ果てた体たらくにはいつも心が痛みます。
綺麗に整備すればいいというものでもないでしょうが、興師の「何事よりも身延沢の御墓の荒れ果て候いて、鹿かせきの蹄に親りに懸らせ給い候事、目も当てられぬ事に候」という嘆きは延山の後継者は解消したものの、ご当人の正墓に当て嵌まるような。尤も塔婆が上がり供養されている様子は窺えましたから、わたしが感傷的なだけだとも思えます。

それにしても、石山には目視の正墓すらないわけです。なんともはや胸が痛むところがあります。

しかしそれでも、実はわたしは山門から石畳を踏んで二天門、そして、御影堂に至るあの境内地は今でも好きです。
まあ、こういうと誤解を招きそうですが、あくまで心情なのですが…。
蓮師は、幼少から修業時代を過ごされた清澄寺を、その寺院の教義を糺されたが故に追い出され、その後、安穏とその地を踏むことができなかったわけです。
わたしはいま、石山の根本である板漫荼羅を糺したわけですから、二度と安穏とあの地を踏むことはできないと覚悟しています。でも、わたしにとっては懐かしい心の故郷です。子供の頃、玩具一つ買ってもらえず、遠出といえば、登山と決まっていました。わたしは当日になるとよく熱を出していました。「風邪ぐらい、お山に行けば治るよ」、そう行って母はおんぶしてでもわたしを連れて行きました。本当に不思議と、山の霊気に触れ、内拝を終えると元気になったものでした。石畳の両脇を流れるせせらぎの冷たさは今でも覚えています。その懐かしい場所を二度と安穏として訪れることはできない、それでも、このことは書かなければならないと覚悟したわけです。
懐かしい修行寺院を追われることをわかっても論じた蓮師の精神の、万分の一でも見習いたいという思いがあったわけです。戻れなくもやるしかない。しかし、死して、もし本当に連枝にお会いできることがあれば、蓮師建立でないものを建立でないと言ったわけですから、堂々とお会いし、お褒めいただけるとも思っています。尤も再生(今で言う転生)その他の霊魂不滅(永遠の生命)を信じての言葉ではありません。いわば仏教ロマンティシズムといったところでしょうか。

> 偶然ですが実は自分その日鎌倉…辻説法跡…極楽寺…鶴岡八幡宮…竜口寺

これは嬉しい偶然です。

> 確かに春は訪れていますね。

そうですね。

>> 御開扉御一緒
> 海外信徒に成りすます

変装ですか。尊皇家の御仁にも勧められたことがあります(笑)
まあ、わたしは何事も正攻法が主義ですから、富士桜さんのお心は有り難く頂戴したうえで、行くなら、石山がいう手続きに基づいて申し込んでみます。まあ、断られるでしょうが(笑)

> 自分は体張って抵抗します。

これは本当に嬉しいお言葉です。
有り難うございます。

528犀角独歩:2004/03/14(日) 10:13

―527からつづく―

> 奉安殿〜奉安堂を通し、すべてに金箔

そうでしたか。

> …平成13年の終わり…大御本尊の化粧直し

これまた、貴重なお話を頂戴しました。

> …この時代の写真技術

明治44年のことですから、それはもう現代と比ぶべくもないでしょうね。
石山は写真を発表すべきですね。

> 写真を大石寺が認可…日蓮宗側の資料

これは本尊集記載漫荼羅のことでしょうね。
応じたのは亨師だと。

> 第二次世界大戦の折、大御本尊が群馬の末寺に疎開
> …日恭上人…大御本尊を緊急用?の脇書きをされ御本尊を書写

これはわたしの知っている話とは別のことです。
これが事実ならば恭師も!と驚きました。
わたしが宝物帳で確認したのは別の寺院ですが、こちらは胤師でした。

> 創価学会の老舗「赤澤朝陽」…大御本尊の鮮明な写真…寸法…

ええ、この話はわたしも聞いています。

> 大石寺をぶっちぎるにはそう言う話が出てきてもいいと思ってました。

これからわたしが本にまとめること、また、サイトでアップした内容は、学会トップはわかっているでしょう。すべてわかったうえで、「三大秘法の本尊」とやっているのでしょう。けれど、戸田さん以来の会員がまだ残っていますし、過去の大本営発表、正本堂寄進もありますから、あとから事実がわかっても、そうは容易く前言を覆せないのでしょう。
板漫荼羅のことも完膚無きまでに否定する資料の一切は仰るとおり創価学会に揃っているはずです。しかし、それを出せば、返す刀で自らを斬り殺すことになる。いまは、だからしないのでしょう。

> レプリカとか・・・作っちゃったりするんですかね???

八王子の牧口記念館にこれを安置する話があったと聞いています。実現しなかったのは会員の心にそのキャパがないと判断したからだとも聞いています。
まあ、実否は会トップのみが知るところでしょう。

> 完全無欠なもう一つの大御本尊が完成

見た目はまさにそのとおりですよね。
しかし、それは蓮師の時代のものとはならない、ただの見かけだけ。
結局は他の模刻と同様、お書きになったとおりのレプリカに過ぎませんよね。

> …参考にならなかったかも知れません

いや、十分に参考になりました。
有り難うございました。

529犀角独歩:2004/03/14(日) 13:17

判読いただけると思いますが、

【527の訂正】

誤)目視
正)目師

誤)連枝
正)蓮師

530犀角独歩:2004/03/15(月) 11:20

○いまは石山も語らない日法彫刻を記す『松野殿御書』の因師引用

『有師物語聴聞抄佳跡上』に『松野殿御書』という因師の言を借りれば「世間希なる」書が板漫荼羅・御影法師彫刻の証拠として挙げられています。
いま、参考に該当部分を紹介します。

以下の書を石山が偽作して「板本尊」の正当性を論じたと難じたのが安永師で、それに対して、精道師は「大石寺に於て偽作したなどとはとんでもない曲説である」と反論しています。

実際、文面を読めば、極端に法師を讃美しているわけで、そのことからすれば、石山に都合の好い内容とはなっていません。このことからすれば、石山で作られた書であるというより、法師系列と見るほうが至当であろうと思えます。

また、記述は御影に限るのであって、これを無理矢理に板漫荼羅と関連づけるには無理があります。

たぶんは御影像信仰が先行し、それを法師に仮託して権威付け、上述の偽書が捏造され、さらにその権威にあやかろうと、板漫荼羅も同木から作られたと石山で言われるようになった歴史的な推移があったろうと考えられます。

こうなると、板漫荼羅が万年腐朽の楠で造立されたという話も俄には信じがたいことになり、素材そのものも、これまた科学的な分析を待つ以外、その真実を知る方途はないことになります。

*** 引用始め ***

「松野殿御書…御書ニ云ク 安房国東条小松原ノ道善坊持仏堂ニシテ念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊ノ姿ヲ申出シ候ヘハ数百人ノ兵者共敵成し、いる矢は雨の如く、打ツ太刀ハ電光の如し、当座ニ弟子一人打死シ既ニ日蓮ハ頭ニ疵ヲ蒙リ法華経ノ御為ニ命ヲ捨ル事まのあたりなり、殊ニ
伊豆佐渡ノ大難は申すに及ばす種々ノ難に値へり、先札に申尽シ候間今之を書かず等云云、依之命かなへ候テ身延山ニ隠居せしむ法華経ヲ読み奉る折節我弟子ノ中ニ和泉阿闍梨ト申ス僧一人御座候、朝夕身ヲ離れず給使奉事致さるゝ事比類なく秘蔵弟子なり、然ルニ彼ノ泉阿闍梨行功をはげまし日蓮ガ形ヲあらわさんカ為に七面ノ明神ニ祈念セシ故か、又天道道ノ至リか浮木出来セリ、此の木を以一躰ならず三尊まで造る一尊ハ大仏なれし身延山に安置せり、故に末世に於て日蓮カ形ヲきざみつる事ハ泉阿闍梨無ンバ造仏しがたし、爾モ闍浮第一ノ弟子なり、然ルニ予ハ妙法蓮華経ノ中ノ字ヲ取テ日蓮ト名乗リ候間彼ノ泉ノ阿闍梨ニハ法ノ字ヲ取テ日法トなづけて候、然ル間日蓮ヤ前キ日法ヤさき日蓮ヤさきと云フ意ヲ以テ日法となつけて候、定テ弟子達うらやましくやをもはんずらん、又ハあだみめねみやすらん、兎ニ角末代に於て法華宗たらん者は日法一人ヲ信仰セバ日蓮ヲ信仰スルニ成るべきなり。諸宗ノ中ニハ妙法蓮華経第一ノ良薬なり、一切衆生ノ中ニハ日法一ノ人第一ノ導師なり、上行所伝ノ寿量肝心是好良薬ノ妙法ヲ口ニ唱ヘ入レ候ヘバ悪人女人如何ナル人非人成リ共是人於仏道、決定無有疑豈唐捐ならんや、是故ニ日蓮カ弟子檀那ハ日法ニ不背、日本国ノ一切衆生ノ口ニ上行所伝ノ要法ヲ入れんとはげまんこと肝要なり、日蓮もしきりニ法華経ヲひろめまいらせ候ひしを鎌倉殿にくみついらせ大難を蒙らしめ玉ひしかども、仏天の御使か、今日まで命ながらへ候て当山に住せしめて法華経を読ましめ候処に、日蓮が形を木像に造立せしむる日法は、末世の師匠孝行の手本たるべし、日興一人ならず日朗等に至るまで漸々丁聞せしむるなり、末世日蓮二度ノ出世とは此の木像を申スなり、頼母敷ク思ひ候てをがませ玉へ、恐々謹言、日蓮在御判已上全文。
 此御書ハ世間希ナル間今具ニ之を書くなり、然ニ此ノ中ニ一体に非ず三尊マデ造ルト者当山ノ最初仏重須正御影なり、一躰ハ岡宮に之有りと云ヘリ、又七面の明神者本来之有るか、七面ノ池之有り此池水ニ浮ヒ出たる楠木なり、此板御本尊倶に三尊と遊されたるか、亦板御本尊の事をは略し遊されたるか測り難き者なり」(1-251)

*** 引用おわり ***

531五月雨:2004/03/15(月) 13:33

>>505 犬は吠える、されど・・・さん、初めまして。

>さて、どこがどう違うか指摘するには大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌
>を教えてあげないといけない訳ですが・・・もったいないから教えません。

大石寺所蔵の諸曼荼羅の正確な相貌の“どこで”正しい本尊だと分かるのでしょうか。
実は私は今度大石寺に参詣し、ご開扉を受けます。
私も戒壇本尊の真偽説には興味がありますので、ご教示戴けましたら大変に
有難く存知ます。
もったいないと仰らずに、着目すべき相貌をご提示下さいませ。

>真剣に法を求めるならば、何事も書物の上だけでなく、実地に見聞して確
>かめていくべきかと存じます。

本当にそうですよね、実地に見聞することはとても大事なことですね。
私もしっかり実行したいと思いますので、どこに着目すべきかを仔細にご教示ください。
ご教示通りにしっかり拝見して参ります。また、その結果をここでお知らせしたいと思います。

どうぞよろしくお願い申し上げます m(__)m

532三学無縁:2004/03/15(月) 16:00
おひさしぶりです。
活発な論議が展開されているようで、とても参考になります。
れんさん、愚鈍凡夫さん、犀角独歩さん、ほんとうにありがとうございます。

さて、505で、「犬は吠える、されど・・・」さんが、

>他門関係のいい加減な伝聞記録

と、書かれていました。
他門よりなされてきた石山批判、特に「弘安二年十月十二日」の日付のある、楠板彫刻の「本門戒壇の大御本尊」批判が、仮に「他門関係のいい加減な伝聞記録」であったとしても、それは仕方のないことであろうかと思います。
何故ならば、件のいわゆる板漫荼羅が、広く一般に公開されておらず、また、文字の鑑定や材質の鑑定もなされていないわけで、これでは正確な記述を求める方が無理でありましょう。

たとえば板漫荼羅の大きさについても、諸説あるわけです。
 <竪五尺横二尺四寸>
このように記したのは、下総峰妙興寺大法院日憲、後の京都本法寺六世東光院日憲で、『当家諸門流継図之事』での記述です。
では、この記述が「いい加減な伝聞記録」であるとして、実際のところ板漫荼羅の大きさはどれほどなのでしょうか。

 <長四尺七寸五分 横二尺二寸五分 厚二寸二分>
これは、遠霑講寺の「沙門完則」による記述です。
ちなみにこの遠霑講寺とは細草檀林のことです。
御承知の通り細草檀林では大石寺の僧侶も数多く学んでいましたし、講師だけでなく化主も輩出しています。
また化主となられてから大石寺の住職になられた方もいるわけです。
この「沙門完則」が、石山僧でないならば、細草檀林において石山から来た僧に板漫荼羅の大きさを教わったことになります。
ただ、この記述は、『大石寺宝蔵略目録』と題する書にあるもので、「他門」の僧侶が略とはいえ、わざわざ大石寺の宝蔵目録を書くものでしょうか。

 <厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>
 <丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘>
さらにこのような記述もあります。
<厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>という記述は、久遠阿闍梨、本寿院日量によるもの。
<丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘>の記述は熊田葦城によるものです。
熊田葦城の記述は明治四十四年、西暦一九〇九年、未だ石山信徒になる前のものですが、由比一乗居士から板漫荼羅の写真を提供され、また、石山関連の記述は由比氏だけでなく、石山本山の僧侶からも取材したものです。
ちなみに当時の石山住職は五十七世阿部日正上人で、五十五世日布上人、五十六世日応上人の二人も健在でした。
つまり、この熊田葦城の記述は信頼のおける記述と考えてもよさそうです。

ところで、「久遠阿闍梨本寿院日量」ですが、石山四十九世の日量上人のことです。
そして<厚サ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分>という記述は、文政六年、一八二三年、『富士大石寺明細誌』に書かれています。
当時の石山住職は四十九世日荘で、日量は本山塔中寿命坊に隠居していました。

以上四つの記述・記録のうち、明らかに他門のものは日憲のものです。
日量のものは当然として、完則および熊田葦城のものも、情報のソースは石山関係と考えて問題はないと思われます。
そうすると石山系情報の三つに、僅かではありますが寸法の違いがあることになります。
もっとも、違いといっても3センチメートルから9センチメートルていどですから許容範囲内といえないこともありません。
ただ、何故、僅かとはいえ違う数字になるのかはわかりませんし、これらの記述において、以前の数字を訂正してもいないのはどうしてなのでしょうか。
これでは「他門関係」どころか「石山のいい加減な伝聞記録」と言われても仕方ないのではないでしょうか。

これらは石山において、蓮祖の「出世の本懐」である「一閻浮提総与」の「本門戒壇の大御本尊」と誇称される「弘安二年十月十二日」の板漫荼羅に関する記述なのですから、このような違いが記録されること自体が不自然という気がします。
もっとも、正確に鯨尺で計測したのではなく、目分量で大体の数字をいったものであるのならば不自然とはいえないかもしれませんが。
しかし不自然ではないとしても、やはり「石山のいい加減な伝聞記録」という印象が残るのは如何なものでしょうか。

533三学無縁:2004/03/15(月) 16:14
つづきです。
さて、「他門のいい加減な伝聞記録」ということなので少々。

石山ではさまざまな「相伝書」「相承書」をもって自門の唯一正統性を誇り主張しています。
主なものは以下のとおりですが、( )の中は写本で、書名の下は主な掲載書の略号です。
富要=富士宗学要集。新編=学会版御書。聖典=正宗聖典。新定=昭和新定御書。平成=平成新編御書。

御義口伝(上巻石山本、下巻要山本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
身延相承(要山日廣本、西山日辰本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
池上相承(北山日出本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
本因妙抄(要山日尊本、石山日時本、房山日我本、日辰本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
百六箇抄(北山日山本、房山日我本、西山日辰本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
御本尊七箇之相承(房山日悦本、房山日山本)
 富要    聖典 新定
教化弘経七箇口決大事(房山日悦本、房山日山本)
          新定 平成
寿量品文底大事(房山日悦本、房山日山本)
 富要    聖典 新定 平成
産湯相承事(房山日悦本、房山日山本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
上行所伝三大秘法口決(房山本、要山本)
 富要 新編 聖典 新定 平成
本尊三度相伝(房山本、要山本、石山蔵日源本)
 富要
三時弘経次第(要山本)
 富要    聖典       歴全
本門弘通之事(正本石山蔵)
                歴全

以上は石山で、「従日蓮日興相伝」とされるものですが、石山所蔵の正本は「本門弘通之事」だけで、他は全て「他門」の写本です。
御義口伝は石山の上巻写本と要山の下巻写本でセットですが、要山本は元亀年間のもので石山本は年代不詳です。
いずれにしても御義口伝石山写本は石山と要山が通用していた時代のものと考えてよさそうです。

日興跡条々事(案文・正本石山蔵?)
 富要    聖典 新定 平成 歴全
日興遺誡置文(房山日我本)
 富要    聖典    平成 歴全
富士一跡門徒存知事(重須日誉本)
 富要    聖典    平成 歴全
五人所破抄(重須日代本、要山日辰本、下条日諦本)
 富要    聖典

これらは興師の著作および興師の意によって書かれたものということですが、「日興跡条々事」以外は正本もなく、主な写本も他門のものばかりです。
このように見てみると、石山のいう「相承」「相伝」のほとんどはもともと石山には無かったものであるということがわかります。
つまり石山のいう甚深の相伝とか相承、そしてそれを元にした教学は「他門関係のいい加減な伝聞記録」を利用して成立している、ということにほかなりません。

なかには、「もともと大石寺にあったものが写本され他門に流出した」というひともいるかもしれませんが、それでは原本はいつ無くなったのでしょうか。
石山は北山のように武田の軍勢に荒らされ重宝を強奪されたという事実はありません。
何度か焼亡していますから、そのときに焼けた、というかもしれませんが、「本門弘通之事」と「日興跡条々事」は残っているわけで、他の重要な「相伝書」が残っていないのは不思議です。
それから、石山でいうところのいわゆる「日時写本」ですが、これらについては石山において「六世日時上人のものではない」「同名異人の筆である」という意見があります。
これは複数の学僧、複数の能化の発言で、なかには「堀上人は違うといわれた」という発言や、同名異人を特定した発言もあります。
かりに同名異人の筆ということになれば、いよいよ石山上代には独自の相伝がほとんど無かったと考えられそうです。

それから、いわゆる紫宸殿の本尊ですが、本尊集によれば削損があるとのこと、傷物を皇室用にという発想はスゴイものがあります。
しかも、削損ということは、石山が創建当初から当該本尊を持っていたならば歴代のだれかが、真筆本尊に傷をつけたということになりませんか。
もしくは、いつの時代かに入手し、石山に都合の悪い文字を削り取った、ということが考えられます。
つまり、当該本尊も、もともとは自山のものではなかった、と。
さらに、当代は「師資伝の本尊」とかに名称およびいわれを改変しましたが、傷物を師資相伝するなどという発想にも、なにか苦し紛れのような感じを抱かざるをえません。
石山にとって、本尊とはどのような意味をもっているのでしょうか。

以上、ひさしぶりの書き込みなのにしつこく長々と書いて申し訳有りませんでした。

534犀角独歩:2004/03/15(月) 17:31

三学無縁さん、横レス失礼します。

四半世紀のご研究の成果、披瀝いただきまして有り難き次第です。
「隣家の権利書」とわたしが評した石山相伝の有様、その具体的な資料をご呈示いただき、改めて興味深く拝読しました。

また、板漫荼羅の資料文献、さすがに整理されておられますね。
しかし、板としての記録、半丸太とは達師以外は言わない点、どうにも合点が行かないものです。

535犀角独歩:2004/03/15(月) 17:51

舌っ足らずなので、もう少し補足します。
三学無縁さんがご提示くださったとおりに板漫荼羅の厚さは通じて2寸2分、飽くまで「板」としての記録です。

熊田葦城氏は厚さを記していないわけですね。ここの部分、注意が引かれました。
そして、近年では達師がいきなり「半丸太」発言。元来、半丸太であれば、一目瞭然のわけですから、そう諸記録に残ってきてもよさそうなものですよね。不思議ですね、これは。

536三学無縁:2004/03/15(月) 19:06
独歩さん、どうもです。
板、ということと、丸太の唐竹割り、ではずいぶんと違いますね。
あらゆる木造建築は、伐採した木を乾燥させなければ建材として使用しません。
これは伐採して間もない木材は水分などを含んでおり、乾燥すると湾曲したり亀裂を生じるからです。
では、件の板漫荼羅に使用した木は充分に乾燥させてから日蓮さんは「造立」したのでしょうか。
石山の最新の見解では、件の年月日に日法師に彫らせたといっているようです。
これは『日蓮正宗入門』に記述があったと思います。

まあ、原木の状態についてはあれこれ想像しても仕方ないことですが、石山が日法師彫刻説をあらためて主張しはじめたのには驚きました。
石山では離山に際して日興師は何一つ持ち出さなかったという見解と、一切の重宝を奉じて離山したという正反対の意見がありましたよね。
かりに持ち出したとするならば、その重宝にはどのようなものがあるのでしょうか。
ご消息やその他の真筆御書が当時の身延にあったとは考えにくくありませんか。
日蓮さんが出したものが日蓮さんの手元に残っている道理がありませんから。
もっとも残っていたのは清書前の下書きだったというなら話はべつですが。

さて、板漫荼羅ですが、現在の石山では身延にあったものを運び出したと主張しているわけです。
尊いものなのですから、当然、牛馬に担がせたり荷車を引かせたりはしませんよね。
すると遷座のときのように弟子たちが肩に担いで、身延山から上野村の南条持仏堂まで運んだということですね。
ここまでくると、百貫坊の復権まであと一歩というところでしょうか。

それから、厚さのことですが、達師の話は、上部の厚さについてでしたね。
では、下部はどのくらいなのでしょうか。
半丸太、ということなのですから、底面は半月形をしていることになります。
横が60センチ以上ある丸太をどのような角度でカットしたのでしょうか。
当時、のこぎりはあったのでしょうか。
マサカリとか斧で割ったり斬ったりしたあとでチョウナで整えた、ということを示唆もしくは暗示する主張なのでしょうか。
いやはや、石山の主張するところは本当にわかりずらいです。

537犀角独歩:2004/03/15(月) 23:53

三学無縁さんと掲示板上でやりとりできるなど、恐悦至極です。

わたしは人権を侵害されるような文句を言われれば、それにいちおう反論もしますが、あんなものを信じ込まされていた自分、未だかつて信じ込まされている人々、これは被害者以外のなにものでもないと思うわけです。

蓮師の真筆であれば、歴史的な価値がありますが、たかが板に彫った彫刻、それも蓮師となんの縁も縁もない後世の捏造を、蓮師のものであると信じ込まされ、それを否定する人間を憎悪するように心理操作されていることに気付けない被害者に同情の念を禁じ得ません。しかも、その人々に敵愾心を燃やされることも重々承知しています。かつての自分の姿ですもの、わかります。

そのなかで三学無縁さんは数少ない我が導きの師です。かつて板漫荼羅信奉者であったときに投げかけた数々の無礼を莞爾と受け止めていただき、いまにお付き合いくださるその懐の深さはいまのわたしの在り方のお手本になっております。

改めて、ここに謝辞を述べ、今後のご指導・ご鞭撻を謹んでお願い申し上げるものです。
稽首

538犀角独歩:2004/03/16(火) 07:16

三学無縁さんが指摘されるとおり、

> 件の年月日に日法師に彫らせたといっている

というアナウンスは物理的に不可能だと思います。

身延を実地見聞すればわかりますが、原材となった楠が浮かんだという七面山(標高1982m)は身延山(標高1153m)の頂上から見える近隣の山なのであって、そこから直径60センチ以上、長さ2メートル近くもある原木、池に浸かっていたわけですから十分に水分を含んでいるものを旧暦で言えば11月雪積もる季節に道すらまともにない身延山中の草庵まで運ぶことも困難なことでしょうし、その樹を乾かすだけでも何年も掛かるでしょうし、さらに彫刻し、漆をかけたとすれば、その作業も半年、1年という単位の仕事となるでしょう。草庵跡に直ぐ側には草庵を復元した建物がありますが、その規模を見れば、そこに蓮師その他が居住し、その傍らで、2メートル近い原木から板漫荼羅を制作することができるかどうか。周囲は雪深く、そして、鬱蒼とした原林、急勾配の斜面です。いかにも身延という実地見聞もしたことがない人間が創作した物語であると思うしかありません。

また、板漫荼羅は熱原法難を機縁として作られたと言います。信徒が投獄、拷問、斬首に至る悲惨な逼迫した出来事であるわけです。ところが、この板漫荼羅の原木からは御影像も造ったというわけです。まず掌に載る三寸ばかりの像を造った法師はそれを袖に入れて蓮師の基に持参して見せると、にっこりと笑って允可したというわけです。方や、信徒が引っ立てられてむごい仕打ちに遭っているときに自分の像を見て笑っているというエピソードはあまりにもかけ離れています。

真面目にそれぞれの話を考証すれば、いかにも現実味が乏しい点ばかりが気になるわけです。だいたい、七面山の七面大権現という“神様に祈念”して楠原木が浮かび上がったというのです。これは石山で言う「謗法」行為そのものではないですか。

539犀角独歩:2004/03/16(火) 08:31

538の資料に

「一、日蓮聖人御影居長三寸 一体
 作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇御本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり、薄墨素絹白五帖袈裟なり、則聖人の剃髪を焼消し以て之を彩色す云云、日法右板本尊並に此の像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之れ有り」(富士大石寺明細誌)

この書は、楠原木の取得について『松野殿御書』(因師引用)と記述が違っています。

「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず」

原木を取り上げたのが弥四郎国重ということになっています。また、ここでは弥四郎国重は波木井実長(円師)の嫡男ということになっています。

540空き缶:2004/03/18(木) 00:06

弥四郎国重、いったい誰なのでしょうか。れんさんは、奥州の新田小野寺ではないといわれ、益々謎が深まるばかりです。

 富士宗学要集第6巻「破愚邪立正論」には「汝等言フ所の板本尊は身延山にて日法七面に祈り得たる処の浮木なり、裏書に云ク戒旦の施主石川弥四良国重、上野題目講中と有リ是レを何ぞ日興嫡々と尊敬せんや」と有り、重須と上野をゴッチャにした「石川弥四良(郎?)国重」なんて出てきますね。

 いずれにしましても、犀角独歩さん著作の出版が楽しみです。

541犀角独歩:2004/03/18(木) 18:29

空き缶、ちょっと久しぶりですね。
いつもテーマを決めて真剣に考え、研鑽されているお姿、頭が下がります。

542れん:2004/03/19(金) 10:37
空き缶さん。私が「弥四郎国重」を小野寺氏等武家身分であるとする見解に消極的なのは、もし弥四郎国重が武家身分ならは、「弥四郎」国重ではなく、(たとえば小野寺氏ならば)藤原国重などと、本姓と実名で記されるのが中世時代の通例の書式ですので、武家身分ならば「弥四郎国重」と言う通称と実名では記されない。というのが理由です。私の勝手な憶測では、弥四郎国重は案外板曼陀羅の文字の彫刻にあたった職人さんの名前ではないかとフッと思ったりしてます。あくまで憶測にすぎませんが…。m(__)m

543空き缶:2004/03/19(金) 18:37

れんさん、以前にもカキコしたように思いますが「弥四郎国重」とあり、「姓」を省いているのは同姓の親類者である可能性が高いと思いました。

 目師から道・行・時までの四師の下であれば、可能性がなきにしもあらずと思ったわけです。

544れん:2004/03/19(金) 19:19
空き缶さん、弥四郎国重が以前空き缶さんが提示された小野寺資料にあるように、新田信綱氏?の子息ならば、同時代(世代)の興師目師道師の曼陀羅等の正文書に出てこないのが不審なのです。板曼陀羅は道師(目師弟子の民部日盛師を含む)門下により製作されたものでしょうが、たとえ同姓親類者であっても板曼陀羅に記す場合は新田弥四郎藤原国重などと記すものです。また行師時師は小野寺資料の弥四郎国重と年代が離れており、行師時師が板曼陀羅に名前を使う理由が分かりません。此等の理由で弥四郎国重の小野寺氏出身説・武家身分説は疑問なのです。

545空き缶:2004/03/20(土) 01:13

 れんさん、やはり可能性はありそうです。姓を名乗らずに「弥四郎国重」とすることは。
 当時、板本尊は大した宝物ではなかったと考えれば。実際に大石寺系の正文書に「本門戒壇御本尊」としてこの板曼荼羅が登場するのは、ずっと後の事だと思います。
 恐らく、数百年後にこれほど多くの人を騒がすようなものになるとは誰も思っていなかったものなのではないでしょうか。
 遊び心でつくったものが、後世に何かの間違いで重宝になってしまったのではないでしょうか。
 全て憶測の域を出ませんが。

546犀角独歩:2004/03/20(土) 14:29

いきなり突然、関係ないことを書きますが、以前、板漫荼羅修繕の際に腐朽して落ちた木屑を創価学会が関西方面で放射性炭素法かなんかで調べた結果、400年以上は遡れないとか言った情報が流れたことがありましたが、この点にご存じの方、いらっしゃいますか。
あと、以前、ワラシナさんが紹介してくれたことですが、板漫荼羅は花押の下、つまり腰書「造立…本門戒壇願主弥四郎国重…敬白」が書かれた部分は接木で本体とは別の木であるといった話がありました。腐朽して修繕した部分は、本体か接木か、ここら辺の話をご存じの方はいらっしゃいませんか。

れんさん、空き缶さんの議論とも関係しますが、ちょっと、仮説です。
板漫荼羅の本体部分は先に造られた。その後、下に接木した。もし、そうであれば、板漫荼羅本体の造立は上古でも、弥四郎国重の由来はぐっと中世に近づくことになります。

二箇相承の「国主」、また、弥四郎国重を身延地頭嫡男という精師。彼は宗史が専門といったところですから、伝聞を載せる段で、国主と弥四郎に一定の整合性を見いだしていたと考えられると思うわけです。

547犀角独歩:2004/03/20(土) 14:37

れんさん:
空き缶さん:

上の書き込みとはまたまったく別の視点からなのですが、初歩的な質問をさせてください。

『竜泉寺申状』に「去ぬる四月御神事の最中に、法華経信心の行人四郎男を刃傷せしめ、去ぬる八月弥四郎男の頚を切らしむ」とありますが、この「弥四郎」は板漫荼羅との関係で論じられることは、なぜないのでしょうか。

548空き缶:2004/03/20(土) 17:39
「熱原弥四郎坊男」大石寺の諸説の中には、「弥四郎国重」をこの「熱原弥四郎坊男」であるとする仮説もあったと思いますが…?
たしか、熱原法難と「聖人御難事」が戒壇之大御本尊と深くかかわっているとか。

549れん:2004/03/20(土) 19:27
犀角独歩さん。弥四郎国重を蓮師・興師の檀越の中に求めるのならば、竜泉寺申状の中の弥四郎坊男に宛てるのも一つの仮説として面白いと思います。又細井師(達師)の如く弥四郎国重を神四郎に宛てる(つまり弥四郎国重を神四郎の前名ないし実名とする)仮説もありますが、どちらの説も、残念ながら蓮師・興師の正文書からは裏付けがとれないためあくまで仮説の範疇で事実性に乏しいものです。m(__)m

550愚鈍凡夫:2004/03/20(土) 21:54

日達師の言葉って、木を削った道具が違うと思われるから鎌倉時代の作だの、大野山に楠が自生してるだの、弥四郎国重は神四郎のことであるだの、読んでるこっちが切なくなる発言が多いですよね。 (..;)
さぞかし、当の本人は辛い想いをしながら言ってるんだと思いますが・・・・・。 (-_-;)
時々、この人自分の言ってることを本当に信じてるのかな?
と思ったりします。

551空き缶:2004/03/20(土) 23:44

北山の主張として「且つ本尊の義拙寺に宗祖真筆の本尊数多之有り、其中に万年救護の大本尊と申し御判の辺に本門寺に懸け万年の重宝たるべしと之有り候間、開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候、是則ち戒壇の本尊にて御座候、此外に戒壇の本尊大石寺に之有らんや」(富士宗学要集第9巻P153)というのがあります。

この万年救護本尊を差置き、板曼荼羅を戒壇本尊とするのには相当な理由付けが必要であったのだと思います。

552犀角独歩:2004/03/21(日) 10:51

「万年救護」の、この語彙が御筆漫荼羅(本尊集 No16)を指すようになるのは、かなり後代のことですね。少なくとも、蓮興二師はこの「大本尊」に万年救護の意義を持たせていません。なぜ万年救護本尊と呼称されるようになったのか、実は、上古の本門戒壇その他を考えるうえで重要な鍵になっているとわたしは思っています。

以下、冨要10巻から「万年救護」語の検索結果です。
一瞥すればわかるとおり、万年救護は元来、六老の、特化して興師の装飾語であり、その相承、あるいは学問を指していました。これを No16本尊に引き当てたのは誰か?
精師でしょうか。

やや細かいことを言えば『日蓮聖人年譜』に「万年救護本尊‘書写’して以て日興に授与」の‘書写’の二文字は気になります。蓮師が図示であって、本人がオリジナルを書くわけですからこれを書写とは言わないのに精師はこう記述するわけです。けれど、『家中抄』では「に万年救護の本尊之を図し」となっています。前者は単なる書き間違いか、それとも?と疑問が残ります。あと、隠師が「万年救護の御本尊に云く上行菩薩出現して之れを弘宣す云云、又仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提未曽有の大漫茶羅」というのは、これまた単なる思い込みかどうか。

いずれにしても「大本尊」がやがて万年救護に仕立て上げられていった経緯の仕掛け人は、精師か、あるいは他であったのか、歴史展開の重要な鍵となると思うわけです。

*** 以下検索結果 ***

日興遺誡置文
万年救護の為に二十六箇条を置く

法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)
万年救護の為に之を記し留むる者なり。

具騰本種正法実義本迹勝劣正伝(百六箇抄)
万年救護写瓶(しゃびょう)の弟子日興之を授与す云云。
一大事の秘密なり。然る間万年救護の為に之を記し留む。

五人所破抄
今日蓮聖人は万年救護の為に六人の上首を定む

百五十箇条
今日蓮聖人、万年救護の為に六人の上首を定む

穆作抄
日蓮聖人万年救護の為に六人の上首を定む

五人所破抄訳解
今日蓮聖人は万年救護のために六人の上首を定む

五人所破抄見聞
今日蓮聖人は者為に万年救護の定む六人の上首
日蓮聖人為に万年救護の定る六人の遺弟を中に日興一人付弟の上首

申状見聞私
日興学法は高祖にて御座す非平生の学問に三大秘法末法万年救護の血脈の御学問也
白蓮阿闍梨…高祖嫡々の御弟子、万年救護の写瓶たる

日蓮聖人年譜(日精)
万年救護本尊書写して以て日興に授与したまふ。

富士門家中見聞上(日精)
甲州波木井の郷に入り給ふ此年十二月に万年救護の本尊之を図し日興に給ふ
弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり

富士門家中見聞抄目録(家中見聞中)
万年救護の本尊並に日目授与の本尊

新田南条両家之事
付法は日興学法は高祖にてまします、平生の学問に非ず三大秘法末法万年救護の血脈の御学問なり

観心本尊抄首日相聞書
万年救護の御本尊の端書に云く、大覚世尊御入滅後二千二百廿余年を経歴す…

五人所破抄一覽(日穏)
万年救護の御本尊に云く上行菩薩出現して之れを弘宣す云云、又仏滅後二千二百二十余年之間一閻浮提未曽有の大漫茶羅也
今日蓮聖人者又為に万年救護の(三十五字省略)能聴是法者斯人亦復難と文。

富士大石寺明細誌
十一甲…同十一月蓮祖大漫茶羅を書して師に授与す万年救護の本尊と号す後目師に相伝

553犀角独歩:2004/03/21(日) 11:16

空き缶さん:
れんさん:

有り難うございました。
わたしは個人的には弥四郎国重は円師嫡男説に基づいてその名前が利用されたのに過ぎないのではないかと思っていて、この人物をいくら洗っても、板漫荼羅の謎には迫れないだろうと考えています。

『竜泉寺申状』の一節を、敢えて挙げましたが、石山アナウンスでは10月12日造立の彫刻の願主がその前に殺されているというのは、辻褄が合わないわけですね。
板漫荼羅の造立が完成する段階で弥四郎国重なる人物は生きていなければならない。けれど、いや、殺されたから、その人を顕彰して願主に据えたというのであれば、今度は10月12日の日付とは一体なんぞや?という疑問が生じることになります。

蓮師の誕生は唯一『御伝土代』の記述から2月16日と言われるわけですが、これは2月15日釈尊命日の次の日であるから取り沙汰されるわけですね。本当に、その日の誕生かどうかは実のところわかっていないわけですね。同じように「日蓮が影・今の大曼荼羅なり」なんて伝説が言われるぐらいですから、板漫荼羅の造立を蓮師命日の前の日に据えただけということもありだろうかと。それがあとから聖人御難事、熱原法難、御伝土代の記述なんかモンタージュされて、いま言われるような板漫荼羅本懐が言われるに至った、そんな可能性も視野に入れるべきではないのかと思っています。

愚鈍凡夫さん:

からい達師解説(笑)

達師は自分の漫荼羅の相貌を板漫荼羅に似せていました。特に愛染の異形、「經」字の止筆、よくその特徴を写していたわけですね。だから、まあ、信じていた…。いやもっと言えば信じたかったのだろうと思いますね。

554愚鈍凡夫:2004/03/21(日) 13:05

>>551:空き缶さん

> 開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候、是則ち戒壇の本尊にて御座候、此外に戒壇の本尊大石寺に之有らんや

「(重須)開山以来より万年救護の大本尊と申し第一の重宝に之有り候」
というところが、そこはかとなく奥ゆかしさを感じますね。
「宗祖図顕以来より」じゃないところが渋いですね。
「んなワケねえだろう」といったことを言い張らないだけ好感が持てるような気がします。

犀角独歩さん、
日達師の法主の座を離れた、"一探求者としての感想"(本音)を聞いてみたかったです。

555れん:2004/03/21(日) 18:57
空き缶さん。興師は佐渡国法華衆等本尊聖教等事にて阿佛房に所蔵する蓮師の曼陀羅聖教に就いて「安置阿佛房本堂之可為本門寺之重寳」と記しております。この例から拝察すると、蓮師曼陀羅中の興師加筆にある本門寺は、特定の寺院名を指すのではなく、迹門ノ寺(天台ノ寺)に対する本門ノ寺(日蓮門下寺院)を指すものと考えられます。ゆえに蓮師曼陀羅の中に興師が本門寺重寳と記したものも、広布の暁に建立される本門寺と理解するのは早計であり、北山本門寺の様に本門寺重寳等とあるから戒壇安置の曼陀羅と主張するのもやはり早計と存じます。m(__)m

556くらくら:2004/03/22(月) 07:01
>>わたしは個人的には弥四郎国重は円師嫡男説に基づいてその名前が
>>利用されたのに過ぎないのではないかと思っていて、この人物をい
>>くら洗っても、板漫荼羅の謎には迫れないだろうと考えています。

大石寺も創価学会も紆余曲折しながら日蓮大聖人己心の存在、つまり
架空の人物である。みたいな紹介かもしれません。

 この辺の前後のことは少々ですが「創価学会の悲劇」に掲載されて
います。お持ちでしたらご覧ください。お持ちでなければオークショ
ンに出てますから、お求めになるのも宜しいかもしれません。

557犀角独歩:2004/03/22(月) 09:51

> 「創価学会の悲劇」

玉井さんのですか。Xさんの情報を底ネタにした本ですね。
わたしは玉井さん、小野寺さん、美濃さんといった方々のネタは参考にしません。
出所はみな一緒ですから。また、そのネタ元も参考にしません。

558犀角独歩:2004/03/22(月) 10:26

愚鈍凡夫さん:

> 日達師…本音…

そうですね。
でも、わたしは愚鈍凡夫さんの達師観とはちょっと違うかも知れません。
達師もいろいろと考えはあったろうけれど、学会の大躍進で、ひととき広宣流布が本当にできると夢想した瞬間があった。そして、そのあとで池田さんに他の人々の面前で怒鳴りつけられプライドを傷つけられ、本心に帰った。まあ、本音で言えば「池田は嫌いだ」と言ったところだったんでしょうね。けれど日蓮本仏、板漫荼羅を疑うことはなかったんじゃないかと。

あの頃の石山には、なんとか学会から本山を護ろうという気概みたいなものがありました。達師もその一人ではあったろうと思います。
水島師が書いていた老僧の遺言「…なんでもいいから、お山を守るんだよ。…ご戒壇さまと、法主さまをな…。」(『久保川論文の妄説を破す』P107)という言葉は当時の共通した石山人の意識だったと思います。

それでも、達師は、なかなかの策士の面もあったと思います。
第一次学会問題で正信会を創り、学会擁護で大村師・攻撃に山口師と、それぞれと使命を与え、飴と鞭を使い分けていったわけです。本音として学会を切ってしまおうという気持ちはなかったけれど、「学会主・宗門従」とまでエスカレートした学会支配に抗っていたわけでしょうね。

達師の晩年は、そんな権威復権のために腐心することが大半を占めていくことになりますから、もうほとんど冷静な研究考証なんかできなかったんじゃないでしょうか。表面的に沈静し、池田さんを会長から降ろし、法華講総講頭もやめさせ、学会に教学上の過ちを認めさせた。そこで力尽きた、そんな死でした。

わたしは達師の死にひどくショックを受けた一人でした。そのあと、手にした達師全の最後、その絶筆が、重々しくようやくと染筆したと見える「仏恩」の二文字であったとき、滂沱にくれたものでした。当時、ここに達師の本心を見た思いがしたからです。

その一連の流れのなかで板漫荼羅が蓮興二師によらない後世の造立であることを知りながら、しかし、外面ではありきたりの日蓮本仏・板漫荼羅絶対を口先に載せ、まんまと泳いできたのがいたんでしょう。わたしは、この人間の本音だけは暴こうと思っています。まあ、これは達師の本音という点から外れますけれどもね。

559犀角独歩:2004/03/22(月) 14:04

『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』更新しました。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

ご高覧下さり、ご叱正を賜れれば幸甚です。

560通行人:2004/03/22(月) 20:01
戒壇のご本尊様は偽者。もう、ここでは当たり前のお決まりになってしまいましたね。時折、出てくる反論者も二の句なしだもんね。ほかのサイトを見ても思うけど、戒壇のご本尊様の批判に対して、冷静に資料を引いて反論するより、批判者をバカにしておしまいにするのばっかり。犀角独歩さんのまじめな交渉を読んで考えさせられました。少し目が覚めました。ありがとうございました。

561愚鈍凡夫:2004/03/22(月) 20:39

犀角独歩さん、レス有り難うございます。
石山にとって創価学会と深く関わったことが良かったのか、悪かったのか、功罪両面に亘る問題だけに、一概にどっちともいえないですね。
一部の高僧や大幹部のみが知り得た情報・資料がインターネットの発展によって明らかにされ、双方の闇の部分が公にされることは歓迎されるべきことだと思います。

日達師は宗創紛争の被害者であると思いますが、宗創紛争に巻き込まれた多くの被害者の気持ちを考えると、日達師を加害者側にシフトして考えてしまいます。

562犀角独歩:2004/03/22(月) 22:29

通行人さん:

はじめまして。ご高覧、有り難うございます。

たとえば、法門の申し始めは真跡『聖人御難事』にご本人が記されるところで疑う余地のないことと思えます。
蓮師の入滅は興師の『宗祖御遷化記録』という信頼の置ける現存資料で、ほぼ間違いないところであろうと思えます。この点は「本弟子六人」も同文献に載ります。
では、誕生はと言えば道師『御伝土代』に載るわけですが、この記述年月日はやや不詳のところがあります。そのことから本当に貞応元年2月16日であったかどうか、良識のある学者であれば確定を避けます。

以上のような次第で、所謂「本門戒壇之大御本尊」が弘安2年10月12日に図示彫刻された証拠は?と追うとまったく資料にあたることができないわけですね。こうなると、確定的に論じることは、実に無責任な態度であるとわたしは思うわけです。

まあ、板漫荼羅が学会を含む石山系集団のアナウンスどおりのものであれば、それにこしたことはありません。わたしも喜びます。信奉者は、ただ淡々と確実な資料を呈示すればよいだけのことです。

しかし、3年以上の議論で信奉者はその資料を呈示することはついにできなかったということです。いや、それはわたし自身の過去の姿でした。ですから、わたしは板漫荼羅の真たる信念を捨て、国立戒壇を蓮師遺命であるとすることも捨てるに至りました。それは証拠も示せずに、ただ沈黙して、自分の信仰スタンスを是とする態度は不誠実だ考えたからです。

さらに申し上げれば、ここで盛んに板漫荼羅が本物であり、国立戒壇は蓮師の遺命だとやっていた人々が、事実証拠を示せないまま、相変わらず、そのスタンスを変えないことを、わたしは敢えて卑怯であると申し上げることにします。

もちろん、これは通行人さんの潔さに敬服して申し上げるところであることは言うまでもありません。

563犀角独歩:2004/03/22(月) 22:33

561 愚鈍凡夫さん:

仰るところ、よくわかります。そのとおりだと思います。

一宗を統帥する者が、自分が勧める信仰本体の科学的、かつ文献的な精査もせず、800万人から供養を受け、国立戒壇、事壇論を右に左にした責任はやはり本人が負うところでしょうね。

564犀角独歩:2004/03/24(水) 17:31

ネットを検索していたら、達師の言として『大日蓮』昭和48年2月号の記載として

「宗祖大聖人様が身延において本門戒壇の事の御本尊として、弘安二年十月十二日御書写遊ばされた御本尊様でございます」

とあったのに驚きました。一宗の統帥をするものが蓮師が漫荼羅を書き写したというわけです。いったい、何から書き写したんでしょうか?

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/1239/geika_nitatsu.htm

565愚鈍凡夫:2004/03/24(水) 21:26

犀角独歩さん、いやはや切なくなるような日達師の御指南でした。 (..;)

日達師の、

> 宗祖大聖人様が身延において本門戒壇の事の御本尊として、弘安二年十月十二日御書写遊ばされた御本尊様でございます。

との言葉は、取り方によってはオリジナルが他に存在して、「戒壇之本尊」はその模刻であると暗に示唆しているようにも思えますね。

566顕正居士:2004/03/27(土) 07:38
書写

という熟語は今は「書き移す」意味にも使いますが、もとは「手で書く」意味です。
妙法曼荼羅について「書写」という場合は「図顕」の意味で、訓は「かきあらわす」
になるでしょう。文字だけを書き移すのは「筆写」、書体も真似るのは「模写」と
いい、原本を見ながらなら「臨写」といいます。

故日達師のいうのは「図顕」の意味でしょう。大石寺の寺宝「戒壇本尊」には紙幅
の原本はなく、日蓮が直接に板にしたため、日法などが彫刻したというのが平均的
な伝説かとおもいます。

567犀角独歩:2004/03/27(土) 08:22

566 顕正居士さんのお言葉ではありますが、

しょしゃ 【書写】
(名)スル
(1)書き写すこと。
「経文を―する」
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

であって、「写す」ことが書き表すことになるという点は頷けません。
また、興門では重須壇所以来、日蓮漫荼羅を興師以下が「書写」と言い、石山では、歴代住職が漫荼羅を図すとき「書写」の二文字を入れてきたわけです。もちろん、蓮師漫荼羅上にこの二文字はありません。ですから、御筆漫荼羅以外の用語であるわけでしょう。

石山のアナウンスが板漫荼羅には直接書いたというのはそのとおりでしょう。

568顕正居士:2004/03/27(土) 10:29
独歩さん。

書写という熟語の書は かく write 、写は 手でかく write by hand の意味であります。
ただし法華経に五種の修行というのがあって経文を筆写することを書写と訳しております
ので、早くから写経の意味にも使われました。けれども妙法曼荼羅の場合には大石寺派を
含めて図顕の意味でいっているとおもいます。なぜなら書写が原本の文字だけを写した、
すなわち筆写の意味なら書体は真似なくても諸尊やその位置、年月日や讃文が原本と同じ
はずですね、そうではなくて後世の諸師は図顕の意味で書写といっております。
妙法曼荼羅は日蓮の魂であるから、諸師の図顕はその筆写に過ぎないという意味はあり
得ますが、特定の曼荼羅を筆写しているわけではありません。だから故日達師が書写という
のは日蓮が板に自筆した write by hand の意味でしょう。自刻なら「造立」などという
はずですから。ちなみに題経寺の板曼荼羅は日蓮自刻の伝説です。

569犀角独歩:2004/03/27(土) 10:47

顕正居士さん:

仰ることはそのとおりで異論はないのです。
ただ、日蓮漫荼羅を「奉書写之」する場合、石山のアナウンスでは、「之」は板漫荼羅であるというわけです。ですから、そのオリジナルとオリジナルを書いたことを書写と言ってはまずいだろうというのがわたしが言いたかったことです。
図顕、図示などというべきところを「書写」と言ってしまい、さらに『大日蓮』編集室がその瑕疵に気付かず、文書化した過ちを言っているのです。

つまり、これはわたしがこの編集室の仕事をしていた行きがかりからも記したことです。
もっとも達師は書写を英語から考えてはいなかったでしょう(笑)

570れん:2004/03/27(土) 11:33
参考までに。石山四世日道師は日興上人御伝草案にて、図にウツ(す)とルビを付しています。蓮師は文字通り図顕ですが、興師以下は弟子の立場からウツすと訓じたのでしょう。ちなみに上代石山貫首の曼陀羅では、興師と道師は書写之を記していますが、目師・行師・時師・有師は書写之を記しておりません(私が見た曼陀羅にかぎりますが)。m(__)m

571れん:2004/03/27(土) 18:30
順師の摧邪立正抄に「法華者諸経中第一富士者諸山中第一也故日興上人独卜彼山居対治爾前迹門謗法欲建本門戒壇奉安置本門之大曼陀羅當唱南無妙法蓮華経公家武家捧奏聞道俗男女令教訓」等云々とありますから、興師の考えとしては、戒壇には本門之大曼陀羅を安置するというものであったろうと存じます。ただ蓮師も興師も戒壇安置の曼陀羅を敢えて書き残さなかったことを考慮すると、戒壇安置の曼陀羅は戒壇建立時の時の貫首の書写曼陀羅で良いのではないかというのが今の私の考えです。m(__)m

572空き缶:2004/03/27(土) 19:07

雑談ですが、顕本法華宗の日運師は「○○○○年○○月日書写」と、自ら本尊を「書写」したことを紙上に書きしるしています。
 主題の下は「日蓮在御判」です。
 さらに顕本法華宗開祖の日什師の曼荼羅は、讃文が「如来滅度後」ではじまっており、他門ながら日興上人の御本尊書写を継承しているようです。

573犀角独歩:2004/03/27(土) 23:05

れんさん:

> 目師・行師・時師・有師は書写之を記しておりません

これは非常に興味深いご呈示です。
この理由をれんさんはどのようにお考えになりますか。

574れん:2004/03/28(日) 17:35
犀角独歩さん。石山歴代の目師・行師・時師・影師・有師ばかりでなく、郷師・妙師も「書写之」を曼陀羅に記しておりませんね。興師も初期の正応三年十月八日書写の二幅、晩年の元徳二年閏六月朔日書写の一幅には「書写之」を記していない例があります。目師・行師・時師・影師・有師並びに郷師・妙師の曼陀羅の相貌はいずれも書写之と記されずとも、基本的に興師の書写曼陀羅を忠実に書写し、図顕形態ではなくあくまで書写形態を採用しておりますから、これらの諸師は単に慣例的に「書写之」の記入を省略しただけのことと思います。m(__)m

575犀角独歩:2004/03/29(月) 10:26

れんさん、いつもご丁寧なご教示、有り難うございます。
ところで、書写漫荼羅は何の資料をご参考になっていらっしゃるんでしょうか。この点もご教示いただけませんでしょうか。

576れん:2004/03/29(月) 18:19
犀角独歩さん。お尋ねの書写曼陀羅の私の参考資料は、興風談所刊行の「日興上人御本尊集」と日目上人奉賛会発行の「御本尊集 奉蔵於奥法寳」(覆刻版)です。なお、覆刻版奉蔵於奥法寳には付録日興門下御本尊集があり、目師書写曼陀羅二幅、郷師書写曼陀羅一幅、華師書写曼陀羅一幅(但し偽作の可能性が高い)、妙師書写曼陀羅一幅、代師書写曼陀羅三幅、満師書写曼陀羅一幅の御筆写真を収録しております。これらはいずれも東陽堂書店で購入しました。m(__)m

577犀角独歩:2004/03/29(月) 18:28

れんさん、重ねがさねのご教示に深く感謝申し上げるものでございます。
有り難うございました。

578れん:2004/03/29(月) 18:31
書き忘れていましたが、はちす文庫発行の「石山本尊の研究」は興目両師と寛師以降の石山歴代の書写曼陀羅・そして板曼陀羅の写真とその翻刻を収載しており、これも参考資料でした。m(__)m

579犀角独歩:2004/03/30(火) 18:15

れんさん、有り難うございます。本日、知人から(と言っても、こちらにも投稿するいわば常連さんですが)『石山本尊の研究』を借りました。

このなかで「現在は西山本門寺の僧侶を自称する者等が拙書の発刊に絡み、版下原稿を彼等の小冊子に盗用した」という物騒な『自序』から始まっているところにまず目が留まりました。「ああ、あの人か」と思い当たりましたが、名前は書かないことにします。

わたしもいま自分なりの板漫荼羅真偽の結論を他に盗用されそうになりいささか不快な思いを成して、発表まで記さずに置こうと思っていましたが、結論を先の小稿にわずかに記しました。いずこにもこの手の人物はいる者で、それが一般人、文筆の素人ならばまだしも、れっきとした学者、僧侶でもこのようなことを為して恥じ入ることを知らない様に、憤慨を覚えるものです。

580犀角独歩:2004/03/30(火) 18:58

わたしは極端な原典主義で、殊に解説書から原典に戻るという思考方向を極端に嫌ってきました。ですから、板漫荼羅真偽の考証も資料は見るものの、近代のいわゆる批判書の類は参考にすることもなくやってきました。図書館その他でざっと見て、「おお、こんなことを言っているのか」程度です。もとより資料から自力で考える主義です。

それでも、書きたいことをようやくと脱稿したので、本日、『板本尊偽作の研究』(再版)を手に取ってみました。なかなか味わいがありました。

第8章『稲田素海老師の説』と紹介し、
「板本尊は四つの部分に分けて考察すればよい。十界座配の部、日蓮花押の部、仏滅後二千二百余年と云う韻文の部、為現当二世造立如件云云の制作縁起この四つの部分に分けて考えればよい。
 第一の十界座配は勿論、原本は御真筆、第二の日蓮花押も原本は真筆であるが、第一の十界原本とは違う。他の日蓮曼荼羅の日蓮花押を模写したものだ。即ち、十界座配の原本と日蓮花押とは模写した曼荼羅が異なるのだ。宗祖の御真筆の二つの曼荼羅から、別々に写し取った二枚の紙を、板本尊の上に、つなぎ合わせたのだ。そして第三の仏滅後二千二百余年と云う韻文と、第四の為現当二世造立如件云云の制作縁起は、宗祖の御正筆ではなく、後人の他筆である」(P38)
とあり、おお、こんなことは既に言われていたのかと楽しくなりました。
こんな造りの板漫荼羅を編著者・木下師は香具師の「よせもの」と言っているのは「うまい表現だな」と感心しました。

ところで老師の四つの分類の「十界座配」には中央題目は入るのだろうか、と、やや判読の困難を感じました。

木下師は老師の説を受けて、原本真筆を、十回座配を弘安2年11月増師授与漫荼羅・日蓮花押を所謂紫宸殿漫荼羅のものと勘ぐっています。しかし、これは少なくても後者は違います。

あと木下師が弘安2年2月、小泉久遠寺控(うつろ)字漫荼羅に着目していました。
この写真をまったく見たことがないのです。板漫荼羅の題目は弘安2年の「經」の字体と一致しないのは言うまでもないので、なぜ、この年代に師が注目するのかわたしは訝しく思います。

どなたか、ご覧になった方はありますか。

581犀角独歩:2004/03/30(火) 19:09

579 自己レスです。

先ほど、投稿したところ、とある方から、「西山本門寺の僧侶…盗用と言われる当人は、むしろ、柳沢師こそ盗用だ」と言っているとのご指摘をさっそくメールで受けました。

こんな双方の言い合いがあるとは知らず、やや軽はずみな紹介をしたことになります。弁明とも、真実を記せるわけでもないのですが、ひとこと補足させていただきました。

582れん:2004/03/30(火) 21:29
犀角独歩さん、返レス有難うございます。独歩さんが出版されるご本の原稿がようやく脱稿のはこびとなったとのこと、先ずはお目出度うございます。原典第一主義を貫かれる独歩さんの姿勢は大変尊く思います。一宗教団体の信仰対象を否定する以上、単なる主観的な信仰告白では全く意味が有りません。独歩さんのご研究の如く原典第一主義に立脚し科学的・学問的批判に耐え得る論考であってこそ、万人が納得できるものになると思います。これまでの独歩さんの御努力に敬意を表させて戴くとともに、これからもご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。

583れん:2004/03/30(火) 21:53
木下師の「板本尊偽作の研究」は未だ拝読の期を得ておりませんが、上記書籍に記された稲田師の御見解は、実際に現物を見た上でのものだけに説得力があります。十界座配が石蔵弘安二年十一月日俗日増(日興門流上代事典によると当曼陀羅には興師筆で□□九郎次郎時□日興の加筆が存する由であり、当曼陀羅は興師異父弟の綱島九郎次郎時綱氏に授与された可能性がある)授与曼陀羅からのものという説は有り得ると思います。控字の曼陀羅は御本尊集に収録されてないので真偽の問題があると思いますが、将来写真が公開されれば考証の参考になると思います。

584犀角独歩:2004/03/31(水) 09:32

該博な知識をお持ちのれんさんに過分なお言葉を頂戴し、恐縮しております。
わたしのほうこそ、多くのご叱正を賜り、今後ともご教導の程、お願い申し上げるものでございます。

585犀角独歩:2004/03/31(水) 10:15

また、れんさんには俗日増授与漫荼羅につき、ご教示いただき有り難うございました。

稲田師の言は

「近代の学僧、稲田海素老師は宗の内外を問はず古文書鑑定の最高権威であるが、編者が板本尊に関しておききしたのは左の如くである。
 老師云く『板本尊は、宗祖の御真筆を模写して板にはり彫刻したものである。模刻の原本は、私が大石寺へお参りした時、客殿の高い所に掛けてあった。私はそれを一目見た時、これだと直感した。板本尊の原本は確に、御真筆である」(P38)

という当スレッド277にれんさんが紹介されたとおりです。この言葉を承けて『板本尊偽作の研究』(再版)で、木下師が板漫荼羅原本の可能性として挙げるのは以下のとおりです。

一、弘安二年乙卯十一月日
  俗日増に之を授与す
  日興加筆、本門寺の重宝たるべきなり(P40)

と書いています。冨要の記述と一致していました。これはれんさんが583にご教示くださった漫荼羅と同一のものでしょうか。
この漫荼羅につき、先の稲田師の言から木下師は類推し、

「稲田老師が、大石寺え調査に行った明治初年に弘安二年の日増授与の漫荼羅が、当時、客殿の高い所に掛けられていたか、否か…日蓮花押の模写の原本は、云うまでもなくサイズの大きな紫宸殿本尊だと、編者は思う」(P41)

と書いていますが、木下師は大きな勘違いをしているのではないのかとわたしは思えます。

ここで客殿に懸かっていた漫荼羅を日増授与漫荼羅を類推しているようですが、稲田師が客殿に懸かっていたと云った漫荼羅はむしろ「紫宸殿本尊」のほうが可能性は高いでしょう。けれど、さらに付言すれば、板漫荼羅の日蓮花押とはその形が異なっている点で、稲田師の説は外れているとわたしは記すことにします。

それでも、稲田師の板漫荼羅四パーツ説は実に示唆的です。ただし稲田師は四大天玉と不動・愛染に注視されなかった点が惜しまれます。

586犀角独歩:2004/03/31(水) 10:28

【585の訂正】

誤)板漫荼羅の日蓮花押とはその形が異なっている点で、稲田師の説は外れているとわたしは記すことにします。
正)板漫荼羅の日蓮花押とはその形が異なっている点で、木下師の説は外れているとわたしは記すことにします。

587犀角独歩:2004/03/31(水) 12:16

板漫荼羅からはやや距離がありますが、『御伝土代』に記される弘安2年漫荼羅の記述

「大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ」

という一節が熱原法難の段に記されています。この記述は石山では蓮師と興師が共同で漫荼羅を図顕したと解釈し、それが宗内で‘定説’となってきました。しかし、わたしはこの文の主語が「上人」号にあることから「日蓮大聖人はお感じになることがあって、『日興上人』と御本尊にお記し遊ばされるのみならず、日興の弟子・日秀日弁の2人も上人と号し給われた」と一貫して主張してきました。

もし、共同で漫荼羅を図顕した記事ならば「日興上人と御本尊‘に’遊ばす」とならず、「日興上人と御本尊‘を’遊ばす」と書かれるはずだからです。しかし、古語のこと、ここら辺の てにをは は文法どおりとはならないことから未決着のままとなっていました。まあ、しかし、それでもわたしは『御伝土代』にいう弘安2年10月「御本尊」には「日興上人」の四文字があり、そして、「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」という一節が後文に見られることから、板漫荼羅の如く二千二百二十余年ではなく「二千二百三十余年」と記されているだろうと論を展開してきたわけです。しかし、当掲示板では未決着のままとなってきたわけです。

前置きが長くなりましたが、ここのところ紹介している『板本尊偽作の研究』(再版)に、わたしと同様の考えが記されてあり、やや嬉しくなりました。

「日道上人の原文の意味は、日蓮上人が御本尊をお書きになり、脇書に「授与日興上人」と御書きになったと云う意味である。だから、日興身に宛て給はると云うので、細井精道の云うように「日興上人と共に御本尊を建立し給い」と云うなら、日蓮上人と日興上人が共同制作したと云うのだから…身に宛と給はった御本尊でなくなるのである」(P11)

と『日興跡条々事』の記述とも矛盾することを指摘しながら、記されています。…莞爾
まあ、原点をあさって自説を持ったあとで多説を読むとなかなか面白いと改めて実感しました。

588犀角独歩:2004/03/31(水) 12:47

―587からつづく―

先の588の終わりの箇所「原点」は「原典」でした。訂正します。

当スレッドでわたしの質問に458でれんさんお答えにいただいたことなのですが、『家中抄』の「、「弥四郎国重事日道を大石寺に移す」のことを木下師は記しています。
わたしはれんさんのご教示を聞いてなるほどと思ったのです。しかし、木下師は安永師の如く従来の読みに馴染んでいます。その過ちは置きます。その点ではなく、精道師(のちの達師)が安永師を詰った言が実は霑師を批判した形になったうえ、さらに霑師の説を嗤った点です。

「細井精道…(安永師は)「頭の程度が知れる」「いやはや開いた口が塞がらない」のだそうである。…ところが弥四郎国重が日道を大石寺へ移したと読んでる人が近代の大石寺の日霑である。大石寺の日霑は『惟うに無二の大信者たるを以て興尊延山御離散の砌(みぎ)り、法の為、妻子を捨て随逐供養して爰(ここ)に来り興目の世を終え猶日道を扶翼せし者なるか」(冨要集7巻114)
 日霑の説は、弘安2年に身延山で板本尊を造くり、日興身延離山にお供して、大石寺、北山、約40年たってから、日目の滅後、日道のパトロンとなって、大石寺の住職とさせたと云うのである。これはすこぶる面白い。
 弘安2年に板本尊を造った時弥四郎おぢさん、まさか20才や30才の青年ではあるまい。本門戒壇の願主だから40才、50才と思はれる。弘安2年に日興は34才(?)位だからそれから50年以上たった日道の時代には、日興が88才で入滅していることを思うと、100才以上のはずである。
 大石寺の日霑の学説のインチキなること、かくのごとし。(要するに弥四郎はわからないのだ)(P13)

と記しています。柔らかい記述ですが、なかなかツボを突いた批判になっていました。

因みに冨要の該当部は前文からは以下のとおりです。

「弥四郎国重の事跡判然たらざるのみ、然れども家中抄に弥四郎国重事・日道を大石寺に住せしむるの語あるは是れ必ず精師攷る所有つて記せられし者ならむ、惟ふに無二の大信者たるを以つて興尊延山御離散の砌り法の為め一門を離れ妻子を捨て随逐供奉して爰に来り興目の世を終へ猶日道を扶翼せし者なるか」

文中「大信者」は弥四郎国重を指すものでしょう。

589愚鈍凡夫:2004/03/31(水) 12:54

横レス失礼します。
以前よりズ〜〜ッと疑問に思っていたことですが、蓮祖は漫荼羅讃文の「二千二百余年」「二千二百二十余年」「二千二百三十余年」を区別する根拠を何処にお持ちになり、そして、漫荼羅に記したのでしょうか。
ご教示願えれば幸いです。 m(__)m

590犀角独歩:2004/03/31(水) 17:30

仏滅年代。どなたか言い出すであろうと思っていたら、やはり愚鈍凡夫さんでしたか。
漫荼羅讃文の話なので、真跡からの検索はやや補助資料になりますが、ざっと調べたところ以下のような変遷でした。謎ですね。

正元元年(1259)_________38歳「二千二百余年」守護国家論
文永9年(1272)__________51歳「二千二百余年」祈祷抄
文永10年(1273)4月26日__52歳「二千二百二十余年」観心本尊抄副状
文永10年(1273)閏5月11日52歳「二千二百二十余年」顕仏未来記
文永10年7月6日_________52歳「二千二百二十余年」富木殿御返事
文永12年(1275)3月10日__54歳「二千二百二十余年」曽谷入道殿許御書
建治元年(1275)4月______54歳「二千二百二十余年」法蓮抄
建治元年(1275)6月10日__54歳「二千二百三十余年」撰時抄
建治2年(1275)5月11日___55歳「二千二百余年」宝軽法重事
建治2年(1275)7月21日___55歳「二千二百二十五年」報恩抄
建治2年(1275)__________55歳「二千二百二十余年」種々御振舞御書
建治3年(1277)___5月15日56歳「二千二百二十余年上野殿御返事
弘安元年(1278)7月28日__57歳「二千二百三十余年」千日尼御前御返事
弘安元年(1278)11月1日__57歳「二千二百二十余年」九郎太郎殿御返事
弘安2年(1279)9月15日___58歳「二千二百三十余年」四条金吾殿御返事
弘安2年(1279)10月1日___58歳「二千二百三十余年」聖人御難事
弘安2年(1279)10月中旬__58歳「二千二百二十余年」滝泉寺申状
弘安3年(1280)12月初旬__59歳「二千二百余年」大夫志殿御返事
弘安5年(1282)1月7日____61歳「二千二百三十余年」八日講御書

591みかん:2004/03/31(水) 17:53
ご存じのように、日本では入末法は永承七年(1052)とされていますから。
それと勘案すると、だいたい妥当ですが、若干前後しているのが気になりますね。

592愚鈍凡夫:2004/03/31(水) 19:42

犀角独歩さん、みかんさん、レス有り難うございます。
蓮祖漫荼羅で極端な例を調べてみました。益々謎です・・・・・・。 (-"-;A ...アセアセ

№023
図顕:1275(文永12)年4月
讃文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未有大曼陀羅也」

№027
図顕:1275(建治1)年11月
讃文:「仏滅後二千二百二十余年間一閻浮提之内未有大漫荼羅也」

№045
図顕:1277(建治3)年10月
讃文:「仏滅後二千二百余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№048
図顕:1278(弘安1)年4月21日
讃文:「仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№067
図顕:1279(弘安2)年10月
讃文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№071
図顕:1280(弘安3)年2月1日
讃文:「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

№075
図顕:1280(弘安3)年2月
讃文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大[漫]荼羅也」

№097
図顕:1280(弘安3)年8月
讃文:「仏滅度後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」

593犀角独歩:2004/04/01(木) 11:24

どなたがまとめられたものであるかわからないのですが、山中喜八師『御本尊集目録』を元にしたと思われる一覧表がアップされていました。
無名のお一人おひとりのご尽力が積み重ねられていくネットデータは未来に向かって虚空蔵となっていくのでしょうね。

http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/mandala.xls

594犀角独歩:2004/04/01(木) 11:52

上記ページを閲覧して、今更ながら気付いたのですが、91号漫荼羅は「盲目乗蓮授与之」と添え書きがなされているのですが、目が不自由であった方に漫荼羅を授与されることは、蓮師が単に文字読みという範囲を超えて漫荼羅を授与された事実を物語るもので、その温情と共に新鮮な感激がありました。

なお、授与者「乗蓮」について、『御本尊集目録』を開くと備考が付されてあります。

「(1)稲田海素師は、左の日蓮聖人の「雑録」断片(「宗学全書興尊全集」144頁)に拠って、『盲目乗蓮』を然阿良忠の弟子行敏に擬している。
行敏トハ者乗蓮也、乗蓮ハ者念アミダが弟子也。忍性トハ者極楽寺良観房也。文永八年太才辛未良観房訴状、雑掌行敏也。
 また、「当家宗旨名目」(下巻11丁)は、
 了性トハ河田谷ノ真尊上人ノ事也、思念トハ念阿弥ノ事也。(乃至)乗蓮房。念阿弥トモ行敏トモ云也。
 と伝えている」(P130)

…やや今の流から脱線しました。
 愚鈍凡夫さんの疑義にお戻りください。

595れん:2004/04/01(木) 13:32
みかんさんのご教示の通り、日本の古代中世の当時の知識階級の理解としては永承七年が末法元年ですから、蓮師も当時の通説に依憑された結果、曼陀羅並びに著作に記される仏滅年代を採用されたのでしょうね。ただ蓮師が曼陀羅の図顕讃文で「三十余年」に統一されたのば弘安三年八月以降で、それ以前は二十余年・三十余年を併用されていますが、これはどのような意図に基づくものか今となっては真意は分かりませんね。歴史上実在した釈尊の死去の年代は、十九世紀にネパールの遺跡で発見された釈尊の遺骨?を科学的に分析すれば分かると思います。m(__)m

596れん:2004/04/01(木) 13:38
犀角独歩さん。たしか興師書写の曼陀羅の授与者の中にも、目の見えない方が居たと記憶しています。どの資料か失念しましたが、蓮師・興師の側に盲目の方が沢山居たという記録もありました。m(__)m

597犀角独歩:2004/04/01(木) 18:41

れんさん、いつもながら貴重なご教示有り難うございます。
わたしは漫荼羅は字を読める人間の用途と決めつけていた所があったのですが、この点を少し改めました。守護本尊としての側面、祈祷面からすれば、身に帯する用途があったことを再認識したものです。

598れん:2004/04/01(木) 21:11
興師書写曼陀羅被授者で、盲目の方に授与されたのは以下の二名です。
嘉元三年卯月八日、甲斐国住人明石房授与之。(北山本門寺蔵)
正和三年二月十三日、盲者亀石房。(佐渡世尊寺蔵)
なお後世の資料でしたが、左京阿闍梨日教師の「五段荒量」には蓮師の頃にも「盲人あまた召し置かれ云々」とありました。右ご参考までm(__)m

599愚鈍凡夫:2004/04/01(木) 22:10

犀角独歩さんが>>593:で紹介されている漫荼羅目録の説明が下記のHPにあります。
ご参考までに。

要伝寺HP_本尊目録
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents42.html

600犀角独歩:2004/04/02(金) 00:25

れんさん、有り難うございます。
目の不自由な方には『開目抄』の例の一節は、現代では不適切表現に当たるとわたしは神経をぴりぴりさせています。けれど、上代から中世などでは「開目」という題名が目の不自由な方々にとって信仰の動機になり、それが史実にも確認できることなのだろうかと、やや想像を逞しくしました。

愚鈍凡夫さん、有り難うございます。
こちらのものだったのですか。感心しきりです。

601犀角独歩:2004/04/02(金) 00:49

昨日、三学無縁さんにお会いしたのですが、ここで遠霑講寺完則師の話題となりました。この僧について、わたしは不案内であったところ、以下のようなご教示をいただきました。ご本人の許可を得て、紹介させていただきます。

*** 転載はじめ ***

2004/04/01 独歩さん:

沙門完則についてですが、生年・没年・俗姓・出生地・寺歴等、残念ながら全くわかりません。ただ、私のノートには「日真弟子」と書いてありました。
この日真とは、石山34世で登座前は「完考日賢」と名のっていました。
日真は細草檀林50世、学頭17代、明和2年(1765年)に52歳で没。

日真の兄弟子には石山40世日任(完嶽=細草69世)、石山42世日厳(完礼=細草71世)、その他に完元坊日玉、完慈坊日ぎ[月*義]、完賢坊日儀他、数名の「完」の字がつく者がいます。

つまり、完則とは細草檀林にいた石山僧ということになるでしょう。

しかも石山の重宝目録を書くことができる立場にあった人物ですから、平僧とは考えられません。

しかし、一点不思議なのは、目録に「日興跡条々事」がないことです。
切紙相伝の類まで記しているのに、どうして、条々事の名目がないのでしょうか?

目録じたいの信頼性は高いと思われますが、それに無いということは、この目録作成時には条々事は石山に無かった、という事になりませんか?
それが、又、いつの間にか出て来た。不思議です。
いろいろなモノが、出たり、消えたり。まるでマジックのようですね。

*** 転載おわり ***

昨日、三学無縁さんから窪田哲城師著『日蓮聖人の本懐』をお借りし、その中に掲載されている遠霑講寺完則師著『大石寺宝蔵目録』に話が及び、その応答の続きが上記転載です。

このほか、この目録の記載は疑問を投げかけるところが多く、この点はまた、板漫荼羅とも関連しますので、当スレッドに投稿させていただこうと思っております。

どなたか完則の情報をお持ちの方はご教示いただければ有り難く存じます。

602地名:2004/04/02(金) 04:10

独歩様

初めてで失礼します。

>一点不思議なのは、目録に「日興跡条々事」がない…。
>切紙相伝の類まで記しているのに、どうして、条々事の名目がないのか?
>目録の信頼性は高いと思われるが、それに無いということは、目録作成時には条々事は石山に無かった、という事か

このくだりはかなり重要ですね。完則師と言うのですか。この方の記述の信憑性の問題もややあるかと思いますが、しかし、江戸時代の文献にこのような目録があることは注目されます。

603犀角独歩:2004/04/02(金) 10:21

地名さん:

はじめまして。当サイトではお互い「さん」付けでいこうとコンセンサスが取られた経緯があります。わたしもそのようにしますから、お気軽にそのようにお願いします。

> 完則師…記述の信憑性の問題
> 江戸時代…目録

江戸時代になぜこんな目録があるのかといえば、これはたぶん寺社奉行などにその届け出が義務づけられていたからというのが三学無縁さん類推です。その他にも量師の『富士大石寺明細師』が伝わりますが、これも同様の理由から記述提出されたものではないかと想像しています。

「完則」という名は、細草檀林、つまり、天台学の学寮での名であって、もしかしたら、石山では別の法・道号を名のっていたのかも知れません。たとえば、寛師がに覚真日如という異名がある如くです。完則師が何らかの理由で石山の学僧が多く学んでいた細草檀林に重宝目録出す必要が生じ、それを記して提出した。それが現在に至るまで残ったという流れであろうかと思います。

言うまでもなく細草檀林は寛師が26代を務め、また、三学無縁さんも指摘されるとおり、その他の石山歴代も歴任しているわけです。そこに提出された目録ですから、その内容は着目に値します。たしかに完則師は不明の人物ですが、その目録の作成に当たり、自分の名前で提出した事実から類推して、当時の石山・細草両所において、それなりの地位を持っていたのではないでしょうか。その意味から、人物、記述について信憑性が高いと判断できるというのが三学無縁さんとわたしの共通する認識です。ですから、この目録は当時の多くの‘事実’を語っているわたしには思えます。

何点か着目する点を上げます。

「御木像 御長二寸二分作初御影ト云」

因師は『有師物語聴聞佳跡上』のなかで「一体三寸の御影」と言うわけですから、八分も高さが違っています。三学無縁さんに「おかしい」と語ると「歯に付いたお肉だって成長するんだから御影も育ったんじゃないの」と冗談を言っていました。冗談はともかく、時系列で言えば完則師のほうがあとですから、そうなると縮んだことになります。大きくなったり小さくなったりするわけはありませんが、なぜここまで記述が異なるのか疑問が残ります。

「諫暁八幡抄 前文不足/板本五丁」

同抄は真跡を蔵しているはずなのに、ここでは「板本」となっています。版木から刷ったものを言いますからこの点、疑問が残ります。

また、その他平成新編で「真跡所在:大石寺」歴代「古写本」で記されるものが記載されていません。(以下、消息文は詳細がわかりませんので割愛しています)

【真跡】三三蔵祈雨事、食物三徳御書、閻浮提中御書、五大のもとへ御書、初穂御書、諫暁八幡抄、一定調伏御書、莚三枚御書、十宗判明の事、五眼御書、
【興師】唱法華題目抄、観心本尊抄、始聞仏乗義、本尊問答抄、
【目師】一大聖教大意、法華題目抄、
【時師】薬王品得意抄、治病大小権実違目、三大秘法稟承事
【俊師】百六箇抄、

*石山重書である三時弘次第、日興遺誡置文、日興跡条々事、御伝土代(道師)、御義口伝も記載なし。

やや見落としもあるかも知れませんし、あとから見つかったと石山が発表したものもあるので、断定的には言えませんが、個人的には『諫暁八幡抄』の真跡が記載されていないこと、興師写本『唱法華題目抄』『本尊問答抄』といった題目本尊の基礎的資料を欠いていること、俊師写本『百六箇抄』が載っていないことには少なからず驚かされました。

なお、切紙相伝に別項を設けて記載されていることから、このようなことが細草檀林に報告されていた事実と共に、こお閲覧を許された完則師の地位が想像されました。

そして、何より目を見張るのは『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図です。
これをサイトにアップしたいところですが、スキャナーの調子が悪くできません。
この図を一瞥して思わず唸ったのは、釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いていることでした。また、鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されていることにも驚かされます。

讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれています。また腰書は「右為現当二世…」と記されいます。

讃文の「仏滅‘度’後」、腰書の「‘右’為現当二世」の二文字にもわたしは着目しました。

604犀角独歩:2004/04/02(金) 10:28

愚鈍凡夫さん:

ちょっと以前の話になりますが、363に

> 今の「戒壇之本尊」は、いったい何代目なんでしょうね・・・・・。

と記されておられました。
実に意味深なご発言ですが、何か根拠とされるところが合ってのことだったのでしょうか。ご教示いただけませんでしょうか。

605犀角独歩:2004/04/02(金) 13:00

三学無縁さん:
地名さん:

> (完則師)目録に「日興跡条々事」がない

この点、わたしも実に合点が行きません。
条々事は富要所載で見る限り、精師は『家中抄』で、寛師は『六巻抄』で引用しています。つまり、この時点で名目は見られるわけです。それにも拘わらず、これを完則師は載せないわけです。しかし、量師『明細誌』にはこれを載せますしから少なくても精師の時点であったのではないのかと思えます。けれど精師・寛師の引用はかなり信頼性は低いと思えます。

なぜこの時点で出てくるのか。わたしが注目するのは広蔵辰師『祖師伝』に『条々事』が記述されている点です。辰師は「右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ」といい北山所蔵によったことがわかります。しかし、ここでは案文というわけですが、これは正本か否か、またなぜ北山にあるのか疑問が残ります。どうもわたしは辰師が北山で正本から書写したというものは胡散臭さがついてまわります。

いずれにしても、時代的には精師より遡れず、その出所は要山。細草檀林提出目録からはこれを省く。この謎解きはできないでおります。

606犀角独歩:2004/04/02(金) 13:13

【605の訂正】

文章を読み違えて記してしまいました。
以下、大幅に訂正します。

誤)辰師は「右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ」といい北山所蔵によったことがわかります。しかし、ここでは案文というわけですが、これは正本か否か、またなぜ北山にあるのか疑問が残ります。どうもわたしは辰師が北山で正本から書写したというものは胡散臭さがついてまわります。

正)辰師は「右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ」と石山の使い僧の示すところを写したと言います。ここで案文というわけですが、これは正本か否か、またなぜ北山までで使僧が来ていたのか疑問が残ります。そもそも辰師は院師に石山訪問を拒まれたのに使僧は是というのは奇妙に思えます。どうもわたしは辰師が北山で正本から書写したものには胡散臭さを感じるわけです。

607愚鈍凡夫:2004/04/02(金) 19:36

>>604:犀角独歩さんへ。

確たる証拠があるわけではないのですが、
百歩譲って、蓮祖による「戒壇之本尊」が存在するとの前提で、今の石山のものが初代ではないと考える理由は、

①七面山の池に何故、自生していないはずの楠の丸太が浮かんでいたのか。丸太であるから400㎏を超えるであろうものを、誰が温暖な地より運んできて、池に捨てたというのだろうか。
②木の癖が完全にでて、木の状態が安定するまでは加工できない。まして、水をたっぷり吸ったであろう楠に、直に漫荼羅図顕し(「戒壇之本尊」が楠製だとして)、それを彫らせるとは考えられない。
③当時、漆の技術のない身延で、誰が漆を塗ったのか。また、完全に乾燥していない木に漆を塗ることがあり得るのか。
④模刻が蓮祖の意志であったとすれば、蓮祖在世に多くの板漫荼羅が造立されているはずである。何故なら、天変地異や内乱を直に見てきた蓮祖である。何が起きるか分からない時代に一体のみを造立するとは考えにくい。
⑤④に関連して、緊急事態が起きたとき、板にすると一人では運搬できないのではないだろうか。まして半丸太であれば絶望的である。
⑥推定200㎏をゆうに超えるものを、日興師一人で身延の山奥から大石ヶ原まで運ぶ手立てがない。
⑦模刻が祖滅後であるとして、漫荼羅図顕のお姿を何度か側で見ていたであろう日興師である。尊敬する蓮祖の命を削るような筆跡を、模刻によって彫り捨てるような真似を見過ごすとは思えないし、許すとは思えない。

以上の理由から、もし蓮祖による「戒壇之本尊」が存在したとしたら、初代は紙幅であったろうと思います。「戒壇之本尊」に関する記録からいって、二代目以降が「板」で、最終的に「半丸太」ということではないでしょうか。
今の「戒壇之本尊」の場合、誰かが鎌倉時代の道具を引っ張り出してきて、木を削るという手の込んだ偽装工作をしたと言うことですかね・・・・・。 (;^_^A アセアセ…

個人的な意見としては、
蓮祖が、数千年後には朽ち果てて消えてしまう「もの」に、人類の命運を任せるような特別な意義を持たせるとは思えません。
まあ、嘗ての上野動物園のように寂れていく石山を嘆いた人物がいて、「人寄せパンダ」ならぬ「人寄せ漫荼羅」をプロデュースしたというのが案外、真相ではないかと思ったりしています。 (^◇^)

608犀角独歩:2004/04/02(金) 19:46

607 愚鈍凡夫さん:

早速のご教示有り難うございます。
なるほど、その意味で三代目(ん?、だれかの固有名詞)というわけですね。
わたしも蓮師が戒壇用本尊漫荼羅を用意したとはまったく考えていません。
その意味のおいてお記しの点、賛同します。

609三学無縁:2004/04/02(金) 19:52
独歩さん。
完則目録・明細誌における重宝の出現・消失は尋常ではありませんね。
また、現石山が言う所の重宝との異動も然りです。
文書の執筆者名が現在の説と異なっていたり、有ったはずの真筆マンダラが現在では無くなっていたり、と。
ちなみに要山系での条々事の引用は、亨師の説を用いれば文章的には案文、つまり草本ということになりますね。
しかし、肝心の正本の全貌が見えません。
日精の引用も案文ということになります。
四文字削損された跡があるものが正本だとすると、写真で公表されているものということになりますが、実はこれも亨師の説からすれば正本ではありえない、ということになります。
条々事も紫宸殿マンダラも、さらには日禅マンダラも、文字の削損があるわけです。
しかもマンダラの文字削損は授与書きもしくは脇書・添書部分です。
石山にとって都合が悪いから文字が削損された、これ以外に考えようがあるでしょうか。
あ、文字削損とは逆に後加もありましたね、戦後のことですが。石山の重宝、というよりも日蓮門下の重宝で。
このように見てきますと、はたして石山に蓮師や興師に対する信仰・尊崇・敬慕があるのでしょうか。

わたしはこの数日間、ホントに寝不足に陥っています。独歩さん、責任をとって下さい(笑)。

610三学無縁:2004/04/02(金) 21:32
>607 愚鈍凡夫さん

わたしも、ほぼお考えに同意いたします。ところで、

>蓮祖が、数千年後には朽ち果てて消えてしまう「もの」に、人類の命運を任せるような特別な意義を持たせるとは思えません。

ですが、戦前、といっても昭和であったか明治であったか失念してしまいましたが、当時、他門から同様の批判を受け、石山系の人物が、
「ダイアモンドはどのようにできあがったか。たかが炭ごときがダイアモンドに化すのであれば、大御本尊が未来においてダイアモンドにならぬはずがない」(趣意)
と、書籍で堂々と記したかたがありました。
30年ほど前に立正大学の図書館で読んだときには、思わずのけぞってしまいました。

611地名:2004/04/02(金) 23:04

独歩さん

603について

>目を見張るのは『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図。
>釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いている。
>鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されている。
>讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、
>「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれている。
>腰書は「右為現当二世…」と記されている。
>讃文の「仏滅‘度’後」、
>腰書の「‘右’為現当二世」に着目。

この部分が極めて重要です。
可能であれば、もう少し説明願えますか。

612愚鈍凡夫:2004/04/03(土) 00:53

>>608:犀角独歩さん、レス有り難うございます。

>>610:三学無縁さん、レス有り難うございます。

> ですが、戦前、といっても昭和であったか明治であったか失念してしまいましたが、当時、他門から同様の批判を受け、石山系の人物が、
> 「ダイアモンドはどのようにできあがったか。たかが炭ごときがダイアモンドに化すのであれば、大御本尊が未来においてダイアモンドにならぬはずがない」(趣意)
> と、書籍で堂々と記したかたがありました。

受け狙いのギャグをかましたつもりだったのでしょうか・・・・・・。 (・・;)

ダイアモンドはなるほど炭素からできているが、炭ではないぞ。
だって、近所のホームセンターで3㎏税込み260円では売ってないもん。

これとたいして変わらないように思います。 (..;)

613おっくん:2004/04/03(土) 03:20
みなさま、はじめまして。普段は某落書き掲示板に出入りをしている法華講員です。

大御本尊が偽作であるという主張はよく聞きますが、こちらの皆さんのお話について、どうも
腑に落ちない点があります。伺ってもよろしいでしょうか?

こちらの掲示板諸氏は、伝日量上人筆「富士大石寺明細誌」を引用されることが多いみたい
ですが、日亨上人は富士宗学全集編集の際、この書について、

「  編者曰く量師の正本を見ず一二の転写本に依る誤字多けれども強いては改めず、
少しく訂正を加へ全文延べ書と為す、又此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられたれども
写伝八方に飛びをれるより正評を加へて誤解なきやうに努むる必要あるより、
全然誤謬に属する所には傍に○○点を附し、疑義に属する分には△△点を施して、
読者の注意を惹かんとす」

と、注意を喚起されています。この点を考慮されての引用・論述なのでしょうか?

614空き缶:2004/04/03(土) 11:47

 皆様お久しぶりです。
 議題より超脱線しますが、大石寺歴代の直筆本尊が売りに出されていました。
 ↓
 http://item.easyseek.net/item/21625644/

 ずいぶんといいお値段なんですね。

615犀角独歩:2004/04/03(土) 11:47

609 三学無縁さん:

> 完則目録・明細誌における重宝の出現・消失は尋常ではありませんね。

これはまったく同感です。明細誌は手放しに信頼できないところもありますが、しかし、堂宇・重宝の記述などは疑う理由はありません。「大石寺は日興上人已来、仏像はない」なんて現石山義を鵜呑みにしている人は全文をオミットするでしょうが。
そもそも石山では霑師は、志師の問に

「去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

と記しているわけです。これは1865年の石山火災を伝えるところで『富士年表』にも記載されるところです。ここで霑師は古記録がほとんど燃え文証を示せないと言っているわけです。ところが『富士年表』では、石蔵=大て石寺文書、石文=大石寺文書と載り、前者は200近く、後者も70ほど、挙げられているわけです。燃えなかったのか?と訝しがるしかありません。

> 条々事

この点については是非とも著作にまとめていただくことをお願いします。
わたしは三学無縁のお考えに深く賛同するところです。

> …削損…後加

これはまったく呆れ果てる所行です。
れんさんも指摘されていましたが、通称「紫宸殿本尊」と言われる漫荼羅も授与者部分を削り取ってわからなくし、紫宸殿本尊に仕立て上げてしまいました。天皇を騙そうというのですあれば、いい度胸と言うしかありません。

弥四郎漫荼羅にしても個人授与の紙幅を元に「本門戒壇本尊」を造ってしまうわけですから、これはもはや開いた口が塞がらないところがあります。

後加についても三学無縁さんは指摘されていましたね。
『諫暁八幡抄』、最初に発表した写真では「日蓮」としかなかったところを、次の写真では花押が描かれていたという話、実に吃驚しました。まあ、どんな言い訳を石山がしているのか知りませんが、花押まで書き足してしまったとしたら、もはやなにをかいわんやです。

近年、創価学会が寛師漫荼羅の授与者名を消して印刷して頒布を始めた時、さんざんと非難した石山でしたが、わたしが所属していた寺院では本堂板漫荼羅の授与者名「願主法華講総講頭池田大作」という名前の部分を埋めて黒く塗ってしまいました。わずか1日の作業でした。本堂畳の上に降ろされた漫荼羅に職人さんが作業していた光景を忘れません。いまから思えば、漆などの正式材料を使っていれば、1日2日で作業が終わるはずも、乾くはずもないわけです。つまり、速乾性の科学材と塗料を使っていたのでしょう。日蓮・仏のように扱えと指導する本堂漫荼羅に対してかくたる処置でした。

> この数日間、ホントに寝不足…責任をとって下さい(笑)。

ここ数年のわたしの仏教再考は、四半世紀、疑義と資料を呈示し続けてくれた三学無縁のお陰、詰めの終盤にいたったいま、多少の寝不足が我慢していただければなりませんよ(笑)

616犀角独歩:2004/04/03(土) 12:16

611 地名さん:

>目を見張るのは『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図。

三学無縁さんがご指摘されるとおり、完則師は石山真師の弟子。すなわち、石山僧と目されます。となると、弥四郎漫荼羅を正確に写したものであることになり、相貌を知るうえで重要な資料といえると思います。

>釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いている。

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』で精道師が書いているとおり、弥四郎漫荼羅には「釈提桓因大王」が勧請されているというのに、これがありません。
釈提桓因はつまり帝釈でその対の梵天もない、天照八幡も勧請されていないうのは考えがたいところですが、完則師図は看過できないわけです。
この四つの諸尊は図顕が予想されていたところですから、驚かされました。

>鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されている。

この諸尊配置も予想に反していました。

>讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、
>「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれている。

これまた、予想に反しています。また、弥四郎漫荼羅を写真で見ると「經」旁の下、「日」との間に数行が確認され、これが讃文と予想されます。それにもかかわらず、完則図では既述のとおり左右に分かれて写されているのです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

>讃文の「仏滅‘度’後」、

これも「仏滅後」であると言われるところですので、予想と反したわけです。

>腰書の「‘右’為現当二世」に着目。

この「右」の一文字だけで三学無縁さんと小一時間も議論が続きました。
「右」というのは文字通りその文節の右を言うわけですから、通常は前文を予想させる冠頭語です。しかし、完則図で見る限り、右には何も文章は見当たらないわけです。もちろん、慣用的に「右〜」という書き出しは是ですが、しかし、造立縁由を刻んだ以上、この「右」の一字は実に不自然です。実際、石山歴代が伝える腰書文は「為〜」から始まるのであって、これら文献と一致しません。

詳しくは、これまた本にまとめようと思いますので、この辺までとさせてください。

617犀角独歩:2004/04/03(土) 12:18

613 おっくんさん:

はじめまして。ご指摘の点を知らない人はここの常連ではおりませんよ(笑)

618愚鈍凡夫:2004/04/03(土) 14:34

おっくんさん、初めまして。こういう日亨師の御指南もありますよ。

「便に乗じて申し上げておく。富士宗学要集の凡例に書いておいたとおり、要集は教科書ではなく、信行聖典でもないから、もっぱら研究書であるから、中には薫猶相雑り、純雑交互し、正反同懸する返のものもあるから、最終篇には、書目にこれを判名せしめて幼学を謬らせぬようにするつもりであることを、ここに念記しておく。」(富士日興上人詳伝下巻)

まず、あり得ないことを排除するために「家中抄」「富士大石寺明細誌(宝冊)」を引用しているのです。

「或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以って戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり上行所伝抄の意なり、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり(家中抄)

「古伝に云わく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ聖人に献ず等云云」(富士大石寺明細誌)

これが歴史的事実であるとは誰も思わないでしょう。

619犀角独歩:2004/04/03(土) 16:31

愚鈍凡夫さん:

以下を補足させてください。

「御生骨と称す、蓮祖の存日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之れを日興に賜ひ事の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云」

でも戸田さんみたいに

「この肉が七百年のあいだに、だんだんだんだんふえて、ちょうど、まさに歯を包まんとしている。これは説明つきますか。しかも脈打っているのですよ、汗かいているのですよ、生きているのですよ。こういう不思議なものはありますか」

とまでは言っていません(大笑)

冨要は研究用資料ではあるけれど、反系はそれでも割愛されています。『緒言』に亨師は編纂の姿勢をしっかりと明記しています。

「本書は大部の富士宗学全集中の要篇及び其の他の古文書新文献の中より編集したものであるから時代に依り学匠に依り自然に醇雑相交わり正傍反のい三篇に大別すべきも、本集には成る可く反系の書は省いた。
 正系必ずしも完美ではなく傍系大いに依用すべきものもある」

さらに都合の悪いところは改竄、削除するところも少なからずあるわけです。
また、冨要における編纂は純粋に研究資料とは言えず、現石山教学に都合の悪いところは‘調整’されており、学的姿勢としては批判される点は多くあります。

三学無縁さんが、何冊かガリ版製本の冨要を貸してくださったのですが、一瞥して活字版との比較はちょっとした研究所が出来上がると思えました。

また、また冨要の記載寛師文と文段集(顕師編学会版)は記載内容が異なっています。このような事情は寛師文に限るものではないところに不快感が伴います。

以上のような実態と漫然と集団信仰に沈没し、そのアナウンスを墨守して飼い慣らされてきたが自身からの脱却がここ富士門流信徒の掲示板における各氏の研鑽であったとわたしは観察します。

巨大化した集団は、ご都合で資料を改竄添削し、ストーリーを創っています。その肺腑を鋭く切り開いて腸(はらわた)を引きずり出さなければ真実は見えません。

620犀角独歩:2004/04/04(日) 06:10

閑話、完則図に就き、三学無縁さんとの会話。少し書かせてもらいます。

ただし、これは真偽云々といった考証ではありません。フリートークといったところです。ですから、特に事実を論及する類のことではありません。それを前提としてお読みいただければと思います。

先に挙げたとおり、完則師の図を見ると釈提桓因大王・大梵天王、天照大神・八幡大菩薩が勧請されていません。たぶん、これは作為的な諸尊配置であると思えます。
「原本は蓮師のものか」と問われれば、わたしは「違うだろう」と答えます。

「漫荼羅を本堂安置本尊とする考えが蓮師にあったのか」と問われれば、わたしは「なかった」と答えます。ですから、本門戒壇用の本門本尊漫荼羅を蓮師が用意するはずはないと考えます。本門戒壇と縁由が刻まれる弥四郎漫荼羅はその意味で後世教学的な姿勢に属する意図が看取できます。その姿勢に基づき、戒壇本堂を建立するのに当たり、安置漫荼羅を制作しようとなったのでしょう。

この場合、堂塔伽藍は石山であれば北山を模し三堂が基本となるでしょう。本堂・垂迹堂・御影堂です。しかし、ここでは漫荼羅・御影一所に安置し、本堂・御影堂を一宇とすることが考えられました。これは「正慶二年発酉二月十三日」文書に見られるとおり、「本堂には御影を収めること」が定められているからではないのかとわたしは想像します。するとその造営は御影・本堂と垂迹堂の二宇ということになります。

伝興師の垂迹義は天照大神と見えますが、これに八幡大菩薩が加わることは八幡社が省略されるとき是となるでしょう。となれば、垂迹堂の勧請は天照八幡となります。

別に天照八幡を勧請した堂宇(宮)を造営するわけですから、御影堂(本堂)安置の漫荼羅にその勧請があれば、重複することになります。故に完則図の如く、天照八幡は勧請されていないのだろうか?というのが三学無縁さんと語り合ったところでした。

もう一つ。
戒壇建立はこの当時、すでに『三大秘法稟承事』を依拠としていたと思えます。想起されるのはこのなかに「大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」という一節があるわけです。帝釈は御筆漫荼羅では「釈提桓因」です。

梵天帝釈は戒壇建立後、ここを踏むというわけです。である故に、諸尊勧請から梵釈が意図的に省かれたのではないのか? そんな想像に花を咲かせて議論は盛り上がりました。

もちろん、これらは試論であって、なんら決定打でもありません。

ちなみに三学無縁さんが、図として、わたしに呈示してくださったのは『日蓮聖人の本懐』(窪田哲城)掲載の弥四郎漫荼羅相貌図は完則図のほか・日憲(当門諸流事)図、『板本尊偽作の研究』(木下日順)の冒頭図、『石山本尊の研究』(柳沢宏道)解析図の四つでした。さて、このなかに如何なる真実が隠されているのか。議論は何時間と延々と続きました。

621地名:2004/04/04(日) 13:19

620について

>完則師の図を見ると釈提桓因大王・大梵天王、天照大神・八幡大菩薩が
>勧請されていない。
>これは作為的な諸尊配置である。
>「原本は蓮師のものか」と問われれば「違うだろう」。

「作為的な諸尊配置」でありしかも「原本は日蓮のものではない」と思われる。


>「漫荼羅を本堂安置本尊とする考えが蓮師にあったのか」…「なかった」と答える。
>本門戒壇用の本門本尊漫荼羅を蓮師が用意するはずはないと考える。

日蓮にその用意がない点。


>本門戒壇と縁由が刻まれる弥四郎漫荼羅は…後世教学的な姿勢に属する意図が看取。
>…安置漫荼羅を制作しようとなった…。

後世の作。
以上が重要なポイントだと思いました。

622犀角独歩:2004/04/04(日) 17:57

621 地名さん:

> 原本は日蓮のものではない

木下師は稲田師の説明を受けて弥四郎漫荼羅を「よせもの」と表現しているわけです。
一幅の御筆漫荼羅を原稿にして彫ったのではなく取り合わせたというわけです。
それで少なくとも二舗の御筆漫荼羅が使われているのだろうというわけです。
諸尊の文字・讃文・腰書は写真ではまったく確認できません。

仮に諸尊の字が蓮師のものであってもこれもまた「よせもの」の可能性はあります。
また、一舗の御筆漫荼羅から採ったとしても、取捨は出来ますし、足りなければ宝持ってくることも出来るわけでしょう。それでも揃わなければ、書き込んでも公開するわけではありませんからばれるわけもありません。

わたしは、諸尊はいちおう御筆漫荼羅のものを使っているのではないのかと想像しています。

623地名:2004/04/04(日) 18:35

622については

580で独歩さんが記された以下の内容を言われているわけですね。

>『板本尊偽作の研究』(再版)…を手に取ってみた。
>第8章『稲田素海老師の説』と紹介し、

>「板本尊は四つの部分に分けて考察すればよい。
>十界座配の部、日蓮花押の部、仏滅後二千二百余年と云う韻文の部、為現当二世造立如件云云の制作縁起
>この四つの部分に分けて考えればよい。
 
>第一の十界座配は勿論、原本は御真筆、
>第二の日蓮花押も原本は真筆であるが、第一の十界原本とは違う。他の日蓮曼荼羅の日蓮花押を模写したものだ。

>即ち、十界座配の原本と日蓮花押とは模写した曼荼羅が異なるのだ。
>宗祖の御真筆の二つの曼荼羅から、別々に写し取った二枚の紙を、板本尊の上に、つなぎ合わせたのだ。

>第三の仏滅後二千二百余年と云う韻文と、
>第四の為現当二世造立如件云云の制作縁起は、
>宗祖の御正筆ではなく、後人の他筆である」(P38)

>こんな造りの板漫荼羅を編著者・木下師は香具師の「よせもの」と言っている…。

>木下師は老師の説を受けて、原本真筆を、十回座配を弘安2年11月増師授与漫荼羅・
>日蓮花押を所謂紫宸殿漫荼羅のものと勘ぐっています。しかし、これは少なくても後者は違います。

>あと木下師が弘安2年2月、小泉久遠寺控(うつろ)字漫荼羅に着目していました。
>…板漫荼羅の題目は弘安2年の「經」の字体と一致しないのは言うまでもないので、
>なぜ、この年代に師が注目するのか…。

かってに抜粋してすみません。

624犀角独歩:2004/04/04(日) 18:47

> 623 地名さん:

有り難うございます。仰るとおりです。

625地名:2004/04/04(日) 20:16

独歩さん

620の
>三学無縁さんが、図として呈示してくださった
>『日蓮聖人の本懐』(窪田哲城)掲載の弥四郎漫荼羅相貌図は

>完則図のほか・
>日憲(当門諸流事)図、
>『板本尊偽作の研究』(木下日順)の冒頭図、
>『石山本尊の研究』(柳沢宏道)解析図の四つ。

>このなかに如何なる真実が隠されているのか。


独歩さんの「仏教再考」の「所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽について」を
熟読してみます。

柳沢師の「石山本尊の研究」しか所持していませんが、

同書P38-39の戒壇本尊図は、釈提桓因大王等が書かれています。

それに対して、石山高僧と見られる完則師の図にはないのはなぜか?

626愚鈍凡夫:2004/04/04(日) 20:37

横レス失礼します。
もっとも単純で合理的な解釈はどうでしょうか。
すなわち、「弥四郎漫荼羅(戒壇之本尊)」は複数存在したと。さらに言えば、今の奉安堂に安置されているのは初代ではないと。

627犀角独歩:2004/04/05(月) 04:46

地名さん:

拙文、ご高覧賜れるとのこと、感謝申し上げます。
この文は、もっとも重要な点は省略しています。
その点はご理解ください。

愚鈍凡夫さん:

さすが。大胆発言ですね。
完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。
でも、どうでしょうか。どう思われます?

628地名:2004/04/05(月) 06:43

627について

>完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
>なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。

日蓮花押でなければ確かにそうですね。
しかしなぜ、奉行所等へ届け出る公式文書に虚偽報告したのか。

>もっとも重要な点は省略。
>その点は理解を。

その点はよく理解していますので大丈夫です。



でも

629愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 09:48

>>627:犀角独歩さん、根がいい加減なものですから、御免なさい。
m(*T▽T*)m オ、オユルシヲ・・・

> 完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
> なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。

完則師の現物を知りませんから仮定の話ですが、
コピーであると印象づける必要があったと言うことでしょうか(何のために?)。それとも諸尊の座配を写したのであれば、漫荼羅書写の慣例に従って「日蓮 在御判」としたのでしょうか。他の可能性もあるような気がしますが。

①みんなが本当のことを言っている。
②誰かが嘘を言っている。
③みんなが嘘を言っている。
どれでしょうね。

630犀角独歩:2004/04/05(月) 10:29

629 愚鈍凡夫さん:

ここなんですよ、ポイントは。
柳沢本は不鮮明な写真を大きく伸ばして類推したそうで手放しに信頼できないが捨てがたい。木下本は出所が不明記。完則本、日憲本は坊さんが信仰面から写したものであるから、真正直、あるいは却って信仰を守る面から敢えて嘘書いたりもありも考慮すべきと思っています。

話はややずれますが、古文書書写の場合、花押をそのまま花押と書く場合と「判」「御判」「在御判」などと書く場合とありますが、この差は何であるかご承知でしょうか?

631犀角独歩:2004/04/05(月) 10:41

地名さん:

虚偽の報告をしたと限ったわけではないのですが、その可能性も視野に入れようということです。
それにしても、目録になぜわざわざ相貌図まで付けたのか。壇林提出書類ならではのことでしょうか。
今で言えば、寺から大学の仏教学部研究室への提出書類のようなものであると考えられるわけです。
とすれば、正確な報告と見るべきと思う点はあるのですが。

632愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 11:06

要するに、どれも決め手に欠けるということですね。

> 話はややずれますが、古文書書写の場合、花押をそのまま花押と書く場合と「判」「御判」「在御判」などと書く場合とありますが、この差は何であるかご承知でしょうか?

小生は、古文書の知識は持ち合わせていないので分かりません。
ただ、原本からの写本、さらに、写本からの写しといった資料としての信頼度の違いかなと思いますが。

633犀角独歩:2004/04/05(月) 13:59

632 愚鈍凡夫さん:

愚鈍凡夫さん、また地名さんがこの考証に加わってくれることを有り難く思います。
多くの皆さんに種々の可能性を考える機会を与えることにもその意義があります。

> どれも決め手に欠ける

いや、そうとも言えません。
柳沢本は不鮮明な写真からの解析、木下本はその出所がわからず。しかし、完則図・憲師図は写した座配そのものの証憑性は高いと個人的には思っています。

ただし、身替が造ったことが度々取り沙汰される石山のことですから、写されたものが身替のほうであった可能性はあるのだろうかと考えてはいます。

仮に拝観された弥四郎漫荼羅が身替のほうであったとしたら、これは信仰上許されることなのだろうかという疑問がわたしにはあります。

また、たとえば近年、宝蔵から奉安殿、正本堂、奉安殿、奉安堂へと次々と安置場所を遷された弥四郎漫荼羅のすべての同一のものであったのか、それとも複数体であったのか。また秘かに言われるように実は体内仏がありそちらが本体であるとか、その実否はわかりませんが、しかし、「身替本尊」の存在は石山も認めていることです。
身替は造ったということはそれを替わりに安置していた時期があったということでしょう。お参りをするほうは身替として知って拝んだのか、それとも本物であると思って拝んだのか。しかし、拝観者が身替だと最初から知っていたら、そもそも身替の意味はありません。けれど、身替を拝ませることがそもそも信仰上許されることかどうか。なおさらに、蓮師真筆でないことを承知したうえでその奉安堂宇の供養を募ることが道義的に許されるかどうか、わたしはこの点を「宗教批判の原理」から考えているわけです。

弥四郎漫荼羅を考えるうえで、こんな思考視野の規模もあるということですね。

634犀角独歩:2004/04/05(月) 16:14

―633からつづく―

この身替ということについて、敢えて脱線します。
もう随分、前のことなのですが、わたしがまだ学会員であった頃、『創価学会重宝展』が開催されたことがありました。四半世紀も前のことになるかも知れません。

そこでいわゆる学会の重宝と言われるものが展示されていました。たとえば戸田さんが獄中で使った牛乳瓶の蓋で作った数珠とか、池田さんが若いときに使った割れた鏡(私の履歴書に書かれた感動の品)なんかが陳列されてあったわけです。並んで、池田さんの会長就任時の胴上げ写真なんかもありました。

けっこう感動して帰ってきたわけですが、とある先輩が「あれ、レプリカなんだ」といとも容易く言ってのけました。わたしは吃驚して「そんなことないでしょう」と反論した。すると「あっちこっちで同時開催するわけだから、しようがないよ」と、こうでした。わたしが眉をひそめていると、追い打ちをかけるように「あそこに飾ってあった写真、あれ修正してあるんだよ」と。「どういう意味ですか」と訊ねると「池田先生が嫌いな渡辺一郎を消してあるんだ」と言います。「そんな馬鹿な」と吐き捨てるように言うと、「じゃあ、これを見ろよ」と2枚の写真を本棚から引っ張り出しました。全く同じと見えた写真、片方からはたしかに渡辺一郎さんが消えていました。学会に疑問を抱いた瞬間でした。

昨今、顕師の芸者写真をコンピュータ処理して出して顰蹙を買った学会であったわけですが、写真の改竄はずいぶんと前から行われていたわけです。では、学会が間違っているのかと言えば、先にも話題に出した『大石寺重宝展』、ここで陳列された品々もレプリカであると警備に当たっていた青年が教えてくれたものでした。この点に関しては、わたしは実否を確認したわけではありませんが、さもやありなんといったところでしょう。

美術館、博物館では「複製」は必ず記述するのが道義です。まあ、こんなことを宗教団体に望む方が間違っているのかも知れませんが、わたしは判然としないものがあります。

635愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 18:11

犀角独歩さん、どうも。

ひょっとして、
「戒壇之本尊」って、3つに分解できるような構造になってませんか。
台座の上に半丸太の平面が正面に来るように取り付けて、そこに板漫荼羅を貼り付けるといったような・・・・・。
この構造ならメンテナンスも簡単ですし、「身替わり」とやらも、半丸太である必要もないわけですから。
犀角独歩さんも、このことがいいたかったりして・・・・・。 (-_-;)
考えすぎだろうか・・・・・。

636犀角独歩:2004/04/05(月) 22:06

635 愚鈍凡夫さん:

これは可能性としては「有り」ではないでしょうか。
ただ、わたしはいちおう証拠主義者(笑)ですから、これが云いたいことと言うわけではありません。

なお、裏側に何かありとすれば、さらにパーツは細分化?することになりますでしょうか。

637地名:2004/04/05(月) 22:51

独歩さん

609の三学無縁さんの以下の内容がかなり重要ですね。

>完則目録・明細誌における重宝の出現・消失は尋常ではない。
>現石山が言う所の重宝との異動も然り。

>文書の執筆者名が現在の説と異なっていたり、
>有ったはずの真筆マンダラが現在では無くなっていたり、と。

>要山系での条々事の引用は、亨師の説を用いれば文章的には案文つまり草本となる。
>しかし、肝心の正本の全貌が見えません。
>日精の引用も案文ということになります。

>四文字削損された跡があるものが正本だとすると、
>写真で公表されているものということになりますが、
>実はこれも亨師の説からすれば正本ではありえない、ということになる。

>条々事も紫宸殿マンダラも、さらには日禅マンダラも、文字の削損がある。
>しかもマンダラの文字削損は授与書きもしくは脇書・添書部分。

>石山にとって都合が悪いから文字が削損された、
>これ以外に考えようがあるでしょうか。

>文字削損とは逆に後加もありました、戦後のことですが。
>石山の重宝、というよりも日蓮門下の重宝で。

>…はたして石山に蓮師や興師に対する信仰・尊崇・敬慕があるのでしょうか。

638地名:2004/04/05(月) 22:58

独歩さん

以下について、可能な範囲でもう少し解説してください。

629愚鈍凡夫さんのコメント

> 完則師がわざと虚偽の報告をした可能性はなきにしもあらず。
> なにせ「日蓮 在御判」となっているくらいですから。
完則師の現物を知りませんから仮定の話ですが、
コピーであると印象づける必要があったと言うことでしょうか(何のために?)。それとも諸尊の座配を写したのであれば、漫荼羅書写の慣例に従って「日蓮 在御判」としたのでしょうか。他の可能性もあるような気がしますが。

①みんなが本当のことを言っている。
②誰かが嘘を言っている。
③みんなが嘘を言っている。
どれでしょうね。


630犀角独歩さんのコメント

ここなんですよ、ポイントは。
1.柳沢本は不鮮明な写真を大きく伸ばして類推したそうで手放しに信頼できないが捨てがたい。
2.木下本は出所が不明記。

3.完則本、4.日憲本は、坊さんが信仰面から写したものであるから、真正直、
あるいは却って信仰を守る面から敢えて嘘書いたりもあり
考慮すべきと思っています。


>話はややずれますが、古文書書写の場合、花押をそのまま花押と書く場合と
>「判」「御判」「在御判」などと書く場合とありますが、
>この差は何であるかご承知でしょうか?

この差が何か教えて下さい。

639愚鈍凡夫:2004/04/05(月) 23:03

こんな写真を撮るのはS学会員だと思いますが、寂しいものがありますね。
わざとらしく、写真に写っている首題を黒く塗りつぶしているところがいかがわしい。

「【7】下村八幡宮 第52世日霑、第62世日恭本尊2体同座!」
http://fujinomiyaboy.fc2web.com/shiryousitu_houbou_simomura_index.htm

640地名:2004/04/05(月) 23:04

633の独歩さん

>柳沢本は不鮮明な写真からの解析、
>木下本はその出所がわからず。

>しかし、完則図・憲師図は写した座配そのものの証憑性は高いと
>個人的には思っています。

ということは、憲師図についてはいままでコメントされていないため不明ですが、
完則図は座配が異常のような気がしましたが、この方が信憑性が高いのですか。

ただし、身替が造ったことが度々取り沙汰される石山のことですから、写されたものが身替のほうであった可能性はあるのだろうかと考えてはいます。

641地名:2004/04/05(月) 23:28

独歩さん

楠山師の「大石寺本尊真偽問答」では弥四郎漫荼羅について、
「勧請の諸尊については、大石寺一門の妙興寺日憲師の記録によると、

「上段が釈迦・多宝・四菩薩、
次段が文殊・薬王・弥勒・舎利弗・迦葉・大梵・釈提・大日・大月・明星、
次段が天台・章安・転輪・阿闍世・提婆、
次段が鬼子母・十女・天照・八幡、
その下に日蓮花押(御判)」

柳沢師の本では、「マイクロ写真にて「AO版」(畳1枚程の大きさ)まで拡大して検証した結果、
上記が章安に対し、妙楽の違い程度とほぼ同様のような気がします。

642地名:2004/04/05(月) 23:34

独歩さん

>「板本尊偽作の研究」(再版)木下日順師
  第8章『稲田素海老師の説』

この書籍はどのあたりで手に入る、あるいは閲覧できるでしょうか。

643おっくん:2004/04/06(火) 02:48
みなさま、こんばんは。
愚鈍凡夫さま、犀角独歩さま、ご丁寧なお返事ありがとうございます。
べつに、いちゃもんをつける訳でもなかったのですが…。お許しください。

>>618
>これが歴史的事実であるとは誰も思わないでしょう。

私もそう思います。また、昔ならいざしらず、今の法華講員もそう思っていることでしょう。
ですから、なんでまたそういった引用をされるのか不思議に思ったわけです。

あと、しろうとの疑問なんですが、
犀角独歩さまの『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について 』HPにおいて

>板漫荼羅とは紙筆漫荼羅を下絵として彫刻したものを言う。

とおっしゃっておりますが、御本紙を板にお写ししたのではなく、板に直接御染筆という
可能性はないのでしょうか?
しろうとの疑問ではありますが、よろしくご教示の程おねがいします。いろいろ聞いてすいません。

644犀角独歩:2004/04/06(火) 05:21

地名さん:

>> 花押…「判」「御判」「在御判」
> この差が何か教えて下さい。

この点は実はわたし自身、よくわからないのです。
祖書写本は「日蓮花押」となっているのが一般的ですが、古文書では一貫していません。亨師は『化儀抄註解』で「判形」という語彙で言っています。これはたぶん、花押を指すものと思われます。
しかし、「判」という場合は文字通り押印である場合も考えられます。もちろん、日蓮に押印は考えがたいのですが、他の古文書類ではあり得ないというわけでもないでしょう。
また、漫荼羅書写の様式は、よくれんさんがご指摘くださるとおり、実は一貫していないのであって、「日蓮」「日蓮聖人」「日蓮御判」「日蓮在御判」と区々です。
特に上代の書写漫荼羅ではこの傾向は顕著なのです。そこで完則図では「在御判」、憲師図では「御判」の差があるとき、原図を正確に写した場合、それぞれそのように彫ってあった可能性は看過できないであろうと思うわけです。もちろん、単に花押の所在を「判」「御判」「在御判」とすることももちろんあり得ます。しかし、この点は確認できません。それ故、疑問を呈したわけです。

> 日憲師の記録…
> 柳沢師…ほぼ同様

もう少しよくご覧になってみてください。

>>「板本尊偽作の研究」(再版)木下日順師
> …どのあたりで手に入る、あるいは閲覧

これはどうでしょうか。
裏表紙奥付では

埼玉県飯能局区内
振替東京144698番
本門社

と記されるばかりです。神田の古書店、立正大学図書館、佼成図書館にあるかどうか。
木下師は既に鬼籍には入られたとのことでした。
ガリ版刷りA444頁の小冊子ですが、しかし、一読の価値はあります。

645犀角独歩:2004/04/06(火) 05:57

643 おっくんさん:

> 御本紙を板にお写ししたのではなく、板に直接御染筆という
> 可能性はないのでしょうか

わたしはこの可能性を達師の説法自体が否定していると思うわけです。
同師は反丸太である弥四郎漫荼羅は「まさかりみたいな手斧で削られておる」と言っているわけです。つまり今の鉋のように板面を平滑に処理できないという意味でしょう。
蓮師は紙面を木槌で叩いて平滑に整え、そこに一挙に筆を滑らせるように図させれることを常にしたのです。これは桐谷征一師が御筆漫荼羅を科学的視点から観察記すところです(いま大曼荼羅の世界を考える)

そんな拘りのある蓮師がささくれ立ち一様に整わない板面に墨を置かれるでしょうか。また、仮にそうされたとしても、あそこまで整って書せるものでしょうか。わたしは不可能だと思えます。

紙幅原本は亨師の言であるというのは七師外道さんのご指摘でした。(参:84)
そして、この紙幅原本は北山で盗難に遭って紛失したとも言います。

たぶん、この話は二つの話が織り混ざっています。一つは紙幅が事実である、一つは盗難に遭った御筆漫荼羅、これらは別のものであるとわたしは考えます。何故ならば、興師が授与された漫荼羅には「日興上人」「二千二百三十余年」と記される際だった特徴があったと思われるからです。しかし、弥四郎漫荼羅はこの条件を満たしていないからです。

もちろん、本質的な問題はもっと根深いところにあります。すなわち弥四郎漫荼羅の造立話は文献で見る限り精師以前には遡れないという事実です。なにより、「為造立…本門戒壇願主弥四郎…敬白」という腰書は欄外に書かれているのであり、漫荼羅相貌とは何の関係もない彫刻時の制作者の縁由を刻んだものです。つまり、仮にこの原本が蓮師の御筆であったとしても本門戒壇とも、弥四郎国重ともまったく関係がないということです。なお、「弘安二年十月十二日」という日付はこの縁由のあとに記されたもので、通常、蓮師が日付干支を記される相貌右下「大増長天王」横という定位置から外れたうえ、「太才己卯」を失しています。つまり、この日付と漫荼羅原本はなんら関係がなく、後世の勝手な関連づけであることが窺えます。

なお、わたしが板漫荼羅を模刻と言ったのは、仮に直接、板に書いたとしても、それを彫ったのは‘伝説では’中老法師であるというわけですから、蓮師ではないので、ご本人の作とは言えないという意味です。基の字は蓮師であっても、これは法師作と言うことになります。「うまい彫刻だ」と話だと言うことです。

646犀角独歩:2004/04/06(火) 05:59

【645の補足】

桐谷師が言うのは紙面を木槌で叩いて書された有様ばかりで、その前文の達師の言とは関連はありません。

647地名:2004/04/06(火) 06:38

独歩さん

完則師:『富士大石寺戒壇之本尊』の相貌図。
>釈提桓因大王、大梵天王、天照大神、八幡大菩薩を欠いている。
>鬼子母神、十羅刹女が龍樹・妙楽・天台・伝教より上に記されている。
>讃文は「仏滅度後二千二百/二十余年之間一閻」までが右、
>「浮提之内未曾有/大漫荼羅也」が左と分かれている。
>腰書は「右為現当二世…」と記されている。
>讃文の「仏滅‘度’後」、
>腰書の「‘右’為現当二世」に着目。


大石寺一門の妙興寺日憲師の記録によると、
上段が釈迦・多宝・四菩薩、
次段が文殊・薬王・弥勒・舎利弗・迦葉・大梵・釈提・大日・大月・明星、
次段が天台・章安・転輪・阿闍世・提婆、
次段が鬼子母・十女・天照・八幡、
その下に日蓮花押(御判)


柳沢師
上段:釈迦・多宝・四菩薩
次段:普賢・文殊・薬王・弥勒・舎利ほつ・迦葉・釈提桓因大王・大梵天・大月・第六天・大明星・大日
次段:十羅刹・鬼子母神・阿じゃせ王・提婆・転輪・大龍王・阿修羅
次段:天照・八幡
以下略

以上ですが、いかがでしょうか。

648犀角独歩:2004/04/06(火) 07:46

647 地名さん:

『大石寺本尊真偽問答』は取り敢えず置いてください。
窪田本(憲師図)と柳沢本の比較は以下のとおりです。

諸尊_|日|柳
───┼─┼─
釈迦_|○|○
多宝_|○|○
上行_|○|○
浄行_|○|○
無辺行|○|○
安立_|○|○
文殊_|○|○
普賢_|○|○
弥勒_|○|○
薬王_|○|○
舎利弗|○|○
迦葉_|○|○
大六_|×|○
大日_|○|○
大月_|○|○
大梵_|○|○
明星_|○|○
釈提_|○|○
鬼子母|○|○
十羅刹|○|○
転輪_|○|○
阿闍世|○|○
阿修羅|×|○
龍王_|×|○
龍樹_|×|○
天台_|○|○
章安_|○|×
妙楽_|×|○
伝教_|○|○
提婆_|○|○
天照_|○|○
八幡_|○|○

649愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 12:12

今、おや〜っと思ってパソコンで検索してみました。

蓮祖漫荼羅で妙楽大師が勧請されている漫荼羅は34舗ありますが、章安大師が勧請されているのは2舗しかありません。弘安元年(1278)8月の№53、№54です。
関係ないかもしれませんが、章安大師が勧請されている漫荼羅には妙楽大師が勧請されています。

650れん:2004/04/06(火) 18:50
愚鈍凡夫さん。参考資料ですが、寺尾英智師著「日蓮聖人真蹟の形態と伝来」(雄山閣出版)に掲載された千葉県法華経寺曽存の蓮師マンダラの日等師臨写本を見ますと、法華経寺曽存の建治元年太才乙亥十二月日のマンダラには章安大師が記されています。ちなみに興師書写十界円具のマンダラにはほとんどの場合、龍樹・天親・天台・章安・妙楽・伝教の六師が記されております。右ご参考まで。m(__)m

651犀角独歩:2004/04/06(火) 19:38

れんさん:

横から質問させてください。

> 興師書写…龍樹・天親・天台・章安・妙楽・伝教の六師が記…

これはある面、興師書写の特色といってもよいでしょうか。

652愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 20:10

れんさん、有り難うございます。
蓮祖は、弘安年間には諸尊の座配のイメージが完全に固まっていたと思います。
人師・論師の段は、
「天台大師→伝教大師」というパターンと、
「天台大師→妙楽大師→伝教大師」との2つのパターンがあったと思うのです。
したがって、「章安大師」がこのパターンの中に入る場合、必ず「天台→妙楽→章安→伝教」というパターンになると思うのです。
だから、れんさんがご教示下さった「法華経寺曽存の建治元年太才乙亥十二月日の漫荼羅」には「妙楽大師」が勧請さていなければならないと思うのですが(3年ほどの違いがありますが)、どうでしょうか。
お手数ですが、ご教示願えれば幸いです。 m(_ _)m

653れん:2004/04/06(火) 20:22
犀角独歩さん。興師書写…龍樹・天親・天台・妙楽・伝教の六師が記…これはある面・興師の特色…。そうですね。現存する蓮師マンダラに興師の六師勧請と同じ座配のものは無いのですが、強いて言えば、蓮師弘安元年八月のマンダラと弘安三年以降の蓮師十界円具マンダラを融合させているのが興師書写十界円具マンダラの特徴といえますから、犀角独歩さんの仰る通り、六師を記すのは、興師書写の特色と言ってよいと思います。m(__)m

654愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 20:24

訂正です。流れからいえば、
「天台→妙楽→章安→伝教」ではなく、
「天台→章安→妙楽→伝教」が正解ですね。
(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ m(_ _;)m ゴメン!!

655れん:2004/04/06(火) 20:33
愚鈍凡夫さん。法華経寺曽存の建治元年太才乙亥十二月日の蓮師マンダラ(日等師臨写本)には首題の経字の右に章安・龍樹・天台が、経字の左に天親・妙楽・伝教が記されています。私も愚鈍凡夫さんのご見解に賛同いたします。右ご参考まで。

656地名:2004/04/06(火) 21:13

645 独歩さん

>本質的な問題はもっと根深いところにあります。
>すなわち弥四郎漫荼羅の造立話は文献で見る限り精師以前には遡れないという事実です。

通常言われているのは、有師ではないのかと言う訳です。

しかし「造立話は文献で見る限り「精師」以前には遡れないという「事実」」
と言われることについてもう少し説明願えますか。

>「為造立…本門戒壇願主弥四郎…敬白」という腰書は欄外に書かれているのであり、
>漫荼羅相貌とは何の関係もない彫刻時の制作者の縁由を刻んだものです。

欄外ですか。

>つまり、仮にこの原本が蓮師の御筆であったとしても
>本門戒壇とも、弥四郎国重ともまったく関係がないということです。

>「弘安二年十月十二日」という日付はこの縁由のあとに記されたもので、
>通常、蓮師が日付干支を記される相貌右下「大増長天王」横という定位置から外れたうえ、
>「太才己卯」を失しています。

定位置からも外れているわけですか。

>つまり、この日付と漫荼羅原本はなんら関係がなく、
>後世の勝手な関連づけであることが窺えます。

657愚鈍凡夫:2004/04/06(火) 21:33

れんさん、有り難うございます。
違ってたら、

「体は大人で、頭は子供。迷探偵御難か!お前は!!」
っていわれそうでした。

658犀角独歩:2004/04/06(火) 23:29

れんさん:

有り難うございます。実に参考になりました。

愚鈍凡夫さん:

> 天台→妙楽→章安→伝教

これはわたしには理解できません。天台・章安・妙楽・伝教が時系列ですね。

> 地名さん:

> 有師ではないのか…
> しかし「造立話は文献で見る限り「精師」以前には遡れない

この点なのですが、要はこの記事を伝える浄師の本資料に当たれないと言うことです。
有師彫刻説は宝冊、誑惑顕本書にたしかに載りますが、両方とも浄師に係ります。
では、この浄師の言の正本は?と問うとその原本に当たれません。ですから、本人直筆資料としては精師より遡れないと言う意味です。

その他リフレインをしていただいた部分はまさにわたしの主張です。

659愚鈍凡夫:2004/04/07(水) 08:00

皆さんお早うございます。

犀角独歩さん、
結果が早く知りたくて文章をまとめずにそのまま書いてしまったので、分かりにくい表現になりました。

人は、同じ作業を何年も続けると、作業手順や構図などがパターン化してくるものです。このことは、蓮祖の漫荼羅図顕にもいえるのではないか。と思いました。。

このことを当てはめてみれば、例えば、漫荼羅に勧請されている人師ということで天台宗の流れから言うと、
「天台→章安→妙楽→伝教」ですが、
蓮祖には勧請する諸尊に対し、序列があったように思うのです。要するに、図顕する諸尊の数によって勧請する、しないといったルールがあったように思うのです。
このことから天台宗の人師を蓮祖の序列と思われる順番に並べ直すと、
「天台→伝教→妙楽→章安」ということになると思います。
「天台・伝教」はセットになっていますが、「妙楽・章安」に関しては、3人勧請する場合は「妙楽」、4人の場合は「妙楽・章安」共に勧請するということだと思います。
したがって、「章安」が勧請されているならば、必ず「妙楽」も勧請されているはずだと確信するに至りました。
それで、れんさんが「章安」が勧請されている漫荼羅の情報を下さったので、その確認をれんさんにお願いした次第です。

660犀角独歩:2004/04/07(水) 08:44

659 愚鈍凡夫さん:

なるほど。納得です。

661犀角独歩:2004/04/07(水) 11:02

れんさん、ご賢察をお聞かせください。
先に興師書写漫荼羅に独自の特徴ありとのご教示をいただきました。
では、興師は独自の書写様式を確立したのかということが問題になります。わたしは手許にあった蓮師漫荼羅は限られており、その御筆に準じたことは一つの要素と想像するのですが。この点は如何でしょうか。また、どのような理由で独自性がしょうじたとお考えであるかご教示願えませんでしょうか。

662れん:2004/04/07(水) 19:39
犀角独歩さん。興師初期のマンダラは、弘安元年八月日の蓮師マンダラを主に書写しているので、興師の手許に弘安元年八月のマンダラがあった可能性があります。興師書写十界円具マンダラのベースは弘安元年八月の蓮師マンダラであると思います。ただし富谷日震師の日興上人正傳には興師は弘安五年八月三十日、興師へ授与の蓮師マンダラを主に書写したとありますので、興師へ授与の弘安五年八月三十日の蓮師マンダラは六師勧請であったかもしれません。興師書写のベースは弘安元年・五年の蓮師マンダラで案外独自性は無いかもしれません。右ご参考まで。

663犀角独歩:2004/04/07(水) 19:42

れんさん、有り難うございます。
大変に参考になりました。

664地名:2004/04/07(水) 22:32

木下日順師の本では、有師より少し前に偽作されたのではないかと思うと。
一説には時師の偽作と言われていると。

小泉久遠寺の「うつろじ」の曼荼羅・弘安二年二月・宗祖御真筆
この曼荼羅の十界の座配が全部墨(文字)の部分がくり抜かれている。

そして、稲田師から四つの部分に分けて考察すればよいと聞いたと。
日蓮花押は紫宸殿御本尊だと思うと。

なるほどなあと思いました。
感心させられたのは客観的に論じていることです。

たとえ偽作であっても御利益ありと最後に述べられている点は
師のおおらかさを感じました。

以上はあくまで感想です。

665地名:2004/04/07(水) 22:55

日蓮の花押について、
大黒喜道師の「弘安元年宗祖花押の変化をめぐって」
(「興風」第10号・平成7年1月発行・興風談所)

を読み始めています。
佐藤進一氏の好著「花押を読む」の啓発によっていると。

書かれてから10年近く経っているので大黒師の論も
さらに深化していると思いますが、少しずつ読み進めていきます。

山川智応師の「日蓮聖人の花押に就いての研究」昭和8年
鈴木一成師の研究などにも言及。

666犀角独歩:2004/04/07(水) 23:03

664 地名さん:

稲田老師、また木下師の類推はなかなか興味深いところはありますが、残念ながら、外れています。伝「紫宸殿本尊」は弥四郎漫荼羅の素材になっておらず、その身替の素材になっているばかりであるというのが、わたしの分析です。

667地名:2004/04/07(水) 23:22

日蓮は身延で何を拝んでいたのでしょうか。

鎌倉
「小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置し…」「神国王御書」建治元年

身延
「案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ
合掌して…」「忘持経事」建治二年

これは釈尊一体仏か漫荼羅か。

弘安二年「兵衛志殿女房御返事」
「…法華経の御宝前に申し上げて候」

これは「弥四郎漫荼羅」か釈尊一体仏(法華経をその前に置かれる)か。

弘安二年以降お弟子檀那は何を拝していたのか。
石山は板漫荼羅というのですが。

668地名:2004/04/07(水) 23:38

独歩さん

666について

>稲田老師、木下師の類推…残念ながら、外れている。

そうですね。独歩さんは既にこれらも確認された上で「一読」をと言われたわけですから。


>伝「紫宸殿本尊」は弥四郎漫荼羅の素材になっておらず、
その身替の素材になっているばかりであるというのが、わたしの分析です。

なるほど、そうですか。
勉強になりました。

669地名:2004/04/08(木) 00:06

615で独歩さんは以下のように述べられています。

>れんさんも指摘されていが、通称「紫宸殿本尊」と言われる漫荼羅も
>授与者部分を削り取ってわからなくし、
>紫宸殿本尊に仕立て上げてしまいました。

>弥四郎漫荼羅にしても個人授与の紙幅を元に「本門戒壇本尊」を
>造ってしまうわけですから、これはもはや開いた口が塞がらない…。

670地名:2004/04/08(木) 01:02

独歩さん

ざっとですが再度今までに記されてきたところを拝読してみました。
有師でもなく時師でもない(やや広く取れば道師から影師)とすると、

精師なのでしょうか。1632年から1645年にかけて二度にわたり登座されています。
そして、御影堂に戒壇本尊をおまつりされた。

671犀角独歩:2004/04/08(木) 06:36

地名さん:

> 日蓮は身延で何を拝んでいた…

仰せのとおり、釈迦一体仏であるとわたしは思います。
蓮師の在世を考えるときに、わたしたちは現在の奉安を無意識に指示していると思うわけです。つまり、蓮師は宗祖なのであるから、身延の草庵は寺院であり部屋は本堂であり、中心は須弥壇となっていたはずだという勝手な想像です。わたしはこの固定観念がすべての判断をも惑わしていると思うわけです。蓮師の住んでいたのは文字通りの草庵であって、仮の庵です。狭い部屋に仮初めに台を設け、そこに行脚、流罪に随身していた仏を置き、註法華経を供えた。そんな風景であったのでないでしょうか。

> 670

わたしは弥四郎漫荼羅がいつのころに造られたのかと問われれば、やはり精師ではないのかと思うわけです。ただし、これは一時に完成したとは限らないとも思います。当初板漫荼羅が彫られた。これはれんさん、空き缶さんがお考えになるように時師まで遡れるかも知れませんし、伝・浄師言の如く有師かも知れません。しかし、その後、精師の時代に腰書を記した台座に据えられ、ここにはじめて本門戒壇本尊とされた可能性はあるでしょう。また、その逆もあり得ると考えることもできます。

量師、因師、完則師、憲師、誑惑顕本書いずれの資料も「板」であると書き残しています。霑師ですら「板本尊」というわけです。それが突如、達師に限り「半丸太」であるというわけです。
中世の資料が「厚二寸二分」というのは石山の一方的な通知をそのまま記したのか・実際に計測したのか、これはわかりません。しかし、量・因・霑師は石山の歴代です。実際に弥四郎漫荼羅に触れることができる人であったのでしょう。その人らが「板」であると書くのですから、字句どおり、少なくとも当時は板であったのではないでしょうか。では半丸太に仕立てられたのはここ100年のことなのか?、これはまったく想像の域を出ないために、なんとも言えません。ただただ達師の言を不可思議と思うばかりです。しかし、幕末から明治、廃仏毀釈という未曾有の弾圧を経た日本仏教界の中にたしかに石山も入っているのでしょう。このときに何かが起こったというのはよく語られる談話でしょう。

通り一遍に弘安2年から現在まであの漫荼羅が同じ形状であったという固定観念が事実を見つめる視点を枉げているのかも知れません。

672愚鈍凡夫:2004/04/08(木) 11:43

横レス失礼します。
日達師の「御影堂に"戒壇之本尊"を安置していた」という言葉の意味を考えていたのですが、
「戒壇之本尊」造立当時は、単なる「板漫荼羅」としてしか認識されていなかったのではないでしょうか。この「板漫荼羅」が「人寄せ漫荼羅」の使命を受けて、いつしか「戒壇之本尊」に変身させられた。ということではないのでしょうか。
しかし、ただの「板漫荼羅」では、他の寺院にもあるから、独自性を持たせるために「半丸太」に貼り付けたか、彫刻し直した。ということではないでしょうか。
あくまでも推察の域を出ないですが。

673犀角独歩:2004/04/08(木) 12:19

愚鈍凡夫さん:

> いつしか「戒壇之本尊」に変身させられた

わたしはこの可能性を、実は三学無縁さんと話し合っているのです。
達師は御影像の後ろに弥四郎漫荼羅が置かれてあったというわけです。

わたしがそれを読んで直ちに思い出したのは開扉された御影堂の宮殿厨子のことです。
『明細誌』によれば「仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸」とあります。

板漫荼羅の大きさは1m9cm、御影は94cmで15cmですから大きさの割合は良いでしょう。
しかし弥四郎漫荼羅は「四尺七寸五分」すなわち、1m42cm5mmです。御影のほぼ1.5倍です。これは実にバランスが悪いでしょうね。しかし、したの腰書台座がなければ案外、いい大きさかも知れません。どちらにしても御影の1.5倍の高さがある板漫荼羅が後ろにあったとしたら、須弥壇全体のバランスからして収まらないのではないのか?という疑問が生じるわけです。つまり、その段階では腰書台座部分はなかったのではないのか?とわたしは考えたわけです。

実際のところの例の腰書が文献上に現れるのは量師『明細誌』であり、因師『有師聴聞抄佳跡上』であって、精師『年譜』の段階では腰書文としては記されていません。しかし、「南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主」とあるばかりです。

ここら辺は想像の域を出ないのですが、以上の事実から類推すると以下のようなことが言える可能性はあると思います。

・御影堂安置段階で腰書台座なし
・宝蔵に遷したあと、『年譜』の記述と本門戒壇本堂に置かれていた経緯から台座に腰書された

案外「本門戒壇之」というのは‘本門戒壇’本堂にあったこれ、という意味と考えられなくもないと思うわけです。

まあ、これも推論に過ぎませんが。

674犀角独歩:2004/04/08(木) 12:24

【673の訂正】

誤)板漫荼羅の大きさは1m9cm、御影は94cmで15cmですから
正)板漫荼羅の大きさは1m9cm、御影は94cmでその差15cmですから

675犀角独歩:2004/04/08(木) 14:17

一つ書き忘れました。

もし御影堂に半丸太の弥四郎漫荼羅が安置されてあったら…。想像すればわかりますが、前に御影像が出っ張り、うしろに半丸太が出っ張るわけです。要するに丸太一本分の漫荼羅御影が厨子に収まっている形です。しかし、内裏の設計はそんな形であったようには見えません。これは実に考えづらいでしょう。やはり「厚二寸二分」7.26cm の板と考えたほうが自然です。

676犀角独歩:2004/04/08(木) 14:27

おっと、大間違いをしてしまいました。
1尺は30.3cmでしたね。
となると、

いまの御影堂板漫荼羅は
仏壇宮殿の中板漫茶羅
竪三尺六寸(118cm)×横二尺(60.6cm)
日蓮聖人木像
居長二尺八寸五分(86.35cm)

弥四郎漫荼羅
竪四尺七寸五分(140cm)×横二尺一寸五分(65.1cm)二寸二分(6.6cm)

となりますか。以上の数値で673を読み直してください。
失礼しました。

677犀角独歩:2004/04/09(金) 16:20

ほとんどつぶやきに近いですが、石山系集団の言い分を聞いていると、まるで弥四郎漫荼羅を弘安2年10月12日1日で出来上がったような勢いで書き立てています。

しかし、そんなことはどだい無理です。図示だけならば1日の作業であっても、その半丸太の素材を削り整え、彫刻の下準備をするだけでもどれほどの日数が掛かることか。まして、彫るのにどれだけの日数が掛かることか。さらに漆を掛けて金箔を貼るまでの作業をすれば、たぶん半年近い時間が要するのではないでしょうか。


さらにつぶやけば、自分がなぜ斯く信じるようになったのか、その自分史をいま一度辿ってみる作業をわたしはすべての人に勧めます。

「日蓮大聖人は御本仏であらせられる。本門戒壇之大御本尊は大聖人の出世の本懐である。これを受け継いだのは日興上人である。われわれは国立戒壇の願行を推進するところに成仏の直道がある」

こんなことを活動と体験、教学の「研鑽」で確信するに至って信者としての自分があるわけです。しかし、「本当なのだろうか」、そう疑いを持つことが実は「入口」であることに気付くことは至難の業なのかも知れません。

実際の科学的な証拠という側面からすれば、実は蓮師が2月16日に生まれたことでさえ、はっきりとはわかっていないというのが現実です。それでもいくつかの確かな証拠の線を結べば、蓮師を素描することはできます。けれど、日蓮本仏、弥四郎漫荼羅、日興唯受一人、国立戒壇…、石山系で熱烈に騙られ、人々を動かしてきたものは、その素描と著しく相違していることを真面目に自己責任で調べた人たちは知っているわけです。

しかし、体験に基づいて…その体験が強烈であればあるほど、人間関係として濃厚であればあるほど…構築された信念体系は強固なものとなります。そしてその経験は自己存在と深く関連付いていますから、それを否定するあらゆる情報を否定する形ではたらくことにになります。この壁を越えて、真実を垣間見るのは、やはり至難な技なのかも知れません。また、それまでの人生の一切を否定することにも成りかねないこの作業を貫徹することは強い痛みと不快感が伴うことも事実です。

しかしそれでも、わたしは真実を見つめる勇気を持つべきであると、敢えて進言したいと思います。

678無言 三郎:2004/04/09(金) 21:38
略 貴言は核心中のその中を突いておるようです、、。 スッゲー発露かと存じまする、、。

679犀角独歩:2004/04/10(土) 00:11

> 678

これはわたしの言へのご賛同でしょうか。
であれば、有り難く拝受申し上げます。

680地名:2004/04/10(土) 02:15

648 独歩さん

窪田本(憲師図)と柳沢本の比較

諸尊_|日|柳
───┼─┼─
大六_|×|○
阿修羅|×|○
龍王_|×|○
龍樹_|×|○
章安_|○|×
妙楽_|×|○

異なるのは上記の諸尊だけですね。
先日以来毎日眺めているのですが、よくわかりません。

681犀角独歩:2004/04/10(土) 07:47

地名さん:

> 異なるのは上記の諸尊だけ

「だけ」ですか。そう理解されますか。
憲師がいう諸尊は章安はともかくとして、八部衆(天・龍・夜叉・阿修羅・乾闥婆・緊那羅・迦楼羅・摩護羅伽)の龍と阿修羅が作為的に落ちています。ここにはそれ故のコンセプトが存すると思われます。憲師の図どおりであれば、この弥四郎漫荼羅が示すのは、八部衆を除く世界観であるとなりませんか。

一つ、わたしが解けない謎を一緒に考えてくださいますか。

憲師『当家諸門流継図之事』に

「…日蓮御判、其の下に横
  右現当二世造立如件
 御判の右の脇に
  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白…」

と、あります。この御判の「其の下に横」「右の脇」というのはそれぞれ、どこの位置になると思われますか。わたしはこの意味が皆目理解できません。特に「下に横」というのが、何のことか意味がわからないのです。

682犀角独歩:2004/04/10(土) 13:37

柳沢宏道師『石山本尊の研究』を眺めていたら、阿部開師(顕師父)の漫荼羅が載っていました。備考に「創価学会草創期に日蓮正宗入信者に下付」と記されています。
なかなか歴史の皮肉を感じさせるものがあります。

また『聖教新聞』81号から転載したという写真は、戸田さんの後ろに例の模刻漫荼羅「大法広通慈折広宣流布大願成就(本尊)」が写っています。写真中、戸田さんの話を聞く人の横顔は若き池田さんのようで、特徴的な後頭部は竜(年光)さんではないかと思えます。

座配図を見ると、この漫荼羅、柳沢師が『日蓮上人』掲載グラビアの弥四郎漫荼羅をA0サイズまで伸ばして解析したという座配図とほぼ同じでした。

相違点は
・釈提桓因大王が帝釈天王
・二千二百二十余年が二千二百三十余年
・「若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号」がある
という差だけです。

小さくてよく見えませんが、弥四郎漫荼羅の特徴的な愛染の形・經旁の止筆という二大特徴をちゃんと‘書写’してあるようでした。

あと恭師の貞明皇后授与漫荼羅も『聖教新聞』第61号掲載としての転載されているのです。戸田さん当時、平気で漫荼羅の写真が載っていたということになり、この点も興味深いと思ったものです。

683地名:2004/04/12(月) 20:29

681 独歩さん

松本佐蔵「弘安二年大曼荼羅と日興師」昭和5年発行、興門資料刊行会覆刻平成13年のP51−52で

「什宝 記録中 摘録
  一 本門戒壇之板大曼荼羅日蓮聖人筆
     十界勧請 御判ノ下横ニ並ベ 為現當二世造立如件
     本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白
     弘安二年十月十二日矣」

p52に
 日蓮花押図示  右為現當二世
  同  図示  造立如件
  同  図示  本門戒壇也(之か字が明瞭せず)
  同  図示  願主 弥四郎
            国重
         法華講衆等
            敬白 」

684地名:2004/04/12(月) 20:46

683

「右」は「造立」と同じ並びです。
「法華講」も一字下げです。 書き込みの関係で崩れましたが「横並び」です。

p52には
「大正十五年名古屋岩倉等二ヶ所において慈龍窟受持一行の信徒一類がこの本尊の
腰書に就いて疑いあり迚講演会を開く
道本(松本佐造のこと)この講演を聞き後
石山日柱師に
その実否を聞く
柱師曰
勿論御正筆なり

横に並べられたるは、かくの如し迚一紙に記さる
すなわち下に記する如し」

このことではないでしょうか。

685地名:2004/04/12(月) 21:02


>憲師がいう諸尊…八部衆(天・龍・夜叉・阿修羅・乾闥婆・緊那羅・迦楼羅・摩護羅伽)の龍と
>阿修羅が作為的に落ちています。
>ここにはそれ故のコンセプトが存すると思われます。
>憲師の図どおりであれば、この弥四郎漫荼羅が示すのは、
>八部衆を除く世界観であるとなりませんか。

なるほど。六道はすべて勧請されているはずだということですか。

686犀角独歩:2004/04/12(月) 22:30

地名さん:

横並びというのは、句が行になって横に並んでいるということでしょうか。
憲師の記述もそうでしょうか。判然としませんね。

> 右…造立…本門戒壇也

これが「也」であるとき、いったい、本門戒壇は何を指すのでしょうか。腰書きの上は漫荼羅本尊であって、戒壇という壇でもなければ建物でもありません。だいたい「右」とは何を指しているのでしょうか。おかしな縁由文であると思うわけです。

> …六道はすべて勧請されているはず…

そうですね。そのコンセプトが意味するところはよく理解できませんが、ともかくこの座配は八部衆を作為的に避けたというばかりの意味です。

687犀角独歩:2004/04/12(月) 22:36

> 柱師曰
> 勿論御正筆

これは、腰書きも蓮師の字であると柱師が答えたと云うことなのでしょうか。
石山歴代住職の言としてしっかりと記録しておきたいところです。
達師は「二千二百二十余年」と書いていないような迷言を吐きました。
併せて記憶に留めたいと思います。

688犀角独歩:2004/04/12(月) 22:52

ばらばらと書いて恐縮です。

> 弘安二年十月十二日矣

これもまた興味深い一節です。
「矣」は所謂、終尾詞で、これが付いているとするのはご呈示の文献ばかりです。

【矣】音イ「也」より語気が強く、きっぱりと言い切るときに使う。
(『新補漢文提要』新塔社 P44)

「本門戒壇也」ときて「弘安二年十月十二日矣」とまたきっぱり。
文面どおり読めば、弘安2年10月12日に(本尊ではなくて)本門戒壇が建立されたという意味になりますね。不謹慎ですが、思わず吹き出したくなります。

689犀角独歩:2004/04/12(月) 23:05

どうも、今日はばらばらと済みません。

わたしが吹き出したくなると言うのは、腰書きには「敬白」とある以上、「弥四郎国重法華講衆等が本門戒壇を弘安2年10月12日に本門戒壇の造立の以上の通りであると敬って申します」という意味になっている点を言うわけです。

もしこの文が「正筆」、すなわち蓮師の文章であるならば、蓮師こそ弥四郎国重であり、それも、誰に対してか知りませんが、「敬って白(もう)す」書いたことになるからです。柱師というのは、まさか冗談を言ったわけではないでしょうし、松本氏がこれぐらいのこともわからず、大まじめで書き残しているとなるとほとんど‘漫談’ではないかという意味です。

もし弥四郎国重・法華講衆に書いて与えるのであれば、必ず、「授与」となるでしょう。ここが「敬白」となっているのは、造立者が、蓮師・あるいは仏その他‘恭敬の対象に敬って申し上げる’からにほかなりません。ならば、この文は蓮師の文であってはならず、必ず他筆でなければ辻褄が合わないことになります。「馬鹿も休み休み言え」と言いたくなります。こんなことを大まじめに書いて本を刊行する松本氏なる人物は漢文の基礎も知らないか、いやさらに知らないのは柱師かと嗤いたくなるわけです。

690地名:2004/04/13(火) 21:33

独歩さん

上記数項目にわたりご指摘いただきましたが
松本師に同調しているから掲載したわけではなく

「…横に並べ…」とはどのような意味かについて
色々と探したところそれが同師の本であったということです。

本に記載されている通りに記したつもりなのですが
この本には、横に並べて記載されています。

これは本を見ていただくしかないのですが、
そうですね

木下日順師の本の冒頭に富士大石寺板本尊十界座配の漫荼羅が掲載
されていますね。

そこに「為現当二世…」と記されていますが、これと同じ配置です。
この図は、これが右に寄っていますが、松本師の本は花押の下にあり

ます。だから「…御判の下横に並べ」とあるのではないでしょうか。

691犀角独歩:2004/04/13(火) 21:42

地名さん:

言葉足らずで申しわけありません。
資料をご提示いただいたことに感謝しております。
上述したことは知名さんに疑義を呈したのではなく、あくまで松本氏、柱師のおかしな天を舉げたものです。
まず、お詫び申し上げます。

692地名:2004/04/13(火) 21:46

686について

>横並びというのは、句が行になって横に並んでいることか。

はい、これは上述したとおりです。

>憲師の記述もそうか。

憲師の「当流…」という本を探しているのですがいまだ見つけることが
できないでいますので、同師のものがそうなのかどうかはわかりません。

憲師の本はどこにありますか。

> 右…造立…本門戒壇也
>これが「也」であるとき、いったい、本門戒壇は何を指すのでしょうか。

「也」は、松本師の本でも「也か之か字が明瞭せず」と記されています。
「右」については、松本師の本は「右為現當二世」とあります。
しかし、木下師の本は「為現当二世」です。

693地名:2004/04/13(火) 21:52

691について

いえいえそのように…。
こちらこそ木下師の御本をご紹介いただき感謝しています。

「大石寺明細誌」「おう惑顕本記」も例のガリ版刷りでしょうか
拝読させていただきました。

694愚鈍凡夫:2004/04/13(火) 21:57

横レス失礼します。

「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
やはり、"取って付けた言葉"ということでしょうか。 (^_^;)

695地名:2004/04/13(火) 22:02

松本師のものは、松本師の質問に対して柱師が「横に並べられたるは斯くの
如し」として、「一紙に記さる」として記されたものです

木下師の本の図との違いのみ書きますと

松本師 右 あり
木下師 右 なし

「造立如件」 同じ

松本師 「本門戒壇也」(也か之か字が明瞭せず)
木下師 「本門戒壇願主」

松本師 「願主 弥四郎
        国重」  願主は弥四郎と国重の中央に記されています
木下師 「弥四郎国重」

「法華講衆等
    敬白」 両師とも同じ  以上です。

696地名:2004/04/13(火) 22:10

681について

憲師『当家諸門流継図之事』に

「…日蓮御判、其の下に横
  右現当二世造立如件
 御判の右の脇に
  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白…」

とあるわけですね。

松本師の本にはここの部分が
「十界勧請 御判ノ下横ニ並ヘ…」と斯かれています。

そして、これは古書の摘録だと。いま手元に「家中抄」がないので
確かめられないのですが(家中抄以前には記されたものがないと思いますので)

697地名:2004/04/13(火) 22:15

694 愚鈍凡夫さん

>やはり、"取って付けた言葉"か。

すみません。そうなのかどうか私には何ともわかりません。
ただ客観的実証的中立公平に考究したいと思っています。

698地名:2004/04/13(火) 22:18

695について

またずれてしまいました。

松本師
願主 弥四郎
   国 重

  願主は弥四郎と国重の中央に記されています


699地名:2004/04/13(火) 22:33


687について

> 柱師曰
> 勿論御正筆

>これは、腰書きも蓮師の字であると柱師が答えたと云うことか。

これは、そう言っているのか、
そこまでは言っていないのか私の国語力では少し自信がありません。

正文は上記したとおりですが、略記すると、慈龍窟、清水梁山師のことでしょうか。
慈龍窟たちが「この本尊の腰書について」疑いあり、講演会を開いたので松本師

が聞いた後で柱師に聞いたところ「勿論御正筆なり」と言われて一枚に「横に並べはこのようだ」
と記されたというところでしょうか。

700地名:2004/04/13(火) 22:40


688について

> 弘安二年十月十二日矣

「矣」と松本師の本では記載されています。
ただこれは木下師のものやそのほかの本には記載されていないので

もしかしたら誤記かもしれません。
私も記していてへんだなあと思ったのですが原文に忠実のほうが
いいと思い記しました。 以上です。

701犀角独歩:2004/04/14(水) 07:47

地名さん:

> 憲師の本はどこにありますか

わたしは『日蓮聖人の本懐』(増補版)P197に載る「当家諸門流系図の事」で見ました。
記述によれば日宗全18ノ149頁に記載されているとのことです。

> 「大石寺明細誌」「おう惑顕本記」も例のガリ版刷り

『大石寺明細誌』は志師の批判書として本門社からガリ版で
『誑惑顕本書』も、やはり、ガリ版で同社からだと思います。
現物は手に取ったことはありません。


愚鈍凡夫さん:

> 取って付けた言葉

所謂、腰書はまさにこの表現がピッタリだとわたしも思います。
けれど、どこから「取ってきた」のか? この点がわかりません。
中世の文献では「弥四郎国重」は波木井円師、あるいはその嫡男とするのが通説となっていたと窺えます。精師、完則師は嫡男説、憲師は円師説です。
腰書の記述は一様ではなく、頭に「右」が付くもの・付かないもの、「本門戒壇之願主」「本門戒壇願主」と之が付くもの・付かないと様々です。
行の字配りに至っては地名さんが指摘されるとおり、これまたバラバラです。
木下本、松本本は紹介されましたので、以下、完則図・柳沢図も紹介しておきましょうか。

【完則図】

右為現當
二世造立如件

本門戒壇之

願主 弥四郎
   国重

法華講衆 敬
     白
弘安二年十月十二日

【柳沢図】

右現当二世
造立如件
本門戒壇之
  弥四郎
願主
  国重
     敬
法華講衆等
     白
    十月
弘安二年
    十二日

諸尊勧請の下に横幅いっぱいに広がって書かれています。
なお、わたしが憲師の言う
「日蓮御判、其の下に横
  右現当二世造立如件
 御判の右の脇に
  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白…」
を挙げたのは判下に横・右脇という位置関係がどうにも理解できないからです。
記述どおり書いてみれば

  本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆敬白
  弘安二年十月十二日
日蓮御判 右現当二世造立如件

となり、句節が入れ替わってしまうだろうと思えるわけです。
尤もこのほうが「右」の意味は取れることになりますが、たぶん、これは違うだろうと思うわけです。

702犀角独歩:2004/04/14(水) 07:52

レイアウトが崩れました。

完則図は願主の下に2行に分けて弥四郎/国重
法華講衆等の下に2行に分けて敬/白

柳沢図も願主、法華講衆等は同じ
さらに弘安二年の下も2行に分けて十月/十二日

です。

703犀角独歩:2004/04/14(水) 18:41

とある方から資料の提供を受けて今更ながらに気付いたのですが、北山本門寺で「万年救護本尊」と言えば、弘安3年5月9日の禅師授与漫荼羅を言うのですね。ちょっと、新鮮でした。たしか、同寺で戒壇本尊と言うも、これであったような。

成句が持っている固定観念に読む側が惑わされてはいけませんね。
本仏といえば、ある信念体系下では釈尊を指し、他の信念体系では日蓮を指します。
まあ、あるところでは○○先生を指してしまうわけですから(爆)

要は、目玉になる成句と如何にリアルに‘関連づけ’ができるかに集団と指導者の命運が係っている構造を理解する客観視をもてるか否かです。

尤もこれは地獄=邪宗、成仏=自分たちと単純に信じられる子供騙しとも共通しています。

顕正会員と話したら「自分たちの組織以外は功徳はない。創価学会は正本堂以降、功徳を失った」(笑)、創価学会は「世界平和を実現する唯一の団体」(笑)それぞれ自分たち以外の情報はまったく見ずにこう言い切ります。自分たちが情報操作されていることに気付いていません。この事情は所謂「本門戒壇之大御本尊」という日蓮筆・日法彫刻の真筆…彫刻ならもはや真筆ではないのだけれど…プロパガンダを鵜呑みにしたうえで、自分の個人的体験(個人的リアリティ)から、それは絶対に正しいと決めつけてしまうわけです。

キーワードと個人体験が関連づけられれば、宇宙創生から未来永劫まですべて説明解釈できるのがカルト理論です。

権威と認められるご立派な御仁のお言葉だから間違いがない…、こういった自らで事実を究明しようという手間を省いた‘思考停止’が人生をそのものを狂わしてしまう…、これはわたし自身の実像であり、所属した集団と信徒の偽らざる実像です。

しかし、操る側が、目玉商品が贋物であることは先刻ご承知なのです。
学会を含む石山系集団に共通した風景です。

704愚鈍凡夫:2004/04/14(水) 18:58

記録を残した先人たちが、見間違いや記憶違いでなく、見たまんまのことを描写しているとすれば、「戒壇之本尊」が複数存在することになりますが、腰書を改行して記してあるのは単にスペースの問題でしょうか(そこ以外に記すスペースがなかったという意味)。逆に、その場所でなければならない理由があったのでしょうか。それとも、もっと他の意味があってのことでしょうか。
そもそも何故、不自然な表現で記さなければならなかったのでしょうか。それに、裏ではなく表に彫刻してあるのは何故でしょうね。これは、相手に読ませる目的であると思えますが、読むと当然、「弥四郎国重」って誰? ってことになりますよね。 (-_-;)
逆から言えば、蓮祖在世に「戒壇之本尊」の発想自体がなかったことを示唆しているといえるかも知れませんね。だから、"願主"に無名の人物(架空の人物?)を立てるしかなかったのかも知れません。
しかし、いずれにしてもやっかいですね。国重さんは。 (?_?)
どこかの○(マル)田先生でないだけましですか。

705犀角独歩:2004/04/15(木) 08:13

> 「戒壇之本尊」が複数存在

わたしの主張は一貫して是の如くです。更に言えば、本尊部も、腰書台座部も、それぞれ、別のパーツとして、そうであったろうと考えています。更にさらに身替本尊は有師のものばかりではなく、もっと多かったのかとも考えるわけです。(尤も有師造立板漫荼羅が‘身替り’だとは考えていません)

そして、今のは何時の時代に作られたもので、何を素材にしたのか…、その考証は、それ以前の歴史資料でやれば、読み間違えてしまうということです。実は(公開の投稿で記しきれませんが)この点までは結論は出しています。しかし、わたしがわからないのは、いったい、いつから、腰書台座が付けられ、板が半丸太になったのかということです。また、この二つの出来事は時間差で実施されたのであろうとは予想するものの、時代が特定できないことです。

所謂「本門戒壇の大御本尊」が身延で造立され、それが今に至るという宗内の‘常識’から離れないと何事も見えません。

> 「弥四郎国重」って誰?

造立当時の‘常識’としては波木井円師、あるいはその嫡男でしょう。
弘安2年10月12日という時間設定からすれば、その段階で、円師は興師の教化で蓮師を招き寄せ、蓮興二師は身延在山というストーリーです。この場所で最も有力な檀那と目されるのは円師を置いてないわけですから。

先にも記しましたが、精師・量師・完則師は嫡男説、憲師は円師説でしょう。
これが当時の支配的な伝説となっていたのではないでしょうか。

まずは造立当時はどう考えられていたか、次にその伝説が本当かどうか、そして、実在か非実在かと論を進めるべきだと考えます。近代、志師などにこの伝説に疑問を挾まれ、史実とも反することから、この説は消え、それにとって代わって、弥四郎国重蓮師己心人物説が宗内で一般化され、現在にいたるという流れがあるわけでしょう。

近代与えられた‘宗内常識’を除けて、その時代に立って考えることから始めないと、この考証は失敗します。

706犀角独歩:2004/04/15(木) 14:23

先ほど、三学無縁さんからご連絡が入り、以下の点、ご指摘を受けましたので、報告旁々アップします。

「右為現当二世
 造立如件
 本門戒壇之
 願主 弥四郎/国重
 法華講衆等 敬/白
 弘安二年十月/十二日
大石寺日胤筆正模本尊(東京常泉寺蔵を底本とし、大石寺亨師資料類聚二三九にある伸書のもので校正した)」(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』P397)

/ で区切ったところは前文の下二行に分けて書かれていることを示しています。
これで腰書については、ほぼ出揃ったことになるでしょうか。

707みかん:2004/04/15(木) 16:42
オフトピック。本論とは関係ありません。
「上代?」
日蓮法華宗の教学においては、「上代」というのはいつごろをさすのでしょうか。
またその用法は、古くから見られるのでしょうか。

このスレで「上代」という言葉が多用され、「初期」「以前」「昔」
というほどの意味をさしているようです。
また『日蓮宗上代教学の研究』、『日興門流上代事典』といった本もあるようです。

が、学問の世界、特に国文学史では、上代とは「およそ奈良時代」の事をさします。
>>600 番で独歩さんが使っているのも、おそらくこの意味だと思います。
そのことは関連領域の、歴史学、仏教学、思想史学の人も当然しっています
ので、上代を奈良時代という意味ではなくて、「初期」「昔」という
意味で使うことはまずあり得ません。
鎌倉、室町時代であれば「中世」という言葉を使うのが普通です。

日蓮系の教学、宗学の人が上代を別の意味に使っているのには、少し驚いています。

708犀角独歩:2004/04/15(木) 17:00

みかんさん:

極めて学的な常識からのご指摘有り難うございます。
尤もなご意見であろうかと存じます。

けれど、日蓮門下はやはり日蓮を基準として「聖滅」などとも言うぐらいですから、その狭い世界での特定の、語彙の使用はあろうかと思います。

殊、石山系において「上代」の定義は以下の亨師の言に基づいているのではないでしょうか。

「『上代』とは・宗祖開山時代を云ふ・但し明治当代より云へば有師時代とても上代と云ふべし」(有師化儀抄(水鑑沙弥)註解)

まあ、この定義が一般的な学問の語法と相違している点は意識していましたが「富士門流信徒の掲示板」という範疇での議論ですから、この世界で言う碩学亨師の定義に基づいてきました。たぶん、他の方も同じであろうと思います。

しかし、もちろんのこと、富士門流という範疇を出て、記述する場合に、上述の「上代」の定義は意味をなさないことは当然のことでしょう。

709犀角独歩:2004/04/15(木) 17:08

石山文書で「上代」の用法を雑駁ながら拾えば以下のとおりです。

有師化儀抄(南条日住)
一、上代の法には師範より不審を蒙る族らをば一度訪ふべし、二度とは訪ふべからずと云ふ大法なり
一、謗法の妻子眷属をば連々教化すべし、上代は三年を限りて教化して叶はざれば中を違ふべしと候

有師物語聴聞抄佳跡上(日因)
此大石が原と申すは上代地頭奥津方より永代を限り十八貫に買得…
上代地頭奥津方とは日行上人・日時上人両代の間…
・日郷・弟子中納言阿闍
上代・下山の三位阿闍梨日順と申しけるは・高祖の御弟子の中老の衆…
上代等と者祖師、興師、目師の御代也

有師化儀抄(水鑑沙弥)註解(日亨)
去れば上代日目上人十三回の御卒都婆を日道上人題目計り遊し…
上代にも殊の外不信なる人有り・高祖聖人身延山御住の御時…
「上代」とは・宗祖開山時代を云ふ・但し明治当代より云へば有師時代とても上代と云ふべし…

710愚鈍凡夫:2004/04/15(木) 22:09

>>703:犀角独歩さん。
読み直していて、ふと思ったのですが、

> 北山本門寺で「万年救護本尊」と言えば、弘安3年5月9日の禅師授与漫荼羅を言うのですね。ちょっと、新鮮でした。たしか、同寺で戒壇本尊と言うも、これであったような。

ということは、
北山では「本門寺に掛け奉る本尊=戒壇之本尊」という図式があるということでしょうか。
石山のように「御影堂=本堂=戒壇堂」なんてのも有りだったりして。 (-"-;A ...アセアセ

711犀角独歩:2004/04/16(金) 01:21

710 愚鈍凡夫さん:

さすが。そうですよ。ですから、同じ成句を使っても指しているものが全然違う石山・北山・保田という図式があるということです。

で、その前提として、万年救護、戒壇本尊などという成句が、現物よりも先行しているという時系列を考慮しないと読み間違えると、わたしは指摘したわけです。

712空き缶:2004/04/16(金) 01:24

 興風談所の「御書システム11」がダウンロードできるようになりましたね。
 今回のバージョンアップでは、御本尊資料が新たに加わっており、現存・曽存の170の御本尊について出ています。
 「もしや」と思い、順次調べていったところ、案の定「本門戒壇大御本尊」が出ていました。脇書は「 本門戒壇之願主弥四郎国重 / 法華講敬白 / 弘安二年十月十二日右為現当二世造立如件」となっていました。「法華講衆」ではなく「法華講」となっていたのは単なる間違いだと思います。
 出典は富士宗学要集8巻となっており、大きさは富士宗学要集1巻の「有師物語聴聞抄佳跡上」の記述どおりでした。
 さすがの興風談所も、この問題には深く触れないようです。
 しかし、他の御本尊資料等を含めこのシステム自体の資料的価値は大変すばらしいものと思います。しかも無料でダウンロードして使用できるところに感動さえおぼえます。

713地名:2004/04/16(金) 01:26

705は重要です。

>わたしの主張:漫荼羅複数説
>本尊部も腰書台座部もそれぞれ別のパーツとしてそうであったろうと考。
>身替本尊は有師のものばかりではなくもっと多かったのかとも考。
>(有師造立板漫荼羅が‘身替り’だとは考えていない)

これは稲田老師のパーツ説から更にもう一段進化した新説ですね。
現宗研でも言っていないのでは…。

>今のは何時の時代に作られたもので、
>何を素材にしたのか…、
>その考証は、それ以前の歴史資料でやれば、
>読み間違えてしまう。

確かに精師は家中抄「日法伝」では熱原の事は記していない。
戒壇本尊と熱原との関係性は確か述べていないと思います。
日法伝以外の箇所で述べていれば失礼します。

>わからないのは、
>1いつから腰書台座が付けられ
>2板が半丸太になったのか
>この二つの出来事は
>時間差で実施されたのであろうと予想するが、
>時代が特定できない。

半丸太説を述べたのは達師のみではないでしょうか。

>所謂「本門戒壇の大御本尊」が身延で造立、
>それが今に至るという宗内の‘常識’
>から離れないと何事も見えない。

「当家諸門流継図之事」日蓮宗宗学全書では、日憲師の増補の前の文(作者未詳だが身延門流の人)に
日蓮の一周忌の時百日か二十日番かでもめて日興が「向後は御番無用なり、そのゆえは大聖人の仰せに身延
の隠居所をば拙者に御付属と云々、自余の云この義口惜しと云々、すなわち急に身延山に帰りて『板本尊』
と岡の宮の日法御作の大聖人の御影木像とを盗取て出山したまうゆえに自余と御不和のゆえに勝劣を建立し
たまうなり、…」

内容はどうかなあというものなのですが、ここに「身延山」「板本尊」と出ているのが気になりました。

>弥四郎国重
>造立当時の‘常識’は波木井円師、あるいはその嫡男。
>弘安2年10月12日の時間設定…その段階で、円師は興師の教化で蓮師を招き…。
>精師・量師・完則師は嫡男説、憲師は円師説。
>これが当時の支配的な伝説となっていたのでは。

当時というのは精師のころという意味ですね。

>まずは造立当時はどう考えられていたか、
>次にその伝説が本当かどうか、
>そして実在か非実在かと論を進めるべき。
>近代、志師にこの伝説に疑問を挾まれ(史実と反することから)この説は消え、
>それにとって代わって弥四郎国重蓮師己心人物説が宗内で一般化、現在にいたる流れがあるわけ。
>近代与えられた‘宗内常識’を除けて、その時代に立って考えることから始めないと、
>この考証は失敗します。

川澄師の「大石寺法門」の「楠板の本尊」に「…日蓮正宗発足の時、真蹟と決定して公式に決まった…」
「戒壇の本尊」に「…近代の混乱の始まりは専ら熱原三列士の導入以後のことである。…そして行きがかり上、
つい真蹟ということになったのである。それから亦混乱が始まったのである。真蹟をもって一閻浮提総与として
日興に授与されて大石寺が格護しているとなれば大変である。弥四郎国重についても宗門でも色々と研究され
たようであるけれどもあまり名案は見つからなかった…」

こういう見方もあるという参考までです。

714地名:2004/04/16(金) 01:29

712 空き缶さん

失礼します。

>興風談所の「御書システム11」がダウンロードできる…。

これはどのようにすればできるのでしょうか。
すみませんが可能でしたら教えて下さい。

715空き缶:2004/04/16(金) 01:35
地名さん、はじめまして。以下のHPにアクセスしてみてください。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/

御書システムを利用するには、データベースソフト「桐」が必要になります。体験版(3ヶ月使用可)もあわせてダウンロードしてください。

http://www.vector.co.jp/soft/maker/k3/se272639.html

それではお休みなさい。

716地名:2004/04/16(金) 01:43

712 空き缶さん

ありがとうございます。
空き缶さんの御説、確か時師説でしたですか。

よその掲示板で述べられていた事拝見して大変勉強になりました。
お礼まで。

717犀角独歩:2004/04/16(金) 09:54

再び710 愚鈍凡夫さんへ

> 北山…「本門寺に掛け奉る本尊=戒壇之本尊」

そうです。『誑惑顕本書』で禅師授与漫荼羅を万年救護、戒壇本尊というときの基礎的な考えになっています。

ところで、突然ですが、興師自身に重須、あるいは富士に戒壇堂を建立すると記した確実な資料というものはあるのでしょうか。その弟子が「日興曰く」ではなく、興師自身の文書です。こんな基本的なことを今更ながら、はたと資料も散策もせず、考えていた朝でした。

> 石山のように「御影堂=本堂=戒壇堂」

これは興師にしても、その継承者にしても、そうは考えていませんでしょうね。
本堂は本堂、御影堂は御影堂、将来建てるべきは戒壇堂と分けて考えていたように思えます。

718犀角独歩:2004/04/16(金) 10:21

713 地名さん:

> 稲田老師のパーツ説…一段進化した新説
> 現宗研でも言っていないのでは

わたしはぜんぜん先行業績を気にしないほうで、自分で考えた結論ばかりです。
ですから、真面目に現宗研の該当研究を追っていないのですが、日教研も併せて、いまここに書いていることは誰しも云っていないと言う自負ばかりはあります。(美濃さんやらと似ているようなことを言われますが、冗談じゃないという気分です)
まだ皆さんを驚かすことはいくつかあります。それもいつか記そうと思っています。いまは資料を蒐集しています。

> 精師は家中抄「日法伝」では熱原の事は記していない。
> 戒壇本尊と熱原との関係性は確か述べていない

そうですね。熱原法難と(弥四郎漫荼羅ではなく)「弘安二年漫荼羅」の関係を言及しているのは『御伝土代」でした。また、法師の元々の伝説は御影造立でした(偽書・松野御書)。それを因師は無理失理に弥四郎漫荼羅をくっつけてしまいます。そして、それ以前にあった弥四郎国重=円師(嫡男)説と、この三つが合わさっていまの石山のアナウンスが出来上がったと分析できます。完全なパッチワークです。弥四郎漫荼羅もパッチワークなら、造立縁由の物語もパッチワーク。何たることかと思うわけです。

> 日憲師の増補の前の文(作者未詳…)…身延山…『板本尊』

これは興味深いご紹介です。
石山義の儘を延山僧が記すというのは単なる紹介なのでしょうか。
いつ頃の時代のものでしょうか。

> 川澄師…楠板の本尊…日蓮正宗発足の時、真蹟と決定

これは大正元年の単立決定のときを言うのでしょうか。
三烈士との関係論を非難すると言うことは暗に興師を批判していると取れますね。
ご紹介有り難うございます。

719愚鈍凡夫:2004/04/16(金) 18:55

結局は、当山こそが蓮祖の正嫡であり、中心拠点であると主張するための証文として、あるいは道具として、祖滅後に命名された「戒壇之本尊」・「万年救護本尊」が利用されているように思います。
各派が存続する限り、果てしなく続く"水掛け論"なんでしょうが、中にはときどき我に返る奇特な住職もいたんでしょうにね。
そういう住職の書は改ざんされたり、無視されたり、ゴミ扱いされて破棄されたりしたんでしょうね。

ところで、犀角独歩さん、

> ところで、突然ですが、興師自身に重須、あるいは富士に戒壇堂を建立すると記した確実な資料というものはあるのでしょうか。その弟子が「日興曰く」ではなく、興師自身の文書です。こんな基本的なことを今更ながら、はたと資料も散策もせず、考えていた朝でした。

朝からハードなことを考えてらっしゃいますね(体に悪そ〜っ。頭にはいいかも?)。 \(◎o◎)/!

「日興曰く」とは「相伝書によると」という意味なんでしょうが、当の「ネタ本」について記していないということは、結局は「孫引き情報によると」という意味なんでしょうね。

その時々で行き当たりばったりの創作をしていくから時系列的に整合性がなくなるんですよね。石山の歴代住職は、先師たちの書を読んでさぞかし苦悶したことでしょう。腹の中では、「んなワケねえだろ」と思っていたように推察します。

720地名:2004/04/16(金) 21:37

718 独歩さん

>自分で考えた結論。
>現宗研…日教研…いまここに書いていることは誰しも云っていないと言う自負あり。

そうだと思います。

>美濃さんやらと似ているようなことを言われますが、冗談じゃないという気分です

似ていないと思いますよ。
日蓮宗等いままでに10も20も越える批判書が出されていますし、論点は変わらないわけですから、部分で似るのは当然ですね。
しかし新説だと思いますよ。

>まだ皆さんを驚かすことはいくつかあります。それもいつか記そうと思。

その節には是非とも拝読の栄に浴したいと思います。
ありがとうございます。

>熱原法難との関係
>弥四郎漫荼羅もパッチワークなら、
>造立縁由の物語もパッチワーク。

既にご承知の事と思いますが「法の道」第弐拾編・明治38年拾月発行・法道会で
大石日応師の「弁妄書」で弥四郎国重について「宗祖深意」説を述べています。
御参考まで。

> 日憲師の増補の前の文(作者未詳…)…身延山…『板本尊』
>これは興味深い。
>石山義の儘を延山僧が記すというのは単なる紹介なのか。
>いつ頃の時代のものか。

はい独歩さんから「日蓮宗宗学全書」に記載ある旨教えて頂いたので見ました。
「日蓮宗宗学全書」18巻の142〜164ページまでが「當家諸門流継図之事」で、そのうち
149〜151ページまでが「富士門徒大石寺継図之事」です。その後は北山、西山等です。その前には日昭、日朗等あります。

で、これを書いた人ですが、それは「同全書」の2ページで、
「當家諸門流継図之事は作者年代共に明かならざるも、この書の作者が身延門流の人なりしは、文に徹して推断するに難からず。而して後年下総峰妙興寺の大法院日憲上人之を増補して今日に至れるか。更にその年代に就て考ふるに、本書143頁に「日紹當住」とあり、而して日紹が先師日堯より妙顕寺を受けたるは文禄二年なれば、この書の記述が文禄二年以後なるを推定し得べく、また159頁に「日厳當住」とあり、厳師は慶長八年の遷化にして、同師存生中の著とすれば慶長八年以前の作なること自ら明かなり。」とあります。

721地名:2004/04/16(金) 22:09

718 独歩さん

> 川澄師…楠板の本尊…日蓮正宗発足の時、真蹟と決定
>これは大正元年の単立決定のときを言うのか。

川澄勲師の「大石寺法門」のP168〜176が「戒壇の本尊」の項です。引用したのはP172です。
「楠板の本尊」はP164〜167です。引用したのはP164です。

単宗になったのが確か明治33年頃かと、それから正宗を名乗ったのが大正の頃かと、
その時に「山法山規」を変えて戒壇本尊を真蹟と決定したはずです。昔それを読んでまずいことをしたなと思いました。
客殿の奥深くましますからいいわけで、全面的に打ち出したら物騒になります。

同書の「一閻浮提総与」の項P256〜258には川澄師はこう記されています。
「…戒壇の本尊を真蹟ときめた上で一閻浮提総与とするために混乱が起こるのである。真蹟といわない頃には何事もなかったものが、大正になって真蹟と決めた処から混乱が起きているのである。…一閻浮提総与の語が一宗建立以前の処で受けとめられるなら、何の不都合もないが、滅後六百年を過ぎて急に真蹟となり、同時に日蓮正宗も発足した。その直後に問題がこじれたのである。真蹟をもって遺命があれば、他門下は日蓮正宗の下に集まらなければならない。そこで始まったのが真偽問題であったが、これは元より有利な筈はない。…」

>三烈士との関係論を非難すると言うことは暗に興師を批判していると取れますね。

これは当住に対する批判及び明治以降の石山のあり方に対してではないでしょうか。
川澄師の本を読んだ感想では興師批判はなかったように思っています。

722三学無縁:2004/04/16(金) 22:32
>719
愚鈍凡夫さん
お久しぶり、でしょうか。もしかしたら直接には「はじめまして」でしょうか。わたくし、かなり老人性なんとやらが進んでいるようで失礼します。尚且つ、この掲示板を見ることもままならないので、とんちんかんかもしれません。

>その時々で行き当たりばったりの創作をしていくから時系列的に整合性がなくなるんですよね。石山の歴代住職は、先師たちの書を読んでさぞかし苦悶したことでしょう。腹の中では、「んなワケねえだろ」と思っていたように推察します。

そうですよね。でも、その本心を吐露しないということは、同じ穴の狢ですよね。
弥四郎曼荼羅については、独歩さんが近々、驚天動地の著作を出されるということですが、
「その時々で行き当たりばったりの創作をしていく」
とのご意見を伺い、安心しました。
石山は批判に対してこれまで、ネットに限らず、ほとんど無視してきました。
近年の例外は、小野寺本尊と玉井拓本本尊くらいです。
しかし、日蓮の宗教にとって、小野寺本尊とか玉井拓本本尊とかは論外としても、ネタ元の弥四郎戒壇本尊など、導き出されるものなのでしょうか。
相伝書を全て除外したときに、石山の宗教としての何が残るのでしょうか。
もちろん、相伝書について直ちに全否定するつもりはありませんが、相伝書抜きで石山の正統性、正当性、を瑕疵なく主張できるのでしょうか。
もしも、できないとしたら、それは「トンデモ」ということにならないでしょうか。
皆さんのご意見を読ませていただき、石山に対して「日本宗教史上最大の詐欺」と思ってしまったのは間違いでしょうか。
もしも弥四郎曼荼羅が石山の言うようなものでないとするならば、それは何なのでしょうか。

>独歩さん
日蓮さんは三秘を建立したのでしょうか、しなかったのでしょうか。
で、三秘って、日蓮に則していうとなんなんですか。
で、三秘の根本は、日蓮に則すと何なのでしょうか。
石山教学から相伝を抜いて考えると、なーーーーーーーんにも答えが出てこないように思ってしまうのは如何でしょうか。

申し訳ありません、本日のカキコは、かなりの「ヨハライ」モードで、支離滅裂です。
また当分カキコできないとは思いますが、よろしくご教授ください。 かしこ








723地名:2004/04/17(土) 00:50

独歩さん

既にご承知の事ですがご参考まで。
八須日忍師の編著者兼発行者「創価学会に答う」昭和38年・辻説法会発行所より、板曼荼羅の偽作についてから一部分を抜粋してみます。
「第一にこの板本尊が偽物であると云いだしたのは大石寺と同じ日興の開山で大石寺と兄弟寺に当る北山本門寺六代の日浄と云う人だ。
富士山本門寺文書集日浄記(明応二年九月廿五日祖滅212年)に云く「日有(大石寺九代祖滅201年)開山の本懐に背き未聞、未見の板本尊之を彫刻す…」」
中略

「あの脇書きは、
為現当二世 造立如件 本門戒壇(の)願主 弥四郎国重 法華講衆等敬白
とあるのだ。「本門戒壇也」としてしまえば戒壇建立確定と読んでしまう、一字の違いは千字万章の違いになる。
この脇書を解釈すればこうなる。
「本門戒壇の願主の弥四郎国重及法華講衆等の現世安穏、後生善処を祈る為めに造立しました。敬って申します」と云うことなんだ。
第四、この脇書きの通り弥四郎国重と法華講衆の現世安穏、後生善処の為めに造立したので云わば墓に立てる塔婆の如き文面であり、大石寺で云う「世界総人類」の為めの造立では断じてない、…」
中略

「第五に、この板曼荼羅を明細に調査研究した人が今日までに二人ある。その一人は東洋大学学長境野黄洋博士、今一人は大聖人ご真筆の鑑定に関し我国の権威で立正大学教授の故稲田海素先生である。この御二人が鑑定の結果「偽物なり」との記録を残したという。
第六は、その偽作の根拠はマンダラの諸仏、諸尊と脇書や讃文の手筆が違っている。又この脇書及び讃文の箇処だけが彫刻していない。又小平君(注:小平芳平学会教学部長)は本尊は脇き書が重要であり、脇き書きに依って本尊の価値が定まるというがその脇き書きと称する「為現当二世」云々は脇き書きでなく本尊の下に書いた下書きである。(巻頭本尊参照)而も本尊の書体と全然違っている。「境野博士、稲田先生」の記録は正に重大である。曼荼羅は四方に四天王の門番があるので脇に入れたくも入れられないので下に入れた所は裏口侵入の跡が歴然たるものがある。上下ならいくらでも入れられる。日蓮聖人のどの本尊でも見てみたまえ、下に書いてある脇き書きなぞは一つもない、而も当然手筆は同じである。…」

「第七に大体この重大な下書きの弥四郎国重と云う人は誰人であるか。大石寺の諸書によると凡てマチマチである。
1.福重照平は日蓮本仏論に弥四郎国重は熱原在の百姓下で熱原法難に奮戦して死んだ、といい
2.明細誌(大石寺四十八代日量祖滅542年)には南部六郎実長の嫡男を弥四郎国重といい(南部家の系図書には弥四郎国重などはない)
3.家中抄」 略
4.小平教学部長」 神四郎を弥四郎というと
5.日蓮聖人年譜(富集5の128)」 略 
6.戸田会長 略 「聖教新聞(大石寺幹部質問会の席上の記事)昭和33年2月21日号「弥四郎国重は法華経を弘むべき一切の人を代表した人物で、大聖人己心の弥四郎国重なのです。中略 これは絶対に間違いないことですから信じて頂きましょう」 中略
7.亨師 富集11巻 「弥四郎国重に就き其の的拠なし」
8.高祖年譜攻異(富集9の265) 略
9.本化仏祖統記(富集9の264) 略
中略
「脇書きが大切で脇書きに依って本尊の価値が定まる」
それでは本尊の内容より脇書きが大切であるか。
中略
10.脇書きに依って本尊の価値が定まるとなれば南無妙法蓮華経の五字の曼荼羅は添え物か。
11.脇書きが大切で重大なら、脇書きのない、臨滅度時の本尊(鎌倉妙本寺に宗宝として格護)はどうなるか。大聖人御臨終の時にかけられた御本尊である。無益の御本尊を拝んだのか」

著者にお断りせずに一部分抜粋させて頂きました非礼をお詫び申し上げます。合掌

724犀角独歩:2004/04/17(土) 09:17

知名さん:

種種、有り難うございます。参考と言うより、たいへんに勉強になりました。
1箇所また打ち間違えてしまいました。

> (718の)三烈士との関係論を非難すると言うことは暗に興師を批判していると取れますね

興師ではなく「亨師」でした。川澄師は亨師批判をしているのかという意味でした。


愚鈍凡夫さん:

> 石山の歴代住職…腹の中では、「んなワケねえだろ」

こういうことはままあるわけでしょうね。
わたしのその代表こそ、当代住職なんだろうと思っています。

三学無縁さん:

これまたハードなご質問を。

> 日蓮さんは三秘を建立したのでしょうか、しなかったのでしょうか。

わたしは戒壇が言葉ばかりで、その理論化なしと思っています。

> 三秘って、日蓮に則して

難問ですね。見仏(観心)本尊としての五百塵点成道の本門教主釈尊、その発発心の弟子・上行に所伝された妙法蓮華経の題目、そして、戒壇については語らず。ただし、本尊抄に言う仏出現は賢王と現れた上行がなす造立であり、かつ堂宇の建立(戒壇)であると読めなくもあります。(言うまでもなく僧としての上行は正法弘持でこれが所伝の妙法五字を唱題と漫荼羅の形で表したのかと思えます)

> 三秘の根本は、日蓮に則すと

尊敬(そんぎょう)としての観心される久遠釈尊仏(本尊)から所伝された題目五字で流宣に当たる僧としての自覚が釈迦末法の当時、確立された三宝観でここに根本があったのではないのかと。

…わたしも朝からハードなことを考えて、愚鈍凡夫さんに驚かれましたが、三学無縁さんも酩酊モードになるもかなりハードなことを考えていますね(笑)

725地名:2004/04/17(土) 09:31

独歩さん
 
「創価学会批判の妄説を破す」創価学会教学部のP24〜25では、「創価学会批判」日蓮宗宗務院刊のP17、P21等での日憲師の上記記録について、勧請形式の誤りを指摘しています。同書P24〜25参照。
そこを摘記しますと、
「偽筆なり、とする第一の理由に、勧請形式を挙げ、日憲の記録を、そのままウノミにしたものであろう。中略
この批判書の17頁には、日憲の記録として、天台・章安を挙げ伝教を落としているし、21ページには、舎利ホッ・迦葉を落としている
。日宗善処の当家諸門流継図之事には、日憲が参詣して、くわしく拝し奉った結果として、舎利ホッ・迦葉もはいつているし、天台・章安・伝教となっている。…」

この部分は学会教学部の述べることが正しいです。両書を確認しましたが、指摘のとおりです。多分脱字してしまったのだろうと推測します。しかしこういう瑣末な部分で指摘されてしまうということはあります。

次に
「さて、日憲は何を見てきたのか知らないが、弘安二年の本門戒壇の大御本尊は、日憲のいうのとは、まったく違う。…」と。
ここは、しかし「まったく違う」と言うのですがその具体的内容は記されないわけです。

次に
「事実は、座配ももちろん、身延派の批判しているようなものではないし、また、章安など入っていない。…」と。
ここでは座配の具体的内容は記さないわけです。
「ただ大事だと思ったのは「章安など入っていない」という指摘です。

戸田会長、小平教学部長等は確か(当時)石山に談判して戒壇本尊を直拝しているはずです。いま昔読んだこととて資料がいま手元にありませんが書籍か大白蓮華等にそのことを読んだ記憶があります。
ですから座配も知っていると思われますので「章安など入っていない」と断言されている部分は要注意です。
ご参考まで。

726地名:2004/04/17(土) 09:40

>興師ではなく「亨師」でした。川澄師は亨師批判をしているのかという意味でした。

これは再度確認してみます。

それから日興が戒壇について「日興いわく」で記されていないかどうかですが、「日興上人御述作拝考1」高橋粛道著をざっと見た感じではありませんでした。
興風談所で発行の「日興上人著作集」でしたでしょうか。それを見たいのですがいま手元にないので…。
「曰く」ですとあるのですがね。

727地名:2004/04/17(土) 09:44

独歩さん

下記の三学無縁さんの指摘は大変重要ですので、是非ご説明願います。
私浅学のためこの深い意味がわからないでいます。可能でしたらで結構です。

>独歩さん
>日蓮さんは三秘を建立したのでしょうか、しなかったのでしょうか。
>三秘って、日蓮に則していうとなんなんですか。
>三秘の根本は、日蓮に則すと何なのでしょうか。

728地名:2004/04/17(土) 09:49

独歩さん

727について言葉足らずでした。

724に記された三学無縁さんに対するコメントをもう少し初心者にわかりやすく敷衍しつつご解説願いますということです。

729犀角独歩:2004/04/17(土) 12:39

地名さん:

> 日憲

ここのところ問題にしている完則図、日憲述、木下図、柳沢図のうち、「章安」の勧請を伝えるのは、憲師述ばかりですね、たしかに。それにしても、書損、わたしなど特に注意しなければならないことであると存じます。

それにしても学会の言「さて、日憲は何を見てきたのか」というくだりは実に味わいのあります。

> 興師…戒壇

先に疑問に挙げた確実な資料としての興師述の「富士事戒壇論」、これがないとなるとこれまた富士門流の‘常識’は大きく書き換えなければならないことになります。

同じような脈絡で考えると蓮師は建長5年已来唱題を勧めていたとわたしたちは信じてきたのですが、これは本当なのでしょうか。真跡遺文から「南無妙法蓮華経」を検索するとなんと文永元年(1264)12月13日43歳の『南条兵衛七郎殿御書』までその初出がありません。建長5年4月28日に蓮師は法門を申し始めたと記すわけですが、これが南無妙法蓮華経である確たる証拠はあるのでしょうか。

> 728
>日蓮さんは三秘を建立したのでしょうか、しなかったのでしょうか。

この点をもう少し具体的にということですか。厳しいリクエストです。
昨日、R大学のK師の『立正安国論』講義を聴講しました。種々興味深いお話はあったのですが、その中で「南無妙法蓮華経は、比叡山でも行っていた。だから、日蓮聖人がなしたことは唱題をはじめたことと言うより、南無妙法蓮華経の理論化だった」と話してました。この論に添って申し上げれば、蓮師は文永3年『法華経題目抄』でまず南無妙法蓮華経の理論化をはじめます。継いで文永10年『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』で本尊を理論化されます。それは徐々に補完されて本門の教主釈尊‘本尊’を理論化します。この辺りで上行所伝‘題目’五字も理論化していきます。しかし、残る‘戒壇’の理論化を見ることはありませんでした。その意味からすれば、たしかに蓮師の至極は三つの法門ではあったけれど、戒壇は未完の儘であるので完全に解いていないと言えようかと思えます。こうなると「御遺命守護」もあったものではありませんが、特定集団の信念体系のご都合で考えているわけではありませんので、人間日蓮はその意味で志し半ばで終えたとわたしは事実を真摯に受け止めるわけです。

>三秘って、日蓮に則していうとなんなんですか。

そもそも蓮師は「三秘」とは言わず「三つの法門」というばかりです。ですから極個人的に言えば、「日蓮に則した三秘はない」とわたしは考えます。
ですから、三つの法門に置換してこれを書きます。
当時の社会状況で念仏が流行し、浄土経・阿弥陀仏が釈迦仏以上に崇敬されるようになった。大日経、真言の影響で大日如来が釈迦如来以上に重視された。こんななかで法華経と釈尊に還れという純天台復興運動を行ったのが日蓮であると思います。やがて日蓮の本尊観は久遠本仏(本尊)へと傾倒し、法華経から上行所伝の題目五字に傾いていきます。では残る「戒壇は?」となると、これは見られません。けれど、先に挙げたK師は一連の日蓮の活動を「此土復権」と評していました。厭離穢土と捨てられたこの現実の娑婆世界(此土)の理論化です。霊山浄土観はこうして完成していくのであろうと思います。たぶん、ここに日蓮戒壇論の濫觴を見ることができるのではないでしょうか。

>三秘の根本は、日蓮に則すと何なのでしょうか。

本‘仏’釈尊が上行に所伝した南無妙‘法’蓮華経の仏法ではないでしょうか。

たぶん、三学無縁さんが「日蓮に則する」と表現されたのは、上代派祖の発展的な教学でなく、なおさらのこと中世「日蓮本仏・究竟(板)本尊」ひいては本住本仏、現代的にいえば、集団信仰、「先生」絶対に脱落した偏向ではなく、日蓮の素意は何であるのかという問いかけである点が重要と拝察申し上げるわけです。

730愚鈍凡夫:2004/04/17(土) 14:27

>>722:三学無縁さん、どうも。
記憶違いでなければ、レスのやり取りは初めてだと思います。宜しくお願いします。

> 相伝書を全て除外したときに、石山の宗教としての何が残るのでしょうか。

そうですね、何が残るんでしょうか。
あえて言えば、南条家の菩提寺であったという事実と、「戒壇之本尊」という"偽印籠"創作の陰謀とその歴史ぐらいでしょうか。

善意に取れば、「相伝書」なるものは宗祖が未完成で終わった法門を完成させようとした、いわば、そこに連なる弟子たちの思索と汗の結晶なのかも知れません。
そういう意味では、蓮祖の入滅と共にその法門はその手を離れ、一人歩きしだしたのかも知れませんね。

731愚鈍凡夫:2004/04/17(土) 20:23

>>725:地名さん、個人的意見を述べさせて下さい。

あくまでも「天台・伝教」はセットで、三師勧請の場合は「妙楽」、四師勧請の場合のみ「章安」も勧請するというのが蓮祖のルールだと思います。
したがって、日憲師の記述は理解しがたいものがあります(ひょっとして、個人的に「伝教」「妙楽」が嫌いだったりして・・・・・。)。
日憲師の記憶違いという可能性もありますが、戸田さん、小平さんが見た漫荼羅(現在の「戒壇之本尊」)とは違う漫荼羅の相貌について述べている可能性もありますね。
個人的に「伝教」、「妙楽」が勧請されていないのに「章安」が勧請されているのであれば、それは蓮祖漫荼羅ではないと思います。

732平和創価:2004/04/17(土) 21:56
独歩さん
昨夜私は2ちゃんねるの「日蓮正宗の大御本尊様は写真が公開されています!」
のスレで184のレスを受け取った者です。「霑志問答」の全容をできるだけ
詳しく教えて下さい。玉野日志の9箇条の質問に日霑上人がどのように答えたの
かお教え下さい。『日蓮正宗教学小辞典』創価学会教学部編P236には、「日
霑上人がすべて大破折を加えられ玉野日志は大敗北を喫した」と書かれています。
玉野日志の9箇条の質問と、日霑上人の回答を詳しくお教え下さい。

733犀角独歩:2004/04/17(土) 22:51

732 平和創価さん:

わたしは他の掲示板を見ることがないので、他でどのような議論があり、また平和創価さんがどのような立場の方であるかも存じ上げません。ですから、どのような骨子でわたしに両山問答の内容についてお尋ねになるのかやや斟酌しかねるところがあります。
同問答は富士宗学要集第7巻35〜154頁に載っています。ご自身でお読みになるのが一番ではないでしょうか。

冨要はお持ちですか。お持ちでないといけませんので、わたしのサイトに置いておきます。ダウンロードしてお読みになってみてください。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ryozan_mondo.zip

だいたい問答というのはどちらも勝ち鬨を上げるもので、一方の勝利宣言を鵜呑みにしても真実は見えません。わたしの個人的な感想を記せば、同問答は北山志師有利ながら勝敗を決せず、終了していると感じます。霑師は幕末の火事で文献が燃えてしまって答えられないというほどですから、勝利というにはほど遠いところがあります。すなわち、

「旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

「旧い記録を取り調べて逐一解答申し上げるべきですが、去る慶応元年丑(午前2時〜4時)2月28日の夜、大石寺は居房は残らず罹災し、古記録を入れて置いた書庫もみな延焼してほとんどがなくなり、いまは何ら考証に備えるべき書類はなく、もちろん、わたしのような僧がなかなか解答に及ぶべきところでもありません。よろしく哀れみくださりたく仰ぎ奉ります」

と記すわけです。こんな逃げ口上とも取れる発言をした霑師が大勝利とは言えないとわたしはこの問答を読みます。まあ、しかし、それはわたしの判断です。平和創価さんご自身の読後感とは相違するかも知れません。ご一読のうえ、ご判断ください。

734平和創価:2004/04/18(日) 08:40
独歩さん
御返事有難う御座います。御丁寧なメールに感謝いたします。さて全ての御真筆
御本尊をメールで見ることができると独歩さんは仰っていましたが、私はそのア
ドレスを知りません。教えて頂ければ幸いです。

735犀角独歩:2004/04/18(日) 09:53

平和創価さん:

以下のサイトです。ただし、メールで見られるのではなくて、PCならば閲覧できます。

Nichiren Shonin Gohonzon Shu
O'Mandalas by St. Nichiren [1222-1282]

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

736犀角独歩:2004/04/18(日) 11:52

【733の訂正】

先に挙げた文は霑師のものではなく、布師、明治11年12月17日のものでした。
謹んでお詫びし、訂正申し上げます。

737平和創価:2004/04/18(日) 12:17
>>735 >>736
独歩さん
貴重な資料と御意見大変有り難う御座います。私も真剣に研究して参ります。

738犀角独歩:2004/04/18(日) 12:26

平和創価さん:

弥四郎漫荼羅に関しましては、既に小稿を記しサイトにアップしてあります。

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

また、この内容は少部数ながら、小冊子を造り、配布もいたしております。
ご参考に今日していただければ幸甚です。ただし、ここに記すことはほんの触りの序文に過ぎず、詳しくは近く発刊する『図解必携 大石寺本尊鑑別』をご高覧いただければと存じます。

ますますご精進をお祈り申し上げます。

739空き缶:2004/04/18(日) 12:29

犀角独歩さん、こんにちは。
 
 富士戒壇論、と聞きますと「園城寺申状並びに御下文」を思い出します。
 なかなかてがかりもつかめず、あきらめかけていますが。。。。。

 興師に関する文献では、ご承知の通り「三時弘教次第」「本門弘通事」にそのさわりが出てくる程度ですね。

 ただ既刊書に未掲載の重要文献が未だに多々あるという事実から、古寺・由緒寺院・各宗の本山格寺院などが真実を明らかにする為にもっと協力しあって、法義法門の研鑚ができればと強く思います。

 地名さん、「時師の代に造立」は今でも私の最も支持する戒壇本尊造立年代です。最初は道師の代に造立と考えていました。この二師には、宗祖正御影(等身大の御尊像)を失ったこと、万年救護本尊を相伝できなかったことという、代替品作成の動機があると思ったからです。
 その上、現日蓮正宗管長職にある阿部師は、教学部長時代に「主題と花押は日禅授与のご本尊」「他の部分は時師か有師のころの筆」という鑑定結果を示しています。最初は時師の代に紙幅版の戒壇本尊が完成し、有師の代に彫刻されたのかと考えていました。
 でも今は、時師の代に宮城県内で彫刻された板碑の一種ではないかと思っています。ここの掲示板で皆さんのお考えを聴聞させていただき、もっと知識を深めたいと思います。

740犀角独歩:2004/04/18(日) 12:30

またもや訂正、恐縮です。

738の

誤)ご参考に今日していただければ幸甚です
正)ご参考に供していただければ幸甚です

741犀角独歩:2004/04/18(日) 12:38

空き缶さん:

>「園城寺申状並びに御下文」

わたしはこの状には否定的なのですが、けれど、空き缶さんの熱意と研究には敬意を表します。今後、納得の行く確証をお示しいただけることがあれば、そのときまた再考させていただこうと思っております。

> 時師の代に造立

わたしはこの考えを看過しません。ただし、ここのところ記してきましたように、板漫荼羅と腰書き、さらに後ろの半丸太(厨子?)が一字の造立されたとは考えていません。しかのみならず、河辺メモが言うところは、仮に時師造立漫荼羅であったとしても、そこに脈絡を考えずに考証することが真実を見極める方途であることを、敢えて記させていただきます。この点は、先よりご紹介申し上げている『図解必携 大石寺本尊鑑別』の続編で記すべくただいま準備いたしております。その節はご高覧を賜れれば幸甚です。

742愚鈍凡夫:2004/04/18(日) 16:32

空き缶さん、横レス失礼します。
富士年表を見ると、「紫宸殿本尊」の図顕が1280(弘安3)年3月となっていて、日有師が模刻したのが1445(文安2)年11月6日ということですよね。石山では「戒壇之本尊」の身替わりとして模刻したと主張していますが、事実が違っているとすれば、何故日有師は「紫宸殿本尊」を模刻したのでしょうか。また、模刻してどこに安置するつもりだったのでしょうか。
また、不思議に思うのですが、「日有申状」に「紫宸殿本尊」のことが記されていないのは何故でしょうか。天皇家へ「紫宸殿本尊」を献上するので、"天下太平・五穀豊穣"を祈願してもらいたいといった記述があっても良さそうなものですが。
日目師も「園城寺申状」、「御下文」、「蓮祖生御影」を本門寺本堂に奉納せよと遺命なされていますが、「紫宸殿本尊」についてはふれていません。
これらのことは、何を意味しているとお考えでしょうか。
よければ本門寺本堂に奉納する3点セットと絡めて、空き缶さんのお考えを伺いたいのですが。

「御会式奉読立正安国論並御申状 3.御申状」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/SHIRYO3/Moushijyo/

743平和創価:2004/04/18(日) 19:42
独歩さん
日露上人と玉野日志の対話に対する議論がまだあるのですが、独歩さんから
頂いた資料だけで大丈夫でしょうか?また資料があれば送信下さい。

744空き缶:2004/04/18(日) 22:23

愚鈍凡夫さん、こんばんは。レスありがとうございます。

 有師と紫宸殿本尊に関しましては、あまり関心をもってこなかったのですが、個人的には有師の紫宸殿本尊彫刻は京都遊学と何か関係があるのではないかと推察いたします。(これは某創価学会系の掲示板にて昨年カキコしたことがあります。)
 
 ただし、該当する曼陀羅本尊が「紫宸殿本尊」とよばれるようになったことや、戒壇本尊の身代わり説等も後世に出てきたものと思っています。
 
 「紫宸殿本尊」と「京都」につきましては、れんさんが詳しいのではと思いますが、れんさんいかがでしょうか?(急にふってすみません)

745愚鈍凡夫:2004/04/18(日) 22:56

空き缶、レス有り難うございます。
空き缶さんは、日有師が模刻した文安2年(1445)年11月6日の板漫荼羅は、「紫宸殿本尊」ではなく、「戒壇之本尊」である可能性が高く、「紫宸殿本尊」の名称が後世の創作である以上、「日興上人御遺蹟事」・「日有申状」に記述がないのは当然であり、少なくとも日有師の時代に「紫宸殿本尊」はなかった。したがって、本門寺本堂に奉納する3点セットとは関係がない。
との主張と理解してよろしいでしょうか。

746空き缶:2004/04/18(日) 23:28

 愚鈍凡夫さん、私は有師の彫刻したものは「紫宸殿本尊」であると思います。ただ、その当時該当する曼陀羅本尊が既に「紫宸殿本尊」と呼ばれていたかが疑問です。

 戒壇本尊は今のところ時師造立を支持しています。但し以前れんさんに指摘を受けた通り、正資料の不足による決定的な証拠に欠けているのが現状です。
 
 せいぜい時師が御影を造立したのは、富士年表によれば10月13日であり、「有師物語聴聞抄桂跡上」にて、「御端書、右為現当二世造立如件、本門戒壇之、願主弥四郎国重敬白、法華講衆当、弘安二年十月十三日云云」とありまして、日付が10月13日となっているところが気になるところです。

747空き缶:2004/04/18(日) 23:35

 書き忘れました。
 
 紫宸殿本尊と本門寺本堂に奉納する3点セットとは、現状では関係がないと思っています。

748愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 00:05

空き缶さん、どうも。
あのね、空き缶さんに「紫宸殿本尊」と「本門寺本堂に奉納する3点セット」の関係について質問した理由は、以前、

№082
図 顕:弘安3(1280)年3月
讃 文:「仏滅度後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽有大漫荼羅也」
授与書:(削損シアリ)
所 蔵:不 明(大石寺?)
寸 法:3紙

この紙幅漫荼羅が「紫宸殿本尊」のオリジナルではないかとの話になったことがありました。
その時に浮かんだ考えなんですが、「紫宸殿本尊」とは、授与書が削除されたオリジナルではなく、模刻した板漫荼羅のほうではないかと思ったわけです。日有師はこの板漫荼羅を天皇家に献上するつもりであったのではないかと思ったのですが、「日有申状」によってその期待は打ち砕かれました。 (;´д`)トホホ
それで、ひょっとしたら例の「本門寺本堂に奉納する3点セット」のことと関連した資料の中に、「紫宸殿本尊」について書かれた資料が残っているのではないかと思ったわけです。それで、空き缶さんが3点セットを追いかけているのを思い出して、質問した次第です。悪しからず。

749愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 00:36

訂正

誤→空き缶、レス有り難うございます。
正→空き缶さん、レス有り難うございます。

です、悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!

750空き缶:2004/04/19(月) 01:07

愚鈍凡夫さん、そういえば朝廷も京都でしたね。

 富士年表によれば順番は、京都遊学→「紫宸殿本尊」の彫刻だと思うのですが、私は有師が京都遊学中に日隆教学の摂取と併せまして尊門との交学の中で模刻された「紫宸殿本尊」を目にされたのではないかと思っています。
 「有師物語聴聞抄桂跡上」の「日尊住本寺に模刻の本尊を彫申されたりと云云、此の由能々聞くべしと思案候処に・住本寺同宿来り候間委細尋ね候へば、住本寺の本尊にはあらず、上行寺の本尊なり、此の本尊には我が判を成されずして私の意趣を彫り付られたり、其意趣は日尊是を刻彫すと書かせられたり」ここに出てくる模刻本尊って違いましたっけ?

751愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 06:18

皆さん、お早うございます。
朝早くからこんなカキコしていたら、犀角独歩さんに「人のこと、言われへんやろ」とお叱りを受けそうですが。 (^^ゞ

空き缶さん、どうも。

「今板御本尊を刻彫し尊師高祖の御真筆を写し奉る事なるべし、開板行したる事には非るか、仍尊師刻彫意趣を書き付け玉ふ御判形を極めず候間の当家の化儀能々御心得決定信心故謬らざる儀と御褒美し玉ふなり、然して御本尊に御判形在る事当家にて唯授一人の相伝なり、尊師之を守る故に御一生の内御自筆の本尊一向に之無きなり。」(有師物語聴聞抄佳跡上)

話は横に逸れますが、
「尊師高祖の御真筆を写し奉る事なるべし、開板行したる事には非るか」とあって、「然して御本尊に御判形在る事当家にて唯授一人の相伝なり、尊師之を守る故に御一生の内御自筆の本尊一向に之無きなり。」とあるのは矛盾していませんか?

ところで、
「今私に之を案するに初説を実義となすべきか精師の記恐は時人の口伝を記するものか、後人能々之を尋すべし、但柚野浄蓮授与の板御本尊今岩城妙法寺に在り、紫宸殿御本尊の写なり、端書に云く応永廿七年大伴浄蓮に之を授与す云々」(有師物語聴聞抄佳跡上)

1420(応永27)年、浄蓮授与の漫荼羅は、誰が模刻したのでしょうか。日有師が「紫宸殿本尊」を模刻したのが1445(文安2)年とのことですから、それよりも早いことになりますね。しかし、浄蓮授与漫荼羅が紙幅であったとすれば、誰が模刻しようと年代的には問題ないかも知れません。

ただ、「有師物語聴聞抄佳跡上」に
「日因私に云く此の丁聞書誰人之を記するや未だ其の人を見聞せざるなり、然るに南条日住の聞記百二十一個有り之に准して之を思うに恐くは是南条日住の聞書なるべし或は亦日有上人の御直記なるか。」
とあります。鵜呑みにするのは考え物だと思いますが、いかがなものでしょうか。

要するに、小生が疑問に思っているのは、
①もし当時(日有師在世)、「戒壇之本尊」が石山に存在していたとしたら、何故「戒壇之本尊」を模刻せずに「紫宸殿本尊」を模刻したのか。これでは身替わりの役目を果たせないように思う。
②もし、日有師が「戒壇之本尊」の身替わりとしてではなく、別の目的で「紫宸殿本尊」を模刻したのであれば、その目的は何で、何処に安置するつもりだったのか。
そこで、天皇に献上し、紫宸殿に安置してもらいたかったのではないかと推察したわけです。
③記録として残っていないが、上奏の際、蓮祖漫荼羅(レプリカを含む)を持参した可能性はないだろうか。
ということなんですよ。 (^_^;)

752空き缶:2004/04/19(月) 13:33

愚鈍凡夫さん、こんにちは。
 
 時師の代に御影が造立されたことは、大石寺も認める史実だと思います。私は時師〜有師の間は大石寺は何をもって「本尊」としていたかが疑問です。御影でしょうか?他の御筆曼陀羅?それとも興師書写の曼陀羅本尊?
 
 上古における大石寺の御本尊、あるいは大石寺の本堂安置の本尊、これ自体が不明瞭なので「身代わり説」は極疑問です。
 日尊師が模刻した板曼陀羅が、「紫宸殿本尊」と同じであるということは以前れんさんが「日興門流上代事典」を引用してご紹介下さったことでしたね。
 
 私は有師は一山の本尊と呼べるものが定まっていなかった時代に、これを定めた人なのではないかと思うのです。それが時師の代から伝わる御影と有師の代に彫刻された通称「紫宸殿本尊」ではないかと思います。
 戒壇本尊が大石寺に遷座されるのは、もっと後のことだと考えています。だいたいは主師のころではないでしょうか?その後「身代わり」に格下げになった「紫宸殿本尊」はチョッと可愛そうな気がします。

753犀角独歩:2004/04/19(月) 16:06

743 平和創価さん:

返事が遅くなりました。
霑師にしても、志師にしても資料はたくさんあるでしょう。
目的とされているところはわたしはよく理解していませんが、両師どちらかに理があるというより、それぞれ言い分に納得できるところもあり・できないところもありというのが現状です。もし志師の言を取って霑師の劣勢、もしくは石山の過ちを論証しようとするのであればおやめになったほうがよいでしょう。

石北両山、互いに叩けば埃が出るところ、先行した志師の指摘は鋭利なところがありながら、叩き返されれば、北山への難疑に切れの悪さを見せるという具合です。しかし、それだからと言って霑師の完全勝利とは言い難く、読めば霑師の答えは叙用耐えるほどのものでもありません。また、志師も完全を期すことなく、さして意味のある議論になっているとは思えません。

だいたいこの頃の石北両山は往来があったうえで、この議論をなしているわけです。また、ここに讃岐本門寺の件が絡み、問答の裏に『大石寺誑惑顕本書』による三山の揺らぎがあり、さらに志師が疑義を呈した『宝冊』は亨師ですら「量師の正本を見ず…此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられたれども写伝八方に飛びをれるより正評を加へて誤解なきやうに努むる必要ある」というのであって、これを取った志師に、敢えて霑師は反駁を企てている事情は考慮するべき点は多々あります。

どちらかが勝利と言うより、どっちもどっち、取るべきところは取り、捨てるところもまた多い両人であるというのがわたしの評価です。

754犀角独歩:2004/04/19(月) 17:02

空き缶さん:

所謂「戒壇之本尊」が造立を主師の頃と充てられるのは陽師の、以下一節からの類推でしょうか。

「…御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅…」(祖師伝付録)

陽師がこの二つを見たとすれば、その相貌が違うからこそ、別意に記したと思えます。となれば、この二つは別相貌であろうと思えます。また前者は板、後者は紙幅であると想像できます。陽師の拝観は元和3(1617)年のことで、石山住職は15代昌師で、14代主師も存生の時代ですね。拝観の四箇月後、主師は没しています。

わたしはこの時点で、既に紫宸殿本尊‘伝説’が成立していたことにやや驚きがあるのですが、反面、「日本第一」と言いながら、尤も着目すべき「戒壇之」という形容詞が記されていないことから、少なくともその段階で腰書はなく、また、その板本尊が戒壇本尊であるという伝説も成立していなかったと思うのですが、如何ですか。

755愚鈍凡夫:2004/04/19(月) 18:46

う〜ん、空き缶さん。

> 私は時師〜有師の間は大石寺は何をもって「本尊」としていたかが疑問です。御影でしょうか?他の御筆曼陀羅?それとも興師書写の曼陀羅本尊?

「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、何ゾ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。」(御伝土代 日興上人御伝草案)

とありますから、漫荼羅正意であることは確かだと思います。ただ、本堂に安置していた漫荼羅がどれかは分かりませんが。

空き缶さんの説を受け入れ、日有師が造立した板漫荼羅が当時の石山の本尊だったとして、その模刻漫荼羅のオリジナルが何故「紫宸殿本尊」と呼ばれるようになったか(これは何故「紫宸殿」なのかという意味です)。そして、それはいつ頃なのかといった疑問が沸いてくるのです。
まあ、「戒壇之本尊」・「紫宸殿本尊」の名称は、時期は分かりませんが、祖滅後に命名されたと個人的には思っていますが。
要は、「戒壇之本尊」・「紫宸殿本尊」の肯定説、否定説両方を比較してみたいのです。そうすることで、これらの漫荼羅に課せられた使命と生い立ちが見えてくるのじゃないかと思うのです。

> 時師の代に御影が造立されたことは、大石寺も認める史実だと思います。

その通りだと思います。ただ、石山・重須の正御影伝説が事実だと仮定して、重須が建立された時には例のミニチュアを入れて三体あったと思うのですが、空き缶さんはどう思われますか。しかし、証拠が残っている正御影の中で最も古いものは池上本門寺のものだと言われていますね。

ところで空き缶さん、

「当宗の御堂は如何様ニ造タリトモ皆御影堂也。十界所図の御本尊を掛奉り候へとも高祖日蓮聖人の御判御座セハ只御影堂也已上。」(聴聞抄)

「十界所図の御本尊を掛奉り候へとも高祖日蓮聖人の御判御座セハ只御影堂也」とあるかと思えば、同じ「聴聞抄」に、

「一、当門流ノ起請ノ次第、其ノ寺ノ住持ヨリ案文ヲ給テ其ノ起請ノ主ノ執筆ト相封シテ御影堂ノ正面ニテ書テ其ノママニ本堂ノ正面ニ奉レ備御カネヲ参ラセテ檀那モ執筆モ倶ニ住持ノ前ニ参リ此ノ起請ヲ住持ニ参ラスル」(聴聞抄)

とあって、「御影堂」・「本堂」が別棟となっていることが記されています。 (゜ペ)ウーン
「高祖日蓮聖人の御判御座セハ只御影堂也」ならば、本堂に安置する本尊は何なんだろう。と思ったりして・・・・・。 (;^_^A アセアセ…

「三師御伝土代」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu5_1.htm

「有師物語聴聞抄佳跡上」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_9.htm

756みかん:2004/04/19(月) 21:04
>>708-709
独歩さん。上代についてのわかりやすいご説明ありがとうございました。
大変参考になりました。上代という言葉は、伝統的に使われているわけですね。
ありがとうございました。大変興味深く、理解が進みました。
私自身でももう少し調べてみます。

757空き缶:2004/04/20(火) 11:39

犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、こんいちは。

 私的には「主師の代に造立」というよりも「主師のころに遷座」と考えています。造立時期はやはり時師のころを支持しています。

 御伝土代の記述にある御本尊は、恐らく現在西山本門寺にて所蔵される興師書写「大石持仏堂本尊」を指しているのではないでしょうか。
 同曼陀羅本尊中の讃文に「謗者開罪於無間」とあり「罪ヲ無間に開く云云」の御伝土代の記述と符合します。

758空き缶:2004/04/20(火) 11:42

 訂正です。

 >こんいちは。→こんにちは。

 スミマセン。

759問答迷人:2004/04/20(火) 11:50

空き缶さん 始めまして

>御伝土代の記述にある御本尊は、恐らく現在西山本門寺にて所蔵される興師書写「大石持仏堂本尊」

凄いご指摘です。「大石持仏堂本尊」をなぜ西山本門寺が所蔵するようになったのか、その経緯に興味が沸きます。ご存知でしたら、ご教示いただけませんでしょうか。ご存知の通り、御遷化記録も西山本門寺所蔵です。なぜ御遷化記録が西山本門寺にあるのか、その経緯も今のところ、なぞです。興師の晩年に盗難に遭ったものが西山にあるのか、別の本なのか・・・

760犀角独歩:2004/04/20(火) 12:01

756 みかんさん:

ご丁寧なご挨拶、有り難うございます。
ますますのご研究と執筆を期待しております。

761犀角独歩:2004/04/20(火) 12:25

757 空き缶さん、また皆さん:

問答さんも仰っていますが、わたしも同様の驚きを感じました。
ご指摘の漫荼羅は「元亨三年八月廿九日」筆のものを言うのでしょうか。
脇書は「大石持佛堂本尊日代闍梨」ですね。となれば、西山に蔵されることは不思議はないのですが、しかし、重須本堂の興師が指名した2代住持が重須持仏堂ならぬ、大石持仏堂本尊を授与されたのか、実に興味が惹かれます。これはいったい何を意味するのでしょうか。

やや関連しますが栃木信行寺所蔵に「嘉元四年卯月八日」「白蓮持佛堂安置也」と記される興師漫荼羅があります。

「大石持佛堂」は大石寺内でしょうが、「白蓮持佛堂」とは、石北どちらにあったのでしょうか。また、持佛堂・御影堂・本堂はそれぞれどのような異義付けの差があるのでしょうか。

762空き缶:2004/04/20(火) 12:38
 
 問答迷人さん、はじめまして。
 ご存知の通り「大石持仏堂本尊」は正式な授与書は「大石持仏堂本尊日代阿闍梨」となっていますので、大石持仏堂の管理者は日代師であった可能性が高いですね。
 興師書写本尊には他にも「謗者開罪於無間」の讃文がみられるものが多数ありますが、ことさら本尊紙上に「大石持仏堂」とありますと先にあげましたような愚論をいいたくなってしまうのです。(真光寺の板曼陀羅も「富士大石寺持仏堂安置之本尊也」とありますが「謗者開罪於無間」の讃文はみられません。)
 但し、この私の愚論は「若鷹」という創価学会系の掲示板にて「宿坊」のハンドルでカキコされている方より否定されています。
 根拠が煮詰まっていませんが、同本尊を西山に遷座したのは日善師ではないかと考えています。

763空き缶:2004/04/20(火) 12:46

 犀角独歩さん、堀日亨師は「富士日興上人詳伝」にて「大石持佛堂」と「白蓮持佛堂」は同じものといわれているみたいですね。

764犀角独歩:2004/04/20(火) 12:57

763 空き缶さん:

有り難うございます。
そうなんですか。しかし、これは石山ずりの考えですよね。
興師の言と雖も納得いきませんね。
空き缶さんは、真光寺興師漫荼羅も挙げてくださいましたが、そうなると当時の大石寺には持仏堂が三つあるか、あるいは三舗漫荼羅が奉掲されていたか、あるいは三度取り替えたことになります。ちょっと納得できるところではありませんよね。

まあ、わたしは仏像・漫荼羅・御影の三点セットを興師における初期の三宝観ととらえているところがあります。仏像(仏)・法(漫荼羅)・御影(僧)です。となると、仏像安置が持佛堂であろうと通仏教常識で捌きたいところです。漫荼羅正意(わたしに言わせれば漫荼羅偏向)の富士門ではコンセンサスが得られないことはわかっているのですが。

765犀角独歩:2004/04/20(火) 12:58

【764の訂正】

間違えました。

誤)興師の言と雖も納得いきませんね
正)亨師の言と雖も納得いきませんね

766空き缶:2004/04/20(火) 17:15

犀角独歩さん、興風談所は重須大坊内に「白蓮持佛堂」があったのではないかと推察していますね。(興風11号)

 なにやら決定的な資料はないようで。

767空き缶:2004/04/20(火) 17:56

 犀角独歩さん、真光寺の板曼陀羅ですが「富士大石寺持仏堂」という呼称に少々疑問が残ります。大石持仏堂と同意だとは思いますが、興師の代から「富士大石寺」と呼ばれていたのでしょうか。

768愚鈍凡夫:2004/04/20(火) 20:56

横レス失礼します。
「讃者積福於安明、謗者開罪於無間。」の一節は、「依憑天台集」の最後の部分で伝教大師が天台大師を褒めちぎる処に出てきますが、伝教大師が天台大師を慕うように、日興師も蓮祖を慕っていた。そんな気持ちも込められているのでしょうか。

「今吾天台大師、説法華経、釈法華経。特秀於群独歩於唐。明知。如来使也。讃者積福於安明、謗者開罪於無間。雖然、於信者為天鼓、於謗者為毒鼓。(今吾が天台大師、法華経を説き、法華経を釈す。特に群に秀でて唐に独歩す。明らかに知んぬ。如来の使なることを。讃せん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開く。然りと雖も、信ぜん者に於ては天鼓と為り、謗らん者に於ては毒鼓と為る。)」(依憑天台集 天台大師振法鼓於天竺文出三論宗吉蔵請天台大師書)

「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」(法華文句記・巻4)、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」(依憑天台集)

因みに蓮祖漫荼羅の場合、要文を調べてみると意外なことに、「法華文句記・巻4」の文証が引用されている漫荼羅は6舗しかなく、そのうち、№59の漫荼羅だけが「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」とだけ記されていて、あとは、「依憑天台集」の「讃者積福於安明謗者開罪於無間」がセットになっていますね。

№53
図顕:1278(弘安1)年8月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№54
図顕:1278(弘安1)年8月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№59
図顕:1279(弘安2)年2月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」

№60
図顕:1279(弘安2)年2月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№61
図顕:1279(弘安2)年4月8日
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

№67
図顕:1279(弘安2)年10月
要文:「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」、「讃者積福於安明謗者開罪於無間」

769空き缶:2004/04/20(火) 21:29

 愚鈍凡夫さん、おっしゃる通りですね。興師書写本尊も「讃者積福於安明謗者開罪於無間」とあるときは「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号」がセットになっています。

770空き缶:2004/04/20(火) 21:37

 犀角独歩さん、『所詮「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』はかなり好評ですね。

 他の掲示板でもリンクされているのが、多く見かけられるようになってきました。板曼陀羅からの覚醒に多大な貢献をされていると思います。

 ところで「図解必携 大石寺本尊鑑別」は何時頃の出版となりそうですか?

771犀角独歩:2004/04/21(水) 06:13

空き缶さん:

>『所詮「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』…他の掲示板でもリンク

そうですか。リンクを貼ってくださっている方がいらっしゃいますか。全然、知りませんでした(笑)

>「図解必携 大石寺本尊鑑別」は何時頃

お心を掛けていただき、有り難うございます。
4月28日に発刊しようと思っていたのです。ところが、なかでネットその他で未公開の漫荼羅があり所蔵寺院に、その掲載許可を願っているためにやや遅れています。

772空き缶:2004/04/21(水) 18:26

犀角独歩さん、私がみたのは創価学会系の掲示板で「信濃町富士宮研究所」というところです。

 2チャンでも話題に上がっているみたいです。私もつい「大聖人門下掲示板」(ここは日蓮宗系の極めて真面目な掲示板です)にてアピールしてしまいました。

 私のコミュニティーにもリンクをはらせてください。

 >4月28日に発刊・・・掲載許可を願っているためにやや遅れています。
 
 真実が明かされるのには、ズバリといった発刊予定日でしたね。しかし、少々遅れても中身の価値は変わることはありませんので、首をなが―――くして待つことにします。

773愚鈍凡夫:2004/04/21(水) 19:18

「ああっ、キリンさんだ。」 〜> ̄ )〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「そら、蛇やろ」(by 外野席)

空き缶さん、今晩は。

> 真光寺の板曼陀羅も「富士大石寺持仏堂安置之本尊也」とありますが「謗者開罪於無間」の讃文はみられません。

とのことですが、「富士年表」によると、

寛文12年(1672)閏6月13日 下総中田真光寺板本尊造立、願主本行院日優(裏書)

となっています。したがって、この板漫荼羅は大石寺六壺の模刻漫荼羅を再模刻したものではないでしょうか。「富士大石寺持仏堂安置之本尊也」と彫刻されているのは忠実に再模刻したことを示していると思うのですが。

ところで、六壺の板漫荼羅には「乾元四年八月十三日」と識年号が記されているそうですが、何故、歴史上存在しない年号が記されていると思われますか。

774空き缶:2004/04/21(水) 19:46

 愚鈍凡夫さん、こんばんは。

 >六壺の板漫荼羅・・・歴史上存在しない年号

 まるで「御義口伝」のようですね。かなり怪しいですね。

775れん:2004/04/21(水) 20:53
空き缶さん・愚鈍凡夫さん。乾元四年の年記がある真光寺・六壺の板マンダラの原本は偽作でしょう。真光寺板マンダラの首題の蓮字の特徴的な終筆は確実な興師書写マンダラでは正和年間にのみ見られるもので、先ず年代が合いません。故に興風談所刊「日興上人御本尊集」の目録から外されています。m(__)m

776空き缶:2004/04/21(水) 21:31

 れんさん、お久しぶりです。お待ちしていました。
 れんさん、春休み中に中伊豆の實成寺に子供達と見学に行ってきましたよ。周りには何にも無いところでした。
 本堂の板曼荼羅?は、主題と不動・愛染のみで、自署花押も無いものでした。子供達と一緒では何も出来ず終わってしまう為、今度は一人でこっそりと行きたいです。

 >真光寺・六壺の板マンダラの原本は偽作
 
 やはり、

 >興風談所刊「日興上人御本尊集」の目録から外されています。

 なるほど、しかし「偽作」といえども紙幅の原本はあったと思われますか?

777れん:2004/04/21(水) 21:57
空き缶さん。お久しぶりです。中伊豆の実成寺に行かれたのですか。日蓮宗寺院大観によると伊豆実成寺には目師の聴講見聞録・興師マンダラ・目師マンダラ・日尊師マンダラが所蔵されているとのことですから、御虫払いの時でも一度は拝観したいものです。 >偽作といえども紙幅の原本はあったと思われますか。
仰せの通り興師筆のパッチワークの紙幅の原本はあったと考えます。m(__)m

778愚鈍凡夫:2004/04/21(水) 22:47

あっ、れんさんどうも。さすがですね。

何故、乾元四年ではなく、嘉元三年(1305)としなかったのでしょう。
言っては何ですが、日目師の流れは、時代考証がメチャクチャなところがありますね。
「大石持佛堂本尊日代闍梨」を日代師が持っていってしまったので、仕方なく、偽造したんでしょうか。それにしても、ほかに興師御筆の漫荼羅が石山にあったと思うのですが、レイアウトが気にくわなかったのでしょうかね。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

779犀角独歩:2004/04/21(水) 23:30

空き缶さん、有り難うございます。
よろしくお願いします。

> 六壺の板漫荼羅

これは面白いというか、まったく皆さんの博識には感心します。
東京品川妙光寺の本堂の板漫荼羅は、六壺漫荼羅でした。

れんさん、これはパッチワークなんですか。
当時、わたしは「六壺と同じ日興上人の御本尊」と有り難がっていたのに、この手のことはけっこう卒業したと思ったのにまだ身近でありましたか。いやはやです。

愚鈍凡夫さん、そうなると、六壺が大石寺持仏堂であった、あるいは、持仏堂にあった漫荼羅を六壺に安置した、どちらなのでしょうか?

780空き缶:2004/04/21(水) 23:54

>聴講見聞録・興師マンダラ・目師マンダラ・日尊師マンダラが所蔵

 れんさん、そうなんです。しかし、継命新聞社の「日目上人」に實成寺所蔵として目師曼荼羅や聴講見聞録がでていなかったことが気になります。

 尊師曼荼羅については「尊師実録」に

一、 本尊書写の事 尊仰せに云く、大聖人御遷化の刻六人の老僧面面に之を書写し給へり、然るに異議は無く其の後は面面末流、初心後心、戒行の有無、曾て以て之を糾明する事無し、面面に之を書写云云、此れ等の次第且は法滅の因縁か五人方は且く之を閣く富士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云、其の故は法燈を賞め以て根源を立てんが為なり云云、之に依て本尊の銘に云く、仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提内未曾有大曼荼羅也云云、予も又此の義を存ずる之所、日興上人御入滅後、一門跡に面面争論出来、互に偏執を成し邪論を起して、人人面面に之を書写し奉る云云、然れば則ち仏意は測り難く聖意恐れ有り所詮吾が一門に於ては、本義の如く一人之を書写し奉るべきか云云。『日蓮宗宗学全書2巻』

とあり、實成寺の伝「尊師曼荼羅」は「尊師実録」の記述と矛盾し怪しいともいわれています。

781愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 00:35

犀角独歩さん、どうも。

初代の「六壺」は、確か日興師の時代に創建されたことになっていますよね。6部屋に分けられていたことから「六壺」と呼ばれるようになったとか。
その内の一壺を「持仏堂」としたのではなかったでしょうか。

782犀角独歩:2004/04/22(木) 08:59

愚鈍凡夫さん:

> 六壺…一壺を「持仏堂」

あ、そうでした。どこかで読みました。
しかし、この漫荼羅も贋作でしたか。
たしか先の六壺は本尊書写の場所といわれたものでした。
となると、贋作漫荼羅の下で「戒壇之本尊」と違う相貌の漫荼羅を「奉書写之」、つまり、弥四郎漫荼羅を書き写すと言いながら、違うことを書き、これは「内証を写している」と訳のわからない言い訳をしている石山の漫荼羅を書写といったい何なのか、改めて考えさせられるものがあります。

783愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 12:44

犀角独歩さん、偽作でなければ説明つきませんよね。

空き缶さん。

> 「富士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云、其の故は法燈を賞め以て根源を立てんが為なり云云」

この「日興上人御遺戒也」は口伝と言うことなのでしょうか、それとも、真蹟遺文にそう記してあるとの意味でしょうか。
それでは、重須で日興師が漫荼羅書写し、同時期に日目師も石山で書写していた事実をどう捉えればよいのでしょうか。
日尊師とすれば、漫荼羅乱発を防ぐ意味もあったのでしょうが、「歴代住職=大聖人」といった一極集中的法主絶対論に根拠を与える結果になってしまったように思うのですが。

ところで下記のHP、面白いですよ。

「血脈について」
http://nakanihon.net/nb/ketumyaku.html

784犀角独歩:2004/04/22(木) 14:45

783 愚鈍凡夫さん:

血脈相承問題ですか。
ご紹介のサイトはよくまとまっていますが、久保川論文などでも言われた「血脈二管論」「大衆預論」がモチーフになっていますね。あと色濃い顕師に対する怨恨と排斥観、これが文章の質をがたんと下げてしまっているのが惜しいですね。

わたしは血脈の断不など基本的にあるのは当然、そもそも「蓮興目已来の大石寺」などと言うこと自体、神話に過ぎないと考えますから、やや徹底差に欠ける憾みがあると読みました。大石寺は目師に始まる興師にとって居心地の悪かった寺。目師を実質継いだのは郷師であるから、道師の段で、大衆も何もあったものではなく、いったん、ここで終わっているのではないのか…、極端に言えば、こんな具合に想像しています。南条家支配、そして、仙波檀林の影響、有師にいたって隆門・禅律師の影響も吸っていく石山。要法寺を邪義と言えるほどの清流は無しと見ます。だいたい、興師その人が蓮師教学とは異なる漫荼羅偏向論者であって、御影という仏像に代わる造像家であるという観察は石山圏の人は案外しませんね。

二、三気になる点。
まず「稚児貫首」ですが、これは所謂時代性の風習と言うことを考慮すべきであって、子供だから駄目なんていう安直な批判は意味をなしませんよね。たとえば、チベットのダライ・ラマは当代が逝去すると直ぐに転生者探しを始めてその子供を見出すと法王にしますね。生まれ変わり信仰の石山でもこんなことは言えるのであって、「法主上人は霊山の大聖人の許から遣わされた」という信仰があれば、生まれて直ぐに「法主」に指名されても不思議はありません。子供でも殿様になり、天皇にもなった中世のことです。稚児貫首が軽蔑的にとらえられたというのは現代的な感覚に過ぎないでしょう。

稚児貫首に関連して、石山の役僧と話したことがありました。その人は、石山の坊で生まれたのですが、生まれると役ある坊さんが集まってきて、身体をくまなく改めたと言います。男のか、健常体か、はてはホクロ一つないことを確認すると、特別な人の生まれ変わりであると判断され、その段階で将来が約束されることになったということでした。
まあ、これが誰とは言いません。が、五体満足、生まれ落ちた場所、これでその子供は時には遣使還告の菩薩と見なされる考えが石山にはあるということです。そのうえでの稚児貫主です。稚児貫首蔑視が正信会の共通認識化しているとすれば、この点はもう少し研究されるべきではないのかとわたしは考えます。

785犀角独歩:2004/04/22(木) 14:45

―784からつづく―

次に「大衆」ということ。該当の文章では大衆が何かとてつもない役割を果たして蓮興目已来の石山血脈を守ってきたような論調ですが、果たしてそうでしょうか。そんな大それたものでもないだろうというのがわたしの石山観です。また、「大衆」を現代語の一般大衆のように使用しているのでは?と読めてしまう箇所がありますが、古来、仏教語で「大衆」と言えば「衆僧」に相場が決まっていますね。これを一般大衆みたいな使い方をしてしまえば、これは御書に「学者」とあるのを取って、「(いまの)学者に何がわかるか」というようなものです。現代とその用法は違います。「大衆論」が、顕師不相承・だから大衆にあり、「日蓮大聖人を正しく仰ぐ」○会なんて理論を用意すれば唯授一人論と同轍の浅慮であるとわたしは思うわけです。(○は正信会・創価学会・顕正会共通)

あと一点。「御朱印」のことが書かれています。中世石山が朱印を受けていたと言うことは、彼らの言葉で言えば、謗法の国・その幕府から布施を受けていたということと同義ではないのかとわたしは考えます。本来、国主に法を持させるべき‘お祭りごと’として申状を奉読して法要をやっていたところで、法を持ちもしない幕府から朱印をもらって安堵されることは、要法寺の邪義云々と言うより、立正安国論、遺誡置文、その他、蓮興目三祖の精神に悖る大堕落ではないのか、これは血脈が大衆が引き継いだならば、なぜ糾弾しなかったのかと疑問が残るわけです。「こら国家諫暁はどうした。安堵される方が大事なのか、御身可愛さか。蓮師の立正安国の大精神というはどうした。置文の誡めはどうしたんだ」と詰問したわけです。

…とまあ、いろいろ書きましたが、愚鈍凡夫さんの紹介にケチをつけようなどと言うことでもありません。また、紹介のページはnbさんのところでしょうか。そのご本人に難癖を付けようと言うわけでもありません。むしろ、多くの資料をサイトにアップされている点を敬意も表します。ですから、以上のような点をもう少し練って、石山神話の崩壊にもう一役筆を振るって欲しいと思えばまでのことでした。

なお久保川論文が出た頃、石山では『久保川論文の妄説を破す』というこれまた高飛車な侮蔑表現で題名を付けた文章を発表しています。正信会(同会をわたしは高く評価する面も多々ありますが)のアナウンスを読むとき、併せ参考にするとなかなか面白いところがあります。わたしはどちらによるものでもないので、実に客観的に俯瞰するばかりです。
それにしても‘憎悪対象がある’文章は、どうもストレートに落ちてきません。その感情部分を削除するなプロセスを経なければならず実に面倒臭く感じます。厳正に資料から読みとるという学的・科学的な姿勢が信念体系から書く文章には常に欠陥がついて回ります。最初に結論ありき、これではただの手前味噌です。どんなに料理したところで手前の味にしかなりません。同じソースを使っても、守るべきものによってその解釈が変わる、守るべきものがあって書く文章は自讃毀他が臭く、根本を見極める点で判断がぶれるきらいがあります。ですから、その根治的な部分を考えるのが当掲示板であって欲しいと願うことになるわけです。
…、しかし、愚鈍凡夫さんの博読には、いつも感心させられます。
ご紹介有り難うございます。

786犀角独歩:2004/04/22(木) 16:13

> 784、5の自己レス

どうも紹介サイトの感想を書いたら、愚鈍凡夫さんに言っているような文と取られかねない運びになってしまっていますね。そんなつもりはありません。
どうかご判読ください。

尤もnbさんは異論はおありでしょうか。
ここで議論ができれば有意義であると考えますが、叶わないでしょうか。

787犀角独歩:2004/04/22(木) 17:43

六壺の模刻本尊の話が出ましたので、ついでに所謂「譲座本尊」について。
と言ってもお尋ねです。冨要に限る資料で恐縮ですが、

「一御座替の本尊を日目に授与したまふ是れ則大石寺御建立の年の御筆」富士門家中見聞抄目録(日精)

「当山建立は正応三年十月十三日に之を成就し畢る、日興上人同日の御内に此の寺を以て住寺日目と之を定む、御座替の御本尊是れ其の証拠なり、但し大石寺付属の譲状は元徳四壬申三月即正慶元年なり、此表趣の御遺状なり」有師物語聴聞抄佳跡上(日因)

「一、日興上人筆座替大本尊竪七尺一寸五分横三尺六寸 一幅首題の下日蓮在御判左日興奉書写之右日目授与之依て座替と号す日興より日目嫡々相承手続支証の大漫茶羅なり」富士大石寺明細誌(日量)

「(右下)正応三年十月十三日之を写す日興(十六枚の大幅)(左下)日目に之を授与す、 総本山御座替本尊」富士史料類聚(日亨)

手元にある『日興上人御本尊集』を見ると中央題目・日蓮在御判右横に「日興花押」、左に「日目授与之」でその記述が一致しません。

あと、これはまるでうる覚えなのですが、石山虫払法要の時、客殿安置の模刻の前に、この紙幅漫荼羅を奉掲して、その際に「右に日興上人花押、左に日目上人花押」と説明された記憶があります。これは記憶違いであったのか、それともいま客殿の模刻には目師花押があるのか、以上の点、ご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけませんでしょうか。

788犀角独歩:2004/04/22(木) 17:53

真光寺板漫荼羅とはこれのことでしょうか?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/sinkoji_itamandara.jpg

789空き缶:2004/04/22(木) 18:54

犀角独歩さん、まさしくこの板曼陀羅だと思います。

790愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 20:33

犀角独歩さん、有り難うございます。

> 手元にある『日興上人御本尊集』を見ると中央題目・日蓮在御判右横に「日興花押」、左に「日目授与之」でその記述が一致しません。

とのことですが、

> 「一幅首題の下日蓮在御判左日興奉書写之右日目授与之依て座替と号す」

古より、日本では南面を向いて、日の出の方角(左)が上座、日没の方角(右)が下座とされていますよね。このことから言えば、上座・日興師、下座・日目師となるわけですから、向かって右が日興師、左が日目師になるのではないでしょうか。

791れん:2004/04/22(木) 20:41
犀角独歩さん。譲座本尊の紙幅原本では、日蓮在御判の右に「正応三年十月十/三日/写之/日興花押」左に「日目/授与之」とあります(日興上人御本尊集所収の御筆写真による)。ですから日興花押・日目花押との御虫払いの際の説明は間違いです。ちなみに石山十四世日主師には譲座本尊示書という著作があり、示書の上段には弥四郎国重云々の弥四郎マンダラの腰書・下段には日興御判客座御隠居、日目授与之嫡子分本座と譲座本尊の説明が記されています。堀日亨師は「戒壇本尊の弥四郎国重の文は日主上人が初めて写して御座る」とコメントしています。

792れん:2004/04/22(木) 20:56
客殿の譲座本尊摸刻板は江戸期の日永師の造立ですから、摸刻板にはもちろん「日目花押」は無いと存じます。m(__)m

793空き缶:2004/04/22(木) 20:56
 
 愚鈍凡夫さん、「日興上人御遺戒」の件、私も気になるんです。確か御伝土代には「日興上人御遺告」というのが出てきたと思います。

 一大聖人の御書は和字たるべき事
 一鎌倉五人の天台沙門は謂れ無き事
 一一部五種の行は時過たる事
 一一躰仏の事
 一天目房の方便品読む可らすと立るは大謗法の事

目師以降は正確な資料も少なく、疑問がたくさん出てきますね。
道・郷・尊の三師にいたっては、わからない事だらけです。

794犀角独歩:2004/04/22(木) 21:21

空き缶さん:

有り難うございます。やはり、そうですか。
この写真は『富士宗学要集』(資料類聚別冊・昭和17年12月5日印刷/12月10日発行・編集権発行者堀日亨・発行所折線書房)版の巻頭グラビアに載る写真です。


愚鈍凡夫さん:

わたしが違うと言ったのは要は同じ本尊のことを記しているはずなのに左右が入れ違ったり、花押の有無があったり、「写之」が「奉書写」となったりする出入りがあるのは何故かという問なのです。何故こんなことが起こるのかという意味です。どうお考えになりますか。


れんさん:

「目師花押」、やはりあるわけはないですよね。それで正解であると思うのです。
もう少し、この時に聞いた話を記すと、この「日興花押」は興師自身、「日目花押」は目師に促して興師が書かせたというものでした。またこの模刻は精師という説明であったとも記憶します。こうなるとかなりわたしの記憶が曖昧なのか、それにしては妙に「物語立て」で覚えているので、そうとも言えないと頬を抓っています。

> 譲座本尊示書

この書についてもう少しご教示願えませんか。この書が主師真筆である確証はあるのでしょうか。また、この書はどこに載り、また、亨師の言は何に載るのでしょうか。
できれば、

> 示書の上段には弥四郎国重云々の弥四郎マンダラの腰書

この正確な記述をご開示いただけませんでしょうか。
よろしくご教示の程、お願い申し上げます。

795犀角独歩:2004/04/22(木) 21:24

794、間違えました

誤)発行所折線書房 (そんなわけありませんね)
正)発行所雪山書房

796空き缶:2004/04/22(木) 21:31

 犀角独歩さん、

 >『富士宗学要集』(資料類聚別冊・昭和17年12月5日印刷/12月10日発行・編集権発行者堀日亨・発行所折線書房)版の巻頭グラビア

 そうなんですか、私はてっきり先に話題に上がっていました「石山本尊の研究」からだと思いました。
 
 れんさん、「譲座本尊示書」は歴代法主全書第2巻以外に、掲載されている既刊書ってあるんですか?もしあれば私も知りたいです。

797れん:2004/04/22(木) 22:21
犀角独歩さん・空き缶さん。譲座本尊示書の主師筆の写真が興風談所刊行の興風紀要創刊号八十ページに掲載されてます(ただし譲座本尊の解説部分のみ)。筆跡は大石寺図絵と同じで確かに主師筆です。弥四郎曼陀羅の腰書の部分は掲載されてないのでどの様になっているかは分かりませんが、池田令道師の「富士の立義と血脈相承についての私見(下)」(興風紀要第二号所収)の註22には『この上段が「弥四郎国重云々」の戒壇本尊脇書になっている』と記されています。亨師のコメントは杉谷香道師筆録総本山五十九世日亨上人講述に収録されてます。m(__)m

798愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 22:49

それぞれ表現が違うのは、印象を記したものでしょうか。それとも、本当にそのように記されていたのでしょうか。もし、そのように記されていたのであれば、複数存在することになりますね。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

それにしても、「譲座本尊」は、日興師が命名したものでしょうか。
日興師が日目師に授与したことが慣例化し、代替わりの度に書写漫荼羅を授与したことで、「譲座本尊」と呼ぶようになったのでしょうか。
まあ、「唯我与我」の儀式は証人がいないから、その代わりに「譲座本尊」をもって住職を譲座されたことを証明するといった意味なんですかね。
そうすると、「譲座本尊」は石山に何舗あるんでしょうか。

799愚鈍凡夫:2004/04/22(木) 23:09

空き缶さん。

「日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之レを記す」(三師御伝土代)

とあって、空き缶さんが引用されている文に続きますが、「唯授一人血脈相承」のことは記されていませんね。

日尊師と日道師とでは、解釈が違うということでしょうか。それとも、別々に御遺告があったということでしょうか。しかし、日道師が「唯授一人血脈相承」のことに触れていないのは面白いですね。

800空き缶:2004/04/22(木) 23:27

愚鈍凡夫さん、日尊師の後を継いだ日大師は御本尊書写をされています。
 日尊師が御本尊書写をされていなかったとすれば、日大師はいったい誰から御本尊書写の相伝を受けたのか疑問です。
 ちなみに日大師書写の御本尊も主題の下は恐らく「日蓮在御判」(恐らくと書いたのは、写真が不鮮明で主題下に「日蓮」までは確認できますが、「在御判」までは私の肉眼では確認できません。)となっていると思われます。
 相貌は弘安年式です。私の我見で判断すれば、興尊流の書写形式を継承していると思われます。(以上、本山要法寺刊「日大上人」巻頭グラビアより)

801空き瓶:2004/04/22(木) 23:33
 妙蓮寺の客殿の御本尊は弘安三年になっています。
 原本は無いそうです。
 東金本城寺の御本尊は猿島富久成寺の弘安三年の板本尊
 です。

802空き缶:2004/04/23(金) 00:21

すみません、主師の遺文が出ているのは「歴代法主全書」の1巻でした。謹んで訂正いたします。

803地名:2004/04/23(金) 00:57
「日亨上人講述」杉谷香道筆録、平成13年3月発行、日目上人奉賛会のP44
紫宸殿御本尊の事の中にあります。
引用しますと
「日有上人文安二年の寫本尊には紫宸殿とは書いてないが、案ずるに始め須津之辻、
鳥窪本傳寺の什宝であったであろう。」とあり、

次いで
「又、戒旦本尊の弥四郎國重の文は日主上人に至りて初めて寫させ御座る。」

ご参考まで。

804地名:2004/04/23(金) 02:01

「創価学会の罪悪」日蓮宗文庫のP126〜127に北山本門寺貫首・片山日幹師が次のように述べています。
「大石寺の管長、堀日亨師とは親しくおつきあいをしておりました。私の山にもしばしばこられて、私の山の宝物をみせてあげたり写真まで撮らせてあげたものでした。
中略
幸いにして聖筆鑑定の最高権威稲田海素先生は、堀師とは仲がよく、あそこのご遺文をみな対照しておられますが、その時に板本尊を見られたというので「どうでしたか」と聞きますと「ありゃあ、真っ赤なニセモノだよ」といっておられました。略」

また、二箇相承についても日幹師は
「これは大石寺側だけでなく北山本門寺でも富士門流は昔からこの二箇相承というものを盾にして本当のものは富士門流にあるといってきた…中略
私ども富士の本門寺においてこれを否定するのはおかしいのですが、これは偽作も偽作もはなはだしいものなのです」(この記事は6月28日本妙寺で行われた発言をまとめたもの。文責は編著者にある)

このような見方もあるというご参考までです。

805地名:2004/04/23(金) 02:33
高橋粛道師「日興上人御述作考1」平成5年第4版、仏書刊行会P415で
「日興上人から付属を受けたとする証拠に「譲座本尊」がある。譲座本尊とは日興上人が日目上人に座主の位を譲ったことを証する御本尊である。日主上人は日興跡条々事示書に「大石寺者御本尊を以て遺状成され候、是則別付属唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊は法体御付属」(歴全1巻459頁)とて、唯授一人の証しとして正応三年の譲座本尊を授与されたと述べている。又、同じく日主上人は「日興御判客座・御隠居、日目本座・嫡子分」といい、更に「此御本尊の御示(しめし)がきは日興上人より日目上人法水血脈唯授一人なり是は法体付属」と記するように元徳四年に先立つこと約40年前に日目上人は付属を受けていたのである。しかし、未だ御本尊の御書写が晩年までないから、本宗では正応三年の付属を内付と呼んでいる。」とあります。
ご参考まで。

806地名:2004/04/23(金) 03:01
宮崎英修師「大石寺・板曼荼羅について−その価値と成立」のP65で、
「…この事実より、また上の類推により板本尊は日有の彫ったものと考えても間違いないであろう。そして本品は日有が彫刻後そのままどこかにしまいこんだのを病気の為に甲州杉山にかくれたので(家中抄其他)自然にわすれられ、これが十世日乗、十一世日底の代になると石山では歴史不明の時代で次の日鎮の代になった時に蔵中の内より世に出され始めたのではないか。家中抄によれば日乗、日底両師の行跡は不明で、日鎮は若年の頃には四国方面並に東西に遊化することあまねくこの師の時に至って諸堂が整備され、「本堂・御堂・垂迹堂・諸天堂・惣門」が建立されるに至った。その寂年は大永7年(1527)71才であるという。そこでこの板本尊が本堂建立の際に燭光を浴びたのではなかろうか。…
日精によって祖像・板本尊と共に日法製作という現在伝承の板本尊となったものである。」
一つの見方としてご参考まで。

807地名:2004/04/23(金) 03:09

731 愚鈍凡夫さん

>日憲師の記憶違い…可能性あり…戸田さん、小平さんが見た漫荼羅(現在の「戒壇之本尊」)とは違う漫荼羅の相貌について述べている可能性もあり…

漫荼羅複数説に立てばその可能性も否定できないかと思います。
しかし浅学ですのでこの点についてはよくわかりません。
独歩さんの御本を是非拝見したいと思います。

808地名:2004/04/23(金) 03:24

729 独歩さん

>‘戒壇’の理論化を見ることはなかった。
>たしかに蓮師の至極は三つの法門ではあったけれど、
>戒壇は未完の儘であるので完全に解いていないと言えよう。

「日興上人全集」等で日興に戒壇思想があったかまだ未調査ですが、
日蓮ではどうかについては、山上弘道師「日蓮大聖人の思想(四)」興風13号のP88の脚注(184)で
「特に弘安二年以降「身延後期」には、真偽未決の「三大秘法抄」を除けば、戒壇問題には触れられていない。」とあります。
ご参考まで記します。

809地名:2004/04/23(金) 03:39

739 空き缶さん

>地名さん、「時師の代に造立」は今でも私の最も支持する戒壇本尊造立年代。
>最初は道師の代に造立と考えていた。
>この二師には、宗祖正御影(等身大の御尊像)を失ったこと、
>万年救護本尊を相伝できなかったことという、
>代替品作成の動機があると思った。
>その上、阿部師は、教学部長時代に「主題と花押は日禅授与のご本尊」「他の部分は時師か有師のころの筆」という鑑定結果を示している。
>最初は時師の代に紙幅版の戒壇本尊が完成し、
>有師の代に彫刻されたのかと考えていた。
>今は、時師の代に宮城県内で彫刻された板碑の一種ではないかと。

ありがとうございます。「板碑」説について可能でしたらもう少し教えていただけますか。

810地名:2004/04/23(金) 03:43

772 空き缶さん

>「大聖人門下掲示板」(ここは日蓮宗系の極めて真面目な掲示板です)
>私のコミュニティーにもリンクをはらせてください。

この2つのアドレス差し支えなければ教えていただけますか。
空き缶さんの掲示板等で勉強したいと思いますので。

811犀角独歩:2004/04/23(金) 09:14

れんさん:
空き缶さん:

有り難うございます。参考になりました。
腰書部分が写っていないのは何故なのでしょうか。
主師の次第によっては、わたしは腰書の成立を精師前後から主師前に考えを変えることも吝かではありません。しかしそのためにはまだ資料が不足しています。示書は自分のメモを読み直したら、やはりずいぶんと前に意識したことがあったのですが、「未決部あり」と記し弾いていました。

愚鈍凡夫さん:

示書を採れば本尊による譲座というのは主師に既に見られたことになりますか。
ここに日興・日目の両者の名前があることを見て、わたしは即座に『御伝土台』の「大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」という一節を思い出しました。石山ではこれを蓮興二師合作と読みますが、わたしは漫荼羅中に「日興上人」の四文字を蓮師が書かれたと読んできたわけです。木下師も同様の説でした。この場合、日蓮花押と日興上人が併存することになります。弘安二年興師授与漫荼羅(紛失)では蓮興、正応三年興師書漫荼羅では(蓮)興目がその紙面に載るという類型を示すことになります。
尤もわたしは興師唯授一人など指示するわけではありませんので、これをもって血脈相承を論じようと言うわけではありません。ただ、漫荼羅中に自名と上人号を書き込んでもらった興師が、今度は目師に同じくしたと考えることは可能かと思います。蓮師は熱原の報奨として、興師は上野大石に寓居する報奨として、それぞれの意味があったのかもしれません。


地名さん:

種々資料のご呈示、有り難うございます。

蓮師は、やはり戒壇義不説で没したと考えるべきなのでしょうね。
興師については昨日、山岳無縁さんと話しましたら『本門弘通事』を挙げていました。

「迹門比叡山 日枝山 吾山 御社
 本門富士山 蓮花山 大日山」

これはまた『三時弘経次第』

「比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。
 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 桓武天皇。…
 冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。
 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代」

これを興師戒壇義と採るべきか否か。わたしは悩みます。
むしろ像末弘教の違いとして、像法:迹面本裏、末法:本面迹裏の相違によって、比叡山迹門寺に対して、富士山本門寺の勅許を求める範囲ではないのかと思えます。もちろん、この延長線に迹門戒壇と本門戒壇の対比は帰結する可能性はあります。

この点を考えるとき、わたしは蓮興二師に決定的な違いを感じるわけです。
蓮師は実質的な権力者、幕府・北条(武家)に立正安国論を呈したのに、興師は天皇に申状を呈している点です。時代性の隔壁と言えばそれまでですが、コンセプトそのものの相違を感じます。

812愚鈍凡夫:2004/04/23(金) 12:01

地名さん、レス有り難うございます。

漫荼羅相貌の表現の違いについて、
私義を交えずに見たそのままを記した例もあるでしょうが、見た印象から自己の解釈を記したものもあるように思います。
こういったことは、それぞれが事実を述べていると仮定した上で、あり得ない可能性を一つ一つ排除していくしかないのではないでしょうか。

蓮祖漫荼羅の場合、これは小生の悩みの種なんですが、讃文の「二千二百余年」、「二千二百二十余年」、「二千二百三十余年」の違いが、いかなる根拠によるものか分かりません。
ただ言えることは、弘安3年(1280)8月以降、「二千二百三十余年」に統一されているということですが、これすら何故なのか分かりません。事実がそうであるというだけです。
この年のこの月に、何らかの心境の変化があったのかも知れませんが、理由は分かりません。
ただいえることは、蓮祖はその時々の想いに任せて漫荼羅図顕したのではないかということです。したがって、直感的なものであって、論理的に説明しうるものではないのかも知れません。

「大聖人門下掲示板」は、小生もたまにカキコしています。但し、空き缶さんと違ってボケをかましに行っているようなものですが。 (^◇^;)

「大聖人門下掲示板」
http://jbbs.shitaraba.com/study/3171/

813空き缶:2004/04/23(金) 16:54

 地名さん、こんにちは。
 「大聖人門下掲示板」は愚鈍凡夫さんのレスにあるとおりです。愚鈍凡夫さんフォローありがとうございます。

 私のコミュニティーは、ほとんど手をつけておらず、来訪者もほとんどありません。地名さんのお役に立てる内容は、現在皆無です。
 念のためこちらです。→http://groups.msn.com/daihonnzannmyouhonnji
 現在は妙本寺ではなく、この春に訪れた中伊豆の實成寺の写真を掲載しています。

814空き缶:2004/04/23(金) 17:22

 犀角独歩さん、「日興跡条々事示書」については、故伊芸益道師も「日興跡条々事への復帰―大石寺法門研究序説―」の中で、「示書は第十四世主師の書とはいわれているけれども、確かなことはまだ検証したことはない。」と言葉を濁しています。

 やはりなにかありそうですね。

815地名:2004/04/23(金) 21:54


812 愚鈍凡夫さん

ありがとうございます。お礼まで。

816地名:2004/04/23(金) 21:55

813 空き缶さん

ありがとうございます。お礼まで。

817地名:2004/04/23(金) 22:38

724 独歩さん

>川澄師は亨師批判をしているか。

「阡陌陟記」川澄勲著、1991年、オレンジ出版をざっと見た感じでは、評価が相半ばというふうにしか私の力量では言えません。

例えばP520「今の法門の根本は亨師によって教義として編成された本仏論から始まっているようである。これが大正元年には戒壇の本尊の真蹟説にまで発展していったものと思う」もしかしたら応師と間違っているのかとも思いましたが。
刊行にあたってでは「大石寺では既に堀上人の立正での科外講義のために、本因・百六箇抄及び相伝ものについては殆ど二本線をもって消されている…」
一方で「亨師60年の成果である富士宗学全集は…」とも。

818地名:2004/04/23(金) 22:58
川澄師の上記書P211に板本尊について記述あるので参考まで

「…摺形木は逆さ文字を彫るが、板本尊はこれとは逆に紙本尊から板に、
しかも右文字をそのまま右文字に移している処に何かがありそうである。
文底本因の一つの表し方であろう。
そして、板本尊は、上代において宗祖・開山・有師に限られていた。
そこにも何かがありそうである。」

譲座本尊について、参考まで
P225「主師は譲座本尊といい、精師は御座替り本尊という。譲座の語には釈尊から上行、上行から日蓮ということも含めて歴代に無理なしに考えられるが、精師の御座替りには、前貫首から現貫首へという意味しか感ぜられない。主師の場合は法門という感じが強い…」
P226「この本尊の中央の南無…経を日蓮体具の妙法という。宗祖己心所具の妙法であり、向かって右が興師、隠居座、左が目師、嫡子分である…」

819愚鈍凡夫:2004/04/23(金) 23:28

横レス失礼します。
川澄勲氏に関する、こんなサイトがあります。

「川澄勲研究会」
http://homepage2.nifty.com/houmonken/index.htm

820犀角独歩:2004/04/24(土) 08:16

817 地名さん:

有り難うございます。
参考になりました。

821犀角独歩:2004/04/24(土) 09:19

814 空き缶さん:

有り難うございます。

何かわたしは思うのですけれど、たいがい非公開のものというのは「あやしい」ですね。隠しておかなければならない理由がある見ざるを得ません。

この前、とある日蓮系雑誌を眺めていたのですが、現存する複数の『立正安国論』真筆、そもそもあれは全部が全部、蓮師の真筆なのか?という疑問を率直に記されていました。
これは各山に格護される「日蓮聖人真筆本尊」と言われるものもしかり、山中師『本尊集目録』に載る所謂聖筆もしかりですよね。それぞれ由緒寺院の尊厳を傷つけないと言うお計らいが学的研究を妨げています。

わたしは興師古写本しか遺さないものは、たとえ禄内でも直ちに蓮師真筆と見る勇気は湧きません。まして、歴代の時師写本なんかはまるで信用する気が起きません。なおさらのこと、どうも富士系で言う文献考証は直ちに信頼することにおそれがあります。

もちろん、これはれんさんをご教示くださった示書の真偽を斜に見るということではなく、蓮師門下の学的・科学的考証は甘く徹底したところがないために真実が隠蔽されている嫌いを嘆くことです。

822れん:2004/04/24(土) 17:19
日興跡条々事示書は歴全に主師著作として掲載されているものの、御筆写真等は公開されておらず、故伊芸師の言葉の如くそのまま主師の著述と断定することは不可能ですね。譲座本尊示書も弥四郎曼陀羅の腰書の書写部分は公開されてないので、独歩さんの仰る通り、譲座本尊示書をもって弥四郎曼陀羅腰書の初出文献と断定することは現時点では不可能で残念ですね。さて時師写本ですが、御書目録日記事・本因妙抄・心底抄・三大秘法抄等は、興風談所の研究により、時師筆と異なることが確認され、現在は上記文献等の時師筆は否定されています。m(__)m

823地名:2004/04/25(日) 01:32
811 独歩さん
>蓮師は、やはり戒壇義不説で没したと考えるべきなのでしょうね。
>興師については…三学無縁さんと話しましたら『本門弘通事』を挙げていた。
>また『三時弘経次第』
>これを興師戒壇義と採るべきか否か…悩む。
>むしろ像末弘教の違い…像法:迹面本裏、末法:本面迹裏の相違…比叡山迹門寺…富士山本門寺の勅許を求める範囲ではないのか。
>延長線に迹門戒壇と本門戒壇の対比は帰結する可能性あり。
>この点を考えるとき、わたしは蓮興二師に決定的な違いを感じる…。
>蓮師は実質的な権力者、幕府・北条(武家)に立正安国論を呈した…興師は天皇に申状を呈している点…。時代性の隔壁と言えばそれまでだが、コンセプト…の相違を感じる。

執行師「興門教学の研究」P97〜103で「…日興の著としては「三時弘経次第」と「安国論問答」の二著にすぎない」と記されています。
「…日興の確実なる著作または消息によって、その思想を考察してみよう。「三時弘経次第」には、正像末の三時について、弘経の次第を述べ、この三時を昔・迹・本に配当し、末法当今は迹門に基づく像法の時代と異なり、法華の本門に基づき、久成釈迦仏の法が、本化上行の垂迹としての日蓮聖人によって顕示される時であると見なしている。つまり、日蓮聖人を弘経の四依の立場で解するもので、仏勅を受けて釈尊の法を弘める導師とする。
この点、石山の教学が、釈尊と日蓮聖人との使命を異質的なものとして、末法にはその救世主としての久遠の本仏が出現することを予告(言)されたのが、釈尊であり、その予告に応じて出現されたのが、日蓮聖人であると見るのと根本的に異なるものである。」と。

824地名:2004/04/25(日) 02:15
続き
望月歓厚師の「日蓮宗学説史」のP71〜73で「(三)戒壇について」の項で「戒壇論が後世石山一派の特色ある主張となりしと雖も興師の当代にこの思想ありしやは研究の余地ありといふべし。」
「…「五人所破抄」(宗全二・82)…「門徒存知事」(宗全二・125)…「百六箇」(宗全二・25、29)…「産湯相承」(宗全二・33)…「身延相承」(宗全二・33)…是等は皆同一系統の思想にして、決して興師の教学と認むる能はず。
興師に於て延山離山当時の思想は「美作房書」(弘安7年)…「与波木井書」(正応元年)「…いずくにても聖人の御義を…」…決して富士を後世の夫の如く中心壇場と考えたるには非ず。「いずくにても」との言は明白にその旨を語るに非ずや。故に富士移転後も決して明白に富士会談を主張しおらず。「本門寺棟札」(宗全二・111)の如きも何等戒壇とするの根跡無し。「三大秘法口訣」裏書に「受持即受戒也、経云是名持戒…持経之処即戒壇也、法界道場云々」(宗全二・14)といふもの又之れが反証にあらずや。
故に興師は戒壇論に於て決して後世の所謂富士戒壇説を主張したるにあらざれども、又決して富士興隆の意志無かりしといふにはあらず。彼の「三時弘経次第」(宗全二・53)に比叡山に対比して富士山を列ねたるものの如きは此の一例なるべし。然れども、決して戒壇建立地とまでは主張せざりしならん。彼の延山に対する愛慕の言よりも将に然るべきを思ふ。若し一旦離山したるが故に悪言を放ってまでも富山を興隆せしめんとすとするが如きは、興師を傷けるものあり。併し、五一異見の一項に叡山戒壇踏不の義あり。伝説の如く昭師系が叡山戒壇を踏めりとせば、必ず興師は極力之を非難されしなるべし。これ他の教義上よりその然るべきを論断するを得るなり。」と述べられています。ご承知の事と存じますがご参考まで。

825地名:2004/04/25(日) 02:25
続き
上記の書のP76〜78で「富山戒壇論(富山中心論)…処破抄−門徒存知−産湯相承等…
…富山中心論が戒壇建立となり、王城移転を論ずるに至っては、興師のものにあらず。本尊も四士造立論より継子論となり、聖筆大曼荼羅論となるは、板本尊論に至る経路にして、又、興師のものと考へられず。…」と。ご参考まで。

826地名:2004/04/25(日) 02:47
「日興跡条々事」について「日興門流上代事典」P562では
「なお、大石寺日精「家中抄」の自筆正本「富士門家中見聞稿本零編」(研究教学書六・343)が本書に解釈を加える中に、
「日興宛身所給等者是板本尊事也。   今在当山也」と記されているが、同書(の)頭注等は日精正筆には
「…  …    是万年救護御本尊也。今在房州妙本寺也」と書かれていたのを、
大石寺第31代・日因が引線・抹消して
万年救護→板、
房州妙本寺→当山
と改字した事実を指摘している。」と記されています。ご参考まで。

827地名:2004/04/25(日) 10:58

稲田海素師の「日蓮聖人御遺文対照記」P115〜127には
「明治36年1月11日 富士大石寺(貫主大石日応上人)より御真蹟拝照せしむべきに付来山すべき旨の書状に接し…翌日江川家の本立寺を辞し、大石寺に詣る
直に塔中の寂日房を宿所に定められ、毎日8時より夜12時まで5日間録内外の御聖教37章を拝照し、外に録内外に漏れたる聖教編共に13章拝写せり…中略…

己上の御真蹟等を拝照せし時、監督の旁ら終始熱心に拝照されたるは、東京市下谷山下常在寺住職堀慈琳師にして、當山滞在中は勿論、其己後も御遺文拝照に就ては余に一臂の力を貸されたり、今一般の読者に代て一言以て之を感謝す、
猶ほ此外に遺文三十の巻(四十二丁)の日朗上人より日興上人への御書の御真蹟、拝照せし上に参考として拝写せり、又當山には興師の御消息多々あり、其中少々拝照せり、堀師は全分之を拝写す、且つ其中に日頂上人の御消息一通あり、此も後日老僧集編纂の為めに拝写せり…中略…

同22日 當山の霊寶拝見も無事に結了せし故に、午後3時より寂日房を辞して西山に過ぎり…」ご参考まで。

828地名:2004/04/25(日) 19:15

821

山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によると「大石寺の多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存されている。これらの殆どの文書の中に日亨上人は朱筆を点々とお入れになっておられる。」とありますね。
「三大秘法抄」の写本…日親本なり…多宝蔵から…日時上人の筆写本が出て、これが門下最古写本となった。
「御書目録日記」…行学日朝(上人)の写本で聖滅188年…聖滅116年の日時上人筆のが多宝蔵にあることがわかった」と。
堀ノート等の公開などしてくれるといいのですが…。

829犀角独歩:2004/04/26(月) 08:00

れんさん:

> 御書目録日記事・本因妙抄・心底抄・三大秘法抄等…時師筆と異なる

やはりという感じです。
それにしても、いまだにこれらの旧説が漫然と信じられ続けているわけですね。
説の刷新は常に孤高の人たちが認識し、旧態依然とした過ちにしがみつく人々の顰蹙を跳ね返しながら、事実を定着させていかなければなりませんね。

830犀角独歩:2004/04/26(月) 08:26

地名さん:

いつもながら、有り難うございます。
たいへんに参考になりました。
富士事戒壇論も蓮興二師にその確たる具体性を見ないことはほぼ間違いのないことと認識しました。

> 山口範道…多宝蔵…「御書目録日記」…日時上人筆のが多宝蔵

この人は、種々の一般の僧俗が読めない古文書やら、亨師の字が読めることから、たいそうなことを言っているように見えますが、凝視すると顕師のご機嫌伺い・御身可愛さ護教で説を枉げ、学的襟度は丸でないですね。いわゆる宝の持ち腐れとはこのことであると思うわけです。石山の都合ような発見をつなぎ合わせて、皆に重宝がられても、不節操に縫い合わせただけではただの雑巾です。

時師説はれんさんがお示しくださった研究が事実なのであろうと認識します。
山口師のいい加減さを示す好例を呈示いただけ、ロムの皆さんには対象の便宜となったと拝察いたします。

> 多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存

これはしかし、石山所蔵のものという意味ではないでしょうね。
よく引きますが、布師が志師の詰問に窮して

「旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」

と記したわけですから、これを補完すべく各地から亨師が苦労して明治以降に集めた文書類という意味なのでしょうか。

> 堀ノート等の公開

同感です。望まれるところですね。
亨師が他山で語った資料なども、一読してみたいものだと常々思っている次第です。

831れん:2004/04/26(月) 11:36
犀角独歩さん。誠に仰る通りと存じます。これまで日時師筆とされてきた御書目録日記事とそれと同じ筆跡を有する本因妙抄・五人所破事・本門心底抄・三大秘法抄の写本が大石寺六世日時師筆と異なることは、興風談所の池田令道師が興風叢書〔6〕大石寺某筆御書目録日記事の解題「大石寺某筆『御書目録日記事』の解題」において文献考証によって論証しております。興風十四号・十五号所収の大黒喜道師「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(一)(二)とともに、ご参考までに読む機会がありましたらご一読をお薦めしたします。

832犀角独歩:2004/04/26(月) 12:10

831 れんさん:

有り難うございます。
お薦めいただきましたところ、是非とも拝読いたします。
どうにも不勉強な面ばかりを晒しておりますが、今後ともご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

833犀角独歩:2004/04/26(月) 12:12

832につづき、多大な正確な資料をご提示くださる
地名さんにも改めて御礼申し上げ、ご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げます。

そして、空き缶さん、愚鈍凡夫さん、何より管理人さんにも深く御礼申し上げ、ご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げるものです。

愚鈍凡夫さん、元気出してくださいね。

834地名:2004/04/26(月) 22:50
830 独歩さん

> 多宝蔵には3,000点余の上代からの文書が保存
>これはしかし、石山所蔵のものという意味ではないでしょうね。
>…布師が志師の詰問に窮して
>「旧録等取り調べ逐一御会答申上げ可く候得共、
>去る慶応元年丑の二月廿八日之夜、
>弊山居坊之分不残ら災に罹り候砌、
>古記録を入れ置き候書庫迄悉皆延焼多分鳥有に属し
>今は何等之攷証に備ふ可き書類も之無く
>勿論弊禿如き愚侶の中々及ぶ可きに之無く宜敷御憐愍を仰き奉り候」
>と記したわけですから、これを補完すべく各地から亨師が苦労して
>明治以降に集めた文書類という意味なのでしょうか。

詳細は私にはわかりません。上記「大石寺の多宝蔵…保存…。…亨師は朱筆…。」の後にはこう続きます。
「その御精査力には唯々感銘の外はない。又全国を行脚なされての折、諸史料を記録なされたノートが500冊余も遺されている。これらの諸史料の中には再度探訪蒐集の不可能なもの、他山でも曽存となったものが多量にあるという重要な史料ばかりである。又ノートには長文の同じ文書を二回も三回もお写しになられたものがある。…」
とあります。表題は「古文書界の一隅」で、平成2年1月稿とあります。
布師は上記のように志師に話されている訳ですから「上代からの文書」というのは受け止め方は種々あると思います。あまりお役に立てず…。

835地名:2004/04/26(月) 23:08

831 れんさん

ありがとうございます。私も大変勉強になりました。御礼申し上げます。

836地名:2004/04/26(月) 23:14

830 独歩さん

>富士事戒壇論も蓮興二師にその確たる具体性を見ないことはほぼ間違いのないことと認識。

私が摘記した資料は一部に過ぎませんので、当否は御精査願います。
山口師は確か、当住、久保川師、手塚師、大橋師等と共に亨師に種々御指導を賜ったと仄聞しております。
七師外道さんが上記で記されている堀ノートの内容等も聞き及んでおられることと思われますね。推測ですが…。

837空き缶:2004/04/26(月) 23:15

 犀角独歩さん、恐縮です。こちらこそいつも勉強させていただいております。本当にありがとうございます。

 間もなく宗旨建立の記念日、4月28日です。私も某寺院(妙本寺系ではありません)にて記念行事に出席予定です。
 しかし何よりも最高の楽しみは、独歩さんの書籍を手にすることです。無事出版の日をむかえられますよう、影ながらお祈り申上げます。

838山本:2004/04/27(火) 00:46
いよいよ犀角独歩さんの新刊が出版されるのですね
楽しみです。いつ頃の予定ですか

839れん:2004/04/27(火) 18:03
犀角独歩さん・地名さん。こちらこそお二方はじめ皆さんの真摯な御研究・御議論には大変啓発されてますし、大変勉強にもなっています。私も来月正式に創価学会を脱会する運びとなりました。脱会を決断するのには勇気がいりましたが、ここでの皆さんとの貴重な議論が、脱会の決断を後押ししてくれたことも事実です。皆さんのこれまでのご指導ご鞭撻に感謝申し上げるとともに、独歩さんをはじめ皆様に引き続きご指導ご鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。今後は宗教団体からは距離を置き、無所属の立場で勉強していく所存です。右ご報告まて。

840地名:2004/04/27(火) 22:03

839 れんさん

こちらこそ大変勉強になります。
古文書を苦もなく拝読されておられ実にすばらしいことと拝察申し上げます。

そうなのですか。なんと申し上げてよいかわかりませんが、
私の方こそ今後とも種々御指導を頂きたくお願い申し上げます。

841犀角独歩:2004/04/27(火) 22:41

空き缶さん:
山本さん:

有り難うございます。


れんさん:

そうですか。
「脱会」、かつてわたしも通った道でした。
そこには開ける自由な精神と自由な思索がございました。

れんさんのご研鑽とご賢察が、さらに躍進されることと頼もしくも嬉しく存ずるものです。衷心より敬服申し上げる次第です。

842地名:2004/04/27(火) 22:59
828 地名
>山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」によると
>「三大秘法抄」の写本…日親本なり…多宝蔵から…日時上人の筆写本が出て、これが門下最古写本となった。
>「御書目録日記」…行学日朝(上人)の写本で聖滅188年…聖滅116年の日時上人筆のが多宝蔵にあることがわかった」と。
に対して

831 れんさんが
>これまで日時師筆とされてきた御書目録日記事と
>それと同じ筆跡を有する本因妙抄・五人所破事・本門心底抄・三大秘法抄の
>写本が大石寺六世日時師筆と異なることは、
>興風談所の池田令道師が興風叢書〔6〕大石寺某筆御書目録日記事の
>解題「大石寺某筆『御書目録日記事』の解題」において文献考証によって
>論証している。
と記されました。

本日、私も興風叢書[6]「御書目録日記事」を購入し拝読しました。
その結果、れんさんの記されたとおりだと私も思いますので訂正いたします。

843空き缶:2004/04/28(水) 20:27

 犀角独歩さん、私のコミュニティーにも「図解必携 大石寺本尊鑑別」の出版を待ち望む声が届きました。

 信濃町富士宮研究所も含め、創価学会・正信会・大石寺宗門とあらゆる所属の方々より注目を集めていますね。
 顕正会関係者のカキコがあまりみられないのが不思議ですが、国家諫暁に忙しいのでしょうか?

 れんさん、これからも多々ご指導いただきたいと願っています。落ち着きましたら、れんさんにも本をかいていただきたいです。

844地名:2004/04/29(木) 08:52

843 空き缶さん

信濃町富士宮研究所でのご活躍すばらしいです。
拝読して明晰な内容に大変勉強になりました。

よろしければ二点ほど教えて下さい。
一点は、失礼でしたが空き缶さんの下記の内容について引用させていただくことお許しください。
ここに記されています内容について、もう少し教えていただければ幸いです。
>私は通称「戒壇本尊」は時師の代から造立がはじまり、主師のころまでに大石寺に遷座されたと考
>えています。有師が模刻したものは、富士年表によれば「紫宸殿本尊」ですね。有師の京都遊学後に造立されていま
>すので、「紫宸殿本尊」は先に日尊師が模刻して京都の寺院(現在は要法寺)に安置していますので、所詮は尊門の
>真似事と思っています。つまり有師の代は、大石寺に教学と本尊が無く、京都遊学中にこの二つを他門より輸入し
>たと考えます。本尊は尊門、教学は隆門(八品派開祖・日隆の教学)。

二点目は、空き缶さんのコミュニティー拝見させていただきました。
大本山妙本寺と伊豆実成寺はつながりなどはあるのでしょうか。会津の実成寺には何度か参詣しています。
保田の妙本寺には関心があります。一度参詣したことがあります。
下記も上記掲示板に記された引用をかってにしてしまい大変失礼いたします。
興風談所発行の「興風」誌で、坂井師が日目師→日郷師の相続について言及されていたため
下記も含めて保田妙本寺について学ばせていただければ幸いです。
>万年救護本尊は、誰もが宗祖真筆と認める御筆本尊です。しかも宗祖図顕曼荼羅の中で唯一、宗祖の筆で「大本尊」と書かれた御本
>尊です。(他は皆大曼荼羅・大曼陀羅ですね)
>また尊門出身で後に大石寺貫首になった、日精師もその著作の中で「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日
>興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり、日興より又日目に付属して今房州に在り」(富士門家中見聞)としています。
>さらに三十一世日因師は「袈裟数珠之事」で「近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之を改め近代上人方の
>邪の法を疑ふのみ、一には日主上人の立行関東奥方に残り伝はる故、二には当山古老僧皆之れを伝ふる故、三には当山日目上人の
>相伝悉く房州保田に有る故、四には要法寺二代日大叡山相伝当山に伝ふ、故に知んぬ近代上人方、要法寺日大の邪伝に附するの
>み。」といわれ、日目上人の相伝が保田妙本寺にあることを明かされ、大石寺は「天台真言の邪義」や「要法寺日大の邪伝」が伝え
>られていたことを暴露しています。
大変失礼な書き込みをお許しください。可能でしたらお願い申し上げます。

845犀角独歩:2004/04/29(木) 12:12

843 空き缶さん:

地名さんの書き込みに誘われ、信濃町富士宮研究所の貴投稿を拝読させていただきました。管見にご賛同いただき、またご紹介のうえ、ご賢察を開陳いただき、まことに有り難うございます。

一点。禅師授与漫荼羅が石北両山にあり、どちらが本物・模写であるかという点。
亨師は両山の漫荼羅を比較し、まったく同一であると述べていたと記憶します。この点はかつてワラシナさんが指摘されたことです。では、まったく同一相貌の紙幅漫荼羅が何故現存するのか?ということが問題になります。山口範道師も紹介していた方法、つまり、表装剥離で正本から影本を取ったと議論されたことでした。
この件に関しては当スレッド35、104、255で空き缶さんも加わってお出ででした。

―― 漫荼羅の和紙はいまの紙に比し、ずっと厚手なので、表面(正本)を剥がすことができる。剥がしても、まだ文字は染み込み残っている(影本)。こうして禅師授与漫荼羅が二舗に分けられた ――

「弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、
(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」

「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、
(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)、同上(北山本門寺)」

この記述をそのままに信用すれば、以上のような時系列が認められることになります。

(1)蓮師・弘安3年5月9日図示・「此丘日禅に之を授与す」
(2)興師加筆「本門寺に懸け(奉り)万年の重宝…」
(3)2舗に剥離
(4)石山本:興師加筆「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」、そして、「本門寺に懸け奉り万年の重宝…」の文字を削損

すなわち、この分離は興師在世に行われてことになる!と類推されます。
ただ気になるのは、

石「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」(興師筆と)
北「本門寺に懸け万年の重宝たるべし」(他筆と)

と亨師が書き分けている点です。徒に訓読にされてしまっているために、多分、白文で記されたであろう加筆の相違が判然としません。けれど、もし、「本門寺・重宝…」の加筆が同一の筆であれば、以上の時系列ということになるでしょう。

もしこの剥離・削損が興師の許で行われたとしたら、本門寺奉懸を興師は意図し加筆。
のちに一舗は「本門寺重宝」の意義を削損し「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」と加筆して、禅師へ与え直したなどという類推は可能かも知れません。こうなると北山に保管されたほうが正本であり本門寺奉懸漫荼羅、法道院(現在石山)保管のほうは禅師個人の漫荼羅ということになるでしょうか。

尤も表装を剥離したものではなく、元より片方が(籠抜き拵字などの技法を使った)正確な模写である可能性は否定し切れません。その場合、すると「少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し」の加筆は模写を許さなかったということになるのでしょうか。

いずれにしても、この二舗は同一相貌であるという事実は動かないであろうと思うわけです。

PS:それにしても、わたし富士宮研究所では保田の法類と勘違いされたのですね。まだ妙本寺は参詣したこともありません(笑)

846れん:2004/04/29(木) 18:12
先日国会図書館に行き完則師の大石寺宝蔵目録をコピーしてきました。弥四郎マンダラについては皆さんが論じられている通りでしたが、目録で気になったのは「色心実相境智根源決・日時筆」でした。これは達師が刊行し娘婿の菅野師の妙観文庫に所蔵とのことが同文庫目録に記録されていましたが、内容は未見なのでわかりません。石山固有の法門書は目師の「日目直授相承」興師弘安五年撰述の「本尊点画伝」道師の三師伝と行師への「本尊秘伝抄」時師の「色心実相境智根源決」でしょうか。以上は富要等にも載らず未公開ですが、ご存じの方はご教示の程を。

847名無し@ピンキー:2004/04/29(木) 18:41
地名様
大本尊と顕示されているのは、万年救護の本尊以外にも実存致します。
岡山県の日蓮宗寺院に三国救護の本尊、仙台市の仏眼寺に一幅、大本尊と認めが
あり、前者の三国救護の本尊は真筆と立正安国会でも断定しております。

日禅授与の御本尊様の相貌のハッキリとした、写真をお持ちの方は公開して
下さい。

848空き缶:2004/04/29(木) 18:45

 地名さん、こんにちは。
 いずれもう少し自分の考えをまとめたいと思いますが、これまでの論議の中で出尽くしていることばかりです。
 大要は以下の通りです。

 >時師の代から造立がはじまり、主師のころまでに大石寺に遷座
 
 1、道郷係争の終焉により、時師は御影を失った。「日興上人御遺蹟事」より、御影が本門寺建立の時の本堂安置の本尊と推定される。
 2、大本尊副書の記述と「家中抄」の記述より、御影と大本尊はセットであると思われる。
 3、これらのことより時師には御影の像立と併せて、大本尊の代替をつくるという動機があると推察する。

 4、主師撰と伝わる文献に、初めて弥四郎曼荼羅と思われる板本尊の記述がみられる。
 5、「奥人」等の資料にも、板本尊に関する記述に時師と主師の名が見える。
 6、主師とほぼ同時期に活躍された、保田・小泉の中興である我師撰と伝わる文献に、久遠寺の板本尊が当時大石寺にある旨の記述がある。

 こんなところです。

 尊師模刻本尊と有師模刻本尊の件は、れんさん引用の「日興門流上代事典」の記述を参考にさせていただいたものです。
 隆門教学摂取の件は、日蓮宗宗学全書8巻の「日隆上人略伝」を参考にしています。

 實成寺と妙本寺ですが、特別な関係にあるわけではありません。
 誤解を招くといけませんので、近日中に實成寺の写真は削除しようと思います。
 個人的に、實成寺も蓮・興・目の三師を正師と立てる寺院でありますので、親近感を持っています。所蔵資料も興味のあるものが多いと思います。

 いずれにしましても、地名さんから学ぶことが多いわたしですので、私の愚論はあくまでも暇つぶし程度にお考えくださいませ。

849地名:2004/04/29(木) 18:56

848 空き缶さん

ありがとうございます。
いずれおまとめのおりは、拝読させていただきます。

850地名:2004/04/29(木) 19:00

847 名無し@ピンキーさん

>大本尊と顕示されているのは、万年救護の本尊以外にも実存致します。
>岡山県の日蓮宗寺院に三国救護の本尊、仙台市の仏眼寺に一幅、大本尊と認めが
>あり、前者の三国救護の本尊は真筆と立正安国会でも断定しております。

ありがとうございます。
私は本尊については今回初めて学ぶ者ですので寡聞にして大本尊は保田妙本寺様の大漫荼羅と思っております。
もしよろしければ、上記の大本尊の腰書等教えていただければ幸いです。

851空き缶:2004/04/29(木) 19:09
 
 犀角独歩さん、禅師授与曼荼羅の件、私は単純に北山のものが立正安国会の御本尊集に収録されなかった為に大石寺のものが真撰ととらえました。
 いとも単純でした。やはり皆さんと私では次元が違いますね。

 れんさん、国会図書館への来訪お疲れ様です。コピー代高いですよね。
 名無し@ピンキー さん、勉強になりました。ありがとうございます。

852れん:2004/04/29(木) 20:19
名無し@ピンキーさん、はじめまして。岡山県日蓮宗寺院…三国救護の本尊…立正安国会…真筆と断定…。仙台仏眼寺のものは御筆写真を見たところ保田蔵の大本尊を底本とした偽筆と私は見ます。岡山県日蓮宗寺院所蔵の通称三国救護の本尊は本当に蓮師真筆なのでしょうか?たとえ立正安国会が真筆と断定していても、御筆ないし御筆写真を実見しない限りは私は蓮師筆とは判定しかねます。もしよろしければ、三国救護本尊の図示年月日、図顕讃文、授与書、先聖添書等について詳しく御教示戴ければ幸甚です。

853犀角独歩:2004/04/29(木) 20:27

禅師授与漫荼羅は北山では寺宝「万年救護本尊」として格護され、寺院の方針としては非公開とのことでした。

パンフレットに載った件を法類の方にお尋ねしたら「知らない」ということでした。

石山は、もちろんこの騒ぎですから、公開することはないだろうと思います。

854犀角独歩:2004/04/29(木) 20:42

れんさん:

完則の相貌図、ご覧になって、どのような感想を懐かれましたか?

855名無し@ピンキー:2004/04/29(木) 21:03
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm
これの事ですか、パンフレットの件

856れん:2004/04/29(木) 21:46
犀角独歩さん。完則師の相貌図を見た感じでは、ずいぶんとまあ今の弥四郎マンダラとは相貌が違うなぁ、あまりに勧請が少なすぎると言うのが正直な感想です。これでは今の板マンダラが何代目か?と思われても仕方ないですね。やはり弥四郎マンダラの成立には謎が多すぎると感じます。弥四郎国重も明和年間には家中抄の記述により南部実長氏の嫡男説であったことは参考になりました。

857犀角独歩:2004/04/30(金) 10:48

れんさん:

> 完則師の相貌図…今の弥四郎マンダラとは相貌が違う…今の板マンダラが何代目か?

やはり。わたしも同様の感慨を懐きました。
手元に完則図を含めて三種の座配を写した図、それに憲師の記述を含めて四種類あります。それぞれ出入りがあって一様ではありません。違っているのは勧請諸尊とその座配ばかりではなく、讃文・腰書の文と文字配り、さらには木下図では上部に「若脳乱者頭破七分」「有供養者福過十号」と記されるところまで違っています。これが同じものを写したとは到底信じがたいものがあります。

なお、『日蓮上人』掲載の写真を拡大して、その座配を睨んだとする柳沢図は、禅師授与漫荼羅と諸尊勧請は全同です。また、先にも記しましたが、全同でした。柳沢師はまったく禅師授与漫荼羅は意識していませんが、学会成就本尊は意識していたかも知れません。この漫荼羅は愛染が弥四郎漫荼羅と同じ筆法に拠っていること、また経の最終画が公明点になっていない特徴は弥四郎漫荼羅を写したものと思われます。達師の、正本堂供養者に下付した特別御形木漫荼羅も同様の特徴を示しますので、ある面、同師は顕師より忠実に弥四郎漫荼羅を「書写」した人であったといえるというのがわたしの見解です。

以上の如く、近代の対比では一致するものの、木下図からさらに憲師、完則師と下れば、著しく相違が散見されることになります。

「一枚岩」ならぬ一枚‘板’ではないと思わざるを得ないわけです。

858犀角独歩:2004/04/30(金) 10:50

【857の訂正】

誤)また、先にも記しましたが、全同でした。
正)また、先にも記しましたが、学会成就本尊も全同でした。

859れん:2004/04/30(金) 22:13
犀角独歩さん。仰る通りですね。実家にも達師の特別形木マンダラがあるので、あらためてまじまじと観たところ経字と愛染の梵字の書体も独歩さんのご指摘の通りでありました。憲師、完則師の記述による限り、弥四郎マンダラは複数の存在が類推される、というよりも、台座(腰書部分)からマンダラ部分の取り外しが可能ならば、台座は一つだが、やはりマンダラ部分は相貌の違うモノが複数存在するということになりましょうか?先ずは、近日中に発刊される独歩さんの著書を拝読させて戴いて、勉強させて戴きたく存じます。

860名無し@ピンキー:2004/05/02(日) 18:21
本門寺根源では虫干会の際に宝物の紹介をするパンフを配布しています。
受付に言えば過去の分も含め出してくれますよ
 本門寺根源 0544-58-1004

861犀角独歩:2004/05/04(火) 14:54

859 れんさん:

こちらこそ、今後ともご指導・ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。


> 860

禅師授与漫荼羅については、近日発刊の『図解必携 大石寺本尊の鑑別』で詳しくする予定です。ご参考ください。

862名無し@ピンキー:2004/05/07(金) 21:22
 楽しみです。つい最近になって猿島富久成寺に蔵の宗祖日蓮聖人筆

 の写したる紺紙金泥の御本尊を福島の寺院で拝観しました。

 因みに、正宗寺院ではないですけど。

863ストレート:2004/05/07(金) 23:45
某掲示板で石山批判書出版するという直●というかたは、あのロ●●クさんだったんだネ。
最初の出版社は自社判断で出すのをやめたと聞く。その理由を種々聞いて納得。

864みかん:2004/05/08(土) 02:25
>>863 ストレートさん。
どこのどなたか存じませんが、捨てハン(だよね?)で、
伏せ字で他板の住人の個人攻撃をするのはいただけないと
思いますが。

直人さんがROCKさんなのは、みんな知っていることだし、
彼の書かれる本がすぐれたものか、そうでないかは、
本が出てから実物を見て評価すればいいことではないでしょうか。

> 最初の出版社は自社判断で出すのをやめたと聞く。その理由を種々聞いて納得。

その事情をあなたが本当に聞いたのか、知っているフリなのか知りませんが、
こういう事実かどうか検証不可能な裏情報をもっともらしく振り回すのって、
いささかいただけないと思いますが。いかがでしょうか。

865Happy Birthday!!:2004/05/08(土) 09:55
御真筆御本尊の発見か!?

『重宝御虫払法要』

日時:5月22日(土) 午前10時

場所:妙盛寺本堂(静岡県静岡市清水草薙北)


主な奉掲御本尊

 ●日蓮大聖人筆(弘安三年 月 日)[日弁授与之御本尊]
 ●日興上人筆(元亨四年七月二十二日)

  なお、この2幅は日蓮正宗関係の書籍でも確認できない。

 その他、日蓮大聖人御影・日興上人御影、日蓮正宗歴代法主の書写御本尊約30幅

866空き缶:2004/05/08(土) 12:54

 伝「御真筆」は、まだまだたくさんあるんですね。

 先日は明らかに「模写」と思われるものが、オークションで落札されていましたが。

 是非、日蓮正宗圏も所蔵の伝「御真筆」本尊を鑑定され、世に公開されることを希望します。

867名無し@ピンキー:2004/05/10(月) 21:40
 ここに、伝日蓮大聖人筆の御本尊があります。
 http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shokeiji/mandara1.htm

868犀角独歩:2004/05/10(月) 22:16

このスレッドのテーマは「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」です。本論に戻しませんか。
必要があれば、上述の議論に相応しいスレッドを提案されては如何でしょうか。

869独り寝:2004/06/13(日) 20:02
こんにちは。

初めて投稿させていただきます法華講の者です。

様々な御研究。
遡って拝見いたしました。
学究的な態度での真面目な御研究のようですのでお邪魔をするつもりはありませんですが、
一信仰者の「私見」でしかないものですが私の意見をひとつ書き込みさせていただきたいと思いました。

◆私見◆

私は、「弥四郎国重」とは、遠い未来に広宣流布し、いよいよ戒壇堂が建立されることになった時に実在する願主(時の天皇、総理大臣、総講頭などがそれにあたるでしょうが)の名前なのだろうと考えております。
これを事前に仏様が予言しておられるお名前だろう。
そう思います。

でそのお方は、
「やしろ くにしげ」
さんかもしれないし、「やしろ総理・くにしげ天皇」の連名での願主なのか…
私は凡夫なのではっきりとはわかりませんけれども、
とにかく近いお名前の方が実在し、信徒を代表して願主となれるような地位にいる時代、この時に広宣流布し、戒壇堂もできるよ…
という仏様の予言ではないかと思っているものです。

もちろん、学術的な根拠は何もなく、たんなる一信仰者の私見でございますからお笑いくださって結構なのですが、
過去の書き込みを拝見するにつれて、
大聖人様が、「仏様」ゆずっても「上行菩薩」さらにゆずっても、元の来訪を予言せられた大僧侶である。
という、この、未来予知ができたお方である…という視点からの言及がとぼしいように思いましたので、あえてその立場からの見解を述べてみるのも意味があるかしらん、と思った次第です。
つまりは「未来の願主予言説」
とでももうしあげましょうか、
そんな拙い私見でございます。

なお、もちろん、私はお邪魔をするつもりはございませんですから、板の趣旨や話の流れにそぐわない投稿であると御判断されたら、ご自由に御削除くださって結構でございますことを、あわせて申し上げます。

失礼いたしました。

870風来坊:2004/06/14(月) 12:28
本当に久しぶりに覗いています。

独り寝さん

>、「弥四郎国重」とは、遠い未来に広宣流布し、いよいよ戒壇堂が建立されることに
   なった時に実在する願主(時の天皇、総理大臣、総講頭などがそれにあたるでしょうが)の
 名前なのだろうと考えております。これを事前に仏様が予言しておられるお名前だろう。

そう考えている方もいらっしゃいますかもしれませんね。
でも、でも日蓮正宗ではそうは言えないかもしれません。
血脈相承を受けてきているはずの大石寺諸師が、「波木井さんの息子」と
しているからです。
(富士宗学要集第五巻)

その他のところでは、他の系図もあることは、過去、こちらの掲示板で
皆様が議論されていましたのでそちらを見ればわかります。

重ねて申し上げれば、血脈相承があるとする以上、日蓮正宗では
独り寝さんのような御意見は通らないかもしれませんね。

871独り寝:2004/06/14(月) 13:20
風来坊さんこんにちは。
昨日の日曜日に、
独歩さんのサイトから御本尊に関する文章をコピーしたものをゆっくり読んでましたら、丁度弥四郎国重のところをみていた時に、
突然、フッと下のような考えが浮かんできたんです。

なのでそれをそのまま書いてみた次第です。
勿論、
ただの思いつきですので言い張るつもりもなにもありません。

ちなみに偽作、
ということでいえば、そもそも大乗教典自体が非仏説があったりするわけですから、
学問だけを頼りに考えていくなら、
特に大乗仏教の国、
日本の仏教宗派自体がそもそも成り立たないでしょうね。
と思います。
しかし信仰というのはまた別のものでしょう。
そもそも居るか居ないのかもわからない神を、しかし崇めてきているのが人間の歴史。
人の命のより深いところからの欲求によって成り立っているのが宗教だろうと私は思います。

学問は学問。
宗教は宗教でしょうね。
人は自分の命の欲求に従い、
見事な使い分けをしていくものでしょう。

がしかし…
こんなこと書いてると明らかに趣旨に反しますので、風来坊様にはお相手くださったお礼をのべつつ退散いたしますね。

どうもありがとう。
失礼いたしました。

872風来坊:2004/06/14(月) 14:35
独り寝さん
>退散いたしますね。

いやいや、私は退散させようとしたわけではないのです。
ここの皆さんは真面目ですし優しい方が多いですから、とてもいいお話ができると思います
ので、どうぞまた参加せれることをお勧めします。
やはり、自分の信仰には一つも疑問や不満がないことが望ましいです。
独り寝さんの中にも、弥四郎国重のことだけじゃなく、ほんの少しは疑問とか
あるのではないでしょうか?それを皆さんにぶつけてみたりするのもいいんじゃないかと
勝手に私は思っています。
それがゆるぎない信仰へと発展するかもしれませんよ。
またお会いできること、心からお待ちしてます。(最近は私も全然見れませんでしたが)

873空き缶:2004/06/14(月) 15:38

 独り寝さんはじめまして。

 大乗非仏説と本門戒壇之大御本尊偽作説とは根本的に性質が異なると思います。
  
 「本門戒壇之大御本尊」は弘安三年の日禅師授与の曼荼羅という、もとになったものが厳然と存在いたします。
 これは御当代の日顕上人猊下様も過去にお認めであることが、故河辺御尊師のメモによっても明らかです。あのメモは、「院達」等でどんなに言訳をされても、その内容をごまかすことはできません。
 もし本門戒壇之大御本尊と弘安三年の日禅師授与曼荼羅とが、全くのべつものであるならば、この二つを横に並べて写真公開し世に問えばよいこと。しかしそれができない、何故でしょう?それは、その曼荼羅の大きさ、勧請諸尊の種類・座配、主題・花押の筆法、全てにわたって全くの全同であり、河辺メモの正確さがかえって証明されてしまうからではないでしょうか?

 そして御顕示年月日・授与書の改竄を施した、単なる禅師授与曼荼羅の模刻ではなく、あたかもなにか特別な曼荼羅であるがごときを詐称した、大石寺流にいうならばれっきとした偽本尊です。
 
 つまりは犀角独歩さんの論文はまさに的を射たものであるのです。

874れん:2004/06/14(月) 16:43
独り寝さん、お久しぶりです。私も空き缶さんと同意見で、大乗非仏説と戒壇之板曼陀羅の偽作説とは根本的に性質が違うと思います。空き缶さん、重須七代日国師の「定書」には「予ノ代ニ従上野御正筆御本尊一補買徳之御本尊一補」云々とあり、日国師が上野から蓮師曼陀羅を求め得て重須に所蔵したことが記されています。上野が石山であるなら、もしかしたら日国師が上野から買い得た蓮師曼陀羅とは禅師授与曼陀羅ではなかったかと私は推測してます。上野が禅師授与曼陀羅を手放したのは板曼陀羅偽作に伴うものでないか想像を逞しくしてしまいます。

875れん:2004/06/14(月) 16:47
訂正。
誤、伴うものではないか想像
正、伴うものではないかと想像

876空き缶:2004/06/14(月) 18:04

 れんさん、お久しぶりです。
 非常に面白いですね、大石寺の12世か13世のどちらが売却したのでしょう?
 日国師の「定書」には年代を特定できる識語はありますでしょうか?

 そして14世の遺文にはじめて弥四郎曼荼羅が出てくるということですね。
 
 さらにそれが56世によって北山から買い戻されるとは、それはそれなりにドラマチックなことですね。

877海が好き:2004/06/14(月) 18:28

みなさん、はじめまして
ちょっと教えて、いただきたいのですが?
「日蓮百話」高橋勇夫(東方出版)に
富木尼は熱原弥四郎国重のむすめ、南条伊予守定時に嫁して一子をもうく、
六老僧の一人、伊予房日頂である。(105P)
浅間神社の流鏑馬の神事の際に信徒の四郎坊に重傷を負わせ、また弥四郎を
暗殺するなどの行動に出た。(241P)
光日房は本書中にあるように、子の弥四郎の勧めで信仰に入り、(271P)
と、あります。いま、おもしろがって読んでいるのですが、
この本は、あまり信用しないほうが いいのでしょうか?

878れん:2004/06/14(月) 18:58
空き缶さん、日国師の「定書」(日興門流上代事典P632所収)には「天文第伍天丙申十月廿九日」とありますから、天文五年(西暦1536年)ですね。年代としては石山十三代日院師の代ですね。もっとも「従上野御正筆御本尊」=日禅授与曼陀羅かとは私の単なる推測で想像の域を出ないことは申し添えておきます。ただ弥四郎曼陀羅が日禅授与曼陀羅を底本としたと見られる以上、上野と重須との間の蓮師曼陀羅の移蔵を様子を示す重須日国師の「定書」は板曼陀羅成立を考える上で参考資料にはなると思います。

879れん:2004/06/14(月) 19:01
またまた訂正。
誤、移蔵を
正、移蔵の
失礼しました。

880空き缶:2004/06/14(月) 19:22

れんさん、早々の御返事ありがとうございます。
 
 海が好きさん、『「日蓮百話」高橋勇夫(東方出版)』は法華宗系の出版物でしょうか?「東方出版」からは法華宗(本門流)の書籍が、多く出版されていると思いますがいかがでしょう。

 富士門にて「熱原弥四郎」といえば「滝泉寺申状」に弘安二年八月に斬首されたことが書かれている、「弥四郎坊男」のことを指すと思われますが、お示しの「日蓮百話」によれば日頂上人は弥四郎国重の孫に当たりますね。
 なかなか面白い説であると思いますが、「富木尼は熱原弥四郎国重のむすめ」とはどのような文献あるいは伝承をもとにされたものかは興味を引きます。
 同書の巻末などに参考とした文献類がかかれてあると思いますが、教えていただけませんか?

881空き缶:2004/06/14(月) 21:04

 れんさん、西暦1536年とは日蓮正宗冨士年表によれば日国師の晩年ですね。(1536年10月9日寂)
 
 日国師の「定書」が「天文第伍天丙申十月廿九日」という、日国師の死後10日目にして書かれていることを考えますと、日国師の弟子による「日国師御遷化記録」的なものであろうかと推察いたしました。

 いずれにしましても、年代的にみて重要史料たることは動かないですね。

882空き缶:2004/06/14(月) 21:06

 何度もすみません、「日国師御遷化記録」というよりは「日国師伝」ですね。

883れん:2004/06/14(月) 21:27
空き缶さん。日国師は富士年表では天文五年十月九日の帰寂が伝えられいるそうですが、日国師は同月廿九日に「定書」(上代事典には正本北山本門寺蔵、日国花押と記載あり)を定置されているので、それ以降の帰寂と考えた方が自然と思います。恐らく富士年表の記載の方が誤伝と思います。

884海が好き:2004/06/14(月) 22:32

空き缶さん

 〇本書執筆参考文献
・日蓮上人遺文全集講義(日蓮上人遺文全集講義刊行会編 平楽寺書店・ピカタ)
・日蓮上人遺文講義(日蓮上人六百五十遠忌報恩記念会編集 日本仏書刊行会)
・望月・仏教大辞典(望月信享編 世界聖典刊行会)
・本化聖典大辞林(田中智学監修 師子王文庫)
・仏教語大辞典(中村元著 東京書籍)
・コンサイス・仏教辞典(宇井伯寿監修 大東出版)
・日蓮大聖人・御書辞典(創価学会教学部編 創価学会)
・法華経(坂本幸男・岩本裕訳注 岩波文庫三冊)
・法華三部経章句索引(真読・兜木正亨編 佼成出版)
・日蓮(戸頃重基・高木豊編 岩波・日本思想大系14)
・親鸞集・日蓮集(兜木正亨・新間進一校注 岩波・日本古典文学大系82)
・日蓮主義聖語録(中川日史著 平楽寺書店)
・法華経講義(織田得能 東方出版)・録内啓蒙上・下
・日蓮(紀野一義著 日本の名著)・日蓮(田村芳朗著 NHKブックス)
・日蓮とその門弟(高木豊著 弘文堂)・日蓮(高木豊著 評論社)
・講座日蓮、五冊(宮崎英修・田村芳朗編 春秋社)
・日蓮上人と諸人供養(中村錬敬著 平楽寺書店)
・日蓮のことば(渡辺宝陽著 雄山閣)
・日蓮上人名言集(日蓮宗現代宗教研究所編 隆文館)
・日蓮の伝記と思想(日蓮宗現代宗教研究所編 隆文館)
・日蓮の旅(新月通正著 朝日ソノラマ)
・日本国語大辞典(日本大辞典刊行会編 小学館)

885空き缶:2004/06/15(火) 01:36

れんさん、以前某掲示板にて波木井坊竜尊氏が「日蓮正宗冨士年表」のことを「小学生の使う事典以下」と蔑んでいましたが、こういうことがあるからなんですね。
 
 私も日蓮正宗冨士年表は、上下巻ものと平成二年版とを所持しており、何かにつけて参考にさせていただいていますが、チョッとショックですね。

 海が好きさん、ありがとうございます。お手数おかけしました。
 どれもそれなりの研究書だと思われますが、、「日蓮百話」自体は原典をもとにした書物ではなさそうですね。
 私にはどの参考文献をもとに、熱原弥四郎国重が日頂上人の祖父に当たるとされたのかが判りません。
 
 千葉に「熱原氏」という一族があり、富木氏がその系譜に属する氏族なのか、それとも富木氏はもともとは熱原出身なのか?

886犀角独歩:2004/06/15(火) 07:26

869独り寝さん:

はじめまして。あなたの投稿を読んでわたしが思ったこと。

一つ。法華講員であるというが、石山とは違う異説を唱えている点。中世の石山は弥四郎国重を円師の嫡男と言い(精師)、現石山は、弥四郎男に模した日蓮己心の人物という(達師)。

未来の「やしろくにしげ」、こんな荒唐無稽な夢想は個人で考えるのは、自由。しかし、まじめに論攷しているところにはまるで馴染まないものでしょう。

一つ。「学問は学問。宗教は宗教」ということもまた、石山とは違う異説である点。石山では古来より「一信二行三学」といい宗教と学問を不可分であると主張してきた(亨師)
学問と宗教が別ならば、教学研究は不要ということになり、富士学林という石山の大学も不要と言うことになるでしょう。

行学なき信仰がだめだというのは日蓮已来の考え。日蓮自体、当時の日本を代表する今で言う総合大学比叡山に学んでいるわけです。

学問から離れた宗教を、わたしは個人的に鰯の頭を信じることと異ならないと思います。この考えに基づく議論は以下のスレッドでしました。

鰯の頭も信心?
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1083757197/l100

まあ、個人的には、石山の解釈とは違う異説を唱えることはけっこうなことであると思います。ただ、根拠なき思いつきの「私見」は確かに笑い話以上の意味は持たないと思います。それをまた、わたしは信仰であるとも思いません。

887空き缶:2004/06/15(火) 20:02

れんさん、大石寺が創価学会を破門した後に、日蓮正宗を離脱していった僧侶のグループで「憂宗護法同盟」というのがあるそうですが、その憂宗護法同盟の著作である「法主詐称」には、禅師授与曼荼羅について「一旦紛失後、天文8年頃、北山本門寺が所蔵。」とあります。
 この書籍も、何を参考文献として書かれたのか、全くの不明である為確証あるものではないと思いますが、「一旦紛失」が重須での盗難事件、「天文8年頃、北山本門寺が所蔵」を日国師定書をもとにした著者の年代の勘違い・記憶違いと考えれば、憂宗護法同盟という僧団の考えが少しわかるような気がします。

888れん:2004/06/15(火) 20:45
空き缶さん、ご指摘の憂宗護法同盟著「法主詐称」の文を見ますと、上野から重須に移蔵されたという蓮師曼陀羅が禅師授与曼陀羅である可能性は否定出来ないものと思えてきました。上野には石山と禅師建立の東光寺がありますが、上野が石山ならば精師の代ではなく天文年間以前の時期に弥四郎曼陀羅が禅師授与蓮師曼陀羅を底本として偽作された可能性も考えられます。弥四郎曼陀羅そのものに関しては、先ずは今月を目処に出版される犀角独歩さんの御本を拝読させて戴いた上で考察を深めて行きたいと考えております。

889愚鈍凡夫:2004/06/15(火) 21:56

空き缶さん、れんさん、お久しぶりです。
このことは以前、空き缶さんに質問したことだったと思うのですが、日禅授与漫荼羅が何故北山にあるのでしょうか。
日禅師は日興師に蓮祖授与曼陀羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれば、その理由はなんだと思われますか?
解けない謎の一つですので、是非お知恵を拝借したいと思います。

890愚鈍凡夫:2004/06/16(水) 07:28
皆さん、お早うございます。

>>889:
慌てて投稿したため、ちょっと表現が変なので訂正します。

誤→日禅師は日興師に蓮祖授与曼陀羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれ  ば、その理由はなんだと思われますか?

正→日禅師は日興師に蓮祖漫荼羅を預けっぱなしにしておいたのでしょうか。もしそうだとすれば、そ  の理由はなんだと思われますか?

に訂正します。悪しからず。 m(_ _)m ゴメン!!

891空き缶:2004/06/16(水) 14:56

愚鈍凡夫さん、禅師授与の曼陀羅についての動向は細かいことはわかりません。

せいぜい以下の流れが想定できるくらいと思われます。

弘安三年五月九日 宗祖より日禅師に授与

正応三年     禅師大石寺南之坊創建(はたして当時安置した本尊はなんであったか?)

―――宗祖滅後、師僧である日興師があづかり添書きする―――

永仁六年前後   再び日禅師へ授与される。(興師本尊分与帳と禅師授与曼陀羅の添書きがほぼ全同であることから、この前後に再授与されていると思われる。)

(正中二年十一月十二日 盗難により重須より紛失か?)
※興風談所「日興上人全集」補註により、この事件自体が信憑性に乏しいと考えカッコ書きとしました。

元徳二年        日禅師、東光寺・妙音寺を創建。

元徳三年 三月十二日  日禅師、大石寺南之坊にて遷化。

元弘三年 二月 七日  日興師重須にて遷化。

以後、二百年強の歳月を経る。

天文 五年頃      大石寺より重須(北山本門寺)が買い取る。

明治の頃        日応師が買い戻す。

以上です。御覧の皆様の加除訂正をお願い致します。

892れん:2004/06/16(水) 16:28
愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。お尋ねの禅師授与蓮師曼陀羅の動向についてですが、私の考えも、空き缶さんと同じです。禅師が自らに授与された蓮師曼陀羅を興師に預けっ放しにするとは余り考えられず、興師により本門寺云々の添書がなされた後、程なくもとの如く禅師の住坊(南ノ坊か)に御遷座されたと思います。南ノ坊(大石寺)から重須への禅師授与蓮師曼陀羅の移蔵は、空き缶さんの御類推の如く天文年間のことと私は推定しております。以上ご参考まで。

893犀角独歩:2004/06/16(水) 19:37

れんさん:
空き缶さん:
愚鈍凡夫さん:

禅師授与漫荼羅についてですが、これはまったく同一のものが2舗あることが前提ではないでしょうか。

【北山】弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)

【石山】弘安三年太歳庚辰五月九日、此丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院。

そして、法道院から石山に移管されたものに、河辺メモに言う如く模写の形跡が残っていると言うことでした。

これを1舗の漫荼羅として論じると混乱が生じると思いますが、如何でしょうか。

894問答迷人:2004/06/16(水) 19:44

空き缶さん

禅師授与蓮師曼陀羅は、同じものが二幅現存しています。一つは、日応師が買い取って、現在大石寺宝蔵にあるもの。もう一つは、北山本門寺にあるもの、これが、北山が大石寺から買い取ったものなんだと思います。これら二幅は、日興上人の書き込み部分に差が有るだけで、後は全同のようです。冨士宗学要集にも二幅が記録されています。果たして、日応師が買い取ったものは、如何なる流転を重ねたものなのか、非常に興味が湧きます。

895問答迷人:2004/06/16(水) 19:50

犀角独歩 さん

レスの内容が重なってしまいました。ただ、北山が大石寺から買い取ったということが、大変興味深く思ってロムしていました。

896空き缶:2004/06/16(水) 20:04

 犀角独歩さん、お久しぶりです。

禅師授与曼陀羅二鋪の内、一鋪は模写・臨写などによって再現されたものと思われますが、興尊の添書が興尊の本尊分与帳にある記載と同じであること、北山のほうは立正安国会編御本尊集に未収録となったことを考えれば、やはり現大石寺所蔵のものが真筆である可能性は大きいですよね。

本物の一鋪はその時代時代によって、重須と上野を行き来しており、現在は大石寺に。
問題は何時、二鋪にされたのかということですが、独歩さんは興尊御在世中も考慮に入れているとのことでした。
私は北山が売りに出し、日応師が買い戻すといった直前、明治期ころに行われたのではないかと考えます。
阿部師のいう「模写」とは、曼陀羅の上に白和紙をのせ写し書きしたものをいっているのではないかと考えます。「模写の形跡」とは写し書きした時、墨汁かなにかが本紙の方まで多少染みてきてしまった跡でもあるのではないでしょうか。
もしそうであれば、何百年も前のシミを模写の跡と判別することは、いくら阿部師の鑑定眼をもってしても容易ではないと思います。そう遠くない近世においてできたシミであろうと憶測するしだいです。

897空き缶:2004/06/16(水) 20:12

 問答迷人さん、こんばんは。

「禅師授与曼陀羅」、恐らく阿部師のあのメモが創価学会によって暴露されなければ、こんなに有名になる曼陀羅ではなかったのでしょうね。

いま私は何故大石寺は日禅師授与の曼陀羅を模刻したのか不思議に思っています。相貌が整っているからでしょうか?

898問答迷人:2004/06/16(水) 20:46

空き缶さん

>北山が売りに出し、日応師が買い戻すといった直前、明治期ころに

北山が売りに出したという記録があるのでしようか?

>何故大石寺は日禅師授与の曼陀羅を模刻したのか

全くもって不可解です。只、日禅師授与の曼陀羅が二幅あることと何か関連が有るように思います。

899問答迷人:2004/06/16(水) 20:51

空き缶さん

>北山のほうは立正安国会編御本尊集に未収録となったことを

大石寺の日禅師授与の曼陀羅は御本尊集に何番として収録されているのでしょうか?

900空き缶:2004/06/16(水) 21:24

問答迷人さん

>大石寺の日禅師授与の曼陀羅は御本尊集に何番として収録されているのでしょうか?

大石寺は非公開ですので不収録です。つまり、不掲載という完全否定を免れたというだけで、確実に本物であるという証拠はありません。
可能性はある、という程度です。

>北山が売りに出したという記録があるのでしようか?

申し訳ありません、確証ある記録はありません。
阿部師の言動を記録した例のメモと、「奥人」?に掲載されていた日応師の御状にそれらしき記述があったことくらいです。
「奥人」掲載の書状は、これから探してみます。たしか御本尊売買のことがかかれてあったと記憶しています。

901れん:2004/06/16(水) 21:28
犀角独歩さん、以前国会図書館で読んだ堀日亨師の富士日興上人詳伝(文庫版ではない)に、亨師は立正安国会の片岡随喜師・山中喜八師等の北山本門寺での蓮師真蹟の写真撮影に同席し、片岡師が北山所蔵の蓮師曼陀羅の内、建治二年二月の鉄砲曼陀羅以外は全て摸写本と鑑定したこと、その際檀家総代が片岡師の鑑定に抗議したことを述べています。実見した片岡師の鑑定が正確ならば、空き缶さんの言われる如く北山蔵本は模写の可能性があります。問答名人さん、以上の理由により北山蔵の禅師授与曼陀羅は安国会の御本尊集に未掲載で、石山蔵も未掲載です。

902問答迷人:2004/06/16(水) 22:13

空き缶さん

お手数をお掛けします。よろしくお願いいたします。

れんさん

>実見した片岡師の鑑定が正確ならば、空き缶さんの言われる如く北山蔵本は模写の可能性があります。

なるほど。そういう経過が有ったのですね。有難うございました。

ただ、そうなると、石山の禅師授与曼陀羅も模写かも知れません。以前、三学無縁さんが仰って居られた事ですが、北山も石山も、両方とも由井正雪の制作した模写本を掴まされたのかも知れませんね。

903問答迷人:2004/06/16(水) 22:27

空き缶さん

>(正中二年十一月十二日 盗難により重須より紛失か?)
※興風談所「日興上人全集」補註により、この事件自体が信憑性に乏しいと考えカッコ書きとしました。

富宗要02-021 日順阿闍梨血脈には、「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、」とこの本尊盗難事件に触れられています。事件は間違いなく有ったものと僕は考えてきました。そこでお伺いしたいのですが、補注には、この「日順阿闍梨血脈」の一節についてどのように述べられているのでしょうか?或いは述べられていないのでしょうか?

904犀角独歩:2004/06/17(木) 00:13

れんさん:
空き缶さん:

非常に旧い投稿なのでお読みになっていらっしゃらないかも知れないので、ご参考までに

*** 転載はじめ ***

『富士大石寺の歴史』
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm

158 名前: ワラシナ 投稿日: 2001/11/23(金) 22:27

こんばんわ、問答迷人さま。

*そろそろ出てきそうな話題だったので待っていたら案の定出てきました。

「二種類ある弘安三年五月九日日禅授与本尊」

0、「富士日興上人詳伝下73-74頁」の「正文書、興師御正筆御本尊、各山に珍蔵す
るその脇書」に弘安三年五月九日の日付で二つの日禅授与本尊が並んでいます。

1、最初のが、、
大本門寺の重宝なり。
弘安三年五月九日 日禅上人へ。東京法道院に在り。{富士宗学要集第八巻史料類聚
1、178頁}

2、後のが、、
本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。
弘安三年五月九日 日禅上人へ。重須本門寺に在り。{富士宗学要集第八巻史料類聚
1、215頁}

3、大聖人様もお忙しい中よく二つも書いてくださいました。
だけど、ここで思い出されたのが、かって「徳明」氏に教えられた真跡紙幅本尊の
クローン複製法?です。和紙の表層をうまくはがせば、そっくりコピーさんがもう
一丁できあがる、というあの話です。
のり弁当ののりをはがせば、醤油に染みたおかかは均等ではない。しょうゆにしみ
だご飯と染みない白いご飯の部分が混ざった感じになっている。
表層一枚をはがして下に残った本尊の表面は、墨の汁が表層のやつほど濃くはない
だろう。こういうことがあるんじゃないかな、と考えています。

*** 転載おわり ***

905犀角独歩[TRACKBACK]:2004/06/17(木) 00:13

―904からつづく―

以上のワラシナさんの投稿を再掲し、わたしが付記したのは以下のとおりです。

*** 転載はじめ ***

94 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:51
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/r255



この方法を、『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
既読であろうかと思いますが、取りあえず、転載します。

剥離表層(これは主として御本尊に見られるものと云われる)、剥離すると本体と影本という両本が出来るが何れも偽物ではない。本体と影本と並べて見ると容易に判別できるが、殆ど所蔵が離れているので一箇処に並べてみることが出来ない(P14)

ロムの方々に少し説明を付せば、川辺メモで問題になった禅師授与曼荼羅は石山にあることになっているのに、実は北山にもあるという指摘をワラシナさんがしてくださった。

なぜ、二体あるのかを説明されたのが、上記のワラシナさんの投稿でした。
和紙が厚みがあるので、うまくすると表層をうまく剥がせ、2枚にすることができる、剥がしても墨は裏のほうまで染みているので、表層を取られても、墨痕・文字はしっかりと残る、そのために真筆の曼荼羅を二体(本体・影本)に分けられる。この方法を使って、二体に分けた禅師曼荼羅が石北両山にあるのではないのかという話です。

*** 転載おわり ***

長い投稿で恐縮ですが、もう少し。

北山所蔵の禅師授与漫荼羅は、写真で見る限り、所謂、模写ではありませんね。ただし、「だから真筆である」という意味ではありません。模写というのは正本と全同に模写できません。しかし、北山禅師授与漫荼羅はかなり正確に弥四郎漫荼羅と一致します。これほどの一致は当時の技術では、剥離表装法、一歩譲っても籠抜以外に考えられません。

河辺メモが言う「模写の形跡」は、では北山蔵の紙幅のためか、それとも、弥四郎漫荼羅のためか、わたしは後者であると考えます。何故ならば、北山蔵の紙幅の筆の勢いは、とても拵字に墨を埋めたものとは見えないからです。

また石山蔵は亨師が「興師加筆」とされるわけで、それをそのまま信頼し、かつ御筆漫荼羅に非ずとすれば、興師は偽作を正筆と思い加筆したことになりますね。そんなことがあり得るでしょうか。それと、北山蔵が模写であれば、何故、興師の加筆を写さず、さらに他筆を加えたのでしょうか。まして、石山蔵は削損されているわけです。

以上の矛盾は、しかし、興師在世当初から表層剥離によってこの漫荼羅が二体に分離されていたと考えれば自然に理解されます。

なお、この漫荼羅がその相貌が全同であることを言ったのは亨師そのひとではありませんでしたか。

れんさんが呈示された売買が事実であれば、むしろ、二体に分かたれていたものが二カ所にある不都合を埋めるためとは考えられないでしょうか。しかし、その後、また別々に所蔵されることになるとしてでもです。

しかし、この当時の売買は自讃毀他の要素を考慮すべき点はないでしょうか?
『誑惑顕本書』の冒頭は「或人来テ問曰大石寺ニ於テ重須本門寺ノ重宝タル鉄砲漫荼羅を買取候」と、石山と偽って模写を信者に開帳して金をだまし取っているという記述で始まっています。この頃の「買った売った」の記述は手放しで信頼してよいものかどうか、わたしが慎重なのは、上述の騒ぎを意識するからでした。

なお、禅師授与漫荼羅は北山では「万年救護本尊」と言われるのであり、さらに『大石寺誑惑顕本書』では「戒壇本尊」とまで言われます。これほどまでに重視されるようになった理由は何か? わたしはその由来は案外『大石寺誑惑顕本書』に不自然に論われる禅師授与漫荼羅の‘宣伝’がその発端ではないのかと疑っているところがあります。

906犀角独歩:2004/06/17(木) 00:15

895 問答名人さん:

お久しぶりでございます。お声掛け、恐縮に存じます。

907空き缶:2004/06/17(木) 00:53

 問答迷人さん、御返事が遅くなり恐縮です。

 まず、興風談所「日興上人全集」では、日順阿闍梨血脈にはふれずに日代師への八通遺状に疑義があることから、盗難事件を認めがたいとしています。
 なお日興上人全集の正誤表にも、該当個所の訂正はみられません。
 以前、愚鈍凡夫さんなどと、この盗難事件について論議した時も「日順阿闍梨血脈」の文が問題になった記憶があります。
 「日順阿闍梨血脈」では「嘉暦第一の暮秋」となっていますが、日代師への八通遺状では「正中二年十一月十二日」となっており、正中二年が西暦1325年であるのに対し、嘉暦は西暦1326年からはじまっていますので、盗難事件自体はあったが日代師への遺状にあるような日付ではないということかもしれません。
 
次に日応師の書状です。内容は吟味しておりません、私としましては「それらしきことが書いてあるな〜」程度です。皆様方のご判断を仰ぎたく思います。


○藤本家文書(正本:藤本家蔵)

日応上人御状

大暑の節に候処 弥御清適に御信行大慶之至に存候 野衲義も法用に付出京候得共 無事に法護罷在候間御休神被下度候 却説過般御登山に相成方よりの御咄しに宗祖御真筆大御本尊(其際御拝見に入候)御購求に相成候思召も有之趣に付 売方へも其趣申入置候処 度々の督促 殊に今回同人態々出京 身延派へ売込申様の相談も有之 誠に遺憾の至りに候間 可成御購求相成度 若し御承知に相哉候はば 五六日は滞京に候間 至急御返事相成度
 夫迄は右売人へも他に売却は差留置候間 一刻も早く否哉御返事待上候 先は右要用のみ 稹々
 三十三年七月二十五日
 常泉寺にて 大石
藤本勘吉殿

以上ですが、昭和40年代に大石寺に遷座される前は法道院に秘蔵されていたことを考えれば、日応師の代に買い戻されたと考えてもつじつまが合うように思われます。

908れん:2004/06/17(木) 03:00
問答名人さん、昭和初期の片岡師の鑑定では模写とされたものの、今日の科学的な手法によって模写と実証したわけではないので、最終的な実否は分かりません。独歩さんの904・905におけるご教示を踏まえて考えると重須と石山の禅師授与両蓮師曼陀羅は剥離表装による正本と影本である可能性の方が高いと思います。犀角独歩さん、ご教示ありがとうございます。大変参考になりました。国師の定書の件ですが上代事典の記述では正本が重須にあり、蓮師曼陀羅を国師が買得したのは史実に近いと思います。ただそれが禅師授与のものであるかは断定出来ません。

909問答迷人:2004/06/17(木) 06:25

空き缶さん

>盗難事件自体はあったが日代師への遺状にあるような日付ではないということかもしれません。

あぁ、それなら納得です。ただ、「嘉暦第一の暮秋」は使節の日付ですので、「盗難事件が有って、一年を経て体勢を整え、使節を出した」と僕は推測しています。


>日応師の代に買い戻されたと考えてもつじつまが合うように思われます。

たしか、法道院の「法の道」か何かにこの件についての記述が有ったと記憶しています。法道院の信徒が古物商で売りに出されているのを見つけて、法道院の法華講でお金を出し合って買い求めたとか。誰が古物商に売ったのかは分かっていなかったのではなかったでしょうか。

れんさん

>蓮師曼陀羅を国師が買得したのは史実に近い

大変重要なご指摘、有難うございます。禅師授与蓮師曼陀羅についての謎解きが一歩進んだのは確かだと思います。

910愚鈍凡夫:2004/06/17(木) 06:29

皆さんどうも有り難うございます。とても参考になりました。
ただ、日禅師授与漫荼羅が2舗存在するのは何故だろう(レプリカが作成されたのは何故かという意味です)という新たな疑問が沸いてきすね。この漫荼羅以外の蓮祖漫荼羅では駄目な理由があるのでしょうか。
背景には北山と石山の歴史的な暗闘があるのでしょうが、とても興味深い問題だと思います。

911犀角独歩:2004/06/17(木) 12:59

> 910

わたしも同様の疑問を懐きます。
『誑惑顕本書』に「本門戒壇ハ必重須ニ事極ルト思ヘシサレハ当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊ヲ本門寺ニ懸テ萬年ノ重宝トスヘシト…日禅本門寺立ヘキナレトモ…」とあります。

いまでも北山では禅師授与漫荼羅を「万年救護本尊」と呼んでいますが、ここでは、さらに「本門戒壇本尊」、さらにさらに立つべき人は禅師であると言い、それを興師がなされるので禅師はこの漫荼羅を重須に留め置いたと言います。

わたしは弥四郎漫荼羅は禅師授与漫荼羅の模刻と闡明にしたわけですが、ここで気付けるのは、「一貫して、戒壇本尊はこの禅師授与漫荼羅である」とことです。

それにしても不思議なのは、石山蔵のほうは「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」を削損しなければならなかったのかということです。
想像を逞しくすれば、弥四郎漫荼羅に拵字から彫刻して‘法魂’を遷したので、正本の該当の加筆は不用となったと言うことでしょうか。どうにも解せません。

だいたい、この漫荼羅が、斯くも珍重され北石両山ともに戒壇本尊とするのはいったいどのような理由に依るのでしょうか。

冒頭に挙げた『誑惑顕本書』の著者は、有師が本紙を板に張り付けて彫ってしまったと非難するわけですから、禅師授与漫荼羅の模刻であるとは思っていないわけです。それにも関わらず、今の弥四郎漫荼羅はその漫荼羅を素本にしていると見えるわけです。その意味において、893の空き缶さんが仰る「シミ」の出来た時期の予測は重要な意味を持っているとわたしは思います。

912空き缶:2004/06/17(木) 14:04

皆さんこんにちは。

 以前、名無し@ピンキーさんが、大石寺系末寺に所蔵される伝宗祖真筆曼陀羅を宣伝されていましたが、私は富士宗学要集等その他の諸文献にもある通り、正式な鑑定はされてないまでもほぼ宗祖真筆とみてよい曼陀羅本尊が、大石寺系諸寺にもあると思います。
 恐らくは其の中の一つに過ぎないはずの「日禅授与曼陀羅」が、昭和40年代にわざわざ大石寺に遷座されるのも不思議でなりません。
 大黒師が「日興門流上代事典」にて指摘したことは、宗内の学者の間ではそれなりにささやかれていたことなのでしょうか。

 日応師は当時本門宗から離脱し、要法寺の管長らと対峙していた経緯もあり、特に要法寺日守師による「末法観心論」に対する反論書「辨惑観心抄」を執筆されるなどの行動をとられていたと記憶しています。
 辨惑観心抄の内容からすれば、末法観心論にも「本門戒壇ノ大本尊」への誹謗があったようですが、幸にも禅師授与曼陀羅との関係には触れられておらず、過去に出尽くした内容の羅列であったようですね。ある意味、気付かれる前に売りに出されている「禅師授与曼陀羅」をなんとしても買い戻し、本山以外のところで秘蔵する必要があったのではないでしょうか。
 全ては憶測の域を出ません。
 継命新聞社版「日興上人」などにも、日禅師に関することは文献も限られており、明らかになっていないことが多いと書かれています。

913犀角独歩:2004/06/17(木) 14:36

空き缶さんに引き続き、憶測を述べれば、禅師授与漫荼羅が蔵されていた法道院は、信者向け石山の印刷漫荼羅(御形様と彼らは言う)の印刷を一手に引き受けていた寺院だそうで、そこにまた、どこぞの集団・指導者も絡んでいたとかいないとか…。

法道院がいつの頃からか、この‘業務’を一手に担うことになったのかは知りませんが、その寺院から、禅師授与漫荼羅が出てきて、「模写の形跡がある」のは単なる偶然でしょうか。なんだか手繰れば、吃驚玉が出そうな気配を感じなくもありません。

法道院のあと、漫荼羅印刷を請け負ったのはK印刷でしたか。あそこは石山漫荼羅ばかりではなく、石山の出版物の印刷など全般に請け負っていましたね。
驚いたのは、日蓮宗もお得意さんなんですね、ここは。そうなると、信者向け曼陀羅を印刷するところで、彼らが言う「邪宗」の印刷もやっているということなのでしょうか。
まあ、商売にケチを付ける気はありませんが、信者に下ろす漫荼羅が外注制作というのは何とも有難味がありません。

どうにも、漫荼羅制作には胡散臭さがついて回るというのが、わたしの正直な感想です。

914れん:2004/06/17(木) 21:33
横レス失礼します。皆さんの御考察大変興味深く拝見しております。特に犀角独歩さんの提示された資料「大石寺誑惑顕本書」の内容に興味津々です。重須で万年救護・本門戒壇本尊とされてきたのも禅師授与蓮師マンダラ、石山の弥四郎板マンダラ(通称本門戒壇大本尊)の底本も禅師授与蓮師マンダラ…。こうして見ると禅師へ授与の蓮師マンダラは興門派における宗定本尊みたいなものだったのではないかとも思えますね。

915鎌龍:2004/06/18(金) 16:05
独歩さん、はじめまして。少し教えて頂きたいのですが、過去ログの大石寺問題提起の59で、弥四郎曼陀羅が公開されていたことを、日精師が明確にしていると仰られていらっしゃいますが、その書がなんの書か教えて頂きたく存じます。お忙しそうであられますので、お手があきましたらどうぞよろしくお願い致します。見落としなのか、見つけられずにおります。どうかよろしくお願い致します。

916犀角独歩:2004/06/18(金) 19:44

鎌龍さん、はじめまして。よろしくお願い申し上げます。

915のご質問に該当するわたしの投稿は以下のものでしょうか。

>「秘仏であり、公開されず厳護されてきたから、記録がないのが当たり前」とのことですが、日精上人などは明確に記録に残しています」(2002/01/11(金) 10:24)

しかしこれは「弥四郎曼陀羅が公開されていたことを、日精師が明確にしている」とは、少し意味が違います。

わたしが精師を挙げたのは『日蓮聖人年譜』に「其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主」また、『家中抄』に「大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり」とあることを指しました。より具体的には、因師『有師物語聴聞抄佳跡上』量師『大石寺明細誌』などに見えます。

精師に掛けてその公開を論じたのは、達師です。

「只今の御影堂は340年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます」(『大日蓮』昭和48年2月号)

というのが資料です。しかし、ここで達師は何を根拠にこのように語ったのかは、わたしは存じ上げません。

ご不明な点は、重ねて問うてください。わたしがわからなくても、れんさんをはじめ、研鑽の志が控えておられます。充分に納得のいく答えを得ることができることと存じます。

917れん:2004/06/18(金) 21:08
鎌龍さん初めまして。お尋ねの件ですが、私も犀角独歩さんの提示された事項以上のこと分かりませんが、手持ちの資料を提示します。寛永九年に石山に建立された御影堂棟札に「寛永第九年壬申年霜月十五日造立之…本門戒壇本堂 日精在判」とあり、興風談所の池田令道師は著書において「日精上人の棟札に本門戒壇本堂の名称が見えますから、おそらく安置の本尊は当家に伝わる弘安二年の戒壇本尊であったろうと思われます。しかしながら現在の御影堂には延宝七己未年二月十三日 日精在判の板マンダラが安置されておりますので、戒壇本尊の安置は伽藍の開

918れん:2004/06/18(金) 21:24
堂なった寛永九年より延宝七年までの四十数年間のうちであったと考えられます」(富士門流の信仰と化儀P382)と述べられております。池田令道師の推定は犀角独歩さんが提示された細井日達師の説を補強するものですが、精師の御影堂棟札の「本門戒壇本堂」なる文言からすれば、細井日達師や池田令道師の推定の如く、短期間とは言え、所謂弥四郎板マンダラが現在の御影堂に安置され信徒に公開されていたであろうことは史実ではないかと考えられると思います。以上鎌龍さんの御研さんに資するならば幸いです。

919空き缶:2004/06/19(土) 00:41

 れんさん、日精師は家中抄「日禅伝」にて「日興高祖の本尊を申し請いて日禅に授与す この本尊今重須に在り伯耆曼荼羅と号する是なり。」(聖典P670)と書いていますから、日精師は日禅授与之御本尊を実見している可能性はありますね。

 まさか日禅授与之御本尊を実見して「これはヤバイ!」と思って引っ込めたとか。もしこんなことがあったならば笑い話ですけどね。

920鎌龍:2004/06/20(日) 10:24
独歩さん、れんさん。お忙しい中ご教示くださりまして誠にありがとうございます。大変わかりやすく、またご丁寧な返答賜り恐縮に存じます。十二分に納得です。お二人のご研さんに敬意を表する次第です。ありがとうございました。低頭礼拝

921犀角独歩:2004/06/20(日) 13:06

れんさん、有り難うございます。なるほど。達師は御堂棟札から言ったわけですね。

空き缶さんがお詳しいところでしょうか。
要山に伝わる板漫荼羅というのはどんなものがあるのでしょうか。
この質問の趣旨は先に挙げた「聖戒壇院の本尊」と弥四郎漫荼羅は同じものを指すのか?という疑問からです。精師は棟札に「戒壇‘堂’」と書いているわけです。
戒壇‘院’とは一致しません。「戒壇院」と読むとやはり想起されるのは尊門相伝なので、となれば、該当しそうな板漫荼羅が要山にあるかどうかという予想に基づきます。
空き缶さん、あるいはどなたかご教示願えませんでしょうか。

922空き缶:2004/06/21(月) 16:58

犀角独歩さん、こんにちは。

>要山に伝わる板漫荼羅

についてですが、正直なところ実見の機会もなく、資料も極めて少ない為よくわからないというのが本音です。

ただ、要法寺からだされていた「日大上人」という冊子には同寺所蔵の「紫宸殿曼荼羅御形木原版」に「暦応三年庚申八月 日 上行日尊刻彫之」との十文字が入っていることを伝えています。
したがいまして、嘗てれんさんが日興門流上代事典をもとに、要法寺の板曼荼羅が紫宸殿曼荼羅であることを書かれていましたが、その通りではないかと考えています。

923空き缶:2004/06/21(月) 17:22

 >「聖戒壇院の本尊」

につきまして、要法寺の伝承では「上行院」と呼称される堂に重きをおいているようです。「上行院本尊也」との脇書きのあるものは日大師書写の本尊であるそうです。
勉強不足のためか、私には上古において尊門に「戒壇院」思想があったかどうか想像もつきません。これを機会に勉強してみます。

924犀角独歩:2004/06/21(月) 20:47

空き缶さん、有り難うございます。
石山呼称「紫宸殿」漫荼羅ですか。なるほど。
非常に参考になりました。

925空き缶:2004/06/24(木) 00:00

犀角独歩さん、通称「紫宸殿漫荼羅」は、何時頃から大石寺にあるのでしょうか?

私は日目師以降は、目師の意思をつぎ天奏を行った(京都へいった)日尊師が所持したのではないかと考えます。朝廷用の曼荼羅であるならば、目師が天奏の際、持参した可能性はあると思います。
つまり、目師以降は京都要法寺(住本寺もしくは上行寺)にあったのではないでしょうか。そして1594年8月以降、京都要法寺から招聘した歴代貫首の誰かが持ち込んだとは考えられないでしょうか。

日有師は京都遊学後に該当曼荼羅の模刻を行っていますが、京都要法寺より該当曼荼羅の御形木(先のカキコ参照)を持ち帰り、掘り下げ模刻した。(ほとんど推理小説です)

朝廷用の大曼荼羅を日尊師が、本門寺用の大本尊を日郷師がそれぞれ預かったと考えれば、日尊師が京都に残り、日郷師が冨士に帰ったという事実もなんとなく理解できます。

926犀角独歩:2004/06/24(木) 07:42

空き缶さんの推理は本当にいつも興味深いですね。

仰るとおり、紫宸殿板漫荼羅は有師であり、これが弥四郎漫荼羅の身代板漫荼羅と錯綜している点を指摘くださったのは愚鈍凡夫さんでした。

ただ、わたしは目師が伝説のように天奏にこの漫荼羅を所持したかという点には懐疑的です。れんさんがご指摘くださったとおり、あの漫荼羅は授与者を削損してあるわけで、そうなると後世、紫宸殿漫荼羅に仕立て上げられたとあると思えるからです。

たしか志師あたりも盛んに紫宸殿本尊に疑難をかけていましたが、「紫宸殿本尊」は真っ赤な作り話であろうと思えます。

しかし、空き缶さんが仰るように、もし要山にそれがあれば、この往来はどんな経緯なのか、なかなか、興味深いところがあります。

わたしは国主戒壇論という二箇相承の思想性からすれば、紫宸殿本尊こそ、戒壇院本尊でなければならないという整合性を固定して考えるわけです。ですから、思いっきり大胆なことを言えば、もし有師が戒壇本尊と言った漫荼羅があるとすれば、この紫宸殿本尊を置いてはないのではないの?と仮説ながら考えています。では、禅師授与漫荼羅は?となりますが、この点は『大石寺誑惑顕本書』から記しましたが、同漫荼羅を北山では戒壇本尊というわけで、この‘伝説’が生じたあとに、紫宸殿板漫荼羅を引っ込めて、禅師授与板漫荼羅を出して、戒壇本尊として取り替えたのではないのか?という仮説も可ではないのかと、これはかなり想像を逞しくして考えているわけです。

なにせ、「右…造立…本門戒壇」という腰書が記された‘台座’部はその上の板漫荼羅本体とは別で、裏から楔でつないであるだけというのですから、首の継げ換えなど簡単にできる構造のわけですから。

まあ、現段階では憶測と言うほかありませんが、石山ならば、そのくらいのことは平気でやるとわたしは考える次第です。

927犀角独歩:2004/06/24(木) 08:23

空き缶さん:

勝手なことばかり書いてご質問の点、書き忘れました。
と言いながら、

> 通称「紫宸殿漫荼羅」は、何時頃から大石寺にあるのでしょうか

これはわたしにはわかりません。
有師の時は少なくともあったのでしょうか。
しかし、誰に与えた漫荼羅であったのでしょうね。

928犀角独歩:2004/08/08(日) 11:04

なんだか今さらですが、弥四郎漫荼羅は、その記録では「二寸二分」と石山住職の書物に現れるわけですから、この点は否定の仕様がありません。

しかし、達師は
「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです」
と、こう発言したわけです。

ここから「半丸太」という形状表現が定着した経緯がありました。
この発言は昭和52年(1977)5月2日でした。
ところが、そのわずか5年前、昭和47年(1972)9月12日には
「戒壇の御本尊様は楠の板である」
とはっきり明言していたわけです。一体この違いは何なのでしょうか。

先頃、『日蓮正宗入門』(宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編)を手に取ったところ、
「この御本尊は末法万年の流布を慮られて楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています」(P112)
と記されていました。この本の発刊日は平成14年(2002)1月13日で、監修は顕師、現石山の統一見解と見なして差し支えないでしょう。

達師が一貫しているのであればともかく、当の本人すら「板」と言いながら、5年もせずに「厚木…丸木」であると言い、さらにその30年後の現在、現石山はまた「厚き板」と言い換えているわけです。

少なからず、確かに言えることは、いま奉安堂に安置されている弥四郎漫荼羅は「厚き板」なのでしょうか。

929愚鈍凡夫:2004/08/08(日) 22:10

犀角独歩さん、相変わらずの暑さですね。 ε-(´o`;A アチィ

半丸太にしろ、板にしろ、「弥四郎曼荼羅」をプロデュースした人物は、日有師のアイデアをパクったということでしょうかね。

大石寺テーマーパーク化のプロデュースの手腕を買って、最も可能性の高い容疑者は日精師か?

930犀角独歩:2004/08/11(水) 12:59

愚鈍凡夫さん:

今日はそれでも涼しいですね。(東京での話ですが)
昨日、『創価学会批判』(日蓮宗宗務院編/昭和30年7月28日)を読みました。この段階で、既に大部の批判は正鵠を得ているのですが、『大石寺誑惑顕本書』に係る部分で、納得がいかないところが残りました。

昨日、三学無縁さんとも話したのですが、この書のなかで取り沙汰される『宝冊』(久遠述記)が、量師『大石寺明細誌』であるという従来の判断(たとえば木下日順師など)、どうもわたしは腑に落ちません。『大石寺明細誌』と、『大石寺誑惑顕本書』で引用される『宝冊』はかなりの出入りがあるからです。

『大石寺誑惑顕本書』に紹介される有師彫刻説を語った浄師の話、また志師も紹介した『宝冊』に載るという弁妙日謄が国学者大堀有注と語ったという同じく有師彫刻説、しかし、こんな話は『大石寺明細誌』には載りません。また載るわけもないと思うわけです。なぜならば、同誌はお上に出したいわば石山の財産(什宝)目録の体裁であるわけですから。ところがこれがさも事実のように引用されているわけです。

また、以下の点で決定的に違っています。

『久遠述記』
仏滅後二千二百二十余年之内未曾有之大漫荼羅也
  本門戒壇願主
  弥四郎国重法華講衆等敬白
日蓮花押     為現当二世
         造立如件
  弘安二年十月十二日(『創価学会批判』P17)

『大石寺明細誌』
現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、
弘安二年十月十二日(冨要)

これはたぶん、原文では

為現当二世造立如件
本門戒壇の願主
弥四郎国重・法華講衆等/敬白
弘安二年十月十二日

だと思えます。
「為現当二世造立如件」の位置が違います。
また『久遠述記』では「仏滅後二千二百二十余年之内未曾有之大漫荼羅也」が明記されていますが、『大石寺明細誌』にはこれがありません。

わたし自身、根本的な勘違いをしているのかも知れませんが、この二つの書は、『宝冊』(久遠述記)は『大石寺明細誌』を底本にした書であると思うのですが、これは間違いなのでしょうか。
宮崎英修師に拠れば「宝冊、富士山本門寺文書に載せられた大石寺の記、これは文政6年の記録で大石寺隠士、久遠の述、執筆者慈存、加筆浄眼…久遠述記」(P16)とあるわけです。文政6年(1818)は量師が住持になった翌年に当たります。

関係するかどうかわかりませんが、明治20年(1887)に霑師は同名の書を官庁に提出しています。その間、慶応元年2月28日(1865)石山の大火を挟むわけですから同じ内容であるわけはないと思えます。

これは三学無縁さんが常に主張する点ですが、有師彫刻を言う浄師の言、また、謄師・有忠師の語らいは、その正本を見ないわけです。その資料性は乏しいと言います。しかし、これが既成の事実として取り扱われるのが日蓮宗の弥四郎漫荼羅批判です。

有師寂(1482)を去ること400年も経て言われ始めたこの説の証憑性は如何ばかりのものでしょうか。また、実際に『宝冊』(久遠述記)なる書は、量師当時に記されたものなのでしょうか。また、『大石寺明細誌』である如く語られるのでしょうか。

これは愚鈍凡夫さんに対する疑問と言うことではもちろんないのですが、何かご存じのことがありましたら、ご教示ください。また、皆さんにもお願い申し上げます。

931愚鈍凡夫:2004/08/12(木) 01:06

犀角独歩さん、ご教示願いたいのは小生の方です。お役に立てず、ごめんなさい。

何れの書もネタ本からのコピペや聞き書きではなく、実見したそのままを記述しているとしたら、「弥四郎漫荼羅」の台座自体が複数存在することになるんでしょうかね。
もし、「弥四郎漫荼羅28号-2004年モデル」なんてのがあったら笑えるでしょうね。 (^◇^)

932犀角独歩:2004/08/13(金) 19:49

愚鈍凡夫さん:

どうもです。偉く初歩的なことで躓いてしまいました。
因師『有師物語聴聞佳跡上』に出てくる読むからに偽書の『松野殿御書』が精師『家中抄』に言う『上行所伝抄』だと宮崎英修師の文章で、今頃になって知り、自分の浅識を改めて恥じ入ったりしています。

最近はれんさん、空き缶さんほか、皆さんがお出でにならず、残念に思っています。
それでも、愚鈍凡夫さんとお茶のみ話のように、ゆったりとお話しするのもなかなかおつなものであると思っております。

933愚鈍凡夫:2004/08/13(金) 21:38

「彼の泉阿闍利行功をはげまし日蓮が形をあらわさんが為に七面の明神に祈念せし故か、又天道の至りか、浮木出来せり。此の木を以て一躰ならず三尊まで造る。一尊は大仏なれば身延山に安置せり。」(有師物語聴聞抄佳跡上)

この文証の意味が、

「或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以って戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり上行所伝抄の意なり、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり」(富士門家中見聞下)

ということですよね。にわかに信じがたい記述でありますが・・・・・。これについて日亨師は、

「精師の記録にですね、余り根拠を書いてないというのが多いのですよ、家中抄始めね。どこからもってきたのかわからんのが多い」(大白蓮華昭和31年11月号)

と、仰ってます(だったら要集に載せるなよ!!)。また、

「古伝に云わく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ聖人に献ず等云云」(富士大石寺明細誌)

と、パニックになりそうな記述があります。日亨師はこの書も、

「ダメです。もう、ひどく立派なことがまちがっている。それで、明細誌が北山問答にとりあげられてね。わしの師匠も困まっちゃった。」

と仰ったとか。
日精師の「家中抄」、日量師の「富士大石寺明細誌(宝冊)」、ともにボロクソに言ってますよね。まるで、七面山の楠なんて「ハッタリ半蔵」に決まってるだろう。と言わんばかりです。
となると、石山の「戒壇之本尊」の依書は、既にここの掲示板で議論された「日興跡条条之事」と「聖人御難事」ということでしょうかね・・・・・。 サムイニャ♪.....(((((ヾ( o=^・ェ・)o ┏━┓←コタツ

すがる藁が細すぎると思うのは小生だけだろうか。 (-。-;)

934犀角独歩:2004/08/13(金) 22:00

愚鈍凡夫さん、文章に切れがありますね。思わず、莞爾。

それにしても、弥四郎漫荼羅法師彫刻説を認めると、石山が云う「邪宗」のメッカ、それも「邪宗」の神様・七面山の女龍神で祈念して、材となった楠板を得たことも認めなければならないわけですね。「いや、そんなことはない」という石山人はいるやも知れませんが、では「日法彫刻説」は家中抄、有師物語聴聞佳跡上、大石寺明細誌といった「御歴代上人」の文章以外に何の証拠があるのかと問えば、答えはないでしょう。亨師が精師・因師・量師の文面に困るより何より、まるで何も確証がない方がよほど困るだろうにと個人的には思いました。

935愚鈍凡夫:2004/08/14(土) 00:07

あっ犀角独歩さん、どうもです。

でも何ですね。七面山神話は石山でも諸天善神に合掌OKの時代があったことを示唆しているようにも取れますね。現在は御法度のようですが、嘗ては石山も神道に対して寛大であったように思えます。

頑なまでににカルトへの道を進んでいったのは、差別化による過度な自宗の正当性(ほとんど勘違い)の宣揚にあったのでしょうね。どうも日蓮系の教団は、全体的に他宗への過度な敵対心のみを蓮祖から受け継いだような感想を持ちます。
小生は、法華経は仏道を目指す道に声聞・縁覚・菩薩といった三通りのアプローチがあり、何れも結果的に成仏に至ると説いたのが法華経ではないかと思っています。そういう意味で法華経が好きです。
それなのに、菩薩道以外は絶対にダメと決めつけてしまったことに、蓮祖の間違いがあったのかも知れないと思っています。また、他言語に翻訳されていく度に改竄されていったであろう経典群に、整合性があると考える方が無理があると思います。

スレッドテーマからずれてしまいました。m(_ _;)m ゴメン!!

936犀角独歩:2004/08/14(土) 01:43

愚鈍凡夫さん:

> 七面山神話…合掌OK…嘗ては石山も神道に対して寛大

これまったくそのとおりだと思います。
明治の神仏分離令で時代は変わったわけですが、それ以前は是の如くですね。富士浅間神社を統括していたのは石山であると聞きました。


興門の歴史を調べれば、そこには八幡社があり、垂迹堂があるわけで、教学的には神仏混淆ですよね。それを戦後のヒステリックな調子から言い出すから、歴代の記述と齟齬を生じることになるのでしょうね。亨師も慈聞師の狸祭りの恐怖から、案外、精因量師の記述を否定して難を逃れようとしたんじゃないかと、わたしなんかは考えてしまいます。

元来、女竜神・七面大権現に祈って光を放った霊験あらたかな楠で彫ったのが戒壇本尊であることを精師も因師も誇らしく思うのが嘗ての石山感覚であったのでしょうね。

あと、菩薩道のみという蓮師感覚、なるほどなと思いました。
わたしはガキの頃から理屈ぽかった。まだ学会にいたとき、先輩から「二乗は成仏しないんだ」と窘められたことがあった。
わたしはひとこと「へえ、だったら、方便品で舎利弗はなんで喜んで小躍りしたんですか? 二乗成仏が法華経で説かれたからでしょう?」(笑)

もっとも法華経には「教菩薩法」という定型句があるわけで、その意味でたしかに菩薩の教えである点は否めませんね。でも、二乗のみならず、女人、悪人成仏を説いた経であるからこそ、珍重されたわけです。愚鈍凡夫さんが仰る点にわたしも賛同します。訳に対する見解も賛成です。わたしは羅什は嫌いです。となると、「南無妙法蓮華経」が成り立たなくなる、困ったものでした。

937愚鈍凡夫:2004/08/14(土) 08:19

犀角独歩さん、ご賛同いただき有り難うございます。

脱線ついでに、
法華経の本門、中でも寿量品などは阿弥陀如來、大日如來といった無始無終のスーパーブッダを意識して創作されたような感じがします。有始である釈尊を、五百塵点劫という無始に位置づけることによって、ブッダの中のブッダといった優位性を持たせようとしたのではないでしょうか。
強いて言えば、10万馬力の鉄腕アトムを100万馬力にパワーアップしたようなものか?
( ̄〜 ̄;) ウーン

娑婆世界で唯一有縁のブッダであるというだけでは居並ぶスーパーブッダと比べて見劣りするということでしょうかね。

938愚鈍凡夫:2004/08/14(土) 08:59

「弥四郎漫荼羅」についても、同じことが言えるような気がします。
石山の歴代法主は、蓮祖の漫荼羅の中でも際だって凄い漫荼羅であると何とか位置づけたかったのでしょうね。七面山伝説や熱原法難機縁説に、それを感じます。
蓮祖と直接関係ない漫荼羅を、さも蓮祖の最高傑作であるかのように喧伝することによって、宗門としての生き残りを図ったものでしょうか。

ただ、見方を変えれば、結局「ゆうたもん勝ち」の世界のような気もします。

939犀角独歩:2004/08/14(土) 09:55

> 937,8

愚鈍凡夫さん、またしても賛同します。

法華経を、特に梵本直訳で読むと無始の仏陀ではなく、明らかに五百塵点成道なんですよね。ところがこれをどうしても無始としたい。天台にそんな傾向があったかどうか。少なくとも、当時としては新規参入の大日如来は無始永遠常住でパンチがあった。この背景には全知全能の神なんて言う西風もあったのでしょうね。

まあ、それでも大日・阿弥陀・釈迦を仰ぐ人たちは偶像崇拝というか、仏像・絵像は燃えればなくなる仮のものであるぐらいのことはしっかりと認識していたんでしょう。

ところが弥四郎漫荼羅信仰では、「日蓮大聖人は不滅滅の相を現じ、いまは戒壇の大御本尊様とまします」とか言って、木に漫荼羅図示を彫刻したものを「生身の御本仏日蓮大聖人」だと言い張るわけです。「そう仰ぐ」というのならばまだしも、「魂魄」が漫荼羅に具わっているというんですね。

そして、さらにそれを信じないから、災いが起き、地獄に堕ち、国は亡ぶとまで言うわけです。そこで、せっせと人々は登山参詣と相成り、2000円だかいくらかの参拝料を払って石山は儲かり、1兆円も預貯金があるという。。それを信じさせるだけで、学会は半世紀で20兆円も資産を貯め込む。顕正会ですら、徴税対象の収入は3億円にも上る。では、それらの金がどこに行くかと言えば、神仏には決して届かず、神仏を信じろと囃し立てた連中の懐に転がり込むという仕組みが石山集団の経済循環のわけでしょう。

純粋に信じて、有り難がっている人々の信仰心を否定する気は毛頭ないけれど、端で見れば、「うまい話に引っかかっているだけ」としか見えないわけです。何でうまい話と言うかと言えば、稲田老師じゃないけれど、冷静に眺めれば、「真っ赤な偽物」と溜息を吐きたくなるほど、お粗末な造立奇譚。それも顕師は、たぶん教学部長時代から偽物であることはしっかり認識した(河辺メモ)うえで、正本堂を壊し・奉安堂を建てた。池田さん当たりもかなり早い時期から事実を知っていた(本尊物体発言)でしょうし、浅井さんはどうでしょうか。しかし、「法主血脈」を一度でも否定すれば、石山復帰は100%有り得ないことは充分に承知しているわけでしょう。

「絶対・永遠」の魔法の粉を振り、信じるものは救われる、謗ずるものは地獄に堕ちる。信じなければ国も亡ぶ、信仰していてこんなに幸せだと、熱狂した雰囲気のなかで繰り返されると、なんだか本当に思えてくるのでしょうね。誰だったか「嘘も100編繰り返せば本当になる」と言っていましたね。

940ワラシナ:2004/08/15(日) 14:38
>>928
ちょっと前まで下のように想像してましたが手前に出っ張るのはおかしいと思ってその下の図に訂正して理解しております。
 
 |
||
||<(立掛けられた楠板)
||
||
|___
|   |
|___|(台座のくすのき丸太)


/||
/ ||  
/ ||
/ ||
/ ||
/ ||
_/______||_
| |
|_________|
こう設定したのは「立掛ける」事にこだわった筈と考えたから。だが、これは何代目という発想を視野に入れた危ない考えでもある。

941ワラシナ:2004/08/15(日) 14:46
訂正図を間違えました。半丸太楠を真横から見たときの背中が
                 
/ 左のように右上から左下に下る形状

を書きたかったのであります。

942犀角独歩:2004/11/12(金) 14:01

『素朴な疑問』で議論が進んでおりますが、せっかく、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』スレッドがありますので、こちらに戻ることといたします。

今月11月3日、先の現宗研ミニ講演の内容をまとめた『大石寺漫荼羅本尊の真偽について ― 所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』を限定出版しました。次いで、講演で語り尽くせなかった部分を補したプレリリース版『必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別』を発刊しました。以上2冊は、これは前期依頼分に限り限定印刷をしたものです。現在、増刷中ですので、後期ご依頼くださった方々には、追って、お届けできようかと思います。

以上、そのように考えておりましたところ、本日、途方もない事実を発見いたしました。故にその部分をさらに増補いたすこととしました。後期ご依頼分に関しましては、増補版をお送り申し上げる所存です。以上、よろしくご理解の程、お願い申し上げます。

(管理人さん、この場をお借りしました。有難うございます)

943れん:2004/11/12(金) 15:43
犀角独歩さん、「必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別」発刊お目出度うございます。
限定出版ということですので、私を含め、PCを使えない環境の者にはなかなか入手しづらいと思いますので、一般への啓蒙という意味も含めて、御著を国会図書館に納本していただき、閲覧できるようご検討戴ければ幸甚に存じます。

944へいわそうか:2004/11/12(金) 17:54
私も「必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別」を納入したいと思います。
犀角独歩さんの著作をなんとしても拝見したいと存じております。

 平和創価より

945通りすがり:2004/11/12(金) 23:26
東陽堂書店をはじめ仏教関連書店での購入は可能ですか。
私も犀角さんの書籍を拝したいと心より念願しております。

946犀角独歩:2004/11/13(土) 11:42

皆さん、有難うございます。

国会図書館へは納本いたします。
発表後、新事実を発見し、現在、書き換えています。ですから、初版は納本せずとしたいところなのですが、さてどうしようかと考えています。
いずれにしましても、納本後、当掲示板でお知らせ申し上げます。

なるほど。東洋堂その他仏教書店ですか。
どこか一店舗、決めてそちらに置かせていただけばよろしいわけですね。
そうすれば、自由に手に取っていただけますね。
考えてみます。

なお、詳しいことは以下、アドレスへお問い合わせください。
発送をはじめ、その他情報通知などの事務をお願いしています。

瓔珞出版事務局 担当:西川
rmc-info@world.odn.ne.jp

947愚鈍凡夫:2004/11/13(土) 11:51

犀角独歩さん、出版おめでとうございます。 m(__)m
小生も密かに買って、読みたいと思います。 (^_^)v

「おいおい、何かの本と勘違いしてないかぁ?」(by 管理人)

948単己:2004/11/13(土) 16:49
犀角独歩さん、初めまして。一年くらい前からこの掲示板をROMさせて頂き驚きの連続です。
私も是非、本を購入したいと思っています。

942  >本日、途方もない事実を発見いたしました。

この片鱗でもお聞かせ頂けないでしょうか?気になって仕方がありません。
もちろん、差し支えがあるようなら残念ですが増補版が手にはいるまで、首を長くして待ってます。

949れん:2004/11/16(火) 11:40
犀角独歩さん、十一月十三日の午後に無謀にもケイタイで、946のご投稿に記された瓔珞出版事務局 担当西川様のアドレスにメールを送ってみたのですが、やはりケイタイでは無理なようです(T_T)
私としましても、東陽堂書店に犀角独歩さんのご本を置いて戴けるならば、助かります。改めてご検討の程宜しくお願い申し上げます。

950fukuokakenZZ:2004/11/17(水) 12:44
初めまして。創価学会→法華講→宗教を辞めた者です
平成14年イベントで宗門にも嫌気がさし寺院参詣も辞めました。
私は無神論者でもないし宗教はアヘンであると断じたマルクスのような現実主義者でもありません。
出来るものならば宗祖日蓮の教えを信じたかった、でも信じ切れず信じているふりをし続けましたが自分をだますことが出来なくなり宗教から離れました。

さて、私が法華講員として活動していたある日、正宗寺院の住職T師の話を聞きました。
T師は大石寺の教学部に所属しているかたで自ら教鞭を執り若手僧侶の育成にも携わって居られるそうです。
T師の言う所によると大石寺の倉庫(あるいは古文書の保管室)には室町から戦国〜幕末までの古文書が未整理のまま山積みにされているそうです。
その中には戦国大名今川・武田・徳川の寺領の安堵状・諸税の課税とその支払い領収書?等々中世日本史の研究資料として貴重なものも多数あるとのこと。
ここまでが私の聴いた部分、以下は私の推測です
---------------------------------------------------------------------
1,上古から現代までを見ると宗祖から目師の時代までは研究も進んでいるようで明治以降は文献も多数残っているが真ん中の部分(室町〜幕末まで)がすっぽり抜けている(手つかずの資料が山積み)のになぜ宗史の編纂が出来るのか?
2,中世の宗史研究もある程度進めているがその中には宗門にとって非常に都合の悪い部分がある。あるいは都合のいい所だけを抜き取ってつぎはぎの宗史を編纂した可能性はないのか?
3,大石寺は700年の歴史の中で何度も火事に見舞われているが戒壇の大御本尊だけは守り抜いたという。これが事実ならまことに美しい話だが木製の大御本尊が700年間の火事を耐え抜いたというのは少々無理があるのではないか?
4,手つかずで放置されている(とされている)資料の中に大御本尊が焼け落ちたという記録があるのではないか?
5,上に書いたように中世〜戦国の歴史研究資料として貴重なものも多数あるのになぜ公開しないのか?
疑惑の種は尽きません。

951問答迷人:2004/11/17(水) 13:11

fukuokakenZZ さん 始めまして、よろしくお願いいたします。

>室町から戦国〜幕末までの古文書が未整理のまま山積みにされているそうです。

幕末の北山本門寺との「両山問答」では、大石寺は、「火事で焼けてしまって、詳しい事は分からない」等と述べているようです。これが本当なら、それらの文書が表に出ては都合の悪い事があるのでも、焼けた事にして、闇に葬ってあるのではないでしようか。そんな貴重な文書が有るなら、保田妙本寺の様に、静岡県史に「大石寺文書」として公開すれば良いのに、と思いますね。

952れん:2004/11/18(木) 20:00
三位阿日順師撰述「心底抄」眼師写本奥書に石山九世日有師の弟子の南条日住師の筆にて「宝物を以て傳え畢りぬ卒爾に他見有るべからず、文明十七年三月之れを相傳す、當家随分の書と故上人常住御披見申され候なり」とあります。この南条日住師の筆の中の「故上人」は石山九世日有師を指しています。この中で日有師が順師の心底抄を「當家随分の書」とコメントしていたことを南条日住師が書き留めていることから考えますと、この心底抄は戒壇について「仏像を安置することは本尊の図の如し」と記しており、その心底抄を「當家随分の書」とコメントした有師の戒壇論も心底抄と同様「仏像安置如本尊図」だったと考えられます。裏を返すと有師の代の石山には、戒壇に安置するという彫刻本尊は存在しなかったことの一つの傍証になろうかと思います。このことから、現時点において私は彫刻本尊が製作されたのは有師滅後、石山十ニ世日鎮師以降のことではないかと考えています。

954問答迷人:2004/11/18(木) 23:23

れんさん

>戒壇に安置するという彫刻本尊は存在しなかったことの一つの傍証

「一つの傍証」どころか、「仏像安置如本尊図」との考えは、戒壇本尊思想を真っ向から否定していますね。「明確な証拠」に近いのではないでしょうか。今まで、戒壇本尊は有師が建立したのではないかという説を捨てきれずにいましたが、もっと、時代が下るのだと考えを改める事と致しました。ありがとうございました。

955犀角独歩:2004/11/20(土) 03:12

皆さん、しばらくご無沙汰となり、失礼いたしました。

単己さん、はじめまして。
禅師授与漫荼羅に関することです。
増補版の原稿には書きました。

れんさん、種々ご面倒をお掛けしまして、申し訳ございません。
952の慧眼、敬服いたします。

956れん:2004/11/20(土) 11:36
問答名人さん、私が952に記したことが、的を得たものならば、室町期までの富士門流では、石山・重須・西山ともに‘本門寺之戒壇’には仏像安置ということが共通の認識だったことになると思います。しかし有師滅後の石山は不造像・不読誦の教義の延長線上に戒壇義が仏像安置から曼陀羅安置に変化し、彫刻本尊を製作するにいたったのだろうと愚考しております。
犀角独歩さん、瓔珞出版事務局の西川様から、先日ケータイにメールを戴きました。ケータイからでも申し込みできました(汗)。犀角独歩さんの御本の増補版の方を注文させて戴きました。瓔珞出版の出版物では木下師の「板本尊偽作の研究」も気になっております(笑)。犀角独歩さんの御著が送られてくるのを、首を長ーくして待っております。

957単己:2004/11/21(日) 19:12
犀角独歩さん、こんばんは。禅師授与漫荼羅で新たな発見ですか。ワクワクします。増補版や続刊を楽しみしています。
ご多忙のようですが、季節柄お体に気を付けて下さい。

958犀角独歩:2004/11/22(月) 23:56

単己さん、有難うございます。

959犀角独歩:2004/11/23(火) 08:54

れんさん、ご挨拶遅くなりました。
お気を掛けていただき、有り難うございました。
日教研、現宗研の発表以降、さらにいくつかの発見もありました。
それら、著書を通じて皆さんにお伝えしたいと思っております。

960彰往考来:2004/11/29(月) 07:26
はじめまして。彰往考来といいます。当スレッドでの皆様の議論は大変参考になります。今後、議論に参加させてください。

さて、当スレッドの887で空き缶さんが、
>禅師授与曼荼羅について「一旦紛失後、天文8年頃、北山本門寺が所蔵。」

との憂宗護法同盟著「法主詐称」の内容を引用し、
>この書籍も、何を参考文献として書かれたのか、全く不明であるため確証あるものではないと思います

とされていますが、“天文8年”との記載は、昭和57年に大本山本門寺(北山本門寺)が出版した『本門寺並直末寺縁起』の118頁にある「萬年救護御本尊縁起」の中にあります。その内容を少々長いですが以下に引用します。なお、ここで “日弾”とあるのは “日禅”の誤記でしょう。“萬年救護”と“万年救護”の用語不一致を含め原文のママです。

「 萬年救護御本尊縁起  其の三  三枚継

比丘日弾ニ授与 弘安三年五月九日御書判ノ内ニ本門寺ニ懸ケテ萬年ノ重宝タルベシト、実ニ有リ難キ霊妙ノ御筆勢ニテ御書キ遊バシテアリマス
 此ノ御本尊ハ始メ萬年救護ノ御本尊ト奉申リシニ往古悪ル者ノ為メニ紛失セシニ人皇百五代奈良院ノ御字天文八年六月毛利贈三位右馬頭大江元成ノ幕下伯耆國米子ノ城主吉川治部少輔元長古筆ヲ好ミケル故ニ或ル人宗祖ノ御真筆御本尊ヲ勧メケルニ太守元長大ニ喜ビ多クノ黄金ヲ以テ之ヲ求メラレ我朝無双ノ名筆ナリト称美シテ秘蔵セシ所如何ナル因縁カ不思議ニモ其後米子ノ城中城外疫病大ニ流行シテ惨状ヲ極メケレバ諸寺諸山ヘ使者ヲ立テヽ祈願スレドモ更ニ験シナシ依テ太守元長詮議アツテ易者ヲ召シテ之ヲ占ハシムルニ 易者ノ云フニハ近頃求メ玉ヒシ古筆ノ祟リナリト断ハリケレバ元長モ大ニ驚キテ宗祖ノ御真筆ヲ取出シテ能ク能ク改メ玉ヒシニ御書判ノ内ニ本門寺ニ懸ケテ万年ノ重宝タルベシト有ルヲ見テ京都ノ諸本山ヘ聞キ合セ玉ヘバ本門寺ト申ハ富士山麓ニ有之旨本山要法寺第八世日得上人ヨリ申告ゲタレバ國主元長聞届ケ早速當山ヘ使者ヲ立テラレシニ付當山役僧トシテ正林寺南陽坊日長ト檀家総代某トハ縦跣ノ侭同道伯耆米子ノ御役所ニ至リ紛失セシ手続キ具ニ申上無相違ニ次第相分リ請取リ奉リテ帰リ速カニ御宝蔵ヘ還住在シマセシ万年救護ノ御本尊ナレドモ以上ノ縁由ニ依リテ爾来伯耆曼荼羅トモ奉称シカル不思議ノ御本尊ナレバ御利益廣大能ク御拝礼ヲ遂ゲ信心肝要、役僧正林寺南陽坊日長御霊験御迎ヘノ功ニ依リテ當山大学頭十四代ニ昇進セリト伝フ」

つまりこの北山本門寺の縁起要旨は、昔、禅師授与曼荼羅は悪者によって紛失したが、天文8(1539)年6月に伯耆国(今の島根県)の米子城主吉川治部少輔元長が入手した。ところがなんの因縁か城中城外に疫病が大流行し惨状を極めた。そこで調査したところ、この御本尊の御書判の内に『本門寺ニ懸ケテ万年ノ重宝タルベシ』と有るのを見て北山本門寺に環住させた。以上の縁由から伯耆曼荼羅と奉称する、というものです。

空き缶さんは、“天文8年”と日国師定書との関連を議論されていますが、上記文献から直接的には無関係といえます。
なお、“天文8年に吉川元長が入手した”との縁起記載内容ですが疑問があります。これについての考察は追って投稿します。

961犀角独歩:2004/11/29(月) 12:16

彰往考来さん、ご投稿興味深く拝読しました。
いくつか質問をさせてください。

(1)引用の文章は筆者は誰でしょうか。

(2)万年救護本尊という名称はいつどこで、誰によってこの漫荼羅に冠されたのでしょうか。
(3)「本門寺…」という加筆は誰の筆でしょうか。

以上、3点、ご教示いただければ有り難く存じます。

962名無し@富士門流:2004/11/29(月) 12:34

 彰往考来さん、はじめまして。
 皆様お久しぶりです。「空き缶」改め「名無し@富士門流」です。

 彰往考来さん、私も1ヶ月ほど前に片山日幹師の「本門寺並直末寺縁起」を、図書館から借用し拝読しました。
 これによれば、憂宗護法同盟は現北山本門寺蔵「日禅授与曼陀羅」と現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」を混同していたことになりますね。

 もともと「日国定書」による、日禅授与曼陀羅の移動の推論は、現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」に関してのものでした。
 片山日幹師「本門寺並直末寺縁起」に出てくる「萬年救護御本尊縁起」は、現北山本門寺蔵の「日禅授与曼陀羅」であると思います。

 つまり「日国定書」にみえる上野から買い上げた御筆御本尊が、現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」であるとすれば、このころ現北山本門寺蔵「日禅授与曼陀羅」と現大石寺蔵「日禅授与曼陀羅」の両方が、北山に集まった可能性があると考えられると思います。

963kamata:2004/11/29(月) 16:45
独歩さん。必携図解のプレリリース版、きょう届き、さっそく拝読しました。模写という主張だと勝手に勘違いし、細部までおんなじという思い込みにしばられていました。百聞は一見にしかずです、たしかに。北山と大石寺の違いの説明もよく理解できました。しかし、いちばんビックリしたのは最後の仮説です。

964犀角独歩:2004/11/29(月) 22:47

kamataさん、はじめまして。

> 細部までおんなじという思い込み

そうですね。
増補分の原稿には書いたのですが、たとえば第82漫荼羅(石山が言う紫宸殿本尊)の模刻本尊は一見すれば、原本が特定できます。しかし、これを画像処理して、解析すると実は必ずしも同一ではないわけです。それでもこの模刻は第82漫荼羅を‘彫ろうとして彫ったもの’でしょう。原本を誇っているということです。

しかし、石山彫刻本尊は違うでしょう。むしろ、その原本が何であるかを秘匿しようとしているわけです。それを物語るのがレイアウトの特徴が弘安3年5月前後であるのにも拘わらず、そこに刻まれた日付が弘安2年10月12日であるという事実です。半年もあとの原本を偽っているわけです。このような場合、原本が何であるのかを特定されない‘工夫’が施されるのではないでしょうか。つまり、これが臨模原本に加えられた数々の作為であろうとわたしは想像します。彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を模刻しようとしたのではなく、それを素材にして弘安2年10月12日本尊を捏造したものです。そんなものを造るのに、どうして、忠実に模刻をするわけがあるのか、こんなことは少し考えればわかります。

では、何故、禅師授与漫荼羅を使用したのか? その理由はもちろん、定かではありません。想像を逞しくすれば、「万年救護戒壇本尊」と称された禅師授与漫荼羅にあやかったのか、もしくは、大きさが原本に適していたか、そんな理由なのでしょうか。

余計なことを記します。一つしかないと思っているものが、実はいくつもある…。これが実は彫刻本尊、禅師授与漫荼羅の不思議を解く鍵なんです。この点については増補版で記しました。皆さんのご叱正を希望します。

以下、kamataさんにではなく、記します。

わたしの考えへの反対を他でとやかく記さず、ここで直接、わたしに投げかけて欲しいと希望します。議論を随所で拡散したくないからです。お願いしておくことといたします。

965彰往考来:2004/11/30(火) 07:14
犀角独歩さん、

961でのご質問にとりあえずお答えします。

>(1)引用の文章は筆者は誰でしょうか。

筆者は不明です。「本門寺並直末寺縁起」の109頁に、「縁起其の二、其の三についての資料を探し求めたが手懸りなし、今は当山に於ける出開帳の事実を裏付けるものとして掲載しておく」とあります。

>(2)万年救護本尊という名称はいつどこで、誰によってこの漫荼羅に冠されたのでしょうか。

残念ながら「本門寺並直末寺縁起」には、答えとなる記載は見当たりませんでした。

>(3)「本門寺…」という加筆は誰の筆でしょうか。
これも(2)と同様にみあたりませんでした。

「本門寺並直末寺縁起」の奥付には、
 監修 大本山本門寺貫主 片山日幹
 編集 静岡県富士宮市北山本門寺内
    本門寺並直末寺縁起編集委員会

とあります。

この本は、北山本門寺法縁寺院の、開山、開基、縁起、沿革(寺伝、古記録、寺跡)歴代譜、宝物などを全国の末寺院から集め集大成したものです。あくまで縁起などを集めているため、著者などは記載がなく内容的に不満な点は多々あります。

「縁起の物語は信仰世界の真実ではあるが、信仰社会から離れた観点では真実ではない。縁起書に書かれた内容が歴史的事実ではないか、または不分明であるにもかかわらず、過去の事実であると主張するところに、偽文書と同様の性格がある。」(久野俊彦・時枝務編『偽文書学入門』2004年、柏書房株式会社、267頁)と、久野氏らが指摘しているように縁起の取り扱いは慎重を要します。
今回のケースでも“天文8年に吉川元長が入手した”との縁起記載内容は史実ではありません。なぜなら、吉川元長は天文17年(1548年)生まれだからです。(『国史大辞典 第四巻』平成2年、吉川弘文館、152頁 など参照) 
ではこの縁起は偽文書として、全く議論の外に投げてよいかと言うとそうでもないのです。上記の『偽文書学入門』25頁に「当然、これらの系図、由緒書等の作成者の手元には、それを作成するための基礎となる資料、文書、記録から伝承にいたるさまざまな史資料が集積されていたはずであり、それに基づいて作成者はその時点における自らの観点に立って、系図・由緒書を作成・叙述したのである。とすると、われわれがこうした系譜・伝承資料を的確に用いるためには、まずその作成のために使われた史資料について、それが事実に基づいたものか、伝承によるものかなどを弁別するところからはじめなくてはならない。」と指摘しているように縁起の内容はまさに玉石混合なのです。宮崎英修氏も「真蹟でなから、真撰でないからといって捨ててしまうのは史実に対し目をおおうことになりましょう。」(『日蓮教学研究所紀要 第10号』2頁)と指摘しているわけです。例えば今回のケースでも“天文8年”が誤記、例えば“天正8年”、であるということも、まあ可能性として考えられるわけで慎重な取捨選択が必要です。そこで、この縁起内容を吉川元長の事跡と対比して検証し私なりの所見を述べてみたいと思います。また、名無し@富士門流さんの962でのご指摘にも追って回答したいと考えます。

966犀角独歩:2004/11/30(火) 08:56

彰往考来さん、ご返答有り難うございました。

片山師の時代の編集ですか。
やはり「万年救護」語の出所は不明ですね。
どうもこの成句には要山ばりの印象が強いというのが個人的な感想です。

真跡、偽文書の扱いは引用されるとおりでしょうね。
ただ、旧来の偽文書扱いというのは護教的・護宗派的であれば、馬鹿らしいので一蹴というのが、ここ掲示板の常の在り方でした。自分の信じることを肯定するために、その実否を挙げられない資料にしがみつく姿は見苦しいという見解です。
然るべき根拠が示されれば、仰るように扱うことは当然のことであろうと存じます。

禅師授与漫荼羅について、彰往考来さんに申し上げるまでもないのですが、ロムの皆さんの参考に記せば、北山漫荼羅には他筆で「本門寺」とあり、石山漫荼羅では興師筆であった「本門寺」が削損されているというのが、いちおうの亨師の見解のようでした。

まあ、非常に穿ったものの見方をすれば、「本門寺」と書き込み、物語を作って当の本門寺に売り込んだとも考えられるわけですが、しかし、そうなると、石山漫荼羅の削損との関係が霞みます。さて、どんなものでしょうか。

967勉強中:2004/11/30(火) 12:11
犀角独歩さん、私も「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」が手元に届きました。

もったいなくも巻末の「謝辞」の中では、新参者の私のことまで紹介戴き至極光栄です。
永年議論されてきました諸先輩方と違い、私は種々のご教授を賜った身であり誠に恐縮です。
次巻以降のご出版も心待ちにしております。ありがとうございました。

968彰往考来:2004/11/30(火) 12:46
犀角独歩さん、

「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」が手元に届きました。拝読させていただきます。

969犀角独歩:2004/11/30(火) 18:52

皆さん、有り難うございます。
書籍は書き上げてみると、どうも不足ばかりが目立ちます。
ご叱正を賜れれば有り難く存じます。

970名無し@富士門流:2004/12/01(水) 00:52

犀角独歩さん、「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」の出版、誠におめでとう御座います。

一般販売はされていますでしょうか。購入方法等、さしつかえなければお教え願えれば幸です。

971管理者:2004/12/01(水) 06:43

ここから注文出来ますよ。当掲示板のtopにリンクを張っておきました。アドレスは

瓔珞出版事務局ネツト書店 http://cart02.lolipop.jp/LA11156772/

972きゃからばあ:2004/12/01(水) 08:51

私も「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」が手元に届き、さっそく拝読させていただきました。

以前、スレッド『素朴な疑問』での1804の犀角独歩さんの発言で、
「批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。」
とあり、私は大いに同感いたしました。

そして今、さらに、
「真実を立証し、広めることが正義」
と思い、これからも研鑽していこうと思います。

これからもよろしくお願いします。

973犀角独歩:2004/12/01(水) 09:25

管理人さん、有難うございます。

名無し@富士門流さん、拙書、また雅仙堂さん(富士宗学研究会)の書籍は、ご紹介のネット書店に委託してあります。

きゃからばあさん、ご高覧、有難うございます。
忌憚なきご批正を賜りたくお願い申し上げます。
こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。

974名無し@富士門流:2004/12/01(水) 13:31

管理人さん、犀角独歩さん、ありがとう御座いました。

私も遅ればせながら、学ばせていただきます。

975犀角独歩:2004/12/02(木) 10:27

勉強中さん、失礼しました。
967を読み落としておりました。
どうか、ご叱正を賜れれば、有り難く存じます。

976彰往考来:2004/12/03(金) 07:26
犀角独歩さん、

「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」(第2版)を拝読させていただきました。若干、ミスプリントなどが見受けられましたので、僭越ながら指摘事項を列記します。明らかなミスプリントは次回の版で訂正されるか正誤表を作成されることを希望します。

①20頁4行目 「創価学会では (中略) 紙幅の御本尊は、現在(大石寺)御宝蔵に保管されています」と言いました。

これは、『創価学会の偽造本尊義を破す』(平成9年、日蓮正宗宗務院)に引用されている、新階 央という人が書いたと思われる「日寛上人の御本尊下付の正義の証明」という資料に出てくる一説です。
新階という人は不明ですが、あくまで個人の立場で書かれたもののようで、紙幅本尊が保管されているというのは創価学会の公式見解ではありません。

『創価学会の偽造本尊義を破す』は平成9年8月28日に富士大石寺で行われた第46回全国教師講習会での日顕法主の講義ですが、これに対して創価学会では、「一学会員の指摘な宗門破折文書を取り上げ (中略) 大体、公式文書でもない一学会員の私見に法主が目くじらをたてること自体、愚の骨頂」(1997年9月17日、創価新報3面)と“公式文書ではない一学会員の私見”であると指摘しています。少なくとも私が精査した範囲では、創価学会はかかる主張をしていません。何か明確な資料があるのでしょうか?

②21頁8行目 「板本尊は妙海寺のマンダラの模作か偽造か」

これは、安永弁哲著『板本尊偽作論』(1989年、鹿砦社、156頁)では、「板本尊は妙海寺のマンダラの模作偽造か?」となっています。細かい点ですが原本に忠実であるべきです。

③21頁10行目 「弘安三年大弋庚申五月八日」

  これも、安永弁哲著『板本尊偽作論』では、「弘安三年大弋庚辰五月八日」となっています。山中喜八編『御本尊集目録(訂補三版)(昭和56年、立正安国会)で確認しますと、“辰”が正しいことが解ります。

④22頁8行目 「日蓮正宗宗務院」

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(昭和31年)は「日蓮正宗宗務院」ではなく、「日蓮正宗布教会」の発行です。

⑤22頁13行目 「富士諸伝本尊」
  『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(62頁)では「富士所伝本尊」となっています。
  この本の本文を読む限り「富士所伝本尊」とは“ 富士門流に伝わった御本尊 ”という意味で大石寺彫刻本尊ではないと拝されます。

⑥23頁1行目 「妙海寺大漫荼羅を大石寺彫刻本尊の模写であると断言されました」

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(68頁)には、「此の妙海寺所蔵の本尊こそ、此の日華上人へ御授与の本尊を臨写したもの」とあり、大石寺彫刻本尊ではなく日華授与本尊と判断されます。なお、大石寺が前言を翻していないのはご指摘のとおりです。

⑦25頁7行目 「サイズがピタリと合ったら」

『板本尊偽作の研究(再版)』(本門社、発行年不詳)41頁では「サイズがぴたりと合ったら」となっています。なお、96頁の参考文献では、発行者を飯能本門社とされていますが、本門社が正しいと思います。

⑧25頁9行目 「編者(木下)が製作したのではないのでわかりません」
『板本尊偽作の研究(再版)』41頁では「編者が製作したのではないから勿論わかりません」となっています。
編者とは木下氏のことですから、( )書きは間違いではありませんが、原本にはないので、書くのであれば(引用者注:木下)とでもすべきと考えます。さらに“ 勿論 ”が抜けています。

⑨28頁2行目 信行寺
29頁2行目 真行寺

栃木県の信行寺のことでしょうか?

⑩31頁5行目 「富要九−一七八頁」

  「富要八−一七八頁」の誤りです。


長くなりました。続きは追って投稿します。

977犀角独歩:2004/12/03(金) 09:28

彰往考来さん:

ご高覧のうえ、数々のミスプリント並びにご叱正を賜りましたことを、感謝申し上げます。さっそく『正誤表』を作成することといたします。また、不的確な表現は訂正し、文も書き換える所存です。

一点のみ、以下の点なのですが、

> 飯能本門社とされていますが、本門社が正しい

とのことですが、手元にある『板本尊偽作の研究』(再版)、『大石寺明細誌の批判』、三国日秀編『創価学会の弱点』では、表紙に「飯能本門社」と書されています。裏表紙『奥付』ではたしかに「本門社」となっておりますので、「はて、どうしたものか」と悩んだ経緯があります。取り敢えず、表記された「飯能本門社」に準じた次第です。如何なものでしょうか。

引き続きご叱正を賜れれば幸甚です。
有難うございました。

978犀角独歩:2004/12/03(金) 10:17

彰往考来さんが976にご指摘をくださった点は実に正鵠を得ております。

(1)について、拙書において、彫刻本尊の原本漫荼羅が宝蔵の保管されていることを創価学会の公式見解と誤解を招く記述をしたことは批判されて然るべきです。
この点に就き、わたしは訂正することを公言します。

また(5)(6)の点に就き、ご指摘の点は明らかにわたしの誤読でした。
謹んでお詫びし、訂正申し上げる所存です。

以上、2点については、販売委託方に直ちに連絡し、販売した方々に『正誤表』と文章訂正を通知申し上げることといたします。また、次回増刷分からは、ご指摘の点を書き改めたうえ、印刷製本を委託することといたします。

彰往考来さんには重ねて御礼申し上げます。
先に記しましたとおり、重ねてご叱正を賜りたくお願い申し上げるものです。

979犀角独歩:2004/12/03(金) 17:24

ご高覧をくださった皆さんには、たいへんに失礼いたしました。
まず『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』の正誤表を以下にアップしました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/16_seigohyo.gif

追って『大石寺漫荼羅本尊の真偽について』の正誤表もアップする所存です。
当掲示板への投稿同様、打ち間違いが多く、たいへんに失礼いたしました。
反省いたします。

980犀角独歩:2004/12/03(金) 17:36

979、ジャンプしませんでしたら、以下でお願い申し上げます。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/16_seigohyo.gif
http://yohraku.com/16_seigohyo.gif

981愚鈍凡夫:2004/12/03(金) 21:15

>>1216:
大勇者さん、レス有り難うございました(お礼が遅れてごめんなさい)。

ところで犀角独歩さんの本、まだ読んでおりません。増刷版のほうが徳かな〜っと、大阪人らしい発想で思案しておるところです。したがって、皆さんの話題についていけません。 (T.T)
ただ、手に取る日を楽しみに、気持ちはワクワクしております。
((o(▽ ̄*)oワクワクo(* ̄▽)o))

982犀角独歩:2004/12/04(土) 10:18

『大石寺漫荼羅本尊の真偽について』の正誤表です。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/19_seigohyo.gif
(ジャンプしない場合は[アドレス(D)]枠内にコピペしてください)

983犀角独歩:2004/12/04(土) 10:19

あ、愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。

なんだか随分と皆さんにはご高覧いただいているのですが、感想その他はお聞きできず、どんなものなのかと思っているこの頃です。愚鈍凡夫さんには早くご高覧を賜り、辛口のジャブをとばしていただきたいと念願しています。

増補版は、さらにできる限り図形・写真を活用しようと思っています。文章はほぼ出来上がっているのですが、図形作成が遅れています。1冊の本でデータ量が2ギガを超える経験はこの世界で20年ほど生きてきましたが、初めてです。ハングアップしたら、Win386.swp が1.5ギガに。(なんて書くとOSを特定され、さらにウイルスやら、キャンサーやらが送られそうで嫌ですが)文章を書くより、こっちのほうで手こずっています。

しかし、ウイルスメールは日増しに鰻登り、何ともはやという気分です。

984愚鈍凡夫:2004/12/04(土) 12:21

あっ、犀角独歩さんどうも。ご無沙汰しております。
小生の処も、ここで公開しているメールアドレスには頼みもせんのにウイルスメールが毎日複数来ますね。小生でもこんな状況だから、犀角独歩さんの処は大変だろうなと想像しています。
これから寒さが厳しくなりますのでお体ご自愛下さい。

ウイルスメールが来るというのは、裏返せば相手には相当応えてるということですからある意味では愉快でもありますけどね。 σ(゜┰〜 )アッカンベー

985犀角独歩:2004/12/04(土) 15:30

※以下の点、既に正誤表で訂しましたが、こちらを借りて訂正を公開します。

(1)『大石寺漫荼羅本尊の真偽について
 ― 所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』
(2)『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』

(1)P9 L11 (2)P19 L13

誤)大石寺第五九代堀日亨氏は『富士日興上人詳伝』で
「未来勅建国立戒壇建立のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊」(二七七頁)
であると言います。一方、創価学会では「戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法に彫刻をさせたもので、大聖人の直筆である紙幅の御本尊は、現在(大石寺)御宝蔵に保管されています」と言いました。これに対して、大石寺は『創価学会の偽造本尊義を破す』という反論書で
「大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても彼等(創価学会)が言う『紙幅の戒壇の大御本尊』なるものは存在しません」(八九頁)
と明言しております。

正)大石寺第五九代堀日亨氏は『富士日興上人詳伝』で
「未来勅建国立戒壇建立のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのがいまの本門戒壇大御本尊」(二七七頁)
であると言います。また、大石寺は『創価学会の偽造本尊義を破す』という反論書で
「大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても彼等(引用者注:創価学会)が言う『紙幅の戒壇の大御本尊』なるものは存在しません」(八九頁)
と明言しております。


(1)P11 L12 (2)P22 L4

誤)細井精道(のちの大石寺第六六代日達)氏は反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗宗務院)のなかで「妙海寺本尊の模作という僻見を破し妙海寺本尊こそ富士諸伝本尊の臨写なるを教ゆ」と言って、妙海寺大漫荼羅を大石寺彫刻本尊の模写であると断言しました。

正)細井精道(のちの大石寺第六六代日達)氏は反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮正宗宗務院)のなかで「妙海寺本尊の模作という僻見を破し妙海寺本尊こそ富士所伝本尊の臨写なるを教ゆ」と言って、妙海寺大漫荼羅を富士所伝本尊の模写であると断言しました。

986れん:2004/12/04(土) 19:14
犀角独歩さん、先頃届きました『大石寺曼陀羅本尊の真偽について ー所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別』を読ませて戴きました。まだ「必携/図形 大石寺彫刻本尊の鑑別」(増補改訂版)が届いていないのですが、今までの偽作論とは異なり、実証的な御論は分かりやすく、大変参考になりました。私が意外に思ったのは、信行寺の板本尊の脇書が大石寺彫刻本尊同様、日蓮花押の下に横並びに記されていることでした。石山系における造立板本尊の脇書はこの様に記されるのが上代における一種の伝統化儀なのだろうと考察した次第です。
なお、富士宗学要集を読みまして、多少穿った見方をすると室町末期の郷門の日我師・江戸初期の尊門日陽師・郷門日前師は文献に石山彫刻本尊について肯定的に記していますから、目師門下の郷門・尊門も石山彫刻本尊の成立に関わっているのではないかと、憶測ですが、ふと思いました。

987犀角独歩:2004/12/05(日) 01:22

れんさん、お久しぶりです。また、ご高覧有り難うございます。

信行寺板本尊、なるほど。さすが、目の付け所が違います。敬服しました。
持っている写真で確認したのですが、よく読み取れません。

「右願主□□
 日□第□□
 阿□□□□(阿闍梨?□□)

遺弟日影代
   □□□
   十月十□□」

三学無縁さんのご指摘ですが「紫宸殿本尊は有師の模刻ということになっているのに、この板本尊は8代影師」です。7代阿師はわずか半年ですから、ここで「遺弟」と言い師匠を指すのは時師ということになるのでしょうか。どうにも解せないところがあります。

仰るように板本尊「制作縁起」を花押下に書くというのは特徴的ですね。
しかし、これが影師からさらに時師に戻れるとなるとやや看過できない話になってきます。これは興味が惹かれます。

> 目師門下の郷門・尊門も石山彫刻本尊の成立に関わっている

なるほど。目師門下ですか。厳格な興師の、その直下の重須が漫荼羅を彫刻しようなどと考えるわけがありませんから、よほど、その線で考えるほうが現実味がありますね。

988通りすがり:2004/12/05(日) 01:51
犀角独歩さん、今日は
信行寺寶蔵に所蔵されし、宗祖形木本尊は現存する末寺で最古の模刻板本尊
として現存していますが、「右願主□□
 日□第□□
 阿□□□□(阿闍梨?□□)

遺弟日影代
   □□□
   十月十□□」
は、黒須野妙法寺に奉安の模刻御本尊も同じく刻まれています。
鮮明なカラー写真が手元にあるので、何らかのかたちで利用してもらいたい
と念願します。私はスキャナーが無いので、宜しければお送りしますので、
お声を掛けて下さい。

989犀角独歩:2004/12/05(日) 08:21

通りすがりさん、有難うございます。
是非お送りいただきたく、もし差し支えなければ、メールを送信いただければと存じます。よろしくお願い申し上げます。

990れん:2004/12/05(日) 17:35
犀角独歩さん、信行寺板本尊の脇書は興風談所刊「日興門流上代事典」日重の項には「右願主薗部日重弟子小輔阿闍梨日経造立/遺弟日影代/応永十九年太才壬辰十月十三日」とあります。詳細は通りすがりさんの写真でご確認下さい。
「遺弟日影」についてですが「奉蔵於奥法宝」収録の日影師書写大曼陀羅には「大石寺遺弟日影(花押)六十一才」の署名が見えます。日時師の法義の実質的な継承者とも見るべき日有師の連陽房聞書には「末法萬年未来永々マテ大石寺ノ別當日目ニテ御座ス事」とあり、この記述から振り返って読み直すと、大石寺遺弟の署名は「大石寺日目の遺弟」の意ではないかとも思われますが如何なものでしょうか?もっとも、三学無縁さんの仰る通り、日時師は石山のすべてを掌握したひとですから、時師の跡を相続した影師の「大石寺遺弟」の署名は時師の遺弟と読んだ方が無難かもしれません。

991愚鈍凡夫:2004/12/06(月) 01:06

横レス失礼します。
「大石寺遺弟」の件ですが、何故、師匠の名ではなく寺院の「遺弟」としたのでしょうか。
これは師匠の「遺弟」という意味ではなく、重須を離れた独自の大石寺門流の「遺弟」と解釈したほうが意味が通じるように思いますがいかがなものでしょうか。

992れん:2004/12/06(月) 08:45
愚鈍凡夫さん、時師は石山歴代ではじめて曼陀羅脇書に「富士大石寺門徒(或いは檀那)何某」と記すにいたっています。これは時師が実質的に石山を完全に掌握したことに伴った、重須から離れた石山の興門における正統性の主張と読めなくもありません。とすると、影師の「大石寺遺弟」も愚鈍凡夫さんの様に解釈できますね。参考になりました。ご意見有難うございました。

993彰往考来:2004/12/06(月) 14:02
「飯能本門社」について、「本門社」が正しいと思うと976で申しあげましたが、その根拠は犀角独歩さんもご指摘されている該当資料の奥付のような記載にあります。
手元にある同社発行の『大石寺明細誌の批判』および『板本尊偽作の研究(再版)』を見てみると、両方とも裏表紙に奥付のような記載があり、ここには、それぞれ「埼玉県飯能市宮本町 振替東京一四四六九八 本門社」、「埼玉県飯能局区内 振替東京一四四六九八番 本門社」とあるので「飯能」が埼玉県の地名でありことが分かります。
但し、これは奥付というより目録に近い内容で、発行年月などの記載もありません。本門社発行の資料中身はガリ版刷りです。
問題の「飯能本門社」という表現は表紙にありますが、よく見ると、「飯能 本 門 社」となっており、「飯能」は一回り小さい字で書かれ、かつ飯能と漢字と連結させています。もし「飯能本門社」が正しい会社名であれば同じ大きさの文字で「飯 能 本 門 社」と書かれるべきと考えます。
もちろん「筑波書林」のように、地名が社名の一部に組み入れられている例はありますが、今回の場合は、「飯能」は埼玉県飯能市を表す地名であり、例えば「神田 三 省 堂」というような表現であると理解すべきと判断いたしました。

994犀角独歩:2004/12/07(火) 10:56

れんさん、信行寺板本尊の制作縁起の記文、有り難うございました。

> 日影…大石寺遺弟の署名は「大石寺日目の遺弟」

このような用法は有りなんですか。なるほど。

ゆいてい 【遺弟】
師の死後に残った門弟。いてい
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

というのが一般の用法ですから、師の謦咳に掛かった直弟子が使う言葉であると思っていました。実際にその師を知らない場合は末弟などの語を使うのかと。
(影師は正平7(1352)、目師寂・元弘3(1333)を去ること19年後出生)

ご教示いただきたいのですが、「右願主薗部日重弟子小輔阿闍梨日経造立/遺弟日影代」という縁起はつまり、影師の代に重師の弟子・経師が造立したのが信行寺にある板本尊であるという意味になりましょうか。

995犀角独歩:2004/12/07(火) 11:03

彰往考来さん:

ご丁重なご指摘、まことに有難うございます。

「本門社」「飯能本門社」、さてどうしたものかと考えあぐねております。
以下、画像はその本門社刊の『創価学会の弱点』の表紙です。
こちらでは「飯能本門社」と同一の大きさで記されています。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/sokagakkainojakuten.jpg
(ジャンプがうまくいきません。[アドレス(D)]にコピペしてください)

ただ、たしかに『奥付』?には「本門社」とのみあるわけですね。
悩むところです。

996彰往考来:2004/12/07(火) 12:28
犀角独歩さん、

 『創価学会の弱点』、画像資料拝見しました。
ところで、この本の奥付はどうなっていますか?

推定ですが途中で会社名が変わったことも考えられますね。
本門社では類似社名があってよく解らないからでしょうか。

要はどちらも正しいのでは?

でも統一したほうがよいですね。『創価学会の弱点』も奥
付が『本門社』であれば、『本門社』とすべきと思います。
もし奥付が『飯能本門社』なら、3点とも『飯能本門社』
のほうがよいでしょうね。


彰往考来

997犀角独歩:2004/12/07(火) 16:32

彰往考来さん、『奥付』と言えるものがそれぞれ付されていませんね。

> 要はどちらも正しいのでは?

ええ、そのようなことかと存じます。

ところで、本門社は会社名なのでしょうか。任意団体、もしくは結社名かと思っていました。この名称は、天台系は元より、日蓮系にはありがちな印象ですね。当初、本門社ではじめ、郵便為替もその名称で開いた、けれど、紛らわしいので、あとから名称には「飯能」を付したということでしょうか。

例になるかどうかわかりませんが、、拙書の文中で「北山本門寺」という名称を使いました。しかし、この名称は実際は正しくありません。「富士山本門寺」であり、もっと正確に記せば「富士山本門寺根源」であろうかと思います。しかし、「根源」は寺院名としては一般には馴染みがないので、本門寺と呼称されるのであろうと。しかし、単に本門寺では池上もあれば、西山もあります。そんなことから正式名称ではないけれど、混乱を避けるために「北山本門寺」の名称を用いました。また大石寺は「冨士大石寺」などと呼称されますが、正式名称は「多宝富士大日蓮華山大石寺」です。しかし、他に類似名称がありませんので、単に「大石寺」としました。

本門社も他にその名称があるかどうかわかりませんが、「飯能本門社」とし、裏表紙に住所で「飯能」と記す場合、重複を避け単に本門社としているのかと思いました。

それにしても、本当に微に入り・細に入り、ご賢察を下されましたことを、改めて感謝申し上げます。

998彰往考来:2004/12/07(火) 17:28
訂正です。

960のスレッドで「萬年救護御本尊縁起」を紹介いたしましたが、引用資料名に誤りがありました。

 誤:『本門寺並直末寺縁起』
 正:『本門寺並直末寺院縁起』

です。謹んで訂正いたします。


彰往考来  拝

999れん:2004/12/07(火) 17:53
犀角独歩さん、日影…大石寺遺弟の署名は「大石寺日目の遺弟」これは有師聞書からの類推ですので違うかも知れません。しかし道師以下有師までの石山歴代の申状には「日蓮聖人弟子日興遺弟日〇」と記してますし、特に有師は「末法萬年未来永々マテ大石寺別當日目ニテ御座ス」と言ってますから当たらずとも遠からじと思っています。郷門でも要師の切紙には「富士山日目上人遺弟日要」と記してますし、要師から珍師までの保田妙本寺歴代書写曼陀羅には同じく「富士山日目上人遺弟」の署判がありますから、こういう用法もありということだと思います。
なお、信行寺板本尊の縁起の意味は、独歩さんが仰るとおり、大石寺第八代日影師の代に信行寺第五代日重師の弟子日経師(同寺八代)が造立した板本尊であるという意味になると思います。

1000犀角独歩:2004/12/07(火) 19:08

れんさん、有り難うございました。
興門下の「遺弟」の用法、よくわかりました。
繰り返しになりますが、「なるほど」と。

ご投稿を拝読して、面白いと思ったのは要師が目師「遺弟」を名乗っていることでした。記すまでもなく我師『申状見聞』で日目再来伝説の当人が、自分の宿命(しゅくみょう=前世)の自分自身を師とするというのは、なかなか味わいのある発言だと思った次第です。

1001通りすがり:2004/12/07(火) 19:44
信行寺板本尊と同じように、筑波本証寺に安置の板本尊も縦に授与者の銘が記されて
います。讃岐本門寺では、ほう師(ほうし)が戒壇本尊の為書を縦に認めています。

1002犀角独歩:2004/12/08(水) 08:46

れんさん、信行寺板本尊銘に就き、ご回答御礼忘れていました。
有難うございました。

通りすがりさん、

> 讃岐本門寺…ほう師…戒壇本尊の為書

とは、何でしょうか。ご解説願えませんでしょうか。

1003通りすがり:2004/12/08(水) 11:22
犀角さん、今日は
讃岐本門寺の塔中の中之坊に所蔵されている御本尊に、石山三十七世日王奉(ぽう
すいません、漢字が入力出来ませんでしたので)上人が書写した御本尊に戒壇本尊
の為書をそのまま曼荼羅の下部に書かれています。
右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白
要するに時の貫首だった三十七世王奉師が、讃岐の信徒に戒壇本尊の為書(端書)
を渇仰恋慕する思いに答えて曼荼羅の下部に認めたという事です。

1004犀角独歩:2004/12/10(金) 00:35

通りすがりさん、有り難うございます。
実に興味つきない、ご投稿でした。

1005彰往考来:2004/12/20(月) 07:27

吉川元長と禅師授与曼荼羅について〔1〕

スレッド960及び965の続きです。

『本門寺並直末寺院縁起』に記載の禅師授与曼荼羅の縁起について、
“天文8年に吉川元長が入手した”との縁起記載内容は史実ではありません。なぜなら、吉川元長は天文17年(1548年)生まれだからです。(『国史大辞典 第四巻』平成2年、吉川弘文館、152頁 など参照)
とスレッド965で指摘いたしました。
また『本門寺並直末寺院縁起』で元長は“伯耆國米子ノ城主”されていますが、実際はどうだったのでしょうか。ここでは吉川元長についての事跡などを検証し、縁起と史実を照らし合わせることにより禅師授与曼荼羅が北山本門寺に戻った経緯について検証を試みたいと思います。

吉川元長関連の年表(下記参考資料を参考に作成)
天文17(1548)年、吉川元春の長男として生まれる。幼名鶴寿丸(吉川元春は毛利元成の次男)
永禄 4(1561)年、14才で元服し元資と名乗る
永禄 8(1565)年、18才で出雲尼子氏の本拠富田(とだ)城攻撃に加わる
天正 元(1573)年、元長と改名。父元春とともに伯耆八橋(やはせ)に進駐
天正 3(1575)年、因幡に進出
天正6〜7(1538〜1539)年冬、因幡・伯耆の間に滞在
天正 9(1581)年、10月伯耆八橋(やはせ)の陣にあり
天正10(1582)年、12月高松城合戦後、引退した父のあとを継ぎ家督を相続
天正12(1584)年、仁和寺から弘法大師筆と称する法華経を贈られる
天正13(1585)年、秀吉の命を受け四国に出征
天正14(1586)年、九州に出征
天正14(1586)年、11月15日父元春、豊前小倉の陣中で病没。57才
天正15(1587)年、6月5日九州出征中日向の都於里(とのごおり)の陣中で病死。40才
          ※都於里:宮崎県西都市都於里町
天正19(1591)年、吉川広家(元長の弟,元春の三男)、米子伯耆城の築城に着手

 こうしてみると、元長が伯耆に滞在していたのは、天正元年から天正10年にかけての頃であったことがわかります。天正10年12月に父元春から家督を譲られていますので、それ以後元長は安芸国(広島県)山県郡にある吉川家の火ノ山城に城主として入ったと考えられ伯耆には滞在していなかったと思われます。

1006彰往考来:2004/12/20(月) 07:27

吉川元長と禅師授与曼荼羅について〔2〕

 さて、禅師授与曼荼羅は『本門寺並直末寺院縁起』では「往古悪ル者ノ為メニ紛失セシニ」とあり、北山本門寺から紛失したとされています。これに関連する事件が天正9年3月17日に北山本門寺で起こっています。武田勝頼らの臣により西山本門寺に重宝が奪われた事件です。(堀日亨編『富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕』昭和53年、創価学会、24頁) そうすると、奪われた重宝の中に禅師授与曼荼羅が含まれていて、これが当時伯耆国に滞在していた吉川元長に売却された可能性はあるということになります。ということは元長が伯耆で入手した可能性のある時期は天正9年3月(北山本門寺で重宝略奪)から天正10年12月(元長が家督をつぐ)までということになります。なお、天正10年6月2日が世にいう本能寺の変で信長が明智光秀に殺されたときで、このときは秀吉軍と吉川軍は高松城合戦で対峙しており、元長も書画骨董どころではなかったのではと推測します。また、米子伯耆城は天正19(1591)年に吉川広家(元春の三男。元長の遺言で家督を継ぐ)が築城を開始したとされていますので元長が伯耆城主であったとは考えられませんが天正9年当時に何らかの形で元長の居城が伯耆にあったはずです。
 では、禅師授与曼荼羅が北山本門寺に返却されたのはいつと考えられるでしょうか?『本門寺並直末寺院縁起』では、「如何ナル因縁カ不思議ニモ其後米子ノ城中城外疫病大ニ流行シテ惨状ヲ極メケレバ」と伝えています。実際に疫病が大発生したかどうかは不明ですが、天正14年に先代の元春が死去し、続けて天正15年に当主の元長が死去したのですから、家中は大混乱したはずです。そこで家臣が何の崇りであるか調べたところ、この曼荼羅の御書判の内に『本門寺ニ懸ケテ万年ノ重宝タルベシ』と有るのを見てびっくりし、調査すると北山本門寺のものと解ったので慌てて返却した、といったところが真実だったのかもしれません。
 もしそうだとすると、天正9年に北山本門寺から奪われた禅師授与曼荼羅を元長が入手したというのをきっかけとするならば、『本門寺並直末寺院縁起』でいう“天文8年”が“天正8年”の誤りであるとすることはできません。天正8年の時点ではまだ北山本門寺にあったからです。しかし返却されたのが天正18年というのは有り得ると思います。元長は天正15年に亡くなっていますので、北山本門寺に返却されたのが天正18年だったのではないでしょうか。死後3年目というのは、色々調査や手続きなどがあったろうと考えると妥当な線ではないかと考えます。
ここで念のため確かめておく必要のある項目がふたつあります。ひとつは、『本門寺並直末寺院縁起』にでてくる本山要法寺第8世日得上人です。富士年表(昭和56年、富士学林、483頁)によると日得上人は要法寺11代ですが、要法寺の事実上の開祖である日尊上人から数えると8代目になります。しかしながら日得上人は建徳元(1370)年に亡くなっていますので、『本門寺並直末寺院縁起』で議論している時代と全く年代が合いません。参考までに、この頃の要法寺歴代では、17代日法上人は永正13(1516)年寂、18代日在上人は弘治元(1555)年寂、19代日辰上人は天正4(1576)年寂、20代日賙上人は慶長13(1608)年寂ですから天文8年の頃なら日在上人、天正18年の頃なら日賙上人ということになります。縁起作成者がなぜ要法寺第8世日得上人を登場させたか不明です。全く解りません。もしかしたら日得という別人がいたのではないかとも考えられますが推測の域を出ません。

1007彰往考来:2004/12/20(月) 07:28

吉川元長と禅師授与曼荼羅について〔3〕

もうひとつは『家中抄』の記載です。『家中抄』には「日興高祖の本尊を申し請い日禅に授与す此本尊今重須に在り伯耆曼荼羅と号する是なり。」(堀日亨編『富士宗学要集 第五巻 宗史部』(昭和53年、創価学会、197頁)とあります。恐らく“伯耆曼荼羅”がでてくる一番古い資料でしょう。『家中抄』の成立は寛文2(1662)年(富士年表、205頁)ですから、少なくともこのころには、禅師授与曼荼羅は重須(北山本門寺)に在り伯耆曼荼羅と呼ばれていたことが解ります。これは上記に記載した年代と矛盾するものではありません。このことは伯耆曼荼羅という名称が江戸時代中期以後の創作ではないということを示します。ただ『本門寺並直末寺院縁起』に記載された禅師授与曼荼羅に関する縁起自体は江戸時代中期以後の開帳の際にでも使用されたもので後世の創作でしょう。
なお、日向国(宮崎県)には日蓮正宗の名刹である日知屋山 定善寺があります。吉川元長の亡くなった都於里(西都市)と定善寺のある日向市は40Kmくらいの距離でしょうか。非常に近いのでもしやと思いましたが定善寺文書(『宮崎県史 史料編 中世1』平成2年、宮崎県)などには両者の関係を示唆するような史料は見当たりませんでした。

 以上のことから得られた仮説は、
①禅師授与曼荼羅は天正9年に北山本門寺から強奪された
②強奪された禅師授与曼荼羅を吉川元長が天正9〜10年に入手した
③この禅師授与曼荼羅は元長の死後天正18年に北山本門寺に返却された
というものです。
今回の結果は、縁起で伝承された事柄に事実が含まれているという仮定のもとに縁起内容と史実を照らし合わせ検証して得られた仮説です。「吉川元長購入説」とでも名づけましょうか。仮説はあくまで仮説です。縁起の内容など取るに足らぬ、という考えであれば成り立つものではありません。事実、天文8年やら日得上人など史実と照らし合わせると成立しない内容が含まれています。しかしながら、この仮説のような事実がなければ禅師授与曼荼羅を伯耆曼荼羅と称する必要はないわけであり、逆に『家中抄』の成立した寛文2年にすでにこの名称があったということは史実が伝承されている可能性を強く示唆するものと考えます。そこで縁起内容から事実と異なる箇所を抜き去り史実から考察を加えたものです。
最後に一言。天正19年に吉川広家が米子伯耆城の築城を開始しているのは、禅師授与曼荼羅をめぐる家中の混乱を収拾し家臣の心機一転をはかる意味もあったのではないかと思えてなりません。

<参考資料>
河合正治「吉川元長の教養」(藝備地方史研究、第36巻1頁、昭和36年、藝備地方史研究会)
河合正治「吉川元長,吉川元春」(国史大辞典 第4巻、152頁、昭和59年、吉川弘文館)
三坂圭治「吉川元長,吉川元春」(日本歴史大辞典 第3巻、439頁、平成元年、河出書房新社)
佐々木謙『米子伯耆城 改版』平成12年、立花書院、151頁
平井聖 監修『城 第6巻 中国編 甍きらめく西国の城塞』平成8年、毎日新聞社、154頁


彰往考来

1008犀角独歩:2004/12/20(月) 19:19

緻密なご投稿に接し、敬服いたします。
やや質問させていただいてよろしいでしょうか。

> 西山本門寺に重宝が奪われた事件…中に禅師授与曼荼羅が含まれていて…

とのことですが、この根拠はどのような点にあるのでしょうか。
当時の事件を伝える論調から御筆漫荼羅紛失が浮かび上がらないように見えます。
たとえば、『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』に「西山日春…重罪は八通の遺書二箇の重書今に見えず」とあります。ここでは北山正当を伝える文書類紛失への憤慨が色濃く見えますが、なにより重宝である蓮組聖人漫荼羅について、全く触れられていないのは不自然ではないでしょうか。むしろ強奪された重宝類に禅師授与漫荼羅は含まれていなかったと窺えると思えますが如何でしょうか。

1009犀角独歩:2004/12/25(土) 10:21

1008の投稿にも関連しますが、禅師授与漫荼羅はそもそも2舗あるわけです。
では一体いつごろから2舗になったのか、ということを以前、議論したかと思います。
石山所蔵本の書き込みは興師筆と亨師はいうわけですが、そうなると、こちらが正本ということになるのでしょうか。
蓮師が、同一授与者・同一日月の漫荼羅が2舗図示されたとは考えづらい。そうなると、剥離表層によって2体に分かったのかという推論は成り立ちます。
しかし、そうなると、興師加筆もともに影じることになります。ところが加筆は違っているわけです。では、興師加筆以前に2体に分離され、その一つに興師は加筆、もう1体は後世に誰某かが加筆した、しかも、加筆する際に、現石山所蔵漫荼羅の「本門寺」の文字を削損し、かつのちに伯耆漫荼羅といわれるようになるほうには「本門寺」と書き足した?、あるいはこの2者にリンクするように思える「本門寺」文字の添削はまったく偶然か?、どうでしょうか。こんなことを興師がするでしょうか。はなはだ不審です。

北山には本来、2舗の禅師授与漫荼羅があったかどうか、その一つは盗難に遭い、のちに戻り、伯耆漫荼羅といわれるようになる「本門寺」の名入り、もう一方は「売りに出され」法道院を経て石山所蔵になった「本門寺」削損。拙書でも取り上げましたが、この2つは加筆が違う前提は繰り返すまでもないでしょう。少なくとも2体は存在するわけです。

彰往考来さんの1005から1007のご投稿は、その片方、伯耆漫荼羅と呼ばれるようになったほうの話であろうと思います。では現石山所蔵のほうがどんな経緯を辿ったのでしょうか。

2舗の禅師授与漫荼羅、これしかし共通しているのは同一授与者・同一日月というばかりではなく、市中に売りに出されて古美術扱いで将来されるという点でも同一です。
「伯耆」漫荼羅は、そこに「本門寺」と書かれてあったから北山に「戻った」、ではしかし、法道院のほうはなんでまた、禅師授与漫荼羅購入にああも夢中になったのでしょうか。まあ、現石山的な(いや、創価学会的、顕正会的というべきかもしれませんが)メンタリティからすれば「ご戒壇様以外は、たとえ真筆でも、未究竟でご本尊とはいえない」とでもなるわけで、故に、この「戒壇の大御本尊」を血脈相承を受けた唯授一人のみが「書写」したものを本尊とするというわけです。(書かれている内容の違いは、相貌を書写したのではなく御内証を写したからだそうで、そんなものをどうして書写というのか不明です。内証でもなんでも、書けば文字としてしか現れない、ところがそれが違うのは内証を書いたからだというのは、単に相貌の違いを取り繕う言い訳以上の意味は持ちません)とすれば、市中に売りに出された「御筆」漫荼羅など、目をくれる必要はなかったことにもなります。

禅師授与漫荼羅は、北山に所蔵されているところに、さらに、もう1舗「舞い戻ってきた」。こちらは講談調の美談のおまけがついている。時間が経、本来あったほうが招来ものより軽視されるにいたった。そこで、「本門寺」の文字を削り取って売りに出して金に換えた。しかし、実はこちらのほうに興師加筆があった(本物かどうか別としてですが)。となれば、案外、伯耆漫荼羅は北山と、興師とも、蓮師とも無縁の一物であったりするかどうか。なんでもあり、富士門下のこと、何が起きていたのか分かりませんが、伯耆漫荼羅といわれるようになるほうが、元々は北山にあったかどうか、また、のちに売り払われることになった現石山所蔵と2舗並存した時期があったかどうか。なかなか興味が惹かれます。

1010彰往考来:2004/12/27(月) 07:41

スレッド1008での犀角独歩さんのご質問にお答えします。

>当時の事件を伝える論調から御筆漫荼羅紛失が浮かび上がらないように見えます。

とおっしゃるのはちょっと首を傾げます。なぜなら当時重須本門寺で御筆漫荼羅が強奪されたという記載は、堀日亨編『富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕』(昭和53年、創価学会、以下「富要集九巻」と略します)などを紐解けば、かなり出てくるからです。例えば、
『本門寺日殿申状の案』(「富要集九巻」19頁)
 「御筆本尊等返し給ひ安堵の面目を開き」
『本門寺宝物目録』(「富要集九巻」20頁)
 「一、日蓮御筆漫荼羅大小弐十幅。」
『本尊已下環住の記録』(「富要集九巻」21頁)
 「一、日蓮大上人御真筆漫荼羅大小十一幅。」
   ※引用者注:“大上人”とあるのは「富要集九巻」原文のママ。
『二箇の相承紛失の由来』(「富要集九巻」23頁)
 「其日の乱入に彼の二箇の御相承並に大聖開山御筆の漫荼羅三四十幅濫妨に取られたるか」
等々です。『本門寺宝物目録』と『本尊已下環住の記録』はそれぞれ強奪された重宝類の目録と返却された重宝類の目録です。但し、この2点の資料には疑義があります。堀日亨師は「以上の文献は当時のものにあらず、近代の筆にて文中不可解の事多く、(現存せる家康に謚(し)号の東照神君などというごとき等)、」(『富士日興上人詳伝』昭和38年、創価学会、147頁)と指摘されていまして後世のもののようです。そのため綿密な考証が必要ですが、それについては別の機会にしたいと思います。

>たとえば、『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』に・・・。 むしろ強奪された重宝類に禅師授与漫荼羅は含まれていなかったと窺えると思えますが如何でしょうか。

『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』は「富要集九巻」23頁にある『妙本寺古記』の中にある資料ですね。ここで堀日亨師は「無題の記録なり筆者年代不明なれども祖滅三百二年後のもの、但し転写のものにあらず」(「富要集九巻」23頁)とされています。祖滅三百二年後は天正11(1583)年で、その時の内容ということです。この資料は「富要集九巻」では先の『二箇の相承紛失の由来』に引き続いて編集されています。内容詳細は略しますが、ご指摘の箇所は、その少し前から読みますと、「重宝類は300年間重須にあったのだから重須にあるのが正しいとの家康裁定で西山本門寺の日春は面目ない結果となった。日春は西山から擯出されるべきで、その重罪は二箇の相承や日代八通の譲状などの重書が紛失してしまったことである。」といった意味と解釈されます。『重須と西山と御大事等の本門寺諍ひの事』は“御大事”であった二箇の相承や、その紛失などに主眼がおかれていますので、ここに記載がないから強奪された重宝類に御筆漫荼羅は含まれていなかったのではないかということにはならないと考えます。

by 彰往考来

1011犀角独歩:2004/12/27(月) 10:09

1010 彰往考来さん:

なるほど。ただし、わたしが強奪に漫荼羅が含まれていなかったというのは、仰るようなこの事件を伝える記事そのものへの疑義からであること、また、実際に漫荼羅が(それも同一の日禅所漫荼羅2舗が含まれているのであればなおさら)、そのことを切実に伝える記載が残っていてもしかるべきではないのかという意味です。この事件から嘆願断食死にいたる直接の原因を陳べる段で漫荼羅を強奪された切実さを感じないと言いたかったわけです。

また、わたしは

> 強奪された重宝類に禅師授与漫荼羅は含まれていなかった

と記したのであって、

> 強奪された重宝類に御筆漫荼羅は含まれていなかった

とは言っておりません。何か勘違いなさっておりませんか。
さらに言えば、わたしは禅師授与漫荼羅を「御筆大漫荼羅」とも言っておりません。

さてでは、具体的に質問いたしますが、この強奪で2舗の禅師授与漫荼羅が売られ、一方は1006の経由で戻り、伯耆漫荼羅と言われるようになったと。では、もう1舗はどうなったとお考えなのでしょうか。

1012犀角独歩:2005/01/01(土) 12:53

『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』は近く増補改訂版をお届け申し上げる所存です。
プレリリース版の段階で概ねご批正を賜った点は、

 (1)禅師授与漫荼羅が原本であれば、細部にわたるまでもっと似ているはずである
 (2)「南」字が禅師授与漫荼羅のほうが大きい
 (3)「經」字が違う

と言った点が最も多かったと存じます。

(1)につきましては、先にも一度陳べましたが、大石寺彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を模刻し様としたものではなく‘原本’にしたのに過ぎないからである点を申し述べたいと思います。つまり、何がしかの蓮師御筆をモチーフにして「本門戒壇乃大御本尊」というものを作り上げようとしたものである以上、元の原本を性格に模刻することなど当初から意図されなかったということです。むしろ、敢えてわからなくしようとしたとすら窺えます。つまり、それが臨写・作為からさらに他筆混同という事実です。
しかし、造立されたものが蓮師筆と見えなければ、意図から外れます。そのために利用されたのが禅師授与漫荼羅であったという関係にあるのでしょう。また、その文字を利用した故に中尊題目、四大天玉は酷似しているわけです。特に各文字の大きさ比率は拙書で図解したとおり、ほぼ同一であり、光明点の角度、長さまでほぼ一致するところとなっています。

ただし、(2)の指摘のごとく、写真で見る限り「南」字は大きさ・形貌が異なっているように見えます。しかしそれでも、その各文字大きさの比率はほぼ同等であり、禅師授与漫荼羅を模していることが窺えます。

(3)の「經」字の違いは、そのとおりで旁‘ツ’様となっている部分が、禅師授与漫荼羅は特異にも‘ソ’様となり1画不足しています。しかし、それを補う如くに「華」字・縦棒が「經」旁・1画‘一’を貫き、‘ソ’様の左傍らに伸びた位置と彫刻本尊‘ツ’の1点目とほぼ位置を同じくしています。その他、文字の運筆はほぼ、同じくしており、また、特異な筆法といえる禅師授与漫荼羅「經」糸偏も、特徴を同じくしています。このことから、「經」字の違いは原本とした禅師授与漫荼羅の特異性を補したのが彫刻本尊であるという関係にあると言えます。

なお、増補版で明らかにしましたが、禅師授与漫荼羅の筆法の特異性は「經」字旁に留まらず、もっと着目すべき点があります。それは大廣目天玉の「天玉」の筆法です。
以下、増補版の文を転載します。

――「大廣目天玉」もほぼ一致しますが、「天玉」はややずれています。
 この「天玉」の部分は特筆に価することがあります。
 まず日禅授与の「大廣目」の「天玉」の特異性です。日蓮聖人は「天玉」を書されるに、「天」の最終画から「王」」の一画に連なり、「王」を書き終えて点を打つのに、また「天」最終画を跨いで細い点を打たれました。…日禅授与漫荼羅の「大廣目」の「天玉」では点と言うより、縦一本の太い棒で書されているのです。このような筆法は他に例を見ません。日禅授与漫荼羅の際だった特徴といえます。彫刻漫荼羅の同じ部分を見ると、やはり、「天玉」の最終画は縦棒となっているように見えます。重要な相似と言えるでしょう――

管理者さんがアップくださった禅師授与漫荼羅写真
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

と、わたしがアップしている彫刻本尊写真
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

の大廣目天玉の‘天玉’を見比べてみてください。
その相似には目を見張るものがあります。
なぜ、目を見張るかといえば、このような「天玉」の筆法は、御筆漫荼羅では見られないからです。

『御本尊集』
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

わたしは、大廣目天玉の筆法の一点をとっても、彫刻本尊の原本は禅師授与漫荼羅であると確信します。

1013彰往考来:2005/01/01(土) 16:21
禅師授与漫荼羅の動向について〔1〕

当スレッドの889で愚鈍凡夫さんが禅師授与の漫荼羅についての動向について質問されています。どのような経緯で、北山本門寺が禅師授与漫荼羅を所有するにいたったかは非常に興味のあるテーマです。
日禅師は当スレッドの891で空き缶さんが、まとめておられるように、
正応三年        日禅師、大石寺南之坊創建
元徳三年 三月十二日  日禅師、大石寺南之坊にて遷化
ということになっています。そうすると日禅師が亡くなったあとは禅師授与漫荼羅は大石寺に伝わった可能性が濃厚となります。では、いつ大石寺から北山本門寺へ?という疑問が発生することになります。

しかしながら私は、禅師が大石寺の南之坊を創建したということ、及びその南之坊で亡くなったということを疑問視しています。その理由は根拠資料がはっきりしないからです。
まず南之坊創建ですが、『富士年表』(昭和56年、富士学林、56頁)では正応3(1290)年の項に「日禅 大石寺塔中南之坊を創す(石文)」とあります。「石文」とは同書488頁によれば「大石寺文書」のことですが出典資料の具体名がありません。『静岡県史 資料編5 中世1』(平成元年、静岡県)は、編年体で編纂され比較的よく大石寺文書を収録していますが、正応3年の項にはかかる内容の資料は見当たりません。どうも『富士年表』の根拠は日精師の『富士門下中見聞抄』(以下、「家中抄」と略します)ではないかと推測します。もちろん他の人師による資料が存在する可能性を否定するものではありません。「家中抄」の「日禅伝」には、「大石寺に移り給ふ時、屋敷を下タされ南之坊を開闢す、玆に住して御番を勤仕せらる」(『富士宗学要集 第五巻宗史部』(昭和53年、創価学会、197頁、以下「富要集五巻」と略します))とありますが、内容に疑問点があるので「家中抄」の記載内容を検証することにします。まず「御番」です。同書の171頁に、「元徳二年正月には大石寺の番帳を定め給ふ是レ永代不易の為なり。日目、日郷、日時、三師自筆之レ有り。」とありますが、堀日亨師は同箇所の頭注に「今存在セズ」と記しています。「家中抄」では番帳について引き続き、「四番、少輔阿闍梨日禅 (中略) 七番、越後阿闍梨日弁 (以下略)」(同書172頁)と記しています。ここで出てくる日弁師については『富士年表』の正安元(1293)年の項に「越後房日弁 大石寺塔中乗観坊(蓮成坊)を創す(石文)」(同書61頁)とあります。『富士日興上人詳伝』(昭和37年、創価学会)にある大石寺図をみますと、日禅師の南之坊と日弁師の蓮成坊は隣同士です。(同書251〜257頁)これはちょっと笑ってしまうほどおかしなことです。なぜなら詳細は略しますが日興上人の弟子分帳に「富士の下方市庭寺の越後房(日弁)は日興が弟子なり仍て与え申す所件の如し、但し弘安年中白蓮に背き了ぬ。」(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、6頁)とあるように、日弁師は弘安年中に日興上人から離れています。そして応長元(1311)年、奥州伊具郡甚次郎村(現・宮城県角田市神次郎)で殉教(病死との説もあります)しているのです。同一日号の別人がいたわけではなく、日頂師のように日興上人の基に戻ったということもないのです。御番の件や大石寺図などは後世の創作でしょう。とすると禅師の南之坊創設の件も創作ではないかと思います。少なくとも弘安期よりあとの資料で日弁師と日禅師が並んで記載されているようなものは正当な資料として使用することはできないというのが私の考えです。伝説や偽文書を基に論理を進めれば『新ジンギスカンの謎』(平成16年、叢文社)のように源義経がジンギスカンになってしまいます。難しいことですが資料が使用するに値するものなのか吟味しながら考証しなければいけないのはいうまでもありません。

1014彰往考来:2005/01/01(土) 16:23

禅師授与漫荼羅の動向について〔2〕

 次に南之坊にて御遷化の件です。『富士年表』の元徳3(1331)年の項には「3.12 南之坊開基少輔阿日禅、同坊に寂(大過去帳)」(同書77頁)とあります。「大過去帳」とは同書488頁によれば「大石寺大過去帳」とのことです。しかしながら古い資料では「家中抄」しか記載が見当たりません。「家中抄」には「終に元徳三年辛未三月十二日大石寺南之坊に於て御遷化なり、御墓所今大石寺東南に之レ有り。」(「富要集五巻」197頁)とあります。ところがこの過去帳について堀日亨師は『富士日興上人詳伝』で「現在南之坊の過去帖によっても、禅師の次に日善を繋げてあって爾来二百余年が欠けておる。」(同書、615頁)と指摘されています。ということは、ここでいう“南之坊の過去帖(帳)”は後世のものと考えられます。“御墓所”も同様です。堀日亨師は『富士日興上人詳伝』で「南之坊はいまは西坊地の最南であるが、当時は西大坊の東南隅、すなわち理境坊の北上であり、出仕道から鬼門辺にかけてあったもので、出仕道に上る子持杉の南側に格別古くはないが、南之坊の墓碑がある。「御墓所今大石寺東南に之有り」との精師の記の位置に誤りはないが、いまの碑石はその後のものである。」(同書、615頁)と指摘されています。つまり墓碑はずっと後世のものであり日禅師が本当に南之坊で亡くなったのか疑問であるということになります。

南之坊遷化説とは別に東光寺で亡くなったとする資料もあります。宮崎英修氏は『日蓮聖人遺文辞典 歴史編』(昭和60年、身延山久遠寺、861頁)の「日禅」の項で、「日禅は東光寺において元弘元年(一三三一)三月十二日寂。」としています。元徳三年は八月九日に元弘元年に改暦されていますので三月ですと“元徳”が正しいということになります。それはともかく、ここで東光寺とされた根拠の文献がよくわかりません。『日蓮聖人遺文辞典 歴史編』の「日禅」の項には参考文献として、『富士門家中抄』中(『富要』五巻)、堀日亨『富士日興上人詳伝』、『日蓮宗寺院大艦』の3点を挙げていますが、そのいずれも(「家中抄」は「日禅伝」の項、『日蓮宗寺院大艦』は「東光寺」の項)が日禅師は南之坊で遷化されたとしていて東光寺で遷化されたとは書いていないのです。但し、「家中抄」の「日助伝」(「富要集五巻」222頁)には、「河合の妙光寺と東光寺は由井一家ノ菩提所なる故に日禅住持し給ふ、元徳三年三月十二日日禅終焉の後は日善住持なり」と日禅師が東光寺で遷化されたと示唆する内容を記しています。河合の妙光寺については、「妙光寺は今の妙興寺で河合に現存するが中世延山に転派しておる」(『富士日興上人詳伝』615頁)とあり妙興寺のことです。但し妙興寺は、建武2(1335)年(日禅師が亡くなって4年後)に焼失、元禄年間に再建(『日蓮宗寺院大艦』498頁)されたとあり、かつ妙興寺歴代に日善の名前がないことから日善が妙興寺の住持であったか疑問です。なお、『日蓮宗寺院大艦』によれば妙興寺の開山は日興上人で日禅師は二世です。
東光寺は日禅師の開山で二世は日善ですが三世〜十四世は不明となっています。(『本門寺並本末寺院縁起』(昭和57年、大本山本門寺、261頁)つまり日善の後二百年程度が欠けているのです。この内容は先の堀日亨師による南之坊過去帖の内容、「現在南之坊の過去帖によっても、禅師の次に日善を繋げてあって爾来二百余年が欠けておる。」と同じであることに驚かされます。南之坊と東光寺の両方とも開山日禅、二世日善となり、そのあと二百年くらいが欠けているということです。日善は至徳元(1384)年三月十九日の御遷化(「家中抄五巻」223頁、西暦は引用者)とされていますから、日禅師もしくは日善の寂年後東光寺は無住(住持は重須で兼務か)となり、それから約200年後、天文から天正年間のころ再建されたのではないでしょうか。
 東光寺遷化説もあまり確実な資料を見出せませんでした。しかし上記考証から、南之坊遷化説と並び有力な説であると考えます。

1015彰往考来:2005/01/01(土) 16:25

禅師授与漫荼羅の動向について〔3〕

日禅師の南之坊遷化説をとれば、禅師授与漫荼羅は大石寺に伝わったとすべきですし、東光寺遷化説なら東光寺に伝わった可能性が大です。可能性が大というのは、東光寺は重須本門寺の末寺ですから、もし東光寺が無住となっていたら禅師授与漫荼羅のような重宝は本山である重須本門寺に引き上げられた可能性も否定できないからです。
さて、私は東光寺遷化説をとりますので禅師授与漫荼羅が東光寺に伝わったとして考察を続けます。
スレッドの874でれんさんが、
>重須七代日国師の「定書」には「予ノ代ニ従上野御正筆御本尊一補買徳之御本尊一補」云々とあり、日国師が上野から蓮師曼陀羅を求め得て重須に所蔵したことが記されています。上野が石山であるなら、もしかしたら日国師が上野から買い得た蓮師曼陀羅とは禅師授与曼陀羅ではなかったかと私は推測してます。

と重須七代日国師の「定書」を紹介し、重須本門寺が大石寺から禅師授与漫荼羅を購入した可能性を指摘されています。もっともれんさんはスレッドの878で、
>日国師の「定書」(日興門流上代事典P632所収)には「天文第伍天丙申十月廿九日」とありますから、天文五年(西暦1536年)ですね。年代としては石山十三代日院師の代ですね。もっとも「従上野御正筆御本尊」=日禅授与曼陀羅かとは私の単なる推測で想像の域を出ないことは申し添えておきます。

と単なる推測である点を注意し、さらにスレッドの888では
>上野には石山と禅師建立の東光寺があります

とこの考えの2つの問題点、すなわち
(1)上野=石山か?
(2)「従上野御正筆御本尊」=禅師授与漫荼羅か?
をれんさんが認識され、東光寺の可能性を指摘されているのはさすがというほかありません。ただ、上野=石山ならば石山にはほかにも御本尊があるので上野=石山だけで「従上野御正筆御本尊」=日禅授与漫荼羅であると証明することはできません。もちろん否定はできません。集合理論でいう十分条件であるからです。

ここで注目すべきは日国師の「定書」でいう重須本門寺が上野から「従上野御正筆御本尊」を購入した時期と、東光寺が再建されたと推測できる時期が一致する可能性が高いのです。両方とも日禅師が亡くなってから200年強のことなのです。もし、
(3)上野=東光寺  であれば、
(4)「従上野御正筆御本尊」=禅師授与漫荼羅 となります。東光寺は禅師授与漫荼羅以外の所蔵がまず考えられないので集合理論でいう必要十分条件を満足するからです。

なぜ東光寺は禅師授与漫荼羅を重須本門寺に売却したのかという疑問にも答えることができます。もちろん推測ですが、寺院の再建には資金が必要だからです。
『本門寺並本末寺院縁起』の東光寺の項(252頁)には東光寺が寺宝として日興上人筆本尊を所蔵している旨の記載があります。恐らくこの漫荼羅を東光寺の本尊としていたのではないでしょうか。ちなみにこの日興上人筆本尊は『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)のNo.294にリストアップされていますが、年号不詳で典拠は『本門寺並本末寺院縁起』とあるのみです。図版等詳細は不明なので模写の類である可能性もあります。

1016彰往考来:2005/01/01(土) 16:26

禅師授与漫荼羅の動向について〔4〕

なお、禅師授与漫荼羅はもともと重須に伝わっていて盗難事件により重須から紛失したという説があります。(当スレッドの891で空き缶さんがまとめておられますが、空き缶さん自身は懐疑的なようです)重須での御本尊盗難事件は正中2(1325)年11月12日とされています。これは日代八通の譲状の第4番目(堀日亨編『富士宗学要集第八巻史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、162頁)に記載された内容によるものですが、日代八通の譲状そのものが偽作の疑いが濃厚ですので盗難事件はなかった可能性が高いと考えます。
仮に盗難事件があったとしても、日禅師が亡くなられたのは元徳3(1331)年である(『富士年表』昭和56年、富士学林、77頁)ことから、少なくとも禅師授与漫荼羅は大石寺南之坊か東光寺におられた日禅師の手元にあったはずで、重須にはなかったのですから盗難された重須の御本尊の中には入っていなかったと考えます。
参考までに、「日順阿闍梨血脈」(『富士宗学要集第二巻宗義部〔1〕』昭和50年、創価学会、23頁)に「嘉暦第一の暮秋には嶮難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、」とあるためでしょうか、高橋麦州氏は、「嘉暦元年(一三二六)に盗難の重宝類は還住した」(『日蓮大聖人の正義』1991年、みくに書房、128頁)とされていますが私にはどうもよくわかりません。
以上のことから、禅師授与漫荼羅は正中2年の盗難事件に巻き込まれていないという立場に立つものです。


以上の考察結果をまとめます。

①日禅師は、元徳3年(1331)年三月十12日、東光寺にて御遷化
②禅師授与漫荼羅は東光寺に伝わる
③天正5年(1577年)より少し前の頃、東光寺再建の際に禅師授与漫荼羅を重須本門寺へ売却

ということになります。なお、これは私の推測を交えた仮説にすぎないことを付記しておきます。皆様がたのご指導ご鞭撻を期待するものです。特に東光寺御遷化説は「家中抄」のように史実とは異なる記載内容の多い資料を基に組み立てていますので、導きだされた結論に説得力が欠けるのは否定できません。また、日禅師が東光寺で亡くなったとして、その段階で禅師授与漫荼羅が重須本門寺に納められた可能性も捨てきれません。

by 彰往考来

1017れん:2005/01/01(土) 17:53
彰徃考来さん
緻密な御論考に接し、非常に勉強になっております。引き続き御考察御披瀝の程お願い致します。
さて、彰徃考来さんが1014にてご提示の上野東光寺蔵興師筆曼陀羅について、私が平成七年に東光寺さんに問い合わせたところ、「門外不出の故」非公開とのことで、脇書のみご教示戴きました。東光寺の興師御筆曼陀羅は「十界の御本尊」にて脇書「正中二年八月二十四日」とのことです。残念ながら東光寺の興師曼陀羅は非公開のためか「日興上人御本尊集」にも収録されなかったので、真偽の程は定かではありませんが、一応ご参考のために、上野東光寺さんよりご教示戴いた同寺所蔵の興師曼陀羅の脇書を提示しておくものです。

1018犀角独歩:2005/01/01(土) 18:42

やや横道の感想ですが、精師は禅師などにも「遷化」語を使っているのですね。いまさらながら、この点には興味が惹かれました。富要を検索すると亨師も『富士史料類聚』に尊師にこの語を充てていたのは新鮮でした。
現石山の語法では「遷化」語は蓮師からの附法血脈師に限る用語で、その他の出家者には「円寂」を当てることが慣習化しています。しかし中世では、たとえば『安国論愚記』に

「一、牛馬巷に斃れ文。
仏の死を涅槃といい、衆生の死を死といい、而して天子に崩御といい、諸侯に薨といい、太夫に不禄といい、智人に遷化といい或は逝去といい、将軍に他界といい、平人に死といいまた遠行といい、牛馬の死を斃というなり。若し人、不義を行えば則ち牛馬に同じ。
 故に左伝に云く「多く不義を行えば必ず自ら斃る」と云云」

と、その用法が紹介されています。この寛師の説明はなかなか当を得ていると感じます。けれど、「遷化」と「逝去」が同義語であるというのは多少驚きがあります。

彰徃考来さんのご投稿には敬意を表しますが、以下、2点につき、ご教示いただければ有り難く存じます。(まあ、従来どおり、一方通行の疑義に答えない在り方も一つのスタイルとしてありでしょうが。ただ、当掲示板では投げかけられた疑義を無視して、次々と自分の考えだけを披瀝し続けるのは、あまり好ましいとは思えません)

一つ。論考が禅師授与漫荼羅が真筆であるという前提と読めること、また、先ごろから、わたしは疑義を呈しているように、禅師授与漫荼羅は少なくとも、2舗存するわけで、投稿はそのどちらをさしているのか、読み取れません。どちらでしょうか。また、真筆であるとすれば、興師加筆前後の動向が読み取れないこと。この点はどのように考証されているのでしょうか。

一つ。寺院建立などにおいて、寺宝を売却などという不埒な行為が、再建の糧とされるなどということはありえるのでしょうか。

ここは、研究発表の場というより、まったく疑義に答えず、ただ持論だけを一方的に投稿するという在り方は改めていただければと、個人的には希望します。併せてお願い申し上げるものです。

1019彰往考来:2005/01/04(火) 13:32

れんさんへ、

1017での過分な励ましと貴重な情報提供誠にありがとうございました。
こちらこそれんさんをはじめ皆様方の文献探索は勉強させられます。
それにしても東陽堂や国会図書館のコピー代は高いですね。お小遣いがすぐに消えてしまいます。国会図書館は私もよく利用します。以前、立正安国会発行の『御門下御本尊集』をコピーしたときは古典籍の部屋だったので大変でした。最近は地方の県立図書館の所蔵本が比較的地元で簡単に借りられるようになりましたので、まずそちらを探してからというのが最近の私のやり方です。
今後ともよろしくお願いいたします。

1020彰往考来:2005/01/04(火) 13:34
1018での犀角独歩さんのご質問のお答えいたします。年末年始はネットと接続ができないところをウロウロしていましたので、ご返事が遅れました。小生の1月1日の投稿は以前書き溜めたものを、やっと1日に投稿のみできたものです。失礼いたしました。

ご質問は下記2点と拝します。
①禅師授与漫荼羅は2幅あるが論考はそのどちらか?
②寺院建立などにおいて寺宝売却などという不埒な行為が再建の糧とされるであろうか?

まず①です。問題はいつから2幅に?という点をご指摘されているものと考えます。当スレッド845で犀角独歩さんは興師在世中の可能性を指摘されています。引き続きスレッド893でも今回と同様のご質問をされています。これらのスレッドを拝読しますと犀角独歩さんはかなり古い時代から2幅であったとお考えのようです。
私は禅師授与漫荼羅が剥離表装で2幅となったのは明治の頃、北山が売りに出す前と考えますので、“2幅のうちどちらか?”というご質問には答えがないのです。なぜなら当時は1幅だったと考えるからです。また石山(大石寺)にある禅師授与漫荼羅が御真筆であるという前提(あくまで前提ですよ。確定ではありません)で考証を進めています。この前提は空き缶さんがスレッド896で述べておられるのと同じ考えで消去法によるものであり、石山のものが模写、偽筆の類である可能性を排除できるものではありません。すなわち真筆であることを証明できるものではありません。ここに非公開の壁があり、仮に“石山のものは模写であった”と証明されたなら、すべて瓦解してしまう考え方です。このような前提に基づく仮説にすぎないことを最初にご説明しておけば意見の食い違いは発生しなかったのではと反省していて、すべて私の不徳のいたすところです。なお“北山が売りに出す”という事項につき確たる史料が見あたらないのは当スレッドの過去の議論でいわれているとおりです。
恐らく大方のご意見は、禅師南之坊御遷化説であろうと思います。私はそれを否定するにたる史料を持っているわけではありません。従ってそれを否定できる立場にはありません。ただ東光寺御遷化説は南之坊をめぐる資料の不確かさというか素朴な疑問(日禅さんのお隣が日弁さん?)から論証を進めたものです。内容はすでに1013から1016にあるとおりですが、根拠とするものが内容のあやふやな「家中抄」の、それも部分的な記載では主張として弱いという観はあります。
スレッド902で問答迷人さんが触れておられるように由井正雪の模写を石山も北山もつかまされた可能性もあります。またモナリザの例のように古今東西、盗難品の返却には精巧な模写品とのすり替えの噂がたえないものです。私は他の仮説について史実に対して矛盾しない限り否定するものではありませんが疑問点について議論させていただくことはあります。私の仮説につきましても“そのような考え方もできるよね”程度で扱っていただければと思います。もし矛盾点があったり否定する史料がでてきたりで論理が破綻し修正できなければいさぎよく撤回するつもりです。失うものはないわけですから。
さて、②については、“そのようなことが有り得るだろうか”とか“単なる思いつきの域をでない”とかいわれれば確たる史料がないわけで反論のすべはありません。“このようなことが考えられないであろうか”という程度の内容ですので筆力が足りなかったと思います。ま、しかし明治34年4月9日の北山本門寺本末会決議(『本門寺並本末寺院縁起』130頁)を読むと「北山本門寺を以って總本山とす(中略)六ヶ本山は總本山推戴の擔保として其の本山の御霊宝悉皆を總本山の宝庫へ預け置く事」とあるなど北山本門寺の重宝確保にすさまじいものがあり、それらと対比するに有り得ることではないかと思います。広く一般に売るのではなく本山に奉納し代わりに資金を得るという形です。
いずれにせよ史的事実に対してある仮説をたて多くの資料がその仮説と矛盾するかどうか調べている作業の途中です。興師加筆前後の動向というか、北山のものと石山のものの加筆内容が異なる点などは考証中でして愚論を次の「禅師授与漫荼羅の動向〔4〕」以降に記載するつもりです。まだ全く書いていないのでもう少し時間をください。今後ともよろしくご指導を賜りますようお願いいたします。

1021犀角独歩:2005/01/04(火) 14:36

1020 彰往考来さん:

> (1) (丸数字は機種依存文字なんで使用を避けました)

禅師受與漫荼羅の表層剥離は近代に属することというご見解と承りました。
そう考えるのが自然なのですが、しかしいくつの‘宿題’が発生します。
そうなると、伯耆漫荼羅と呼ばれているものは、いま北山にあるものではなく現石山本ということになってしまいますね。そして、北山に戻る縁緒となった「本門寺」の文字は削損されてしまったことにもなります。そして、繰り返しになりますが、表層剥離であるのに、加筆文書に異動がある点が説明できません。この部分は剥離の際に写らなかったといえば、それまでですが、これはかなりこじ付けという印象を帯びることになります。

> (2)…北山本門寺の重宝確保にすさまじいものがあり…

この説明は、どうでしょうか。ならば、どうして、禅師授与漫荼羅が売りに出されたのでしょうか。事実と食い違っているように感じます。

返レス、感謝申し上げます。
今後ともご投稿を楽しみにしております。

1022犀角独歩:2005/01/04(火) 15:04

【1021の訂正】

誤)受與
正)授与

1024彰往考来:2005/01/06(木) 08:14

犀角独歩さん

>1021
>加筆文書に異動がある点が説明できません。この部分は剥離の際に写らなかったといえば、それまでですが

この点は鮮明な写真画像が公開されていないので詳細な検証ができずはがゆい思いですが、剥離の際に写らなかったと考えていますが、愚論を少々禅師授与漫荼羅の動向について〔6〕以降に述べたと思います。
近日中に禅師授与漫荼羅の動向について〔5〕を投稿しますが、〔5〕ではそれには触れていないので、〔6〕までご質問は保留とさせてください。

>どうして、禅師授与漫荼羅が売りに出されたのでしょうか。

これについても〔6〕か〔7〕で愚論を投稿しますので、それまで保留とさせてください。基本的には経済的理由と考えています。

本日からやっと今まで使っているPCで投稿できるようになりました。
犀角独歩さんのご質問は鋭い所をついてこられるので、相当精査してご回答しないと足元をすくわれますからね。(笑)

1025彰往考来:2005/01/06(木) 08:19
>1024

訂正です。

誤:〔6〕以降に述べたと思います。
正:〔6〕以降に述べたいと思います。

1026彰往考来:2005/01/07(金) 07:32
禅師授与漫荼羅の動向について〔5〕

スレッド1016の続きです。

〔4〕で天文5年より少し前の頃に禅師授与漫荼羅を重須本門寺が入手した、と書きましたが、もちろんこれは仮説です。ただ経緯は別にしてこのころ重須本門寺に禅師授与漫荼羅は所蔵されていた可能性が高いと思われます。そして天正9年3月17日に重須本門寺で武田勝頼らの臣により西山本門寺に重宝が奪われた事件が起こりました。(堀日亨編『富士宗学要集 第九巻 史料類聚〔2〕』昭和53年、創価学会、24頁など参照。以下本書を「富要集九巻」と略します)私はこのときに禅師授与漫荼羅も奪われたと考えています。奪われた重宝類の目録は、「本門寺目録」(「富要集九巻」20頁)に記載されていて、それによると日蓮大聖人の御本尊は「日蓮聖人御真筆漫荼羅大小弐十幅」とあります。また戻ってきた重宝目録は「本尊已下環住の目録」(「富要集九巻」21頁)に記載されていて、それによると日蓮大聖人の御本尊は「日蓮大上人御真筆漫荼羅大小十一幅」とあります。すなわち20幅の日蓮大聖人が奪われ11幅の御本尊が返却されたというものです。ただこの「本門寺目録」と「本尊已下環住の目録」は堀師が「入文に怪しむべきありて全くその正偽を知らず、単に当時の宝物の概数を知るの料とするのみ」(20頁)とありますように疑義があります。それは、
(1) 「本門寺目録」の日付が事件発生日の天正9年3月17日であること
(2) 日蓮大聖人を日蓮大上人と表記していること
(3)日興上人を日興聖人と表記していること
(4)「本尊已下環住の目録」で当時現存する徳川家康を東照神君と表記していること
などです。これらのことから「本門寺目録」と「本尊已下環住の目録」は後世のものと考えられます。なお、松本佐一郎氏は「本尊已下環住の目録」について「富要集九巻」のものとは別の『東大史料編纂所写本』を紹介しています。(『富士門徒の沿革と教義』昭和43年、大成出版社、48頁) 「富要集九巻」の底本は北山本門寺本、史料編纂所写本の底本は西山明師文庫本です。両者を比較するとかなり表記に差があるので「本門寺目録」と「本尊已下環住の目録」の2書は相当転写されたようですが表記の差詳細は本論と関係ないので略します。
以上のことから目録内容をそのまま信じることができないので検証してみます。もちろん乏しい資料を用いての作業ですから不十分であることは避けられません。
まず20幅です。これは日代八通の譲状の第4番目(堀日亨編『富士宗学要集第八巻史料類聚〔1〕』昭和53年、創価学会、162頁)に記載された内容「日興に給わる所の御筆本尊以下廿鋪」と数字が同じであることに驚きます。色々考えられますが、実態は、目録作成者が奪われた実数を把握してなく譲状に記載されていた数字を流用したのではないかと推測いたします。
返却された数11幅というのも少し変です。というのは、『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会、613頁)に「北山本門寺の聖筆十一幅」と堀師が述べていることから現在の北山本門寺所蔵数は11幅と考えられるからです。(ちなみに『日蓮宗寺院大艦』489頁には「宗祖御本尊十余幅」とあります。これもちょっと不思議ですね。たくさんある歴代のものではなく仮にも宗祖の御本尊ですよ。ちゃんと数えられないものなのでしょうか?会社で棚卸しなどをしている私には理解できませんね。) 少なくとも難を免れた鉄砲漫荼羅と禅師授与漫荼羅の2幅は返却された御本尊の中になかったはずです。鉄砲漫荼羅が強奪を免れた経緯として、『本門寺並直末寺院縁起』(112頁)には「家康公(中略)日出上人へ問ヒ給フ様ハ御本尊聖教等奪ヒ取ラレタトスレバ其山ニハ外ニ何カ陣中守ノ御守リハナキヤト、日出上人ノ申ニハ本山地内大学頭ノ什宝トシテ日蓮聖人ノ真筆漫荼羅壱幅アレバ差上ベクニ付(後略)」とあります。縁起のいうのには本山地内大学頭の什宝であったため難を逃れたというわけですが真偽は不明です。なお禅師授与漫荼羅が返却された経緯はスレッド1005〜1007で考察していますので省きます。
では実際は何幅戻ってきたのでしょうか。天正10年霜月(11月)15日の「日春請文」(「富要集八巻」174頁)には「日蓮御自筆物数合せて六拾六、此の内御筆本尊八通請取り申し候」とあります。8幅であれば現存数などと対比させて矛盾はありません。8幅の場合上記2幅を足しても11幅には1幅不足しますが、この1幅がどれであるかは不明です。

by 彰往考来

1027犀角独歩:2005/01/07(金) 20:13

彰往考来さん:

> 現在の北山本門寺所蔵数は11幅

これは違いますでしょう。
正確に言えば、亨師が11幅と言った、北山がそう言った類の話です。
この事情は各山同様で、どこでも真筆だ、お宝だというけれど、その全部が全部、真筆とは考えがたいことは今さら記すまでもないことでしょう。
亨師の見識眼はせいぜい公式見解としては、あの彫刻本尊でも真筆に数える証憑性の低いものでしょう。

1028オオモリ:2005/01/07(金) 21:32
北山本門寺で真筆といえるのは鉄砲曼荼羅ぐらいじゃないんですか。
正御影だって後世の作でしょね。

1029彰往考来:2005/01/08(土) 07:36
>1027
>1028

誤解を生じさせる書き方で申し訳けありません。ご指摘のとおりでして、
鉄砲漫荼羅しか確実なものはありません。
11幅の大半は模写あるいは剥離表装あるいは偽作の疑いがあると認識
しています。
このあたりは禅師授与漫荼羅の動向〔6〕で触れますので、次号を請う
ご期待とさせてください。9日、10日の連休で書き上げる予定です。
亨師の見識眼もご指摘のとおりです。仙台仏眼寺蔵『飛び漫荼羅』を真
筆とされているなど、エッ!と思うところはあります。

1030犀角独歩:2005/01/08(土) 12:26

彰往考来さん:

返レス有り難うございます。
飛び漫荼羅の伝説も、ドラマチックで昔は感激したものでした(笑)
わたしはこれら真偽論に関しては、けっして彰往考来さんに対してということではなく、富士門のみならず、日蓮門下全般にわたっても、かなり怒っているところがあります。もっと正直になれと言いたいわけです。

石山に限れば、だいたい亨師にしても「ふざけている」としか言いようがないいい加減さがあるわけです。この点は松本佐一郎師にしてもしかりです。
現在で言えば、たしかに正信会、とりわけ興風談所の諸師はそれは立派な古文書研究をなさっていると思います。しかし、こと本尊、特に彫刻本尊のことになるとまるで触れようとしない。この点は、日顕師に喧嘩を売った花野師に言えるわけです。あれだけ立派な研究をしておきながら、結局のところ、彫刻本尊、それから歯にくっ付いた肉が生きている件に関しては口を閉ざして何も言わない。

21世紀にもなった現在、一見して弘安2年10月のものじゃない原本を彫ったものになんら批判も加えず、まして、700年以上も前に抜けた歯にくっ付いている肉がいまだに生きているなんて言う宗派の同座しているだけで、その良識は疑われようというものです。

立派な研究をするのであれば、なおさらのこと、せめて彫刻とお肉については、しっかりとした自分の見解を陳べ、信者を騙してきたこと、生活のためには黙ってきた非を自己批判して、しかるのちに研究を発表するというのが良識・常識ある人間のやることであると思うわけです。まあ、そんな延長から、各山アナウンスの真筆申告など、これほど信頼できないものはないという印象を懐かざるを得ません。

反面、彰往考来さんは実に真面目な方であると拝察申し上げるわけです。けれど、扱っている富士門の良識・常識、さらに上古・中世の非科学的な部分まで、あまりに真面目に取り扱いすぎておられるようにお見受けします。この点はどうでしょうか。

まだ、これからご投稿なさるということで、その中途で嘴を挟むのはややどうかと思いますが、まあ、余計なことを記せば、禅師授与漫荼羅、上古資料でその存在が確認できなければ、結局のところ、売りに出されていたものが「本門寺」の文字を頼りに北山に招来したとき、そこではじめて北山方もその存在を知ったとするのが、もっとも自然な考え方であるとわたしには思えます。質問を一つ足せば、どうしてもそこまで、上古より、禅師授与漫荼羅が存在していたという前提で論を進められるのか、わたしには不思議に思えます。これらの点は、今後のご投稿で闡明になさってくれるものと期待申し上げるところです。

1031彰往考来:2005/01/08(土) 17:55

犀角独歩さん、

>1030
>扱っている富士門の良識・常識、さらに上古・中世の非科学的な部分まで、あまりに真面目に取り扱いすぎておられるようにお見受けします。

 そうでしょうか。もしそう受け取られるとすれば、私の筆力が足りないのでしょうね。
 例えば、私は「家中抄」もよほどのことがないと信じてはいません。精師の時代の現状、「今○○にあり」というようなところですね。これはまあ信じてもよいかと考えます。
 「日代八通の譲状」も私は偽筆と考えますので、その内容は??といういうわけで信じないという立場にたちます。

>上古より、禅師授与漫荼羅が存在していたという前提で論を進められるのか、わたしには不思議に思えます

 う〜ん。考え込んでしまいますね。私が言うのもおかしいですがなぜでしょうね。結局のところ、売りに出されていたものが「本門寺」の文字を頼りに北山に招来したというのも有りとは思っているのです。
 私自身の思い込みが強いのでしょうかね。上古より存在していたと考えると変でしょうかかねえ。それも有りと思いますけどね。
 直接関係ないですが邪馬台国論争も同じです。数少ない資料をたよりに、場所は九州だ畿内だとやっているわけです。
 私は関西出身なので本来は畿内説のほうが自然かもしれないのですが、実際は北九州説なのです。
 これは記紀(古事記と日本書紀)が戦前は、日本国史だったものが戦後一転してすべて作り話となり、最近は記紀の中から見直し論が出ているのと似ていると思いますね。その意味では卑弥呼=天照太神と考えていますし、天岩戸は皆既日蝕と考えています。
 もう一つ。
 犀角独歩さんと意見の食い違いのある理由のひとつは、犀角独歩さんがよく引用される『大石寺誑惑顕本書』を私が所有していないために読んでいないという点があるのではと感じています。
 幸いにも瓔珞出版さんで販売開始されましたので購入して読んでみます。

 参考まで。

 彰往考来

1032犀角独歩:2005/01/08(土) 20:06

彰往考来さん:

禅師授与漫荼羅というのは真筆であるとお考えですか。
すでにわたしは写真を発表しておりますから、他の真筆大漫荼羅と比較は可能ですね。
また、過去の宗宝調査などでも真筆と判断されることはなかった漫荼羅です。
「經」字旁、通常では「ツ」様となっているところが「ソ」となっています。
大廣目天玉の「天玉」は蓮師の筆法と異なっている点は既に指摘しました。
また市中に売りに出ていた骨董美術品であったことは彰往考来さんご自身が指摘されたことでしたね。
このような点から考えて、禅師授与漫荼羅は中世以降に造られた偽筆であるとも考えられるわけですね。そうなると、それを真筆として、禅師が所蔵し、また、東光寺、もしくは南之坊との由緒を考えたりすることは、わたしはどうも納得いきません。

それは恰も、弘安3年5月前後の相貌を持つ彫刻本尊が弘安2年10月に図示された理由を一所懸命に考えるに似ています。上古から見る限り、彫刻本尊の存在は資料からは窺い知れないわけです。それはつまり、そのようなものが存在していなかったことを意味するのでしょう。

同じように、北山、もしくは石山に禅師授与漫荼羅が存在した資料がなければ、そのような漫荼羅は存在しいていなかったと考えることは寧ろ自然ではないでしょうか。ただし、資料として考えられるのは興師『本尊分与帳』ですね。ところが、ここに載る興師文章は、伯耆漫荼羅より、石山所蔵本の加筆と一致しています。そうなれば、伯耆漫荼羅(北山所蔵本)は該当しないことになりませんでしょうか。

元より、わたしは石山本の信憑性をも信じてはいませんが、どちらかと言われれば、石山本が、(仮に偽筆であり、剥離表装されたものであっても)その加筆から正本であると考えるほうが自然であるように思えます。

また、この剥離表装という点ですが、2舗に分かった段階で、加筆部分が文字が欠けたという仮説は立てることは出来ますでしょう。しかし、ならば、何故、わざわざ違えて臨模する必要があったのでしょうか。剥離表装とはまったく同じものを2舗作り出す技法ですね。なのに敢えて加筆部分を換える必要などあったのでしょうか。この点の説明が剥離表装を主張する場合、高いハードルになるとわたしには思えます。

1033犀角独歩:2005/01/08(土) 20:07

―1032からつづく―

なお、彰往考来さんの見解の相違は『大石寺誑惑顕本書』の読不の問題と言うより、資料に現れていないものを「ある」と思うか・「ない」と思うかの違いのように感じます。

ただそれとは別に、禅師授与漫荼羅を万年救護・戒壇本尊と、お宝に担ぎ上げているのはまさに同書です。ですから、斯くも高い評価を与えられたのが同書であれば、この‘時期’にこそ、真偽は別として、この漫荼羅はこのように考えられたと資料は読むべきではないでしょうか。それ以前に、もし禅師授与漫荼羅が「万年救護」「戒壇」本尊ということが言われていなかったとすれば、この書が、この漫荼羅にこの評価を与えた張本人であると読むべきであるとわたしには思えます。いわば、禅師授与漫荼羅を「当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊」と言い切り、保田の第16大本尊に匹敵し、石山の彫刻本尊と同じ戒壇義を有する重宝であると主張したのは実は『大石寺誑惑顕本書』の作者その人なのではないのかとわたしには思えるわけです。ただ、この思いは、それ以前の資料に禅師授与漫荼羅を「万年救護戒壇本尊」とするものがあれば、違っていることになるでしょう。

わたしの一番の関心事は、禅師授与漫荼羅に斯くも高い評価が冠せられた書が流通したときと、禅師授与漫荼羅(伯耆漫荼羅ではなく、石山所蔵本)が売りに出された時期がほぼ一致している点です。また、この時期には石山は大火に見舞われている点も留意します。「万年救護戒壇本尊」とまで賞賛されるものが、剥離表装され2分されるのも変ですし、なにより、売りに出されること自体おかしなことです。同漫荼羅を売りに出したのが阿部さんが言ったように北山であり、かつ『大石寺誑惑顕本書』が北山方の誰某かが記したものであるとすれば、まさにこの書と同漫荼羅の販売は脈絡があることになるとわたしは考えます。また、それにまんまとはまったのが石山方と言うことになるのでしょうか。両山問答では、たしか、この書が投げ込まれたのを讃岐本門寺であるとしていたはずで、当時また、三寺三つ巴の確執もあったと読んだ記憶もあります。

(参:霑師云「先年貴山の先住日信師より讃岐法華寺へ御投与なりし御書とて大石寺誑惑顕本抄と題せるいと珍らしき御名文の書を此の頃始めて拝見」)

まあ、そのような点で、禅師授与漫荼羅を読み解くうえで、この書は必読書と言えようかと思います。

また、同書は禅師授与漫荼羅について陳べ、石山彫刻本尊日有偽造論を展開するばかりではなく、もっと興味が惹かれる物語で始まっています。それは何かといえば、先に名の挙がった「鉄砲漫荼羅」を石山が自分たちが買い取って所蔵していると主張しているという書き出しになっています。また、鉄砲漫荼羅と「神君」との物語はここに載るので、彰往考来さんには禅師授与の件と共に、こちらも興味を惹かれることでしょう。
読後のご感想を楽しみにしております。

1034愚鈍凡夫:2005/01/08(土) 23:12

横レス失礼します。う〜ん。
「本門寺」=「北山」・・・・・。少し首を傾けてしまいました(アヤヤほど可愛くありませんが・・・・・。なにぶんオッサンですから)。 ( ̄ヘ ̄)ウーン
別に禅師漫荼羅を「本門寺」に返すのであれば、「西山」でも良かったのじゃないでしょうか・・・・・。
「北山でなくっちゃダメっ。と言う理由が分かりません」
禅師漫荼羅が、本来「北山」にあったという確たる証拠が希薄であると思うのは小生だけでしょうか?

1035犀角独歩:2005/01/08(土) 23:56

> 1034

いやいや、愚鈍凡夫さん、わたしもそう考えます。

1036愚鈍凡夫:2005/01/09(日) 11:15

あっ犀角独歩さん、どうも。
禅師授与漫荼羅の経緯について、以前、空き缶さんに質問したと思いますが、未だに釈然としません。

1037犀角独歩:2005/01/09(日) 11:28

> 1036

あ、そうでしたっけ。空き缶さんとそんな遣り取りがありましたっけ?

1038愚鈍凡夫:2005/01/09(日) 12:41

はい。(⌒^⌒)b
確か、何故日禅師が蓮祖に賜った漫荼羅が重須に存在するのか。そして、自身が建立した寺院の重宝にしなかったのは何故かといった質問だったと思いますが・・・・・。 (^^ゞ

1039犀角独歩:2005/01/09(日) 14:20

まず、自己レス。1032に『本尊分与帳』と記しましたが、正信会『日興上人』(継妙新聞社)によれば、「一般に略称として『本尊分与帳』と称する向きもあるが、これは間違い」(P365)で、『弟子分帳』が略記としては正しいとのことでした。

ただ、「弟子分与申」という題名、「でしぶんにもうしあたふる」と読むそうですが、わたしは「弟子に分け与え申す」のほうが自然な気がします。ここを「弟子分に申し与ふる」とするのは、本文中の「申し与ふる」となっているからでしょうが、題名では「…與申」で本文では「申與」の相違があります。その他、思うところはありますが、いまは記さないことにします。

さて、愚鈍凡夫さん、疑問とされるところは、わたしも同意するところです。
ただ、もう少し突っ込めば、先に記したとおりで、いまある禅師授与漫荼羅は?と疑問符が付くわけです。

まあ、それは置くにしても『弟子分帳』に「申し与ふる」と言い、禅師の下にあることが明言されているわけですから、たしかに北山にあればおかしなことになりますね。

わたしはここいらのところは、どうも不案内なのですが、御筆漫荼羅への興師の加筆と『弟子分帳』の記載の一致(たとえば、禅師授与漫荼羅(石山蔵)と弟子分帳は一致)は、つまり、興師が自ら御筆漫荼羅に加筆したものをまとめたのが『弟子分帳』であるという関係なのでしょうか。

興師の弟子は蓮師滅後、漫荼羅を興師の下に持参し、もしくは興師が尋ね、そこに加筆し、今度は興師が与え申すことで、師弟子関係を再契約するような意味がそこにあったのでしょうか。どうもこのようなやり方は判然としません。もし、蓮師を継いだ次の師として興師が加筆ということであれば、その次の師も・その次の師も…とでもなりそうですが、そうはならなかったわけですから。蓮師聖筆に、躊躇いなく筆を入れることは、(いろいろ言い訳がましい文章はありますが)なかなかのことですね。合理的な措置なのか、祈祷的な意味なのか、どうも斟酌しかねます。

まあ血脉両抄なんかでも後代の書き込みは多数あるわけですね。
わたしが学生のときに読んだ池田さんの講義では「後代の書き込みは歴代上人のもので、血脈相承の方の文であるから大聖人の仰せと同様に扱う」なんて内容であったような記憶があります。まあ、そんなことと同様の意味があるのでしょうか。でも、そうなると興師の代で終わりとなれば、当時はそんな考えはなかったことになりますね。

話は横道にそれましたが、興師自ら「申與」と記した以上、その手元になかったことだけは確実でしょうか。となれば、北山に禅師授与漫荼羅が招来したのは、やはり古美術経由のときとなりますか。彰往考来さんのご投稿が楽しみです。

1040おおい:2005/01/09(日) 21:05
だあれも、犀角独歩さんの日禅曼陀羅原本説に反論しないの?

1041犀角独歩:2005/01/10(月) 00:59

おおいさん、はじめまして?
何で煽りますか?(笑)

1042彰往考来:2005/01/11(火) 07:41

犀角独歩さん

>1032 >1033> 1039

色々とレスをいただきありがとうございます。
『大石寺誑惑顕本書』を読んでみないとなんともお答えしがたいところが多々ありますね。
すでに発注していますので、読ませていただいたあと議論させていただきたいと思います。

禅師授与漫荼羅が真筆であるかどうかの判断は私には難しいですね。
これは以前犀角独歩さん自身もどこかのスレッドで述べておられたと思いますが、真贋判定は相当スキルが必要ですし、仮にも間違った判断をすると大変です。
ただ広目天玉の天玉ですね、これについては私は別の考えを持っています。現在Photpshopなどの画像処理ソフトを使いこなす練習中でして、おいおい興味のあるデータが出てくると自分自身に期待しています。
しかしこれは>1040でおおいさんが呼びかけておられることに呼応するものではありません。
私は彫刻本尊はパッチワークであるとの犀角独歩さんの説に反論する気はありません。
なぜなら基本的な論理構成はそのとおりだと考えるからです。でも細部では異論もあり、これについては今後熱のこもった議論になることを期待しています。
犀角独歩さん、よろしく!

>北山に禅師授与漫荼羅が招来したのは、やはり古美術経由のときとなりますか。

おやおや、ひょっとして私は犀角独歩さんに“動執生疑”を起こさせている?
イヤ、まさかそのようなことはありますまい。(笑)
あの、弁舌さわやかな論客犀角独歩氏がそのような・・・。

引き続き投稿いたしますが>1024で述べました加筆に移動がある点などは次回以降になります。

管理人さんへ、

いつも掲示板を利用させていただきありがとうございます。しかんせん長文の投稿をさせていただいていますので、なにかご指摘事項がありましたらメールででも連絡ください。
私も富士門流信徒の前向きな議論を期待しているものです。

彰往考来

1043彰往考来:2005/01/11(火) 07:43

>1042

すみません。訂正です。

誤:Photpshop
正:Photoshop

1044彰往考来:2005/01/11(火) 07:46

禅師授与漫荼羅の動向について〔6〕

スレッド1026の続きです。

〔5〕で天正10年霜月(11月)15日の「日春請文」により重須本門寺に8幅の御本尊が戻ってきたとしました。今のところこの「日春請文」にでてくる8通(8幅の意味と思います)という数字が一番信憑性があると考えています。なぜなら数字に矛盾がないからです。もちろん8幅であったことが確実とまではいきません。さらに〔5〕で現在重須(北山)本門寺には11幅の日蓮大聖人の御本尊があるとしました。11幅あるといっても立正安国会の『御本尊集目録』に入集している北山本門寺蔵御本尊は鉄砲漫荼羅(第33番目)だけですから大半は模写、偽作の疑いのあるものです。11幅という数字も確定的なものではありません。なにせ『日蓮宗寺院大艦』や富士山本門寺根源公式サイト
http://park16.wakwak.com/~honmonji/
にあるように北山本門寺の公式見解(?)は“十余幅”ですから実際のところ現在何幅所蔵されているかは不明です。可能な限り詳細をみてみましょう。「富要集八巻」などの文献にでてくる北山本門寺蔵御本尊は以下のとおりです。〔〕内は記載のある資料名の記号です。

(1)建治2年2月(鉄砲漫荼羅)     〔A,B,C,D〕
(2)建治2年卯月            〔A,C〕
(3)建治2年8月13日(亀弥護りなり) 〔A,C〕
(4)弘安3年3月(石川新兵衛授与)    〔A,C〕
(5)弘安3年5月9日(禅師授与)    〔A,B,C〕
(6)弘安3年11月 (子安漫荼羅)   〔A,B,C〕
(7)弘安4年10月(俗平太郎□□□)  〔A,C〕
(8)文永5年5月27日(京極光綱授与) 〔B〕
 <資料> A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
      B:『本門寺並本末寺院縁起』
      C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
      D:山中喜八編『御本尊集目録』
となって11幅中8幅の情報が得られましたが「富要集八巻」に入集しているのは7幅です。
(8)は文永5年ということで佐前のものであり、偽筆の疑い濃厚なものです。そのためかAやCには入集していません。北山に11幅あるとして、3幅の詳細が不明ですがこの3幅は箸にも棒にもかからない代物なのでしょう。(もし反論のある方は資料なり写真なりをご提示ください。)Bは縁起のあるもので、これだけで真偽判断はできませんが、縁起がある御本尊は無い御本尊より重須(北山)本門寺が重要視していた御本尊なのでしょう。怪しげな代物では出開帳の目玉にならないと考えます。その点を踏まえ資料としてとらえました。真偽の議論とは別の観点です。CはAと同一であることから、Aの記載を履修しているものと判断されます。
先に述べたようにDに入集しているのは(1)のみのため、(2)から(7)は危ない(御真筆ではない疑いが濃厚)ということになります。(8)は論外でしょう。稲田海素師も「祖書讃仰史談(第四回)」で、「重須では興師存命中に盗難に逢ひ、十代日殿の時には武田勝頼の臣下抜刀して乗込み寶蔵を開けて重寶を持出された為に目星い重寶は無くなり、以上の物(引用者注:御真蹟一(上野殿御書断片)、興師寫本十一、日澄寫本十二、日順寫本、御真蹟断片六)は幸いその厄を逃れたものであるとの話であった。成程こゝには宗祖の御本尊と稱するものも数幅あるが、鐵砲曼荼羅一幅を除いては悉く疑はしい。」(『大崎学報 第89号』昭和11年、111頁)と述べています。となると、今更なにをくどくど検証しているのだ早く進め、とお叱りを受けそうですがもう少しお付き合いください。

1045彰往考来:2005/01/11(火) 07:47

禅師授与漫荼羅の動向について〔7〕

さて、上記のうち4幅の御本尊((2)(3)(5)(7))は「富要集八巻」などで重複所蔵がみられます。ということは模写もしくは剥離表装などの可能性が高いということになります。そこでそれぞれ資料ではどのようになっているか整理してみました。
<資料>は A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
        B:『本門寺並本末寺院縁起』
        C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
       D:山中喜八編『御本尊集目録』
        E:日目上人奉賛会『御本尊集 奉蔵於奥法寶』  です。

まず(2)の建治2年卯月御本尊は、
北山本門寺 〔A,C〕
藤本勘蔵(勘吉) 〔C,E〕
の2箇所に所蔵されています。両者が同じ御本尊に基づくものであるかは不明です。ただ藤本勘蔵氏所蔵御本尊は資料E(平成12年覆刻版、8頁)によりますと裏書に、

「宗祖日蓮大聖人
御真筆御本尊ニ相違無者也
明治卅三年八月九日 五十六世日応花押」

とあります。ここで出てくる日応師とは、あの『河辺メモ』で禅師授与漫荼羅とともに華々しく登場した富士大石寺56世大石日応師です。応師・・・ちょっと何かありますね。
空き缶さん(現在のHNは名無し@富士門流さんでしたね)が当スレッドの907で、北山が御本尊を売りにだしたという記録になるのではないかということで「奥人第3号8頁」(『奥人(全)』(平成13覆刻版、興門資料刊行会))にある藤本家文書の日応上人御状を紹介されています。これは日付が(明治)三十三年七月二十五日であることと藤本勘吉氏宛であることから禅師授与漫荼羅に関するものではなく建治2年卯月の御本尊に関するものであると思います。この御状のすぐ後に藤本氏へ当該御本尊が渡ったと考えます。『奥人』の記録から応師の紹介で明治33年に藤本氏が御本尊を購入したことは確実で、出処は禅師授与漫荼羅と同じ北山本門寺であると推定します。以上の考察から、どちらかが模写あるいは剥離表装ではないかと考えるわけです。
法道院が禅師授与漫荼羅を所蔵するようになったのは明治43年6月です(『法道院百年史』平成10年、日蓮正宗法道院、151頁)から実にその10年も前の出来事です。

追って応師が絡んだ御本尊を別途整理します。その時点で色々解ってくるでしょう。
末筆ですが空き缶さんの日応上人御状に関する資料調査に敬意を表します。資料調査は本当に大変で私も一日それに費やすこともありご苦労は察するものがあります。反面よい資料を探し出せた時の喜びは例え難いものです。

1046彰往考来:2005/01/11(火) 07:48

禅師授与漫荼羅の動向について〔8〕

次に(3)建治2年8月13日(亀弥護りなり)の御本尊です。これは、
北山本門寺 〔A,C〕
日向定善寺 〔A〕
大阪市某家 〔C,D〕・・・Dの39番
の3箇所に所蔵されています。3箇所ということで、重複分は剥離表装ではなく模写の疑いが濃厚です。剥離表装で3つに分けるというのは困難と考えるからです。
資料D(『御本尊集目録』)の第39番目注記には、「日向国某寺(引用者注:日向定善寺)の所蔵にかかる建治二年八月の御本尊は当御本尊の摸写と推定されるが、その御花押の円内に『亀弥護也』という四字を在し、かつ広目・増長二天の配座をみない。当御本尊の広目、増長二天は、恐らくは後人の加筆なるべく、授与書はこれを削損したもののようである」とあり、日向定善寺蔵のものは模写とされています。また「富要集八巻」(215頁)によれば北山本門寺蔵御本尊の「亀弥護也」の四文字は他筆とのことです。
大黒喜道氏の『日興門流上代辞典』(2000年、興風談所)の「亀弥」の項(113頁)には「今、それぞれの複写を拝すると、北山本門寺蔵御本尊も模写と判断され、その順序を考えれば、まず宗祖正筆を模写したのが北山蔵本尊であり、その北山蔵模写本尊をさらに模写したのが定善寺蔵本尊と考えられる」とあります。また大黒氏は当本尊と一連のものと考えられる38番、40番にそれぞれ授与書が存在することから、「本来存在した「亀弥護也」の四字は、北山蔵の模写本が作成された後に、何らかの理由で削損されたものと推測される」(同書、113頁)としていますが果たしてそうでしょうか? 
私はDの39番しか拝見していないので異論を提するのは恐れ多いのですが、あえて愚論を披露すると、日向定善寺のものは模写、北山のものは大阪市某家蔵とペアの剥離表装ではないかと考えます。
大黒氏の記述によると、3幅の相違は、大阪市某家蔵 > 北山蔵 > 日向蔵 の順で似ているということです。私は大阪市某家蔵 ≧ 北山蔵 > 日向蔵 ではないかと思うのです。つまり某家蔵と北山蔵はほどよく似ているが、これら2幅と日向蔵はあまり似ていないのではないかと思うわけです。そうであれば山中喜八氏が資料Dで日向定善寺蔵のもののみを摸(模)写とされ、北山本門蔵のものについては触れられていなのも何となく解る気がするのです。また日向定善寺蔵のものは資料Cに入集していません。模写と判断されているのでしょう。北山蔵のものが資料Cに入集しているのと対象的です。但し、北山のものに限っては結果的にA=Cという内容になっています。資料Cは日蓮正宗の山口範道師によるものですから山口師が北山のものを拝見できたか不明です。日向定善寺は日蓮正宗ですから山口師は少なくとも写真は拝見できたと考えます。よって日向蔵を模写とされたので資料Cに入っていないという考えはまず間違いないでしょう。なお、資料Cを読む限り山口師は剥離表装品も真筆として扱って入集させておられるようです。
さらに、北山蔵のものに授与書があり某家蔵では削損されているのは禅師授与漫荼羅における「本門寺・・・」の加筆部分に対する扱いと同じ現象です。剥離表装の際に正本のほうは授与書を削損して出処を隠すということでしょうか。
北山蔵が某家蔵の剥離表装により作成されたとの考証は私の仮説です。北山蔵、日向蔵とも模写である可能性も高いことを念のため付記しておきます。

引き続き『禅師授与漫荼羅の動向について〔9〕』で禅師授与漫荼羅の加筆部分の表記差などについて私なりの考察を加えたいと思います。肝心なところは次回投稿となりました。一生懸命やっているのですが、なかなか筆が進みません。お詫び申し上げます。

by 彰往考来

1047犀角独歩:2005/01/11(火) 09:53

彰往考来さん:

>…“動執生疑”を起こさせている?

となれば、を彰往考来さん疑断生信していただくことを期待しましょうか(笑)
ただ、基本的に言うと、彰往考来さんがなさっているような、類推考証は人文科学の結論ではありませんが、幾重にも紡ぐことができるので決定打はないであろうと思います。
けれど、日々新たで、発見があれば、書き換えればよい。ただ、それだけのことです。
過去に自分はこういう発言をしたというコミットメントに固執して、真実を認めないというのが一番の愚であるとわたしは思っています。
まあ、そんな意味で、納得のいく、確実な資料分析があれば、傾聴し、さらに考えを改めることになんら躊躇はないというのがわたしの在り方です。わたしに疑断生信させてくださることを期待します。

なお、石山の禅師授与漫荼羅は伯耆漫荼羅とは相貌その他は違っている・模写である・剥離表層ではないと、その写真を所有している人が述べているようですね。彫刻本尊・禅師授与漫荼羅、その両方の詳細の写真を持っている在野の研究者がいらっしゃるとのことです。

1048犀角独歩:2005/01/11(火) 11:32

今さらという感じですが、模写を考えるうえで亨師(水鑑沙弥)『化義抄註解』の一節は看過できないところがあります。すなわち

「此の判形こそ真仮の分るゝ所…大曼荼羅には殊に判形を尊ぶこと唯一絶対の尊境なるを以つてなり…後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写し給ひて更に模写の判形を為されたるもの」

この亨師の註解を見る限り石山の歴代住持が御筆漫荼羅の模写をなし、「在御判」とするのではなく、花押まで模写した漫荼羅が存在していることを示唆しているように思えます。信仰面の血脈相承といった規範に基づけば、このような模写(書写ではなく)本尊もまた、蓮師御筆と取りはからったであろうことは容易に想像がつきます。
このような住持模写本尊は(飽くまで信仰面での話ですが)模写もなく、贋作でもないわけで、当然、人づてに伝聞するときも御筆漫荼羅と称することになったのでしょうか。

現代は写真・複写が発達していますから、それを見ればよいわけですが、それ以前は模写に拠るしかなかったわけですね。また、臨模・作為、さらに書写本尊でも、直ちに信仰の対象であった事情もあります。こうして転写されたものを語るときには、常に信仰のオブラートに包まれるわけですから、模写も真筆として扱われ、そう語られたことは、考慮しないと思わぬ誤謬が生じることになるが注意されます。

『悪書板本尊偽作論を粉砕す』のなかで精道師(のちの達師)は花押の運筆に関する石山の自信を見せていましたが、いったいこの自信はどこから来るものであったものでしょうか。

1049名無し@富士門流:2005/01/11(火) 11:53

犀角独歩さん、今日は。

>石山の禅師授与漫荼羅は伯耆漫荼羅とは相貌その他は違っている・模写である・剥離表層ではないと、その写真を所有している人が述べているようですね。彫刻本尊・禅師授与漫荼羅、その両方の詳細の写真を持っている在野の研究者がいらっしゃるとのことです。

私もこの話しを耳にしました。
どうも「東哲研」やS会大幹部などではなく、あの新階氏らと同様のS会地域役員の人物だとか。

ここの記述をみますと、今年中には出版?でしょうか。

http://fboybbs.dip.jp/

1050犀角独歩:2005/01/11(火) 12:01

1042 彰往考来さん、追伸です。

> 現在Photpshopなどの画像処理ソフト

わたしが鑑別に用いた技法を模倣・踏襲して、異を唱えてくださるとはなかなか頼もしいですね。まあ、楽しみにしております。

1051彰往考来:2005/01/11(火) 17:20

>1050

そうですね。相手と同じ武器であるなら、難攻不落の“犀角独歩城”を落城させることはできないかもしれませんね。
「弘法は筆を選ばず」といいますが、凡夫の身ではとてもとても。
作戦の練り直しですね、これは。秘密兵器を探します。

彰往考来

1052公務員試験不合格者の末路:2005/01/11(火) 17:29
公務員試験不合格者の末路
http://hugoukaku.nobody.jp/

1053愚鈍凡夫:2005/01/11(火) 19:52

横レス失礼します。

単純にこう考えられませんでしょうか。
北山で、「万年救護本尊」とも「戒壇之本尊」とも称される「禅師授与漫荼羅」は、家康の命を救ったとされる「鉄炮漫荼羅」よりも価値が低かった。故に売りに出された・・・・・。と言うことでは。 (-。-;)
何故、価値が低いのか・・・・・。売った本人が偽作であることを知っていたから。

こんな仮説はどうですか?

1054おおい:2005/01/11(火) 21:04
>1053
座布団1枚!

1055犀角独歩:2005/01/12(水) 00:00

彰往考来さん:

おお、秘密兵器ですか。
それは、重ねがさね楽しみです。

1056犀角独歩:2005/01/12(水) 00:02

愚鈍凡夫さん:

わたしは、この仮説には賛成です。
というか、『大石寺誑惑顕本書』と売りに出されたタイミングが一緒というのは、どうにも変ですね。となれば、これは確信犯じゃないのか、と思うわけです。

1057犀角独歩:2005/01/12(水) 00:13

名無し@富士門流さん:

さすが情報通ですね。
本年中に出るとすれば、それは大いに歓迎です。
しかし、この手のウラの取れない話は、実はわたしの元にはごまんとあります。
三学無縁さんともよく語り、笑っているのですが、どっと書いてしまいたい衝動に駆られます。しかし、自分で証拠主義と線を引いてきた以上、そうもいきません。まあ、しかし、ウラの取れない噂話、一挙に放言なんて本は面白いでしょうね。まずはオフ会で開陳…、というところでしょうか(笑)
…まあ、そうなると、近々、オフ会を開催したいなんて思っています。
話は横滑りしますが、そうなると、管理者さんにはぜひともご参加いただきたいと思うわけです。もちろん、名無し@富士門流さんともお会いしたいのですが、叶うでしょうか?
最新の画像を皆さんにお見せしたいと思っております。
また、現在、不死鳥のように蘇ったとある学者さんの講演なんかも企画したいと。
しかし、今月は予定が目いっぱい詰まっています。2月早々に開催したいですね。
…、やや、酒が入っております。話しがスライドしました。失礼。

1058犀角独歩:2005/01/12(水) 00:27

あ、そうそう。おおいさん、はじめまして?
ご挨拶をしておきます。

1059彰往考来:2005/01/12(水) 07:56
>1055

いやいや口だけです。
それはそうとオフ会には私も参加したいですね。

彰往考来

1060犀角独歩:2005/01/12(水) 08:22

オフ会の話題に就き、該当スレッドに移動します。

1061愚鈍凡夫:2005/01/12(水) 15:17

>>1054:おおいさん、初めまして。
座布団有り難う。 (^_^)v

>>1056:犀角独歩さん、ご賛同頂き有り難うございます。 (*^_^*)
何ですよね、根本に横たわる素朴な疑問が、実はとてつもなく高いハードルだったってこと、以外にありますよね。

1062犀角独歩:2005/01/12(水) 18:24

愚鈍凡夫さん、そうなんですよ。

> …根本に横たわる…

このもっとも確認すべき点を等閑にして事実として扱うことによって成り立っている世界に当たり前のように生きてきた習気が、なかなか抜けないんですよね。

1063彰往考来:2005/01/12(水) 18:39
>1053

う〜ん。そうとも考えられますね。ただ「鉄砲漫荼羅」は有名であり、かつ特徴があることから出処を隠しては売り難いですね。
これがあの有名な「鉄砲漫荼羅」でござい、と北山自身が売れば別でしょうけど。

1064愚鈍凡夫:2005/01/12(水) 20:01

>>1063:彰往考来さん、初めまして。

でも、
「鉄炮漫荼羅」の名は有名でも、実物を見た人は関係者以外、そんなにいないんじゃないでしょうか。
今の時代ならインターネットで簡単に写真が見られますが、昔ではそんなに簡単に見れないでしょう。
だから、少し細工を施せば、代役を立てることだって可能なわけですから、もったいなくも「万年救護本尊」を売りに出さなくても良さそうなものではないでしょうか?
もっとも、当時、「鉄炮漫荼羅」こそが「万年救護本尊」であるとの新説が出ていれば、「禅師授与漫荼羅」を売りに出してもかまわなかったでしょうけど・・・・・・。そんな話、聞いたことないし・・・・・。

結局、「禅師授与漫荼羅」に関することは、後付の理論だと思います。

1065彰往考来:2005/01/13(木) 07:37
>1064
愚鈍凡夫さん

レスありがとうございます。
2つの点があると思います。
ひとつは、江戸時代の出開帳は相当頻繁に実施されていたようです。なにせ寺院の金のなる木ですから。
もうひとつは、「鉄砲漫荼羅」は花押の部分に大きな穴があいているのです。致命的ですね。
これは徳川家康との縁起付なら価値はあるでしょうが、そうでなければ価値は大幅ダウンですね。二束三文でしょう。
保存状態の非常によい綺麗なものと、ボロボロのものや破損のあるものとの価値が違うのと同じと思います。
私は御本尊を売る場合、出処が解るものは売れないと思うわけです。
それに対して「禅師授与漫荼羅」は真偽は別として五体満足ですし、大きいですからね。

1066犀角独歩:2005/01/13(木) 09:34

禅師授与漫荼羅の北山売却は、かなりおかしなことであると思います。
先にも記しましたが、『大石寺誑惑顕本書』では「当山第一ノ重宝萬年救護本門戒壇ノ本尊」とまで書いているわけですから。これは言ってみれば、石山が彫刻本尊を売却するようなものでしょう。正式に北山持従が売却したのであれば謀略的なことでしょう。しかし、売ったのは『河邊メモ』によれば「北山の誰かが賣に出し」とあるわけで、北山本門寺としてとは特定できないことと思えます。

また、同書で万年救護本門戒壇本尊というも、それ以前では「伯耆漫荼羅」の伝承も残っているわけです。ではここで、問題になるのは万年救護(戒壇)本尊と伯耆漫荼羅は同一のものであったのかということでしょう。近代の北山では伯耆漫荼羅を直ちに万年救護本尊と呼称はしています。しかし、何せ2舗あり、興師加筆は石山所蔵本であれば、伯耆=万年救護と即断することはできないことになります。

また、鉄砲漫荼羅は同書によれば、幕末当時、石山では北山から買ったと主張してこれをご開帳していたと記されています。この記事を読むと、北山重宝の贋作を捏造して、ご開帳で石山があこぎな商売をしていた(実際、顕本書はそのように主張するわけですが)と見えますが、案外、鉄砲漫荼羅贋作を石山に売りつけたのは「北山の誰か」なのかもしれません。この記事を読み直せば、当時、鉄砲漫荼羅も北石両山にそれぞれ蔵されていたことが窺えます。もっと言い換えれば、禅師授与漫荼羅も、鉄砲漫荼羅も、それぞれ(剥離表層でなんであれ)売却用に複製が作られ複数存在していたということです。しかし、石山は同書の指摘を受け、その後、鉄砲漫荼羅贋作を引っ込めてしまったというのが流れなのでしょう。

なお、鉄砲漫荼羅には花押に穴が空いているから売り物にはならないという彰往考来さんのご意見には、わたしは反対です。この穴は、徳川家康が戦の陣前に掲げていたところ、飛んできた鉄砲玉が花押を貫き鎧に堕ち命拾いしたことから「身代わり本尊」と言われる由来になったものです。戦さの後ち、北山に返されるわけですが、この事件を家康は大いに喜び、その後、北山を数々の恩恵を受けることになったというのが、顕本書の伝えるところです。この漫荼羅は、ある面、保存状態のよい真筆漫荼羅の文字以上の価値があります。徳川家康に由来し、さらに命を救った・身代わり本尊という宗教性を帯びた穴だからです。
「致命的」どころか、ご開帳には、本尊そのものというより、この鉄砲の穴見たさに人々は集まってきたことでしょう。また、石山が贋作を作った(もしくはつかまされた)ときも、真筆と見まがう漫荼羅そのものもさることながら、リアリティをもった「神君」にまつわる花押を貫いた穴を空けてこそ価値を持ったはずだからです。

禅師授与漫荼羅に「本門寺」の文字あり、鉄砲漫荼羅に弾痕ありと、それぞれが「セールスポイント」たりえたということでしょう。

顕本書の、また、玉野志師のあの石山の非をばさばさとなぎ倒すような強い論調からすると、あの当時、北山が贋作をこそこそと作っては金に換えるような姑息なことをやっていたとは思えない気分になります。しかし、「盗人猛々しい」という言葉もあるわけで、そんな狡賢いことをやっていたが故の強気発言なのでしょうか。反面、石山は大火に見舞われ・すべてが灰燼に帰した古文書類その他の重宝類、ましてや、彫刻本尊やら・お肉など、さらに贋作の鉄砲漫荼羅のご開帳、胡散臭さは、確かに石山のほうが勝っているように感じます。こんなことに率直に引け目を感じていたのは布師。霑師はしどろもどろになりながら言いつくろいという印象の答弁が志師との遣り取り。その後、応師などは完全な居直りで口汚い強き発言となっていく…といった流れが当時の石山文書から読み取れる気がします。

1067愚鈍凡夫:2005/01/13(木) 11:59

彰往考来さん、レス有り難うございます。

> 江戸時代の出開帳は相当頻繁に実施されていたようです。なにせ寺院の金のなる木ですから。
> 「鉄砲漫荼羅」は花押の部分に大きな穴があいているのです。致命的ですね。

考えようによっては、本物そっくりのレプリカを作って、「花押の部分に大きな穴」を空ければOKと言うことではありませんか。あとは、汚しのテクニックさえ心得ていれば、現代のような精密に年代を測定できる機器がない時代ですから、相当その道に通じた人物でなければ贋作だと見破れないのではないかと思いますが・・・・・。
古いものを新しく見せるのではなく、新しいものを古く見せるのですから、技術的にはそんなに難しくはないでしょう。以前テレビで、宮大工が古い寺の柱を修復する時、創建当時の廃材を燃やして灰にし、新しい柱に何度も刷り込んで、周囲の柱の色と同化させるテクニックを披露していましたよ。
それと、穴の開いた紙の穴を判らないように塞ぐわけではなく、紙に穴を開けるわけですから難しい技術ではないと思います。

何時の時代にも、秘蔵目的で有名な書画骨董を欲しがる人物はいるものだと思います。
犀角独歩さんが>>1066で仰ってますが、「鉄炮漫荼羅」も「禅師授与漫荼羅」も、付加価値が付いていますから、その手のコレクターにはたまらない一品だと思います。

1068犀角独歩:2005/01/13(木) 14:03

なんだか、愚鈍凡夫さんと二人で、彰往考来さんに異論を唱え、1対2みたいになっていますが、決してそんなつもりではありませんので、投稿をぜひ続けてください。

「寺傳に依れば、天正10年2月、重須本門寺第10世日出上人、當時武田征伐中の徳川家康の請に因って、聖祖眞筆の大漫荼羅を陣中守護のために贈ったところ、たまたま武田勢との交戦中、銃丸飛来し、聖筆の花押部分を貫通し去ったが、家康は為に危く何を脱することができたので、同年5月10日、之を本門寺に還納し、朱印を同山に寄進して、篤く加護の恩を奉ずるところがあった。『銕炮曼荼羅』の名稱は茲に由來すると云う」(『御本尊集目録』P51)

鉄砲漫荼羅(銕炮曼荼羅)について、こう山中師は記述していますね。
言うまでもなく、『御本尊集』第33の漫荼羅です。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/033.html

穴を紙で覆って見えなくして掲載されています。
わたしは始めてみたとき、「?」と思ったものでした。
銃丸の痕を隠しているわけです。
ここから愚鈍凡夫さんが1067に投稿されたことと関連します。
「どんなふうな穴なんだろうか?、丸いのだろうか? 扁平なのだろうか? 焼け焦げているのだろうか?…」と想像を逞しくしてしまいます。

贋作を造るとき、愚鈍凡夫さんが仰るように、穴を空けると思います。
そうなると、どんな穴を空けるのか、これって、すごいポイントになるわけです。
今の時代でも『御本尊集』からレプリカを作ろうと思えば作れますね。けれど、穴の形がわからない。「画竜点睛を欠く」ではありませんが、この穴を開けなければ鉄砲曼荼羅のレプリカにならないわけですね。となると、『御本尊集』の覆い紙はなかなか心にくい配慮ということになります。

まあ、当スレッドからはやや離れますが、漫荼羅真偽ということでご勘弁ください。

1069愚鈍凡夫:2005/01/13(木) 20:40

でも何ですね、何時の時代でも偉いお坊さんの考えることは同じようですね。 (-。-;)
御開帳と称し、秘蔵の御本尊とやらを「人寄せパンダ」のように見せびらかせて、日銭を稼ぐという発想は同じなんですね。それに、寺の周囲に香具師軍団を呼んで商売させれば、文字通り寺銭も入ってくるし・・・・・。
◯◯◯丸儲けって奴ですか。 (-"-;A ...アセアセ

1070犀角独歩:2005/01/13(木) 21:56

愚鈍凡夫さん、仰るとおり。
それが古今東西変わらぬ宗教ビジネスの有様でしょう。

1071愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 05:47

犀角独歩さん、どうも。
絢爛豪華にしないと、人が集まらないという事情もあるんでしょうね。
寺院があまりにも貧乏臭いと、誰も見に来ないでしょうしね。住職に類い希な人徳があれば別でしょうが。

「鉄炮漫荼羅」について、こんな資料がありましたので紹介します。

**************************************************
鉄砲曼荼羅の霊験と本門寺堀

縁起  天正十年三月徳川家康、織田信長の命に依り武田勝頼追悼の途次、北山の陣屋井出甚之助正次の館に於いて時の本門寺貫首日出上人に謁し、上人の年齢、日出の嘉字なるを聞き武運長久の兆しなりと嘉賞せられ、陣中守護の本尊を乞う、依って当山に唯一幅残れる大聖人御真筆御本尊を授与、家康これを馬前に立て奮闘、折しも甲斐武田方の打ち出したる弾丸、御本尊御花押に的中、危うく難を逃れたり 天正十年五月勝利の帰途再び本門寺に詣で、日出上人に謁し、御本尊を返納更に武運長久を乞い、日出上人に所望するものあらば『何なりと申し出られよ』との御上意 依って上人は先代日殿上人の時武田方の暴徒に御霊宝百八十五点奪われ日殿上人断食祈願、ついに遷化せらることの経緯を具に申し出 御霊宝還住を乞い、尚且当地方の用水の実状を訴え請願す、家康家臣に命じ大聖人御真筆他御霊宝八十点を取り戻し、更に井出甚之助に命じ白糸内野郷横手沢より幅三間全長二里余り 天正十年八月朔日堀割工事起工十一月十五日通水完成、爾来昭和三十八年上水道完成に至るまで旧井出村 北山村 山宮村 万野村 外神村 宮原村 和田村の七ヶ村の飲料水 灌漑用水として重要な役割を果たした。
**************************************************

1072犀角独歩:2005/01/14(金) 09:52

愚鈍凡夫さん、1071は、どこに載る資料ですか。
内容は『大石寺誑惑顕本書』が伝えるところとほぼ同じですね。

ただ、「御本尊を返納」というところが伝説によっては家康が「預けた」といいますね。
つまり、戦勝祈願に貰ったものなので、それを返却というのは理が通らないわけです。そんなことから、「預け」ということなのだと思います。そうなると、身代わり本尊「銕炮曼荼羅」という家康公から預かり物を所持する北山本門寺と、さらに箔が付くことになるわけでしょうね。

しかし、それを自分たちが所持しているといって御開帳を石山が本当にやっていたとしたら、面の皮は厚いですね(笑)まあ、中世の事情なんて、こんな程度のものでしょうが。

あと、これは余談ですが、以上、「銕炮曼荼羅」、また、禅師授与漫荼羅を具に載せる『大石寺誑惑顕本書』、日蓮宗々学全書刊行会蒐集本として、その原稿用紙に書き取られるまでしたのに、なぜ載らなかったのでしょうか。案外、その編集委員のなかに亨師がいた遠慮から、あるいは懇願からだったのでしょうか。この点でも、わたしは興味が惹かれています。

1073愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 11:00

>>1071の説明文は、下記のサイトの「鉄砲曼陀羅」の説明文です。アドレスが変わる前は写真付きだったんですが、どういう訳か、現在は説明文のみになっています。

「富士山本門寺宝物目録」
http://park16.wakwak.com/~honmonji/houmotu1.htm

1074愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 11:26

今、>>1073で紹介したサイトの「鉄砲漫荼羅」の以前にダウンロードした写真付き説明文を見てみたのですが、写真の「鉄砲漫荼羅」は、表装してある漫荼羅の上に「葵の紋」が四つ並んでいますから、どうやら家康が北山に預けたというのが本当のようですね。
ひょっとして、このページから「鉄砲漫荼羅」の写真を外したのは、誰かからこの辺を突っ込まれたからかも知れませんね。

1075犀角独歩:2005/01/14(金) 12:11

愚鈍凡夫さん、ありがとうございます。
葵の紋で表装ですか。これは説得性がありますね。

1076愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 12:39

右肩上がりの色の変なカラー写真付ですが、よければ以前ダウンロードしたページを犀角独歩さん宛に「宅ふぁいる便」で送りましょうか。

家紋が「三つ葉葵」なのが渋いです。

1077犀角独歩:2005/01/14(金) 13:06

> 1076

愚鈍凡夫さん、ぜひ送ってください。お願いします。
何せわたしのメーラー、添付ファイルは何でもかんでも自動削除。
送信したファイルまで削除してしまう野蛮設計(笑)

1078犀角独歩:2005/01/14(金) 13:55

愚鈍凡夫さん、早々のご送信、有り難うございました。
たしかに色合いが変わっていますね。不自然といえば不自然な写真ですが、こんな感じなのでしょうか。現物を花押の前の紙をどかしていただいて、ぜひ「御開帳」いただきたいですね。

この葵の紋の配置、どこかで見た覚えがある…、と思ったら、石山山門の屋根でした(笑)

1079彰往考来:2005/01/14(金) 18:09
>1066,>1067

犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、

私の1065の書き込みで少々誤解を与えたようです。

マニアックに言えば鉄砲漫荼羅は価値があると思いますよ。徳川家康
の縁起付、ということであれば。

ただ『法道院百年史』にも記載されていたと思いますが、御本尊売却
は売主や理由(多分に経済的理由が多いのではないかと思いますけど)
を明らかにしないのが通常のようです。事実『御本尊集』に入集して
いる御本尊のうち、なぜその寺院が所蔵しているのか解らないものが
たくさんあります。禅師授与漫荼羅も『川辺メモ』によれば北山から
出たということですが、実際のところ『川辺メモ』以外に出処を明き
らかにしている資料はみあたらないというのが現状と思います。
禅師授与漫荼羅のうち石山蔵のものは「本門寺・・・」の箇所が削損さ
れているようですが、これは出処を隠すための処置だと思うわけです。
そうでなければ、わざわざ削損するでしょうかねえ。でもよくよく考
えてみれば、禅師授与ということで、出処は北山と想像はできますね。

※仕事が多忙で、暫く掲示板を見ていませんでしたので、書き込みが
遅くなりました。

1080愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 19:55

犀角独歩さん、どうも。お役に立てたのなら幸いです。
公式ホームページに載せていた写真としてはどうかと思いますが、それはさておき、一舗しか残っていない蓮祖漫荼羅を家康に授与したあと、代替の漫荼羅はどうしていたのでしょうね。
それと、現在の北山では「本堂」=「御影堂」となっていますが、確か伝説では日興師は重須に「本堂」「御影堂」「垂迹堂」の三堂を建立したことになっていますよね。これじゃ、日興師の意志に反するのではないでしょうか。もっとも、地理的には「重須」=「北山」ではありませんが。
現在の北山では、「本堂」=「御影堂」ということは、「蓮祖生御影」の後ろに「蓮祖漫荼羅」といった奉安形式ということなんでしょうかね。また疑問の虫が疼き出しました。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

彰往考来さん、お忙しいのにレス有り難うございます。

「富士山本門寺根源略図」
http://park16.wakwak.com/~honmonji/ryakuzu.htm

1081愚鈍凡夫:2005/01/14(金) 20:02

う〜ん。
HPの説明では、「蓮祖生御影」は奉安してあると書いてありますが、「漫荼羅」も奉安してあるとは書いていませんね。保田妙本寺に習って、現在の北山は御影信仰なのでしょうか(なにぶん、行ったことがないものですから)。

1082名無し@富士門流:2005/01/15(土) 00:06

愚鈍凡夫さん、今晩は。

例の「日禅授与曼陀羅」の写真が掲載されている、重須談所守拙庵学室発行・本間日諄著「集録『教箋閑古錐』」によりますと、「『生御影尊奉讃三十万人講』の結成発足により、本門寺伝統の『生御影信仰』の復活普及、本化日蓮大聖人の法華経信仰と実践行学の布教、・・・」とあるところをみますと、昔は生御影信仰があり、しばらく停滞してはいたが30万人講を結成することによって、再び生御影信仰を復活普及したい、といったところでしょうか。

立正大学中尾名誉教授の「日蓮信仰の系譜と儀礼」には、門下一般の祖師像信仰のことが詳しく出ていますが、富士門流の御影信仰と江戸時代に普及した門下一般の祖師像信仰とはニュアンスが違いますので、、、といっても、う〜ん、なんと説明すればいいのでしょう・・・所謂「厄除け祖師」のような祖師像そのものが霊験を発動する主体といいますか、富士門流の御影信仰はそのようなニュアンスのものとは違ったものと思うんですが、どうも勉強不足で言葉が見つかりません。(スミマセン)

どなたかフォローいただければ幸です。

1083通りすがり:2005/01/15(土) 00:35
愚鈍凡夫さん
今日は、北山本門寺本堂(御影堂)奉安の本尊曼荼羅は、本間住職の説明では
宗祖日蓮大聖人御筆御本尊を宮殿厨子に安置していると伺いました。
前片山住職が存命だった当時に、絵葉書(本門寺全山の写真)に開帳した際の
写真がありましたが、弘安式の本尊だったと記憶しています。
余談ですが、御殿場市にある北山末の久成寺http://www.myouhou.com/
記念寺誌を発刊して、同市の市立図書館郷土資料室に、その記念寺誌が閲覧出来
ると思いますので、参考にして見て下さい。
実成山久成寺縁起誌 1998年 314ページ

1084愚鈍凡夫:2005/01/15(土) 14:15

>>1082:名無し@富士門流さん、レス有り難うございます。

祖師像信仰といえば、真言宗の信者が御大師さんといって空海を身近な存在として崇めることと似ているようなニュアンスを感じますね。確かに言われてみれば、大日如来よりも空海の方が身近に感じられますよね。

>>1083:通りすがりさん、レス有り難うございます。

蓮祖漫荼羅も本堂(御影堂)に奉安してあるんですか・・・・・。有り難うございます。
やはり「日禅師授与漫荼羅」は広宣流布の暁に戒壇堂を建立して、そこに奉安申し上げるという段取りなんでしょうね。

お二人とも情報有り難うございました。とても勉強になりました。 m(_ _)m

「鉄砲曼陀羅」について検索していたら、関連する資料としてこんなのがありました。

「二箇の相承紛失の顛末」
http://homepage3.nifty.com/y-maki/myoukyou/nika0401.htm

1085愚鈍凡夫:2005/01/15(土) 23:20

なんとなしに、下記の記述を読んでいたのですが、石山の伝説では日興師は、200㎏を優に超える「戒壇之本尊」をお一人で身延の山奥から大石ヶ原まで運んできたことになっているのに対し、北山では日興師は「生御影尊像」を身延から奉持してきたことになっているんですね。

「日興さん、あんたは超人ハルクかぁ?」 (ノ゚⊿゚)ノびっくり!!

それはさておき、この説明では、重須の「御影堂」には「蓮祖生御影」、「本堂」には「大漫荼羅」が奉安されていたんですね。と言うことは、「御影堂」と「本堂」は別棟であったことを示唆していると思うのですが、いつ頃から「御影堂」が「本堂」を兼ねるようになったのでしょうか?
寺院のその時々の事情があるんでしょうが、「漫荼羅正意」から、徐々に「生御影正意」へと変わっていったと言うことなんでしょうね。

**************************************************
日蓮大聖人の高弟 開山日興上人は、身延を下り、広大無双の冨士南麓、重須の勝地を選ばれて、法華経本門弘通の根本道場を開創されました。
 上人は、日蓮大聖人がこの日本国に生誕せられた深いわけを広め、法華経本門の教えこそ末法の濁悪乱世を救う最第一の教えであることの真実を確信せられ、はるばる身延から奉持してこられた大聖人の御像、「生御影尊像」を永劫に生きませる御影像と崇め慕い、生涯かけて給仕報恩の誠を捧げられました。
 本門寺根源の道場を開創せられるや、この生御影尊像は御影堂に安置せられ、後生本堂と呼ばれる妙法蓮華経堂には、法主大聖人御染筆大曼荼羅御本尊を奉安せられ、ひたすら法華本門三大事の実現と、立正安国の楽土建設に向けた新教田の開拓確保と、門弟檀越の教化育成など、上人念願の初一念は着実に進められました。
(後略)

「重須本門寺御山会 生御影尊奉賛三十万人講 趣意書並びに入会案内」より
***************************************************

「生御影尊奉賛三十万人講」
http://park16.wakwak.com/~honmonji/index2.htm

1086犀角独歩:2005/01/16(日) 00:08

北山本門寺で30万人ですか。それはすごいですね。
ところで盗まれた正御影は、どんな経緯でもだったのでしたっけ?

それと、上述の議論とはぜんぜん関係ありませんが、北山本門寺は、興師の正墓をちゃんと掃除し、整備もしたほうがいいと思います。
あの荒れ果てた様は墓参に行く度に胸が痛みます。

1087犀角独歩:2005/01/16(日) 00:35

とは言うものの、目師の墓もない石山より、まだ正墓がある北山のほうがましですが。
郷師が持ち帰り、下之坊に収めた半身の目視の遺骨はどこに行ったんでしょうか?
以前、考証したとおり、いま石山で蓮師灰骨と言われるものがそれでしょうか?

またまた、余談ですが、抜けた歯にくっ付いていた肉でさえ、生きて増殖しているのに、全身を荼毘にするとは、血脈付法の興師はなんということをしたんでしょうか…お肉が本物であればの話ですが…。

1088犀角独歩:2005/01/16(日) 00:36

…間違えました。目視は目師です、もちろん。
興師血脈不法も事実なら…です。

1089名無し@富士門流:2005/01/16(日) 01:35

愚鈍凡夫さん、今晩は。

>1085

なるほど、この本門寺公式HPの記述は「集録『教箋閑古錐』」の記述と全く同じですね。

しかし、愚鈍凡夫さんの情報収集力はすごいですね。

1090愚鈍凡夫:2005/01/16(日) 19:58

名無し@富士門流さん、どうも。
ここのスレの名無し@富士門流さんのレスを読み落としていました。 m(_ _;)m ゴメン!!

> なるほど、この本門寺公式HPの記述は「集録『教箋閑古錐』」の記述と全く同じですね。

「集録『教箋閑古錐』」のことは知りませんが、これからも色々とご教示下さい。m(_ _)m

1091名無し@富士門流:2005/01/17(月) 00:01

脱線しますが、厄除け祖師を見つけました。

http://www.city.miyazu.kyoto.jp/sight/miyazu/teramachi1.html

う〜ん、読経像ですね。
読経像って、どの門流に多かったのでしたっけ?

たしか保田や実成寺も、要法寺も大石寺も西山も北山も読経像ありますね。
でも厄除け祖師ではないよな〜、、、

1092名無し@富士門流:2005/01/17(月) 00:36

あらら〜、日郷師を開山とする妙国寺にも「厄除け祖師」がありました。

http://www.mnet.ne.jp/~hogen/temp/index2.html

それにしても鬼子母神や大黒天など、非常に日蓮宗らしくていいですね。(爆笑)

1093愚鈍凡夫:2005/01/17(月) 01:07

「万年救護本尊」を検索していて、こんなのを見つけたんですけど、皆さんはどう思われますか?

**************************************************
ここで、『家中抄・稿本』は原文を、

  日興宛身所給等者是万年救護御本尊事也、今在房州妙本寺也(研教6-P361)

と記している。頭注によれば因師が「万年救護」を「板」に、「房州妙本寺」を「當山」に訂正したと伝えられている。そのためか、精師以後、因師に至るまでの大石寺歴代は『日興跡條條事』第二条の「弘安二年の大御本尊」とは万年救護本尊と考えていたというが真実か、と聞かれた。結論から云おう。否である。
『富士学林教科書研究教学書総目録』によれば、『家中抄・稿本』の成立は「明暦二年」(総目録P8)、『家中抄・中』の成立は「明暦三年五月八日」(総目録P8)となっている。つまり、『家中抄・稿本』は『家中抄・中』の下書であることが分かる。『家中抄・中』はどのように記されているだろうか。歴全本・富要本・聖典本は改竄されていると思う人がいるかもしれないので研教本を挙げておく。『家中抄・中』には、その該当箇所(写真参照)は、

  日興宛身所給等者是板御本尊事也、今當山在(研教6-P120)

と記されている。明暦三年、すでに精師は『日興跡條條事』第二条の「弘安二年の大御本尊」を万年救護本尊とは考えていなかったことが分かる。では、なぜ、『家中抄・稿本』に『日興跡條條事』第二条をさして「万年救護御本尊…妙本寺」と記したのだろうか。察して云えば、その前の箇所に保田文献を引用していること、精師は弘安二年に万年救護本尊が興師に授与されたと考えていたこと、それによって誤って記したものと思われる。宗史を志す人、宗史論文を書いたことのある人ならば経験があると思うが、原稿を書いている時点では史実の誤認が多々見られるものである。そうして幾度も推敲を繰り返して雑誌なり、本なりで発表されるのである。それと同じように、『家中抄・稿本』は下書・案文の類であって精師の真意は『家中抄・稿本』より後の成立である『家中抄・中』にあると云わなければならない。

**************************************************

「BRAND NEW TOMORROW:精師文献について」
http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/9975485.html

1094犀角独歩:2005/01/17(月) 10:27

愚鈍凡夫さん:

『日興跡条々事』が興師正筆か?と言えば、石山はこれを公開しないわけですから、要は偽物なのでしょうね。秘蔵厳護などというのは、結局のところ、ばれるのがこわいと言っているようなものですよね(笑)

まあ、それはともかくとして、この文書が造られたころ、すでに石山では戒壇本尊が作られていたのでしょうか。造られていなかったでしょうね、たぶん、まだ。

キーワードは三つです。一つは「弘安二年」、一つは「大本尊」、もう一つは「本門寺」です。
「弘安二年」は『御伝土代』に記される「二千二百三十余年・日興上人」漫荼羅でなければ整合性はつきません。
「大本尊」はいわゆる万年救護本尊にしか書かれていない語彙です。条々事が作られた段階で、この本尊の存在を石山はどれくらい意識していたのでしょうか。
一番のポイントは「本門寺」ですが、条々事が作られた時点で、広宣流布の暁に寺号を本門寺と改めるという考えはあったのでしょうか。「本門寺建立の時」というのは字句どおりではないのでしょうか。つまり、石山とは別に、本門寺が建つという意味です。こう思うのは、3項目に「大石寺」と本門寺との対句で記されているからです。

「万年救護」という成句は要山でしょうか。「大本尊」は蓮・興・目・郷相承、保田の旗印ですね。「本門寺」は北山の旗印。それらを折衷し、全部が全部、うちのもんとやったのが石山でしょう。

二箇相承を北山が捏造し、興師正統を主張した。これを真に受け、この相承は自分たちのものだと図々しく言い出したのは、どこら辺からでしょうか。精師ぐらいですか。二箇相承に「本門寺」とある以上、戒壇建立地を自寺であると主張するためには、どうしても寺号改称という伝説を編まなければならなかったわけですね。


繰り返しますが、条々事の「弘安二年…大本尊…本門寺」は、興師在世の富士では、弘安二年興師に授与された「二千二百三十余年・日興上人」と図された上人号下賜漫荼羅でなければ実はならないのだろうとわたしは思います。しかし、それは盗難に遭い、北山で紛失。さらに北山では二箇相承を作って本門寺戒壇を言い出す、そこで戒壇本尊を造って自寺こそ戒壇嫡地、未来寺号改称という伝説が次々と編まれていった…、その過程に精師の添削があったのではないかとわたしは見ます。

1095愚鈍凡夫:2005/01/18(火) 02:40

犀角独歩さん、どうも。

**************************************************
明暦三年、すでに精師は『日興跡條條事』第二条の「弘安二年の大御本尊」を万年救護本尊とは考えていなかったことが分かる。では、なぜ、『家中抄・稿本』に『日興跡條條事』第二条をさして「万年救護御本尊…妙本寺」と記したのだろうか。察して云えば、その前の箇所に保田文献を引用していること、精師は弘安二年に万年救護本尊が興師に授与されたと考えていたこと、それによって誤って記したものと思われる。宗史を志す人、宗史論文を書いたことのある人ならば経験があると思うが、原稿を書いている時点では史実の誤認が多々見られるものである。そうして幾度も推敲を繰り返して雑誌なり、本なりで発表されるのである。それと同じように、『家中抄・稿本』は下書・案文の類であって精師の真意は『家中抄・稿本』より後の成立である『家中抄・中』にあると云わなければならない。

「精師文献について」より
**************************************************

もし、この人が弁護士だったら、死刑囚が沢山出るんだろうなぁっと、ふと思ったものですから・・・・・。
( ̄Д ̄;;

1096犀角独歩:2005/01/18(火) 08:49

愚鈍凡夫さんのユーモアはシニカルで、心憎いですね(笑)

1097愚鈍凡夫:2005/01/18(火) 11:30

犀角独歩さん、どうもです。

小生、少しばかり性格が歪んでますかね。 ( ̄ヘ ̄)ウーン
プンプン( ̄^ ̄メ)\(_ _ ;)ハンセイ…

1098れん:2005/01/18(火) 18:13
日興跡条々事の初出?文献は九世日有師の連陽房聞書に出てくる大石寺置文でしょうか。しかし、六世日時師の大石記にも「日代は数通の御譲り状を持ちたりと云へども、既に迹門得道の上は争てか言うに足るべけんや、此の上付法の旨は其の証拠をば上々の御事なり(中略)此の方にも上人の御筆を載せたるなり」と日興跡条々事の存在を匂わせる文がありますから、その存在は時師の代まで溯れます。気になるのは時師の明徳三年七月日の東坊地論争にかかる「訴状」に「副進、一巻 当所管領ノ証文等案」(歴全第1巻303ページ)とあることで、もし当所管領ノ証文等案=日興跡条々事だとすると、条々事は時師が作成した可能性もあるかもしれませんね。彫刻本尊はしかし、いつ頃の成立か、文献学的には多少の難があるものの、十四世日主師の日興跡条々事示書に「大聖ヨリ本門戒壇御本尊」(歴全第1巻459ページ)とあり、これが確かなものならば、主師の代には条々事も彫刻本尊も出揃っていたことになりましょうか?

1099犀角独歩:2005/01/19(水) 08:59

れんさん、少しくお久しぶりです。
ちょっと、質問させてください。

> 日代は数通の御譲り状…日興跡条々事

こうなると、重須本堂を相承された代師が条々事を譲られたその人ということになってしまうように思えますが、この点はどのようにお考えになりますか。
しかし、反面、「当所管領ノ証文等案」は、それらしく思えますね。
ご投稿を拝読して、代師譲状と当所管領ノ証文は別のものである、けれど、後者は条々事を指すように思えました。このような考えはどうでしょうか。

なお、時師条々事作成は説得力があります。
また、主師示書を真筆とした場合、たしかに当時既に「戒壇本尊」は成立していた如くですね。有師が第82漫荼羅を模刻した史実があるわけですから、これが当時、それに啓当していたのだろうかと、個人的には考えたりもしています。

ついでに『大石記』についての思うことを記せば、「身延澤に立て申したりし御佛をも入れ申す」という一文を、石山では漫荼羅本尊(戒壇本尊)、もしくは蓮師御影としますが、わたしは、やはり、釈迦像であると思うわけです。精師が『家中見聞中』に「日興御さくの釈迦一そん一ふく」と記した点との脈絡を考えています。

大石記
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/oisiki.htm

1100れん:2005/01/19(水) 20:43
犀角独歩さん。「日代数通の譲り状…日興跡条々事」高橋師の通解を読むと独歩さんの仰る通りですが、原文を注意深く読むと「此の方にも上人の御筆を載せたるなり」があり、此の方=石山、上人の御筆=日興跡条々事と読み込んだ次第です。高橋師は此の方…載せたるなり、の部分を通解してないので、高橋師の通解から亥文を読みますと独歩さんのように解することができますね。
当所管領証文=条々事、この推定が的を得たものならば条々事が後世作成の文献ならば、時師作成と見るのが妥当と思います。
主師示書が真筆とした場合当時既に戒壇本尊は成立…有師が第82曼陀羅を彫刻…これが当時それに啓当していた…
主師文献が真筆ならばですが、第82曼陀羅には「弘安三年太才庚辰三月日」とありますから、‘御図顕年月日’を意図的に削除したうえで「戒壇本尊」として使用された可能性はあると私も思います。
大石記…身延沢…入れ申す…この文の御仏とは現在の石山では蓮祖御影か曼陀羅本尊のことを指すようですが、興師の原殿御返事に「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」とありますから、御仏=釈尊で独歩さんの仰る通りだと思います。

1101犀角独歩:2005/01/19(水) 21:01

> 此の方=石山、上人の御筆=日興跡条々事

れんさん、なるほど。
たしかに『大石記』全体に窺える北山、また、代師への、対抗意識とも思える感情から、自山顕彰の証文が、このとき、既に作られていたと考えても不自然ではないですね。
参考になりました。ご教示有り難うございました。

1102愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 01:37

ふと、また疑問の虫が囁くものですから。 ( ̄(エ) ̄)ゞ クマッタナー

もし富士年表の記述が正しいとすれば、蓮祖は1274(文永11)年に図顕した通称「万年救護本尊」を、何故1279(弘安2)年に日興師に授与したのでしょうか。小生は、「万年救護本尊」の有名な讃文は、聖滅後に興門の誰かが書き込んだのではないかといった疑問を持っています。勿論、仮説でしかないのですが。
「万年救護本尊」は、もともと№15の滋賀県妙経寺蔵漫荼羅と同じような感じであったと思うのです(勧請されている諸尊の数の違いはありますが)。もしそうだとすると、5年も後に授与した理由が分かりません。

1103顕正居士:2005/01/20(木) 05:56
>讃文は、聖滅後に興門の誰かが書き込んだのではないか

どういう理由からでしょうか。「上行菩薩」とあるからでも何でもよいのですが。

妙経寺のはよく似ていますが、同じ時期の曼荼羅はだいたいは似ています。
妙本寺のが有名なのは讃文があるからで、だから(褒美として)日興に授与されたのでないでしょうか。

日目が天奏の際にもこの曼荼羅に言及し、それを日郷が相伝し郷門の重宝になった。
讃文が後に付加されたなら、それは日蓮か日興によることになりませんか。天奏の効果を期待して
日目や日郷が付加しても、その後に興門の重宝にはならないでしょう。

1104愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 14:04

顕正居士さん、ご無沙汰しております。レス有り難うございました。

1274(文永11)年図顕(とされる?)漫荼羅(№12〜№18)の特徴としては、授与書がいずれもないことだと思います。それと、№13と№18の漫荼羅を除けば「四天王」が勧請されていないということも特徴といえるでしょうか。
日目師が天奉の際に№16の漫荼羅を持参した理由の一つは、この授与書が記されていないということが一つのポイントではなかったでしょうか。ただ、当時、日目師の手元に授与書の記されていない蓮祖漫荼羅が他にあったかどうかを調べる術はないよう思いますが。
判らないのは、1274(文永11)年には、№18のように大きさでいえば大漫荼羅(20紙)と呼ぶに相応しい漫荼羅があるのにもかかわらず、№16の漫荼羅にだけ「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」と記されている理由は何でしょうか。もしよければ、ご教示願いたいのですが。
それと、この漫荼羅が特別である理由の一つは、その相貌にあるのでしょうか。それとも、図顕された時期にあるのでしょうか。小生には、他の漫荼羅と比較して、何れも理由にならないとしか思えないのです。したがって、聖滅後にこの讃文が記された可能性を捨てきれないのです。

1105れん:2005/01/20(木) 18:09
横レス失礼します。宮崎定善寺には日郷師書写「万年救護本尊讃文」(康永三年太才甲申卯月十六日、模之とあり)現存します。日興門流上代事典には「日郷の記名等は見えないが、定善寺蔵の正本の複写により日郷の筆跡と判断してここに収録した。本書が定善寺に現蔵されているところから、恐らく切紙相承の一種として日郷から日叡に授与されたものではないかと推測される。日穩編『日叡縁起』に『又康永三年甲申正月二十六日国ヲ起チ、同四月二日房州吉浜谷御坊ニ参リ着キ給フ。一夏日々夜々修学鑚仰シ給フ』とあり、この康永三年四月十六日前後における日叡の妙本寺滞在を知ることが出来るからである」とのべています。この康永三年(一三四四)の郷師書写の万年救護本尊讃文によると郷師の代には既に大覚世尊…始弘宣之の讃文が十六号曼陀羅に記されていたことがわかりますね。十六号曼陀羅の讃文は、その筆跡を見るかぎり、目師・郷師の筆跡とは異なるので、やはり蓮祖あるいは興師による加筆ではないでしょうか。以上の点から私としては、顕正居士さんのご意見に賛同いたします次第です。

1106愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 18:48
「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」

「今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。(新尼御前御返事)

№16の漫荼羅図顕が1274(文永11)年12月、「新尼御前御返事」が1275(文永12)年2月執筆ですよね(日付けが近いのは偶然かも知れませんが)。
この二つの存在を知っている興門の誰かが、蓮祖の漫荼羅正意を証明するために、手元にあった№16の漫荼羅に讃文を書き込んだのではないかと思うのですが、可能性は極めて低いでしょうかね。

> 日興門流上代事典には「日郷の記名等は見えないが、定善寺蔵の正本の複写により日郷の筆跡と判断してここに収録した。

ここにある「定善寺蔵の正本の複写」とはどういう意味でしょうか。他に、日郷師の署名の入った先師遺文の写しが現存するという意味でしょうか。

1107れん:2005/01/20(木) 19:55
愚鈍凡夫さん
。16号曼陀羅と新尼御前御返事の二つの存在を知っている興門の誰かが蓮祖の曼陀羅正意を証明するために手元にあったNo.16の曼陀羅に讃文を書き込んだ…
新尼御前御返事は日蓮聖人真蹟集成によると真筆断簡が愛知長福寺に現存しますが、同書の解説によると身延日遠師等の目録等によれば巻子仕立てで身延に曽存したとのことですから、長福寺の断簡は身延曽存のものから切り取られ流失したもののようです。身延所蔵の蓮祖遺文新尼御前御返事を初期興門流の僧が知り得たかどうか、またその文を参考にNo.16曼陀羅に讃文を書き入れることが広布時造像論が主流であった初期興門で行われたか否かは計りかねますが、可能性は皆無ではないと思います。
「定善寺蔵の正本の複写本」とは、正本の御筆写真のコピー(複写)という意味ではないでしょうか。つまり興風談所に定善寺蔵の「万年救護本尊讃文」の御筆写真のコピーがあり、事典の編者が妙本寺等から提供された他の日郷師の筆跡の御筆写真と比較照合して、定善寺蔵の「万年救護本尊讃文」の筆者を日郷師に同定したということだと思います。ともあれ定善寺蔵「万年救護本尊讃文」は康永三年(一三四四)の模写ですから、No.16曼陀羅に大覚…の讃文が書き入れられたのは、康永三年以前のこととするのが妥当だと考えます。とすると、書き入れをすると考えられるのは蓮・興・目・郷の四師、No.16曼陀羅の讃文の筆跡は、目・郷の筆跡と異なりますから、蓮・興いずれかのものと考えられます。

1108顕正居士:2005/01/20(木) 20:12
>>1104

>この漫荼羅が特別である理由の一つは、その相貌にあるのでしょうか。
>それとも、図顕された時期にあるのでしょうか。

時期でありましょう。文永11年は特別な年ですから。この年の終わりが
例の賛文が記されるのに最もふさわしいでしょう。

文永10年(1273)

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を述作。

文永11年(1274)

2月 佐渡流罪を赦免。
3月 佐渡出発、鎌倉帰還。
4月 平頼綱と会見、蒙古襲来の近きことを諫言。
5月 鎌倉を発ち、身延入山。
10月文永の役勃発。
12月通称万年救護御本尊を図顕。

15番の曼荼羅は同年の11月。18番は両部の大日如来を勧請、図顕の
年月日はない。Webの『御本尊集』は2つありますが、こちらが詳しい。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

1109愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 21:36

れんさん、いつもながらご丁寧にご教示下さり、有り難うございます。
顕正居士さん、小生の疑問に誠実に答えて下さり有り難うございます。

1275(建治1)年6月1日(文永12年4月25日から建治元年に改元)に皆既日蝕があり、同月「撰時抄」が著されています。今、「撰時抄」を改めて読み返しているのですが、通称「万年救護本尊」に関する記述はありませんね。

「釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと梵帝日月四天竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや」(「撰時抄」創価版P265)

ただ、この文証が№16の漫荼羅の讃文を連想させますが。

もし、蓮祖があの讃文を書き込んだとしたなら、その目的は何でしょうか。それと、あの讃文が後にも先にも一舗の漫荼羅にしか存在しないのは何故でしょうか。

1110愚鈍凡夫:2005/01/20(木) 21:47

訂正
誤→1275(建治1)年6月1日(文永12年4月25日から建治元年に改元)に皆既日蝕があり、同月「撰時抄」が著されています。

正→1275(建治1)年6月1日(文永12年4月25日から建治元年に改元)に皆既日蝕があり、富士年表によると同月「撰時抄」が著されています。

です、悪しからず。 m(_ _)m

1111名無し@富士門流:2005/01/21(金) 01:48

1111ゲット!!

皆さん今晩は。

この商品?よく似てますね。勧請諸尊は万年救護と全同ですね。

http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2803.html

本物かどうかはわかりませんが。

1112顕正居士:2005/01/21(金) 05:44
>>1109

>もし、蓮祖があの讃文を書き込んだとしたなら、その目的は何でしょうか。それと、あの讃文が後にも
>先にも一舗の漫荼羅にしか存在しないのは何故でしょうか。

蒙古の侵寇が近い情勢から幕府もついに日蓮を赦免し、最後の諫言を行い、ここに道力折伏(破邪)
の目的は達せられたから、今後は摂受(顕正)を行わなければならない。平頼綱との会見後、直ちに
身延に入山し、その後は弟子の教育に専念された。そして文永11年の10月、ついに他国侵逼の予言
は成就した。『観心本尊抄』で述べた「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」の時期も
近かろう。静かな精神の高揚から賛文をしたためたのだと考えます。これは一回性の霊的事件ですが
その後、「仏滅度後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内、未曽有の大曼荼羅」とよく記されるよう
になります。

>今、「撰時抄」を改めて読み返しているのですが、通称「万年救護本尊」に関する記述はありませんね。

なぜなければいけないのかが分かりません。弘安2年の板曼荼羅というイコンを製作することが日蓮の
出世の目的であったような不思議な教学から考えておられませんか。万年救護御本尊が時期と賛文の
ゆえに最も意義のある曼荼羅であっても、それはイコンではないし、この曼荼羅が「大本尊」という意味
ではない。近く上行菩薩が出世して本門の教主釈尊への信仰をひろめ、その後にさまざまな仏教芸術
が生じるであろう、その予感を曼荼羅と賛文で表現されたと考えます。

日蓮の後に「上行菩薩」は出現していない、日蓮は幻想家であって元寇を退けたのは北条氏の功績と
いうこともできるが、日蓮の信者からすれば日蓮自身が上行菩薩の垂迹であったのだとおもうでしょう。
自界叛逆の予言は日蓮の滅後に実現し、徳川氏の日本統一まで戦国の世が続いたのは史実です。
日蓮は祈祷の効果を信じていた。かつ、その祈祷をPCでやるのとMACでやるのとは効果が違うような
ことを主張した。これは半分はまだ迷信を信じていても、もう半分は元寇対策をほんとうにしなければ
ならない北条氏にとって苦悩だったでしょう。けれども一国に二つの政府があれば他国の侵攻を退ける
のは困難とか、他国の侵攻を受ければその経済的疲弊により内戦が喚起されやすいとかは真実です。
当時はこのレベルのマクロな事柄に示唆を与える学問はなく、日蓮はそれを仏典に捜し、北条氏は
自己の知能と経験によって処理し、それぞれに中世から近世への脱化の過程にあったのだと思います。

1113愚鈍凡夫:2005/01/22(土) 05:04

顕正居士さん、レス有り難うございます。

> 弘安2年の板曼荼羅というイコンを製作することが日蓮の出世の目的であったような不思議な教学から考えておられませんか。

石山の通称「戒壇之本尊」と称する板漫荼羅のことは念頭にありません(戒壇之本尊がイコンかどうかは別として)。ただ別の意味で、「遺恨」と言うのであれば、通称「戒壇之本尊」を蓮祖究極の本尊と騙し続けた創価学会に対して、少しは残っているかなといった感じです。

「釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給いて後五百歳に一切の仏法の滅せん時上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと梵帝日月四天竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや」(「撰時抄」創価版P265)

との文証を改めて拝読すると、通称「万年救護本尊」の讃文を認めた心境の表明ともとれますね。
小生も、蓮祖の心中には「上行菩薩」の先駆けとしての使命感が渦巻いていたと思います。

色々と、ご教示下さいまして、有り難うございました。 m(_ _)m

ただ、この通称「保田妙本寺蔵万年救護本尊」の讃文「自筆説」「他筆説」について、考察を続けて参りたいと思います。また、小生が変なことを言い出したら、軌道修正して下さい。宜しくお願いします。
 m(_ _)m

1114祝8郎:2005/01/23(日) 14:54
スレッドをまちがえましたので、こちらに再掲させていただきます。

彫刻本尊は大石寺では日蓮直筆と主張しているのですよね。
しかもそれは「本門戒壇の本尊」である、と。
もしそうであるならば、真筆の立正安国論や観心本尊抄などの国宝よりも価値があることになりますね。
この掲示板は大石寺の僧や信徒、顕正会の人も見ているとのことなので、彼らは国宝認定の請願運動をすぐにでも起こしていいのではないでしょうか。
なぜそういったことをしないのでしょうか。不思議です。
これは犀角独歩さんの御説の反対するということではなく、大石寺僧俗が彫刻本尊を本物だと言うのであれば考えて当然のことではないか、という疑問です。

1115犀角独歩:2005/01/23(日) 15:11

> 1114

このご意見には大いに賛同です。
「本門戒壇の大御本尊」を国宝にする会でも作るとよろしいですね(笑)
それ以前に、国立戒壇に入れようと言うものの、何の学術・科学調査が行われていないことはおかしなことです。

それにしても石山では、これを「生身の日蓮大聖人」とか言いますが、こういう表現はやめた方がよろしい。これにお肉が生きているなんて話を合わせると、もはやオカルトの領域です。もう21世紀になりましたら、この手の与太話は、恥ずかしいからやめにしましょう。これは相承の有無より、よほど、重大な問題なのに、なぜ、問題にされないのでしょうか。

木で出来た彫刻が生身の日蓮と言ってみたり、700年前に抜けた歯にくっついているお肉が生きているなんていう話は、日蓮本仏論やら、彫刻本尊真偽以前の問題で、「日蓮正宗はオカルトである」という批判を免れ得ないことであると、わたしは、ここで強く再認識すべきであると書き留めておくことにします。

1116彰往考来:2005/01/23(日) 16:16
>1098
れんさん、

「日興跡条々事」が時師が作成した可能性があるかもしれないという貴説を読み衝撃を受けました。前々から「日興跡条々事」は興師の筆と異なるようだと思っていましたが具体的に比較検証できずにいました。今回貴説に接し手元の写真で確認したところ、「日興跡条々事」の筆跡は時師のものと確かに似ていると感じましたので僭越ですが愚論を紹介したいと思います。
確認に使用した写真資料は下記のものです。
(1)『日興上人全集』(平成8年、興風談所)・・・「日興跡条々事」ほか興師筆跡
(2)『1996年10月2日付創価新報』(創価学会)・・・「日興跡条々事」
(3)『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所)・・・興師御書写御本尊
(4)『奉蔵於奥法寶』(平成12年覆刻版、日目上人奉賛会)・・・時師ほか御書写御本尊

解析は漢数字の『三』字と『七』字で行いました。具体的には「日興跡条々事」にある「七十三歳」の『七』字と『三』字、「十七之歳」の『七』字、「御在世七年」の『七』字です。『三』字が一箇所と『七』字三箇所です。
文献(1)、(3)を見るとよく解りますが、興師の『三』字は極めて特徴があります。通常は『三』字の場合、真中の第二画が一番短く、一番上の第一画がその次で、第三画の一番下が最も長いというものです。ところが興師の場合は第一画 < 第二画 < 第三画 の順に長く書かれるという特徴を持っています。(例えば、文献(3)の69頁の正安三年や341頁の元徳三年)第一画と第二画がほぼ同じ長さの場合もありますが、全体的に“△”のように末広がりとなるような感じです。それに対して「日興跡条々事」では文献(1)、(2)とも明らかに通常の『三』字で真中の第二画が一番短いという特徴です。時師の場合は、明徳三年の御本尊(42番)、応永十年の御本尊の賛文(三十年)をみても明らかに通常の『三』字です。有師も時師のような書き方ですが、少し縦に長いように見受けられます。
『七』字も特徴的です。『七』字は第一画が横一本で、第二画が縦から入り右へ90度曲がって横になりますが、第一画と大二画のそれぞれ横棒の角度が異なります。「日興跡条々事」では『七』字は三箇所とも横の二本棒がほぼ平行です。それに対して興師は約30〜40度程度の角度を持ちます(例えば、文献(3)の343頁の廿七日や文献(1)の493頁の七月など)。行師は角度を持ちます(文献(4)の御本尊(39番)の頭破七分)。ところが時師は角度を持たず平行なものが多いのです(文献(4)の42番、43番、46番、47番、48番、49番のそれぞれ頭破七分)。影師は第二画の90度曲がっている箇所が角張っていて違う特徴です。(文献(4)の56番の頭破七分)有師は時師と同じで角度を持ちません(文献(4)の57番の頭破七分)が、『三』字の時と同じく平行な二本の間の間隔が縦方向に広いので違った感じを受けます。

綜合的に判断すると「日興跡条々事」に一番良く似ているのは行、時、影、有、各師のうちでは時師で、興師筆跡と「日興跡条々事」とは似ていないという結果でした。
正確に判断するには、警視庁で使っている画間比率法のような解析が必要ですがそれは今後の課題にしたいと思います。

by 彰往考来

<参考資料>(上記(1)〜(4)以外)
町田欣一・今村義正『全書 捜査・鑑識の科学 第3巻 文書・心理鑑識』(昭和35年、日本評論新社、5頁)
松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻、大成出版社、207,220,548頁)

1117犀角独歩:2005/01/23(日) 17:02

日本の文書というのは、その内容を他人に書かせても、署名・花押を本人が書く、もしくは筆順を教えて書かせた場合、その内容を署名者が認めたことになるというのが慣習です。ですから、このような文書の真偽を諮るのであれば「日興・花押」の真偽から問うというのが定石であると思います。

なおまた、三学無縁さんが指摘されていますが、条々事は一書ではなく、案文ほか、かなり出入りがあり、なにをもって、問うかというはじめの一歩が定まらないところに、その難しさがあるのでしょうね。

1118れん:2005/01/23(日) 19:21
>1116
彰徃考来さん、レスありがとうございます。犀角独歩さんのご指摘のとおり「日本の文書は、その内容を他人に書かせても署名花押しを本人が書く、もしくは筆順を教えて書かせた場合、その内容を署名者が認めたことになる慣習」があります。蓮祖の場合ですと、宮城妙教寺蔵の南条殿御返事(弘安元年四月)の本文は門下某の代筆、署名花押は蓮祖のもの、千葉県法華経寺蔵の富城入道殿御返事(弘安四年十月二十二日)は本文は朗師代筆、署名花押は蓮祖のものというように、いわゆる本文を門下が代筆する例がありますから、条々事も本文は門下代筆の可能性があります。不鮮明ながら条々事の署名花押を見るかぎり、元徳・正慶の興師の御筆の特徴がみえるので、それもありでしょう。以上これは条々事を興師真書と判ずる場合です。偽書とする場合は、本文は当然後人の作文で署名花押を他の興師真書から切り取って貼りつけた、あるいは、模写した…という可能性もあります。この場合は状況的には時師作成の可能性が高いと考えている次第です。この書の真偽は石山が正本・案文・異本・古写本の一切の鮮明な写真を公開しないかぎりは白黒をつけることは、現時点では出来ませんね。条々事が時師作成の偽書だとしても、この書から時師当時の石山における目師観・本門寺観が伺えて興味深く思います。

1119彰往考来:2005/01/23(日) 20:03
>1117,>1118

なるほど、『日』字を松本氏が分析して
いた理由がよくわかりました。
ご教示まりがとうございました。

1120祝8郎:2005/01/23(日) 20:07
条条事の本文の「日興」の文字と末尾の「日興花押」ですが、微妙ではありますが、明らかに字体が異なっているように思えますね。
れんさんが言われるように、

>偽書とする場合は、本文は当然後人の作文で署名花押を他の興師真書から切り取って貼りつけた、あるいは、模写した…という可能性

これは容易に推測することができます。
ただ、せっかく偽作した本文の四文字(およそ、ということですが)を、なぜ削り取ったのか。
大石寺にとってよほど都合の悪い四文字だったのでしょうね。
この部分は、「案文」に記述されているのでしょうか。高橋粛道氏に教えて頂きたいものです。

1121彰往考来:2005/01/24(月) 12:34
>1119

訂正です。みっともないですね。ごめんなさい。

誤:ご教示まりがとうございました
正:ご教示ありがとうございました


彰往考来 拝

1122名無し@富士門流:2005/01/30(日) 17:29:00

彰往考来さんの「日興跡条々事」の「三」字・「七」字判定は、その着眼点といい、解析・判断の内容といい、誠に素晴らしい内容であると思います。

あわせまして、れんさん、祝8郎さん、犀角独歩さんのご指摘を拝見しますと、「日興跡条々事」は後世に作られたものとみてほぼ間違いなさそうですね。

特に東坊地係争との関連が指摘されていますが、郷門にもかつては「日興跡条々事」と良く似た文献があったとされる記述があります。

これは尊門中興で京都要法寺創建者でもある広蔵院日辰師が、その著作「造仏論議 読誦論議」の最後に、後に小泉久遠寺代官分となる兵部阿闍梨日義師の写本を全文引用しているところです。

*************************************************************
日興上人大石寺御置文に云く、

一閻浮提の内諸山寺を半分と為し、日目座主為る可し、其の半分を自余の大衆に之を配る可し、日興遺跡は新田宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人為るは、大石寺の別当と定、寺と云い、御本尊と云い、墓所と云い、又云く仏は水、日蓮上人は木、日興は水、日目は木。

右此の御血脈は御正本房州妙本寺に之れ有り、
天文十三年甲辰極月二十五日謹んで而も之の抄を書し奉る   日義 判

(日蓮宗宗学全書第3巻P485〜486)〈但し原文は漢文〉
****************************************
*********************

大石寺のように条文化されておらず、内容的にも全同というわけではないのですが、意味するところは一致しているように感じます。

「千葉県の歴史」から妙本寺文書をざっと見た限り、該当文献は無く、興風談所「日興上人全集」にも掲載されていないことから、現在は紛失、あるいはこちらも偽書として除外されているかどちらかだと思います。

いずれにしましても、郷門版「日興上人大石寺御置文」が天文十三年に日義師が拝観・書写しているということは、それ以前の、所謂「東坊地係争」の最中に偽作された可能性もあり、行師・時師Vs伝師の争いの中で、互いに目師の正嫡であることを証明するために、かたや「日興跡条々事」を、かたや「日興上人大石寺御置文」を偽作した可能性もありますね。

それにしましても、各文献の主旨が同じであることを考えますと、どちらかが最初に出してきたのを受け、もう片方が慌てて類似文を作って応戦したといった感じでしょうか。

このあたりは、れんさんのご指摘によれば時師側が先で、伝師側が後からつくったと考えるのが妥当でしょうか。

1123彰往考来:2005/01/31(月) 07:31:29
>1122
名無し@富士門流さん

読んでいただいてありがとう。今度はいつになるかわかりませんが
『日』の分析に挑戦したいと考えています。

1124彰往考来:2005/01/31(月) 07:32:56

禅師授与漫荼羅の動向について〔9〕

スレッド1046の続きです。

さて、いよいよ禅師授与漫荼羅です。さんざん議論されているのでいうまでもありませんが、「富要集八巻」には次のように記載されています。

「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」(178頁)

「弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、
(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)、 同上(引用者注:北山本門寺)」(215頁)

ここで、「本門寺・・・」の加筆部分の差が議論となるところです。「富要集八巻」は書き下し分になっていますが御本尊記載の原文はもちろん漢文です。
法道院(現在は富士大石寺蔵)のものの脇書は、『日興上人全集』(平成8年、興風談所、141頁)に記載があります。

「奉懸本門寺可為万年重寶者也」 (引用者注:『日興上人全集』の記載からレ点と一二点を除きました)

そして北山本門寺のものの脇書は、山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、155頁)に記載があります。

「懸本門寺可為万年重宝(開山加筆)」

とあり両者を比較しますと、北山のものは、三文字足りません。頭の『奉』字と最後の『者也』字です。
また「富要集八巻」が“他筆”としているのに対して『日蓮正宗史の基礎的研究』では開山(日興上人)が加筆されたとしています。山口師は他筆と開山筆を明確に書き分けています。そしてその内容は今回の例のように必ずしも日亨師の「富要集八巻」と一致していません。このことから山口師は北山のものを見ていてその内容を記載しているのではないかと思われます。私がこのように考える根拠は『日蓮正宗史の基礎的研究』(15頁)にある剥離表装に関する記載です。

「この実例(引用者注:剥離表装)を拝したのは三年前(引用者注:1987年)、富士から持参されたもので、調査の結果、これは影本であることが判明した。」

ここでいう富士とは石山(大石寺)ではないことは確かです。だとすると北山本門寺のことでしょうか。北山蔵の禅師授与漫荼羅が石山によって研究されていたことになります。
剥離表装について触れるべきですが、それはあとで取り扱うこととし先に進みます。

1125彰往考来:2005/01/31(月) 07:33:34

禅師授与漫荼羅の動向について〔10〕

つぎは弘安4年10月(俗平太郎□□□)の御本尊です。この御本尊は千葉随喜文庫所蔵の『御本尊集目録』の第112番と北山本門寺蔵の2箇所の所蔵です。『御本尊集目録』の備考には「駿河国某寺に当御本尊の摸本を蔵するが・・・」とあり、引き続き富士宗学要集の記載内容が出てくることから、ここでいう駿河国某寺は北山本門寺のことと判断されます。また『日蓮正宗史の基礎的研究』には「俗平太郎□□□(他筆)」とあり、日興上人の筆ではないようです。千葉随喜文庫所蔵の御本尊は例によって削損です。

以上が北山本門寺蔵のうち他寺と重複所蔵がみられる4幅の資料内容です。
これ以外に特筆すべきこととして資料A,Cは、(4)弘安3年3月(石川新兵衛授与) の御本尊を北山本門寺が所蔵していることを記載しています。この御本尊は重複所蔵がみあたりません。この御本尊については『富士日興上人詳伝』(764頁)に「大聖人御筆は、正しくは真偽未決のもので、立正安国会の写真目録にも省いており、ことに「石川新兵衛」以下の興師の弟子分帳の文のごときものは、正しく興尊の御筆に似ないものである。」とあり御真筆ではない(模写?)可能性が高いものです。

さて、北山本門寺蔵のうち他寺と重複所蔵がみられる御本尊は日蓮大聖人ばかりでなく日興上人の御本尊にも広がっています。整理してみますと、

御写年月        御受興       所蔵       資料
嘉元三年五月四日   伴野出羽三郎   東京船橋安太郎   A,C,E
嘉元三年五月四日   伴野出羽三郎    北山本門寺    A,C
延慶二年六月廿九日   □□□      愛知興道寺    A,C,E
延慶二年六月廿九日   円乗房      北山本門寺    A,C,E
正和三年十月十三日  式部房父□□□   東京松島家    A,C,E
正和三年十月十三日  式部房父□□□   北山本門寺    A,C,E

<資料> A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
E:『日興上人御本尊集』

ここで船橋安太郎蔵のものは資料Eでは北山本門寺旧蔵としています。また北山本門寺以外の3箇所はすべて大石寺の末寺か信徒です。
これら重複した日興上人の御本尊が模写の類なのか剥離表装なのか資料がないので不明ですが、いずれにせよ欠字状態から考えてかなり後世に作成されたものと考えます。
延慶二年の円乗房授与御本尊の脇書は、資料Eによると正確には
 駿河国岩本実相寺前住□□□           愛知興道寺
 駿河国岩本実相寺前住円乗房六月廿九日遠忌日也  北山本門寺
とあり、愛知興道寺のものが剥離表装の影本である可能性が高いと思われます。
正和三年の式部房父□□□授与御本尊は、資料Eによれば脇書はほとんど全同です。
 甲斐国蓮華寺□住僧寂日房弟子式部房父□□□   東京松島家
 甲斐国蓮華寺前住僧寂日房弟子式部房父□□□   北山本門寺
とあり、しいていえば東京松島家のものが剥離表装の影本である可能性が高いと思われます。剥離表装であるとして、その時期ですが、少なくとも日興上人御在世に日興上人の御本尊を剥離表装することは有り得ないでしょう。

1126彰往考来:2005/01/31(月) 07:34:26

禅師授与漫荼羅の動向について〔11〕

問題は、これら日蓮大聖人と日興上人の重複御本尊で北山本門寺蔵以外のものは富士大石寺56世大石日応師の裏書のあるものが複数あるということです。
ここで日応師裏書のある御本尊を列記してみます。*印は北山本門寺との重複御本尊です。

図顕(書写)日     所蔵        裏書日       資料
*建治二年卯月    藤本 勘蔵     明治33年8月9日   F
 弘安二年十月    東京妙光寺     明治33年9月20日  G
 弘安三年二月日   永井藤蔵(現大石寺)明治37年1月     H
*弘安三年五月九日  法道院(現大石寺) 明治43年6月1日   H
 嘉元三年二月十三日 東京妙光寺     明治22年12月2日  G
*正和三年十月十三日 松島晃靖      明治29年9月吉辰   G

<資料>
F:『奉蔵於奥法寶』
G:『妙光寺百年史』
H:『法道院百年史』

こうして並べてみると、傾向があることに気づきます。明治20年代は、興師の御本尊、明治30年代は蓮師の御本尊ですが、どちらかといえば小振りのもの、そして最後(明治43年)に大物(禅師授与)というわけです。そして初期のものは剥離表装の影本が多いのではという観があります。資料が見当たらなかっただけで、船橋安太郎蔵や愛知興道寺蔵の興師御本尊も日応師の裏書が有る可能性はあります。日応師は明治27年10月17日〜29日に愛知・静岡地方巡教(『富士年表』昭和56年、富士学林、377頁)であったので少なくとも興道寺は有り得ると思います。
北山本門寺との重複が目立つことから、これら一連の御本尊は北山から日応師が入手したのではないかと考えます。『河辺メモ』では、禅師授与御本尊が北山から出て日応師が購入したと指摘していますので、そのほかの御本尊も北山ルートはありそうです。
北山から売りに出すと仮定して、最初は興師のそれも影本(もしくは模写)を売った。続けて売るには、顧客が蓮師のを欲しいといっている、ということでいつしか蓮師の正本まで販売とあいなったのではと推定します。知恵者がいて、販売の際に剥離表装した片方を売れば、まず信徒にはバレない、寺の重宝の数は変わらないということだったのでしょう。

しかしながら北山本門寺が大石寺に売りに出すでしょうか。このころ大石寺は興門派からの離脱を画作中で、明治33年9月18日に分離独立が認可(『富士年表』383頁)されているように当時の興門派である北山本門寺とは敵対関係であったからです。しかし実際はその時期に販売はされているとみるべきです。ブローカーが存在しそこが緩衝帯となって直接大石寺には売っていないとしか考えられません。北山が古美術商に売る。そしてその商人がどこかへ売るという按配です。北山は大石寺に売るのは避けたかったのではないかと思います。そのためでしょうか、これら日応師がからんだ御本尊を大石寺およびその周辺の信徒や末寺が購入した形跡はみられないのです。大石寺やその周辺に販売する場合、地元の有力な檀那に接触するわけで北山にバレやすいから避けたのかもしれません。日応師は本山周辺ではなく地方の信徒や末寺にばら撒いているのです。末寺といっても有力な檀那に売ったのでしょう。販売先は東京、茨城、宮城など静岡から離れています。もっとも当時本山であった大石寺は金がなかったのかもしれません。

by 彰往考来

1127名無し@富士門流:2005/01/31(月) 18:48:27

彰往考来さん、今晩は。

>末寺といっても有力な檀那に売ったのでしょう。販売先は東京、茨城、宮城など静岡から離れています。

とのことですが、以前当スレッドの論議で引用しましたが、以下の「藤本家文書」なんか関係しませんでしょうか。


○藤本家文書(正本:藤本家蔵)

日応上人御状

大暑の節に候処 弥御清適に御信行大慶之至に存候 野衲義も法用に付出京候得共 無事に法護罷在候間御休神被下度候 却説過般御登山に相成方よりの御咄しに宗祖御真筆大御本尊(其際御拝見に入候)御購求に相成候思召も有之趣に付 売方へも其趣申入置候処 度々の督促 殊に今回同人態々出京 身延派へ売込申様の相談も有之 誠に遺憾の至りに候間 可成御購求相成度 若し御承知に相哉候はば 五六日は滞京に候間 至急御返事相成度
夫迄は右売人へも他に売却は差留置候間 一刻も早く否哉御返事待上候 先は右要用のみ 稹々
三十三年七月二十五日
常泉寺にて 大石
藤本勘吉殿

1128彰往考来:2005/01/31(月) 20:02:15
>1127
名無し@富士門流さん、

スレッド1045で記載いたしましたが、藤本勘吉蔵の宗祖御本尊売買に関連していると考えています。
藤本氏蔵御本尊は、名無し@富士門流さんが指摘された7月25日付けの日応上人御状のすぐ後である8月9日の日応師の裏書があるのです。
よって7月25日状は、藤本氏蔵御本尊の売買に関連して書かれたものであると考えます。

彰応考来

1129名無し@富士門流:2005/02/01(火) 00:51:48

>1128
彰往考来さん、

本当ですね、今「御本尊集奉蔵於奥法寶」の8頁を確認しました。

今後ともご教示の程、宜しくお願い致します。

ところで、この藤本家の御本尊は本物なんでしょうか?

同時期のものと比べると、愛染の筆法が変な気がするのですが、、、

1130彰往考来:2005/02/01(火) 07:18:36

>1129
名無し@富士門流さん、

本件、ちょっと時間をください。どこまでご回答できるか
不安ではありますが、建治期の御本尊と愛染の比較をして
みたいと思います。

1131彰往考来:2005/02/01(火) 07:22:42

<訂正>

1126で投稿した「禅師授与漫荼羅の動向について〔11〕」で、東京妙光寺蔵の御本尊の御図顕日を弘安2年10月と記載しましたが、これは誤りで“東京妙光寺蔵の御本尊は弘安2年と推定され、4月8日という説がある”というのが正しい内容と考えます。

資料としては、山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林、154頁)に
「弘安二年(推定)」とあり、
『妙光寺百年史』(平成8年、妙光寺、87頁)に
「1御歴代御筆御本尊脇書
(1)宗祖 日蓮大聖人 (年月日授与書不明)
(裏書)宗祖日蓮大聖人御真筆ニ相違無之者也 明治卅三年九月廿日 五十六世日應」とあります。
また、インターネット資料として、当掲示板の『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』のスレッド223(2004年7月6日付け)で清香さんが、「弘安2年4月8日とお書きになっているに違いないと判読され」という、“妙光寺住職尾林日至師の虫干しでの説法”(スレッド224)を紹介されています。
以上のことから上記の内容が正しい表現であると考えます。
さらに、同スレッド261で三学無縁さんが、「妙光寺の本尊ですが、どうやら剥離本尊のようです。」と指摘されています。

私は実物はおろか写真さえ拝見していないので、御真筆であるかどうか、また剥離本尊であるかどうかなどの論評をする立場にはありません。日応師が御真筆という裏書をされているから御真筆であるという判断もできないと思います。

なお、禅師授与漫荼羅の動向について〔9〜11〕で日蓮大聖人の御本尊という表現がありますが、これはもちろん真偽未決、模写、剥離表装などを含んだ全体を指しています。誤解がないように表現するには「伝日蓮大聖人の御本尊」とでも記載したほうがよいのかも知れません。

以上、訂正かたがた補足説明をさせていただきました。

彰往考来

1132犀角独歩:2005/02/01(火) 13:23:35

彰往考来さん、ご賢察、興味深く拝読しています。
一点、

> 富士…北山本門寺

ということですが、この論法は少々無理がありませんか。
富士は富士門全般を指すことはたしかですが、大石寺の山号は「多宝富士大日蓮華山」です。北山は文字通り「北山」、地域で言えば、富士山には石山の近く、北山は安母山に近い場所です。

ただ、もちろん北山の山号も「富士山」ですが、これは西山も、要法寺も、小泉もそうです。

ことに石山では「富士山本門寺戒壇」を僭称するわけですから、他山を「富士」ということは考えづらいのではないでしょうか。

1987年に山口さんは、どこにいたのでしょうか。石山在勤ですか。
うる覚えで確かではありませんが、妙蓮寺蓮光坊ではありませんでしたか。
その当時、そこにいたかどうか。しかしながら、そうであれば、「富士から持参された」とは「富士大石寺から妙蓮寺蓮光坊に持参された」と読むのが自然なことであると思えます。

1133犀角独歩:2005/02/01(火) 14:14:25

1132の補足です。

ちゃんと調べて記していないので恐縮ですが、1987年当時の北山貫主は片山師ではありませんでしたか。現在の本間師とは違い、興門ではなく、延山の、教・儀の方でしたね。
戦後の創価学会隆盛と石山とは何一つ相容れない人でした。

この方が、石山の、それも山口さん辺りに、寺宝「万年救護本尊」をのこのこと、それも、石山に持参などするはずはありませんし、また、弟子檀那にも許すわけもないと思いますが、如何でしょうか。

1134犀角独歩:2005/02/01(火) 17:16:57

彰往考来さん

> 明治33年9月18日に分離独立が認可…当時の興門派である北山本門寺とは敵対関係

種々、疑義を挟むようで恐縮ですが、上述の記述も、どうもわたしには納得がいきません。
たしかに石山は分離独立し、「日蓮宗富士派を公称」(富士年表)したのは事実です。
しかし、このときまで石山自体、興門派であったのは動かしがたい事実です。北山もそうですが、石山もそうです。

『富士年表』をぺらぺらと捲ってみれば散見できますが、明治32年には興門派は本門宗と改称しています(官報)
ですから、明治33年当時で「興門派」という記述は不適切であろうかと存じます。

同31年の項目では興門派宗務院が石山内にあったことが明記されています。
さらにその前年30年の項では

「3.10 興門派宗務院に八山会議開催、興門学林を大石寺内〔石山学林〕・北山本門寺内〔六山学林〕・要法寺内〔要山学林〕に設立を議決(院14・38)」

などとあり、どうも「北山本門寺と敵対関係」という緊迫感は伝わりません。
もちろん、その年、応師が『分離独立追願書』を提出していることも記述されますが、しかし、これが敵対関係によると見るのはどうでしょうか。

ただ、その前年29年には北山善師が興門派官長になり、次いで応師が分離独立を言い出した時系列は実際のことでしょう。ただ、このころの官長職は八山持ち回りで、応師自身、明治24年4月7日付で興門派官長に就任しています(官報)

彰往考来さんは、どのような証拠から、当時の北石両山が敵対関係にあったと記されるわけでしょうか。

しかし以上の疑義とは別にご呈示の応師がせっせと漫荼羅本尊を収集していく奇行を文献証拠から解明するご賢察はなかなか読み応えがありました。そもそも「戒壇本尊」以外を認めない石山が、何ゆえ?にという興味を駆り立てるものはたしかにありますね。

まあ、わたしは、幕末の大火でお宝が消失した石山苦肉の策とは映じます。
何より、「戒壇本尊」の原本・禅師授与漫荼羅の買い付けに走った様はリアリティがあって、興味が惹かれました。

1135彰往考来:2005/02/01(火) 18:27:18

>1132−1134
犀角独歩さん、

>1987年に山口さんは、どこにいたのでしょうか。・・・妙蓮寺蓮光坊では・・・その当時、そこにいたかどうか・・・「富士から持参された」とは「富士大石寺から妙蓮寺蓮光坊に持参された」と読むのが自然

うん。このご意見には賛同できます。“富士”とは“富士大石寺”であるということですね。
ただ富士妙連寺から大石寺へ持参されたとも読めないかと思いました。
なお、『地涌の友』によれば、1980年に山口氏は蓮光坊在勤ですね。
http://www.fujimon.or.jp/b_syupan/b_jiyu-050.html
1987年はどこにおられたか資料はみあたりませんでした。

>石山に持参などするはずはありません

そうですね。片山師が持参などされるはずがないでしょう。私も山口師の記載が不思議でよくわかっていません。上記の貴説は非常に参考になりました。
なお、持参ということではありませんが、山口師は重須で重宝を拝見していますね。片山師の時代でしょう。
『創価学会の宗史観を糾す 第4章』 に
http://www.fsinet.or.jp/~shibuken/MAJI/M1/1-5.htm
*************************************
『佐渡国法華講衆御返事の疑論を糾す』(山口範道著)より
本消息は昭和42年に重須で拝見したが、紙幅も特大のものであり、署名花押の墨色が極めて濃く、ために異例であると見たのであって、本消息全体が異例であり偽点ありとみたのではない。いずれにしても小生が臨写した『署名花押集』の字形をもって、本消息の真偽について議論しても無為なことである。本消息が真書であることは、御本紙を拝見すれば納得されると思う。
*************************************
とあります。

>興門派

ちょっと時間をください。資料などを整理してお答えしたいと存知ます。

>ご呈示の応師がせっせと漫荼羅本尊を収集していく奇行を文献証拠から解明するご賢察はなかなか読み応えがありました。

ありがとうございました。もう少しでこの投稿も終了することができそうです。引き続きご教示をお願い申し上げます。

1136犀角独歩:2005/02/02(水) 06:23:37

彰往考来さん:

> 山口師は重須で重宝を拝見…片山師の時代

これは参考になりました。
また、考えを新たにするところがありました。
片山師の時代は北石不通用という感がどこかで固定観念化していましたが、蒙が啓けた気分です。有り難うございました。
そういえば、以前、達師の時代に執行師が石山を訪問、食事を振る舞われたという話を聞いたことがありました。

このような話は偏狭な旧学会眼、もしくは浅井さん辺りでは「身延の僧侶を大石寺に招き入れて謗法…」などという論評になるのでしょうが、馬鹿ばかしさにも程があります。大いにこのような通用はなされるべきですね。

有り難うございました。
続くご投稿を楽しみにしております。

1137彰往考来:2005/02/02(水) 07:41:11
>1134
犀角独歩さん、

>『明治32年には興門派は本門宗と改称しています(官報)ですから、明治33年当時で「興門派」という記述は不適切であろうかと存じます。

本件はご指摘のとおりです。ここで不十分な記載であったことをお詫びするとともに訂正いたします。

このあたりは、あいまいな記述をしている書籍があり、それらから得た固定観念でした。
その例をあげますと、
「【日蓮正宗】
 (前略)
富士門流は明治九年(一八七六年)に八本山が合同して日蓮宗興門派と名乗ったが、大石寺は離脱して、日蓮宗富士派と称し明治四十五年(一九一二年)に日蓮召集と改めて今日に至っている。(後略)」
『新版 仏教哲学大辞典』昭和60年、聖教新聞社、1345頁

もとより原因は、かかる書籍編集者や出版社にあるのではなく、ひとえに筆者である私の基礎知識欠如にあります。

石山と北山の確執の件は、追って投稿します。

彰往考来

1138彰往考来:2005/02/02(水) 07:43:00
>1137

訂正です。

誤:日蓮召集
正:日蓮正宗

1139犀角独歩:2005/02/02(水) 15:48:22

> 石山と北山の確執の件は、追って投稿

彰往考来さんのご賢察を楽しみにお待ち申し上げます。

1140名無し@富士門流:2005/02/09(水) 20:10:30

やはり正信会は、興風談所の影響もあって「脱・彫刻本尊」が進んでいるのでしょか。

正信会HPに連載されています、「日蓮大聖人伝『一切衆生と共に』」の第28回をみますと、

=========================
大聖人さまは、この法難の最中でもある十月一日、門下に対して、
 「釈尊は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年で出世の本懐を遂げられた。それまで大難をうけられたことは言葉に言い尽くせない程であった。そしていま日蓮は二十七年にして出世の本懐を遂げた。その間にいかに多くの大難を受けたかは各々がすでに知り尽くしているとおりである」(『聖人御難事』全一一八九㌻)
 と、この熱原法難によって、師弟ともに「不惜身命」の経文を身読しているのだと仰せになられました。そして、入信間もない熱原の農民たちが、不当な弾圧を耐え忍び、身命を惜しまずに法華経の信仰を貫き通したその振舞い、法華経に殉じたその姿こそ自身の「出世の本懐」であると表明されるのです。
=========================

とあり、出世の本懐=彫刻本尊のキーワードが出てきません。

さらに「二十七年にして出世の本懐を遂げた」に関する註には、

============================
【余は二十七年】
 釈尊は四十余年で「法華経」を説き、天台大師は三十余年に「摩詞止観」を説き、伝教大師は二十余年で「山家学生式」「顕戒論」を説いて出世の本懐を遂げました。大聖人は、建長五年 「南無妙法蓮華経」を唱え始めてから二十七年(弘安二年)で出世の本懐を遂げたと表明されました。熱原法難を通して師弟一箇の成道を得た法難の瑞相こそが、法華経色読の出世の本懐であるとされたのです。
============================

と、ここでも彫刻本尊に関する記述がみられません。

正信会の脱彫刻本尊後の、教学・理論構築は学会などにも影響を与えるのではないでしょうか?

http://www.fujimon.or.jp/daisyoden/daisyoninden.html

1141れん:2005/02/09(水) 22:20:11
名無し@富士門流さん、私も正信会は興風談所諸師の皆さんの真摯な研鑚による学術研究の成果を踏まえて‘脱彫刻本尊’の方向にあるようにも思えますし、この流れは、名無し@富士門流さんの読みどおり、恐らくは他の富士門系の宗教団体の教義にも波及し影響を与えていくだろうとも思います。

1142犀角独歩:2005/02/09(水) 23:24:55

名無し@富士門流さん:
れんさん:

横槍を入れるようで恐縮ですが、そんな評価するようなことでしょうか。
こんなことは半世紀前の『創価学会批判』(日蓮宗宗務院編)で、執行海秀師、宮崎英修師が既に指摘しています。

わたしはむしろ、「師弟一箇の成道を得た法難の瑞相」なんてことをまだ言っているのかと、言葉は悪いですが、呆れた気分になりました。

1143名無し@富士門流:2005/02/10(木) 01:20:47

>1142
犀角独歩さん、

いあ〜やはり寺院・教団は、信徒を抱えていますので、教義的な判断と教団運営上の政治判断とがありますから、特に大石寺系集団は「唯一絶対の本尊」を目玉に信徒を獲得してきた経緯がありますから、急な方向転換は政治判断としては厳しいのはしょうがないと思いますよ。

お客さんが離れれば、商売が成り立ちませんからね。

しかし「師弟一箇の成道」は関師の所論だと思ってましたが、昔から正信会では言われていたのでしょうか?

1144犀角独歩:2005/02/10(木) 01:27:09

名無し@富士門流さんは、お優しいですね。
わたしは、そんなお客さん商売は、弾劾します。
客が離れない前に、世間一般の善意の物笑いになるということです。
糞に味噌を混ぜることはないのです。

> 師弟一箇の成道」は関師の所論だと思ってましたが、昔から正信会では言われていたのでしょうか?

さあ、それはどうでしょうか。HPに出ていると紹介されてお出ででしたね。
昔は知りませんが、いまは言っているわけでしょう。
興師正嫡論からは卒業できないのは、関師だけですか?

1145名無し@富士門流:2005/02/10(木) 02:30:18

>1144
犀角独歩さん、深夜までお疲れ様です。

正信会や創価学会には、彫刻本尊に取って代わるものがないだけに大変だと思います。

保田妙本寺などは、「万年救護本尊」という彫刻本尊に勝るとも?劣らぬ?代替品があります。
それでも離脱直後の執事さんの論文では、彫刻本尊に疑義があることをほのめかすような記述こそあれ、偽物とまでは断定せずにいました。

しかし犀角独歩さんの研究と発表によって、大石寺と縁の深い寺院・団体も徐々に脱・彫刻本尊へ向かうのではないかと思います。

ところで石山系諸集団から、独歩さんの鑑別に対しなにか反論のようなものはないのでしょうか?

「日蓮正宗史の研究」を執筆された高橋粛道師も講演を聴かれていたといいますね。
発表より3ヶ月以上たちますが、創価学会批判や正信会批判に明け暮れ、宗旨の根幹に対する批判を無視していてはどうかと思いますけど、、、

1146名無し@富士門流:2005/02/10(木) 02:39:36

犀角独歩さん、

>興師正嫡論からは卒業できないのは、関師だけですか?

興師正嫡論から最初に卒業したのが関師ではないでしょうか?
彫刻本尊・日蓮本仏論を批判し、正信会から離脱したのが関師でしょうから。

今の興風談所の流れを、当時政治判断抜きに主張されたのが関師ではないかと思っています。
当然、二箇相承等の相伝疏類は正信会離脱当時から用いてませんね。真筆現存遺文による教学研鑚、宗祖の呼称を日蓮聖人とするなど、末法は無仏の時代とし釈迦本仏を主張しないところ以外は門下一般とかわらないと思います。

1147犀角独歩:2005/02/10(木) 06:29:12

名無し@富士門流さん:

関師に関するレクチャー有り難うございます。
不適切な表現は撤回し、関師にもお詫びします。

なお、わたしに関する批判はいまのところ、何も耳に届いていません。

1148真実 探求者:2005/02/10(木) 18:18:33
1141 れん さん <,、興風談所、、、波及、、影響、、>について、やっと、目鼻がついたようで何よりです、、。
 当HPの各諸氏が命がけ、とも思える、、言々を、重く受け取った、と判断します、、。 世の中、一度固まった信念のようなガンコさはだれしも所有しています、。 ただ、これからは、つらいでしょうが、かなりの部分での「思考的な柔軟性、、」など、?が求められるようです、。
 極端に申し上げれば「、、一夜が明けたならば、その人の思考〜判断力、、」などがガラリと正反対に移動するのも「、、やむなし、、」という、変節、、では無く、、柔軟性、、??のような見解、、??もある程度は、、必要、、??でしょうか、? この点から「、、現状打開のスタート、、」が発せられるような気がいたします、。期待します。 早々、、。

1149犀角独歩:2005/02/10(木) 18:43:18

れんさんにも、わたしはお詫び申し上げます。

「坊さん、しっかりしろよ。寺に籠もって研究もいいが、煮え湯を飲まされた俺達の苦悶を忘れないでくれ。一書の被害とは言わないくれ。なぜなら、あなた方は、俺たち、在家を教導するために頭を剃って、袈裟衣を着ているんだろう」という思いがあるからでした。

れんさんに、講義をしたわけではありませんが。直しても、すぐに鎌首を擡げる獰猛な性格、申し訳なき次第です。

1150犀角独歩:2005/02/10(木) 18:47:33

【1149の訂正】

誤)一書の被害
正)一緒の被害

誤)講義した
正)抗議した

失礼しました。

1151れん:2005/02/10(木) 21:08:48
1149 犀角独歩さん
私に対しては、お気になさらないで結構です。寧ろ、犀角独歩さんが1149に吐露されたところ、共感致しているところです。
1148 真実 探求者さんレス有難うございます。何分私人間的に未熟なもので、こちらの皆さんから沢山のことを学ばせてもらっている者の一人ですので、これからもご鞭撻の程お願い致します。

1152犀角独歩:2005/02/10(木) 21:26:25

れんさん、有り難うございます。
真実 探求者さん、種々レス有り難うございます。

1153名無し@富士門流:2005/02/11(金) 00:12:08

>1147
犀角独歩さん、今晩は。

そうですか、真正面からは戦えないのでしょうね。
安永弁哲教授の時は、どのくらいで「偽作論を破す」が出てのでしょうか?
私の手元にあるのは「大石寺の正体」なので、平成になってから出たものなので「板本尊偽作論」が何時初版出版されたかがわかりません。

恐らく創価学会や正信会であれば、「学会がついに大御本尊を否定!!」などの大見出しで機関紙の一面に出るものと思われますけど、犀角独歩さん相手では宗門側も戦う術が無いのでしょうね。

いずれにしましても、彫刻本尊からの覚醒には最良の一書ですね。
大石寺の信徒さんもさることながら、学会員や正信会の方にもどんどん読んでいただきたいですね。

1154犀角独歩:2005/02/11(金) 20:24:11

名無し@富士門流さん、過分なお言葉は恥ずかしいだけですので。

わたしは、こう考えているのですよ。つまり、わたしが解明したことは、昭和53年時点で、阿部さんも、河邊さんも、もっと、言えば、石山のその他かなりの人がわかっていた。まして、なおさら、難解な蓮師古文書を読む解く正信会(山口さんが知っていたなんて話出ましたっけ?)の、それも興風談所の諸師がわかっていないはずはないでしょうね。

生来の江戸っ子弁で「てめえら、ざけんじゃねえや、わかってんだろうが」と、啖呵の一つも切りたい気分だと言うことですよ。

まあ、そんななかで、いちばん善意と感じてきた興風に代表される正信会だから、尚更のこと、「何を惚けてるんでぇ」と言いたくなるわけです。たしかに、わたしが日教研で発表したとき、高橋さんをはじめ石山の若い坊さんはいましたよ。しかし、その後ろに…、まあ、名前を書くのはやめましょう…、正信会の坊さんも、たしかにいたわけです。それなりの研究をし、内外から古文書研究では尊敬も集めている人ですよ。となれば、『河邊メモ』の段階ではわかっていなくても、いまは少なくともその事実を認識しているわけです。

小乗・大乗なんていう考えは、わたしはまあ、あまり証憑しません。
しかし、富士門で言えば、大乗の気概は、坊さんにはあるんでしょう。それが研究で名を挙げた、古文書が読めた、だからと言って、それまで信者を騙くらかしてきた諸罪が贖えるわけじゃないですよ。衆生を救ってはじめて大乗菩薩。そうしなきゃ、名は蓮祖・興師に籍りても自坊に閉じ籠もって古文書の研鑽ばかり、過去の反省ゼロ、衆生済度なし、これじゃ、彼らが小乗と貶す僧侶より、悪いことになる。

わたしの憤りは以上のような形です。わたしは、怒っているんですよ。それも在家よりも坊さんに、坊さんのなかでも、殊に、わかって、惚けて、反省もしない連中にです。
さて、正信会の諸師が、どうなのか、それは、過去を清算するために、嘘出鱈目言って人々を先導するのに使った、彫刻と御肉にちゃんとした見解を述べ、謝罪の一言を吐け、坊さんとして認めるのは、そこからだと言いたいわけです。

独歩独りが喚いている? いやいや、わたし独りの言葉にしてはいけないのです。
この点を徹底して追及しなければならない、石山の坊さんは当然のこと、正信会と雖も例外ではありません。

いまだに本門戒壇がどうのこうのという亡霊を追っているアナクロニズムは論外にしろ、少なくても富士門の善意である僧侶が、なんですっとぼけているんだという憤慨が、わたしの正信会の坊さんに対する辛口発言であるわけです。わたしの駄文鑑別を読むより、自分でそんなことわかるだろうと言いたいわけです。なにせ、わたしなんかと違って、何回の古文書が読め、さんざん興師だ何だの漫荼羅を集めて解析して、写真集に、座配図までまとめて、「これは興師、これは道師だ、時師だ」と、やってきているわけですから。

わからないと思って在俗信者こけにしているのか?、仏教学会やら、学僧、知識人にちやほやされて、それですましている場合じゃないだろうと言いたいわけです。

ま、名無し@富士門流さんに怒っているのではありません。レスに肩を借りて申し訳ありません。

それと、れんさんを含めて、お願いしますが、わたしが憤懣を、よそにどうか彼らの学問的成果は、引き続き、ここで紹介してください。その点は、わたしを含めて、皆さん、勿論、興味を懐かれていることでしょうから。

しかし、どうか忌憚なく、名無し@富士門流さんも、れんさんもご叱正ください。
わたしの思い違い、目の届かないところもあるでしょう。
さらに言えば、問答名人さん、愚鈍凡夫さんのご意見も、頂戴したいと希望しています。

失礼しました。

1155犀角独歩:2005/02/11(金) 20:27:04

あっと、ご叱正は、わたしへの、という意味です。
下手な文章でわかりづらいと思い、補足です。

1156名無し@富士門流:2005/02/11(金) 21:31:22

犀角独歩さん、やはり創価学会も正信会も、急な方向転換は出来ないのが現状なんだと思いますよ。
それでも私の知る限りでも、学会では昭和40年代後半に民主音楽協会のM氏、昭和50年代には正信会の蓮華寺住職K師が、同じく昭和60年代初頭には当時興風談所所長であった関師が、彫刻本尊を否定しそれぞれの組織から離れています。


ま〜いずれにしましても、現状「彫刻本尊信仰圏」を覚醒させることができるのは独歩さんの著書しかないのは事実です。

1157犀角独歩:2005/02/11(金) 21:55:49

名無し@富士門流さん:

熱にうなされている病人に鞭打ってますね(笑)
昼間、エホバの鞭打ちの生々しい話を聞いてきたところです。

M氏、K師は伏せ字で、関師は先に話題が出たので実名ですか。
うん、そうですか。関師、それで、いまはどうなさっているのでしょうか。
ま、いいです。これは独り言。譫言でした。

1158名無し@富士門流:2005/02/11(金) 23:28:52

>1157
犀角独歩さん、そうですね。既に書籍も出版されていることですし、何も伏字にすることないですね。

現西山系の僧侶で松本師と、日蓮真宗の久保川師ですね。

松本師は学会員時代に、正本堂供養金の返還を求めて裁判まで起こしていますね。
司法系のテキストにも時々登場する、「板曼荼羅事件」です。宗教関連判例集にも出ています。

松本師が「蓮悟空」のペンネームで出版した、「変質した創価学会」は読ませていただきました。
師はご自身がはじめて、「万年救護本尊」が本当の大御本尊であると主張されたと書かれています。

万年救護本尊を前面に押し出し、彫刻本尊を偽物と主張した上で、裁判では彫刻本尊の鑑定を訴えています。

しかし学会は、妙本寺の本堂および客殿を次々と改修し、さらには盗聴行為まで行い、妙本寺の篭絡と監視を行ったわけです。

ついには松本師も妙本寺より離れ、日蓮宗から離脱した日郷門流で結成されている大日蓮宗の僧侶となり、現在は西山本門寺系の僧侶ですね。

しかし松本師の彫刻本尊批判も、決定的なものがなかったと思います。
しつこいようですが独歩さんの著作は、言い方は失礼ですが、字が読めなくとも目で見て「視覚」で判断できるのです。
これを決定的といわずになんといいましょうか。

1159彰往考来:2005/02/12(土) 07:26:57

>1153 名無し@富士門流さん、

安永弁哲氏の『板本尊偽作論』は昭和31(1956)年に東京の多磨書房というところから発刊されています。

http://opac.ndl.go.jp/Process?MODE_10100001=ON&amp;SEARCH_WINDOW_INFO=01&amp;THN=4&amp;INDEX_POSITION=0&amp;DB_HEAD=01&amp;SORT_ORDER=01&amp;SHRS=RUSR&amp;QUERY_FILE=6445052252_7878924&amp;TA_LIBRARY_DRP=99&amp;DS=0&amp;CID=000000955724&amp;SS=01&amp;SSI=0&amp;SHN=4&amp;SIP=1&amp;LS=6445052252

なお、同書は平成元(1989)年に鹿砦社から再刊されています。

http://opac.ndl.go.jp/Process?MODE_10100001=ON&amp;SEARCH_WINDOW_INFO=01&amp;THN=4&amp;INDEX_POSITION=1&amp;DB_HEAD=01&amp;SORT_ORDER=01&amp;SHRS=RUSR&amp;QUERY_FILE=6445074288_7878973&amp;TA_LIBRARY_DRP=99&amp;DS=0&amp;CID=000002048379&amp;SS=01&amp;SSI=0&amp;SHN=4&amp;SIP=2&amp;LS=6445074288

ついでにいうと日蓮正宗からの反論は昭和31(1956)年9月30日に『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』として大日蓮編集室から発行されています。この本の著者は日蓮正宗布教会で代表は細井精道師です。

彰往考来

1160犀角独歩:2005/02/12(土) 11:23:31

名無し@富士門流さん:

> 松本師…ご自身がはじめて、「万年救護本尊」が本当の大御本尊であると主張…

そんな馬鹿な。そもそも、「大本尊」とは蓮師直筆であって、はじめに、その主張をした人があるとすれば、蓮師その人となるでしょう。

また、たぶん、第16大本尊が「万年救護本尊」もしくは「上行始顕」と取り沙汰された昔から、この本尊は、そのように扱われてきたのではないでしょうか。いま、いちいちに資料を挙げる手間を億劫と感じますが、所謂「本門戒壇の大御本尊」究竟と言われるより、むしろ、歴史は古いのではないでしょうか。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html

近くは山川師、山中師にしても、この「大本尊」を特別に扱っていますね。

「極めて重要な御内観を示しためえるもので、山川智應博士は『本因妙・本國土妙御顕発の御本尊』(「日蓮聖人研究」第2巻507頁取意)としている。即ち其の特一無比の御讃文に於て御自身の本地を顕発したまうと倶に、本國土妙の代表たる天照・八幡二神の本地を示されたのであって、斯くの如き儀相は他に全く拝することができない。尚、御讃文中『大本尊』と称されたのも此の一例のみ…」(『御本尊集目録』23頁)

「本当の大御本尊」も何も、蓮師が「大本尊」と認めたのに、それをはじめて自分が言ったとは、もはや暴言の部類に属するでしょう。

やや補足すれば、以上のような次第であれば、他の「漫荼羅」と図示されるところを、「大御本尊」と称することは聖意を黷すというのが、わたしの主張してきたことでした。

なお、拙書、ご評価いただいた点については、素直に感謝申し上げます。
有り難うございました。

1161犀角独歩:2005/02/12(土) 19:58:35

名無し@富士門流さん:

ちょっと、確認のためにお答えいただきたいのですが、松本さんが、万年救護=大御本尊を主張したのは、いつ頃ですか。

わたし、今、記憶を辿っているのですが、昭和50年頃でしたか、小野寺さんにはじめて会ったのです。まだ、「日了」と「法皇」なんてことまで言いだしていませんでした。宗派も立てておらず、実業家として、スーツ姿で、町中で会いました。

で、家まで、車で送ったことがあったのです。その時、「あなたは、大石寺の御本尊を本門戒壇の大御本尊だと思いますか?」と突然、尋ねられた。呆気にとられていると「それは、違うのです」とこう言い切ったわけです。この段階で「本因妙大本尊」を作っていたかどうか、また、第16大本尊をパクった何某かの本尊を戒壇本尊と言っていたかどうか定かではないのですが、松本さんと、小野寺さんの言い出し順は少し気になります。

時系列をご教示いただければ有り難く存じます。

1162名無し@富士門流:2005/02/12(土) 20:55:50

犀角独歩さん、今晩は。

>「本当の大御本尊」も何も、・・・

これは私の書込みの仕方が悪かったですね。
あくまでも主旨です。

松本師の御主張は、後ほど資料をもとに再度ご紹介致します。
時系につきましてもその際に書き込ませて戴きます。

チョッと出かけてきます。失礼します。

1163名無し@富士門流:2005/02/12(土) 23:51:05

犀角独歩さん、「変質した創価学会」の最後に「著者から読者へ」という頁があり、その最後の行は以下のようになっていました。

==================================
なお、万年救護の大本尊を、大聖人滅後(約七百年)始めて公に顕したのはこの本以外にないことをここに明記します。

昭和四十七年六月十六日
                      蓮 悟 空
==================================

以上、ご参考までにお知らせいたします。

1164犀角独歩:2005/02/13(日) 00:06:19

無し@富士門流さん:

これは勇み足でしょうね。
だいたい、万年救護という名自体、たぶん、要山系が付けた名称でしょうし、石山を含め、あちらこちらに第16大本尊のレプリカがあることは、それをかつて公にしたことがあったからでしょうね。そもそも、石山の大講堂にもこの模刻は奉安されているわけですから。

昭和47年6月16日、つまり、阿部さんが『国立戒壇の誤り』を刊行した四日後と言うことですね。まだ、小野寺さんは立宗していなかったでしょうね。

有り難うございました。

1165名無し@富士門流:2005/02/13(日) 00:39:02

犀角独歩さん、「宗教関係判例集成」7巻掲載の「板まんだら事件」の頁によれば、原告は松本師のほか16名がいるようです。

この16名が幻の法華講、万年講のメンバーであろうと推定されますが、小野寺さんや玉井さん又は高橋麦洲さん等もメンバーだったんでしょうか?

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_066.htm

1166名無し@富士門流:2005/02/13(日) 01:38:56

>1159
彰往考来さん、

ありがとう御座います。

とき既に遅かったようで、せっかくのリンク先が拝見できませんでした。
申し訳ありません。

1167彰往考来:2005/02/13(日) 08:23:24
>1166 名無し@富士門流さん

リンク先は国立国会図書館のNDL−OPAC(資料探索)
です。国会図書館のHPを開いて著者名で安永弁哲といれ
れば、拝見できるはずです。所蔵図書の書籍名、著者、出
版社などの情報です。

私は「板本尊偽作論」は平成元年に再版されたものしかもっ
ていいませんので。昭和31年本がいつ発刊されたかわか
りませんが、安永氏は昭和30年に脱稿されていますので
昭和31年の年始め、2月ごろの出版であろうと思います。
そうすると、日蓮正宗の反論は約7ヶ月後に出版されてい
ますので、かなり早い対応と思います。

犀角独歩さんの著書は昨年11月ごろでしたっけ。そうす
ると、そろそろ反論がでてくるのかなというところではな
いでしょうか。ネット上で反論していただくと、早いだけ
でなく我々も自由に拝見できるのでありがたいのですけど
ね。

1168犀角独歩:2005/02/13(日) 10:26:35

彰往考来さん:

わたしも、石山から反論を楽しみに待っております。
「図解」に対しては「図解」を持って、という条件を付してあります。

それにしても細井精道師主筆なる『悪書板本尊偽作論を粉砕す』は、歴代住職への弁明は、まあ、当然としても、彫刻本尊に係る本論はまるで駄目でしたね。「どうやって言い逃れるのか」という詭弁の参考書でしかなかったというのが、いまの印象です。

同じ轍を、わたしへの反論で石山が繰り返さないことを希望するばかりですが、まあ、高望みはしません。「体質」というのは変わらないし、その集団の構成員に伝染しているものですから。

1169犀角独歩:2005/02/13(日) 14:52:19

1165 名無し@富士門流さん


> 「宗教関係判例集成」7巻掲載の「板まんだら事件」

思い起こしてみれば、ご呈示の資料を真面目に読み直していないことに気付きました。
ご呈示、有り難うございます。

また、ご紹介の現宗研・所報第31号:6頁文に就き、重箱の隅をつつくようですが

> 西山本門寺が興門の正嫡
> 現在伝統宗門…貫首から直接師資相承

と、さりげなく記された件は、実に気になりました。

1170犀角独歩:2005/02/19(土) 14:34:07

> 1167

安永弁哲著『板本尊偽作論』は『冨士年表』に拠れば、昭和31年6月10日となっていますね。

1171彰往考来:2005/02/20(日) 20:26:01

禅師授与漫荼羅の動向について〔12〕
1124-1126、1131の続きです。
禅師授与漫荼羅の動向について〔11〕で、“このころ大石寺は興門派からの離脱を画作中で、明治33年9月18日に分離独立が認可(『富士年表』383頁)されているように当時の興門派である北山本門寺とは敵対関係であった”と記しましたが、この記載内容に疑義が生じましたので、ここで撤回いたします。また同〔11〕で禅師授与御本尊が法道院に奉納されたのが明治43年と記しましたが、明治41年6月1日の誤りです。併せてお詫びするとともに訂正いたします。

富士大石寺の大石日応師は、明治24(1891)年に興門派の管長になっています。この前後の北山本門寺の興門派管長就任を『富士年表』でみてみますと、明治20(1887)年に天野日観師が、明治29(1896)年に芦(葦)名日善師が興門派管長に就任しています。この関係で富士大石寺の日応師は芦名日善師など北山関係者と懇意になったのではないかと思われます。このころ富士大石寺は興門派からの離脱を画作中であったのは事実で、明治29年には北山の釈勇道師が『大石寺分離獨立理由書辨妄』を出すなどの動きはありましたが上層部同士は通じていたのではないかと考えます。

大石日応師が富士大石寺管長時代(明治22〜41年)前後の北山本門寺歴代を『本門寺並本末寺院縁起』(昭和57年、大本山本門寺)で調べてみますと、(26,125頁)
明治15年 卅五世  天野日観就任(明治27年逝去)
明治21年 卅六世  榎田日達就任(明治37年逝去)
明治25年 卅七世  保田日忠就任(大正5年逝去) 
明治26年 卅八世  泉 日啓就任(明治29年逝去)
明治29年 卅九世  葦名日善就任(大正9年逝去) 
明治33年 四十世  泉 日仁就任(大正7年逝去) 
明治36年 四十一世 榎田日達再任
明治37年 四十二世 保田日忠再任
明治39年 四十三世 斉藤日厚就任(昭和16年逝去)
明治43年 四十四世 丹治日梁就任(大正11年逝去)  (引用者注:敬称略)
『本門寺並本末寺院縁起』は「このように廿三年の間に九人の交代 (中略) 明治廿一年から四十三年にかけては宗門並本山にとって教団の胎動期であり樹立の時でもあった。それ故不安定と同揺をかくしきれぬ一面があった。」(128頁)と記しています。奥歯に物が挟まったような書き方ですが要は疲弊し混乱していたということなのでしょう。片や富士大石寺では日応師が20年近く長期政権を樹立していたのと対称的で興味深いことです。
さて問題は北山本門寺が漫荼羅本尊までも売りに出す動機です。『本門寺並本末寺院縁起』では、「卅八世日啓上人は本山の実状を危惧し護持安泰を願い首頭檀越 総信徒に依嘱を発し「(中略)浄財を據集し用て維持の基本とせんとす」と述べ退山なされたのである。」(128頁)とあります。つまり「三十八代泉日啓師は護持のため浄財を集めることを願い退山している」わけです。(『道心12号』山口始「富士門流諸山の歴史と現状(一)」79頁) ここでのキーワードは “ お金 ” です。そして金集めを命ぜられた如き立場の三十九代に葦名日善師が明治29年に就任し、同年に興門派管長にも就任しているというわけです。葦名日善師は4年で四十代を泉日仁師に譲り、そのあと2代再任が続きますが葦名日善師自身は再任されることなく大正九年に亡くなっています。興門派管長に就任したこともある葦名日善師が大石寺の日応師と関係があった最有力の北山歴代であると考えます。日善師の了解のもと日応師は種々の御本尊を購入したのではないでしょうか。しかし善師が禅師授与御本尊を売ったでは洒落にもなりませんね。

1172彰往考来:2005/02/20(日) 20:26:29

禅師授与漫荼羅の動向について〔13〕

平成11(1999)年11月17日付けの『創価新報』は、法道院が禅師授与御本尊を入手した経緯について、日蓮正宗内の老僧の証言を紹介しています。この老僧とは『続・法主詐称』(2004年、鳳書院)121頁記載の類似内容から故山口範道師と判断します。山口範道師の逝去により『続・法主詐称』では名前を公表したものと思われます。それはともかく『創価新報』によれば、「明治になって北山が金に困って日禅授与の御本尊をブローカーを通じて売りに出した。それを法道院の開基である五十六世日応上人が買った。応師が買う際、ブローカーから北山から買ったとは言わないでくれと口止めされたという」とあります。この記事の信憑性はわかりませんが、重宝を売るとすれば経済問題であるのは納得できる理由です。
口止めの件は北山関係者が石山関係者に販売したとバレたくなかったのかも知れませんし、落ちぶれた華族が先祖代々の家宝を売る時のように、世間体やプライドから出処を秘匿するのと同じ理由のどちらかなのかわかりませんが、いずれにせよ口止めは有り得ることです。プライドが高い人たちでしょうから“金に困って売った”というのではみっともないということなのでしょう。
ではこのころ、北山本門寺は金に困っていたのでしょうか。調べてみるとそのような事実がありました。「明治卅二年宮内庁告示上地林野特売規定公布」です。もちろんこれは経済的な問題の一例にすぎませんが、『本門寺並本末寺院縁起』によれば、
「上野林野の払下げは明治卅九年から同四十四年にかけ行なわれ、(中略)合計 四十七町八反七畝二十五歩(以上払下げ面積)」(129頁)とされています。
同様の事例が大石寺にもあります。『法道院百年史』(平成10年、法道院)36頁に「明治三十三年四月、『山林下戻法』が施行され、翌三十四年三月、大石寺は上地の払い下げを出願した。また明治三十四年十二月に十五日、大石原、千居、向原、塔原等の林野合計三十七町三反八畝十四歩にわたる御料林払い下げを出願、翌三十五年五月二十六日、御料局に御料地払下願を提出した。明治三十九年九月二十五日、ようやく許可が下り、出願以来六年の歳月を経て土地の有料払い下げ受けることができた。払い下げ金額は土地、立木合計三万二千百六十六円九十銭であった」とあります。このケースの場合、同時期同案件で隣接する場所でしょうから富士大石寺の払い下げ金額から北山本門寺の払い下げ金額を類推できます。北山本門寺の払い下げられた土地は富士大石寺の払い下げられた土地の1.28倍の広さですから、払い下げ金額はおよそ4万1千円程度と推定されます。
『法道院百年史』77頁に明治33年の頃は「三円五十銭はそのころの白米半俵(三十キロ)ほどの値段である。現在の金額に換算すれば一万四、五千円くらいであろうか」とあり、この換算係数で計算しますと払い下げ金額の4万1千円は現在の価格で1億7500万円程度となります。当時とは生活水準が異なりますので現在の貨幣感覚ではこの十から百倍程度ではないでしょうか。もちろん、北山本門寺では御料林払い下げだけではなく諸堂の修復、梵鐘の改鋳などもあり(『本門寺並本末寺院縁起』129頁)大金が必要とされていたことが分かります。

by 彰往考来

1173彰往考来:2005/02/20(日) 20:31:54

犀角独歩さん、

上記1171,1172の投稿で貴1134,1139のご質問への回答とします。

1174犀角独歩:2005/02/20(日) 20:49:23

彰往考来さん、ゆっくりと検討させていただきます。

しかし、当時の石山、北山に比して、そんなに金に余裕があったのでしょうか。

1175彰往考来:2005/02/21(月) 07:46:50
>1174 犀角独歩さん

>ゆっくりと検討 

お手柔らかにお願いしますよ。

当時の石山も金には余裕があったとは考えられません。
応師もかなり有力信徒に借金をしています。そのあたりの事情
で、石山が漫荼羅を購入せず(というよりできず)応師は有力
信徒に販売したと考えています。
色々な資料を読んでいますと、応師は経済感覚がすぐれていた
ようで、“経営者”ともいえるほどです。それが20年近くに
わたる長期政権の樹立できた理由でしょう。すべて“金”。
そういねば、現在の日蓮正宗も長期政権ですね。

1176彰往考来:2005/02/21(月) 07:47:49
>1175

訂正

誤:そういねば
正:そういえば

1177彰往考来:2005/02/24(木) 12:46:09
>1170 犀角独歩さん、

先日、国会図書館で確認しましたが安永弁哲著『板本尊偽作論』はたしかに
昭和31年6月10日の発行でした。

1178犀角独歩:2005/02/25(金) 13:28:55

彰往考来さんの応師分析を通読して思うこと。
「金に困った北山」という側面(その実否派別として)はわかるものの、では、何故、そんなに躍起になって禅師授与漫荼羅を石山方が買いに走ったのか、その理由が今一つ明瞭になっていないと思えます。

石山独立と禅師授与漫荼羅の購入の因果関係はどんなものでしょうか。あるかないか、どうでしょうか。仮に「あり」とすれば、独立していくのに、別派になる北山のお宝を買い取って何の得があるのか。敢えて、短絡すれば、やはり彫刻の原図であったからとしか考えようがありません。

1179彰往考来:2005/02/26(土) 09:38:30

>1178 犀角独歩さん、

>何故、そんなに躍起になって禅師授与漫荼羅を石山方が買いに走ったのか、
その理由が今一つ明瞭になっていない

これは資料調査からの考察では限界がありますね。犯人は証拠を隠匿するも
のですからねえ。とはいっても鑑識では指紋やら遺留品やら足跡などを総合
して、犯人を追っかけていくものですが。なかなか刑事コロンボや名探偵コ
ナンのようにうまくはいきませんね。う〜ん。

>石山独立と禅師授与漫荼羅の購入の因果関係

これは何とも申し上げられないですね。一言でいえば私には判らないという
ことになりましょうか。応師が御本尊を買い漁ったのは、石山としてではな
く、法道会での動きであったと考えています。もちろん応師は法主ですから
応師=石山という図式もありでしょうが、応師が購入した御本尊はすべて在
家信徒などにばらまかれているわけです。一幅として当時石山に入ったもの
はありません。(昭和年代に奉納されたものはあります)
禅師授与漫荼羅も当初は法道会で所有されていたわけです。(法道会は昭和
35年に法道院と改称しています)この点が問題を解く鍵であろうと思うの
ですが、まだまだそこまで調査考察が進んでいないのが実情です。
ただ、石山独立のために“焼失した”戒壇御本尊を再建するために見本とい
うか下書きが必要だったと考えるなら因果関係は有りということになるので
しょうね。でもそこまで言いきるには資料、考察が少ないですね。否定はで
きませんが。ただひとつ言えることは
明治41年 応師禅師授与漫荼羅を入手
明治44年 熊田葦城著『日蓮上人』で戒壇御本尊の写真公開
明治45年 日蓮宗富士派から日蓮正宗と改称
という時系列になっているということです。そして大正の初めに姉崎博士
や山川智応師などの他門徒に戒壇御本尊をみせているのです。
これをどう考えるかでしょうね。

>短絡すれば、やはり彫刻の原図であったから

そうなんですよね。最初はそうではないと考えていたのですが、調べれば調
べるほどそこに近づいていく気がします。最近は「さてはそうだったか」と思
っているんですよ。
今、犀角独歩さんが以前おっしゃっていた、種々ある戒壇本尊図と石山の火
事の件をまとめていて、ミニ発表会オフででも申し上げたいと考えているん
ですけどね。できる限り出席して発表させていただきたいですね。日程調整
できればいいなあと願っています。

1180犀角独歩:2005/02/26(土) 17:58:48

1179 彰往考来さん:

>> 彫刻の原図
> 「さてはそうだったか」と思っている

ようやくとコンセンサスが近づいてきたと。嬉しいですね。
ところで、明治41年から45年までを挙げていらっしゃいますが、これは既に言われてきたことですね。考証をされるのであれば、さらに荒木清雄の動向を追ったほうがよろしいでしょう。
たとえば、

明治30(1897) 9.20 佐藤慈一〔日昇〕荒木清雄を同伴し大石寺分離独立の件につき内務省久米社寺局長に面談(院65)(富士年表 P380)

大正4(1915)11.11 荒木英一著 聖教の正義刊(刊記)(同 P396)

など。まあ、この点は、彫刻本尊の歴史・教学考証という鑑別書の続刊で書こうと思っている点ですが、発表いただけるのであれば、頼もしい思いがあります。


ということで、是非、発表オフ会の件、お願いしたいと思います。
本日、三学無縁さんとも、そんな話で一頃盛り上がって帰ってきたところです。

オフ会の開催曜日。この前は、最終組はけっきょく朝まで、大激論で始発で帰る始末。
これだったら、どこか一泊できるところでやったほうがよかった思ったぐらいです。
そんなこともあって、次の日が休みのほうが…、そうなると、やはり、土曜日のほうが良いと(笑)

会議室があり、さらにそのまま泊まる人は泊まれるような場所を探すのも一考か、などと考えています。

発表は、お1人30分の予定、出来たら火事の件に絞っていただけると有り難く思います。
彰往考来さんが、彫刻本尊図に触れてくださるのであれば、わたしも、件の持国「天玉」に関して簡単に説明しましょうか。まあ、わたしは4月を控え、現段階では発表を控えようとは思っているのです、そろそろ、五月蠅いことになってきていますので。しかし、黙りを決める気は毛頭ありません(笑)

3月の19日(土)・20日(日)、26日(土)・27日(日)の4日間のどれか。
19日でしたら、ご都合は如何ですか。
なお、ご都合のレスは『オフ会開催案内』スレッドでお願いいたします。

1182犀角独歩:2005/03/09(水) 13:00:15

>「『おにくげ』について教えてください。」54 一談家さん


> …板曼荼羅…蓮祖が建立……ほとんど無い

ええ、わたしも当然そのように思います。
少なくとも、明治44年の段階で撮影された彫刻本尊は、その中央題目・四大天玉・愛染/不動の一部など、禅師授与漫荼羅の原本に臨模・作為したことは明白です。

また、全体のレイアウト(全体の大きさから中央題目が占める割合)は弘安2年10月時点ではなく、間違いなく弘安3年5月を模しています。弘安2年10月図示では、中央題目は宙に浮く如く、小さく書されています。しかし、弘安3年5月時点ではずっしりと地に付けたように大きく書される変化があります。また、「經」旁は、弘安2年10月の時点では [一/一/乙]で、これが弘安3年5月の時点では [一/ツ/乙]と、[くくく]と楷書体で示される部分の崩し方に変化があります。彫刻本尊の筆法は弘安3年5月に同じ「ツ」となっています。 それにもかかわらず、弘安2年10月12日の日付を刻んだのは、ひとえにこの造立当時、『御本尊集』に類するものがなく、漫荼羅図示に変遷があることを制作者は気付かなかったからでしょう。また、禅師所漫荼羅では、この点はさらに特異性を示し、この点を補正して原本していることが窺えます。しかし、弘安2年10月時点と筆法が変遷していることを、これまた制作者は気付けなかったのでしょう。

> 歴史上に書き止められた戒壇板曼荼羅に書かれている内容に変遷が有る

そのとおりですね。憲師、完則、量師、院師、それぞれ違いますね。
なにより、以前は板であるとというのに、達師に至っては丸太板であるというわけですから、この違いは決定的です。

> 日顕上人様

この人は、一切、ご存じでしょう。
わたしの書いたことを読み、「おお、いいところまで、感づいてやがるなぁ」と、持ち前の早口、べらんめぇで呟く姿が目に浮かびます。

1183一談家:2005/03/09(水) 23:44:09

犀角独歩さん

>また、禅師所漫荼羅では、この点はさらに特異性を示し、この点を補正して原本していることが窺えます。しかし、弘安2年10月時点と筆法が変遷していることを、これまた制作者は気付けなかったのでしょう。

どういう意味でしょうか、意味が取れません。そのまま読んだら、禅師授与曼陀羅も偽物であると?

1184犀角独歩:2005/03/10(木) 16:36:02

1183 一談家さん:

まず、打ち間違いの訂正。「禅師所漫荼羅」は禅師授与漫荼羅です。

ここで記したことは、禅師授与漫荼羅の「經」旁は [一/ソ/乙] となっています。しかし、これが蓮師の通常の筆法とは違うと気付きはした。故に [一/ツ/乙] と訂した。ところが[ツ] 部位は弘安2年10月の時点の筆法では横棒一本 [一] と書されていることまでには気付けなかったという意味です。

> 禅師授与曼陀羅も偽物

さて、この点はどうでしょうか。ただし、はっきりと言えることは、糸扁を含めた「經」の筆法、また、この次の研究発表会で時間があれば述べようと思っている大持国天玉の「天玉」の筆法は、他に例を見ない書き方となっているのは事実です。

1185一談家:2005/03/10(木) 17:12:01

犀角独歩さん

仰っておられること自体は判りました。しかし、私のますます疑念は深まりました。蓮祖の真筆曼陀羅なら、訂正する事は有りえないと思うからです。変だと思ったから訂正した。薄々は少なくとも、この禅師曼陀羅自体が偽物では無いかと気づいていたと私は思います。

1186犀角独歩:2005/03/10(木) 23:24:13

1185 一談家さん:

禅師授与漫荼羅を真筆扱いしているのは、富要ぐらいなもんですからね。
さてしかし、この点は、どうでしょうか。

次回の研究発表会で、彰往考来さんのご賢察も参考にさせていただくのを楽しみにしております。

1187犀角独歩:2005/03/29(火) 23:44:19

石山彫刻本尊は禅師授与漫荼羅の臨模・作為、わたしのこの説で、石山は揺れているようですね(笑)

1189犀角独歩:2005/03/30(水) 00:05:27

わたしと実際に面識のある未だ石山下にある方々、「魔女狩り」にはご注意を。
すべての裏は取って置いてください。来るべき、事実隠しに愚行に喘ぐ断末魔の逆襲に共に備えましょう。しかし、事実は、何があっても動じません。
石山彫刻本尊は禅師授与漫荼羅の臨模・作為、場合によっては、テレビ報道その他にも訴えていく所存です。

もう、こんな咒物崇拝の土俗信仰にはピリオドを打ちましょう。

また、創価学会その他有志の皆さん、かつて騙された彫刻本尊から、一日も早く卒業してください。蓮師の遺志は、こんな彫刻にはありません。そんなものに執着しなくても、信仰は成り立ちます。

1190れん:2005/03/30(水) 07:13:35
切り文チックな引用になりますが、四信五品抄に「荊谿の云く『一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり』と云々、其の中に現在の四信の初の一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋・十方三世の諸仏の出る門なり」「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」と蓮師が述べてますから、石山彫刻本尊を卒業しても、充分蓮師の指向された‘法華信仰’は成り立つでしょう。三宝義も日蓮本仏を捨てて時師撰の「日興上人御伝草案」に記された「本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫常住不滅我本行菩薩道所成寿命今猶未盡復倍上数の本仏也。法を云へば妙法華経の涌出、寿量以下の十四品本極微妙諸仏内証八万聖教の肝心一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経也。弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師也」に回帰すれば、蓮師の祖意に一歩近づいたものとなるでしょうね。

1191犀角独歩:2005/03/30(水) 09:34:38

「…我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所願の三身にして、無始の古仏…仏、既に過去にも滅せず未来にも生ぜず…」

と『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』に云う以上、れんさんが引用される時師文献は、その意を受けたものであり、つまり、蓮師ばかりではなく、興門上古では、当然のこととして、釈尊本仏は至極であったことが窺われますね。

1192吉祥仙人:2005/03/31(木) 05:45:48
 犀角独歩さんへ

 >1189

 正直言って、私は恐ろしいのです。

 例えば、今まで親だと思っていた男が、実の親を殺した敵だった、ただの養父だった。と言うような。

 三大秘法の中の一大秘法「本門戒壇の大御本尊」を否定すると。過去の大部分を否定せざるを
えないと思うのです。

 弱さと言ってしまえばそれまでですが、創価学会が本説を認めず、阿部管長を非難しているのも
単なる戦術ではなく、大多数の会員の気持ちを慮ってのことではないでしょうか。

1193犀角独歩:2005/03/31(木) 07:31:32

1192 吉祥仙人さん:


> 創価学会が本説を認めず、阿部管長を非難…大多数の会員の気持ちを慮ってのこと

これはまったく、そのとおりでしょう。
しかし、事実とは違うことが、事実です。

お気持ちはよくわかります。というか、かつて自分が歩いてきた道です。

わたしは生まれながらの「日蓮正宗創価学会」員でした。それも親は熱心な活動家。
ですから、わたしにとって、蓮師が本仏であることも、「本門戒壇の大御本尊」が究竟の本尊であることも、太陽が東から昇るのと同じ必然的な出来事でした。

しかし、太陽は東から昇っていたのではありませんでした。
わたしの尊敬する故セーガン博士は「この科学の時代に未だに太陽が昇ると言っている」と慨嘆したものでした。そうですよね。太陽が昇るのではなく、地球のほうが廻っていたのです。このことに人類が気が付くのに、どれほどの時間がかかったことか。しかもそれをよくよく理解したあとでも「太陽が昇る」という慣用表現は生き続けています。しかし、事実は動きません。

結局のところ、わたしが辿り着いた「事実」は、残念ながら、けっして動きません。

ただ、かつてわたしも日蓮本仏(人)・戒壇漫荼羅(法)という本尊なき信仰など、思いもよらなかったのです。しかし、れんさんもお記しのように、では、蓮師の真の教えとは遡源していったとき、そこには日蓮本仏も究竟の戒壇漫荼羅もありませんでした。

つまるところ、日蓮の教えにあらざるものを日蓮の教えと信じていたという自画像だけが、陽炎に揺れていただけでした。

真実を受け入れることは、苦悶の選択です。しかし、その道程を経ない限り、真実に至れないのです。

1194大勇者:2005/03/31(木) 11:44:00
>1192 吉祥仙人さん

私は、大石寺板曼荼羅に対しての思い入れというのはほとんどありませんでした。
実は一度も見た事が無いんです。大石寺には行ったことはあるのですが正本堂には入れてもらえませんでした。
末寺で頭に「しゃもじ」をのせられた思い出が幽かにあります(笑
私を折伏した学会員が「しょうがない。寺で入会するしか方法ないな」と言っていました。
多分、破門直後だったのでしょう。
それ以来一度も末寺に入った事も無いんです。

其の為か、不謹慎かも知れませんが、
偽作論には「真実探求のロマン」のようなものを感じながら読ませて頂いております。
余分なレスでした。すみません。

1195犀角独歩:2005/03/31(木) 12:15:47

横レスとなりましょうか。

1194 大勇者さん:

> 「しゃもじ」

受戒のことですか?
あれはしゃもじではなく、巻いた漫荼羅本尊でしょう。

日蓮宗の、「持(たも)ち奉るや否や」と僧侶が経巻を差し出し、それを信者が「持ち奉るべし」と受け取る経巻頂戴儀式を模倣し、妙法華経典の代わりに漫荼羅本尊を、それも手ではなく頭(こうべ)で頂戴して、受戒の儀としたものと観察しています。

> 偽作論には「真実探求のロマン」

はあ、そんな偽作論というのものがあるのでしょうか。
わたしからすれば、学会を含む石山の、信仰全般にわたる楽観的観測と思い入れ、(いや、思いこみ)、殊に「世界平和」だなんだという大騒ぎのほうがロマンと映じます。

1196彰往考来:2005/03/31(木) 12:28:57
>1194 大勇者さん

「真実探求のロマン」というより「名探偵コナン」の謎ときですね。
私にとっては。

1197大勇者:2005/03/31(木) 17:19:28
>1195 独歩さん
真剣に研鑽なさっている方々を茶化す様な表現になってしまいました。すみません。
「ロマンチック」の意味で用いたのではないのですが、日本語は難しい(汗
浪漫より「ナチュラリズム」の方が適切ですね。
独歩さんのHPやこのスレッドを読んで、私は意外とすんなりと偽作の事実を受け入れられましたし、納得してしまいました。
分かってしまうと、私にとって「板曼荼羅」に対する想いはあとにのこされる「探求心」だけになってしまったような気がします。というより本当は「板曼荼羅」に対して信仰心を持っていたのかどうかさえ自分自身疑心暗鬼なのですが、一度でも手を合わせた事があれば違ったのかもしれません。

>巻いた漫荼羅本尊でしょう
自分は事情があって、本尊授与しなかったのです。

PS、皆様の研鑽に感謝いたしております。

1198犀角独歩:2005/03/31(木) 17:51:00

1197 大勇者さん

「茶化された」とは思っていませんから、謝罪には及びません。

> 「板曼荼羅」…「探求心」だけ…信仰心…自分自身疑心暗鬼

これはけっこうなことであると思います。
わたしは、創価学会総体がはやく彫刻本尊から卒業してほしいと思っているからです。

ただ、かつて800万人から500億円以上の集金をし、正本堂を建てる際に、何故、その真偽を糾明しなかったのかは、悔やまれます。

>>> しゃもじ
>> 巻いた漫荼羅本尊でしょう
> …本尊授与しなかった

これはまだ誤解があるようなので、重ねて申し上げますが、「しゃもじ」のように見えた頭に載せられたのが受戒用の巻いた形の漫荼羅本尊で、和紙でくるまれてさらに熨斗が付いて横に広がっているから、そう見えたのではないかという意味です。(わかりますか? このような点が通じないと言うのは微笑ましいというか、時代が変わった実感が本当にします)

1199パンナコッタ:2005/03/31(木) 21:23:23

> しゃもじ・・ エンマ大王様のシャクですよ(ウソ)
一応巻いた曼陀羅ですよね。ウチの方の末寺の受戒ではよく分かりましたよ。
 昨日、 犀角独歩さんに縮尺を補正した曼陀羅主題のOHPフィルムを見せて
いただき、「ホントそのまんまじゃないか・・」としか言いようのない物でした。

1200犀角独歩:2005/03/31(木) 23:33:45

パンナコッタさん、昨日は遠路、有り難うございました。

> 「ホントそのまんまじゃないか・・」

率直なご感想、有り難うございます。
仰るとおり、石山彫刻本尊の大字と禅師授与漫荼羅のそれは仰るとおりですね。

1201吉祥仙人:2005/04/01(金) 05:29:38
 犀角独歩さんへ

 >1193

 故カールセーガン博士の遺作というべき「科学と悪霊を語る」の中に、中世ヨーロッパでの
魔女狩りを「イカサマ」と断じた勇気ある本、トーマスアディ著「暗闇の中のろうそく」が
紹介されています。ロンドンの一聖職者が魔女狩りが横行する時代に著したそうですが、
セーガン博士は「ろうそくの炎は、今も無知の強風に揺らいでいる。」と嘆いておられました。
 
 「無知」と「無疑」の違いはどこにあるのでしょうか。

 全てを知って信仰を貫くことは可能でしょうか。

 犀角独歩さんは今、何を本尊とされていらっしゃるのでしょうか。・・・・・・

1202犀角独歩:2005/04/01(金) 09:40:03

1201 吉祥仙人さん:

> 「無知」と「無疑」の違い

「無知」は、哲学における知の帰結でしょうね。「無知の知」です。
しかし、セーガン師等が言われるところは、雖念さんもご指摘された「確証バイアス」、また、ハッサン師が言う「思考停止の技術」と言った、自分の信念大系を揺らがす事実の前で、「考えることを放棄する心理プログラム」でしょうね。

しかし、無知の自覚は知の帰結です。四弘誓願の一つ、「法門無尽誓願智」は、そんな態度と親和性があります。無知の自覚は止むことのない探求心の源泉でしょう。

いっぽう、「無疑」は、つまり「以信得入」「無疑曰信」という、妙法華ドグマとも言うべきバカバットギータの影響を受けた「大乗仏教」のバクティ汚染以降の在り方でしょう。信から疑を排除する姿勢に、わたしは仏道を見ません。

ただし、「無疑」は、その解釈次第で意味を持つところはあります。
「疑い無く」では上述の批判に当たります。「疑わず」ならば「不疑」であって意義を異にします。わたしは、「疑いを無くしていく」という進行形でこの二字を見たい。自分の心のなかにある疑問点を次々と論証しながら無くしていくということです。しかし、この方法は「○○は絶対である」という演繹的な立論からははじめれば、必ず失敗します。
疑いを無くしていくことは、旧来の自分の信念大系を、知った事実に従って日々書き換える勇気と換言したい。疑えない事実こそ、信に値するものです。

> 全てを知って信仰を貫くことは可能でしょうか。

それまでの、自分が信じていたことであれば、もちろん、不可能でしょう。
また、そのようなものに執着する必要もないでしょう。

何より元来、仏道と信仰とは別意であるというのが、わたしの結論です。
仏道の有様は、信仰一本槍ではなく、結局のところ八正道と言われる如く心身の行動規範にあります。絶対者へ信仰隷属する心身の解放こそ、実は仏道の本来的有様ではないでしょうか。

> 犀角独歩…何を本尊

結論から申し上げれば、わたしは、本尊という考え方自体は仏道に馴染まないと考えています。儒仏一致、もしくは顕密一致で生じた後代の添加であると考えます。蓮師もその影響下にあったということでしょう。また、唯一絶対を選択していく、いわば消去勝劣選択は差別の言い訳を提供する以上の意味を今日的には持たないと悲観的に見ます。

では、なにを灯明とするかといえば、それは正しく教「法」です。
そして正道にある「自」である故に、集団・指導者・絶対者に縛らず、「独り歩く」ということです。(学会初期の言い方を使えば「一人立つ」でもけっこうです。組織・指導者に追従せず、一人立つ精神というのであれば、意を同じくします)
標榜するところは八正道であり、四聖諦です。

さらに付加するところがあれば、自利利他であり、法華で見れば衣座室の三軌です。
そして、あるべき姿勢は、あくことの無き真実の探求であり、知り得た事実を正直に受け入れることであり、そこで生じる苦の克服でしょう。利他面で言えば、自身が知り得たことを秘密とせず、万人に与え、「信仰」に囚われる狭量な閉じた心を開いていくことです。

1203吉祥仙人:2005/04/02(土) 05:52:16
 犀角独歩さんへ

 >なにを灯明と〜正しく教(何と読むのでしょうか)「法」です。

 「法によって人によらざれ」ということでしょうか。そうすると法を説く人(僧と言ってもいいでしょう)は
釈尊も含めて、尊崇する対象ではないのでしょうか。
 私がこちらにお邪魔した最初の疑念は「池田名誉会長は指導者であって、本仏などではない」
と言うことでした。それは確認できたと思っております。
 ある程度、対話の成果が得られたことを嬉しく思います。

1204犀角独歩:2005/04/02(土) 07:54:17

> 法を説く人…僧…釈尊…尊崇する対象

譬えを挙げましょうか。日本国憲法を説くから、裁判官を尊崇し、弁護士を尊崇するのか?というと、別段、そんなことはないでしょう。

釈尊は教法(きょうほう)を生涯実践し続けた先覚の修行者でした。しかし、死んでいまはいらっしゃらない。そこで、自分の死後は、教法を灯明とせよと遺言されたわけです。僧も、その後の実践者も、そのように生きてきたわけです。死者に敬意を払い、生きる実践者に敬意を払うことは別段、否定されることではありません。しかし、それは実践の手本としてであって、しかし、実践する法がその上にあるということです。

> 池田名誉会長は指導者であって、本仏などではない

この言葉を、あたかも創価学会員が考え出したと思っていらっしゃいますか。
このように最初に言ったのは、正信会の僧侶たちであり、何より、そう主張し、創価学会を弾劾したのは故「日達上人」でした。いわく

「最近ある所では新しい本仏ができたようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります」

その後、池田さんは、反省して、「会長本仏論」にピリオドを打ったのが、以下の文章でした。

『恩師の二十三回忌に思う』創価学会名誉会長 池田大作
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ikeda_toda23.html

このなかで、「“会長本仏論”について、重ねて申し上げておきたい。…代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3代会長の任に就きましたが私などを絶対視してはならないし、かりそめにも、主師親の三徳とか、本門弘通の大導師といった表現を用いることは誤りであり、絶対にあってはならないことです」(『聖教新聞』昭和55年4月2日1面)といい、創価学会内部において、会長本仏論が言われてきたことを認め、それを否定しています。

それ以降の指導に基づいて、いまの若い学会員たちは、吉祥仙人さんのように「池田名誉会長は指導者であって、本仏などではない」と考えるようになったのでしょう。
これが経緯であり、実際の歴史です。

そのような歴史を知らないと、あたかも学会を批判するために「会長本仏」が論われ、それを否定するのが学会員というまったく転倒した思いに駆られることになるでしょう。

ところで、指導者である池田さんは、では、何を指導しているのでしょうか?

1205犀角独歩:2005/04/02(土) 09:27:11

わたしたちが「池田本仏論」の是正のために、宛われた資料がネットにアップされていました。ご参考に。

特別学習会テキスト
http://nonakashin.hp.infoseek.co.jp/gakuindex.htm

1206犀角独歩:2005/04/02(土) 10:41:48

「山友が捏造した虚偽であり、学会にはそんな考えはまるでなかった。
 それにも拘わらず、それを真に受けた日達師が騒いだのが宗創第一次紛争だった」

いま、創価学会では以上のような筋で「会長本仏論」を山崎氏が正信会と結託して、捏造したとされるのでしょうか?


まるで、山崎氏など庇い立てする気はありませんが、しかし、実際のところ、会長本仏については昭和40年代にはすでに語られていました。

「大聖人様以外に本仏があると言ったら、これは大変なことである。どうかそういうことを耳にしたならばどうぞ‘それは間違っている’ということを言って頂きたい」(御法主日達上人猊下お言葉集 P154/蓮華37号/昭和49年4月25日/法華講春季総登山会お目通り)

それでもいったんは終息を見たのは、1205に挙げた『特別学習会テキスト』で是正をし、11・7お詫び登山があったからでした。また、『恩師の二十三回忌に思う』での謝罪があったからでしょう。しかし、やはり、終わりませんでした。

その後、昭和53年に『ある信者からの手紙』が達師にもたらされたといいます。
この手紙は山崎氏の捏造であったと言いますが、「会長本仏」に関する以下の記述までが捏造であったということにはならないでしょう。

「池田会長の側近、及び直系と云われる弟子達の間には、次の二点は 自明の理であり 端的に云うならば、この為にこそ学会首脳部の団結は維持されていると断言出来る。第一点は、池田会長は仏であり、なかんずく末法の御本仏の再誕である、と云うことである。
このことは、種々の点から次第に表面化してきたが、今にはじまったことではなく 例えば 昭和四十五年以前のあかずの門を開く者についての言及とか 御義口伝講義の際の言葉、学会内での扱い等で昔からはっきりしていた。池田会長のやり方の巧妙さは、自分から云わずに、側近に云わせ、そしてそれを云う側近を大いに用いることによって皆にそれを習わせると云う点にある。
福島源次郎や野崎勲はその典型である。
ちなみに学会内では、あらゆることが報告書となって会長のもとに届き会長みずから決裁するシステムになっている。
一寸した頂物の御礼まで、必ず会長直に目を通す。
従ってどんな行為も、会長が知らないで行われると云う事はあり得ない。まして学会にとって一番神経をとがらせている本山や寺院のことは、ことこまかに会長が指示してやらせている。たいていは はじめ青年部や副部長にかみつかせあとで自分が出て おうように許す、と云う芝居の筋書を自分でつくるのである。
従って、会長本仏論は 全くの自作自演である」

http://nonakashin.hp.infoseek.co.jp/tegami.htm

1207犀角独歩:2005/04/02(土) 10:42:42

―1206からつづく―

結局のところ、宗創は離間したわけで、その意味では、以下のように書かれた点は、まるでそのままとなったことになります。

「池田会長はその源泉を歴代会長の権威に求めた。
 即ち牧口、戸田、池田とつづく会長の系図に本山の相伝の形式をだぶらせて会員に浸透させた」(同)

つまり、これは新『創価学会会則』の
「第3条 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長の『三代会長』は、広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」

という点と一致しています。また、

「学会側のスケジュールでは、あと三年(昭和56年)で経済力もととのい、会員も学会独自路線につかせてしまうことが出来墓地や会館等の施設によって固定化出来ると云っており 猊下の在位もその頃までとみて それから チャンスと云っている。
又与党との連合にせよ、国家権力に関 するようになれば 社会からの圧力は弱まり遂に権力をもって 宗門を押えることが出来ると云っている。
一千万世帯をこえれば本尊下府はなくとも良い。国の法律で本尊を国有化することも出来るのではないか、宗教法人法の改正も出来よう」(ある信者から手紙)

という点も、その後の学会動向とほぼ軌を一にしています。

「一千万世帯をこえれば本尊下府はなくとも良い」とは、その後の動向から記せば、「一千万世帯をこえれば本尊下付は‘大石寺からしてもらわ’なくとも良い。自分たちで独自でやる」ということで、1000万世帯達成以前に実現されました。(実際のところ、公明党・1000万票の集票もままならないわけですから、1000万世帯達成は、実現することはないでしょう)


新しい学会員からすれば、漫荼羅本尊が学会本部から授与されることに、何の抵抗もないでしょうが、わたしのような昭和30年代から創価学会を知るものにとっては驚天動地の恐怖を覚えた路線変更でした。しかし、そのことを山崎氏は作文し、その内容がその後の動向と一致したということは、すでに昭和53年の段階で、実際に学会内部で囁かれていたことを物語るようにわたしには読めます。

以上のような経緯がある故に、吉祥仙人さんが「池田本仏論はない」と言われても、俄には鞘に収める気になれないわけです。

1208大盛:2005/04/02(土) 18:56:19
独歩さんは考えが変わったんですね。確か以前は法勝人劣には反対の立場でしたよね。

1209愚鈍凡夫:2005/04/02(土) 21:15:15

横レス失礼します。
参議院大阪選挙区得票数の推移

2004*********795256
2001*********864154
1998*********872294
1995********1015919
1992*********753205
1989*********775935

得票は減っても、一応は常勝関西のようです。
ただ、少なくとも大阪は、確実に創価学会員が減っていっています。 ビクッ((・・;ユ。。。((;^^)

あれれっ、スレ違いだったような気がする・・・・・。 (^^ゞ

1210犀角独歩:2005/04/02(土) 22:24:12

大盛さん

> 独歩…変わった…以前は法勝人劣には反対の立場

鋭いご指摘、有り難うございます。
この件については、以前、問答さんと議論したことがあったと記憶します。
その時点で問答さんは、たしか法勝人劣を主張されてお出ででした。一方、わたしは仏勝法劣と言った立場を採ったと思います。
まず、この点について、総括すれば、確実な蓮師資料から見る限り、この軍配は、問答さんに上がると思います。つまり、蓮師は法を仏の師とし、また法華原典でも、法華経によって仏になることが主張される以上、問答さんのご見解の法が正しかったと、いまは考えております。まさにその意味では、仰るとおり、わたしは考えを改めました。

以上は蓮師・法華の範疇です。いまのわたしは、そもそも久遠仏信仰自体を卒業していますから、殊の外、「本尊」に対する拘りはないということです。ただし、棄てたということではありません。漫荼羅があれば手も合わせますし、釈迦像にも手を合わせます。しかし、阿弥陀、大日等の像に手を合わせることはありませんが、これは信仰信念というより、気分の問題といったほうが的確かもしれません。

わたしの尊敬する方の一人に「行明上人」という方がいらっしゃいます。
インド、26年の布教、寺院を3宇建立もされた方です。
「何故、仏教を選ばれたのですか」と尋ねたことがありました。
すると「仏教だけが、かつて生きた人間に基づく教えだからです」と答えられました。
それを聞いて、わたしも、ポンと手を打ったわけです。「なるほど」と。

シャキャムニは、かつて生き、呻吟し、修行し、そして、多くの示唆と、修行の在り方を後世の人々に遺した実在の人物でした。その生きていたシャキャムニを遠く仰いでいます。しかし、それは「信仰」とはやや違い、先に記したとおり、「敬意」に近い感情であると言うことです。

1211犀角独歩:2005/04/03(日) 22:03:32

ファリオンさん、では、こちらで「偶像崇拝」について、発題をお願いします。

1212ファリオン:2005/04/03(日) 22:29:06
では、改めまして。皆さん宜しくお願いします。

つぶやきスレッドでの、大勇者さんとの話の中で「偶像崇拝」に関する話が出ました。
私の考えは「偶像=媒体」であり、御本尊もその範疇に含まれるのではと思っています。

私のような部外者から見ると、御本尊は単なる掛け軸(失礼)という認識ですが、皆さんの議論を見ていると、信仰する方にとってかなり重要な物であると思います。
そこでお聞きしたいのですが、日蓮師を信仰されてる皆さんにとって、御本尊はどういった位置付けなのでしょうか。
御本尊に対する思いを、お教え願います。

1213犀角独歩:2005/04/03(日) 22:36:42

ファリオンさん、ちょっと、最初にご見解をお聞きします。

わたしから見れば、紙に書いたものであろうが、こしらえたものであろうが、頭の中で考えたものであろうが、偶像は偶像だろうと思うわけです。

それが頭の中に浮かぶイメージだとよくて、作ったものだと偶像だというのが「目糞鼻糞を笑う」議論と思うわけです。
また、関西はどうか知りませんが、東京の教会は十字架がかかっていて、キリストの絵なんかもあります。カソリックとなると、マリア像がありますね。そういうものは偶像ではなくて、仏教の絵像仏像の類は偶像であるという、ここら辺の線引きは、キリスト者の頭のなかではどうなっているのでしょうか。レクチャー願えませんでしょうか。

1214パンナコッタ:2005/04/03(日) 22:45:23

創価学会二代会長の戸田さんは、掛け軸は紙だけど紙には力があることを力説していました。
「お札は紙だろう。借金の証文も紙だろう。紙には力がある。書いてあることが大事なんだ」と。
これを聞いて単純に「そうなんだ〜」と、思っていました。今聞くと、強引なコジつけですねぇ。

1215問答迷人:2005/04/03(日) 23:00:43

ファリオンさん はじめまして。

>御本尊に対する思い

僕が捉えている蓮師の教えは、南無妙法蓮華経と唱える事に尽きています。その『唱題』する我が一念に仏国土が具わる、と言うのが蓮師の教えであると捉えています。

ですから、僕は、ご本尊と呼ばれている蓮師の曼荼羅は、このお題目を唱える我が一念に仏の国土が具わる様を図示したものであると捉えています。

中央の『南無妙法蓮華経』が唱題を表し、『日蓮』が唱えるわが身を表し、『釈迦多宝以下の十界』がわが身に具わる仏国土を表していると。

結局、唱題の方軌を指し示した物であると。

1216ファリオン:2005/04/03(日) 23:10:11
犀角独歩さん

私も詳しい訳では無いのですが、基本的には、偶像とは主に人物を表現したものを指すと思います。
キリスト教の場合は、関係有る人物以外(異教徒)を指しているようで、聖書の一場面を表した絵などは、教会の方が積極的に描かせています。
また、ご存知の様に多くの宗派に別れているので、細かいところは解りません。
私自身は、一般的な認識(仏像や絵画)に加えて、それに類するもの(十字架そのものなど)も含めてよいのでは、と思っています。

1217ファリオン:2005/04/03(日) 23:23:30
>>1215
問答迷人さん
宜しくお願い致します。

ご返答、有難う御座います。
信仰の指針と捉えて宜しいでしょうか。(間違っていたら御免なさい)
そう言われると、なぜ種字曼荼羅に近い形なのか解るような気がします。(皆さんの思っている理解とはほど遠いかもしれませんが)

1218愚鈍凡夫:2005/04/03(日) 23:27:16

>>1214:パンナコッタさん

でも、なんですよね。
ソ連が崩壊せんとするとき、札束が紙屑同然になったことを思い出しました。
一国が崩壊せんとする時、その国家の信用の下に発行される紙幣が、大幅に額面割れして二束三文になることがありました。
結局、紙に書いた文字が効力を発揮するのは、多数の人々がその効力を是認しているからであり、信用が人々に安心感を与えているかに他ならないのではないでしょうか。紙に書かれた文章や印章に、直接そのような力があるのではないと言えるのではないでしょうか。むしろ、紙に書かれた文字や印章に力を与えているのは、法律といった社会ルールではないでしょうか。それさえも、時として意味を成さなくなりますが・・・・・。
だから、紙に何が書かれていようと、ただの紙屑になることもありえます。もし、戸田さんがこういうふうに突っ込まれたら、どう答えるのでしょうね。

1219パンナコッタ:2005/04/04(月) 00:02:03

愚鈍凡夫さん、どうなんでしょうかねぇ。
「家庭にあるご本尊は線香の煙などでお取り替えになるかもしれないが、本門
戒壇の大御本尊は厳然としてお山にある。だから二束三文になるなどのことは
絶対にない!!!」(勝手に想像)などと言って切り返したでしょう。
とにかくこうゆう事に関しては天才的な才能の持ち主ですよ、戸田さんは。

戸田さんは終始ソ連のことをロシアといってましたし

1220パンナコッタ:2005/04/04(月) 00:32:33

尻切れトンボになっちゃった。すんません。

戸田さんは終始ソ連のことをロシアといってましたし、「その親方」とか「人気のネルーさん」
とかの言い回しも含めて、とにかく会話が魅力的なんです。
だから難解な仏教用語や理論が解らなくても「先生に付いていけば・・」と
思わしてしまう話術の持ち主なので簡単に切り返すでしょうね。
唯、歴史的・学術的に正しいかどうかは別ですけど。

1221愚鈍凡夫:2005/04/04(月) 00:32:45

>>1219:パンナコッタさん、どうもです。

単なる呟きのつもりだったんですが、戸田さんに成り代わってお答え下さり、有り難うございました。 (^O^)
でも、紙幣や証券は価値が変動するものですから、漫荼羅をこの紙幣や証券に譬えた時点で論理破綻しますよね。まぁ、屁理屈で逃げるしかないように思います。
ただ、譬えの善し悪しは別として、教団運営を経済化した戸田さんらしい譬えだと思います。

1222吉祥仙人:2005/04/04(月) 04:45:06
 よこからゴメンナサイ

 1980年代、創価学会では身延系を破釈する時、「日蓮正宗のご本尊は本物の
1万円札、他の日蓮宗は精巧に作られた偽1万円札。諸々の邪宗より罪が重い。」
 と言っておりました。

 まあ、私は他の日蓮宗の信者の方を折伏する機会はありませんでしたが。

 当時、ある学生部の先輩幹部から、「ご本尊はあくまでも『対境』であって、
本来は『胸中の肉弾におわします』だ。」と指導されました。
 私自身、ご本尊を荘厳しているつもりで、線香の煙でいぶしていて、それが
原因かどうかはわかりませんが、装丁がおかしくなったので、指導を受けたのでした。

 「対境」なら、その発行元の正邪が問題なのであって、歴史ではない。
と、今は思っております。

1223問答迷人:2005/04/04(月) 06:28:10

ファリオンさん

>信仰の指針

そのように僕は捉えています。真蹟遺文の「太田殿女房御返事」には、「即身成仏の手本たる法華経をば指しをいて」(弘安三年 平成版御書1473頁)とあります。修行のお手本であると捉えています。

1224犀角独歩:2005/04/04(月) 09:03:06

なかなか、活発な議論になっていますね。

偶像というところから、話が発展したわけですが、要は、大乗仏教というのは、蓮師の教えを含めて、紙に書いた尊像(字であれ、神仏であれ、人であれ)に神秘的な霊力が具わり、祈願を成就させたりするかどうかというのが仏教的な課題。それに対して、キリスト者が言う偶像崇拝は異教の神の否定であるけれど、自分たちの尊敬対象ならOKということ。まあ、そんなところなのでしょうか。

漫荼羅本尊に向かって蓮師は題目を唱えたかどうかというのは、わたし自身、結論が出ていません。これはのちに譲ります。

ところで、仮に紙に書いた文字が本尊である場合、それを祀り、拝むことは是としても、それを処分する点が、埒外におかれる点にわたしは疑問を持ちます。

先にも紹介したことがありましたが『富士の清流』に載った元坊さんの記事によれば、石山には返却された印刷本尊を燃やす焼却炉があるといいます。それまで、仏同様に扱われていたものを燃やしてしまうということは、いったい、どうなのでしょうか。
このような事情は、創価学会でも曖昧模糊としていますね。石山から離反後、自前で頒布をはじめ、それまでの石山本尊と積極的に取り替えさせた。では、それで回収した元の本尊はどうしたのでしょうか。この点は闇に葬られています。

もし、紙に書いた尊像が、それが墨であれ、印刷であれ、仏に等しいものというのであれば、この最終段階の扱いこそ、信仰の真価を分けるところでしょう。

ちなみに他宗では、形式的であるにせよ、入魂・脱魂という儀式があり、魂を入れた段階から仏、修繕したり・廃棄する場合は魂を脱いてからするという一定のルールがあります。

石山は、この点は杜撰ですが、「御開眼」というのはやるようで、その後、信者が手で触れたり、勝手に移動すると、仏ではなくなるというのが、いちおうの言いようです。しかし、脱魂に当たる形式はないわけですから、仏のまんま、火にくべていることになる。これが、(彼らが言う)謗法に当たらないのか?という疑問がわたしにはあります。

学会は、この点は、まるでないわけですね。「多くの仏」を、どう処分し、それが教利的に、どう説明されてきたか、という点が言われなければ、不十分であると、わたしは思います。

1225藤川一郎:2005/04/04(月) 09:20:24
横レスですが、石山では「開眼」に対して「閉眼」はありますよね。
これが「脱魂」に当たると思っておりますが・・・!

1226パンナコッタ:2005/04/04(月) 10:00:21

一般的には、閉眼の意味を込めての「御炊き上げ」というイベントがありますよねぇ。
石山にないのが逆に不思議のような気がします。

1227犀角独歩:2005/04/04(月) 10:01:34

藤川一郎さん、石山義で「閉眼」がありますか?

1228犀角独歩:2005/04/04(月) 10:07:46

パンナコッタさん、つまらないつっこみで恐縮ですが、「お炊き上げ」は「お焚き上げ」かと(笑)

護摩(ホーマ)の延長にある儀式ですね。
日蓮宗一般でも行われていますね。

仰るとおり、清浄な火で焼き清め滅することが閉眼・脱魂に当たると言うことでしょうか。焼却炉で燃やすのではその意義に当たりませんが、「火葬炉」で焼くとなると、その意義に当たることになりますか。荼毘というのも、そんな延長にあるんでしょうね。

1229パンナコッタ:2005/04/04(月) 13:14:22

ああ、すみません。これじゃ炊き出しですね。

1230大勇者:2005/04/04(月) 13:25:05
戸田氏がキリスト者と言う事は聞き及んでおりましたが、内村鑑三の影響があるとは知りませんでした。学会と無教会主義との共通点など何点か考察出来るかもしれませんね。
プロテスタントに於いての「偶像否定」はある程度徹底していると思っています。

私のドイツ改革派ルーツを持つ教会では、「十字架」こそ教会内にありましたが、マリア像や十字架のネックレスは一切排斥されておりましたし、「十字架」に対して祈るのではないと言う事を教育された記憶があります。内村鑑三の無教会主義に至っては十字架さえも据えないとの徹底ぶりと記憶しております。十字架を偶像と言って良いかどうかは解りませんが、何かしら「シンボル的」な拠所や物を差し引くと宗教に何が残るのだろうか?とも思います。
人道主義、人格主義、はたまた人間主義、生命主義の類でしょうか。

内村鑑三や戸田城聖はここに「教育」というものを見たのでは?と思います。
内村鑑三の弟子である松前重義の「教育の場」は現在大成功を収めたと言っても過言ではありません。然し宗教色は皆無になったと言ってよいでしょう。
対照的にもう一人の弟子の鈴木弼美の「教育を通して伝道しよう」とのスタイルは山奥での共同生活を行った事もありましょうが、弘めるまでには至っていません。

http://www.asahi-net.or.jp/~pv8m-smz/archieve/Gott_Mensch_Erde4.html

「本尊からの卒業」「偶像からの卒業」は弘布や教団維持を考えるとかなり困難な道であろうと思います。

1231犀角独歩:2005/04/04(月) 13:43:54


1230の大勇者さんのご投稿、頷けるところがありました。
「教育」ですか。なるほど。教育へ転化していくのは社会一般から見れば、安全な変化ですね。しかし、教育を宗教の道具にするとなると、とたんに事情が変わります。

戸田さんが大勇者さんが記されるような内村鑑三の考えにあったとして、ならば、なんでまた、彫刻本尊やら、「御肉牙」にあんなに感動していったのでしょうか。不思議ですね。

> …本尊…偶像からの卒業…困難な道

何度も引用している文章ですが、わたしは高橋師がいう「シンボルの病」という概念に賛成です。結局のところ、シャキャムニの目指したところは、この脱却であり、今のテーマで言えば、偶像から脱却であったと思えます。

「教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である」(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店1997年2月5日第1刷 P215)

要は、この問題を追及していくと、学会を含む石山の有様が仏教と言えるのか?という難題まで孕むことになるのでしょう。

1232愚鈍凡夫:2005/04/04(月) 14:33:49

それにしても、お札の束が現世利益をもたらしてくれるのは事実ですね。戸田さんの気持ちも分からないではないです。
その内、福沢諭吉の墓に詣でて現世利益を願う新興宗教が出来たりして。 (;^_^A アセアセ…

結局は、的がなければ自分の日々の信仰心を何処に向けていいのか分からない、といった事情が偶像を進化させてきたのでしょうね。

1233藤川一郎:2005/04/04(月) 18:39:54
>>1227
> 藤川一郎さん、石山義で「閉眼」がありますか?

独歩さん、本当は知ってて言ってないでしょうね(笑)?
古くなった御本尊を納めたときや、紙幅の御本尊の表装のお取り替えの時とか、板御本尊のお化粧直しとかをお寺に頼みますと、寺院の御寶前で閉眼をするじゃないですか?

1234藤川一郎:2005/04/04(月) 18:48:46
ちなみに・・・
その昔、未だ創価学会が石山内にいたころの話ですが、
ある創価学会員が引っ越すので、御本尊をお巻きしていたら、創価学会の一幹部が「勝手に巻いたらだめだよ。今から閉眼するから」と怒ったそうです。
そして、経文を読んで「ただいま閉眼が終了しました」等とやったそうです。
それを見ていた引っ越しを手伝っていた法華講員は何も言えずにいたそうです。
その方は引っ越し先まではついていかなかったそうですが、恐らくその幹部が「開眼」もしたのでしょう(笑)。

1235ファリオン:2005/04/04(月) 20:41:05
何だか、私の出る幕ではなさそうな……

ポイントとしては、愚鈍凡夫さんの「的がなければ……」だと思います。
出家された方はともかく、信者となれば、何がしかの祈る対象が無いとやりにくいのではないでしょうか。

あと、日本の場合は、神道における「依り代」の考え方も、信仰の根底として影響しているのでは、と愚考しております。
それなりの「物」を通じて、神仏の力を受ける、つまり、「物」に神仏の力が宿る訳ですね。その時点で、「物」は神仏と同等に扱われます。
このため、仏像やそれに類する物も、仏法の依り代・宗祖の魂の依り代として、考えること無しに祈りの対象になったのでは、と思います。

素人考えですが、日蓮師は、仏像を彫る・描くのと同じ意味で、先に少し書いた種字曼荼羅を参考にして、御本尊を表したのでは、と思います。
仏像と違うのは、教えの基となる仏に相当するものが「南無妙法蓮華経」であり、具象化出来ないことです。
そのため、仏像と同等の扱いをするのではないでしょうか。
ここまで来れば、「偶像崇拝」とは言えなくとも、極めて近い形になると思います。

未熟な論考ではありますが、ご批判の程、宜しくお願いします。(お手柔らかに……(^_^;)

1236かわさき:2005/04/05(火) 00:19:23
>1234、35
創価学会で開眼なんかやらないし、大石寺で閉眼なんかないですよ。

1237犀角独歩:2005/04/05(火) 17:39:39

藤川さん、わたしは石山の「閉眼」式なるものに参列した経験はありません。
こういうものがあるんですか。

しかし、言われてみれば、廃仏毀釈の折、「本門戒壇の大御本尊を閉眼し、紙幅に改めた」という話を聞いたことがあるわけで、そうなるとたしかにそんな儀式はあるのでしょうか。

1238問答迷人:2005/04/05(火) 17:52:59

>閉眼

僕が昔所属していた寺院で、ある信徒が、曼荼羅の表装部分を傷めてしまい、住職に表装直しを頼んだことが有りました。そして、表装が出来て来たとき、その信徒さん宅で開眼法要をした記憶があります。表装直しに出す前に閉眼をしたのだと思います。たしか、住職のその時の説明は「御本尊さまは、仏様だから、そのまま表装直しに出すことは出来ない。一旦、魂を抜いて、紙にしてから表具屋さんに出すんだ」との説明だったように記憶しています。

1239犀角独歩:2005/04/05(火) 17:55:59

ファリオンさん:

> 依り代

このお考えは「なるほど」と納得しました。
ご承知かどうか存じ上げませんが、富士は修験道の地であり、興師もその強い影響を受けているというのが共通した認識です。また、日本型の仏教は言うまでもなく神仏習合であり、その相互の影響は言うまでもないことですね。

彫刻本尊に蓮師の魂が宿るという石山の考えも、言われてみればたしかに「依り代」と考えるとすんなりと理解できます。また、唯授一人血脈相承は「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)」と言われるところも、この解釈は当てはまりますね。

1240犀角独歩:2005/04/05(火) 18:12:42

問答さん、有り難うございます。

しかし、改めて考えてみますと、魂というのは、およそ仏教からはかけ離れていると感じます。

蓮師は、「魂魄」という語彙は使用されていましたが、「たましい」は「神」と書く場合も多く、今日的な言葉で言えば「精神」と言ったところでしょうか。

開眼:閉眼=入魂:脱魂という関係は、後天的であり、必ずしもイコールの関係と思えません。

問答さんが漫荼羅を「唱題の方軌を指し示した」と仰る考えには、唱題という点ではまだ未決ながら、所表であるという点では賛同します。図された内容から極意を窺うというとこでしょうか。しかし、印刷本尊に仏魂が具えるのが開眼で、脱くのが閉眼というのは、どうも土俗信仰のような風体ですね。

そもそも、読経唱題をし、なにか呪い・観念みたいなことをするのかどうか知りませんが、それによって、開眼:閉眼=入魂:脱魂というのは、わたしのような不信心者からすれば、形式としか映じません。

蓮師の教説を窺い見ると、仏像の御前に法華経典を具えることによって開眼とするわけですね。真跡遺文ではありませんが『経王御前御返事』には「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経也。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経」とあるわけです。

要は仏像御前に具える法華経典、また、題目の五字七字そのものが「魂」であるわけですね。それから、魂を脱くというのは、論理矛盾を来しているとわたしには思えます。

問答さんは、この点は、どのようにお考えになられるでしょうか。

1241問答迷人:2005/04/05(火) 18:22:28

返却曼荼羅の閉眼

同じ住職の話ですが、(たしか、この老僧は大阪の蓮華寺にゆかりの方だったと記憶しています)、「信徒が返却した御本尊は一機一縁の本尊なので、返却した時点で信心の血脈が切れるから、唯の紙に戻るんだ」と言っていました。お寺の受付机の引き出しの中には、しばしば返却本尊が無造作にゴロゴロと放り込んであり、『こんな酷い扱いをするなんて、この住職はきっと信心が無いんだ』と思ったものでした。そして、この答えは、僕がこの事を住職に何時か問い詰めてやろうと心に期していて、機会が有った時に質問した時の住職の答えでした。

その時は、何か拍子抜けしたというか、はぐらかされたと言うか、複雑な気持ちになりましたね。

1242問答迷人:2005/04/05(火) 18:33:57

犀角独歩さん

>題目の五字七字そのものが「魂」であるわけですね。それから、魂を脱くというのは、論理矛盾を来しているとわたしには思えます。

全く以って賛同します。恐らく、曼荼羅=仏様=仏像としたところから、そのような可笑しげな展開になってしまったのだと思います。以前、僕は、曼荼羅=仏像という捉え方をしていましたが、今はその捉え方には拘らない事にしました。曼荼羅は曼荼羅でよいではないか、無理やり仏像だと決め付ける必要もないし、無理がある様に思ったからです。

日蓮正宗では、曼荼羅を生身の日蓮大聖人と拝する訳ですから、何かしら理屈をつけて、開眼。閉眼をやらないと、格好がつかないんだと思います。ただ、それだけのことだと。

1243犀角独歩:2005/04/05(火) 19:01:57

当時、石山の坊さんを僧宝と仰ぎ、平身低頭していたわたしは、いつもながら、問答さんの天晴れなお話を伺い、驚かされます。

「返却した時点で信心の血脈が切れるから、唯の紙に戻る」、こんな考えのでしょうか。いやはや。

これは換言すれば、「漫荼羅本尊と雖も、信心の(血脈の)ない人にとっては、ただの紙」という意味になります。要するに、信心していないものにとって、漫荼羅はただの紙切れだから、破っても何しても罰は当たらないという意味になりませんか。わたしは別段、それでもかまいませんが、しかし、これでは、石山の漫荼羅信仰を根底から覆しかねない気がします。

1244問答迷人:2005/04/05(火) 19:55:43

>石山の漫荼羅信仰を根底から覆しかねない

ほんとですね。この老僧、本当は石山義を信用してなかったのだと今にして思います。

それから、この老僧、『六巻抄を勉強会で希望者に教えてほしい』とお願いいたとき、「六巻抄か、あれは本宗の坊さんでもごくわずかのものしか講義を聴いたことがないんだよ。相伝書みたいなものなんだ」と言いながら赤茶けた何十年も前の講義を受けたときのノートを出してきて、「ほら、ここにこう書いてあるだろ、これは日淳上人の講義じゃ」と得意そうに話してくれました。『本因初住の文底とは、「我実成仏以来」の文底だ』と。それは、「我本行菩薩道ではないですか。三重秘伝抄にはそう書いてありますよ。ご住職、それはいくら日準上人の講義だと言っても戴けませんよ」と即座に反論したら、「オカシイなぁ、もう一度調べてみるわ」と言って、その日はそれっきり。後日、「君の言っていたのが正しい様だ、ノートにもそう書いてあったよ。六巻抄とか、宗学はわしはどうも好きになれん。やっぱり、勉強会は「法華経の成立史」でやるよ。」でした。

1245問答迷人:2005/04/05(火) 19:59:06

訂正です。

× 我実成仏以来

○ 我実成仏已来

1246問答迷人:2005/04/05(火) 20:00:29

もう一つ訂正です

× 日準上人の講義

○ 日淳上人の講義

1247顕正居士:2005/04/05(火) 20:29:58
開眼や閉眼。魂入れや魂抜き。これはどの宗派にもありますよ。
本尊だけでなく位牌、数珠、墓、仏壇まで。言い方やどこまで
広げるかなどは少しずつ違うようですが。しかしだいたいは習慣的、
儀礼的、商売的なもので教義的なものではないでしょう。
御本尊とはどなたかの御本尊ですから、返却したらただの紙と
いうのはもっともでしょう。どんな貴重な仏像、仏画、曼荼羅でも
古物商の店舗にある時はただの美術品あるいは歴史資料です。

1248犀角独歩:2005/04/05(火) 21:16:38

>1247

顕正居士さんが記されるところは、一般的にはもっともご見解なのだと思います。
ところが、これに駄目出ししてきたのが学会的な信仰でした。

また、たとえば蓮師がご自身が図示した漫荼羅が信仰から離れれば、ただの紙、という考えはもっていなかったであろう、これはまた、興師もしかりであったのではないのかという筋からの議論でした。

1249問答迷人:2005/04/05(火) 21:35:31

僕が創価学会で聞いた所の『草木成仏』について

学会で教わったことは、『草から出来た紙幅御本尊も、木で出来た板御本尊も、御本仏日蓮大聖人が筆を取って御本尊を認められ、刻まれたら、即座にその紙や木の全体が仏様の当体となる。これを草木成仏と言うと。そして、その仏様を拝むことによって我々は即身成仏のご利益に与かる』と。

『草にも木にも成り給える寿量品の釈尊なり」というのが、基本的な考え方でした。「御本尊様は、紙や木で有りながら、そのままのお姿で仏様の当体なのだ」と。

ここからは、お寺に返却したら、唯の紙、という考えはなかなか出て来ないのではないかと思います。

1250犀角独歩:2005/04/05(火) 21:38:42

問答さん、ちょっと、読み流して、いま気付いたのですが

> 勉強会は「法華経の成立史」

こんなことをやったら、法華経は紀元前100年から紀元後150年頃までに成立したことを説明しなければならず、お釈迦様が説いたものではないと言わなければならなくなりますね。もはや、寛師どころの騒ぎではないわけですが、「日蓮正宗末寺法華講」の勉強会として成り立ったわけでしょうか。興味があります。少しお話いただけませんでしょうか。

1251問答迷人:2005/04/05(火) 21:51:03

>「日蓮正宗末寺法華講」の勉強会として成り立ったわけでしょうか。

そうですね、ほとんどの人は、「こんなの信心とどういう関係が有るのか、もっと、信心の糧になるような講義が聞きたい」という意見でした。それで、僕は仕方なく「六巻抄の勉強会」を住職にお願いしたわけでした。

「信心と学問とは別だよ、だけど、教学だけではだめなんだよ、日蓮正宗の中で仏教学を勉強しているのが少なすぎる。幅広く仏教学を学んで、その上で宗学を捉えなくては、世間に通用する宗門にならないよ」というのが口癖でしたね。だから、「ワシの話は面白くないかもしれないが、仏教学の最先端の話をしているんだよ。聞いておいて損はないよ」とも言ってましたね。あんまり詳しく書くと、この老僧が誰なのか、宗務院は判ってしまうから、このあたりにしておきます。

1252犀角独歩:2005/04/05(火) 22:07:31

問答さん、有り難うございました。
そうですね。あまりお尋ねしてはいけませんでした。

しかし、「信心と学問とは別」とは、よく言ったものです。
そうなると、石山の「一信二行三学」、何より(わたしは偽書濃厚と考える)『諸法実相抄』は灰燼に等しいことになりますね(笑)

蓮師に、こんなことを言ったら、即刻、破門でしょう。「時代が変わった」「原理主義は駄目」では成り立たないのが、石山の信行学の関係であろうと思います。

1253顕正居士:2005/04/05(火) 22:18:25
仏像、仏画、曼荼羅という物体自体に何か神秘な力があるのではなく、どなたかが自分の本尊と
した時にはじめて本尊となるのでなければ、魂入れも魂抜きも必要でないでしょう。
創価学会の場合、御本尊送りというのが魂入れ=開眼法要ですね。日蓮正宗の信徒団体だった
頃にもこれに坊さんを呼ぶことはあまりなかったでしょう。それにはいろいろ理由があったでしょう。
そして魂抜き=閉眼法要はもう脱会するよというケースがほとんどで、そもそも行われなかったと
おもいます。そういう特殊事情から物体自体に神秘な力があるというような雰囲気が生じたのでは
ありませんか。草木成仏は仏の姿を作ればそれが仏というのではなくて、開眼は法華経でなくては
ならないという話だったとおもうのですが。

1254問答迷人:2005/04/05(火) 22:18:47

まぁ、この住職のお陰で、五時八教が成り立たない事は、当時から知っていました。この老僧、人情味のある方で、しかも本音で物を言う方でしたから、法華経が釈尊の金口でないことは、法華経の譬えに現われる時代背景を通して口すっぱく説明を受けましたよ。

まぁ、日蓮正宗の末寺住職としては、不適任な部分も有ったかと思います。堀上人がそうであったように。

1255犀角独歩:2005/04/05(火) 22:22:18

今さらながら、顕正居士さんのご説明を承り、石山・学会型の漫荼羅本尊の在り方というのは奇妙なものであるという思いに駆られました。

わかって黙っているのが、坊さんだということは、問答さんのご紹介も含めて、世間も同じ。そうなると、常に馬鹿を見るのは信者ばかりということになるのでしょうか。

1256問答迷人:2005/04/05(火) 22:23:51

顕正居士さん

>開眼は法華経でなくてはならないという話だったとおもうのですが。

ところが、蓮師の字像曼荼羅の場合は、すでに「南無妙法蓮華経」と認められていますから、すでに開眼されている、という意味合いがあるのではないかと思います。だから、認めた途端に仏様だと。そんな風に教えられていたように思います。

1257犀角独歩:2005/04/05(火) 22:32:41

問答さん、錯綜させているようで恐縮ですが、わたしは漫荼羅の用途、もっと言えば、首題書写(塔婆を典型として)の意義はは、そもそも、この開眼に、あったと思うわけなんです。

この考えは、そして、蓮師に遡れるのではないのかと。
また、この意義は、唱題も同じであろうとも思います。

1258犀角独歩:2005/04/05(火) 22:40:24

自己レスです。
「錯綜」というのは三つ巴のようにしてややこしくしているという意味です。

1259問答迷人:2005/04/05(火) 22:51:34

>この意義は、唱題も同じであろうとも思います。

『「南無妙法蓮華経」と唱える事が、開眼に他ならない』という意味でしょうか。それは、唱える人の即身成仏を意図していると言われるなら、そのお説に大賛成。まさに唱題とは、そのような意義を持つものであると思っています。『唱題成仏』ですね。

1260犀角独歩:2005/04/06(水) 09:38:56

真偽未決ながら、『新池御書』の「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば、天然と三十二相八十種好を備ふるなり。如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」という点と一致するのだと思います。

また、この点は『法華経題目抄』の「法華経の意をもしらず、義理をもあぢはゝずして、只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて、一日に一返、一月乃至一年十年一期生の間に只一返なんど唱へても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、つひに不退の位にいたるべしや。答へて云はく、しかるべき」という蓮師の考えと一致しているように思えます。

これは唱題面です。では、漫荼羅その他に首題を書く意義はどのような点であったのか、というのが、いま問題にしている点ですね。

『法蓮抄』に「天台の云はく「稽首妙法蓮華経、一帙八軸四七品、六万九千三八四、一々文々是真仏、真仏説法利衆生」…一々の文字変じて日輪となり、日輪変じて釈迦如来」、『祈祷抄』の「此の経の文字は即釈迦如来の御魂」という点で、蓮師の文字、取り分け、法華教典の文字に対する考えが窺えます。

また草木成仏口決(真偽未決)に「口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり」などという点で垣間見られわけですが、確実な資料で追うとき、どうでしょうか。

いずれにしても、草木を仏像に刻み、あるいは経文を書き付け、首題を書くことによって草木の成仏があるという考えが蓮師にあったと思えます。この根拠とするところは『本尊抄』に見られる「観門の難信難解…木画の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す、其の義に於ては天台一家より出でたれども、草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益」というところから窺えます。

さらに「開眼」という点で蓮師の考えを窺うと

『木絵二像開眼の事』に「木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入る」
『四条金吾釈迦仏供養事』に「木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」

と見えます。また、真跡から探る限り、この開眼の事の起こりは真言家にあるようで、それに対して蓮師は法華経による開眼を主張したのが上記と考えられます。

では、漫荼羅を開眼したのか?という疑問が生じますが、この点を窺う資料を、わたしは知りません。むしろ、先に記したとおり、首題を書き付ける事自体、蓮師は開眼と考えていたのではないのかと想像するところです。それが結局のところ、複製(形木、印刷、古美術)と言った蓮師が予想しなかった事態が生じ、以降、漫荼羅本尊にも開眼をするという展開になったのではないでしょうか。

有師は「判形は有るべからず、本寺住持の所作に限る」といい、亨師の文献を見ると「此の判形こそ真仮の分るゝ所にして猶俗法の如し、宗祖の御書中所々に判形云云の事あり・思ふべし・中にも大曼荼羅には殊に判形を尊ぶこと唯一絶対の尊境」とも記しています。
このことはまた、日蓮門下一般で同様のようで、売店などで買った漫荼羅本尊は檀家寺住職に持参し、裏書きをし、自分の名と住職法号・花押をなして、開眼とするといった具合です。

取り敢えず、整理まで。(申し上げるまでもないですが、以上のことをわたしが、信仰していると言うことではありません。あくまで資料から垣間見られる原義を探ったばかりです)

1261えばら:2005/04/06(水) 12:03:04
>1260
読んで気づきましたが、法華経とその題目は、言ってみれば開眼の道具ということになります。そうなると、法華経=題目(マンダラ)を開眼するというのは、なんだかへんなことになるわけでしょうか。
あと、学会は、開眼なんか言わず、全部、信心で合理化されています。だからといって、返却されたご本尊をただの紙とは見ないとおもいます。

1262三学無縁:2005/04/06(水) 13:19:59
亡くなった老僧からむかし聞いた話は
「江戸時代などは末寺住職書写のお漫荼羅は開眼閉眼をしたが、歴代書写のお漫荼羅はそのまま仏様なのだから坊さんが開眼だの閉眼だのする道理はなかった」
というものでした。参考まで。

1263犀角独歩:2005/04/07(木) 00:02:26

> 1261

えばらさん、はじめましてでよろしいのでしょうか。
概ね、ご意見に賛同します。

1264犀角独歩:2005/04/07(木) 14:20:32

開眼と文字漫荼羅、どうも、腑に落ちなかったのですが、理由がわかりました。

かいげん【開眼】
(名)スル
(1)仏像や仏画像を新しく作り、最後に眼を入れて仏の霊を迎えること。また、その儀式。入眼(じゆがん)。(三省堂提供「大辞林 第二版」)

そもそも、開眼供養というのは、仏像を作り、その眼の部分に墨などで眼を書き込む法要を言うからでした。ダルマに眼を書くというのもその延長にあるのでしょう。こんな儀式が起源であれば、文字漫荼羅に開眼供は、単なる転用、焼き直し以外の何ものでもなく、しっくりと合わさるわけはありませんでした。

1265愚鈍凡夫:2005/04/07(木) 14:49:50

横レス失礼します。
蓮祖の真蹟遺文を見る限りでは、「開眼」は木像・画像についてのみ述べられていますよね。
「曼陀羅」「御本尊」の両方の言葉が記されている「新尼御前御返事」にも「開眼」は出てきません。
木画二像の開眼は「法華経に限るべし」というのが蓮祖の主張ですから、法華経の主題を中央に掲げる蓮祖漫荼羅に「開眼」は相応しくないように思います。敢えて「開眼」というならば、蓮祖が図顕した時点で「開眼」されているという解釈は成り立ちませんか。

1266犀角独歩:2005/04/07(木) 15:19:56

愚鈍凡夫さん、わたしもそう思います。
蓮師が言う開眼は、どうも仏像御前に法華経典を置き、梵音声に代えるという趣旨のように思えます。その首題を図す漫荼羅ですね。

宝前に経箱に法華経典を入れて置くのは古来から習わしですね。(いまの石山寺院は空箱だそうですが)
つまり、蓮師の言う開眼と脈絡を同じくしています。
御影像なんかは体内に文字漫荼羅が奉納されていて、これが入魂の意味なんだろうと思えます。(書き入れる開眼をするかどうかは知りません)
以前、「御影像といえども、像を拝むのには抵抗がある」と、石山の坊さんに言ったら、教えてくれた話です。分骨された遺骨が入る場合もありますね。ただ、これは厳格に言えば、入魂で、この段階ではまだ、目は閉じている。宮殿に安置して、眼を書き入れて開かせるのとは、また別の儀式だろうと思えます。

まあ、以上の話は、要するにファリオンさんの偶像崇拝という観点から、わたしが返却されたとしても、「漫荼羅=日蓮=仏」というのが学会その他の信者の考えであるのに、坊さんのほうは返却された段階でただの紙(それも閉眼なしで)というのは、何とも乱暴な意見であろうという議論の展開でした。

一機一縁、それも「仮本尊」の扱いぐらいにとやかくいうほどのことではないと、果たして坊さんが言うかどうか知りませんが、少なくとも信者は、それが一機一縁だろうが、仮本尊であろうが、命懸けで祈り守ってきた尊体であるわけでしょう。そこに齟齬が生じるわけですね。

「さして重要でもない信者に与えている印刷は仮物で、返却されれば、ただの紙」、そんな口上で、信者が納得すると思ったら、大きな間違いだというのが、わたしが言いたいことです。

1267愚鈍凡夫:2005/04/07(木) 16:24:03

犀角独歩さん、どうもです。
蓮祖漫荼羅は、すべて一機一縁だと思うのですが、その観点からすると、石山の主張は変ですね。蓮祖曼陀羅といえど、ただの紙に書いた漫荼羅であって、「御本尊」ではないという主張になってしまいます。
「戒壇之本尊」に固執せずに、いっそのこと「同一理に支えられている漫荼羅の仏力法力は等しい」といってしまえば妙な言い訳をせずに済むし、楽になるのに・・・・・。
でも、それはそれで、「日蓮宗と何処が違うんだ! 謗法与同ではないか!!」と法華講が謀反を起こしそうですしね。

ただ、現存する蓮祖漫荼羅の1紙〜28紙までのバリエーションが何を意味するのか未だに悩みの種ですが。 (〜ヘ〜;)ウーン

> 「さして重要でもない信者に与えている印刷は仮物で、返却されれば、ただの紙」、そんな口上で、信者が納得すると思ったら、大きな間違いだというのが、わたしが言いたいことです。

医療関係者のように、あまりに多くを見過ぎると、事務的な無感覚さが身に付くということでしょうかね・・・・・。

1268犀角独歩:2005/04/07(木) 18:51:38

愚鈍凡夫さん、1267のご投稿、実に納得。

> 蓮祖漫荼羅は、すべて一機一縁

これはたしかにそのとおりですね。結局のところ、分類しようとしたら、ほぼ皆違っていたわけですから。だいたいからして、印刷で同一相貌のものを大量生産して、何が一機一縁なのでしょうかね。一機一縁だったら、蓮祖御筆の如く、授与者ごとに違ってしかべきですから。

> …同一理に支え…

これは浅井円道師の言ですよね。
Libraさんの十八番でしたね。

http://page.freett.com/Libra0000/099.html

1269犀角独歩:2005/04/10(日) 21:16:39

久保川法章著『宗務院配布の謀書を読んで』を読み返していたら、「開眼」に関する記述がありました。

「寛永9年の御堂造営の際、開眼供養の当主並に願主は日精上人であり(棟札)法主として之に当っておられていたことは明かである」(『清流を求めて』P39)
という昭和43年5月10日の宗務院広報が引文されていました。

余計なことを記せば、しかし、この久保川氏の諸説というのは、わたしからすれば実に珍妙に感じます。

たとえば同書に「本宗の本尊は久遠元初の自受用身…無始無終の仏身であり、境智冥合の大智大慈を合せ備えた当体…一閻浮提総与…この御本尊は凡願に写らぬ…秘するところに本来の意義」(同P43)という。

元初を「がんじょ」、さらに当初(そのかみ)などといい、種々言葉を使うけれど、「初」とは「はじまり」ということであり、どのように言い繕っても「無始」は意味しない。この点を、石山では『総勘文抄』を引用しながら、まだ「無始」というのは、いったい、どうなっているのかと思うわけです。

この事情は、『本尊抄』の「無始古仏」と『総勘文抄』の「五百塵天劫の当初凡夫にて御座せし時、我身は地水火風空なりと知て即座に悟を門き給ひき」との整合性を考えた故でしょう。

さらに「凡眼」に写らないというけれど、実際に板に彫られた文字が写らないわけはありません。善意に解釈して言葉を補えば、言いたいことは自受用身という当体は写らないというところでしょうか。また、物体であるから、そのうち無くなるともいうわけですが、それは当然のこととして、であれば、写らないのであれば、何も造立必要は何もないわけです。

さらに言えば、「秘するところに本来の意義」があるそうですが、そうなれば「総与」にはまったく当たらないことになります。

始まりがあるといって無始であるといい、写らないが本尊図示、秘するけれど総与、この二律背反を繰り返すロジックを繰り返しを、わたしは文章のトリックとみます。

1270大勇者:2005/04/11(月) 16:53:34
開眼、閉眼の話と大石寺板曼荼羅の偽作説に関連して、質問させてもらってよろいいでしょうか?
有師物語聴聞抄佳跡上を読んでいてちょっと疑問に思ったのですが、
「死人に覆うて葬ける」と言う処・・・これは当時(興師〜有師)の信徒一般の風潮として有得たことなのでしょうか?
紙幅の一機一縁の御本尊を死者と一緒に埋葬するという行為は心情として、それ程不自然ではないような気もします。この際に板に写しておき、彫刻後もう一度開眼するのも有得そうな気がするのですがどうでしょう。塔婆や位牌に似たような意義になりますか。
若しかしたらこの場合に、脇書の年号は命日とか翌日などに書き換えられたことも考えられるのではないでしょうか?
根拠の薄い想像からの質問で心苦しいですが。。。
「富士一跡門徒存知の事」
上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間或は曼荼羅なりと云って死人を覆うて葬る輩も有り、或は又沽却する族も有り、此くの如く軽賎する間多分は以て失せ畢んぬ。P1606

「有師物語聴聞抄佳跡上」
又大聖人御筆漫荼羅をもつて死人に覆うて葬ける輩之有り故に御筆の本尊を写し形木彫して之を授与す今光長寺に在るなり、故に富士門徒存知の事に云く御筆の本尊を以て形木に彫り不審の輩に之を授与し軽賤に非るの由諸方に其の聞えあり、所謂日向日頂日春等なり云云、日春形木彫の初なり云云。

1271大勇者:2005/04/11(月) 20:02:46
つづき
「未来本尊」と呼ばれるもののがあったらしいですが、開眼してから入れるのでしょうか?
それとも閉眼してからでしょうか?
ウーン、なんか不思議ですね。

1272犀角独歩:2005/04/12(火) 10:03:33

> 「死人に覆うて葬ける」…有得たことなのでしょうか?

有り得たので文献に載るのでしょうね。

> 御本尊を死者と一緒に埋葬…不自然ではない

これは要するに首題他を記した札が、どんな用途であったのかという点で議論されるべきでしょう。
『富士一跡門徒存知事』の記述は、蓮師御筆がこんな形で損なわれることを憤っているわけですね。しかし、たぶん蓮師は塔婆を書いていたと思われますが、それは残っていません。墓所で風化した末、処分されたからでしょう。しかし、それを興師が怒ったはずはありません。護本尊は小さく畳んで懐中に入れて持ち歩いたそのうちぼろぼろになったでしょう。それを怒る記事も伝わりませんね。
要は記されたものがどんな用途であったのかということでしょう。

> 「未来本尊」

寛師も書いた所謂導師漫荼羅の形木本尊を棺、骨壺に入れるものでしたか。そのような用途でしょう。
棟上本尊というものもあります。板に書かれた本尊です。家を新築し、上棟式の時、屋根裏に打ち付けます。古い学会員で家を建てた人であれば、みな行っていたでしょう。
これを「仏壇に安置しないで屋根裏に置くなんて、とんでもない」というのでしょうか。本来、そんな用途で考案されたものでしょう。

わたしからすれば、今の創価学会の一枚刷りラミネート加工したペラペラビニールの本尊や、まして、携帯本尊は、未来本尊やら棟上本尊以上に異常なものと映じます。しかし、今や石山から独立した学会がどんなことを考案しようが勝手気ままなことです。いわば学会流。ただし、それが「日蓮大聖人の精神に叶う」などと言えば、大笑いするだけです。

同じように、未来本尊、棟上本尊はもちろんのこと、仏本尊として漫荼羅を仏壇に安置することまで、わたしは蓮師には遡れないと考えています。すべては滅後の弟子の考案工夫、わたし流に言えば、「改変」であったのでしょう。それが善いか・悪いかの判断を蓮師に求めないのであれば、あとは自分が所属する集団・指導者の打ち出しに追従するばかりと言ったところでしょうね。

1273 ◆tsQRBnY96M:2005/05/29(日) 18:47:11
おや、このスレは止まっているのかな。

1274 ◆tsQRBnY96M:2005/05/29(日) 18:50:12
開眼供養を、世間の常識で測ってはいけない。

達磨に目を入れるのと同じレベルで論じるものではない。

1275管理者:2005/05/29(日) 20:12:33

◆tsQRBnY96M さん

ここは、議論のためのスレッドです。貴方の考えの結論だけ書いても、実りは無いと思います。主張をされるのなら、その主張の根拠を示されると良いと思います。根拠を示さずに結論だけ書いても、掲示板の参加者には「独善」としか映らないと思います。前向きに議論をお願いしたいです。

1276小心者:2005/06/16(木) 21:50:37
1274 さん、、ごもっとも、。  だるまに目を入れる、、??、、同じレベル、、?? 
も御存在のようです、、ネ、??  しからば、、べつの面も御存在をば、、御確信の御言葉、、かと、、存じます、?bそれにしましても、、ずいぶんと、御肩を怒らして、、ては、、御ざいませんでしょうか、?
 小生は、、このような、、力で圧殺する、、ような言動に因りまして、、自殺寸前まで余儀なく、、された、、者の一人、、です、。
 前向きな御提言を、、?? お願いします、。

1277きゃからばあ:2005/06/17(金) 16:53:36

独歩さんのブログに、中尾尭さんのことが記載されていました。
そこで以前、国立博物館の『大日蓮展』で記念講演をされたことを思い出しました。
当日、私は一番前の列のド真ん中の席に座っていましたら、開演前に壇上から降りてこられ、とてもやさしい笑顔で語りかけて下さいました。
そして、私が持参してきた本『ご真蹟にふれる』(中尾尭著)にサインをお願いしたら、筆にて御署名してくださり、とても良い思い出となりました。
いつの日にかもう一度、講演を聴いてみたいと思っていましたが、独歩さんが聞かれたと知り、うらやましく思います。

さて、当時も感じていましたが、この『ご真蹟にふれる』の中にも紹介されている岡宮の長光寺の大漫荼羅ですが、28枚継ぎで、高さは243.9cmであります。
大石寺では、その1年後に板漫荼羅が建立されたとしていますが、高さは約144cmであります。
もし後世に、そして本門の戒壇に安置するなら、長光寺の大漫荼羅より、なぜ小さいのでしょうか?
どうしても大勢に拝ませようとした気がしないのですが?

1278犀角独歩:2005/06/18(土) 08:34:35

きゃからばあさん、お久しぶりですね。

中尾師の講義は、ここのところ、毎月のように聴講する機会があり、そのたびに、「おぉ」と思う話が聞けます。上杉清文師が所長、渋澤光紀師が事務局を務める福神企画の賜物です。元々は三学無縁師の紹介でお会いしたのですが、師二人の人間性にも、いつも学ぶところがあります。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/21732903.html
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25499393.html

今回は、かなり貴重なデータ、並びに写真も拝見でき、漫荼羅調査、補修の実際に、ほんの少しながら触れることができ、たいへんに勉強になりました。また、正確に2分の1に縮尺され、軸装された、通称「臨滅度本尊」が奉懸された講義は、なかなか圧巻でした。

漫荼羅の鑑別でもっとも重点が置かれているのが、紙質であり、その繊維組成写真も見ることができました。「日蓮聖人のお漫荼羅は国宝のように扱う」とは、中尾師の言ですが、このような鄭重な姿勢が後世に蓮師遺物をよりよく伝えるものとなっているのだろうと思います。

やや余談ですが、当日、日蓮真筆と言われる御妙判断片を持ち込んだ方があり、講義終了後、公開でその鑑定を行われました。中尾師は「なんでも鑑定団みたいですね」と冗談を言いながら、箱の開け・閉め、古文書の扱い、保管の仕方まで懇切に説明されながら、一目で、古文書を読み上げ、書の題名も言い(特定を避けるためにここには記しません)「これは複製です。ただし、複製だからといって駄目だということではありませんよ。複製には複製の意味があります」と、心優しいフォローもしながら、軸を巻き箱にしまわれるまでの一部始終を拝見しました。これまた、実に貴重な経験となりました。

中尾師の講義からは離れますが、光長寺蔵第58大漫荼羅の縁起は石山の、当時の彫刻本尊(御前立本尊?)の相貌を伝える『当家所門流継図之事』(宗全史伝旧記部1-P153)に載るようです。また、れんさんのお叱りを受けそうですが、この全書を手元に置いていないために、いまは確認していません。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/057.html

また、この大漫荼羅にはいくつか特記するところが多く、山中師『御本尊目録』(P98)を手がかりに古文書を散策すると楽しいだろうと思います。それにしても同じ光長寺蔵第65大漫荼羅は大きさはその半分ながら、讃文が全同でありながら、しかし、授与者が違うというのは、まさに山中師が「一奇」と嘆じた追体験をする気分になります。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/065.html

実に243.9×124.9センチもある大幅の、それも紙幅直筆の大漫荼羅、板に彫ったレプリカとは比すべくくもありませんね。直筆と彫刻、さらにパッチワークと臨模作為の彫刻作品と、真筆は違います。
ま、そんなことはきゃからばあさんに今さら申し上げることでもありません。

1279きゃからばあ:2005/06/18(土) 09:04:18

独歩さん、おはようございます。
中尾尭さんのお人柄が浮かんできます。
御本尊や御遺文などの真筆を、直接手に取られ、さらにスラスラとその古文書を読んでしまう素晴らしさに、心からあこがれてしまいます。
これはすべての宗派の僧侶と呼ばれる方々には、ぜひ見習って欲しいものです。

ところで板漫荼羅ですが、チョウナで削ったようなザラザラした面に、直接、筆でしたためた場合、紙のように滑らかに筆が進まないように思えるのですが、どうなのでしょうか?

1280犀角独歩:2005/06/18(土) 09:25:17

きゃからばあさん、おはようございます。

> 板漫荼羅…チョウナで削った…ザラザラした面…直接、筆でしたためた場合、紙のように滑らかに筆が進まないように思える

まったくそのとおりではないでしょうか。
また、そんなことは製作工程からして考えられないでしょうね。
文字原図は紙に記し、それ自体が複製できるものでなければ、制作は不可能でしょう。
削れば、直ちに文字は消えてしまうわけですから、その位置を原図を当てながら、何度も確認し、時にはさらに書き写し、進めていくのが彫刻の作業でしょう。
近代石山やら、顕正会のアナウンスでは、当初から漆塗りであったとするのか、金箔文字であったような論調のようですが、そのような彫刻の制作過程は、もっと複雑でしょう。漆が乗るようにするためには下地を整えるわけですし、板書したものを彫って、漆を掛けて金箔も張れる、そんなことは、無理な話であると、わたしには思えます。

もっとも石山の彫刻は禅師授与漫荼羅の文字を使い、その他、不動・愛染などは、熊田本の写真で見ても明らかな他筆、きゃからばあさんが立てた疑問は、どだい、当てはまらないものであると思います。

1281大勇者:2005/06/18(土) 09:45:55
>1278
独歩さん。 どうもです。
光長寺蔵第58大漫荼羅について、概出でなければ、教えて頂きたいのですが・・・

「熱原の信徒の為に持ち寄った紙に筆した」というのは伝説の類でしょうか?
以前から気になっていたのですが、調べようがなかったもので・・・質問させて下さい。
お願いします。

1282きゃからばあ:2005/06/18(土) 09:58:43

もうひとつお伺いします。
板漫荼羅の下の脇書「右 為現当二世造立如件 / 本門戒壇之願主弥四郎国重 / 法華講敬白 / 弘安二年十月十二日」について。
日付を見れば、太歳の無いこと、月日が2行であること、などから興師の文字であると思われますが、「右 為現当二世造立如件」の「右」とはどういう意味なのでしょうか?
もしかして板漫荼羅の右側に何か別のものがあり、それを指しているのでしょうか?
そしてその何かを証明する御本尊として板漫荼羅が作られたのでしょうか?
しかし現実として大石寺にそんな話がないことから、意味の無い想像であることは間違いないですが…。

1283犀角独歩:2005/06/18(土) 10:47:58

大勇者さん

> 熱原の信徒の為に持ち寄った紙に筆

恐縮ながら、わたしは、この点は、資料を何も確認していません。
追って、では調べてみます。

ただ、ご投稿を拝見して、「持ち寄った紙」というのは、実にヒントになりました。
中尾師は、漫荼羅料紙は、揮毫を望む側が紙を供給した点を挙げていました。
この説と併せると、光長寺大漫荼羅が28紙の、それも大小様々な紙を継いだということは1枚1枚普請者が異なっており、その総意で漫荼羅図示を願ったということもあるのだろうかと想像を逞しくしました。尤も是はわたしの勝手な憶測です。

この大漫荼羅に関して、山中師が挙げている資料は以下のとおりです。

『見聞愚案記』3巻18丁
『当家諸門流継図之事』宗学全書史伝旧記部第1 P153
『本化高祖年譜』19丁・47丁
『高祖年譜攷異』中巻14丁・下巻39丁

残念ながら近代デジタルライブラリーにはいずれも所蔵されていないようでした。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

1284犀角独歩:2005/06/18(土) 10:48:24

きゃからばあさん

> 右

この1文字については、三学無縁さんともかなり議論したことです。
果たして、文章を書き出す慣用語として置かれた冒頭語なのか、あるいは、右に文章、もしくは記名があるのか、結論が出ません。

いずれにしてもこの文は「造立如件」で始まり「敬白(敬って白(もう)す」で終わるわけですから、彫刻を作った願主の言葉であることは間違いありません。これが蓮師が記したとすれば、蓮師は檀那に敬って白すと下位から述べたことになるからです。こんな筈はなく他の大漫荼羅にあるとおり、授与という上位からの図示に決まっています。

仮に何か文章があるとすれば、彫刻者(仏師)の名前ではないのかと考えても見ました。つまり、依頼をされた彫刻の造立は、このようにできました。本門戒壇の願主である弥四郎国重・法華講衆等に敬って白(もう)し上げます。そして、その名前は消え去った…。けれど、こうなると、弥四郎国重に尊称が記されないわけはないので、こうも言えないだろうと思えます。

三学無縁さんは「この文章もどこかから持ってきて張り付けたのではないのか。その際、右の字もそのままになったのでないのか」と想像を述べていました。

なお、日付の「大歳」を欠く書き方は、たしかに興師の在り方です。そのことから、流伝のとおり、わたしもこの字は興師であろうと想像してきましたが、しかし、単に興師の書き方を倣っただけの他筆とも考えられますね。

1285きゃからばあ:2005/06/18(土) 15:14:00

独歩さんへ。

>三学無縁さんは「この文章もどこかから持ってきて張り付けたのではないのか。その際、右の字もそのままになったのでないのか」と想像を述べていました。

もし、偽物を作る場合、いかにも不自然な文字は、製作時に消すと思われますがいかがでしょうか?
とはいえ、「右」の一文字で本物と証明する武器にはなりませんが…。

それと気になる点がもうひとつ。
以前、御開扉で板漫荼羅を拝見したとき、花押の右側に小さな文字を確認しました。ただ小さすぎて判読できませんでしたが、独歩さんは何かご存知でしょうか?

とにかく、オフ会でさらに詳しくお伺いしようと思いますので、よろしくお願いします。

1286犀角独歩:2005/06/19(日) 08:03:22

きゃからばあさん:

> いかにも不自然な文字は、製作時に消す

なるほど。しかし、憶測でものを言えば、これが何かの文書の転載であった場合、「右」の字を消すと字配りがアンバランスになれば、そのまま残す、また、特別な意義があったとすれば残すことになるかも知れません。もちろん、これは憶測に過ぎませんが。

まあ、わたしは善意に考えて、「右〜敬白」という慣用文の冒頭語であると、いちおうは思っています。

いずれにしても「敬白」とある以上、蓮師の文であるはずはなく、「本門戒壇願主」と言うも、国主ではなく、また、「本門戒壇」と記されているから言って、本門本尊というわけでもないわけですから、石山のアナウンスは、伝承以上の意味は持たないでしょう。まして、彫刻であれば、真筆云々と論じることはナンセンスと言うほかありません。

まあ、詳しくはオフ会でお話したいと思います。

1287彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/21(火) 07:13:46

>1281大勇者さん、1283犀角独歩さん

第五七番御本尊について「当家諸門流繼圖之事」(『』日蓮宗宗学全書 第18巻 史伝旧記部(1)、昭和43年第3版(初版昭和34年)、山喜房仏書林、153頁)には「二十八枚續ノ大漫荼羅之事、 二十八人ノ檀那衆一枚宛白紙ヲ持参シ奉リ御本尊ヲ所望申ス、而ニ大聖人ノ仰セニ只一軸ニ有テ然可、即二十八枚ヲ一幅ニ御書ス」とあります。

また第五七番御本尊についての『本化高祖年譜』及び『本化高祖年譜攷異』の記載については『棲神 第65号』(平成5年、身延山短期大学会)の上田本昌師による「日蓮聖人後期の曼荼羅について(1)」と題する論文の32頁にある記載を以下引用します。引用にあたって、レ点と一二点は書き下し文にし、引用文献は文中に記載しました。

「次に十一月二十一日付けの大曼荼羅が沼津市岡宮の光長寺に所蔵されている。丈が二四三糎、幅が一二四糎という最大の御本尊で、第五七番目に当っている。「優婆塞 藤太夫 日長」に授与されたもので、左下の花押のそばに小文字で記されている。大小二十八枚の紙をつなぎ合せたこの大曼荼羅は、首題と四天王が紙幅一杯に大書されており、諸仏諸尊は首題に比較して細字である。この優婆塞藤太夫日長なる人物が、如何なる人であったかは不詳であるが、伝承によると「古く甲州南都留群小立村妙法寺に護持せられたもので、同村の渡部藤太夫に授与したもう」(『御本尊集目録』87頁)といわれている。従ってこの曼荼羅の授与者は小立村の住人ということになろうか。『高祖年譜』によると、弘安三年十一月の項に「二十一日二十八紙ヲ接テ本尊ヲ筆メ、渡部藤太夫ニ授ク。」(『高祖年譜』四七)とあり、『攷異』では渡部藤太夫について、「法名日長、甲州鶴郡小立村ノ人、子孫今尚蕃昌ス」(『高祖年譜攷異』下三九)と記している。この弘安三年については「あきらかに訛伝である」(引用者注:原文には引用文献の記載がないが、『御本尊集目録』87頁に同記載がある)とされている。「元年」を「三年」と見あやまったものと考えられる。また『年譜』によると、文永六年の項の中に、聖人が法華経の全帙を書し、「以テ富嶽ノ半嶺ニ瘞ミ以テ後世流布ノ之苗根ト為ス、世経嵩ト名ク、環路小立村ヲ過ル本尊乞者二十八人、乃チ書シテ而授焉、」(『高祖年譜』一九)とあり更に『攷異』では、この本尊に関して「文永六年木立ニテ本尊ヲ求ル者、二十八人各一紙ヲ供ス、大士接テ一幅ヲ為書ス焉、是ヲ岡ノ宮大曼荼羅ト称スト」(『高祖年譜攷異』中一四)とあり、「後弘安三年十一月廿一日初廿八幅ヲ火テ墨ト為以新ニ廿八紙ヲ接テ一幅ト為、以本尊ヲ書廿八人ニ代テ以渡部藤太夫ナル者ニ与、健岡宮ニ如キ寺主ニ問ニ土人ノ語ノ如シ、而ニ本尊ヲ火コト信難、恐ハ忘伝カ耶、」(とも伝えられている。いずれにしても二十八紙に図顕されたという大曼荼羅であるため、それにまつわる由来も生れていったものと考えられるが、渡部藤太夫とその人にまつわる人々が、共に聖人の信徒として存在していたことは間違いないものといえよう。尚、「藤太夫の斉藤兵衛」なる者もいて、信仰は相続されていったものの如くである。但しこの御本尊が如何なる由来によって岡宮へ伝えられていったかについては不詳である。(後略))

「当家諸門流繼圖之事」、『本化高祖年譜』及び『本化高祖年譜攷異』には大勇者さんが1281でおっしゃっている「熱原の信徒の為に持ち寄った紙に筆した」というような記載はありません。伝説の類でしょうか。紙を持ち寄ったという記載はありましたが熱原ではありません。

彰往考来(しょうおうこうらい)

1288犀角独歩:2005/06/21(火) 09:22:20

彰往考来さん、有り難うございました。

調べる手間が省けました。
やはり、紙の持ち寄りという想像だけは合っていたわけですか。なるほど。
しかし、2メートル以上もある大漫荼羅、その用途は、判然としませんね。
何であったのでしょうか。

1289大勇者:2005/06/22(水) 00:21:31
彰往考来さん、犀角独歩さん

有難うございます。

もう一つ気に掛かる事があります。愚問かも知れませんが・・・
此の曼荼羅の愛染についてなのですが、L字型に筆が運ばれ、その下に隙間が開いている様に見えます。
この写真でも、やはり隙間が見えます。
http://www.spy.or.jp/SINPOU/108/032renge.htm

紙の凹凸に依るものなのでしょうか、御意見を御聞かせ頂ければと思います。

1290パンナコッタ:2005/06/22(水) 00:38:23
第五十七番の正面画像は
http://www.lbis.jp/gohonzon/057.htm

ちょっと愛染に隙間がある見たいですね。

1291犀角独歩:2005/06/22(水) 09:59:29

大勇者さん
パンナコッタさん

第57大漫荼羅の輪郭を妙法寺サイトの写真を正面に加工して重ねてみました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/no57daimandara.JPG

1292きゃからばあ:2005/06/22(水) 10:49:02

大勇者さん、パンナコッタさん
こんにちは。

もし間違っていたらゴメンナサイ。
漫荼羅の右の梵字は不動明王だったような…?
隙間とは、左の梵字のことですか?

1293パンナコッタ:2005/06/22(水) 11:17:58
左側の梵字です。 β みたいな棒と ち みたいな上の部分の間のことです。

1294きゃからばあ:2005/06/22(水) 16:12:13

パンナコッタさんへ。

確認できました。ありがとうございました。

1295彰往考来(しょうおうこうらい):2005/06/23(木) 21:14:07

>1289大勇者さん

貴1289でのご質問は、当スレッドの内容とは異なると思いますので、「蓮祖及び門下の曼荼羅について」のスレッドに私見を投稿しました。

彰往考来

1296犀角独歩:2005/06/30(木) 15:52:23

いま、三学無縁さんにお会いし、正本堂建立時、彫刻本尊が奉安殿から正本堂に移る際の記録写真を見せてもらいました。

蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。
正本堂に入れられた彫刻は、板だったのです。
いったい、細井さんのあの説法は何であったのでしょうか。

1297れん:2005/06/30(木) 17:44:48
犀角独歩さん、彫刻は達師の云う半丸太ではなく板だったのですか!法主であった達師が石山における信仰の根幹に係わるモノである彫刻について「事実」と相違することを言っていたことは、ただただ理解に苦しむのみです。話は変わりますが、摂折板の一連の投稿を拝して、折伏病は学会をはじめとする石山系の宿痾と思いきや、さにあらずして広く蓮師門下の中に根深く存在していたということを改めて思い知らされました感じです。私自身、蓮師の真蹟を読んで思うことは、弘安の晩年は観心本尊抄に記した賢王折伏(ネハン経に基づく折伏)を捨て去り、ただただ「不軽菩薩の利益」(真蹟・諫暁八幡抄第四十六紙末尾)に徹し、門下にもそれを遺命した如くに見えます。「不軽菩薩の利益」は独歩さんが示された如く摂受に属するのであり、後世の如く「不軽菩薩の利益」を折伏に配するのは間違いと思います。また、このような蓮師“門下”の折伏観の理解の根底には顕正居士さんが示された如く、フビライによる元冠が失敗におわった歴史上の事実の影響によるところが大きいと思いました。

1298問答迷人:2005/06/30(木) 18:24:31

犀角独歩さん

>蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。

達師が嘘を言ったとは考えにくいので、正本堂に安置された彫刻本尊は、御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊ではなく、そのレプリカであったということでしょう。

現在も御宝蔵、或いは別の場所かも知れませんが、何処かには、半丸太の彫刻本尊が納められているのだと思います。

それにしても、大石寺は本当に妙な事をするものだと思いました。

1299犀角独歩:2005/06/30(木) 20:35:46

1297 れんさん

そうなのです。どう見ても、奉安殿から正本堂へ彫刻を運ぶ御遷座の写真は、間違いなく板でした。

不軽菩薩のこと、蓮師のこと。まったく仰せのとおりであろうと存じます。

単に「折り伏す」とするのは雑駁なのですが、折伏というのは折り伏すという結論を述べる単語であるのに対して、摂受とは摂し受容し続けるという進行形です。つまり、前者の場合、降伏、信服、もしくは斬首断罪という結論とならない限り、折伏とは言えません。それに対して、摂受は相手が、どのような段階にあってもそれを受け容れる側の延々とした進行形を意味します。この意味において、蓮師の一生を見れば、そのどちらに契当するかは一目瞭然であろうとわたしには思えます。顕正居士さんもご指摘されたとおり、蓮師的な視点からすれば、隣国賢王の折伏は、その結論を見ることはなく、しかも、蓮師の予言は外れ、蓮師に拠らず、法華経にも拠らなかった日本は亡びることはありませんでした。しかし、それでも晩年、身延に隠棲した蓮師の摂受はその最期まで信仰であったと拝察されます。


1298 問答名人さん

> 奉安殿に移された…レプリカ…何処かに…半丸太の彫刻本尊が

けっきょく、そのようなに考えざるを得ないと言うことなのでしょうか。あの細井説法で池田さんに裏側の手斧削跡を見せたと言いますが、この話はなんであったのでしょうか。

オフ会に問答さんがお出でにならないのは残念ですが、次回は、この彫刻につき、敢えて証拠を可否を問わず、どんなことが言われてきたのかを三学無縁さんによく話していただこうと思っております。
なお、彰往考来さんからは第93漫荼羅に掛かる比較研究をいただく予定となっております。このレジュメはまた送付させていただく所存です。

1300ラキ:2005/06/30(木) 21:12:24
>蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。
驚きですが、昨夜たまたま、正信会のHPで下記の文面を見つけました。


http://nakanihon.net/nb/tozann.html

「登山について」の五、に
「大石寺九世・日有上人(祖滅一三八〜二〇一年)は、各地を旅して歩きました。
大石寺は留守がちでした。特筆すべきは、日有上人の留守中に、留守番の僧侶が大石寺を売ってしまい、帰山した日有上人が大石寺を買い戻したという事件がありました。
さらにこれは伝説ですが、戒壇本尊を略奪しようとする者があったので、日有上人は戒壇本尊の身代わりとして紫宸殿本尊を模刻し、戒壇本尊を駿東郡に避難させたという事件があったそうです。」

1301犀角独歩:2005/07/01(金) 00:52:59

正信会の登山の説明はまるで説得性がないですね。
日蓮本仏、彫刻本尊のまともな考証、批判も出来ない正信会はお話になりません。

> 戒壇本尊の身代わりとして紫宸殿本尊を模刻

この点は大いに考証すべき点があり、既にかなり語り合ってきました。
戒壇本尊の身替彫刻と詐称「紫宸殿本尊」彫刻は別物であるというのが、いちおう、石山のアナウンスではありませんでしたか。

1302ラキ:2005/07/01(金) 01:52:27
> 戒壇本尊の身代わりとして紫宸殿本尊を模刻
調べ物をしていて偶々気が付いてのですが、独歩さんの書籍を今拝読し終わり、
記載されてました。(^^;

愛染の写真で少し気になったのですが、興師が目師に授与した本尊と、愛染が似てる感じがしたのですが?
オフ会の時にでも、色々気になることがあったので、その時にでもお話します。

1303犀角独歩:2005/07/01(金) 02:00:26

ラキさん

> 興師が目師に授与した本尊と、愛染が似てる

ほお。これは、どの本尊を指すのでしょうか。

1304彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/01(金) 09:45:20

>1299 犀角独歩さん
>第93漫荼羅に掛かる比較研究

2日の予定はちょっと違いまして、主として禅師授与漫荼羅vs第92漫荼羅です。もちろん第93漫荼羅にも触れます。
その流れで禅師授与漫荼羅vs戒壇本尊にも触れます。

彰往考来

1305犀角独歩:2005/07/01(金) 09:53:25

第92ですか。本能寺所蔵漫荼羅のほうですね。
了解しました。勉強させていただきます。

わたしも資料が揃えば、文字の比率比較と天玉の触りは少し話させていただこうと思っています。

1306ラキ:2005/07/01(金) 12:55:16
おはようございます。

独歩さん。
> 興師が目師に授与した本尊と、愛染が似てる
>ほお。これは、どの本尊を指すのでしょうか。

石山の客殿の板曼荼羅です。
紙幅曼荼羅は、お虫払い法要のとき見れるそうです。
何故、愛染が似てると感じたかは、明日のオフ会で説明させていただきます。

1307犀角独歩:2005/07/03(日) 20:12:17

ラキさん

> 石山の客殿の板曼荼羅…紙幅曼荼羅

この紙幅は『日興上人御本尊集』(興風談所)P46に載っています。
不動はともかくとして、愛染は、彫刻本尊とその筆法を異にしています。

1308彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/07(木) 18:05:46

>1302 ラキさん

大客殿の板本尊は興師の正応3年10月13日の紙幅御本尊を富士大石寺第24代日永師の代に模刻したもので、全体の写真が柳澤宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年初版、はちす文庫、14頁)に載っています。
なお、紙幅のほうは同書の42頁に写真が載っていますが、同書の写真の愛染明玉は写りが悪くて解かり難いです。すでに犀角独歩さんが1307でご指摘されていますが、興師の正応3年10月13日の御本尊(紙幅)は、『日興上人本尊集』(平成8年、興風談所)の第46頁にも載っていて、こちらの写真は『石山本尊の研究』に記載された写真より全体的にピントがズレているのですが、幸いにも愛染明玉はよく判別でき大客殿の板本尊と同じ形であると解ります。
これらの写真から判断するに、大客殿の板本尊や正応3年10月13日の紙幅御本尊の愛染明玉は戒壇本尊の愛染明玉と同じ形であるとは言えません。違う形です。

なお参考までに、『日興上人本尊集』の5頁には「諸(引用者注:能勢順道編『諸記録』)七−二九二頁によると当本尊(引用者注:興師の正応3年10月13日の御本尊)の形木が栃木信行寺に所蔵されている」とあります。

1309ラキ:2005/07/08(金) 23:57:18
ご本尊集は持ってないのです(><)
値段が高いし・・・(^^;
客殿のご本尊の愛染を似てると感じたのは、渦巻きナルトみたいクルクルが印象的だったからです。
いままで、他のを拝見した事がなかったので。

余談ですが、古書検索していたらご本尊の売りがあり、35万て値段が付いてました。

1310犀角独歩:2005/07/09(土) 08:10:19

ラキさん、1309の件、「素朴な疑問」スレに答えてしまいました。
そちらをご参照ください。

なお、「日蓮聖人のお曼陀羅」と称するものは、年がら年中、ヤフーその他のオークションに出ていますよ。
日蓮宗の坊さんの書いたものもよくあります。
以前は、神田の古書店の2階に特設会場があって、いくつか展示されていましたが、いまはないでしょうか。

1311ラキ:2005/07/09(土) 14:14:39
独歩さん。
先月私が行ったときは、展示販売はされていませんでした。
信仰の対象から、美術品になってきてる感じがして複雑な心境です。

1312彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/11(月) 07:11:29

>1309 ラキさん

確かに御本尊写真集などが高額なのは事実です。8万円程度するものもあります。
その中で柳澤宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年初版、はちす文庫)は神田の東洋堂で2620円だったと思います。
これが高いかどうか議論が分かれるかもしれませんが、この程度の価格であれば手が届くでしょう。
戒壇本尊の相貌について議論するのであれば石山歴代の御本尊写真をみてから、ご自身の意見を述べられたほうがよいと思います。その意味で上述の本は手頃でしょう。最低でもこの程度の本は手元におかれたほうがいいですよ。

1313ラキ:2005/07/11(月) 13:01:30
彰往考来さん。

>柳澤宏道師の『石山本尊の研究』(平成9年初版、はちす文庫)は神田の東洋堂で2620円だったと思います。
古書店検索には、引っかかった事がないです。
ヤフーオークションで6千円ちょいで見かけましたが、売却済み。
どうしても欲しい本なら5千円ぐらいでも購入はします。
3全円前後なら、普通に購入は出来る価格ですね。
今度、神田に行った折には探してみます。

1314彰往考来(しょうおうこうらい):2005/07/11(月) 15:27:56

>1313

そういう状況ですか。東陽堂(東洋堂は誤記でした)でも売れて
しまったかもしれませんね。

1315ニセ本尊を糾弾する会:2005/07/13(水) 16:31:21
>>1298
[>蓮台に乗った彫刻本尊は間違いなく板で、半丸太ではありませんでした。]
変ですね。
わたしは、現場で運ばれるところを見ましたが、かまぼこ型でしたよ。
その写真、真上からのものではありませんか?

1316犀角独歩:2005/07/13(水) 17:31:25

どなたか存じ上げませんが、

> 現場で運ばれるところを見ましたが、かまぼこ型

どこで、どのような状態でご覧になったのでしょうか。
もう少し詳しくお聞かせ願えませんか。
「遷座」の際は、布がかぶって本体は見えない状態ですが、「かまぼこ型」というところまで、見られたとすれば、厨子から下ろしたとき、新しい厨子へ安置するときしかありません。その場に居合わせたと言うことでしょうか。

また、ご覧になったというのであれば、教えていただきたいのですが、仰る「かまぼこ型」というのは反丸太ということでしょうか。また、裏面はどんな状態でしたか。何か塗料がかかっていましたか、それとも苦の素材そのままでしたか、また、その裏には何か細工がありましたか、文字が認められましたか、詳しい情報を、ご投稿願えませんでしょうか。

> 写真、真上

いえ、ほぼ、真横です。

1317犀角独歩:2005/07/13(水) 18:02:07

【1316の訂正】

誤)反丸太
正)半丸太

誤)苦の素材
正)木の素材

1318ニセ本尊を糾弾する会:2005/07/13(水) 23:33:16
本体までは見ていませんが、遷座式に参加したとき、
板本尊を運ぶところを、目撃しただけです。

御輿の上には、板本尊を覆う木の箱がかまぼこ型をしているのが、
布を通してわかりましたよ。

1319犀角独歩:2005/07/14(木) 08:00:53

>1318

重ねての応答有り難うございます。

> 御輿…板本尊を覆う木の箱がかまぼこ型

さらに重ねて問わせてください。お答えいただければ有り難く存じます。この箱は、かまぼこを伏せた形でしたでしょうか。つまり、平面(かまぼこで言えば、板の部分)は地面を向いていたか・空を向いていたかという質問です。お応えいただければ有り難く存じます。

1320犀角独歩:2005/07/15(金) 11:23:41

いま、奉安殿から正本堂、正本堂から奉安堂への遷座の写真を見比べました。

前者は、まず、箱に入っていないようで、さらに、写真からは「かまぼこ型」を確認できませんでした。後者は、箱は真四角でした。

1321犀角独歩:2005/07/15(金) 12:05:29

> 箱は真四角

これは言葉足らずですね。天地が真四角で、縦長ということです。

1322ファリオン:2005/07/27(水) 00:59:45
話が弾んだとこで消えてしまい、誠に申し訳ありません。
PCか逝ってしまい、岩手の田舎なもんで、部品調達に時間が掛かってしまい、復旧に3ヶ月を要しました。

「偶像崇拝の観点からみた大石寺御本尊」に関しては、これから少しずつ意見を述べ、皆様の御批正に曝したいと思っております。

先頃話題に出ておりました「開眼」に関して、石山での記述が有りました。
日蓮正宗公式サイトの「創価学会員への折伏教本」第三章四節に、
「したがって、創価学会が勝手にコピーして作った『ニセ本尊』は、姿や形は日寛上人の御真筆(しんぴつ)とそっくりであっても、御法主上人の許可も開眼(かいげん)もないので、御本仏の「たましい」が込められていない偽物(にせもの)です。」
いまさらですが、「開眼」は仏像の眼を開き、御仏の魂を仏像に入れることだと思います。
石山では、御曼荼羅(御本尊)を仏像と同等に扱っているのだと思っています。

皆様の御高説を賜りたいと存じます。

1323犀角独歩:2005/07/27(水) 05:56:11

「開眼」については、過去には「本尊の開眼は誰が行うのか?」というスレッドが立ち、4年半前から論じられたテーマでした。

http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kaigen.htm

その後、以下のスレッドで論じられてきました。
議論はやや出尽くした観があります。

・『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
・つぶやきすれっど2
・創価学会の功罪を考える
・創価学会の携帯式本尊について
・創価学会の教義は日蓮正宗と何処がどう違うか
・勤行について
・大聖人のお墓(ご遺骨)はどこにある?
・富士山本門寺について教えて下さい
・本尊と曼荼羅
・本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
・池田教ってどんな宗教?
・現在の日蓮正宗の教義について
・生命主義、生命論について
・素朴な疑問
・顕正会って右翼団体?
・顕正会の実態を検証する

> 開眼」は仏像の眼を開き、御仏の魂を仏像に入れること

具体的にいえば、造立した仏像に実際に目を書き入れる法要のこと。
真跡遺文から「開眼」で検索すると以下のとおり

・木絵二像開眼之事「三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり」
・四條金吾釈迦仏供養事「画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」

*開眼のテーマは、当スレで扱うより、他の適当なところで行ったほうが混乱はない気がします。

1324独学徒:2005/09/01(木) 14:16:19

>お薦めスレッド 308

犀角独歩さん今日は、スレッドをこちらに移させていただきました。

「熊田氏の『日蓮上人』にしか大御本尊の写真が出ていないということなんですけれども、熊田氏の写真というのがですね、あの由井一乗居士という方の『日蓮大聖人』という本があるんですけれども、その御影堂全景の写真のなかからの、拡大してあの本に掲載されていまして。しかも修正が加えられているということはご存知でしょうか」

はい、この発言の検証のために出向いたのですが、お薦めスレッドにて報告致しました通り、熊田氏が手を加えているかどうか、よく見えないので判断できないというところです。

お堂に関しては、とりあえず「奉安殿のようなもの」としましたが、御影堂であれば、板曼荼羅の前に御影像があるはずです。しかし御影像はどこにも見当たらず、御影の入っている宮殿も無く、中央には厨子があり板曼荼羅が写るのみです。
恐らく「御影堂全影」とは、別なお堂と間違えての発言と思われます。

そして、写真集「宗旨建立と七五〇年の法灯」に掲載された、「日蓮正宗聖典」編纂会議の写真(日昇上人を中心に御宝蔵で撮影)と、見比べますと周囲の外観はほぼ一致いたします。
したがいまして、由井幸吉氏「日蓮大聖人」に掲載された写真は、犀角独歩さんご指摘の通り「御宝蔵全影」であると思われます。

複写して持ち帰りました写真は、写真部分に標準をあわせているため、写真周囲に記された文字が全て消えてしまっています。
文字に標準をあわせ、もう一枚複写を願い出て見たのですが、著作権の関係で同じ頁を2枚複写できないそうです。
今となっては、もっとよく見てメモを取ってくればよかったと後悔しています。

1325犀角独歩:2005/09/02(金) 09:42:29

独学徒さん

返レス、有り難うございます。

どうやら、宝蔵全景で落着のようですね。

あと、彫刻本尊写真修正の件ですが、これは実際に為されていると思えます。
ただ、実際に重ねれば中央題目はほとんど一致するわけですから、なぞって明瞭にした範囲であろうと思えます。石山の若僧さんが何で修正をしたことを強調したのか、その意図は憶測の範囲は超えませんが、いうように「熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正」したというのであれば、これは“お見事に日禅授与漫荼羅そっくり”に中央の題目をなぞったことになります。おまけに不動愛染の筆の流れ、四大天玉は位置こそずれていますが、その相貌は同漫荼羅に似るわけで、先のオフ会で特にわたしが指摘したとおり、大廣目天玉の天玉は禅師授与の筆法と同じになっています。こんな離れ業を熊田氏がやってのけたというより、禅師授与漫荼羅と彫刻本尊の文字がほぼ重なること、熊田氏がなぞったことの整合性がつく説明は、要するに熊田氏は、まあ、出来る限りで、文字を強調するためにになぞった、だから、もとの彫刻本尊の文字と一致すると見るほうが当然の予測と言うことになります。この点は独学徒さんにもご同意いただけようと存じます。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/27018566.html

ただ、彫刻本尊を拡大すると、文字の線が二重になっているところもあり、また、独学徒さんがご指摘くださったように「南」字“冂”左上肩から、大毘沙門天玉に延びる光明点をなぞっていないといった点も、見受けられます。

ですから、わたしが石山・富士学林の若僧さんに言ったとおり、是非とも彫刻本尊の鮮明な写真を発表していただき、また、石山蔵の禅師授与漫荼羅も併せて発表いただき、この三体を精緻に比較検討したいと思うわけです。

1326独学徒:2005/09/02(金) 12:24:28

犀角独歩さん、今日は。

「あと、彫刻本尊写真修正の件ですが、これは実際に為されていると思えます。・・・「南」字“冂”左上肩から、大毘沙門天玉に延びる光明点をなぞっていないといった点も、見受けられます。」

なるほど、それで「南」の光明点が薄くわかりづらいのですね。

>どうやら、宝蔵全景で落着のようですね。

由井が講頭を務めた、独一本門講により出版されたといわれます、「総本山大石寺真景」にも角度の違った、全景写真が出ていました。
こちらは「御堂の宝前」と写真横に書かれています。同書では御影堂を「本堂」として紹介しており、「御宝蔵」は「御宝蔵」として紹介していました。
なんだかよくわからなくなってきました。「御堂」という名の堂が、かつてはあったのでしょうか。
それとも何かをごまかすために、偽った記載なのか。「御堂」として紹介されています堂の、外から見た建物形は御影堂そっくりに見えます。
このころ御影像が火災等でなくなっていた等の情報があれば、ごまかしも必要だったかもしれませんが、現在のところ迷路に入った状態です。

1327犀角独歩:2005/09/03(土) 12:53:15

独学徒さん

> 御影堂を「本堂」として紹介…「御堂」という名の堂が、かつてはあったのでしょうか

この「かつては」と仰るのは、幕末から明治の頃という意味での記述でしょうか。

日興跡條々事に「大石寺は御堂と云い、墓所と云い、日目之れを管領し、修理を加え
勤行を致し、広宣流布を待つべきなり」とありますね。この時点で、たしかに「御堂」という記述は見られます。

日興跡條々事を日興真筆であると考えるのは石山人ぐらいで、この信憑性は著しく低いと思えます。何より、影本(写真)すら示さずに、真偽を論じる石山の僧侶による真偽論はまったく資料としての価値を有しません。

それはともかく、この書が成立した頃、御堂と墓所はあったということになるのか?と思います。では、この御堂には一体何が安置されていたのか?という点で、納得のいく説明に出会ったことがありません。脈絡からすれば、「弘安二年の大本尊」が安置された堂であった?と読めなくもありません。

しかし、石山では日精以降、御影堂は本堂と認識されていたといって差し支えないと思います。この堂宇は正式名称は本門戒壇堂で、安置は彫刻本尊と御影であったと細井さんは記していました。
独学徒さんに説明を記せば、「釈迦に説法」のようですが、中世以降の日蓮門下寺院では本堂・御影堂が対で建立され、本堂には釈迦立像と相場が決まっていました。
造像撤廃の石山義では本堂は漫荼羅本尊、御影堂は御影像となるわけで、條々事成立の頃、本堂安置は漫荼羅本尊、ところが日精の段階では御影で、本堂の安置本尊に変遷があったことが窺われます。

ここでいう御堂は本堂か・御影堂かと考えさせられますが、由井が記述する頃であれば、やはり、御堂を本堂と考えていたのではないでしょうか。

1328独学徒:2005/09/03(土) 22:30:47

犀角独歩さん、初期の報告に漏らしてしまったことがあります。

実は由井の「日蓮大聖人」では、御影堂を本堂と紹介しています。
また「総本山大石寺真景」でも御影堂を本堂と紹介しています。

そして「総本山大石寺真景」で紹介される「御堂の宝前」は、「日蓮大聖人」の「○○○全景」を別角度から撮った写真と思われます。
また、石山・学林の学僧方は、「御影堂全景」と言っていた。

そして迷路に入ってしまったわけですが、写真集「宗旨建立と七五〇年の法灯」に掲載された、昭和6年の「大石寺境内全図」をよく見ますと、御影堂のことを「御堂」と書いていました。

また関係あるかどうかわかりませんが、能勢師の諸記録第1巻7ページに応師による、御影像に収める「腹篭御本尊」に関する記述があります。
応師の代に御衣替(御色直)があったようです。

全くの憶測ですが、件の写真は「御堂全景」であって、当時の御堂=御影堂の御影像は御色直しに出していたため、戒壇本尊が安置されていたのではないでしょうか。

これも全て私がしっかりメモを取ってくれば、何も悩むことのなかった問題であり大変恐縮です。

手にした画像関係類は今回ご紹介したもの以外にもあるのですが、次回お会いする時には全て持参しますので、是非ご覧戴きたいと思います。

1329犀角独歩:2005/09/03(土) 23:38:10

1328 独学徒さん

やはり、御堂のことは「釈迦に説法」でした(笑)

> 当時の御堂=御影堂の御影像は御色直しに出していたため、戒壇本尊が安置

ほお、これは抜きんでたご指摘ですね。なるほど。説得性があります。
一概に若僧さんの間違いとは言えないわけですね。
となると、かなり、正確な指摘であったわけですね。となれば、彫刻本尊が禅師授与漫荼羅の臨模・作為であることも先刻ご承知なのかも知れません。

> 次回お会いする時には全て持参

これは楽しみです。有り難うございます。

1330独学徒:2005/09/04(日) 19:47:26

犀角独歩さん、

>御堂のことは「釈迦に説法」でした

そんなことは御座いません、何時も一々を学ばせていただいています。
有難う御座います。

能勢師『諸記録』第1巻の御影堂に関する記録では、

一、本門戒壇本堂・・・精師・棟札
二、本尊堂・・・永師・御影堂安置『鶴』『蓮華』(曽存)
三、御堂・・・永師・御影堂経机
四、戒壇堂・・・英師・大鈴
五、御本尊堂・・・元禄年間寄進状

などの呼称がみえまして、その時々の情勢で呼称も色々だったのかと思わせるほどです。

時間がありましたら、図書館でリベンジしたいと思います。
いずれにしましても写真資料等をもとに、皆様のご意見を拝聴したいと思います。

1331犀角独歩:2005/09/04(日) 23:55:38

独学徒さん、たのしみにしております。

1332彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/08(木) 09:35:52

>1324独学徒さん

>複写して持ち帰りました写真は、写真部分に標準をあわせているため、写真周囲に記された文字が全て消えてしまっています。

昨日、国会図書館へいきましたので、ついでに本箇所のコピーをしました。周囲の文字にあわせるべくコピー濃度を濃くしてプリントしてもらいましたが、原本たるマイクロフィッシュの写りが悪い(薄い)ので字はうまく確認できませんでした。

このコピーは次回オフ会ででも持参します。

彰往考来

1333犀角独歩:2005/09/09(金) 11:07:06

わたしが単なる戒壇本尊否定論者のような謂われ様をしているので、『何故わたしが、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を記しました。

当掲示板とも、問答名人さんのことも、勝手ながら、記させていただきました。また、問答さんが公開なさった写真も使用させていただきました。

茲に、問答名人さんに、本日に至る一切の議論の御礼を申し上げると共に、ご報告に代えさせていただきます。

未発表の写真も一点、公開しました。
この写真を見ても、まだ、彫刻本尊が禅師授与漫荼羅の臨模・作為ではないと言える方は、もはやおられないでしょう。いわば、わたしの最後通牒です。ここに彫刻本尊真偽論争は終結し、新たな次代が幕開けすると、わたしは申し上げておくことにいたします。

皆さんのご意見をお聞かせください。

『何故わたしが、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

1334れん:2005/09/09(金) 13:02:43
犀角独歩さんの『何故わたしが、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を拝読させて戴きました。
私もかつて彼の彫刻を蓮師直造と信じていた一人として、独歩さんのご心情は千万分の一なりとも、理解できるものです。彫刻本尊の真偽のみならず、21世紀に伝えるべき真実の日蓮について考究されている独歩さんに心より敬意と賛同を表するものです。
詳しくは、執行師の著書にありますが、尊門日尹師の遣日代上人状に「大聖人御記文に、帝王御崇敬有りて本門寺造立以前は遺弟等曽て仏像造立すべからず云々」
尊師実録に「日興上人云く、末法は濁乱なり、三類の強敵之れ有り、爾らば木像等の色相荘厳の佛は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶うべからず、広宣流布の時分まで大漫陀羅を安置し奉るべし」
代師の葦名阿闍梨御房御返事に「仏像造立の事は本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時三ケ大事一度に成就せしめたまふべきの由御本意なり、御本尊図は其れが為なり」
順師の心底抄に「行者既に出現し久成の定慧広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立てざらんや、仏像を安置すること本尊図の如し、戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定は後難を招くこと有り、寸尺の高下注記するにあたわず」
以上の興師直弟等の著述文献により、興門初期における事相戒壇思想を窺うに足りますね。これらの文献からも、興門初期に所謂彫刻が存在しなかったことの傍証とはなるとは思います。

1335宮本:2005/09/09(金) 18:18:58
 突然で、失礼します
3年程前の書き込みにあったと記憶していますが、七師外道さんとの関連で、
亨師の説と犀角独歩さんの説の違いは、
戒壇本尊彫刻の経緯を肯定的にとらえるか?
否定的にとらえるか?
の違いだったと記憶していますが、概要は、それでいいのでしょうか?
 また、何分、六百年以上前のこですので、彫刻の経緯に関して、現実の
宗門、学会のどなたかに責任があるというのは、真偽がどちらであれ、
酷な話と思うのですが、どうでしょうか?
 亨師の講義録、口伝を記録したものなんて、在家の人は、誰も持ってないと
思います。 
過去の当事者の方には、責任があるでしょうが。
                               恐恐謹言

1336犀角独歩:2005/09/09(金) 22:42:49

れんさん、ご賛同、有り難うございます。

宮本さん、何か勘違いなさっていませんか。

> 六百年以上前のこですので、彫刻の経緯に関して、現実の宗門、学会のどなたかに責任がある

わたしは彫刻本尊が造られたことを幕末ではないのかと言っているのです。
それ以前の彫刻本尊の話をしているわけではありません。

また、日蓮正宗宗創か学会が、800万人から500億円近い金を集めたのは40年前、責任がないとは思いません。
殊に阿部さんは河邊メモが事実であれば、彫刻本尊が偽物であると知って登座したうえ、正本堂を壊し、さらに奉安堂を造るのに金を集め、いまも内拝料を取っています。なんでせきにんがないわけがあるでしょうか。

1337宮本:2005/09/10(土) 00:06:22
犀角独歩さん

>・・・幕末ではないのかと言っているのです

 幕末? そんなに最近の話とは・・・。

間違いだったら、すみませんが、犀角さんのHPの方に書いてあるんですか?
(そこしか読んでなかったので、見逃したかな?)

 宣伝するわけでは、ありませんが、
犀角独歩さん本の中にその経緯(犀角独歩さんの見解)が
書いてあるわけですか?

 もし、そうゆう事でしたら、そちらの方で、拝見させてもらいます。
しかし、幕末とは・・・・。放射性同位元素の年代測定で、ばればれかな。

 こんなこと、隠しきれるとは、思えない。 
誰がしたのか、存知ませんが、腹が立つより
恐ろしい話です。

 他宗の事であり、破門である以上、もう大石寺に行く事のない我々には、関係の無い事でしょうが。

正本堂の建設時、まだ、入信していなかったのでよく知りませんが、
ただ、集めた金の事は当サイトの中にいろいろ書き込みがありました
ので、そちらも再度読んでみます。

 幕末とは・・・。

1338犀角独歩:2005/09/10(土) 04:08:12

宮本さん

幕末ということは、あくまで類推であって、はっきりと断定したことではありません。
しかし、ここで議論されてきたことは、所謂「戒壇の大御本尊」再造ということです。
つまり、該当本尊は1体ではなく何度も作り替えられてきたのではないのかという論及です。何故か。それはたとえば、完則図、また日憲・当家諸門流系図事、木下図など、複数のその相貌を写す図を比較するとき、同一本尊を写したとは思えないからです。

わたしが現彫刻を幕末頃のものではないのかと記すのは、霑志問答記録に記載されている如く、大石寺は幕末に大火に遭い、文書のほとんどが焼けてしまったこと、もしくは廃仏毀釈に移動・加工の話が伝わること、その頃、大石寺誑惑顕本書が讃岐大坊経由で石山にもたらされ、その文中に禅師授与漫荼羅が「万年救護戒壇本尊」として最大の宝物の如き記載で紹介されていること、また、その後、(もしくはそれ以前)、北山ではこの禅師授与を相剥して売りに出したこと、それを明治になって、躍起になって買い、後に石山に奉納されたこと、そして、その図形対象によって、禅師授与漫荼羅が彫刻の原本であることが明白となったこと、これらの事実を併せ考えると、‘現’彫刻の制作は、古くても幕末、場合によっては明治になってから再造されたものであるという類推は成り立つと言うことです。

しかし、以上は、実際の現物を調査しない限り、その事実は判明しません。ですから、国立(主)戒壇の安置本尊であるというのであれば、その科学的調査は必須であり、いまも、それが公安2年10月12日の日蓮直造であると主張するのであれば、主張する責任から科学調査をし、さらにその結果を公表する責務を大石寺は負うとわたしは言ってきたわけです。まして、わずか40年前、800万人から500億円近い金品を募った原因が、その彫刻にあれば尚更のことです。

繰り返しますが、この彫刻を、既に教学部長時代に「偽物」であると知りながら、登座し、正本堂を壊し、奉安堂に金を募り、さらにいまも金を取って内拝させる阿部さんの罪はまことに深いことをわたしは繰り返し述べておくことにいたします。また、そのような本尊をもっていまだに国立戒壇建立を叫び、高校生を中心にして人身を惑わす、顕正会の在り方をわたしは無責任であると批判しておくことといたします。

1339犀角独歩:2005/09/10(土) 04:09:57

【1338の訂正】

誤)公安2年10月12日
正)弘安2年10月12日

1340犀角独歩:2005/09/10(土) 05:06:52

誤)日憲・当家諸門流系図事
正)日憲・当家諸門流継図事

1341宮本:2005/09/10(土) 19:44:39
犀角独歩さん

 詳細にわたり、説明して下さり
ありがとうございます。

1342彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/10(土) 21:02:17

>1337 宮本さん

彰往考来といいます。
>他宗の事であり、破門である以上、もう大石寺に行く事のない我々には、関係の無い事

平成14年4月1日施行の創価学会会則では、第2条に、

この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し、

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_6.htm

とあります。ご案内のように今日にいたるまで聖教新聞や創価新法ではあいかわらず、日蓮正宗管長(日顕さんです)に対して大御本尊を偽物扱いした不届き者として口汚く非難しています。つまり創価学会は、いまだ戒壇本尊を信奉している、少なくとも対外的には本物として扱っていて偽物とはしていないと判断されます。貴殿の周りの創価学会内でもそうなっているはずです。

冷静に考えればこれはちょっと変ですね。貴殿がおっしゃるようにもう関係ないのなら、創価学会が堂々と戒壇本尊偽物論をキャンペーンして日蓮正宗を攻撃すればよいのではありませんか? 今では日蓮正宗の血脈や本尊書写などすべて否定しているわけですから。

少し調べれば戒壇本尊が後世のものであり、4〜5代目くらいの代物であることくらい分かります。5代目は幕末どころかきっと戦後のものです。初代〜3代目までは度重なる大石寺の大火で焼失してしまったと考えます。創価学会の大幹部だって知っているはずです。
なのに秋谷会長以下、創価学会の大幹部は偽物とはしていないのです。そりゃあ、ついこの前まで会員に登山させ拝ませていたのですから、いまさら偽物だなんて言えるかよ!ということかもしれませんけど、私はこのような態度は偽善だと思います。早く真実は真実として発表していただきたいと希望しています。

1343犀角独歩:2005/09/10(土) 22:24:45

彰往考来さん、彫刻否定だけではまだ手ぬるいでしょう。
創価学会が彫刻本尊と決別すると言うことは日寛と決別すると言うことです。
そこまでやらなければ、結局、整合性は採れないでしょう。
もはや、そこまで、転がり来ています。

1344パンナコッタ:2005/09/10(土) 22:40:18
蛇足ですが、
青年教学試験の出題範囲に、分段ベースの「観心ノ本尊抄」をやっているので、
まだまだ無理な気がいたします。 
若手の人たちは解りませんが、教学部の幹部達は完全に確信犯でしょうね。

1345宮本:2005/09/11(日) 00:04:13
彰往考来(しょうおうこうらい)さん

>・・・早く真実は真実として発表していただきたいと希望しています。

 私だって、そうしてもらいたいです。
犀角独歩さんの見解は、大筋、正しいと
思いますから。(私が、言ってもなんの意味もありませんが)
 ただ、まだ当分、無理だと思いますが。いつか、大多数の人に
認められると思います。

1346古池:2005/09/11(日) 16:16:37

彰往考来さん

はじめまして

>少し調べれば戒壇本尊が後世のものであり、4〜5代目くらいの代物であることくらい分かります。5代目は幕末どころかきっと戦後のものです。初代〜3代目までは度重なる大石寺の大火で焼失してしまったと考えます。

と記されておりますが、よろしければ初代から4、5代目までは、それぞれいつ頃どなたによって造立されたのか教えていただけないでしょうか。
なのに秋谷会長以下、創価学会の大幹

1347彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:42:57

スレッド1342で現在の戒壇本尊が4〜5代目であると述べました。これを受けスレッド1346で問い合わせが来ています。この考えは平成17(2005)年3月20日に実施されたオフ会で「大石寺の大火と伝・弘安2年板本尊の関係」という表題で講演し大石寺の本門戒壇の大御本尊(=彫刻本尊:伝・弘安2年板本尊、以下“戒壇本尊”と略します)が4〜5代目であるとの私説を披露しましたものの掲示板などでは紹介していませんでしたので以下その時のレジュメを抜粋し若干加筆修正して投稿いたします。なお現在の戒壇本尊が4〜5代目であるというのは、各種資料を付き合わせるとうまく説明できるということにすぎず、あくまで仮説のひとつに過ぎないということを予めお断りしておきます。

犀角独歩氏は『プレリリース版 必携図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』(平成16年、瓔珞出版事務局、85頁)で戒壇本尊の座配を伝えるものに四種類あり複数存在したのではないかと指摘されています。同書には「彫刻本尊は一体ではなく、時代時代によって再造されながら、数世代、複数存在してきたという仮説を立てました」(同書、92頁)とあります。氏に直接伺ったところでは、「現在の彫刻本尊は慶長元年(元治2年)の大石寺大火の後、造立されたものではないかと考えている」ということでした。
ここでいう四種類の座配とは以下のとおりです。
(a) 日憲図 … 慶長5(1600)年頃。日憲(下総峰妙興寺)「当家門流継図之事」日宗全18巻149頁
(b) 完則図 … 明和年間(1764年)頃。窪田哲城『日蓮聖人の本懐』所収
(c) 木下図 … 昭和30年代か。木下日順『板本尊偽作の研究』口絵
(d) 柳沢図 … 明治44年熊田葦城『日蓮上人』記載写真の解読。柳沢宏道『石山本尊の研究』など

日憲図に対する従来の考え方は、「偽筆なり、とする第一の理由に勧請形式(身延派あたりでは好んで勧請という)を挙げ、おそらく日憲の記録をそのままウノミにしたものであろう。(中略)日憲は何を見てきたのか知らないが、弘安二年の本門戒壇の大御本尊は、日憲のいうのとは、まったく違う」(創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会 批判を破す』昭和37年、鳳書院、24頁)というものでした。つまり日憲図は戒壇本尊の相貌を正しく現していないというものです。
戒壇本尊が時代時代によって再造されながら複数存在してきたのであれば、異教徒による破壊や焼失、強奪など消滅した理由があるはずです。消滅理由のうち最も起こりやすいのは火災による焼失でしょう。いざ火災となった場合に文書や紙幅の御本尊などとは異なり、「重さが推定でも75キロ(半丸太説に従えば270キロ)」(美濃周人『日蓮正宗創価学会 謎の大暗黒史』1994年、三一書房、27頁)の戒壇本尊を火災の際に持ち出すのは極めて困難と考えられるからです。そこで戒壇本尊が何回か火災で焼失しているのか文献・資料上で検証してみました。
検証方法のロジックは
①各種の資料に記載された戒壇本尊の内容と何回か発生した大石寺の火災記事とを時系列で並べる。
②火災の前後で戒壇本尊記載内容に変化点があるか検証する
③②で変化点がある場合は、戒壇本尊が焼失し再造されたと仮定する
④②で変化点がない場合は、戒壇本尊はその火災では焼失していないと仮定する(小さい火災もここに含める)
としました。

検証の結果、驚くべきことに戒壇本尊が火災で焼失し再造され複数存在したとの仮説がうまく説明できるということになりました。以下、検証結果を記します。

1348彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:43:40

1347の続きです。

 『富士年表』(昭和56年、富士学林)を紐解くと富士大石寺の火災記事は以下の11件がみられました。
(1)永禄12(1569)年 大石寺焼失
(2)寛永8(1631)年(寛永12年説あり) 大石寺諸堂焼失
(3)文化4(1807)年 大石寺塔中理境坊焼失
(4)安政7(1860)年 大石寺石之坊より出火、富士見庵・寿命坊・遠信坊・学寮焼失
(5)元治2(1865)年 大石寺客殿・六壺・大坊焼失
(6)慶応元(1865)年 大石寺蓮葉庵坊焼失
(7)明治42(1909)年 大石寺塔中百貫坊焼失
(8)大正13(1924)年 大石寺塔中本境坊焼失
(9)昭和5(1930)年 大石寺塔中本境坊焼失
(10)昭和8(1933)年 大石寺塔中蓮葉庵焼失
(11)昭和20(1945)年 大石寺大坊〔対面所・大奥・書院・六壺〕・客殿等500余坪焼失

 これらのうち、(3)はその前後である明和年間(1764年頃)に書かれた完則図の寸法と文政6(1823)年の「富士大石寺明細誌」(『富士宗学要集第5巻』昭和53年、創価学会、334頁)で戒壇本尊の記載寸法に差がなく、(4)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)はそれぞれ小規模な火災のため戒壇本尊の焼失はなかったと判断できるでしょう。(11)は当時戒壇本尊が御宝蔵にあったと考えられるので焼失は免れたと思います。
 では残った3件の火災記事と上記(a)〜(d)に記載した四種類の配座図記述時期をはめ込んでみましょう。

(1)永禄12(1569)年 大石寺焼失
(a)日憲図 … 慶長5(1600)年頃。(丈151.5cm x 幅72.7cm)
(2)寛永8(1631)年(寛永12年説あり) 大石寺諸堂焼失
(b)完則図 … 明和年間(1764年)頃。(丈143.9cm x 幅65.1cm)
(5)元治2(1865)年 大石寺客殿・六壺・大坊焼失
(d)柳沢図 … 明治44(1911)年。(丈141cm x 幅66cm)

ここで(a),(b),(d)は時系列的にうまくはまり、(c)の木下図ははまらないことがわかりました。木下図は出所・作成年が不明ですが仮に昭和30年頃としても明治44年の本尊写真を基にした柳沢図と一致せずはめ込めないのです。なお(d)の柳沢図は熊田葦城著『日蓮聖人』(明治44年、報知社)記載の戒壇本尊写真の解析図ですが、柳沢師の『石山本尊の研究』(平成9年、はちす文庫)では寸法を143.92 x 65.15 cmとしています。これは「富士大石寺明細誌」もしくは完則図にある長四尺七寸五分 横二尺一寸五分とある記載の尺貫法からメートル法への換算(1寸=3.03cm)と思われます。そこで柳沢図での寸法は『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院)記載の戒壇本尊寸法を採用しました。
(1)、(2)、(5)の火災規模はどうだったのでしょうか。(1)の永禄12(1569)年の火災は大石寺焼失とあるので規模は大きかったと考えます。このすぐあと、日主師がお虫払いを実施していますが、「御筆(大聖人)数十二通、御筆の大本尊一包同く三包」(『富士宗学要集 第八巻』昭和53年、創価学会、43頁)とあるように記録された霊宝はごく僅かで惨憺たる内容です。これは火災の規模が大きかったことを示唆しています。主師の記録では戒壇本尊の記載がみられませんので戒壇本尊が焼失した可能性を否定できません。

1349彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:44:25

1348の続きです。

(2)の寛永8(1631)年(寛永12年説あり)の火災規模も大きかったと考えます。寛永12年説をとる『地湧からの通信⑦』(1991年、はまの出版、152頁)では天保9(1838)年に大石寺が韮山の代官に出した口上覚を紹介していますが、それによれば「寛永十二年十月十二日之夜寺中より出火本堂山門坊舎不残焼失仕」とあります。寛永12年説をとるなら、「戒壇の御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置・・・この只今の御影堂は三百四十年前(引用者注:寛永9年)の建立」(日達上人御指南「大日蓮」昭和48年2月号)とあるように当時、戒壇本尊は本堂(御影堂)にあり、本堂とともに焼失したということになるでしょう。もちろん寛永8年説であっても戒壇本尊は焼失した可能性があります。
(5)の元治2(1865)年も大火であったと考えます。「露上御自伝」によれば、「二月廿八日ノ夜半大坊ノ下男部屋ヨリ出火シ構内一宇モ残ラズ焼亡スト 是ヲ聴キ大愕非動シ遽ニ東行ヲ止メ直チニ帰山ヲ計ル」(『地湧からの通信 別巻②歴史編』1993年、はまの出版、27頁)とあり大惨事であったようです。“構内一宇も残らず焼亡す”とのことですから、戒壇本尊も焼失してしまった可能性が高いでしょう。

ここで戒壇本尊の寸法に注目しましょう。時系列でみると、(a)→(b)→(d)といくにつれて特に戒壇本尊の丈が除々に小さくなっていくのがわかります。これは焼け残った楠板(半丸太?)を基に再造された可能性があることを示唆するものではないでしょうか。

戒壇本尊の配座を記した3点の戒壇本尊図が火災のあった時点から40年くらい後に成立しているのが非常に興味深いところです。再造期間が30〜40年程度かかるということでしょうか。また日憲師、完則師、熊田師の3師は皆石山の信者ではありません(熊田師は『日蓮聖人』執筆の後入信しました)。焼失してから再造までは当然ながら誰にも見せられず再造されると、待ってました!とばかりに他門流の者にも見せているのではないかと思えるほどです。

さて、完則図には天照大神と八幡大菩薩が配座していないという不信点があります。弘安期の蓮祖御本尊であればこのようなことはなく、完則図の信憑性を疑問視する向きもあります。これ対して私は、完則図に書かれた「伝・弘安2年板本尊」を作成する際に使用した原本の御本尊にある天照大神と八幡大菩薩がかなり下方に位置していて、腰書(右為現当二世造立如件 本門戒壇之願主弥四郎国重 法華講衆等敬白)を入れるためにはバランスが悪いので戒壇本尊作成者が除去したためではないかと推定します。このような天照大神と八幡大菩薩が首題の日蓮より下方に座する例は『奉蔵於奥法寶』(平成12年覆刻版、日目上人奉賛会)の第57番や『三和町史 資料編 原始・古代・中世』(平成4年、三和町)に記載のある富久成寺蔵の御本尊など日有師の御本尊にみられます。日顕さんが「河辺メモ」で「その他は時師か有師の頃の筆だ」(『法主詐称』、2003年、エバラオフィス、94頁)と仰っていることを考え併せると興味深いものがあります。

富久成寺蔵の有師本尊は日精師の「家中抄」に記載があり、「小野里八郎授与の本尊に「文明七年」云云、又幸島富久成寺の守本尊に「土佐吉奈右京太夫に之を授与す文明八年七月十五日日有判」已上」(『富士宗学要集 第五巻』257頁)とあります。ここで出てきた文明八年の守本尊は『三和町史』に記載がなく富久成寺では曾存したものと思われます。精師は時系列的に見れば完則図で著わされた戒壇本尊を造立した可能性を持つ法主と考えますが、文明八年の有師本尊は守本尊のため小振りと推定できますのでこれが原本になったとは考え難いでしょう。

1350彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 07:45:10

1349の続きです。

もうひとつ言えることは、火災のあと引退した御隠尊猊下が再登座する例がみられるということです。寛永8(1631)年(寛永12年説あり)の火災後には18世日盈師に替わり17世日精師が再登座していますし、元治2(1865)年の火災後には53世日盛師に替わり52世日露師が再登座しています。まさに異常事態といえます。本来ならば現役法主が火災の後復興に向けて陣頭指揮をとるはずなのですが、戒壇本尊焼失により石山が深刻な事態となり急場をとりまとめるため御隠尊猊下が再登座したのではないかと考えます。
明応2(1493)年の「重須日浄記」に「日有此頃未見未聞ノ板本尊ヲ彫刻シ」とあることから、永禄12年の火災である(1)以前に戒壇本尊があったのは確実であり、この初代(?)戒壇本尊は永禄12年に焼失してしまったのではないでしょうか。本仮説を基に数えると明治44年熊田葦城『日蓮上人』記載写真の戒壇本尊は4代目ということになります。
最後に現在の「伝・弘安2年板本尊」は昭和40年代にできたレプリカであるという説があります。玉井禮一郎師の『創価学会の悲劇』(平成4年、たまいらぼ)に「富士大石寺明細誌「末代不朽の為に楠の板に書く、厚サ二寸二分、堅(タテ)四尺七寸五分、横二尺一寸五分なり」(富要集五巻三三四頁)と書かれてあるこの板本尊のホンモノは、半円筒型の半丸太に文字を彫ったものであるが、現在の正本堂に鎮座しているソックリさんは、創価御用達の仏具屋に作らせた新品といわれ、古いほうはそのとき大石寺の若い僧たちが肩にかついで宝蔵にしまったといわれている。このとき、板本尊をかついだ僧侶の話では、大石寺の明細誌にあるような、二寸二分の厚さをもつ板ではなく、半丸太で、下部はすでに腐りかけていたという。」(同書、25頁)とあるのです。板本尊で下部が腐りかけているということは相当量の水を吸ったためでしょうか。つまり火災に遭い消火のために大量の水をかけられたと示唆されるわけです。もしレプリカ説が真実であれば、現在の戒壇本尊は5代目となります。
つまり初代は有師の時代、2代目は主師か昌師の頃、3代目は精師の時代、4代目は応師の時代、そして5代目があるとするなら、それは達師の時代ということになります。

以上の内容をまとめると、

・ 戒壇本尊が焼失するような大石寺の大火は、永禄12(1569)年,寛永8(1631)年(寛永12年説あり),元治2(1865)年の3回あった。
・ その結果、戒壇本尊は何回か焼失し再造された可能性がある。
・よって日憲図、完則図、柳沢図が異なっているのは戒壇本尊の再造の為という仮説が成り立つ。反面、木下図は時期不明で正しい配図かどうかわからない。
・完則図に天照大神と八幡大菩薩が配座していないのは、該板本尊の作成者が腰書を入れるために削除したのではないかと考える。
・現在の戒壇本尊は4〜5代目の可能性がある。

ということになりました。

by 彰往考来(しょうおうこうらい)

1351犀角独歩:2005/09/12(月) 10:43:01

横レス、失礼いたします。

1347〜50、興味深く拝読いたしました。

火事との相関で彫刻本尊の再造をお考えになる御説、先のご発表と共に興味深く承っております。

ここで彰往考来さんが述べていらっしゃらないのは、では、初代はいつ造立されたのかという点。あと、これはオフ会でのフリートークの話ですが、正本堂建立時、奉安堂建立時などで突然、彫刻本尊がきれいになるという現象は何に由来するのかという点も再造を論じるテーマとしては考慮される点であろうと思えます。

初代のことについてはれんさんをはじめ、皆さんのご賢察が参考になりますので、ここでは取り敢えず置きます。(わたしは有師造立説、また、示書からの類推には落着していませんが)

「きれいになる」というのは、堂宇建立遷座に併せた修繕(お清め)ということでしょうが、これが黒漆・金箔張文字という仕上げによる正式な作業であれば、数ヶ月から半年はかかります。まさか「本門戒壇の大御本尊」を修繕するのに、カシュー・ラッカーやら、金色の塗料で誤魔化すようなことはしないというのが常識的な感覚です。しかし、ここ半世紀の石山の歴史を見るに昭和30年に奉安殿に、昭和47年に正本堂に、平成10年に奉安殿に、平成14年に奉安堂にと次々と‘遷座’されていったわけですが、移動直後に拝観した人の話を聞くと一様にきれいになったというわけです。また、富士(桜)さんがたしかご投稿くださったことですが、ある日、突然、ピカピカになったという話、また、ある時から、腰書(右造立如件…弘安二年十月十二日)の文字に金箔が入ったという話など不可解な拝観感想が寄せられてきました。

実際の話、以上の移動(遷座)、もしくは「きれいになった」その前に数ヶ月単位で、拝観が停止されたという事実はあるのでしょうか。もしなければ、ここでも彫刻本尊は複数存在するか、もしくは安価な速乾性の塗料で直していることになるわけです。このようなことから「本当に楠材なのか? 漆・金箔なのか」「何体かあって、修繕しては取り替えているのではないのか」という再造とは別の、現代型(禅師授与漫荼羅を原本とする臨模・作為された彫刻)のものでも何体か複数にあるのではないのかという疑惑が生じることになるわけです。

そうなると4〜5代という再造説に併せて、複数説というものも考慮されなければならないことになります。

まあ、禅師授与漫荼羅原本の臨模・作為を弘安2年10月12日日蓮直造と言って憚らない大石寺のこと、以上のような次第であっても今さら驚くに値しないかも知れません。

1352彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/12(月) 12:54:22

>1351犀角独歩さん

>初代はいつ造立されたのかという点

これは難しいです。戒壇本尊の文献上の初出は、明応2(1493)年の「重須日浄記」にある「日有此頃未見未聞ノ板本尊ヲ彫刻シ」(『本宗史綱』247頁)との記載ですが、「紫宸殿御本尊」の模刻のこととの反論もあり、これをもって有師が初代を造ったと言いきれるかどうかということになります。私は有師が極めてクロに近いという考えではあります。

>正本堂建立時、奉安堂建立時などで突然、彫刻本尊がきれいになるという現象・・・数ヶ月単位で、拝観が停止されたという事実はあるのでしょうか

正本堂建立時にきれいになったかどうかわかりませんが、あの時は数ヶ月単位で拝観が停止されたことはなかったと記憶しています。
私事ですが、私の初登山は高等部(高校3年)の時で昭和47年8月でした。(年がバレちゃいますね。)戒壇本尊拝観場所は奉安殿で、狭いところで「立って、座って」の繰り返しであったのと、戒壇本尊が防弾ガラス越しだったのを記憶しています。そのあと同じ年の10月に正本堂が完成し、間なしに記念登山でした。8月の段階でまだ奉安殿で拝観できたわけですから、その間に造り直しは無理でしょう。ただ防弾ガラス設置の際は当然、拝観停止になっていたはずで、その間に入れ替えは有りえることだと考えています。ガラス越しになったことで見え難くなる・・・ということは交換した事実が発覚し難いわけです。あくまで推定ですが。
もちろん当時月末は登山がありませんでしたからやる気ならいつでも入れ替えはできるでしょう。レプリカ作成は戒壇本尊の写真をとって写真を基に製作されるわけですから、数ヶ月の拝観停止がなくても交換はできると考えます。

4代目がもし、御宝蔵にでも納められていて、その代わりに現在の5代目が奉安堂に安置されているなら、5代目は4代目の“御前立本尊”ということになるでしょう。しかし、それを蓮祖の御真筆と主張するとどうでしょうか。それはおかしいと思うわけです。

思えば初登山の昭和47年から少々疑問に思い、それから調べ出したわけで、いやはや30年以上経ってしまったなあという思いです。

1353独学徒:2005/09/12(月) 18:15:27

>彰往考来さん

ご発表のあったオフ会には参加できなかったので、火事と彫刻の関係について、初めてご見解を拝聴いたしました。
素晴しいご投稿を拝見でき、彫刻に関する新たな理解が深まったと感じました。
有難う御座います。



>木下図は時期不明で正しい配図かどうかわからない。

この木下図は、二次資料・三次資料を元に書かれているような気が致します。
本化妙宗聯盟の高橋智遍師の著作『創価学会が真実なら』−私は日蓮聖人の信仰をやめる−には、ほとんど木下図と同様の彫刻座配図が出てきます。

木下図と高橋図の違いは、
①木下図は手書き、高橋図はワープロ(タイプ?)
②木下図は「菩薩」を略文字の「丼」を使っているが、高橋図は略さず「菩薩」となっている。
③作成縁起内の「法華講衆等」(木下図)の部分が、高橋図では「法華講衆」となっており、「等」が抜けている。
④「年月日」が木下図では、1行で書かれているが、高橋図では「年」で1行、「月日」で1行の2行書きとなっている。
⑤木下図は旧字を新字に改めている(例:大持國天王の「國」を「国」としている)が、高橋図は旧字を使っている。

しかし、勧請諸尊の種類と座配、上部に八の字に「福過十号」・「頭破七分」の散文があること。
主題直下は2列で「日蓮 花押」となっているところ等、全体感はほぼ同じものといった感じです。

どっかにこれら両者の原図となったものがありそうなんですが、、、
やはり高橋図も出所不明です。

1354古池:2005/09/12(月) 21:45:38

彰往考来さん

詳細で内容の豊かなご説明に感謝申し上げます。
ありがとうございました。
よく熟読いたします。
心より御礼申し上げます。

1355犀角独歩:2005/09/13(火) 00:02:07

彰往考来さん

わたしが有師造立に疑義を示す理由は実に簡単です。
たとえば引用される『重須日浄記』というのが正本が存在するのでしょうか。
わたしは日浄記もさることながら、その資料的証憑性を考証しない本宗史綱、宝冊、大石寺誑惑顕本書などの信頼度は極めて低いと考えます。故に有師造立説は根拠が薄いという考えです。

あと、完則図の漫荼羅相貌に天照八幡がない理由は下にあったから削除したという御説には反対です。わたしは、この漫荼羅が奉安されていた当時、たぶん、大石寺には八幡を祀る社と天照大神を祀る垂迹堂、もしくは天主堂があり、分社勧請されていたので、この二神を漫荼羅が削ったのではないのかと考えています。日量の大石寺明細誌などの記述を見ての考えです。


独学徒さん

菩薩の代わりに置かれる時は「丼」ではありません。これは「草冠にサ」と書く菩薩を意味する略字です。一節には空海が考案した字であるといわれています。日蓮聖人もこれを踏襲しているわけです。

1356犀角独歩:2005/09/13(火) 00:03:18

一節は「一説」の間違いでした。訂正します。

1357独学徒:2005/09/13(火) 00:18:16

>1355
犀角独歩さん、

ご指摘有難う御座います。
よくよく眼を凝らしてみてみれば、仰せの通りですね。また一つ勉強になりました。
先の私の投稿は、木下師にも大変に迷惑な投稿となってしまいました。
申し訳ありませんでした。

1358犀角独歩[TRACKBACK]:2005/09/13(火) 00:24:46

独学徒さん

そういえば、この件は過去に投稿したことがありました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033939859/r74-r76

このジャンプ先のjpgはクリックしても飛びませんので、コピペして[アドレス(D)]に貼ってください。

『省書』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/nitiren_sinseki_shyohsho.jpg

1359独学徒:2005/09/13(火) 07:00:49

犀角独歩さん、お早う御座います。

画像の方、保存させていただきました。
再度のご教授感謝申し上げます。有難う御座いました。

1360彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:32:31

>1355 犀角独歩さん

> 引用される『重須日浄記』というのが正本が存在するのでしょうか。
そうです。従って有師造立説がいいきれるかどうかということでしょう。確実性のない資料に基づくと思わぬ落とし穴にはまる可能性があります。

> 大石寺には八幡を祀る社と天照大神を祀る垂迹堂、もしくは天主堂があり、分社勧請されていたので、この二神を漫荼羅が削ったのではないのか・・・日量の大石寺明細誌などの記述
う〜ん。日量の大石寺明細誌などの記述を基に再考してみましょう。

1361彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:36:16

>1351 犀角独歩さん

> 現代型(禅師授与漫荼羅を原本とする臨模・作為された彫刻)のものでも何体か複数にあるのではないのか

これは面白い視点ですね。そんなバカなと言い切れない部分があります。状況証拠を整理していずれ投稿したいと存じます。

1362彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:44:08

>1353 独学徒さん

木下図についてまとめてみました。ご指摘のように木下図にはAとBの2系列があります。
独学徒さんが指摘されたその特徴は、

A系列:菩薩が略字の井(草冠にサ)である、法華講衆等とある、弘安二年十月十二日で1行、旧字を新字に(例:國→国)
B系列:菩薩が略字ではない、法華講衆(“等”がない)もしくは法華衆等(“講”がない)、弘安二年で1行、十月十二日で1行の2行書き、旧字のまま(例:國)

というものでした。

これら2つの型式が、どの資料に記載されているかというと、
【A】:
(1)木下日順『板本尊偽作論の研究(再版)』(発行年不詳、本門社、巻頭口絵)
【B】:
(1)高橋智遍『創価学会が真実なら』(昭和35年12月28日、信人社、49頁)
(2)村上重良『創価学会=公明党』(昭和42年11月15日、青木書店、70頁)
(3)玉井禮一郎『創価学会の悲劇』(昭和63年11月25日、たまいらぼ、26頁)

となっていてA−1の木下図以外はBタイプです。Bタイプのうち法華講衆とあるのがB−1,3、法華衆等とあるのが、B−2です。A−1は発行年不詳ですが、巻頭写真に日達師の写真(大石寺66代 細井日達と紹介されています)があるので、昭和34年11月(達師の登座は昭和34年11月15日)以後であることが確実です。また参考資料に「創価学会発行 批判の妄説を破す」があり、これが昭和37年に創価学会教学部発行の「日蓮正宗創価学会 批判を破る」(この書に「「創価学会批判の妄論を破す」が入集しています」と考えられることから昭和37年以後であり、同じく参考資料に大白蓮華(月間)約百冊とあり、同雑誌は昭和30年創刊ですから、創刊号から百冊目は昭和39年5月号となるはずですからA−1は昭和39年頃の執筆と考えてよいでしょう。そうするとA−1はB−1とB−2の間の発行となります。つまりB−1のほうがA−1より古いのでB−1がA−1を参照したということは有り得ません。またA−1がB−1を元にしたとは考え難いものがあります。このような相貌図の場合、簡略図を書くならともかく、原本にない略字などはわざわざ使うとは考えられませんからAの特徴はBを写して書いたとは思えないのです。よってA−1、B−1ともそれぞれネタ本があったと考えます。B−2、B−3はB−1を履修したのではないかと思います。

1363彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 07:44:35

1362の続きです。

さてA−1の木下図ですが、これの情報提供者は日蓮正宗のO師であるという情報があります。文献資料では確認できず信憑性は解からない話ですが、O師が第二次世界大戦中、御本尊写真(恐らくは戒壇本尊)をお守りとして配っていたという証言があることから(『地涌からの通信26』(1993年、はまの出版、206頁)A−1記載の戒壇本尊写真はO師から入手したものと考えることもでき、O師による情報提供も有り得る話と思います。誰が情報提供者であれ、A−1やB−1にネタ本があったことは確実ですがどうもそのネタ本の相貌が間違っていたようです。
相貌が間違っていることを示す例としてA−1に代表される一連の木下図では第六天魔王、転輪聖玉、大龍玉が見られないことが上げられます。弘安期の蓮祖御本尊では66番、70番、72番、90番といった略式以外は必ず第六天魔王はお出ましになっているからです。戒壇本尊の相貌でこれらの諸尊の配座が見られないのは少なくとも蓮祖御本尊の配座図とすれば致命的欠陥とも言える疑義があるわけです。また、妙楽、竜樹、阿修羅玉などを欠いているのも不信です。これら諸尊を欠く内容がA−1とB−1で完全に一致することから、A,B2系列は同一のネタ本が使用され、各々の著者が不鮮明な戒壇本尊写真を基に解析したのではないと判断いたします。
“國”字と“国”字ですが、現代仮名遣いでは“国”の旧字は“國”です。ところが禅師授与漫荼羅、第92番、第93番など蓮祖の御本尊における大持国天玉は“国”字なのです。これは現代仮名遣いの考えからみると逸脱するように見えますがそうではありません。例えば“からぐらねっと” に真蹟写真からの立正安国論の「国」字体解析が紹介されています。

http://www.ginpa.com/karagura/library.html

それによれば立正安国論の「国」字は4種類72箇所に分類され、囗構えに「民」の字体が56箇所、囗構えに「玉」の字体が11箇所、囗構えに「或」の字体が4箇所、囗構えに「王」の字体が1箇所となっています。つまり “国”の旧字が“國”というわけではなく 蓮祖は“國”と“国”を併用されているのです。上述のとおり蓮祖御本尊では明確に“国”字が使われていますからB−1で“國”字となっているのは著者による作為と考えます。もしそうだとするなら、この作為は初歩的なミスでお粗末なものです。恐らくB−1で使用されたネタ本は“国”字となっていたはずで、B−2,3とも“國”字となっていることからこの2つはネタ本からの解析ではなくB−1の履修であることが裏付けられるでしょう。“菩薩”の略字も同様と考えます。このことからA−1の木下図が最もネタ本を忠実に現わしているといえるのではないでしょうか。
このネタ本がなぜ諸尊の欠落をもたらしていたのでしょうか?これは今となっては推測するしかありませんが情報提供者が戒壇本尊の御開秘の際に見た記憶をたよりに作った相貌図であって遠くから見ていたために部分的な欠落を生じたというようなことなのでしょう。いずれにせよA−1もB−1も戒壇本尊の相貌を正確には現わしていないと言えるわけで、木下図は信憑性に欠けると判断いたします。

by 彰往考来(しょうおうこうらい)

1364独学徒:2005/09/13(火) 08:08:04

彰往考来さん、お早う御座います。

朝のお忙しい時間の中、木下図に関しまして、種々お教えいただき有難う御座います。

1365犀角独歩:2005/09/13(火) 08:59:15

彰往考来さんのご投稿が乗ってきて、俄然、活気づいてきました。
独学徒さんも、おはようございます。

クニの字についてですが、仰るとおり「国」の旧字が「國」ではありませんね。
ご指摘のとおり、『立正安国論』の日蓮自著の題名は「国」になっていますから。
また、真筆漫荼羅の大持国天玉のクニの字も「国」です。

これはかなり古い記憶に属し、たしか創価学会の、もしかしたら池田さんの講義で読んだことであったと記憶していることなのですが、以下のようなことでした。

国=王(玉)が治めることを意味するクニ
口@民=民から考えたクニ
國=或は武器を意味し、武装して治められるクニ

つまり、おなじクニでも、その字によって意味を殊にしているということです。
これは顕正会批判の海賊ビデオや、松岡氏などがいうような日蓮仏法が民衆仏法であるから口@民であるなどということではなく、日蓮は最低でも3種の見地からクニを論じていたという意味です。この説はたしか池田さんの講義として、30年以上前にわたしは読んだと記憶していることです。いま、資料を捲る時間がありませんが、この根拠はたしか日寛であったとも記憶しています。漢和辞典、字源などで当たれば明確になるでしょう。

クニの字は他にも本圀寺という名称に使われる「圀」などもあり、これまた、意味を異にするのでしょう。クニといえば、何でも一緒というこの単純化は、戦後日本語教育、教育漢字やら、当用漢字、さらに新聞語法、ニュース用法というなかで単純化され、一本化された‘改悪’によって本来の意味を喪っていたのでしょう。

もう一点。木下師のネタ元がO師。安永弁哲師の『板本尊偽作論』もそうであったとのことでしたね。

この是非については置きますが、図に関して彫刻本尊の勧請座拝その他の考証で重要な点は上部に、屋根のように中央から左右に記されてある釈文「若悩乱者頭破七分」「有供養者福過十号」でしょう。なぜ、この図にはこの文が入っているのか、それも特徴的な書き方です。図の原本を探る鍵になると思います。

1366彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/13(火) 12:04:33

>1365 犀角独歩さん
> クニの字は他にも本圀寺という名称に使われる「圀」などもあり、これまた、意味を異にするのでしょう。

“圀”は則天武后(そくてんぶこう)の作った漢字で則天文字といいます。“圀”は今でも残る則天文字のひとつで水戸光圀の“圀”で有名です。
彼女(則天武后)は、本来の「国」という字は、玉が囲まれているのが気に食わない、彼女の国は世界の八方を囲むものである、としてこれを造ったとされてます。

http://www.mirailaw.jp/coramu.htm

なお本圀寺ですが、もとは「本国寺」と号しましたが、第十九世日廷(にってい)上人の1680年代に水戸光圀の熱心な外護を受けたことから、本圀寺と改めるに至ったと伝わります。

http://www.kosaiji.org/hokke/honzan.htm

水戸光圀は最初は光国という名前でしたが、“国”の字は幕府に対して恐れ多いということで、一段下の則天文字の“圀”に改名したと聞いたことがあります。則天文字は現在の中国では残っておらず、日本で残っているのは興味深いことです。

1367パンナコッタ:2005/09/13(火) 13:54:58
補足としまして国の字が意味すると云うのは、
 ①(天に対する)地。大地。 = つち。 ⇔ あめ。
 ②国土。国家。日本国。
 ③行政上の一区域。
 ④国ごとに置かれた地方行政府。国府。
 ⑤地方。いなか。村。
 ⑥故郷。ふるさと。
 ⑦国の政治。
 ⑧帝位。皇位。統治権。
 ⑨行政区分上の国よりも小さな地域。郡など。
              旺文社 古語辞典 より引用

形声。國は、ロ(四方の城壁や境界の封を表す)が意符。或(転音コク)が音符。狭い領地あるいは
国都を表す。或は國の原字。戈(守備を表す)・ロ(人を表す)・一(土地を表す)の合字で、
人の集まり住んでいる土地、すなわち、上代の都市国家的なくにの意。本義は広い領土をも含む邦とは別。
国はもと俗字に点を加えたもの。
              大修館書店 新漢和辞典 より引用。

1368独学徒:2005/09/13(火) 20:16:11

犀角独歩さん、彰往考来さん、パンナコッタさん、

皆様、色々と有難う御座います。

全くです。「國」を旧字などとは、日本人にして国語を無視した投稿でした。

自分の無学さをさらけ出すことによって、皆様に助けられ、また一つ勉強になり重ねて感謝申し上げます。
有難う御座いました。

1369彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/14(水) 18:08:38

>1368独学徒さん

>「國」を旧字などとは、日本人にして国語を無視した投稿でした

いえいえ、そんなことはありませんよ。ちなみに手元の漢和辞典(阿部吉雄編『漢和辞典』昭和50年新訂版第3刷)の“国”の項には、

「旧字体の國は、囲む意の囗と、音を表し、同時に、境界を示す或ワク・コクとから成る」

とあります。つまり教育漢字の「国」の旧字体は「國」と教えられているのです。

スレッド1362〜1363で高橋智遍『創価学会が真実なら』(昭和35年12月28日、信人社、49頁)(=B−1)において「國」字が使われているのは、いわば世間の常識(「国」は教育漢字だ→「国」の旧字は「國」だ→だから鎌倉時代は「国」ではなく「國」のはずだ)から変更したと考えられるので作為であると申し上げたわけです。実際に蓮祖の御本尊写真をよくみれば解ることです。その意味で木下日順『板本尊偽作論の研究(再版)』(発行年不詳、本門社、巻頭口絵)にある木下図はネタ本の原型をよくとらえているのではないでしょうか。

そうすると、木下図は無視できないかも知れません。不十分ながら戒壇本尊を実際に見て作成された配座である可能性があるということです。

1370独学徒:2005/09/15(木) 17:24:34

>彰往考来さん

日本語は難しいですね。

木下図の一件は、やはり写真資料の必要性を痛感する次第です。

1371古池:2005/09/19(月) 07:46:21

彰往考来さん

先日はありがとうございました。

1352で「御前立本尊」という言葉を記されていますが、この意味を教えていただければありがたいです。

1372彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 11:57:30

>1371 御池さん

お薦めスレッドの240, 249, 281を参照ください。

彰往考来

1373彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/19(月) 12:20:31

>1372 誤記訂正

誤:>1371 御池さん
正:>1371 古池さん

大変失礼いたしました。謹んで訂正いたします。

彰往考来               拝

1374古池:2005/09/19(月) 14:45:20

彰往考来さん

御前立本尊について拝見しました。
大変ありがとうございました。

1375犀角独歩:2005/09/19(月) 19:18:23

小池さん、
彰往考来さん

いちおう、見解として述べておきますが、宝蔵、奉安殿、正本堂、奉安堂に安置される彫刻本尊が「御前立本尊」であるという憶測に関しては、わたしは反対です。

なぜならば、あの大きさは、石山文献に載ってきた縦横とほぼ一致しているからです。これらの記述は御前立本尊のものではなく、「本尊」そのもののものであるはずからです。お上に提出した文献が御前立本尊のものであるなどということは考えられないということです。

いずれにせよ、中世の御開帳に、言われるような「御前立本尊」を見せたと、石山僧俗が言うのであればそれは言わせておきましょう。

しかし、いまからわずか40年前、それを正真正銘の本物であるということから800万人から500億円近くを集めたにもかかわらず、「あれは御前立本尊。たがか一般の俗衆に本物など見せるわけがない」などという封建的な暴論を振り回すのであれば、その“屁理屈”は、この現代にあっては、詐欺、ペテンであると、わたしは断言しておきます。

1376犀角独歩:2005/09/19(月) 19:27:40

1375に対する自己レスです。

> 「御前立本尊」…憶測…反対

あれは、まあ、こう考えるほかないような代物だが、そう石山僧俗が主張して責任逃れをすることには反対という意味です。

1377彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/20(火) 15:14:25

ちょっと誤解があるといけないので記します。

正本堂に安置され、現在は奉安堂に安置される彫刻本尊が「御前立本尊」であるかどうかを議論するためには、スレッド1287で問答迷人さんが、
>達師が嘘を言ったとは考えにくいので、正本堂に安置された彫刻本尊は、御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊ではなく、そのレプリカであったということ
>御宝蔵、或いは別の場所かも知れませんが、何処かには、半丸太の彫刻本尊が納められている

といわれていることが前提となります。つまり現在、奉安堂に安置されている彫刻本尊はレプリカでかつ板であり、御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊(=明治44年発行の熊田葦城著『日蓮上人』にて写真公開された彫刻本尊)は半丸太で御宝蔵かどこかに今も納められていて一般信徒(檀家を含む)には公開されていないという前提です。

レプリカであり、かつそれを礼拝の対象にしていて、さらに未公開のレプリカの基になった本尊があるというのであれば、そのレプリカは「御前立本尊」に該当するような立場であるということです。

しかし、石山では公式には新旧二体あるとはいっていませんし、現在奉安堂に安置される彫刻本尊が「御前立本尊」であるとも言っていませんので、「御前立本尊」と言うには無理があるでしょう。

私が申し上げたいのは、レプリカなら本物ではなく、せいぜい「御前立本尊」がいいところですよということです。まして御宝蔵から奉安殿に移された歴史を持つ彫刻本尊が幕末から明治にかけての作成とするなら、現在、奉安堂に安置されている彫刻本尊は近年のもののレプリカということになり逆に「御前立本尊」とは言い難いです。

犀角独歩さん、
>1375なぜならば、あの大きさは、石山文献に載ってきた縦横とほぼ一致しているからです。これらの記述は御前立本尊のものではなく、「本尊」そのもののものであるはず

寸法については確かに石山のように「御前立本尊」ではなく“本物”とシラをきるならそうでしょうが、「御前立本尊」の寸法はレプリカである以上、「本尊」そのものと同じ大きさであってもよいのではありませんか? もちろん違う寸法も有り得ます。実はこの点、私はひっかかっているのです。「御前立本尊」の寸法ウンヌンはどちらかと言えば枝葉のことかもしれませんが、創価学会が戒壇本尊の一回り小さい板本尊のレプリカを所蔵していることを示唆するような資料があるからです。なぜ原寸大の板本尊ではないのか疑問なのです。

1378犀角独歩:2005/09/20(火) 15:42:58

彰往考来さん

大石寺で宝物展をやったとき、あそこに展示されたものは日興数珠から何からなにまで、レプリカだったそうで、それを有り難そうに見ていたら、知り合いの警備をやっている法華講青年部員が「あれは全部、偽物ですよ」と耳打ちされたことがありました。まあ、未確認な話です。似たようなことで、学会宝物展で、池田さんが若いとき使っていたという欠けた鏡(片割れを親族が持っていたとかいないとかいうもの)、戸田さんの牢獄の牛乳瓶の蓋で作った数珠など、感動してみたものでしたが、これまた、警備の学会青年部にあれはレプリカですよ」と笑われたことがありました。

御前立本尊が、本物(本物という偽物でしょうが)と同じ大きさでもよいというのは、まあ、それはそうでしょうが、しかしそれはでは、まさにレプリカ、複製、身代わりということになるでしょう。

この議論の発端は複数あると思いますが、一説には(確認された話ではないので、現時点ではあくまで噂話ですが)半丸太の後ろ側が厨子になっていて、そこに信者に公開しているより小さな板本尊が入っており、それは板に墨書きになっている、これが本物だという、こんな議論が先行していたわけです。

いちおう、阿部さんは、禅師授与漫荼羅(石山蔵)と彫刻本尊が大きさも形も違うと言い、それに追従する法華講員は、わたしが呈示した写真を見て、北山のものと石山のは違うと見当はずれの批判を飛ばしているとのこと、もっと、ひどい連中になると、わたしが創価学会員で、わたしが呈示したことはすべて破折済みで、それで、わたしが謝罪したということになっていると、「大石寺法華講」の訪問を受けた日蓮宗の坊さんが笑っていました(笑)

話が横道にそれましたが、それにしても、元の本尊が本物であれば、御前立だなんだ、複製だなんだという話もわかりますが、元の本尊が偽物で、それに御前立だ、複製だを作っても、偽物の代わりじゃまるで話にならないというのは、彰往考来さんもわたしも同意見といったところでしょう。それが「せいぜい「御前立本尊」がいいところ」という五発言になった点は、勿論、同意します。

1379片瀬江ノ島:2005/09/20(火) 22:33:16
随分と盛り上がってるようですが。

犀角独歩様

最近貴方の本を購入しましたが、正直「こんなものか?」とがっかりさせられました。
値段の割には内容も推理も幼稚。表装も粗雑。
お粗末なもんです。
よくこんな物を世に出せた気がしれません。

時々貴方の名前が講員同士で話が出てきますが、所詮「インターネット」と言う仮想世界で文字と文字
との感情に悶えた妄想としか貴方の文脈からは伝わりません。

この本を本山に御進呈する話をしていたらしいですが、その後はどうなりましたか?
私どもの情報では、若い御僧侶が一冊ネットでわざわざ購入されたのは確認しています。
御法主上人様には全く届いておりませんよ。
当然宗務院にも教学部にも全く届いていませんよ。
ま、ネット社会の中では何を言っても自由なのでしょうから。
言論の自由とは良く言ったもので、「自由」に発言できるからには責任があるでしょう。
ぜひともこんな妄想世界に閉じこもることなく、堂々と社会に呼びかけたらどうですか?
本名で。

禅師授与曼荼羅と大御本尊様は全く違います。
これだけは断言しておきましょう。
一見して御分かりになるでしょう。
パッチワークと申しますが、
1、誰が
2、何のために
3、どのような手法でされたのか。
4、そんな手法が過去どの御本尊様に前例されたことがあるのか。
5、そのような偽物なら「願主 弥四郎国重 」とはなぜこんな名前を彫るのでしょう。

もし、自宗の独善を主張したいだけの話なら、私だったらもっと一般社会に通用出来るようにわかりや
すく作りますね。
パッチワークなどこの平成の世に言えますが、約700年以上も前に誰がこんな事をするというのでし
ょうか。
それにこの禅師授与曼荼羅は、当時大石寺に存在していたのでしょうか?

信仰を離れれば、白も黒に見えてしまう。
また信仰をすれば黒も白に見えてしまう。

近年で言えば、存知の通り学会も今やあれだけ御宗門をはじめ、日蓮正宗信仰とはかけ離れていく。
学会だけではない。
顕正会、正信会も皆、大御本尊様から遠ざかれば遠ざかるほど自説に悶える。

そちらから見ればこちらもまた逆でありましょうか。

日蓮正宗マニアの方々には酷な言い方ですが、このような事をされようが日蓮正宗は潰されもしません
し、迷いもしません。
徒労の人生をかけぬよう、御祈念させていただきます。

追伸
いちおう、阿部さんは、禅師授与漫荼羅(石山蔵)と彫刻本尊が大きさも形も違うと言い、それに追従
する法華講員は、わたしが呈示した写真を見て、北山のものと石山のは違うと見当はずれの批判を飛ば
しているとのこと、もっと、ひどい連中になると、わたしが創価学会員で、わたしが呈示したことはす
べて破折済みで、それで、わたしが謝罪したということになっていると、「大石寺法華講」の訪問を受
けた日蓮宗の坊さんが笑っていました(笑)

と、ありますが。
日蓮正宗法華講はそんな貴方を相手にはしていませんから。
また「大石寺法華講」など存在しません。
残念!

1380犀角独歩:2005/09/20(火) 23:28:52

片瀬江ノ島さん

なかなか、微笑ましいご投稿、暇つぶしになります。感謝することといたしましょう。
人に糖衣錠は自分も応える暗いの正義心はあるのでしょう。
十分に解答ください。

> 本を購入…値段の割には内容も推理も幼稚。表装も粗雑。

それはあなたの見解ですから、承っておきます。
石山が寺で販売している印刷本尊の最低価格3000円と比べてどうでしょうか。
あれは高くないですか。

> 「インターネット」と言う仮想世界

インターネットが仮想現実であると気付けるあなたは、では、日蓮正宗という信仰世界が仮想現実である点には考えは至りませんか。

あなたが以下の点で、ちゃんとした答を呈示するのであれば、あなたのいうことは「文字との感情に悶えた妄想」ではないことになりますが、そもそも、あなた自身がいっていることが非感情的、非妄想的であるというより、むしろ、ここに乗り込んできた感情と、自分の信仰が妄想であると、わたしはお見受けします。

> 私どもの情報では、若い御僧侶が一冊ネットでわざわざ購入されたのは確認しています。御法主上人様には全く届いておりませんよ。

ほお。これは如何なる情報に拠るのでしょうか。
出版元でもないあなたが、本が誰が買い、何冊、売れたかという情報を何故掌握できるのでしょうか。その「確認」された情報、また、阿部さんに届いていないとするというあなたは一体どなたでしょうか。

> 当然宗務院にも教学部にも全く届いていませんよ。

何故そんなことが言えるですか。あなたは宗務院教学部の人ですか。教学部のどなたでしょうか。そうでなければ、このような断定はできないでしょう。

あなたが石山を代表して、わたしと公開の法論をしてくださるのですか。であれば、わたしは実名で応じることに何ら痛痒はありません。第一、昨年暮れの日蓮宗教学研究大会も実名で発表し、それを石山の坊さんは聞いておりましたよ。まさか、そのことをあなたは知らないわけですか。そもそも、あの研究発表大会は、立正大学の卒業生には招待状が送付されています。つまり、石山僧で、立正大学卒業生であれば、あの大会のレジュメは手許にあるわけで、わたしの本名が何であるかは周知の事実でしょう。しかしながら、わたしがHNでここ掲示板に書き込むのはわたしの自由です。この点は批判される筋合いはありません。

1381犀角独歩:2005/09/20(火) 23:29:20

―1380からつづく―

> 妄想世界に閉じこもることなく、堂々と社会に呼びかけたらどうですか?本名で。

はて、人に本名を迫るということは当然、本名なのでしょうか。「片瀬江ノ島」とはずいぶん変わったお名前ですね(笑)
このように自分がしもしないことを相手に迫るのが、このようは批判の特徴です。まず、自分がやって、模本を示したらどうでしょうか。
この言葉は、そのままあなたにお返ししましょう。
あなたの本名は何でしょうか。どこの所属ですか。

> 禅師授与曼荼羅と大御本尊様は全く違います。

そうですか。では、是非、禅師授与漫荼羅の精密な写真と「大御本尊」の写真を、公開し、その差を示してください。口、文字だけでは何とも出も言えるでしょう。
「違う、違う」と繰り返しても、その図形的な証拠を示さなければ、それこそ、ただの妄想、もっといえば、単なる虚偽に過ぎないでしょう。
さて、どこに図形を呈示し、証明してくださるのでしょうか。
大石寺のHPでも、図形を貼っていただけるのでしょうか。

> パッチワークと申しますが、
> 1、誰が
> 2、何のために
> 3、どのような手法でされたのか。
> 4、そんな手法が過去どの御本尊様に前例されたことがあるのか。
> 5、そのような偽物なら「願主 弥四郎国重 」とはなぜこんな名前を彫るのでしょう。

これは、わたし自身興味があります。禅師授与漫荼羅を持って彫刻本尊を作った大石寺は、この点に対して説明義務があるでしょう。寧ろ、こちらお聞きしたいことです。


> パッチワークなどこの平成の世に言えますが、約700年以上も前に誰がこんな事をするというのでしょうか。

700年前? 何の話をしているのですか。あなたはたしか、わたしの本を買って読んだと言っていますが、なぜ、わたしの主張を「700年前」とするのでしょうか。わたしの本を本当に読んでいますか。おかしいですね。

> 禅師授与曼荼羅は、当時大石寺に存在していたのでしょうか?

これも「700年前」だというわけですか。なるほど。わたしの本を読まずに、単に難癖を付けているようですね。読んでいれば、こんな見当はずれのことはいわないでしょう。

> 信仰を離れれば、白も黒に見えてしまう。
> また信仰をすれば黒も白に見えてしまう。

まったくそのとおりですね。

ところで、あなたの主張は、ここではまったく記されていません。
彫刻本尊とは、では、如何なるものなのでしょうか。
ここに解説いただきましょうか。

> 学会だけではない。
> 顕正会、正信会も皆、大御本尊様から遠ざかれば遠ざかるほど自説に悶える。

日蓮正宗という井の中に閉じこもれば、自説におぼれて、それが真実であると思い込むとうことも起きるでしょう。そのような自画像はまるで見えませんか。

1382犀角独歩:2005/09/20(火) 23:29:42

―1381からつづく―

> 日蓮正宗マニアの方々には酷な言い方ですが、このような事をされようが日蓮正宗は潰> されもしませんし、迷いもしません。
> 徒労の人生をかけぬよう、御祈念させていただきます。

別段、偽物の本尊に祈念などしていただく必要はありません。
潰されるも何も、いまや彫刻本尊が偽物であることは白日の下に晒されたわけです。この期に及んで本物であると言うのであれば、実際に彫刻本尊、石山蔵の禅師授与漫荼羅の写真を公開して、並べて、ここがこのように斯くも違うと図形をもって証明すればよろしいでしょう。それ以外、見せもしないで、縁日の見せ物小屋じゃあるまいし、本物だ何だと何だと言ってもはじまりません。
ここに写真、図形をもって、解説をしてください。
それができないと言うことは、もはや、彫刻本尊は偽物、大石寺は終わったと言うことでしょう。あとは、単に事実を認めないあなたのような人々が妄想を信仰だと思って、搾取され続けるだけでしょう。そんな滅びいくものはマニアより醜悪です。

> 日蓮正宗法華講はそんな貴方を相手にはしていませんから。

そうですか。相手にしないのであれば、なんで、ここにわざわざ書き込んでいるのですか。既に、相手にしていますね。これは自語相違というものでしょう。まあ、こういった自己矛盾を解消してから、他人の非は迫るほうが説得性があります。ここでも、どうやら自分の姿は見えていないようですね。

> 「大石寺法華講」など存在しません。

ほお、そうですか。大石寺には根檀家がいるでしょう。大石寺総代などを務める人々は、大石寺の法華講ではないのですか。では、どこの所属ですか。これはこれは驚きました。
まあ、以上のこちらから問に、写真図形をもって解答ください。
是非とも彫刻本尊の詳細な写真は見てみたいですし、石山蔵の禅師授与漫荼羅も見てみたい。この思いはわたし一人のものではなく、わたしの考えに賛同してくれる人々の総意でしょう。

あなたの解答と写真の呈示をお待ちすることといたします。

1383犀角独歩:2005/09/20(火) 23:33:51

【1380の訂正】

誤)人に糖衣錠は自分も応える暗いの正義心はあるのでしょう。
正)人に問う以上は自分も応えるくらいの正義心はあるのでしょう。

1386犀角独歩:2005/09/21(水) 00:36:57

追伸、片瀬江ノ島さん

以下は、最近、わたしがアップしたページです。
ここに示す彫刻本尊と禅師授与漫荼羅を重ねた画像は中央題目は重なって見えませんか。
わたしは重なって見えます。

このように大石寺蔵の禅師授与漫荼羅と、鮮明な彫刻本尊の写真を画像処理して重ねて呈示してください。そうすれば、事実は白日の下に晒せます。

よろしくお願いいたします。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

1387独学徒:2005/09/21(水) 19:17:36

今晩は。
犀角独歩さんの、『何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を読ませていただきました。

正直、私には言葉が見つかりません。

私は過去一度だけ「正本堂」に入った事がありますが、不信心だった私は何のありがたみも感じず、「今日は一寸遠出をした」くらいの感覚しかありませんでした。

犀角独歩さんがどのような思いで、この問題に取り組んでおられるかを考えますと、私のような所謂「本門戒壇の大御本尊」に対する思い入れの無い者が、議論に加わってよいものかと感じます。

しかし、この議論を継承していくのも私達の世代の役目だと思いますので、経験不足ではありますが手持ちの資料を基に真偽の考証に参加したいと思います。

「日禅授与の御本尊と、戒壇の大御本尊は、全く似ていない」とのご意見が御座いますが、そもそも大石寺には日禅に授与された、弘安三年の御本尊が二幅あるはずです。
弘安三年四月日のものと、弘安三年五月九日のものです。前者は全くの非公開のため確認が出来ませんが、後者は同年月日・同授与者の本尊が北山にもあり、その相貌、特に主題の七字は犀角独歩さんがお示しいただいた通り、どう見ても一致します。
また現在は正信会に所属される、大黒師の「日興門流上代事典」でも、後者と所謂「本門戒壇の大御本尊」は相貌も大きさもよく似ていると出てきます。

「日禅授与の御本尊と、戒壇の大御本尊は、全く似ていない」、これは前者と比較してのことではないでしょうか。

1388犀角独歩:2005/09/22(木) 12:15:31

独学徒さん

> この議論を継承していくのも私達の世代の役目

そのとおりです。わたしはこの件を読ませていただき、勇気づけられました。
ここ50年の「本門戒壇の大御本尊」と称する彫刻の大騒ぎを客観的に歴史化する作業は第2世代に継承される予兆を実感でき、安堵した気持ちがあります。やってきたことが無駄にならないという満足感といってもよいかもしれません。

> 日禅授与の御本尊…弘安三年五月九日…北山…主題の七字…どう見ても一致

そうですね。まったくそのとおりです。

> 大黒師の「日興門流上代事典」…相貌も大きさもよく似ていると

ええ、この点はれんさんもご指摘くださっておりました。
また、わたしの発表後、たぶん、石山僧、もしくはそれを直接聞いたと思われる方から、禅師授与漫荼羅と彫刻の類似性は石山内で囁かれていることを窺わせる投稿をいただいたことがありました。この延長上にある『河邊メモ』であるという認識が必要なのではないのかとわたしは考えてきたわけです。つまり、石山中枢において彫刻が禅師授与漫荼羅を原本としていることは周知の事実なのではないのかという、次なる疑義です。それにも拘わらず、これを弘安2年10月12日(日興合作の)日法彫刻の700年来の究竟本尊と謀ってきたのではないのかという疑義です。このような不誠実な動向に乗じる石山特権階級に、危機感を懐く人々が、この彫刻情報を流出してきたのではないのかという見方もできなくもありません。

いずれにしても、阿部氏はこの事情を熟知したうえで、教学部長を勤め、正本堂建立に讃辞を述べ、さらに猊座に上がり、正本堂破壊、さらに奉安堂建立をして、まだ参拝料で利ざやを上げ続けているわけです。建築事業でも、十分な利益も上げたのではないでしょうか。

では、細井氏は、この事実を知っていたかどうか、わたしは決し切れませんが、しかし、いずれにしても、彫刻を弘安2年10月12日(日興合作の)日法彫刻の700年来の究竟本尊と信じ込まされた800万信徒創価学会員は、謀れた被害者であることは間違いありません。5000年先まで残る偉業とされた正本堂がわずか四半世紀で破壊されたこと自体、金を集める段階のアナウンスが如何にインチキなものであったかを語っています。
このお宝が、禅師授与漫荼羅を原本とした模造であることを知っていたうえで断行した石山、取り分け、阿部氏の罪業はまことに深いものであるとわたしは記さずにはおれません。阿部氏にすれば、自山経営と繁盛、僧侶の食い扶持稼ぎという名目が立つのかも知れません。寺院経営とはそんなものだという議論です。かつて、歯にくっついた肉が生きて成長しているという「御肉牙」議論でも、正信会所属在家の人の、寺院のお宝はそんなもので、信じることに意義があるなどというお人好し発言がありました。しかし、この罪は赦すべきではないと、わたしが思います。なぜならば、彫刻が偽物であるにもかかわらず、それを本物と信じ込まされ善意と信仰心、労力と金銭を擲った800万人、500億円という被害は、戦後日本における最大の宗教犯罪、宗教被害であると、わたしは考えるからです。
石山、阿部氏、彫刻を現時点でも信じる人々をわたしを批判するでしょうが、しかし、その人々も騙されている被害者であり、真実と思うからわたしに憎悪を懐くという構造を、わたしは冷静に受け止めます。このような‘操作された感情’にあること自体も含めて被害者であると認識し、やがて、理解される日を待つことにします。

騙された創価学会は、この彫刻が後世の模造であるという事実を認めたうえで、石山、並びに阿部氏の罪業を責めるのでなければ、本質に迫ったものになりません。
「日顕は戒壇の大御本尊を河邊メモで偽物といった」などという批判は、そもそも彫刻の実態が河邊メモに即したものである以上、本質を突いた批判になっていないわけです。

どうか、これらの点を独学徒さんをはじめ、皆さんが継承してくださり、事実を白日の下に晒し、謀れ、欺かれ、多くの時間と金銭、さらに人間の善意を食い物にされた人々の無念を晴らしていただきたいと思います。もちろん、そのような情念論ではなく、事実を事実として語れる良識を、ここ富士門流のなかで確立していっていただきたいと念願することが前提であることは言うまでもありません。

> 「日禅授与の御本尊と、戒壇の大御本尊は、全く似ていない」、これは前者(弘安三年四月日)と比較してのこと

なるほど。この可能性は否めませんね。いつもながら、冷静且つ、適宜なご指摘に頷きました。有り難うございました。

1389犀角独歩:2005/09/22(木) 16:46:27

【1388の訂正】

誤)石山、阿部氏、彫刻を現時点でも信じる人々をわたしを批判する
正)石山、阿部氏、彫刻を現時点でも信じる人々はわたしを批判する

1390独学徒:2005/09/22(木) 21:02:53

犀角独歩さん、この議論の継承のためにも、今はしっかり学ばせていただきたいと思います。

以下は離脱僧のHPですが、トップにビデオのリンクがあります。

http://www.nichiren.com/jp/index.html

この動画や、リンクの松岡論文もそうですが、私としては全く意味のないものと感じます。

このHPの全ては余事であって、「本門戒壇の大御本尊」の真偽こそが大事であると思います。
それこそ「本門戒壇の大御本尊」が、大石寺のアナウンス通りのものならば、何がどうあれ宗門に付くべきだと思うからです。

しかし、この問題を真摯に議論できる場所はここしかありません。

今は創価学会を含む、元日蓮正宗系団体は、この議論には触れずにいます。
確かに正本堂時代に、熱心な信仰時代を送られた方々にとってはデリケートな問題かもしれません。
そうであればこそ、なおさらに次代の私どもが真剣に考えていかねばならないと思います。

何分経験不足のため、今後も頓珍漢な投稿をしてしまうことがあると思いますが、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

1391彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/23(金) 07:54:59

>1387 独学徒さん

>大石寺には日禅に授与された、弘安三年の御本尊が二幅ある・・・弘安三年四月日のものと、弘安三年五月九日のもの

貴殿がご指摘になっている弘安三年四月日のものにつきまして、もう少し説明していただけませんか? その存在が記載されている資料があるのでしょうか?

1392独学徒:2005/09/23(金) 11:40:53

>1391 彰往考来さん、

失礼しました、私は「第1回 冨士門史学研究会会報」の巻末に掲載された『−編年体−日蓮大聖人御本尊年譜』(前田義夫)を参考に記しましたが、山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」(P154)では、「弘安三年太歳庚辰卯月日」という日付で出てきます。

したがいまして、先の「弘安三年四月日」というのは、正確な表記ではなかったと思います。

さらに山口師の著書には、大石寺・法道院の日禅授与曼荼羅の記述がありませんので、ひょっとしたら単なる記載ミスかもしれません。

1393彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/23(金) 17:37:17

>1392 独学徒さん

山口範道師の「日蓮正宗史の基礎的研究」(P154)の記載は、私は誤記と考えています。
この本にはこれ以外にも誤記が少しありまして、一度誤記を整理しようと思っているのですが、なかなかはかどりません。

彰往考来

1394犀角独歩:2005/09/23(金) 18:37:14

彰往考来さん

横レス失礼します。

『日蓮正宗史の基礎的研究』については、以前も「剥離表装」の件、その他、わたしもいくつか気になる点があります。松本佐一郎にしても、そうですが、石山僧俗の文章は頭から信頼できるものは何一つないというのが、わたしの偽らざる感想です。

殊に「本尊」につき、誤記とは、なかなか考えづらいものがあります。これは「普通であれば」と付すべきかも知れません。

山口氏の誤記と言うより、「石山の体質」から考えたほうがいいことのような気がします。

諸々の宝蔵記録を見ても、本尊、真筆等の出入りは著しく、また敢えて発表したりしなかったり、その記述に信頼性は頗る低いものがあります。内情に通じた山口氏が記した以上、「誤記」と言うより、存在するが、ご都合に合わせて一般の「ないことにしている」と考えることもできませんか。つまり、情報操作です。(やや話は拡大しますが、『諫暁八幡抄』は完則の宝蔵記録では版本であるのに、現在は真跡蔵となっており、先にも話題になりましたが、『日蓮大聖人御書全集』初版巻頭に載った同抄の影図では「日蓮花押」がなかったのに、あとのものには載っている?(つまり書き足したという疑惑)などという話もまことしやかに囁かれます。また、日興跡条々事など影本を発表せず、異なるいくつもの文章が発表されたうえで日興真筆蔵といって憚りません。こんな宗内研究?は証憑性はありません)

本尊で例を採れば、日有造立の「戒壇の大御本尊」身代わり本尊です。大石日応の『弁惑観心抄』、細井精道の『悪書板本尊偽作論を粉砕す』で記述されながら、宝物記載で現れたことがありません。「身代わりだから記さない」と言えばそれまでですが、戦乱時ならば、いざ知らず、現在の常識からすれば、記載されて然るべきと、わたしは思います。

元より、石山のアナウンスなど疑うべき点は多く、火災に遭って灰燼に帰した(日布・両山問答)はずが、いつの間にか、また、所蔵されたことになっている「石蔵」の胡散臭さにしても、いま始まったことではありません。切り紙相承の諸記述、いまは記述されない「日興御さくの釈迦一そん一ふく」、諸本尊等、このような入集・添加・廃棄の記載は、まるで恣意的としか映じません。

追える限りの宝蔵記録の延長に、わたしは山口氏の記述も位置づけて考えるべきであると思うのです。単に「誤記」と片づけるのではなく、彰往考来の鋭敏な文献考証を期待します。

1395犀角独歩:2005/09/23(金) 18:38:13

失礼、尊称を落としました。訂正し、お詫びいたします。

> 1394

誤)彰往考来の鋭敏な文献考証
正)彰往考来さんの鋭敏な文献考証

139601:2005/09/23(金) 21:32:40
> 石山が寺で販売している印刷本尊の最低価格3000円と比べてどうでしょうか。
> あれは高くないですか。
確かに高いよね。インターネットでダウンロードすれば無料だし。
でも、塔婆はもっと高いでしょう。1回2,000円。表面を削って何度も再利用。
だいたい、塔婆って、本当に全部書いてんの?
永代供養50万以上ってのも高いよね。
もっと高いのは寺に行くたびの供養だよね。奉安堂参拝料も高いね。
葬式も高い。だいたい、何で、供養、院号代、お車代ってそれぞれに別に包まなきゃなんないわけ?
こうやって書いてみると、正宗寺院も何でも「金、金」だよね。
ぼくがいちばんがっかりしたのは、昔、初詣に行ったとき、供養しないと盃をくれないんだよね。
だから、お流れ頂戴ができない。そんで、「あ、そうか、初詣tって、金儲けなんだ」って始めて気づいた。
でも、いちばん、高かったのは、ここで話題になっている正本堂建立供養だよね。
一生に一度の供養、5000年の未来にとか言って25年で破壊。ひどい話だと思うよ。

1397犀角独歩:2005/09/24(土) 00:34:02

01さん

自分の信念体系と反することは、たとえば1円でも高いと思うのが人情でしょうね。

ところで「初詣t」の‘t’は、例の談義庵語というものですか?

1398彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/24(土) 17:17:21

>1392、1394 独学徒さん、犀角独歩さん

大石寺蔵禅師授与本尊の年号が弘安3年卯月との山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林、154頁)の記載はやはり誤記と考えます。その理由は下記のとおりです。

(1)該当箇所である『日蓮正宗史の基礎的研究』の154頁(大聖人御本尊現存目録(安国会目録外・要集等)には備考欄に引用資料が書かれていて、同書には
「弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅授与之 同(引用者注:大石寺) 同(引用者注:要八‐一七八)」
とあって、同書の記載が『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』の178頁からの引用であることが明らかであり、引用元の記載が弘安3年5月9日であること
(2)『日蓮正宗史の基礎的研究』の該当頁には大石寺蔵である「弘安三年太歳庚辰五月九日 比丘日禅授与之」の記載がないこと、すなわち大石寺に二体あるという記載ではないこと
(3)卯月(4月)と5月といった極めて近い時期に同一人に蓮祖御本尊が連続して授与された例がないこと

『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』の178頁には、「弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅に之を授与す」とあり、「弘安三年太歳庚辰卯月日」の記載はありませんので、『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』を引用している山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の“大石寺蔵禅師授与本尊の年号が弘安3年卯月”との記載は誤記であると判断いたします。

本件はこれにて終了としたいところですが、念のため山口師の当該本をもう少し検証いたします。

まず第一に『日蓮正宗史の基礎的研究』には同様の誤記があるのでしょうかということです。もしあれば、この本は誤記の目立つ内容ということですし、誤記が他の箇所には全く無く“この箇所だけ”ということであれば著者(山口師)の意図的なものがある可能性があり、その場合は必ずしも誤記とは言えなくなるからです。結論から言えば、他の箇所にも同様の誤記がありますので、“北山本との関係で相剥(剥離表装)や摸写の可能性を隠匿したのではないか”というようなことはないと考えます。他の場所の誤記は意図的な改竄が考えられるような箇所ではありません。山口師の他の論文を読んでもそのような姑息なことをするお人柄には見えませんし、それであるからこそ正信会に一時所属していて日顕法主とも対立していた時期があったのではないでしょうか。但し、山口師は晩年石山に戻られました。私自身は故山口範道師のこの間の行動がどういうお考えに基づいたものであったか把握していませんので誤解があるかも知れません。
『日蓮正宗史の基礎的研究』の154頁には大石寺蔵蓮祖御本尊8幅の一覧があるのですが、ここに戒壇本尊の記載がありません。『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』には記載があるのですから、ほかの御本尊ならともかく日蓮正宗の本で戒壇本尊を脱漏することは有り得ないはずです。これは山口師の精一杯の自己表現ではなかったのかと私は思っています。『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』に記載があっても自山分について明確に摸写、偽筆の疑いのある御本尊を山口師は『日蓮正宗史の基礎的研究』には記載していません。古文書解読に厳格な人が戒壇本尊を記載していないのですからこれはそれなりの意味があると考えるべきでしょう。

1399彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/24(土) 17:19:07

1398の続きです。

さて『日蓮正宗史の基礎的研究』には同様の誤記があるのかということです。誤記の例を上げましょう。同書157頁には「大聖人御本尊曽存宝量」として曽存した御本尊が記載されています。ここには日乾目 昭定三−二七四六とありますので、『昭和定本 日蓮聖人遺文 第三巻』(昭和63年改訂増補版発行(昭和29年初版)、總本山身延久遠寺)の2746頁にあります慶長8年10月15日の日乾師による「身延山久遠寺御靈寶記録(乾師目録)」からの引用であることは明白です。同書157頁に「弘安二年太歳己卯二月日」が三幅記載されています。それぞれ、優婆塞日成、□□□加治左馬助□□、沙弥日春に授与されたものです。ところが原本たる『昭和定本 日蓮聖人遺文 第三巻』で確認しますと、同書2747頁に優婆塞日成に授与された御本尊は弘安二年太歳己卯二月日とあり(但し“絹”と脇書があります)、□□□加治左馬助(昭和定本では左馬助の後ろの□□がありません)へ授与された御本尊は二月ではなく四月と記載されています。従って『日蓮正宗史の基礎的研究』での□□□加治左馬助□□の箇所は四月の誤記と考えます。また沙弥日春授与の御本尊は見あたらず、同書2746頁に「弘安二年太歳己卯七月日 沙門日春授興之」とあるのが該当すると考えます。ここでも二月ではなく七月です。沙弥ではなく沙門なのです。ひとことでいえば『日蓮正宗史の基礎的研究』はかなり誤記があるのです。これらの誤記は編纂段階での単純な記載ミスと考えられ特別な意図はないと思います。少なくとも引用資料原本を照合すれば誤記であることは解かりますし、資料の引用元を記載している以上姑息なことはできないでしょう。なお“沙門日春”ですが、山中喜八氏の『御本尊集目録』の第105番に“僧日春”に授与された弘安4年4月5日の御本尊が入集しています。『御本尊集目録』の備考に、「「遠沾亨師臨寫御本尊鑑」(五五頁)は、『弘安二年太才己卯七月日 沙門日春授興』の御本尊が身延山に寶蔵されていたことを傳えているが、『沙門日法』(本集第六五)と『比丘日法』(同第一○○)の場合と同様に、當御本尊の被授者との同異は速斷し難い」(山中喜八『御本尊集目録』昭和56年訂補3版、立正安国会149頁)とあり“沙門日春”と“僧日春”が同一人物か別人か判断し難いとされています。いずれにせよ“沙弥日春”との記載は誤記です。

同一人に複数の蓮祖御本尊が授与された例はあります。『御本尊集目録』によれば、沙門天目は文永11年6月の第11番本尊と弘安5年卯月2日の第120番本尊を授与されていますし、日昭師には建治2年卯月の第37番本尊(但し、沙門日照とあります)と弘安3年11月の第101番本尊(いずれも玉沢法華経寺蔵)を授与されています。日向師も建治2年卯月の第35番本尊(但し寺傳)と弘安2年4月8日の第61番本尊を授与されています。山中喜八氏は『御本尊集目録』の82頁(第53番本尊の備考(3))に日昭師や日向師などの例を受け、「文永・建治の御本尊の被授者に重ねて弘安の御本尊を加授されたことを語るもの」と記しています。つまり文永期もしくは建治期の御本尊授与者に再度弘安期の御本尊を授与した例があるということです。しかしながら弘安期に2幅の御本尊が授与された明確な例はありません。上記“日春”のケースは別人と考えます。渡部宝陽師は「大曼荼羅と法華堂」(『日蓮と教団 第1集』昭和51年、平楽寺書店、104頁)で、聖人(蓮祖)は四条金吾の妻に弘安2年2月2日『日眼女釈迦仏供養事』という書間を送っているが、四条金吾の妻に授与された弘安3年2月日の第72番本尊について、定遺327『日眼女釈迦仏供養事』に「御守書(キ)てまいらせ候」あることから、守とは御本尊をさし、実は『日眼女釈迦仏供養事』は弘安3年2月2日の執筆と考えられるとしています。「大曼荼羅を2年にわたって同月に授与されることはまず考えられない・・・書状の後一年後に大曼荼羅を図顕したことは考えられない」(104頁)からです。『日眼女釈迦仏供養事』の御真筆は明治8年の身延大火で焼失しているので確かめようがありませんがあり得ることであると考えます。
今回の禅師授与の御本尊では弘安3年4月と5月ですから1箇月後であり、まず連続した二体授与は考えられません。やはり4月は5月の誤記と考えるべきでしょう。

1400彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/24(土) 17:23:18

>1399の続きです。

私は、「富士一跡門徒存知事」に記載された日興上人の本六の順番と、その本六の方々が蓮祖から御本尊を授与された順番(乗師は日興上人書写御本尊)が一致するのではないかという考えを持っています。
「富士一跡門徒存知事」(高橋粛道『日興上人御述作拝考Ⅰ』での本六の順番と各自が授与された御本尊の年号を並べてみると、
(1)日目・・・弘安2年2月日(第60番本尊)
(2)日華・・・弘安3年5月8日(第92番本尊)
(3)日秀・・・不明
(4)日禅・・・弘安3年5月9日(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』178頁)
(5)日仙・・・弘安4年4月25日(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』178頁)
(6)日乗・・・永仁4年卯月8日(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』179頁)
となります。順番が経時的によく一致するのです。高位の弟子から御本尊が授与されたはずですから、これはある意味当然かもしれません。
秀師へ授与された御本尊は不明ですが、第93番本尊(沼津妙海寺蔵)が弘安3年5月8日の図顕であり、かつ「右下隅に授興書が存したのを、削損した形跡がある」(『御本尊集目録』134頁)ということですから、あるいはこの第93番本尊が秀師へ授与された御本尊であったのかもしれません。この順番から日禅授与の御本尊は弘安3年卯月(4月)とは考え難く弘安3年5月9日が妥当ということになります。もちろんこれは、「富士一跡門徒存知事」に記載された日興上人の本六の順番と、その本六の方々が蓮祖もしくは興師から御本尊を授与された順番(乗師は日興上人書写御本尊を授与されています)が一致するという仮定の基での結果です。

以上のことから『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の記載である弘安3年卯月の禅師授与御本尊は弘安3年5月9日の誤記と考えます。同書に大石寺が禅師授与御本尊を二体所蔵しているとの記載はないので弘安3年卯月と弘安3年5月9日の二体の禅師授与御本尊が大石寺にあるとは思えません。但し、同書には北山本門寺に「弘安三年太歳庚辰五月九日 比丘日禅授与之」とある大石寺蔵とは別の御本尊が所蔵されていることが記載されていることを付記しておきます。万一大石寺に禅師授与御本尊が二体あるとするなら私は弘安3年5月9日のほうが妥当な日付と考えますので、弘安3年卯月本は摸写・偽筆の類ということになるのでしょうが、『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の記載からは大石寺に日付の異なった禅師授与御本尊が二体あり、それらの相貌が異なるというようなことは考え難いというのが私の結論です。
なお、上記結論は『日蓮正宗史の基礎的研究』(154頁)の記載に対する私の考えです。大石寺に模写・形木・偽筆の類の禅師授与御本尊が存在する可能性を否定するものではありません。

by 彰往考来

1401犀角独歩:2005/09/24(土) 22:44:15

彰往考来さん

詳細のご回答、有り難うございます。
概ね、仰ることは理解できますが、以下の点については、賛同しかねます。

> …卯月(4月)と5月といった極めて近い時期に同一人に蓮祖御本尊が連続して授与された例がないこと

これは要するに禅師授与漫荼羅を指すわけですね。
彰往考来さんは、そもそも弘安3年5月9日禅師授与漫荼羅については、偽筆の立場ではありませんでしたか。となれば、上述は立論は成り立たないのではないでしょうか。

また、本来、「五月」と書かれたものを「四月」と誤記するならばいざ知らず、「卯月」と誤記するというのは、どうもわたしには説得性を感じません。故に末尾にお書きになった如く

> 大石寺に模写・形木・偽筆の類の禅師授与御本尊が存在する可能性を否定するものではありません

とするほうが、わたしは頷けるのです。

> 同一人に複数の蓮祖御本尊が授与された例…天目…第11番…120番本尊を授与

この二つの本尊は授与とすべきところが「受与」となっています。
このことから山中師は『御本尊集目録』に

「日常上人直授」伝える「御本尊授与書証文相伝」は、
 既ニ大聖人御自筆等ニ授与ノ二字之在リ、其中ニ天目“模”ノ本尊モ沙門天目受与之云云。
 と言い、また
 一、天目本尊ノ事。示云。沙門天目受与云云。此七字ハ“謀筆”也…」(P17)

といい、この第11本尊を「模」「謀筆」とする説を紹介し、支持する如くです。
ただし同じ天目“受与”の第120にも備考して

「当御本尊(第120)の授与書は聖筆、妙満寺の其れ(第11)は他筆と拝するのが至当のようである」(P168)

と言います。斯かる本尊をもって同一人に複数の本尊の例と引くことは不可であると思いますが、如何でしょうか。

なお、山口氏が姑息かどうかは別段どうでもいいのですが、

> 古文書解読に厳格な人が戒壇本尊を記載していないのですからこれはそれなりの意味がある

とか、精一杯の抵抗であるなどという物言いにはわたしはまったく納得しません。
もし、斯様に山口氏が了解していたのであれば、日蓮の教えは正直捨方便、我不愛身命但無上道であるところ、彫刻が偽物であるとわかっていながら、正直にそれを示すこともなく、ぬくぬくと石山僧侶を続けること自体、日蓮に対して恥ずかしくないのかと弾劾するほかありません。「謂徒才能」とはこのことでしょう。

このような点で、わたしは一切妥協はいたしません。

1402犀角独歩:2005/09/24(土) 23:57:03

【1401の訂正】

誤)上述は立論は成り立たないのではないでしょうか。
正)上述の立論の例とはならないのではないでしょうか。

1403独学徒:2005/09/25(日) 17:52:40

彰往考来さん、この度も詳細なるご投稿に接し、また勉強になりました。
有難う御座います。

私が最初に参考にしました前田義夫氏の「−編年体−日蓮大聖人御本尊年譜」ですが、参考資料として「富士宗学要集 第8巻」と「日蓮正宗史の基礎的研究」が上がっていました。
恐らく前田氏は両文献に記載されたものを、何の疑いもなく列挙したものと思われます。

140401:2005/09/25(日) 20:41:33
>t
そうです。意味は知ってますよね。

1405犀角独歩:2005/09/26(月) 05:37:24

01さん

わたしは談義庵語など、何を意味するのか知りませんよ。それに第一、ここでそんなものを記すのはおやめになったらどうでしょうか。

1406彰往考来(しょうおうこうらい):2005/09/26(月) 09:51:41

>1401 犀角独歩さん

1398〜1400の私の投稿内容は、記載された各々の御本尊が御真筆であるとの前提で論を進めています。
そのため、偽筆あるいは模写の御本尊がある、混ざっているということになりますと、その前提が崩れることになります。その点は一番最後に書いたつもりなのですが、ちょっと筆不足でした。また天目授与の第11番本尊も偽筆ということであれば、複数授与された例として掲げるのは適切ではないということになります。偽筆あるいは模写の御本尊がある、混ざっているとするなら正しい姿とは言い難いですが近い時期に複数の御本尊が授与された形になっていても当然でしょう。

山口師の本では引用資料が明らかになっている以上、誤記と考えるのが妥当と思います。その引用資料(『富士宗学要集 第八巻』)は創価学会から相当部数発行されているので見比べをする気なら容易であるからです。石山しかないような特殊な引用資料ではないのです。もし別の意図があるなら、私だったら引用資料は記載いたしません。引用資料と記載内容が異なるからです。あの箇所は引用資料が備考に記載されているだけで、引用資料記載がなくても成り立つ内容です。

卯月と四月・・・これで誤記であるかどうかの判定はできかねるでしょう。私事で恐縮ですが、最近はエクセルやワードで文章を作りますが類似文章の場合、コピーして貼り付けという作業はよくやります。その時、蓮祖の御本尊がは通常“卯月”となっているので、貼り付けた文章も“卯月”です。そして類似文章を修正せず次の行へいったら・・・! 実はこれと同じミスを過去に私が仕出かしたことがあるのです。そのため、なおさら、山口師も似たようなことをやっているなあという想いがあります。ただこれは個人的感傷にすぎず、誤記であるかどうかとは別かもしれません。まあ、このあたりは次回のオフ会ででも、皆様のお考えを拝聴いたしたいと存じます。
なお蛇足ですが、色々な資料の中に原本の御本尊が卯月とありながら四月と記載されているものがあります。これは卯月=四月ですから編集者がそう記載したので誤記とはいえませんが私は原本に忠実であるべきという考えですから、このような書き方は感心しません。

私は禅師授与御本尊が偽筆との考えではありません。北山のものは明らかに相剥の影本で正本のほうの検証ができないので模写の類なのか判断できないという考えです。すでに何度か述べましたが、北山のものは加筆と思われる箇所が相当あります。これでは正本にあたらない限り模写・偽筆の類なのか、御真筆の影本なのか判定は難しいでしょう。加筆された影本など模写相当品にすぎないといわれるのであれば仮に正本が御真筆であったとしても影本は御真筆とはいえないでしょう。石山のものは公開されていないので、北山本の正本であるかどうかを含め真偽判定できず、真筆あるいは偽筆、模写といった判断はできないという立場です。

『日蓮正宗史の基礎的研究』の蓮祖御本尊一覧についての検証を追って「蓮祖及び門下の曼荼羅について」のスレッドに投稿予定です。併せてそちらもお読みください。

彰往考来

1407犀角独歩:2005/09/27(火) 11:40:58

彰往考来さん

いつもながら、精査な資料分析に敬服します。
山口氏の記述その他に限れば、たしかに「卯月」禅師授与漫荼羅は誤記と見えますね。
ただ、石山のこと、この点について、わたしは慎重に考えようと思います。

> 禅師授与御本尊が偽筆との考えではありません

とのことですが、中尾堯師は本年6月に北山本門寺根源に宝蔵調査に入っています。
その後、3カ月を経過していますが、特に「新しい真筆本尊」の発見を発表していません。この後発言はかなり大胆というか、間口の広い見解と思えます。

> 北山のものは加筆と思われる箇所が相当あります

この点なのですが、真筆でも補修の際には、このようなことは為されるのではないでしょうか。実際に真筆大漫荼羅の補修に当たっている中尾師もそのように言っておりました。また、本化ネットの勉強会の際、補修課程を示した写真が回覧されたのですが、それこそ、ぼろぼろになった大漫荼羅の紙片を元の位置に「置いていく」ような作業課程がありありと看取されました。また、中世に行われた補修課程も分析され、坑が空いた箇所に端の紙を取り、埋め、墨を入れて補うなどの工程があったことも紹介されています。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25499393.html

1408ラキ:2005/09/27(火) 19:46:59
独歩さんのプログを見ていて「死番虫」なる気になる名前が出ていたので、ググッて見ましたが、
ビブリオマニアには天敵なんだとw
(3種類の印刷写真をを用意して、どれが最初に被害に合うか?とくだらない事を思い付いたのは、信心の無い私だけでしょうね・汗)

「本の修理と保存」6.3. 防虫
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/hon_kataru/katudou/021.html

1409れん:2005/10/04(火) 21:30:36
ふと、「日蓮宗の本山めぐり」の小泉久遠寺の紹介記事の寺宝の項にある「客伝に奉安する板本尊は、宗祖が身延在山の砌、弘安四年、日法上人に命じて彫らせ給い、興師が大石寺へ移し、南条七郎が守護していたものを、建武元年正月、上野より小泉に移したのであるが、大石寺もこれに慣って板本尊を作製したものだという」を読んでふと思ったのですが、この弘安四年とか建武元年とかの記事そのものは無批判には信用できませんが、“大石寺もこれに慣って板本尊を作製した”という伝承は案外史実ではないかと思いました。確か誰だか忘れましたが富士東光寺に弘安の板本尊があると述べていたのを、どこかのサイトで見かけたことがあります。小泉久遠寺のも、富士東光寺のも、勿論後世の作製の彫刻でしょうが、石山の彫刻本尊よりは先行して作製されたものではないかと考えがいたりました。つまり、小泉久遠寺や富士東光寺が先ず板本尊を作製して、これは蓮師の板本尊だと宣伝して信者を集めた。郷門の小泉久遠寺や重須末の富士東光寺は石山から見れば、無論敵対していた門流の寺院ですから、これらの寺院やその信者に対して‘いやいや小泉久遠寺や富士東光寺の板本尊は偽物でござる、蓮祖正統の当山(石山)の板本尊がまごうことなき宗祖の板本尊でこざる’と自山の正統性を主張する目的で作製されたのが、石山の‘初代’の彫刻本尊ではないかということです。とりあえずこれは類推ですが小泉久遠寺の「大石寺もこれに慣って板本尊を作製した」という伝承は史実の一面を伝えたものと思います。小泉久遠寺・富士東光寺の板本尊が科学的に調査され、その製作年代が特定されれば、初代石山彫刻本尊の成立年代を上記小泉久遠寺の伝承からある程度推定できるものと思いました。

1410れん:2005/10/05(水) 07:39:08
1409:
誤、客伝
正、客殿
ちなみに、室町初期?石山六世日時師の代までに作製されたと見られる「日興跡条々事」に記される「日興宛身所給弘安二年大御本尊〇日目授与之」についてですが、これは所謂、当板1409でふれた小泉久遠寺の板本尊作製に触発?されて造られた石山初代彫刻本尊ではなく、これは石山上代に曽存したと推定される蓮師弘安二年図顕の大曼陀羅ではないかと考えております。これは蓮師のものをはじめとする石山の上代の歴代の御本尊集(有師までのもの、蓮師のものについては存疑を含む)奉蔵於奥法寶(平成十二年覆刻版)に掲載された曼陀羅の写真によります。蓮師の弘安二年図顕の大曼陀羅は首題の経字は山中喜八師の分類からいえば第三期の書体ですが、奉蔵於奥法寶掲載の行師の文和二年三月十二日の一幅、時師の至徳四年七月日・明徳三年卯月十三日の二幅、影師の応永二十年八月時正の一幅、有師の文安四年五月十九日・宝徳四年四月十三日・長禄四年七月十八日の三幅がこの蓮師第三期の経字書体で書写されております。特に時師の明徳三年卯月十三日の書写曼陀羅は大持国天玉・不動の梵字は欠損しているものの首題の全体の筆法、愛染の書体、諸尊の座配など全体の雰囲気が弘安二年前半の蓮師書顕の大曼陀羅に似ており、明徳三年の時師筆曼陀羅に関しては、かなり正確に弘安二年書顕の蓮師大曼陀羅を書写したものではないかと愚考しております。時師のこの曼陀羅の帝釈の名号については、この時期の蓮師の規格に反して「釋提桓因大玉」と書写されておりますが、道師の暦応元年太才戊寅十月十三日の書写曼陀羅には「大釋提桓因玉」と書写した例もありますから、この例ならば弘安二年十一月以前にも蓮師書顕の大曼陀羅に一例ありますので石山曽存と推測される弘安二年の大曼陀羅は大釋提桓因玉としるされていた可能性もありと思います。

1411彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/05(水) 07:40:52

>1409 れんさん

興味のある投稿でした。ひとつ教えてください。
ご紹介の「日蓮宗の本山めぐり」ですが、出版社、出版年、編集名など知りたいのです。
つまり読んでみたいので探しているのですが、どうもうまく特定できません。

よろしくお願いします。

1412れん:2005/10/05(水) 08:22:36
1410の続き:
石山六世日時師の明徳三年卯月十三日書写曼陀羅の相貌により、後世に作製された石山彫刻本尊とは別に、蓮師が弘安二年に図顕した大曼陀羅が上代石山に曽存した可能性はあると考えます。石山曽存の弘安二年蓮師書顕の大曼陀羅を比較的正確に書写したと推定でしる時師の明徳の曼陀羅に相似した蓮師書顕の弘安二年中の大曼陀羅は弘安二年二月日釋子日目授与の大曼陀羅ですので、石山曽存の蓮師書顕の弘安二年の大曼陀羅は恐らく弘安二年二月日・釋子日目授与の大曼陀羅と同日書顕と推測しております。なお、時師の明徳の曼陀羅は先師が鬼子母神の右に龍樹・天親・妙楽、十羅刹女の左に天台・章安・傳教と記されており、これは奉蔵於奥法寶に掲載された写真でみる範囲という前提ですが、道師〜有師の書写にかかる曼陀羅で十界広式四聖先師帰命式の曼陀羅様式のものでは先師勧請はこの式で統一されており、いままで述べてきたところの石山曽存の弘安二年の曼陀羅も先師勧請は上記の明徳の時師曼陀羅と同じと推測しております。
石山が初代彫刻本尊を作製した理由は、上代にその存在が推測できる弘安二年の曼陀羅を比較的早い時期に紛失ないし焼失してしまったこと、先に成立した敵対する小泉久遠寺や富士東光寺の板本尊に対抗するための理由から、石山上代からの「弘安二年」の伝承と、厚原本照寺あたりから神四郎信仰を摂取して作製されたものと愚考しております。

1413れん:2005/10/05(水) 08:41:21
>1411 彰応考来さん。お問い合わせの「日蓮宗の本山めぐり」ですが、出版社はニチレン出版、出版年は初版は昭和46年11月14日ですが、私が所持しているのは、平成10年にこの手の古書の取り扱いで有名なT堂で見かけて購入したもので、昭和56年の第五版のものです。編著者は中野裕道師(本書では清水市妙福寺住職と紹介されている)です。これは古書ですから出版元に問い合わせてもおそらく絶版だと思います。ですから、入手方法はやはり例のT堂で予約して、在庫がはいったら連絡してもらうようにして、購入するのが一番確実だと思います。以上ご参考になれば幸いです。

1414彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/05(水) 09:16:56

>1413 れんさん

早々のご回答誠にありがとうございました。

1415れん:2005/10/05(水) 09:36:22
1412の投稿文につき訂正です。

誤、推定でしる
正、推定できる

以上の論考は、写真とロジックからの推考ですが、小泉久遠寺の客殿の板本尊や富士東光寺に秘蔵されるとされる板本尊が科学的に研究されれば、その作製年代から、また小泉久遠寺の伝承から、ある程度石山の初代彫刻本尊の製作年代を特定することは可能になると思います。それによって、いまひとつ謎であった、石山初代彫刻本尊の成立史が明らかになると思うので、これら寺院の所属する日蓮宗の研究者の方々の精密な当該板本尊の科学的調査とその成果の公表を期待したいと思います。

1416犀角独歩:2005/10/05(水) 11:19:26

れんさん、初代・石山彫刻本尊造立に関わる謎に迫る御説、たいへんに興味深く拝読しました。有り難うございました。

以上の御説はもちろん、肯定的にわたしは拝読させていただいたのですが、弘安2年日興授与大漫荼羅のことで一つ、お考えをお聞かせ願いたいのです。

当掲示板の議論で、弘安2年日興授与大漫荼羅は『御伝土代』に載る「日興上人と遊ばされた」大漫荼羅が、日興(と、その門下)における最大重要な本尊ということなろうかと思います。

この『御伝土代』の記述は、細井精道氏(のちの日達)に言わせれば、日蓮・日興合作の本尊だそうですが、どうも、わたしはこの考えは馴染めません。こうした筋から堀日記などを引用してまことしやかに語られる、彫刻本尊の腰書、殊に「弘安二年十月十二日」が日興筆であるという話も生じたのではないのかと穿ってみています。

『御伝土代』の当記述が信頼がおけるという前提ですが、素直に読めば、これは授与者名が「日興上人」となって、日興に上人号允可をなした大漫荼羅と見るのが至当であると思えます。

この前提からなのですが、そうなると、弘安二年日興授与大漫荼羅は最重宝として、日興が所持していると考えられると思うのです。となれば、この宝蔵は日興所在の北山檀所と見るのが至当と思われます。

れんさんは、これを日目に付し、石山に移管されたとお考えでしょうか。
たしか彰往考来さんは否定的なご意見であったと思いますが、盗難に遭って喪失したのがほかならぬ、この弘安2年大漫荼羅ではなかったのでしょうか。盗難説を信じ、かつ、石山に弘安2年大漫荼羅があったとすれば、まさに犯人は石山ということになるわけですが、まあ、この真偽はともかく、れんさんが仰る石山曽存弘安2年本尊とは、この大漫荼羅を指してのことでしょうか。

1417れん:2005/10/05(水) 13:39:25
犀角独歩さん、お尋ねの私が推定した弘安二年の蓮師曼陀羅は、ご指摘のように恐らく時師が「日興上人御伝草案」に記した所謂「日興上人と御本尊に遊ばす」の上人号授与の曼陀羅の可能性はあります。時師の明徳三年の曼陀羅の相貌から類推すれば恐らく弘安二年二月に図顕し、同年十月十七日の“聖人等御返事”以降に上人(聖人?)号を付して興師に授与したものと考えます。ただ、これがご指摘の重須からの盗難品か、あるいは目師に授与されたものか、現時点では決しきれません。かつての議論の如く室町期の石山と重須との敵対関係を興目両師の在世にスライドさせて考えると、なるほど石山が盗難の犯人と容易に推測できますが、残念ながら、興師在世に重須重宝の盗難の史実順師血脈から証明出来るものの、石山がその犯人だと断定できる資料はありません。もし、石山が盗難の犯人ならば、室町期当時の重須と石山の敵対関係からすれば、当然敵対する石山蔵の盗難品の返還を公権力に訴えてでも半ば実力行使でも迫る筈ですが、現存の史料から見るかぎり、そのようなことはありませんでした。どの史料か失念しましたが、戦国期の重須の先師が重須の盗難品の御影が讃岐本門寺にあると書いた文書があったのを記憶してますが、石山に対するこの手の記述は見たことがないので、弘安二年の興師授与曼陀羅が重須からの盗難品という線は薄いと考えます。興師は正慶元年十一月三日の書写曼陀羅に目師を「一中一弟子」と記してますから、弘安二年の曼陀羅については目師に授与されたものと思います。今の常識からすると寺の霊宝は厳格に寺有財産として所蔵寺院に継承されますが、この当時は実際は教義も霊宝の類も師弟関係によって継承されていたことを考えれば、興師のものならば北山にあって当然ではないかと考えるのは、逆にやや早計と私には思えます(だからといって石山流の唯授一人の血脈相承を肯定しているわけではありません、わたしは、十二箇条法門も三口一徹相伝〈日目直授相承〉も恐らく石山を掌握した日時師が編纂したものと見ています。つまり石山の血脈相承観の原型は時師にそのらんしょうがあると愚考している次第です)。
彫刻の成立等についてはここで記したことで腑に落ちたので、現代板で現代進行形で議論されている法華経成立史その他の議論を拝聴して、私も深く勉強致したいと存じます。犀角独歩さんの深い御見識のさらなるご披瀝をお願い申し上げるものです。

1418れん:2005/10/05(水) 13:50:17
1417の訂正です。
誤、弘安二年の曼陀羅については目師に授与されたものと思います。
正、弘安二年の曼陀羅については目師に授与された可能性の方が高いと思います。m(__)m

1419犀角独歩:2005/10/05(水) 14:40:00

れんさん、有り難うございます。
非常に参考になりました。

そうですか、日目への譲りですか。わたしはこうは考えていませんでしたので、やや再考してみようと思います。先には彰往考来さんが、重須盗難はなかったのではないかと仰っていましたが、なかなか考証の余地がございますね。

1420彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/05(水) 21:45:21

>1410 れんさん
第60番本尊は左不動(通常は向って右に不動明王がある)です。蓮祖御本尊の中では竜王女の座配が見られる特異的な諸尊の相貌です。そして天親菩薩の配座は見られません。『奉蔵於奥法寶』(平成十二年覆刻版)にある時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊についてスレッド1412で
>時師の明徳の曼陀羅に相似した蓮師書顕の弘安二年中の大曼陀羅は弘安二年二月日釋子日目授与の大曼陀羅です
とご指摘されていますが、時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は蓮祖の第60番本尊よりも、興師の例えば嘉元三年卯月八日の書写御本尊(『日興上人御本尊集』平成8年、興風談所、104頁)の相貌のほうが近いというのが私の考えです。詳細は略しますが、私はこの興師の御本尊型式をB−4型と分類しています。蓮祖の第60番本尊と相貌が一致する興師の御本尊は別にありまして、正応五年十月十三日の書写御本尊(『日興上人御本尊集』50頁)が該当します。蓮祖の第60番本尊と相貌が一致する興師の書写御本尊を私はB−2型と分類しています。
B−4型の特異点は天親菩薩の配座が見られることです。天親菩薩の配座が見られる蓮祖御本尊は第53番と第54番の2幅しかありません。ところがB−4型の興師御本尊には提婆達多の配座が見られるのみ対して、第53番と第54番の2幅の蓮祖御本尊には提婆達多の配座が見られません。弘安期の蓮祖御本尊においては提婆達多の配座は弘安二年二月の第60番本尊以後にみられる特徴です。
B−4型と相貌の差が提婆達多の有無だけである興師の書写御本尊の型式が別に存在します。これを私はB−1型と分類していますが、B−1型は第53番と第54番の配座特徴をよく有していまして、恐らく興師B−1型の原本は蓮祖御本尊の第54番本尊であろうと考えています。『日興上人御本尊集』によれば、B−1型の初出は、正安三(1301)年十月十三日のNo.5本尊(富士大石寺蔵)で乾元二(1303)年八月十三日のNo.35本尊(富士妙蓮寺蔵)を以ってひとまず終了し、以後は正和二(1313)年の1幅(No.122)を除いて見られず、主としてB−4型に切り替えられています。B−4型の初出は嘉元元(1303)年十月十三日のNo.38本尊(西山本門寺蔵)です。興師御本尊の初期はB−1型であったこと、1303年8月のB−1型の終了とともに1303年10月からB−4型へ切り替えられていること、B−1型に相当する蓮祖御本尊は第54番本尊があるのに、B−4型に相当する蓮祖御本尊が見あたらないことなどから、私はB−4型はB−1型の相貌に興師が提婆達多を加えられた独自のものと考えています。
時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊はB−4型であり、明らかに興師書写御本尊の影響を受けていると思われます。また時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は“日蓮聖人 在御判”とあります。『日興上人御本尊集』によれば“日蓮聖人”とあるのは、初期の3幅(正応三(1300)年のNo.4、正応五年のNo.7、正応□年のNo.8)だけです。そのため時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊はごく初期の興師御本尊が書写の原本となった可能性があります。ただし、こう考えるには大きな疑問点があります。時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は左に“有供養・・・ 謗者開・・・”右に“若悩乱・・・ 讃者積・・・”(右は切れていて判別困難なのですが辛うじて“若□□□頭破七分 讃者□・・”が見えます)との讃文がありますが、この型式(『日興上人御本尊集』388頁によれば6型)の讃文の初出は正和三(1315)年十月十三日のNo.129本尊からですでにB−4型に切り替わった時期でやはり時師の明徳三年卯月十三日の書写御本尊は日興上人の中期以後のB−4型本尊が基になったと考えるべきだろうと思われます。なお、釋提桓因大玉はB−4型であれば通常見られます。

以上の論考は主として諸尊の配座から組み立てたもので、筆法や書体は考慮していません。これらを考慮するとあるいは別の視点があるのかもしれません。そのため今回の考証は少し考察不足であることをお詫びしつつ投稿します。
弘安二年の興師授与曼陀羅の有無については私自身もう少し考証が必要です。

by 彰往考来

142101:2005/10/05(水) 23:11:50
曼荼羅の諸尊というのは、書く側からすれば、うどんのトッピングみたいなもんだと思うね。
だから、うどん(中央題目・日蓮花押・四大天王)はありで、ほかのものはお客さんに合わせるんじゃないかな。
そんなことからすると彰往考来さんの論法は、どうもカップヌードルだよね。

1422れん:2005/10/05(水) 23:48:22
>1420 彰徃考来さん。懇切丁寧なご指摘痛み入ります。
私も「日興上人御本尊集」掲載の興師曼陀羅を分類しるとすれば仰るとおりと思います。ただし、今回の私の論考は時師の明徳三年の曼陀羅の題目の全体と経字の筆法・書体、ならびに欠損していない梵字の愛染の起筆と梵字全体の筆法・書体に特に注目して推定したものです。
ご指摘の、「B−4型はB−1の相貌に興師が提婆達多を加えられた独自のもの」については私もそう考えていたのですが、明徳三年の時師の書写曼陀羅の経字や梵字の特徴から、現存する蓮師曼陀羅には、確かにB−4式の曼陀羅は現存しないが、興師のB−4式の書写曼陀羅の原本となる蓮師曼陀羅がかつて有り、それが、曽存の興師へ授与された弘安二年の曼陀羅ではないかと推定してみたものです。ですから、推定推測にすぎないと言われればそれまでなのですが、B−4式の蓮師曼陀羅の曽存の可能性を、時師の明徳三年の書写曼陀羅から窺える以上、B−4式の曼陀羅がかならずしも興師の独自のものと言えないのではないかと、推察・愚考した次第です。

1423彰往考来:2005/10/06(木) 08:38:11

>1422 れんさん

> 興師のB−4式の書写曼陀羅の原本となる蓮師曼陀羅がかつて有り、それが、曽存の興師へ授与された弘安二年の曼陀羅ではないかと推定

この可能性の有無が私にとっても疑問なのです。その存在が確証できれば、

> B−4式の曼陀羅がかならずしも興師の独自のものと言えないのではないか

ということになるでしょうね。もう少し全体を検証すべきと思います。
私の1420の投稿を受けてのれんさんの1422のご投稿で基本的な視点は同じであることがわかりました。
ありがとうございました。

1424犀角独歩:2005/10/06(木) 12:26:07

れんさん

『御本尊集 奉蔵於奥法寶』第42、87頁、所蔵の日時筆・明徳3年卯月本尊につき、ご論考拝読させていただいております。

ご採用の分類に関して、特に異議を唱えるということではないのですが、わたしはどうも座配勧請諸尊のみで捌くのではなく、ここに日蓮の筆法の変遷を併せ考慮したほうがよいと思うのです。

日時の本尊を一瞥して、まず眼に着くのは愛染の形貌です。この筆法は『御本尊集』(立正安国会)で見ると、第40番台、つまり、建治年間のものに似ませんか。

わたしは、拙書、また、HPでも論及しましたが、愛染の頭が弘安2年の段階では●になって、その後、変更がないことに着目してきました。ところがこの日時本尊は‘ ┓’となっています。この形は、弘安2年10月の第67大漫荼羅とは著しく異なっています。
(大漫荼羅では‘ ┳ ’となっていますが、その略形、草書に該当するのが‘ ┓’ではないのかとも考えます)

このような筆法の相違は題目のたとえば「經」の字でも顕著です。糸扁の筆法が弘安2年という時代性をまるで反映していません。

以上の点は、しかし、日興の段階で言えることで、日興の記す愛染は、日蓮の筆法変遷と比較すると、やはり、建治年間に似ます。(『日興上人御本尊集』P386)また、「經」作りは [一/ツ/乙] と時代変遷をはらむ旁第二画が‘ツ’となっており、弘安2年10月当時の日蓮の筆法をまるで写しません。(同 P378)

日興の「經」の筆法と、日時の該当本尊のそれは違っています。

字の書き方は各人の癖と言えば、それまでですが、しかし、宗旨に関わる題目の筆法、また、重要な要素である不動・愛染の筆法は、やはりお手本に(大)漫荼羅本尊があればこそ、「書写」とも言うとわたしには思えます。形を似せて書写するところから始めると考えるほうが自然です。

まあ、こう記せば、日興を崇拝する人々の怒りを買うかも知れませんが、そもそも日興は、弘安2年以降の日蓮大漫荼羅は、拝したことがあったのであろうかという疑問すら生じます。

あと、日時の該当本尊では「書写」との認めが確認できません。書かれていないとすれば、書かないなりの意義を考えることも至当であるとわたしには思えます。

以上の点は、れんさんは、どのようにお考えになられますか。

1425れん:2005/10/06(木) 15:23:58
>1424 犀角独歩さん。先ず第一に明徳三年日時本尊の愛染の形貌について、私が一瞥したかぎり、全体的に一番相似しているのば御本尊集第六0番の愛染というのが、わたしの感想です。ご指摘の「愛染の頭が弘安2年の段階では●になって…」ですが、山中師の解説により御本尊集に当たりますと「不動愛染の二明王を表す梵字の起筆の部分が、弘安二年四月八日の御本尊(第六二)から変貌し第六五(弘安二年七月)に到って其の頭部が完全なる宝珠型となり、弘安五年に及んでいる」ことが看取できます。弘安二年二月の時点における日蓮曼陀羅の梵字の起筆部分は建治・弘安元年に引き続き┳ですので、日時明徳三年の曼陀羅の原本が弘安二年二月〜四月八日の間に日蓮が書顕した曼陀羅であるならば、特別異とすることはないと思います(大曼陀羅では┳、その略形・草書に該当するのが┓ではないかとのご教示、私もそのように思います)。次に糸扁について、これは、恐らく明徳の前の日時筆・至徳四年七月の曼陀羅の糸扁を参照するかぎり、日時の書き癖の表れと考えます。經の旁は、まさに蓮師曼陀羅の經字における山中師の書体分類の第三期を表しており、最も相似する書体を現存の日蓮曼陀羅で見る限り第六十番(弘安二年二月)になります。この二点から私が日時が初期に曼陀羅書写の原本とした日蓮曼陀羅は弘安二年二月〜四月八日の間の曽存曼陀羅ではないかと考えます。そしてその勧請座配は明徳三年の日時曼陀羅がよく表現しているのではないかと愚推した次第です。

1426犀角独歩:2005/10/06(木) 15:48:07

れんさん、わたしは少し勘違いしてご質問を投げかけたようで、日時本尊は弘安2年10月「日興上人」授与大漫荼羅を写した日興書写本尊を手本にしたというご見解なのかと思いました。

たしかにご指摘のとおり、第60大漫荼羅は不動・愛染の左右の逆転はあるもののたしかに相似しておりますね。先の「建治に似」という感想をここに撤回します。

この第60大漫荼羅は、それにしても、不動愛染の逆転のほかにも、実に種々特異点がありますね。日蓮花押と大廣目天玉の間に「釈子 日目 授与之」と記されてあるのにも驚かされますが、さらに「(削損シアリ)」(目録 P91)とのことであれば、元は何が記されていたのかも大いに気になります。

不動愛染の逆転しない、同時期の大漫荼羅であれば、なるほど、合点がいきます。

ご教示、有り難うございました。

1427れん:2005/10/06(木) 15:53:44
1425の続き
日興曼陀羅の經字の旁についてですが、正応五年十月十三日の日興曼陀羅を見ますと、明らかに原本は御本尊集第六十番と看取できるにもかかわらず、原本第六十番の日蓮第三期の書体ではなく、日蓮第四期のごとき書体で「書写」していますから、これはこれで、日興の書き癖と判断するよりほかはないと考えます。
>日興は弘安二年以降の日蓮大曼陀羅を拝したことがあったか疑問…
この点については、御本尊集の弘安二年以降の七六、九二、一00、一0四、一0七、一一六の日蓮曼陀羅に日興自身が添書していますから、この疑問はこれによって散じます。
>日時の該当本尊では書写との認めが確認できません。
これは日時のみではなく日目ならびに日行〜日有の奉蔵於奥法寶に掲載されたすべての曼陀羅について言えますね。日興が書写之を記さないのは写真公開されているものでは正応三年十月八日と元徳二年閏六月一日のものだけですが、日目の写真公開されている三幅はすべて「書写之」の記述を省略して記しておりません。このことから日行〜日有は、この点に関しては日目の曼陀羅書写様式を伝承したと見るべきなのでしょうね(ちなみに日郷も写真公開されている二幅の曼陀羅については日目と同じく書写之を省略して記してません)。

1428犀角独歩:2005/10/06(木) 16:16:12

れんさん、やり取りが交叉して恐縮です。
弁明のようになりますが、1424において、「日興は弘安2年以降を見ていないのか」というのは、余りに日蓮大漫荼羅から字体がかけ離れているので、これは筆の勢い。一つの疑問の投げ方で、ご指摘のとおりであろうと存じます。

> 書写之を省略

この点についてですが、わたしはこの点が実に気になります。
「書写之」という文言を本尊書写の一つの形式と取れば、それは「省略」と見なすことができますでしょうが、しかし、この有無を文字通りに見れば、「書写」とあるものは書写。そうないものは、実際に書き写したのではなく、特に手本を写さず、図したものという2分類の類推は立たないのでしょうか。

日目は「書写」と記さない。そうであれば、重須と石山では別の本尊図顕の所作に基づいていたわけで、極論すれば、日目、日行から日有は書写という意識ではなく自ら図示という認識であった可能性も強ち否定できません。わたしの手許にはないのですが、日道はどうであったのでしょうか。また、日郷も「書写」と記さないのであれば、その意識は図示であると考えられます。

本尊を書くに当たって、自ら図示と思うか、書写と思うか、この心地には天地雲泥の差があるわけで、わたしは興味が惹かれるわけです。

1429れん:2005/10/06(木) 20:07:53
犀角独歩さん
>1426 「不動愛染の逆転しない同時期の曼陀羅…
私が推定したのはまさにそれでした。
なお、第六十番の欠損部分ですが、山中師は目録の第六十番の備考で「大廣目天王の右側に日興聖人の添書が存在したのを削損してある。今『王』字の點の中に『日興』の二字が残存している」と述べられていますので、第九二番の日興添書の例などから類推して、恐らく日興「本尊分与帳」の「新田卿公日目者日興第一弟子也にんべん+乃所申与如件」の如き日興添書が存在したのだろうと、想像を逞しくしております。
>1428 書写之…この有無を文字通りに見れば「書写」とあるものは書写。そうないものは、実際に書き写したのではなく、特に手本を写さず図したもの
お言葉の通りの分類も可能かもしれませんが、私はどっちにも決しきれてはいません。図顕・図示となれば日昭・日朗・日常の諸師の如く首題(題目)の直下に自らの日号の署名と花押を書し、日蓮を先師勧請の中に列するべきと思うのですが、日目の影本が公開されている三幅の内、正中三年卯月日・元弘三年十月十三日の曼陀羅は首題の下は「日蓮聖人」、正慶二年二月彼岸の曼陀羅は「日蓮御判」とあり、この点は日興の曼陀羅書式の特徴を継承しています。ちなみに以下の諸師は首題の下は、日郷二幅は「日蓮聖人」、奉蔵於奥法寶収録の日道二幅「日蓮在御判」(この二幅には書写之があります)、日行三幅の内、一幅「日蓮在御判」二幅「日蓮御判」日時十五幅「日蓮聖人在御判」日影一幅「日蓮聖人在御判」日有三幅「日蓮在御判」とあり、概ねこの点に関しては日興の書式を守っておりますので、意識としては、日興の書写に近いものではあると思います。日時は自著日興上人御伝草案において「佛滅後二千二百三十餘年か間一閻浮提之内未曾有之大曼陀羅也ト図シ給御本尊」の文の“図”に「うつ」とルビを付して「図シ」わざわざ“うつシ”と読ませていますので、形式としては「書写之」と記さない分、図(ず)示に近いながらも、意識の上ではうつす=書写と認識しているのではと愚考いたしました。

1430犀角独歩:2005/10/07(金) 02:11:35

れんさん

本日、本化ネットワークのつどいがあり、立正安国会・片岡邦男師による『本尊雑録』を聴講してきました。この内容は、追ってブログで紹介しようと思いますが、それはさておき、終了後の二次会で、この「書写」について、皆さんにお尋ねしたのです。

どうやら他門では「書写」と書くことはないということで落着していました。
西山茂師は「如何にも日興上人らしいお話だ」と「書写」とする姿勢を感嘆されていました。

首題下に「日蓮」と記さず、自分の日号記すことは広く行われていますが、しかし、日蓮と書く例もあります。参加されていたこちらでもご投稿くださる栴檀さんが日親筆の本尊には「日蓮」とするもの、「日親」とするものの両方を見たと話しておりました。

日蓮宗では漫荼羅図示は「法主一人の権能」などということはなく、教師であれば、本尊は書けるでしょう。しかし、この場合、自分の日号を記すことはしません。貫首クラスの地位にでもない限り、そのようなことをしませんでしょう。「日蓮大菩薩」等と記すのが一般です。わたしの手許にある1幅を広げたところ、「謹写」となっていました。本日、勉強会ご参加の方々の御発言はつまり、れんさんがお引きになったよう例のことのようでした。

いずれにしても、日興は書写という姿勢で貫いたことは敬意を表する値します。
しかしながら、『御本尊集 奉蔵於奥法寶』において、石山上古歴代が「書写」とは記さず、しかも「首題・日蓮聖人」とするのは、日興とも、その後の化儀とも違っている点は一応、留意し考えてみたいと思います。

ただし、これは書写としないことが法義違反であるという意味ではありません。
わたしの感覚からすれば、「書写」「図(ウツ)す」は、二転の感覚が否めません。
先にわたしが記したような二分類にいう図示と書写はあくまで仮設であって、そのような使い分けは、もちろん、存しません。しかし、敢えて、この分類を採用すれば、図示(本紙)、書写(二転)で、これが自ら書したものであって同様の分類になるという感覚がわたしにはあります。

堀氏の言に「後代の法主が宗祖開山等の曼荼羅を其儘模写」(水鑑沙弥注解)という一節は夙に著名ですが、これは通常の書写とは違い、形貌、日蓮花押までも忠実に模写することを指すのでしょうか。このような場合、模写人の書名花押がなければ、真筆と分別に悩む事態も出来することになります。いまのように『御本尊集』などで、真筆写真を閲覧できるときとは違い、「日蓮花押」まで模写され、「写」であることを紙面にことわらなければ混乱を来すことは必至です。そのような意味で日興の姿勢は実に堅実なものであるということになります。しかしながら、自ら漫荼羅を図示し、それが何を写したものでもない場合、日蓮漫荼羅を模したからといって、これが書写に当たるのかといえば、必ずしもそうは言えないとわたしには思えます。もちろん、これは日蓮門下一般の話であり、一人にしか漫荼羅書写を認めない石山という特例を俎上に載せたことではありません。

いずれにしても、漫荼羅論考の一つの視点として、以上のことは含ませて考えたいと思います。

1431栴檀:2005/10/07(金) 09:56:27
おはようございます。

犀角独歩さん、昨日はお疲れ様でした。
署名の件ですが、茂田井教亨師は大曼荼羅を書く際に首題の下に自分の名を入れることは絶対にしないと言われていましたし、
また自身が礼拝するにしても、やはり首題下に末師の署名があるものは抵抗があると言われていました。
(最近出ました師の『観心本尊抄を語る』の巻頭に先生自筆の大曼荼羅が載っておりますが、「日蓮 在御判」です)
大曼荼羅の世界は大聖人が感得された世界であって、果たして自分はそうだと言えるのか、というのがその理由だったと記憶しています。

>日親筆の本尊には「日蓮」とするもの、「日親」とするものの両方を見たと話しておりました。
すみません。ここは日親師ではなく不受不施の日奥師です。確かに奥師のものには両方あります。

1433彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/07(金) 17:31:05

「お薦めスレッド」 >320,325 独学徒さん >324 犀角独歩さん

こちらに移して投稿します。
稲田海素師と大石寺との接点に関する資料を拾い出してみました。

稲田海素師の『日蓮聖人御遺文對照記』(明治41年再版(初版明治40年)、村上書店)によれば、(一部現代かなづかいに改めました)

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049186&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=70&amp;ITYPE=0&amp;L=0

「同(引用者注:明治三十五年十二月)十九日 北山本門寺の檀信にして本と會津藩士森田翁と同道にて大石寺に詣り、始めて執事等に面談し、固く至急に御眞蹟拜照し得る様に取り計ふ事を約し畢て」(113頁)とあり、引き続き「明治三十六年一月十一日 富士大石寺(貫主大石日應上人)より御眞蹟拜照せしむべきに付來山すべき旨の書状に接し (中略) 其日(引用者注:一月十二日)當山(引用者注:伊豆本立寺)を辭し、大石寺に詣る直に塔中の寂日坊を宿舎に定められ、毎朝八時より夜十二時まで五日間録内外の御聖教三十七章を拜照し、外に録内外に漏れたる聖教斷編共に十三章を拜寫せり」(115頁)、「御眞蹟等を拜照せし時、監督の傍ら終始熱心に拜照されたるは、東京市下谷山下常在寺住職堀慈琳師にして、當山澤在中は勿論、其己後も御遺文拜照に就ては余に一臂の力を貸されたり、今一般の讀者に代て一言以て之を感謝す」(118頁)、「同(引用者注:一月)二十二日 當山(引用者注:富士大石寺)の靈寶拜見も無事に結了せし故に、午後三時より寂日坊を辭して西山に過ぎり」(127頁)とあります。

つまり稲田海素師の大石寺訪問は、まず明治35年12月19日に北山本門寺信徒森田氏と共に大石寺の執事を訪問して御真蹟の拝写を要請し、明治36年1月11日に大石寺日応貫主より拝写を許可する旨の書状を受領、大石寺で1月12日から5日間、塔中の寂日坊を宿舎に、毎朝八時より夜十二時まで聖教を拝写したというものです。この時見張りをしたのが堀師です。16日に終了したはずなのですが、『日蓮聖人御遺文對照記』では22日に大石寺を辞したことになっていて記録に6日間の齟齬があります。118頁に“五日間”とあることから127頁の「同二十二日」は“十六日”の誤記ではないかと考えます。稲田師が聖教を拝写したのは一月ですからお虫払の時期ではありません。

なお、『日蓮聖人御遺文對照記』の127頁に、明治36年2月19日に稲田師が保田妙本寺を訪問したとの記載があり、「時に下谷常在寺の堀師も見えられたり」(127頁)とありますので、堀師は稲田海素師の保田妙本寺訪問に同行していたことが解かります。

1434彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/07(金) 17:31:49

1433の続きです。

稲田海素師は大石寺塔中の寂日坊で御真蹟の拝写をしていたのでしょうか?
稲田師の大石寺での聖教拝写については同師の「祖書讃仰史談(第四回)」(『大崎學報 第八十九號』(昭和11年、立正大学宗學研究室、111頁))に「思ひ出せば明治三十六年正月十六日に全部調査するまで前後五日間、黎明に床を出で宿所寂日坊から雪を踏んで大石寺へ通ひ、夜は十二時を過ぎてから歸坊したのであつた。容易に他見を許さゞる石山の重寶を、念願叶つて披見を許された喜びに雪中の苦勞も忘れて通つたものである」とありますので寂日坊で拝写をしていたのではないことが解かります。稲田師が大石寺のどこで聖教を拝写したのかは大橋慈譲師の証言があります。「日亨上人を偲び奉る(九) 亨師は、古文書に関心持たれたのは四十歳代からであると聞く、稲田海素師が御書編纂を志され、立正大より大石寺所蔵関係の御遺文を読みに来た。稲田師は、確か、宗務院脇の旧塔中食堂の部屋と聞いた。そこで御宝蔵の御書を一巻づつ持ち出して、一文一句書写された。本山からその番兵の意味を含めて亨師が立会いをさせられ、四六時中相手となった。それから亨師も古文書に関心が出来、爾来御遷化迄五十余年研究されたという」(『佛教思想と富士教学』昭和56年第2版(初版昭和53年)、日蓮正宗佛書刊行会、271頁)というもので“宗務院脇の旧塔中食堂の部屋”で書写をしたという証言です。この“塔中食堂”は『地涌からの通信 別巻②歴史編』(1993年、はまの出版、251頁)記載の「昭和初期の大坊建物配置図」で確認することができます。この地図によれば宗務院玄関を入ってすぐ右に塔中食堂があります。宗務院玄関を出て東に真っ直ぐ石畳を歩き大書院の前の玄関に入り回廊(屋根付き)をさらに東に進むと太鼓橋を渡って客殿に着きます。ここを左(北へ)に曲がって進むと御宝蔵へとつながります。残念ながらこの客殿は昭和20年6月17日の出火で焼失してしまいました。
当時客殿にはどのような御本尊が安置されていたのでしょうか?文政6(1823)年の日量師による「富士大石寺明細誌」によれば、「客殿正南面、向拝造 間口十四間奥行十二間。(中略)仏壇中央板漫荼羅日興筆の写」(『富士宗学要集 第五巻 宗史部』(昭和53年、創価学会、324頁)とあり、さらに客殿焼失前の昭和14年に雪山書房から発行された『富士宗學要集 第七史料類聚』の268頁(同じ内容が『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(昭和53年、創価学会、202頁)にあります)に「總本山客殿の板本專(引用者注:“專(専)”は“尊”の誤記か)、日興上人御座替本尊彫刻」とありますので客殿の本尊は日興上人御座替本尊を彫刻した板本尊であったことがわかります。蛇足ながら『富士宗学要集 第八巻 史料類聚(1)』(新版)の記載は『富士宗學要集 第七史料類聚』(旧版)を新かなづかいに直しただけで内容は同じです。従って両書とも昭和14年当時の編纂内容であるといえます。このことは『富士宗学要集』の新版(山喜房版・創価学会版)だけを読んでいると気がつきませんので注意が必要です。新版は旧版(雪山書房版)の復刻ではなく改版していますので頁など一致しません。「新旧富士宗学要集所載資料比較対照一覧」は『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、220〜230頁に記載されています。

1435彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/07(金) 17:32:23

1434の続きです。

「日興上人御座替本尊」(紙幅)は『日興上人御本尊集』(平成8年、興風談所、46頁)に入集しています。「十六枚継の大幅の御本尊」との記載はありますが、寸法欄は空欄になっています。寸法は『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、91頁)に記載があり、丈185.7cm、幅87.5cmとのことです。同書同頁には、「現在、大客殿にご安置の御本尊は、第二十四世日永上人が、宝永三年(一七○六)六月十五日、この御座替御本尊を板に写し奉り、彫刻せしめられた御本尊である」とありますので、焼失した客殿に安置されていた御本尊は永師彫刻の本尊と思われます。昭和20年6月18日付宗務院の通達では、「御寶蔵竝ニ各□□御(本)尊ハ幸ヒ無事安泰ナルヲ得」(『地涌からの通信 別巻①資料編』(1993年、はまの出版、167頁)とあることから客殿の御本尊は焼失を免れたと考えます。

この稲田海素師による聖教の拝写について『大百蓮華 第67号(昭和31年12月号)』に掲載された昭和31年2月25日の「三大秘法と戒壇の歴史 =堀日亨猊下を圍んでお聞きする=」での堀日亨(明治36年当時は堀慈琳)師の証言があります。「稲田のほうは、大石寺にきたことはあつた。唯御書を見にきただけなんだよ。それを堀さんとは兄弟同然につき合つたなんていつているが、親友だなんていうばかなことはない。要求する御書だけは見せたが、御本尊はとうとう見せなかつたなんていつているが、見せものじやあるまいし御本尊を見せてやれるわけがない」(『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、124頁)というもので、これによれば稲田海素師は正式には石山の御本尊を見ていないということになります。稲田師が宿坊の寂日坊から雪の中を移動中にたまたま客殿の中を通り、掲げてあった御本尊を非公式に眺めたようなこともあったのかもしれません。あるいは内々に堀師が客殿の中を稲田師に案内したのかもしれませんが想像の域を出ません。堀師の証言はずいぶんそっけない言い方で、上記『日蓮聖人御遺文對照記』で堀師が稲田師の保田妙本寺行きに同行したことなどを考え併せると事実をしゃべっているとは考え難く堀師と稲田師がかなり親しい関係であったことは間違いないでしょう。

今回の考証で、明治36年1月に実施された稲田海素師の富士大石寺における御書書写の模様がかなり明らかとなりました。私自身ここまで突き止められるとは当初思ってもみませんでした。これも断片的ではありますが先師が証言を残されたお陰であり感謝いたします。

書物というものは、所詮は、先行する文献を集成して成立するものである。架空の人物にしろ、<聖徳太子>のような遠い過去の人物の伝記であってみれば、そのことは避けようがない。とすれば、重要なのは、いかなる目的あるいは理念のもとに、過去の資料を集成し、そのうえに新たな見解を加えて一書をなしたのかということであろう。(大山誠一「『上宮聖徳法王帝説』成立試論」(大山誠一編『聖徳太子の真実』収録、2004年、平凡社、153頁))ということが今回、少し理解できた気がします。

引き続き、稲田海素師が見たとされる客殿の御本尊はどれであったかなど推論を交えながら考証したいと考えます。

by 彰往考来

1436れん:2005/10/07(金) 21:26:11
犀角独歩さん
>1430
>首題下に日蓮と記さず、自分の日号を記すことは広く行われていますが、しかし、日蓮と書く例もあります
私も彼の有名な行学院日朝師の曼陀羅において経題の下「日蓮在御判」と「日朝(花押)」の両方の書式のものを拝見したことがあります。
日興上人御本尊集には未収録なので、興風談所では存疑扱いだと思いますが、静岡県史通史編に日興本尊として写真が掲載されている北山本門寺蔵・正応二年十月十三日、周防房授与曼陀羅には「首題・南無日蓮聖人・日興(花押)」でこの本尊には「書写之」はありません。日興上人御本尊集に入集している讃岐本門寺蔵・正応三年十月八日、僧日仙授与曼陀羅は「首題・日蓮聖人」で「書写之」がありません。蛇足ながら、奉蔵於奥法寶の付録「日興門下御本尊集」に写真掲載の北山本門寺三世日妙の康永三年三月十三日の曼陀羅は「首題・日蓮聖人在御判」で「書写之」がありません。これらの点から、これら日興門下諸師は日興初期の曼陀羅(存疑とおもわれる周防房授与のものはのぞいても)の書式形態を継承したとも言えるかもしれません。いずれにしましても、この件につきましては、独歩さんのご指摘を踏まえて考えていく所存です。
話は別の板になりますが、わたしも、松山俊太郎師の御講義を拝聴したい望みがあります。というのも、私が学会員だった時、「法華経とシルクロード展」があり、そこで展示されていたロシア科学アカデミー所蔵のペトロフスキー本やその他のサンスクリット仏典の写本・影本を見たことがあり、私は外国語はまるきしダメ(日本語すらあやしいですが)なので、梵語はまったくダメですが、こっちの方にも興味があります。先程、ケイタイからですが瓔珞出版の方にメールしましたが、もし、よろしければご高配を賜れば幸甚です。

1437独学徒:2005/10/08(土) 02:12:43

彰往考来さん、

>稲田海素師が見たとされる客殿の御本尊

是非ともこの件に関しての、御所論を拝したいと存じます。
今後の御投稿も注目させていただきます。

1438犀角独歩:2005/10/08(土) 05:07:24

栴檀さん

訂正、有り難うございました。
昨日の講義もたいへんに興味深いものでしたね。
わたしは終電ギリギリでしたが、二次会も実に有意義でした。

茂田井教亨師の漫荼羅図示のお考え、実に頷けます。
石山下では、漫荼羅‘書写’は「法主一人の権能」とかいって、この件に関しては思考停止を強いられています。そのために、日蓮聖人の真筆大漫荼羅ですら、他山にあれば、拝観も謗法という暴挙です。まったく何を考えているのやらと、脱してみれば溜息が出ます。こんな下らないタブーは捨て去って、どんどん、この件も考えてまいろうと思います。よろしくご教示ください。


彰往考来さん

ご投稿、たいへんに参考になりました。有り難うございました。
独学徒さんと同じく、続きを楽しみにしております。


れんさん

「周防房授与曼陀羅」、これは実に興味深いですね。
れんさんがご覧になって、日興筆と思えますでしょうか。

松山師講義でお会いできますね。師は世離れした仙人のような方で、いつも浴衣の着流し。ネコが嫌いで、それとは反対に大好きなものがあります。講義中でも、ところ構わず、その名称を口走りますので、最初は吃驚しますが、何度か、お会いする内に慣れます(笑)

1440犀角独歩:2005/10/08(土) 16:49:35

彰往考来さん
独学徒さん

1435の『大白蓮華』第67号(昭和31年12月号)記載は、日蓮宗宗務院編『創価学会批判』の

「実物の調査結果を云へば嘗て稲田老師は御遺文対象の為大石寺に赴いた時これ(板本尊)を見ることが出来たが真赤な偽物であつたと云つておられる。以来石山門徒は宗外批判を恐れ具現の者には絶対に見せぬように秘匿している始末である」(P23)

と対応するものでしょう。この本の出版は昭和30年7月28日ですから、慌てて堀師まで担ぎ出して、事実を枉げたというのが、彰往考来さんが引用された該当記事掲載の裏事情ということでしょう。

また、いわば、これが秘蔵厳護の正体であって、稲田師に偽物と言われたあと、宗外開帳を逃げ回り、具眼(=漫荼羅鑑識能力を持つ人)から遠ざけるために、さらに本尊の写真撮影掲載を禁じる策を弄したと言うことでしょう。それが証拠に、何より明治44年の熊田本、また、続く荒木本には堂々と彫刻本尊の写真が掲載されていたわけですし、初期の『富士宗学要集』には本尊の写真は掲載されていました。何より、ここで何度も議論されているように立正安国会『御本尊集』には「紫宸殿」本尊をはじめ、他2幅の石山蔵漫荼羅が掲載されているわけです。また、戸田さんを写した講義風景の後ろには学会常住本尊が写ったまま、掲載されたことは夙に著明なことです。また、『人間革命の口絵に「戒壇本尊」を描き、そのままで正座し、頭を垂れた「戸田城聖」を描かれたのは既に出回ったものでした。もし、写真撮影等が謗法というのであれば、堀(日亨)師も、聖教新聞も、謗法ということになるでしょう。

いま、本尊の写真撮影が謗法である、秘蔵厳護されてきたと信じ込まされている現信者は、当時を知る石山僧も、創価学会幹部にとって、周知のことであったという事実から、なぜ「写真撮影厳禁」「秘蔵厳護」が、あたかも昔からであったと捏造されていった経緯を斟酌して冷静に判断してみることです。

1441犀角独歩:2005/10/08(土) 20:21:23

どうも、投稿するたびに訂正する悪習ははやく脱しようと思いながら、いつもだめです。恐縮です。

【1440の訂正】

誤)具現の者
正)具眼の者

なお、「これ(板本尊)」は()内はわたしが補ったものです。

1442れん:2005/10/09(日) 02:16:44
犀角独歩さん
>1438 「周防房授与曼陀羅…日興筆と思えますか
そうですね、この曼陀羅の首題の下、南無日蓮聖人・日興(花押)という際立った特徴以外は、勧請諸尊の座配・不動・愛染の筆致等は僧日仙授与の曼陀羅・山梨正法寺蔵の正応年間の曼陀羅と同じ特徴を有しているのですが、どうでしょうか。写真を見たかぎりでは真筆のようにも思えます。しかし、筆致がきれいすぎるようでもあり、真偽を決するのは保留といったところです。この曼陀羅が日興真筆ならば、日興にも、初期には通日蓮門下の曼陀羅の書式があったということになるのでしょうか。
>松山師講義
私の如き弱輩の門外漢が、松山先生のご講義を拝聴させていただく機会を与えられるとは、全く望外の慶びで、大変光栄に存じます。テキストは岩波版でしょうか?私は梵語に関する知識は全く「真っ白」で、残念ながら松山先生の御講義のすべてを理解する能力は全くありませんが、初学の者なりに、自分の分かる範囲でしっかり学ばせていただこうと存じます。
いやはや、いまから緊張しております(笑)

1443犀角独歩:2005/10/09(日) 09:20:55

れんさん、日興本尊につき、ご教示有り難うございました。

わたしは石山の信念体系にいた頃は、日蓮は確たる本尊書写を唯受一人に相伝したという神話を真っ向から信じていたのですが、そんな無知蒙昧だった自分を思い出すに気恥ずかしくなります。

最近は残念ながら、お出でにならない空き缶さん、そして、れんさん、さらに彰往考来さんのご参加を得て、それが、飛躍的に正鵠を得た議論となっていきました。

しかし、議論されていることは、日興とその直弟ということに限るわけですが、それでも、日興ですら、確たる相伝に基づいて漫荼羅書写したのではないことが朧気ながら、見えてきたことは大きな成果であったと思えます。

松山師、法華経講義のこと、書き忘れましたが、仰るとおり、テキストは岩波文庫版『法華経』を使用されています。

わたしも梵語の知識がなく、実にそんな自分を歯がゆい思いながら、師の講義を拝聴しています。ただ、そんな緊張なさる必要はありません(笑)

1444彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/10(月) 07:42:33

犀角独歩さん

>1440 日蓮宗宗務院編『創価学会批判』の
「実物の調査結果を云へば嘗て稲田老師は御遺文対象の為大石寺に赴いた時これ(板本尊)を見ることが出来たが真赤な偽物であつたと云つておられる。以来石山門徒は宗外批判を恐れ具現の者には絶対に見せぬように秘匿している始末である」(P23)

今、ちょっとこの件の考察が壁にぶつかっていて止まっていまして、それはまさしくこの文章のためなのです。私自身この内容の記憶があったのですが、残念ながらこの本(もしくはコピー)を所蔵していないため確認できずにいました。今回、そう、これこれ!と確認できましたので再度、考察を練り直します。ありがとうございました。

1445犀角独歩:2005/10/10(月) 09:50:55

彰往考来さん、あとでコピーを送っておきます。
考察が止まってしまっては、わたしどもにとっても、大きなマイナスとなり、大問題ですから(笑)

1446彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/10(月) 11:13:37

>1445犀角独歩さん

ありがとうございます。学恩に感謝します。

彰往考来

1447独学徒:2005/10/10(月) 12:55:25

犀角独歩さん、

>宗外開帳を逃げ回り

それだけ稲田師の言には重みがあったのでしょうか。

議論の蒸し返しで恐縮ですが、私は稲田師が「これ」を見た場所が、「御宝蔵」であったのか「御影堂」であったのかが気になります。

余談ですが京都要法寺では、現在の「開山堂」は、過去には釈迦像を安置した「本堂」(釈迦堂)であったわけですが、今は仏像を宝蔵へ遷座し、それまで客殿にあった「日尊上人尊像」を安置して「開山堂」にしました。
それにあわせて、それまでの「祖師堂」を「本堂」と呼称するようになります。

これらはその時々の教学解釈によって、変化・変更されるものと思いますが、大石寺でも「御影堂」には「本門戒壇本堂」の棟札があることから、御影像を安置するよりも「本門戒壇之大御本尊」を安置することが正しいという教学解釈が当時あり、御影像がどこかに遷座され「本門戒壇之大御本尊」が奉安さるということも考えられるのでしょうか。

「本門戒壇之大御本尊」が「御影像」のお色直しの間の、代替であったということだと、当時の「本門戒壇之大御本尊」の価値が、「御影像」より下ということになりまねません。

すみません議論が脱線してしまいました。

1448独学徒:2005/10/10(月) 12:59:21

訂正です


>「本門戒壇之大御本尊」が奉安さるということ


変わって「本門戒壇之大御本尊」が奉安されるということ

失礼しました。

1449犀角独歩:2005/10/10(月) 14:21:03

独学徒さん

稲田師の発言は重かったでしょうね。まして、そこに例のO師も加わっているわけですから。

> 大石寺…「御影堂」…「本門戒壇本堂」の棟札…、御影像を安置…「本門戒壇之大御本尊」を安置…正しい…教学解釈が当時…御影像…遷座…「本門戒壇之大御本尊」…考えられるのでしょうか。

事実は逆でしたね。宝蔵にしまわれたのは「戒壇本尊」のほうでした。

> 「本門戒壇之大御本尊」が「御影像」のお色直しの間の、代替…当時の「本門戒壇之大御本尊」の価値…「御影像」より下ということになり

そのような解釈は成り立つかも知れませんが、仮に実際、そのようなことが為されていたとしても、それほど、深くは考えていなかったのではないでしょうか。
先に見てきたとおり、「広宣流布の暁まで秘蔵厳護」など、かつては御開帳の有り難さを増すキャッチ・フレーズ以上の意味はなく、現代では、稲田師の言に慌てた窮余の策以上の意味を持っていません。

いずれにしても、石山伝説では、「戒壇本尊」、御影像、「最初仏」は、同じ1本の楠から造られたことになっていますから、御影像を軽く扱うことは、ひいては「戒壇本尊」不敬になるというロジックが存するとは思います。また、御影信仰は、既に日興にその起源が見られるわけです。

1450独学徒:2005/10/11(火) 22:49:19

>1447 
さらに訂正箇所がありました。

誤・・・「御影像」より下ということになりまねません。
正・・・「御影像」より下ということになりかねません。

失礼しました。


犀角独歩さん、教えてください。

>宝蔵にしまわれたのは「戒壇本尊」のほうでした。

「本門戒壇之大御本尊」は、宝蔵内でも「厨子」内に安置され、御開帳ができる状態でしまわれていたものと思われますが、宝蔵⇔御影堂(本堂)の移動は、本門戒壇之大御本尊のみであったと思われますか?それとも厨子ごと移動されたと思われますか?

通常、御影は宮殿厨子の中に安置されますが、御影の無い宮殿厨子内の板曼荼羅部分のみの移動・安置なら、厨子扉よりそれなりに奥行きがある場所へ安置されていることになります。
厨子扉のすぐ内側に、「本門戒壇之大御本尊」があるということは、厨子ごと移動しているか、「本門戒壇之大御本尊」が半丸太のような感じで奥行きのある板曼荼羅であるかのどちらかではないかと思われます。

私は厨子ごと移動したと思うのですが、この点御教示いただけますと幸いです。

1451犀角独歩:2005/10/12(水) 07:12:11

独学徒さん

> 通常、御影は…どちらかではないかと思われます

と仰る意味が、よくわからないのですが、わたしなりの考えを記します。

日精が本門戒壇堂を造立し、当初、「戒壇本尊」を御影像の後ろに奉安したのにも関わらず、その後、これが宝蔵に移された…

当初、このことを考えるとき、わたしも、この「戒壇本尊」はいまの半丸太のものであると考えました。となると、後ろに半丸太、手前に御影像ということは、どのようなことを意味するのか、この本尊は「横弐尺壱寸七分」というわけで、大雑把な表現ですが、そうなるとその直径の丸太1本が収まる厨子だったのか?ということになりますね。しかし、実際のところ、堂の宮殿・厨子の様はどうでしょうか。

ここでわれわれは、細井さんの談から彫刻は半丸太という固定観念で考えてしまっているわけです。つまり、“今の”彫刻本尊はそうかもしれないが、当時も、そうであったとは限らないわけです。既に見てきたように、完則、日憲の諸文書から考察するに、今の彫刻本尊の製作は近代に属し、数世代目のものであろうと考えられるわけです。

わたしは、「本門戒壇堂」の厨子の寸法というのはわかりませんが、御大会で開いて御影像を見た記憶を辿ると、背にしたあとから取り替えられた板本尊というのは、彫刻本尊より小さいように思うわけです。そんなことから、腰書の部分というのは、接いであるという話は「ああ、なるほど」と思ったわけです。それぐらいの高さなら収まるだろうと思えたからです。しかし、「戒壇堂」から出してしまうと、何のゆかりの本尊かわからない、そこで、宝蔵に移した段階で、「本門戒壇」と腰書が彫られた台座に据えてはじめて、「戒壇本尊」と成り得たのではないのかという類推です。

波木井日円の嫡男が弥四郎国重と考えており、かつ、「身延本堂の漫荼羅」、「戒壇本尊」だという、三つの条件を満たす腰書に据えれば、どんな本尊でも戒壇の本尊になるという便利さです。まあ、接いでないというのが石山の話らしいですが、一体であっても、この三つを書けば、伝説が満たされることに変わりはありません。しかし、その本尊が、日精の時代から、今に至るまで何度も代わっているというのが諸文献を付き合わせて考えられるところです。これは半丸太でしょうか。二寸厚の板であったと思います。

以上はあくまで、推測に過ぎませんが、となれば、厨子ごと移す必要はなかったと思います。

関係するかどうかわかりませんが、石山当たりでも、昭和20年代から30年代には、漫荼羅は殊更、厨子に収めていなかったという話は聞きました。

なお、これは諸記録を当たって記すことではありませんが、この“板”本尊は、多人数の御開帳の際には、御影堂に仮奉安されて、事に充ててきたということはないでしょうか。板ならば、移動はさほど、難儀ではないでしょう。また、このための御前立本尊があっても不思議ではありません。

金沢信徒の抜け詣りのように宝蔵の石畳で御開扉・遙拝したのか、徳川多くの人々がいつまで詣っていたかしりませんが、将軍に係る人々を宝蔵前の石畳に座らせたとは、とても思えません。御開帳の際は、身分に見合った場所で拝ませた…と考えれば、「本門戒壇堂」こと、御影堂しかないように思えます。

まあ、これも記録を見たわけではありませんので、憶測の域は出ませんが、強ち外れたことではないと思えます。

皆さんのご意見も聞いてみたいと希望します。

1452独学徒:2005/10/12(水) 11:25:57

犀角独歩さん、

>通常、御影は・・・

これは西山や保田などもそうですが、御影が奥行きがあり、屋根のついた御輿のような厨子に入っていることを書いたつもりです。

http://www.ryukouji.com/syodou/daihondou.html

昨年、石山僧侶方は「御影堂全景」といわれましたが、御影の写っていない「御影堂全景」写真に疑問を持っていましたが、大分整理がつきました。

有難うございます。

1453犀角独歩:2005/10/12(水) 14:20:43

独学徒さん

> 御影…屋根のついた御輿のような厨子

宮殿(ぐうでん)のことをおっしゃっているのでしょうね。
漫荼羅とは別に御影像だけを入れるものは、たしか御影厨子といったのだと思います。

以下サイトに「即位礼正殿の儀(宮殿 松の間)」の写真がありますが、要は、このような天子の殿堂を模したものでしょう。

http://www.kunaicho.go.jp/01/d01-12.html

また、須弥壇という台の上に載ることは、インドの宇宙観のその中心地、須弥山に建つ宮殿に日蓮が常住するというコンセプトに基づくのでしょう。インドの天子の宮殿を模したということになるのでしょうか。しかし、日蓮の教学的視姿勢からいえば、霊鷲壇といったほうが相応しいと思えます。これは余談ですが。

1454パンナコッタ:2005/10/12(水) 17:41:03
横レス失礼します。
>1453 の写真は高御座と御帳台ですね。 参考として少し大きな画像を、
 http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0407-08.htm
よりイメージがつかめると思います。

1455独学徒:2005/10/13(木) 11:50:07

犀角独歩さん、パンナコッタさん、有難うございます。

「紫辰殿」の文字が印象的ですね。

1456彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/13(木) 18:11:52

1435の続きです。

さて、『板本尊偽作の研究』(発行年不詳、本門社)での木下日順師による稲田海素師の証言は下記のとおりです。
「近代の学僧、稲田海素老師は宗の内外を問わず古文書鑑定の最高の権威であるが、編者(引用者注:木下師)が板本尊についておきゝしたのは左の如くである。先師云く『板本尊は、宗祖の御真筆を摸写して板にはり彫刻したものである。模刻の原本は私が大石寺へお参りした時、客殿の高い所に掛けてあった。私はそれを一目見た時、これだと直観した。板本尊の原本は確に、御真筆である。』尚その上に老師は云つた。『板本尊は、四つの部分に分けて考察すればよい。十界座配の部、日蓮花押の部、佛滅後二千二百余年(引用者注:ママ)と云う讃文の部、為現当二世造立如件云云の製作縁起この四つの部分に分けて考えればよい。第一の十界座配は勿論、御真筆、第二の日蓮花押も原本は御真筆であるが、第一の十界座配の原本とは違う。他の曼荼羅の日蓮花押を模写したのだ。即ち十界座配の原本と日蓮花押の原本とは、模写した御曼荼羅が異なるのだ。宗祖の御真筆の二つの曼荼羅から、別々に写し取った二枚の紙を、板本尊の上に、つなぎ合わせたのだ。そして第三の仏滅後二千二百余年という讃文と、第四の為現当二世云云の製作縁起は、宗祖の御正筆ではなく、後人の他筆である』と。」(『板本尊偽作の研究』38頁)

この証言からいえることは、稲田海素師は大石寺の客殿に入っていて、そこで恐らく紙幅の蓮祖御本尊を拝見しているということです。しかしながらこの証言からは稲田師が戒壇本尊を直接拝見したかどうかは解からないと考えます。上記のようないわゆる“よせもの”として考えるコメントは戒壇本尊写真を見ながら詳細に解析しないとできないもので、少し拝観してもできるものではありません。私自身奉安殿や正本堂で数回御開扉を受けたことがありますが、数回程度の拝観ではとても判定しうるものではないというのが実感です。これは松本氏が「写真にとらなければ分析ができない」(『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻第一刷(初版昭和43年)、大成社、207頁)とあるとおりで、上述の木下師による稲田師の証言はどうも写真判定によるもののようです。
稲田海素師の戒壇本尊に関して松本佐一郎氏の記述があります。『富士門徒の沿革と教義』(392頁)に「稲田海素老師が曾て人にあれは偽筆だと話したさうだが、その理由は何も言って居られぬし、又高田聖泉居士の所で老師の筆写だといふものを見せてもらったが、これは座配遥に実物より簡略で到底臨写とは思へない。これが稲田海(引用者注:ママ。“素老師”が脱落しています)の筆に間違無いとすれば老師の判断もあまり信はおき難い」というものです。
つまり松本氏の記述内容が正しいとするなら稲田海素師が所有していた戒壇本尊の座配図(仮に“稲田図”とします)は実物より簡略なものであったということです。いつ松本氏が高田聖泉氏のところで見たか定かではありませんが、松本氏は昭和39年に49才で死去しています。松本氏が『尋勝論』を著わし国柱会を批判したのが昭和32年ですから、稲田海素師が所有していた戒壇本尊の座配図を松本氏が高田氏のもとで見たのは恐らく昭和30年より以前であろうと推測します。

1457彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/13(木) 18:12:28

1456の続きです。

これら『板本尊偽作の研究』と『富士門徒の沿革と教義』の二つの証言について御本尊に関する資料などを比較検証してみましょう。二つの証言内容が正しいというのが前提です。

まず稲田海素師が客殿の中で見たとされる原本の御本尊とは何を拝したかです。稲田師は「十界座配の原本と日蓮花押の原本とは、模写した御曼荼羅が異なる」と述べているわけですから原本が二幅あると指摘していることになります。
当時富士大石寺に所蔵されていた蓮祖御真筆とされる御本尊は旧版の『富士宗學要集 第七史料類聚』(昭和14年、雪山書房)の本尊脇書等に入集している総本山(大石寺)所蔵紙幅の蓮祖御本尊が該当し全部で6幅です。これには山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)にて明らかなとおり2幅の脱漏がありますので合計は8幅、うち弘安年間のものは6幅です。この弘安期6幅を列記します。括弧内は『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、88頁)に記載された御本尊の寸法です。

(1)弘安2年8月18日沙門佑盛授与御本尊(丈一一○センチ 幅五三センチ)
(2)弘安2年11月本門寺重宝(俗日増授与)御本尊(丈四九センチ 幅四一センチ)
(3)弘安3年3月日紫宸殿御本尊(丈九五・五センチ 幅五○・五センチ)
(4)弘安3年5月26日沙門民部日向授与御本尊(丈八八・五センチ 幅四八センチ)
(5)弘安4年9月日俗守常授与御本尊(記載なし)
(6)弘安4年12月日優婆夷一妙授与御本尊(丈五一センチ、幅三二センチ)

ここで(3)が『御本尊集目録』の第82番本尊、(5)と(6)がそれぞれ、第111番本尊、第116番本尊で、『富士宗學要集 第七史料類聚』に入集していません。また(1)と(4)はなぜか『日蓮正宗史の基礎的研究』に入集していません。

さて、木下師は『板本尊偽作の研究』40頁で(2)の日増授与本尊が原本であり、その日蓮花押が小さいので(3)の紫宸殿御本尊の日蓮花押を使ったと推測していますが、(2)は恐らく1紙の小さい御本尊であるためこの考えは否定されるでしょう。
(5)と(6)は弘安4年ですから時期的に該当せず外すことができると考えます。
そうすると消去法では(1)、(3)、(4)が該当する可能性があるということになります。
残念ながら情報がないのでこれ以上のことは言えませんが私は紫宸殿御本尊を見せたのではないかと思います。(1)と(4)は写真が公開されていないので判断できないのですが、『日蓮正宗史の基礎的研究』に入集していないことから御真筆ではない可能性が濃厚で稲田海素師のような御真蹟に拝しているような人に拝観させるのは問題含みであるからです。もちろん当時そこまで判断されていたかどうかは解かりません。それに対して(3)の紫宸殿御本尊は堀師が「紫宸殿の御本尊は、弘安の本尊の中では立派ですよ。お山に正筆が澤山ありますけれどもね、紫宸殿の御本尊ほど立派なのはないですよ」(『堀日亨上人 富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、99頁)と述べているとおり、当時の大石寺所蔵御本尊の中で一番見栄えのする御本尊であったと思われるからです。ただお虫払いでもない時期に客殿の中に安置してあったのか疑問もありますが当時の事情は不明です。

稲田海素師が戒壇本尊を見たかどうかについて、引き続き投稿します。 

by 彰往考来

1458彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/14(金) 04:09:50

1457の続きです。

稲田海素師は戒壇本尊を見たのでしょうか? 稲田師自身は自著や論文で大石寺の御本尊を拝見したとは述べてはおられないので、周りの証言から類推するほかありません。

稲田海素師が明治36年には戒壇本尊を見なかったという資料があります。確実ではありませんが、安永弁哲氏の『板本尊偽作論』(1989年(原著の初版は昭和31年)、鹿砦社、185頁)には、「明治三十六年暮から三十七年初頭にかけて、御真蹟研究の第一人者たる稲田海素先生が、北山本門寺の御書類の調査の直後、大石寺所蔵の御書類の対照調査に出向かれた際=正宗唯一人の学僧たる堀慈琳(今の日亨)師は、当時東京言問(こととい)の乘泉寺住職で、稲田先生の研究の同道を懇請(こんせい)し、許されて助手的立場で、調査に協力したものだが=古来から伝はる御真筆類は、凡て進んで拝写せしめた大石寺当局も、こと楠板本尊の件となれば、金輪際拝写させようとしなかったのみならず、堀師すらこの御本尊問題については、一切触れようとはしなかった」とあります。
この証言は安永氏が稲田師と面識があったはずであろうことを考えあわせると重いものがあり、『富士宗門史 増補版』平成15年、日亨上人崇敬会、124頁)での「御本尊はとうとう見せなかつた」との堀師の証言と一致することから稲田師が明治36年に戒壇本尊を見なかったと類推できます。
なお、安永氏の記述には枝葉ですが齟齬があります。稲田師の『日蓮聖人御遺文對照記』(明治41年再版(初版明治40年)、村上書店)によれば調査は明治36年の一月であり暮れではありませんし、同書に「下谷常在寺の堀師」(127頁)とあるように当時堀師は乘泉寺(“常泉寺”の誤記と思われます)住職ではなく東京常在寺住職でした。『富士年表』(昭和57年、富士学林)に、「明治34年 5.20 日亨 東京常在寺住職となる(院822)」とあり、「明治38年 9.18 日亨 東京常泉寺住職となる(院132)」とあることから稲田師の記述が正しいことがわかります。安永氏の「御真筆類は、凡て進んで拝写せしめた大石寺当局」という表現も、稲田師の「容易に他見を許さゞる石山の重寶を、念願叶つて披見を許された喜びに雪中の苦勞も忘れて通つた」という「祖書讃仰史談(第四回)」(『大崎學報 第八十九號』(昭和11年、立正大学宗學研究室、111頁))の記述のほうがより実態を表していると考えますので、この点は念のため記しておきます。
もし応師の許可により戒壇本尊を見たのであれば、その事実を秘匿するにしても少なくとも謝辞を『日蓮聖人御遺文對照記』などに記しておいたはずではないでしょうか。しかしながら堀慈琳師への謝辞はあっても応師への謝辞はありませんのでやはりこの時には戒壇本尊を見ることはできなかったと考えるべきと思います。

1459彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/14(金) 04:10:46

1458の続きです。

しかし、それに対して稲田海素師が明治36年に戒壇本尊を見たという資料もあります。
金子辨淨編『創価学会批判』(昭和30年、日蓮宗宗務院)には
「実物の調査結果を云へば嘗て稲田老師は御遺文対照の爲大石寺に赴いた時これ(引用者注:戒壇本尊)を見ることが出来たが眞赤な僞物であつたと云つておられる。以来石山門徒は宗外批判を恐れ具眼の者には絶対に見せぬやうに秘匿してゐる始末である」(23頁)
とあり、稲田師が御遺文調査のため大石寺に赴いた時に見たという証言で、これは明治36年の大石寺の御遺文拝写がこれにあたるでしょう。これと同じような証言は他にもあります。尾谷卓一編『創価学会の罪悪』(昭和39年日蓮宗出版社、126頁)には北山本門寺貫主・片山日幹師の証言を記載しています。そこには
「実は私(引用者注:日幹師)もこれ(引用者注:板本尊)を拝みたいと思っていたのです。私が北山本門寺に入寺いたしました当時は、大石寺の管長、堀日亨師とは親しくおつきあいをしておりました。私の山へもしばしばこられて、私の山の宝物をみせてあげたり写真まで撮らせてあげたものでした。この堀師に私は「大石寺の宝物もぜひ一度見せてもらいたい」といったところが「あんたには見せぬというわけにもいかぬ。しかし大石寺の信者でなければ見せないということになっているから、あんたが法服でこられては困るから俗服を着てきてくれ」といわれたのです。私は坊主に俗服を着よとはショックだからあえていかなかったのです。そのためにとうとう私は板本尊の実物を見ることはできなかったのです。幸いにして聖筆鑑定の最高権威稲田海素先生は、堀師と仲がよく、あそこのご遺文をみな対照しておられますが、その時に板本尊を見られたというので「どうでしたか」と聞きますと「ありゃあ、真赤なニセモノだよ」といっておられました」
とあります。
『創価学会の罪悪』には引き続き片山師の弁で「堀師はこのように時々正真なことを口にするので、創価学会では大石寺の近くに立派な隠居所をつくって、そこに軟禁しこうした自由なことをいわせないようにしてしまったのです」(127頁)とありますが軟禁(口封じ)が事実であるなら、それを実行したのは創価学会ではなく、金子辨淨編『創価学会批判』に「石山では老師(引用者注:堀老師)と他門との交渉を喜ばず、昨年靜養を乞ふのを口実として畑毛の雪山莊から大石寺境内に隠居所を作つて老師を移し外部との交際の出来ぬやうにしてしまつたのは眞に残念である」(29頁)とあるように石山(日蓮正宗)だと思います。

さて、日蓮宗宗務院発行の金子辨淨編『創価学会批判』における稲田海素証言に対する創価学会の反論は以下のとおりです。
「稲田海素老が大石寺へ行って実物調査した結果、「真っ赤なニセものである」といっているということだ。彼らの書くことであるから、はたして、稲田が真っ赤なニセものだといっているのかどうかまだわからない。しかしまた、稲田がニセものだと断定したところで、それは何の理由にもならない。もし稲田は、本当に大石寺で心から大御本尊を拝したのであるなら、日憲の誤記も訂正しそうなものだし、身延派の連中も、もっと稲田からくわしいことを聞いて、天台・章安云云のような恥さらしをしなくてもよかったであろう。この事実を見ても、稲田の実物調査云云の記事は、妄評のうわぬりであり、何の根拠もないことが明らかになるであろう」(『日蓮正宗創価学会批判を破す』昭和37年、鳳書院、29頁)

1460彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/14(金) 04:11:36

1459の続きです。

『日蓮正宗創価学会批判を破す』での“彼らが書く・・・まだわからない”との指摘ですが、ここで言いたいことは「真っ赤なニセものである」というのは稲田海素師自身が直接書いたものではないので真相はわからないということでしょう。確かに「○○がこういった」というのは伝聞や著者の考えが入る場合があるので資料としては一級ではありません。(すると「如是我聞」で始まる経典は二級資料ということに・・・。)
次の“もし稲田・・・”の箇所はちょっといただけないと思います。仮に稲田師が戒壇本尊を見たとしても自分自身の発言ではない日憲の誤記を正す必要があるわけではなく、それをもってして、“妄説のうわぬり”とか“何の根拠もない”とはいえないはずです。
稲田師自身は『日蓮聖人御遺文對照記』(明治41年再版(初版明治40年)、村上書店)や「祖書讃仰史談(第四回)」(『大崎學報 第八十九號』111頁)などで戒壇本尊には言及していませんので上述の証言は一級資料ではないことは事実です。従ってこの記事を持ってして稲田師が戒壇本尊を見たというのは早計でしょう。しかし、記事の内容からは稲田海素師が戒壇本尊を見たことを強く示唆はします。
片や戒壇本尊を見なかった(見せなかった)という資料がある一方で見たという資料があります。これはどういうことでしょうか。どちらか片方が真実を現していないというのが普通の考えでしょうが、それにしては双方の証言とも真実味があります。私は稲田師は明治36年の調査の際は戒壇本尊を見ることができなかったものの、その後、例えば堀師が法主であった大正15年(昭和元年)から昭和3年の間などに見る機会があったのではないかと推定しています。というのも明治36年以後で大石寺の戒壇本尊が他門徒に公開された事実があるからです。
『地涌からの通信 別巻②歴史編』(1993年、はまの出版、101頁)には『大日蓮』(昭和十年三月号)の「日布上人をしのび奉りて」という一文「ある時姉崎博士それから國柱會の山川長瀧等の諸先生が登山されたことがあつた。上人の御導師で戒壇の大御本尊の御開扉、終りて徐ろに參詣者に向直られたる上人は、『各々ヨウコソの御登山、佛祖三寶も御滿悦のことゝ存ずる。― 各々が無始以来の罪障消滅現當二世の所願滿足と厚く御祈念申上げました。南無妙法蓮華經 ― 』と一拶された」(『大日蓮』昭和十年三月号)を引用し、日布師が東京帝国大学教授姉崎正治博士、国柱会幹部の山川智応氏、長瀧智大氏らに「戒壇御本尊の御開扉」を受けさせたという事実を紹介しています。時期については「この御開扉がおこなわれた年月を特定するのはむずかしいが、推測すれば、国柱会が結成された大正三年から日布が死去した大正八年の間ということになるだろう」(『地涌からの通信 別巻②歴史編』103頁)としています。

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/10/355.html

ここで「姉崎博士それから國柱會の山川長瀧等の諸先生」の箇所で“等”が記されているので他にも参加者があったことが示唆され、あるいはこのとき稲田師もいた可能性もあるのではないかと考えます。

1461彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/14(金) 04:12:24

1460の続きです。

この記事で記載された姉崎博士らへの御開扉が明治45年の熊田氏の『日蓮上人』による戒壇本尊写真の公開以後であることは非常に大きな意味を持ちます。私自身はスレッド1347〜1350にて投稿しましたように、戒壇本尊は慶応元(1865)年の大石寺大火で焼失あるいは損傷し、明治41年に法道院に奉蔵された禅師授与漫荼羅を基に再造されたと考えていますので、この記事は時期的に矛盾しません。それに対して明治36年に戒壇本尊を稲田師が見たとすると時期的に矛盾するのです。もし明治36年に戒壇本尊を稲田師が見たとするのが真実であるなら、明治41年頃の再造説は瓦解することになりますが、上述のとおり明治36年には見なかったと考え得ることから再造説の瓦解はないでしょう。明治36年には見せようにも見せられなかったというのが実態だったのではないでしょうか。

最後に稲田師が持っていたという戒壇本尊の配座図です。 「高田聖泉居士の所で老師の筆写だといふものを見せてもらったが、これは座配遥に実物より簡略で到底臨写とは思へない」という松本氏の証言から、稲田師は座配の欠ける相貌のものを持っていたということが解ります。この“座配の欠ける相貌”がキーワードです。木下師の『板本尊偽作の研究』に紹介されている座配図(以下、木下図と略します)はまさに欠けている諸尊があるのです。具体的には木下図と戒壇本尊(彫刻本尊)を比較しますと、木下図は大六天魔玉、轉輪聖玉、阿修羅玉、大龍玉、竜樹菩薩、妙楽大師の6尊も欠けています。(犀角独歩『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』(平成16年、瓔珞出版事務局、93頁) 木下図と第82番本尊(紫宸殿御本尊)との比較では、木下図は大六天魔玉、轉輪聖玉、阿修羅玉、大龍玉の4尊が欠けています。竜樹菩薩、妙楽大師の2尊は第82番本尊(紫宸殿御本尊)にもなく、逆に第82番本尊(紫宸殿御本尊)は大明星天玉が欠けています。
松本氏が高田聖泉氏のところで見た“座配の欠ける相貌”すなわち稲田図と『板本尊偽作の研究』記載の木下図が同じものであるかどうか解かりませんが同じである可能性は高いと思います。木下図が世に出る前に松本佐一郎氏が稲田図を見たとするなら、ひょっとしたら木下図と稲田図の出処は同じかもしれません。以前スレッド1361で『板本尊偽作の研究』は昭和39年頃の執筆と推定しましたが、松本佐一郎氏は昭和39年9月に死去していますので、木下図が世に出る前に稲田図を松本氏が見たのは間違いなさそうです。この木下図の情報源は日蓮正宗のO師との情報があります。また『地涌からの通信 別巻②歴史編』254頁によると、安永弁哲氏の『板本尊偽作論』も情報源はO師との話ですから、

http://www.houonsha.co.jp/jiyu/18/680.html

あるいは稲田図の情報源もO師であったかもしれません。O師は昭和30年に死去(『地涌からの通信 別巻②歴史編』1993年、はまの出版、276頁)していますし、稲田海素師も昭和31年に死去しています。安永氏の『板本尊偽作論』の初版は昭和31年ですから、安永氏、木下師、稲田師とも昭和20年代にO師より資料や情報を得たとすると辻褄はあいます。あるいはもっと昔であったかもしれません。
しかし情報源がO師であったとして、なぜO師が不完全な戒壇本尊図を渡したのでしょうか。O師は正宗僧侶でしたから間近で戒壇本尊を何度も見ていたはずなのです。これは推測するしかないのですが、O師も正宗僧侶の端くれとして真実を明かさなかったのか、ガセネタで金儲けをした(ガセネタであればばれたときも正宗宗務院に対して言い訳がつくからでしょう)か、元々O師の持っていた配座図が間違っていたのかわかりませんが、いずれにせよ大した理由ではないように思えます。少なくとも真実を求めようとする姿勢とはかけ離れています。

by 彰往考来

1462犀角独歩:2005/10/14(金) 12:00:01

彰往考来さん

非常に詳しい分析、参考になりました。
『創価学会批判』の当該文章を、「金子辨淨編」とするご配慮を、重んじることにいたします。

以上の点は、実はわたしも現在、調査中ですが、文献資料というより、聞き込みでですので、また、違ったご報告ができるようかと思います。話なので、資料性という点では扱えませんが、より現実的なところには迫れるだろうと考えています。わたしは稲田師は「見た」という見解であることを識しておきます。

稲田師の座配ということですが、これは諸尊勧請の座配ではないとわたしは考えます。
では何か、それは『板本尊偽作の研究』P38に載るような図ではないかと考えています。ここの木下師の考証は稲田師との会談を元にしていますので、わたしは松本氏が見たものと、木下師が見たものと同じものであった可能性があると考えます。

彰往考来さんは「私自身奉安殿…数回程度の拝観ではとても判定しうるものではない」と記しておられますが、これはしかし、失礼ながら、彰往考来さんが、ということではないでしょうか。

わたしは、ガリ版ながら木下師が示すあの図(P38)を見て、ただ感嘆しました。なぜならば、愛染・不動にこそ、言及がないものの、彫刻本尊鑑別に必要な要素が、実に簡潔明瞭に整理されているからです。すなわち「板本尊は、四つの部分に分けて考察すればよい」(同)という点です。

稲田師の閲覧は、堀師の許可で極個人的に、しかも、宝蔵で行われたはずです。奉安殿ではありません。となれば、その見聞は極間近ということになるでしょう。仮に短時間であっても、具眼の稲田師にすれば、見るべき要点を速やかに観察し、その場で書き取らないにせよ、あとから、メモすることは容易なことでしょう。『板本尊偽作の研究』に載る図は、そのような種類のものではないでしょうか。稲田師の能力をすれば、ものの5分と掛からないかも知れません。

あと、彫刻本尊の「明治41年頃の再造説」という点は、わたしはもう少し下ると思います。日胤、もしくは日霑の時期ではないのかと、わたしは考えます。また、彫刻本尊が再蔵されたのは東京下谷に程近い辺りだったのではないのかと考えています。

それと、もう一つ。日亨師蟄居は、その実行が石山であっても、その圧力は創価学会であると考えるのが自然ではないでしょうか。何せ、堀師が編纂した『日蓮大聖人御書全集』『富士宗学要集』にしても、その出版権は創価学会が握ったのです。その編集の大部は相学会教学部によるのであり、わたしがよく憤慨するように、その編集は、学会教学に都合のよいように改竄されています。

霑彰往考来さんのご紹介になるとおり、姉崎師ほかが彫刻本尊の開帳を受け、多分、稲田師も受けたのでしょう。堀師自身は、日蓮宗宗学全書の編纂に日蓮宗学僧と一堂に会して協力し、『御本尊集』に3体の所蔵漫荼羅が入集するも、これまた、その協力によるのでしょう。近年では執行海秀師が細井師の招きで大石寺に入ったことは夙に著名なことでした。執行師がまた、堀師と連絡があったことは今さら記すことでもないでしょう。また、故高木豊師の熱原法難研究において、そこに堀師があったことも今さら申すべきことではないでしょう。以上のような次第を、創価学会は伝えずにきたにせよ、実際のところ、石山は各山との通用はあったわけで、そのような慣例は細井師の時代に及んでいます。しかし、創価学会はあの『折伏教典』一辺倒の狭量さを示し驀進していた時期でした。そのようななかで、堀師を蟄居する理由が石山にあれば、ただ、創価学会の顔色を見ること、そうも言っておられないというのが話の筋道であると思います。

1463独学徒:2005/10/14(金) 14:52:24

彰往考来さん、詳細な分析素晴らしいです。

2級以下の資料になるかもしれませんが、「−創価学会を糾す−日蓮聖人と身延山」(日蓮宗青年会小城地区伝道部編)には、所謂「本門戒壇之大御本尊」の鑑定について、以下のような記述がありました。

***
 大石寺の所謂板本尊というのは大石寺九代目の日有という人の作です。北山本門寺の六世、日浄師も三十四世の玉野日志師も日有の偽作であると言っていられます。
 又、近代に於いて、この板本尊を学問的に鑑定した権威者が二人あります。一人は東洋大学長であった境野黄洋先生、一人は、日蓮上人の御真筆の鑑定にかけては自他共にゆする稲田海素先生です。
 このお二人とも、富士大石寺の板本尊は、日蓮上人の書かれた御本尊ではないと、言っております。
***

境野黄洋先生は初耳でした。どのような方かも存じませんが、「−創価学会を糾す−日蓮聖人と身延山」(日蓮宗青年会小城地区伝道部編)自体が、何を根拠にした記述なのか一切書かれていないので、信憑性はいかがなものかと思います。
ただし日蓮宗内では稲田海素師が所謂「本門戒壇之大御本尊」を鑑定したということが、ずいぶんと広く知られていたのではないかということを物語る小冊子だとは思います。

1464彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/15(土) 07:32:31

>1462 犀角独歩さん

ご指摘の点はそれぞれしごくごもっともです。今となっては分からない点もありますが、事実に迫っていく努力をすべきでしょうね。後世に真実を伝えるためにも今しかできないと思います。その意味で犀角独歩さんお取り組みには敬服しています。

1点質問させてください。
&Oslash;わたしは稲田師は「見た」という見解である
私(彰往考来)も稲田師はみたという見解なのですが、明治36年より後という考えです。しかしこれはご指摘のとおり明快ではありません。
犀角独歩さんは、文面から拝する限り明治36年に見たと受けとれるようなのですが、実際のところどうお考えなのでしょうか。

>1463 独学徒さん

資料のご紹介ありがとうございます。この関係の資料は入手困難なものが多いので、とてもすべて眼を通すことができません。その意味では多くの人からご教示をいただくことが大切と痛感しています。

境野黄洋先生・・・私も詳細は存知あげていませんので、調べてみようと思います。

1465犀角独歩:2005/10/15(土) 12:11:14

彰往考来さん

昨日、勉強会があり、「真っ赤な偽物」とするところ、やや、諸師に、雑談のなかで尋ねてみました。宮崎英修師は稲田海祖師の親しく謦咳に掛かり、直接、種々の話を聞いておられるとのことでした。

彰往考来さんが明治36年とされる理由は、当然『日蓮聖人御遺文対照記』の記述に拠るのでしょう。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049186&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=70&amp;ITYPE=0

ここには遺文対照が日記されていますが、その他のことは記されていません。そのことから、確定がむつかしいということになります。しかし、稲田師から直接、話を聞かれた人々はいらっしゃったわけです。

木下師は「客殿」に稲田師が行かれたことを記し、『創価学会批判』には彫刻本尊閲覧を伝えます。朝8時から夜12時まで5日間、単に遺文対照転写をされるばかりではなく、それなりの行動があったことが拝察されます。信者であっても、寺院に寄宿すれば、朝夕の勤行に参列するのは当然のことです。客僧であってもこの点が変わるわけはありません。石山では、朝・夕・丑寅と勤行がなされているのに、大いびきで枕を高くするなどということは考えられないことです。

昨日の雑談とは別ですが、板に彫った本尊が真跡か?という問題が生じます。これは模刻なのであって、彫刻師の作品です。彫刻を日蓮真筆かどうかを問うのは意味をなしません。これは『御本尊集』入集でも同様でしょう。では、その模刻が真筆に基づくのかどうかという点です。

「弘安2年10月12日」という図示日が定まっていれば、彰往考来さんほど、具眼をお持ちの方であれば、だいたいの当時の特徴を挙げられるでしょう。

わたしも、僭越ながら、いくつか挙げられます。
5分間、宝蔵で彫刻本尊が見る機会が与えられたら、わたしが真っ先に見るのは、愛染、「經」字、そして、日蓮花押、そして、日付、授与者(腰書)の「本門戒壇」の4文字。仮にここで時間切れになったとしても、これだけでも、その‘原本’が、日蓮真筆かどうかは、だいたいわかります。それこそ5分と要しないでしょう。

よくオークションで、漫荼羅がネットで公開されていますが、一瞥すれば、真偽を判断するのに、彰往考来さんをはじめ、れんさんも他の方も、ものの数分と掛からないでしょう。ただし、それがいつの頃のものをモデルにしているのか、なにからパクッたのかという点を考えるとき、他の資料を引っぱり出して、種々検討します。この時点でしっかりとしたコメントをするためには時間を要することにはなるというのが皆さん、共通するところであろうと思います。

なにより、稲田師が見たのが明治のことであれば、近代のような「本門戒壇之大御本尊」大騒ぎもなく、諸山通用に、一々「謗法だ」なんだと大騒ぎをするような愚かなこともなかったわけです。こんなときに、一見して偽物とわかるものに接したとき、稲田師のように、鑑識をよくする方はどうするのか。

わたしは、この様を、本ネで聴講した中尾堯師の言説から想像できます。
その日、聴講者の一人が持参したお漫荼羅を、箱から出される段階で頂戴し、まったく真筆を扱うのと同じように鄭重に扱い、見て、それが模写本であるとわかっても、その後、箱にしまうまでも、まったく真筆と同じように鄭重に扱われていました。そして、「寺山の宝として大切になさってください」と丁寧に返却されたのです。問われて、真筆ではないことを告げましたが、このように、識者が、数十年、時には数百年、大切にされてきたものの鑑定を委ねられたとき、如何に、「依頼者の心情を傷つけないようにする」のかという配慮がそこにあります。真筆ではない場合、語らずというのが一番の配慮となるでしょう。

稲田師が石山で彫刻本尊を閲覧され、それが一見でどのようなものであったのか見抜いた、真跡閲覧と5泊寝食の恩義あり、となれば、黙して語らず、が、もっとも矜持ある振る舞いとなるでしょう。このような良識、常識を、考えることのできない昭和30年代以降の学会の好戦的、かつ、暴力的、独断的な発言には、しかし、こんな善意も消し飛ばされてしまうわけです。

稲田師の彫刻本尊閲覧の時期、この点は、もう少し聞き込みを固まれば、投稿しようと思っております。

1466犀角独歩:2005/10/15(土) 14:44:44

相変わらず、いくつか打ち間違えました。

【1462の訂正】

誤)相学会教学部
正)創価学会教学部

誤)霑彰往考来さん
正)彰往考来さん
(失礼しました)

【1465の訂正】

誤)彰往考来さんが明治36年とされる理由
正)明治36年とされる理由

1467犀角独歩:2005/10/15(土) 15:51:34

もう一点、修正します。

> 稲田師の閲覧は、堀師の許可

これは少し先走って記しました。
この許可者の件は撤回します。

1468犀角独歩:2005/10/16(日) 08:38:54

※いったん、日禅授与漫荼羅から離れて、彫刻本尊を鑑別するわたしなりのチェック点を挙げます。

日蓮の漫荼羅図示は、10年ほどの期間であるにもかかわらず、著しい変遷を遂げながら、弘安晩期に、やや定型化される如くです。その経過のなかで、弘安2年10月という時期には、それなりの特徴を有します。奉安堂で入れる人は、なるべく前に座り、遠目でも、見られるはずの以下、二つの特徴を先ず確認されたい。見られなければ、わたしがサイトで挙げた彫刻本尊の写真でも十分に確認できます。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

(1)愛染

漫荼羅向かって左に位置する愛染の書法は、10年の間に著しい変遷を遂げていき、年代を割り出す参考になります。
以下は、その時代時代の愛染を並べたものです。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/aizen_hensen.jpg
(ジャンプしないときは、アドレスバーにコピペ)

以上の愛染と彫刻本尊のそれを比較してみれば、その書体がまったく日蓮漫荼羅のものではないことは明白です。この一点を取っても、(この部分だけでも)日蓮の筆に拠っていないことはわかります。


(2) 「經」字

「經」字の筆法は、大きく分けて四期に分類されることを発見したのは片岡随喜師であると、片岡邦男師が述べたことはブログで紹介しました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50101473.html

その四期分類の図に対照すると弘安2年10月という時期は第3期にあることがわかります。(第3期:弘安元年3月・第47大漫荼羅〜同3年3月・第78大漫荼羅、第82漫荼羅も含むべきかは以下-補1-に記す)

a) 彫刻本尊の「經」字は、糸扁に関しては、その筆法は日蓮の特長とは言い難い。(ただし、日禅授与漫荼羅とは相似)

b) 旁に関しては [一/ツ/エ] の形、弘安3年3月以降の第四期で記されている。すなわち、弘安2年10月の時代性を反映していない。この時点では旁は [一/一/エ] で、2段目は「ツ」様の部分が横一筆「一」と記されるのがこの時代(第3期)の特徴である。

1469犀角独歩:2005/10/16(日) 08:40:12

―1469からつづく―

弘安3年3月第79大漫荼羅
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/079.html

以上、2点は、遠目でも、ネットアップの写真でも容易に確認できる点です。

さらにもう一点、これも既にブログで指摘した点ですが、本尊右下・大廣目天玉の‘玉’の、点の筆法は、特異なものであると指摘できます。

日蓮は天玉を書するに、点の最終画から玉の第1画に連綿と筆を繋ぎ、「三」を連綿と記し、その第1画「一」の中央に筆を戻し、「三」を貫いて、右斜めに筆跡を記しながら、「天」の最終画を下から跨ぎ、細い点を打って書き終えています。
ところが、彫刻本尊では、この通常の筆法に相違し、「天」の最終画は止筆で終え、「王」を書き終えたのちに、「天」の最終画を跨ぎ、あろうことか立て一本に力強い線となっています。
たぶん、この箇所は遠目から確認できるでしょう。このような筆法で記される例は、真筆漫荼羅に数えられない日禅授与漫荼羅にのみに見られるもので、故に同漫荼羅を臨模した証左の一つと考えています。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/27018566.html 
(上記の『大石寺彫刻本尊と日禅授与漫荼羅の、天玉筆法の相似について』をご参考ください)


-補1- 彫刻本尊から、離れますが、第82漫荼羅、(授与者を削損、石山が「紫宸殿」、近日では師資伝という)この漫荼羅は弘安3年3月で、既に第4期に入った位置として第82番目とされますが、第3期の書体ですから、第78番目以前に置くべきであろうと思います。この点は、たしか、れんさんがご指摘なさっていらっしゃったと記憶します。


-補2- 日禅授与漫荼羅の「經」字旁は、2段目が「ソ」様に書される際だった特徴を有します。この点で、わたしはこの漫荼羅が真筆であるか否かを疑いますが、しかし、この筆法は1紙に記され、大きさは著しく異なりますが、第79、第80大漫荼羅と共通します。

『御本尊集』では「当御本尊より、首題の『經』字が第4期の御書体となる」(P117)と備考に記されますが、わたし個人は第79、第80は、さらに分けて第4期第1次とし、それ以降を2次として、分けて、見るべきであると考えます。

すなわち、弘安3年5月9日の日付となっている日禅授与漫荼羅は第4期1次の「經」字の特徴を有しながら、その図示年月日は第4期2次となっている点で齟齬を来していると観察するということです。

なお、この日禅授与漫荼羅を原本として臨模・作為する彫刻本尊は「經」字旁第2段「ツ」の第1画部分を「華」字最終画‘礀’の部分と‘ツ’1画目に充てていることは、既に拙書で指摘したとおりです。

1470彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/18(火) 08:03:38

>1465 犀角独歩さん
本ネで聴講した中尾堯師の言説から想像できます。
・・・まったく真筆を扱うのと同じように鄭重に扱い、見て、それが模写本であるとわかっても、・・・まったく真筆と同じように鄭重に扱われていました。そして、「寺山の宝として大切に・・・」・・・問われて、真筆ではないことを告げましたが・・・鑑定を委ねられたとき、如何に、「依頼者の心情を傷つけないようにする」のかという配慮がそこにあります。真筆ではない場合、語らずというのが一番の配慮となる

これは、書画骨董の世界では当然のことですね。依頼者は寺宝(あるいは家宝)として先祖代々大切に保管してきたものですから、真筆ではないといきなり言われると相当ショックを受けます。相手にショックを与えて鑑定者は何ら得することはありませんから、「依頼者の心情を傷つけないようにする」というのは当然のことです。
下記資料がありましたのでご参考までに。私は中尾氏にお会いしたことはありませんが、中尾氏のお取扱いは鑑定ではなく目利きということになるでしょう。

***************************************
目利きと鑑定の違い

現代社会における「目利き」は、目利きした結果を人に話す必要がなく、あくまで自分のためにする行為だといえます。そのものがホンモノか、ニセモノか、そしてニセモノでも儲かるものか、ホンモノであっても儲からないものか、すべてを自分の頭のなかで判断・分析するのが目利きです。 (中略)
一方、「鑑定」は人に教えるものなのです。だから目利きの人、あるいはプロの骨董商は鑑定をしません。 (中略) 鑑定して鑑定料をもらうということは、プロの目利きの社会から見ると骨董商の仕事ではないからです。
しかも私は鑑定をしてもらいたいという人の気持ちを大切にしますから、プロである商人の立場としてニセモノであってもホンモノであっても何も評価をいいません。がっかりさせたり期待をさせたくないのです。「珍しいモノをお持ちですね」とか「大切にしてください」、それしかいわないものなのです。
自分の商売もしくは研鑚のためにのみ目利きをする骨董商の無言の返答に対し、鑑定業というものは、鑑定料をいただいて生活をすることですから、そもそも仕事の発想が根底から違います。
中島誠之助『ニセモノ師たち』2001年、講談社、232頁
***************************************
中島氏と中尾氏は骨董商と学者という立場の違いはありますが、相通じるものがあります。北山蔵禅師授与漫荼羅がもし相剥ぎの影本であったとしても、中尾氏は何もおっしゃらないでしょう。

1471犀角独歩:2005/10/18(火) 10:21:41

彰往考来さん

「目利き」ですか。なるほど。

わたしは、拙書で「鑑別」という語彙を使いました。
これはわたしが若いときにやっていた仕事の経験から使ったものです。
わたしが属していた業種では、品物の評価をすることを「鑑定」と言い、真偽を見極めることを鑑別と言って区別していたからです。
しかし、実はこれらの言葉の用法は、お示しいただいた骨董など、業界ごとに区々で、国語の取り決めとは、案外、齟齬が生じていていると思えます。

めきき【目利き】
(1)書画・刀剣・器物などの真偽やよしあしを見分けること。また、それにすぐれた人。
「書画の―をする」
(2)人の性質・才能などを感得する能力があること。また、その人。
(3)目がきくこと。見分けること。
「どの骨仏やら―がならぬ/浮世草子・好色万金丹」

かんてい【鑑定】
(名)スル
(1)科学的な分析や専門的な知識によって判断・評価すること。美術・骨董(こつとう)品の良否や真贋(しんがん)の判断、不動産の評価などにいう。目利き。
「刀剣を―する」
(2)判断すること。また、その判断。
「相対(あいたい)間男ではないかと僕は―するが/怪談牡丹灯籠(円朝)」
(3)〔法〕 訴訟において、裁判官の判断を補助するため、裁判所が指名した学識経験者に専門的知識・判断を報告させることを目的とした証拠調べ手続き。

かんべつ【鑑別】
(名)スル
物事を鑑定して判別すること。
「理非を―する」「雛の雌雄を―する」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

辞典を見ると、目利き、鑑定、鑑別のそれぞれの説明に、それぞれの語彙が使用されており、上手い説明になっていません。しかし、敢えて読み解けば、目利きは鑑定でも鑑別でもないが、鑑定は目利きの意味を具え、鑑別は鑑定の意味も具えるということになりそうです。

まあ、西尾師と話すことがあれば、「先生の目利きは」とは言い難く、「先生の鑑定は」なら言いやすいかも知れません(笑)

1472犀角独歩:2005/10/18(火) 14:09:08

実際、本当にわたしはよく打ち間違えますね。

【1471の訂正】

誤)西尾師
正)中尾師

1473彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/18(火) 15:04:50

>1472 犀角独歩さん

このご訂正内容は納得いたしました。

西尾師・・・ ン?と思っていてどなたなのか聞いてみようと思っていました。

彰往考来

1474犀角独歩:2005/10/18(火) 15:19:25

彰往考来さん、失礼しました。

目利きということで言えば、彰往考来さんをはじめ、れんんさん、その他、こちらの常連のなかには、たくさん、そのような方がお出でですね。

言葉の面で言えば、先には、剥離表装はやめて、相剥が適宜であるとなったり、今回はまた、「目利き」をご紹介いただいたり、なかなか、厳正な点をご呈示いただいており、感謝しております。

そういえば、彫刻についても、「禅師授与漫荼羅の模写が原本」として出発したわたしの論考も、模写、臨写、作為という三つの基準から問われ、「日禅授与漫荼羅を原本として、臨模・作為した彫刻」と定義付けに至ることになりました。

無徳さんが別スレで仰っておりましたが、なかなか言語というか、言葉にはむつかしい問題が付いてまわりますね。

…、打ち間違いはそれ以前の問題で、お恥ずかしいところです。

1475彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/18(火) 15:28:18

>1462犀角独歩さん

>『創価学会批判』の当該文章を、「金子辨淨編」とするご配慮を、重んじることにいたします

実は私は最初ちょっとこの意味が不明でしたが、私が「金子辨淨編」としたのは『創価学会批判』の奥付に従ったからです。今回の場合、『創価学会批判』の当該文章を作成された方は記名があり明らかですがその方のお名前を秘匿したわけではありません。
しかし、よくみると内表紙には “日蓮宗宗務院編纂”とあるのですね。ちょっとびっくりしました。編纂者記載が内表紙と奥付で異なるわけです。
結果的には奥付側を採用したわけですが、私はこのような場合、奥付記載の内容を採用しています。
これは、例えば特許紛争などで証拠を特許庁へ提出する場合、公知資料は内表紙、目次、本文、奥付の4点が要求されます。古い資料などで、これらがどうしても揃えられない場合でも、本文は当然として奥付は要求されます。その資料が当該日に公知であるかどうか解らないからです。そのため出版年月日の記載された奥付を重要視する習慣が身についているので、奥付側を優先するという姿勢で臨んでいます。そのため私は図書館などで資料をコピーする場合も、この4点セットをコピーして所蔵しています。
内表紙と奥付で異なる場合、どちらを優先するか決め事はないように思いますが、私の考えは上記のとおりです。特許資料ばかりでなく歴史資料でも、その資料がいつ出版されたかは重要な点ですので、奥付(出版年など)を重要視する必要は変らないと考えます。
まれに記載内容が不十分な書籍がありますが困ったものです。いやしくも出版に携わる方は奥付の重要性を認識して仕事をしていただきたいと存じます。

1476彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/18(火) 15:31:29

>1475

私も打ち間違いを仕出かしました。失礼いたしました。

誤:まれに記載内容が不十分な書籍があります
正:まれに奥付の記載内容が不十分な書籍があります

彰往考来        拝

1477犀角独歩:2005/10/18(火) 18:25:13

> 1475 彰往考来さん

ご指摘の点、仰るとおりですね。

いま、わたしも奥付を見てみました。「編纂者 教化部長 金子辨淨」となっているのに、扉では「日蓮宗宗務院編纂」で整合性がありません。宗務院=教化部ではないわけですから、この記述は整合性がありません。ただし、発行所は日蓮宗宗務院になっています。

『近代日蓮宗年表』(編者:近代日蓮宗年表 / 日蓮宗現代宗教研究所、発行者:日蓮宗・日蓮聖人第七百遠忌報恩奉行会、発行所:日蓮宗宗務院、昭和56年10月13日第1版第1刷)の昭和30年の項を併せ見たのですが、何と、『創価学会批判』については記述がありません。しかし、発行日に当たる昭和30年7月28日の、その前日(27)から31日までとし

「7・27 日蓮宗中央布教講習会,身延山短期大学にて開かれ,主に創価学会問題について講習するて<〜31>(宗報)」(P485)

と記載されていました。同年、3月11日は「創価学会と討論会を小樽にて行う」(P484)とありますから、当然、これを受けたもので、かつ、タイミングからして、この講習会と同書は関係ありとみるのは自然なことと思います。しかし、何故、書籍の出版が落ちているのか不可解です。

関連して興味が惹かれたのが12月25日の項「立正大学仏教学会,『大崎学報』―本尊特集号を発行する(奥付)」という点です。以前、たしか佼成図書館で閲覧した記憶があるのですが、今回の拙書を出すのに、資料として落としていました。彰往考来さんは、当然、お読みになっておられるでしょうか。

1478彰往考来:2005/10/20(木) 12:31:53

> 犀角独歩さん
>『大崎学報』―本尊特集号・・・彰往考来さんは、当然、お読みになっておられるでしょうか

これは昔、神田の古書店で求めまして所蔵しています。これについては追って投稿します。

1479犀角独歩:2005/10/20(木) 16:00:11

1478 彰往考来さん

楽しみにしております。

1480彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/21(金) 07:28:20

>1477『大崎学報』―本尊特集号・・・ 犀角独歩さん

私はちょっと勘違いしているのでしょうか。本尊特集号がみあたらないのです。その近傍で該当するのは『大崎學報 第102号』ですが「創立五十周年記念特輯」とありまして、これのことでしょうか。確か昭和30年発行の103号は本尊特集号ではなかったと記憶しています。もう少し確認しますが。

『大崎學報 第102号』奥付には、
発行日:昭和29年10月13日
編輯兼発行人:望月歓厚
発行所:立正大学仏教学会

とあります。目次は、(( )内は頁です)

巻頭言  望月歓厚
日蓮聖人曼荼羅図集       (1)
  解説 山中喜八 (97)
日蓮聖人消息花押集       (1)
解説 鈴木一成 (30)
口絵写真  弘安五年図顕曼荼羅  京都 本隆寺蔵

となっています。

1481犀角独歩:2005/10/21(金) 14:14:27

彰往考来さん

たぶん、以下の号を言うのだと思います。

大崎学報 104
http://www.inbuds.net/jpn/media/0-00069/0-00069-000104.html

1482彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/21(金) 15:59:24

>1481犀角独歩さん

よく解りました。で、104号は雑誌、コピーとも
所蔵していませんでした。ごめんなさい。

1483犀角独歩:2005/10/21(金) 21:04:19

彰往考来さん、有り難うございました。
近く、どこかでコピーしてきます。
お送りします。

1484彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/22(土) 11:56:35

>1483 犀角独歩さん

ご配慮誠にありがとうございます。

     彰往考来   拝

1485犀角独歩:2005/10/22(土) 15:56:39

彰往考来さん

わたしも勘違いしていました。かつて読んだ本尊特集はご所持の102号でした。

本日、104号共に閲覧してきましたが、こちらは際立って彫刻本尊に触れている箇所もありませんでした。
ただ、影山尭雄師『御本尊造像史』のなかで

「日興門流の中で大石寺では特定の樟板の本尊に限ると主張する。このいわゆる板本尊については身延でも早い時代に造立せられた文献があり、また大石寺の板本尊を写真で拝する御書体からして、石山で主張する年代の精査が必要かと思うが、後日の別稿に譲る事とする」(『大崎学報』第104号P60)

とあるばかりです。

しかしながら『編集後記』を読むと

「今回の大崎学報は『本尊特集』である。斯学の最高権威四師が轡を並べて執筆されたこの号は、いわば今日の日蓮教学の最高水準を示すものであり、所論はそれぞれに異同はあるものの、『本尊問題』についての最も学問的な結論が論述されているわけである。勿論、この結論を更に如何に止揚し、統一し、如何に現実面と契合せしめるかは宗門今後にかかっているが、尠くとも学問の世界においてはこれが終止符であり、金字塔であることは異論のないところであろう…」(野村生)

と記されています。この年はじめに、小樽問答が開催されたことを意識した記述と読めます。

2、3日中にお送りします。

1486彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/23(日) 08:18:16

>1485 わたしも勘違いしていました。かつて読んだ本尊特集はご所持の102号でした
犀角独歩さん、そうですか。102号が話題になりましたので、簡単に102号の内容についてまとめておきます。

『大崎學報 第102号』(以下、「大崎学報102号」と記します)は「創立五十周年記念特輯」とあり奥付には、
発行日:昭和29年10月13日
編輯兼発行人:望月歓厚
発行所:立正大学仏教学会
とあります。目次は、(( )内は頁です)
巻頭言  望月歓厚
日蓮聖人曼荼羅図集       (1)
  解説 山中喜八 (97)
日蓮聖人消息花押集       (1)
解説 鈴木一成 (30)
口絵写真  弘安五年図顕曼荼羅  京都 本隆寺蔵
となっていて、「日蓮聖人曼荼羅図集」は、『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』(平成4年、雄山閣出版、以下「真蹟の世界 上」と記します)に、「日蓮聖人消息花押集」は、鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』(平成2年第3刷(初版:昭和40年)、山喜房佛書林、以下「文献学的研究」と記します)にそれぞれ収録されていますので、『大崎學報 第102号』がなくてもこれら二冊の本があれば内容を確認することはできます。そのため現在は「大崎学報102号」を参照することはほとんどありません。
なお、「真蹟の世界 上」では分類した御本尊分類記号に対応する御本尊写真が掲載されているのに対して、「大崎学報102号」は口絵写真の一幅を除き御本尊写真は掲載されていません。また「日蓮聖人消息花押集」は双方とも同じ花押写真が掲載されていますが、花押写真の印刷状態は「大崎学報102号」のほうが「文献学的研究」より良好です。
「日蓮聖人曼荼羅図集」の内容ですが「大崎学報102号」と「真蹟の世界 上」で差がないといってよいでしょう。もちろん若干の差異はあります。例えば、「大崎学報102号」(97頁)に「石山」とあるのが、「真蹟の世界 上」では、「石山(静岡県富士宮市大石寺)」とより丁寧になっています。また若干の編注が「真蹟の世界 上」には付記されています。
また所蔵場所の記載は、例えば、「大崎学報102号」(25頁)に「東京 永岡家蔵〔御本尊集第三十六〕この御本尊は、現在、東京妙寿寺三吉日照師の護持するところである」とあるのが、「真蹟の世界 上」では、「東京都台東区 永岡家蔵〔御本尊集第三十六〕この御本尊は、現在、東京都世田谷区鳥山の妙寿寺に格護されている」となっているなど、編纂の新しい「真蹟の世界 上」では区名の追記や修正をされています。しかしながら山口範道著『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林)の出版前の発行であったためか、第82番本尊などの所蔵場所は「大崎学報102号」、「真蹟の世界 上」とも記載がありません。なお、「大崎学報102号」(77頁)にある蓮祖御本尊の分類記号で「C(Ⅱ)二O」とあるのは前後関係から「D(Ⅱ)二O」の誤植で、「真蹟の世界 上」では訂正されています。
解説は「大崎学報102号」では図集の後ろ、「真蹟の世界 上」では図集の前にて収録されていますが内容は同じです。
「大崎学報102号」は蓮祖御本尊を研究する上で座右の書でした。「大崎学報102号」は昭和29年発行の学術誌ですから国立国会図書館などで拝読することはできるものの入手は困難でした。「真蹟の世界 上」の発刊で蓮祖御本尊を研究するために「大崎学報102号」を手元に置く必要がなくなりましたので現在ではあまり文献などで引用されることも少なくなりました

1487小池:2005/10/23(日) 09:10:32
彰往考来さん、独歩さん

曼荼羅で、四大天王で「王」でなく、「玉」としているのはなぜなのでしょうか。
また、不動・愛染明王について、曼荼羅に書する意味は何なのでしょうか。さらに梵字で書している意味は何でしょうか。
お教え頂ければ幸いです。

1488犀角独歩:2005/10/23(日) 15:55:12

彰往考来さん

> 「真蹟の世界 上」の発刊…「大崎学報102号」


今回、『大崎学報』の復刻版を瞥見して、「あ、そうか、これを『真跡の世界』は編集したのか」と、いまさら、気付いたわけです。「何を寝ぼけたことを」とお思いでしょう。

ご承知のとおり、わたしの居住は立正大学に近く、また、かつて池上本門寺脇にあった池上図書館に蔵された多くの仏教文献、日蓮文献が移された図書館が近くにあること、また、小1時間の労を惜しまなければ、佼成図書館も近く、もちろん、国会図書館も30分ほど行ける場所です。そんな環境から、図書館に出向けば、事足りるので、資料蒐集には怠慢できました。よって、1486の如きレクチャーはたいへんに有り難いところです。

この『真跡の世界 上』は、凡例に「用字については、本来であるならば御真跡の原本に忠実であるべきだが、読者の解読の便宜を最優先して、論稿に併せて正字・意字・当て字をほとんどすべて常用漢字に改めた」(xv)など、惜しい点はありますが、それを補って余りある書であることは彰往考来さんのご投稿のとおりでしょう。

同書に載る久寿の山中喜八師の『自序』には感激と落涙を禁じ得ません。

「私は小学校卒業直後、某出版社の丁稚となり、爾来いずれの学校にも通学していない…片岡随喜先生の門に入ってからは、訓育教導を蒙る…正規の教育機関の授業を受けていない」(xi)

斯く記す師の為された偉業を、独り片岡随喜師に寄せますが、しかし、「昭和24年6月、随喜居士の遷化に遇うも…悲願を継承」(『序』vi)されるところは、師にも帰着するというのは皆通じた感慨でしょう。。

先に立正大学で開催された公開講座で無料配布された『沙羅』(3)を開くと『小松教授の日々是修学』という一文が載り、その見出しは「学ぶことに終着点はない。意欲をもつ人には常に門戸が開かれています」とありました。

殊にここ富士門流信徒の掲示板に集う在野の研究者の皆さん方にとって、山中師、また、小松師の文章は大いに励みになるところであろうと思います。

わたしが、市中の独覚を称したワラシナ師に、願ってお会いし、また、彰往考来さんにもわたしからお願いし、お会いいただいたのも、終着点なき学ぶ経緯に拠ります。また、小松邦彰師、松山俊太郎師をはじめと諸師の学習会、西山茂師の開催する本化ネット学習会に足繁く通うのもその動機に拠ります。福神の上杉清文師、澁澤光紀師の学恩。また、楠山泰道師、貫名英舜師というわたしをカルト禍から救ってくださった諸師、さらに行明師から学ぶ国際感覚は、いまもわたしの学びです。

しかし、ご多忙の皆さんは、わたしのように平日の昼間自由に時間を割くことができないでしょう。ですから、出来る限り、見聞したことは、当掲示板、ならびにわたしのブログ、HPに紹介し、学恩を共有したいと思い、わたしなりの努力をしてきました。

問答名人さんが管理される当掲示板を、わたしが「現代のサンガ」と評したこの場に、昨年の日教研の発表以降、活発なご投稿をくださり、また、オフ会でも研究を惜しみなく発表くださる彰往考来さんに、改めて敬意を表し、御礼申し上げるところです。

1489犀角独歩:2005/10/23(日) 15:55:33

1487 小池さん

> 曼荼羅で、四大天王…「玉」

この点を記した日蓮の真跡遺文は存しなかったと思います。
しかし、日蓮の筆法のおいて、たとえば、漫荼羅図示では特に付点は重要な意義を持つようであることは相伝文から窺えます。

「点を王に必ず打ち給ふ心如何、師の曰はく法華は諸経中王の故に大王の故に、小王の時は此の点無し、大王経の眷属の故に・又守護なる間点を打ち加へ給ふなり」(御本尊七箇相承)

> …不動・愛染明王…曼荼羅に書する意味
> …梵字で書している意味

この点もまた、まったく真跡遺文には見られません。
相伝文等に載るばかりです。

「梵字は不動愛染に限る事何の意有りて遊ばざるるや、師の曰はく西天より梵字を三蔵等将来して和漢の二字と成す目前なるものなり、我が仏法も亦復是の如し遠沾の翻訳仮字を梵漢に通ず可き先兆なり」(同)

1490小池:2005/10/23(日) 16:54:06
独歩さん

大変ありがとうございました。
「曼荼羅」と記さず、「漫荼羅」と記すことが日蓮の特徴ですが、うる覚えなので間違っていたら失礼しますが、123幅のうち確か初期の一幅が曼荼羅で残りは全て漫荼羅と記していたかと…。「漫」は当て字なのでしょうね。

1491犀角独歩:2005/10/23(日) 17:08:09

小池さん

> うる覚え…

これはご自身で確認なさってみてください。
以下サイトでは、山中師の備考も載っています。

Nichiren Shonin Gohonzon Shu
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

> 「漫」は当て字なのでしょうね。

これは仰る意味がわかりません
マンダラとは、mandala ですから、音写に宛てた字の違いで漢字自体に意味があるわけではないと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A9

先に彰往考来さんがご引用なさった『日蓮聖人真跡の世界 上』では「聖祖は、大漫荼羅、大曼荼羅、あるいは大曼陀羅、大漫陀羅など種々の表記を用いられている…御本尊の御讃文にもっとも多く用いられ、しかも晩年になって定型化した『大漫荼羅』」(凡例 xvi)となっています。

これもまた、上記、サイト、また、真跡遺文からご自身でお調べになってみるとよいと思います。

1492小池:2005/10/23(日) 17:28:28
独歩さん

大変ありがとうございます。
不勉強ですみません。よく拝見してみます。

1493彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/23(日) 22:26:55

>1487 小池さん

すでに犀角独歩さんが答えておられますし、回答になるか解りませんがとりあえず記します。

不動・愛染の二尊を梵字で書いている件については、正長2(1429)年の日杲授本尊聞書(妙本寺文書151号:『千葉県の歴史 資料編 中世3(県内文書2)』平成13年、千葉県、242頁)に

「本尊皆漢字也、何不動・愛染ノ二尊ヲ梵字ニ書耶、被云、大師悉旦梵字知ル故ニ梵漢ニ通義顕給也、」

とあります。本尊は皆漢字であるが、不動・愛染の二尊を梵字で書いているのは、蓮祖は梵語にも明るいので広くインド、中国に通じるという義である、といった意味でしょうか。

おなじ内容(但し、書き下し文)が「本尊三度相伝」(『富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部』(昭和52年3刷(初版昭和49年)、創価学会、39頁)にあります。

また、玉の字については、「御本尊七箇之相承」(『日蓮宗宗学全書 第二巻 興尊全集興門集』(昭和43年(初版昭和34年)、山喜房佛書林、42頁)に記載があります。
「點ヲ王ニ必打給心如何、師ノ曰、法華ハ諸經中王ノ故ニ大王ノ故ニ、小王ノ時ハ此ノ點無シ、大王經ノ眷属ノ故又守護ナル間点(引用者注:「點」ではなく「点」ですが原文のママ)ヲ打チ加ヘ給フ也」
点を王に打つのは、法華経は諸経の王、大王であるためであり、小王の時には点を打たない、大王の眷属であって守護されるために点を打つのである、といった意味でしょうか。

おなじ内容(但し、書き下し文)が「御本尊七箇相承」(『富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部』(昭和52年3刷(初版昭和49年)、創価学会、31頁)にあります。

参考までに他門流では康正3(1457)年の「本尊相傳事」(『身延山久遠寺蔵版『本尊論資料』新訂版』昭和53年新訂複製版(初版昭和42年:原本初版明治42年)、臨川書店、6頁)に、
「四天王ノ々ノ字ニ點ヲウチテアソハシタル事ハ如何トナレハ先ツ事相テイヘバ祏蘄ノ點也落居ハ王頂ノ玉ナレハ法華ノ實体ヲ顕シ玉フ也而ニ王ノ字ニ點ヲウチテアル証據ニハシヤウギノ駒ノ王玉ヲ出スヘキ也」
とあります。将棋の駒に王、玉とあるのが玉と打たれている証拠ということのようですがちょっと意味不明です。
これらの解釈は後世に成立したものと思われます。なぜなら蓮祖の御書にはこのような記述はありませんし、「梵漢ニ通義顕給也」は、御義口伝の「南無妙法報蓮華経の南無とは梵語・妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり」(『日蓮大聖人御書全集』昭和46年67刷(初版昭和27年)、708頁)とある考え方に通じるものがあるからです。
本当のところは私にはなぜそうなっているのかよく解らないのです。解釈はどうあれ、蓮祖は御本尊に玉と梵字を使用されていたという事実があるということだけなのです。

1494犀角独歩:2005/10/24(月) 10:10:09

『本尊相伝事』ですか。なるほど。この引用もありですね。

以下のような記載があります。

・御本尊ノ點ノ習イ
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=13&amp;ITYPE=0

・四天王ノ々ノ字ニ點
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=15&amp;ITYPE=0

彰往考来さん、「祏蘄ノ點」の‘祏’は[示*右](祐)ではないでしょうか。

1495彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/24(月) 20:14:52

>1494 犀角独歩さん

>「祏蘄ノ點」の‘祏’は[示*右](祐)ではないでしょうか

これはご指摘のとおりでした。
なお、1493で原本初版明治42年としていますが、

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049288&amp;VOL_NUM=00000&amp;KOMA=140&amp;ITYPE=0&amp;L=0

では明治41年になっています。印刷者も異なるのです。おそらく私が所有している臨川書店の復刻版の奥付が別のものとすりかわっているのではないかと思います。

1496犀角独歩:2005/10/25(火) 01:56:45

彰往考来さん

> 奥付が別のものとすりかわっている

ほお。そんなことがあるのですか。
新鮮な驚きがあります。

1497彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/25(火) 06:47:21

>1496 犀角独歩さん

この本の奥付は書籍名がありません。そのため、奥付だけをみた場合、どの本の奥付なのかわからないのです。
そのため復刻版作成の際に編集ミスがあったのではと推測しています。
まれに書籍名など必要事項を欠落した奥付があるのですが、それがこのような事態を引き起こす遠因と思います。出版されるかたはプロですからプロとしての自覚を持って編集していただきたいと思います。
出版元には回答いただけるかわかりませんがとりあえず問い合わせる予定です。

彰往考来

1498犀角独歩:2005/10/25(火) 07:19:00

彰往考来さん

> この本の奥付は書籍名がありません

今回、『大崎学報』を瞥見したわけですが、この奥付には通号、また書名表示がないのです。立正大学情報センターに蔵されているものは数号ずつまとめた復刻版なのですが、そのため、しばしば、違う号の奥付と間違えそうになりました。

1499小池:2005/10/25(火) 08:57:36
1493 彰往考来さん

お礼が遅くなり失礼しました。
大変ありがとうございました。

1501犀角独歩:2006/04/02(日) 11:01:06

『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』(724〜726)から、こちらに移動します。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/725-727

ご投稿は大変に興味深い内容です。明治44年発刊の熊田葦城著『日蓮上人』掲載の彫刻本尊写真は、すでに弘安3年5月9日の日禅授与漫荼羅の相貌特徴を有しています。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

また、他の伝聞では、彫刻本尊は正本堂移管の際に、腐朽した部分があったといいます。

ご投稿内容が、事実であった場合、彫刻は、明治年間には既に日禅授与漫荼羅を原本とし臨模・作為されたものであったこと、昭和20年前後に腐朽し、さらにまた、日禅授与漫荼羅を原本とし修繕されたこと、さらに昭和40年代には再び腐朽し、またまた赤沢朝陽がその修繕を請け負ったということになります。

ただ、わたしの曾祖父母・父母は、昭和21年に東京大空襲という戦災に遭っています。その模様は、親からも叔父叔母達からも繰り返し、聞かされてきました。町を焼き尽くした戦火の勢いは凄まじいものであり、隅田川の水面を炎が這い走り、水中に避難していた人まで焼き殺したと謂います。法道院所蔵日禅授与漫荼羅は焼失を免れたのでしょうが、彼の猛火の隅田川付近で、土中とはいえ、被害に遭うとすれば、腐朽より、焼失、炭化といったようなことのほうが、先に思いつくのは、その地域に暮らしていた親類をもつ身上からです。しかしながら、その情報が虚偽であると申し上げるものではなく、情報として認識させていただきました。

1502犀角独歩:2006/04/03(月) 00:10:43

おっと、間違えました。東京大空襲は昭和20年でした。

1503彰往考来(しょうおうこうらい):2006/04/03(月) 07:11:27

>1501

戒壇本尊写真を法華講員が御守り替りに所持していたという件については下記の話があります。

「辻(引用者注:辻武寿参議会議長) 愛別(引用者注:北海道上川郡)の法宣寺さんといえば、こんな話もあった。この件は北海道の野村さん(野村光雄北海道副総合長)が詳しいから、ご本人から直接話してもらおう。
―どういう問題だったんでしょうか。
野村 実は戦時中、愛別村から戦地に行った法華講員に、お守りとして、名刺ぐらいの大きさの御本尊の写真を渡していたことがあるんです。これは八木住職(引用者注:八木直道法宣寺住職(当時))と深いつながりのあった小笠原慈聞が、持ってきたもので、信心も教えず、勤行も教えず、お札みたいに当時二円の御供養でみんなに配っていたんです。
―そんなことがあったんですか。小笠原といえば、戦時中に軍部と結託し、神本仏迹論を唱えた人物ですね。
野村 そうです。昭和二十九年ごろ、戸田先生が北海道に来られたとき、そのことを報告したんです。私も戦前は法華講員だったもんですから、その写真の御本尊を持っていたんです。それをご覧になった戸田先生は、メガネをはずし、顔を写真にすり付けるようにして、じっと見られて「これはどこから出てきたんだ。本当にもったいないことだ」と言われたことを今でも鮮明に覚えています。そのご様子に私は、これは戒壇の大御本尊の写しではないかと思ったんです。
―えっ、一閻浮提総与の大御本尊様を写真に撮って、ですか。
辻 そう。戸田先生もあまりのことにどれほど悲しまれたことか。宗門の御本尊に対する考え方は〝信心〟ではない。もっと話したいけど、今回は、このぐらいにしておこう(笑い)。
(後略)」(『大白蓮華[1992-3]特別号②』平成4年、聖教新聞社、62頁)

なお、『地涌からの通信26』(1993年、はまの出版、206頁)には上記『大白蓮華[1992-3]特別号②』の「実は戦時中〜配っていたんです。」の箇所を引用しています。

1504犀角独歩:2006/04/03(月) 08:07:06

> 1503

「この話はまったくのでっち上げだ、ウラが取れない」というその筋の人もいます。
それにしても『大白蓮華』という創価学会公式の月刊誌に、辻武寿参議会議長・野村光雄北海道副総合長という実在の学会幹部が話し合ったことを対談として載せているわけですから、創価学会の公式発表という、「大石寺の」ではなく、「創価学会発表」としての資料性を有していることになりますね。

上述のでっち上げだと言った人は、「現物を持っている人が誰一人いない」というのが、ガサネタであるという根拠なのですが、しかし、この記事では、北海道の副総合長である野村氏は「その写真の御本尊を持っていた」と発言しているわけですね。
わたしが興味があるのは、では、今でも持っているのか、持っていないとすれば、その後、どのようにしたのか、捨てたのか、焼いたのか、寺に納めたのか、学会に納めたのか等、考えられるわけです。
「持っていた」は過去形でしょうから、何らかの形で処分したのでしょうか。

なお、宗門の信心を云々し「二円の御供養でみんなに配っていた」などと嘆いているわけですが、日寛本尊を写真製版して縮小して携帯本尊とか言って5000円で頒布している創価学会は、端から見れば五十歩百歩、目くそ鼻くそを笑うの類としか思えません。

まあ、いずれにしても、野村氏に再度、登場してもらい、後日談、2円名刺写真本尊の処分の顛末を語ってもらいたいものです。

1505ニセ本尊:2006/04/04(火) 22:59:46
おや、わたしの投稿(昭和の板本尊伝説)は消されたのですね。
何故でしょうか?

ウィキペディアの大石寺のノートを参照してください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

>>1502
東京大空襲は、昭和20年3月、某寺院は、法華講員の手により、
本堂や庫裏は、類焼をまぬかれたという話です。
大空襲の後は、空襲は、ほとんどなかった、と聞いています。

某寺院へ行けば、いまでも生き証人がいるでしょう。

1506ニセ本尊:2006/04/04(火) 23:12:07
昭和の板本尊伝説は、しかし、板本尊を誹謗中傷する目的のでっち上げではない。
それどころか、古参の法華講員が、若い講員に対して、「物信仰」に陥らないように、
指導するときに話す内容なのだ。

つまり、「750年前の真筆で無ければならない」という発想は、根本から間違っているということだ。

某寺院の法華講の伝統は、板の真贋には関わらない、議論しない、というポリシーである。
それは、即物的なものの考え方が、ややもするも、判断を誤らせることになるからだ。

1507犀角独歩:2006/04/05(水) 00:39:20

ニセ本尊さん

本来ならば、管理人さんがご指摘なさることだと思いますが、あなたの投稿は消えていません。スレッドが違います。
あなたが投稿したのは『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』(724〜726)で、ここではありません。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/725-727

また、仮に、当掲示板は、彫刻を批判したからといって削除されたりしません。
そんなことで削除されるのであれば、わたしの投稿はとうに消えていますよ。

まあ、一点指摘すれば「即物的なものの考え方」とは、まさに板漫荼羅信仰そのものを指すことですね。そんなことは言いつくろうが何しようが、器物崇拝というモノ礼拝から一歩も出ません。

1508ニセ本尊:2006/04/05(水) 06:41:19
おお!大変失礼しました。

1509れん:2006/04/07(金) 12:49:40
以下は、柳澤宏道師の「石山本尊の研究」における大石寺彫刻本尊の座配図が正確であればという前提にて、備忘・参考までに記すことです。
現彫刻本尊の首題・四天王・不動・愛染は、犀角独歩さんの著書によるご指摘にあるように、日禅授与漫荼羅からのものですが、目を勧請十界諸尊に転じますと、柳澤師の座配図によれば迦葉尊者を「南無迦葉尊者」帝釈天を「釈提桓因大玉」と記入しております。
立正安国会の日蓮大聖人御真蹟御本尊集収録の日蓮聖人御筆漫荼羅を拝見しますと、「釈提桓因大玉」の表記は弘安二年十一月日図顕の六九番を初見とし、南無迦葉尊者と記すのは、八二番を最後とし、八一番の所謂臨滅度時本尊以降は迦葉が勧請される場合は「南無大迦葉尊者」の表記で統一されています。
柳澤師による彫刻本尊の座配図における帝釈と迦葉の表記に注目しますと、彫刻本尊の十界諸尊の表記の特徴は弘安二年十一月〜弘安三年三月までの蓮祖図顕漫荼羅の特徴を有していると考えられ、迦葉・帝釈の表記から、柳澤図が正確であればという前提ですが、十界諸尊については、日禅授与漫荼羅(この漫荼羅における迦葉の表記は南無大迦葉尊者)とは別の、弘安二年十一月〜弘安三年三月の間に蓮祖が図顕した大漫荼羅に拠っている可能性があると思います。
十界諸尊とくに迦葉・帝釈の表記から見ましても、弘安二年十一月を上限としますので彫刻の腰書きに記される「右…十二日」の記述と漫荼羅本体から推定される原本の図顕年月日が全く相違して噛み合わないので、右…十二日の腰書きは全く後世の作文であることが分かります。
現彫刻の首題・四天王・不動・愛染は弘安三年五月九日付けの日禅授与漫荼羅から、その他十界諸尊は迦葉・帝釈の表記から見れば原本は不明ながら原本の漫荼羅は弘安二年十一月を上限・弘安三年三月を下限とすると云えます。それプラス腰書き…。
やはり、現大石寺彫刻本尊は寄せ集めモノの感が在りますね。

1510犀角独歩:2006/05/10(水) 23:24:17

所謂「本門戒壇の大御本尊」と称する彫刻に就き、過去に公開していた廃止HPから転載した大判の同写真を、再度、アップいたしました。

彫刻真偽を考える材として頂ければ幸甚です。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/_geo_contents_/kaidanmandara/kaidanmandara.html

1511波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2006/05/14(日) 13:48:56
犀角独歩さん、ご無沙汰しています。

どうやら年内か、1年以内ぐらいに創価学会が戒壇本尊偽作論の新説を
出すようです。

私は紙幅の正書写御本尊がその鍵を握ると思っていましたが、どうやら
そうではないようなんですよ。

キリバリしているのでは?という推測は過去からありましたが、どうやら
キリバリした御本尊のオリジナルが暴かれるのではないか?というお話
なんですね。

どうやら紫神殿本尊なんてぐらいのものではないようです。

1512犀角独歩:2006/05/15(月) 08:49:54

> 1511

興味深い情報、有り難うございます。

1513:2006/05/19(金) 15:45:52
釜ハキリ、くそみたいなネタ話をまき散らすのは2ちゃんだけにしとけ。

1514:2006/05/19(金) 15:52:37
追伸
富士門の方々お騒がせしました。この釜の言うネタ元はとある学会崩れの脳乱者がさもありげな絵空事をもっともらしく書いただけです。

1515犀角独歩:2006/05/19(金) 23:33:07

> 学会崩れ

とは、顕正会が、わたしを侮蔑した言葉と同様の造語です。
内容の如何に問わず、投稿者に侮蔑的な言辞を吐くような在り方は、他者を批判することは、常識に違反し、かつ、当掲示板の投稿ルールに違反します。
しかしながら、それはただちに斯かる投稿内容を、わたしがただちに信頼するということでもありません。他の情報を照らし合わせ勘案してみようと思うばかりです。

1516ひきこもり:2006/06/08(木) 22:23:32
>>1510
怖い!です。

今御本尊に唱題している私には、怖いです。

1517ひきこもり:2006/06/09(金) 02:08:34
信心が根本です。
唱題根本で行きましょう!
本門の戒壇の大御本尊を拝見致しました(涙)。

富士門流の信徒はみんな唱題根幹で行きましょう。

1518犀角独歩:2006/06/09(金) 05:09:02

石山の彫刻は、わたしは何百回と見ました。
しかし、これは日禅授与漫荼羅を原本と、臨模・作為された模造品です。
信心をするならば、本物を拝みましょう。

何故わたしが、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1519ひきこもり:2006/06/10(土) 15:52:04
創価が大御本尊を否定して、宗門の碩学の方が大御本尊を否定されるのでは困ります。
過去の創価の出版物は全て無効になり、戸田先生自体が否定されてしまいます。今御本
尊に向かう時、昔の日寛上人の御本尊に向かう時、その法会写しの時の大御本尊が偽作
であったならば、もう創価の教義は根本から覆されることになります。

「いかなるものも妙法の当体であって、拝むものは何でも良い」これを創価は「折伏教
典で非難しています。日蓮正宗の大御本尊以外には救済は無いと言うのです。ではこの
大御本尊が偽作であったならば、もう駄目ですね。もう唱題する気が起きません。最近
は鬱状態です。

戸田先生の著作や講演集の通りならば、現在の創価はかなり違います。時代によって変
わるのが当然ですけれども。

1520問答迷人:2006/06/10(土) 16:13:45

ひきこもり さん

戒壇板曼荼羅を日蓮聖人が建立されたのでないことは、既に明らかだと思っています。日蓮正宗や創価学会が、日蓮聖人の教えで無い物を、日蓮聖人の教えで有るかのごとく宣伝した事は否定されるべき事です。しかしながら、それは元々日蓮聖人の教えとは違っていたのですから、戒壇板曼荼羅が偽物でも、日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではないです。何か混同されていませんか。

1521独学徒:2006/06/10(土) 17:01:24

ひきこもりさん、はじめまして独学徒と申します。

創価学会や正信会はどこかで謝罪を含め、教義的な総括とリセットが必要だと感じます。
特に創価学会はその時々の情勢で、ころころ主張を変えて、過去の主張との矛盾にそっぽを向いて知らん振りでは、多くの活動会員を抱える教団としては、あまりに無責任だと思います。

本門戒壇之大御本尊についてですが、最初から偽物と思っていた人は、おそらくここにはいないと思います。
管理人さんも、犀角独歩さんも、受入れがたい事実を受け入れ、そして今日があると思います。

是非1518でご紹介の論考をご覧下さい。

1522ひきこもり:2006/06/11(日) 20:50:30
問答迷人さん、独学徒さん、レス有り難う御座います。
私は最近鬱状態になり、仕事にも支障が出て来ています。創価畑の私にとって、大御本尊を
否定されることは死刑判決を受けることと同じですから。

独学歩さんのの言う通りですが、そうしたら退転、脱会者が続出しますし、自殺者まで出ま
すよ。正本堂建立のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?

1523独学徒:2006/06/11(日) 21:38:29

ひきこもりさん、

鬱状態とのこと、お見舞い申し上げます。
今はごゆっくりなされる時かと思いますので、先の私の投稿が、不適切であったならば謝罪します。

体調がもどられましたら、またゆっくりとお話したいと思います。

1524犀角独歩:2006/06/12(月) 09:54:27

わたしが極度の神経症で倒れたのは、26歳の時でした。52年度路線も終息し、石山・学会の和解も成立した頃でした。わたしの大学時代は、まさにこの宗創問題のまっただ中でした。「絶対に正しい先生」と「唯授一人猊下」の両方が正しいの、その二人がいうこと、やることが根本的に気付いていったものでした。その差が決定的であることがわかっていくなか、また、松山俊太郎師の『蓮と法華経』が載る『弟三文明』、また、仏教界の碩学の論文が載る『東洋学術研究』をくまなく読んでもいました。

安永弁哲師の『板本尊偽作論』を初めて読んだのが、その反駁書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』を記した日達氏三回忌の年、ここからわたしの闘病生活がはじまりました。

この病の原因は、やはり、宗教の根本問題を徹底追究していたなかでの、心が壊れたのだと思います。その根治こそ、実はわたしの脱カルトの体験でした。同じ被害者を二度と増やさないために、いまのわたしの社会活動があり、日蓮の教学と石山の彫刻本尊への再考がありました。

彫刻本尊が偽物であれば、多くの脱会者と、自殺者すら出る。自殺者が出たかどうか知りませんが、大量の脱会者が出たことは事実でしょう。

昭和後期の『宗教年鑑』を見れば、日蓮正宗創価学会は1650万人信徒を自称していました。それがいまでは学会は1000万票が獲得できないわけです。法華講に至っては数10万規模まで凋落しています。

先に著学者の話を聞いたところ、実際の創価学会の活動者数は300万人を割っているというのが大方の分析であることを知りました。要は日蓮正宗創価学会は分裂し、そのうえで、東京都の人口に匹敵する脱会者を出したということです。

わたしの恩人、宗教病理学の専門家である精神医・高橋紳吾師はPMCS(Post Mind Control Syndrome = 脱カルト後症候群)の提唱者として知られ、JDCC(日本脱カルト研究会)の初代代表理事も歴任しました。

この師こそ、わたしを医学と仏教の側面から診療、カウンセリングした仁でした。元龍谷大学に学び、仏教を極めるために精神医学の知識が必要であると志して、精神科医となり、宗教病理学を研究した人でした。また、共にカルト問題を闘った先駆者でもありました。

わたしが石山彫刻の真偽を言うのは、以上のような自分史を背負ったうえでのことです。二度と同じ苦しみを味わう被害者を出したくない、自分が人に勧めてしまった本尊と教義の実態を自らの手で再考し、その真実をこの世に遺すこと、いま、苦しんでいる人に救いの手をさしのべること、これがわたしの信念であり、いわば、わたしの信・行・学です。

そもそも創価学会では、間違った本尊によって、人は不幸になると説いてきたわけです。もし、脱会者・自殺者が出るとしたら、その原因は間違った本尊、すなわち、模造の偽本尊にこそ、その原因があることになるでしょう。

『苦悶の選択』とは、過去半世紀の信仰と教義、本尊の実態を暴き、その確執から真実を選択する苦しみを表したわたしの標語です。

事実を選択することは、限りない苦悶を経ます。しかし、それこそ、真実に至る避けることのできない道程です。それはまた、幻想から事実への回帰する禁断症状なのかも知れません。

1525彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/12(月) 13:45:17

>1522 ひきこもりさん 横レス失礼します。

ちょっと冷静に考えてみましょう。
もし、自分の親が国を売るスパイであることを知ってしまったら? 子供である貴方はどうするでしょうか?
そのまま偽善のような生活を続けるか、警察に通報するかでしょうね。
親族であれば、どちらの道も有り得るでしょう。ここで私は偽善のような生活といいましたが、幸せな生活なのかもしれません。でもそれは創価学会の今月の座談会御書で問われた絶対幸福と相対幸福の違いみたいなものでしょう?
私はどちらを選択するかを問うているのではないのです。どちらも有りと思います。人それぞれ立場が異なります。
でも私であれば、きっと断腸の思いで通報するでしょうね。実はこれは海外の実話で、通報された親は逮捕の際に子供に感謝の言葉を伝えたということです。(出典は忘れました。どなたかご存知であれば教えてください)

>正本堂建立のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?

「正本堂建立のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?」という問いかけは戒壇本尊の真偽問題にはそぐわないですね。なぜならその正本堂はすでに解体されてこの世に存在しないのです。これをいうなら正本堂を解体した人にいうべきでしょう。戒壇本尊の真偽とは別問題です。
そうではなくて「戒壇本尊のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?」というのが本来あるべき問いかけです。命の底からの叫びかもしれません。私も、「戒壇本尊のために命を削って働いて供養した人達は、どう報われますか?」という内容の問いを日蓮正宗に、創価学会に問うているのです。そしてそれはこの掲示板に参加している人たちのひとつの目的というか気持ちであると考えます。

>退転、脱会者が続出しますし、自殺者まで出ますよ。
同じことを、創価学会が日蓮正宗と別れるときに言われました。でも別れました。理由はどうあれ、毅然と対応する時はありますね。戒壇本尊は後世のものです。蓮祖当時のものではないという現実を直視して、それからどうするかが大切だと思うのです。
今、創価学会は変わりつつあると私は感じています。今日明日には無理かもしれませんがいずれ、戒壇本尊から脱却する時代が来ると信じています。そうでないと、22世紀まで続く創価学会は有り得ないと思うからです。すでに創価学会の座談会出席者の半分程度は戒壇本尊を見たことがない人たちです。創価学会内では(少なくとも私の廻りでは)戒壇本尊などもはや話題にものぼりません。創価学会会長は未だホンモノといっているようですが、このような時代感覚のない人はそのうちクビでしょう。すでに大白蓮華の巻頭言も秋谷会長から池田名誉会長に代わっていますしね。

私は戒壇本尊が後世のものであるとは言っていますが、信仰の対象ではないとは言っていません。それとこれは別問題です。ですが、蓮祖の御真筆である、弘安2年の作である、などというのはお止めなさいと言っているだけなのです。そのために膨大な史料と日々格闘して考証しているのです。そして問答迷人さんがおっしゃっているように戒壇板曼荼羅が偽物でも、日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではない、ということなのです。

1526彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/12(月) 18:00:40

>1524 犀角独歩さん
>昭和後期の『宗教年鑑』を見れば、日蓮正宗創価学会は1650万人信徒を自称・・・それがいまでは学会は1000万票が獲得できない・・・実際の創価学会の活動者数は300万人を割っていると・・・要は日蓮正宗創価学会は分裂し、そのうえで、東京都の人口に匹敵する脱会者を出した

この統計処理はちょっと変ですね。1650万人−300万人=1350万人ということでしょうが、根拠とした母数の出処が異なりますので同列で比較できる数字ではないでしょう。そもそも1650万人という数字は相当上げ底ですし、300万人という数字はかなりシビアに捉え籍は置いていても活動していない人を差っぴいた数字と考えられるからです。
もし比較するなら、昭和後期の『宗教年鑑』での創価学会の信徒数と最新版の『宗教年鑑』での創価学会の信徒数を比較するか、300万人を割っているという数字を出した著学者(某学者?著名な学者?)が昭和後期の創価学会の信徒数を何万人と推定しているかを割り出して比較しないとわからないはずです。少なくとも東京都の人口に匹敵する脱会者を出したということはないでしょう。私は昭和後期とそれほど差がないのではと思います。それは選挙での得票数の比較からくる実感です。もちろん数十万人単位での退会者はあったと思います。
正確な統計処理をと言いながら、実感で申し訳けないのですが。

1527パンナコッタ:2006/06/12(月) 19:28:02
横レス失礼します。
300万以下という数字は、活動家が一人一冊持つ大白蓮華の発行部数からの試算ではないでしょうか。

1528今川元真:2006/06/12(月) 19:30:54
私も横レス失礼します。 ひきこもりさん、私は板漫陀羅を見ていないせいか漫陀羅は修行の道具と割り切る事ができました。其れと「身延」には『唱題の信・学・行』が21世紀の鍵になるのでは無いかとかメールしました。「学会」には『信・学・行、其れぞれ一人前で三倍』とメールします(戸田城聖さんが知力・体力・時の運で、三倍と考えていたのか解りませんが)。 家の外を見れば、透百合やら菖蒲やら紫陽花やら小薔薇やらブラシの木(日本原産で無い花もありますが)が花を咲かせてます。「信じる心」とは何も日蓮正宗の保持する「板漫陀羅」だけにあるのでは無いのでは無いでしょうか。冷静に考えて「身延の遺骨」もしくは「日蓮正宗の板漫陀羅」に『日蓮大聖人の魂魄』が宿るなら、貴方自身が命を懸けて確認しなければ貴方の修行方法が間違いである事を認めざるを得ないと考えるのですが如何でしょう。貴方が「戒壇の大御本尊」を信じて仰ぐ理由は何ですか?

1529犀角独歩:2006/06/12(月) 22:26:41

彰往考来さん

わたしは宗教年鑑の1650万人が底上げをした数字であるというより、統監上の名簿上の人数だろうと思います。それはつまり、入会即脱会という数字を含んでいるでしょう。

彰往考来さんがご存じないはずはないと思いますが、昭和42年の正本堂供養者名簿は実名で800万人でしたね。

わたしが退転といったのは、創価学会と接触した人数は以上の経緯からすれば、東京都人口に匹敵する人数というのはあながち外れた数であるとは思いません。
実際創価学会は、正本堂供養の際、舎衛の三億を達成したという口上で750万世帯でしたか。これは1世帯4人見当であろうと想像できます。当時の日本人口が1億人ですから、その3分の1といえば、3000万人ということになります。
この数が架空であると暴露したのは福島源治郎でした。

昭和後期の1650万人は底上げではなく、退会・没減を含まない統監数でしょう。つまり、まがりなりにも創価学会に縁した人数ではないでしょうか。


パンナコッタさん

これが、ところがそうではないんですね。
投票数からの試算のようでした。

1530犀角独歩:2006/06/12(月) 23:30:59

彰往考来さん、補足です。

数字統計に関しては、わたしの反論は反証されるかも知れませんが、しかし、

> 日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではない

これは違います。日蓮の教えは、間違っています。
検証居士さんもご指摘になっているとおり、妙楽絶対主義に立っているわけですし、天台も踏襲しています。また、法華経が釈迦が説いたものであるしていますし、自分が生きた時代を末法だといったことでも間違いだらけです。

しかし、ただ一つ、日蓮が善意と熱意の人であったという精神面…メンタリテ、スピリチュアリティ…という点では、嘘はなかったというほうが適切であると、わたしは思います。

1531犀角独歩:2006/06/12(月) 23:32:17

打ち間違えてしまいました。

誤)検証居士さん
正)顕正居士さん

謹んでお詫び申し上げます。

1532ひきこもり:2006/06/13(火) 00:01:57
>>1530
>日蓮の教えは、間違っています。
これは信仰者としてあるまじき言葉です。
私は高等部の時に学生部の夏期講習会に参加した時には、25歳の東大大学院生の
人でした。学生部長は先生から「お前は御本尊を好きで好きでたまらないと言うよ
うになれ」と言われたそうです。私も唱題が少ない時には仕事が捗りませんが、唱
題ができる時には仕事が捗ります。
独歩さんが、東大出かは分かりませんが、日蓮大聖人否定の言葉はどうかと思いま
す。あの津田学生部長は東大大学院生、福島源治郎も東大出です。独歩さんも東大
出かも知れませんが、それで幸福になれないのでは困ります。

1533ひきこもり:2006/06/13(火) 00:07:13
誤)私は高等部の時に学生部の夏期講習会に参加した時には、25歳の東大大学院生の
  人でした。
正)私が高等部の時に学生部の夏期講習会に参加した時には、学生部長は25歳の東大
  大学院生に津田さんでした。

1534乾闥婆:2006/06/13(火) 00:44:49
ひきこもりさん。横から失礼いたします。

>>日蓮の教えは、間違っています。
これは信仰者としてあるまじき言葉です。

本門戒壇の大御本尊が偽物であったことよりも、蓮祖の教えが誤った事実に基づいていたことのほうが、私にはずっとショックでした。子供のころから自分を支配していた絶対的な教えが崩壊し、私もまた十年来のうつ病に(波はありますが)苦しんでいます。本門戒壇の大御本尊は物体に過ぎませんが、教義は心の襞に密接に食い込んでおり、この崩壊は自身の精神状態を酷く荒ませております。何度も仏教学ではなく信仰として蓮祖の教義を捉え直し、自身の精神を立て直そうとしてきましたが、一度知ってしまった事実は、容易に私を信仰へとは向かわせてくれません。

1535顕正居士:2006/06/13(火) 04:52:26
様々な宗教思想家は正しいことを信ぜよとはいっても、疑わしいことを信ぜよとか、誤ったことを信ぜよとは
言っていません。日蓮もそうです。つまり、正しいことか、疑わしいことか、誤ったことかを信じる前に判断を
せよといいます。誤ったことなら、その信仰を捨てよといいます。釈尊の金言であっても誤ったことなら捨てよ
という。正しいことか、疑わしいことか、誤ったことかを判断するのはどこまでも自分なのです。だから信じる
ことは少なくともその時代の学問に照らして正しいことの範囲でなくてはなりません。

1536彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/13(火) 07:37:26

>1529-1530 犀角独歩さん

そもそも論からいうなら件の『宗教年鑑』の数字そのものが実体を表していません。『宗教年鑑』での各宗派の信徒数を足すと確か日本の人口の2倍以上になるはずです。これはあきらかに相当数の重複を含んでいるからであり、統計学的にみて信用できるものではありませんのでこの数字を使った議論は不毛の論理になりかねません。エンジニアの世界ではこのような重複を含むデータは使用できません。重複率が一定ではないはずですので、係数をかけて数字を補正することすらできないからです。
ま、しかし犀角独歩さんのおっしゃる
>創価学会と接触した人数は以上の経緯からすれば、東京都人口に匹敵する人数というのはあながち外れた数であるとは思いません
というのは、かなり的を得た話であろうと考えます。ただ創価学会の信徒数は世帯数からの割り出しであると思われることから、例えば一家4人の中で一人だけ入会していても4人とカウントされるのであれば、残りの3人は広い意味で創価学会に縁したとは言えますが、その人を退転とは言えないでしょう。そもそもその3人は入会していないわけですから。もっともそれを広い意味で退転とおっしゃるのであれば、それはそういうことです。
ホントは実体は解らないというのが正直なところですね。

>日蓮の教え
これは判断が難しいです。現在の科学からいうなら竜門御書などナンセンスということになるわけですが当時の科学知識で書かれているわけでその内容が誤りであるから日蓮の教えが誤りということではないはずです。1535で顕正居士がおっしゃっていることに尽きるのではないでしょうか。私自身は少なくとも宗祖の御本尊は信じています。ですから現在も信仰を続けているということです。

1537犀角独歩:2006/06/13(火) 07:59:38

ひきこもりさん

わたしは別に東大出ではありませんが、日蓮の教えが間違っていることはわかります。

もし、それが正しいというのであれば、あなたはここで説明すればよろしい。

わたしは、過去5年間、日蓮がどのように間違えたのかを検証してきました。
その一切に反論すればよろしいわけです。

日蓮は、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていました。
しかし、実際は、法華経は西暦前100年から西暦後150年の間に創作されたものでした。ここで日蓮は間違えました。
日蓮は、自分の時代を釈迦滅後2000年から2500年の間であると信じていました。しかし、実際は2000年を経ていませんでした。ここでも日蓮は間違えました。
日蓮は、経典の一切を釈迦の謹厳であると信じていました。しかし、実際はそれは後世の創作でした。ここでも日蓮は間違えたわけです。

日蓮が基礎にした天台の教えは、以上の点を踏まえたうえに構築されたものですから、間違っています。

つまり、日蓮が釈迦の教えであると思ったものは釈迦の教えではなく、その釈迦の教えでないものによって構築された天台の教えも間違っていたわけです。それを基礎にした日蓮の教学は当然間違っていると言わざるを得ません。

しかしながら、日蓮は鎌倉という時代において、本人ができる限りの情報収集と思惟によって、その教学と本尊、そして修行を確立していったわけです。この日蓮の姿勢は、当時出来る最大限の努力であり、そして、その思惟も行動も、わたしは善意に基づいたものであると信じます。わたしは、その日蓮の方法論と善意の行動を信仰しています。日蓮が扱った資料が間違っており、そのためにその結論が間違ったものになっていたにせよ、その日蓮の善意に基づく行動と思惟は間違っていません。わたしは、この部分を信仰しています。

故に日蓮が採った方法論で、現代、わかり得る事実によって、それを再考するとどうなるのか、というのは、わたしが言う21世紀の日蓮を考えるということです。

あなたが、わたしが信仰者にあるまじきであるという気持ちはわかりますが、そのようなわたしは批難するのであれば、ここは挙証に基づく議論をする掲示板ですから、日蓮が間違っていない証拠を提示する義務があるということです。証拠をここに提示してください。

わたしの恩人である社会心理学博士・西田公昭師は、以下のように記しています。

「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ。」(『マインド・コントロールとは何か』紀伊國屋書店 P227)

あなたは自分の信仰を、その信仰を否定する人と考えを排除することによって継続しようとしていますが、そもそもその方法が日蓮的ではありません。日蓮は、知り得る確たる情報を駆使しして結論を出す方法を採ったのです。

ですから、日蓮信仰を自負するのであれば、その方法論を採ってここに説明してみることです。

1538犀角独歩:2006/06/13(火) 08:05:00

彰往考来さん

1536の日蓮の教えについては、1537の重複します。わたしがいう日蓮の間違いはここに記しました。また、間違いではなかった部分もここに記しました。

顕正居士さんも、わたしと同様のことを仰っていると思います。

なお、虚数に基づく統監は‘科学的’には、仰るとおり無意味ですが、実際の被害を考えるとき、それを無意味として捨て去ることはできません。

統監に科学的な視点を当てながら、日蓮の教えには科学的な視点を当てないような論調になっておられますよ。

1539犀角独歩:2006/06/13(火) 11:52:48

重ねて、彰往考来さん

> 『宗教年鑑』…統計学的にみて信用できるものではありません

しかし、以下のようなことは言えるでしょう。
創価学会は正本堂供養社名簿として800万人を計上した。次に舎衛の三億の原理を通じて3000万人信徒を暗示した。昭和後期には1650万人信徒を年鑑に公称した。しかし、現在は800万人信徒であると公言している。この数字が一切が虚数ではないとしても、そのような創価学会が言ってきたことは事実です。
となれば、3000万信徒中、800万人の供養で正本堂を建立し、それが1650万人に減り、さらに800万人に減ったと公言しているのは、わたしではなく、“創価学会が発表してきた数字に依る”ところです。800万信徒名簿は実名であったといいますから、これを信頼するとし、また、現在の300万が仮に実数に近いとしたら、やはり、500万人減であるわけで没故者、退転、増加の詳細はわからないにしろ、勢力として激減したことを(それが架空の発表であったとしても)紙背に語ったとことになったということです。

> 4人とカウントされるのであれば、残りの3人は広い意味で創価学会に縁したとは言えますが、その人を退転とは言えないでしょう。そもそもその3人は入会していない

これは、わざとこのような創価学会の統監感覚を偽って仰っているのかどうか知りませんが、1世帯4人というのは平均数を言うわけです。また、もちろんのこと、御受戒をされていない人数を拭くんだ数ではないことは、統監を扱ったことのある人間であれば誰しも知っていることではないでしょうか。

> ホントは実体は解らないというのが正直なところですね。

実態がわからないから被害がないということは言えません。論点はこちらにあります。統計として不確かだから、言えないと片づけることは容易ですが、それは被害者を黙殺する行為になっている点を看過してはならないはずです。


>> 日蓮の教え

> 当時の科学知識で書かれているわけでその内容が誤りであるから日蓮の教えが誤りということではないはずです


そんなことはないでしょう。間違いです。
では、他に例を採って、お尋ねしますが、旧約聖書に書かれる天地創造は、当時の科学知識で書かれたものであるから間違いとは言えないのでしょうか。
太陽は地球の周りを回っていますか。
天地が創られ、まず人間が創られ、それが1週間でなされたというのは、当時の科学知識で書かれたから間違いとは言えないのでしょうか。

先に統監数について、その基礎となるところが不確かであるから信用するに足りないというのが彰往考来さんの論法でしたね。
では、日蓮の教えではどうでしょうか。基礎となるところ(経釈)が不確かであるけれど、自分は信じる。統監と日蓮教えという二つについて、まったく逆転したロジックで論じていませんか。
統監が信用できないのであれば、基礎資料が虚構であった上に成り立つ教えもまた、信頼できないしなければ、ここに整合性はありません。

> 私自身は少なくとも宗祖の御本尊は信じています

これは、要するに上述の統監といった統計を語るときとは裏腹に基礎資料の真偽を度外視して、ということにしかご投稿の意味がなっていないというのが1536の、わたしは記した意味です。

以上の点は「鰯の頭も信心」で大いに語ったところです。
反証は大いに歓迎です。
なお、既に論じてきたように、日蓮が曼荼羅を拝んだ書庫はありません。また、現在、創価学会が言っていることが日蓮その人の教学と似て非なるものであることも論証してきたのが、当掲示板での議論です。

創価学会の信仰とは、偽本尊を拝ませ、日蓮の教学と似て非なるものを信じ込ませるものであるという点でまず違っています。さらに、日蓮は、経典を釈迦の直説であるという神話を信じ、また、その神話に基づいた経典解釈を基礎にしたという点で、二重の過ちを犯しています。

なお、また、「信」ということについては、これまた、先に論攷したとおり、日蓮門下で言われる信仰はバカバットギータの影響を受けて導入されたバクティなのであって、それ以前の仏教とは、ここで改変されていることは既に論証されたところでした。

信じることに絶対的な価値を置くような姿勢は過ちであるというのが、顕正居士さんが

> だから信じることは少なくともその時代の学問に照らして正しいことの範囲でなくてはなりません。

これは現代であれば、現代の学問に照らしてという意味でしょう。
信仰になると統計も科学も無視してただ信じるという彰往考来さんの本尊信仰とは意味を異にしています。「顕正居士がおっしゃっていることに尽きる」と言いながら、まったく逆の態度になっておられる点を不審に思います。

1540西大寺:2006/06/13(火) 15:27:05
> 日蓮は、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていました。
しかし、実際は、法華経は西暦前100年から西暦後150年の間に創作されたものでした。ここで日蓮は間違えました。
日蓮は、自分の時代を釈迦滅後2000年から2500年の間であると信じていました。しかし、実際は2000年を経ていませんでした。ここでも日蓮は間違えました。
日蓮は、経典の一切を釈迦の謹厳であると信じていました。しかし、実際はそれは後世の創作でした。ここでも日蓮は間違えたわけです。

> 日蓮が基礎にした天台の教えは、以上の点を踏まえたうえに構築されたものですから、間違っています。

日蓮を基準にしない、新日蓮教学などと言うのは日蓮の教えに非ず。

①大乗仏教を含めた経典の一切を久遠実成の教主釈迦牟尼仏の説とすれば、
それは応身釈尊の40年説法の間にも、その内容は説かれていたであろうと
する哲学的な推測がなされるのは当然である。未だ久遠の教主釈尊と応身の
釈尊の関係が分らないのならば、法華経の説く哲学等を理解するずもないの
で阿含経だけの仏教をやっていれば良い。

②日蓮は、正法衰退の時を基準にして教えを説いているので、その時点で分
かり得る情報から2000年2500年等としても殊更問題にする必要はない。教義
影響するものではない。これを以て教えも間違っていると考えるのは間違い
である。

③繰り返すが、経典の一切は応身釈迦の教説ではない。日蓮、天台もそのよ
うな浅はかな考えではない。経典の一切は久遠の教主釈迦牟尼仏の謹厳であ
る。

1541西大寺:2006/06/13(火) 15:47:44
開目抄に曰わく「倶舎・成実・律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり。
天尊の太子、迷惑して我身は民の子とをもうがごとし。華厳宗・真言宗・三
論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににたる仏を本
尊とす。大王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。」

三十四心断結成道の釈尊(劣応身)、歴史上の釈尊の立場でしか教主釈尊を
見れない者が、天台・伝教・日蓮の相承した法華経を理解できるはずもなし。

1542犀角独歩:2006/06/13(火) 15:58:41

挨拶もなしに、単に持論を書き捨てていくようなものに一々応答する必要はありませんが、いちおう答えておきましょう。

> 日蓮を基準にしない、新日蓮教学などと言うのは日蓮の教えに非ず

それは、もちろん、そうでしょう。
その意味において、現在、日蓮の解釈教学は、日蓮の教えではないというのは、わたしの主張です。

①大乗仏教を含めた経典の一切を久遠実成の教主釈迦牟尼仏の説とすれば、
それは応身釈尊の40年説法の間にも、その内容は説かれていたであろうと
する哲学的な推測がなされるのは当然

別段、当然ではありません。

> 未だ久遠の教主釈尊と応身の釈尊の関係が分らないのならば、法華経の説く哲学等を理解するずもないので阿含経だけの仏教をやっていれば良い。

法華経の哲学とは、では何でしょうか。
法華経を日蓮が哲学といわないのに、哲学と言うことは、日蓮の教えを基準にしない「日蓮の教えに非ず」ものでしょう。
日蓮の基準であるというのであれば、日蓮が法華経を哲学であるといった基準を上げればよろしい。できますか。

②日蓮は、正法衰退の時を基準にして教えを説いている

これまた、日園の教えを基準にしていません。日蓮は大集經からも後百歳を言うのであって、正法衰退のみを基準しているわけではありません。
これまた、日蓮の教えを基準にしない「日蓮の教えに非ず」の己義です。

③繰り返すが、経典の一切は応身釈迦の教説ではない。日蓮、天台もそのよ
うな浅はかな考えではない。経典の一切は久遠の教主釈迦牟尼仏の謹厳であ
る。

では、反詰しますが、その久遠釈尊とは如何なる仏であると天台、日蓮は言っているのでしょうか。いまの経典は五百塵点に説かれたものではなく、印度応誕の釈尊が説かず、誰が説いたのでしょうか。

また、仮に五百塵点成道釈尊の説であるというのであれば、経典の冒頭に記される「如是我聞」の我とは五百塵点の誰であるというのでしょうか。

そもそも、経典とは、釈尊が書いたものではなく、釈尊が説いたものを弟子が記したという前提の物語です。
また、教典を説くのに、劫・国・名号を記すのが仏の説法です。
いまの経典の一切が久遠釈尊の説法であるというのであれば、その劫・国・名号すればよろしい。
以上の考えは、久遠本知開顕と説法の次第を混同した「日蓮の教えに非ず」己義に過ぎません。

1543犀角独歩:2006/06/13(火) 16:03:31

> 1542

反詰します。
では、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』という五五百歳とは、久遠成道釈尊から数え、いつの五百歳を言うのでしょうか。

仏の本地を述べるのも経典なのであって、その経典の説時と成道を混同するような姿勢は日蓮の基準にはありません。

1545犀角独歩:2006/06/13(火) 18:18:26

【1542の訂正】

誤)日園
正)日蓮

【1543の訂正】

誤)>1542
正)>1541


わたしが「日蓮の間違い」と記したことは、しかし、日蓮一人の問題なのではなく、全仏教徒に課せられた重大な問題点です。
日蓮が経典を釈迦の金言であると思い込んでいたことは紛れもない事実でしょうし、自分が生きた時代が釈迦滅後五五百歳に当たっていたという認識は、『本尊抄』の題号、また、なにより、漫荼羅に書き込んだ讃文からも動かし難い事実です。これらの点を指摘するとき、それを単に排撃することで是とするのは簡単ですが、逆にそのような態度は、逆に世間一般から信頼を失うことは必至であるとわたしは記しているのに過ぎません。
教理的に言い逃れることは、可能でしょうが、21世紀にもなった現在、経典の成立は科学的に論証分析されているのであって、それを排除することはできません。

そもそも久遠仏の説法だという法華経が釈迦滅後500年以上経ってから成立した創作物である以上、その創作仏を採って、500年前の説明に充てることは科学的な論証とはなっていません。

日蓮の教えとは何であるのか、その素描は、まず700年来の偽書と解釈をすべて取り去らなければ、それを垣間見ることはできません。
また、しかし、園か意味見えた日蓮教学をそのままに墨守しようとすれば、それは原理主義への転落を意味するでしょう。
キリスト者が、いまだに進化論を肯定できない姿に異なりません。
また、自分の信仰と遇わないものを排除するだけで、何ら論攷説明もしない姿勢は、中世ヨーロッパの魔女狩りと異ならないところです。
いずれもカルト体質を脱却できない邪信と言うほかありません。

また、信仰とは、世間一般、科学で通用しない諸事を如何に「当然である」と思い込むことによって成り立っているのか、その自己点検がなければ、単なる自涜と異なりません。

なお、彰往考来さんが仰る本尊信仰、また問答さんが語る唱題体験は、以上のような科学的な分析と照会する参考に、先には雖念さんのご投稿がありました。また、その体験主義的な態度としては、いちりんさんが、唱題も徹底し、さらに念仏道場にも行き、さらにはインドでヨーガを経験する等、多種多様の体験を通じて、唱題を相対化されたご経験の披瀝は、この点を考えるうえで、多くの示唆を与えています。

わたしは、ここで日蓮を批判しているとでもとらえる御仁があるようですが、わたしの目的はそんなところにありません。一般の批判をここに提示し、では、その答を実は有していない相続門下の実態を闡明にしているのに過ぎません。また、その批判への反応は、その日蓮信仰の在り方が、現代社会にあっては、カルトとしか映じない実態を自ら曝しているのに過ぎない点も併せて指摘しておくことといたします。

1546犀角独歩:2006/06/13(火) 18:20:58

補足します。

もちろんのことですが、1545における内容は、彰往考来さん、問答名人さんの体験主義を批判するものではなく、その在り方をカルト的と言っているものではありません。むしろ、今後の議論の方向性を提示したものです。

1547今川元真:2006/06/13(火) 18:43:19
創価学会員で、久遠元初を歴史の始まりでは無くて信心の起点・出発点と説いていた方がありました。其儘の事実が解らないなら、ケースバイケースで学問の再構築を成さなければ骨董品でしか無いのでしょうか。

1548犀角独歩:2006/06/13(火) 19:27:45

【1542の訂正】

誤)
いまの経典の一切が久遠釈尊の説法であるというのであれば、その劫・国・名号すればよろしい。
以上の考えは、久遠本知開顕と説法の次第を混同した「日蓮の教えに非ず」己義に過ぎません。
正)
いまの経典の一切が久遠釈尊の説法であるというのであれば、その劫・国・名号記せばよろしい。
以上の考えは、久遠本地開顕と説法の次第を混同した「日蓮の教えに非ず」己義に過ぎません。

1549西大寺:2006/06/13(火) 20:14:41
> 現在、日蓮の解釈教学は、日蓮の教えではないというのは、わたしの主張です。
教学には各門流に様々な主張在り。日蓮宗の中に様々あり。どの日蓮の解釈
教学を指して言うのか、どの部分を指すのか、全体を指すのか意味不明である。

> 別段、当然ではありません。
貴方が、哲学的解釈をしなからである。

> 法華経の哲学とは、では何でしょうか。
仏教は、哲学を背景として宗教となっていることを貴方は知らないからであ
る。

> 日蓮は大集經からも後百歳を言うのであって
貴方が言うように、当時の取り得る資料を補助的根拠として引用したのであ
って、正法衰退の時は法華経そのものに示され導かれたことである。

> その久遠釈尊とは如何なる仏であると天台、日蓮は言っているのでしょうか
貴方に繰り返す。開目抄にもあるように、日蓮は三十四心断結成道の釈尊(劣
応身)、歴史上の釈尊をもって教主釈尊とするのではない。教主釈尊は如何な
る仏であるかは天台・日蓮教学の基本であって、それを知らずに日蓮の解釈教
学云々を言うべきか。

> そもそも、経典とは、釈尊が書いたものではなく、釈尊が説いたものを弟子が記したという前提の物語です。
大乗経典は、そのような成立でないことは貴方自らが言っておることであり
常識である。

開目抄に曰わく「仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟
子なり。一切経の中に、この寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王
なく、山河に珠なく、人に神のなからんがごとくしてあるべきを、華厳・真
言等の権宗の智者とをぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々、
かつは自の依経を讃歎せんために、或は云く、華厳経の教主は報身、法華経
は応身と、或は云く、法華寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位
等云云」

久遠実成の教主釈尊が説かれなければ、一切経・大乗経に根拠が無くなるこ
とは日蓮自らが指摘していることである。そして、法華経をこの世に実際に
現れた応身が説いたに過ぎないと言う説を、日蓮自身が非難していること知
らずに、その哲学的な解釈をしようとしないのは、日蓮の教学を全く理解し
ようとしていないからである。

1550ひきこもり:2006/06/13(火) 21:22:14
基本は信心にありますから、法華経が釈迦の論説ではなくても問題はありません。
末法思想が迷信であり、それに蓮祖が気付かなかったという点は重大問題です。
この点では独歩さんには反論できません。
曹洞宗の開祖の道元は末法思想を否定しています。鎌倉新仏教の開祖の中で末法
思想の迷信性に気付き、それを指摘したのです。彼は法華経を最高の経としてい
ました。
末法思想を蓮祖見抜けなかったことは最大の過ちですね。蓮祖はあの鎌倉時代の
大学者ですが、帰納的思考性に劣っていたのではないですか。懐疑する思考力に
劣ることは創価学会員全体に言えることです。

独歩さんはそうした帰納的数理的懐疑を持たれています。末法思想を蓮祖が盲信
したのははっきり言って誤りと判断せざるをえません。

1551西大寺:2006/06/13(火) 22:14:06
> 末法思想を蓮祖見抜けなかったことは最大の過ちですね。蓮祖はあの鎌倉時代の
大学者ですが、帰納的思考性に劣っていたのではないですか。

劣っているのは日蓮でなく、盲目なる貴方である。日本人の多くが法華経を
以て教主釈尊を本尊とせず、釈尊以外の教主を本尊として仏教と思っている、
あるいは多くの者が仏教の信仰を捨て去っている、そして釈尊を脱益仏(利
益がない仏)としてい創価学会が政治権力を持っている事実は、末法(正法
衰退)の明らかなる証拠である。

1552燕雀安知鴻鵠之志哉:2006/06/13(火) 22:56:39
西大寺さん
迷信仰の私には深い所は分かりませんが

>劣っているのは日蓮でなく、盲目なる貴方である。日本人の多くが法華経を
以て教主釈尊を本尊とせず、釈尊以外の教主を本尊として仏教と思っている、
あるいは多くの者が仏教の信仰を捨て去っている、そして釈尊を脱益仏(利
益がない仏)としてい創価学会が政治権力を持っている事実は、末法(正法
衰退)の明らかなる証拠である。

と犀角独歩さんに申されていますが、私は次の点を教えて頂きたいです。
・教主釈尊を本尊とすべき根拠を提示して下さい
・脱益仏として釈尊を扱う学会が政治権力を持っている事が、どうして末法の明らかな証拠になりえるのでしょうか
・後世創作の経典を信じられた日蓮師の言葉を以て、何を証明されようとしているのか

こういった疑問が尽きません

私にはここで多くの方が言われる事の方が正しく思われます。ここに参加する多くの方達は
・根拠のない事を信じろ、正しいと認めろという人あるならばその人は理論的、文献的証明を出す義務がある
・信仰の根本は信であるという事は万人に認められるべきであり、それを個人が用いる事に何ら問題はないが、その信を人に提供する場合、「信」以外の根拠を以て提示すべきである
という考え方を持っていられると私には感じられます。
また私もそうであるべきだと考えます。
でなければ、それこそ「鰯の頭も・・・」であって、その主張を持つ近い人に出会えば、全てそれが可となってしまう事になり得ます。
人々がそれぞれ主張するのは良い事だと思いますが、人に影響を与えんとする場合、その責任義務も同時に発生し、証明すべき事だと思いました。

西大寺さんのように一方的に自論強要する方に最近めぐり合った経緯がありまして、一言申し上げたくなった次第です。

1553西大寺:2006/06/13(火) 23:04:00
> と犀角独歩さんに申されていますが

読解力を問う。1551が犀角氏に答えた者だと思う者がいるとは。

> その責任義務も同時に発生し、証明すべき

読解力を問う。引用の開目抄を理解できなかったとは。

1554一字三礼:2006/06/13(火) 23:11:09

横レス失礼します。

> 仏教は、哲学を背景として宗教となっていることを貴方は知らないからである。

西大寺さんはお経を読んだことはありますか。私はそのようなことは始めて聞きました。少なくとも法華経、八千頌般若経、十地経、華厳経、涅槃経などの代表的な大乗仏典にはそのようなことは一切説いていません。
何の経に「仏教は哲学を背景としている」と説かれているのでしょうか。論拠となる経を挙げてください。

もしも、仏教が哲学を背景として成立している宗教であるならば、仏教など学ぶ必要はありません。哲学を学べばよいのでしょう。西大寺さんのご主張は、中世ヨーロッパにおいて哲学に拠って神の存在を証明しようとした「理神論」と同じです。哲学に拠って神が証明されるのであれば、聖書の神の言葉は哲学の理論に劣ることになるのではないか、という批判が起こり「理神論」は崩壊しました。

「法華経」には哲学的なことは一切書いてありません。もしも書いてあると言うのであれば、その箇所を経典から引用してください。それでも無理に哲学的に経を解釈するのであれば、あなたの主張は「法華経」からは離れるのみならず、「法華経」より哲学的思考を重視するという本末転倒の論考となるではありませんか。

1555西大寺:2006/06/13(火) 23:29:51
> 燕雀安知鴻鵠之志哉

小人物には大人物の気持ちや考えがわからない

①日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。「報恩抄」
②この土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。不孝の失に依て今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは、譬えば天月の清水(せいすい)に浮ぶがごとく、無縁の仏と衆生とは、譬えば聾者の雷の声を聞き、盲者の日月に向うがごとし。
しかるに或る人師は釈尊を下して、大日如来を仰崇し、或る人師は世尊は無縁なり、阿弥陀は有縁なりと。或る人師の云く、小乗の釈尊と、或は華厳経の釈尊と、或は法華経迹門の釈尊と。これらの諸師並に檀那等、釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば阿闍世太子の頻婆娑羅王を殺し、釈尊に背いて提婆達多に付きしがごとし。「法華取要抄」
③再掲:仏は久遠の仏なれば迹化・他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり。一切経の中に、この寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王
なく、山河に珠なく、人に神のなからんがごとくしてあるべきを〜「開目抄」

経典に哲学的な見地なく、法華経を後世の創作としか考えられないものに、
日蓮の教学を説くことは難し。

1556今川元真:2006/06/13(火) 23:38:54
鎌倉時代の僧・日蓮は、 経典に照らし合わせ此の経典は自分に取って方程式的に利用できるから立正安国論を書き説いたのでは無いですか?三身も同じように類型に例え易いから使用した。そして、自分が法華一乗を広めなければ仏教が虚妄に終わると断じて決意したのでは無いでしょうか。全ては、法華一乗の為の摂受的展開(日蓮聖人は感性感覚で泥から出て花を咲かせる蓮華を思い描きながら仏像に合掌し漫陀羅を図示し法華経を説いた)では無いのか。 いろいろな宗教的用法語句文章が、神掛かりな事から発せられたのか計算ずくめで発せられたのかは、想像力もしくは学問構築能力の関わりもあるので判断出来辛いと考えます。

1557西大寺:2006/06/13(火) 23:40:26
> もしも、仏教が哲学を背景として成立している宗教であるならば、仏教など学ぶ必要はありません。

仏教が哲学的宗教であることは世界の常識でもある。仏教は哲学を背景とし
ていない等と言う仏教学者は?

> 「法華経」には哲学的なことは一切書いてありません。

天台・日蓮の教学を学ぶ者で、そのようなことを愚かなことを言う者はおら
ず。

1558燕雀安知鴻鵠之志哉:2006/06/13(火) 23:50:08
>経典に哲学的な見地なく、法華経を後世の創作としか考えられないものに、
日蓮の教学を説くことは難し。

この部分を教えて下さい、と申し上げたのですが・・・

1559乾闥婆:2006/06/13(火) 23:53:27
西大寺さん。

あなたの使われる「哲学」「哲学的」という言葉の定義をまずされてはいかがでしょうか。

1560燕雀安知鴻鵠之志哉:2006/06/13(火) 23:59:27
西大寺さん
そも、私は日蓮教学を説く力などありませんので、不明と思うところをお聞きしたいのですが、いかがでしょうか?

1561西大寺:2006/06/14(水) 00:31:59
> あなたの使われる「哲学」「哲学的」という言葉の定義をまずされてはいかがでしょうか。

法華経が二大教義、諸法実相を説き、歴史上の釈尊の本地を説いているにも
関わらず、法華経が哲学的宗教であることを理解せぬのならば、そもそも哲
学とは如何なるかを知らぬ者である。

1562西大寺:2006/06/14(水) 00:35:53
> 不明と思うところをお聞きしたいのですが

読解力を問う、①②③。

1563燕雀安知鴻鵠之志哉:2006/06/14(水) 00:51:42
読解力を相手に要求する、西大寺さんの所持する日蓮仏法であるならば、既に万民救済は不可能ではないでしょうか?
私が知る日蓮師の法とは違うような気がするのですが・・・
まさか、我こそ日蓮師の一番弟子のような振る舞いをする事が日蓮師の教えだとは思っていませんでした。

1564燕雀安知鴻鵠之志哉:2006/06/14(水) 01:07:22
私が殊更失望してしまうことは、日蓮正宗系に関わりながら、実に日蓮正宗系に属する人は固執した持論を展開するのみであって、相手の疑いすら全く理解できていないということ。
そしてそれを更に拡大して日蓮系仏法と名乗る集団或いは個人においても同様の質を見い出してしまいます。

一般的に仏法は深い部分を知らざるは判別に苦しむとは知っていますが、多くの日蓮仏法関係者はそれを分別つけられぬ人は、理解できぬなら法に迷うといい、多くの人はそれに迷うといい、迷うゆえに疑を抱くといいます。
ですが、西大寺さんは薄者と思われますので、敢えて法が正しいのか誤りであるか、きちんと無智の人にも理解せしめて欲しいものです。
それすらせずに「読解力を問う」という文言は、無智相手せずの論であり、救法ではありません。

そして多くの日蓮関係者が勝手な発言だけを残して逃走してしまっているように思います。
その点だけを見ても、一々に責任を持って反論される犀角独歩さんのようなスタンスこそ、本来の「責任ある人」という感を抱く次第です。

1565燕雀安知鴻鵠之志哉:2006/06/14(水) 01:09:12
訂正
>西大寺さんは薄者
>西大寺さんは博学者

1566犀角独歩:2006/06/14(水) 04:55:59

一晩でずいぶんと遣り取りが進んでいますが、西大寺と名乗るあなたは己義を書き捨てるばかり以外は何もしていないこと、また、常に侮蔑的な言辞を吐いて、他者の人権を傷つけていること、以上は、まったく当掲示板の規約に抵触している点を、まず指摘おきます。

たとえば、「盲目なる貴方」「小人物」。前者は視覚障害者を侮蔑したうえで、さらに人を侮蔑した言葉です、後者もまた、人権を傷つけています。

斯かる態度を改めないのであれば、わたしはあなたの退場を管理者さんに進得ません。

さて、西大寺さんに対し、わたしは、あなたは日蓮を基準にするといいながら、実際のところ、日蓮を基準にしていないではないかと反詰をしたわけです。
この点について、答えず、己義を投稿し続けています。
これまた、投げかけられた質問に答え投稿をするという当掲示板の佳例を穢してます。

わたしは1542に

法華経の哲学とは、では何でしょうか。
法華経を日蓮が哲学といわないのに、哲学と言うことは、日蓮の教えを基準にしない「日蓮の教えに非ず」ものでしょう。
日蓮の基準であるというのであれば、日蓮が法華経を哲学であるといった基準を上げればよろしい。できますか。

と問うています。他にも二つ質問を上げましたが、それは置きましょう。

法華経、日蓮が哲学を説いたものであるというんであれば、日蓮が、哲学を説いたという該当真蹟遺文をここに提示すればよいわけです。

まず、この質問に答えていただきましょう。

1567管理者:2006/06/14(水) 06:28:31

西大寺さん

あなたの書き込みは、話し合いを重んじる当掲示板のルールに馴染まないばかりか、参加者に対する侮蔑表現が目立ち、当掲示板の書き込みルールに抵触しています。ご参加の皆様からの削除等の依頼が無いので、暫時、このままにしておきますが、同様の、書き込みルールに抵触する書き込みを更に続けられた場合は、削除、書き込み禁止、等の措置を取らせていただく事になります。

以上警告いたします。書き込みルールを遵守してください。

1568彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/14(水) 07:36:40

>1538-1539 犀角独歩さん

いつのまにかスレッドが進んでいまして、追いつけませんが、ちょっと今仕事が多忙で上記スレッドへ私にお問い合わせの件につきましてまとめる時間がありません。追って投稿したいと存知ますので少々時間をください。
会議やら出張の準備などで昨夜も遅くなってしまいました。いきつけの代理店に出張に使う航空券の受領にいったのですが、何時もお忙しそうですね、と担当の方に言われてしまいました。覚えられているのですね。(笑)

1569犀角独歩:2006/06/14(水) 08:34:54

彰往考来さん

ご多忙のところ、わざわざ有り難うございます。
お答えをお待ちする点は、他のロムの方にも参考になる点であろうと思います。為に返レスを楽しみにしておりますが、お時間の余裕のあるときにお寄せください。信仰は一生のテーマです。取り立て、急いだ議論ではありません。

まずはお仕事第一。万事、業務遂行のご成功をお祈り申し上げます。

1570一字三礼:2006/06/14(水) 09:19:12

西大寺さん

> 仏教が哲学的宗教であることは世界の常識でもある。仏教は哲学を背景としていない等と言う仏教学者は?

あなたは、「世界の常識」と「仏教学者」に拠って仏教を理解しているのですか。

「龍樹菩薩の十住毘婆沙論に云く、不依修多羅黒論。依修多羅白論」(開目抄)
「龍樹菩薩の十住・婆沙論に云く、経に依らざる法門をば黒論と云云。」(大田殿女房御返事)

私は、「仏教は、哲学を背景として宗教となっている」との論拠はいかなる経典を根拠としているのかを問うているのですよ。

西大寺さんのご主張は、日蓮聖人の基準に照らせば’黒論’となります。

> 天台・日蓮の教学を学ぶ者で、そのようなことを愚かなことを言う者はおらず。

あなたは、法華経を読んだことがないのですね。
法華経には哲学が書いてある主張するのであれば、その箇所を法華経の経文で指摘すればよいだけのことでしょう。

1571顕正居士:2006/06/14(水) 18:21:21
インド以来、大乗経は報身仏の説法とすることについては以前に書きました。

本尊と曼荼羅 538
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/538

この話題は戒壇本尊とも本尊と曼荼羅スレッドとも無関係なので

現代人が納得できる日蓮教学
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/l50
がよいでしょう。

1572西大寺:2006/06/14(水) 18:43:18
「燕雀安知鴻鵠之志哉」とは荘子の言で、意味は「小人物には大人物の気持
ちや考えがわからない」である。

開目抄を引用して日蓮は法華経を応身の釈尊(歴史上の釈迦)が説いたもの
ではないとする立場を示した。したがって、「日蓮が釈迦の教えであると思
ったものは釈迦の教えではなく〜それを基礎にした日蓮の教学は当然間違っ
ていると言わざるを得ません。」の論拠は根底より否定される。

諸法実相と釈迦仏の本地を説くことが、哲学でないと言う者はそもそも哲学
とは何たるかを知らぬものである。

1573管理者:2006/06/14(水) 19:15:49

西大寺さん

あなたの1572の投稿は、限りなく禁止事項の4に該当するかに見えます。

4 無意味な多重投稿・反復投稿を禁止します。同じ文章の連続投稿、或いは、文章は同一でなくとも内容的に同じことを繰り返し投稿された場合は削除致します。なお、根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。

管理者から。交通整理の為、一つご質問します。

御質問 「哲学」とはどういう事柄を言われていますか。「哲学」の定義をお示しください。

なお、この御質問は既に一字三礼さんが質問されていませんが、あなたは、この質問に答えようともしておられないので、交通整理の為、御質問いたしました。御回答願います。

もし、この管理者の質問を無視して、更に投稿を続けられた場合は、即刻削除して、以後のご参加をお断わりいたします。よろしく御回答ください。

1575管理者:2006/06/14(水) 19:21:52

西大寺さん

補足です。あなたは、「諸法実相と釈迦仏の本地を説くことが、哲学でないと言う者はそもそも哲学とは何たるかを知らぬものである。」と書き込まれておられますので、当然、哲学の何たるかを良くご存知であると考えます。その良くご存知の、「哲学とは何たるか」を御開陳戴きたい、という趣旨です。よろしくお願いいたします。

1576犀角独歩:2006/06/14(水) 21:57:45

> 1572
> 燕雀安知鴻鵠之志哉

たしかにこの成句は指摘のとおりの意味に使用されます。
ゆえにこれを差別に抵触するとした1566のわたしの言は撤回します。
しかしながら、「盲目」という一言の使用には、その差別と侮蔑的用法に関してはその限りではありません。

また、一連のやり取りは顕正居士さんのご指摘のとおり、他スレッドでそれぞれ議論されるべき内容であると思います。

なお、管理者さんから質問がなされておりますので、以後、ご判断の一切は回答と管理者さんのご判断に委ね、西大寺氏への一切のレスは、裁断が下るまで、遠慮することといたします。

1577犀角独歩:2006/06/14(水) 22:11:17

なお、一点のみ記しておきます。

法華経は応身釈迦仏の教えではないということと、わたしが日蓮が法華経ほか大乗経典を釈迦の直説と間違えたと言うことはまったく関係がありません。

大乗経典は、五百塵点成道の釈尊が説いたものではなく、西暦前後の仏教徒が創作したものだからです。つまり、西大寺氏の云う経典が久遠釈尊の所説などということはまったく成り立ちません。まさにフィクションとノンフィクションの区別もつかない心理状態に陥っていると言わざるを得ません。

創作された経典に記された久遠本仏をもってきて説明するのは、恰も「天地創造は聖書に記された神様の御業である。故にそれを否定することは神様の御心がわからないためである。つまり、天地創造は聖書に書いてあるから、事実であり、神様も存在する」ということと、同様です。

後世の創作経典に登場するフィクションの仏格をもってきて、フィクションの経典の実否を問うほど、無意味なことはありません。

つまり、西大寺氏の言う「論拠は根底より否定される」ことであるわけです。

では、以後、西大寺氏の「哲学」に関する回答と、管理者さんのご決裁が下るまで、同氏へのロムは遠慮することといたします。

1578とおりすがり:2006/06/15(木) 09:53:00
哲学くらいの常識的なことは、自分で調べれば良いのでは?西大寺さんは、あなた方の詰問には答えているようだけど・・。

1579とおりすがり:2006/06/15(木) 09:55:05
顕正居士さんに、報身の説法とはどのようなものかお聞きしたいです。

1580管理者:2006/06/15(木) 09:58:54

とおりすがりさん

>哲学くらいの常識的なこと

西大寺さんの仰る「哲学」の定義をお聞きしているのです。一般論をお聞きしているのではないのです。

1581犀角独歩:2006/06/15(木) 12:40:58

顕正居士さんが、大乗経典報身説をご投稿されたのは、以下でしたか。

本尊と曼荼羅 538
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/538

1582犀角独歩:2006/06/15(木) 13:05:46

「哲学」という言葉は近代、西周によって造語された言葉ですから、そんなものが、仏典、釈、論、日蓮の遺文に載るはずがありません。
調べに調べたうえで、一字三礼さんも、問答さんも、わたしも質問にしているわけです。
西大寺さんが書いたことは、もちろん、何ら答になっていません。

1583彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/15(木) 13:31:30

哲学の訳字について

http://www.ff.iij4u.or.jp/~yyuji/yakuji.html

を参照ください。

なお、直接関係ありませんがBASEBALLを野球と造語したのは、中馬庚という人です。
http://www.student-baseball.or.jp/history/history.html
http://www.baseball-museum.or.jp/home/qa/qa5.html
http://www.z-flag.jp/news/archives/cat17/

私は正岡子規と思っていましたが、徳島県立脇町高(美馬市脇町)校長を務めた中馬庚(ちゅうまかのえ)が明治26年に訳したのですね。

1584彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/15(木) 13:41:26

>1583の続き

なお、哲学は中国語でも哲学ですが、明治時代に日本から移入されたものです。
http://www.philosophy.gr.jp/contents/seminar/materialism/001.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6

従って
>そんなものが、仏典、釈、論、日蓮の遺文に載るはずがありません。

という1582での犀角独歩さんのご指摘は的を得ています。時系列的に有り得ないということです。それが常識なのです。

1585団栗:2006/06/15(木) 18:24:47
私は、なぜ皆さんが「哲学」を否定して西大寺さんの議論を封鎖するのか分かりません。

以下ウキペディアより

定義
哲学(は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じる、学問の一種。 また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる。(ソクラテスの哲学、など)

歴史的には、19世紀までのヨーロッパにおいては神学以外のあらゆる学問に対して哲学という名称が与えられていた。(たとえばニュートンもガリレオも自然科学者ではなく自然哲学者であった)今日のような狭義の哲学という学問領域が成立したのは、19世紀中頃、哲学者ヴントの新しい学問分類によって学問の総称の地位が哲学から科学に移行してからである。

哲学の主題
学問としての哲学で扱われる主題には真理、善、美、正義、神、存在、時間、知識、本質、同一性、理性、因果、意識、自他などといった事柄が含まれる。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。

これらの主題について論じられる事柄としては、定義(「神とは何か?」)、性質(「理性は人間にとって生与のものか?」)、複数の立場・見解の間の整理(「諸存在の本質はひとつであるとする立場と、諸存在の本質は多様であるとする立場の主な争点は何か?」)などがある。そして、頭の中で、言葉なくして思考し、言葉を表出させることである。

1586団栗:2006/06/15(木) 18:40:31
>「哲学」という言葉は近代、西周によって造語された言葉ですから、そんなものが、仏典、釈、論、日蓮の遺文に載るはずがありません。

皆さんは何に固執されているのでしょうか、何か勘違いされているではないでしょうか。「哲学」という言葉が、仏典や遺文に使われたかどうかを問題にしているのではないと思います。
仏典や遺文は、哲学を説いているかを問題にしているのです。上記の「哲学の主題」からすれば、仏典や遺文が哲学を含蓄しているのは明らかではないでしょうか。

1588管理者:2006/06/15(木) 19:11:33

団栗さん

>西大寺さんの議論を封鎖

管理者は、西大寺さんの書き込みが、当掲示板のルールに抵触している事を指摘しました。ルールを西大寺さんが今後も守られないなら、書き込みをお断わりするのは、管理者の責務であると考えております。

ただ、「哲学」という言葉を、魔女狩りのように、否定しているのでは、決して有りません。議論を進めるために、「哲学」という言葉を西大寺さんが、どのような意味で用いておられるのかを一字三礼さんがお聞きになっているにも拘らず、全く、その問いかけを無視して、ご自分の持論を述べるのであれば、当掲示板のルールに抵触しますよ、と警告しているのに過ぎません。西大寺さんに置かれては、用いられているところの「哲学」という言葉の定義を一字三礼さんの求めに応じてお答え戴ければ、対話が成立し、当掲示板のルールに抵触している、という点は解消されるわけです。管理者はまず、この一点を西大寺さんにお願いしているわけです。ご理解賜りたく存じます。

当掲示板では、ルールに抵触しない限りにおいて、誰人もその発言は担保されており、誰人もその発言を封鎖する事は出来ません。もし、理由無く他人の発言を封鎖すれば、当掲示板のルールに抵触しますので、封鎖した人が却って、削除乃至は書き込み停止の処分対象なります。誤解なきように願います。

1589管理者:2006/06/15(木) 19:28:12

訂正

上記の管理者の発言において、哲学の定義を一字三礼さんが求めている、と書きましたが、乾闥婆さんの間違いでした。謹んで一字三礼さん、乾闥婆さんにお詫びするとともに、訂正いたします。

1590団栗:2006/06/15(木) 19:49:33
管理人さんには、公平な立場をお願いします。西大寺さんは誰が読んでも通用の「哲学」より問いかけをされているであって、何ゆえに「西大寺オリジナル哲学」を詰問する必要があるのでしょうか。この経緯は、ただ当掲示板の常連の方が哲学について述べたことを否定する目的であるが故に感じられます。
なぜならば、私が上記に引用したように通用的な哲学の定義・主題によって対話を進めることには何の問題も感じられないからです。

1591管理者:2006/06/15(木) 20:04:39

団栗さん

>管理人さんには、公平な立場をお願いします。

どこが公平でないのか、ご指摘ください。管理者はルールに従って運営するのみです。

>何ゆえに「西大寺オリジナル哲学」を詰問

そのよう意図は全くありません。哲学という言葉には、色々な意味を含みますから、どの意味合いで哲学という言葉を用いておられるのか、お聞きしているのみです。そのお答えが、辞書通りでも何ら差し支えません。定義をはっきりさせたところから、議論を再開させれば良いわけです。ただそれだけです。

1592顕正居士:2006/06/15(木) 20:24:12
西大寺氏の投稿は粗雑粗暴であらしとみなされて仕方ないですが、
大乗経は応身釈尊の説ではないこと、法華教学は仏教哲学の一派であることはその通りですね。
これらの議論は戒壇本尊とは無関係ですから、適切なスレッドに移動するのがよいとおもいます。

1593管理者:2006/06/15(木) 20:37:53

顕正居士さん

>適切なスレッドに移動するのがよい

ご指摘ありがとうございます。1540レス以降の議論を「現代人が納得できる日蓮教学」スレッドに引き継ぎます。


ご参加の皆様

当スレッドの、1540レス以降の議論は「現代人が納得できる日蓮教学」スレッドにて、引き続き議論戴きたく、よろしくお願いいたします。

1594犀角独歩:2006/06/16(金) 10:39:41

こちらのほうも、やや整理します。
ここ数日の一連の遣り取りは

ひきこもりさんの「大御本尊が偽作であったならば、もう駄目ですね。もう唱題する気が起きません」(1519)

という点に問答名人さんが「戒壇板曼荼羅が偽物でも、日蓮聖人の教えまでが偽物という事ではない」、また、彰往考来さんも、それに賛同された(1525)という経緯がまずありました。

これに対して、わたしは「日蓮の間違い」として指摘したわけです。(1537)
これは科学的な見地から、鎌倉時代の人であった日蓮には情報のないことによる誤謬ですから当の本人に責任を負わすことは酷でしょう。しかし、日蓮の本尊と教義の土台は鎌倉時代に通用しても、現代には通用しない、さて、どうするのかという点で、わたしは指摘したわけです。ここから、この議論は、顕正居士さんがご提案くださったとおり『現代人が納得できる日蓮教学』の話題へとなっていきました。よって、この点は、そちらに譲ります。

さて、当スレのテーマは『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』ですが、この彫刻の真偽は、日蓮とは関係ありませんが、石山門下教学とは密接な関係を有しています。その教義的な側面は他に譲ることとして、整理すれば、ここ数年の議論で明確になったとおり、この本尊は偽作であるということです。そして、偽作を偽作であると主張することは、何ら批判されることでもないと言うことです。

仮に、その主張によって、その彫刻を信じる個人が信仰をする気がなくなり、大量脱会者が出ることは、誠にけっこうなことであるとわたしは思います。それは真実、事実への目覚めだからです。

しかし、その彫刻本尊を捨て去ることで「自殺者が出る」というのは、これはこの彫刻本尊の真偽議論とは、まったく別のことです。精神科、心療内科、もしくは宗教病理学、あるいはPMCSといった病理科学の範疇であり、ここで扱う問題ではありません。そのような危険のある方は、ここでの議論に参加するより、いち早く専門医の診療を受けることをお薦めします。衷心よりお見舞いも申し上げます。

しかしながら、「自殺者が出る」危険性があるから、偽作論は非であるという論法は成り立ちませんし、そのようなことで、ここ数年の議論が中断される謂われもありません。

鬱、もしくは鬱傾向にある方は、刺激の強い議論に参加するより、まずは治療に専念され、その限りではない方々とは、ここ半世紀の、最大宗教詐欺とも言える彫刻本尊の実態を更に暴いてまいりたいと考えます。

1595独学徒:2006/06/16(金) 22:27:42

>1594
犀角独歩さんのご提案に、全面的に賛同いたします。

話は若干ずれますが、偽物を偽物と言えないで、何が創価(価値創造)か、何が正信(正しき信)かと言いたくなります。
彼らの石山批判など、所詮は信徒を手放さないためにライバルの悪口を言っているだけだと思います。

当然、日蓮の教えも完璧ではなく、むしろ犀角独歩さんご指摘の通り、現代の眼から判断すれば欠陥は多々あると思います。
さらには熱原法難を美談化し、その精神論を金銭受領の手段とし、信徒に対し家族や財産をなげうってまで組織活動・宗教活動に打ち込むことが、なにかいいことのようなイメージを作ることは洗脳以外のなにものでもありません。

夢から覚めてみれば、今まで以上に家族が大切になり、仕事にも打ち込めます。
個人的には、日蓮の教え、また冨士の教学を、学問として探求する分にはロマンはある思います。
日蓮と弟子達の曼荼羅にも、芸術性と不思議な魅力を感じます。信仰心も感じます。
しかし、信仰を命がけで実践するような時代ではないと考えます。
今の時代、信仰を命がけで実践するのは、それこそテロリストと勘違いされます。

真蹟遺文に基づく純正日蓮教学の探求と、日蓮自身が気づき得なかった仏教の真実を究明することが、正法を伝えんとした日蓮及び歴代の正師に対する、本当の報恩だと思います。

犀角独歩さんの仏教再考運動が、日蓮が道善房の教えのまま実践をせずとも、日蓮自身が正義と思った道を進むことを以って報恩にかえたことを思えば、まさに富士門流信徒の生き方として本当の意味での報恩の実践であろうと思うわけです。

少なくとも私は、真実に近づくことができ、本当に良かったと思っています。

1596犀角独歩:2006/06/17(土) 06:49:35

独学徒さん

ご賛同、有り難うございます。

> 夢から覚めてみれば、今まで以上に家族が大切になり、仕事にも打ち込めます

本当に善かったですね。
わたしも、この信念体系を抜けて、気付いたことは、ただの一度も自分のために生きていなかったことでした。自分のために信仰をしているつもりが、組織のため、「先生のため」「御法主上人猊下のため」「日蓮大聖人のため」となっており、実は家族も、そのための存在だと思い込んでいた節がありました。社会で成功するのも、自分が幸せになるのも、組織・指導者と教えの正しさを証明するためといった具合で、組織、指導者、教義、教祖、あるいは法が、本来主体であるはずの自分に、取って代わっていた実態に気付き、愕然としました。

当掲示板にも、組織や、指導者、もしくは自分の信念体系のために、その代弁者になって感情的になるような人々をよく見かけますが、このように主体を奪われることを、社会心理学で「代理状態」といい、戦争に兵士を駆り立てる心理的メカニズムと同様である気付くのに半世紀近くを要しました。

真実に気付かれた独学徒さんに敬意を表すると共、惜しみない賛辞を送るものです。


参【代理状態】権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の【状態】におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を“代理状態”(agentic state)と呼 ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、“自主性”、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう。(『服従の心理』(河出書房新社)スタンリー・ミルグラム P178)

1597彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/19(月) 12:23:46

>犀角独歩さん

スレッド1529-1530,1538-1539でのお問い合わせについて回答いたします。
まず、おさらいです。私のスレッド1526での投稿はスレッド1524の貴投稿で私が抱いた疑問点から発しています。
>1524 昭和後期の『宗教年鑑』を見れば、日蓮正宗創価学会は1650万人信徒を自称・・・それがいまでは学会は1000万票が獲得できない・・・実際の創価学会の活動者数は300万人を割っていると・・・要は日蓮正宗創価学会は分裂し、そのうえで、東京都の人口に匹敵する脱会者を出した

に関してまして、1526で申し上げたかったことは東京都の人口に匹敵する脱会者の数値根拠が
1650万人−300万人=1350万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
ということであれば、それぞれの数字の母集団が異なるので、この計算は成り立ちませんよ、ということです。つまり、私の1526での投稿は
①昭和後期の会員数は1650万人である
②現在の実態は300万人である
③よって東京都の人口に匹敵する脱会者を出した
というロジックは成り立たないということをご指摘したかっただけです。少なくともスレッド1524で使用されている根拠数字は1650万と300万の2つであり、もうひとつ学会は1000万票が獲得できないという表現があります。
しかしながら、貴スレッド1539での投稿を拝読しますと、上記式や上記ロジックではないようです。スレッド1539での内容を仮に式に表わすならば、
1650万人−800万人=850万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
もしくは
3000万人−1650万人=1450万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
というようなことでしょうか。(よく調べていないのですが東京都の人口は1200万人くらいでしょうか)この式であれば、各々の数字の持つ信頼度(つまりいいかげんさ)は同じ程度と考えられますので、ロジックとしては成り立つでしょう。しかし、このような式はあまり意味を持ちません。出処の数字自体が信頼度を有していないからです。しかし、どう計算しても〝東京都の人口に匹敵する脱会者の数〟が出てくるのは面白いところではあります。なお、蛇足ですが私であれば
1650万人−300万人x2=1050万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数
とします。2は補正係数です。活動家数の倍は名簿上いるダロウということです。片方の数字に補正係数をいれることにより、信頼度のレベルというか尺度をもう片方の数字にあわせる努力をしています。仮に補正係数を2.67としますと
1650万人−300万人x2.67=1650万人−800万人=850万人≒東京都の人口に匹敵する脱会者の数  となりますが、2.67の根拠はなく800万人に合わせただけの数字の遊びです。でも3倍弱という補正係数はあたらずといえども遠からじではないかと思ったりします。現実ばなれした数字ではないでしょう。でも所詮は数字の遊びにすぎない議論です。

1598彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/19(月) 12:24:54

1597の続きです。

こんな数字の遊びよりも重要なことは、正確な数字は不明ながら、東京都の人口に匹敵する数の脱会者を出したということでしょう。スレッド1529で犀角独歩さんは、

>東京都人口に匹敵する人数というのはあながち外れた数であるとは思いません。

とされています。私もこれを否定するものではありませんし、数字を下方修正せよと主張するつもりもありません。東京都の人口に匹敵する脱会者の人たちすべてが被害者といえるかどうかわかりませんが、程度の差こそあれ、〝被害者〟ということになろうかと思います。そうではない人はむしろ例外でしょう。

>1538実際の被害を考えるとき、それを無意味として捨て去ることはできません
>1539実態がわからないから被害がないということは言えません・・・統計として不確かだから、言えないと片づけること・・・被害者を黙殺する行為

私がスレッド1536で実体がわからないといったのは、何人の人が退会されたのか正確な実数がわからないという意味です。改めて自分の文章を読んでみると、確かに〝実体〟というと〝被害がわからない〟ととられてもしかたありませんが、そういう意味ではありません。退会された人の実数が800万人なのか1500万人なのか不明ですということです。
誤解を招く表現でしたのでスレッド1536での投稿を
 誤:実体
 正:実数
と遅ばせながら訂正いたします。

被害者ということですが、退会した人だけが被害者ではないでしょう。現在入会している人も被害者の仲間入りです。活動している人もそうですし、事実上退会していますが名簿上だけ残っている人など色々ですが、多かれ少なかれ被害はあった(今もあるか?)ことは否定できません。少なくとも正本堂に御供養したわけですし、戒壇本尊を蓮祖のご真筆と思っていたわけですから被害者ということの変わりありません。被害者であるということになると現在創価学会に所属している人からは反論もあるでしょう。ただ反論内容をここで書くとそれは特定教団の布教のための宣伝になってしまう恐れがありますので、例示はいたしませんが、一言だけいうなら、何某かのメリットがあるから、よいところがあるから、信仰を続けていると思っています。もちろん被害者ではなく加害者も混じっていますのでややこしいところです。
そして被害者という意味では創価学会に入退会した人だけでなく、外の人でも被害を受けた人はいるでしょう。例示するなら、つぶやきスレッド2のスレッド1852で犀角独歩さんが
>「昔はよかった」と、他宗の人を交えたところで呟いたら、「俺たちは迷惑していたんだ」とぼやかれました(笑)
と書かれていますように他宗の方も別の意味で被害者であったわけです。

1599彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/19(月) 12:25:29

1598の続きです。

>> 日蓮の教え
>1539 基礎資料が虚構であった上に成り立つ教えもまた、信頼できない
というご主張は原則的には正しいと考えます。偽文書をベースに立てたロジックは誤りであるからです。
しかしながら、しっくりとこないのでもう少し掘り下げてみます。

>1539 旧約聖書に書かれる天地創造は、当時の科学知識で書かれたものであるから間違いとは言えないのでしょうか・・・太陽は地球の周りを回っていますか

ここで、ロジックの整理をします。
①太陽は地球の周りをまわっていない(地球が太陽の周りをまわっている)
②旧訳聖書でいう天地創造は間違いである。なぜなら天地創造では太陽が地球の周りをまわっているとするから
これは正しいと考えます。では、
①法華経は西暦前100年から西暦後150年の間に創作されたものである
②日蓮は、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていた
③だから日蓮の教えは間違いである
で③が言えるかどうか。検討しやすいように③の〝教え〟を〝本尊〟に用語変換してみます。
まず、上記ロジックから、
〝日蓮が、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていたというのは間違いである〟というのは言えます。しかし、〝だから日蓮の本尊は間違いである〟
といえるかどうかということです。

ウィキペディアの〝帰納〟の項には、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D

帰納法が間違う有名な例として、「ビールには水が入っている」、「ウィスキーにも水が入っている」、「ブランデーにも水が入っている」、よって「水を飲むと酔っ払う」と紹介されています。
〝水〟ではなく、〝アルコール〟であればこのロジックは間違っていないでしょう。でも〝水〟とするなら間違っています。事実ではなく、ロジックが間違っています。

1600彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/19(月) 12:26:06

1599の続きです。

この種のロジックは技術屋が警戒する議論なのです。実際の例を紹介しましょう。
①日本酒には防腐剤としてサリチル酸メチルが使われている
②サリチル酸メチルは有毒である。
③試しにサリチル酸メチルを金魚鉢に入れるとたちまち金魚が死んでしまった
④よってサリチル酸メチルの入っている日本酒は飲むべきではない

このロジックは表面上は正しいのですが実はトリックがあります。実はサリチル酸メチルは水に溶けずアルコールに溶けます。そのため③の実験をするためには、そのまま金魚鉢にサリチル酸メチルを入れても溶けないので、アルコールに溶かしたものを入れるわけです。
そうするとたちまち金魚が死ぬわけでサリチル酸メチルが危険と相成るわけです。でも金魚はアルコールに弱いので、上記ロジックは詭弁、間違いということなのです。ではここでサリチル酸メチルをアルコールに代えてみましょう。

①日本酒には防腐剤としてアルコールが入っている
②アルコールは有毒である
③試しにアルコールを金魚鉢に入れるとたちまち金魚が死んでしまった
④よって日本酒は飲むべきではない

どうでしょうか。アルコールが危険ということまで否定しませんが、③でもってすべてダメというのは飛躍しています。ここでいえるのはアルコールを金魚に与えると死んでしまうということだけでしょう。

このような議論を常日頃やっている私には、上記の法華経のロジックでもって日蓮の教えが誤り、本尊が間違いというにはどこか論理の飛躍があるような気がします。上記アルコールの論理と似通っていると思うのは私だけなのでしょうか?
〝日蓮が、法華経は釈迦50年の説法、最後、8箇年の説であると信じていたというのは間違いである〟というのが上記では言えるだけなのではありませんか。本尊が間違っているかどうか、教えが間違っているかどうかは別のアプローチが必要なのではありませんか?

1601彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/19(月) 12:26:39

1600の続きです。

もちろん蓮祖には他にも間違いはあります。犀角独歩さんが、1530,1537で指摘された内容がそのものズバリでしょう。

>1530 妙楽絶対主義に立っているわけですし、天台も踏襲しています。また、法華経が釈迦が説いたものであるしていますし、自分が生きた時代を末法だといったことでも間違いだらけ

という点でしょう。私は妙楽の教義など難しいことは解らないのですが蓮祖に間違いがあることは理解しています。蓮祖は御本仏であるから絶対間違いはないということはないのです。私はすでに蓮祖の御本尊における誤り(誤記)について、当掲示板の「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」のスレッド715-720に紹介しています。
ただ、私はこれらの誤りの存在があったとしてもそれで〝日蓮の教えは誤り〟とはいえないと考えますし、〝日蓮の教えは誤り〟とするなら、それこそ日蓮とは別れるべきです。
さきに〝竜門御書〟を例示しましたが、再説します。「上野殿御返事」(『日蓮大聖人御書全集』1560頁)に「唐土に竜門と申すたき(滝)あり・・・ふなと申すいを(魚)のり(登)りぬれば・りう(竜)となり候・・・・」とあるのは当時の科学知識で書かれたものです。ここから「登竜門」という言葉があることはご存知のとおりです。ですが、このお話は間違いです。滝を登りきった鮒が竜になるわけではありません。ですがこのお話が間違いであるなら、この御書でいう蓮祖の教え、例えば「ほとけ(仏)になるみち(道)・これに劣るべからず」(1560頁)も間違いでしょうか?違うでしょう。お話はあくまで当時の常識で書かれているわけで、「極めて困難である」ということを説明しているのに過ぎないものです。

では、何が信じるにたるものなのでしょうか?それは、いみじくも犀角独歩さん自身が、
>1537 日蓮は鎌倉という時代において、本人ができる限りの情報収集と思惟によって、その教学と本尊、そして修行を確立していったわけです。この日蓮の姿勢は、当時出来る最大限の努力であり、そして、その思惟も行動も、わたしは善意に基づいたものであると信じます。わたしは、その日蓮の方法論と善意の行動を信仰しています
とおっしゃっていることにつきるのでしょう。

1602彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/19(月) 12:27:08

1601の続きです。

犀角独歩さんのいう〝その日蓮の方法論〟とは何だったのでしょうか。私は漫荼羅本尊であると考えています。
私はその漫荼羅本尊を誤りではないと信じているのですが、それがスレッド1539で
>基礎資料の真偽を度外視して、ということにしか・・・なっていない

とご指摘された由縁であろうと考えます。この点はそれが経験とか体験といったものによるとしても素直に漫荼羅本尊を誤りではないと信じているロジックに飛躍があることを認めざるを得ません。

本年4月、池上本門寺の霊宝殿で蓮祖のご真筆本尊を拝観しました。ものすごい迫力で迫ってくるものがありました。翌月、同じ池上本門寺の霊宝殿で蓮祖のご真筆ではないと思われる本尊を拝観しました。できる限り先入観なしで拝観しようと心がけたのですが、迫ってくるものが全くありませんでした。あの場に居合わせた他の方の感想も大同小異であったと思います。この差はいったい何なのでしょうか?同じ現象は書画骨董にもありますが名画や名工の作品でホンモノは迫ってくるものがあるのです。ことさら蓮祖の御本尊は興味深いもので、とうとう私のライフワークになってしまいました。

科学は絶対なものではありません。まして解らないことが意外に多いものです。例えば、生物は自然発生しないというのが科学の常識です。それを細菌学的に証明したのがパスツールであったと記憶しています。肉汁を放置しますと虫が湧きますが、これは肉汁に入った虫の卵が孵化したもので、決して自然発生したものではありません。しかし、今、存在している生命体の祖先はどうでしょうか、少なくとも地球発生時には生命体はいませんでした。長い進化の中で自然発生したのでしょうか?科学は明確な答えを提示していません。科学は進み、ヒトのDNAの解析に成功するなど目覚しい進歩がありますが、仮にヒトのDNAを化学的に合成できたとしても死体の肉と同じで命が宿ることではないのです。
700年前の宗祖の歯が生きていると主張する教団がありますがナンセンスでしょう。もし歯が生きているというであれば、積極的に公開して分析し人類の長寿のために役立てればよいわけだし、もし現在の科学で証明できず、まか不思議ならば現在の科学では説明できないとして、その教団にひれ伏せばよいわけです。でもそうであれば私は蓮祖に問うてみたいです。「日蓮さん。肉体はとっくに滅んでいるのに、何もするわけではなく歯だけ生きていてなんになるの?そんな不思議な力があるなら出し惜しみしないで身体全体を生かせばいいじゃない。もっとほかに使い道があるでしょ。」
自分自身の存在理由、死後についてなどにも明確な答えは自然科学からはないのです。

1603彰往考来(しょうおうこうらい):2006/06/19(月) 12:27:35

1602の続きです。

もっとも“神”の分野に近づいている技術もあります。クローン技術などそうでしょう。哺乳類はオスとメスから子が生まれるという常識は否定されるに到りました。メスだけからクローン牛など子が産まれるようになったわけです。この技術は不妊治療などの応用できると考えられる反面、倫理的に問題があるためヒトにはすぐには解禁できないでしょう。何が言いたいかというと、哺乳類はオスとメスから子が生まれるという常識で成り立っていた少し前の生物学は誤りなのかということです。当時の人はクローン技術などない状態で生物学を形成していたわけですが、ほとんど大半の生物学は間違っていなくて、ある一部の修正でもって対応でき生物学の体系がくずれることはないということでしょう。

では物事すべてそうかというとそうでもありません。適切ではないかもしれませんがあえて例示するなら、北朝鮮による拉致はなかったというのが一部の人の主張でした。拉致があったということが明確に証明できなかったからです。しかしいまや拉致の存在は当事者が認める形で証明されました。では拉致以外のことで過去に北朝鮮が主張していたことは信用できるのかというと、そうではないでしょう。私は全く信用していません。拉致でも北の主張は矛盾だらけです。このケースではもともとの北の情報が作為に基づくニセ情報であったがために、そのような情報を発する機関の他の情報も押しなべて知るべしということなのです。

卑近な例をもうひとつ。会社に新入社員が採用されて入社してきます。ところが、Aという学校出身のB君の出来が悪い。よくこれだけでA校はダメだ、レベルが低いということがあります。でもA校の他の生徒のできが悪いかどうかこれだけでは解らないはずなのです。こういう現象を〝同一視反応〟といい、この結果だけで決定するのはいかがなものかということです。でもA校から来る生徒、次から次から問題児であれば、A校はダメなのでしょうね。統計学的に判断するには検体が最低20以上(20人以上)必要ですが、会社ではそこまで待てないので、他の人の評判などを基に判断することになります。ただA校が出来の悪い生徒を優先的に特定の会社に就職させているとすれば、スクリーニングされているわけで、その場合は別の判断が必要です。会社としてはスクリーニングする以上、A校からの採用を遠慮するということになるでしょう。

以上をもってスレッド1529-1530,1538-1539でのお問い合わせについての回答とします。

彰往考来

1604犀角独歩:2006/06/19(月) 16:35:03

彰往考来さん

昨日、長岡に行き、柏崎で一泊していま帰ってきました。
モバイル環境を整えていったのですが、泊まったホテルの位置では、接続できず、いま拝読しました。というわけで、本日は疲労困憊で、要点のみ、記させていただきます。

まず、脱会者が云々のことですが、これはなにより、わたしが言いたかったポイントは、このスレッドで彫刻本尊を偽物であると記すと大領脱会者と自殺者が出るという投稿に対してでした。要するに、そんな脱会者はとっくに出ているよ。概算だけれど、1650万人という発表、現在の実数からみて東京都に匹敵する人数とみるのも強ち外れていないのではないか、また、創価学会の論調では舎衛の三億で3000万人が指示していると言い(これは嘘でしょうね)、宗教年鑑で1650万人といい(これも嘘でしょう)、そして現在は800万人(これまた、嘘でしょうが)、この数字はわたしが言ったのではなく、創価学会が言った数字です。ですから、創価学会の公式発表を使ってみると、東京都の人口に匹敵する会員数減があるということです。ロジックが云々、その数字が信頼できる出来ないという話ではなく、嘘っぱちの数字で自分たちの大きさを誇ろうとしていたのが、実際は東京都の人口に匹敵する数が減っていることになってしまっているとも言ったのです。
帰納法の間違いといった話ではありません。

> 所詮は数字の遊びにすぎない議論です。

そうです。その数字の遊びに過ぎないことを創価学会はやっていると言うことです。
ですから、議論をすることに目的があったのではなく、彫刻本尊が偽物であるというと大量脱会者が出るという点につき、もうとっくに出ているということに議論の趣旨があったわけです。ですから、わたしからすれば、趣旨がずれたところで、重箱の隅を突っつかれたという印象しかないわけです。

> 被害者…退会した人だけが被害者ではない…現在入会している人も被害者の仲間入り…加害者も混じって…他宗の方も別の意味で被害者

これはまったく仰るとおりです。

> ③ だから日蓮の教えは間違いである
> で③が言えるかどうか。検討しやすいように③の〝教え〟を〝本尊〟に用語変換

この変換は恣意的ですね。
そもそも、わたしは漫荼羅を、原則的に本尊であると思っていません。
何より、日蓮が漫荼羅を拝んでいた証拠がないと主張しているわけです。

しかし、このように変換したうえで、漫荼羅を本尊という彰往考来さんが、それが間違いかどうかという質問を立てているわけですから、では聞きますが、‘本尊’に書かれている「仏滅後二千二百三十余年」は合っているんですか。間違っていませんか。
この一点を採っても、この漫荼羅に書かれていることは間違っているとは言えるでしょう。言えませんか、まさか?

> 事実ではなく、ロジックが間違っています。

帰納法など持ち出すまでもなく、以上のように書かれていることが間違っています。

> 日蓮の教えが誤り、本尊が間違いというにはどこか論理の飛躍がある

そうでしょうか。わたしからすれば、ここに彰往考来さんが書かれていることのほうが飛躍、短絡があると映じます。だって、日蓮の時代は仏滅後二千二百三十余年ではないわけですし、法華経は釈尊が説いたものでないわけです。
わたしが理系ではないから、彰往考来さんのような気の利いた例は引けませんが、たとえば、うどんの汁を作るのに、「これは砂糖である。砂糖はしょっぱいものだ」といって塩の代わりに砂糖を入れたうどんつゆはしょっぱくなりますか。ならないでしょう。

> 上記アルコールの論理と似通っていると思うのは私だけなのでしょうか?

ええ、少なくてもわたしは思いません。

> 本尊が間違っているかどうか、教えが間違っているかどうかは別のアプローチが必要なのではありませんか?

これは彰往考来さんの恣意的変換です。
日蓮の本尊観は台学の本迹論から迹門を簡び、本門本尊をその理論を使って確定したものでした。久遠五百塵点成道本門教主釈尊です。これは漫荼羅ではありません。また、この論理展開を、台学から考えた日蓮の思惟は尤もだと思います。ただし、この点で、彰往考来さんとわたしは同じ本尊観で議論していないわけですよ。これは議論の基礎が違っています。

1605犀角独歩:2006/06/19(月) 16:36:40

―1604からつづく―

わたしからすると、基礎データを間違えた計算は無意味であるという上記の東京都人口脱会者数に疑問を投げかける彰往考来さんが、何故こんなことを言うのか甚だ不思議です。以下のような相関になっていませんか。

誤った統監数:脱会者数
誤った経釈解釈:誤った教え

基礎データが実数でなければ、その結果は無意味だというわけですから、基礎資料が間違って認識して出来上がった教義・本尊は、無意味だというのであれば、論理は一貫しますが、ところが彰往考来さんはこの点で一貫していません。理系である彰往考来さんが、こんなことを記すことは摩訶不思議です。

> 私はこれらの誤りの存在があったとしてもそれで〝日蓮の教えは誤り〟とはいえないと考えますし、〝日蓮の教えは誤り〟とするなら、それこそ日蓮とは別れるべきです。

そんなことは、わたしの勝手ですよ。なんでこのようなロジックになるのでしょうかね。先には法華経をやめて阿含経をやれで、今度は日蓮と別れるべきと、どうして、皆さん、人の信仰を勝手にそうやって決めつけますかね。

わたしは先に鰯の頭も信心で、鰯の頭を信じる信教の自由も、個人の人権に関わるから守られなくてはならない。しかし、この信じることと、教えが真偽はまるで別の問題です。鰯の頭を拝んだって功徳の体験を得た主張する人がいても、「ああ、そう感じるんだ」という話であるわけです。しかし、その鰯頭教の人が「鰯の頭こそ、正しい本尊だ。何故ならば、わたしが拝んで結果が出たからだ」と主張したら、「おいおい」と言わざるを得ません。

どうも、このような場所で議論をしていると、正しい本尊を拝むと正しい体験がある、正しい体験ができたということは本尊が正しいことだという論法で考える習慣を植え付けられていると観察できます。

本尊の真偽と、その人が得たという体験は、実は因果関係はないでしょう。
あるのは、その体験を得た人が、その本尊を、どれだけ信じていたかどうか、どれだけて、真剣にやってみたかどうかということのほうです。

先にも記したとおり、わたしは日蓮は基礎データは間違えた。しかし、真実の究明しよう、善意で行動しよう、民衆と国土を救いたいという気持ちは間違っていない、わたしは、その日蓮を信仰していると言っているのです。つまり、教えが間違っていても、その精神性と事実究明という姿勢は信仰に価すると言っているのです。

それが漫荼羅を本尊と思い、日蓮が確定した唱題という行をやるという方法論は、採ってもいいと思います。大いにやってみるべきです。わたしは唱題も読経も好きですし、やれば、やってよかったといつも思います。しかしだからといって、法華経は釈迦が説いたものだと思いませんし、日蓮の時代が釈迦滅後2000〜2500年の時代だと思いません。

人を恨んだり、憎んだりする悪心を棄てよう、不軽菩薩として描かれたような心になりたい、人を慈しめる自分になりたい、世のため、人のためになりたい、事実を求めつづけようという日蓮のコンセプトをわたしは尊いと思います。その思いを漫荼羅や、仏像に、お題目という行で重ねているということです。ただし、日蓮と、現代人は基礎データが違う、でも、日蓮の善意と信念、その思考法は棄てがたい、さてどうしようかという話をしているのが、『現代人が納得できる日蓮教学』です。

> 科学は絶対なものではありません

まあ、よく引き合いに出される言葉ですが、わたしはいつもこう答えることにしています。「そうですね。しかし、あなたがしている信仰だって、科学ですら絶対ではないわけですから、絶対なものとは言えないでしょう。まして、あなたが感じた個人的な体験が、絶対を証明する基準とは言えないでしょう」

なお、霊宝殿で見た漫荼羅の真筆の持つ迫力は、わたしたちが漢字墨筆の精神風土に育ったから感じるものだと思います。世界に出て、この点で方向の転換を余儀なくされた藤井日達師でしょう。このお弟子である行明沙門もインド人に漫荼羅を見せたら、「なにこれ??」という調子で、まるで‘ウけなかった’という実体験を語ってくれました。人気があったのは、寧ろ、唱題だったそうです。それもドンツクドンドンの太鼓をつければ、尚更、よかったということでしたよ。

まあ、こう言っては何ですが、今回のご投稿は彰往考来さんらしからぬものでしたね。
長くなりますから、この辺にしましょうか。

1606乾闥婆:2006/06/19(月) 19:53:42
犀角独歩さん。彰往考来さん。横から失礼いたします。

蓮祖が釈尊一代の説法として五時教判を「事実」と認識しており、四十余年未顕真実をも「事実」として認識しており、仏滅後二千二百三十余年の末法であると同時代を認識していた以上、その教説が事実誤認の上に成り立っていることは明らかであり、そうであればその教えが誤りであることは当然の帰結であると思います。蓮祖はそれらが「事実」であると思えばこそ、他宗を激しく攻撃したのであり、国家諫暁したのであり、法華経を強く宣揚したのです。それらが事実でないとすれば、それらの行為の根拠はなくなります。法華経の宣揚にしても、そのあり方はまったく違うものになるはずです。法華経至上主義となって表われることはないはずです。

そのような事実を知った上で、たとえば曼荼羅を本尊とするのでもよいのですが、曼荼羅に向かって唱題をする、という行為の意味とはなんなのでしょうか。「南無妙法蓮華経」と唱えることの意味とはなんなのでしょうか。

唱題行の、正当性の根拠は、蓮祖の時代にあっても、論理立てて説明できるものではないと思います。結局のところそこには飛躍があり、多くの経・論からの引用で自説を展開する蓮祖にして、最後は文の底に沈めた「南無妙法蓮華経」と言ってしまいます。それはもはや「事実」認識ではありません。蓮祖の主観、直感のようなもの、宗教的な幻視のようなものでしょうか。では文底秘沈の「南無妙法蓮華経」は「鰯の頭」なのかというと、私はそこに蓮祖の法華経に生きた証を見、その題目へ共感することは、「鰯の頭」を信じることと同じではないと考えます。

しかし蓮祖は法華経を身をもって読んだにしても、その出発点には事実誤認があります。そのような事実誤認がなければ蓮祖は法華経を身をもって読むことはなかったでしょう。そうだとしたら「南無妙法蓮華経」とはなんなのでしょうか。曼荼羅とはなんなのでしょうか。犀角独歩さんは「それが漫荼羅を本尊と思い、日蓮が確定した唱題という行をやるという方法論は、採ってもいいと思います。大いにやってみるべきです。わたしは唱題も読経も好きですし、やれば、やってよかったといつも思います」とおっしゃられています。しかし私はいつも脱力してしまうのです。曼荼羅に向かい題目を唱える、しかしそれらの形態は事実誤認によって成立しているという想念が頭をよぎる、声が出なくなり、頭を抱えて蹲る。そんなことの繰り返しです。彰往考来さんは「〝日蓮の教えは誤り〟とするなら、それこそ日蓮とは別れるべきです」といわれます。そのとおりだと思うのですが、別れられません。蓮祖の教えは事実誤認に基づいた誤った教説であると考えているのに、蓮祖と別れることはできないのです。蓮祖の教えを肯定することもできないし、決別することもできないのです。

犀角独歩さんへの彰往考来さんの返事を、このような状態にある私は、状況打開への契機になりはしないかと期待して待っておりましたので、つい失礼ながら横から発言させてもらいました。

1607犀角独歩:2006/06/19(月) 20:03:50

1606 乾闥婆さん、こんばんは。

実にわたしの心の琴線に触れるご投稿です。
ですが、先に記したとおり、本日は疲労困憊で、就寝前に閲覧したところでした。追って、レスさせていただく所存です。

1608一字三礼:2006/06/19(月) 22:38:10
中世人にとっては、伝承と史実と多くの教訓譚が綯交ぜになったものが歴史です。現代人のいう歴史とはカテゴリー自体が違うのではないでしょうか。

また、天台五時判は、その名の通り‘教相判釈’ですから、「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」とは天台の比較文献によった見解であり、それはそのまま歴史認識と考えることはできません。

日蓮聖人が五時判を論証する時に用いるのは歴史書ではなく、経典です。
例えば、「守護国家論」には、何故「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」という順序になるか、が詳しく解説されておりますが、量が多いので少し引用します。

「問て云く、方等部の諸経の後に何の経を説き給ふや。答て云く、般若経なり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、涅槃経に云く『方等より般若を出す』。 
 問て云く、般若経の後には何の経を説き給ふや。答て云く、無量義経なり。
問て云く、何を以て之を知るや。答て云く、仁王経に云く『二十九年中』。無量義経に云く『四十余年』。」

無量義経の『四十余年』と同様の年数が法華経にも記されております。

「世尊、如来太子たりし時釈の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たまえり。是れより已来始めて四十余年を過ぎたり。」(従地涌出品第十五)

法華経が釈尊御晩年、最後の数年の説法であると言うことは、法華経の主張です。何故、最後の数年に説法の年代を設定したのか、については法華経の成立史やその教説から考察するべき事柄であり、これをそのまま史実に当てはめ、歴史的観点からに云々する事柄ではないでしょう。

日蓮聖人は、仏者の立場から経典や先師天台大師の見解を是としたのであって、それを歴史的に誤りとするのはどうでしょうか。

また、日蓮聖人の末法の年代が誤りというのであれば、正しい末法とはいつから始まるのでしょうか。

「世尊、後の五百歳濁悪世の中に於て」(普賢菩薩勧発品第二十八)

とありますが、正確な末法を特定する為には、何を基準とすればよいのでしょうか。

1609乾闥婆:2006/06/20(火) 01:37:50
一字三礼さん。

>中世人にとっては、伝承と史実と多くの教訓譚が綯交ぜになったものが歴史です。現代人のいう歴史とはカテゴリー自体が違うのではないでしょうか。
>また、天台五時判は、その名の通り‘教相判釈’ですから、「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」とは天台の比較文献によった見解であり、それはそのまま歴史認識と考えることはできません。

もちろん中世と現代では概念の範疇は違うと思います。しかしそうであったとしても天台五時の教相判釈を蓮祖聖人がどのように受け止めたのか、が問われているのではないでしょうか。いくつかの教相判釈があり、それらはどれも相応に正しいけれど、天台の五時判が一番よさそうだからそれを支持してみました、といったものではないと思います。ただ蓮祖の好みにあった<選択>をした、というわけではないと思うのです。ですから「守護国家論」において、さかんに経典による論証を行い、「大部の経大概是の如し。此れより已外、諸の大小乗経は次第不定也。或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。皆義類を以て之を収めて一処に置くべし。」と多少の例外はあってもおおよそはこうであろう、と詰めてゆくのではないでしょうか。蓮祖が天台五時判を論証する時に歴史書ではなく経典を用いるのは仏者として当然であると思いますし、また当時の歴史書の中に教典の成立順序をまさに<歴史認識>として説明しているものがあったのでしょうか。私はあまりその辺りに詳しい者ではありませんが、結局のところ、五時判の正当性を主張しようとしていることには変わりはないのだと思います。

>法華経が釈尊御晩年、最後の数年の説法であると言うことは、法華経の主張です。何故、最後の数年に説法の年代を設定したのか、については法華経の成立史やその教説から考察するべき事柄であり、これをそのまま史実に当てはめ、歴史的観点からに云々する事柄ではないでしょう。
>日蓮聖人は、仏者の立場から経典や先師天台大師の見解を是としたのであって、それを歴史的に誤りとするのはどうでしょうか。

しかし蓮祖は四十余年未顕真実を取り上げ、法華最勝を主張されているわけです。「史実」「歴史的観点」という言葉が現代のカテゴリーに属するのであれば、そういう言葉を使わなくてもいのですが、四十余年未顕真実とは時間の概念であり、当時もそうであろうと思います。蓮祖はそういう時系列に立って、法華最勝を主張されたことにはなんら変わりはないのではないでしょうか。その蓮祖の立たれた時系列の認識が現在明らかになっている事実と合致しない、ということに変わりはありません。そもそも釈尊一代の説法ではないわけです。

>また、日蓮聖人の末法の年代が誤りというのであれば、正しい末法とはいつから始まるのでしょうか。

仏滅後の年代は明らかな間違いであり、「正しい末法」「正確な末法」についてはそのようなものは特にないというほかないと思うのですが、どうでしょうか。大事なことは蓮祖ご自身の生きられた、その世相を「末法」と感受する、またそれに対処しようとする、その精神にあるのだと思います。

1610顕正居士:2006/06/20(火) 02:45:05
天台五時判について

天台教判の主内容は蔵・通・別・円の四教判です。五時判も最初華厳の会座を聴聞することが
できなかった劣機の人達、すなわち仏弟子(声聞)のために蔵→通→別→円の順序で段階的に
理解させたことですから、内容は四教判なのです。そして仏弟子は最終的に純円の法華経で
理解できたから、釈尊(ビルシャナ仏)の悟りそのままの華厳経と異なり、開顕の円教であると
します。
*華厳経は釈尊が実際の説法をする以前の自受法楽を描いた経、あるいはビルシャナ仏が
アカニダ天宮で説いた経です。ですから史実の仏弟子は当然、聴聞できなかったのです。

したがって五時判は仏教思想の論理的展開を釈尊一代に仮構した説です。論理的な順序
(通の五時)が内容だから、釈尊一代に仮構していても、時間的な順序(別の五時)を強調する
のは諦観の『天台四教儀』から流入した謬説だというのが、智旭(藕益大師)著『教観綱宗』の
批判です。
智旭は日蓮より幾世紀も後の人ですから、日蓮が別の五時にはまっていても仕方ないでしょうが、
湛然流(山外流)は「部教混乱」(四教判と五時判の混乱)だと指摘した証真は日蓮以前の人です
から、日蓮の天台理解には当時の学問レベルでも大いに問題がありました。
仏滅年代については中国天台宗のデタラメに日本人はみな気付かなかったから、日蓮を責める
のは無理でしょう。

1611今川元真:2006/06/20(火) 06:29:18
●三身→五時・経典本尊の雑乱を整理。●本尊・末法の様相に対応。●「法華経を解いた」のは意を汲み取る事を肝要の大事とした。●学説の一派の思い込みでも、学問の整理整頓は是か非か。●直説から考えれば、妙法蓮華経はどう捉えれば良いのか。●[諸行無常十界互具→一念三千因果倶時→妙法蓮華→真実開顕]●自分が騙されたから他人を騙して良い訳が無いと言うなら、学問の要点だけを取り出して活用するしかない。

1612犀角独歩:2006/06/20(火) 06:45:00

一字三礼さん、わたしは乾闥婆さんの疑問は尤もだと思います。

> 日蓮聖人は、仏者の立場から経典や先師天台大師の見解を是としたのであって、それを歴史的に誤りとするのはどうでしょうか。

歴史的な誤りではないでしょう。教義としての誤りです。
当時(鎌倉)の認識で組み立てられたからこそ、誤りなのでしょう。
日蓮はたびたび、「仏定めて」と言って経典を説明します。これは歴史の誤りではなく、一切経典を仏説であるとした当時の見解ですが、それを鵜呑みにすることは、個人の誤りに属します。
わたしたちが、石山圏という世界で「本門戒壇の大御本尊は絶対真実である」と信じていたのは、その世界では当然のことであっても、結局、虚偽であったのと同様です。事実を究明しようとするのに、誤認を庇うことはナンセンスです。

> …正しい末法とはいつから始まるのでしょうか。

この質問もナンセンスだと思います。
日蓮がいう末法とは大集經と以下、普賢品を折衷して査定されたもので、そもそも大集經自体、後世の創作であるわけですから、これを仏説として扱った時点で誤りがあります。当時はそうだったから日蓮本人の誤りとは言えないというロジックは無意味です。中世に太陽は地球の周りを回っていると人々が信じていたのは世間一般の通念であったから、その責任を負わせるのは酷であるというのみです。責任問題を言うのではなく、合っているのか・誤っているのか、そのどちらかかという話です。結局のところ、間違っていた事実は動きません。

また、仮に法華経を典拠とするとき、寿量本仏は「娑婆世界…常住此説法」のわけで、この宣言を八箇年の法華経で宣言した形になっています。「我此土安穏」ともあります。つまり、末法思想と寿量本仏に整合性はありません。

> 「世尊、後の五百歳濁悪世の中に於て」(普賢菩薩勧発品第二十八)

この文は後五百歳であって、五五百歳(2000〜2500)ではないわけです。
つまり、この文は大集經と折衷しない限り末法思想にはなり得ないということです。ただし、「若し後の世の後の五百歳濁悪世の中」などという言い回しをして、本来、同品が説かれた後の50年(500年)後のことであったものを意味深な言い回しをして、先延ばしをした羅什の底意にもその責任はあるのかも知れません。
また、同品が言うところは五百歳を特定したうえで「此の人は久しからずして当に道場に詣して諸の摩衆を破し、阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ法鼓を撃ち法螺を吹き法雨を雨らすべし」であって、実際のところ、勧持、不軽と同列に扱われた末世観との整合性もないわけです。

> 正確な末法を特定する為には、何を基準とすればよいのでしょうか。

先に記したとおり、わたしは、そもそも末法思想そのものがナンセンスだと思います。

1610の顕正居士さんのご教示は大いに参考になりました。
しかし、

> 日蓮を責めるのは無理

皆さんもわたしが記したことをこのようにお思いになっているのかも知れませんが、わたしは日蓮を責め立てる意図はありません。むしろ、その善意と探求心は信仰の値すると言っているぐらいです。ただ、そうであるけれど、仏説と日蓮が考えたことは間違っていたといっているのみです。責任問題を論じているわけではありません。事実誤認をしている点を指摘しているのに過ぎません。
また、そのような誤認を放置して、日蓮が正しいということはナンセンスだと考えるのみです。

1613管理者:2006/06/20(火) 07:22:21

>1161 今川元真さん

今川さんの投稿を以前より拝見致しておりますが、メモ、或いは、走り書きとも取れるような書き込み方法であると存じます。当掲示板は、対話を重んじる事を書き込みの基本原則と致しておりますので、少しこの基本原則から外れるように思っております。

ご参加の方から、今川さんの投稿の仕方だと、誰も応答できないのではないか、という指摘がなされています。出来ますれば、対話を前提として、対話を重んじた書き込みに変えていただけないかと存じます。特に、議論をするためのスレッドに於いては、そのように御改善をお願いいたしたく存じます。

1614犀角独歩:2006/06/20(火) 07:31:33

乾闥婆さん

『現代人が納得できる日蓮教学』797に移動しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/797

1615今川元真:2006/06/20(火) 12:06:33
管理者さん、私の書き込みが対話に適していない事はお詫びします。ですが、私は特定の人宛ての書き込みでは無いので解り辛いもしくは的外れな場合は指摘して頂ければと思っています。此の掲示板でなくても指摘された事はありますが同じ土俵でないと対話も途切れ途切れになると思います。なるべく努力します。

1616今川元真:2006/06/20(火) 12:51:11
【経典の記述をそっくり其儘受け入れられるか】●直説→直接話したor受け継いだ教え→宗教用語的絶対見解or鎌倉時代的相対見解、●今川元真(北伝仏教成仏得道+末法様相鎌倉時代応用≒普遍基礎)、犀角独歩(武士の世に起こった日蓮宗派に限界を見た気がした)●日蓮から受け継ぐのは、法華一乗の心or平和社会への志or末法の様相を呈した鎌倉時代に出来た社会哲学(意訳・創価哲学?・誉めれば血色良くなり楽観して前進する)●国家社会に例えると軍事費削減すれば福利厚生・教育学問に使用できる。いろいろ考えていろいろ浮かんでくる事を書いているので粗齬破綻をきたしているなら削除してもらえば良いと思います。解らない語句の使い方で書いていると自分では思ってないのです。

1617一字三礼:2006/06/20(火) 17:36:26
乾闥婆さん

> いくつかの教相判釈があり、それらはどれも相応に正しいけれど、天台の五時判が一番よさそうだからそれを支持してみました、といったものではないと思います。

いえ、そんな感じだったのではないでしょうか、もしくは一番理屈が通っていると考えたのかもしれませんね。

> 四十余年未顕真実とは時間の概念であり、当時もそうであろうと思います。蓮祖はそういう時系列に立って、法華最勝を主張されたことにはなんら変わりはないのではないでしょうか。

それは違います。
「四十余年未顕真実」とは「無量義経」に出てくる経文のです。経典に説かれる事柄を日蓮聖人が現実と捉えていたと考えるのはナンセンスであり、意味がありません。

「時に釈迦牟尼仏、所分身の諸仏を容受せんと欲するが故に、八方に各更に二百万億那由他の国を変じて、皆清浄ならしめたもう。地獄・餓鬼・畜生及び阿修羅あることなし。又諸の天人を移して他土に置く。所化の国亦瑠璃を以て地とし宝樹荘厳せり。」(見宝塔品第十一)

これは、法華経の釈尊の仏土を顕す経文で、現実的にはありえようもない娑婆浄土ですね。これを現実にインドに存在すると考えられたでしょうか。

本当に日蓮聖人が法華経が全て事実であり、現実に起こったことと把握したのであれば、日蓮聖人はインドの霊鷲山に向かわれたのではないですか。「常在霊鷲山」は法華経の中心、寿量品のご金言ですから。
ところがそんなことはなさらなかった(あたりまえですが)。日蓮聖人は霊山浄土を自己の内面、乃至は滅後に求められた。これは法華経を事実として認識していたのではなく、内面的に把握していたからでしょう

法華経典に従えば、たぶん鎌倉時代の当時であっても霊鷲山にいけば、まだ地涌菩薩が十方分身諸仏に礼拝しているところを見るのに十分に間に合うでしょう、なんせ五十小劫も続くそうですから(これは冗談です)。

「行の時は梵天左に在り、帝釈右に侍べり、四衆八部後に聳い金剛前に導びき、八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ。是くの如き仏陀、何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや。」(観心本尊抄)
「四大声聞の領解に云く「無上宝聚不求自得」云云。我等が己心の声聞界なり」(観心本尊抄)
「経に云く「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」等云云。我等が己心の菩薩等なり。」(観心本尊抄)

日蓮聖人は法華経のみならず、一切経を衆生の己心のことを考えておられたのではないでしょうか。これは顕正居士さんが仰るように、仏典は報身如来の説と考えられたからでしょう。

> 仏滅後の年代は明らかな間違い

北伝の仏滅年代のことですね。
‘明らかな間違い’とまで仰るのでしたら正確な仏滅年を教えてください。100年も幅のある仮説はいりませんから、正確な年代をお願いします。

経典というものは、象徴的に、時にはドラマティックに表現することが多々あります。それを現実と直接対比すれば、とんでもない話になってしまします。たとえば、法華経の序品では仏が眉間から光を放ちますが「現代医学の観点から、仏といえども人間のおでこの白髪から光が出るわけが無い。だからこの経は間違いだ」とか「それを信じている人も間違っている」など言うのでは議論にもならないでしょう。

犀角独歩さん

> 一切経典を仏説であるとした当時の見解ですが、それを鵜呑みにすることは、個人の誤りに属します。

そうでもないでしょう。偽経の存在は鎌倉時代でも知られていたそうですから。

仰りたいことは大乗は仏説ではない、ということなのですか。

1618犀角独歩:2006/06/20(火) 19:52:28

一字三礼さん

『 現代人が納得できる日蓮教学』798に移動しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1121476015/798

1619ひきこもり:2006/06/27(火) 14:28:19
結局御尊は、南無妙法蓮華経と唱える生命の中にあるわけです。創価は唱題根本にしていけば、
何も鬱ぐことも、落ち込むこともないと思いました。さぁ10時間唱題をやりましょう。

1620ひきこもり:2006/06/27(火) 14:29:48
>1619
誤)御尊
正)御本尊

1621真実探求者102:2006/06/30(金) 20:20:33
、、横からすみませんが、。 クルクルと変化しました様な「本尊」に対して、何も疑問の感覚もお持ち合わせがないようでしょうか、、? この点には不思議、、?、、イヤ、恐ろしさも視野になりましょうか、?

1622ひきこもり:2006/07/01(土) 13:13:13
犀角独歩さんは凄い人ですね(涙)。また池田先生みたいに強い人です。私は戒壇の大御本尊を
否定された独歩さんのレスには何も反論できませんでした。一度ノイローゼになりましたが、や
はり唱題をするにつれて、また少年時代、青年時代の生命力が蘇って来ました。

私は中学生から大学生の時まで東京池袋の常在寺によく行きました。学校の帰りに常在寺に行き、
唱題しました。戸田先生の葬儀の寺院でもある古刹ですから。昭和40年代前半までは常在寺の
御本尊は日精上人のものでした。後半に寺院が改築された後、日達上人の御本尊になったようで
す。

日精上人の御本尊でも大歓喜が得られたのです。ましてや大御本尊ではです。御本尊は信じる当
人の生命の中にあり、外には無いと言うのが日蓮大聖人のお言葉です。

私は創価ですけれども、未活です。個人主義なのです。しかしそれに疑問を感じ始めて来ました。
私は怒りっぽいので、若い時には創価の活動者としてそれを抑えていましたが、今は未活であるた
め、その悪い性格を爆発させてしまう恐れが出て来ました。こういうことが犯罪に繋がるのですね。

大御本尊はともあれ、私はまた朝晩の勤行唱題をするようになって、生き生きとしてきました。問
題は毎朝「聖教新聞」をきちんと読むかどうかにあると思います。

1623真実探求者118:2006/07/01(土) 21:12:02
、、またまた失礼します、。 、、ああだら、、こうだら、、御託を述べた最後には「、、聖教新聞の熟読、、?、、」、、に力点を集中でしょうか、? アノ手この手の、「、ダマシの技術、」、には、サスガ、、?、でしょうか、? コンナ子供ダマシでも、見破れない方も居るのでしょうか、? 本当に不思議でしょうか、??

1624真実知求者:2006/07/01(土) 21:57:53
ゴメンします。 ゴモットモです。 S会の回し者、?、かも、? 一見、疑問が浮上して動揺したフリをしながら、チャッカリと「宣伝」だけは主張したいようです、ネ、。 次のHPもご参考にはなります、けど、。
http://www.forum21.jp/

1625犀角独歩:2006/07/02(日) 07:36:18

ひきこもりさん

> 戒壇の大御本尊を否定…一度ノイローゼになりました

そうでしたか。そして、唱題によって立ち上がったということですか。

> 日精上人の御本尊でも大歓喜が得られた

学会の方で日精をよく言う人は珍しいですね。

> 御本尊は信じる当人の生命の中にあり、外には無いと言うのが日蓮大聖人のお言葉です。

「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。…我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は、地獄其人の心の内に候…仏と申事も我等心の内にをはします」(重須殿女房御返事)

生命ではなく、「身の内」「心の内」です。

> 怒りっぽい…犯罪に繋がる

まあ、そこまで極端に考えることはないと思います。

> 朝晩の勤行唱題…「聖教新聞」をきちんと読む

この新聞だけを読んでも、学会のことしかわからないでしょう。
情報と知識はできるだけ、間口を広げたほうが事実に近づけるでしょうね。

1626きゃからばあ:2006/07/11(火) 10:38:10

ここの掲示板でも板御本尊は偽物と書き込まれ、川辺メモについても前猊下の発言が取り上げられ、それにもかかわらず大石寺としては、メモの発言に対して反論をするだけで、板御本尊そのものが本物であるとの証明をまったく示されていない。

私個人にも大石寺を離脱した僧侶ではあるが、2名の方に直接「あれは偽物です」といわれた。たとえ離脱したとはいえ元大石寺の僧侶であり、どちらも達師の弟子である。

現在、私の立場は法華講である。
なぜ本山は板漫荼羅が本物だという証明をしないのだろうか?
せめて板漫荼羅と同じ木といわれている最初仏の鑑定だけでもすればいいのにと思ってしまう。
ならば法華講の立場で、川辺メモを参考として、「偽物の疑いがある」とし、さらにそれを本物として内拝させ御供養を集めていることを「詐欺の疑い」として告訴できるのだろうか?

しかしそのようなことをすると破門になるのだろうか?
法華講とは僧侶ではなく、ただの信者なのに破門があるのだろうか?
僧侶の弟子になりたくて入ったのではなく、板御本尊を信じて法華講になったはず。

いずれにしても板御本尊が本物との証明がなされないなら、信者の立場として大石寺を詐欺の疑いで告訴したい。
しかし残念ながら私は法律に詳しくない。
どなたかアドバイスをお願いします。

1627犀角独歩:2006/07/11(火) 11:37:19

きゃからばあさん

当然のこととして、わたしも同様のことを考えてきました。
この手のことは、松本さんの裁判も参考になるかもしれませんが、要は、具体的にどのような訴えを起こすかという点に焦点があると思います。
方法を熟考したいと考えます。なお、

> 法華講とは僧侶ではなく、ただの信者なのに破門があるのだろうか?

現に池田氏をはじめとする創価学会、顕正会も破門になっていますね。

1628きゃからばあ:2006/07/11(火) 12:58:10

独歩さん

アドバイスありがとうございます。

>要は、具体的にどのような訴えを起こすかという点に焦点があると思います。

周囲の人にもアドバイスを頂き、また同じ思いの法華講の方々にもご協力を得て、焦点を明確にしたいと思います。

破門の件ですが、よく住職に「信者さんは御本尊さまのお客だから…」といわれました。
そのお客を破門するとは情けないですね。
むしろ過去の僧侶の不祥事(買春等々)を、本山として管理者として、きちんとお客に詫びて欲しいです。

1629犀角独歩:2006/07/11(火) 22:44:58

きゃからばあさん

本日、上記の件、お詳しい方から、ややご意見を伺ってきました。
「難しい」ということでした。が、「では、やめた」という話でもないので、さらに考えてみたいと思います。この手について、うってつけの弁護士さんがいます。手の内を見せるわけにはいかないので、追ってメールでご連絡します。

信者が御本尊のお客ですか。石山とその末寺と、そこの専従職員のためのお客さんの間違いでしょうね。

1630きゃからばあ:2006/07/11(火) 23:13:21

独歩さん

>この手について、うってつけの弁護士さんがいます。手の内を見せるわけにはいかないので、追ってメールでご連絡します。

何卒、よろしくお願いします。

1631犀角独歩:2006/07/11(火) 23:27:24

きゃからばあさん

そうそう。わたしのメーラー、やられてしまい、アドレス帳がパーになりました。
空のメールでけっこうですから1通、送信してください。
そのアドレスに返信させていただきます。

saikakudoppo@rio.odn.ne.jp

1632ひきこもり:2006/07/12(水) 01:20:47
10時間唱題すれば、独歩さんも、きゃからばあさんも悩みは解けますよ。

全ては唱題と体験です。私は8歳の時に30分唱題して、信心の根本を得ま
した。また10代の時に1万遍唱題をして、大体験を得ました。

唱題こそ信心の根本です。

1633犀角独歩:2006/07/12(水) 06:30:33

ひきこもりさん

たった、それぽっちでいいんですか。
随分、少ししか唱えないんですね。
なお、誤解があるようですが、悩みなんかありません。
あるのは、あなたが拝んでいる本尊が間違っているという事実だけです。

1634きゃからばあ:2006/07/12(水) 08:45:48

ひきこもりさん、こんにちは。

あたりまえだけど唱題は量ではありません。
そして御本尊の真偽は絶対必要であり、その結果をきちんと後世に残さなければいけないと私は考えています。
大石寺にしても板御本尊が本物だと言う証明をきちんとやる義務があるはずです。
なのにやらない。だからやってもらう方法を考えているんです。

1635犀角独歩:2006/07/12(水) 09:20:08

きゃからばあさん

唱題の量のことですが、わたしは石山で「題目は一万遍でも多からず、一遍でも少なからず」と習いました。

けれど、日寛は『本尊鈔文段』に「…像法の智者大師すら尚毎日一万遍なり。何に況や末法の我等をや。一たび人身を失えば万劫にも得がたし。 一生空しく過ごして永劫侮ゆることなかれ云云」と言います。この「一万遍」とは、もちろん「天台大師、毎日行法の日記に云く『読誦し奉る一切経の総要、毎日一万遍』」のことでしょう。

智邈ですら、一日一万遍である、まして末法我等が、それ以上であらなければなるまいと日寛は言ったわけですね。また、この唱題は、学会の超特急で1時間で3000回も唱えてしまうものであるはずはなく、となれば、毎日、半日は唱題三昧ということになるのでしょう。

日蓮の修行は、およそ1日8時間だったと、どなたかが仰っていました。
SGI勤行だとか、略式だなどという不謹慎は、この修行にはないでしょうね。

ともかくも、模造を弘安2年10月12日、日蓮直筆を日法が彫った、最初仏も同木から作ったという石山のアナウンスは、800万人375億円となり、それは四半世紀を以て瓦礫と化し、それでも飽きたらず、いまだに奉安堂を再建して、斯かる行為を繰り返しています。真実は糺明されなければなりませんね。

1636ひきこもり:2006/08/04(金) 10:09:48
>>1635
独歩さん。
水の信心ですよ。それこそが真の幸福に繋がる直道だと思います。
あと体験こそ全てです。いかに教義を研究して、本尊の真偽を探究してもナンセンス
だと思います。

私には体験があります。これは大幹部もやっと納得してくれた体験です。真剣に祈祷
すると現証が出ます。出る人と出ない人もいるようですが。現証があれば創価を辞め
ることはまずありませんよ。

1637犀角独歩:2006/08/04(金) 10:44:41

ひこきもりさん

あなたに、わたしの何がわかるのですか。
わたしに経験がない、現証がない、体験がない、水の信心がないと、なぜ、あなたにわかりますか。

そのように人を決めつける、創価の体質に嫌気がさしたということです。そのようなことをして、恥じない創価の実証体験談は、気分が悪いだけです。故にやめて、本当によかったと思っています。外には、創価では体験できない清々しい世界があり、実証がありました。やめたことのない人にはわからない境地です。
狭い創価の外には果てしない天空が広がっているのです。

1638下学上達:2006/08/09(水) 03:05:54
私も学会員ですが、独歩さんの言われる通り
学会の排他的、独善的な所に不信を持ちました。

誰かさんが素晴らしい信心で大体験を積まれたかもしれませんが、
未入信の普通の人でもそんな体験をされた方は大勢いらっしゃると思います。

しかも「偽本尊」を拝んでの大体験なんて私は、したくないですね。

1639やっぱ真筆がええで・・・:2006/08/11(金) 13:36:27
>しかも「偽本尊」を拝んでの大体験
ここで言う所の「偽本尊」とは大石寺の戒壇本尊を指すのでしょうね?
まさか、大石寺の戒壇本尊並びに、分身散体のご歴代の本尊は本物で、
創価、正信、顕正の本尊は「偽本尊」に該当すると言う意見なのでしょうか?

1640真実知求者 38:2006/09/07(木) 18:06:51
,、、全く、、御最も至極にぞんじます、、。 
 小生も「真筆本尊こそ命と、、ゾッコンでした、、ヨ、、」。
しかし、、しかし、、、でしたヨ、、。  
  都合二回ほど真筆・本尊様をご拝見しました、。  一回目は「、、ヤットこさ、、日蓮様にお会い出来ました、、と言う大感動、、でした、、」、、。
 二回目は、、ドーモ、、周りの様子が、、???、、だな、、??と思いました、、。
 判ったのは、、「古代〜中世の文物を展示しているルーブルや大英博物館の一般の観覧者の視線と全く、、同じ、、でした、、」、、のです。
 その当該寺院には得体不明の力士像〜その他の木像などがワンサカ、、でした、、。
 富士門流の清楚・簡素な寺院祭壇を見てきた者には、、ガツンとした、、「、、強大な違和感と戸惑いを実感、、」、、したものですが、、、、。
 いかにすれば、、「、、日蓮様の誠の御誠心を体得、、体現、、出来る、、自分、、が、、??」、、ではないか、、と愚考しておりますが、、。 ご指導のほど、、。

1641犀角独歩:2006/09/08(金) 08:17:28

> 1640 真実知求者 38さん

わたしはまるで反対の感覚を経験しました。
石山を離れて久しいのですが、つい数ヶ月前、かつての所属寺院の本堂に入り、その本尊をしげしげと眺めました。1枚、どかんと置かれた黒光り、金ぴかに光る文字が目立つ「本尊」、須弥壇とその荘厳はたしかに他日蓮門下とさほど変わらないものの、黒光り、金ぴか文字の板だけが鎮座した様は、実に異様と映じました。

日蓮自身(たぶん、ご自身で刻まれたであろう)持仏を常に拝んで要らしたわけですから、そもそも仏像がないという奉安は、どうにも不可思議な感覚を懐きます。

ここで、わたしは自分自身をしげしげと観察したのですが、かつて、鳥居やら、仏像を忌避した自分があった、いまはかつての本尊を黒光り・金ぴかで気味が悪い、仏像の相貌を見る心安らかな気分となる、その心境の変化は何だろうか。
わたしにとって、前者は刷り込まれた感情操作であったのに対して、後者は、自分が選んだ感情であったということです。

ただ、その逆もあるわけで、どちらかが正しいという二極、唯一選択ではなく、どちらもあり・どちらもなしもまた、各人を各人の自由意志でつかみ取る者であればよい、「地獄に堕ちる」「罰が当たる」と脅されて、してきた選択から卒業するところに解があるのだと思います。

1642とんび:2006/09/09(土) 05:05:23
こんにちは。

私は、戒壇の御本尊は、いわゆる日蓮聖人の実際に遺された物ではなく、後生の
ものだろうと思います。

ただ、ある「花」を写生すれば、100人100用の絵ができます。しかし、その
描いた指し示す「花」は同じ物。また、それらをコピーしても同じ物、同じ「花」を
指し示していると思います。

 要は、本尊を信じているか、南無妙法蓮華経に背いているか・沿っているかの問題
だと思います。

1643れん:2006/09/10(日) 17:38:40
昔に書いたことのおさらいになりますが、石山所蔵の日眼師写本の心底抄の奥書に石山日有師の高弟南条日住の筆にて「当家随分の書と故上人常住御披見申され候なり」とあります。この日住が言うところの故上人とは勿論日有師です。住師の筆によれば有師は心底抄を「当家随分の書」と大変高い評価を与え重要視していたことが分かります。この心底抄には「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し」とあります、有師の当時にすでに石山に本門の戒壇に安置するという彫刻本尊なるものがあったならば、有師は心底抄の当該部分について、当然批判を加え、日住も当然それを奥書に念記するところでしょう。しかし、有師は実際のところ心底抄を批判せず、むしろ「当家随分の書」と心底抄を重要視し大変高く評価してたことを日住が書き残したことは、少なくとも石山は、日有師の当時、また日有師の逝去直後には、石山に彫刻本尊なるものは存在せず、当時の石山の事相戒壇義も心底抄のそれと同義であったことを証しています。ですから、今の石山の彫刻本尊を中心とする事相戒壇義は、石山に於いても近世以降の新義ということでしょうね。
犀角独歩さんが素朴の疑問のスレッドにおいて、蓮師が文永八年の最初の漫荼羅では「之ヲ書ス」とし、文永十一年の時点では「之ヲ図ス」となっていることを指摘されておりますが、建治二年二月・釋日与授与の漫荼羅では「佛滅後二千二百二十余年之間一閻浮提之内未曽図画大漫荼羅也」と“図画”と記されている点も、蓮師の漫荼羅を考える際には考慮に入れなければならない点かも知れません。心底抄には「本尊の“図”」とありますから、初期興門には蓮師の漫荼羅について“図”という意識も存在したことは、注意すべき点であると存じます。

1644無学無明:2006/09/10(日) 18:11:13
とんび様。
 他の欄でも投稿させて戴きましたが、事、ご本尊に関しては、貴殿は写生の御感覚のようですか?
 今ここに、日蓮祖師の原点は、何も足さず、何も引かずを視野に入れるべきかと愚考中です。 昨今のIT・通信の進展により言論の自由度は倍加しています。
 もう、力で押さえ込もう、などは疑問です。 そろそろ、アホな?庶民の成仏を応援してくださいませ、、。

1645犀角独歩:2006/09/11(月) 20:42:48

れんさん、ご賢察、まことに参考になりました。

彫刻本尊、日有造立説は、日蓮宗でも一般化していますが、当掲示板で考えてきたとおり、わたしは、この説を採ってきませんでした。その点をさらに補完していただき、学恩に感謝申し上げます。

1646れん:2006/09/12(火) 18:40:39
犀角独歩さん
過分なるお言葉を賜り恐縮です。
奉蔵於奥法寶に掲載された有師筆の漫荼羅三幅の首題の経字をみますと、蓮師御筆漫荼羅における第三期の筆法が使われていますね。下野阿聞書によると、有師は越後本成寺貫首に「御正筆をあまた御拝有るべきなり」と語っていたことを記しているので、有師は数多の“御正筆”の蓮師漫荼羅を直拝した経験があったようです。これから推定すると片岡随喜師・山中喜八師ほどの正確な分析には勿論程遠かったでしょうが、有師は自らの見た範囲で大雑把な蓮師御筆の首題の経字の変遷は認識していたのではないかと思われます。ですから有師が自らの漫荼羅にわざわざ蓮師御筆漫荼羅における第三期の経字の書体を用いていたのは注意すべき点です。
少なくとも心底抄の事相戒壇義に同意していた有師には、漫荼羅を本門戒壇の本尊とする教義は無いのですから、有師には彫刻本尊を作成する動機は無く、蓮師の経字の変遷をそれなりに認識していたと思われる有師が、脇書きの“弘安二年”と年代が相違する原本を用いた彫刻本尊を作成したということも考えにくく、以上の点から石山が彫刻本尊を作成した年代はもっと時代が下ると考えていますので、私も日蓮宗で定説化している石山彫刻本尊有師造立説には同意しておりません。
有師の造立説の初見とされるのは、重須日浄師の記録ですが、私は不勉強ゆえ、その詳しい内容をしりません。この日浄師の記録が全文公開されれば、何か参考になるものがあるかもしれませんね。

1647犀角独歩:2006/09/13(水) 00:27:19

れんさん、重ねてのご教示、有り難うございます。

日浄録に関しては、三学無縁さんは、その原本を見ずとして、疑義を表していました。もっともなご見解であると考えます。
日有造立説の根拠が揺らぐのに、この点を訂せない大崎の継承は、さておいて、わたしどもは前に進むことにいたしたいと存じます。

1648無学無明:2006/09/13(水) 21:25:19
 れんさん。
 そんな簡単でしょうか、、?
 当時のヤリトリを最小限でも考慮したいものです、。
 他家・他宗の本尊観察結果こそが、???、、でしょうか、、?
 即ち、自分方に無く、、他方に存在する何か、???、、が、、????
 二箇相乗、、以来持たざる僻み根性、、??と、権威の発揚、?、と言う誘惑・欲望に、、???、、
 でしょうか、、??  何かを「ヤラカス下地=素地は、、すでに存在、、??」、、かも、、??

1649れん:2006/09/14(木) 21:11:15
無学無明さん初めまして。1648
>当時のヤリトリを最小限でも考慮
当時のヤリトリとは、室町期における重須と石山・重須と西山・保田と石山との正嫡争いのことでしょうね、その程度のことは、富要を所持されている方ならば百も承知でしょうね。しかし、同時代の文献でそのヤリトリ(争い)の内容を書き残したものがほとんどなく、文明十四年の日郷門下と石山との問答を記した本乗寺日会記の「大石寺久遠寺問答事」(この問答の際、重須日浄師が石山本尊堂にて同座したことが記されている)が残っている程度でしょうね。しかし、この大石寺久遠寺問答事には彫刻本尊の議論やそれに類したことは出てきません。そのことは、この時点では石山においてまだ彫刻本尊が作成されてなかったことを示すのでしょうね。
>他家・他宗の本尊観察の結果こそが…
数多の蓮師御筆漫荼羅を見た経験があった日有なら、間違っても年代も筆法も弘安二年のものとことなる日禅授与漫荼羅を原本に彫刻本尊をつくらなかったでしょうね。日有が自筆の漫荼羅に蓮師における第三期の経字の筆法を使用していることは、日有が弘安期の蓮師漫荼羅の経字の筆法には第三期と第四期の二種類があることを大雑把ながら認識していたからでしょう。彫刻本尊が日禅授与漫荼羅を原本にしていることは、日有に存したであろう第三期と第四期の経字に対する認識が曖昧になり忘れ去られた、日有の死後、だいぶ時代がたってからの作成であるためでしょうね。
>即ち自分方に無く他方に存在する何か…
当時の富士では、重須でも石山でも西山でも心底抄眼師本奥書から探るに、戒壇の本尊は心底抄に有るとおり、仏像安置であった訳で戒壇にかかるもので他方に存在する何かを想定することは難しいでしょう。二箇相承は重須が自門の寺家の正当性を主張するために作成した偽書であり、その作成動機は石山の彫刻本尊作成動機と同様「権威の発揚という誘惑・欲望」と見るのはうがった見方でしょうか?
>何かをヤラカス下地=素地…
日有は事相事戒壇論については心底抄に依ったものの、門流の本尊を漫荼羅と蓮師御影に選定したことは、やがて、富士門を席巻する不造像不読誦義の下地の一つとなり、それから戒壇安置も仏像から漫荼羅にすり替えられることになり、石山が彫刻本尊作成をヤラカス素地になったであろうことは想像にかたくないですね。
以上ご参考まで。

1650無学無明:2006/09/15(金) 22:31:20
  横からお邪魔しましてすみませんでした。 御丁重なるコメントには無学無明のオチコボレの自分ではお返しする言言も有りません。
 また、正嫡の件ですが、当時の現場(現況)では欲望、?、、の対立も存在していたようですか、?
 サスガの厳しいガンコ、?、な日興様の神通力も寄る年波には勝てず、?、反対の意見具申する方方も出現したようでしょうか、??
 、、当該の執政者が元気な内に次の後継者を選択の重要性も含蓄、、でしょうか、? ソノ点、日達様が?が残念でなりません、、。
 しかし、、その流れを継承し、、より良い変革への息吹をと前向きな、何かを、、、感じます、。 れんさんの真摯なお心には感服しました、。 今までのご無礼を陳謝を致します所存です、。 、、早々、、。

1651れん:2006/09/16(土) 18:06:41
無学無明さん
こちらこそ、無学無明さんの鋭いご賢察に敬服しております。


これは独り言の呟きになりますが、連陽房聞書には“大石寺置文なる文章を挙げたあと「異本に云く寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひと遊ばし置きたまひ畢ぬ」とありますね。異本に云くの内容から、その異本が恐らく現在の日興跡条々事の内容にあたると思われます。ということは、日興跡条々事は日有の代には石山で偽作されていたことにはなると思います(日浄録には日有の条々事偽作の説があると見聞してますが、残念乍ら現時点で原文にあたれない由で残念です)。異本に云くの御本尊とは、日有以後の石山貫首の江戸時代の十七世日精ですら「日興身に宛て給る等は是れ万年救護御本尊の事なり、今房州妙本寺に在り」と記しているので、日有の言った御本尊とは保田妙本寺所蔵の万年救護本尊を指していると思われますね。
もっとも、当時の富士門(重須・石山・西山)での事戒壇安置は仏像というのがその所伝な訳で、保田の万年救護を戒壇本尊とする説も後世の不造像不読誦義と後世に石山が偽作した彫刻本尊に引きずられてしまった解釈ということになると愚考します。
現存の条々事の弘安二年云々から、弘安二年の蓮師御筆の存在の可能性も以前考えましたが、興師筆漫荼羅からその可能性はあるものの、犀角独歩さん等のご教示により、たとえ存在したとしても嘉暦の重須での盗難で紛失してしまい、該当する漫荼羅が現在の富士門系寺院のどこにも残ってないので、結局、嘉暦の盗難で紛失したままと理解致しました。

1652犀角独歩:2006/09/17(日) 10:27:50

れんさんほか諸賢


ちょっと、失念したので、ご教示いただきたいのです。

(1) 石山・大講堂に安置されている安第16大本尊の模刻は、いつのものでしたでしょうか。

(2) 日亨氏が石山の日禅授与と北山のそれと区別が付かないとした文書は、どこに載ったのでしたか。

以上、2点、よろしくお願い申し上げます。

1653独学徒:2006/09/17(日) 12:25:50
犀角独歩さん、

(1)は、能勢順道師の諸記録第1巻74ページの記述によれば、本山第30世日忠上人の御代に彫刻されたもののようです。

(2)の方は「富士日興上人詳伝」の613ページの記述ではないかと思われます。

1654犀角独歩:2006/09/17(日) 18:23:04

独学徒さん

有り難うございました。
重ねて恐縮ですが、(2)の該当箇所の文章をアップしていただけませんでしょうか。

1655独学徒:2006/09/17(日) 21:26:32

犀角独歩さん、

堀日亨著「富士日興上人詳伝」
第11章−直弟子および孫弟子の略伝
九、日禅上人
613頁4行目〜6行目

『禅師へご授与の御本尊については、興師のご加筆のが現存すべく、それと同形のが北山本門寺にも法道院にも存在する。予が、眼が拙いためかいずれがご真筆でありやは判断しかねる。』

以上の箇所が、(2)でいわれたところかと思いました。

1656犀角独歩:2006/09/18(月) 00:08:47

独学徒さん

有り難うございました。

1657彰往考来:2006/09/18(月) 06:20:23

>1652 犀角独歩さん

(2)についてすでに独学徒さんが回答されていますが、

堀日亨『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会)の613頁に
「禅師へのご授与の御本尊については、興師のご加筆のが現存すべく、それと同形のが北山本門寺にも法道院にも現存する。予が眼が拙いためかいずれがご真筆でありやは判断しかねる。幸いに両本尊を同坐申し上げたら判明するであろうが、その機会はなかなかあるまい。先年上総国東金にある祖書鑽仰会の片岡清助氏が大挙撮影のときに北山にて予も参列したが、同氏らの忌憚なき真偽の評言に同山の司判(檀徒惣代人等)達が憤慨していた。そのためでもあるか、同会の改称である立正安国会から出版せられた全御聖筆の中の「御本尊集目録」には北山本門寺蔵御聖筆十一幅の中にはようやく徳川神君に有縁の鉄砲曼荼羅という一幅しかのっておらず、稲盛六郎授与の分は模本であるとして、他山の御正本というのに端書に記してあり、その他の多数は取るに足らぬもので、ことに本項の禅師の御分はあるいは拙劣なる模本と見たのかもしれぬ。もっとも、これを伯耆曼荼羅と同山でいっているのは、天正度に武田家に強奪されて、後に伯耆国で発見せられて送り越されたより、しか名称するのであるが、これと法道院の御分との学術的判断は安国会主にも問い合わせもしようし、とにかく将来の楽しみに留保しておく。」
とあります。
参考までに片岡氏による北山本門寺での撮影は、昭和4年2月23日から28日の間です。
また、禅師授与漫荼羅が法道院から富士大石寺へ奉納されたのは昭和45年3月25日です。

1658犀角独歩:2006/09/18(月) 06:48:38

彰往考来さん

ご教示有り難うございます。また、種々、申し訳なき点、お詫び申し上げます。
とある方から、お預かりしている『堀帖』も所蔵してありますので、一度、お越しください。

1659無学無明:2006/09/20(水) 21:12:22
,、、1651、、れんさん、、、。
 経緯、、傾注的な思い、、希望的な思い、、など、、問題は、、一筋縄では、、??
でしょうか、?  しかし、 
年波が高い、、中・高年の我々からの願い、、??  ただヒトツ>>>「、、、人生の最後は、仏の境涯で終わりたい、、、!!!、、」」、、と確信していますが、、???  甘い、、??、、 でしょうか、、??

1660小心者:2006/09/21(木) 19:00:59
 1659さん、横からゴメン、です。
 庶民の自分は「俗に他者が言う成仏、云々、」には卒業したいです。
  こういうアマ言で誘惑・勧誘する集団には断固として「No、!」を言うべきですか。
 今でも公開されている「日蓮・真筆・本尊」をコピーして(後ろメタサは有るが)、拝み、日蓮の本誠を感得・体得・体現出来るような唱題を実践してみましょう。
  現今は定点が不明確です。 思考と錯誤の最中です。 もう、他の団体には? でしょう、? 自らが思考し試行すべきでしょうか、、。 それがダメだったらやり直しも可能でしょう。
 現実の厳しさは、株式投資と同じく「自己のそれぞれの責任で行動されたし」と言う現実を無視は不可能な時代だと実感しますが、諸賢さまの御意見・提言はいかがでしょうか ?

1661犀角独歩:2006/10/04(水) 08:26:28

せっかくの偽作論議なので、こちらに移動しました。

石山は、当初、日興の息のかかる位置にあり、教学的影響は、日道が、日順に師事して学び、坊まで建てていたわけですから、この辺までは同じように扱えるのでしょう。ただし、漫荼羅書写に関しては、日目は日興とは違う書き方をしているわけですから、ここに師伝の関係は見られないと思えます。日目の教学が如何ばかりのものであったかはわかりませんが、むしろ、日興―日澄―日順―日道という学問系譜があり、日興―日目とは別ではないのかと、わたしは考えています。肝心の漫荼羅書写に関して、日興を継がなかった日目が正当な日興の系譜と見なすことはできないだろうと思えます。

その前提は前提として、石山における崇敬漫荼羅は日興の時代から経年して入れ替わっていく様をしっかり押さえないと、恰も「戒壇本尊」、もしくは「弘安二年本尊」と称されるものが700年来、一貫して同一物であるという詐術に惑わされることになります。

すでに問答名人さんとも十分に議論したところですが、日興授与の弘安二年本尊、すなわち、授与書に「日興上人」と記され、さらに「二千二百三十余年」と記された漫荼羅が、当初の北石共通の崇敬漫荼羅であったという推測は成り立ちます。
れんさんは確か、日興80歳の盗難事件には懐疑的なお立場であったと記憶しますが、仮に、これが事実であれば、この段階で、この漫荼羅は失したことになります。

ただし、ここで、れんさんが注意を促してお出でのように、日興門下における本尊義は、けっして漫荼羅正意ではなく、仏像造立を本懐とする顕正居士さんのお言葉を籍りれば、「設計図」としての漫荼羅図なのであって、日興の本尊義とは当初、四菩薩を副えた釈迦像であったのでしょう。つまり、当初の段階で、日興の戒壇本尊は所謂、一尊四士であったと考えられることになります。

次の段階では、日浄記は捨て置き、日有の身代彫刻となりますが、さて、これは如何なものでしょうか。
れんさんがお示しくださっているように、日有もまた仏像本懐の人であったようで、漫荼羅面から見れば、身代とは別に、先にわたしが示した石山紫宸殿と称される本尊は第82漫荼羅であり、それを模刻をしたものを重視した流れがここに生じたと思えます。もっとも、日有がこれを紫宸殿本尊、ましてや、師資伝などと称したわけもなく、落陽の評判を盗用して言い出した名称はともかくとし、重要視していたのは事実でしょう。

さて、次の段階では日主の示書の初出が挙げられることことになるのでしょう。この腰書、造立由来を記した文句は、では、どの漫荼羅を原本にした彫刻に付されたのかという点は、はっきりしません。わたしは、条々事その他のごとく、石山「真筆あり」といって影本を出さないような代物は胡散臭い真贋もはっきりとしない代物であって、まともに取り扱う資料とは言えないという立場で一貫していますから、この示書の証憑性はないに等しいと考えます。ただ、この時点で、このような書を置く、石山史捏造の資料としては興味は惹かれます。

そして、ようやく日精の御影堂建立と御影像後ろに置かれた板漫荼羅の登場となるわけです。では、この板漫荼羅が、現在のものと同一化、もしくは原形かは、御影堂の宮殿厨子高さ・幅・奥行を計測すればわかることになります。日達氏の発言にあるとおり、いまの彫刻は半丸太型であるというわけですから、この須弥壇、宮殿、厨子が作り替えられていないのであれば、その形は丸太一本がすっぽり収まる形になっていなくてはならないわけです。なにせ、あの御影は板漫荼羅と同木を材としたというわけです。つまり、板漫荼羅の半丸太の、一方の半丸太で作られたというからです。この厨子が丸太一本入る奥行きがあり、その高さが、彫刻本尊を納める高さと幅があるかどうか、作り替えられておらず、そのままで、サイズが合わなければ別のものであったということでしょう。

さらに完則、日憲が見たものの相違、そして、明治の写真へとなっていくわけです。
一尊四師仏像からはじまった戒壇院の本尊は、中途から板漫荼羅へと変遷し、さらに数代に亘り、何度も再造されていったと考えざるを得ません。

もっとも、完則、日憲が見たものは御前立本尊だという説は成り立つでしょう。ここで、まことしやかに取り沙汰される半丸太の裏側は厨子になっており、そこに小さな板漫荼羅が安置されてあり、これこそ、正真正銘の「戒壇本尊」であるという話も囁かれます。しかし、御前立本尊といい、裏に仕込まれた本尊といい、ならば、800万信徒から375億円の金を集めて建立した正本堂、そして、いまの奉安堂に「本文戒壇の大御本尊」と言って内拝させるそれは、身代物であるといっていることになります。人を食った話と言うほかありません。

1662犀角独歩:2006/10/04(水) 08:33:44

【1661の訂正】

誤)落陽
正)洛陽

誤)本文戒壇
正)本門戒壇

1663れん:2006/10/04(水) 11:51:13
私も、富士門流ことに石山における本尊の変遷に対する認識は犀角独歩さんに同感です。
日興在世の嘉暦の本尊盗難は、八通置状の記述は信頼に欠けるものの、日順血脈の記述もあり、盗難そのものは史実で、その盗難されたのは、問答さんと独歩さんが議論された漫荼羅であったろうと私も認識しております。
半丸太の裏側が厨子で、そこに本当の彫刻があるということがまことしやかに語られているとのこと、それが事実と仮定したとして、中にあるのがまた彫刻だという点で、なんか玉葱の皮みたいな話だなと思いました。

1664犀角独歩:2006/10/04(水) 13:48:54

れんさん

半丸太の裏側は厨子で、その中の板漫荼羅という風聞ですが、これは、わたしの聞いた限りでは、彫刻ではなく、板に墨書したもの…墨図というべきかもしれませんが…だというのです。

それが彫刻であれ、墨書であれ、もし、そのようなものがあれば、それを拝す方法、たとえば、須弥壇・宮殿・厨子裏側に、秘密の扉があるなどの仕掛けが伴わなければならないことになりますね。そんなことから「本当だろうか?」という疑問を、当然、わたしは懐いています。ただ、その話の出先は信頼できな人ではないのです。まあ、しかし、仰るように玉葱の皮を剥いて本体を探すような話ですね。

1665れん:2006/10/04(水) 17:23:15
犀角独歩さん
>1664
彫刻ではなく、板に墨書したもの…
ということは、もし、それが存在するならば、感じとしては柳澤師の「石山本尊の研究」に写真掲載された日元師や日英師の墨書板本尊みたいなものということになりましょうか。それが本当なら相貌など興味が涌きますね。もし、半丸太の裏が厨子であるならば、独歩さんが仰る設備が必要でしょうから、実際はどうなんだろうかとは思います。
>ただ、その話の出先は信頼できな人ではない…
独歩さんがそう仰るだけに、安易に否定出来ないですね。その墨書板本尊が存在するとして、それが何時頃成立したものか、と推測すれば、やはり、有師の死後の不造像不読誦・大漫荼羅正意の本尊観に傾倒し、戒壇本尊=大漫荼羅と認識されるにいたった時代の石山貫首により偽作されたものだろうことは想像され得るところですね。

1666名無しさん:2006/10/04(水) 19:20:18
要するに日蓮さんの真意を継いだ者が誰もいなくて、
日興でさえ「我流」の教義になっているし、
現在は曼荼羅第一と言われていたのが、本当は「木造仏の一尊四士」だったり。
結局、今は誰も「本当の御本尊」を拝めていない、と言う事になりますね。

1667犀角独歩:2006/10/04(水) 19:47:31

1666 名無しさん さん

「はじめまして」で、よろしいのでしょうか。
一尊四士本尊という仏像形式のアイディアは、これを日興義であるというのが、富士門下の上代資料です。この資料の証憑性は、ここに取り敢えず論じませんが、ともかく、そのような考えが日興に寄せてあったのは、事実でしょう。

では、日蓮その人の本尊観は、と言えば、観心本尊ということになるのでしょう。この四字成句を、どう読むのかは、門下一大論争の一つです。しかし、字面を読めば、己心に観ずる本尊であることは明らかでしょう。この点は、同書の内容から窺えます。では、その心に観じる本尊はしかし、日蓮己心に納まったままではわからないわけです。では、その形を表せば「出現仏像」ということになるわけですが、この役務を出家僧侶である日蓮自身が追うというのではなく、一方の四菩薩応現である正法護持の為政者が堂塔伽藍と仏像を建立する、この形式が、その後成句となった一尊四士であると暗に記すのが同書であると、わたしは読みます。『四菩薩造立抄』という真偽未決書がありますが、これは中山門流に仮託された対告衆を採っています。となれば、日興門流のみならず、中山方でもこのような考えはあったわけで、これは日興の影響なのか、いや、むしろ日蓮祖師の影響なのかは、考証されてしかるべき点であろうと思います。

日蓮その人は、しかしいずれにしても、終生、釈迦一体を持仏とされ、日興もまた、この仏像を崇敬していたことは動かし難い史実でもあるでしょう。しかし、その仏像を通じて、日蓮は己心の本尊を観ていたのは、本尊抄一巻から類する間違いではないと、わたしは考えます。

仰るような「本当の御本尊」を、日蓮が何と考えていたかと言えば、諄い文になりますが、観心本尊にほかならないのではないでしょうか。

1668犀角独歩:2006/10/04(水) 19:56:44

少し補足です。では、観心本尊とは言えば、以前も記しましたが「我等己心釈尊五百塵点乃至所顕三身無始古仏也」です。

1669鳥辺野:2006/10/05(木) 16:34:39
>2272彰往考来さん
ありがとうございます。なるほど、これを見れば時代別に火災の時期と再造されたとされる時期が大体わかりますね。私が実際に石山で拝したのは五代目?でしょうか(笑)
>2273れんさん
ちなみに執事さんは「日道師は後代(日行師、日時師)によって四世に奉りあげられたものであろう。元々下之坊の人で大石寺には直接は関係の無い人物だと思われます。日郷上人とは直接対立はしてない。」とおっしゃっていました。

1670名無しさん:2006/10/05(木) 18:56:38
<1667 犀角独歩様

独歩様の本尊に対する御考察、本当に勉強になりました。
これからもよろしくお願い致します。

1671犀角独歩:2006/10/06(金) 08:34:38

名無しさん さん

こちらでは「さん」付けということになっております。
どうぞ、お気軽にお声かけください。

この本尊と仏像、あるいは、漫荼羅の関係というのは、モデルと写真の関係で説明するのが一番、わかりやすいとわたしは考えています。

モデルを撮影した写真は、モデルの写真ですが、モデルそのものではありません。しかし、そのモデルが写っている以上、モデルを大事に考える人は写真も大事に扱います。

同じように仏像は、本尊仏の像であって本尊そのものではありません。しかし、本尊を形に表したものである以上、本尊を信じる人は堂塔の思いを寄せ、大切に扱うでしょう。

しかしながら、仏像そのもの、漫荼羅そのものが本尊であるといってしまうのは、写真をモデルそのものであるといってしまう過誤に等しいというのが、執行師も示す本尊論であると、わたしは思います。

そのような意味で日寛に闡明となる人即法本尊論は、この誤謬を犯しているものであり、現行、石山が彫刻本尊を「生身の日蓮大聖人」などと称するのも同様です。いわば、器物崇拝という象徴の病を、ここに見ることができます。

1672犀角独歩:2006/10/06(金) 08:35:34

【1671の訂正】

誤)堂塔の思いを寄せ
正)同等の思いを寄せ

1673名無しさん:2006/10/06(金) 18:57:30
>犀角独歩さん

仏像と御本尊の関係が大変判り易くて、理解しやすかったです。m(_ _)m
ところで、仏像という点で、気になったのですが、
石山に「日精上人」という方がおられましたよね。
この方は「造仏立儀」を唱えて昔も今も盛んにバッシングされていますが、
日蓮聖人や日興上人でさえも造仏された形跡があるのにも拘らず、
何故に日精上人だけが責められるのかが、少し疑問に思いました。

1674犀角独歩:2006/10/06(金) 20:57:24

名無しさん さん

1973のこと、まずは以下の論文をお読みになってみてください。
たぶん、こちらの常連さんは、ほぼ全員、お読みになっているものです。

執行海秀著『初期の興門教学に於ける本尊意識の展開』
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_003.html

1675鳥辺野:2006/10/07(土) 04:16:12
本日犀角独歩さんのご本「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」を瓔珞出版事務局さんのネット書店にて購入致しました。今から楽しみです。

1676犀角独歩:2006/10/07(土) 07:57:59

1675 鳥辺野さん

恐れ入ります。追って、ご感想、ご意見、ご叱正を賜れれば、有り難く存じます。

1677犀角独歩:2006/10/07(土) 09:27:28

>1674への自己レス

執行海秀師著『初期の興門教学に於ける本尊意識の展開』において、

「宗祖本仏論の思想の最初に現れたるものは、恐らく妙蓮寺日眼上人の康歴2年(興滅49年)の著述にかゝる『五人所破抄見聞』であろうと思はれる」

という記述がありますが、この点は、すでに当掲示板でも議論されたとおり、もっと後代のことに属するでしょう。また、この点は、執行師自身、その後、たしか、説を改めていたと記憶しますが、いまは該当論文名を失念しています。

石山における戒壇本尊論以前の本尊変遷に日蓮本尊論を挙げるべき点を落としていました。夙に有名な『化儀抄』の一節「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」とあります。類文を探れば、日有の門に帰し学んだという日教は『穆作抄』に「日蓮上人の御影を造立し奉るべき事御本尊に契当」というのであって、本尊・日蓮の像が御影であるとしていますから、本尊変遷に御影信仰は含められてしかるべきでした。ただし、「爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり。是に付け、非に付け、有りの儘に図し奉るべきなり」と『富士一跡門徒存知事』に日興の言として記されるとおり、その用途は、元来は、記録的な意味合いが強かったことが知られます。しかし、後代、日有、日教の時代には、その御影を本尊とし、破立仏像に変わるものとする変遷が見られます。

ただし、ここで注意を有するのは、本尊は、ただちにイコール本仏であるということではない点です。殊に日有は日蓮本仏論者であるというより、日蓮本尊論者であるといったほうが的確であり、さらに日教に至っては当住本仏論者、つまり、いまでいう「御法主上人猊下」が本仏であることをいわんが為の建前として日蓮本仏であり、それは代が変われば、当代に仏の位置が移動するという考えの持ち主であった点は留意されなければならないでしょう。日要の日本仏論からの大石寺日蓮本尊批判は、この点からなされたものであることが窺えます。もっと、この日要は、『申状見聞』でいう、これまた、夙に著名な一節「若し此の状奏間の人、未来於てに有らば、之れ日目が再来と可し知る」という、石山で言う「広宣流布の暁には日目上人が猊座の登る」という伝説は、この妙本寺の伝説を採ったもので、現段階で日目再誕以前と先山信者は欺かれているのは、しかし、各人の勉強不足の故と言うほかありません。この後に、この書の著者・日我は、この日要をして日目その人であると断定せんがために、この遺言伝説を挙げているからです。

石山では当住(当代)が日蓮本仏に代わる仏であるという一方、妙本寺では、日要を日目と持ち上げている様は、富士門下でまことしやかに囁かれる、会長本仏論と会長日目再誕説の下らない会員操作の口コミと同等であり、笑うに笑えぬ、日蓮本仏論の濫觴をそこに見るわけです。

やや、戒壇本尊論から横道に逸れましたが、改めて執行師の文を読むと

「大曼荼羅は、本門の本尊たる本門の教主釈尊の仏心を図顕したものに外ならないのであったのである」

とありました。わたしは、この点では、師の解釈とは見解を異にします。天下の執行師、殊に興門教学からの卒業に、単なる読書の師ではあるといっても甚大な学恩を被る師に対して、僭越ではありますが、ともかく、わたしは、以上のように考えてきませんでした。わたしは「大曼荼羅は、本門の本尊として、日蓮己心に観た久遠本仏・菩薩と印度参集の他の八界衆生を図顕したもの」ではないのかと思います。この点は皆さんのご叱正を賜れればと存じます。

1678独学徒:2006/10/07(土) 10:48:52

犀角独歩さん、こんにちは。

私はこのところ漠然ではありますが、富士門における本尊義は「現前三宝」に即した三種の本尊観があったのではないかと考えています。

所謂
仏本尊=一尊四士・・・中尊は本門教主釈尊
法本尊=大曼荼羅・・・中尊は本門の題目
僧本尊=日蓮聖人・・・中尊は末法法華行者

私は一塔両尊をはじめとする大曼荼羅の形像化は、中尊が「本門題目」であることから、多数の仏像が使われてはいるものの、その性質は「法本尊」に含められるものと考えています。
もちろん三宝本尊のほかに別勧請、或いは「稲荷」や「妙見」など、日蓮宗の歴史の中で霊験(石山・創価系でいえば体験・功徳)を発したことで、多くの信仰を集め本尊として加えられていったものもあります。

現石山では、日蓮本仏思想を基にした「住持三宝」を強く主張しているものと思います。
「住持三宝」を日蓮本仏論圏の立場から拝せば、

仏本尊=日蓮聖人
法本尊=大曼荼羅(石山の場合「本門戒壇之大御本尊」、保田の場合「万年救護大本尊」)
僧本尊=歴代法主

となり、さらに三宝はそれぞれが異なった存在ながらも、不思議一であるとするところがありますので、法主本仏などが延長線上に出てきてしまうのだと思います。

しかし、どのような曲解をしても会長本仏はありえない、それを主張するには「凡夫尊極」という中古天台思想のバックがなければ成立しないものだと思います。

1679犀角独歩:2006/10/07(土) 13:48:03

独学徒さん

三宝の本尊という整理され方は、なかなかユニークだと思いました。

時系列で言えば、仏本尊は、日蓮から日興初期の考え、次に来るのは僧本尊…、泥んだ富士方の成句を使えば「人本尊」となると思いますが、これは日有から見られながら、この段階では日蓮本尊ですね。それで、最後に来るのが‘法本尊’という日寛義でしょう。江戸時代のことですね。

富士門では、法本尊という表現に、あまり違和感を懐かないわけですが、日蓮祖文から見ていくとき、このような考えは、まったく見いだせず、もちろん、日興にもなく、日有の段階でもないであろうと思います。つまり、法本尊から漫荼羅を解読するという考えは、日蓮・日興の原意とは乖離していると思いますが、どうでしょうか。

漫荼羅を、日蓮が本尊と見なしていたかという点については、わたしは慎重です。はっきりと確認できるのは日興の段階でしょう。しかし、では、日興が漫荼羅本尊を、法本尊と見なしていたか。見なしていなかったでしょう。

「題目を書事は釈迦の智慧を顕す」というのは、至極、当を得た表現であると、わたしは思います。

中央に大きく書いてあるから、それが本尊の実体であるかと言えば、そうではないく、妙法蓮華経の五字は上行所伝の正体で、それを伝える故に中央に大きく書かれているのではないでしょうか。

ともかく、この法本尊(もっと、言えば、人即法の本尊)という日寛の発明を、あたかも日蓮義、日興義であると騙されてきたことを、自己点検して、日蓮の素意に迫ろうとした日々でした。

もう一点。

> 三宝はそれぞれが異なった存在ながらも、不思議一

これは、たぶん、『真言見聞』の「凡謗法者謗仏謗僧也 三宝一体故也」という依文を仰っているのでしょうね。「不思議一」は湛然の『法華文句記』に「本迹雖殊不思議一」というのであって、これは本門・迹門について釈することで、三宝を論じるものではないと思います。

> 「凡夫尊極」という中古天台思想

この四字成句は、日眼『五人所破抄見聞』、日教『百五十箇条』『六人立義破立抄私記』にまず見られながら、日有にその影を見ず、日寛が『六巻抄末法相応抄第四』に使いますね。日寛の使用は、たぶん、『就 注法華経御義口伝』の方便品八箇大事「即者凡夫即極諸法実相仏也」、また、廿八品一文充大事の譬喩品「直至道場」の経文を釈した語よったのであろうと思えます。果たして、日眼、日教は、何を根拠に斯様な言辞を述べたのでしょうか。日寛は、御義口伝によったのでしょうね。いずれにしても、日寛の段階で飛躍がある点は看過できません。

仰る「中古天台思想」とは、この場合、伝・伝教作とされ、日蓮があずかり知らない『秘密荘厳論』の「伝教云一念三千即自受用身自受用身者出尊形仏矣。出尊形仏者無作三身云事也云云」をもって展開されるところですね。

会長本仏論は、これらの教義的背景というより、門下教学では、まったく考えられてこなかった“日蓮再誕論”という新義(珍義?)によっている点が挙げられます。つまり、これは、日目再誕説が先行し、それが何と日蓮に転用されたという経緯があるのではないかと、わたしは思います。教学的な濫觴を探れば、日教の当住本仏論の飛躍から生じた見ることが出来るかもしれません。

「『人間革命』は現代の御書」「君にだけ教えるけれど、池田先生は、実は日蓮大聖人の生まれ変わりなんだ」という口コミ操作を、青春のまっただ中で受けたわたしは、会長本仏論の生き証人です。しかし、口コミという、現代の口伝は、実に便利で、何の証拠も残さず、その罪過の追及をまんまと逃れています。

1680犀角独歩:2006/10/07(土) 13:54:23

一つ書き落としました。法本尊という考え方は、『本尊問答抄』の「問云、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定べきや。答云、法華経の題目を以て本尊とすべし」という一節を受けたものであろうと思います。(これは独学徒さんがということではなく、門下一般論としてです)

この底意には「妙法蓮華経とは法である」というお定まりが、存しています。
しかし、果たしてそうでしょうか。妙法蓮華経とは、妙法蓮華はたしかに法のことであると言えますが、妙法蓮華経とは経であり、経題(すなわち、題目、現代語で言えば、題名)ではないでしょうか。

妙法五字は法である、わたしは、この考え方は「はじめの一歩」で躓いていると思うのです。

1681独学徒:2006/10/07(土) 14:45:05

犀角独歩さん、

御教示ありがとう御座います。
犀角独歩さんも仰せになられていますが、「法本尊」「凡夫即極」(「凡夫尊極」は私の誤認でした。)は、御義口伝(就注法華経口伝)が大きな論拠だと思います。
いまだに創価学会が、御義口伝を重宝するのは「凡夫即極」の思想が、極めて都合が良いからだと思います。
「日蓮から日興」との口伝として創作された御義口伝に、「法=題目」の思想が盛り込まれていることから、御義口伝成立時に富士門に題目=法という考えがあったものと考えます。
『法とは諸法なり、諸法の心と云ふ事なり。諸法の心とは妙法蓮華経なり。』(全集709)
私は体系化としては日寛を待たねばならなかったものの、「法=題目」の思想は、御義口伝創作の段階で富士門内に存在したものと思いますが、この点いかがでしょうか。

御義口伝の創作が本因・百六箇の両抄と同様に、慶林坊日隆の影響あってのことと考えれば、石山有師の代からそう遠くない時期に、主に京都近郊の富士門内にそのような思想を考案した人がいたと考えられます。

1682犀角独歩:2006/10/07(土) 17:08:09

独学徒さん

1681に整理されるところ、ほぼ、賛同します。
引用される「法体者心云事也 法者諸法也 諸法之心云事也 諸法心妙法蓮華経也」はしかし、法=題目であるというのではく、諸法の“心”が五字であるという意味ですね。

まるで違う視点から述べますが、通読するに、この御義口伝を創作した人は、しかし、たぶん、あまり、漫荼羅を意識していたように思えませんが、どう思われますか。それにもかかわらず、この書が法本尊の依拠とされていくところに皮肉を観じます。

> 京都近郊の富士門内にそのような思想を考案した人

こう聞きますと、寡聞であるわたしは 日教 しか思い当たれません。

ついで、1680に自ら記したことを批正すれば、『四信五品抄』には「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳 初心行者不知其心 而行之自然当意也」とあります。日蓮は妙法蓮華経の五字を経巻でもなく、その義でもない、ただ法華経全体の意なのだといいます。では、意とは何か。この前文に「汝何不勧進一念三千観門唯令唱題目許」と疑いを立て、「妙楽云 略挙経題玄収一部 又云 略挙界如具摂三千」と言います。つまり、意とは一念三千であり、唱えるところに既に、その意に当たる故に、一念三千の観法を進めないというわけです。言うところの観法とは唱題以前の止観入禅における観念観法を言うのでしょう。

観心本尊をいう日蓮が、観法を斥けるというコントラストに、天台と日蓮の相違が闡明です。

題目が本尊なのではなく、本尊の意、心が妙法蓮華経なのだということではないですか。身が本尊(仏)であれば、心(意)が妙法蓮華経であるという関係です。

1683独学徒:2006/10/07(土) 18:13:19

犀角独歩さん、

>題目が本尊なのではなく、本尊の意、心が妙法蓮華経なのだということではないですか。身が本尊(仏)であれば、心(意)が妙法蓮華経であるという関係です。

なるほど、さすがです。
本門本尊と本門題目が色心の二法にあたっていますね。
正直まいりましたといった感じです。

ちなみにこの本尊を形像化すると、釈迦像の胸中に曼荼羅を奉納する形が適当でしょうか。

先の三宝に当てはめた論拠薄弱な富士門本尊義の愚論は、現富士門における「仏本尊」の欠如を指摘しようと思ったもので、この「仏本尊」欠如の穴埋めに日蓮本仏義が採用されていったのではないかと考えていました。
日蓮本仏義は「仏本尊」を欠いてしまった富士門において、現状を正当化する上でのデマンドであったのだろうと思いました。

それにしても御義口伝の内容はよくできていますね。

1684犀角独歩:2006/10/07(土) 19:09:53

独学徒さん

愚論など言うことはありません。よくお考えになっておられると思いました。

> 本尊を形像化すると、釈迦像の胸中に曼荼羅を奉納する形

なるほど。このような形式は、もちろん、ありだと思います。
しかし、これでは絵像は、どうでしょうか。二次元ですから、不可能ということになります。ところが、日蓮は、この点をしっかりとクリアした方法を述べています。オリジナルな考えと言うより、仏教一般で行われていたことであると思います。その記述は『木絵二像開眼之事』にあります。この点は、以前、問答さんと議論した点です。

「仏滅後は木画の二像あり。是三十一相にして梵音声かけたり。故非仏。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥也。」

では、どうするのか。「三十一相の仏の前に法華経を置たてまつれば必純円の仏」というのが、日蓮の開眼義であったのではないでしょうか。

ここでは、心法が法華経典となっています。それをさらに端的に進めれば、妙法蓮華経の五字と発展していったのでしょうね。

> 富士門本尊義の愚論は、現富士門における「仏本尊」の欠如

まったく、仰るとおりで、先に紹介した執行師の慧眼も、この点を指摘したものでした。

> 御義口伝の内容はよくできていますね

そうですね。けれど、かつて顕正居士さんがご指摘くださり、また、彰往考来さんもご紹介くださったように、山中師の研究で、就注法華経御義口伝、すなわち、『注法華経』に就いての御義口伝であるはずなのに、この書の作者は、『注法華経』を見ていないことが判明しています。また、弘安元年の日付を謳っていながら、六老の所望によってなどと記すなど、偽書捏造にしては、“アナ”が目立ちます。摂受の優那陀日輝、折伏の田中智学ともに、重視したこともあり、殊に戦後の創価学会定番書の一つですが、日寛の『六巻抄』同様、よく出来上がった虚構というのが、わたしの懐く感想です。この書を偽撰という見解を確定づけた執行師には、改めて敬意を表します。

1685独学徒:2006/10/07(土) 20:08:23

犀角独歩さん、

>愚論など言うことはありません。よくお考えになっておられると思いました。

こうかなと思うことは沢山あるのですが、裏の取れないことが多く犀角独歩さんはじめ、こちらの常連さんのご投稿を拝すたびに経験の差というものを感じずにはいられません。

しかし資料の収集ばかりではただのゴミの山と一緒ですので、皆さんのようになにか理論だてた見解を持ちたいと念願しています。
今後も初歩的な指摘を飛ばしてしまうような投稿があろうかと思いますが、どうぞお付き合いとご教授の程、お願い申し上げます。

>、『注法華経』に就いての御義口伝であるはずなのに、この書の作者は、『注法華経』を見ていない・・・よく出来上がった虚構というのが、わたしの懐く感想です。

そうですね。
一部の信仰圏にとっては、飛びつきたくなるような内容が盛り込まれていると思い、「よくできていますね」と皮肉をいってみました。
北山や要法寺の経本にも、御義口伝の文言が引用されており、御義口伝の富士門にあたえた影響は大きいと感じ、また残念にも思いました。

1686独学徒:2006/10/12(木) 22:36:37

今日は「本門戒壇之大御本尊」が、建立されたと伝わる日でした。

すみません、つぶやきにもかかわらず、こちらのスレッドに書かせていただきました。

1687犀角独歩:2006/10/13(金) 07:37:28

所謂「本門戒壇の大御本尊」が何故、10月12日に造立されたのか。
それは日蓮の生誕が、釈尊入滅の前日に定められたことと関連するように思えますね。

それにしても、「…造立件の如し、願い主・弥四郎国重、法華講衆等、敬白す、弘安二年十月十二日」と記してあれば、願い主が造立したことを敬って白(もう)したということですから、漫荼羅図示の日付でもなければ、日蓮の言葉ではないことも当然のわけです。こんな日本語の基本的な誤謬から、さらに『聖人御難事』の記述と結びつけられたうえで伝説が捏造されていくのは、むしろ、滑稽とさえ映じます。

ちなみに、この文は頭に「右」が付いたり・付かなかったりと、歴史推移で変遷が見られます。板の腰の部分に書かれた文章であるにもかかわらず、「右」というのは、さて、なぜでしょうか。

1688鳥辺野:2006/10/18(水) 17:39:14
本日、犀角独歩さんのご本「必携 図解 大石寺彫刻本尊の鑑別」を読ませていただきました。まず読み終えた今の気持ち・・・まさに目から鱗、と同時に胸のすく思いです。特に興味を持てた部分は93頁のそれぞれの時代に諸師が参詣した際に記録した曼荼羅の座配図、日禅授与本尊、日昇師書写本尊それぞれの諸尊を記載したデータです。つまり彫刻本尊は見るたびに違っている、昔(といっても室町時代頃?)から存在はしていたけれど同一のものではなく、複数存在したのだという事が一目でわかります。また全体の感想として・・・彫刻本尊に関して事情を全く知らない人でも図解など大変わかり易く非常に「やわらか」な印象を受けました。以上僭越ながら私の感想を述べさせていただきました。ありがとうございました。拝

1689犀角独歩:2006/10/19(木) 07:46:45

1688 鳥辺野さん

ご高覧、また、ご感想、有り難うございます。
図形で解けば、所謂「本門戒壇の大御本尊」と言われる彫刻が、日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模・作為されたものであることは一目瞭然であった点をご理解いただけたかと存じます。また、ご興味の趣、再造という点についても、同様かと存じます。

1690独学徒:2006/10/20(金) 21:47:37

犀角独歩さん、御参加の皆さん、今晩は。

自己レスになりますが、

仏本尊=一尊四士
法本尊=大曼荼羅

というのは、日蓮宗新聞社発行の日蓮宗勧学院監修『宗義大綱読本』の92ページにでていました。

先の投稿では、まるで私のオリジナルな発想のような投稿になってしまいましたが、こちらも既に出尽くした議論であったようです。

これは偶然にも、本日聴講に出かけた第59回日蓮宗教学研究発表大会にて、ある発表者の方の話の中で出てきました。

日蓮宗勧学院監修『宗義大綱読本』は、買うだけ買ってほとんど読んでいませんでした。
一寸反省しました。

1691犀角独歩:2006/10/20(金) 23:18:32

独学徒さん、こんばんは。

法本尊について『日蓮宗事典』では「日蓮宗で本尊の本質を「法」、即ち法界・教法とする説。一大秘法の題目に本尊義を求め、その題目を説く仏を本尊とする「人(仏)本尊」と対す。この本尊の表現形式は聖人の大曼荼羅を正意とする」となっていますね。日蓮の意図から乖離した説明であるというほかありません。


本尊を人・法や、仏・法に区分して立てることは、奇妙なことだと思います。

何度も議論されてきましたが、日蓮の本尊観は、観心本尊で己心に仏を観る一念三千の成就(仏界が欠けては三千種にならない)からでしょう。では、天台の教学において十界は十法界というのであって、十界一々を法と界し観るわけです。つまり、法本尊と言えるものがあるとすれば、それは一念三千という心法なのであって、それは衆生と仏の心に具わるところです。故に日蓮は、これを「珠」とまで言い、その珠を裏(つつ)む故に妙法蓮華経の五字の尊厳と、その付属を言うわけでしょう。つまり、一念三千“法”界が覚知されればこそ、己の未来の成仏も約されるからです。このような関係に日蓮の本尊と法は構成されています。仏(身)と心(法)をそれぞれ本尊と呼ぶことは、まことにナンセンスというほかありません。つまり、同事典の記述は、心から身体が出来たのだから、心こそ本尊であるという唯心説的な色合いを示したもので、日蓮の教学とは異なっていると、わたしは思います。つまり、日蓮滅後の教学解釈を日蓮教学と見なす過ちを犯しているものであると思う次第です。

以上の意味から、わたしは先の独学徒さんのご投稿にレスした次第です。

1692独学徒:2006/10/20(金) 23:57:24

犀角独歩さん、返レスありがとう御座います。

日蓮宗勧学院監修『宗義大綱読本』では、

仏本尊=一尊四士=能証の表現
法本尊=大曼荼羅=所証の表現

としていまして、この二つの本尊は「能証」と「所証」という表現の違いであって、本質は同じであるとしています。
つまり日蓮の思想がどうあれ、現日蓮宗では、仏像も大曼荼羅も、どちらも「本尊」であるという見解が観取されました。

1693犀角独歩:2006/10/21(土) 06:57:25

独学徒さん

仰るところが、当然のこととして言わんとすることであろうと思います。
しかし、いったい、法本尊というのは何でしょうか。そんなものを日蓮は想定していなかったでしょう。三つの法門では本尊・題目・戒壇と鼎立しています。

わたしは、この法本尊という言葉を聞くと、法身大日如来(本尊)という真言義が彷彿とします。

一体、いつ頃から、法本尊などと言われるようになったのでしょうか。

1694独学徒:2006/10/21(土) 08:11:24

犀角独歩さん、お早う御座います。

>一体、いつ頃から、法本尊などと言われるようになったのでしょうか。

本当ですね。
具体的な文書は存じ上げませんが、やはり「仏像」か「曼荼羅」かという論議の末、未決着の状態で現在のような考えで定着しているのではないでしょうか。
そこには「仏像」か「曼荼羅」か、という議論の二分のみがあって、「観心本尊」という蓮祖の疎意・三つ目の選択肢には気づかなかったのではないでしょうか。

正直私も犀角独歩さんから指摘されるまで、頭の中は「仏像」か「曼荼羅」か、はたまた「御影」かぐらいしかありませんでした。
本来このスレッドは、彫刻本尊について議論する場でありますが、本尊についてもっと視野を広げて考えて生きたいと思いました。

1695犀角独歩:2006/10/22(日) 10:45:28

独学徒さん

以下に移動しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/586

1696犀角独歩:2006/10/22(日) 13:03:58

わたしのブログに、それもまったく関係のないところに以下のような投稿がありました。自分の意見を述べるときに、人を貶さなければ、何も書けない非人道性を気の毒に思います。このような嘆かわしい点は、同情することとして、以下、全くの誤解を、わたしの主張も読まず、一文を取って記すものですが、このような見当違いにも、いちおう、レスをつけておきます。


> 武田
>  いきなり失礼ですが、あなたアホですね。

この書き出しです。

>  日禅授与の御本尊と所謂「本門戒壇大御本尊」の筆跡が同一人物のものである可能性は高いと思いますが、それがどうして、
「日禅授与本尊を元に本門戒壇大御本尊は作られた」
ということの証拠になるんですか?
「本門戒壇大御本尊を書いた人物がその後日禅授与本尊を書いた」
という事実経過も十分ありえます。
 これだけでは、どちらが先に書かれたものかわかりませんから。

ところがこれは、違います。「戒壇の本尊」は書かれたものではなく、彫られたものです。まず、この点で事実誤認をしています。
その日付は弘安2年10月12日とされますが、そのデザインの特徴は弘安3年5月前後のものですから、「戒壇の本尊」は、その時期の漫荼羅をモデルにしていることが知られます。

筆法の変遷に関しては、『御本尊集』をよく眺めれば、直ちに了解されるでしょう。また、わたしのページでもこの点は、既に記してあります。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

では、どちらが先かと言うことになりますが、日禅授与漫荼羅に、その特徴は、書き込まれた日付と合致しています。(‘經’字の筆法の特徴から言えば、4月と見るほうが適切ですが)一方、「戒壇の本尊」は日付と特徴が合致しません。この点からして、この本尊の信頼性は著しく低いものとなります。

「戒壇の本尊」は弘安2年10月12日という日付を記しながら、実際は弘安3年5月頃の漫荼羅の特徴を有する、つまり、その弘安3年5月に原本を得ない限り、その後の彫刻は出来ないことになります。故に、「戒壇の本尊」が日禅授与漫荼羅より、先に造立された可能性はないことになります。

> 日禅授与本尊が間違いなく日蓮大聖人の御真筆であるならば、あなたが立証した筆跡の同一性は、逆に、本門戒壇大御本尊が大聖人の御真筆であることを示す証拠にも成りうるのです。

これは、わたしの記したことを少しも読んでいないか、あるいは、理解する能力がない故の難癖です。
まず第一に、わたしは、首題四大天玉の大部は日禅授与漫荼羅を原本とし臨模したと記しましたが、愛染はまったく他筆であると指摘したのです。故に作為であると記したのです。

仮に日禅授与漫荼羅が真筆であったとしても、愛染その他の部分は他筆を使ったパッチワークであると記した点を武田さんなる人物は知らないようです。
となれば、この方が言う立論は成り立ちません。

さらに日禅授与漫荼羅は、所蔵する石山、そして、北山以外の関係者で、この‘二つ’の漫荼羅が真筆御筆であるとする鑑定はありません。
日禅授与漫荼羅が真筆でなければ、武田さんの論法で言えば、「戒壇の本尊」の原本が仮に日禅授与漫荼羅と別にあったとしても、偽物ということになります。

なお、わたしは、原本鑑別を行う際に『御本尊集』に載る漫荼羅を、その文字を相似比較をし、どれとも合致しないことを確認したうえで、日禅授与漫荼羅を相似比較を行いその結果、両者が一致することを突き止めたのです。これは日禅授与漫荼羅が本物であれば、「戒壇の本尊」も本物という比較ではなく、現存の複数の漫荼羅と「戒壇の本尊」を比較することを目的としたものですから、まったく的はずれな難癖であるわけです。

批判し、人を「アホ」呼ばわりなど論外のこと、最低限、しっかりと相手の主張を読み、失笑を買い、むしろ自分の愚かさを晒すようなことはしないことです。以上

1697ひきこもり:2006/10/28(土) 02:03:28
独歩さん。私は戒壇の御本尊に祈って、全てが叶いました。1日唱題1万編ですね。

1699犀角独歩:2006/10/28(土) 10:41:47
わたしは問いかけられれば、答えることを旨としていますが、あなたの問いかけは当スレッドの趣旨とはまったく無関係です。しかし、敢えて、一言記せば、願いが叶ったのは叶う程度のことであったからでしょう。たとえば、不死を願えば叶いますか。叶わないでしょう。

「戒壇の本尊」が単なる模造品でも願い・願わないという演劇の道具にはなります。この模造品が置かれる富士から程近い地にあったオウム真理教のサティアン、そこにあったシヴァ大神の像は、暴いてみれば発泡スチロールで造られた安普請のものでした。しかし、ばれるまでの間のはったりの役に立ちましたし、ここの信者の信仰の糧とも見なされていましたよ。

天台法華から日蓮法華、通じて、菩薩の誓いを立てた人々の誓願は、そんな容易い誓いではありませんでした。四弘誓願です。

衆生無辺誓願度
煩悩無数誓願談
法門無人誓願智
仏道無上誓願成

何一つかなえられない永遠の菩薩の誓いです。それでも不休不息の精進で、道を求める人はこの誓願のために歩みます。もっとも創価学会、顕正会を含む石山には、こんな高尚な願いは、絶えてないのでしょう。

1日1万遍の唱題を模造の彫刻にかける願とは、その質実が違うということです。しかし、あなたの、四弘誓願に比せば小さな簡単に叶った願いも、やがて、菩薩道へと花開くことを信じることといたしましょう。

1700独学徒:2006/10/29(日) 23:18:47

横レスにて失礼致します。

>1日唱題1万編ですね。

会をあげての指導性ではないにしても、創価学会の地域の現場ではよく耳にしました。
「1日1万遍」や「100万遍の唱題」など、大きな願をかけるときに地域の幹部に相談などしたときには、よくこの手の指導がなされたものと思います。

しかしこの「1日1万遍」や「100万遍の唱題」こそ、真言密教の「虚空蔵求聞持法」の「マントラ(真言)」を「題目」に変え、本尊を「虚空蔵菩薩」から「大漫荼羅」に変えはしたものの、性質的には同じような気がしてなりません。
「虚空蔵求聞持法」は日蓮自身が「日本第一の知者」となる願をかけ実践したといわれますが、真言密教の修法であることにはかわりません。
「虚空蔵求聞持法」は100日間の間に100万遍のマントラを唱えていくことが主な修行法ですが、その間の食べ物の制限や細かい環境設定などがあるところは、創価学会などで行われるところの「100万遍唱題」とは違ったところでしょうか。
1日1万遍のマントラを100日間唱え続け、100万遍のマントラを唱える。この辺はなんか似ているような気がします。
創価学会の地域幹部が、そこまで考えて指導しているとは到底思えませんけども。

ほとんどつぶやきのような横レスになりました、失礼しました。

1701犀角独歩:2006/11/04(土) 08:38:03

【1699の訂正】

読み直したら、なんともはや、大事なところで誤打をしていました。

誤)煩悩無数誓願談
正)煩悩無数誓願断

1702みかん:2006/11/19(日) 07:26:48
百万遍で思い出しましたが、京都大のある京都・百万遍は、なんで百万遍なのかとおもったら、知恩寺の山号が、大本山百萬遍知恩寺なんですね。

浄土宗寺院ですが、多念義なんでしょうね。一念義ではなく。

1703しゅんかん:2006/11/25(土) 13:03:03
皆さん今日は、こちら大阪はここ数日間でめっきり
冬らしくなりました。これからもっと寒くなると思われます
風などをひかれませんように。

この板の前半部分で保田の万年救護本尊には日蓮直筆で
「万年に救護」と書かれているとありますが。どなたも否定されて
いないようですし万年救護本尊=保田妙本寺のようですね。

讃文には
 「大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年雖爾月漢日三ヶ国之間
未有之大本尊 或知不 弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之後
五百歳之時上行菩薩出現於 世始弘」
ですよね「万年に救護」の文字は裏書きなのですか?

1704アキラ:2006/11/25(土) 14:42:30
どんな本なのですか?詳細がわかる人、教えて下さい。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4846003167/sr=11-1/qid=1164431819/ref=sr_11_1/503-5965839-3713530

1705犀角独歩:2006/12/02(土) 07:34:16

昨日、三学無縁さんのご訪問を受け、『仏敵創価学会の跋扈を許すな』(八須日忍編著/辻説法会発行、昭和36年10月23日)を見るに、彫刻本尊の座配図が載っていました。

「(板本尊座配図)黒漆地 曼荼羅凹刻り金粉塗り、下段現当二世云々年月は凹刻りなし」「縦四尺五寸(144センチ)横二尺一寸五分(65センチ)厚サ二寸二分(6.5センチ)」

文字の配りに、やや相違がありますが、『板本尊偽作の研究』に載る座配図と、ほぼ全同でした。

1706犀角独歩:2007/01/26(金) 13:40:19

折空さん

拙書をお読みいただいているかどうか、存じ上げませんが、わたしの鑑別の基礎になっていることは相似ということです。それぞれの文字が似ているかどうかということも考慮していますが、それより重要なことは全体の像のなかで各文字の比率に重点があります。

『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』
http://cart02.lolipop.jp/LA11156772/?mode=ITEM2&amp;p_id=PR00100227012


実際に文字を臨模してみますと、文字の形を意識ながら、筆写の能力が拙いために不似という事態が、儘生じます。ところが、案外、文字の縦横の大きさというのは外れないものです。そんなことから、二つのサンプルが相似形にあるかどうか、これがわたしの鑑別の基礎を為しています。

その結果、中央首題7文字の縦横の比率が、「本門戒壇の大御本尊」(彫刻本尊)と日禅授与漫荼羅で、ほぼ一致しているという点を突き止めたわけです。
この点は四大天玉にも、ほぼ通じます。

今回、話題になっている大廣目天玉については、特に「大」字の筆法が異なっているという指摘は、彰往考来さんから既にいただいております。もちろん、この点は仰るとおりです。
しかし、それぞれの文字の比率は、かなり近いというのが、わたしの観察です。

図は中央に彫刻本尊、左に第83第漫荼羅、右に日禅授与漫荼羅の大廣目天玉を縦の長さを揃え、配置しました。それぞれの文字の始まり、もしくは特に目に付く位置に線を引き、三つのサンプルを比較しています。

文字の筆法は、日禅授与漫荼羅と彫刻本尊と確かに異なっています。しかし、ほぼ、文字の比率が同じになっていることがわかります。
一方、第83大漫荼羅は、特に今回ご呈示いただいた「天玉」の比率が他二つより高いことが窺えます。

第83にもご指摘のように「玉」字の最後が縦棒になっているように見えます。ただ、これは他の二つと筆法上のコンセプトが違っているのではないかと、わたしは考えます。

日禅授与漫荼羅と彫刻本尊の場合、この縦1棒は「天」字‘二’画の下の‘一’の位置から「玉」字‘三’画真ん中の‘一’をやや過ぎた辺りで止めている点で共通しています。対して、第83大漫荼羅では、「天」「玉」の間で短く書かれている違いがあります。

大廣目天玉の長さの比率で占める「天玉」の大きさ、縦1棒の位置と長さという点で日禅授与に近いように見えます。
ただし、文字の筆法は、ご指摘のとおり、日禅授与漫荼羅により、第83大漫荼羅のほうが似ていると思います。また、共通点を挙げれば、第83大漫荼羅と彫刻本尊では署名の、日蓮の「蓮」字最終画のしんにょうが、大廣目天玉の「天」字‘二’画下の‘一’に連携されている点で共通しています。

そのような点からも、折空さんのお考えは傾聴に値する要素を有しています。
さらにご呈示をいただければ、有り難く存じます。

図については、独学徒さんの冨士教学研究会談義所の以下の図をご参考ください。

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/4/4/36.html

1707犀角独歩:2007/01/26(金) 13:43:16

説明を書き忘れました。


1706は、独学徒さんの冨士教学研究会談義所の議論の続きです。
向こうでは、300字以上の投稿ができないため、こちらにいたしました。
一方、こちらでは画像の投稿ができないために向こうにいたしました。

1708独学徒:2007/02/06(火) 19:29:05

犀角独歩さんの御著作も発刊より二年が過ぎ、いたるところで話題になっているようですね。

ラキさんご紹介のHP以外にも、以下のところでこの問題をクローズアップしていました。

http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/Gohonzon-mondai.htm

しかし一部信徒からはこのような反論はあるものの、当の宗門及び学僧らからは反論と思しきものは聞きませんね。
宗門側の機関紙などでは何か反論のような動きはあったのでしょうか。

1709犀角独歩:2007/02/06(火) 20:22:15

独学徒さん

情報、有り難うございます。
それにしても、法華講を自称する人間というのは、よくこれだけ、汚い言葉を使えるものだと感心しました。これだけでも、この宗教は社会一般に受け容れられることはなかったことがよくわかります。

細井さんの言を引けば「既に公明なる求道心から出発したものではなく、全くの感情的な悪意によるものであるからである。かかる悪言は修羅界の徒の致すところであって、真摯なる仏教者の口にすべからざるところであるからである」

しかし、なかなかがんばっているので、楽しく読ませてもらいました。
ただ、興奮しすぎて、わたしの鑑別に関しての、基本的な部分すら、ちゃんと理解していませんよね。

なにより、いくつか勘違いがあります。

ネットでは問答さんがアップされたパンフレットのネットでアップされた写真からそれを割り出したドキュメントを記すために、その写真を使いましたが、皆さん、ご承知のように、書籍のほうでは、然るべきルートが入手した日禅授与漫荼羅の写真を使用しています。この件は、日教研の発表で大石寺の坊さんも質問して確認していったことでした。彫刻の写真も、ネットではネットでアップしたものを使ったということです。まず、この点も理解していません。

大石寺公式見解だと大上段に構え、「日淳上人」の文章だと記す文が、『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』の文章であること。これは日蓮正宗布教会編・代表細井精道として出版されたものです。どうやら、この事実を知らないようです。これが日淳さんの文章だと、いつ石山が公式発表したのでしょうか(笑)

さらに、細井さんが、なんら証拠も挙げず、あっても不思議ではないといった文章を相も変わらず、金科玉条のように扱っていること。この点は既にブログに書いたとおりです。

1710犀角独歩:2007/02/06(火) 20:22:38

― 1709からつづく ―

弥四郎国重は神四郎と断定、日蓮日興共同制作、さらに妙海寺漫荼羅は臨写といった、いまでは、ひたすら忘れ去れるのを待って、再販をしなかった本を引っ張り出されて、石山の法が戦々恐々となっている様を、この自称信者さんはわかっていないわけです。

浅井甚兵衛さんが印刷者になっている本の内容が拙かったことは、石山がいちばん承知しているでしょう。ですから、石山としては、この本を取り上げないで50年来たのに、それを全文アップしてくれるそうです。わたしのほうとしては、願ったり叶ったりです。

この本の発行は昭和31年9月30日、著作権の50年期限にはまだ半年以上あります。そんなことから、わたしも全文をアップするわけにはいかずきたのですが、それを載せてくれるというのであれば、大いに大歓迎です。

細井さんのこの文を読んで御説のとおりと思うのは、本尊のイロハも知らない、本尊集すら見たことのない人ぐらいのものでしょう。早くやって欲しいですよね。これは心待ちです。浮き浮きします。

ただ、ここで実際に書いている人は、石山とどんな関係があるんでしょうか。
まさか、石山は小樽問答と同様、自分はほおかむりして逃げ回り、トカゲのしっぽとしていつでも切り捨てられる人間を使ってやっているのでしょうか。

早瀬さんというのは、そんな人間だとは思えませんよね。
それが石山のやり口かどうか、これは見物ですね。

しかし、実際の資料を、敢えて品質を落としてアップしてあるネット画像で、これだけ食いついて、宣伝までしてくれるのは、有り難いですよね。
ちゃんと、サイトを紹介してくれているわけですから、口は悪いが、なかなか親切です(笑)

正式に発表する前に、これだけ、憶測を述べておいてもらえると、こちらも楽になります。

石山が、敢えて、わたしのことを取り上げないのは、取り上げれば、かえって宣伝をしてしまうことになることを十分に理解しているからでしょう。
それにもかかわらず、信者を名乗る人が、その石山の気も知らず、宣伝してくれるわけですから、これはいくら的はずれな批判であるといっても「宣伝、有藤ございます」と御礼を申し述べなければいけませんよね。

1711犀角独歩:2007/02/06(火) 20:26:03

間違えました。何度言ってもいい言葉なので、訂正します。

誤)「宣伝、有藤ございます」ではなく
正)「宣伝、有り難うございます」でした。

1712独学徒:2007/02/06(火) 21:51:45

犀角独歩さん、申し訳御座いません。紹介しておきながら私は最後まで読んでいません。
かのHP管理者が、たとえどんな高い知識を持っていようとも、あれでは読む気もうせてしまいます。
犀角独歩さんが、安永教授の「板本尊偽作論」の口汚さを指摘されているように、読もうとするものを遠ざけてしまいますね。
基本的には図形鑑別の結果については、口汚い暴論も、親切で長文の論考も意味を成さないと思っています。唯一の反論は図形を持って示すことだと思います。
つまり、犀角独歩さんの御所論への反論は、大石寺が「本門戒壇ノ大御本尊」の画像と、大石寺所蔵の「日禅授与曼荼羅」の画像とを、鮮明な写真として公開し、図形鑑別の結果、誰の眼にも明らかに別物であることを証する以外に無いと思っています。
それ以外には、いかに文字を書き並べようとも所詮は言い訳でしかないと思っています。

それにしても創価学会を在家集団として罵る石山ですが、宗旨の根幹についての疑難に対して、反論を述べているのが信徒の方であって、宗門・僧侶の手による反論が聞こえてこないのはいかがなものかと思っています。

1713犀角独歩:2007/02/06(火) 22:24:50

独学徒さん

先のラキのご紹介といい、今回のご紹介といい、通じて、その口汚さから、安永氏の顰蹙を買った愚を繰り返しているというご指摘はまことに以てそのとおりですね。

また、仰るとおり、わたしは図形を以て問うたわけですから、図形を以て応えればよいわけです。この責務を果たせるのはしかし、石山しかないでしょう。つまり、それ以外の人間がとやかく言ったところでお呼びでないということです。

しかし、わたしは違います。わたしの名を書き、わたしのサイトを紹介してくれるのであれば大歓迎です。そのあと、それを紹介した人の言を信じるのか、わたしが示した図形を見て考えるかは、閲覧者の知性・感性によります。

こうして、批判であれ、賛同であれ、宣伝をしてくれ、多くの方の目に触れていくことは大いに歓迎です。批判ももちろん、歓迎です。口汚い言葉も滑稽で面白いと思っています(笑)

それにしても、騒ぎ立てられなければ、大して責められることのない、たとえば御肉牙、そして、彫刻本尊、さらに日興持仏堂本尊も、どんどん、批判者が騒ぎ立てて、反論して名前を挙げることに墓穴を掘るという様相を、宣伝効果として、むしろ期待していたことですが、大いに愉快です。

彼のいう個人攻撃など、いった本人が自らの甚句・品格を下げて失笑を買うだけですから、わたしからすれば何ら痛痒もありません。むしろ、宣伝効果で、御礼を述べたい気分です。

1714しゅんかん:2007/02/08(木) 09:00:50
独歩さん、おはようございます。
日法上人の御影さま(説法像)(読経像)や何体現存しているのか等を
調べていましたら興味を引くHPに出会いました。
独歩さんはすでにご存知かもしれませんが、こちらにアップされてます
日法師作、板曼荼羅の主題が石山の板曼荼羅の主題ととても似ている様に
見えます。
すでに、論じられているのかもしれませんが?・・・
http://www.fujigoko.tv/furusato/bunka/act08.html

1715犀角独歩:2007/02/08(木) 10:01:21

しゅんかんさん、おはようございます。
ご紹介の板曼荼羅については、過去に何度か話題になっています。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015575530/1554
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/403

いろいろな意味で興味深いものがあります。
中央首題の下に「日蓮大聖人」とありますね。
「大聖人」は石山の専売特許みたいにいわれてきましたが、日興、日目本尊では「日蓮聖人」でした。

「彫刻阿闍梨」と言われた日法の作としては、随分と素朴な印象を受けます。

1716しゅんかん:2007/02/08(木) 17:37:58
独歩さん、早速の御教示ありがとうございます。

南に光明点がないように見え、華の字がカタカナのタで、経の筆運びもそっくりですし。
日禅授与漫荼羅で顕著に見受けられます左に傾いてもいますので、
何か関連があるのかな?と思いまして。
勉強になりました。

1717犀角独歩:2007/02/08(木) 19:16:58

しゅんかんさん

左に傾いているのは、何も日禅授与漫荼羅の特徴というわけではありませんよ。日蓮の漫荼羅は、だいたい傾いています。御本尊集で確認してみてください。

http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

独学徒さんの掲示板をお借りして、信行寺板本尊に第82漫荼羅を重ねた図をアップしました。[1]

http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/9/9/

見てください。左に傾いています。

ついでに重ねたのは、板本尊というのは、元の漫荼羅を“忠実に彫った”ものだという固定観念が、判断を曇らせている様を、屡々散見するからです。

明確に第82漫荼羅を彫ったと公言するものでも、写真を重ねれば、こんなにずれているんですよ。これが現実です。

写真ではわかりづらいですが、「蓮」字しんにょうなど、筆を流している傾きも形も違います。

完全に重ならないから、模刻とは言えないなん思うのは、机上の空論であるわけです。

それと日禅授与漫荼羅が傾いているというアナウンスに騙されないでください。それを見てもらうために、わたしの所蔵するカラー版とは別の写真を載せます。たぶん、これがパンフレットの元になった写真だろうと思います。というわけで重ねたうえで中央にラインを引きました。[2]

第82漫荼羅より、傾きが弱いことがわかりますでしょう。

ついでに、しゅんかんさんが目を付けられたので、いちおう、日法板本尊に、彫刻本尊を重ねました。思いの外ほか、これは相似していました。ちょっと、驚きです。

もっと、よく写った日法板曼荼羅写真が欲しいですね。[3]

1718しゅんかん:2007/02/09(金) 00:23:24
独歩さん、重ねての御教示有難うございます。

石山の板曼荼羅は独歩さんが既に論評証明されておられますので、
私が最初に感じたのは日法板曼荼羅も石山のそれと同様なのかなと。
以下の様な事を申し上げるのは誠に僭越ですが、思ったところを記させていただきます。

両曼荼羅の相違点と思われる箇所が見受けられました。
(アップ映像を行ったり来たりしてですが)
日法板曼荼羅は経の旁の独歩さん流に申せばツ状の下の字が数字の2の様で、
石山板曼荼羅はアルファベットのZの様に見えます。

①首題に傾きの有るのはそうですね。
②南に光明点が見受けられない。
③首題が裾広がり(これも他に見受けられますが)
④首題全体がなんとなく似ている(筆法が)
以上四点の共通が見受けられたしだいでした。

弘安期以降で南に光明点が僅かしか存在しないが、この二点に於いて共通して
いるのも解せませんね。
何れにしましても私の推察出来るのはこのあたりまでです。
私には独歩さんの様に知識もございませんし、映像を二枚重ね合わせての比較対照
する様なテクニックなども持合せておりません。
もう少しましな映像がないか探してみます。

余談
板曼荼羅に於いて何故傾いているのでしょう。
板に直接記し、それを彫ったのなら理解出来るのですが、
紙幅曼荼羅を板の上に置き彫ったとしますと、(人情として)首題を垂直にして
板の上にませんかね?(つまり紙幅曼荼羅を少し右に傾ける)
傾きまで蓮祖に忠実としているのですか?
傾いたままだとあてつけの様な感もしますが。
蓮祖はそんな心が狭くはないですね。

1719犀角独歩:2007/02/09(金) 09:49:14

しゅんかんさん

独学徒さんの談義所に図を追加しておきました。
ご参照ください。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/9/9/

「南」字‘冂’画の光明点については、どうでしょうか。
何かうっすら確認できそうなできなさそうな。
「華」字中段の広がりが石山のより、かなり狭く小さいですね。
ただ、たしかに全体の比率、傾きなど、似ています。

もちろん、おわかりのことと思いますが、日法板曼荼羅は首題下に「日蓮大聖人」と記されていますから、書写の彫刻です。では、何を原本にしたのかということになります。
日蓮門下の本尊集が手元にありません。確認できません。

> 板曼荼羅に於いて何故傾いているのでしょうか

この点を疑問に思われるのは、ちょっと、わたしにはわかりません。
日蓮の筆法というか、書き癖というか、もしくは、何らかの意図か。
そのように紙幅に図示されれば、そうするのではないでしょうか。
むしろ、傾いて書かれたものを、彫る段階で修正するほうが聖筆をけがすことになりませんか。

1720独学徒:2007/02/09(金) 22:19:03

犀角独歩さん、談議所のご利用ありがとう御座います。
このところ多忙な日々を過ごしており、ご返信も出来ず恐縮です。
今後とも、ご利用の程、宜しくお願い申し上げます。

1721しゅんかん:2007/02/09(金) 23:47:08
独歩さん、ありがとうございます。

>「南」字‘冂’画の光明点については、どうでしょうか。
〇そうなんです、鮮明ではないので断定はしかねますね。
>「華」字中段の広がりが石山のより、かなり狭く小さいですね。
〇ええ、それとなんとなく読み取れますのは草冠の(廾)の右側の光明点の上側にしんにょうの
丸い円が見受けられます(円の中を光明点が横切るのではなく)が、この様な物は御本尊集
では見当りませんでした。

どうも、石山のそれとは違いますね。全体的に似ていて此処まで似ているのは稀ではないですか。
(日法作と自称しておりますのも気になりますね)
独歩さんがお薦めスレッド562に於いてレスされましたが、アロエさんの考察でしたらどれ程の
確率なるのでしょうかね、興味があります。
いづれにしましても奥が深いですね、勉強になりました。

1722犀角独歩:2007/02/10(土) 06:43:40

独学徒さん、恐縮です。利用させいただいております。

しゅんかんさん、日法板曼荼羅と、石山彫刻は、なんらのつながりがあるかもしれませんね。

1723しゅんかん:2007/02/10(土) 21:38:44
独歩さん

日法板曼荼羅を寺宝としています長徳山妙本寺の言ではないですが、
日法板曼荼羅は日法の自筆のようです。
妙本寺の在ります、富士河口湖町勝山(第三セクターと思われます)HP
に於いて確認が出来ました。

以下に文面をを見て取れます。

日蓮上人の直弟子、日法上人の自筆の「板まんだら」が保存されている。
        http://www.katuyama.info/kanko/sengen.html

1261(弘長元)年の建立。日蓮上人の直弟子、日法上人の自筆の「板まんだら」が保存されている。
        http://www.fujigoko.or.jp/i/katsuyama_shiki.html

1724しゅんかん:2007/02/10(土) 21:42:18
1723訂正

誤−自筆のようです。
正−自筆と公言しています。

1725独学徒:2007/02/11(日) 19:41:22

犀角独歩さん、ブログの方拝見しました。

日陽筆「祖師伝付録」(影印)の、「日本第一の板御本尊」の部分を談議所の方に投稿しました。
ご参考までに、ご確認下さいませ。

私は日陽の言う「日本第一の板御本尊」とは、所謂「本門戒壇ノ大御本尊」ではなく、「紫宸殿大曼荼羅」のことではないかと思います。

1726犀角独歩:2007/02/12(月) 17:41:30

独学徒さん

ご教示有り難うございます。
訂正いたしました。また、ご批正をお願いいたします。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50886190.html

1727独学徒:2007/02/12(月) 21:34:06

犀角独歩さん、ブログの方拝見しました。
おとり入れ下さり恐縮です。
談議所の機能が、少しでもお役に立ち光栄です。

1728:2007/02/14(水) 00:40:52
独学徒師から、この文献に関して、重大なご指摘を頂戴した。

いつのまにか「師」になられたんだ

1729犀角独歩:2007/02/14(水) 05:58:14

まあ、この手のことに答える必要もないのですが、わたしは、自分のブログで書くうえで、敬称には自分なりのルールを設けています。

ご教示を受けたうえで、大石寺日蓮・日興本尊の偽作を明確に論じられている方には、敬意を表して「師」と呼びます。
これは、わたしが設けたルールですから、人にとやかく言われる筋合いはありません。

なお、こちらは管理者さんのご意向で「さん」ということなので、それにしたがっています。

1730れん:2007/04/15(日) 16:57:06
先日、「妙宗先哲本尊鑑」を見ましたが、弘安五年八月十三日付けの日興授与漫荼羅の愛染明王の梵字の形に彫刻(石山戒壇本尊)のそれが似ているような気がします。この日興授与漫荼羅の原本は明治八年の身延山の大火で消失したので、直接日興授与漫荼羅に取材したとも思われませんが、妙宗先哲本尊鑑に掲載された日興授与漫荼羅写本から取材した可能性は有るのではないかと思いました。また、彫刻の不自然な不動・愛染の起筆も、身延曽存・沙門日春授与漫荼羅が、感じがよく似ているので、現彫刻は、基本としては日禅授与漫荼羅を定本としつつも、こういった他山所蔵分の漫荼羅の写本集に取材して、彫刻の不動・愛染の梵字の形が作られたのではと愚考いたしました。

1731独学徒:2007/04/15(日) 22:02:04

れんさん、談議所の方に伝日興授与の大曼荼羅を投稿しました。
補完資料として活用下さいませ。

1732れん:2007/04/16(月) 14:41:13
独学徒さん
談議所の方に伝日興授与漫荼羅の画像をアップして頂き、ありがとうございます。今後の論考の参考にさせて戴きます。

1734犀角独歩:2007/07/01(日) 21:09:17

1733 名無しさん

何が「大嘘」ですか。事実でしょう。嘘だというのであれば、どんな製作過程を経ているかを立証して、記せばよいだけのことです。

1736再挑戦者:2007/07/03(火) 19:32:31
1733 名が無しさん。
 >、、、大嘘、、、・、、。
 貴方の一疑問ならば、ソコソコでしょう、。   
しかし、他者さまの言文を、気に入らない、トッチメテやろう、?、、と言う雑念が??プンプンするような感情的なご意見は、出来るだけご遠慮したいものですが、?
 小生は、雲の上の方方の言文にだまされ、一生を「棒に振った一人」です、。 コノ現実だけは「御認識下されませ、!!」、、。 トホホ、、。

1740犀角独歩:2007/07/04(水) 21:49:20

名無しさん

> 犀角独歩ちゃん

こちらの掲示板では「さん」付ということになっています。
このようなルールすら守れない貴殿の態度は既に違反しています。
改めてください。

> 各家庭ってどこ

我が家を含む一般信徒の家です。

> この写真撮影のお形木本尊、犀角独歩ちゃんHPで見せてくれないか

このような写真は、たとえが以下のサイトに載っています。まずは以下を御覧になっては如何でしょうか。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/

また、出版物で言えば、たとえば『石山本山の研究』にも多数掲載されています。

わたしのサイトで紹介するまでもありませんが、わたしが所蔵している日達さんの印刷もアップしましょう。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nittatu_honzon.html

その他、必要があれば、日顕、日寛などの印刷もアップしましょうか。これらが印刷製版の印刷物でないというのであれば何でしょうか。
貴殿は、わたしに挙証を求めながら、自身はなんら応えていませんが、何だというのでしょうか。

> 学会系の掲示板に…

どこでしょうか。具体的に提示してください。
また、そのような掲示板で取り上げたから、どうなのだというわけでしょうか。


管理人さんに申し上げます。
「ちゃん」付の投稿に関して、今回は、質問に応える必要がありますが、なんらかの注意、韓国、または削除がなされて然るべきであると思いますが、これを放置される理由は何でしょうか。

1741再挑戦者:2007/07/04(水) 21:51:21
、、名無しさん。
 どこのスレッド〜ブログにもあるような「名無しの名前」、ですが、当欄では投稿以前に、身元の確認〜責任存在の関連から、「自己紹介スレッド」がご用意されています、。 どうぞ、その手順を御遵守戴きたく存じます、。  また、、、>>、、「まるっきし盗用、、<、、」の件は、このIT時代ならば当然でしょう、!  
今までは、雲の上のワンマン独裁者、金儲け一本道の悪漢ども、その茶坊主どもには、我ら末端の下々は「ヘヘー、、」と面従腹背しか御座いませんでしたが、幸いなるかな「、言論の自由と科学文明のパソコン時代のお陰で、ドコゾのアホ〜バカ〜、」でも、今までのバカにされた!!悔しい、一念から、反撃の一撃をそこそこ発言できる喜びを実感だけは、、ビビツ、!!と感じまするしだいでゴワス。
 洗脳度の軽い方ならば、「ギョツ、ギョ」と驚いたあとは、「、、そうだった、のか、、」、と反省と疑義を抱きくでしょう、!  この現実の落差に驚愕して、その後は悪魔の洗脳から少しずつ解放に向かう出かうでしょう、!!
 あと一年後には、貴方も「反S会の猛者、??」、、でしょうか、?? トホホ、、。

1742犀角独歩:2007/07/04(水) 21:58:57

【1740の訂正】

誤)韓国
正)勧告

1743管理者:2007/07/04(水) 22:36:10

名無し さん

当掲示板のルールを守らない方は、書き込む権利はありません。即刻削除します。
ルールに従って投稿する気になったら、ハンドルネームを整えて、自己紹介してからにしてください。

ご参加の皆さん

このようなルール違反を平気で行う方にレスを返す事は、ルール違反を容認することに通じてしまいますから、応答せずに無視してくださいますよう、お願い申し上げます。

この方のレスを削除しますと、皆さんのレスの意味合いが不鮮明になりますが、なにとぞご容赦ください。よろしくお願いいたします。

1744管理者:2007/07/04(水) 22:55:50

犀角独歩さん

>「ちゃん」付の投稿・・・・または削除がなされて然るべき・・・これを放置される理由

申し訳ありませんでした。本日多忙に因り、掲示板を見ることが出来ていませんでした。昨日の段階で、「大嘘」等という表現、気がかりでしたが、その段階では、まだ、削除の対象になるとは断定できませんでしたので、様子を眺めておりました。先ほど、仕事が終わって、掲示板をチェックして初めて、ルール違反投稿を発見しました。処置が遅れて、ご迷惑をお掛けしました。誠に申し訳ありませんでした。今後、このような事が無いように心致します。御寛恕戴けますれば幸に存じます。

1745犀角独歩:2007/07/05(木) 07:08:53

管理人さん

恐れ入ります。議論者の礼儀、投稿姿勢を管理されるご努力によって、こちらの掲示板は有意義な議論がなされてきたと存じます。そのお力に感謝申し上げ、また、敬意を表します。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

1746問答迷人:2007/07/05(木) 22:22:24

それにしても、今回の、揶揄目的の投稿は、書き込んだ人品が余りにも露になっていて、極めて寒いモノを感じました。

洗脳、或いは染脳のなせる業とは言え、目を覆うばかり・・・。

呟きでした・・・。

1747犀角独歩:2007/07/07(土) 08:45:15

問答名人さん

わたしは短気ですぐに腹を立て来ましたし、何より礼儀をうるさく言ってきました。ただしかし、最近は、腹を立てているわけではなく、この貴重な掲示板で、勘案されてきたルールを遵守することは、よき議論をなされるために重要である思うばかりです。

近日、とある人が盛んにわたしの悪口を記しているという連絡を受けました。一昨年、『顕正新聞』紙上で「魑魅魍魎」との悪口を受けたときもそうでしたが、なにやら、最近は、悪口をされても、その表現が剽軽に感じるというか、何だか滑稽というか、腹が立たなくなりました。それはしかし、憐れみというより、「かつてはわたしも、そうだった。しかし、悪口している自分ほど、みっともないものはなかった」という自嘲が、そのような人々と重なり、はやく平穏な境地に至ればよいのにというエールのような気持ちが彷彿とするのです。

わたしは『法華経』に登場する菩薩の特徴は、悪口雑言にはじまる迫害を堪忍し、そして、けっして言い返さないやり返さないところに特徴があることを、随分と前に突き止めました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/doppo_001.html

突き止めはしたものの、そのような実践は、不徳の致すところで、なかなかできなかったのです。

しかし、悪口を言われる菩薩はあっても、悪口を言う菩薩などあろうはずはありません。もとより、わたしは菩薩などとは言い難い身上ですが、この原理は、初期仏教教団から今日に至るまで、四衆僧伽の不動の鉄則であることに思い至りました。

このことを受け入れると、それまで、悪口され心を支配した怒りが霧散してしまい、ただ平穏な気持ちだけが残るのでした。たぶん、自分が信じていることを批判され怒りが生じるのも、刷り込まれた心理プログラムであったのでしょうね。

怒りの感情が沈静したものの、偽を真と謀って人心を操ることを放置するわけにはいかないという思いが、こちらで投稿を続ける動機となっています。

ここ7年間、問答さんと多くの議論をできたことは、わたしにとって人生の宝となりました。

1748問答迷人:2007/07/12(木) 22:40:04

犀角独歩さん

もう、七年も経ちましたか。独歩さんの日々の書き込みを有り難く拝しております。本当に有難うございます。

ただ、独歩さんとは、どうしても、見解の相違というか、僕の頭の中が整理出来ていないというか、意見が一致していません。僕は、信仰の中で日蓮聖人を見ようと考え、独歩さんは、悉く疑わしきを排する事によって日蓮聖人を見ようとされているのだと思います。噛み合わないの当然だと思います。

然しながら、僕は独歩さんの言動に強い関心を持っていますし、独歩さんのお考えによって、凄まじく啓発されてきたと思っています。

これは、当掲示板にご参加の諸賢のご見解に対しても強い関心を持っていますし、凄まじく啓発された事実は感謝の二字しかありません。

それでも、独歩さんに対しては、何度も直接お会いして、お話をお聞きし、掲示板でも議論を戦わせてきた経過がありますから、尚更な訳です。

今、僕は、曼荼羅正意説を潜り抜けて、妙法蓮華経正意に足を踏み込んでいます。結局、日蓮聖人の真意は「妙法蓮華経の五字」に帰命する、という南無妙法蓮華経と唱える「お題目」に尽きるのではないかと。

生涯、日蓮聖人の真意を求め続けて行くことになるのだと思います。それが、信仰という事なのかと。

1749犀角独歩:2007/07/15(日) 08:39:29

問答さん

> 日蓮聖人の真意は「妙法蓮華経の五字」に帰命する、という南無妙法蓮華経と唱える「お題目」に尽きる

日蓮の規模に限って言えば、これはそうだと思います。わたしは、従来、言われてきた日蓮の教学整理は雑駁すぎて、その事実を示していないと考えます。

この代表格が「本尊」です。また、摂受論についてもそうですし、五重相対、三大秘法もそうでした。さらには今回、一字三礼さん、顕正居士さんのご投稿の日蓮非上行というご指摘もそうでした。

思い返せば、この典型が石山の教学であり、その本尊観であったわけです。また、創価学会でいう「生命論」もそんな珍解釈の一環であるわけです。

しかし、さらに突き詰めていけば、伝教は天台の段階ではなかった真言の影響を受けているでしょうし、妙楽の釈は章安述とは違います。また、天台は、その基礎学を華厳に置き、当時、最高の経典とされていた涅槃経をもって法華経を解釈していました。また、羅什の恣意達釈であり、梵本と齟齬を来す部分も多くあるわけです。では、その法華経といえば、西暦前後数百年にできた後世の創作なのであって、つまり、妙法蓮華経が釈尊の真説などとは、凡そ言えないわけです。

問答さんとわたしは、「見解の相違」ということより、日蓮段階で考えるのか、仏教2500年の歴史で考えるのか、どこまで虚偽創作と真正面から向かい合うのかというスタンスの違いにあるのではないでしょうか。

また、もう一点。わたしがここ7年で結論したことは、仏道とはけっして信仰ではないということでした。いわば仏教におけるバクティの導入はバカバットギータの影響によるものであり、むしろ元来の仏教集団は、信仰集団と言うより、修行集団であるということです。

わたしにとって、本尊であるとか、信仰対象であるとか、そんなものは、もはやどうでもよく、単なる構成要素分析の材に過ぎません。わたしにとって、仏道は、その本来の意義である実践修行と精進、苦の克服と平安の境地に至ることに目的があります。その意味において、日蓮は(顕正居士さんが神仏習合、神本仏迹で再構築されたという)日本化された仏教という創作世界の住人であったにせよ、その生き様を見据えはするものの、その限りであり、では、 Buddha といえ、決して超人でも、SFのように夢想された絶対者でもなく、我ら修行の祖である目覚めた者、苦を克服した者であるという範囲で考えています。

では、何ゆえ、この富士門流“信”徒の掲示板に投稿をし続けるかと言えば、そこがわたしの出仕であったこと、ここに自分なりの責任を感じるからです。もっといえば、ここほど、ひどい日蓮解釈を振り回すところはなく、また、社会的に悪弊を与えているところもないという側面からです。

ですから、「悉く疑わしきを排する」、事実にあらざること排する姿勢は崩さないわけです。また、仏道を信仰と想定していない以上、信仰から考えるという姿勢は既に卒業しています。ただし、この卒業は、題目を唱えたければ唱えるも是、念仏称名も是、観仏観相も是、また唯一絶対の神を想定して祈るも是…、是というか、真実の門に至る方途、一時の精神沈静の方途となる側面は事実あるわけですから、各人の勝手の範囲であろうと考える寛容性は有してのことです。しかし、そんな“方便”を真実であると謀って人心を操作する点については指摘を息める気はもちろんありません。ただ、厳正なる事実から見るとき、まるで子どもの遊びのように、童話を読む気分で、それを見つめる余裕が生じました。

わたしが突き止めたいこと、また告知したいことは、ただ一つ、事実だと言うことです。

しばらくまだお邪魔させていただく異なろうかと存じます。
今後とも、よろしくご指導・ご鞭撻の程、お願い申し上げます。

1750犀角独歩:2007/07/15(日) 08:45:24

【1749の訂正】

誤)「悉く疑わしきを排する」、事実にあらざること排する姿勢は崩さない正)、「悉く疑わしきを排する」というより、事実にあらざること排する姿勢は崩さない

誤)しばらくまだお邪魔させていただく異なろうかと存じます
正)しばらくまだお邪魔させていただくことになろうかと存じます

1751偶ロム偶ログ:2007/07/15(日) 13:28:04
横レス失礼いたします。
私も基本的には独歩さんの仰有るとおり、石山系宗教くらい
>ひどい日蓮解釈を振り回すところはなく、また、社会的に悪弊を与えているところもない
と考えています。
1 真蹟以外の疑書、偽書、近世写本、近世版本などを用いている
2 自山にない他山の「相伝書」を用いて「相承」の証しとしたり教義を構築している
3 弥四郎漫荼羅を論理的説明もなく「日蓮大聖人直筆の戒壇本尊」と主張している
これらを基本として数多の神話・伝説・教義が創作されてきたわけです。
石山は、自宗の宗祖の教えも、実像も見えなくして存立している「宗教」だと思うのです。
独歩さんや皆様がたが、この掲示板で行なわれている「真蹟・古写本」を用いる論議はとても大切です。
また史資料や写真などを用い、歴史、教義、などの事実を明らめる姿勢は方法論として全く正しいものだと思います。

私は全ての宗教の発生は「創作」であると考えておりますが、創作された宗教が全て「虚偽」だとは思いません。
宗教的「虚偽」とは私的には「悪意ある創作」であり、「事実の隠蔽・歪曲」ということです。
石山が、もし仮に
「弥四郎漫荼羅は後世の作であり、宗祖の理想を継ぐべく製作した」
と表明すれば、私はそういうものも「あり」というふうに考えますが、もちろん、製作に到る論拠は示してもらわなければ「あり」にはなりません。
相伝書類を含む疑書や偽書にしても「門流文書」として扱う分には、宗門史の有益な史資料といえるでしょう。

問答さんは信仰者として、独歩さんはある意味では史家として、お二人ともに真摯に各論題に向き合われていると思いますし、心から敬服しています。
これからも、お二人を含め、常連の皆様方の実りある論議に学ばせていただきたいと思っています。

感謝の意を込めて。

1752顕正居士:2007/07/15(日) 20:01:40
>>1751
偶ロム偶ログさん。まあその通りなんですが。だから誰にも相手にはされていないわけで。
誰にも相手にされていないというのは、実際、何かを主張していることにはなりませんね。
わたしは興門派を脱退、単立以後は大石寺は新興宗教になったと考えています。
新興宗教は社会学の研究対象ではあっても、文献学の研究対象ではないですね。
ただし堀上人はまともな宗派にもどしたかったんでしょうが。創価学会のにわか信者が
あんなに増えなければ、普通の宗派にもどった可能性もあり、これは残念なことです。

1753再挑戦者:2007/07/15(日) 22:49:11
1748様、、。> 、、、尽きる、、>
  ど素人のアホから一言、、。  
 それなら、ナニユエ、、アアダラ、、コウダラ、、と能書きを日蓮さんはされましたのでしょうか、、、、????
 
 庶民のバカ・アホどもには理解・困難、ユエ、そのため、One Quetion = 当て馬を!!入れたのでしょうか?
 五字だけを導入させたいならば、五字だけに絞れば、、エエジャないか!!! その周りの深みが考慮されるても、??
 この周辺の深みを、伝達する術が困難時代、、だった、、なので、、種々の意味・深長な言々だったか、??  

 現今の資料だけでの、、分析、、では稚拙が懸念でしょうか、、??? 日蓮が残した真筆の本尊集を見ますとき、それらが、「五字の妙法蓮華教」の題目よりも、意味も成さないような「軽薄」な、一件とは、、とても思えません、、、、が、、?? 
 「、墨に流して、、」、、この一文の重みをいかが、、判断、、??

1755問答迷人:2007/07/16(月) 12:15:55

再挑戦者さん

>「、墨に流して、、」、、この一文の重みをいかが、、判断、、??

当然の疑問であろうと思います。これは、文永10年8月に書かれたとされている、経王殿御書の一節ですね。真蹟も時代写本も存在しない文なので、蓮祖が書かれたお手紙なのかどうか、判断が出来ませんが、該当箇所を以下に引用してみます。

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」

この文が真蹟かそうでないかの議論は、ひとまず置いて、文脈から意味を探ってみますと、

1.日蓮のたましいを曼荼羅に墨で書いたのが曼荼羅である。
2.だから、この曼荼羅を信じなさい。
3.そして、曼荼羅に認めた「日蓮のたましい」とは「南無妙法蓮華経」に他ならないのです。

この三点の内容が書かれていると判断出来ます。

日蓮聖人のたましいとは、「南無妙法蓮華経」=「妙法蓮華経の五字に帰命する事」なのだと言う意味合だと思います。

つまり、挙げられた「経王殿ご返事」の文の結論は、妙法蓮華経の五字に帰命することが日蓮の真意なのだということになると存じます。

「妙法蓮華経の五字への帰命」=「南無妙法蓮華経」という「日蓮のたましい」を一幅の曼荼羅に顕し、門下に授与されたのだと。やはり、この経王殿ご返事の結論も、僕的には、妙法蓮華経正意だと。

僕は、曼荼羅は、「日蓮がたましい」たる「南無妙法蓮華経」を門下に授与する為にしたためられたのだと考えています。

1756顕正居士:2007/07/16(月) 12:32:45
>>1755
問答迷人さんのご意見はつまり三秘総在の一秘は何かということですね。
どの一秘にも合することはできますが、正意は一秘総在の題目でありますね。
堅樹日寛は正意が一秘総在の本尊であるかのように唱えておりますが、奇説です。
ほとんどすべての学者が総在の一秘は題目として来たかと思います。
三秘を三学に配当すれば、戒壇(戒)、本尊(定)、題目(慧)です。
四信五品抄に初心の行者には戒定の二学を制止して慧学の一分に限ると述べてありますから。

1757問答迷人:2007/07/16(月) 12:57:33

顕正居士さん

僕の拙い主張を簡潔に纏めていただきまして、誠に有難うございます。

>堅樹日寛は正意が一秘総在の本尊であるかのように唱えておりますが、奇説です。

大石寺では、この奇説が大手を振っています。それゆえ、大変悩まされてきたわけです。

>初心の行者には戒定の二学を制止して慧学の一分に限る

あぁ、そうでした。なぜそこに気がつかなかったのか、洗脳というものは、空恐ろしいものだと今更のように思います。洗脳が残っていると、まっすぐな道が曲がって見え、曲がった道が逆にまっすぐに見えてしまいます。

1758れん:2007/07/16(月) 17:03:10
横レス失礼します。
言わずもがなですが、日蓮の規模において妙法蓮華経の題目とは「釈尊の因行果徳の二法」(観心本尊抄)が具足している五字と言うのが前提だと思います。ここに於いて謂われる釈尊は、寿量品の釈迦仏つまり久遠実成の釈尊であることもまた言わずもがなです。日蓮が門弟教育の際に図示したと推定される三法妙図から推測できるのは本門(教相)においては能説の教主(本門本尊)たる久遠実成釈尊が中心であり、本門題目は久遠実成の釈尊の所説の法門という位置付けになります。ここから推定出来るのは日蓮の言う三大秘法は教相の範疇の所談ではないかということです。観心においては久遠実成の釈尊の心法の直体としての題目が中心となるようで、日叡類集記にも「心法妙を受持する時、仏法妙衆生法妙自然に具足す」とありますが、この日叡の文は観心本尊抄の「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれは自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう」との日蓮の文の理解を補完するものと言えましょうか。先に犀角独歩さんをはじめとする諸賢が、仏像開眼に法華経との脈絡から、とくに独歩さんが、衆生の開眼に題目(大雑把に言えば漫荼羅?)というご意見を述べられましたが同感です。日蓮の松野殿御返事に「経文には鬼神の身に入る者は此の経を信ぜず、釈迦仏の御魂の入りかはれる人は此の経を信ずと見えて候…」等との文を見ましても、釈迦仏の御魂=心法妙と理解すれば、日蓮の規模においては衆生の開眼に題目というのは至当ではないかと思います。但し、日蓮の規模においては、衆生の開眼には衆生側の釈迦の心法の直体としての題目の“受持”という意志の伴った行為が必要というのが前提ゆえに日蓮は信を強調したのだと思います。

1759再挑戦者:2007/07/16(月) 19:06:43
、、High なレベルでの御討論の最中に、トンダ・オジャマ虫が侵入しまして、済みません、。

 タダ、 アホ小生ですが、「、、、何とか、人間らしく生き、、!!!  人間らしく、、死ぬのは、、???」、、と言う愚問に拘泥するアホには、、ナカナカ、、諦め切れまシーエン、、。
 
 用心すべきは「、、他者の成仏、??、よりも、自己のカネ儲けだけの悪漢どもの策略にだけははまりたくは御座いません、!!!」、、かと思いますが、??

1760れん:2007/07/16(月) 19:18:49
先の投稿では結論を書きませんでしたので、補完して記しますと、日蓮の意図が奈辺にあったかといえば、私の結論は問答名人さんにほぼ同意です。
但し現代諸学の日進月歩の発展により、事実が明らかになっている以上、もう神話からは卒業しようというというのが私の結論です。その観点から改めて独歩さんのように人類史・仏教史の上から俯瞰して彼らの思想を把握することは必要不可欠であると思います。また、そうした作業を経た上で改めて現代の学問の上から再評価していくことも可能であると思います。

私の個人的感覚から申し上げれば、神話をはぎ取ったところにあらわれる人間釈尊・人間日蓮の思想と行動、平たく言えば生きざまは、現代を生きる私にも、多くの示唆を与えてくれます。その点、私も大いに啓発されるところがあるので、今後も彼らの残した言葉を座右に置くであろうし、その是非は他の方の異論もあるかと思いますが、今後も彼らへの報恩の一表現として題目を唱え、漫荼羅に給仕するということもあるだろうと思うところです。

1761一字三礼:2007/07/16(月) 22:21:52

れんさん

>神話をはぎ取ったところにあらわれる人間釈尊・人間日蓮の思想と行動

正確には、‘神話’は違うと思いますが、‘仏・釈尊’から伝説的要素をはぎ取っていって、本当に歴史上の‘人間釈尊’を正しく捉えられるでしょうか。

四阿含等の北伝系の仏伝に慣れ親しんだ者にとって、南伝系の仏伝には、知らない説話がたくさん出てきます。

一つ一つの仏伝には、それぞれに違った寓話の背景と思想、意図があります。
古代の人々が、教説以外の釈尊の中に何を見て、何を期待し、何を伝えようとしたのか。
それらを歴史的・思想的な視点から正確に分析することによって、インド史の中で、インド及びアジア思想史の中での釈尊の位置付けが鮮明になるのではないでしょうか。

これらの研究を疎かにしてただ‘神話をはぎ取る’というのであれば、その行為は、単なる蛮行でしょう。
中村元さんが、‘人間・釈尊’の探求を無意味と結論付けたのも同じ理由からでした。

何十年も一緒に暮らしている親や子、伴侶であっても、なかなか理解できないものです。
ある歴史上の人物を、客観的に正確に把握できる、と考えるのは、それこそ思い込みや、妄想の類ではないでしょうか。

釈尊や日蓮、空海や親鸞たちは、その生存中から他の人々から抜きんでた尊敬と崇拝・嫉妬と悪意を持たれた人物でしょう。

後代の人々が、彼らに伝説を纏わせたのは、彼らが常人とは違うと感じたからだとおもいます。
伝説・伝承は、庶民の視点で、彼ら偉人の本質を表した部分もある、ということを考慮に入れるべきではないでしょうか。

1762犀角独歩:2007/07/16(月) 22:47:48

まとまった投稿はあとにしますが、神話をはぎ取るという点につき、れんさんが記された点と、一字三礼さんが記された点では、温度差がありますね。

ここ富士門流信徒の掲示板で、日蓮は無始無終の本仏で、本尊抄という論点からすれば、日蓮が言う観心本尊の釈尊もそうでした。これと寓話をもって語られた釈尊には開きがあります。れんさんがおっしゃる神話とは、そのような‘規模’とわたしはお見受けしました。

わたし個人として、人間釈尊の探求はまったく無意味と思っていません。
むしろ中村師のアプローチは賛同しかねます。詳しく書くのは面倒ですが、中村師がつけたような‘オチ’で仏教を整合的に解釈して落ちてしまう部分を看過する気もありません。ただ、それは寓話を紡いだ恣意を単に批判しようという意味ではありません。そこにそれなりの気持ちは、わかりはします。

ただ、わたしは、神話や、寓意を超えて、実際に生きて、老い、そして、病み、死んでいく苦しみと恐怖をしかし、受け入れ、超えていく力を与えるところに仏教はあり、それは実際の現実の日々を仰視した者でなければ価値がなく、となれば、人間釈迦牟尼仏陀を見据えなければ、何も見えないという大前提から仏教を考えています。その意味で、釈迦牟尼仏陀は偉人である必要もなく、ただ、死の恐怖を克服し、その道を示した修行者の先輩であるだけで十分です。

たぶん、経典創作者が書き残した寓意を糧としようとする一字三礼さんの善意と、そのようなもの者にあまり目を向けずに八正道・四聖諦から修行を考えるわたしの在り方の相違であろうと思えます。

れんさんのご発言は、直接、人間釈迦牟尼を見据えたご発言であったのではないでしょうか。

1763れん:2007/07/17(火) 02:37:45
一字三礼さん
犀角独歩さん

私の駄文にレス戴き大変恐縮です。
一字さん、私の意図したところは仏伝・経典に書かれた寓話・説話を無闇やたらに神話として片付けて否定するという意味ではなく、勿論一字さんのご指摘の点は十分踏まえた上で、しかしながら、人間ゴーダマ・ブッダを見据えるということでした。21世紀の日蓮を考えるならば、やはり最終的には21世紀の釈尊をも考えなければその作業は畢えられないのではとの思いがあります。
そのためには勿論、一字さんがご研究されている分野の作業も必要不可欠であることも、十分理解しているところであります。


犀角独歩さん、私の意見をお察しいただき、また犀角独歩さんの視点からさらに整理して戴き有難うございます。
まさに犀角独歩さんがご指摘になられた通りなので、さらに私が言葉を次ぐ必要もない感じです。さらにまとまった御投稿…とのことですので、御投稿と、諸賢の皆さんの御議論からさらに学ばせて戴く所存でロム致します。

1764顕正居士:2007/07/17(火) 03:48:42
同時代の記録がない、あるいは少ない人物の像というのは結局、何を推理しても仮説、想像に過ぎない
とは、真剣に探求した人の最後の慨嘆かも知れませんね。
釈尊の記録などは残っている文書は何百年も経った編纂ばかり、文献学の手法で文書の古層を推理
するのですが、到達する結論は人様々。
釈尊と同じ頃のソクラテスはプラトンの多数の対話編がある。条件の違いが話にならない。しかし
プラトンの描写が信用できるのかというと、アリストテレスは全くデタラメと言っている(アリストテレスは
自分の先生であろうが何であろうが言葉をやわらげることはなかった)。それで結局、わからないという
プラトン学者もいる。それでも比べる記録としてクセノフォンの回想もある。
日蓮など鎌倉時代というずっと現代に近い人でおびただしい手紙が残っている。相当楽かというと全然。
日蓮自身の書いたものしか記録がない。何にも比べるものがない。
まあ、そういう史料不足による絶対的限界があろうかと思います。

1765顕正居士:2007/07/17(火) 17:59:26
親鸞にも確実な著作と多くの手紙が残っています。しかし比叡山における親鸞の身分は何だったのか。
唯一の言及は恵心尼が「堂僧」であったと書いていること。これは「堂衆」のことであろうという人もいた。
しかし堂衆に教行信証なんていう純漢文の大著がものせるのか。結局、これは常行三昧堂に勤める僧、
学生と堂衆の中間身分のようなものと決定された。その論争は実に昭和時代でありました。
日蓮の身分も分かりません。やはり何らか中間の身分であったとおもいますが。この時代の出家者は
すでに釈氏の家の子と自認し、俗の出自などを詳しく語ることはなかったのかも知れません。
そのように鎌倉時代時代のことでも実にわからないことばかりなのです。

1766一字三礼:2007/07/17(火) 18:02:31
1764
>同時代の記録がない、あるいは少ない人物の像というのは結局、何を推理しても仮説、想像に過ぎないとは、真剣に探求した人の最後の慨嘆かも知れませんね。

顕正居士さんのご意見に賛同します。

実在した釈尊に迫ろうにも‘史料不足による絶対的限界’というのが避けられない現実でしょう。

最古の仏典である阿含経のでさえ、部派により編纂された経です。

「長阿含経」 法蔵部
「中阿含経」 説一切有部
「雑阿含経」 根本説一切有部
「増壱阿含経」大衆部または法蔵部、もしくはその他の非正統系有部

四諦・八正道(ダンマパダとウダーナに八支のうちの幾つか載る)にまた、仏教の基礎と考えられる五戒(「スッタニパータ・小なる章・二なまぐさ」に戒の原型あり)でさえ、部派で整えられた経説であり、歴史的釈尊の説ではありません。

般若系経典で説くところの大乗の教説である‘空’と、阿含で説く‘四諦・八正道・十二因縁’との間にあるのは、‘程度の差’だけであって、双方共に歴史的釈尊の教説ではないのです。

一度、仏教を志したことのある者なら、釈尊の直説を知りたいと思うのは当然のことだと思います。
しかし、数多の学者が、「スッタニパータ」や「ダンマパダ」のような古文献を精査し、遺跡の発掘等の考古学的な研究をしても、見出し得なかったものが‘歴史的存在としての釈尊の説’です。

どなたでも結構です。
もしも間違いなく‘釈尊の直説’が存在するのであれば、一偈一句でも構いませんので、それを提示していただければと思います。

1767犀角独歩:2007/07/17(火) 19:07:07

一字三礼さん

少しお書きになっている方向が、れんさんや、わたしの思惑からずれていると思います。

わたしが、たとえば、「神話」と書くとき、それは超人的に想像された釈尊や、日蓮を指しています。いや、超人どころか、唯一絶対の神仏となってしまっているものを指してのことです。

しかし、結局のところ、釈尊も、日蓮も生身であった、生老病死を決して逃れることのできない我々と同じ人間だった。つまり、人間釈尊、人間日蓮というのは、このわれわれと同じ人間として、釈尊、日蓮を見ようということです。

経典から、それを知ることができるとか・できないとか、そんな話をしているわけではありません。もとより、日蓮は700年前、釈尊は2500年も前の人です。その実像など、正確に知ることができないことなど、当然のことではないでしょうか。

ただしかし、これらの人々が、いまのわたしたちと同じように悩み思惟し、苦を克服して行っただろう道程を想像するに過ぎません。しかし、「祈りとして叶わざるはなし」といった類の、唯一絶対者への信仰にしてしまうのではなく、同じ人間として、苦を克服していく精進をして行こうという形で受け取ることはできるはずです。

その時に、目標となるモデルは、超人でも、唯一絶対の神仏でもなく、Buddha 、すなわち目覚めた人であり、シュリマーナ(沙門)精進する者といった人間が人間としてできることと考え、実践するときに、人間釈尊、人間日蓮を想定して、目標とするといっているのに過ぎません。いうところの“人間”とはさほどの意味です。釈尊の直説云々とは別段の話しです。

その意味において、寓話からそれを想像することをなんら否定するわけではありません。それも参考にしながら、しかし、偶像化され、超人化され、唯一絶対の神仏に仕立て上げられた想像の産物はさておいて、等身大の人間として、釈尊、日蓮を見たいということです。

1768マターリ:2007/07/17(火) 20:25:35
源義経が衣川館で自刃したのは、1189年です。日蓮聖人が誕生したのが、
1222年ですから、義経が亡くなってからまだ、33年しか経っていません。

考えてみると、日蓮聖人は、とんでもない大昔の方です。義経の行動に
ついても、現代人から見れば、わからないことばかりです。日蓮聖人
も、義経と、それほど違わない時代の方です。

私たちは、そんな日蓮聖人が、あたかも現代を生きておられるかのよ
うに、議論しているわけですから、何ともすごいことだと思います。

政治・人の考え方・生活など、現代と全く違っている鎌倉時代のことを
想像するのは、難しいことだと思います。

私たちは、民主主義・生命尊重の、それも平和な時代に生きています。
日蓮聖人は、武家社会・生命軽視・末法思想におおわれた時代に生きま
した。

人間としての日蓮聖人を考える場合、タイムマシンで鎌倉時代にタイム
スリップするのが一番ですが、それはできません。

すると、日蓮聖人を研究する場合、自分が鎌倉時代にいると錯覚するくら
いまで、鎌倉時代そのものを、研究する必要があるのではないでしょうか?

その研究過程で、日蓮聖人の人間としての実像が、自然に浮かび上がってく
るかも知れませんね。

1769犀角独歩:2007/07/17(火) 21:25:14

マターリさん

まったく、そのとおりですよ。
ところが、そんな研究もなく、語られる日蓮、そんなものはご免こうむるということです。

1770天蓋真鏡:2007/07/18(水) 00:46:21
横レス失礼します。此こは戒壇本尊の掲示板なはずですが、私も書かせて頂きます。管理人さんと関係者各位方々が議論した結論を見易く一枚の表に纏めて示してもらうと「きっかけ」に役立つのですが如何でしょう。自分が思う所は宗教は学問であると言う事でしょうか。日蓮の言う信とは何なのか。牧口は修行団体を目指し、戸田の時代からは大勢を纏める為に信仰団体へ傾斜せざるを得なかったのか。日蓮仏法の質量は三国四師を含む漫荼羅に比例するか。信学行は仏彫像経典学漫荼羅で足りるか?自分なら日蓮日寛牧口に創価学会の研究を絞ります。其れでもチェックするだけでも大変でしょう。此この掲示板だけでは無くて良い人物人材に巡り逢いたいです。

1771偶ロム偶ログ:2007/07/30(月) 02:21:40
「摂受折伏スレ」の700からの続きです。

おそらく正信会にとっては「真偽」についての言及は禁忌なのでしょう。
日達氏の遺弟がほとんどを占める正信会は「細井日達氏当時の日蓮正宗
の教義教学」を大前提としている日蓮正宗系の外棲セクトなのですから、
日蓮正宗への復帰を考えていれば、「偽作説」を採ることはできません。
また「真作説」を採っても、「(大御)本尊の件は(御)法主の権能」
であり、論ずること自体が「謗法」と見做されかねないわけですから、
ここは「洞ヶ峠」を決め込むに如かず、といったところでしょう。
そのていどの「正信」であり、そのていどの「正宗」であると言ったら
言い過ぎでしょうか。

「アンフェアなのは誰か?」(某ドラマ・映画・小説のパクリです)
もちろん、「彼ら」です。

1772ロム:2007/08/09(木) 20:53:45
たびたびロムさせていただいております。創価学会系のホームページで知ったのですが、金原明彦という人が『日蓮と本尊伝承―大石寺戒壇板本尊の真実』という本を出すようです。アマゾンでは発売前なのに品切れでした。金原という人は創価学会の人なのでしょうか。本の題名にある真実という言葉が非常に気になります。どなたかご存知でしょうか。

1773彰往考来:2007/08/10(金) 21:42:23
>1772 金原という人は創価学会の人なのでしょうか

このようなお問い合わせは個人情報となりますので、創価学会の人であるかどうか申し上げられませんが一読する価値のある本でしょう。
私も注文中でまだ拝読していません。ひょっとしたな当該本にその件に関する記載があるかもしれませんね。

彰往考来

1774独学徒:2007/08/10(金) 22:55:13

著者はカラーで鮮明な『本門戒壇之大御本尊』の写真や、大石寺所蔵の日禅授与の御本尊の鮮明な写真を所持されていると聞き及んでいます。
彫刻のサイズは、宝筐の実寸から割り出しているようです。

********************************************************

日蓮と本尊伝承
金原 明彦 著 水声社 版
3,150円(税込)
2007年08月 発行
ISBN 978-4-89176-648-1

膨大な資料、文献を博捜、渉猟しながら、日蓮正宗大石寺に伝わる「戒壇の大御本尊」の造立をめぐるさまざまな謎の核心へと迫る。史実の検証と明解な論理のうちに、通説は排され、新たな「真実」が浮かびあがる。

********************************************************

1776ロム:2007/08/10(金) 23:16:06
>彰往考来様
>独学徒様

御回答いただきありがとうございます。
御戒壇様の御写真が掲載されていると入手した人より教えていただきました。
私のこれまでの信心が試されているように思います。
ともあれ、魔の所為かもしれませんが、真実という言葉が私の心に残ります。
明日、池袋の帰りに書店に行ってみます。
ありがとうございました。

1779題目ホスピス摂受の里:2007/08/18(土) 21:04:40
池袋の書店にはなかったな

1780ロム:2007/08/18(土) 22:52:53
>題目ホスピス摂受の里様

はじめまして。
私はジュンク堂で買えました。
御戒壇様の御写真よりも歴史検証編が私には驚きでした。
著者の方は創価学会員のようですが、御宗門攻撃というスタンスは感じられません。
こう思うことが魔の所為かもしれませんね。
でも、どうしてか感動を覚えました。

1781きしだ:2007/08/19(日) 00:09:56
新宿の紀伊国屋本店にもありましたよ。

1782偶ロム偶ログ:2007/08/20(月) 15:09:17
なかなか纏められた本ですが、独歩さんの著書から図版の転載がありましたね。
あの図版は独歩さんがレッタッチされたものだと思うのですが、出典が明記されていません。
また内容的にも独歩さんの後追いなのですが、先行業績を伏せているのには何故でしょう。
せっかくの著作も、ルール違反を批判されてはつまらないのでは。
日蓮宗現代宗教研究所が昨年出した『創価学会批判 復刻版』も著作権無視の改竄でミソを
つけてしまい、著作者である菅谷、執行、宮崎、三氏の名誉、現宗研と宗務院の名を汚す
こととなってしまいました。
いずれも些細なことなのかもしれませんが、もったいない。

1783ロム:2007/08/20(月) 21:26:22
アマゾンのレビューにも「内容は先行業績の無断借用も目立つ。」とありました。

1784きしだ:2007/08/20(月) 23:48:45
おそれいります。
>>1782の偶ロム偶ログさまのレスにある
「創価学会批判 復刻版」というのは
市販されたのでしょうか?
グーグルで検索したり、日蓮宗現代宗教研究所のページみたのですが
情報を見つけられませんでした。
よかったらどのようにしたら購入できるのか教えていただけないでしょうか。

1785犀角独歩:2007/08/21(火) 08:43:48

偶ロム偶ログさん

お気に留めていただきましたことを感謝申し上げます。


きしださん、はじめまして。

『創価学会批判 復刻版』は日蓮宗現代宗教研究所が自宗内教師を対象に発刊したものです。日蓮宗の僧籍を持つ方であれば、同研究機関に連絡をすれば送付してもらえるようになっています。

では、それ以外の方はどうなのかということになりますが、これはケースバイケースで、現宗研側の判断によるようです。以下、電話番号と、メールアドレス、HPです。なお、余談ながら、今回のわたしどもの勉強会では、この書籍はテキストとすることとなっています。

TEL:03-3751-7181
E-mail:info@genshu.gr.jp
HP:http://www.genshu.gr.jp/index.htm

1786きしだ:2007/08/21(火) 16:01:19
犀角独歩さま

ご丁寧なお返事ありがとうございました。
市販しているものではなかったのですね。
連絡してみようとおもいます。

1787犀角独歩:2007/08/22(水) 08:42:28

> 1786

こちらの掲示板は、管理人さんのご意向で「さん」付で統一とのことです。どうぞ、お気軽にお声掛けください。

なお、該当書籍、もし、入手できませんでしたら、ご一報ください。1冊ぐらいでしたら余分があります。差し上げます。

1788きしだ:2007/08/23(木) 16:07:28
>>犀角独歩さん
敬称については、取り決めを知らずに失礼いたしました。

創価学会批判についても、
大変ありがたいお言葉をありがとうございます。
入手できなかった場合には、連絡させていただきます。

1789波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/08/23(木) 16:13:37
日蓮と本尊伝承 金原 明彦 著 水声社 版

15日の未明に私の自宅郵便ポストに投函されていましたよ。
犬がワンワン鳴くので何かと思ったら、封筒にくるまれたこの本がポストに
入っていた。

内容は戒壇本尊偽作の決定打でしょう。
翌日北山に送っておきましたが、北山もばっさり切られている。

金原氏は以前沼津市明治記念館展示室に三鳥派研究の出店もしていた。
学会員さんでこれだけハイレベルでフラットな視点でものを見る人は少ない
のではないか。

1790秀麗富士:2007/08/23(木) 23:49:06
あっ!!波木井坊さんみっけ
お萬の方の寺の講頭さんだ
三鳥派の研究では有名な方なのですね、金原さんは!

1791波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/08/28(火) 10:49:41
どうもです。
愛鷹山に三鳥派の旧遺跡跡らしいものが発見された、との研究内容でした。
たしか妙観が機関紙で必死に反論していたのを覚えています。

研究熱心だったので、彼に立正安国会出版の所蔵不明の82番のコピーを
あげたことがある。(実は何幅かのコピーも)

1792加藤秋海@まだコンビしてるかな:2007/08/29(水) 14:54:30
>秀麗富士さん
金原氏の三鳥派研究は在野の研究者O氏の、長年にわたる研究の剽窃といわれています。
今回の本も著作権法違反の疑いあり、という感じです。
私が知っている日蓮宗のお坊さんたちは皆さんが、先行業績として独歩さんの著書を高く評価していますが、金原氏の本については宝篋の写真などは珍しがっていました。
「先行業績や出典・出所など記述のルール無視は論外、内容も独歩さんの後追い。研究書扱いはとてもできない」
ということでした。
批判であればなんでもいい、そんなレベルの人たちには丁度いいシロモノなのでしょう。

1793波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/08/30(木) 15:27:30
>>1792
彼を援護するわけではないが、彼は自分独自でやってましたよ。
たしかにほかの人の研究は見てはいたでしょうが。

ところであなたはこの本を読みましたか??
内容は”批判であればなんでもイイ、という内容ではありませんでしたよ。

1794犀角独歩:2007/09/03(月) 16:48:22

独学徒さん

拙書に対して、ご理解と生き証人を自称して下さることに、まず深く御礼を申し上げます。

さて、当掲示板は挙証義務を遵守し議論することによって、多才な成果を上げてきました。この在り方を定着させた管理人さんには衷心より敬意を表するものです。この筋から、少しお尋ねしたいことがあります。

> 著者はカラーで鮮明な『本門戒壇之大御本尊』の写真や、大石寺所蔵の日禅授与の御本尊の鮮明な写真を所持されていると聞き及んでいます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1774

この根拠は何でしょうか。挙証をお願いできますか。

1795独学徒:2007/09/03(月) 22:39:51

犀角独歩さん、

>1794、でのお尋ねの件ですが、「聞き及んでいます。」と記したごとく、友人からの伝え聞きです。
その友人は、金原氏より直接教学を学んでいた方でもあり、彫刻のサイズを、宝筐の実寸から割り出していることなどを、以前からお話いただいていました。
その方から得た情報です。
宝筐のサイズ云々は、実際に「日蓮と本尊伝承」を手にしてみて、本当であったので、「カラーで鮮明な『本門戒壇之大御本尊』の写真」を持っているという話も、本当なのかなと思ったしだいです。

ですので、私が直接金原氏に会って、「カラーで鮮明な『本門戒壇之大御本尊』の写真」を確認したわけではありませんので、真偽不明で実否不詳の伝え聞きとご理解いただければと存じます。

もし、このような挙証不能な話を投稿することが、この掲示板の趣旨に反するということであれば、これを反省し、以後当掲示板への投稿は自粛しようと思います。

1796管理者:2007/09/03(月) 23:35:35

独学徒さん

>このような挙証不能な話を投稿することが、この掲示板の趣旨に反する

そんなことは有りません。伝聞事項として書き込まれることは、何ら掲示板の趣旨に反するものではありません。

掲示板ルールに反するのは、挙証不能な話を、恰も、事実であるがごとくに喧伝し、話し合いを重んじないことです。

これからもご参加のほど、宜しくお願い申し上げます。

1797犀角独歩:2007/09/04(火) 06:05:56

独学徒さん

ご解答有り難うございます。

「カラーで鮮明な『本門戒壇之大御本尊』の写真」は「真偽不明で実否不詳の伝え聞き」である点、了解しました。

かつて、組織の所属していたとき、まことしやかな口コミがまず流され、やがて組織と指導者に都合のいい話の根拠とされて騙され続けてきました。こんな操作には二度と引っかかりたくなく、また、人が騙されるのを看過もしたくないという思いがあります。

なお、管理人さんも触れてお出でですが、わたしは投稿自粛を促しているわけではありません。

伝聞情報は伝聞情報、事実証拠事実証拠で、厳として区別して扱わないと混乱するので、確認させていただいたまでのことです。

引き続き、ご投稿を期待します。

1798独学徒:2007/09/04(火) 19:11:35

管理者さん、
ご理解を戴きありがとう御座います。

犀角独歩さん、私の伝え聞きは、学会組織とはなんら関係ありません。
学会組織は、あくまでも彫刻云々はタブーの世界で、大幹部といえども口にすらしません。
ほんの一部の私的グループの、更に一部の人達の間での事です。
その一握りの方々と、どういうわけか縁があり、複数の友人・知人がいます。
組織や指導者とは別の世界で伝え聞いたことです。
恐らく学会組織は、金原氏の著作は完全に無視を決め込み、彫刻のことには今後も曖昧な態度でごまかしを続けるものと思われます。

1799犀角独歩:2007/09/04(火) 20:08:13

独学徒さん

仰るとおりでしょう。
今回の合宿でも、現役学会員の方は「創価学会は今後とも戒壇本尊について論じることはない。過去を振り返ることはしない」と言っていました。つまり、肯定もしなければ否定もしないということでしょう。

わたしがいちばん懸念するのは、このような創価学会の在り方は、偽本尊における集金と動員について、何ら、責任を負わないと言うことです。しかし、これは、「偽漫荼羅であっても、偽本尊ではない、本尊としての価値はあるから、創価学会に過去の責任を追及するものではない」といった論調に転がってしまえば、けっきょくのところ、創価学会の無責任体質と、結果的に何ら変わることがないということです。

両者とも、180度逆の立場でありながら、同じく創価学会の責任追及をしないのであれば、意味するところは少しも変わらない、しかし、このようなことでは、絶対に世間も、また、いままで、さんざん「邪宗」呼ばわりをされてきた‘被害者’も納得することはない、わたしはこの点を、特に強調したいのです。

この点において、独学徒さんは、どのようなお考えなのか、昨今のご投稿からかいま見えないというのが、正直な感想です。

1800独学徒:2007/09/04(火) 20:47:32

犀角独歩さん、ご指摘の通りですが、私はかねてより特定の団体や指導者を批判するような投稿は避けてきました。
日蓮の精神からは外れた姿そのものですが、正直トラブルに巻き込まれたくありません。職場や家族が大事で、宗教に関することはあくまで二の次で、『趣味』の域を出ません。
もし将来、子供達も独立し、入道するようなことがあれば、自分の気持ちをそのまま言葉に表したいとも思いますが、現状はあくまで『趣味』の段階ですので、変なトラブルに巻き込まれて、家族に危害が及んだり、仕事がやりづらくなるようなことが起こっては、それこそつまらないことだと思います。
したがって今後も、特定団体もしくは個人、特定の指導者を批判するようなことは避けたいと思っています。
今は時間と小遣いの許す範囲で、書籍を買ったり、寺院に出向いて写真を撮らせていただいたりして、十分楽しんでいるところです。

1801犀角独歩:2007/09/05(水) 06:35:22

独学徒さん

われわれがなしていることが「つまらないこと」で、あなたの趣味が「楽しみ」の範囲であるというご見解はわかりました。

しかし、あなたの保身とは裏腹に、既に、特定宗教団体とのトラブルに巻き込まれるところまで、踏み行っていますよ。

1802偶ロム偶ログ:2007/09/05(水) 13:05:39
私などはこの問題に長年巻き込まれてしまっています。
ずいぶんと昔の話になりますが、若気の至りで疑問を口にし、同様の疑問を持つ人たちと語らいました。
戒壇論・本仏論・師弟論・血脈論などでしたが、そのときは本尊論までは私を含め皆気がついてはいませんでした。
疑問を語り合っただけでしたが、それは組織から直ちに「批判」と受け止められ、語り合うこと即「反逆行為」と見做されたのです。
その後、数ヶ月にわたって夜には自宅の前に地元組織の人たちが自動車で、張り込みのようなことをしていたものです。
これはもっとも初期段階のことですが、このような組織の動きに対して、若かった私は反発し、批判を強めていったものです。
それは自己防衛のつもりでしたが、「攻撃は最大の防御」というかんじにエスカレートすることにもなりました。
そうする中で他にもいた批判者たちと知りあうことになり、さらに批判を強めたのですが、批判者たちにも違和感を覚え。距離を置くようになりました。
正直に申し上げて、嵐の渦中にいたときにはこちらも熱くなっていたので気がつかなかったのですが、家族や友人や知人にはさまざまなかたちで心配・迷惑・負担をかけてしまっていたのです。
批判者たちと距離を置いて數年たって、自分にとっては気掛かりな問題として戒壇・血脈・本尊の三つに集約してきました。
さらに數年たち、それらも要するに「嘘・虚偽の歴史」の問題というふうに自分なりに整理しました。
発端から現在まで約三十五年、問答迷人さんがこの富士門流信徒の掲示板をつくって下さった約七年前までは、同じ問題を考える人もほとんどいませんでした。
こちらの掲示板ができる前、三年ほどネットで単発的に問題提起もしていましたが、しょせんは単発で終わっていました。
富士門流信徒の掲示板は、議論の場であると同時に交通整理の場でもあります。
私自身はすでに嵐のまっただ中からは避難していますが、それでも当時の後遺症はまだまだ生活に残っています。
さらに避難してはいても、完全に無関係ということにもなっていません。

独学徒さんの立場やお考えはこれまでのままで良いと思いますし、保身だともおもいません。さらにさまざまな教えをいただきたいと願っています。
また独歩さんの立場やお考えもこれまでのままで良いと思います。
ただ、お二人の違いは、実生活で渦中にいるかいないか、それによる危機意識とか問題意識のありよう、なのだと推察します。
カミングアウトをするかしないか、それはこの掲示板では重要なことではないと思います。
正宗や学会に関するさまざまな問題を、広く深く、これだけの期間にわたって議論し続けてきた掲示板は他にはないのではないでしょうか。
こちらの掲示板が他の掲示板の書き込みや、会員・信徒などにある種の影響を及ぼしていることも事実だと思います。
それぞれの所属や立場の違いは問題としない、問題とされるのは、掲示板のルールと議論・書き込みのルールだけです。

独歩さん、落ち着いてくださいね。
独学徒さんは、けっして、

>われわれがなしていることが「つまらないこと」で、あなたの趣味が「楽しみ」の範囲であるというご見解

を述べてはおられません。
ただ、ご自身にとって

>変なトラブルに巻き込まれて、家族に危害が及んだり、仕事がやりづらくなるようなことが起こっては、それこそつまらない

と、家庭を持つものとして当然の思いを正直に述べられたのです。
しかもそれは、曖昧にしてもなんら不都合ではなかったとも思います。
私は独学徒さんの発言に誠実さを感じました。
また、さまざまな問題を考えたり皆さんと議論することは、私自身の楽しみでもあります。
私は私なりにその楽しい論議や諸説を踏まえて、会員さんや信徒さん、僧侶や幹部に接して、さらに相互理解を深めていきたいと努めています。
私は創価学会という組織が大嫌いですが、それなりに評価もしています。
日蓮正宗については、存在してはならない、とすら思っています。
上の二行は私の考えではありますが、それを他人に押し付けるつもりもありませんし、声高に主張する氣もりません。

独歩さん、強い口調になったり、切り口上になるのは悪い癖ですよ(苦笑)。
すごく嫌な言い方をすると、「まるで学会か正宗みたい」と思われてしまいかねません。
ただでさえ怖い顏をしているんですから、もう少しソフトにね。
辛子入りシュークリームという手もあります。

1803アスラン:2007/09/05(水) 17:18:05
独学徒さんのお気持ちは家庭を持つ者としてよく分かります。やはりお子様などには影響あるような行動は慎むべきです。ただ…創価学会はいつまでもそのような方をに放置してくれるのでしょうか?その辺が余計なお世話ですが気がかりです。

1804犀角独歩:2007/09/05(水) 18:01:53

偶ロム偶ログさん

ご忠告、真摯に受け止めます。ただし、わたしが言っていることと、ややズレがありますから、その点は記しておきます。

先にも記したとおり、独学徒さんは、板本尊問題の一つのスピーカーになっている事実がある以上、今さら、「趣味」だなんだと言い出したところで手遅れであるということです。この現実を受け止めるべきだということですよ。

わたしが言い方に問題があるか、では、実際に創価学会を含む大石寺圏から被害を被ったという認識をしている人々が、わたし犀角独歩、独学徒さん、偶ロム偶ログさん三様の意見を聞いて、どの言葉にいちばん納得するでしょうか。

嘘偽りの本尊を本物であると謀って社会全般の顰蹙を買ってきた団体に所属していた人が、その責任を追及するわけでもなく、被害者の声に耳を傾けるわけでもなく、「私は趣味、被害に遭うなんてつまらない」と言えば、被害を被った人ならば怒るのではないでしょうか。

そんな被害者の声を聞いてきた一人として、今回の独学徒さんの発言を聞き捨てならなかったということです。

直前にアスランさん(はじめまして)という方が記していますが、このような態度は、創価学会が果たして放置するのか、被害者が「仰るとおり」と納得するのかといえば、決してしないでしょう。
する人がいれば、火の粉がかぶることを人に押しつけて、安全圏で勝手気ままな評論をやっているような連中だけではないでしょうかね。

なお、わたしの強言は、別段、学会、石山とは関係ありません。それらより、強烈でしょうよ、きっと。
敢えて、写本を挙げて畢わりとします。

「日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこは(剛)し。我等はやはらかに法華経を弘べしと云んは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし。南無妙法蓮華経。」

「誠に我身貧にして布施すべき宝なくば我身命を捨て、仏法を得べき便あらば身命を捨てて仏法を学すべし。とても此身は徒に山野の土と成べし。惜みても何かせん。惜むとも惜みとぐべからず。人久しといえども百年には過ず。其間の事は但一睡の夢ぞかし。受がたき人身を得て、適出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責ずして、徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は、法師の皮を著たる畜生也。法師の名を借て世を渡り身を養といへども、法師となる義は一もなし。法師と云名字をぬすめる盗人也。恥べし、恐べし。迹門には我不愛身命但惜無上道ととき、本門には不自惜身命ととき、涅槃経には身軽法重死身弘法と見えたり。本迹両門涅槃経共に身命を捨て法を弘むべしと見えたり。此等の禁を背く重罪は目には見えざれども、積りて地獄に堕る事、譬ば寒熱の姿形もなく、眼には見えざれども、冬は寒来て草木人畜をせめ、夏は熱来て人畜を熱悩せしむるが如くなるべし。」

1805アスラン:2007/09/05(水) 20:11:27
私は学会で幹部を十年以上務めました。

現在は脱会いたしました。

もし独学徒さん、当時、私が貴方のような会員が居ましたら「クズおたく」と称し、即刻ありとらゆる手段を使い吊し上げ、笑い者にし、裏切り者扱いで見せしめて来ました。
最後にようやく泣きを入れたならば池田先生への忠誠心を念書に書かせ血判を作ります。
私は脱会し、未だに家族と別居いたしております。

家族にも多大な損害を与え、顔も会わせられません。
そのような事がつい最近私自身あったため独学徒さんの言葉が他人事には思えません。

けして趣味の域を越える事無きようくれぐれもご自愛い下さい。

1806独学徒:2007/09/05(水) 20:58:52
偶ロム偶ログさん、アスランさん、ご理解を戴きありがとう御座います。

犀角独歩さん、申し訳ありませんが、今の私には被害者の感情よりも家族が大事です。
少なくとも、子供達が成人するまでは、監護義務もあるわけです。
正義感よりも自身に課せられた監護義務を重んじたいと思います。
この点は、いくら意見を交わしても合意はありえないでしょう。
日蓮がなんといおうと、日興がなんといおうと、この気持ちは変わりません。

それから、偶ロム偶ログさんがフォローして下さいましたが、私は犀角独歩さん達の活動を、つまらないことなどといった覚えはありません。
このような誤解に基づくご発言は、こちらも気分を害します。

1807犀角独歩:2007/09/05(水) 21:05:01

独学徒さん

あなたが気分は害するかどうかは別として、ご自身の発言のなかで相手の気分を害する要素がなかったかどうかはお考えにならないのでしょうか。

わたしは、人のおもりやご機嫌を取ることをしないので悪しからず。

なお、あなたとか属に追撃の手を緩めないのは、わたしではありません。あなたはたぶん、自分と家族のみの守り方を間違っていますよ

1808犀角独歩:2007/09/05(水) 21:06:36

それと、もう一つ。家族が大事なら、こんな所に書き込みなどしないで、さっさと隠居して人目に触れないようにすることです。
そして、静かに忘れ去られるのを待つことです。
それがいちばんでしょう。

1809犀角独歩:2007/09/05(水) 21:21:39

「趣味」の範囲を超えなければ、相手が追撃の手を緩めない?
そんな組織ではありません。裏切り者は、自殺に追い込め、気が狂うまで追い込め、でしょう。

白旗を立てて、「どうも、すみません、ごめんなさい。正しいのは組織でした」と言ったとしても、追撃の手を緩めることはないでしょう。


これで最後ですが、独学徒さん。あなたは「被害者の感情」と記していますが、ここがずれています。あなた自身が、会のメンバーとして、活動した“加害者”としての側面、これはもちろん、わたしも同様ですが、この点を、問題にしています。

わたしにとっても日蓮も日興も基準ではありません。かつて、メンバーとして、戒壇本尊絶対、大石寺絶対、御法主上人猊下絶対、池田先生絶対を主張して、内外を被害を及ぼした自分の加害の側面から贖罪を考えるという話をしています。

そうは言っても家族を大切にすることはけっこうなことです。
わたしも皆も、早くあなたが忘れ去られ、ご家族を安穏な生活を送られることをお祈りいたすことといたします。

しかし、そんなあなたを「無責任な人間である」と思っているわたしがいることは、どこかで記憶しておいてください。

1810独学徒:2007/09/05(水) 21:23:08

犀角度歩さん、はっきりいいますが多きなお世話です。
貴方のアドバイスは不要です。
相手の気分を考えないのは、貴方も同じだと思います。

1811問答迷人:2007/09/05(水) 21:27:18

独学徒さん

こんにちは

僕は、岐阜市に住んでいますが、創価学会を脱会するときも、この掲示板を非活動学会員のチョンガーさんの勧めと支援によって立て上げた時も、そして、法華講から自然消滅した時も、家族に対して、何らかの嫌がらせや攻撃を受けたことが有りません。今も、仕事を通して、創価学会の人たちとお付き合いがありますし、話が信仰に及んだときには、歯に絹を着せず、はっきりと間違いを指摘しています。創価学会の離脱僧もそんな学会員の紹介で我が家に来られ、数時間に亘って激論を交わしました。しかし、何らの嫌がらせや攻撃を受けたことが有りません。これはどうしたことでしょうか。

恐らく、創価学会組織の中に居て、誤りを指摘した場合には、そのような嵐が吹き荒れるのでしょうが、僕のように、組織から離れた人間は、攻撃するにも値しないからなんでしょうね。

華族を大切に思われるなら、兎に角、組織を離れてしまうことではないかと愚案いたします。何か参考になりますれば幸いです。

1812問答迷人:2007/09/05(水) 21:29:08

訂正です。

歯に絹→歯に衣
華族→家族

1813犀角独歩:2007/09/05(水) 21:35:45

独学徒さん

大きなお世話もこちらも一緒。
家族が大事なら、こんなところに自分をさらないことです。
わたし自身があなたを攻撃する可能性だってあるからですよ。
わたしはあなたに別段、アドバイスなどしていません。
気分を考える云々を等と言うことも書いていません。
ただ、書いていることは加害者としての責任だけです。無責任な人間と組織に責任を追及することで、わたしの主張は一貫しています。

1814アスラン:2007/09/05(水) 21:58:20
管理人様
この独歩氏が独学徒氏に対する発言は看過出来るのでしょうか?
独歩氏のな口上はないでしょう。
謝罪に値すると思われます。

1815犀角独歩:2007/09/05(水) 22:06:06

アスランさん

わたしが謝罪に値するというのは、いったい、どのような部分を指すのでしょうか。具体的に示していただけますか。

1816独学徒:2007/09/05(水) 22:09:01

問答迷人さん、お話を戴きありがとう御座います。
結局、私が原因で掲示板の雰囲気を悪くしてしまいました。
本当に申し訳御座いませんでした。

1817管理者:2007/09/05(水) 22:12:11

アスランさん

この独歩氏が独学徒氏に対する発言は看過出来るのでしょうか?

激しい応酬では有りますが、個人攻撃には当たらないので、掲示板のルールに抵触するとまではいえないと思いますが、如何でしょうか。ご意見をお聞かせください。

1818アスラン:2007/09/05(水) 22:13:14
管理人様の判断を仰ぎます。

1819犀角独歩:2007/09/05(水) 22:17:27

弁明を記しましょう。

独学徒さんは

1800「『趣味』の段階ですので、変なトラブルに巻き込まれて、家族に危害が及んだり、仕事がやりづらくなるようなことが起こっては、それこそつまらないことだと思います。
『趣味』の段階ですので、変なトラブルに巻き込まれて、家族に危害が及んだり、仕事がやりづらくなるようなことが起こっては、それこそつまらないことだと思います」

この「つまらないこと」が、わたしを指しているという趣旨で書いたというのが1801のわたしのレスです。

それに対して、偶ロム偶ログさんは、これは独学徒さんご自身のことを書いたことであると1802に記しました。

しかし、本当にそうでしょうか。
「変なトラブルに巻き込まれて、家族に危害が及んだり、仕事がやりづらくなる」ことは、実際にわたしに起きた現実です。このような現実を抱える人間に対して、このような事実を「つまらない」ことと記すことは、それはわたしと、わたしのに起きた現実をつまらないことといっていることになりませんか。

わたしが1801に記したことは、そのような意味です。
もちろん、わたしは謝罪する意思はありません。
むしろ、以上のように、自分に当て嵌めながら、結果的にわたしの在り方を「つまらないこと」と文脈的に意味するような文章に対して、抗議を申し入れたいのはこちらのほうです。

以上の点を管理人さんにおかせられましては、ご考慮いただき、ご決済をいただければ幸甚です。

1820独学徒:2007/09/05(水) 22:30:41

>1819
犀角独歩さんの身に、過去何があったかなど、私が知るわけもないでしょう。
1800の私の投稿は、偶ロム偶ログさんの仰る通り、私自身のことを書いた内容です。
誤解もここまでくると、被害妄想とも取れます。
こっちが迷惑です。

1821問答迷人:2007/09/05(水) 22:33:10

独学徒さん

呟きです。

この前、ずっと話をしていた支部婦人部長が役職を降りて、副支部婦人部長になりました。旦那さんを説得して、支部長を辞めさせて、今はお二人で、静かに勤行・唱題に励みながら、今まで20年に亘って積み残してきた家庭のこと、子供さんたちの軌道修正に励んで折られます。ご長男は、お気の毒に引きこもり青年です。20歳を過ぎていますが、働くことも無く、ネットの仮想空間を彷徨っている有様です。
今からでも遅くない、この子供達の為の軌道修正の為に頑張るんだ、と決意しておられます。学会活動最優先の日々の中で、子供さんたちが犠牲にされてきたのだと思います。

活動に溺れて来た人たちが、一人でも、その事実に気付いて、立ち直ってほしいと願うのみです。

僕自身も、学生部の役職を最優先にして、大学卒業を棒に振ってしまった人間です。そして、僕の担当していた組織の中で、同じく大学を棒に振ってしまった複数の人間が居ます。この人たちは、僕の活動を見習ってしまったのかもしれません。慙愧に耐えないです。

活動を最優先にして、良いことは何も起こりませんね。一部の特権者が本部職員として、学会エリートの道を歩みましたが、途中から、新聞紙上から名前が消えてしまいました。今はどうしているのだろうか、と案じてしまいます。

1822潭溺:2007/09/05(水) 22:34:41
横レス失礼。

犀角独歩さんは心構えが「趣味」の段階で、
「変なトラブルに巻き込まれて、
家族に危害が及んだり、仕事がやりづらくなる」
ようなことになったのですか?
そうではないでしょう。

そこのところの前提条件がそもそも違う以上、
独学徒さんの言う「つまらないこと」は
犀角独歩さんには当てはまらないのではないかと
私には思えます。

1823犀角独歩:2007/09/05(水) 22:36:31

尚、今回の一連の遣り取りは、1794に、創価学会の責任につき、わたしが独学徒さんへ問うた一件から出発しています。
近視眼的に1800からの判断をしないでいただきたく存じます。

はたして、何故、独学徒さんにおかせられては、創価学会の責任追及の段になると、それまで、写真出所や、書籍紹介に饒舌であったのが、一転して「趣味」「つまらないこと」と変転し、創価学会の責任問題という論旨を敢えて外す方向になってしまったのか、わたしには極めて不可解に感じるものです。

出所不明の写真には饒舌、一点、創価学会の責任問題では解答回避、このような態度を、わたしは「無責任」と記したのです。

1824犀角独歩:2007/09/05(水) 22:39:30

独学徒さんとわたしの遣り取りなのに、何だか突然、色々な人が登場しますね。これはどういうわけでしょうか。

なお、独学徒さん、「被害妄想」というのは精神病を指す用語です。人権侵害に当たりますよ

1825アスラン:2007/09/05(水) 22:40:45
独歩氏
そうでしたか。貴殿にもそのような現実が起こっていたとは、私もロム歴が短かった為に存じ上げませんでした。
申し訳ありませんでした。
確かに趣味の域であったなら、家族が大切ならば、目立つ行動はやはりいつか大切な家族へ危害が及びます。
私は過去、現役会員の反創価のホームページを潰して、またその会員を突き止め即退会させた事があります。現在の学会はこういったインターネットに関してはかなり力を入れ始めました。独学徒氏も、そう言ったリスクを負ってほしくはありません。どうか今後の生活を鑑みるならば、自制をお勧め致します。

1826管理者:2007/09/05(水) 22:46:22

犀角独歩さん
独学徒さん

>以上の点を管理人さんにおかせられましては、ご考慮いただき、ご決済をいただければ幸甚です。

>誤解もここまでくると、被害妄想とも取れます。

それぞれのお立場、拝察申し上げます。お二方の、当掲示板に対する貢献度は、それぞれお立場は違っても、忽せに出来ないものがあります。

掲示板ルールに抵触するかどうかについては、既に抵触するとまでは言えないと判断させていただきました。この件に付きましては、この程度にて、立場、考え方の違いを超えて、鉾を収めて戴きたい、というのが管理者の思いでございます。
どうか、管理者に免じまして、お収めいただきますようお願い申し上げます。

1827犀角独歩:2007/09/05(水) 22:49:02

アスランさん

合意点が見つけられたことを有り難く存じます。

貴殿の身に起こったことは、わたしの過去の経験と重なるところもあります。ご承知かどうか存じ上げませんが、一昨年のこと、わたしは顕正会から実名を挙げられたうえ、『顕正新聞』紙上で「元学会員」「魑魅魍魎」と口を極めて誹謗の限りを尽くされました。
また、その後の日曜勤行でも、度重なる悪口雑言の限りを尽くされました。創価学会を脱会したのは、もはや17年前のことになりますが、当時、『聖教新聞』地方版ながら、地元幹部が紙上座談会に登場し、わたしをして、「けがらわしい」と詰った文章が掲載されたこともあります。その他、電話、手紙、訪問はその数を覚えきれないほどです。そのような経緯で家族は、不安な日々と数カ年に送りました。

今後とも、どうか、ご指導・ご鞭撻をお願い申し上げます。

1828独学徒:2007/09/05(水) 22:50:09

犀角独歩さん、
>「被害妄想」というのは精神病を指す用語
違うと思います。被害妄想とは症状の一つであって、精神病を指した言葉ではありません。
被害妄想=精神病と結びつけるほうが、人権侵害でしょう。
創価学会の責任問題など、過去に自身の掲示板でも記したことで、いまさら「無責任」呼ばわりされる筋合いはありません。
金原氏の著作に掲載された画像は、私にとって価値的であった、ただそれだけです。
その感想に文句を付けられる筋合いもありません。

1829犀角独歩:2007/09/05(水) 22:51:11

管理者さん

わたしは、こちらの場をお借りしている身上です。
管理指導を遵守します。
1826をご決済を受け止めて、これまでといたします。
お騒がせいたしました。

1830犀角独歩:2007/09/05(水) 22:55:05

独学徒さん

被害妄想、精神病については、以下の検索をご参考に。
個人の見解ではなく一般通念から、物事は判断されます。

http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&amp;hl=ja&amp;ie=UTF-8&amp;rlz=1T4GFRC_jaJP206JP206&amp;q=%e7%b2%be%e7%a5%9e%e7%97%85%e3%80%80%e8%a2%ab%e5%ae%b3%e5%a6%84%e6%83%b3

また、写真について、文句を付けたことはありません。その信憑性を問うたのみです。

以上です。

1831独学徒:2007/09/05(水) 22:56:15

管理者さん、
私も管理指導に従いたいと思います。
ご迷惑おかけしました。

1832管理者:2007/09/05(水) 22:59:22

犀角独歩さん
独学徒さん

ご協力、深く感謝いたします。
今後とも、宜しくお願い申し上げます。

1833アスラン:2007/09/05(水) 23:12:45
独歩氏
私は貴殿の名前を存じ上げております。
一度何かの会議で貴殿の本が取り上げられ、この方を招いて宗門攻撃に一役買って頂こうと予算の計上がありました。
結局反対があり棚上げとなりましたが、まさかこのような形でこんな事を暴露するとは私自身も思いませんでした。

1834犀角独歩:2007/09/05(水) 23:14:33

問答さん

せっかくのご登場ですから、何点か、ご賢察をお伺いいたしたく存じます。

「本門戒壇の大御本尊」が偽物であるとき、それを喧伝し、会員を指導、巨額の献金を受けていた団体についての、責任をどのようにお考えになりますか。

また、その組織の意向に従って、部下、会員、また被勧誘者に、その本尊を本物と語ってしまったことに対する個人的な責任をお感じになっておられますか。

1835犀角独歩:2007/09/05(水) 23:17:16

アスランさん

そうでしたか。そんなアプローチはここかしこから受けてまいりました。

どなかたは存じ上げませんが、種々ご賢察を賜れれば有り難く存じます。

1836アスラン:2007/09/05(水) 23:23:43
独学徒氏
ご家族をご自身を大切に大切にして下さいませ。

1837偶ロム偶ログ:2007/09/05(水) 23:35:18
独歩さんの1834は功罪スレッドで論議してはいかがでしょうか。
また、問答さんというよりも、広くみなさんからの意見をお聞きするのが適当かと。

1838独学徒:2007/09/05(水) 23:35:30

アスランさん、ありがとう御座います。

1839犀角独歩:2007/09/06(木) 00:40:01

偶ロム偶ログさん

功罪スレッドで、ということですが、この問題は、創価学会の、というより、石山、顕正会といった間口の広い話です。むしろ、根本的な責任は、むしろ石山ということになります。

偽物を本物であるいうことはサギ、ペテンの類ですが、この手のものを本物であると信じ込んで勧めた場合、単純にサギ、ペテンの片棒を担いだと言うことではないわけです。

社会心理学で言えば、「代理状態」ということに関連します。
代理状態の主立った心理的な特徴は「責任感の喪失」ということです。(ミルグラム説)

わたしは、本尊検証や、その他の活動を趣味でやってきたわけではありませんから、発言には責任が負うと考えています。言いたい放題言って責任なしという態度は採れません。過去を振り返られないとも言えません。この自己責任を創価学会から、石山を経信徒会員であった自分についても考えてきました。

ご承知のとおり、社会学などでは、現代社会状況を心理主義化と分析され、それぞれ各人の心象を「被害者化」などといわれてきました。

脱会者という自画像は、かつての所属グループから被害を受けた存在であるという認識が典型となります。

このような風潮のなかで、わたしが着目しているのは、加害者としての自分、加害者としての責任という側面です。この意味では、ジャーナリズム的な偶ロム偶ログさんとは見解を異にします。

きゃからばあさんが他で感想を述べていらっしゃいましたが、この加害者であるわれわれから、実際に被害を受けた人々と日々接してくるとき、現役、脱会を問わず、自分を含むこれら人々における“加害者としての責任感”はどうなっているのだろうかと、しばしば疑問を懐かざるを得ないところとなります。

一昨年のことになりますが、小樽問答をオフ会で取り上げたわけですが、この事件の「日蓮正宗創価学会」側は、「本門戒壇の大御本尊」以外は邪宗であり、謗法であるという主張し、他宗への悪口雑言の限りを尽くしたわけです。会員全般もそのように信じていたからこそ、正本堂やら、奉安堂を立てる大きな動機となっていったのでしょう。

つまり、「戒壇本尊」を本物であると信じた共同幻想を取り扱うのに、もっとも適したスレッドはこちらであると、わたしは考えるということです。

もっとも、この内容を取り上げるとき、偽物を本物と騙された自分から、偽物を人に薦めてしまった加害者としての自分と向き合おうという提案ですから、そのような自己分析が希薄な人にとっては興味のないところかも知れません。

仰るとおり、この問題は問答さんお一人に問いかけることではありません。偽本尊を勧めた、加害者としての自分、自己責任と向かい合わないで済ませてよい問題かどうか、皆さんには再考を促したいと思うわけです。

1840問答迷人:2007/09/06(木) 06:26:41

犀角独歩さん

>「本門戒壇の大御本尊」が偽物

1.日蓮聖人が、将来、広宣流布が達成した時に建てる戒壇堂の本尊として、直接認め、彫刻を命じたものではない。
2.日蓮聖人が、出世の本懐として建立したモノではない。
3.後世の日蓮正宗(大石寺門流)が、いわゆる『日禅授与曼荼羅』を元にして、作り上げたもので、日蓮聖人は、その製作過程に直接関わってはいない。
 
「本門戒壇の大御本尊」が偽物とは、まぁ、こんな意味内容で有ろうかと思います。

そして、日蓮正宗、並びに創価学会を初めとする日蓮正宗関連の諸宗教団体が、この「本門戒壇の大御本尊」を根拠として、我田引水し、他宗教を攻撃し、信徒を獲得して来た事は、紛れも無い事実です。

ただ、ここに大きな問題があると思います。それは、宗教がその教義について果たして、社会的責任を負っているのかどうか、という問題です。

「処女懐胎」を喧伝してきたキリスト教、これは現代の科学的判断の上からは、虚偽の教義だと言わざるを得ません。又、法華経が釈尊の金口だとする、日蓮聖人の主張の根幹も、今日の仏教考古学に照らせば、「誤り」ということになり、日蓮聖人の教義の破綻は明らかであると言わざるを得ません。
しかしながら、世間は、日蓮正宗同様、キリスト教、日蓮宗を咎めない上、それなりの存在意義すら認めています。要は、信ずる人の自己責任であるというのが、世間一般の見方ではないでしょうか。

長々と書きましたが、宗教教義は本来、社会的責任を課せられていない、極論ですが、宗教教義自体には社会的責任は本来存在しないと考えます。

無論、これは、道義的責任が無い、ということではありません。

先ず、この、宗教教義に社会的責任が有るかどうかについて詰めてから、次の問題に入りたいと存じます。

1841顕正居士:2007/09/06(木) 09:37:18
問答迷人さんのおっしゃるように宗教上の言説が詐欺罪等に問われることはありません。
健康食品と称して万病が治癒すると宣伝すれば薬事法違反に問われますが、これが
お札であれば問われません。それは宗教上の言説は基本的にフィクションであると
考えられているからで、何人も容易に真実でないことを看破できる言説による金銭の
収受等は詐欺罪を構成しないという判例になっています。詐欺罪を構成するためには
まことしやかさが必要なのです。ただし地獄に落ちる等不快な言説は脅迫罪に該当
する場合があるというのが最近の傾向のようです。まあ、自己責任の世界でありますね。

1842富士川一郎:2007/09/06(木) 11:50:17
問答さん

横レスですが、基督教徒は現代科学とは関係なしに「処女懐胎」を信じております。マリアは神の子を産むに当たり、聖霊により懐胎させられました。
これを何故信じるかは、神の啓示だからです。
基督教は仏教とは違い、因果論にて成り立っていません。神の啓示を善につけ悪につけ全て信じ従う宗教です。
日本に本当の基督教徒がいないと言われるのも、神の啓示を善悪で判断しようとするからだそうです。
神の啓示に善悪も責任も無い。
神と人間の関係は「創造者」と「被造者」の関係であり、そこに善悪など無い。

もちろんこれを支持するものではありませんが、本来啓示宗教とはそのようなものです。
啓示宗教とは社会的な責任はおろか、人類への責任ない教義です。
卵が先か、鶏が先かではありませんが、教義に無答責がうたわれているようなものです。
もしも社会的な責任を認めたら基督教という宗教そのものが無くなるのです。
神は人間に敗北を認めません。

PS。別に私は基督教徒ではありませんよ(笑)。
ただ、仏教徒いや日本人はその意味を理解していない方が多いので、書いてみました。

1843犀角独歩:2007/09/06(木) 16:39:56

問答名人さん

> 宗教…教義…社会的責任を負っているのかどうか、という問題

この点なのですが、原則的には、顕正居士さんが記されるとおりだとは思います。しかし、以下のような事例もあります。

「宗教法人・明覚寺の系列寺院である満願寺の2人の僧は、同教団がやっている“悩みごと相談”で依頼者に悪霊が憑いていると占い、それを祓うためと称して1億円にものぼる謝礼を受け取っていたことがございます。この手口は、新聞折り込みチラシに「3000円で霊視をします」というところから始めていました。自分の身に不幸なことがあれば「3000円ぐらいだったら、ちょっと、頼ってみようかな」となります。しかし、行けば必ず「あなたには悪霊が憑いています」となります。それで1億円を払ってしまった人が出たわけです。
 1996年6月18日、名古屋地裁は、この自称僧侶の両被告に懲役1年2か月と1年(ともに執行猶予3年)の判決を下しました。悩みごと相談を「教団ぐるみの組織的、継続的におこなわれた詐欺行為」と認定したためです。認証を受けた宗教法人の布教活動にはじめて有罪判決が出たものとして注目されました(1996年6月19日、『朝日新聞』朝刊)。詐欺行為に認定について、たとえば東京地方検察庁は法の華三法行を追っかけているわけです。そもそも因縁話をもちかけ、献金しなければ家族に不幸が起こるなどと畏怖させて金銭被害を与える手口は統一協会が先輩格です。山口広先生によれば、全国で400軒、600億円の被害が霊感商法被害弁護団に届けられているとのことでした。」(JDCC第1回公開講座/高橋紳吾)

明覚寺に限らず、もっとも端的な例としては、統一協会を挙げることも出来るでしょう。

ただし、わたしが今回問題にしているのは‘教義が詐欺か’と言うことではありません。

浅見定雄師の言ですが「何を信じているかではなく、何をしているか」です。たとえば、オウム真理教は教義そのものの実否が問題にされたわけではありません。サリン散布に代表される違法性、反社会性に焦点がありました。

先の高橋師の挙げる例でも、教義は詐欺を行うための副次的要素に過ぎません。騙される側は仕掛けに過ぎない教義で操られるわけです。しかし、違法性の判断は、言うまでもなく教義にではなく、教義を用いて何をしたかに争点があるのではないですか。

わたしは、石山本尊の問題も同様の視点で見ているわけです。
不信心者にはただの彫刻板です。信者にとっては、信仰対象でしょう。では、組織にとっては何でしょうか。信者を操る道具ではないでしょうか。

創価学会と大石寺、また、顕正会といった集団と指導者が、この彫刻を本物であると謀って人心を操作し巨万の富を得た、法律で断罪できるか否かは別にして仰るとおり、道義的責任はないのかという視点があります。

しかし、この集団・指導者の罪過を考える前に、わたしはわたし自身のこととして考えたいのです。「個人責任」を問答名人さんと顕正居士さんは騙された側に宛て仰った。わたしが問題にしたいのは、その点ももちろん看過しないものの、さらに実際にその片棒を担がされた“加害者としての自分”という側面です。知らなかったとはいえ・騙されたとはいえ、わたしはその実否をよく確認をしないまま、多くの人に勧めてしまいました。このことにわたしは罪悪感を懐いています。ここで個人的な責任追及することに目的があるのではありません。わたしが懐いてきた加害者としての罪悪感を、ではしかし、他の信念体系下にあった人々は感じないものかという疑問を確認したかったのです。

率直にお尋ねします。問答さんは、“他に嘘を勧めた加害者としての罪悪感”を懐かれてお出でですか。もちろん、懐かなければならないという教誨じみたことをいう気は毛頭ありません。

この問題を、先駆者として、わたしの前に立ち、お考えになってこられた先輩として、その率直なお気持ちをお聴かせいただければ有り難く存じます。

1844問答迷人:2007/09/06(木) 17:28:21

僕は、例の「川辺メモ」を読んだとき、恐らくは、戒壇本尊は偽物に違いない、と思いました。そして、独歩さんの分析を拝見したときに「嗚呼、やっぱりか」と最終的に得心が行きました。
このような経過の中で家内に「戒壇本尊が偽物かもしれない」と話した時、家内は「宗教と言うのはそういうものだよ」と左程驚いた風も無く、ケロリとしていました。僕は、その家内の言葉に愕然としたわけです。

宗教は普通はそういうものでも、日蓮正宗だけは違う、と信じ込んでいましたから、そういう僕を家内は結構醒めた目で見ていたんだな、と感じました。
そして、僕は、日蓮正宗の役員を辞し、更には信徒として寺院に通うことも止めたわけです。

同信だった人たちに、如何に話せばよいか、一番悩んだのは、日蓮正宗の実態を暴くことは良いが、「それでは何を信ずれば良いのだ?」という疑問に答えること無しに実態だけを暴いて信仰を捨てさせる事が是か非か、これに大変悩みました。これについては、今も結論は出ていません。
それ故、僕は「問われたら、知る限りのことは何もかも話そう、問われない場合には、自分から話を切り出すのは止めておこう」こういう方針を立て、これでやってきています。

そして、ご質問の「“他に嘘を勧めた加害者としての罪悪感”」についてですが、これが一番深刻です。
実際に、僕が信仰を勧めた一人に対して、問われて戒壇本尊が偽物で有る事を話しました。彼は、その話を聞くを良しとせず、それから疎遠となってしまいました。問われもしないのに話したことがそれで良かったのかどうか、判断は今も付きませんが、そういう話を聞いたことだけは、彼は忘れはしないでしょう。

日蓮正宗関連の各団体の融和・統一が出来ないものか、という思いで、当掲示板を立ち上げましたが、その当初の目的は、戒壇本尊が偽物であることがはっきりしたて時点で失われ、今は、日蓮正宗から離れて、日蓮聖人の本当の教えは、どうだったのか、それを検証し、啓蒙する役割をこの掲示板が果たすべきであろう、という考えに変わりました。
管理者として掲示板を維持することが、何らかの一定の貢献を為しうるのではなかろうか、そんな思いでおります。
偽物を本物であるかごとくに勧めてしまった者の責任は、何が本物なのかを明らかにすること。これが一つの贖罪であると考えています。そして、何が本物なのかを明らかにすること、これが僕に課せられた重い宿題であると考えてきました。

1845問答迷人:2007/09/06(木) 17:31:46


訂正です

×問われて戒壇本尊が偽物で有る事を話しました
○問われてもいないのに戒壇本尊が偽物で有る事を話しました

1846犀角独歩:2007/09/07(金) 09:07:50

問答さん、ご返答まことに有り難うございます。
関東は昨日からひどい暴風雨です。

7年前、わたしはまだ戒壇本尊が偽物であるとは知りませんでした。過去にも書いたかも知れませんが、両親は熱心で小学校入学までに、わたしを100回も登山させたということでした。一番前の席に座れたとき、あの大きな漆黒の板に刻まれた文字の大漫荼羅がいまもまぶたに浮かびます。しかし、細かい相貌が思い出されるわけではありません。荘厳かつ魂が打ち震えるような感動を子どもながら覚えたことが思い出されるのです。
最後の頃のことであったと思いますが、その大御本尊の前に床から天井に届く防弾ガラスが置かれました。床に接する部分がくり抜かれており、不思議に思っていたところ、「法主上人猊下」が焼香をしたあとの香炉が置かれ、その薫煙が須弥壇にたなびいたことも覚えています。このとき、この彫刻は一点の紛れもなく、わたしどもにとって「本門戒壇の大御本尊」でした。

わたしは昭和30年に東京大田区に生まれたことは過去に記したかと存じます。『人間革命』の舞台である蒲田第一本部の窓からみた近く小学校の校庭が思い出されます。小学校6年で正本堂供養でした。つまり、奉安殿、大化城、大講堂、大客殿と次々と大石寺に建造される新たな建物をその100回の登山でリアルタイムに眺めながら、換言すれば、それら堂宇建立のための「供養」を親がつぎ込み、生活を圧迫されながら、それでも喜びに満ちた学会活動のなかで中学に進みました。あのころ、正本堂は本門事戒壇であると信じて疑いませんでした。ようやく正本堂で御開扉を受けられたのは高校3年のときでした。大噴水に圧倒され、円融閣を見上げ、ふと、振り向くと杉木立の向こうに御影堂の屋根が見えたのを覚えています。意気揚々と入場し、あの1トンもあるブロンド様の大扉が、音もなくゆっくりと開くと、暁を思わせる豪奢な緞帳に閉ざされています。その緞帳が下からゆっくりと上がると、なかは金一色であり、一目で夜明けをイメージして造られたことがわかりました。その黄金の厨子が御開扉されると、ようやくと大御本尊がその姿を現したわけです。

その瞬間、「おや?」と思ったのです。奉安殿のときのように、仰ぎ見るような大きさではなく、5400席からでは、本尊はとても小さく見えました。大きさの違い…、いや、そうではなく、なにか金ぴかでまるで違うものに見えたのです。「そんなことを思う自分は信心がない」、そう疑念を打ち消すことに躍起になったことも覚えています。

そのころ、キリスト教牧師の友人を盛んに“折伏”していました。ある日、森山諭著『創価学会の間違いをただす』をその友人が持参してきました。わたしにとって、はじめて耳にする板本尊偽作論でした。いま振り返ると、この本の底本は安永弁哲著『板本尊偽作論』であり、また日蓮宗宗務院発刊の『創価学会批判』であったことはわかります。それはともかくとして、言葉に詰まったわたしは蒲田にある創価学会が東京オリンピックの年に建立寄進した宝浄寺に出向きました。受付で塔婆書きをしていた僧侶に、この友人との遣り取りを告げたのです。その僧侶はやおら立ち上がると一度、奥に入り、そして1冊の本を携えて戻ってこられた。「ここに書かれていることが本当だから、けっして大御本尊様を疑ってはいけない」、そう言い、手渡してくれたのが『悪書板本尊偽作論を粉砕す』だったのです。恩人としての記憶ですから、敢えてお名前を記すことといたします。佐藤伴道師でした。わたしは、いまでもこの方を終生の恩人であると思っています。しかし、やがて、この方は宗門を去り、離脱僧という汚名を背負い、本日を迎えています。もし、このことがなかったら、いまのような本尊鑑別の道を歩むことはなかったと思います。もちろん、わたしは、所謂「離脱僧」と称される人々と通用をなすことはありません。また、この『悪書板本尊偽作論を粉砕す』を墨守した半生を翻しもしたわけです。しかし、この方がわたしの学恩の仁であることは、我が身の内では何ら変わるところはないわけです。

1847犀角独歩:2007/09/07(金) 09:08:26

―1846からつづく―

前置きが長くなりましたが、以上のような前提を経て、わたしはこちらの掲示板に出会いました。問答さんとの鎬を削る数々の問答はわたしの仏教観を根底から覆しました。

取り分け、そのなかで問答さんが取り沙汰されてお出でであった『河辺メモ』に関しては、ご承知のとおり、当初わたしは懐疑的でした。その後の顛末は既に記してきたとおりです。ここ数カ年は彫刻本尊偽作の急先鋒となりました。その自分にとって、佐藤伴道師に継ぐ、次の学恩の仁は問答さんをおいて、わたしにはありません。

ご質問の趣旨とは違うことを記してしまいましたが、問答さんがお応えのなかで「何が本物なのかを明らかにすること。これが一つの贖罪であると考えています。そして、何が本物なのかを明らかにすること、これが僕に課せられた重い宿題」である仰せになられました。

わたしは、この「贖罪」という点に賛同します。
「被害者化」と言われる世相とは裏腹に、わたしの心を常に占拠しているのは「加害者としての自分」、そして果たすべき責任という2点でした。後者は問答さんのお言葉を借りれば「課せられた重い宿題」に当たるのだろうと思います。

ここ10年余、所謂「カルト問題」を考え、そのグループとリーダーの責任追及を行ってきたわけです。しかしながら、この他者に向けられたことと平行し、自分自身の半生における「加害者としての責任」を等閑にしてよいものかという葛藤が存していました。

これを法華系、もしくは日蓮の教学的態度に強いて当て嵌めるとすると、わたしが標榜することは「其罪畢巳」「転重軽受」ということになります。わたしの愚案は、『開目抄』の影響もさることながら、『佐渡御書』に大きなウエイトがあったことを今さらながら自己分析している昨今です。

「祈りとして叶わざるなし」というキャッチフレーズが横行しますが、日蓮の思惟から考えるとき、「其罪畢巳」「転重軽受」という洞察は、不可欠と思えるのですが、問答さんはご自身に課せられた贖罪と宿題は、この線からお考えになりますか。

1848問答迷人:2007/09/07(金) 10:45:18

犀角独歩さん

>日蓮の思惟から考えるとき、「其罪畢巳」「転重軽受」という洞察は、不可欠

1844で「何が本物なのかを明らかにすること」と述べましたが、ここにしか、自分自身が心から晴れやかになる道は無いと思っています。
それが、「其罪畢巳」に相当するとは思いませんが、その一分に通ずるのでは無いかと思っています。

蓮祖は、あの圧倒的にして壮絶な生き方がなぜ出来たのか。蓮祖が南無妙法蓮華経と自身が唱え、他者に唱えるように勧めた背景。蓮祖の悟りとは何で有ったのか。あのパワーは何処から来るのか。
何が本物なのか、それを突き止めたとき、これらの疑問に対する答えがある程度明確に出来るのではないかと思います。そして、蓮祖が本当に伝えたかったことを今日に一分なりとも伝えることが出来るのではないか、と。
まだまだ分からないことだらけで、道半ばにも達しておらず、如何にも覚束ないですが、もし、何が本物かが把握出来たとしたら、その時点から、それを友に語り、世に問い、その結果、悪口や迫害を受けて、その時初めて、「其罪畢巳」に一歩近づくのではなかろうか、そんな風に考えています。

まぁ、そういうことで、僕の贖罪と宿題は、「其罪畢巳」の前段階、もつと、ずっとずっと手前のことだと思っております。

1849犀角独歩:2007/09/08(土) 07:27:39

問答名人さん

文面から現れる限りで言えば、問答さんのほうが、わたしより、罪責間は弱いのだろうと思えました。

極論すれば、創価学会・顕正会を含む大石寺圏の本尊と教義が、実は日蓮とは無縁であったというのが、こちらでの議論の結論であったわけです。

けれど「蓮祖は、あの圧倒的にして壮絶な生き方がなぜ出来たのか。蓮祖が南無妙法蓮華経と自身が唱え、他者に唱えるように勧めた背景。蓮祖の悟りとは何で有ったのか。あのパワーは何処から来るのか」という真蹟遺文から垣間見られる日蓮の素描は、果てしなく我々に迫ってきます。

この答えを、たぶん、問答さんは「本物探し」の末に発見できると確信されているのでしょうね。重ねてご解答、有り難うございました。

1850波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/12(水) 06:27:45
被害者意識とか加害者意識か・・・。
勝手なこと言ってるなぁ・・・。

他宗のぼくらからみたら”すごく勝手”なんだよね。別に煽るわけでもないし、
まして喧嘩売ってるわけじゃアないんで誤解なきよう。

しかしこのスレ読んでいたら無性に腹が立ってきたよ。

1851波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/12(水) 06:46:00
お祖師様が好きなのは結構なことだ。

しかし君らは距離感がまるでない。御本尊とか日蓮とかに向き合う時に、
全然距離感がない。ベッタリ!なんだよね。

富士派の人の特徴でもあるんだがね。、このべったり感は。それでいて生活に
全然反映されてない。善行を積むとか、何か人のためにしてあげようとか、
そういうのがぜ〜んぜんないんだよ。

宗教と自分との係り合い方を再度見直したらどうなんだね?

学会員時代の強引なやり方を悔いていて、贖罪の気持ちを持つなら死んだ時、地獄に
背負って持ってってほしい。今から何かしようとしても覆水盆に返らずだよ。

日蓮宗は戦後寺院数が半減し、1万あった寺院が現在は5000加持しかない。
それは元には返らないんだよ。

贖罪の気持ちをヘタに持つなら自分は現世でイッセンダイだったんだ、と観念して、
来世でやり直してくれ。

1852一字三礼:2007/09/12(水) 11:39:00

人間の意識とは非常に・残忍・残酷なもので、社会的に‘非難しても許される’存在を見つけると、その言動には際限がなくなる。

創価学会、日蓮正宗、顕正会などに対しての日蓮宗一門の態度がまさにそうだ。
教義上の、道義的、社会的、さまざまな視点から、一方的な非難をする。

非難はするが、それらの富士門の組織を反面教師として、何かを学んで、自らの宗派を改善していこうとする態度がまるでみられない。

例えば、富士門流は偽書と偽の相伝書を根拠としている、と批判する。
ところが、自分たちは摂受・折伏についての日蓮宗の伝統宗学の誤りを指摘されると、「如説修行抄」のような偽書を論拠とし、感情的な非難に終始する。
本尊の雑乱勧請を指摘されても、「本尊は開会だ」と論拠のないこと主張し、やはり感情的になる。

自らの内省のない他者批判は、一方的な暴力であり、子供の虐めと同じだ。

人の心なんて創価だろうが、日蓮宗だろうが、そんなに違いはない。
日蓮宗の僧侶だって犯罪をする人間は幾らもいる。
賽銭泥棒を追いかけて殴り殺したり、七面山ではお金をごまかしたり、音羽で園児を殺害した女の旦那は、たしか坊主だった。

他者を非難するまえに、考えるべきことがあると思う。

1853波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/12(水) 18:19:26
イッセンダイに情けは無用。反面残忍さや残酷さを持つ必要もない。
イッセンダイなんだから反対の意味で、残忍さや残酷さをもつ必要性が
ないからだよ。

おれは富士宮の住民でここで育った。彼らのやってきた行状や言動すべてを
見てきた。俺たち日蓮宗信徒はいつも一方的にやられてきて、いつも常不軽菩薩
だと言われて耐え忍んできた。

しかしおれはもう常不軽菩薩でいるつもりは一切ない。
イッセンダイに常不軽菩薩でいる必要性は全くない。

仏教は慈悲の宗教だがそれはイッセンダイに対して慈悲を説いてはいない。

1854波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/12(水) 18:24:02
贖罪だ、なんだ、と言っているなら、あの世に背負って持って行け。
イッセンダイに生まれてしまった現世はそれなりに全うすればよろしい。

地獄の門で日蓮は待っていて法華信者を追い返すと御祖様は言っている。
おれはそれを信じて疑わない。

共に地獄に落ちようぞ。地獄の獄卒の前で白黒はっきりつければよろしい。

1855再挑戦者:2007/09/12(水) 21:09:55
 熱戦の最中、横からお邪魔の虫のネットジャンキ中毒者ですがゴメン下さい。
 そこそこの盛り上がりには少々以上の、?、、過熱感も伝わってきておろまするが、??
 ドーゾ、お気持ちを今一度ほど、お静め戴きたく存知を申しあげますが、、?
 
 時に、波木井さま、誠に何ですが、お隣のスレッドでの「、、携帯型ホログラム3Dの本尊、、云々、、」、、が御座いましたが、?
 此れに関しましての、更なる御詳しいお言葉など、お聞かせ、を、?? 失礼をば致ししました、。

1856波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/13(木) 05:52:26
まァ、少し言い過ぎたと思って反省している。

私の場合先祖代々なのでDNAにお題目が刻み込まれている。記憶がある一番
小さい頃、幼稚園に通っていた時すでにお題目を聞いて思わず手を合わせた。
誰にも言われないのに。

前にも書いたが俺は富士宮で育った。かなり創価学会や大石寺には悪い感情がある。
なんたって百条問題に絡んで暴力団まで介入してきて、力ずくで抑えられた経験がある。
犀角独歩氏やその他もろもろの書き込みを読んで、当時俺たちがどんな思いでいたかを
思い出したらたまらなくなったんだよ。

とにかくひどかった。

1857犀角独歩:2007/09/13(木) 07:54:54

1852 一字三礼さん

お書きになった、各集団へのご感想に関しては、わたしも同様に思います。

この「内省」ということが、わたし自体は、加害者意識として言語化されました。また、この自今分析に基づいて、10余年の社会活動への動機ともなりました。

1858犀角独歩:2007/09/13(木) 07:57:06

短い文章なのに打ち間違えてしまいました。

【1857】

誤)自今分析
正)自己分析

1859波木井坊竜尊@日蓮宗葵講:2007/09/18(火) 10:11:05
自らをイッセンダイと悟りその宿業を背負っていくべきだね。

何かにつけて日蓮系の、と批判されるが浄土系やその他の宗教門閥にも
いくらでも原理主義的な立場をとる連中はおるよ。

日蓮宗は丸太だよ。特に俺たち日向門流は。針金宗と言われる富士派とは
俺たちは違うんだ。

1860ラセード:2007/09/19(水) 09:26:35
丸太も角材でも結構。朽ち果てた丸太をホログラムで映し出してもなんでもいいから円実寺を復興しなさい。あんなボロ寺では日蓮も嘆いている。

1861ラセード:2007/09/19(水) 09:57:54
失礼。檀家でも信者でも無い人にそんな事言っても仕方がないか

1862偶ロム偶ログ:2007/12/22(土) 02:23:50
さて、今般、犀角独歩さんがブログに「お板」のかなり鮮明な写真を公開されました。
公開されたものは、解像度を下げてあるとのことですが、それでも、かなりのものの
ようです。
当然、ブログに公開された画像の「編集著作権」は独歩さんにありますから、転載等
する場合には、出典として明記するべきでしょう。
ネット記事を出典とするときの表記のしかたについては、
1・執筆者名
2・記事タイトル
3・記事年月日
4・記事URL
5・ブログ名
は、必ず明示するべきでしょうね。

さて、当該写真についてですが、腰書に金箔が施されているようです。
由比一乗居士が熊田葦城に提供した写真では、霞がかかったような感じで、はっきり
しませんでした。
私が正本堂時代に見ていた「お板」の腰書部分には、金箔は施されていなかったよう
に記憶しています。
金箔は何時施されたと石山はいうのでしょうか。

それからもう一点、今回の画像の「お板」と、かの金原本掲載の「お板」、どこか違う
ような気がするのですが、思い過ごしでしょうか。
金原本掲載の「お板」については、間近で日常的に見ていた僧侶が「違う」と明言され
ましたが、今回の「お板」についてはどう言われるでしょうか。

1863れん:2007/12/22(土) 10:02:22
偶ロム偶ログさん

興門資料刊行会から復刻された松本道本氏著“弘安二年大曼荼羅と日興師”には「日法師が彫刻せられた時は墨漆の御仕揚げであつたが年代を経た為め参詣者には唯だ黒く見受け判明せぬのを慨き石山廿四世日永師の代に腰書以上の御文字へ金箔でおし金装置をせらるたが腰書即ち次に記する『現當二世』云々の記入は初めの墨漆の儘であるから明瞭に拝めない」
とあります。日法師というところは、勿論作られた神話にすぎませんが、石山日永師が彫刻の曼荼羅部分に金箔で金装置したというのは何らかの記録に基づいた記述と思われますね。しかし、日永師時代に金装置した彫刻が現彫刻と同一かどうかは分かりませんが、本書の原書が刊行されたのが昭和五年ですから、その時点の彫刻も“「現當二世」の記入は初めの墨漆の儘”とあり、腰書には金箔を入れてないのは事実の様で、偶ロム偶ログさんの正本堂時代の彫刻に関するご証言を参照しますと、腰書に金箔を入れたのは、比較的近年の事柄に属するということだと思います。

1864偶ロム偶ログ:2007/12/22(土) 14:57:00
れんさん

松本道本氏の資料のご紹介ありがとうございます。
たしかに面白いのは、「石山廿四世日永師の代に腰書以上の御文字へ金箔でおし金装置を
せらるた」という点ですね。
ただ、私もなにげなく「金箔」と書いてしまったのですが、昔、石山の老僧に聞いた話で
は、「金箔ではないよ、金泥だ」とのことでありました。
些細なことですが、気にかかります。

>日永師時代に金装置した彫刻が現彫刻と同一かどうかは分かりませんが

独歩さんのブログ第2弾で見ますと、3体の「お板」は各別のようです。
熊田本は明治時代、独歩さんの画像は平成奉安堂時代、さて、それでは金原本の撮影時期
は何時頃なのでしょうか。
金原本の写真も「大石寺所蔵本門戒壇板曼荼羅」というキャプションがあります(23頁)
から、とにもかくにも、「お板」は最低3体あることが確認できました。

また、今回の独歩さんの画像については、
撮影年月日
撮影者
撮影(画像)データ
が、いずれもはっきりしているそうですので、「お板」の写真としては史上初にして唯一
の、確実な写真、になります。

それにしても、原本と思われるものが、
石山禅師本
北山禅師本
と、2幅あって、模刻が最低3体もある、この事実をどのように表現したらいいでしょう。

石山はオイタが過ぎる、、、おあとかよろしいようで、、、。

1865犀角独歩:2007/12/22(土) 20:28:48

偶ロム偶ログさん

種々ありがとうございます。
わたしの画像と言うより、わたしが提供を受けた画像というのが正しいところです。

これだけ鮮明な写真を見、また、熊田本写真と比較もして見、「南」字ほか、いくつかの違いはあったものの、ほぼ一致したことは、新鮮な驚きと安堵がありました。つまり、大石寺が認めた写真は、考証に耐える範囲であったという意味でです。

腰書きの金箔(金泥)…わたしはラッカーかなにか速乾性の安価な塗料だと類推しますが…については、いかのような富士桜さんの証言がありました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/522

1866マターリ:2007/12/31(月) 15:33:54
ご無沙汰しておりました。

学会の先輩から聞いた話です。・・・正本堂ができる前、奉安殿で御開扉
を受けていたころ、大御本尊様は、木目のくっきりとした木彫だったそう
です。先輩は、前から3列目くらいで拝んでいて、感激したそうです。

しかし、正本堂ができた直後、御開扉を受けたところ、金ピカの御本尊様
だったそうで、とても驚いたとのことです。木彫の御本尊様の方が、威厳
があって良かったと言っていました。

お聞きしたいのは、この金ピカの御本尊様は、奉安殿の御本尊様に金を塗
ったのでしょうか?ということです。また、木彫のままの方が価値がある
と思われるのですが、金の塗装には、保存のため、という他に何か意味が
あるのでしょうか?

1867彰往考来:2007/12/31(月) 22:10:56

「大日蓮」昭和48年2月号に記載の日達上人御指南には、戒壇本尊の衣替について

「この戒壇の御本尊は、先程の正本堂における説法の如く、宗祖大聖人様が身延において本門戒壇の事の御本尊として、弘安二年十月十二日御書写遊ばれた御本尊様でございます。長い間当山に格護しておりましたのでございます。その六百何年の間の御本尊様でございますから、その間に御本尊様の御衣替と申しまして、漆を塗り、中に金箔を入れましたことが再度ございます。
 (中略)
再々宮殿(くでん)並びに御本尊様の御衣替がございまして、享保十五年、日詳上人という方の時にまた修理せられております。今から二百四十二年前のことでございます。それから後、昭和六年大聖人の六百五十年御忌の時にまた金箔を塗り直して衣替を致しました。今回あの大きな正本堂の為に今までの宮殿では小さいので、ここに改めて大きな宮殿となしたのであります。それについて御本尊様に御衣替を願って、漆を塗り金箔を塗ったのでございます」
とあります。
つまり、享保15(1730)年、昭和6(1917)年、昭和47(1972)年の三回金箔を塗ったという説明ですが、金箔は塗れませんので金泥でしょう。
だいたいにおいて御本尊様を御図顕ではなく御書写としている点は、戒壇本尊が後世のものであるというのを認めているような観がありますが、石山(富士大石寺)は日蓮聖人の御真筆本尊でも書写と表現していて図顕と書写の違いが解かっていないようなのでその点はこれ以上議論しません。
日達師の御指南から、明和年間(1764年頃)に作成された戒壇本尊の相貌図である完則図(窪田哲城『日蓮聖人の本懐』所収)は享保15(1730)年の御衣替の後ということになります。
完則図は、慶長5(1600)年頃の「当家門流継図之事」に記載の戒壇本尊と相貌、寸法とも異なることから、戒壇本尊は寛永8(1631)年の大石寺諸堂焼失の際に焼失し再造されたのではないかという私の仮説を「本門戒壇の大御本尊様の偽作論について」のスレッド1347〜1350(2005.9.12)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1347-1350

ですでに紹介しました。この仮説と併せますと、享保15(1730)年の衣替とは実は戒壇本尊の再造ではなかったかという仮説が導かれます。
またスレッド1350でも触れましたが、正本堂にあった戒壇本尊は昭和40年代にできたレプリカという説があります。そうであるなら上記昭和47(1972)年の衣替も実は再造ではないかということになります。
明治44(1911)年の熊田本記載戒壇本尊写真の相貌と完則図も異なりますので、享保15(1730)年から明治44(1911)年までの間にも再造があったと考えられます。
金原本の戒壇本尊写真は出処不明ですが正本堂時代(昭和47年〜平成2年ごろ)のもののようで、今回犀角独歩さんが公開された写真は奉安堂のようですからスレッド522の富士桜さんの証言
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/522

のように平成13(2001)年ごろに戒壇本尊の御衣替か再造があれば、金原本写真との相貌違いは説明できると思います。

彰往考来

1868マターリ:2008/01/01(火) 08:23:34
>彰往考来さん、レスありがとうございます。詳しくご説明いただき納得
致しました。レプリカの可能性が高いようですね。

何百年も前の木彫物に加工を施したり、長い距離を移動したりすると、
破損したりする可能性が出てきますので、十分に考えられることだと思い
ます。

先輩の話ですと、正本堂の御本尊様と奉安殿の御本尊様とは、何となく雰
囲気が違っていたということでした。

1869偶ロム偶ログ:2008/01/02(水) 07:12:21
板の黒いのは漆ということですが、「衣替」はもとの漆を本体を損傷しないように剥がしてから
塗り直すのが本来のやり方です。
さらに、木目もわからないくらいに塗り重ねているとしたら、大変な作業です。
これまで、数ヶ月もの間、御開扉がなかったことはあったでしょうか?

1870彰往考来:2008/01/02(水) 15:22:05

平成13(2001)年の戒壇本尊の御衣替(お色直し?)は再造(新造)であった可能性があります。あくまで私の推測ですがその推定理由は3点です。1点目は御衣替の場合は塗り直しですから時間がかかるという点です。漆の剥がし・再塗装・乾燥、金泥の塗装・乾燥などで一箇月以上はかかり、さらに搬出、搬入にも時間がかかります。その間は大御本尊様が不在となるということです。もし再造であれば奉安堂で要する日数は入れ替えの1〜数日だけで済むというわけです。

スレッド1869で偶ロム偶ログさんがご指摘されているように、

> 衣替」はもとの漆を本体を損傷しないように剥がしてから塗り直す

のは大変な作業で、新たに板本尊を造ったほうが早くて安いでしょうね。これが2点目の推定理由です。

3点目の推定理由は昭和47年のレプリカ(があるとすればですが)は創価学会御用達の赤沢朝陽製でしょうから、石山(富士大石寺)で創価学会色を嫌い赤沢朝陽ではない仏師による板本尊に換えたのではないかというものです。
昭和53年10月3日付けの「院達」で、「創価学会の板御本尊に関しては一切議論を禁止する」との日達師の厳命に反して、
阿部日顕師は、平成3年11月28日付の「創価学会破門通告書」の中で、
「池田氏は、過去にも、あろうことか何体もの板御本尊を、勝手に模刻するという大罪を犯しております。」
http://checkd.at.infoseek.co.jp/hamontukoku.htm

と記しています。
これにより模刻事件の議論が再燃したわけです。もっとも平成5(1993)年9月15日付けの聖教新聞の「自由座談会」によれば、
「日顕は、今回の問題が起きた直後の平成3年1月6日の本山での会合で、この謹刻問題を学会攻撃のために使っていいという指示を出しています」
という指摘もあります。
http://ranhou.hp.infoseek.co.jp/mokoku.htm

1871彰往考来:2008/01/02(水) 15:23:08

スレッド1870の続きです。

平成4(1992)年4月1日付け『大白法 第360号』に菅野慈雲師の「御本尊模刻の大謗法」が掲載されます。(これは平成5(1993)年の『大日蓮 11月号』に再録されます)
http://the49.hp.infoseek.co.jp/emyo_t/shuki.htm
平成4(1992)年8月28日の全国教師講習会で阿部日顕師から「とにかく池田大作の説明は、大聖人様を無視し、御本尊を蔑ろにし、法を破っておるわけです。やはり、このようなところから本尊の模刻があったともいえるわけです」
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/goroku17.html

との一連の議論に対する反論として赤沢朝陽会長の赤沢猛氏が平成5(1993)年9月30日付けの聖教新聞の「自由座談会」に出席し
http://nonakashin.hp.infoseek.co.jp/mokoku2.htm
証言されています。

平成9(1997)年8月28日の教師講習会で、「模刻本尊七体のうち、五体の模刻本尊の「ほぞ」に、彫刻した年月日と彫刻師の名前が刻まれていました。これは、本体の板に彫刻が終わった段階で刻字するもので、そのあとで漆と金箔の工程に回します。そのうち、「賞本門事戒壇正本堂建立昭和四十九年一月二日」という模刻本尊のほぞに「昭和四十九年四月 朝陽」とハッキリと刻まれています。
池田大作が、最初に「学会本部の御本尊を板御本尊にしたい」と願い出てきたのは、昭和49年の9月です。しかし実は、その5ヶ月以上も前の同年4月には、すでに無許可で模刻本尊の彫刻を終えていた」と指摘します。
これに対して赤沢朝陽会長の赤沢猛氏は平成9(1997)年10月17日付けの聖教新聞の「自由座談会」に出席し、元・日蓮正宗御用達の仏師と紹介されていて模刻事件について創価学会よりの証言をされています。詳細は下記HPを参照ください。
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_3.html
http://ranhou.hp.infoseek.co.jp/mokoku.htm

このような赤沢朝陽をめぐる事情が働いた可能性があるのではないでしょうか。平成9年末に赤沢朝陽の赤沢猛氏が聖教新聞に再登場し、日蓮正宗宗内外に赤沢朝陽が創価学会御用達であることが明確になったので赤沢朝陽製である戒壇本尊を赤沢朝陽以外の日蓮正宗御用達の仏師のものに差替える必要が生じたのではないかということです。平成10〜12年ごろその決定がなされ、納入されたのが平成13年ということであれば辻褄はあいます。

1872彰往考来:2008/01/02(水) 15:23:57

スレッド1871の続きです。

美濃周人氏は「日蓮正宗としては、池田大作氏の「ニセ本尊」事件(引用者注:本尊模刻事件)を、何らかの理由で、不問にせざるをえなかった。が次のように考えると、この謎は解ける。池田大作氏はわかっているだけで八体のニセ本尊を作ったが、一方で、ニセの戒壇の大御本尊まで作ってしまったのだ」(『日蓮正宗・創価学会50の謎』1994年、三一書房、125頁)と推定されていますが、話は逆でレプリカの戒壇本尊を作成した後、同じ赤沢朝陽で八体の模刻を実施したのだと考えます。同書で美濃氏は「さらにS・H氏は、その証人(引用者注:正本堂にあった戒壇本尊が戦後できたものであるという証人)として、創価学会おかかえの仏具屋であるA・Cで働いていた、一人の彫刻師の名前をあげた。その彫刻師というのはその「ソックリさん」を彫刻した人物だという。S・H氏の証言によれば、「その彫刻師は、ニセ本尊を刻むと発狂すると本気で信じ、それで悩んでいた」という」(『日蓮正宗・創価学会50の謎』118頁)と紹介していますがどこまで信憑性があるかは不明です。ただここでいう「仏具屋であるA・C」が赤沢朝陽を指すことは間違いないでしょう。

こう考えると一つの疑問が湧きます。そうであるなら赤沢朝陽は戒壇本尊のソックリさんを造れるはずで、なぜそれを創価学会が『正本尊』にしないのか?という点です。
私見ですが、戒壇本尊の制作歴史を紐解けば戒壇本尊などニセモノでとても『正本尊』に値するものではないと判断したのか、将来、日蓮正宗と創価学会が和解する時があった場合、そのようなものがあってはマズイと考えたのか、色々考えることはできますがすべて藪の中です。

昭和53年10月3日付けの「院達」で日達師から「創価学会の板御本尊に関しては一切議論を禁止する」と議論を封じられました。私は今でも日達師の御本尊を拝んでいます。よって今日まで模刻本尊の議論をせず、当時の関連資料も大半は処分してしまった状態ですが今、模刻事件を含め戒壇本尊とは、板本尊とは何なのかを改めて問い直す必要がありそうです。

彰往考来

1873犀角独歩:2008/01/02(水) 18:31:46

彰往考来さん

本年もよろしくお願い申し上げます。
いくつか、質問並びに所感を記させていただきます。

(1)金原本写真は正本堂?

この点は、どのような根拠に基づいてのことでしょうか。
差し支えなければお応えください。

(2)戒壇本尊が「書写」は編集の瑕疵

「戒壇本尊を書写した」という日達さんの発言を、彰往考来さんは追及されませんでした。
たぶん、日達さんは、たしかにこう発言したのでしょう。しかし、これは本来、「図顕」とすべきところを言い間違えたのだと思います。編集に携わってきた立場からいえば、こんな言い間違いはよくあることで、しかし、編集者は、これを訂正するのが仕事です。この手の編集は宗務院教学部が携わるわけですから、編集した者の怠慢、もしくは能力不足というのが至当な判断であろうかと存じます。

(3)辻氏の二枚舌

こちらの掲示板では、揶揄・侮辱発言は厳禁ですが、アップされた辻さんと赤沢朝陽の座談会は噴飯物です。辻さんは二枚舌と批判せざるを得ません。

創価学会発行の『特別学習会テキスト』で辻さんは「不用意にご謹刻申し上げた御本尊については、重ねて猊下のご指南をうけ、奉安殿にご奉納申し上げました。今後、御本尊に関しては、こうしたことも含めて、お取り扱い、手続きなどは、宗風を重んじ、一段と厳格に臨んでまいりたいと思います。」(P57)
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/tuji_honzonmokokushogen.pdf
これを要するに「罪をかぶってやった」的な発言をしていますが、これは問題のすり替えでしょう。このとき、問題になったのは、本尊模刻は表に出した糾弾で、この模刻した板本尊に「池田大作」のサインを彫り込んだことが大ごとだったわけでしょう。この点を論及にしなかったのは、石山の監督不行き届け逃れと、せめてもの寛恕だったのではないでしょうか。

もちろん、今回の彰往考来さんのご投稿は学会を庇い立てするようなケチなものでなことを十分承知していますが、単に『聖教新聞』の辻・赤沢発言という一方的なプロパガンダを載せるだけでは、真相が迂ってしまうと思うので、補足させていただきました。

また、昭和50年代のことですが、わたしが信濃町の銀舞会館を訪れたとき、そこの仏壇に安置されていたのは正本堂建立時に大量頒布され、また、創価学会が水増し偽造してばらまいたと騒ぎになった特別御形木本尊の板本尊でした。こうした例は、ほかでも確認されているのであって、実際のところ、模刻本尊は8体どころではなかったというのが真相でしょう。

創価学会が一方的に作文した歴史は、事実と付き合わせて紹介しないと、言いたい放題にねじ曲げられたままになります。そのままでの使用は危険と考えます。

1874犀角独歩:2008/01/02(水) 18:32:46

―1873からつづく―

(4)池田さんの思い、「彫刻本尊が偽物だから、板本尊ぐらい作っても」では?

池田さんが本尊模刻にお手軽に手を染め、かつ、自分の署名まで彫り込ませたのは、正本堂建立時の修繕で、この彫刻が偽物であることを確信したからではないかと、わたしは考えています。この点は、他で述べましたので、ここではこれまでとします。

(5)化粧直しは半年はかかる

彰往考来さんは「漆の剥がし・再塗装・乾燥、金泥の塗装・乾燥などで一箇月以上」とかなり短く見積もっていらっしゃいますが、偶ロム偶ログさんが仰るように「数カ月」はかかるのではないでしょうか。

ところが、こんなに長い時間、御開扉が途絶えたことはなかったように記憶します。この意味で、彰往考来さんのレプリカ再造説には大いに賛同します。

なお、平成2年、わたしは創価学会から末寺に移ったのですが、その頃、本堂の日達さんの板本尊に手が加えられました。
ある日、参詣すると本堂に入れませんでした。入口から中を覗くと、板本尊は厨子から出され、畳に寝かされ作業服を着た人が何か作業をしていました。たしか、次の日には本堂に入れたと記憶しています。

なにに手を加えたかというと、左端にある授与書「願主 法華講総講頭 創価学会々長 池田大作」の彫りを何かで埋めて、表面をならしたうえで黒く塗り消していました。
板本尊は漆・金箔でできていることになっていますが、これをもし漆喰などで埋め、漆をかけたとしたら1日で作業が終わるはずはありません。速乾性のパテと、速乾性のラッカーか何かで安い修繕をしたのでしょう。

「創価学会は日寛上人の御本尊の授与書きを消した。本尊の改竄だ」と大騒ぎしていた時期でしたから、内心、「いいんだろうか?」と、そちらのことのほうが気になったものでした。しかし、いま、考えると、ずいぶんといい加減なことをするものだと改めて呆れます。

以上、(1)のみ質問です。お応えを頂戴できれば有り難く存じます。

1875犀角独歩:2008/01/02(水) 18:35:13

1873のリンクは、直接、ジャンプしません。
アドレスバーにコピペしてください。

1876彰往考来:2008/01/02(水) 21:04:51
犀角独歩さん

1873の(1)のご質問に対する答えは、ここで公開するにははばかれる内容がありますので、追って貴殿にメールいたします。但し聞いた話が多いので確証はありませんよって

>正本堂時代(昭和47年〜平成2年ごろ)のもののよう

という表現で断定はしていません。

>今回の彰往考来さんのご投稿は学会を庇い立てするようなケチなものでな(い)ことを十分承知していますが

ご理解を賜りありがとうございます。双方の言い分を冷静に分析したいと思っています。その意味で宗門側の資料も引用しています。
この掲示板では特定団体の代弁であればひんしゅくをかうのも十分理解しています。もちろん学会の代弁をするつもりはありません。
日達師からは本件の議論を止められていましたが模刻事件から30年、このあたりで冷静に分析しないと、あの激動の時代を生きた自分が何だったのかわからなくなるなあという思いからでした。
従来のけんか腰の議論ではなく、全く違う視点から検証できればと思っていますがなかなか難しいことです。思いつくままに投稿したいと存じます。

ついでに2つ。1873はやはり開けませんでした。
また銀舞会館とありますが初耳です。金舞会館ではありませんか?

1877犀角独歩:2008/01/02(水) 22:37:08

彰往考来さん

> 日達師からは本件の議論を止められていました

こんなことは、まるで関係ありませんよね。日達さんが止めようが、創価学会が出版許可が出ないとか、そんな組織のご都合に合わす理由は何もありません。
ただ、事実を時事として素描するばかりです。
わたし個人としては、彫刻本尊の複造や、模刻問題といった話は、どっちもどっち、両方悪いだろうという思いがまずあります。

前にも記しましたが、戸田さんも、池田さんも、彫刻や、肉牙など、当初から偽物であると知っていた、もちろん、宗門は知っていた、しかし、「金のなる木」であれば、本物であると今日まで言い通してきた「同じ穴の狢」だろうというのが途中経過の結論です。

> 従来のけんか腰の議論ではなく、全く違う視点から検証

ええ、もちろん。こんなただの彫刻のこと、また、創価学会の板本尊にしても、これまた只の板です。けんか腰になる必要もないことですね。
両宗教団体のやり口が明確になれば、これら団体に騙される人は減らすことができます。

> 1873はやはり開けませんでした。

すみません。コピーして、アドレスバーに張ってみてください。

> 金舞会館ではありませんか?

いえ、銀舞会館だったと記憶します。
当時、副会長指導というのがあって、その順番待ちが銀舞会館でした。そこで唱題しながら待たされたとき、「金じゃなくて、銀か」とぼんやり考えていた記憶があります。

ただし、たぶん、金舞会館にも同じように板本尊があったのではないかと想像します。あながち外れていないでしょうね。

1878そううそ:2008/01/04(金) 07:10:53
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。

ttp://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/tuji_honzonmokokushogen.pdf
上記のリンクはIEでないと開けない(?)ようです。

(個人的にはIE以外でも閲覧できると嬉しいです。)

1879彰往考来:2008/01/04(金) 09:51:58

>1878 そううそ さん

貴殿記載のアドレスをコピペし、頭にhを加えるとなぜか開けました。ありがとうございました。

1880彰往考来:2008/01/04(金) 09:56:19

犀角独歩さん

>1873 本尊模刻は表に出した糾弾で、この模刻した板本尊に「池田大作」のサインを彫り込んだことが大ごとだった

なるほど。こういうことであるなら理解できます。

1881犀角独歩:2008/01/04(金) 13:12:53

そううそさん

ご指摘有り難うございました。あいにく、マックは所有していないので、動作確認はしていませんでした。


彰往考来さん

ええ、そうなのです。わたしもこの点は全く知らなかったのですが、東京で在勤し、静岡寺院に移ったとある石山僧侶から聞きました。「御宝蔵で見ました。恐ろしいことです」という短い言葉がいまも耳朶に残っています。ただし、これを撮影した写真の流出はいまのところ聞いていません。情報の提供を望むところです。

なおまた、当時、正信会が本尊模刻について糾弾したのは、無許可制作といった点では、宗規「法主の権限なくして本尊を書写し、または日号を授与した者は擯斥に処する」といった1項を根拠にしたわけでした。しかしながら、模刻が書写に当たるかと言えば、これは違うことになります。まあ、許可を受けていないという点に焦点があったわけです。
この点については昭和53年8月号『大日蓮』で日達さんの言として「学会の方で板御本尊に直した所があります。それを私(日達)が知らなかった」と明言したことを石山宗内僧俗が広く知って反池田・学会運動へと発展していったわけでした。これが学会に言わせれば、日達さんの‘物忘れ’でそれをかぶってやったのが「池田先生、創価学会」という論調ですが、この学会の言い分を石山中枢とは話した経験のある人であれば、絶対に信用しません。

その理由は、大石寺は、創価学会を低く評価しており、絶対にしないと決めていたことが一つあるからです。それはなにか、板本尊の下付です。わたしは複数の僧侶から「創価学会なんかに板御本尊は下付しない」と吐き捨てるように聞いた者でした。
善意的な発言では「板御本尊は寺院に、学会会館には紙幅を」というのが、一つの決め事となっていたわけです。つまり、寺院は板・会館は紙で僧俗の差別化を図っていたということです。

ですから、創価学会に板本尊を許可することなどあるはずはなかったのです。

1882犀角独歩:2008/01/04(金) 13:13:22

―1882からつづく―

では、池田さんが日達さんに板に直すことを申し出たことがなかったかというと、わたしはあったと思います。また、日達さんも「いいですよ」と返事したのも事実だと思います。しかし、この日達さんは‘生返事’。あとで、申請をしてきた段階で種々理屈をこねて認めなければいいという思いがあったのではないかと想像します。ところが創価学会のほうは、たとえ、口約束とはいえ、会長と法主の交わしたことである、だから制作したというのが真相ではないでしょうか。

しかし、俗は紙といいながら、実際のところ、歴代法華の壇信徒で板本尊を家に安置しているところはあるわけで、だいたい、妙観講本部は板本尊が安置されました。それなのに「正本堂建立の功労者・創価学会」には、これを認めない。池田さんが板本尊模刻に執着を見せた理由はここにあったのではないでしょうか。いっぽう、日達さんと坊さんらも意地になっていた、「誰が創価学会なんかに板本尊など下付してやるものか」と。

正本堂以降、宗創の対立はすぐに深まりました。日達さんの池田さん嫌いに箝口令が布かれていたのは創価学会だけです。いっぽう、学会は宗門を冠婚葬祭だけをやる典礼部門として配下に置く、準備が着々と進めていた。指導は「池田先生」で、実質、会員の尊敬は池田さんに重点があったわけです。このことをもちろん、宗門は苦々しく思っていたわけです。

創価学会は否定しますが、当時、「会長本仏論」、より具体的には「池田先生は日蓮大聖人の生まれ変わり」という池田本仏論はまことしやかに会員に浸透し続けていました。大石寺より学会という論調の基礎となっていったのは、まさにこの池田本仏論であったと大石寺は睨みはじめた時期でした。

口約束を縦にした学会の板本尊の制作。しかし、ここで池田さんは、もうひとつ、坊さん方を怒らせる決定的なパフォーマンスをやって見せたわけです。坊さんが導師となってやるべき、板本尊のお披露目を池田さん本人がやってしまったわけです。

石山化儀からの話です。赤沢朝陽といった仏師職人が制作した板彫刻は、この段階ではまだ彫刻です。この彫刻を、その脇書きに指定された場所に安置し、はじめて本尊となるために「入仏開眼法要」を営むことは石山不動の大鉄則です。
これを石山に依頼することもなく、池田さんが勝手にやってしまったわけです。
これは紙幅から板を造立する以上の大問題です。しかし、石山化儀など、さして重視しない創価学会にとって、このどこが問題なのか理解できなかった、いや、理解したうえで敢えて無視したのか、ともかく、ここに自分たちの占有権を侵犯された坊さん達の堪忍袋は対に切れることになったのでしょう。
模刻するだけならばまだいい、入仏開眼法要という教師僧侶、いや、学会本部でのこと、「法主上人猊下」しか執行できない化儀を、池田さんがやった。

天皇の玉座に総理大臣が座り、詔を下すようなことをやったということです。
まあ、これは石山・坊さんならば怒るだろう、いっぽう、学会ならば、「何でだ」という温度差があることが、今のいままで語られることなく来てしまった観があります。いまとなっては、「覆水盆に返らず」ということです。

彫刻と関連していくだろう、話題として彰往考来さんがご発言くださったので、わたしも少し記させていただきました。

1883犀角独歩:2008/01/04(金) 13:18:20


【1882の訂正】

誤)―1882からつづく―
正)―1881からつづく―

誤)壇信徒
正)檀信徒

1884犀角独歩:2008/01/04(金) 18:06:30

上記、1881-1882については、…題名の付け方等においては大いに問題があると考えますが、いまは資料名なので、その点については言及しないこととします…「池田大作悪業全書(その1)『池田大作の大謗法』―本尊模刻と名聞妙利の実態に、本尊模刻についてはP4〜8から、池田本仏論についてはP11〜12までに宗門側からの視点で記されていました。

ここで本尊模刻の原因については「池田本仏論」が取り沙汰されています。
もちろん、これは石山宗門側から視点ですが、創価学会のアナウンスは、どうもこうし、わたしが当時、学会員として感じたことまでも、まるでなかったように書かれる点で恣意的だと思えます。

本尊模刻
ttp://www.geocities.jp/saikakudoppo02/data/honzonmokoku.pdf
池田本仏論
ttp://www.geocities.jp/saikakudoppo02/data/ikedahonbuturon.pdf
(h を補ってアドレスバーにコピペしてください)

1885彰往考来:2008/01/05(土) 09:36:37

犀角独歩さん

>1881 「板御本尊は寺院に、学会会館には紙幅を」

そうですね。これは理解できます。私が以前住んでいた場所に正宗寺院があります。寺院といっても○○院といって寺号がついていないので出張所でしょうか。
ここはもちろん日蓮正宗の僧侶が在勤しお講、御本尊授与を含め通常の寺院と同じ扱いでありました。
しかし、ここは板本尊ではなく紙幅でした。当時寺と院ではこれほど差があるものなのかと感じさせられたものです。
そうであるなら会館に紙幅はあたりまえであったのでしょう。

1886犀角独歩:2008/01/05(土) 11:31:11

彰往考来さん

今回は、せっかくの複造説のご推論の話の腰を折って、模刻問題にばかり拘った形になり、恐縮です。

本筋のほうですが、昨年末、ブログでやや検証をしてみましたが、サンプルになっている彫刻写真3枚を比較すると、どうも同じものであるとは考えづらい気がします。

わたしは年代順に並べたとき、熊田本写真と金原本写真が同一の物、今回提供写真は別の物と推論を立てて、図を比較したのですが、いまのところ、この当て推量とは裏腹に、全体のレイアウトとしては、熊田本写真と提供写真、金原本写真が違うもの、しかし、「南」字の特徴から見れば、当て推量どおりといったところでした。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51202191.html

もし、複造されているとしたら、このサンプル全てが違うものである可能性まであるわけで、また、完全なレプリカが牧口記念講堂に入るはずだった…本当??…などというまことしやかな話まであります。

現在では三次元スキャンや、立体印刷は既に実用化されているわけですから、表面ばかりを漆塗・金箔‘のよう’に見せれば、かなり短時間でレプリカは制作が可能な時代になっていますね。

オウム真理教のサティアンにあったシバ大神像が発泡スチロール性であったことは夙に有名な話です。

再造、複造に関するご賢察をさらにお伺いしたいと存じます。

1887彰往考来:2008/01/06(日) 15:51:56

日蓮正宗千葉県檀徒会発行の『県報 地湧之友 第14号』(昭和54年5月1日、9頁)に面白い記事が載っています。信憑性はわかりませんが興味深いので、その箇所を全文紹介します。

「ミニ正本堂
善行寺檀徒 ○○ ○○

昭和五十三年二月十六日、学会本部広宣会館にて千葉の日を(学会は二月十六日を千葉の日としている)記念して大B幹部代表による勤行会が行われた。最初秋谷副会長を中心に、中山関東長、大竹県長、高沢県本部長出席の下で進行していたが、突然池田会長が北条理事長はじめ側近の大幹部を率いてあらわれた。
秋谷副会長等の話に、会長がチャチを入れるため式次第も何もなくなり、ただ笑いの中で終了。会長からということで御本尊様にそなえてあった柿がくばられ、その後に学会本部職員から「今日は、会長先生の特別のおはからいで、めったにお見せしないのですが、特別壮年部だけに『ミニ正本堂』を見学させて下さるということです。今回は婦人部の方は御遠慮下さい。壮年部の方は私語を謹しみ静粛について来て下さい」との注意のあと各圏別に並びました。何階であったか記憶は確かではありませんが広宣会館の上の階であったと思います。階段を上ってすぐの部屋で中に入る時は、五、六人づつにくぎられて入りました。題目三唱のあと部屋を見まわしました。先ず仏壇は黒丹の造りつけで、中は約1間半位の所三段ほど段になっており、その上に板御本尊が御安置されていました。御本尊様はお寺の御本尊様よりだいぶ小さめでした。その前は柵でかこってあり、その横に板で作った立札の告示がありました。
その内容は読み取れませんでしたが、右側に告とあり、終わりに創価学会本部、○月吉日とありました。部屋は襖でしきられており、つぎの間の広さ等はわかりませんが御本尊様安置の部屋の広さは、仏壇のある方は中は約四、五間で脇は三、四間位であったと思う、天井は低く窓は一つもない為か密室の感がありました。部屋に入ってからの職員と思われる幹部の話は『大石寺の御本尊様に、もしもの事があった場合、創価学会は、この御本尊様でやっていきます。この事については他言をしないように、又家族にも奥さんにも言わないように』といわれました。私は不信(引用者注: “不信”は“不審”の間違いと思うのですが原文のママ)に思い、もしもの事があってたまるかと思いましたが、妙信講の事も聞いておりましたので、色々御宗門と協議されての内々の事だろうと受け止めて帰ってまいりましたが、どうもすっきりしないので妻にだけは話しをしました。そんなバカなと妻も私と同意見でしたが、私達にはわからない事が沢山あるのだろうと、今考えると大変はずかしい事ですが、そのまゝになってしまいました。現在御宗門との色々ないきさつを知り善行寺檀徒となりまして学会の方向性を考えた時、その答は『ミニ正本堂』〃(引用者注:“〃”は“で”の誤植と思われます)大石寺の大御本尊様にもしもの事があった場合、創価学会は、この御本尊様でやっていくと言われた事が思い出された次第でございます。学会を脱会した今日ではそれを詳しく調べるすべがありません。何卒御宗門に於かれまして調べて頂けましたら幸いと存じます。」

1888彰往考来:2008/01/06(日) 15:52:44

スレッド1887の続きです。

さて、この善行寺檀徒の○○さん(原文は本名が記載されていますがここでは伏せました)はどんな板本尊を見たのでしょうか?
疑問を解く鍵は下記4点でしょう。
(1)『ミニ正本堂』?といわれるところにあった
(2)広宣会館の上の階にあった
(3)お寺の御本尊様よりだいぶ小さめ
(4)大石寺の御本尊様に、もしもの事があった場合、創価学会は、この御本尊様でやっていくと言っていた

昭和53年2月の時点で板本尊であったことから、創価学会が当時模刻したとされる八体の板本尊のうちのどれかではないかというのがまず考えられることですが、ここでの検証は公表された八体以外の板本尊であったかどうかがポイントです。創価学会が当時模刻したとされる八体の板本尊について調査しても今更目新しいことはありません。
ひとつの可能性は(1)と(4)の証言から、ひょっとしたら昭和47年の赤沢朝揚製戒壇本尊(があればの話ですが)の複製ではないか、つまり戒壇本尊のレプリカではないかという疑問が生じます。但し(3)の証言から、戒壇本尊とは同寸ではないということが解かります。

検証してみましょう。
創価学会が当時模刻したとされる八体の板本尊は以下のものです。善行寺檀徒の○○さんの見た板本尊はこの中にあるのでしょうか?
①学会本部安置昭和26年5月19日大法弘通慈折弘宣流布大願成就:64世日昇上人
②関西本部安置昭和30年12月13日:64世日昇上人
③ヨーロッパ本部安置昭和39年12月13日:66世日達上人
④創価学会文化会館安置昭和42年6月15日:66世日達上人
⑤学会本部会長室安置昭和42年5月1日:66世日達上人
⑥アメリカ本部安置昭和43年6月29日:66世日達上人
⑦賞本門事戒壇正本堂建立昭和49年1月2日:66世日達上人
⑧池田大作氏授与の御守本尊昭和26年5月3日:64世日昇上人

この中から①(学会本部安置大法弘通慈折弘宣流布大願成就本尊)は大石寺に没収されずに学会に残った御本尊で、当時から広く紹介されていますので今回は該当しません。
②,③,⑤,⑥は場所が異なりますのでこれも該当しません。⑧はインターネット資料:百禍繚乱 第三項 本尊模刻事件の真実
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_3.html
で、大きさがたて33.6cmとあり、小さすぎますのでこれも該当しないでしょう。
そうすると消去法で④,⑦が該当する可能性があるということになります。

1889彰往考来:2008/01/06(日) 15:54:10

スレッド1888の続きです。

インターネット資料:百禍繚乱 第三項 本尊模刻事件の真実
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_3.html
 
には、大石寺に没収された七体の模刻本尊の概観写真が掲載されています。不鮮明でかつ少し斜めからの写真ですが無理を承知で各御本尊の大きさを算出してみましょう。上記②から⑧が右から順に並んでいるという仮定です。一番左端が特に小さいので明らかに⑧(池田大作氏授与の御守本尊)です。プリントアウトした紙の上の各御本尊の寸法を定規で測り、⑧の寸法を33.6cmとしてその比から求めればよいということになります。
結果は写真では①がありませんので②からですが、
② 120cm ③ 150cm ④ 115cm ⑤ 110cm ⑥ 105cm ⑦ 55cm ⑧ 33.6cm
となりました。「御本尊様はお寺の御本尊様よりだいぶ小さめ」との証言から③以外が該当し、うち⑦はかなり小さいという結果です。但しこれは②〜⑧が上記順にならんでいると仮定しての結果です。個人的には55cmのものは、⑤の学会本部会長室安置本尊ではないかと思いますがわかりません。

インターネット資料:暁闇 断簡十七 錫杖の音
http://www.heianbooks.jp/zenbun/gyouan/017.html

には、「創価文化会館内・広宣会館の御本尊(細井管長書写)」とありますので④が広宣会館にあったことがわかります。「広宣会館の上の階にあった」との証言に一応合致するわけです。但し善行寺檀徒の○○さんは広宣会館の本尊という表現ではなく広宣会館の上の階にあったとしています。よって④が該当するとは言い切れないということです。
『継命』(昭和55年9月15日号)には、⑦(『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』)の板本尊が文化会館の七階座しき(引用者注:座敷)に安置してある旨の記載があります。広宣会館は創価文化会館内ということなので、この板本尊も該当することになるでしょう。
そうすると、⑦(『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』)が有力ということになります。「『ミニ正本堂』?といわれるところにあった」という善行寺檀徒の○○さんの証言からはどうも⑦であった可能性が高いようです。「題目三唱のあと部屋を見まわしました。先ず仏壇は黒丹の造りつけで、中は約1間半位の所三段ほど段になっており、その上に板御本尊が御安置されていました。御本尊様はお寺の御本尊様よりだいぶ小さめでした。その前は柵でかこってあり、その横に板で作った立札の告示がありました。
その内容は読み取れませんでしたが、右側に告とあり、終わりに創価学会本部、○月吉日とありました。部屋は襖でしきられており、つぎの間の広さ等はわかりませんが御本尊様安置の部屋の広さは、仏壇のある方は中は約四、五間で脇は三、四間位であったと思う、天井は低く窓は一つもない為か密室の感がありました」との件は「七階座しきに安置してある」という表現とも矛盾ありません。

1890彰往考来:2008/01/06(日) 15:54:54

スレッド1889の続きです。

以上の結果をまとめると、善行寺檀徒の○○さんが見たという板本尊が該当すると思われる板本尊は確実ではありませんが公表された八体の中に見当たり、⑦の『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』が有力であるという結果になりました。よって、公表された八体以外の板本尊であった証言ということではありません。
ただ疑問があります。もし⑦(『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』)であったとすると、小振りの本尊であり、なぜこれが「大石寺の御本尊様に、もしもの事があった場合、創価学会は、この御本尊様でやっていきます」というほどの根本の本尊であるのでしょうか? ①の『学会本部安置大法弘通慈折弘宣流布大願成就本尊』を差し置いてです。
『継命』(昭和55年9月15日号)には、原島嵩氏の証言として創価学会の五つの宝が紹介されています。
五つの宝の要点だけを抄録しますと、
〔1〕本部にある大法弘通の御本尊さま(引用者注:なぜか“さま”が平仮名でした)
〔2〕戸田先生からいただいている刀
〔3〕留言集
〔4〕玉璽(ぎょくじ)
〔5〕本門事の戒壇は正本堂という御本尊
ということだそうです。(創価学会には今でもこんなものあるのかしらん? どなたかご存知ですか?この話ホントなら〔5〕を除けば今でもあるということになりますが、〔1〕以外は信心と関係ありませんね。刀や玉璽などこんなくだらない物(失礼!)にお金使っているんですかね。個人が刀を持とうと勝手ですが、戸田先生の遺品を大切に保管するのとは次元の違う話です。)
〔1〕が①(『学会本部安置大法弘通慈折弘宣流布大願成就本尊』)に、〔5〕が⑦(『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』)に相当します。そうすると当時の池田創価学会では、⑦(『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』)を相当重要視していたことになり、そうであれば「大石寺の御本尊様に、もしもの事があった場合、創価学会は、この御本尊様でやっていきます」というのもある程度理解できないことではありません。もちろん個人的に納得できる話ではありませんし事実であったかどうかもわかりません。
⑦(『賞本門事戒壇正本堂建立本尊』)が創価学会にとって極めて重要な本尊であったということから、日蓮正宗が創価学会と別れた後に正本堂をぶっ壊したのも何となくですが理解できるような気がしました。もちろん本件詳細は一信徒には藪の中です。ただ言えることは正本堂も日の目をみなかった七体の模刻板本尊も、すべてが信者から供養されたお金であるということです。法主や会長は信者から供養されたものは自分達のものであるからどう使おうとドブに捨てようと勝手であると考えているとしか思えませんが、もしそうなら大きな間違いです。地下の日蓮聖人にこっぴどく叱られるのがオチでしょう。

<参考資料>(本文中のインターネット資料を除きます)
日蓮正宗千葉県檀徒会編『県報 地湧之友 第14号』昭和54年5月1日、日蓮正宗千葉県檀徒会、9頁
継命編集部編『本尊模刻事件のすべて』昭和55年12月1日、継命新聞社
日蓮正宗法義研鑚委員会遍『創価学会『ニセ本尊』破折―100問100答―』平成6年、総本山大石寺内事部
法華講衆有志編『蓮華八十七号の正しい読み方資料』昭和53年、大村一生
佐野知道発行『創価学会言論資料集』昭和53年、浄信寺

by 彰往考来

1891犀角独歩:2008/01/07(月) 22:13:00
彰往考来さん

興味深くご投稿拝読しました。
「賞本門事戒壇正本堂建立」本尊とは、正本堂を建立した願主として、日達さんから、池田さんが下付‘させた’ものでしたね。

もちろん、原本は紙幅で、『池田大作の素顔』で、藤原氏が書いていたエピソードによれば、建立したのにこれだけだといって巻いてあるこの本尊を机かなんかに放って見せたというものでした。この物語と「創価学会は、この御本尊様でやっていく」という口上とは温度差があると思えました。

しかし、さもやありなんと言った内容でした。

1892犀角独歩:2008/01/16(水) 22:06:30

金原さんの本に疑問を呈しました。
ご批正をお願いいたします。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51227995.html

1893偶ロム偶ログ:2008/01/22(火) 04:44:55
>>1891
独歩さん。

>池田さんが下付‘させた’もの

当該本尊の下付を「要求」した、といったところでしょう。
もっとも学会さんは「ご下付を願った」とでもいうのでしょうが。

正本堂ご供養後の、宗門から学会への寄付金の件も、わけありですね。
細井さんが寄付金をなかなか出さなかったのには細井さんなりの理由があります。
もともとは創価大学の資金寄付の話が最初。
その創価大学は、当初は仏教学部を設立して正宗教学の研究研鑽と賞揚をするはずでした。
それが、仏教学部は作らない、と決定した。
細井さんとしては、正宗と直接関係ないものになったのだから寄付も必要ないだろう、そう考えたようです。
で、ほったらかしにしていた。
ところが、名誉さんの考えは、仏教学部への寄付ではなく創価大学への寄付、だから約束どおり寄付してくれ、と。

なぜ仏教学部設置を中止したのか。
おそらく、スレタイの問題とリンクしていると私は思っているのですが。

1894犀角独歩:2008/01/22(火) 16:04:43

1893 偶ロム偶ログさん

有り難うございます。
あの寄付は、創大を目したものであり、かつ仏教学創設中止は、彫刻が偽物であることを、学会が知った結果ということですか。で、日達さんには、一緒に「毒を食らわば皿まで」的に寄付してもいいじゃないといった話だということでしょうか。

1895偶ロム偶ログ:2008/01/23(水) 01:07:31
1894 独歩さん

私はそのように理解してきました。
霧雲仁左衛門が芦屋道満に金をせびった(時代が合わない!)、そんなところでしょうか。

ただ、仏教学部中止は、お板の件だけではなく、相伝書類の真偽問題、日蓮教学のレベル
問題など、宗門がらみでは学的水準にとても及ばないという現実的なものがあったと聞い
たことがあります。
仏教学、宗教学、史学、古文書学、国文学、などは全て外部の研究者・学者を招聘するし
かなく、それでは宗門賞揚などできるわけがありません。
当時、宗門にいたのは学士だけで、修士・博士はいないどころか、大学院生が若干名いた
だけだったと思います。
まあ、大学の教授はなんの資格も必要ありませんから石山僧でも色気のあった御仁はおり、
本人は仏教学部長になれるつもりがダメだった、それが怨念のひとつなのは間違いないの
ではないでしょうか。
井の中の孑孑なら成長して井戸から飛び去り外の生き血を吸うこともできるかもしれませ
んが、、、。

1896犀角独歩:2008/01/23(水) 17:49:38

偶ロム偶ログさん

創大仏教学創設の挫折に関するご考察。なるほどと拝読しました。
よく書くことですが、岩本裕師が『佛教入門』を中公新書から出したときの肩書きは「創価大学名誉教授」でした。こうした学者を置きながら、仏教学部が成らなかった理由は、たしかに石山教学の‘縛り’にあったのでしょうね。

同じく、いま現在、岩波新書から出ている菅野博史著『法華経入門』では「創価大学文学部教授」となっていますが、この本の内容は、そのまま、石山教学批判になるもので、ひいては当然、学会の教学批判に使用できる皮肉さがあります。
創価大学で仏教学部を創設して仏教学をやったら、それはそのまま創価学会の教学否定にもなるわけですね(笑)

で、スレタイにやや戻りますが、いま、わたしはブログで彫刻本尊の再検証を行っているわけですが、ここでわたしども界隈で使用されてきた「複造」という造語を使用しています。要は、複数、彫刻が造立されて併存しているという意味で使っているわけです。

ところが、金原本に載っている写真と、今回ご提供を受けた写真を見比べると、これは「似て非なる物」というより、ぜんぜん別物ですね。
もっとも金原写真の上部はまるで絵のようで、彫刻を撮影したリアリティが欠けています。特に「南」字‘十’は、‘一’‘ノ’‘冂’と書かれなければなりませんから、‘冂’がいちばん上に来なければなりません。次に‘ノ’で一番下が‘一’です。それなのに、この写真ではまったく逆で‘冂’‘ノ’‘一’となっています。まあ、金原写真のように彫られている可能性は、極めて低いでしょう。こうした点からすると、描画した可能性もあるように思えます。
彫りは、ともかくとして、この「南」字の形貌が石山蔵日禅授与と酷似していたとします。しかし、現在、奉安堂にある彫刻は提供写真のとおりですから、違っているわけです。そうなると、別の2体ということで「複造」されたと、いったんは考えたのですが、これはもっと正確に言うと「変造」なのかもしれませんね。

うる覚えの時系列で恐縮ですが、正本堂が解体されたのは平成10年でしたか。川辺メモは、その翌年、『創価新報』からスクープされたのでしたっけ。奉安堂の完成は平成14年でしたか。それで、先に彰往考来さんが引用された富士桜さんのご投稿によれば平成13年頃、彫刻に変化があったということでした。このご記憶がズバリかどうかは別として、正本堂から、いったん、奉安殿に移され、さらに奉安堂にという、2回の場所替えのタイミングは彫刻の入れ替えにはもってこいのチャンスですね。

二つのサンプルが違っており、その間に川辺メモの暴露があった。そこで、遠目からはわからない程度に‘変造’して、この非難から逃れようとしたなどというストーリーは成り立つかも知れませんね、もちろん、現段階ではまだ憶測の域を出ないことは当然ですが。

1897偶ロム偶ログ:2008/01/25(金) 04:06:26
独歩さん

>>遠目からはわからない程度に‘変造’

そんなことは考えてもいないでしょう(苦笑)。
私は、平成19年版のお板の文字はしたものの、阿部氏の筆跡がでただけではないかと思っています。

しかし、腰書に金泥を入れるとは思い切ったことをしたものだと感心します。

あと、今回のお板には、一般の本尊にある脇書部分にも彫刻があるのではないですか?
写真でいえば左下、大増長天の横あたりですが、これは乱反射ではなさそうです。

虫払いでも複製御書を披露しているくらいですから、常時礼拝させているお板が複造でないわけがありませんね。

1898犀角独歩:2008/01/25(金) 06:28:53

偶ロム偶ログさん

そうですか、作為的な「変造」の可能性は少ないですか(笑)

> 虫払いでも複製御書を披露しているくらい

ええ。あと、石山でやった宝物展でも、日興の数珠やらなんらや、みな、レプリカだったと。

ついでに記せば、創価学会で開催した宝物展でも、戸田さんの眼鏡やら、獄中の牛乳瓶の蓋で造った数珠やら、池田さんの片割れの鏡やら、みんなレプリカだったという話でしたね。

どっちもどっち、人を食った話だと思ったものです。

1899日の谷:2008/01/26(土) 23:04:58
初めまして。法華講の日の谷と申します。


昨今の大御本尊様の「盗撮写真」について、犀角独歩さま。

 
本門戒壇の大御本尊様は御法主上人猊下の大慈悲により、日蓮正宗信徒のみに内拝が許されていることは、犀角さまも御存知の事と拝します。

このような「盗撮写真」の提供を受けたとの内容、ブログ等で貴方の御意見を拝受させていただきましたが、これは「著作権」にかかる事になりませんでしょうか。

盗撮は立派な犯罪です。

御開扉前に、奉安堂内での録音または撮影などは禁止されている事は、明確にアナウンスされています。

そのような場所で悪意に撮影された写真を無許可でネット上で公開するのは、人道的にも、法的にも、許せざる行為に当たると思われます。

大御本尊様の偽作論等は、過去、他門他宗に古くから幾度と無く取りざたされて来た事は、我々信徒も重々承知しております。

そこで一つお伺いさせていただきたい事があります。

この度のブログ等で、生前の河辺御尊師のメモを、日顕上人御隠尊猊下が大御本尊様は日禅授与御本尊云々・・・と、このような「偽物だ」と歪曲された噂話を、なぜ、いつどこで御隠尊猊下が偽物と断定されたのでしょうか。

1900日の谷:2008/01/26(土) 23:10:26
>石山でやった宝物展でも、日興の数珠やらなんらや、みな、レプリカだったと。

このお話の根拠も重ねてお聞かせ下されば幸いです。

1901偶ロム偶ログ:2008/01/27(日) 05:18:24
日の谷さま

横レス失礼いたします。

当該写真の「著作権」の件について、ですが、著作権は著作者本人および著作権
継承者の権利です。
石山の言によれば、執筆者は「日蓮」もしくは「日蓮と日興」、彫刻者は「日法」
ということですから、著作権は存在しません。
ただし、近年にいたって石山の僧侶が書写し業者に彫刻をさせたものであるとい
うのであれば著作権は、その石山僧侶と彫刻業者にあると考えることも可能です。
財産権の侵害ということであれば、破損・破壊・盗難などがあったのでしょうか。
板本尊の開扉で大石寺が収入を得ており、独歩さんの考察で収入が著しく減少し
たとでもいうのであれば、その数字によっては「商行為に対する営業妨害」にな
る可能性もないことはありませんが、そのような事実はあるのでしょうか。

>盗撮は立派な犯罪です。

例えば風景写真というものがありますが、これは盗撮でしょうか。
風景といえども、それがビルや家屋、山や田園風景であっても、それらは全て
個人・法人・自治体などが登記しており、それらにいちいち撮影許可をとるこ
とは行なわれているでしょうか。
板本尊については大石寺の所有物だから財産権があるという考え方もあるでしょ
うが、それは俗世間の話で、出世間の世界に所有など本来あるべきものではない
のではありませんか。
また、板本尊は日蓮正宗においては「一閻浮提総与」であると主張しているわけ
ですから、板本尊を私物化している今の日蓮正宗は自語相違していることになり
ます。
撮影許可されていない場所で撮影した、これが問題なるギリギリの線でしょう。
撮影場所は日蓮正宗に籍を置く者しか入れない所です。
また、撮影者に「悪意」があったかどうか、逆に「善意」とも考えられます。
なぜ「悪意に撮影された」とお考えになるのか、理由をお聞かせ願えればと思
います。

河辺メモが河辺氏の書いたものに間違いないことは、河辺氏自身が『大日蓮』
誌上で認めていることですから、その日
時・場所などもメモのとおりであることも河辺氏は認めています。
つまり「噂話」などではなく「事実」だと考えるしかありません。

>>石山でやった宝物展でも、日興の数珠やらなんらや、みな、レプリカだったと。
>このお話の根拠も重ねてお聞かせ下されば幸いです。

独歩さんの前に、私は書き込みにおいて、
「虫払いでも複製御書を披露している」
と記しましたが、これについては取り上げておられないようですから、問題なし
と考えてよろしいですね。

最後になりましたが、私は法華講に籍をおいています。
あと数年で入信50年になります。

1902偶ロム偶ログ:2008/01/27(日) 06:54:55
補足です。

当該写真の「著作権」は、撮影者にあります。
ネット上に公開されている当該写真の画像については、犀角独歩さんに「編集
著作権」があります。
現在、当該写真そのものはネット上に公開されていません。
独歩さんが公開している画像をなんらかのかたちで使用するには、独歩さんの
許諾が必要になります。
これは当該写真の被写体である板本尊を「所有」している大石寺であっても、
独歩さんの許諾がなければネットで公開されている画像を使用することはでき
ない、ということです。

1903犀角独歩:2008/01/27(日) 07:07:45
日の谷さん

はじめまして。

> 盗撮は立派な犯罪です。

法律で言えば、どのような法律に抵触するのでしょうか。
人を犯罪者呼ばわりする以上、この点をまず明確にしていただけませんでしょうか。〔是一〕

また、所謂、盗みどりには二種類あります。一つはあなたが仰る写真であり、もう一つは録音です。
わたしは大石寺宗務院教学部から、当時、創価学会が盗みどりした会合における録音テープを渡され、この文章化を依頼されていました。例えば、池田さんの「戒壇本尊物発言」「創価学会には大聖人直結の究極の本尊がある」そのた創価学会批判に採用してきた池田発言の多くは、わたしがテープ起こしをした文章です。創価学会の会合は、もちろん、録音を禁止されています。となれば、あなたが所属する「日蓮正宗」は犯罪行為である‘盗みどり’で取得したテープに基づいて、わたしに仕事を依頼し、かつ、創価学会池田さんを批判したことになりますが、あなたの論法から言うと、大石寺もまた、この犯罪に荷担したことになりますが、如何がでしょうか。大石寺が盗みどりによったことは犯罪行為ですか。〔是二〕
では、あなたは大石寺が「立派な犯罪」に荷担し、人道的にも、法的にも、許せざる行為に当たると思われますか。〔是三〕

あなたが根拠とされるのは「著作権」ですね。
では、お尋ねしますが、数百年前の作品であるとする所謂「本門戒壇の大御本尊」に著作権があるのでしょうか。〔是四〕もし、著作権があれば、それを本人の許可無く書き写すことは著作権の侵害に当たりませんか。
大石寺の本尊には「奉書写之」と書かれています。では、この著作権を日蓮から継承された物的証拠ととはなんでしょうか。〔是五〕

著作権については、たとえば、以下のような説明があります。

「作品を他の人が勝手に使用しないようにする権利です。 許可と場合によって著作権料が要求されます。
文芸、美術、音楽などの作品を著作権法が保護しています。
作品を作成した時から、作者の死後50年間【多くの外国作品は60年】、保護されます。 それ以降は、人類の遺産です。」
http://www.netlaputa.ne.jp/~gfg/lawj.html

あなたが、わたしが使用した写真を著作権違反であるという場合、所謂「本門戒壇の大御本尊」は過去50年以内の作品であることになりますが、如何でしょうか。

> 奉安堂内での録音または撮影などは禁止…悪意に撮影された写真…無許可でネット上…人道的にも、法的にも、許せざる行為に当たる

まず、法的とは、どのような法律でしょうか。具体的にお願いいたします。〔是一に同じ)

1904犀角独歩:2008/01/27(日) 07:08:47

―1904からつづく―

次に「悪意の撮影」とありますが、これは違います。わたしに写真を提供してくださった方は、大石寺の悪意を止めるため“善意”で行ったのです。
悪意とは、偽物である物を本物であると謀って人を騙すことでしょう。
わたしどもの立場からすれば、大石寺こそ、まさに悪意であり、あなたのような被害者を一人でも減らすために、致し方なく、無許可写真も採用し、その事実究明にと努めていると言うことです。


> 河辺…メモ…日顕…大御本尊…日禅授与御本尊…「偽物だ」と歪曲された噂話…御隠尊猊下が偽物と断定

この質問は、日顕さんが偽物であると断定したかどうかということですね。では、断定していないでしょう。むしろ、いまだに偽物を本物と謀って、あなたのような被害者を生み続けている元凶となっています。

また、噂話ではなく、河辺さん直筆のメモが残っています。この内容に関しては、問答名人さんがいち早く、その内容の弾劾をはじめられ、こちらの過ログにも残っています。ご参考にされればよいでしょう。
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kawabe.htm


問答さんの分析は明晰で、追って、川辺メモに書かれた内容に沿って、わたしは大石寺が公的に認めた所謂「本門戒壇の大御本尊」写真と、同じく公開されている日禅授与本尊写真をもって鑑別したということです。その結果、所謂「本門戒壇の大御本尊」は日禅授与本尊を原本として臨模・作為された結論せざるを得なかったと言うことです。

宝物展による展示物がレプリカであることは、この開催の場所で、警備に当たっていた青年部員に訊いたことが知るきっかけとなりました。この点も、法廷闘争その他になれば、わたしも、その上人と証拠を挙げます。いまは、あなたからご質問ですから、その端緒を記すに止めます。あなた自身、法華講員ならば、大石寺に直接、お尋ねされ、どのような返答を得るか、確認されては如何でしょうか。

なお、宝物展が展示が、レプリカであるかどうか、以上の問題があります。
たとえば日興所持の数珠というものは、本当に日興所持の数珠なのでしょうか。このように断言し、これを展示する側は、この展示物が本物である証拠を示す義務はあります。では、この数珠が本当に日興所持である証拠とは一体なんでしょうか。〔是六〕

以上、お応えしました。わたしからの質問にもお答えください。

1905犀角独歩:2008/01/27(日) 07:11:36

【1904の訂正】

誤)法廷闘争その他になれば、わたしも、その上人と証拠を挙げます。
正)法廷闘争その他になれば、わたしも、その証人と証拠を挙げます。

1906犀角独歩:2008/01/27(日) 18:44:27

自己レスです。

1903の補足です。

> わたしは大石寺宗務院教学部から、当時、創価学会が盗みどりした会合における録音テープを渡され、この文章化を依頼されていました。

という文章は意味を逆に読めかねませんので、以下のように修正します。

「わたしは大石寺宗務院教学部から、当時、創価学会員が盗みどりをした会合における池田さんのスピーチ録音テープを渡され、この文章化を依頼されていました。」

ほかにもあろうかと存じますが、善意に基づいて判読いただきたくお願いいたします。

では、日の谷さん、ご回答をお待ちします。

1907犀角独歩:2008/01/28(月) 22:10:35

以下の、思いっきり的外れのことを書いているのは、誰なのでしょうか。
本尊彫刻の基礎もわかっていない初心者のようですが?

http://members.at.infoseek.co.jp/netplane2/kaidan-nitizen.htm

1908偶ロム偶ログ:2008/01/29(火) 05:31:50
キャッシュからするとnaohitoつまり直人となっているので東氏です。

1909きゃからばあ:2008/01/29(火) 09:06:34

日の谷さん、はじめまして。
私も法華講に所属しているものです。

大御本尊様についての偽作論は過去からありましたが、近年、達師が書籍として出版された反論以外は、宗門の反論は私は知りません。
今回の犀角独歩さんの論についてはまったく反論がされていません。
何故なのでしょうか?
また以前、日蓮宗の僧侶が「板曼荼羅を科学的に分析し、本物ならば私は大石寺の弟子になる」と言っていた方もいましたが、何故、科学的に分析しないのでしょうか?
たしかに不敬と考えるかもしれません。
だったら同じ木材で作成された「最初仏」を鑑定すればいいわけです。
しかし宗門はそれもやりません。なぜなのでしょうか?
私はきちんと宗門が科学的に本物だと立証して、大声で「大石寺は凄いんだ!」と周囲を折伏したいのです。
と同時に、もし偽者ならきちんと謝罪してほしいと思います。
しかし宗門にはそんなことする気配さえ感じられません。
このままでは私たちの子孫もこの問題に悩まされ続けなければなりません。
そういう意味でも私は犀角独歩さんの行動に期待しています。
私たち法華講員のためだけじゃなく、広宣流布のためにもきちんと大御本尊様の真偽をやらねばならないと思います。

1910犀角独歩:2008/01/29(火) 18:33:02

>問答名人さん

種々ご心配を賜り、有り難く感謝申し上げます。


>偶ロム偶ログさん

「東氏」とは、わたしが『所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽』についてを発表し、日禅授与本尊が原本であり、臨模・作為したという結論に対して、「似ていない。原本ではない」と、川蝉さんなんかと書いていた人ですね。

不思議に思うのは、中央首題の文字の文章で載せているのに、当の両本尊の写真の中央首題と日蓮を消してしまっているわけです。これでは、比較が合っているかどうかの確認もできません。さらに消した理由について、「御不敬の恐れがある」としていますが、そもそも、文字を消し去ってしまうほうが、よほど、不敬といえば、不敬ではないですか。また、漫荼羅の真価を決めるのは、中央首題もさることながら、花押なのであって、書写本尊では題目と日蓮を書いても花押は書かないわけです。その肝心の花押を消さないで不敬云々はナンセンスと思います。いずれにしても、写真は写真なのであって、不敬もあったものではないと思いますが。

>きゃからばあさん

仰るところ、ごもっともと存じます。
どなたであったか、「戒壇の大御本尊の国宝、世界遺産にしよう」という方があって、そのためには、国家関与の科学的な真贋鑑定が不可欠になるので、それを推進しようというブラックユーモアで語っていた方がいらっしゃいました。
わたしも、これが本物であってくれればどんなにかよかったと、いまでも思います。

ついでに「霊宝随一」という御肉牙(御生骨)について、それを信じ込んでいる人にあったので、「歯にくっついた肉ですら生きているのに、亡くなった日蓮の全身を焼いちゃまずいんじゃないのか」というと、憤然とした面持ちになりました。まあ、これもブラックユーモアみたいなことですが、わたしは本気でそう考えますね。

1911偶ロム偶ログ:2008/01/29(火) 19:33:37
>>1910

独歩さん
>>1907 のリンクはおそらく例の自称法華講員のサイトで、東氏の画像を転載
したのでしょう。
リンク下のキャッシュからリンク元へたどってみたらページがなくなっていま
した。
おそらく東氏がページを閉じたのではないでしょうか。
したがって、1907のリンクページの記述と目隠しは東氏によるものではなく、
例の自称法華講員によるものと思われます。
直人氏のページでは目隠しはされていませんでした。

1912犀角独歩:2008/01/29(火) 20:59:14

1911 偶ロム偶ログさん

重ねてご教示、有り難うございます。
「例の自称法華講員」というのは、よくわからないのですが、元のサイトでは、画像の加工はなかったということですね。けれど、「東氏」は、日禅授与本尊が原本ではないとした点は動かないでよろしいでしょうか。

1913日の谷:2008/01/30(水) 00:38:10
犀角独歩さま


>法律で言えば、どのような法律に抵触するのでしょうか。
人を犯罪者呼ばわりする以上、この点をまず明確にしていただけませんでしょうか。〔是一〕

御戒壇様は誰が所有し、今現在も管理しているのかと言う事が大前提だと思われます。

その大御本尊様は御歴代の法主上人に受け継がれてきた御本尊様です。

現在の御戒壇様は、御当代88世日如上人猊下が所有され、本山の最重宝として奉安堂にて御安置、管理されている事になります。

今現在は個人所有の御本尊様です。

その所有されている御法主上人の大慈悲によって、と前にも書きましたが、信徒に内拝を許されている状況です。

この中での撮影は許可無く出来るはずは無いと同時に、そのような状況を理解した上での撮影となるので、私は「盗撮」と銘打ちました。

何度も書きますが「盗撮」は犯罪です。

悪意があろうと無かろうと。

その個人所有の御戒壇様の画像、映像を無許可で扱うことは、著作権もまたしかり、その他の法にも触れる事になります。

詳細にここで法の何に触れているのか書くようにおっしゃりますが、ここで記すつもりはありません。
お知り合いの弁護士さまがいらっしゃるようなので、お伺いくださればおわかりになる事と思われます。



>また、所謂、盗みどりには二種類あります。一つはあなたが仰る写真であり、もう一つは録音です。
わたしは大石寺宗務院教学部から、当時、創価学会が盗みどりした会合における録・・・・〔是二〕


なるほど。ほお、そうですか。

あなたさまが創価学会のこのテープに関わり、そして教学部から任を受けたのですね。

それではこのテープがどのような経緯で流出し本山に届いたのか、の経緯もご存知なのでしょう。

では、このお話の前に一つだけ確認させて下さい。

いつ、どこで、どのような経緯で教学部のどなたから(御僧侶とは言え個人名ですのでイニシャルで結構です)依頼されたのでしょうか。


>では、あなたは大石寺が「立派な犯罪」に荷担し、人道的にも、法的にも、許せざる行為に当たると思われますか。〔是三〕



この返答は先の質問にお答えになられてから記すつもりでしたが、これには当たりません、と申しておきます。




>あなたが根拠とされるのは「著作権」ですね。
では、お尋ねしますが、数百年前の作品であるとする所謂「本門戒壇の大御本尊」に著作権があるのでしょうか。〔是四〕


お答えは保留します。


>もし、著作権があれば、それを本人の許可無く書き写すことは著作権の侵害に当たりませんか。
大石寺の本尊には「奉書写之」と書かれています。では、この著作権を日蓮から継承された物的証拠ととはなんでしょうか。〔是五〕


では大聖人様から受け継がれていないとする、物的証拠はあるのでしょうか?

1914日の谷:2008/01/30(水) 00:38:37
>次に「悪意の撮影」とありますが、これは違います。わたしに写真を提供してくださった方は、大石寺の悪意を止めるため“善意”で行ったのです。
悪意とは、偽物である物を本物であると謀って人を騙すことでしょう。
わたしどもの立場からすれば、大石寺こそ、まさに悪意であり、あなたのような被害者を一人でも減らすために、致し方なく、無許可写真も採用し、その事実究明にと努めていると言うことです。



日蓮正宗がなぜ、どのように我々衆生、荒凡夫に、悪意で人を騙さなければならなかったのかの根拠をまず提示してください。

そして、あくまで善意で行った行為と申されるならば、その盗撮者の氏名までは書かなくても、どこの布教区の所属寺院かを記して下さい。

善意であるとするならば、全く問題はないかと思いますがいかがでしょう。




>この質問は、日顕さんが偽物であると断定したかどうかということですね。では、断定していないでしょう。


わかりました。断定していないのですね。

今後、御隠尊日顕上人猊下は、「断定をしていない」とお話下さい。


>むしろ、いまだに偽物を本物と謀って、あなたのような被害者を生み続けている元凶となっています。


私が被害者かどうかは別として、おそらく、こう言った御質問の裏には、数多の新興宗教を初めとした被害状況を表す例が御座いますが、日蓮正宗が現在の日本にいったい何をしたのでしょう。

これこそ犯罪者呼ばわりする以上明確にして下さい。


>宝物展による展示物がレプリカであることは、この開催の場所で、警備に当たっていた青年部員に訊いたことが知るきっかけとなりました。

わかりました。
ですが、その警備とは輸送班ですか?
そのような方が、レプリカと知りながら警備をしていたのですか。

では、犀角さん御自身で御覧になっていらっしゃらないのですね。

まるで全て見てきたかのような表現はおやめになった方がよろしいのでは。
講談師か!と、たか&としにつっこまれますね。


以上です。

1915犀角独歩:2008/01/30(水) 01:29:33

日の谷さん

> 御当代88世日如

68代の間違いです。

> 今現在は個人所有の御本尊

であれば、わたしが提供された写真に基づいて、その検証を述べるに、早瀬さん本人が異議を申し立てるならばいざ知らず、何の関係もないあなたにとやかく言われる筋合いはないことになりますね。

> 何度も書きますが「盗撮」は犯罪…著作権もまたしかり、その他の法にも触れる

著作権に触れるわけですか。では、あの彫刻は過去50年以内の作品ですか。

> 詳細にここで法の何に触れているのか書くようにおっしゃりますが、ここで記すつもりはありません。

つまり、書けないわけですね。

> いつ、どこで、どのような経緯で教学部のどなたから(御僧侶とは言え個人名ですのでイニシャルで結構です)依頼されたのでしょうか。

平成2年以降、教学部、OJさんから、その担当はTDさんでした。
また、内事部『大日蓮』編集室からの依頼は、WKさんが責任者で、担当は、その後、事件を起こし擯斥になったGSでした。
それらテープの入手経路と当事者が誰であるか、盗み録りという性質から明らかにされることなく、渡されました。ただし、これら受け取ったテープはすべてダビングしてあり、かつ、起こした原稿テキストデータ、その支払証拠(通帳への印字)、また、依頼書などは物的証拠は当然、保管してあります。

> これには当たりません、と申しておきます。

なぜですか。わたしが提供を受けた写真について、盗み撮りは「立派な犯罪である」というのに、いっぽう、大石寺は

> 「著作権」…お答えは保留します。

はて、上記では著作権に触れるといい、今度は保留ですか。

> では大聖人様から受け継がれていないとする、物的証拠はあるのでしょうか?

これは答えになっていません。こんな言い方が成り立つのであれば、たとえば、わたしがあの彫刻を受け継がれていない物的証拠をあなたは示すことができるのでしょうか。物的とは存在にかかることですから、ありもしないことを証明することはできません。こうした詭弁を弄せず、ここでは、日蓮から受け継がれた物的証拠を示してください。できないのであれば、「ない」と判断します。

1916犀角独歩:2008/01/30(水) 01:30:02

―1915からつづく―

> 日蓮正宗がなぜ、どのように我々衆生、荒凡夫に、悪意で人を騙さなければならなかったのかの根拠をまず提示してください。

「騙した」当事者でもないわたしが根拠を提示することはできません。できるのは、当事者でしょう。存命の阿部さん、早瀬さんにお聞きになればよろしいでしょう。ここでは、鑑別・検証の結果、それが偽物であると断定でき、それにもかかわらず、「本物」であるといい、人々の信仰と金銭を集めることを「悪意」と言っているのです。ですから、それが悪意ではないというのであれば、彫刻が本物であることを示せばよいわけです。あなたが、彫刻が本物であるというのであれば、その物的証拠をここに示せばよいわけです。どうぞ。

> 盗撮者の氏名までは書かなくても、どこの布教区の所属寺院

これはお答えしません。提供者のプライバシーに抵触します。
そもそも、所有者でもないあなたにお答えする必要はないでしょう。

> 「断定をしていない」とお話下さい。

いえ、そうはいたしません。わたしが行った検証は、あくまで川辺メモの内容に沿って行ったものです。その結果、大部、メモに記されたことと合致しました。そのことからすれば、阿部さんは当然偽物であったことを知っていたと判断できるからです。つまり、阿部さんは、川辺メモ流出以降、たしかに断定はしなかったが、検証の結果と考え合わせるとき、当然、偽物であったことは知っていただろうと断定できるということです。

>> …日蓮正宗が現在の日本にいったい何をしたのでしょう。

繰り返し記しているように後世の捏造物に過ぎない彫刻を日蓮直造の本物であると謀り、具体的には正本堂建立、奉安堂建立などの献金を強いてきた、また、現在も本物であるとし「御開扉」「内拝」と称して、開帳して金銭を徴収しています。偽物であれば犯罪行為でしょう。

※※ もし、本物であるというのであれば、その証拠をここに示してください。

> レプリカと知りながら警備をしていたのですか。

そういう証言を得ています。

> まるで全て見てきたかのような表現はおやめになった方がよろしいのでは。
講談師か!と、たか&としにつっこまれますね。

この言葉は、そのまま、あなたにお返ししましょう。明らかに偽物であるものを本物であるかのように記しているのはあなたですから。

今回の投稿を通読して直ちに了解できることは、あなたは、こちらからの質問には何一つ答えていないということです。
当掲示板では、よく使われてきた言葉ですが、「鰯の頭」でも、信仰するのは個人の信教の自由に属します。しかし、それを他人に「本物である」というのであれば、その証拠を示す義務は、あなたにもあります。あの彫刻が本物である証拠を示してください。

1917犀角独歩:2008/01/30(水) 01:35:10

【1915の訂正】

〔誤〕

> これには当たりません、と申しておきます。

なぜですか。わたしが提供を受けた写真について、盗み撮りは「立派な犯罪である」というのに、いっぽう、大石寺は

〔正〕

> これには当たりません、と申しておきます。

なぜですか。わたしが提供を受けた写真について、盗み撮りは「立派な犯罪である」というのに、いっぽう、大石寺は「当たらない」というのは、どういうことでしょうか。あなたの論法から言えば、立派な犯罪となるでしょう。

このように相手には罪を問い、自分のほうは頬被りを決め込むようでは、公平を欠きます。

1918偶ロム偶ログ:2008/01/30(水) 02:11:15
横レス失礼します。

>今現在は個人所有の御本尊様です。

これは、88世の私有財産である、ということですか。
さきの私のレスにも記しましたが、それでは「一閻浮提総与」ではないという
ことですね。
88世は、87世から所有権の移転をうけて所有している、つまり個人から個人へ
の財産の贈与ということになるわけですが、財産贈与にかかる贈与税は支払わ
れたのでしょうか。
はっきり申し上げますが、板本尊は「個人所有」のものなどではありません。
宗教法人大石寺の什物です。

>その個人所有の御戒壇様の画像、映像を無許可で扱うことは、著作権もまたしかり、その他の法にも触れる事になります。
>詳細にここで法の何に触れているのか書くようにおっしゃりますが、ここで記すつもりはありません。
>お知り合いの弁護士さまがいらっしゃるようなので、お伺いくださればおわかりになる事と思われます。

著作権に触れるということは、著作権者および著作権継承者がいるのですね。
それは誰ですか?
日蓮が書き日法が彫刻したものであれば著作権は700年前に戻り適用されるとで
もいうわけですか?
盗撮は犯罪、犯罪には加害者と被害者がいることになります。
加害者はどのような害を加えたというのですか。
被害者はどのような害を被ったというのですか。
被害者は誰ですか。
あなたが被害者なのですか。
あなたが板本尊の「所有者」だというのなら88世なのですか。
88世が被害を受けたと思っているのであれば、88世が被害届を出せばよろしい。
あなたが88世でないならば、88世に対して越権の無礼を働いていることになり
ますね。

>その他の法にも触れる事になります
>詳細にここで法の何に触れているのか書くようにおっしゃりますが、ここで記すつもりはありません。

法的根拠をなぜ示されないのですか。
法的根拠がないのに「その他の法にも触れる事になります」と断言されること
は、「不実威力行使」の疑いがありますよ。

あなたは独歩さんの質問に対して答えを保留したり、質問で返したりと、不誠
実な対応をされていますが、なにかまともに答えられない理由があるのですか。

1914のあなたのレスも不誠実ですね。
ここであなたが尋ねておられることは、こちらの掲示板の過去ログで幾度とな
く話題になっています。
まず基本的なことをおさえたうえで質問をされてはいかがですか。

>盗撮者の氏名までは書かなくても、どこの布教区の所属寺院かを記して下さい

犯人探しですか。
この質問にどのような意味があるのですか?

展示物のレプリカの話は、私は僧侶から直接聞いたことがありますよ。
その僧侶が嘘をついたんでしょうかねえ。
その僧侶に嘘をつく理由が何かあるんでしょうかねえ。
そんなことよりも、私は>>1901で、次のように書きました。
 独歩さんの前に、私は書き込みにおいて、
 「虫払いでも複製御書を披露している」
 と記しましたが、これについては取り上げておられないようですから、問題
 なしと考えてよろしいですね。
再度うかがいますが、問題ないですね。
面倒なので1手きますが、このことについては、映像があります。
レプリカを真筆として拝観させていることを示す映像です。
レプリカを真筆として拝観させることは、詐欺ではないのですか?
それともあなたは、僧侶からレプリカであることを知らされ、それをありがた
く拝観しているわけですか?

さらに、日蓮正宗は真筆という諌暁八幡抄の末尾に勝手に日蓮花押を書き加え
ているのですが、これは宗祖に対する冒涜行為ではないのですか。
そんな冒涜行為を行なう日蓮正宗や僧侶をあなたは許すのですか。

宗教法人日蓮正宗は、宗祖の教えとはほとんど関係のない宗教です。
まず、盲信をやめることをお勧めします。

1919犀角独歩:2008/01/30(水) 02:21:20

『諫暁八幡抄』の偽造に関しては、かつて松本修明師が指摘し、近くは独学徒さんが物的証拠を挙げられました。この内容を受けて、まとめたのが以下です。

【検証】諫暁八幡抄に切り貼りされた竜門御書の日蓮花押
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50957710.html

1920管理者:2008/01/30(水) 06:38:39

日の谷さん

当掲示板には、書き込みのルールが有ります。話し合いを重んじると言うのが、その根幹です。あなたの書き込みを拝見しますと、何か、「荒らし」行為に限りなく近いように判断できます。「書き込みのルール」をお読みいただいて、ルールに則った書込みをお願いいたします。

ルールに抵触すると管理者が判断した場合は、削除や書込み禁止措置がとられますので、念のため申し添えます。


「盗撮は犯罪」と声高に叫んでも、どの法律の、どういう条文に触れるのか指摘出来ないようでは、お粗末としか申し上げようがありません。少なくとも、話し合いを重んじているとはとても思えません。先ずこの点を明らかにされることが必要ですね。それが出来ないのなら、書込みを停止させるべきだと管理者は勧告しておきます。

1921顕正居士:2008/01/30(水) 07:10:17
著作権の存在しない所有物の撮影、複製、出版に関しては以下の判決が有名です。

かえでの木事件 東京地裁 平成14年7月3日判決 棄却
http://www.u-pat.com/h-7.htm

「本件かえでに対する所有権の内容は、有体物としての本件かえでを排他的に支配する
権能にとどまるのであって、本件かえでを撮影した写真を複製したり、複製物を掲載した
書籍を出版したりする排他的権能を包含するものではない。そして、第三者が本件かえで
を撮影した写真を複製したり、複製物を掲載した書籍を出版、販売したとしても、有体物
としての本件かえでを排他的に支配する権能を侵害したということはできない」

1924問答迷人:2008/01/30(水) 08:27:02

盗撮は犯罪、と聞くと、なるほど、と頷いてしまう感覚が大抵の人には有ると思いますが、この場合の「盗撮」というのは、更衣室で着替えているところや、入浴中の女性を隠し撮りして、裏ビデオを作って販売したり、まぁ、そう言った類の行為を指している場合が場合が多いですね。これは刑法に触れますね。軽犯罪法違反です。今回の板本尊撮影は、そういう事ではないので、刑法犯とは考えられないと思います。奉安堂には信徒として許可されて入っているわけですから、不法侵入には当たらない。やはり、顕正居士さんがお示しのような、民事にしかならないと思います。

そして、「かえでの木事件」の判例に拠れば、所有者たる宗教法人日蓮正宗は何らの損害を蒙ったということにはならないので、法に触れない、と考えるのが至当かと思います。

なお、この撮影で、板本尊が贋物で有る事がはっきりして、その為に信徒が減って、宗教法人日蓮正宗の収入が減った、という場合は、又、話は別だろうとは思いますが・・・

1925犀角独歩:2008/01/30(水) 17:57:28

>偶ロム偶ログさん

> レプリカを真筆として拝観させていることを示す映像

これはすごい資料ですね。
宝物展に関して、わたしも繰り返せば、実際にここで展示されていたものが、では、レプリカでなかったとします。しかし、それでもこれらが、本当に石山の言うような代物…、たとえば日興所持数珠、本当に日興が所持していたものである証拠をしめしているわけではなく、この点でも真偽鑑定の証拠を示す義務を石山は果たしていません。この数珠に関して、『宗旨建立と750年の法灯』では「伝日興上人所持」(P27)に格下げされています。この写真集平成15年3月28日の発刊ですが、昭和36年7月3日発刊の『日蓮正宗』(聖教新聞社)には、この日興の数珠は載っていません。宝物展でわたしが観たのは、たしか七百遠忌かなにかのときであったと記憶するのですが、そのとき、展示物に付さた説明文には「伝」の一文字も、「レプリカ」という註もありませんでした。

『日蓮正宗』での目玉は「雨乞いの三具足」ですが、前掲本には、これが載りません。因みにこの作品については英語で説明文が付されています。

The three object used by the Daishonin when He challenged the heretic priest Ryokan of the Ritsu sect in praying for rain.…(P26)

いま原本が手許にありませんが、たしか『日蓮正宗聖典』にもこの写真が載っていました。また、昭和45年9月12日発刊の『日蓮正宗大石寺』(東西哲学書院)にも「祈祷三具足(三つ揃)大聖人所持」(P141)と説明文が付されて写真が掲載されていました。ところが平成15年には掲載すらされなくなっています。先の七宝数珠についても「日興上人御所持」(P142)であったところ、上述したとおり、いまでは「伝日興」と書き換えられています。

このような経年変化のなかに、『諫暁八幡抄』の改竄も、日蓮、日興作を騙る板本尊の問題も並びあるわけです。また、このような資料比較によって、大石寺がいう宝物の真贋の底が透けてみえるわけですね。

1926犀角独歩:2008/01/30(水) 17:58:09

>顕正居士さん

いつもながら適切な資料の提示、有り難うございます。


>問答名人さん

> この撮影で、板本尊が贋物で有る事がはっきりして、その為に信徒が減って、宗教法人日蓮正宗の収入が減った、という場合は、又、話は別

この点ですが、しかし、それ以前の段階で、この偽物を本物と謀って、正本堂では800万人から400億近く、奉安堂では30万人から150億円。そのほか、奉安殿、大化城、大客殿、大講堂等々、さらに創価学会の会館に至るまで、この彫刻を本物と信じさせられた故の「供養」であったわけです。将来の、石山の収入減以前に、この戦後最大の宗教詐欺としか思えない悪事についての責任問題が横たわっています。法的には、もはや時効でしょうが、しかし、信仰信条から許されることであるかどうか、700年前の作だと偽りながら、著作権がどうだというのであれば、つい半世紀前の責任は当然、果たすのは道理ということになります。

それにしても、教学部が、創価学会に疑問を懐く人々がその真偽を決しようと石山に持ち込んだ池田さんの録音テープでここまで種々糾弾を行っておきながら、今度、この彫刻に疑問を懐く人が、その真偽を決しようと持ち込んだ写真は「犯罪」だというアンフェアな態度に、わたしは承伏しかねます。

いずれも、わたしが手がけたものではあるにせよ、録音も撮影も、わたしがしたものではありません。わたしは、それら人々の疑念に応えるために誠心誠意を尽くしているに過ぎません。この道念を、しかし、石山僧俗に届かせる困難を感じます。

1927問答迷人:2008/01/30(水) 19:50:35

犀角独歩さん

>この彫刻に疑問を懐く人が、その真偽を決しようと持ち込んだ写真は「犯罪」だというアンフェアな態度に、わたしは承伏しかねます。

当然の帰結だと思います。

確かに、収入が減ったからという理由で、損害賠償請求は出来るでしょうが、『偽物を暴かれたから』という理由では、裁判所は取り上げないでしょうね。偽物を本物と偽って信徒を欺いてきたことが、公序良俗に反するからです。結局、訴えは棄却されることになるだろうと僕は思います。

1928犀角独歩:2008/01/30(水) 21:11:26

問答名人さん

有り難うございます。
分析、まったく仰るとおりであろうと存じます。

1929富士川一郎:2008/02/12(火) 18:49:05
宗教施設の礼拝物の盗撮云々について、法的にはどうなのかを大学の同期の弁護士に検討させてみました。
但し、大石寺の名前は出さずに、例えば輪王寺の三尊像などを例に出し(これも撮影禁止)検討させました。
結構問答になったのですが、以下の通りです。

①著作権は全く問題になりません。

②但し、戒壇の御本尊様を宗教法人の礼拝物として考えますと、ある法律に引っかかるそうです。
礼拝所不敬罪
第一項 神祠、仏堂、墓所その他の礼拝所に対し、公然と不敬な行為をした者は、六月以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。
第二項 説教、礼拝又は葬式を妨害した者は、一年以下の懲役若しくは禁錮又は十万円以下の罰金に処する。

ここでいう“公然と不敬な行為をした”と言う文言に「撮影禁止を知りながら、撮影をした」と言う行為が抵触する可能性があると言う見解でした。

そこで私が『何をもって、「不敬」と言えるかが難しいんでないかい?』
と聞きましたら、
『宗教施設の礼拝物をどのように拝すると正しく(不敬にならず)、どのように拝するのが間違っている(不敬)かは、その施設(宗教)側が定めた形になる。ただし、それは明確に分かる形でなければならない。大概の宗教施設では礼拝物は撮影禁止となっている。つまり撮影自体禁止(撮影は不敬)と明確に定めてある。それに反すれば、不敬罪が成立する。過去に数十の観光施設の寺社などでも立件された例がある。』
だそうです。
さらに『でも寺側が訴えねば関係ないんだろう?』と質問しましたら意外な回答でした。
『本条の保護法益は“公序良俗”であるので、寺院側の感情は基本的に考慮しない。寺側が訴えないとしても、司直がその気になれば立件できる。ただし、基本的には誰かが刑事告発をせねば、そのことを司直が事実を知る事も無いし、今の司直は忙しいので、告発がなければ動かない。』だそうです。

そこで、ここからは危ない問いなのですが
『もしもその礼拝物に真偽の疑いがあった場合はどうなのか?』と一般論で聞きましたら、
『礼拝物を礼拝物となさしめるのは、その真偽では無い。その宗教の教義からであり、何をもって礼拝物とするかは、教団の教義が定めるので真偽などは一切考慮されない。我が国では、日本国憲法にて宗教の自由が保障されており、その中には教義の自由、礼拝物の自由もあり、また逆にそれを礼拝するか否かの自由もあり、その宗教施設に行った以上、そこの作法に従うのが当然であり、もしも嫌なら行かない自由もある。』と言うので
『「礼拝所不敬罪」と言うのは逆に、宗教の自由をおびやかす事にはならんのかね?』
と聞きましたら、
『お前の言っているのは、どこでどのような物をどのように拝そうと宗教の自由だという事だろうが、それはお前の大きな誤解だ。宗教は礼拝物のみを言うのでは無い。礼拝物や教義も含んだ大きな括りを宗教と言うのであり、それを信じようと信じまいと自由であるが、その一部だけ取ってきて、信仰するのは既に、その宗教とは別の物である。もしもお前がそれをしたければ新たに宗教を作って信じることになる。その自由はある。』
等と私に教祖になれと唆しているように感じました(笑)。

結論から言うと、撮影禁止の礼拝物を撮影した場合、礼拝所不敬罪が成立すると言う事でした。もっとも彼もこういった案件を扱った事が無いであろうから、別の結論を出す方もいるかも知れません。

1930犀角独歩:2008/02/12(火) 18:56:55

藤川さん

なかなか参考になるご投稿有り難うございました。

> 別の結論を出す方もいる

わたしの知り合いの弁護士はご承知のとおり、宗教問題を多く扱っている大物が多くいます。仰るとおりで、別の結論ですね(笑)

ついでに「偽物であるとわかって本物であるとし、参拝料を取ることは詐欺に当たる」かどうかも訊いてみてください(笑)

1931富士川一郎:2008/02/12(火) 19:05:32
実は、上記投稿をしたのは、裏の意味があるんです。
私が問答した奴は司法試験講座の講師もやっており、私も奴も理屈っぽいので、学生時代にはこのようなディスカッションをするのが日課でした。
今回の、久しぶりの問答で面白かったのは、次の一文です。

「宗教は礼拝物のみを言うのでは無い。礼拝物や教義も含んだ大きな括りを宗教と言うのであり、それを信じようと信じまいと自由であるが、その一部だけ取ってきて、信仰するのは既に、その宗教とは別の物である。」

これって顕正会ですよね。しかし、これも一つの宗教としては認められるんだなと。
彼はそのような宗教など知らない奴なんですが、自然に一例を出したら顕正会のようになってしまったと言う事でしょうか?

1932犀角独歩:2008/02/12(火) 19:38:11

顕正会ですか。どうでしょうか。

鮮明な所謂「本門戒壇の大御本尊」写真を公開したことで、大石寺は躍起になって撮影者探しをしているとのことでしたね。もう一方、顕正会の浅井氏もずいぶんと腹を立てているようで、先の1月度総幹部で、以下のように発言していました。

「この男は、元学会員だった。ところが、阿部日顕の河辺メモに触発されたのか、以来、狂気のように、キチガイのように、口を極めて戒壇の大御本尊様を誹謗している大謗法者であります。この犀角独歩という男。実は、この男が先月『戒壇の大御本尊の鮮明なる写真を手に入れることができた』として、得意げにこれを公表しておりました。そして、彼は述べているんですね。『提供者のプライバシーを守る為、出所は敢えて公表しないが、この写真は、正面から至近距離で撮影されたものである』などということを自慢気に、書き記しているんです。
 いいですか。このことは、戒壇の大御本尊に敵意を懐く者が、やすやすと奉安堂内に入れることを物語っているでしょ」

「狂気」「キチガイ」、さらに足せば「魑魅魍魎」という侮蔑、さらにことわりもなしに実名を明かしていますが、それらが違法行為であることは言うまでもありません。仮に、わたしが使った写真撮影が富士川さんのご友人の法律判断のようであったところで、撮影者本人ではないですね。そのわたしに対して、宗教信条からして「不敬」であるから、では、こうした悪口雑言をしてよいのか。よいわけはないでしょう。まあ、浅井さんへの鉄槌はこれからどうするかは決めますが、それは置いてさて、本題。

ここで浅井さんは、実はわたしに塩を送っていますよ。何か。この浅井さんの発言は、提供を受けた写真を撮影した場所が奉安堂であり、写っているものが所謂「本門戒壇の大御本尊」であることを、ちゃんと認めているということです。まだ、大石寺は、撮影者探しばかりでこの点を認めていませんが…探しているのは現物だからでしょうが…、顕正会会長がいち早くこれを認めた意義は大きいでしょう(笑)

宗教として認められれば、反対者をどう扱ってもよいことにならない。偽物を本物といってよいことにもなりません。浅井さんは、わたしが使用した写真が彫刻の現物であるというわけですから、この写真に基づいて、どこがどのように本物であるかを示せばよいわけです。

まあ、わたしは真蹟重視ですから使いませんが、『経王殿御返事』の「日蓮がたましひをすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ」から、まず、説明してもらいましょうか。この彫刻のどの当たりに墨が残っているのか。魂を染め流した墨は鉋屑にしちゃまずいですね。以前から、日蓮宗が言う非難の一つです。尤もご意見です。(笑)

尤もと言えば、それ以前に、この文章の前文は「先日のまほり(守)暫時も身をはなさずたもち給へ」が主語ですから、この護本尊のことです。ついでに書かれたのは文永10年ですから、弘安2年作とする彫刻とはまったく無関係でもあるわけでした。

1933顕正居士:2008/02/13(水) 00:29:47
刑法188条にいう公然不敬行為は通念上不敬な行為であり、当該寺社等が宗義上不敬と
みなすか否かは無関係でしょう。でないと写真撮影の許諾や拒否など所有権に含まれない
権能の行使が事実上無制限にできますから。むろん公序良俗に反しない範囲で宗派などが
特定行為を不敬とし、宗規上の処分を行なうことは可能です。
また同条に「説教、礼拝又は葬式を妨害した者は」とありますが、刑法188条の趣旨は墳墓、
陵墓の保護が目的で、宗派の儀式で喧嘩が起っても怪我人がでない限り警察、検察は介入
しないでしょう。

1934犀角独歩:2008/02/13(水) 05:58:49

1933の顕正居士さんの解説は、1929に富士川一郎さんが引用された法律の適用範囲を補填していただいた形ですね。

先に「わたしが撮影したわけではない」と記したのは、撮影者に押しつけて、責任逃れをしようとしたからではありません。的外れだと言ったことです。もし、わたしを法律的に批判しようとするのであれば、提供を受けた写真は不許可撮影をされたことを証明したうえで、写真を公開することはどのような罪になるのかと論じられなければならないということです。

また、「不許可撮影だ」という限り、撮影されたものは所謂「本門戒壇の大御本尊である」ことを認めたことになる伏線があることは十分に承知すべきでしょう。大石寺側の言い逃れは、ここでできるわけです。

「あの写真は、戒壇本尊ではない」
「もしくは加筆修正されたもので実際と違っている」

後者の言い訳は、実際に熊田葦城著『日蓮上人』の彫刻写真に、わたしが日教研で発表した折、富士学林の学生が述べたことです。しかし、今回、提供を受けた写真、また金原本に載る写真と比較した結果、致命的な相違はありませんでした。つまり、この言い逃れはつぶせました。

また「盗撮は犯罪」だと法的根拠を示せないまま難癖をつけっぱなしの投稿もありましたが、こうした形で非難をするのであれば、あの写真が盗撮であることをまず証明する必要があるでしょう。他の可能性もあります。例えば、彫刻の修繕に当たり、業者が大石寺の許可を取って修正した、また、万が一に具えて大石寺が撮影したものであるといった可能性です。この可能性の、有無の返答は大石寺のなすことです。「していない。盗撮だ」と大石寺が言うならば、わたしは、こう問います。「そうですか。では、この写真は彫刻そのものを撮影したものに間違いありませんね」

撮影の事件性を問うということは、まさしくこの写真が所謂「本門戒壇の大御本尊」そのものを撮影したものであることを証明することになる仕組みがここにあります。であれば、この写真を使って行うことは“事実”検証として、さらに意味を有することになります。

富士川さんは、どんなお立場でしたか。奉安堂には入れるお立場ですか。もし、そうでしたら、是非とも、あの写真が所謂「本門戒壇の大御本尊」に相違ないかどうかをご教示ください。お願いしておくことにします。また、写真撮影を云々する石山僧俗の皆さんには、同じくお願いしておくこととします。

1935顕正居士:2008/02/14(木) 05:28:33
板曼荼羅事件(最高裁判決昭和56-4-7)

判決の要旨はこの事件は不当利得返還に関する争訴ではあるが、審判の前提として宗派の
教義の当否を判断する必要があり、裁判所にはそういう能力はないとしたものです。
以下わたしの感想です。

「板曼荼羅の真偽」は「宗派の教義」とは異なる科学的に決定できるものであるというのが
原告の主張であったとして、科学的に決定できるのは古文書学などの学界であって裁判所
ではありません。しかも板曼荼羅に真筆、偽筆は存在せず、真刻、偽刻は存在するが
板曼荼羅の縁起について宗派には明確な主張がありませんから、宗派の教義において
尊ぶ以上の意義を見出すことができない。したがって宗派の教義の問題であり、これを
判断できるのは宗学などの学界であってやはり裁判所ではない。判決はやむを得ないところ
でしょう。「板曼荼羅の真偽」という語法が著しく特殊な語法であり、何を意味するか曖昧模糊
としており、結局、尊いものとおもったがそうでなかったという以上のことがないからです。

1936:2008/02/14(木) 19:27:27
当方は、初心の信徒で、詳しいことは何も語れませんが、
犀角独歩氏という者は、わたしの周りでも非常に話題になっており
到底、同じ日蓮大聖人の信徒として、彼の意見はとうてい受け入れられるものではありません。
客観的に見ても、独歩氏は、誹謗正法者の先鋭を行くものではないでしょうか。
この掲示板でも、上方に独歩氏の書籍を勧めるというのは
富士門流信徒の掲示板として、ふさわしくは無いと考えますが、
皆さんは、どのように考えているのでしょうか。意見を聞かせてください。

1937顕正居士:2008/02/14(木) 19:30:58
板曼荼羅事件についてさらに考えると、裁判は科学的に調査された事実に基づいて
行なわれはする、だから専門家が参考人として呼ばれ、証拠品の鑑定を研究機関に
依頼もする。日蓮の真蹟曼荼羅と称するものを古物商から購入したがこれが偽作で
あったという事件ならこの範囲でありましょう。ただし古物商自身がほんものであると
信じていた場合は詐欺罪を構成しません。
板曼荼羅事件においてはこれを奉安する建築物の造成に寄進を行なうことにより
功徳とか利益(りやく)と称する対価を得る、あるいは宗派の教義上意義ある建築物
であるから名誉を得るというのであって、さきの場合とは全然異なります。
宗派の信者の間だけで通用する価値感ですから、外側からは当否をいえません。
なんらかの物体を尊崇することにより幸福を招来するなどは迷信であるといっても
迷信などの誰も容易に虚構であると看破できる事柄を述べて対価を得ても詐欺罪を
構成しません。

1938:2008/02/14(木) 19:31:36
にがにがしくて責めたくはないですが
独歩氏に反論させていただきます。
「悪人」を「悪人」と言ってはならない
「きちがい」を「きちがい」と言ってはならないとなりますと
日蓮大聖人の他宗批判も成り立ちませんし、日本の法廷も成立しません。
独歩氏は、実名を晒されて、卑しまれるだけの行為をしている
という自覚がないのでしょうか。
また、この掲示板は、与同罪を畏れずに、
彼のようなものも受け入れてしまうのでしょうか。

1939犀角独歩:2008/02/14(木) 19:36:26

1937を拝読させていただいて、思うことは、だからこそ、阿部さんは、河辺メモの内容は自分が語ったとは口が裂けても言えなかったわけですね。
認めれば詐欺罪ということになるわけですね。なるほど。

1940:2008/02/14(木) 19:44:41
独歩氏のブログには、今まで合計で五回ほど、忠言という形で投稿させていただきましたが
案の定といいますか、すべて一日のうちに削除されてしまいました。
彼のブログが、中立性に欠けた偏ったものであるか、冨士派の批判のための批判なのか、を
何も知らない人は留意してほしいと、ここで申し上げておきたいと思います。

1941:2008/02/14(木) 19:52:09
繰り返しに成りますが、独歩氏のブログが、いかに中立性に欠けた偏ったものであるか
いかに冨士派の批判のための批判に終始しているのか、を皆さんに留意してほしいと思います。
冨士派の皆さんは、独歩氏を受け入れてしまうのでしょうか。
もしそうなら、日興上人が最も嫌った謗法容認の行為ではありませんか。

1942犀角独歩:2008/02/14(木) 20:01:31

皆さんの中立のご意見をお聞きするために、敢えて羽さんの投稿にはレスをつけませんでしたが、1940のブログのことは記しておきましょう。

一方的な批判中傷を加えた内容は「荒らし」行為と判断し、削除しました。
ところが、削除したのにもかかわらず、同一文書で5回、投稿をしてきました。
このような態度は、完全な「荒らし」行為ですから、管理人として、IPと投稿名を禁止ワードとして、これに対処しました。すると今度はIPと投稿名を変更し、また同一文書を投稿してきました。(IPと投稿名は、今後、訴えを起こすときの重要な証拠ですので、ここには敢えて曝しません)

内容は以下のとおりです。

「こんばんは。ちまたで話題になっているこちらのブログを拝見させていただいた以上は、日蓮大聖人を信じる一信徒として、犀角独歩氏には、与同罪を免れるために、にがにがしくも強く忠言を申し上げておかなければなりません。犀角独歩氏は、越えてはいけない一線を越えてしまいました。さらに堕地獄への道を突き進んでおられる。なんぞ福を捨てて罪を慕うものがあろうかと、宗祖は仰せられますが、独歩氏の導く結論は、常に福を否定し、悪道に人を誘引しようとするものばかりで、けして見逃すことはできません。仏法が虚妄でなければ、諸天善神は黙ってはいません。「正直捨方便」の経文を仰いで、ただちにこちらのブログを閉鎖してください」

なお、1938の

> 「きちがい」を「きちがい」と言ってはならないとなりますと…

といった文面は、国法、良識に抵触するのみならず、当掲示板の投稿規定にも抵触するでしょう。この点については、おいおい、管理人さんのご判断に委ねるものとします。

1943:2008/02/14(木) 20:08:43
一方的な批判中傷を加えた内容は独歩氏のブログではないでしょうか。
何度も忠言を言上することが「荒し」に該当しますと、
独歩氏の目には日蓮大聖人の折伏も「荒し」に映ってしまうのでしょうか。
もし「きちがい」という文面が、国法、良識に抵触するとなりますと
法華経の経文の「頭破七分」も、独歩氏は忌み嫌うのでしょうか。
管理人さんの良心的かつ信仰心のあるご判断にゆだねるものとします。

1944管理者:2008/02/14(木) 20:29:48

羽さん

ご主張を拝見しますと、犀角独歩氏が、誹法の人である、と断定されていますが、何ら誹法の人である根拠を示しておられません。当掲示板に投稿されるのならば、当掲示板のルールに従って投稿される事をお願いします。
議論に参加されるのであれば、必ず証拠を示してください。

謗法容認とのご発言が有りますが、独歩氏が謗法の人である、という証明は何らされて無いと考えます。よって、まずそれを証明される事が先決です。

当掲示板のTOPに、犀角独歩氏の書籍申し込みへのリンクが設定して有りますが、これは管理者が勝手にそうしている事で、これが、もしふさわしくないとお考えなら、同じくふさわしくない理由、根拠をお示しいただきたく存じます。

その他にも色々申し上げたい事は有りますが、ひとまず、以上の点をよろしくお願いいたします。

1945管理者:2008/02/14(木) 20:38:10

羽さん

補足です

>また、この掲示板は、与同罪を畏れずに、
>彼のようなものも受け入れてしまうのでしょうか。

仮に、犀角独歩氏が日蓮聖人に弓引く大謗法の人であったとしても、当掲示板のルールに従って投稿される限りは、その投稿を制限する事は一切いたしません。これは、当掲示板の書込みルールに明記して有るとおりです。ご確認下さい。このルールが気に入らない、とおっしゃるなら、ルールの変更提案をしていただく事も出来ます。そして、その時のご参加の皆様にお計りをして、変更するかどうか、決めさせていただきます。

1946:2008/02/14(木) 21:13:55
日興上人は、宗祖の聖筆を汚すことを恐れ、
五老僧の大曼荼羅本尊のぞんざいな扱いを厳しく叱責しましたが
犀角独歩氏のブログにおける御本尊の扱いは、けして信仰心のあるものとは拝見できません。
もし管理人さんが、独歩氏の主張を容認するようでしたら
「冨士門流信徒」の名折れではないでしょうか。悲しく思います。

1947管理者:2008/02/14(木) 21:22:51

羽さん

>日興上人は、宗祖の聖筆を汚すことを恐れ、
>五老僧の大曼荼羅本尊のぞんざいな扱いを厳しく叱責しましたが

この主張にも、根拠が示されていません。所謂「五人所破抄」と呼ばれる書物を根拠として言われるのでしょうか。


>犀角独歩氏のブログにおける御本尊の扱い

御文字の比較を言われるのでしょうか。どの点を言われるのか、明確にしていただけませんか。それが議論の入り口だからです。

1948:2008/02/14(木) 21:34:41
一、上の如く一同に此の本尊を忽緒(こっしょ)し奉るの間、或は曼荼羅なりと云ひて死人を覆ふて葬る輩も有り。
 或は又沽却(こきゃく)する族も有り。此くの如く軽賤する間多分は失せ畢んぬ。

 日興が云はく、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず。正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち
 日興門徒の所持の輩に於ては、左右無く子孫等にも譲り弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り、六人一
 同に守護し奉るべし。是れ偏に広宣流布の時、本化国主御尋ね有らん期(とき)まで深く敬重し奉るべし。

一、日興弟子分の本尊に於ては、一々皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷(けが)す事最も其の恐れ有り
と雖も、或は親には強盛の信心を以て之を賜ふと雖も、子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与
すと雖も弟子等之を捨つ。之に依って或は以て交易(こうえき)し、或は以て他の為に盗まる。此くの如きの類い其の
数多きなり。故に賜はる所の本主の交名(きょうみょう)を書き付くるは後代の高名の為なり。
 
一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由諸方に其の聞こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり。

日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る
輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり。 本尊人数等、又追放人等、頸切られ死を致す人等。

日興上人の御文にまかせますと、御本尊を左右無く譲り、付嘱すべからず、とあり
また不信の輩に授与して軽賤することはもってのほかだと、仰せられていることが伺えます。
いわんや、御本尊をネットにアップロードして、不特定多数の人が閲覧する前で、切り貼りすることは
日興上人の叱責する誹謗正法に他ならないのではないのでしょうか。もし管理人さんがこれを容認するようでしたら
富士門流信徒の看板は潔く下ろしていただきたいと思います。

1949管理者:2008/02/14(木) 21:59:05

羽さん

文書を提示される場合は、ここは公開の掲示板ですから、もう少し皆さんに判るように書かれてはいかがですか。

御引用の文書は「富士一跡門徒存知事」のようですね。大石寺平成新編日蓮大聖人御書一八七二頁。

先ず、ご質問です。この書物の真跡は何処に有りますか、又は時代写本は何処に有りますか。この書物が日興上人が認められた物かどうか、証明出来ますか。この内容が本当かどうか、貴方はどうやって知りえたのでしょうか。

>御本尊をネットにアップロードして、不特定多数の人が閲覧する前で、切り貼りすることは

ネットに写真をアップする事が誹謗正法になるという理由は何でしょうか。
切り貼りは曼陀羅の映像です。映像を切り張りしたからといって、被写体の御本尊は何ら切り刻まれる訳では有りません。これが誹謗正法になるという理由は何でしょうか。

以上、ご質問致します。ご回答下さい。

1950:2008/02/14(木) 23:12:58
御抄の真偽は初心の信徒のわたしの及ぶところではありませんので
富士門流信徒として、大石寺の裁定に任します。
写真をアップロードすることがなぜ誹謗正法にあたるのか、という問いですが
およそ顔写真にしても、世間では肖像権というものが存在し、
本人の許しがなければ、アップすることはできません。
管理人さんの理屈を借りますと、
ブログに御本尊を晒す犀角独歩氏は、
顔写真のみならず、本人の全裸をネットに晒されてしまっても
誹謗に当たらないと考えますが、いかがでしょうか。

1951:2008/02/14(木) 23:25:01
追記しておきますと、犀角独歩氏のブログに、何回も、
同じ内容の忠言を投稿をしなくてはいけなかったのは、
犀角独歩氏が、投稿するたびに削除して黙殺なさるからで、
けしてコメント欄を荒らすような意図ではありません。
独歩氏が真面目に信行学を貫いているなら、
なんらかの返事があって当然だと考えますが
彼はあまりにふざけているといわざるを得ません。

1952独学徒:2008/02/14(木) 23:35:50
横レスとなりますがお許しください。
羽さん、犀角独歩さんは、一片もふざけたところなんかありませんよ。
真剣そのものです。すべてをかけてこの問題に取り組んでいるといっても過言ではないでしょう。
そもそも、富士一跡門徒存知之事が、真実日興撰述であったと仮定しても、本門戒壇之大御本尊は「御筆の本尊」では無いので、全く的外れな引用といわざる得ません。

1953独学徒:2008/02/14(木) 23:38:05
追記ですが、本門戒壇之大御本尊は、「御筆の本尊」ではなく「彫刻の本尊」です。

1954管理者:2008/02/15(金) 06:32:59

羽さん

>御抄の真偽は初心の信徒のわたしの及ぶところではありませんので

この書は大石寺も認めている通り、真跡も時代写しも存在しないものです。これが日興上人の著述でなくて、後世の仮託だったら、貴方の主張は、後世の作者に踊らされただけになります。確実な資料を用いて議論すべきだと考えます。当掲示板にご参加の方々は、十分この事を弁えて、真跡があるか、或いは、以前真跡が有った事が確定している書を用いて議論されています。

>富士門流信徒として、大石寺の裁定に任します。

これは、信者としては、それで良いかも知れませんが、このような公開の場での議論としては、全く不十分です。議論の足場がぐら付いていては、議論になりません。もう一度お考え直されては如何ですか。

>およそ顔写真にしても、世間では肖像権というものが存在し、
>本人の許しがなければ、アップすることはできません。

曼陀羅に肖像権が存在するというのは初耳です。もう少し詳しく承りたいと存じます。

1955管理者:2008/02/15(金) 06:38:03

羽さん

ちなみに、肖像権を大辞林で調べてみました。

しょうぞうけん【肖像権】

自分の顔や姿を無断で写真・絵画などに写しとられたり、それを展示されたりすることを拒否する権利。人格権の一部とみなされる。

曼陀羅に肖像権が存する根拠を示してください。

1957管理者:2008/02/15(金) 15:09:41

羽さん

補足質問を致します。

大石寺本門戒壇大御本尊に人格権が有るということは、大石寺本門戒壇大御本尊は『人格を持つ一人の人間」という意味になります。

それでお伺い致しますが、人格であらせられる「大石寺本門戒壇大御本尊」様の、生年月日と国籍、何処に住んでおられるか、住所地、更に、人で有れば、両親がいらっしゃるはずですので、そのご両親の名前を教えていただきたいと存じます。

1958犀角独歩:2008/02/16(土) 07:19:54

管理人さん、独学徒さんには、まず、感謝申し上げます。
羽さんには、少し申し上げましょう。

一つ、わたしのブログへの投稿を削除したのは、何ら論証することもなく、自分が信じていることが正しいという前提で、一方的な誹謗を記したからです。わたしは多くの検証を行っているわけですから、それに批判を加えるのであれば、ちゃんと論を立てて行うべきでしょう。1942に投稿文書は挙げましたが、これは単なる悪口雑言と威嚇に過ぎません。もちろん、忠言などといったものとはとらえようがありません。故に削除しました。

一つ。わたしが一方的な批判中傷を加えたと言うことですが、そのようなことはありません。何故ならば、公開のブログで物的証拠を挙げて論じているからです。もし、この内容に不満があれば、物的証拠を挙げて反証すればよい。それが議論というものです。それを内容が気に入らないから閉鎖しろと言うのは言論弾圧以外の何ものでもありません。

また、不適切語ながら「きちがい」というわたしへの侮蔑は、顕正会の浅井さんの言葉で、これを羽さんは擁護しているようですが、日本国内において、このような行為は断じて許されません。釈文であり、漫荼羅本尊にも記される「頭破七分」は書かれていること自体が法律には抵触しませんが、人に向かって誹謗目的で言えば、法律に抵触します。当然のこととして、「きちがい」といえば、法律に抵触します。もし、羽さんがわたしを指して、そのように言うならば、ここに本名と連絡先を通知してください。わたしはあなたを訴えます。法廷で争いましょう。

一つ。写真をアップすることを肖像権に例えて批判を加えています。このような批判は当たりません。なぜならば、漫荼羅本尊に肖像権を論じる種類のものではないからです。そもそも、肖像権云々以前にもっと重要な問題があります。つまり、所謂「本門戒壇の大御本尊」と称される彫刻は日禅授与本尊を原本とし臨模作為された偽造品です。このようなものを「本門戒壇の大御本尊」などと称して、人々を誑かし、ひいては羽さんのように、本物と信じ込まされたうえ、批判者を憎悪憤慨するように暗示を加えられ、実際に事実を証明し述べる者を攻撃するように操作するこの信仰圏の集団の在り方は、偽造品を本物と謀ること、人心を操作することといった社会悪を形成しています。故に事実を糾明し、かつ操作された人々の憎悪操作を解いていかなければなりません。これがわたしも目的です。

もし、所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物であるというのであれば、それを証明すればよいだけのことです。しかし、「難しいことはわからないが」などといって議論を避けたうえで、本物であると信じ込まされたうえで、反対者を誹謗中傷するよう操作されている心象は、凡そ正義からかけ離れた暴挙であることを知るべきです。

所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物であれば、写真を公開されようが、百万言の追及を受けようがけっしてこれを損ずることはできません。しかしながら、実際は写真公開をすることを悪事のように心理操作をし、かつ、物証として写真を提示し、その過ちを論及することを悪事であるかのように心理操作し、人心の憎悪を煽り、攻撃を加えさせ、その事実究明を封じ込めようとする在り方は、まずは言論の自由の弾圧であり、かつは「悪人」「きちがい」などといって攻撃すれば、名誉毀損になる人権侵害でもあります。

信者をこうした操作でしか信じ込ましておくことができないのはなぜか、「憎悪」「憤慨」という心理を起こさせ、事実究明から、目を遠ざけさせようとするのは、何故か、その底意を考えてみるべきです。

ここで、もっとも重要な争点は、管理人さんが、そして、独学徒さんが記されたとおり、所謂「本門戒壇の大御本尊」が偽物であるところにあります。
羽さんには、「難しいことはわからない」などといわず、十分にこの彫刻の真偽を検証してみることを奨めます。それでも本物であるというのであれば、では物証、文証をもって、論理的に議論をしましょう。

「初心だから」という言葉もありますが、この時点では、ちょっとした出来事や、興奮した場の雰囲気や、説得力のある発言、権威者の存在などで、「嘘を誠」であると信じ込みやすく、かつ、憎悪をもって批判者を攻撃するように思想改造されやすい心理状況となります。いまなら、引き返すことは間に合うでしょう。所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物であるかどうかをしっかりと検証してみることをお薦めします。

このスレッドを、はじめからよく読んでみることもよし、「写真を載せることは悪いことだ」という刷り込まれた固定観念は、まず置いて、わたしがブログで行っている検証を熟読玩味してください。事実を述べることは、けっして悪意ではなく、事実究明は銭から出た行動であることは理解いただけるでしょう。

1959犀角独歩:2008/02/16(土) 07:27:19

【1958の訂正】

誤)事実究明は銭から出た行動
正)事実究明は善意から出た行動

1960きゃからばあ:2008/02/17(日) 22:04:44
羽さん、はじめまして。
提案ですけど、独歩さんのサイトで削除云々というならば、羽さんが独自のサイトを立ち上げたらどうでしょうか?
私は個人的には楽しみにしていますが…。
もちろん真面目に参加させていただきます。

1961大縫 薫:2008/02/17(日) 23:16:47
横レス失礼致します。
まず申し上げたいのはブログや談義所に曼荼羅本尊の写真をアップしたからといって
富士一跡門徒存知事に当てはまるかです。
よく考えて下さい興師は不信の輩と言われてますが、仮にブログや投稿写真を態々製版
なりコピーなりに複製して拝むことを不信の者が護持・拝することを憂いた訳であり学術
的に独歩さんが比較・検証をあえて文面に止まらず視覚に訴えた方が判り易いと判断され
写真を使いアップされているのですよ!

羽さんは、それら曼荼羅の写真を安置する方が出るのが気がかりなのですか?
こちらに書き込みをされていられる方々は、その様な事はまずしませんので・・・・

因みに独歩さんは、富士門流の信仰について誹謗・中傷などブログには一切書かれて
はいませんよ!! 板曼荼羅の彫刻における大石寺圏内の姿勢を糺しているだけであり
信仰観などの内面性をむしろ正しく誰よりも評価しています。

1963:2008/02/18(月) 22:34:05
独歩さんが、自身のブログで羽を黙殺なさるのでしたら
独歩さんも、本山に相手にされない、というのも
仕方がないのではないでしょうか。
「頭破七分」の反論に、法廷を持ち出す、というのも、
彼は法華経より日本の法律を信仰しているようで、
これは大乗を小乗で破す、という良観房の過ちに
非常に通じるものがあるように思います。

1964独学徒:2008/02/18(月) 22:37:24

管理人さん、>>1962の投稿文には、極めて不適切な言葉が入っており、削除を希望します。
読んでいて不愉快になります。

どちらの信徒さんか存じませんが、本門戒壇之大御本尊は、犀角独歩さんが鑑別される前に、御隠尊様が鑑定にかけ偽物と談じていたわけで、今さら誰がどう画像を扱おうが、謗法でも何でもないと思います。
一方的な感情から、不適切語を再度持ち出すところは、単なる狂信としか写りません。

1965管理者:2008/02/18(月) 22:42:55

羽さん

肖像権はどうなりましたか。これは引っ込めたのですか。
引っ込めて、こんどは、諸仏の父母に論点を変えたのですか。

こんなやり方では、どうも貴方は、普通の議論が出来る方とは思えませんね
もう、投稿をお辞めになってはどうですか。恥の上塗りを重ねるだけですよ。

管理者としては、相手の質問に答えず、論点を逸らして、書込みを続ける事は、「話し合いを重んじる」という、当掲示板の基本原則に違背しておられると判断します。
そうでないなら、論点を逸らさずにきちんとお答え下さい。話し合いを重んじないで、勝手に書込みを続けられた場合は、ルールに照らして、以後の書込みを禁止いたしますので、ご承知置きください。

きちんと質問にお答え下さるよう、催告します。

1966管理者:2008/02/18(月) 22:45:24

独学徒さん

了解です。

羽さん

1964は、ルール違反につき、削除します。

1967:2008/02/18(月) 22:50:58
御陰尊とは日顕上人のことでしょうか。
御本尊は偽物などとは全くいわれていません。

邪を破すことが不適切なら、
日蓮大聖人の金言も狂信でしょうか。
怒りは善悪に通じると
むしろ悪を見ては怒らないといけないと
日蓮大聖人は仰せられています。

1968:2008/02/18(月) 22:54:04
管理人さんに反論します。
およそ自分の父母の人格は誰でも認めるものではありませんか。
父母の人格を認めないものは畜生ではないでしょうか。
書き込みは禁止していただいて結構です。
五老僧と決別した日興上人の後を忍びます。

1969独学徒:2008/02/18(月) 23:03:43

>日蓮大聖人の金言も狂信でしょうか。

具体的に文証を出して下さい。

仮に聖人のお言葉でも、現代社会にあって不適切なものは不適切だと主張します。

>御本尊は偽物などとは全くいわれていません。

それは私どもには通用しません。
川辺メモの記述は、私には御陰尊様が教学部長時代に、本門戒壇之大御本尊を鑑定にかけ、偽物と断じていた記述と受け止められます。
現に御陰尊様が教学部長時代に、御本尊研究を行っていたことは、松本佐一郎の遺書『冨士門徒の沿革と教義』のあとがきにて、著者の母親が語っている通りです。

1970:2008/02/18(月) 23:09:54
>具体的に文証を出して下さい。

先に実を以て権を破し、権執を絶して実に入るは、釈迦・多宝の十方の諸仏の常儀なり。
実を以て権を破する者を盲目と為ば、釈尊は盲目の人か、乃至天台・伝教は盲目の人師なるか、如何。
笑ふべし、返す返す。『実相寺御書』

>それは私どもには通用しません。

私どもは信じなくても
御陰尊は本門戒壇の大御本尊を本物と仰せられています。

1971管理者:2008/02/18(月) 23:14:00

羽さん 

>管理人さんに反論します。

反論にもなっていませんよ。

父母の事には管理者は一切言及していません。貴方が、「肖像権」と述べた事に対して、管理者は質問しました。それに対して何ら答えることなく、新しい論点「父母」を持ち出すのは駄目ですよ、ルール違反ですよ、とご注意しているのです。

もう一度だけ、貴方が日本語を理解される事を期待して応答を待ちます。

1972:2008/02/18(月) 23:17:44
人法一箇の大御本尊が曼荼羅本尊ではありませんか。
諸仏の父母と仰ぐなら人格も認めるべきではありませんか。
人格が認められたなら肖像権はあるものでは。また世間ではないと言っても
あるものと拝するのが「富士門流信徒」の掲示板のあり方では。

1973:2008/02/18(月) 23:20:48
管理さんに、御本尊の人格をわかりやすく説明するために
諸仏の父母と言われていることを紹介しました。

1974管理者:2008/02/18(月) 23:23:43

羽さん

それでは、再度質問を繰り返します。

曼陀羅が人ならば、名前は何と言い、その誕生日はいつですか。曼陀羅本尊が人ならば、その両親の名前は何といいますか。お答え下さい。

1975独学徒:2008/02/18(月) 23:24:28
>>1970の文証のどこに、「き○○い」とあるのでしょうか?
貴方こそ聖人の御書を勝手に改竄して、貴方の間違った個人的解釈で聖人の御威徳を汚す、大謗法を犯していますよ。

>御陰尊は本門戒壇の大御本尊を本物と仰せられています。

だったら、世間が納得できるように証明すれば良いこと。
それが出来ない以上、御陰尊様が過去に偽物と断じた事実は消えない。
松本佐一郎の遺書『冨士門徒の沿革と教義』の、あとがきの記述はどうしますか?
かつての宗門の僧籍学者ですよ、松本佐一郎は。

1976管理者:2008/02/18(月) 23:58:11

羽さん

管理者の質問には、当然答える事が不可能であろうと思います。なぜなら、曼陀羅は、人ではないからです。当然、人権も有りません。肖像権も有る筈がありません。

そもそも、肖像権なんぞという、現代の論理を持ち出して、曼陀羅を論ずる事自体がナンセンスなのです。

「曼陀羅は信仰の対象たる尊貴なる存在なので、妄りにその文字を切り刻む事は慎むべきではないか」という意味なら納得です。そして、犀角独歩さんもそんな事は百も承知。敢えて曼陀羅の文字の分析をされたのは、理由あってのこと。妄りに為されている事では決して有りません。それを貴方が理解できないとしても、きちがい呼ばわりすれば、名誉毀損を構成します。当掲示板のルールでは、即刻削除。更に続ければ、書込み禁止になります。もう少し、ご自分の言動を頭を冷やして客観的にご覧になられたら如何でしょうか。

貴方は、顕正会の会員さんでしょうか。浅井さんの言動に振り回されるのは、少しお考えになったらどうですか。貴方は、大石寺戒壇板本尊を拝したことが有るのでしようか・・・・

1977鳥辺野:2008/02/19(火) 00:01:25
皆さんこんばんは
羽さん、
はじめまして、横レス失礼致します。

>彼はあまりにふざけているといわざるを得ません。
お言葉ですが、犀角独歩さんのブログや、こちらの掲示板でのご発言をすべて読まれましたでしょうか?もしすべてお読みになったのであれば、このような答えは出てこないと思いますよ。犀角独歩さんはこの「彫刻問題」命を削っておられます。独学徒さんもおっしゃっておりましたが、いつも真剣です。また五老門を批判されておりますが、蓮祖は日興師を含め6人共、本弟子と認められているではありませんか?それを批判するということは、蓮祖そのものを批判(すなわち、蓮祖の目は節穴と発言)しているのと同じです。あなたのご発言はあなたの言う「父母の人格の否定」そのものだと私は思います。ちなみに大石寺の碩学といわれております、堀日亨師も曼荼羅本尊の写真撮影をされておりますし、書籍に曼荼羅の写真を掲載されておりますよ。日亨師は謗法ですか?

1978外陣:2008/02/19(火) 02:23:03
横っちょから大変失礼かと存じますが…。
一万円札をそのままコピーしてホームページに貼り付けても問題はないでしょうか?
友人の家に大切に飾ってある当人の祖父の御影写真を借りてきて、それをホームページに貼り付けても問題はないでしょうか?
羽さんと名乗る方の義憤…わかる気もします。
あまり多勢でいじめないで、この方のような言い分も聞いてあげてはいかかでしょうか。

1979犀角独歩:2008/02/19(火) 03:13:48

羽さん

一つ。話が少しずれているようなので、1958で記したことを繰り返します。
わたしは、人から「きちがい」と言われる筋合いはありません。
故に、羽さんあなたを訴えます。法廷で堂々と争いましょう。

あなたの実名と連絡先を以下、メールまで連絡してください。
追って、法定代理人である弁護士から連絡をします。

saikakudoppo@rio.odn.ne.jp

一つ。黙殺をするのがいけないそうなので、上記、わたしの訴えを黙殺しないこと。あなたの悪意に満ちた見当外れの文章は、わたしのブログに、あなたの投稿名、IPと共に晒すことにします。

一つ。「法華経より日本の法律を信仰している」との見当外れの言葉がありましたが、では、『瀧泉寺申状』を呈して法律に訴えた日蓮は、法華経より法律を信仰していたのでしょうか。法華経は信仰を、法律は国家における統治(法治)をするもので、その役割が違います。故に日蓮も法華経と法律と両方を使っています。

一つ。「陰尊」とは「隠尊」の間違いですね。こんな間違いをする石山信徒がいるはずはないでしょう。あなたはどこの所属ですか。
また、その「陰尊」が本物であるといったのは、わたしが使用した写真の現物ですか。では、わたしが使用した写真は所謂「本門戒壇の大御本尊」に間違いないのでしょうか。

一つ。「邪を破すことが不適切」と誰が言ったのでしょうか。
邪を破すのは当然のことです。ですから、後世の偽造品に過ぎない彫刻を「本門戒壇の大御本尊」と謀ってあなたを含む人々を騙す邪をわたしは破しています。一方「怒りは善悪に通じる」「悪を見ては怒らないといけない」と、いずれの御書に書いてあるのでしょうか。具体的に挙げてください。

むしろ、日蓮は『開目抄』に「人をあだむことなかれ 眼あらば経文に我身をあわせよ」と言っていませんか。わたしが日蓮作を謀る偽造品の悪を暴くことは、日蓮が仏語を助けるごとく、日蓮を助ける行為です。日蓮に違背するのは日蓮作を謀り、偽造品を人に勧めるあなたのほうでしょう。

以上、法律からも、日蓮からも、わたしは悪などと断定される筋合いはありません。仏語は因果に任し、しかし、人権侵害は法律に任します。速やかに実名と連絡先を通知すること、督促します。

1980管理者:2008/02/19(火) 05:57:50

外陣さん

>一万円札をそのままコピーしてホームページに貼り付けても問題はないでしょうか?
>友人の家に大切に飾ってある当人の祖父の御影写真を借りてきて、それをホームページに貼り付けても問題はないでしょうか?

通貨をコピーすることは、法に触れます。他人の先祖の写真を無断でインターネットに掲載する事は、法に触れるかどうかは別として、道義的に問題になると思います。

>羽さんと名乗る方の義憤…わかる気もします。

羽さんが憤っているのは、良く理解できますよ。
問題は、ただ感情に任せて、犀角独歩さんの名誉を毀損し、質問に答えず、一方的に捲くし立てる行為は、容認すべきではないし、当掲示板のルールにも違反する訳です。

>あまり多勢でいじめないで、この方のような言い分も聞いてあげてはいかかでしょうか。
管理者は羽さんの言い分は全く容認出来ませんが、発見を封じていません。他のご発言の方々も、信念に基づき、ルールに従ってご発言されていると考えています。どこにいじめが有るのでしょうか。ご発言の趣旨が不可解です。

1981管理者:2008/02/19(火) 06:10:24

訂正です。

×管理者は羽さんの言い分は全く容認出来ませんが、発見を封じていません。

○管理者は羽さんの言い分は全く容認出来ませんが、発言を封じていません。

1982外陣:2008/02/19(火) 14:29:20
お返事を賜り嬉しいです。
たしかに羽さんという方の文面にはいささか乱暴で独善的な言い回しが、書き進むなかに見え隠れしています。
信じている対象に刀杖を加えられているような気がして、冷静さを失ってしまうのでしょうか。
信仰というもの、心というものの難しさを感じます。
ただ同じようにいかに冷静で醒めた観点からつづっている文章においてもそれが「いやみ」な「皮肉」めいた
言い方であれば、小生は乱暴な言葉と同じ次元ではないかと感じます。
御掲示板は初期の頃より読ませていただいており、とても勉強になりますし、自身の信仰姿勢に反省をうなが
すことも多々あります。
しかしながら最近の御掲示板での語調といいますかスタンスといいますか、なにか高いところからのおっしゃ
りように感じられるのは小生だけでしょうか。
仏法を学ぶもの同士としてもう少し慈悲のある交流にならないものかと思うのです。

「いじめ」という表現は適切ではなかったですね。謝罪させていただきます。
文意は言語思想の異なる、共通の土台ではない立場の者同士が語り合う場合には、た
とえ真逆の立場の者の発言、少数の意見に対してはなによりも相手を信頼して丁寧に
接することが必要ではないか…多少癖が悪い話し方しか知らぬ人の発言でも堪忍して
あげる優しさが欲しいと。
あやとりがこんがらがってしまっている時に腹を立てたら恥ずかしいだけですよね。
おっかなくて発言しにくい処になってしまったらちょっともったいないと思うのです
よ。池田さんや阿部さんが読んで書き込んでくれるような…そりゃ無理か。

1983富士川一郎:2008/02/19(火) 14:45:55
>>1980
管理者さんへ

>>通貨をコピーすることは、法に触れます。
とありますが

通過をコピーするだけでは法には触れません。
通貨をコピーすることは、一応、通貨偽造罪(刑法148条)に該当しそうですが、犯罪成立要件である「行使の目的」つまり、真正な通貨として流通に置く目的がない場合は、偽造罪などの犯罪となりません。
ネットで公開するのは「真正な通貨として流通に置く目的」には当たりません。

1984管理者:2008/02/19(火) 14:55:25

外陣さん

>「いやみ」な「皮肉」めいた言い方であれば、小生は乱暴な言葉と同じ次元

仰る通りだと思います。管理者は元来、キレやすい性分です。お叱りを頂戴して、反省点多々です。又、お気づきになられた事がありましたら、お教え賜りますれば幸いに存じます。

>最近の御掲示板での語調といいますかスタンスといいますか、なにか高いところからのおっしゃりように感じられるのは小生だけでしょうか。

これは、まだ肩の力が抜けていないというか、力みが有るのでしょうね。ご参加の皆様がそんな感じを持たれるというのは、決して好ましい事ではないと思います。

>おっかなくて発言しにくい処になってしまったらちょっともったいないと思うのです

これはひとえに管理者の不徳の致すところです。心して参ります。

>池田さんや阿部さんが読んで書き込んでくれるような…そりゃ無理か。

そんな時代が来ると嬉しいですね。

富士門各派、殊に大石寺各派は、激越な戦闘状態に今も有ると思います。今後も暫くはこんな状況が続くだろうと思います。そして、その戦闘の硲で、信徒同士が罵り合い、酷いときは暴力沙汰にまで発展することがありました。
そんな、富士門、大石寺門の各派方々が自由に議論できる場を設定するというのが、当掲示板の元来の設置趣旨です。
その為、どうしても、交通整理は不可欠であり、交通ルールが無くては運営は不可能です。必要に応じて強制退去とか、書込み削除とか、行わなくてはなりません。この点はご理解賜りたいと存じます。退去命令は、いつも心を鬼にして出しています。

1985外陣:2008/02/19(火) 14:59:44
続けさせていただきます。
血脈相承、御相伝を固く信じている者にとっては本物であるでしょう。
それを否定する立場の者にとっては坊主憎けりゃ袈裟まで憎しでしょう。
民族紛争、宗教戦争etc.世界中みな同じ混沌の時刻を生きてます。
そんな危険な時代にわたしたち荒凡夫がどう振る舞えばいいか、を教え
てくれたのが釈迦佛であり天台智者であり日蓮大聖人であると小生は信
じているわけです。

あくまで例えばの話。
長い歴史のなかで事故があって燃えてなくなってしまったのかもしれない。
あるいは危険があるので身代わりの本尊を表に出して、大切な宝はどこか
誰にもわからない処に格護してあるのやもしれない。
それやらこれやらのことを決めて采配するのが時の管長の権限でしょう。
偽物とか本物とか詮索する権限権威が小生ら未明のものにありましょうか。
総本山が「これがご本尊様だぞ」「ご本尊様は大聖人様だぞ」と云っている
のであるから、もうそれでいいのじゃないですか。
本物にするか偽物にするかは、小生らのそれこそ「ご信心によるべし」では
ないでしょうか。
そもそもメタ言語の世界がこの信心でしょうから。
こんな考えはだめでしょうか?

1986管理者:2008/02/19(火) 15:02:11

富士川一郎さん

>犯罪成立要件である「行使の目的」つまり、真正な通貨として流通に置く目的がない場合は、偽造罪などの犯罪となりません。

なるほど。警察に目を付けられる程度、という事ですね。有難うございました。

1980レスの「通貨をコピーすることは、法に触れます。」は謹んで訂正致します。


外陣さん 

法律は難しいですね。行使する目的には当たらないので、ホームページに通貨の映像をアップしても犯罪にはならないそうです。

1987外陣:2008/02/19(火) 15:17:38
管理者さま
いつもかわらぬ真摯で誠実な姿勢に合掌させていただきます。
どの方も必死の構えでやっておられる…こんなに純真に真剣にやっておられる
のに、なかなか春風がふきませんなぁ。

申し遅れましたが小生は創価学会→正信会と風に吹かれて現在は大石寺法華講
の席を汚しております。卑怯ながら「中立」の立場で現況を俯瞰させていただ
いている情けない親父であります。
暫くは「外陣」と呼び捨ててください。

1988問答迷人:2008/02/19(火) 15:19:54

外陣さん

管理者としてではなく、掲示板参加者として発言させていただきます。

>それやらこれやらのことを決めて采配するのが時の管長の権限でしょう。
>偽物とか本物とか詮索する権限権威が小生ら未明のものにありましょうか。

このご発言は戴けませんね。

日蓮聖人は時の比叡山の権威に対して、真っ向から戦いを挑まれ、その過ちを糺されました。時の権威に従うのが正しいのなら、命を掛けた聖人の御生涯は一体何だったのでしょうか。どうお考えでしよう。

犀角独歩さんが詮索した結果、偽物である、との河辺メモの内容の裏付けが取れたわけです。詮索は有用であり、それをしないのは、逆に盲信であり、日蓮聖人の教えに逆らうと考えます。

1989外陣:2008/02/19(火) 15:49:20
>法律は難しいですね。行使する目的には当たらないので、ホームページに
通貨の映像をアップしても犯罪にはならないそうです。

なるほどそうなんですか、ちと驚き。富士川一郎さんご教示感謝です。

さてそうしますと、その例えば鮮明な最高級画質でのスキャン画像をウェブ
サイトに掲示したとして、それを誰かがダウンロードする、最高級印刷機で
印刷して裁断し、偽札として使用すると…その犯罪の因はそのサイトとはな
らないのでしょうか。悪因を産みはしないでしょうか。
端的に申しますと、余所さまはともかく大石寺にとっては命よりも重いとし
ているであろう本尊、時の法主にしかその扱いに権限がないであろう本尊を
自己の都合による事情からウェブサイトに掲示いたしては、上述のようにそ
れを印刷して壁に貼って唱題する者も現れましょう。
それでいったいいいのでしょうか。
修行中のものが根本尊敬するものを勝ってしていいものかどうか…。

1990外陣:2008/02/19(火) 16:08:18
>日蓮聖人は時の比叡山の権威に対して、真っ向から戦いを挑まれ、その過ちを糺されました。時の権威に従うのが正しいのなら、命を掛けた聖人の御生涯は一体何だったのでしょうか。どうお考えでしよう。

ううむ。
たしかに…。
その大聖人の姿勢、生きざまに惚れているわけですが…ううむ。

しかしながらそれは佛様だからこそできたことなんじゃないですか。
凡百の学生がやたらに逆らえばいいというわけでもないでしょう。
なんといっても相手は修行して専門職のプロなんでしょうから。
ただ佛のみがそうした行動を起こせるのではないかと思います。
あるいは菩薩戒に登って、自分を捨て他者のためを常に想うような
そうした素地のできた者にしか、そんなだいそれたことはできない
はずであると…こう考えますが、どうでしょう。

1991問答迷人:2008/02/19(火) 16:42:08

外陣さん

>それを印刷して壁に貼って唱題する者も現れましょう。

現にアメリカでは、御本尊集がアップされており、それをプリントアウト・表装し、仏壇に掛けている人たちが多数いるとか。
それが、組織の軋轢から逃れて、心静かに信仰したいという目的ならば、それも又可だと僕は思います。少なくとも聖人のお叱りを受ける事は無いと考えています。

>ただ佛のみがそうした行動を起こせるのではないかと思います。あるいは菩薩戒に登って、自分を捨て他者のためを常に想うようなそうした素地のできた者にしか、そんなだいそれたことはできないはずであると…こう考えますが、どうでしょう。

これは、概ね賛同いたします。但し、宗門のプロの言動が聖人の教えからかけ離れていると感じた場合は、「法を破る者を見て置いて責めずんば」という、「置不呵責」の責を免れるために、大いにその過てるプロ達を責めるべきであると考えます。

1992しゅんかん:2008/02/19(火) 23:07:36
偽物で依然より喧しく問われる物に、偽ブランド品(コピー商品)があります。(ブランドバッグ等)
これを問題にする者(問う側)に製造者と購入者が在りますね。
一、製造者側の論として平たく云えば、利益を損なわれた。
又、ブランドイメージを傷付けられたの類です。
二、購入者側の論は、高価なお金を払って(思ったよりも安価で手に入れた場合も含め)偽物を購入させられた事による精神的苦痛が最も多いのではないでしょうか。
昨今、偽ブランド品で騙された、と苦情を寄せる購入者は依然より少ない様に感じますね、それは売手が偽物として販売し、買い手は偽物と認識して購入している処に起因するのではないでしょうか。

今回、議論に上がっている処がこの問題に似通っていると思われます、二の購入者側に付いて少し記させえて下さい。
ご存知のように、購入者には二通り在り(問う者)と(問わない者)ですね、
(問う者)は真作と思って手に入れたが贋作だった、が最も多い様です。
他方、(問わない者)を大分すると二手に分かれると思われます。
一、贋作と知って手に入れた者
二、未だ真作と思って已まない者
贋作(コピー商品)と知った上で購入した場合、犯罪にあたるのか?
個人で使用する分には罪ではないとあります、詰まり業として行えば犯罪にあたる様です。(専門家によっては見解を異にするかも)
※上記判定は下記HPより
http://www.hou-nattoku.com/consult/634.php

1993しゅんかん:2008/02/19(火) 23:10:22
続き
ブランド品に頓着しない私は騙される事はないので暢気です[貧乏人で良かった(笑)]
ですが、当事者の怒りは理解出来ます。
その商品の購入は、両親への感謝の気持ち・愛する者へのプレゼント等とさまざまでしょう。怒り心頭に発する者在り、または精神的苦痛を伴い人間不信に陥る者も在るでしょう。

人は他者より在る事物を否定された場合、自我が不安定になる為その事を中々受け入れようと致しませんね、仏教用語で云う処の見惑の見取見ですね。
私は宗教活動(信仰)を致しておりません、よって余り大きい事は云えませんが、通一般的に信仰に至る要素として、生老病死・愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五陰盛苦があげられますね、人間の内なる物を捉え又、訴えているのだと愚考しております。

石山の云われる処の「本門戒壇之大御本尊」が偽物と云われれば信奉者のお方は穏やかではおられませんでしょう。
(コピー商品のバッグとは知らず、外出先で第三者に贋作と指摘された場合の比でない事は理解出来ます)
石山の云われる処の「本門戒壇之大御本尊」が仮に贋作だったとしたら、貴方は苦痛でしょう、であるなら貴方に依って折伏(入信)された方も同じ苦痛を味わうのです。
※「仮に」としましたが私は贋作と信じています。
個人でコピー商品(贋作)のバッグを持っていて「ア〜!騙された」と云うものではございません、石山の信者であれば折伏をしなければ成りません、折伏は先の例で云う処の「業」にあたると考えられます。

1994しゅんかん:2008/02/19(火) 23:11:55
続き
私は独歩さんが本板に於いて記した以下の事を知りませんでした。
No1916
>現在も本物であるとし「御開扉」「内拝」と称して、開帳して金銭を徴収しています。偽物であれば犯罪行為でしょう。

石山の云われる処の「本門戒壇之大御本尊」は、なんでも貫首さんの所有物だそうでね、
そしてその「本門戒壇之大御本尊」は広宣流布の暁迄は秘仏で、信徒のお方は貫首さんの大慈大悲のお心によって秘仏である「本門戒壇之大御本尊」にお目通り出来るそうですが、お目通りするのに金銭を徴収するってどうでしょう?
(本堂への参拝に金銭を徴収する寺院が他に多く在るのでしょうか?
石山は個人所有の本尊やから金銭を徴収するのか?う〜ん納得させられそうや)
本当に贋作だとした時、コピー商品を扱う輩よりも悪徳ですよ、だって信者と云う社員の自我の安定と崩壊を講と云う組織を利用し上手くコントロールして金銭を無限連鎖的に徴収する訳ですかね。

ファッション(異文化、団体等も)が正にそうですが、ブーム真っ只中(又はその世界)の時は如何にもいけてますが、ブームが過ぎ去れば(又、その世界に属していなければ)他人事でも、なんとも恥ずかしく赤面してしまう事在りますよね。
もう一人の自分で自身を見つめて見ては如何でしょうか。

1995しゅんかん:2008/02/19(火) 23:17:41
補足
1992で云う製造者とは知的所有権を有する製造者の事で、
贋作・コピー商品を製造している者を指しません。

1996一字三礼:2008/02/19(火) 23:44:40

〉宗門のプロの言動が聖人の教えからかけ離れている…

大石寺・身延を問わず、坊さんと法華経や法門について話をしたことがある方ならご存知でしょうが、坊さんは本当に何もしりませんよ。

現在では、僧侶というのは怪しい職業のひとつ、というだけでしょう。

坊さんは、家を持ち、妻子を持ち、貯蓄をして、肉を食い、酒を飲み、スポーツカーに乗って、レジャーに出かけて、そして仕事として檀家の前では、経を読み、少欲知足を勧めるのです。

まあ、閻魔様の前で、抜かれることを見こした上で、舌を二枚用意しているのかもしれませんが。

今の僧侶は、法華経や御書を切文して信者を脅し賺し、飯のタネにしている分、一般の在家の仏教徒よりも仏道から遠く、救い難い人と考えるべきでしょう。

1997外陣:2008/02/20(水) 10:17:59
問答迷人さん
>御本尊集がアップされており、それをプリントアウト・表装し、仏壇に掛けている人たちが多数いるとか。

この振る舞いについてはちょっとどうかと、小生は、思います。
そもそもが、いつの頃からか印刷した本尊を大量に下付し始めたこと、そのも
のが間違いの元のような気もしています。大慈大悲からのことと理解するよう
にしてますが、日興聖人がそれをお許しくださっているのかどうか…御開扉に
しても、やたらに許していることにも個人的にはちょっと疑念があります。
嬉しいことは嬉しいのですが。

しゅんかんさん
偽ブランド品のお話、言い得て妙です。たしかに怒り心頭があたりまえです。
そうだったら「ただじゃおかないぞ」です。わかります。
でも言葉を返すようですが、その肝心の「偽」かどうかを誰が判ずることが
できましょうか。偽というのであれば「本物」がなくてはなりますまい。
それではその本物の本尊とはなにか、戒壇本尊として本物はどこか、どれか。
それはどのようなものであり誰が決定するのか…。
このあたりが偽モノと主張する方々から提示されていないので、どうしても
信心のない人の難癖にしか感じられないのです。
民主党のことじゃありませんが、対案を知りたいと思うものです。

一字三礼さん
小生もいつも御僧侶にくってかかって迷惑されているようです。
理屈じゃないよ信心だよ、と諭されて…そのつど寂しい想いです。
能化クラスのお方でも浮世離れしたお話ばかりで、御三祖をしのばせるような
何でも聞いてこいという元気の良いかたにいまだ邂逅せず。我が身の福運のな
さに寂しさを感じてはおります。
でも三宝の僧侶と信じて不敬のないようには気をつけている自分です。
良き僧侶も信者が育てていくという面もありはしませんか。

1998富士川一郎:2008/02/20(水) 13:22:21
>>本堂への参拝に金銭を徴収する寺院が他に多く在るのでしょうか?

一応横レスですが、大石寺の本堂は、御影堂です。
奉安堂は秘仏の藏と言う扱いです。

さて本題ですが、秘仏拝観は寺院により金額の多寡がありますが、ほとんど有料です。
何時でも拝観できる日光東照宮で、一千数百円、京都の寺院などでも、100円〜5000円位まで存在します。
また滅多に拝観できない(善光寺の7年に1度など)で、宿泊費込みで7000円〜10000円までなどです。
また大石寺は入る事自体は入場料がありませんが、他宗寺院では入寺料を取る所もあります。

1999犀角独歩:2008/02/20(水) 18:46:27

問答さんとの議論なので、わたしは参加しませんが、それにしても、

> 本尊を自己の都合による事情からウェブサイトに掲示

て、これはわたしのことでしょうか?
どんな都合でしょうか。「悪人」「謗法」「魑魅魍魎」と悪口雑言される都合でしょうか(大笑)

わたしには何ら個人的な都合などありません。むしろ、隠蔽して見せないほうにこそ、都合があるのではないですか。

また「偽というなら本物がある」、それはあるでしょう。現存が確認されているだけでも130舗近い、日蓮真筆御筆大漫荼羅があります。それと比較して、大石寺板本尊など、一見して、偽物であることは、日蓮の真筆曼陀羅を見慣れている人であれば、一も二もなくすぐわかることです。


富士川さん

他の寺の拝観料の話は、まあ、そのとおりでしょう。
しかし、「広宣流布の暁まで御宝蔵に秘蔵厳護」と言いながら、お金取ったらまずいだろうというのが批判の声でしょう。
まして、誰かが書いていましたが、所謂「本門戒壇の大御本尊」は「時の法主猊下の所有」なんだそうですが、となると、奉安堂の拝観料は、すべてこの人の懐に入ることになりますね。そうなると、これは税法的には個所得と言うことになります。あと、「奉供養」というのがありますが、この所得申告はどうなっているのでしょうか。「仏様以外、供養は受けられない」というのは学会52年度路線を批判した石山の言い分でした。となると「奉供養」を受ける「猊下」は仏であるといっていることになりますね。しかし、僧宝であるというのが、いまの説明。この矛盾は、どんな言い訳によって成り立っているか、レクチャーいただけませんか。

2000しゅんかん:2008/02/20(水) 18:58:09
外陣さん
はじめまして、しゅんかんと申します宜しくお願い致します。

>偽というのであれば「本物」がなくてはなりますまい。
◆蓮祖の本物と云われる本尊は123幅と云われているのではないでしょうか。

>戒壇本尊として本物はどこか、どれか。
◆蓮祖の出世の本懐と云われ、日法師作の戒壇之大御本尊は存在しないのではないでしょうか。
ただ、石山が公言して已まない戒壇之大御本尊は奉安堂に奉懸されているのでしょう。

>それはどのようなものであり誰が決定するのか…。
◆公的機関が判断すべきだと考えています。
他方、折伏・布教活動を一切行なわず個人で思い込んでいる分には、いっこう構わないと考えます。

独学徒さんよりご教示戴いた処の別事例ですが、
日法師作と云われる祖師像が私の知る限り31体ございます。
本門寺や宥清寺の其れは文化庁のお墨付き重文ですね(旧国宝)ただ文化庁のデーターベース解説に日法師の名を見出すことは出来ません。
両寺は文化庁も認めていない事を公言している事となり、これは憂慮すべき事ですね、
祖師像はご存知の如く本尊ではなく、戒壇之大御本尊と云われるのは本尊です、石山の行為を同列に論じる事は出来ず、憂慮すべき事では済まされないと思うものです。

2001しゅんかん:2008/02/20(水) 19:29:57
富士川一郎さん

お久ぶりです。
本堂は御影堂でしたか、勉強に成りました有難うございます。

拝観料の件ですが、京都は観光地ですが京の法華寺院に於いて拝観料を徴収
する寺院は私の知る限りございません(多くには庭園拝観料と云うものがございます)
本堂(本尊)参拝に拝観料を設けている寺院を存じません。
※本堂(本尊)参拝を拒まれる寺院(本圀寺等)はございます。

2002問答迷人:2008/02/20(水) 19:32:28

外堀さん

>偽というのであれば「本物」がなくてはなりますまい。
それではその本物の本尊とはなにか、戒壇本尊として本物はどこか、どれか。

そもそも、戒壇本尊等と言う物は、日蓮聖人のあずかり知らぬ存在だと思います。真跡御書に名すら出てきません。もっと言えば、大石寺版の御書全集において、御書としているものの中にすら、戒壇本尊等という名目すらありません。
没落して、無住の破れ寺になった大石寺。そのときは堂宇は焼け落ち、全ては灰燼に帰していたと思われます。その時に日精師がでっち上げた、人寄せパンダが、戒壇本尊とお肉牙であった・・・

僕はそのように理解しています。もともと日蓮聖人の教えに「戒壇本尊」など無いし、「これこそが出世の本懐の本尊なるぞ」等と鳴り物入りで認めた曼陀羅など無いわけです。日蓮聖人の認めた曼陀羅に優劣など無い。曼陀羅は妙法蓮華経の五文字を受持させるための道具立てであり、優劣の有ろうはずが無い。なぜなら、どの曼陀羅にも等しく妙法蓮華経の五字が認められているでは有りませんか。何の差別があるというのでしょう。
日精師が人寄せに使った戒壇板本尊が、果たして日精師自身が作ったのか、もう少し前の人が作ったのか、これは定かではありませんが、日禅授与本尊を基にして作った事は河辺メモに述べられ、犀角独歩さんが証明された事です。しかも、性質の悪い事に、この日禅授与本尊は真筆とはされていないことです。御本尊集には入れられずに、外された代物です。おそらくは、贋作と思われます。

勿論、贋作でも、妙法蓮華経の五字が認められていますから、信仰の対象足りうると思います。但し、「この本尊だけが日蓮聖人の出世の本懐で、他の真筆本尊には功徳は無く、却って罰が出る」等と大嘘をツキタクッテ、我田引水を図った大石寺及びその一派は、日蓮聖人の教えを踏みにじった、獅子身中の虫、大悪党であると僕は考えています。

2003偶ロム偶ログ:2008/02/20(水) 19:42:51
外陣さま、はじめまして、偶ロム偶ログと申します。

>>1985
>> 血脈相承、御相伝を固く信じている者にとっては本物であるでしょう。

信じているから「本物であると思っている」ということですね。
ところで、この場合の「信じている」は、信ずるに足るだけの理由があっての
ことなのでしょうか、私は、日蓮正宗系はこれまでほとんどと言ってよいほど
「信ずるに足るだけの理由」を説明開示してこなかったのではないかと思って
います。
ただ「信じなければ謗法であり墮地獄は必定」などという脅迫的「指導化導」
だけで信徒を呪縛してきただけではないでしょうか。

>> それを否定する立場の者にとっては坊主憎けりゃ袈裟まで憎しでしょう。

そうですね、私も中学生の頃に身延日蓮宗を信仰する叔父とこの問題で大喧嘩
した記憶があります。

>> 民族紛争、宗教戦争etc.世界中みな同じ混沌の時刻を生きてます。
>> そんな危険な時代にわたしたち荒凡夫がどう振る舞えばいいか、を教え
>> てくれたのが釈迦佛であり天台智者であり日蓮大聖人であると小生は信
>> じているわけです。

信仰とは確かに「振る舞い」「姿勢」「生き方」などの指針となるものですね。

>> あくまで例えばの話。
>> 長い歴史のなかで事故があって燃えてなくなってしまったのかもしれない。
>> あるいは危険があるので身代わりの本尊を表に出して、大切な宝はどこか
>> 誰にもわからない処に格護してあるのやもしれない。

おっしゃるとおりであると思います。
そして、お板についても、おそらく似たようなことが何度もあったと私は思っ
ております。

>> それやらこれやらのことを決めて采配するのが時の管長の権限でしょう。

概ね同感ですが、管長が「決める」際にその基準を蓮祖の御書に求めることが
大前提ですね。
蓮祖以外の発言や記述に依拠したり、それすらなく、「法主の権能」なんても
ので「決める」のでは全く意味をなしませんね。
仮に無くなったものを再造したのであれば、「無くなったので貫首の立場とし
て再造した」と公に述べればよいだけのはなしです。

>> 偽物とか本物とか詮索する権限権威が小生ら未明のものにありましょうか。

あると思います。
もしも、無いとするならば、他宗教に対する「折伏」「破折」も、「権限権威」
のある者にしかできないことになり「越権行為」といえます。

>> 総本山が「これがご本尊様だぞ」「ご本尊様は大聖人様だぞ」と云っている
>> のであるから、もうそれでいいのじゃないですか。

叡山が「顯密兼修だぞ」「ご本尊様はお釈迦様だけではないぞ」と言っている
のだから、蓮祖も法華経を広めようとしなくてもよかった、という論理も成り
立ってしまいます。

>> 本物にするか偽物にするかは、小生らのそれこそ「ご信心によるべし」では
>> ないでしょうか。

気持ち的にはわかりますが、客観的事実が明らかでないかぎり、その「信心」
も、とりようによっては「独りよがり」の誹りを免れないかもしれません。
また、薬か毒かわからないものを他人に飲ませようという行為は一考の必要
があるかとも思います。

>> そもそもメタ言語の世界がこの信心でしょうから。
>> こんな考えはだめでしょうか?

けっして「ダメ」だとは思いません。
私は、お板が後世の作であっても信仰は成立すると考えます。
ただし、そのためにはお板について宗門が説明することが不可欠の条件ではな
いでしょうか。

2004一字三礼:2008/02/20(水) 20:41:09

外陣さん、はじめまして。

〉でも三宝の僧侶と信じて不敬のないようには気をつけている自分です。

ご存知ですか、三宝の「僧」とは、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆を指すのですよ。けっして、‘在家と変わらぬ生活をして、坊主頭で袈裟を着ている人達’のみを言うのではありません。
この掲示板に投稿されている、仏教徒の方々も間違いなく‘僧宝’ですから、ことさら「法華経」も読まず、その内容も知らない坊さんを祭り上げる必要はありません。

〉良き僧侶も信者が育てていくという面もありはしませんか。

これは違います。
よく飼い慣らされた、無知な在家信者が、出家でもなく仏法も知らない坊主を、肥え太らせ、増長させているのですよ。

在家信者が、「法華経」と御書をしっかりと読んで理解し、少しでも自分の頭で考えることができるようになれば、日蓮門下も少しはまともになるのではないか、と思います。

2005犀角独歩:2008/02/20(水) 21:10:22

2004のご賢察にわたしは賛同します。

2006臨時:2008/02/20(水) 22:55:46
一字三礼さん

<大石寺・身延を問わず、坊さんと法華経や法門について話をしたことがある
方ならご存知でしょうが、坊さんは本当に何もしりませんよ>


そうでしょうか? 私は時々立正大学の教授でもあり、日蓮宗の寺院住職でも
ある伊藤瑞叡師とお会いして様々なお話をお聞きしておりますが、法華経に対
する知識もさることながら、日蓮仏法に対する大変現代的な課題をお持ちの方
と思っております。

日蓮正宗にも優れた御僧侶がおられるのではないでしょうか、一字三礼さんは
全ての御僧侶とお会いしてお話なさったのでしょうか。

2007一字三礼:2008/02/20(水) 23:17:16

臨時さん。

はじめまして、でよろしかったでしょうか。

〉法華経に対する知識もさることながら、日蓮仏法に対する大変現代的な課題をお持ちの方と思っております。

その方は、法華経に対するどういった知識をお持ちなのですか。

「日蓮仏法に対する大変現代的な課題」を具体的に示してください。

〉日蓮正宗にも優れた御僧侶がおられるのではないでしょうか

日蓮正宗の優れた御僧侶とはどなたを指すのですか。

〉全ての御僧侶とお会いしてお話なさったのでしょうか。

あなたは、日蓮門下全ての僧俗と面談することが可能であるとお考えなのですか。

2008偶ロム偶ログ:2008/02/20(水) 23:43:11
臨時さん
横レス失礼いたします。

伊藤瑞叡教授は確かに日蓮宗の僧籍・自坊を持っておられる日蓮宗の僧侶です。
また、法華経についても日蓮仏法についても真面目に取り組んでおられると思
います。
一字三礼さんがおっしゃったのは、そのような学僧ではなく、一般の僧侶を指
してのことだと理解していますが、おそらく舌足らずになってしまわれたので
しょう。
ただ、伊藤教授については、日蓮宗内でも立正学内でも厳しい評価もあります。

ただ、立正の教員でも専門以外の知識が無い方は多いですよ。
論文執筆のために昭和定本引用しても、化導の言葉が薄っぺらという方もいま
す。
しかしそれでも日蓮宗の僧侶は一般的に教学と宗学の区別くらいはしています。

>>日蓮正宗にも優れた御僧侶がおられるのではないでしょうか

なにをもって優れたとするか、ですね。
御用教学、護教教学、印籠教学などで正宗内部においては評価の高い人もいる
かもしれませんが、仏教学・宗教学・歴史学・などで正宗以外で通用している
正宗僧侶は若干名でしかありません。
二十年前であれば、正宗の所化僧も大学で学ぶことが可能でしたが、阿部氏の
代になってからはそれすらも不可能になってしまいました。
つまり教団外の知識に触れさせない、ということです。
じつは、これは所謂カルトの特徴のひとつでもあります。
僧侶に知識を与えると教団として不都合である、それが外部遮断の最大の理由
なのだと言えるでしょう。

2009外陣:2008/02/20(水) 23:59:39
諸先輩の怒りがどれほどのものか、あらためて感じまして身震いがします。
小生はけっして論を張ろうと書き込みし始めたわけではありませんし、犀角独
歩さんはじめ多くの大先輩がたの骨身を削ってのご研究に対して心底、無学な
頭を垂れております。揶揄する気持ちなどございません。
ただ自分が唱題しながら長いこと学んできた大石寺の日興門流と呼ばれる仏法
からはあまりに異なる話がいくつもいくつも出ていること、あるいは時として
反対意見者に対してなかなか厳しいと申しますか、喧嘩腰といいますか、そん
な雰囲気が残念でもったいないと個人的には思ったものですから、生意気承知
でご寛容願い、推敲もないつたない文面にて御掲示板におそるおそる書き始め
ている次第です。文脈等に誤謬がございましたらお笑い下さい。一所懸命書い
てみますので。

2010臨時:2008/02/21(木) 00:13:30
一字三礼さん

偶ロム偶ログさんは

<一字三礼さんがおっしゃったのは、そのような学僧ではなく、一般の僧侶を
指してのことだと理解していますが、おそらく舌足らずになってしまわれたの
でしょう>

と申されておりますが、そのように私も受け止めてよろしいのでしょうか。
伊藤瑞叡師の法華経理解は私の及ぶところではありませんので、師の著作をご
覧下さい。『法華菩薩道の基礎的研究』『法華経成立論史』等々があります。

日蓮正宗の御僧侶の中でも花野充道師や昔お会いした藁科菅道(字が異なって
いるかもしれません)師は私から見ると優れたお方とお見受けしております。

また、伊藤瑞叡師の日蓮仏法に対する現代的な課題に関しては、私とは異なる
知見でもあり。ここで申し上げることは控えさせていただきます。

偶ロム偶ログさんに対するお答えは明日は仕事なので、金曜日の夜にさせてい
ただく所存です。

2011偶ロム偶ログ:2008/02/21(木) 00:21:31
外陣さん

まあ、掲示板のルールを無視して書き込む人たちに対して、こちらの常連の方た
ちは厳しく対応されます。
礼には礼を、而して無礼にも数度の礼を尽くして、それでも無礼な書き込みには
きついレスが集中することになります。
それは、こちらの掲示板が、長年の間、多くの人たちの真摯な考察で論議を進め
てきたからでしょう。

>>おそるおそる

私などは、ちょっと覗いてちょっと書き込む、体のほとんどはすぐにでも緊急
避難できるようにドアの外でいつでも走る体勢でいます(苦笑)。

これからもよろしくお願い申し上げます。

2012外陣:2008/02/21(木) 00:57:45
諸先輩の怒りがどれほどのものか、あらためて感じまして身震いがします。
小生はけっして論を張ろうと書き込みし始めたわけではありませんし、犀角独
歩さんはじめ多くの大先輩がたの骨身を削ってのご研究に対して心底、無学な
頭を垂れております。ほんとです。揶揄する気持ちなどございません。
ただ自分が唱題しながら長いこと学んできた大石寺の日興門流と呼ばれる仏法
からはあまりに異なる話がいくつもいくつも出ていること、あるいは時として
反対意見者に対してなかなか厳しいと申しますか、喧嘩腰といいますか、そん
な雰囲気が残念でもったいないと個人的には思ったものですから、生意気承知
でご寛容願い、推敲もないつたない文面にて御掲示板におそるおそる書き始め
ている次第です。誤謬がございましたらお笑い下さい。一所懸命書いてみます
ので。

ーーー

犀角独歩さん
>> 本尊を自己の都合による事情からウェブサイトに掲示
>て、これはわたしのことでしょうか?
>どんな都合でしょうか。「悪人」「謗法」「魑魅魍魎」と悪口雑言される都合でしょうか(大笑)

小生がいつ悪人・謗法・魑魅魍魎といいましたでしょうか。
またこの掲示板は貴方個人のものでもありますまい。まるで主人のようなお振る
舞いに感じること多々あります。
恐らく、他の貴方を口汚く攻撃している人たちの眷属と考えられてのことと察し
ますが、小生は一匹狼です。自分の五感で感じたこと以外は申しません。
こうした突然の喧嘩腰の応対が小生から見ておりますと、せっかくの御研究成果
が台無しだと申し上げます。人が馬鹿に見えたらおしまいではないでしょうか。
犀の角のように独り歩まれるならば、もっと虚無的(ニヒル)であって欲しいと
考えます。余計なことですが。お気が短すぎます。
大聖人は相手の話をよく聞いてあげたと思います。
大きなお仕事をなされるのですから、もっと規範を示されては如何か。

御ウエブサイトのコンテンツ内容に関しては、先に書いたとおりの感想です。
ご研究の正邪はさておき、心から大石寺本尊を信じて拝み、日々行じている者も
全国に少なくないでしょう。貴方からみれば無知で化かされている哀れな者に見
えるでしょうが、そのような人間を蔑むような印象を受けるのです。
独歩さんも正宗の法門から仏道に縁をさせていただいたのでしょうから、いくら
なんでも礼儀はわきまえてほしいと思います。裏切り・チックリばやりの恥知ら
ずばかりの世になってまいりました。御受戒を受けた我々ぐらいはもう少し世の
中に手本を示す義務がありませんでしょうか。
育ての親を、長じてから生みの親ではないと知り、言いたい放題の末ぶんなぐり
ますか?
ご本尊を、命が欲しくば踏め、といわれて踏みますか?
貴方のやっていることは理屈がつけば躊躇無く曼荼羅を踏む行為ではないでしょ
うか。
真に日蓮大聖人を尊び、宗門を憂い、正しい組織にしていこうとされているなら
ば、「日蓮」と対等に呼び捨てしたり、本尊をフォトショなどでレイヤー化した
りできるはずはないと考えるのです。
研究者同士ならいざしらず歌舞伎町のどまんなかに本尊を晒しているようで、
顔から火がでます。
ご研究における集中力、その洞察力、精密さなどには敬服して止みません。

酒のせいか言いたい放題になりました。ルールに抵触しましたか?乱文失礼。

2013外陣:2008/02/21(木) 01:14:47
すみません。アップがダブりました。板を汚してしまいすみません。

2014外陣:2008/02/21(木) 01:15:35
問答迷人さん
人寄せパンダ…ひどい仰りようで。
小生も先日のお肉牙関連の行事にはどうにも合点がいかずに夢でウンウンうなさ
れました。
おっしゃるとおり宗門にお世話になっていてもいろいろ合点がいかないこと多く、
悩み苦しんでおります。
一度なんとかして同士討ちの原因になった関係者一同呼び出して、それこそさい
たまアリーナあたりで大法論会を催してですね、白黒はっきりさせたいものです。
いや、冗談抜きで。
波旬数匹のおかげで死人がでてるんですからねいっぱい。いいひとばっかり。

2015外陣:2008/02/21(木) 01:57:04
偶ロム偶ログさん

はじめまして外陣(ゲジン)と申します。宜しく御薫陶くださいませ。
信じる理由について
大石寺三師塔に居並ぶ歴代御正師を信じます。
事実としてあのお方がたが長い間、正宗を厳護されてきたそのご苦労を考えると
き、そう簡単には批判する気になれないのです。ですから一所懸命勉強したいと。

>管長が「決める」際にその基準を蓮祖の御書に求めることが大前提ですね。
まったくもって同感です。応用すら危険ではないかとまで考えます。
それから正直でいてほしいと思います。

それから重要かつ困難な内容を含んだ折伏は、できれば御僧侶にやってほしいと
思います。初心者はお寺やお山にお連れするのが精一杯ではないかと。
上代はそのようではなかったのでしょうか。戸田さんや花野充道師の影響ではあ
りませんが。

>私は、お板が後世の作であっても信仰は成立すると考えます。
>ただし、そのためにはお板について宗門が説明することが不可欠の条件ではな
>いでしょうか。
まったくもって同感であります。そのためになにかしなければと焦燥感を憶えて
おります。

2016外陣:2008/02/21(木) 02:14:50
一字三礼さん

はじめまして外陣と申します。宜しく御薫陶ください。
>三宝の「僧」とは、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆を指すのですよ。
はい。了解しております。
自分なりに考えますに、日興聖人の言いつけに「若輩なれども云々」のくだりが
あるかと思いますが、三衣の徳をもって一般衆生よりかは上位に位置するお方で
はないかと思っていまして、小生ちと坊さんフリーク気味かもしれません。
白状しますとたしかに妻帯よし、肉食よしとお許しがあったとしても、正宗の昨
今の風景をみますと天台僧のほうがよほど純粋かと憤慨することもあります。
それは正信会あたりも同じであります。
でも我慢します。信じていきたい想いが強くて…。

2017外陣:2008/02/21(木) 03:43:43
お二人の先輩が大聖人の御筆による真筆本尊が多数存在しており、本物といえば
それだとのお話でした。

ご本尊にも一期一縁の役目のある性質のものもあれば、裏書きしてあるもの無い
もの、様々な目的で図現された各種の性質をもった本尊があると思いますが、一
切衆生を助ける役目の大役を担った本尊、つまり「一閻浮提第一」の大御本尊も
あると思うのです。それの本物偽物のことを指してお尋ねしています。
それだけの役目を帯びた大御本尊ですからそれなりの扱いと取り扱い注意につい
ては秘と密が存在するのではないかとも思います。
御相伝とか血脈とか、門外漢には決して教えることのない秘密、どんなことにな
っても守り抜くという密技の存在も想像できませんか?
ボロン字だの光明点だのと我々は興味津々で詮議したりしてますが、代々の猊下
しか知らない秘法秘術があるんですよきっと。
ちょっと言い方が漫画チックで恐縮ですが。
なんかこんなことを書き散らかすと、四方からお叱りの声が聞こえてきそうです
ね…。
疑わしきは罰せず、とは申しませんが、あまり短慮に偽物と断定しますと、その、
もし惑していた場合の仏罰を考えると。そう考える次第です。

2018犀角独歩:2008/02/21(木) 06:18:09

外陣さん

まず、一つ。質問をしておきますが、1989に「自己の都合による事情からウェブサイトに掲示」とは、誰の、どのような都合を指しているのでしょうか。具体的に記してください。

所謂「本門戒壇の大御本尊」と写真をウエブサイトにアップしているのは、ほかに誰がいますか。ここで、該当するのはわたし一人です。これが誤解であるというのであれば、そのような曖昧な表現で、だれがしかを批判するような書き付けこそ、「喧嘩腰」ではないでしょうか。あなたは、わたしの背はよく見えるようですが、自分の文章のとげが嫌味を帯びていることには気づけませんか。

> 真に日蓮大聖人を尊び、宗門を憂い、正しい組織にしていこうとされているならば、「日蓮」と対等に呼び捨てしたり、本尊をフォトショなどでレイヤー化したりできるはずはないと考えるのです。

この点について、まず、わたしは「日蓮正宗」の宗門を正しい組織にしていこうなどという意図はまったくありません。集団犯罪組織という認識です。解体して当然という認識です。

わたしが何故、尊称を省くか。実はその意図に既にあなたは乗っています。
2004年来ウエブサイトでこの点は説明しています。

「まず情報操作という点について申し上げたい。
 以下の記述では信仰者間で鉄則として遵守される尊称・用語を敢えて一切斥けた。たとえば「大聖人」と呼ぶことが信仰の証と知ることを百も承知で「日蓮」とその尊称を省いた。たぶん、これだけで当文書に腹を立てる信者は多く存するだろう。また、「漫荼羅」とは日蓮自身が認(したた)めるところである。それにも拘わらず、信徒会員は「御本尊様」と呼ばないと何か違和感を懐く。

 しかし、考証論考を記す場合、その尊称を略し、一般的用語を使うことは常套なのであって、不敬を目的にしたことにはならない。それ故、ここでは一般常識に準じた。
 もし、この記述法に不快感、憤慨を湧き出る人があれば、その内心をよくよく観察してみていただきたい。そして、呼称一つで「信心がある。信心がない」と峻別してしまうことが如何なることであるのかを考えてみていただきたい。尊称一つで感情が動くこと、そこに情報操作、心理操作がはたらいている自己分析を踏まえ、以下、読み進んでいただきたいと思う。

 また、一般読者、あるいは他の信仰に属する方々には、「本門戒壇之大御本尊」信奉者の心理構造とは斯くなるものであることを認識していただければ、理解を、さらに助けることになると付言させていただくものである。」
(所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

外陣さんは「日蓮大聖人」と記していますが、日興は「日蓮聖人」と記しています。もし、日興を信じるのであれば、後者を採るのが一般でしょう。また、現在は法華講とのことですが、となれば、真偽・珠玉の混じった大石寺版の御書によるわけですか。このなかに「日蓮御房」(佐渡御書)とありますね。つまり、在世当時は大聖人、聖人といった呼称はなかったことを意味しています。
それにもかかわらず、「日蓮大聖人と呼ばなければいけない」とあなたが思う理由は何か、です。あなたの頭の中で「日蓮大聖人」と呼ばず、日蓮と呼び捨てにすることが悪いというフィルターはどうして構成されたのか、むしろ、わたしは、そこを考えてもらいたいという意図があります。

2019犀角独歩:2008/02/21(木) 06:19:25

―2018からつづく―

> 本尊をフォトショップでレイヤ処理

実際は違うソフトを使用しています。また、わたしは本尊を処理などしていません。本尊の写真を処理しています。ここは重要です。わたしの信仰観において、手書きの本紙は本尊たり得ても、写真にとって複製されたものは、単に写真であり、複写です。わたしはたぶん、あなたより、はるかにこの真筆御筆大漫荼羅に対しては信仰が深いと思いますよ。しかし、本尊写真に信心があったら、事実究明はできないのです。本尊の真実を糾明するためには複写に過ぎない写真を大いに加工してその事実を探るということです。

わたしが50年間、時には創価学会におり、時には「日蓮正宗」大石寺内事部『大日蓮』編集室、同教学部から仕事を依頼されもしてきたこの集団の実態を究明するためには、この集団とその構成員(石山僧侶)への畏敬は不用です。むしろ、事実を正面から見る目を曇らせます。わたしから、あなたの心理状態は、そうした考証以前の段階で右往左往しているように映じます。

わたしは日蓮を尊敬します。しかし、それは集団や、その集団の教義から「日蓮大聖人」と呼ばなければ信仰がないと心理操作された形とは異なっていると言うことです。この相違が理解できず、受け入れられない外陣さんは、既に「日蓮正宗」の心理操作の罠にかかっているとわたしには映じます。

近代における日蓮伝記の最高峰は、二もなく三もなく、故高木豊師の『日蓮』(太田出版)でしょう。このなかで高木師は一貫して「日蓮」と尊称をつけず、記しています。しかし、実像から見た日蓮に対する深い信頼と思いが紙背行間から伝わります。この高木師の気迫を、「日蓮大聖人と呼ばなければ信心がない」と思うように操作された人々には、けして理解することはできないでしょう。

石山僧俗が言う「日蓮大聖人」と、日蓮門下僧俗が言う「日蓮聖人」と、高木師が言う「日蓮」はまるで別の人物です。そして、わたしが追及して止まない実像としての「日蓮」もまた、外陣さんが考える「御本仏」とは似ても似つかない“人物”です。ですから、わたしが敬愛して「日蓮」と呼ぶことで本仏論者から不信心と言われるのであれば、それはそれ、甘受する意識で臨んでいます。


> 人間を蔑むような印象を受ける

これは、わたしはあなたの文章を読んで、わたしを蔑んでいるという印象を受けました。そう自分が映じているという自意識はないでしょう。
しかし、わたしはあなたが感じた印象はわかりますよ。かつて、わたしがいまのわたしのような人物がいたら、そう思っただろうことは、過去の自分に当てはめて想像がつくからです。

> …正宗の法門から仏道に縁をさせていただいたのでしょうから、いくらなんでも礼儀はわきまえてほしい

この表現は、あなたの立場を反映しています。
あなたはわたしを「正宗」の下に置いて考えているでしょう。
礼儀をわきまえるのはお互い様と言うことです。対等な立場ですから。

2020犀角独歩:2008/02/21(木) 06:20:08

―2019からつづく―

> …御受戒を受けた我々ぐらいはもう少し世の中に手本を示す義務がありませんでしょうか。

では、わたしのしていることがそうではないと、何故、決めつけますか。
その決め付けはあなたが信じている信仰観からの視点であり、わたしの信仰観を認めないところから発言になっている仕組みに何故気がつけませんか。

> 貴方のやっていることは理屈がつけば躊躇無く曼荼羅を踏む行為ではないでしょうか。

もちろん、わたしにはそんなつもりはありません。
総括して、ここでは述べて置きますが、この文章は先の「本尊をフォトショップでレイヤ処理」するという言葉に掛かるのでしょう。

では、反対にお聞きしますが、本尊から文字を取るとき、薄紙をあてて書き写します。この行為はまさにレイヤでしょう。こうした作る板本尊の製造過程は本尊を踏みつけることになりますか。まして、信者に対して、最高の本尊であるというものが、他の本尊から取った題目の文字、また違う本尊から取った四大天玉、また加筆した不動愛染、讃文、造立縁起文でパッチワークして作り上げたものであるという行為は、日蓮が本尊を記した意図を土足で踏みつける行為であるとは、あなたは思わないのですか。

日蓮は生涯、ただの一度も本尊を複製していません。それにもかかわらず、写真にとって大量印刷して、それを頒布(大石寺では、本尊下付は3000円以上の「御供養」が必要)することは、日蓮が本尊を書した真意を踏みつける行為ではないですか。富士の伝承に以下の文章があります。

「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由諸方に其の聞こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり。日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり」

あなたが拝む本尊はこう批判される形木のものではないですか。

「曼荼羅なりと云ひて死人を覆ふて葬る輩も有り、或は又沽却する族も有り」

あなたの所属する宗派では棺桶、骨壺に「本尊」を入れてきたのではないですか。また、大石寺には本尊を焼く専用の焼却炉がありますね。これはどうでしょうか。

「沽却」された本尊、すなわち日禅授与本尊を買い取ったことはこれに与同することではありませんか。

あなたは他人の背は見えても、自分が背は見えていない。

では、どうして見えないのか、その真実の相を映す鏡、たとえば、わたしの文章をあなた固有の信仰から蔑んで否定しているからでしょう。ですから、あなたが真実を見るためには操作する都合によってあなたを振り回す嘘の信仰を取り去る必要があるということです。あなたがいう「正宗の法門」とはまさにそうした類のものであるということです。

わたしは人を蔑んでいませんよ、馬鹿にもしていませんよ、また、気が短いと映じたとする冒頭の文章は、大笑いしながら書いた文章です。鷹揚にかまえているからこそ、問答さんとあなたのやりとりをここ1日2日、口を挟まず、見ていました。誤解です。あなたの信仰が、そう見させているのです。

あなたはまだ気づけないのでしょうが、あなたの信仰は、まったく「世の中に手本」にはならない。むしろ、害毒を流しているものであることを、もうお気づきになってもよいのではないでしょうか。

しかし、こうわたしが記しても「見本」になるというのであれば、どの辺が見本になるのか、これまた具体的に記してください。

以上、出がけの走り書きです。打ち間違い等がありましたら、御判読ください。

2021問答迷人:2008/02/21(木) 08:10:22

外陣さん

>一切衆生を助ける役目の大役を担った本尊、つまり「一閻浮提第一」の大御本尊も
あると思うのです。それの本物偽物のことを指してお尋ねしています。

はて、寡聞にて、そのような曼陀羅の存在は存じ上げません。どこかにそのような曼陀羅を聖人が認められた、という証拠でも有るのでしょうか。少なくとも、聖人の真跡・時代写本には無く、後代の富士門各派に散見されるばかりだと思いますが・・・

2023問答迷人:2008/02/21(木) 08:39:14

外陣さん

>御相伝とか血脈とか、門外漢には決して教えることのない秘密、どんなことになっても守り抜くという密技の存在も想像できませんか?ボロン字だの光明点だのと我々は興味津々で詮議したりしてますが、代々の猊下しか知らない秘法秘術があるんですよきっと。

開目抄下に聖人は次のように仰せです。

「竜樹菩薩の十住毘婆沙(びばしゃ)論に云はく「修多羅(しゅたら)に依らざるは黒論なり、修多羅に依るは白論なり」等云云。天台大師云はく「修多羅と合ふ者は録して之を用(もち)ひ、文無く義無きは信受すべからず」等云云。伝教大師云はく「仏説に依憑(えひょう)して口伝を信ずること莫(なか)れ」等云云。円珍(えんちん)智証大師云はく「文に依って伝ふべし」等云云。上にあぐるところの諸師の釈、皆一分一分、経論に依って勝劣を弁(わきま)ふやうなれども、皆、自宗を堅く信受し、先師の謬義(みょうぎ)をたゞさゞるゆへに曲会私情(きょくえしじょう)の勝劣なり。荘厳己義(しょうごんこぎ)の法門なり。」

口伝によって法門を伝える、という当時の伝統仏教のあり方を、この通り開目抄において日蓮聖人は痛烈に批判されています。この同じ日蓮聖人が門下に対して秘密口伝を行ったとしたら、それこそ二枚舌ですね。そんな謗りを、貴方は日蓮聖人に負わせるおつもりですか。有り得ない事だと思います、後代に、日蓮聖人の心を踏みにじって口伝法門をでっち上げた輩がいただけだと思います。

2024ワラシナ:2008/02/21(木) 11:42:53
雑誌「福田」・衝撃の一行

前回この話題を書いた時肝心な事を省いた。それが標題。

「福田」発刊の意図は表向き形木本尊不正疑惑の提出だったが、これに派生した正本堂安置の板御本尊様偽作論への反撃にもあった。「肝心な事」とは、反福田勢力側から飛び出した「宗門は(板御本尊の真偽について)自信がないんだ」との発言を指す。
「福田」後半の記事はこの発言打消しに躍起になった反論であった。
 ところでその衝撃の発言にはいつ、どこで、誰が、どういう理由でそう言ったのか、根拠が全く欠けていた。それを埋め合わせる為に反福田勢力側が繰り出したものこそ河辺メモだった(と推測した)。

2025外陣:2008/02/21(木) 17:32:58
※応接の順序が逆になることお許しください。

問答迷人さん

これは独歩さんにも尋ねるつもりですが、貴方は三大秘法を否定するわけではな
いのでしょう?
日寛上人や日有上人、また日淳上人や日亨上人までも批判の対象になさっておら
れるのでしょうか?
挙げた御尊師がたは皆様、大石寺の戒壇大御本尊を拝せよと仰せになられていま
すよね。本尊に迷ってはならぬと口をそろえて仰せです。
時として癖のお強い管長がお出になることもありましょうが、また信者の代表に
も大変迷惑なお人も出現することもあるのがこの六道世界です。
であるからこそそのような人間まるだしの人の言動に迷わされないで正宗の原点
を守りたまえと口酸っぱく仰せなのではないですか。
そもそも信じられない管長、でたらめな管長と思われるならばその人たちのヒソ
ヒソ話の内容なんでしょう。河辺メモとかその他も。鑑定やらなんやらも。
それは信じてその内容だけに乗っかるってのはちと調子がよくないですか。
金だかなんだかの宗門内の動乱に乗じて、あることないことまで邪推して曲解し
て、しまいにとうとう御本尊まで権能もないのに勝手に作ってしまうに至っては
池田さん方と同じじゃありませんか。それ絶対変ですよ。何様かと。

2017につきましては
口伝というより唯授一人相承ということです。もちろん六老等しく大徳であり、
直弟子であることは間違いないでしょうが、相承にも総別があることはご存じの
通りであり、別付属として興尊お一人に宗祖がお授けになったものがある。
それはなにも大聖人ばかりではなくお調べになればいくつものそうした事例はあ
りますよね。例せば釈迦牟尼だって誰でも彼でもに最重要の法門を授けたわけで
はないのと一緒でしょう。他の弟子にとっては嫉妬がムラムラだったかもしれま
せんが。その方々が寄せては返す波の如くに定期的に法門流布の邪魔をしかけて
くる、というのが当家の歴史に明らかです。

で、その御相承、御相伝こそがそうは簡単に門外には露出させないのではと。
釈迦御在世の時からすでに学び損ないや一知半解の弟子群がいたであろうし、そ
れは宗開両祖の時にもいたので一種警戒なさっておいでであったと想像します。
ましてや大聖人が自らを末法の佛である、などと声高に云おうものならそれは大
変なことになりましょうから。当時鎌倉と石山では相当の温度差があるわけで、
智解深妙・死身弘法・行戒堅固・智徳絶倫の誉れ高き日興開山聖人のみに別付属
されたその内容を知るすべもないわけです、頭に来るものもそれは出るでしょう
な。しかたがない大聖人の御佛智ゆえですから。

つまり三秘に関しても特別なご配慮で御相伝なすったわけです。本尊抄にしても
開目抄にしても本来は「一読したらしまっておけ」「やたらに浅薄なものに話す
なよ」といった超スペシャルな御妙判ではなかったかと推察します。
まあこれは大石寺興門流であれば周知のことでしょう。
ちょっと昔は我々衆生には御書御妙判だって読むことは難しかったわけで、最近
でしょ、ズブの素人でもこうして法門法義の勉強が独習できるようになったのは。

小生が云わんとしているのは、その御相伝のなかには大御本尊の取り回し
(ちと不敬な言い回しか)について、他のあずかり知らぬものもあるのかなぁ、
そうだとすれば親の心子知らずで安直に偽だ本物だと騒ぎ立てるのはどうかと。

気障な演説になってしまったようですが、とにかくも正法誹謗は怖いと思うので
す。

※文体が見苦しく、喧嘩腰にお感じになったら堪忍してください。
※勝手ながら仕事の都合で、あとは夜に御免下さい。

2026問答迷人:2008/02/21(木) 18:20:32

外陣さん

>貴方は三大秘法を否定するわけではないのでしょう?

真跡遺文に「三つの秘法」と述べられています。日蓮聖人の教えと拝しています。

>日寛上人や日有上人、また日淳上人や日亨上人までも批判の対象になさっておられるのでしょうか?

少なくとも、寛師に対しては批判的に見ています。

>正宗の原点

これは何を指しておられるのでしょうか。戒壇本尊ですか。

>しまいにとうとう御本尊まで権能もないのに勝手に作ってしまうに至っては
池田さん方と同じじゃありませんか。それ絶対変ですよ。何様かと。

これは意味不明です。誰が何時勝手に本尊を作ったのですか。

>口伝というより唯授一人相承ということです。

日興師に唯授一人相承が有ったというなら、それは何か根拠が有るのでしょうか。承りたいと存じます。

>相承にも総別があることはご存じの通りであり、

存知上げません。証拠をお持ちならお示し下さい。

>で、その御相承、御相伝こそがそうは簡単に門外には露出させないのではと。

別付属等と言われるのであれば、先ず証拠をお示し下さい。議論はそれからです。

>小生が云わんとしているのは、その御相伝のなかには大御本尊の取り回し
(ちと不敬な言い回しか)について、他のあずかり知らぬものもあるのかなぁ、
そうだとすれば親の心子知らずで安直に偽だ本物だと騒ぎ立てるのはどうかと。

日達師は、「相伝と言っても、みんな日亨師が表に出してしまわれた。相伝箱の中身は、既に皆が知っている書物なんだよ」(取意)と当時の法華講の三浦教学部長に語られたと聞いています。そんな神秘主義は通用しないと思っています。

外陣さんは、大石寺のアナウンスをそのまま信じておられるようですが、いずれも根拠薄弱だと思います。言わば大石寺の勝手な作り話。日興上人の末流というのもおこがましい姿が今の大石寺の教学だと僕は考えています。動かぬ証拠を以って、論陣を張ってください。期待しております。

2027犀角独歩:2008/02/21(木) 19:18:42

> 管長、でたらめな管長と思われるならばその人たちのヒソヒソ話の内容なんでしょう。河辺メモとかその他も。鑑定やらなんやらも。それは信じてその内容だけに乗っかるってのはちと調子がよくないですか。

だれがその内容を信じたのですか?
信じないからこそ、創価学会は阿部さんを攻撃したのでしょう。わたしは、阿部さんが、この内容を言っていないと言い張ったからこそ、それを信ぜず、その検証をしたわけです。話に乗ったのではなく、逆です。図形の字画判定とは、少し違いますが、同じく文字の鑑別を行った。つまり追検証です。その結果、河辺メモに書かれていることは、ほぼ合っていることを図形として証明したわけです。違うというのであれば、図形をもってその相違を外陣さんは、挙げるだけで十分です。

石山に本尊相伝など、そもそもなかったことは、こちらの掲示板で、れんさん、独学徒さんをはじめとする皆さんの分析で既にはっきりしています。
かいつまんで記せば、もし、そうした相伝があれば、日興已来早瀬さんに至るまで、同じように本尊を書いてしかりです。ところがそうはなっていない。上古のものとされる本尊相伝とも違った書き方になっている。経年変化があるということです。つまり相伝は時代時代で書き換えられ、継ぎ足され、変わっていった。ということは、その相伝自体、日蓮日興にまるで遡源できないということです。
外陣さんの言葉を借りれば、歴代同士のひそひそ話=口伝・相伝は、変化していると言うことです。

御本尊七箇相承「日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」(石山本尊のどこにも「嫡々代々」とはどこにも書かれていません)

もう一つ。三師塔という話がありましたが、いったい、どこまで時代を遡れるのでしょうか。後代に成立したものではないでしょうか。そもそも石山は三師の唯受一人血脈相承を言いながら、日蓮の遺骨は偽物、日興の正墓は隣の北山にあり、日目の正墓すらありません。この三師の墓も遺骨もなく、それを補填するために考案されたのが、三師塔でしょう。こんなものが一体、何の証拠になるというのでしょうか。

五人所破抄「一、 身延の群徒猥りに疑難して云はく、富山の重科は専ら当所の離散に有り。縦ひ地頭非例を致すとも先師の遺跡を忍ぶべきに、既に御墓に参詣せず、争でか向背の過罪を遁れんや云云。
 日興が云はく、此の段�H倒の至極なり、言語に及ばずと雖も未聞の輩に仰せて毒鼓の縁を結ばん。夫身延興隆の元由は聖人御座の尊貴に依り、地頭発心の根源は日興教化の力用に非ずや。然るを今下種結縁の最初を忘れて劣謂勝見先の僻案を起こし、師弟有無の新義を構へて理非顕然の諍論を致す。誠に是葉を取って其の根を乾かし、流れを酌んで未だ源を知らざる故か。何に況んや慈覚智証は即ち伝教入室の付弟、叡山住持の祖匠なり。若宮八幡は亦百王鎮護の大神、日域朝廷の本主なり。然りと雖も明神は仏前に於て謗国捨離の願を立て、先聖は慈覚を指して本師違背の仁と称す。若し御廟を守るを正と為さば円仁所破の段頗る高祖の謬誤なり。非例を致して過無くんば、其の国棄捨の誓ひ都て垂迹の不覚か。料り知んぬ、悪鬼外道の災ひを作し宗廟社稷の処を辞す、善神聖人の居は即ち正直正法の頂なり。抑身延一沢の余流未だ法水の清濁を分かたず、強ひて御廟の参否を論ずるは汝等将に砕身の舎利を信ぜんとす。何ぞ法華の持者と号せんや、迷暗尤も甚し。之に准じて知るべし。」(この時点で、砕骨=灰骨は身延に、そして否定していました)

2028犀角独歩:2008/02/21(木) 19:31:08

ワラシナさん

『福田』、懐かしい名前ですね。
わたしのメディアデビュー(といえるかどうか?)は、南条白山に送った手紙を無断で週刊誌に載せられたのは最初でした。

学会の特別御形木本尊水増し制作と、その頒布で得た利益の話。この学会会館から「下付」された本尊をばらしてみたら、中は新聞紙を使ったお粗末な作りを写真入りで週刊誌に摘発したのもこの頃でした。ところが、この話をうやむやにして「ない」と断定したのは、阿部さんでしたね。その前後でしたか、池田さんが法華講総講頭に返り咲いたのは。

この一連の騒動が『河辺メモ』と1本の意図で繋がっていたというご指摘をたいへんに興味深く拝読しました。

2029れん:2008/02/21(木) 19:36:48
横レス失礼します。
外陣さん、はじめまして。外陣さんの投稿を拝読させて頂きましたが、敢えて感想を言いますと、「信者さんの希望的観測」というものでした。
別付属の法躰・本門戒壇本尊なる造語が石山文献に顕れるのは日蓮正宗歴代法主全書などをひもときますと十四世日主の「雑録」が初めてですね。それ以前の歴代にはこの“別付属の法躰”“本門戒壇本尊”なる造語を述べた石山歴代住持は一人もいません。
中世の日興門流の文献を読みますと、いわゆる富士山本門寺本堂に安置する漫荼羅とされていたのは、重須に所蔵されていた本門寺大堂本尊という漫荼羅でした。しかし、これは天正年間に北山と西山の紛争の中で二箇相承等の北山文献とともに紛失しました。で、この北山の本門寺大堂本尊が紛失した直後に、日主が「雑録」を書いて本門戒壇本尊ということを言いだしたわけです。ということは、石山の初代お板を作ったのは、私の感触では大石寺十四世住持の日主が限りなくクロであろうと言うことになります。
異説には石山の初代お板を作ったのは九世日有という説もありますが、この説の根拠とされる「重須日浄記」が不明であることと、小泉久遠寺と大石寺の問答を記した“大石寺久遠寺問答事”に文明十四年九月七日の大石寺本尊堂における小泉久遠寺衆(この時、重須日浄も同席)と石山衆との問答を記していますが、この時代にあれば石山本尊堂に安置されていた筈の石山のお板のことには一切触れていないので、この時代ではまだ石山のお板は成立してなかったと見てよいでしょうね。

2030一字三礼:2008/02/21(木) 21:53:56

臨時さん。

あなたは、挨拶もなし、横レスの断りもなしで話に割り込んでくる人なのですね。

〉伊藤瑞叡師の日蓮仏法に対する現代的な課題に関しては、私とは異なる知見でもあり。ここで申し上げることは控えさせていただきます。

ご自分で伊東さんに言及しておいて、これでは内容がさっぱりわかりません。何が言いたいのですか。

私の質問に答えてください。

①その方は、法華経に対するどういった知識をお持ちなのですか。
②「日蓮仏法に対する大変現代的な課題」を具体的に示してください。
③あなたは、日蓮門下全ての僧俗と面談することが可能であるとお考えなのですか。

〉日蓮正宗の御僧侶の中でも花野充道師や昔お会いした藁科菅道(字が異なっているかもしれません)師は私から見ると優れたお方とお見受けしております。

具体的にどう優れているのかを教えてください。

私の経験を記します。
以前、日蓮宗の坊さん達と立正大の教授との日蓮宗のスローガンである「立正安国・お題目結縁運動」について話をしたことがありました。
この運動は、宗門を挙げてお題目の精神である‘但行礼拝’を社会運動の基幹として展開するものであるとのことでした。

私は‘但行礼拝’は、法華経の中で重要な概念ではないし、日蓮聖人も重視していない、と論拠を挙げて意見を言いました。

その意見の内容を以下に記します。

‘但行礼拝‘は、不軽品に出てくる有名な言葉ですが、この句は、「妙法蓮華経」にのみ、「正法華経」や「梵本法華経」では同様の意味を持つ言葉は出てきません。鳩摩羅什が付け加えた可能性がある言葉のひとつです。
完本の中央アジア系法華経テキストが見つかれば、あるいは‘但行礼拝’の句が見つかるかもしれません。それでもこの一句が、法華経の中では必ずしも必須ではない、ということを覆すほどのことはないでしょう。

‘但行礼拝’とは、自性清浄である‘仏性’を礼拝する、いわゆる「仏性論」の考え方です。しかし、法華経は、‘仏種’を植えることによって‘種・熟・脱’という経過をたどり成道する「仏種論」で成り立つ経典です。
‘但行礼拝’が独り歩きをし、「仏性論」が全面に出てきますと、法華経全体のテーマに反することになります。

また、日蓮自身、真筆御書で一度も‘但行礼拝’に言及しておりません。題目を‘二十四字’と同義とすることはあっても、‘但行礼拝’と同義とすることは一度もありませんでした。
常不軽菩薩の行を日蓮宗では‘但行礼拝’は「仏性論」と捉えていて、日蓮は‘二十四字’の菩薩の行う逆縁の授記、「仏種論」と考えていた。

この大きな違いがスローガンを考えた日蓮宗の坊さん達に理解できなかったようです。

上記の説明をした後で、「法華経にも、日蓮聖人の法門とも違うから、このスローガンを取り下げたらどうか」と提案しましたが、答えを濁されてしまいました。

このような遣り取りを、何度も経験しているので、日蓮宗に人なしと私は考えるのです。

2031外陣:2008/02/22(金) 00:33:34
犀角独歩さん

自己の都合による事情…とはあくまで小生の立場から見た見解であります。
石山根檀家の古い信者さんのなかには”蓮祖の姿を描くだけで大罰があたる”
などと申して、土俗的非科学的ではあっても、なんとも純真な信仰姿勢で信行た
ゆまず生き抜いておられる爺婆もおいででしょう。そんな人々が万一にでも御サ
イトのビジュアルを目にでもしようものなら悶絶ものです。
そんな見地から見ますれば、巷にこの人ありと云われる碩学であっても、一個人
が石山僧俗皆が大切にしている本尊を写真とは云え、ズタズタに弄くりまわした
無惨な御相貌を、公共の場所に晒して批判の糧とする、商業出版する。
これがサイト設計者の都合、事情でなくてなんでしょうや。
イスラム人のムハンマド似顔絵じゃないんですから。
も少し暴言をお許し願えれば、創価学会での責任あるお立場の経験、日蓮正宗で
も重要なお仕事をなさった経験、敬服いたします。貴重なご経験を敬います。
しかしながらそうしたポストにいた方であるからこそ、随分と酷いことをなさる
なと思ったのです。泥臭い手口だなと思ったのです。スマートじゃない。
川澄さんだってそこまでやらなかったし、その他の方々だって一宿一飯の恩義
ということを忘れることなく、私憤一歩手前で刀を納めているのでは。
弁哲さんらをも超えた過去に例を見ない愚行と感じてます。
取り返しのつかぬことは控えていただきたいし、どうしてもやるという高い志で
あるなら、石山前に持ち込んで御隠尊猊下と対決して欲しいです。
そういう意味でした。

2032外陣:2008/02/22(金) 00:34:51
2031から続きです。

>この点について、まず、わたしは「日蓮正宗」の宗門を正しい組織にしていこう
などという意図はまったくありません。集団犯罪組織という認識です。解体して
当然という認識です。

そしてこの言葉を頂きました。
糺すとかなんとかではなく三秘も畑の猊下も堀上人もなにもかも嫌になったんで
すね。それでは最後には興尊すらもお捨てになるのですか…。
浅学非才の小生では独歩さんの辿られていく道を理解するのが難しいです。
勝手に勘違いの小生をお嗤いください。もう少しマシな応接ができるように修行
しますので。

>反対にお聞きしますが、本尊から文字を取るとき、薄紙をあてて書き写します。
この行為はまさにレイヤでしょう。こうした作る板本尊の製造過程は本尊を踏み
つけることになりますか。

少なくとも興門流では権能のあるお方以外は許されない行為と認識してます。
考えても見てください、世界中のみんながそうして偽本尊を量産していったら…
ピースマークじゃあるまいに、勘弁してくださいよ。

>「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由諸方に其の聞
こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり。日興の弟子分に於ては、在家出家の中
に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩
に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり」
あなたが拝む本尊はこう批判される形木のものではないですか。

仰るとおりまさにそのことで悩みになやんでいます。
宗創問題等数知れない現状を仏罰と読めば、そのあたりに何か原因があるのでは
ないかと勝手推測してるのですが…。

2033外陣:2008/02/22(金) 00:36:00
2032から続きです。

>あなたは他人の背は見えても、自分が背は見えていない。
では、どうして見えないのか、その真実の相を映す鏡、たとえば、わたしの文章
をあなた固有の信仰から蔑んで否定しているからでしょう。ですから、あなたが
真実を見るためには操作する都合によってあなたを振り回す嘘の信仰を取り去る
必要があるということです。あなたがいう「正宗の法門」とはまさにそうした類
のものであるということです。
>あなたはまだ気づけないのでしょうが、あなたの信仰は、まったく「世の中に手
本」にはならない。むしろ、害毒を流しているものであることを、もうお気づき
になってもよいのではないでしょうか。

なにか文殊普賢菩薩様に優しく叱られているように感じます。
出て行った兄貴に諭されているような気がします。
もとより小生の信行学なぞ諸先輩のそれに比ぶれば、虫のそれのようなものです。
ですから広大なネットワークのなかにあって最も真剣に討論され、法味と薫風が
感じられる当掲示板の愛読者?なのですが…。
でも虫の一分?でありまして、はいそうですか、とは云えません。
馬鹿でも正しくなくても、正しい本尊の妙境に接すれば必ず成仏する。
間違った本尊ではたとえ賢く正しい人でも堕地獄まちがいなし。
と教わりました。

大石寺戒壇の御本尊さまの御宝前にて、人には云いにくい表現不能な経験を
しておりまして、それが虚像とは思えない自分がガンとして今も居ります。
「因果倶時不思議の一法」の意味を小生なりに知見しております。
時空を超える体験、総てこのままでいいのだ文句なしなのだ、というようなある
種生死もなにもかもすっ飛んで、過去に起こったことも将来に起こることも全部
同時に其処に在る…みたいな、はがゆい表現しかできないのですが、とにかくと
んでもない光が小生をスキャンしました。泣いたりなんかしてる感覚もなく。
一念三千の当体、なにか思い出すような思い出せないような…。懐かしくて痺れ
る感覚。小生にはリアルなものです。
ごく個人的な神秘主義体験、センチメンタルな感傷でしょうから汎用性はありま
せんから読み捨てて下さいませ。

ともかく見本にはなりませんが、我が一切有なりと思えば酷いことなどできませ
んて人間は。皆最高です。短い人生、なんとか自分を超えて他を愛していけるよ
うになることが一番じゃないでしょうか。

※長くなりまして申し訳ございませんでした。

2034外陣:2008/02/22(金) 00:43:10
追記です。

犀角独歩さん
>そうした相伝があれば、日興已来早瀬さんに至るまで、同じように本尊を書いて
しかりです。ところがそうはなっていない。上古のものとされる本尊相伝とも違っ
た書き方になっている。経年変化があるということです。つまり相伝は時代時代
で書き換えられ、継ぎ足され、変わっていった。

ですからそうしたことも踏まえてなにか想像以上のテクニックがあるかもしれな
い、ということも想像できませんでしょうか。

>三師塔という話がありましたが、いったい、どこまで時代を遡れるのでしょうか。
後代に成立したものではないでしょうか。そもそも石山は三師の唯受一人血脈相
承を言いながら、日蓮の遺骨は偽物、日興の正墓は隣の北山にあり、日目の正墓
すらありません。この三師の墓も遺骨もなく、それを補填するために考案された
のが、三師塔でしょう。こんなものが一体、何の証拠になるというのでしょうか。

正宗は舎利を安んずる宗教ではないですよね。
小生が云いたかったのは、あそこにメモリアルされている66代までの歴代御正
師の信心行動軌跡に対して頭を垂れて敬いたいという話であります。

2035:2008/02/22(金) 01:35:14
しかし今現在は
日蓮大聖人の折伏を拝すると
正宗の他に仏教らしい仏教は
存在しないですね。

日連正宗の本尊まで偽ならば
諸天の正法を万年護るという誓いは嘘となり
宗教界の仏や神の存在は全てが大妄語ということに
なってしまいますね。

独歩氏の導きたい結論は、こういうところでしょうか。

2036外陣:2008/02/22(金) 01:47:55
問答迷人さん

>>正宗の原点
>これは何を指しておられるのでしょうか。戒壇本尊ですか。

三大秘法です。

>>しまいにとうとう御本尊まで権能もないのに勝手に作ってしまうに至っては
>>池田さん方と同じじゃありませんか。それ絶対変ですよ。何様かと。
>これは意味不明です。誰が何時勝手に本尊を作ったのですか。

いや先般のお話のなかにありましたアメリカの人の話とかですが、本尊のことを
ちゃんとしておかないと今後いくらでも創作してしまう者が続出すると思います。
現創価学会でもそうです。亜流本尊の洪水です。

>>口伝というより唯授一人相承ということです。
>日興師に唯授一人相承が有ったというなら、それは何か根拠が有るのでしょうか。
>承りたいと存じます。

引文はあまり好きじゃないのと有名なのでお答えしますが「日蓮一期弘法付属書」
です。特にこの御妙判譲り状の最後、「就中我が門弟等此の状守るべきなり。」
の文は興尊お一人に宛てたのではなく大勢の僧俗に向かってご教示されている明確
な指示書です。

>>相承にも総別があることはご存じの通りであり、
>存知上げません。証拠をお持ちならお示し下さい。

では申し上げます。
総別の二義ということは内典外典に限らず一般の決まり事でもあって、弟子が数人
数十人数百人いても総じての相承と別しての相承があり、その指導者はご自分の
いわば跡継ぎとして一人を選んで深深の法や道を委託するものです。
偉大な指導者ほどその選定において私情や人情に捕らわれることがないそうです。
このあたりの文証や例題であれば山のように散見できます。例えば法華経において
も大聖人の御書においても、です。
釈迦→上行
孔子→曾子
玄奘→慈恩
道ズイ→伝教

※ちと不案内な説明で恐縮ですが時間が押しておりますのでまた。

2037外陣:2008/02/22(金) 02:26:30
れんさん、はじめまして今晩は。宜しくお願いします。

>敢えて感想を言いますと、「信者さんの希望的観測」というものでした。

希望で胸をいっぱいにしているのが凡夫信者の実態ではないでしょうか。
でも無知ゆえに妙なことを口走って諸天に呆れられなければいいのですが。

>別付属の法躰・本門戒壇本尊なる造語が石山文献に顕れるのは日蓮正宗歴代法主
全書などをひもときますと十四世日主の「雑録」が初めてですね。それ以前の歴代
にはこの“別付属の法躰”“本門戒壇本尊”なる造語を述べた石山歴代住持は一人
もいません。

別の言い方、用法での同意語とか内容的に同じ事を云っている箇所などはないの
でしょうか?
小生は暗愚でそのあたりのこと知らないのですが。

>小泉久遠寺と大石寺の問答を記した“大石寺久遠寺問答事”に文明十四年九月七日
の大石寺本尊堂における小泉久遠寺衆(この時、重須日浄も同席)と石山衆との問答
を記していますが、この時代にあれば石山本尊堂に安置されていた筈の石山のお板の
ことには一切触れていないので、この時代ではまだ石山のお板は成立してなかったと
見てよいでしょうね。

とても興味深いお話です。
機会をつくって一度そのあたりを宗門史にお詳しい御僧侶を捜してお尋ねしてみ
ましょうかね。

2038犀角独歩:2008/02/22(金) 05:11:24

外陣さん

わたしのことを商業出版と嗤いましたが、では、当の石山はどうですか。宗教法人の業ではなく、一般企業としての株式会社大日蓮出版を使って営利活動をしています。あなたの言葉を借りれば、これが大石寺の都合でなくて何でしょうか。

まして、信者を集める奉安堂は、信者から集めた金で作り、そして、また、そこに入場するのに金を取り、大量に本尊を複製印刷し、それを3000円以上の金額で頒布する。わたしがやることは商業で、大石寺がやると純粋な信仰になるという口上を、「背中が見えていない」と言っているわけです。

あなたは、自分の頭の中で夢想した「日蓮正宗」を信仰しているんでしょうね。しかし、実際の「日蓮正宗」は、そんなものではない。あなたは、本尊は時の「猊下」1人しか書いていないと思っているのでしょう。ところが、この代筆者がいるのが石山ですよ。それは坊さんなら知っている公然の秘密です。そして、それが現実です。

外陣さんは、わたしが本尊を …わたしの認識ではあくまで写真をですが… 図形処理して鑑別検証し、それをまとめた本を売っていることに腹を立てているのでしょう。しかし、わたしのなしたことは些細なことです。比して、石山はいったいどれだけの「本尊」を印刷し、頒布してきたのですか。旧い学会大幹部から、昭和20年代から30年代にかけては鉄道荷物で地方に送ったと言っていました。膨大な量、1千万単位で製造され、それを金を取って、新入会者に渡してきました。しかし、「信仰」「大石寺」というお品書きがつくとつくと、それが商業ではなく見えてしまう魔術があります。しかしそれは信者の贔屓目に過ぎませんよ。これはれっきとした商売です。

ただし、この印刷物を真剣に拝み、なにがしかの体験を得た人にとって、それはもはやただの印刷ではなくなります。この仕組みはあの彫刻を安置する正本堂、奉安堂という建築内の舞台装置内での体験も同様の効果を有しています。しかし、あそこで「猊下」が語る「無始已来の…」という口上が、実は日蓮宗でも言っている内容を石山風にアレンジしただけのものであることは、日蓮宗を少し散策すれば、やがて気付けることです。

堀日亨さんの話がでましたが、この方は宗内外で態度で語りを使い分けた人でした。
はっきりと所謂「本門戒壇の大御本尊」が構成の作り物であると知っていたでしょう。
『御本尊集』に載る3舗の真筆大漫荼羅写真の提供者は、たぶん、この人でしょう。
稲田海素に彫刻を見せ、そして、「真っ赤な偽物」と酷評されて以来、石山は写真公開は自分たちの商売上、都合が悪いと慌てていまに至っています。石山で頒布される印刷物、ここで本尊と称される品物は、之の彫刻を書写したといいながら、書かれている内容がまるで違うもので、これを指摘されると、内証を写したを詭弁を弄しました。

わたしもかつてそうでしたが、要するに信仰で体験などがあり、それも長々とやっていると、それが嘘であっては困る、だから、おかしいと思ってもそれを信じたいという執着が生じることになります。しかし、これは煩悩なのですね。真実は、そこを超えたところにある。わたしはそこまで歩きました。絶対的な信仰という太い手綱を手放す恐怖は、子どものころ、見知らぬ場所で親の手をギュッと握って離さない感覚に似ています。しかし、子はやがて親から自立していかなければならない。苦しい坂を上りきった瞬間に広漠ある光景を目の当たりにする。そのときにはじめて、自分が見ていた「日蓮正宗」など、小さな、本当に小さな井戸、いや、コップほどの大きさしかない小さなものであったことに気付きます。

2039犀角独歩:2008/02/22(金) 05:12:08

―2039からつづく―

日興は、日蓮とは違う教学と本尊観を形成した人です。そのような形が好きな人は日興に拘るでしょう。しかし、その考えがわかり、さらに日蓮の考えもわかるとき、かつて敬慕して止まなかった日興を卒業することになります。ここではじめて、日興というフィルターを挟まない生身の日蓮と向かい合うことになります。しかし、日蓮は色濃く、神道と真言密教の影響を受けた人だった。順天台を学べば、日蓮もまた、真言化し、神仏習合という特殊性を帯びた当時の仏教の影響を受けた時代の人であったことに気付きます。

では、純天台はどうか。これはまた、華厳教学の影響を強く受け、さらにあろうことか法華経を当時台頭した涅槃経を合わせてしまった。まして、羅什已来影響下にあったのが智邈です。湛然に至っては、智邈も灌頂もけっしてしなかった三千不可思議境を一念三千と実在化してしまった。この影響を日蓮は正面から受けていることに気付けます。
湛然は問題外、智邈の華厳と涅槃の影響を取り去り、羅什の恣意も超え、法華そのものに迫る。そんな位置にいらっしゃるのが、いま、ご投稿をなさっている一字三礼さんであるとわたしは拝しています。

ここではあえて、 Sadharma Pudarika Sutra と梵名で記しましょう。
この経典は西暦前100年から西暦後150年頃までに制作されたものであることがわかっています。ここで経典の編纂活動と平行して、菩薩運動もあったろうとわたしは考えています。この経典を捜索したグループの人々は、自らを地涌菩薩を自称して、迫害に耐えた人々であった。経典を信仰対象とすることは、各地で起きていた聖典信仰の影響もあったと考えられます。末法とは、実はこの法華経が編纂され、菩薩運動をしていたこの時代を指した言葉であることは、 Sadharma Pudarika Sutra を少しばかり学べばやがて理解できます。それを自分に当てはめた智邈も、最澄も、日蓮も、そうした編纂者の認識影響をそこに看取できることになります。

菩薩運動は、イランで発生したミトラ教の影響に拠ったのでしょう。
無疑曰信、以信得入、以信代慧と成句する信仰観は、大乗起信論といった教学姿勢の延長にあるのでしょう。しかし、こうした絶対的な信仰という形態は、実は仏教徒の間にはなかった。それはバカバットギータの影響を受けて生じた教学的な態度であったことが知られています。

こうして仏教2500年の歴史を遡っていくとき、わたしのなかに釈迦牟尼世尊に対する深い憧憬が生じました。ここまで上り詰めて見た日蓮は、それまで、宇宙を圧倒する大きさであったのが、いまでは、小さな存在と映じます。それは冒涜であるとか、批判であるとか、そんな類のことではなく、たぶん、宇宙に飛び出したパイロットが眺めた地球がボールの大きさに見えるのに等しい感覚ではないかと思えます。小さく見えても、美しく、自分が生まれたふるさとであり、大切な存在です。しかし、それは絶対的な存在ではない。この宇宙に無数にある惑星の一つです。わたしたちもガンジスの沙より、もっと多くの衆生の一人に過ぎません。こうした視点から見える「日蓮」は、もはや、本仏を意味して呼称される「日蓮大聖人」ではなく、「日蓮」なのですよ。

2040犀角独歩:2008/02/22(金) 05:25:32

【2038の訂正】

×構成の作り物 ○後世の作り物
×広漠ある光景 ○広漠な光景

【2039の訂正】

×順天台 ○純天台
×経典を捜索した ○経典を創作した

2041問答迷人:2008/02/22(金) 06:25:37

外陣さん

>引文はあまり好きじゃないのと有名なのでお答えしますが「日蓮一期弘法付属書」です。特にこの御妙判譲り状の最後、「就中我が門弟等此の状守るべきなり。」の文は興尊お一人に宛てたのではなく大勢の僧俗に向かってご教示されている明確な指示書です。

一 この書の真跡が現在何処に有るのかご存知ですか。
二 この書を日蓮聖人が書いた事を証明できますか。この書には、偽書の疑いが掛けられています。

以上、お答え下さい。

2043管理者:2008/02/22(金) 09:11:14

羽さん

2042の書込みは、以下の、当掲示板書込み禁止事項に該当しますので、削除します。なお、以後、ルール違反が続く場合は、ご参加をお断りする事になりますので、ご承知置きください。

【禁止事項】
4 根拠を示せないとか、すでに論理が破綻しているとかにもかかわらず、臆面もなく投稿し続けられた場合は、無意味な多重投稿・反復投稿とみなし、削除致します。

2044:2008/02/22(金) 09:21:08
本門の本尊には法と人の面があります。
御本尊を人の面から拝するなら、曼荼羅本尊は
日蓮大聖人の御当体を文字で以て顕されたものです。

2045:2008/02/22(金) 09:26:19
日蓮が魂を墨にそめ流して書きて候ぞ、信じさせ給へ。
仏の御意は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし「経王殿御返事」

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり。「御義口伝」

日蓮が影、今の大曼荼羅なり。「御本尊七箇之相承」

以上が、本門の本尊の、人本尊の文証になります。

2046管理者:2008/02/22(金) 09:46:26

羽さん

なるほど。曼陀羅は日蓮聖人だと。

それではお聞きします。700年も前になくなった方が、肖像権を主張されるのは無理ですね。
今生きている人のことですよ、肖像権と言うのは。死んだ人にも肖像権が有ると言うのは、死んだ人を写すことは不可能ですから、お話になりませんね。曼陀羅が日蓮聖人であり、今も生きておられるのだ、と信ずるのは勝手ですが、それを以って肖像権を主張することは出来ませんね。

肖像権が死んだ人にも有る、という法律の条文をお示し下さい。

2048一字三礼:2008/02/22(金) 10:04:11

うわっ!
完全に場違いなレスになってしまいますが、臨時さんにもう一言だけ。

ヨーロッパでは、今から約150年前のウェルハウゼンの「イスラエル史序説」以来、歴史学的・思想史的視点で、福音書及びイエスが客観的に研究され、歴史学者や社会学者と聖書学者とが論争によって、切磋琢磨してきました。
一方、日本の仏教学の世界では、犀角独歩さんがご紹介くださいましたように、日蓮宗門や立正大学での学問は所詮、坊さんたちによる護宗的な‘僧学’にすぎません。日蓮宗内の学問的な成果など、日蓮宗学に通じたものからの、暗黙のルールに則った論争には答えられても、歴史学者や思想史家、仏典研究者のような第三者から疑義に耐えうるのもではありません。

日蓮遺文研究の分野で、「平成新脩日蓮聖人遺文集」が出版されたのが平成七年、この遺文集の登場で、ようやく真筆中心の研究が本格化されてきたのですが、それでも最近の今成さんを中心とした摂折論争で明らかになったのは、偽書濃厚の「如説修行抄」などを論拠として、伝統的な宗学にしがみ付く日蓮宗学者が如何に多いかということが明らかになりました。

また、法華経研究の分野においては、立正大学で、「正法華経」を読み易い書き下し文に直す作業プロジェクトが発足したのは戦前のことでした。しかし、60年以上が経過した今でも「正法華経」の読み下しは出来ておりません。法華経研究でも重要部門であろうこの研究でのこの体たらくは、日蓮宗の学者たちが、よほど怠慢であるか、無能であるかのどちらかでしょう。法華経の成立史研究においても、勝呂さんの‘二十七品同時成立’説(法華経の思想と展開)などは、その思考過程には見るべきものがありますが、結論はお粗末で、法華経成立史の研究を布施浩岳さん以前に戻すようなもので、とても批判に耐えうるようなものではありません。

上記のように、日蓮宗の学者たちのレベルは、まだまだ学問と呼べるほどになっていない、ということです。

2049管理者:2008/02/22(金) 10:22:14

羽さん

>すでに死んだとは拝さないです。常住しています。

そういう信仰上の話は、肖像権という事柄になじまないですね。

先ほど示した当掲示板の禁止事項、及び、当掲示板の以下のルールにより、羽さんの、以後の書込みをお断りします。

禁止事項
1 上記の、当掲示板の主旨に明らかに反する書き込みは、理由の如何を問わず削除します。さらに書き込みを続けられた場合は、その方を以後投稿禁止とします。

2054臨時:2008/02/22(金) 19:35:04
偶ロム偶ログさん今晩は、レスありがとうございました。

>伊藤教授については、日蓮宗内でも立正学内でも厳しい評価もあります。

との事ですが、どの様な厳しい評価なのでしょうか、かつても現在もと言うこ
とでしょうか。

私が伊藤先生の著作で最初に出会ったのは『仏教の思想と現代』(初版平成2
年)でした、その頃の私は現代思想に興味を持ち始めて数年たっていましたの
で、本の表題に惹きつけられて買い求めました。

初版本では、第7章「本尊研究の現代的方法」(249ページ)と第8章「曼荼羅
本尊の哲学的意義」(273ページ)に大変興味を抱いて読みました。

平成12年に改訂増補版が出版され、そこでは、第9章「宗教地政学とは何か」
(245ページ)第10章「戦後日本の国家意識と立正安国の実践」(283ページ)
第11章「闘諍堅固の時代と文明の衝突」等が書き加えられていました。

第9章「宗教地政学とは何か」に関しては私には了解できない面が多々ありま
した。最近伊藤先生とお会いした際にも、先生の宗教地政学は私から見ると
非常に右寄りと感じますと申し上げましたら、先生もその事を自認なされて
おり、更に先生はかつて早稲田大学の学生の頃は60年安保闘争の真っ只中で、
左翼運動の闘士でもあったが現在は日本の危機を痛感するが故に右寄りになら
ざるを得ないと申され、西部邁もその一人だと言われたのには驚きました。

付言すれば伊藤先生の宗教地政学と日本の危機は立正安国論の現代的理解にも
つながっている問題意識とも言えましょう。

>なにをもって優れたとするか、ですね。
御用教学、護教教学、印籠教学などで正宗内部においては評価の高い人もいる
かもしれませんが、仏教学・宗教学・歴史学・などで正宗以外で通用している
正宗僧侶は若干名でしかありません。

仏教学・宗教学・歴史学という領域においては学問として常に客観性を要求さ
れますが、いわゆる宗派教学であったり、宗門教学の領域では信仰の増進に寄
与しないものは廃される傾向にあることは否めないと思われます。

しかし、宗教において教義を客観的に語る事と信仰の増進を両立させる事ほど
アンビバレントな事はないとも言えましょう。

2055独学徒:2008/02/22(金) 21:36:43

羽さんの御主張は創価学会と全く同じで、文証として用いるものが蓮祖・興尊の直筆が現存しない、現在は偽書としてほぼ確定しているものばかりですね。

羽さんご引用のものは、全く文証たりえません。
文証とは、蓮祖真蹟現存、興尊真蹟現存以外は、富士門信徒としても受入不可です。

蓮祖真蹟現存の文証はあるのか、興尊真蹟現存の文証はあるのか、よくよくご検討の上投稿いただきたく存じます。
創価学会や日蓮正宗、顕正会、正信会といった、全く同列の宗派・団体にしか通用しない、偽書の引用はご遠慮いただきたく存じます。議論が、いたずらに真実から遠ざかります。

2056外陣:2008/02/22(金) 23:18:13
羽さん今晩は、はじめまして外陣と申します。
貴方ももう少し冷静に誠実に御投稿なさってはいかがですか。
出会い頭にご自分の云いたいことだけを云って最後はののしるように去る、とい
う言動はいただけません。
仰りたいことは小生もよくわかります。
憤慨しておられるのもわかります。
でも共通のルールやマナーあっての公共の場でしょう。自分とは正反対の考えや
信念を持っている人だってたくさんいるのですから、どう云えば相手に伝わるだ
ろうか、どう振る舞えば相手が耳を貸してくれるだろうか、よっく考えて発言さ
れることをお勧めします。なんでも勉強の場ではないですか。
この場はとても貴重で大切で重要な場所であることを御自覚願いたい。
みな精進しようと汗をかいておられる道場だと思います。是々非々。
どこに所属のお方か存じ上げませんが、管理人さんに謝罪して頑張りましょう。

2057外陣:2008/02/22(金) 23:52:01
問答迷人さん

>一 この書の真跡が現在何処に有るのかご存知ですか。
>二 この書を日蓮聖人が書いた事を証明できますか。この書には、偽書の疑いが
>掛けられています。

内容は「総付属書」として曰く
------------------------------------------------------------------------
◆日蓮一期弘法・身延相承書 
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興にこれを付属す。本門弘通の大導師たるべきなり。
国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待
つべきのみ。事の戒法と云ふは是れなり。就中 我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日  日蓮花押
血脈の次第 日蓮日興
------------------------------------------------------------------------
「別付属書」として曰く
------------------------------------------------------------------------
◆身延山付属書 
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。
背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日
武州池上  日蓮花押
------------------------------------------------------------------------
の二つの日蓮大聖人の御妙判であります。
この譲り状が与えられて後三百年ほどの時、真書は残念ながらご承知のように戦乱
の世に紛失(たぶん消失)しております。
しかしながらその後江戸時代頃に日蓮宗によって編纂された有名な「録内」の後
「録外」十六巻目にもあらためて掲載されているほどの無視できぬ重文です。
偽書云々は心ない者がいつの時代にも現れて難癖をつけているだけです。
非力な小生ゆえここで細かくは申しませんが、よく精査いたせば誰でも納得せざる
おえない天下に正しい跡目相続書であります。

2058犀角独歩:2008/02/23(土) 00:25:11

詳しく問答さんが応えるでしょうが、よくまあ、こんなもんを出してきますね。

この書があったとされるのは、北山本門寺。ここには日興が跡目と定めた日代がいました。この二つの書は、ただの一度も大石寺にあったという話はありません。

北山に日興が定めた日代がおり、その後に日妙があり、そして、この書はずっとここにあったという話で、この書に漢原文で書かれているのは「富士山本門寺」(「富士山に本門寺の」は石山の勝手な読み下し)で、北山本門寺の正式名称は富士山本門寺。

富士山本門寺にずっとあったとされる文書で、富士山本門寺に戒壇を建立という文章ですから、日代、むしろ日妙でしょうが、北山本門寺=富士山本門寺に戒壇建立という書が、なんで、大石寺の文書となるはずがあるのか、少しは真面目に考えてみればよいでしょう。

しかも、この書は真筆も現存しない、大石寺と北山以外は、誰しも偽書と確定した悪書の一つです。

外陣さん、もっと勉強しなさい。

2059犀角独歩:2008/02/23(土) 00:30:06

やや当たり前すぎる議論ですが、外陣さんが本物であると信じている偽書については、過去に語り尽くされています。

身延相承書と池上相承書について
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1060641548/

2060犀角独歩:2008/02/23(土) 00:39:35

外陣さん

独学徒さんがご指摘下さったことですが、以下のようなあなた方法華講の本尊写真にアップです。
法華講はよくて、わたしが駄目だというのは何故でしょうか?

http://myokan-ko.net/menu/te/1.htm

2061臨時:2008/02/23(土) 00:49:33
一字三礼さん今晩は、

>あなたは、挨拶もなし、横レスの断りもなしで話に割り込んでくる人なので
すね。

そうでしたかそれは大変失礼しました。
一字三礼さんとの意見交換は初めてのことでしたか、この掲示板では一字三礼
さんのご意見を時々拝見し、すばらしく知的で識知も並々ならぬものを感じて
おりました。今後はよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。

① その方は、法華経に対するどういった知識をお持ちなのですか。
② 「日蓮仏法に対する大変現代的な課題」を具体的に示してください。
③ あなたは、日蓮門下全ての僧俗と面談することが可能であるとお考えなの
 ですか。

との事ですが、

前にも申し上げましたとおり伊藤先生の法華経に対する知識は、それこそ大変
なものでして私如きにはとても語ることは出来得ませんのでご容赦ください。

ただ、「日蓮仏法に対する現代的な課題」に関しては、少々お答えしてみます。
伊藤先生は、その著作のほとんどが日蓮仏法を現代的課題として受け止められ
ての上で、お書きになっておられると思います。

偶ロム偶ログさんへのレスにも書かせていただきましたが、私が最初に伊藤先
生の著作を拝見したのが、『仏教の思想と現代』でした。そのあとは『日蓮精
神の現代』であり、『新時代の布教精神』『新時代の折伏様式』『新時代の四
大格言』という三部作でした。

このように常に日蓮仏法ないしは日蓮精神を現代という時代の中でどのように
捉え、自分自身の実践的課題と位置付けるかを追及なさってきたものと私は受
け止めています。

しかし、偶ロム偶ログさんへのレスにも書きましたが、伊藤先生は日蓮仏法を
「宗教地政学」という視点で捉えておられますが私にはよく理解できません。

私自身は日蓮仏法を現代社会において如何に言語論的転回が可能であるかどう
かが、現代的課題であろかと考えております。仏法においては仏の悟りの領域
は、本来は言語道断、心行所滅の世界のはずですが、いわゆる俗諦とも言うべ
き人間界においては、八万宝蔵とも云われる言語の海の上で方向も定まらず舵
も執れない状況に仏教界が陥ってしまっていることを、鎌倉新仏教の祖師達は
それぞれの方法で舵を伐ったとも言えると思います。

しかし、現代社会においてはさらにネット情報という情報の海の上で人間は舵
を伐るどころか、右往左往したあげく転覆しかねない状況にあるといって過言
ではないと思います。
この新たな状況に対して日蓮仏法も過去からの言語的あり方(特に宗派という
体制言語)を、時代に合わせて転回する必要があるのではないかと愚考してお
ります。

今日は晩くなりましたので後の問題に関しては、後日お答えしたいと思います。

2062外陣:2008/02/23(土) 01:22:40
犀角独歩さん
2038〜2039までの内容を二度三度と読ませていただいておりました。

>だから、おかしいと思ってもそれを信じたいという執着が生じることになります。
しかし、これは煩悩なのですね。真実は、そこを超えたところにある。わたしはそ
こまで歩きました。絶対的な信仰という太い手綱を手放す恐怖は、子どものころ、
見知らぬ場所で親の手をギュッと握って離さない感覚に似ています。しかし、子は
やがて親から自立していかなければならない。苦しい坂を上りきった瞬間に広漠あ
る光景を目の当たりにする。

胸にくるものがございます。よくよく考えてみます。

※その後のご指摘についてはのちほど。

2063外陣:2008/02/23(土) 01:40:09
犀角独歩さん
>2058
怒らないでくださいよ。小生が今までに教わって信じていることを、尋ねられた
から応えたまでです。
何処にあったかということよりも蓮祖から興尊へ相承があったという文証をだせ
という話題になったので。稚拙な構成でお恥ずかしいですが…。

2064そううそ:2008/02/23(土) 02:01:37
皆さんこんばんは。
ご無沙汰しています。そううそです。

皆さんの御意見は私には難解ですので
243.大御本尊に対する日蓮正宗系(創価学会、顕正会など)の言い分。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7a5bc04fc70058cf4e81ed3c8576a795
こんな感じで纏めたいのですが、引用転載でなくここで知り得た事を
上記の様に箇条書きにするのであれば許可不要でしょうか?
それとも許可が必要でしょうか?>管理人さん

2065外陣:2008/02/23(土) 02:04:51
>独学徒さんがご指摘下さったことですが、以下のようなあなた方法華講の本尊
写真にアップです。法華講はよくて、わたしが駄目だというのは何故でしょうか?

独歩さんの反論は「何処どこでもやっているから」というレトリックが多いですね。
悪いことはどなたがやろうと悪いと小生は考えます。
この件につき小生は近日、理境坊法華講さまへご教示を仰ぐつもりでいますが(他の
サイトでも散見できますのでそれもあわせて)今は貴方様のお話をうかがっており、
僭越とは重々承知の上でいささか意見を云わせていただいています。ご容赦。

2066外陣:2008/02/23(土) 02:31:03
犀角独歩さん

>しかも、この書は真筆も現存しない、大石寺と北山以外は、誰しも偽書と確定した
悪書の一つです。

そちらさまはどうしても偽書とせねば困るでしょうからそう言い張るのでしょうが、
それではお尋ねいたしますが、大聖人はどなたに跡目を相続されたのですか?
小生はごくシンプルにその問題を考えるだけで、やたら衒学的に枝葉末節を根掘り
葉掘りして大聖人の法門を淫するのはそれこそ背だけを見ることになりませんか?
釈迦牟尼を憧憬するのは小生も同じでありますが、仏法には「時」というものが
あるのではないでしょうか。あこがれてもあの佛さまは小生等の佛さまではないの
ではないでしょうか。難信難解であっても困難が降り注いでも、頑張って大聖人を
佛と仰いでいかなくては助からないのではありませんか?
くどいですがもう一度お尋ねいたします。
「蓮祖大聖人は誰にそのすべてをお渡ししたのでしょうか?」

2067犀角独歩:2008/02/23(土) 04:26:40

外陣さん

あなたの文章は、わたしがどのような感情であるかを決めつけて、書くことが多いですね。いつも外れています。やめてください。

> 「何処どこでもやっているから」というレトリックが多い

これまた、別にそんなことはありませんよ。
だいたい、話の筋をすり替えています。

わたしは何度も記しているとおり、本尊を加工したことは一度たりともありません。
わたしが加工したのは写真です。同じようにわたしは印刷物や、写真を本尊であるとは考えません。
ところが、あなたは印刷物や、写真を拝ませる集団の信仰にとらわれているから、本尊を加工したと難癖をつけるわけでしょう。日興は形木を禁じていた。これは厳然たる事実です。売り買いも禁じた。遺体遺骨と埋葬することも禁じた。しかし、こうした日興の禁止を平然とやっている集団で信仰をしながら、なにをかいわんやです。

> 偽書とせねば困るでしょうからそう言い張る

言い張っているのはあなたでしょう。
いいですか。こちらの掲示板では、主張をするのに、証拠を挙げることが義務づけられています。しかし、二箇相承が本物である証拠をあなたは挙げず、本物であると言い張っています。これは明らかにルール違反です。
まあ、こう書けば、「では、偽物の証拠を出せ」と来るでしょうが、偽物の証拠は、他スレ「身延相承書と池上相承書について」で議論し尽くされたとおりです。そもそも、あなたの態度でいちばんいけないのは、過去の議論を無視して、証拠を挙げず、断定的にものを書くことです。

> 大聖人はどなたに跡目を相続されたのですか?

これまた、既に言い尽くされた議論です。
日興の真筆が残る『日蓮聖人御遷化記録』に

「定弟子六人事(不次第)。
蓮華阿闍梨日持、伊予公日頂、佐渡公日向、白蓮阿日興、大国阿日
朗、弁阿日昭。」

明確です。

> 小生はごくシンプルにその問題を考えるだけで、やたら衒学的に枝葉末節を根掘り
葉掘りして大聖人の法門を淫するのはそれこそ背だけを見ることになりませんか?

だから、あなたの文章は、常にこうした嫌味があり、実に無礼です。誰がいったい、衒学的ですか? 誰がいったい、枝葉末節を根掘り葉掘りして大聖人の法門を淫していますか。羽さんにもっとらしい、教訓を垂れるのでしたら、あなたこそ、礼儀をわきまえた文章を書いたらどうでしょうか。相手に対して、怒るなとか、気が短いと言う前に、相手を見下し、こうした不快な書き方をするのは止めたらどうでしょうか。
また、酔っぱらっているのですか。

> 仏法には「時」

どんな時でしょうか。
まさか、釋迦の入滅年代を日蓮が取り違え、鎌倉時代は2000年経っていなかったこと、『大集経』が後世創作されたものであること、また、法華経でいう末の世とは2000年でも、500年でもなく、「50年であった」ことなど、文献的な分析を無視して、大石寺の時代遅れのドグマを繰り返し、証拠を挙げずに記そうというわけではないでしょうね。

> あこがれてもあの佛さまは小生等の佛さまではないのではないでしょうか。

「あこがれる」というのは、わたしが先に書いた「憧憬」ということをとっているのでしょうか。意味を取り違えています。
先にも記しましたが、日蓮が終生、拝んでいたのは釈迦一体仏です。
ほかに何か仏があるのでしょうか。

> 大聖人を佛と仰いでいかなくては助からないのではありませんか?

どこにそんな証拠がありますか。

> くどいですがもう一度お尋ねいたします。
「蓮祖大聖人は誰にそのすべてをお渡ししたのでしょうか?」

先に挙げた御遷化記録とおりでしょう。
あなたは唯受一人血脈相承で、誰か一人にすべてを渡したという思いこみにとりつかれているのでしょう。そんな証拠はどこにもありません。

ただ、大石寺の“レトリック”にはまり、証拠も無しに信じ込んでいるだけです。
ここは、議論の場ですから、挙証も出来ない主張は問題外です。

2068犀角独歩:2008/02/23(土) 06:57:58

まあ、どうでもいいですが、わたしに対する傲慢不遜ないいっぷりに比し、
「理境坊法華講さま」という言い回しはふるっています(笑)

理境坊法華講とは、この坊出来て以来の根檀家を指すのであって、近年の預信徒に過ぎない集団を指すわけではないでしょう。
こうしたところにも、大石寺そのものの理解に誤謬が見受けられます。

2070問答迷人:2008/02/23(土) 08:03:08

外陣さん

犀角独歩さんが、概略、指摘されていますので、補足に留めます。

先ず、御遷化記録は、日興上人の代筆で六通作成され、紙の継ぎ目には、立ち合う事の出来た方々の署名で割り印がされています。正式の文書です。六人それぞれが所持するようになっています。その場にいなかった六老には後日手渡すように設えてある訳です。

日蓮聖人の周到なご配慮がにじみ出ています。

このように六老全員で力を合わせて、後を頼むぞ、と言いながら、日興上人にだけ、こそっと二箇相承をしていたとしたら、日蓮聖人は二枚舌の大嘘つきですね。

日興上人は後日、身延を離山していますが、理由は、学頭に日興上人が任命した日向上人との反目が原因のようです。そして地頭が日向上人に付いた。

もし、この時、このような相承書があったのなら、この時にこそ使うべきであった。日蓮聖人が両舌の謗りをも敢えて恐れず、二箇相承を残したとすれば、このような教団分裂を避けるためとしか考えられませんが、当時の記録には、二箇相承は名前すら出てきません。

日興上人もこのような相承を本当に受けていたのなら、絶対に離山などすべきではなく、日向上人に対して「この相承書が目に入らぬか。無礼者、下がりおれ。」とやらなければ、日蓮聖人のお心を踏みにじることになるわけです。

身延離山という史実が、このような相承書が存在しなかった事を雄弁に語っていますね。

2072管理者:2008/02/23(土) 08:45:50

そううそさん

コピーして、出所を明示せず、張り付けるのは著作権侵害になる可能性が高いので、お断りしていますが、出所を明示して、しかも要約という事であれば、当掲示板のルールに抵触しません。どうぞよろしくお願いいたします。

2073そううそ:2008/02/23(土) 11:58:21
有り難うございます。
助かります。

2074パンナコッタ:2008/02/23(土) 12:47:51
横レス失礼します。
二箇相承なんてものが出てきていますが、文書その物の歴史上初出は
左京阿日教「六人立義廃立抄私記」あたりなのですが、その六人立義では、
身延・池上が現在のとは逆に書かれており致命的です。

 釈尊五十余年之説教、白蓮日興付属之。可為身延山久遠寺別当、背在家出家共輩者可為非法衆。
   弘安五年九月十三日
 血脈次第日蓮日興  甲斐国波木井郷於山中図之
 日蓮一期弘法 白蓮阿闍梨日興付属之可為本門弘通之大導師也。被立国主此法、
 富士可為建立本門寺戒壇也。可待於時耳、事戒法謂是也、付中我門弟等可守此状也。
  弘安五年十月十三日          日蓮在御判
 池上相承書

ですから、本禅寺日求が笑って偽書と指摘し石山門徒が狼狽したんでしょう。
(破石集・日鑑)
ちなみに今では全く無意味なのですが、蜜月時代の学会はこの指摘に対し、
 「古写本に多少の入れ違いがあったのは、むしろ当然であり、その入れ違いがあるゆえに疑難するとは、
 まったく見当はずれの妄難である」(日蓮正宗創価学会批判を破す 創価学会教学部編)
と、これまた見当違いの感情論で批判していましたね。

我田引水的で大変恐縮なのではありますが、宗教の法則5 "聖典は一日にしてならず"そのまんまですね。

2075問答迷人:2008/02/23(土) 13:33:44

パンナコッタさん

宗教の法則、非常に興味深く拝見いたしました。

まぁ、こんな他山の書、しかも偽書の疑いの濃い物を平気で御書全集に載せる大石寺の神経がわからない、と思っていましたが、正しく、聖典は一日にしてならず、ですね。必要に応じて、増幅付加されてゆく様が見て取れます。

有難うございました。大変勉強になりました。

2076外陣:2008/02/23(土) 17:25:54
問答迷人さん

>2070

御推定なさっておられる部分があるので小生にも推定することをお許しください。

相承書などその時代の地頭の権力からすれば問題にしなかったでしょうし力も持た
なかったでしょうね。あくまで御出家間での問題でしょうから。何から何まで世話
になっている地頭が御法門を歪め始めれば、どうしても其処から離れるしか方法は
ないのではなかったのでしょうか。

>先ず、御遷化記録は、日興上人の代筆で六通作成され、紙の継ぎ目には、立ち合う
事の出来た方々の署名で割り印がされています。正式の文書です。六人それぞれが
所持するようになっています。その場にいなかった六老には後日手渡すように設え
てある訳です。

先述していますようにそれが総じての付属ともいえるかもしれません。
なにも興尊だけがお弟子であるなどとは申し上げません。
問題は、例えば社長が引退する時に六人の部下がいたとして、皆間違いなく会社に
貢献してくれた幹部社員であり、自分がいなくなっても後をみんなでで頼むぞと云
うでしょう、それぞれに役割を与えるでしょう、そのなかにあって次の社長を一人
決めるのも普通ではないでしょうか。これも先述しましたように歴史をひもとけば
夥しいほどといいますか、常識になってはおりませんでしょうか。まさか社長の権
能を六つに分けて六人の社長がいるなどという組織は聞いたことがないです。
その際にたとえ年長の者や営業に功績があったりした者がいても、次代の社長とし
て自分の経営上の重大な発明というか秘密を授けているものを自分の替わりとして
社長と任命する。そういうことはどの社会でもあるのではないでしょうか。
それをここでは別付属と呼ばせていただいてるつもりです。
事実、その後本山の管長、別当として興尊をお認めになっていたのではないでしょ
うか他のお弟子さまたちも従っていましたでしょう。
そしてその新社長にだけ与えたのが本尊にまつわる秘密の御相伝でこれは一読した
らば人の目にやたらに触れぬようにしたのが新社長。
はじめは別当としてリーダーとして認めていた他のお弟子さまのなか、あるいは後
年になってその末流の方々のなかに「日興のところではこちらがあずかり知らぬ相
伝を口にしておるぞ」と騒ぎ始めるものもいたでしょうね。

とまあ安っぽい比喩で恐縮ですが、当方の漢字変換ソフトがなかなか云うことを
きかずに苦労しておりますので、誤変換や脱字など、また平易な語り方にてお許し
くださいませ。

2077外陣:2008/02/23(土) 17:26:46
犀角独歩さん

>偽物の証拠は、他スレ「身延相承書と池上相承書について」で議論し尽くされた
とおりです。そもそも、あなたの態度でいちばんいけないのは、過去の議論を無視
して、証拠を挙げず、断定的にものを書くことです。

そうですね、小生も少々断定的、説明の仕方、言葉の選び方が悪いかもしれません。
どうしても丁寧に肩を張ってタイプしておりますと嫌みでトゲのある語り口になっ
てしまっていますね。気をつけます。

”議論され尽くした”とは思えません。正宗側の言い分があまり見あたりませんし
それこそこちらから読ませていただければ一方的な論調論議で、説明する暇もない
隙もない偏った断定ばかりに映るのですよ。全部正宗が悪い、イカサマだ、インチ
キだという予定調和に受け取れてしまうのです。それが証拠にこうして正宗を信じ
ると発言すると侮蔑するかのような論調になってきます。
怒らせるようなことを云ってしまう小生も未熟ですが、それは独歩さんだって同じ
文言をお使いになっているのではないでしょうか。
小生は断定などしておりませんが。
お前はどう認識しているのかと尋ねられるから知っているささやかなことを一所懸
命タイプしてアップすれば「よくもこんなものを」と侮蔑されます。
独歩先生とか独歩師とか独歩さまとかお呼びしたくとも呼称統一というルールに従っ
て誠に冷や汗ながら「さん」で失礼させていただいている次第です。
理境坊さまについては当家の方でありますから「さま」とお呼びしたのがいけませ
んか。
>まあ、どうでもいいですが、わたしに対する傲慢不遜ないいっぷりに比し、
「理境坊法華講さま」という言い回しはふるっています(笑)
対等平等では貴方様に失礼になるのですね。わかりました。それではこれ以上不愉
快にさせたくありませんし、反論は許さないという雰囲気であることにもある種
疲れましたので、今回のお話はここまでとさせていただいても結構です。
独歩学兄から御指南ありました日蓮宗系のお寺でも散策して勉強させていただきま
す。

>> 大聖人はどなたに跡目を相続されたのですか?

>これまた、既に言い尽くされた議論です。日興の真筆が残る『日蓮聖人御遷化記録』

「定弟子六人事(不次第)。
蓮華阿闍梨日持、伊予公日頂、佐渡公日向、白蓮阿日興、大国阿日
朗、弁阿日昭。」
明確です。

六人に御相伝御相承があったなどとは、あまりに戯論です。失礼ながら嗤います。

>先にも記しましたが、日蓮が終生、拝んでいたのは釈迦一体仏です。
ほかに何か仏があるのでしょうか。

どうしたのですか? なにを仰るのかあまりの驚きにお返しする言葉がでません。
御書の何処にそんなことがありましょうや。興尊がいつそのような大聖人を虚仮
にするようなことを云ったのでしょうか。
はて、もしかして独歩さんは日朗門流でありましょうか?

>ここは、議論の場ですから、挙証も出来ない主張は問題外です。

ですから暫時挙証してまいろうかと思案しているのに勝手に問題外と排する独歩
さん、そんな貴方が許せないのですね小生は。”お山の大将俺一人後から来る者
突き落とせ”の新興宗教の親分の臭いがします。まさか一宗一派を立ち上げるご
計画がありはしないでしょうね。跡目は六人平等にするんですか?

ってこういう言い方が非礼なのでしょうが、貴方も相当偏ったところで修羅に堕
ちておられるようですから…お互い様ではないでしょうかね。

2078問答迷人:2008/02/23(土) 17:54:47

外陣さん

>何から何まで世話になっている地頭が御法門を歪め始めれば、どうしても其処から離れるしか方法はないのではなかったのでしょうか。

地頭は日向上人の意向を受けて、日興上人に逆らったのですよ。地頭と日興上人が表に出ていますが、根本は日向上人と日興上人との法門の違いなのですよ。地頭が自ら意思で日興上人に逆らったのでは有りません。二箇相承がもし存在しておれば、少なくとも日向上人は日興上人に従ったはずで、身延離山は有り得ないと考えます。

>次の社長を一人決めるのも普通ではないでしょうか。

だが、日蓮聖人はそうしなかったのです。六老を定めて、「不次第」と明記したのは、筆頭者を決めない、と言う意味ですよ。

2079外陣:2008/02/23(土) 17:59:14
犀角独歩さん
追記しますが、御説の大聖人随身の釈迦立像は修行中の釈迦ですよね。ですから
立ったお姿です。立ち姿の本佛など聞いたことも見たこともございません。
お悟りを表す仏像は皆お座りになっていること、独歩さんほどの知識人ならご存
じありますでしょう。

2080あまちゃん:2008/02/23(土) 18:20:23

飛び入りで申し訳ございません。
本来であればご挨拶を申し上げてから投稿するべきです、資料の提示のみの一回きりの投稿で失礼させていただきます。
法華講に所属しています。

独歩さんは当然この資料をご存知だと思いますが、他のお方はご承知ないと思いますので資料のみ提示させていただきます。
ご参考にしてください。
しかし、ご自身で資料をお調べになられないで投稿される方にはやれやれという感を得ます。

大聖人ご自身の持仏は釈迦一体仏です。

日興上人御自身が書かれた「御遺物配分事」です。
これは大聖人の御形見分けを記した資料です。
法華講内では絶対に信徒には見せない資料だと思います。
私は立正大学の図書館(身分を明かせば入れてもらえます)でこの資料を写し取ってきました。

*****
  注法華経一部十巻 弁阿闍梨。
【御本尊一体 〈釈迦立像〉 大国阿闍梨。】
 御馬一疋、小袖一 佐渡公。
 御太刀一、小袖一、袈裟代五貫文 侍従公〈和田丸〉。
 衣一、小袖一、袈裟一 越前公。
 御馬一疋〈鞍皆具、御足袋一、頭帽子、小袖一〉 白蓮阿闍梨。
 御腹巻、銭三貫文 伊与阿闍梨。
 御馬一疋、小袖一、手鉾 蓮華阿闍梨。
 小袖一 卿公。
 御馬一疋、小袖一、御念珠 筑前公。
 御小袖一、衣一、帷一 治部公。
 御小袖一、頭帽子 摂津公。
 御馬一疋、小袖一 大夫公。
 御小袖一 丹波公。
 御小袖一 和泉公。
 御衣一、銭一貫文 伊賀公。
 貳貫文 淡路公。
 一貫文 寂日房。
 ○○(二貫)文 信乃公。
 一貫文 出羽公。
 一貫文 帥公。
 一貫文 越後公。
 一貫文 但馬公。
 一貫文 下野公。
 一貫文 讃岐公。
 ○(二)貫文〈御布小袖一〉 妙法房。
 ○○○(一貫文)〈馬一疋、鞍皆具〉染物一 富田四郎太郎。
 一貫文 源内三郎。二貫文 椎路四郎。小袖一 四郎二郎。
 小袖一 滝王丸。
 御きぬ一 安房国新大夫入道。
 御きぬ一 かうし後家尼。御小袖一 安房国浄顕房。
 小袖一 同国義成房。御小袖一 同国藤平。

右、配分の次第、件のごとし。
弘安五年十月 日 執筆日興 在判。
日持花押。日興花押。日朗花押。日昭花押。
*****

私は信仰世界と学問世界は明確に切り分けています。

2081外陣:2008/02/23(土) 18:44:13
問答迷人さん
>地頭は日向上人の意向を受けて、日興上人に逆らったのですよ。地頭と日興上人
が表に出ていますが、根本は日向上人と日興上人との法門の違いなのですよ。地頭
が自ら意思で日興上人に逆らったのでは有りません。二箇相承がもし存在しておれば、
少なくとも日向上人は日興上人に従ったはずで、身延離山は有り得ないと考えます。

そうですね、日向師は板本尊も作ったとか聞きます。
例え二箇相承を見せても従うかどうか…。法門観が違っているのでしょうから。

つまりは学頭に迎え入れた日向師がのちに「何かあって」興尊と意見が合わなく
なって権力のある地頭を使って追い出した、ということですね。
その「何か」ということはここでは置かせていただくとして、もし将来「二箇相承」
がもしも出てきたら、無いと力説している方々はそのときどう詫びるのでしょうね。
腹切って詫びはしないでしょう。決して詫びることもなくまたなにか理由を付けて
いくのでしょう。きりもない無限ループですね。信心が根本から異なるのですから。

しかしながら先述のように反対派の日蓮宗でも写本として認めていたこともある
わけでしょう。なぜそれが執拗に執拗に忘れた頃になると出てくるのですかね。
たとえ燃えて失ったとするのであれば、それを出せ、見せろと詰め寄る人の意地の
悪い姿は仏家のものとは思えません。無いものは文証しようがないことを知ってい
て金科玉条のように責め続ける。状況証拠から推測することは可能ではないでしょ
うかね。じゃあ他門にはなにがあるのかとお尋ねしたいくらいです。

2082問答迷人:2008/02/23(土) 18:56:46

外陣さん

>例え二箇相承を見せても従うかどうか…。法門観が違っているのでしょうから。

先ず、見せたかどうかですね。北山の文書には、身延離山についての記述には、二箇相承は出てこないです。そんなに重要な相承書があったとしたら、日向上人に見せもせず、ノコノコと離山したのは可笑しいです。日蓮聖人が本当に二箇相承されたのなら、その相承を自ら日興上人が踏みにじった事になります。この点についてお答え下さい。

>じゃあ他門にはなにがあるのかとお尋ねしたいくらいです。

御遷化記録があり、日蓮聖人の本弟子たる事が記されています。これ程確かな証文はありませんね。

2083問答迷人:2008/02/23(土) 19:13:16

外陣さん

補足です。

>燃えて失ったとするのであれば、それを出せ、見せろと詰め寄る

日興上人の時代に、そのような相承書の存在を示唆する文書が残っておれば、少なくとも傍証にはなります。そして、そのような相承書が存在したのなら、身延離山という日蓮教団にとっての一大事において、なぜ日興上人への相承書が話題にも上らなかったのか。これは全く以って不可解です。もし、そのような相承書を日蓮聖人が残したとすれば、そんな一大事の時の為の準備で有ったはずです。

もし、跡目はお前だ、という遺言書を貰っておいて、跡目争いが起きたときに、それを出さなかったとしたら、日興上人は大馬鹿者と言うことになります。

2084犀角独歩:2008/02/23(土) 19:15:06

あまちゃんさん

有り難うございます。


外陣さん

結局、あなたは、自分が本物であると主張する証拠は何一つ挙げられませんでしたね。
所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物の証拠はどうしました。二箇相承が本物の証拠はどうしました。「正宗」側の主張がないならば、あなたが挙げればよいだけです。
挙げて論じたら如何でしょうか。

あなたの書いていることは、議論ではなく、単なる希望的観測の羅列です。ですから、「問題外」です。なんでもかんでも石山が正しいと言った予定調和にはつきあえません。

釈迦一体仏が修行の姿であるという口上は、石山常套句、よく知っていますよ。
しかし、日興直筆の御遷化記録には「御所持仏教の事 御遺言に云はく 仏は釈迦立像」と書かれている以上、動きません。嗤うならば日興を嗤うことになります。
こうした都合の悪い文章を読み飛ばしてしか成り立たないような話は、ここでは通用しません。

> 理境坊さまについては当家の方でありますから「さま」とお呼びしたのがいけませんか。

これは意味が違います。だいたい言い換えています。あなたは「理境坊法華講さま」としていたのに、これを「理境坊さま」にすり替えています。まず、これが違います。
また、わたしが言ったのは、妙観講は理境坊預信徒で、ここの法華講は根檀家を指すので違うということです。

なお、日本の礼法では身内(当方)には尊称をつけないのがその在り方です。ですから、これも違います。これではいけません。

> 跡目は六人平等にするんですか?

そう日興が書き残している証文を挙げました。
違うというのであれば、そうした証拠を挙げればよろしいでしょう。

あなたが大きな勘違いをしていますが、証拠も挙げず、お山の大将をやっているのは、あなたの信仰でしょう。

さて、わたしは本日から地方出張なので、次の返信は火曜日以降とさせていただきます。
外陣さんの彫刻の明確な証拠の提示を楽しみにしております。

2085れん:2008/02/23(土) 19:18:48
横レス失礼します。

あまちゃんさん、初めまして。
御提示の池上所蔵の「御遺物配分事」ですが、立正では同筆の“身延山久遠寺番帳”とともに興師真筆とするものの、写真版を見ますと、この前後の御遷化記録や安国論問答などの確かな興師真筆と筆法が相違してますから、明らかに後世の(といっても室町期までは遡れるかもしれませんが)転写本に、各師の署名花押を加えたものと判断できます。これを一次資料として論ずるのは難しいでしょう。
あと、今の石山ですと、蓮祖のすべての法門は興師が相続したと言いますが、上代の石山歴代の日有や左京日教の文献によりますと、「日目の耳引き法門」と称し、三大秘法ないし、その中の本門本尊の一大事の法門は蓮祖は興師ではなく目師に直授したと主張していますね。
この一事のみとっても、現在の石山が主張する蓮祖から興師への唯授一人血脈相承というものは、かなり後世になって唱えられたことが解りますね。

2087あまちゃん:2008/02/23(土) 19:32:07
れんさん、はじめまして。
一回こっきりの投稿のつもりでしたが、御礼申し上げさせていただきます。

写真による筆法比較ですか。
思いもよりませんでした。
ご教示ありがとうございます。

2088れん:2008/02/23(土) 20:31:32
あまちゃんさん、こちらこそ、失礼いたしました。
ご丁寧にご挨拶戴き有難うございました。
池上蔵の御遺物配分事は難があるのですが、御遺物配分事には蓮祖門弟の日位写本があるので、この写本の日位筆が否定されない限りは、有効であるとは存じます。

2089独学徒:2008/02/23(土) 20:57:24

横レスにて失礼します。

他門には、日蓮大聖人御真筆の伝法曼荼羅が相伝されていますね。(日昭門流)

また堀日亨師が編纂顧問をつとめられた、昭和底本日蓮聖人遺文には、日蓮一期弘法抄とともに日朗御譲状が収録されています。
二箇相承がOKなら、日朗御譲状もOKでしょうね。

また、冨士教学研究会談義所にて、宗祖直弟子で身延山第3世となった、日進師の教示をまとめた日進上人仰之趣の、日興上人に関する部分を紹介していますのでご参照下さい。
日向師・波木井氏そして日興上人との事につき、生き証人でもあった日進師の言葉です。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/4/14/

2090独学徒:2008/02/23(土) 20:59:11

また誤字がありました。

誤:昭和底本
正:昭和定本

失礼しました。

2091一字三礼:2008/02/23(土) 21:26:31
〉2079
外陣さん、横レス失礼します。

〉立ち姿の本佛など聞いたことも見たこともございません。お悟りを表す仏像は皆お座りになっていること、独歩さんほどの知識人ならご存じありますでしょう。

私は寡聞にしてまったく知らないことでしたが、これはどういう意味でしょうか。

立像の仏尊像なら、いくらでもありますよね。

マトゥラーの施無畏与願釈迦立像、清涼寺の生身の釈迦如来立像、神護寺の薬師如来像、高野山親王院の阿閦如来像、等々。

基本的に、仏の立像は、両足を揃えて直立した‘正立像’が多いようです。

‘お悟りを表す’とは所謂、‘仏形’のことですか。
それとも、‘印相’、‘持物’や‘衣’のことですか。

2092外陣:2008/02/24(日) 12:45:36
犀角独歩さん、問答迷人さん、一字三礼さん そして皆様へ

ご覧になっておられるとおり、小生も聞きかじりのような法門観でいつのまにか
此処に居並ぶそうそうたる御仁方に喧嘩をしかけてしまったような気がしてまい
りました。もとよりそのような気持ちはなく自分自身でも疑問に思っていること
悩んでいることなどを勉強させていただこうという姿勢で書き込むつもりでおり
ました。それぞれの立場は立場として虚心坦懐、是々非々として臨むつもりでお
りました。

なんとか自分なりに申し上げたいことを纏めようと四苦八苦いたしておりますが
準備もせずに重要なる事項について、つい尋ねられるまま安直に書き連ねている
恐れがありますので、まことに勝手なんですが少々休憩をいただきたくお願い申
し上げます。
挙証する資料など纏めまして再度また書き込みさせていただくこともあるかもし
れませんが、例えば「本尊問答抄」と「唱法華題目抄」、佐前佐後の御妙判など
の例をタイプしておりますが、時間もかかりそうなので少しくお待ちいただくこ
とご寛容くださいますよう重ねてお願い申し上げます。外陣拝

※ここ数日の応接でクタクタになりましたですわ。(苦笑)

2093そううそ:2008/02/24(日) 14:07:35
Sub:時既に遅しでしょうか?

外陣さん、羽さん
はじめまして。

創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/
創価学会退会者の「そううそ」といいます。
ここで管理人をしている者です。

01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/0020f051cd307bdb21de03b7934a1d1c
ここを読んで頂いてルールを守って頂けるのが前提でお願いがあります。

243.大御本尊に対する日蓮正宗系(創価学会、顕正会など)の言い分。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7a5bc04fc70058cf4e81ed3c8576a795

244.大御本尊の教団都合によらない見解(その1) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/d487e07cf1e3014c53c4ac8fef38fe5d

大御本尊図顕に関して 「いつ」「だれが」「どういう経過で」 という点に絞って記事を纏めてみました。
一部、引用になってしまい引用許可を得るか箇条書きに変えるか未定です。
この為、他にも一部完成していなのですが、議論は可能なレベルにあると思います。下記のURLについて

「具体的に、いつ、どこで、だれが、という事を明確にして文献や証拠はあるのでしょうか?」

信心で仰げ!、とか、謗法!とかの精神論でなくきちんとした証拠をお願いします。
「出来れば」で結構ですので日道の亡くなった 1341年2月26日 以前の証拠をお願いします。

証拠が有っても無くても私一個人は再度考えさせて頂きます。

2095問答迷人:2008/02/24(日) 18:43:23

外陣さん

どうぞ、お考えを纏められて下さい。書込みをお待ちいたしております。

2096龍門:2008/03/22(土) 23:54:13
れんさん 
はじめまして
龍門と申します。横スレ失礼いたします。

>御遺物配分事には蓮祖門弟の日位写本があるので、
>この写本の日位筆が否定されない限りは、有効であるとは存じます。

立正の中尾先生は、日位の筆勢と相違することから、当該文献を蓮華日持のものではないかとの論考があります。
その論文に提示されている写真をみる限り、当該文献を日位筆とは認めがたいとの意見には私も共感いたしました。
当時、当該文献が蔵されている池田本覚寺に問い合わせたところ、
「それはあくまでも中尾先生のお考えです」とのみ返答をいただきました。

いずれにせよ、すでに日位筆ということについて、異論がでている事実があります。

2097れん:2008/04/11(金) 12:34:18
龍門さん、初めまして。
私、先月下旬から病気しておりまして、ご返信が遅れましたこと、先ずお詫び申し上げます。

日蓮が釈尊を本尊としていたのは、真筆の神国王御書に文永八年頃の自身の仏前を「其外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし」と表現していますので、釈尊の仏像を本尊としていたのはこれは動かないですね。弘安二年或いは同三年に係る真筆の盂蘭盆御書にも「あおぐところは釈迦仏、信ずる法は法花経なり」とあります。
ですから、日蓮が釈尊像を本尊としていたのは事実ですので、やや文献的に扱いづらい(第一級史料として扱えない)御遺物配分帳各写本を持ち出さずとも良いと思います。たしか日位本は日蓮宗事典に写真があったと思いますが、その年号の書き方が弘安五壬午年云々で、この書式は戦国時代以降のもので、鎌倉時代の年号書式とはことなるので、その点からも、かなり後世成立の写本と思われ、伝日位本が日持筆というのも有り得ない思います。

2098龍門:2008/04/14(月) 14:48:11
れんさん

私もれんらんの仰るように、伝日位本が日持筆というのはあり得ない話打と思っております。
ですから中尾先生の論攷を見た時にかなりびっくりしました(笑)
いずれにせよ、宗祖御遷化記録には真正なる日興上人の署名御花押が記されており、
対して、御遺物配分事には署名の下に「在判」とある以上日興上人の記された文献でない以上、
これからの上代の教団史を研究していく途上では、後者の内容に関する扱いには十分きをつけなくてはいけないなぁと勝手に思いました。

2099龍門:2008/04/14(月) 14:49:14
>2098

誤植が多くてすいません。

2100:2008/05/08(木) 18:11:41
以前このスレで独歩氏を叱責したものです。
>>1960さんの意見を参考に、稚拙ながら掲示板とブログを新設しました。

法華論議http://bbsss.net/nichi1/
法華講説http://namumyouhourengekyou.blogspot.com/

2101:2008/05/08(木) 18:16:01
>>2093
不信謗法というものが法華経に説かれていますので
御本尊に関しては慎重にするのが信徒の義務と考えます。

2102犀角独歩:2008/05/08(木) 18:16:04

はて、わたしは、叱責をされた記憶もありません。
また、叱責をするのであれば、偽物に拠らず、本物を持ってきてください。

2103犀角独歩:2008/05/08(木) 18:17:34

それと、わたしは、旦さんがいう信徒ではありませんので、言われるような慎重になる理由もありません。

2104:2008/05/08(木) 18:19:07
はて、ここの題目には信徒の掲示板とありますが…

2105犀角独歩:2008/05/08(木) 18:22:06

信徒の掲示板に、信徒でないものが投稿してはいけないというきまりは、ここにはありません。
あるのは、文献を挙げるのであれば、それが真蹟である証拠を示すことです。
「法華講説」HPには、偽書が堂々と載っていますが、これが本物であることを証して、はじめて、議論になります。
こんなページを紹介するのであれば、この書が、日蓮の真筆であることをまず証することです。

2106管理者:2008/05/08(木) 18:25:40

旦さん

掲示板の主旨は以下のとおりです。

2.各所属団体の活動に疑問を持つ方々の心情の吐露の場

4.富士門流の改革を外部から支えてくれる人達の場

信徒に限定しておりませんので、宜しくお願い致します。

2107:2008/05/08(木) 18:30:14
>>2105
一、御抄何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有るべし、
若し加様の悪侶出来せば親近すべからざる事。

と日興上人が定め置かれておりますので、いずれも偽書に擬す独歩氏に親近してしまうと
旦の方が遺戒置文の一条を破ってしまい、富士門流信徒でなくなってしまう恐れがあります。
文証が信じられないなら、現証の議論になるかと考えます。

ここでの論議は以前と同じように、管理人さんに発言削除・アク禁される恐れがありますので
何か仰せられたいことがあれば、http://bbsss.net/nichi1/で受け付けています。

2108犀角独歩:2008/05/08(木) 18:36:04

所謂『日興遺誡置文』の一節ですね。
では、この書が日興のものであるという証拠はどこにありますか。

また、わたしが「いずれも偽書に擬す」ということですが、どのような偽書を用いたというのでしょうか。具体的に示してください。

もう一点。『日蓮一期弘法付嘱書』は、明らかな偽書です。こんなものを持ち出すことが、まさに「御抄何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者」とは、旦さん、あなた自身のことでしょう。天に唾する者は己の面に、自らの唾がかかります。

2109管理者:2008/05/08(木) 18:47:24

旦さん

>ここでの論議は以前と同じように、管理人さんに発言削除・アク禁される恐れがありますので

一言申し上げておきます。

以前、投稿禁止になった方が、性懲りも無く、ハンドルを変えて、再投稿されても、ルールを遵守されるのであれば、再投稿を禁止するルールは今の所、ありません。

2110:2008/05/08(木) 19:52:17
>>2108
偽書に擬す、というのは
偽書だと疑うという意味と考えますが
日蓮一期弘法付嘱書を偽書ということが
遺戒置文の禁に当たります。
天に唾うんぬんは独歩さんではないでしょうか。。
旦は何も偽書に擬してはいません。

2111:2008/05/08(木) 19:57:10
>>2109
以前もルールは順守させていただきましたが
また管理者さんの逆鱗に触れてしまうのでしたら
手前味噌ですが、旦が用意した場所で、
論議したいと考えています。

2112犀角独歩:2008/05/08(木) 20:05:05

旦さん

なるほど。
では、以下の文を偽書ということは日興の誡めに当たるわけですね。

譲与
南無妙法蓮華経
末法相応一閻浮提第一立像釈迦仏一体
立正安国論一巻 御免状
右為妙法流布一切利益於法華経中一切功徳者所与大国阿闍梨也。至尽未来際為仏法捨於身命一心可弘通妙法者也。夫迹本雖広不出妙法五字。昔迹今本也。広略要之中取要中要可令弘通一閻浮提。雖撰肝心要豈捨広略哉。迹門実相説者是久成之本也。寿量遠本依迹顕也。今此迹本二門共皆迹仏説也。迹無本者不得顕本。本無迹者依何垂迹。本迹雖殊不思議一也。是此経一部正意也。亦是如来第一実説也。釈尊一代之深理亦日蓮一期之功徳無残所悉所付属日朗也。寿量品云我本立誓願乃至皆令入仏道毎自作是念乃至速成就仏身。
 弘安五年十月三日   日蓮  花押


また、その次の項目である「偽書を造って御書と号」すことへの禁誡はどうなりますか。

2113:2008/05/08(木) 20:28:56
>>2112
いいえ。本迹一致を唱える偽書を作るものを見ましたら
富士門流では師子身中の虫と心得なさいと
日興上人は仰せられます。
よってその偽書の制作者は師子身中の虫となります。

2114犀角独歩:2008/05/08(木) 20:30:48

自分に都合の悪いところはとばしちゃ駄目ですよ(笑)
日朗譲状を偽書に擬してはいけないわけでしょう。
こちらの件は、どうしました。

2115:2008/05/08(木) 20:38:45
おかしいですね。
御抄が偽書になることがあり得ないように
偽書が御抄になることもあり得ないと考えます。
遺戒置文にいう、当門流の当とは、日朗でしょうか。
旦は日興門流のことだと考えます。

2116犀角独歩:2008/05/08(木) 20:41:49

では、「御抄」とは何で、「御書」とは何ですか。

2117:2008/05/08(木) 20:45:47
ゆえに、当門流を誹謗しているのは、
独歩氏ということになります。

2118犀角独歩:2008/05/08(木) 20:46:56

旦さん、2116に応えてください。

2119:2008/05/08(木) 20:52:50
>>2116
どちらも宗祖がしたためられた御文
という意味だと考えます。

2120犀角独歩:2008/05/08(木) 21:07:24

あなたの考えを聞いているわけではありません。日興門流の考えを談じているのではありませんか。

日興の時代には、まだ御書の多くが一堂に集まっていたわけではありません。
故に『富士一跡門徒存知事』のなかには、この「御抄」が何であるかが明示されています。

聖人御書の事。付けたり十一箇条
彼の五人一同の義に云はく、聖人御作の御書釈は之無き者なり。縦令少々之有りと雖も、或は在家の人の為に仮名字を以て仏法の因縁を粗之を示し、若しは俗男俗女の一毫の供養を捧ぐる消息の返札に、施主分を書きて愚癡の者を引摂し給へり。而るに日興は聖人の御書と号して之を談じ之を読む、是先師の恥辱を顕はす云云。故に諸方に散在する処の御筆を或はすきかえ(漉返)しに成し、或は火に焼き畢んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり。
一、立正安国論一巻。
  此に両本有り、一本は文応元年の御作、是最明寺殿と要を取って法光寺殿へ奏上の本なり。一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添へたまふ、而して別の旨趣無し、只建治の広本と云ふ。
一、開目抄一巻、今開して上下と為す。
  佐土国の御作、四条金吾頼基に賜ふ。日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校せず。
一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。此の中に弘法の面門俄かに開く事。
  身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄
寺に送る、日向の許に在りと聞く。日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校せず。
一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。
  駿河国西山由井某に賜ふ。正本は日興に上中二巻之在り、下巻に於ては日昭の許に之在り。
一、下山抄一巻。
  甲斐国下山郷兵庫五郎光基の氏寺平泉寺。直ちに御自筆を以っ
て遣はす。 住僧因幡房日永追ひ出ださるゝ時の述作なり、正本の在所を知らず。
一、観心本尊抄一巻。
一、取要抄一巻。
一、四信五品抄一巻。法門不審の条々申すに付いての御返事なり、仍って彼の進状を奥に之を書く。
  已上三巻は因幡国富城荘の本主今は常忍、下総国五郎入道日常に賜ふ、正本は彼の在所に在るか。
一、本尊問答抄一巻。此の御書は□
一、唱題目抄一巻。
  此の書は最初の御書なり、文応年中常途の天台宗の義分を以て且く爾前と法華の相違を註し給へり、仍って文言義理共に爾なり。
一、御筆抄に御書毎に於て法華本門の四字を加ふ、故に御書に之無しと雖も日興今義に従って之を置く、先例無きに非ざるか。

ここに、旦さんがいう『日蓮一期付嘱書』は入っていません。それにもかかわらず、どうして、この書を「御抄」と言えますか。また、あなたがいう『日蓮一期付嘱書』には「法華本門」の四文字もありません。

あなたの言うことは、当門流に違反しています。

2121:2008/05/08(木) 21:27:54
聖人御書の事。とありますから
やはり聖人がしたためた御文を
御書、あるいは御抄といわれていることが拝せます。
また日興上人は数ある御書から十大部を選出したといわれています。
日蓮一期弘法付嘱書には、「本門弘通」「本門寺」とあることから
本迹一致ではなくて本迹勝劣と拝せます。

2122犀角独歩:2008/05/08(木) 21:37:03

あなたの考えを聞いているわけではありません。
『富士一跡門徒存知事』にあなたの言っていることが違反していると言っているのです。

2123犀角独歩:2008/05/08(木) 21:48:37

もう少し具体的に記しましょうか。
2121の旦さんの記述は、『日興遺誡置文』がいう「御抄」を定める『富士一跡門徒存知事』と違い、つまり、『日興遺誡置文』『富士一跡門徒存知事』と違う、日興門流あらざる考えだと言っているのです。

だいたい本門寺とあればいいのならば、池上本門寺でもよいわけですか。

2124犀角独歩:2008/05/08(木) 22:19:45

旦さん

では、返信がないようなので、本関はこれにて休ませていただきます。
なお、勧めるジャンプを見たところ、顕正会・浅井さんのことが出ていたので、二つ、お聞きしておきます。

(1) 浅井さんは、2010年までに1億人を折伏すると「日蓮大聖人」に誓いましたが、なぜ、これを守らないのでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51254826.html

(2) 浅井さんは、日布氏書写本尊は顕正会には1体しかないといっていたのに、全国の会館にあるのは何故でしょうか。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51255783.html

以上2問の解答、以下、スレッドまで解答をお願いします。

顕正会の実態を検証する
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1041207951/

2125犀角独歩:2008/05/08(木) 22:20:28

間違えました。 ×本関 ○本夕

2126:2008/05/08(木) 22:38:12
>>2123
独歩氏の独自な観点からすると
何がどう違うのか、具体的にお願いできますか。

2127犀角独歩:2008/05/09(金) 06:03:59

わたしの独自な観点ではないです。『五人所破抄』の観点です。
『五人所破抄』では『日蓮一期弘法付嘱書』は挙がっていません。何故ですか。

2128犀角独歩:2008/05/09(金) 06:23:53

【2127の訂正】

誤)わたしの独自な観点ではないです。『五人所破抄』の観点です。
『五人所破抄』では『日蓮一期弘法付嘱書』は挙がっていません。何故ですか。

正)
わたしの独自な観点ではないです。『富士一跡門徒存知事』の観点です。
『日蓮一期弘法付嘱書』では『日蓮一期弘法付嘱書』は挙がっていません。何故ですか。

2129:2008/05/09(金) 06:28:24
五人所破抄の十書は十大部といい
日興上人が選出されたものといわれています。
遺戒置文にいう御抄が、十大部しか指さない
という意見は、独歩さんの独自の考えのようですが
少し無理があるように思います。

また五人所破抄の意図するところは
富士山の本門寺や、日興上人のみが後継ということですから
五人所破抄自体が、日蓮一期弘法付嘱書の存在を裏付けていると拝します。

2130:2008/05/09(金) 06:34:25
>>2128五人所破抄ではなく
富士一跡門徒存知事でした。

2131犀角独歩:2008/05/09(金) 06:44:25

旦さん

> 五人所破抄自体が、日蓮一期弘法付嘱書の存在を裏付けている

具体的にお願いします。

2132:2008/05/09(金) 06:50:03
失礼ですが、ここは一スレッドが膨大で
携帯から見ると大変重たいので
続きは先にリンクを張った掲示板で
論じていきたいと考えます。
何か御意見があれば、ぜひ投稿して頂きたいと思います。

2133犀角独歩:2008/05/09(金) 06:53:10

あなたが、リンクを貼った掲示板を利用する意思はありません。
わたしは、自分の発言に責任を負うために、あちらこちらに書き散らさないことにしています。
こちらでお願いいたします。

2321の回答も、顕正会への二つの回答もこちらでお願いします。

2134犀角独歩:2008/05/09(金) 22:31:51

旦さんは、こちらも、結局、応えじまいですか。
要するに、人に難癖をつけて、自分の作った掲示板の宣伝に来たわけですね。
こちらの掲示板に投稿する人々は、顕正会の幼稚な教学に興味を懐くレベルの人は残っていないでしょう。せいぜい、自分で作ったもので、自分に都合のいいことを書くぐらいしかできないでしょう。これもまた、お気の毒な話です。

『富士一跡門徒存知事』は五人と日興の考え方の相違を論じたうえで、日興に正義があることは述べますが、それが直ちに、日興が唯授一人の「本門弘通大導師」とは言っていません。つまり、『日蓮一期弘法付嘱書』と『富士一跡門徒存知事』を結ぶものは何一つありません。

こうしたものをモンタージュして、つなぎあわせて、牽強付会する様は、まるで日興門下の『フランケンシュタイン』物語といった様相を呈しています。日蓮、日興とはまったく無縁で、違うストーリーに仕上がっています。

『日蓮一期弘法書』と呼ばれるものを偽書というのが悪いのではなく、真偽の検定もせず、はなから、本物であると決め込んで、それを偽書とすることを罪悪視するという発想が悪いのです。もっとも、歯にくっついた肉が700年生きているといって憚らないオカルトを信じているのでしょうから、まとも議論は、やはり、できないのは致し方がないことでしょうね。

2135偶ロム偶ログ:2008/05/10(土) 04:29:18
「法華講説」「法華論議」のサイトをざっと拝見したが、法華と冠しているのに、
法華経についての稿が見当たらなかった。
「ご金言」とか「御書」とか「浅井先生」はあるのに・・・。
まあ、偽書を掲載しているのは、顕正会がそれを使用しているからなのだろうが、
底本になにを使用しているのかが全く記されていないのは如何なものか。
これも、おそらくは浅井会長の講義録に掲載されたものをそのまま使っている
のかと思うのだが、そもそも浅井氏の使用している「御書」の本文テキストは
何れの書籍からのものか、これも全く明らかではない。
顕正会が独自に「御書全集」のようなものを編纂し出版しているのであれば、
それをテキストとして使用することも可能だろうが、ずいぶん昔に出版すると
発言してはいたが、いまだに実現していない。
さて、底本は「学会版」「平成新編」「昭和新定」の何れかなのだろうか。
それとも「昭和定本」「行道文庫版」「平成類纂」など他宗のものだろうか。
ぜひとも教えていただきたいものである。

2137偶ロム偶ログ:2008/05/11(日) 02:32:12
>>2136

は?
私は、「日蓮大聖人の御書が法華經について何も言及されてない」などとは記
してはいませんよ。
記してもいないことを仰有るのは幻覚といいます。

日蓮の数ある「御書」の内、法華経について言及していないものはないという
ことなのですか?
私は、日蓮の数ある「御書」の内、法華経について言及しているものについて、
それを一般的に「御妙判」という、そんな初歩レベルの話をしているわけでは
ありません。
もっともあなたはそれすらも承知されていないようですが。

「御書」に法華経についての言及があるのは当たり前ではないですか(笑)。
私は、あなたのサイトに「法華経についての稿が見当たらなかった」と書いて
いるのです。
的外れどころか的すらない難癖をつけるような真似を日蓮はしましたか。
あなたの難癖はあなたが日蓮の弟子ではないことを印象づけているのですよ。
「節穴」云々の前に、私があなたに対して発言したことについて、まづひとつ
ひとつ発言する、それが論議のあり方であって、それを「論議講説」というの
ですよ。
それすら弁えていないあなたが、「法華講説」「法華論議」など片腹痛いどこ
ろか、法華経や日蓮に対して僭越、不敬の極みでしかありません。
廃刀令以前であれば、私はあなたを無礼打ちしますよ。

私はいくつもの疑問をすでに提出しています。
それに対して、節度ある返答がいただけないのであれば、今後あなたの発言に
ついては日本語の理解能力が欠如した唐人の寝言として理解します。

蛇足ですが、あなたが>>2136で書かれた>>2134に対する暴言についても不愉快
きわまりないものです。
あなたは、これまで当掲示板でさまざまな人たちが悩み苦しみながら発言し、
かつ論証してきた内容を読んでもいないのですか。
1、日興上人に正義があるという論拠
2、唯授一人の本門弘通大導師という論拠
これらについて、全く根拠が無いということは、当掲示板ですでに言い尽くされ
てきたことです。
それでもあなたが斯様に主張するのであれば、論議の蒸し返しにならない、新た
な論点と論拠を提出しなければなりません。
このような単純な道理も分らないのであれば、あなたの頭は七つに割れているの
であろうかとの疑いを持たざるをえません。

だいたい、偉そうなことを宣うあなたは、日蓮どおりの勤行をしていますか。
顕正会流の勤行など、日蓮とは全く関係のないものでしかありません。
日蓮どおりの勤行をしていないものが日蓮や法華経をあがめようと無意味です。
これについても当掲示板ですでに論じられています。

2138管理者:2008/05/11(日) 06:32:04

旦さん

>貴殿の目は節穴としか言いようがない。

もう止めませんか。反論に対して、このような侮蔑で応ずるのはルール違反です。

当掲示板の禁止事項を再掲します。

【禁止事項】

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。もし、そのような表現や発言が見うけられた場合は、管理者がその都度、御注意申し上げると共に、その該当する表現、発言を含むレス全体を削除致します。なお、管理者の制止を無視して、侮辱表現、侮辱発言を続けられた場合は、以後の投稿をお断りする事になりますので、予め、御承知置き下さい。

このルールにより、あなたのレスは削除します。以前、投稿禁止になったあなたが、臆面も無く、ハンドルを変えて、ルール無視の投稿を続ける事を容認するほど、この掲示板のルールは寛容では有りません。

旦さんを再度投稿禁止にします。

2139れん:2008/05/18(日) 18:44:24
参考までに
1、二箇相承
これは、西暦1400年代に保田と北山の通用により、北山の日浄師から保田の日要師が伝来した北山関係の文書の切り紙の中にあるものと日尊門流の日広師の写本が最古写本ですが、それ以前において確実な文献においては二箇相承の存在を示すものはなく、このことから、二箇相承は、北山の日浄師が、石山や西山との正嫡論争における北山正当論の証拠となる文書として、同寺に所蔵される蓮祖真筆の貞観政要等の筆跡を参考にしつつ作成したものでしょう。また、日要師の写した北山の文書には二箇相承とともに、“本門寺大堂本尊”の“裏書”の写しもあります。北山の日殿師の申状によると、北山では自山を本門の戒壇と規定し、本門寺大堂本尊が三堂の内、本堂(法華本門寺根源)に懸ける漫荼羅としており、当時の北山文書を通読しますと、北山においては、二箇相承に見える“富士山本門寺戒壇”の漫荼羅は“本門寺大堂本尊”であったことが理解出来ます。
このことから分かるように、二箇相承は、あくまで北山で偽作され使用された文献で、石山でいう“唯授一人血脈相承”や石山の“お板”とは何の縁もゆかりもない文献ですね。天正年間の北山と西山の紛争により本門寺大堂本尊と二箇相承が紛失したあと、石山日主が二箇相承と“お板”腰書きの写本を作成していることから、北山の重宝紛失のドサクサに紛れて、日主が日道門流版の“戒壇本尊”を作成し、日道門流の正嫡論を主張したと見るのが至当です。日道門流に於いては、模刻板本尊は日影・日有の時代から見えますが、日道門流に於いて“戒壇本尊”としての漫荼羅(お板)の存在を示す歴代の文献の初見は日主ですので、日道門流における“戒壇本尊”を作成したのは日主でしょうね。

2、日興遺誡置文

これも、日興師の真筆や直弟子による写本は現存せず、確かな最古写本も保田日我師と要法寺日辰師のもので、時代も戦国時代後期まで下るため、日興師真撰説は証明が不可で、寧ろ後世に作成された偽書の可能性が高く、あくまで門流文書として扱うのが普通です。

2140顕正居士:2008/05/18(日) 19:07:26
そもそもこの文書は大石寺との抗争で北山が実物を提出したことがあります。
(以下「素朴な疑問」にずっと前に投稿したものです)

「永正年間大石寺日鎮師は「富士山本門寺なる號は本門戒壇建立以後初めて公称
すべきものなるにも拘はらず重須が本門寺と號するは興師の正意にあらず」と
主張したから重須本門寺日國師は小泉久遠寺日継師と共に之を領主今川氏親に
訴へ、斯くて氏親の前に於て対決となったその時重須方から呈示したのが所謂
二箇の相承である、其時氏親は其等を以て真書として左の判決を下して居る。

従日蓮聖人的々相承並本門寺々號支証明鏡之上領掌無相違者也 仍状如件
永正十二年乙亥(祖滅二三四)六月二十六日 修理大夫 書判 本門寺日國上人」

「富士日興上人身延離山の研究」
(早川一三著、昭和11年刊、同48年再刊ニチレン出版)

*日蓮聖人従(よ)り的々(ちゃくちゃく)相承並に本門寺々號、支証明鏡の
上は領掌相違無き者也、仍(よ)て状(さた)件(くだん)の如し。
*早川一三-後、北山本門寺法主。

2141犀角独歩:2008/05/18(日) 19:18:17

れんさん

『貞観政要』については、上杉師のところにお邪魔した折、お聞きしたことでした。たしか、戦前かに、これを売り出したことがあったということで、そのときの広告のコピーを頂戴した記憶があります。
この『貞観政要』と『二箇相承』の写本は、筆跡で一致しますか。

日主の造立説は、説得性がありますね。腰書きは、ともかく、このときの本体は、何を原本に用いたとお考えになりますか。

2142れん:2008/05/18(日) 21:06:43
顕正居士さん
二箇相承が、北山日国師時代の北山と石山との係争において、北山が使用した実例をお示しくださりありがとうございます。


犀角独歩さん
貞観政要の複製が戦前の北山から刊行されたことは存じ上げております。
二箇相承の正本は天正年間の紛争で紛失してしまったため、筆跡を照合することは不可ですが、二箇相承の日耀写本や日健写本の写真を見る限り、それぞれの筆跡から底本とした二箇相承を忠実に写し取ろうとする意志は伺えるので、それを踏まえて見比べますと、二箇相承写本をみる限り、その底本となった二箇相承は、貞観政要北山本の筆跡を参考にしているのだろうとの印象を受けます。
石山日主が作成した可能性の高い石山版の戒壇本尊については、腰書き写本以上の情報がないので、なにを原本にしたのか、特定は不可能ですが、日鎮・日院・といった日主の先師ならびに日主自身、また日主以後日精辺りまでの歴代の漫荼羅の画像が得られれば、その相貌から、ある程度の当時の彫刻の相貌を推定することは可能かと思われます。そこから、原本を考察出来るかもしれません。

2143犀角独歩:2008/05/18(日) 21:26:06

れんさん

有り難うございました。

「富士山に本門寺…」ではなく、「富士山本門寺」であるとは、かつて顕正居士さんも指摘されたことでしたね。併せて、『貞観政要』からの拾字、もしくは参照したということが立証されれば、さらに二箇相承の実態が闡明になりますね。

日主であれば、安82本尊が、初代彫刻の原本であれば、自然ですね。しかし、そうなると、これをほかの物に何故、取り替えなければならないかの説明がつきません。あの時代に、ほかに戒壇本尊の下図にできるような大幅の本尊が、ほかになにかあったのでしょうかね。

2144れん:2008/05/19(月) 20:23:46
犀角独歩さん

日主の“霊寶虫払い日記”には二通あります。元亀四年八月十九日のものには「御筆之大本尊、一包、同三包」とあり、天正八年七月七日のものには「御正筆御本尊、四包」とあります。これにより、日主の時代には蓮祖真筆として伝来した漫荼羅が四幅あったことが分かります。包の字が鋪の字の当て字ならば、この四幅は紙幅と判断されます。この四幅が現存の石山のどの紙幅の漫荼羅に該当するかは不明ですが、この中には日影・日有の時代からの伝来が確認される安82が必ず入っていると見るのが至当ですから、元亀のモノに見える「御筆之大本尊」は安82と見てよいかもしれません。
犀角独歩さんのご指摘のように、私も石山におけるそもそもの戒壇本尊として用意したのは安82であったろうと思えます。が安82は弘安三年ですから、お板を作成した際は、安82を底本としつつも、例のパッチワーク技術で底本の年月日は使用せず、且つ日興師の漫荼羅を参考に、明星天や龍樹・天親・章安・妙楽を加えて別幅の漫荼羅を作成し、腰書きとの一応の整合性を持たせた可能性も有りと思われます。

2145れん:2008/05/19(月) 21:12:15
なぜ、他のものと取り替えなければならなかったのか、を考えますと、江戸時代に入り、京都要法寺から入寺した貫首あたりの発案でしょうか?安82を紫宸殿御本尊と称するようになってから、別仕立ての“戒壇本尊”が必要になったが故…ということでしょうか。となると、初代彫刻は案外安82のままで(さすがに年号は使わなかったでしょうが)、二代目以降から安82と歴代漫荼羅のパッチワークや、その後入手した漫荼羅を底本として再造が繰り返されたということになると存じます。

2146犀角独歩:2008/05/20(火) 10:45:29

れんさん

重ねてご教示、有り難うございます。
仰る筋、賛同します。

2147彰往考来:2008/05/25(日) 13:45:56

日主師のお虫支払い記録にある御本尊

日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅がどれをさすのかは興味ある点です。
元亀4(1573)年8月19日のお虫払いでは、
「御筆の大本尊一包同く三包」(『富士宗学要集 第8巻』(以下『富要集8巻』と略します)昭和53年、創価学会、43頁)とあり、
天正8(1580)年のお虫払いでは、
「御正筆の本尊四包」(『富要集8巻』44頁)とあります。要はこのころ四幅の宗祖御本尊が富士大石寺にあったという記録内容です。なお、私は“包”は“幅”の略字ではなく、まさしく御本尊が包んであったと解釈しています。「御つゞら(葛篭)」(『富要集8巻』43, 44頁)が出てきますので葛篭に入っていたことは間違いないでしょう。
さて、この四幅の中に弘安3年3月の紫宸殿御本尊(第82番本尊)が含まれるであろうことはこの御本尊が文安2(1445)年に9世日有師により模刻され(『富要集8巻』194頁)、紙幅の御本尊が現在も富士大石寺に蔵されている(『富要集8巻』178頁)ことから疑問はないでしょう。
では、他の三幅がどれであったか推定できる可能性のある資料をみてみましょう。
京都要法寺の日陽師による「祖師伝 同付録」の「釈の日陽」の項(『富要集5巻』59頁)に、
「(元和三(1617)年)四月廿四日大石寺に着く、(中略)御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅、病即消滅曼荼羅、其の外曼荼羅数幅」
とあります。この記録は元和3(1617)年はお虫払いのあった天正8(1580)年と時期的に極めて近く、かつ御本尊数もほぼ一致するので参考にできます。「紫宸殿御本尊」が記載され、それとともに「病即消滅曼荼羅」が記載されています。この「病即消滅曼荼羅」は、『富要集8巻』177頁に「建治二年太才丙子八月十三日」とある御本尊が該当すると考えます。これは『日蓮正宗大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、89頁)に、
「病即消滅不老不死御本尊
建治二年(1276)太歳才丙子八月十三日の大聖人ご真筆の御本尊である。讃文に「病即消滅不老不死」の経文がしたためられてあるので、古来この称がある」
とあることから明らかです。建治二年の「病即消滅曼荼羅」(「病即消滅不老不死御本尊」)が日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうちの一幅であることはまず間違いないとみてよいでしょう。四幅のうち二幅が明らかになったと考えます。

2148彰往考来:2008/05/25(日) 13:46:40

2147の続きです。

天正8(1580)年のお虫払いからもう少し時代が下がりますが、文政6(1823)年の富士大石寺44世日量師による「富士大石寺明細誌」(『富要集5巻』335頁)に、
「一、蓮祖真筆大漫荼羅 三枚継    一幅
 弘安三太歳庚辰三月日、紫宸殿の本尊と号す、伝に云ハく広布の時至りて鎮護国家のために禁裏の叡覧に入れ奉るべき本尊なり云云。
一、同本門寺重宝大漫荼羅      一幅
傍書に云ハく弘安三年庚辰十一月、本門寺重宝たるべきなり。
一、同 病即消滅の漫荼羅      一幅
傍書に云ハく建治二年丙子八月十三日、又死活の本尊と号するなり。
一、同 紺紙金泥の漫荼羅     一幅
傍書に云ハく文永元甲子二月十五日。
一、同 漫荼羅          九幅       」
とあります。
ここで日主師のお虫支払いの記録にある御本尊四幅のうちの二幅と思われる「紫宸殿御本尊」と「病即消滅曼荼羅」を含めた四幅の御本尊記載が「富士大石寺明細誌」にあることは興味があるところです。板本尊以外の宗祖御本尊総数は十三幅ですが残り九幅は十把からげです。
「富士大石寺明細誌」にある弘安三年十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」と文永元年の「紺紙金泥の漫荼羅」が天正8(1580)年のお虫払い時の残り二幅であると断定はできませんが可能性はあるでしょう。

弘安三年十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」は、『富要集8巻』177頁に「弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人御加筆)本門寺重宝たるべきなり」とある御本尊が該当すると考えます。弘安二年と弘安三年の違いがありますが、これはどちらか判断できません。『日蓮正宗大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、89頁)には、
「本門寺重宝御本尊
弘安三年(1280)太歳庚辰十一月 日、俗日増授与の大聖人ご真筆の御本尊である。
「本門寺重宝たるべきなり」との日興上人のご加筆があるので、〝本門寺重宝御本尊〟という。
(丈49センチ 幅41センチ)                   」
とあり、寸法から一紙の小振りの御本尊であることがわかります。
『富要集8巻』では「弘安二年太才己卯」、『日蓮正宗大石寺』では「弘安三年太歳庚辰」と干支(己卯&庚辰)がそれぞれの元号年(弘安二年&弘安三年)に対応して書いてあるのにはあきれます。これでは「二」と「三」の見間違いという単純なものではなく、どちらかが完璧に間違っています。実見できれば相貌だけで弘安二年であるか弘安三年であるかは解かるはずです。
管見に入った日蓮正宗関係の資料ではどう書いてあるか相別してみましょう。

2149彰往考来:2008/05/25(日) 13:47:31

2148の続きです。

<弘安二年とあるもの>
堀日亨編『富士宗学要集 第8巻』昭和53年、創価学会、177頁
山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』1993年、山喜房佛書林、154頁
阿部日顕監修『日蓮大聖人正伝』昭和56年、日蓮正宗総本山大石寺、476頁

<弘安三年とあるもの>
日量「富士大石寺明細誌」(『富要集5巻』335頁)
『日蓮正宗大石寺』昭和45年、東西哲学書院、89頁
『富士年表』昭和56年、富士学林、48頁

といったところです。
これではどちらが正しいのか判断できませんが、私は弘安三年ではないかと思っています。『日蓮正宗史の基礎的研究』は『富要集8巻』の引用みたいですし、意外に誤記があります。『日蓮大聖人正伝』は読んでいても史実感が伝わってきません。
反対に『日蓮正宗大石寺』は『日蓮正宗史の基礎的研究』の誤記箇所が間違っていません。
例えば富士大石寺蔵の日禅授与御本尊について『日蓮正宗史の基礎的研究』では「弘安三年太歳庚辰卯月日」(154頁)としていますが、『日蓮正宗大石寺』では「弘安三年太歳庚辰五月九日」(90頁)としています。また富士大石寺蔵の優婆夷一妙授与御本尊について『日蓮正宗史の基礎的研究』では「優婆塞一妙」となっていますが『日蓮正宗大石寺』では「優婆夷一妙」です。この御本尊は『御本尊集目録』の第116番本尊でここでは「優婆夷一妙」です。
この富士大石寺蔵の優婆夷一妙授与御本尊はなぜか『富要集8巻』に入集していませんが、堀日亨『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会、786頁)に「富士宗学要集に脱漏したが脇書は左の如しである。弘安四年太歳辛巳十二月日、優婆塞一妙に之を授与す、(興師加筆)遠江の国相良の小尼に給う本尊なり。(中略)御筆はまったく疑いのない御正筆である」とあって「富士宗学要集に脱漏」とあります。ここで「優婆塞」とありますが、「小尼に給う本尊」であったことから第116番本尊の写真図版と併せやはり優婆夷が正しいと判断します。
『日蓮正宗大石寺』では記載されているすべての御本尊の寸法記載があります。これは何らかの形で実物を調査したか、または調査結果が使用されているためで、その分信憑性があると考えます。
『富士年表』では当該箇所に(8-177)とあり、これは(『富要集8巻』177頁)の意味です。上述のとおり『富要集8巻』177頁では弘安二年との記載がありながら弘安三年の項に記載されているわけで実物調査結果が反映されているためと考えます。
これらのことから弘安三年である可能性が高いと考えたわけです。

2150彰往考来:2008/05/25(日) 13:48:20

2149の続きです。

さて、この日増授与の弘安三年(もしくは弘安二年)十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」ですが、これが弘安二年十月十二日の戒壇本尊の原本ではないかという説が木下日順編著『板本尊偽作の研究』(発行年不詳、本門社、40頁)にあります。

木下日順師は「富士大石寺明細誌」と『富要集8巻』の記載を校合して、
「堀日亨の記録と明細誌を校合した場合は、左の三幅である。
一、建治二年八月十三日 死活の曼荼羅
一、 弘安二年十一月 日 日増授与曼荼羅
一、 弘安三年三月 紫宸殿御本尊」
の三幅をピックアップし、
「しからば本門戒柤(引用者注:“戒柤”ではなく“戒壇”ですが原文のママ)の板本尊の模写の原本はと云えば、弘安二年十一月 日『俗日増授与曼荼羅、日興加筆、本門寺重宝たるべきなり』と云う御真筆が、クローズ、アップされる。編者が、日蓮正宗の僧侶なら、問題は今すぐでも解決するのであるが、他派、他門流に属するので、まことに、もどろかしいが、実地調査ができないので、机上の空論を進めて行かねばならない。
(中略)
今、仮に、編者の云う如く、板本尊の十界座配と、弘安二年十一月の、俗日増授与の曼荼羅とサイズがぴたりと合ったら、拍手喝采をお願いします。若し、此の二つのサイズが合はなかったら、編者の浅学と、おゆるしください」
としています。
『富要集8巻』では「弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上人加筆)本門寺重宝たるべきなり」とあり、「富士大石寺明細誌」(『富要集5巻』335頁)では「一、同本門寺重宝大漫荼羅  傍書に云ハく弘安三年庚辰十一月、本門寺重宝たるべきなり」とあって、両資料とも木下師の如き文ではありません。特に「漫荼羅」は「曼荼羅」とは記載されていません。また木下師はこの段階で弘安二年としていますし、文章も『富要集8巻』のほうがどちらかといえば近いので出処は『富要集8巻』でしょうが、「富士大石寺明細誌」に弘安三年とある点について全く触れておらず、「日増」と「俗日増」の用語不統一などもありかなり杜撰です。
日増授与の弘安三年(もしくは弘安二年)十一月の「本門寺重宝大漫荼羅」は写真図版などが公開されていないので最終判断はできませんが、『日蓮正宗大石寺』(89頁)に丈49センチ 幅41センチとありますので、寸法から考えて一紙の小さい御本尊であり戒壇本尊の原本には成り得ないと考えます。

2151彰往考来:2008/05/25(日) 13:49:28
2150の続きです。

次は「富士大石寺明細誌」に、「紺紙金泥の漫荼羅  一幅  傍書に云ハく文永元甲子二月十五日」とある御本尊です。
享保年間(1720年頃)に作成された、日寛上人・抜書雑雑集(『研究教学書第九巻』)
インターネット資料:
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/nukigaki.htm
にも紺紙金泥の漫荼羅の記載(「当山紺紙の御本尊 文永(甲子)元年也」)があることから、「富士大石寺明細誌」が成立した文政6(1823)年より少なくとも100年はその存在確認を文献上遡ることができますので、文永元年の紺紙金泥の漫荼羅が日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうちの一幅である可能性が高くなります。
しかし、この文永元年の紺紙金泥の漫荼羅は『富要集8巻』、『日蓮正宗大石寺』、『富士年表』、『日蓮正宗史の基礎的研究』など主要な資料に入集しておらず、つまりは御真筆として扱われていないのです。それは図顕日が文永元年であること、紺紙金泥であることから後世の偽筆と判断できます。このようなものが戒壇本尊の原本に成り得るとは考え難いと思います。
図顕日については日蓮正宗宗務院発行の『日蓮正宗要義』に「佐渡流謫の直前、相州依智発足の前日の十月九日、初めて楊枝をもって妙法曼荼羅を書き顕わされた」(昭和53年、日蓮正宗宗務院、152頁)とあることから、日蓮正宗でも宗祖の本尊図顕は竜の口の法難以後、文永8年になってからで第1番本尊からということになっています。つまりそれ以前の漫荼羅は怪しいということです。
紺紙金泥について寺尾英智氏は「曼荼羅本尊においても、日蓮より後のものについては紺紙金泥などの実例が豊富に存在しているが、実見した日蓮真蹟には、紺紙や紫紙、黄紙などの染紙が使用されている例はみられなかった。長い年月にわたり香の煙りに燻された結果、本来の紙色が判別つき難い場合もあるが、写真版によっても紺紙などの使用は一幅も見受けられないのであって、日蓮の曼荼羅本尊には基本的に染紙は用いられなかったといえよう」(寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、10頁)と指摘しています。なお同書同箇所の注記5に「身延山にかつて伝わっていた曼荼羅本尊に紺紙金泥のものが一幅存在するが、諸尊の座配に類例がなく、真偽の検討を要する。山中喜八「日蓮聖人漫荼羅図集」(初出は『大崎学報』第一○二号、一九五四年。ここでは同『日蓮聖人真蹟の世界』上<雄山閣出版出版、一九九二年>による)七六頁」(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』20頁)とあります。
山中喜八「日蓮聖人漫荼羅図集」(『日蓮聖人真蹟の世界 上』76頁)には「迹化菩薩のかくの如き配位は、その例を見ない。紺紙金泥もまた他に例がない」とあります。この漫荼羅はC(Ⅱ)3に分類され文永11年に顕されたと推定されていますが、佐渡期に紺紙金泥は確かに不自然です。『日蓮聖人真蹟の世界 上』11頁に「普賢・文殊を上段(所謂仏部)の低位に、薬王・弥勒を中段に配せられたもの(C(Ⅱ)三)但し在疑」とあり、山中氏は明確に“在疑”としています。

以上、日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅について考証しました。考証結果から日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうち戒壇本尊の原本となりうるのは紫宸殿の御本尊だけであり、案外日有師が作成したこの御本尊の模刻が初代戒壇の板本尊だったのではないかとも考えられます。
>2144石山におけるそもそもの戒壇本尊として用意したのは安82であったろうと思えます
というれんさんの考えは的を得ていると思います。

by 彰往考来

2152パンナコッタ:2008/05/25(日) 22:57:23
すみません。単純にNO.82と板のサイズを比べると
 NO.82 95.5×50.5    板 144×65(聴聞抄佳跡上サイズ)
たて約150% よこ約130% 大きく、籠抜をそのままにレイアウトをずらしたとしても
文字をかなり拡大しない限り、ちと無理なサイズではないでしょうか。
逆に言えば初代の板サイズは、実は小さかったのではないかなと。

後の時代の峯妙興寺日憲図では、聴聞抄のサイズよりちと大きく章安の勧請が気になりますね。
やはり、彰往考来さんが以前指摘なさっていた火事後の再造、別物なんでしょうね。

時代は下って明治の時代、板サイズの制約(竪五尺弱・横二尺ちょっと)があったがために
NO.82ではなく、売りに出されていたという日禅授与が採用されたのかもしれませんね。

2153:2008/05/29(木) 14:40:12
独歩氏の入手写真、僧侶が撮影したものであるというのは、本当でしょうか。

2154宗麟:2008/06/04(水) 00:53:59
この撮影は確実に信徒が実行。
原画を出さない所に悪意が見えますね。
大石寺を食い物にしている宗教ゴロとのコラボレーションです。

2155犀角独歩:2008/06/04(水) 07:03:51

写真の撮影者が、僧か族かは置きます。

大石寺は煮ても焼いても食えないでしょう。
しかし、大石寺が食い物にしてきたのは、東京都の人口に匹敵した信者でした。
それにもかかわらず、2154のように、自らが騙され、食い物にされることなく、他者攻撃の道具とされていることに気づけないものがいまだにいることを気の毒に思います。

2156犀角独歩:2008/06/04(水) 07:05:02

【2154の訂正】

誤)族 正)俗

2158宗麟:2008/06/05(木) 04:59:28
例えばだが、日蓮正宗が仮に消えてもそれはそれで世界は変わらない。

そんな煮ても焼いても食えないものこそにこだわり続けている姿こそが実に未練がましく人に映る。

まるで創価学会や日蓮正宗のしていることと同じこと。

2159偶ロム偶ログ:2008/06/05(木) 13:20:40
>>2154
>>2158

宗教詐欺というのは良いことではないですよね。
無自覚的にも、かつては加害者であったという忸怩たる思いや、その反省とか償いをふくめ、新たな被害を生まないための行為を何故批判することができるのでしょうか。

>原画を出さない所に悪意が見えますね。

どのように悪意が見えるのでしょうか。
たんなる印象で語ることは「気分のファシズム」への一里塚です。

>大石寺を食い物にしている宗教ゴロとのコラボレーションです

具体的に「宗教ゴロ」の氏名と、何故「宗教ゴロ」であるかの説明をお願いします。

>日蓮正宗が仮に消えてもそれはそれで世界は変わらない

ひとそれぞれの考え方がありますが、悪いものを世の中からなくしたいと思い行動することは無駄ではありませんよ。

>そんな煮ても焼いても食えないものこそにこだわり続けている姿こそが実に未練がましく人に映る

未練という言葉の意味を御存知ですか。
独歩さんのしていることは、正義感からでていることは、ブログを読めばわかりそうなものですが、日本語が理解できないのでしょうか。

>まるで創価学会や日蓮正宗のしていることと同じこと

理由を具体的に挙げてくださいませんか。
宗教団体である創価・正宗・顕正・妙観・正信などは宗教詐欺まがいの教義教学で、会員信徒たちから金銭や時間を収奪していますが、独歩さんはそのようなことをしていませんよ。

独歩さんを中傷するあなたは、創価・正宗・顕正・妙観・正信などの宗教詐欺まがいを、そのまま許して認める立場ということでしょうか。
もし、あなたがなんらかの宗教に入っておられるのであれば、それはどこなのか教えていただけませんか。
そうすれば抽象的な書き込みをしなくてすみます。
私は、現在どの教団にも入ってはいません。

ちなみに、私が書いた、
「宗教団体である創価・正宗・顕正・妙観・正信などは宗教詐欺まがいの教義教学で、会員信徒たちから金銭や時間を収奪しています」
という記述の論拠については、掲示板で過去に多くの方たちにより論議し尽くされていますので、ここで改めて説明する必要もないと思います。

2160犀角独歩:2008/06/05(木) 19:20:30

ここは証憑を課した議論の場です。
ですから、2158のような為にする批判の類は、捨てておくことにします。

なお、一点のみ記せば、何を目的に、宗麟さんは、投稿しているのだが存じませんが、ここに投稿するあなたは、何に未練を懐いて、ここに顔を出しているのでしょうか。あなたの投稿こそ、未練がましく、そして、その投稿スタイルこそ、「まるで創価学会や日蓮正宗のしていることと同じ」ではないでしょうか。

単に批判、悪口を記すことは、当掲示板のルールに抵触します。
繰り返すようであれば、管理人さんに削除依頼をいたします。

以上です。

2161再挑戦者:2008/06/08(日) 22:01:42
2158>,、、煮いても、、焼いても、、>>、自らがだまされ、、、、。

 横からごめんです。  貴方のご意見ですが、ドーモ、シックリとは理解できません。
 ドーモ、周り回っての結論は、、==<<創価・正宗の路線の継続推奨の宣伝のようでもあります、?
 なぜなら、「、エエカゲンな戒壇??さまを吹き込み、その対面功徳を強調した登山会、、など」にはほおかむりのようでしょうか、? 残念ですネ。

2166再挑戦者:2008/07/13(日) 20:34:05
  その後の、検索にて、小生の100%に相当する状況・誤認でした。 改めてお詫び致します。
 貴殿御主張のごとく「、某団体は、今の批判には全く耐えられないニセ、!! 戒壇なる、? 疑惑大だが、」、「ダマシの継続を少しも、、止めめません、!!!」、。これらの団体には「組織犯罪処罰の法律」にて、当該のトップ方らは刑務所にブチ込めないのでしょうか、?!

2167龍門:2008/07/31(木) 15:13:40
最近、大日蓮に金原さんへの反駁文がでてますね。

2168彰往考来:2008/08/02(土) 17:05:01

戒壇の大御本尊誹謗の悪書『日蓮と本尊伝承』を破す

http://homepage3.nifty.com/y-maki/dainitirenn/kinnbara/mokuji.html

まあ、反論になっていないですね。

2169犀角独歩:2008/08/05(火) 11:07:04

水島さんが「…犀角独歩なる者が『大石寺彫刻本尊の鑑別』と題して偽作説を立てている。今回の金原の悪書はこれらの邪説の寄せ集め」と整理していますが、まあ、その“寄せ集められた”一人として感想を述べれば、大石寺のいうことはなんら反論になっておらず、また、そこで使われる言辞から、実に差別的、侮蔑的で、これが本当に僧侶といった世に「聖職」と言われる立場にあるものが書いたものなのかと呆れるばかりの人間性の低さを露呈しています。

この文章を読んで、人々が誘引されるのは、自分たちを批判するものへの憎悪と侮辱、自分たちだけが勝れているという選民意識、間違ったものは人間性を侮辱してもよいという非人間性。これは反論とか、考証といった範疇のことではなく、「大石寺僧侶の人間性」がどのようなものであるのかを示す好見本であるとわたしは観察しました。

水島さんは批判するものを「哀れ」と書いていますが、哀れで、さらに無様なのは自分たちであると、信者以外が読めば、そう思うことを少しは自覚したほうがよいでしょうね。

2170犀角独歩:2009/01/07(水) 11:40:49
私が提供を受けた写真が「捏造」だと GREE やモバゲーで騒ぐ法華講員国分ひろしさんに対する反論を書きました。ご高覧、ご批正をいただければ有り難く存じます。

奉安堂彫刻本尊写真“捏造”に反論する
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51481490.html

2171問答迷人:2009/01/07(水) 19:51:37

犀角独歩さん


「日禅授与本尊を基にした捏造写真」とは、面白いことを言うものですね。「戒壇板本尊が偽物だ」と、日顕師の発言として記録された川辺メモの内容と、ほとんど変わらない所まで、到達しているわけですから、その批判者はそれは却って立派な者ですね(笑)。もう少し踏み込んで、独歩さんが提示した写真が捏造なのではなくて、その写真の被写体たる戒壇板本尊が捏造品なんだと気が付けば、100点満点なのに、惜しいですね(笑)。

独歩さんの精緻な論考は残念ながら、今後とも、まともな批判は唯の一つも現れることは無いと思っています。有難う御座いました。

2172犀角独歩:2009/01/07(水) 22:20:12

問答名人さん

いえいえ、戒壇本尊と日禅授与本尊の類似性に一番最初に気づかれたのは、問答さんです。わたしは図形で鑑別して、証明しただけです。

それにしても、この子、可愛いでしょう。あの写真は日禅授与本尊だ、だから偽物だというのです(笑)

そりゃ、そうですよね、あの彫刻、日禅授与が原本なんですから、そのとおり。ところが彫刻、オリジナルだと思っていますから、捏造したのはわたしだというのです。捏造したのが大石寺であるにもかかわらずですよ(爆笑)

さすがに大石寺も、顕正会も、もともと、これが日禅授与が原本であることはわかっていますから、こんなことは言わない。この子が思い詰めた結果の思いつきでしょう。ああ、こんなふうに考えるのかとビックリしました。

それにしても、わたしが提供したとおりの本尊画像を実際に捏造するとしたら、これはかなりたいへんですね。なにせ、熊田(由井)写真とも、金原本とも違う、さらに鮮明なショットなわけですから、画像のプロでも作れませんよね、こんな画像。これだったら、火星人や、UHO写真を作るほうが、ずっと簡単だと思いますね。

ここまで、大石寺を庇う姿を見ると、滑稽と言うより、哀れみを通り超え、慈愛すら覚えますね(笑)

2173宗教はアヘン:2009/01/12(月) 00:29:28
犀角様の説に従えば、戦後日本最大の宗教団体(正宗・創価学会・正信会・顕正会・日蓮実宗など所謂正宗系の合計)
にしてこの有様ということになる。では他に正しい教団はあるのか?私はどれもこれも同じようなものと考える。
結局、唯一正しい宗教団体なんてこの世に存在しないのである。その証拠に第二次世界大戦では日本中の神社・仏閣が戦勝祈願したけれども
結果はアメリカに原爆2個落とされて惨敗。300万人以上が戦死すると共に、
好むと好まざると中国人など敵兵を殺して殺生という罪を犯した人々も多数生み出して
しまった。キリスト信者が多い長崎に原爆を投下したアメリカもアメリカだ。
現在も中東ではイスラエルとパレスチナが殺し合っている。正しい神が存在するなら無駄な殺し合いを
不思議な力で止めるはずだが止まらない。ところで宗教団体は立派な建物を保有しているが
派遣切りにあってホームレスになろうとしている派遣村の人たちをどうして
助けようとしないのか?教団や神社や寺院がホームレスを収容したらよいではないか?
日頃は宗教法人で免税されて優遇されているのだから未曾有の経済危機の
今こそ活躍したらよさそうなものを。生きるか死ぬかの人々を見捨てるとは
随分と冷たい神や仏ですね。布教といっても会費や御供養金を払える人しか
勧誘していない宗教団体は邪教だ。金も家も失ったホームレスをまず救うべきだ。
それをしない教団が世界布教だ、人類救済だと言っても何の説得力もない。
戦後高度成長期やバブル時代は国民は終身雇用だし、給料も定期昇給したし、電化製品や車、マイホームも
持てた。これを宗教団体は「功徳が出た」と宣伝していた。しかしこれからはそうはいかない。
世界経済は益々悪化していく。失業もドンドン増える。犯罪も増えよう。
「功徳」が出にくい世の中になる。宗教はアヘンということが明確になってくるであろう。

2174宗教はアヘン:2009/01/12(月) 11:25:25
創価学会が急速に拡大できたのは、一つは他に類をみない過激な折伏大行進を敢行した事、
二つは高度成長期に田舎から都会へ出てきた労働者たちが心のよりどころとした事。
三つは共産主義が広がるよりマシと判断した国家権力が戦後は弾圧しなかったこと。
いや創価学会だけではない。新興宗教が発展したのは経済成長の恩恵を功徳だと
説明したことであろう。労働者は生活が向上すると功徳だと錯覚したのだ。
創価学会が正本堂を建設した頃は他の宗教団体も相次いで巨大神殿を建設している。
皆が儲かった時代だ。しかし、今は違う。いくら拝んでも悪くなるばかり。
功徳はでない。経済が回復しないかぎりドンドン悪くなる。超高齢化だから
病人も増える。いくら拝んでも病気になる。悪質な教団は「功徳がでないのは
拝み方が足りないから、供養が少ないから」と信者をさらに搾取する。
しかし、無いものはない。いくら金を要求されても出せない。第一、貧乏人にそんなに
金を要求する神仏は神仏ではなく悪魔だ。人里離れた聖地参拝を強要しても
超高齢者は長時間移動は無理。腰や膝も痛いし、小便も近い。少子化で
聖地参拝者も減少の一途で維持できなくなるだろう。

2175犀角独歩:2009/01/14(水) 21:32:28

問答名人さん

熱原三烈士の件、種々ご回答を頂き、有り難うございました。

少しこちらのスレに係ることで、ご賢察を賜りたくお願いいたします。

今回、自称法華講員のつまらぬ悪口を尽くされ、わたしが提供を受けた写真が豪勢だ何だと悪し様に書かれ、その反論をいたしました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51485358.html

この際、提供写真と、日禅授与本尊を比較したのです。
わたしは、この提供写真の文字は、大石寺所蔵より、むしろ、北山所蔵に似ているという印象を抱いております。

これはあくまで直裁にお感じになる感覚でけっこうなのですが、問答名人さんは如何がお感じなりますか。

2176問答迷人:2009/01/14(水) 21:50:27

犀角独歩さん

>この提供写真の文字は、大石寺所蔵より、むしろ、北山所蔵に似ている

御免なさい、僕は、大石寺所蔵の日禅授与を見たことが有りません。どこかで、それが手に入ったのでしょうか。もし入手されておられるのなら、是非とも拝見したいと存じます。

2177犀角独歩:2009/01/15(木) 07:15:15

問答名人さん

ご返信有り難うございます。
石山所蔵は金原本所載の写真から印象でした。

2178問答迷人:2009/01/15(木) 08:42:51

難しいですね。どれもほとんどそっくりですから。まぁ、敢えて言えば、提供写真は熊田本とは少し感じが異なり、金原本と酷似しているのではないかと思います。蓮字のヒゲのカーブや、華字の下横線の左側の形状が金原本に酷似していると思います。

想像を逞しくすれば、熊田本は奉安殿当時の板で、金原本は正本堂当時の板、今回の提供写真からは、正本堂当時の板が奉安殿に化粧直しをして安置されているのではなかろうか、と思います。つまりは、奉安殿当時の板と、提供写真の板は別の板ではないかと思います。

奉安殿で御開扉を受けたときの印象が、正本堂で御開扉を受けたときに、「色直しをすると随分と印象が変わるものだ」と感じましたが、その時に受けた印象の違いが、こうやってまじまじと比較すると、化粧直しによる違いではなく、板の違いに因るのではなかろうか、と感じるわけです。

2179問答迷人:2009/01/15(木) 08:46:05

訂正です。

× 正本堂当時の板が奉安殿に化粧直しをして
〇 正本堂当時の板が奉安堂に化粧直しをして

2180犀角独歩:2009/01/15(木) 21:48:29

問答名人さん

今回のご投稿を拝見し、わたしとは違う印象をお持ちなので、やはり、人それぞれずいぶんと違うものだと改めて感心しました。

> 提供写真は熊田本とは少し感じが異なり、金原本と酷似している

この点については、既に図形検証を行ってみました。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51203640.html

結果、提供写真と熊田本がほぼ一致。金原本がずれました。
このことから、わたしの類推は、奉安殿(熊田)と正本堂(金原)が違い、奉安堂を立てたときに奉安殿のものをまた戻した(提供)のではないかという類推です。

ただし、これはあくまで憶測に過ぎません。

問答さん、近く新刊が脱稿します。
この校正で、どうしてもしておきたいことがあります。

彫刻と日禅授与本尊の類似性にいち早く、お気づきになり、河辺メモに言及されたのも問答さんでした。この功績は、決してわたしが冠することではありません。この点を記し、今回の彫刻原本の解明の史実を正確に書き留めたいと思っています。そのために、こちらでいくつかご質問をさせていただきたいのですが、如何でしょうか。

2181問答迷人:2009/01/15(木) 22:39:29

犀角独歩さん

>近く新刊が脱稿します。

おめでとう御座います。

>こちらでいくつかご質問

お役に立てることなら、何なりとお申し付け下さい。協力を惜しむ事は有りません。

2182犀角独歩:2009/01/16(金) 17:33:51

問答名人さん

ご快諾有り難うございます。
では、少しずつお聴きしてまいりたいと思います。

まず、最初に河辺メモの信憑性にお気づきになった時期と、あの彫刻への疑惑と、またこの本尊への信仰への変節をお願いできますでしょうか。

2183問答迷人:2009/01/16(金) 18:40:59

【河辺メモの信憑性に気付いた時期】

このメモを見たのは、確か1999年の八月か九月、創価新報の紙面で見たのが最初だったと思います。一読して、このメモは阿部師の肉声を書きとめたものだと直感的に思いました。その後の色々な宗門と学会とのやり取り、とりわけ、宗門の発表と河辺師の釈明を読んで、ますます阿部師の肉声であると確信を深めました。

2184問答迷人:2009/01/16(金) 18:53:53

【板本尊への疑惑】

阿部師の判断が正しいのかどうか、これは判断する材料を一切持ち合わせていませんでしたので、保留というか、宙に浮いたままでしたが、たまたま、北山本門寺のパンフレットに日禅授与曼陀羅の写真が載っていると、当掲示板にご参加の方からお聞きし、その方にパンフレット戴きました。この時期は、手元にある日禅授与曼陀羅のファイルの作成年月日が2002年の9月28日となっていますのでその少し前ではないかと思います。これを見て、不鮮明な画像ながら、中尊の南無妙法蓮華経の文字は、これは本当に良く似ているな、と思いました。そして、恐らくは、阿部師の判断が正しいのだろうと感じました。

2187問答迷人:2009/01/16(金) 19:54:56

【この本尊への信仰への変節】

これは、犀角独歩さんが鑑別した結果を教えてくださった時から、板本尊への盲信は完全になくなり、一体これから先、何を信じて行けば良いのかと、途方に暮れました。やがて、日蓮聖人の本意は何で有ったのか、日蓮聖人の見た世界を追体験したい、という願望に変わりました。この時期は、たしか、記憶に間違いが無ければ、2004年の10月頃ではなかったかと思います。この時期については独歩さんが良くご存知の事と思います。

2188犀角独歩:2009/01/17(土) 07:01:48

問答名人さん

ご返答、有り難うございます。

仰るとおり、わたしがはじめてHPに『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』を載せたのは'04年2月19日のことでした。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

既にこの段階で、問答さんがアップされた2つの写真を重ねる図形処理を行い、この彫刻が、日禅授与本尊を原本としたものであることは確認していました。

思い返せば、あれから5年の歳月が流れました。
問答さんと議論をさせていただくようになってから10年が経ちましたね。

大石寺の実像はこの10年の間にずいぶんと闡明にできました。
創価学会と蜜月にあった頃、信徒数は2000万にも届くと豪語していたのに、いまでは数十万。やがて、数万人と減り、さらに減って、静岡県の観光地の一つ程度となっていくことでしょうね。

そうした大石寺凋落の一幕を問答さんたちと、実像解明に一役買ったことになります。

問答さんが今でも熱烈な日蓮を仰いでいることを、むしろ、わたしは嬉しく思います。いまのわたしは再生(輪廻)といったことを信じているわけではありませんが、もし、日蓮がこの様をご覧になっていれば、ご当人の実像を明らかにし、そして、いまでも唱題行を勤める問答さんを賞賛なさることでしょう。

一方、おかしな彫刻を造って、立派な同宇を作り拝観料(御開扉料)を取って商いをなす在り方を厳しく糾弾なさることでしょう。

わたしのように、今となっては一闡提を呼ばれる者をしても、日蓮は、まやかしの商いをなす者より寛恕をしてくださるだろうと思います。

もう少し、心情面と言った細やかな点も含めてお聞かせ願えればと存じます。
また、ご質問させていただきたくお願い申し上げます。

2189問答迷人:2009/01/17(土) 08:18:16

犀角独歩さん

>はじめてHPに『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』を載せたのは'04年2月19日のことでした。

あっ、そうでしたか。それでは、東京駅でお聞きしたのは、そのもう少し前、2002年の1月頃だったのでしょうね。

>もう少し、心情面と言った細やかな点

承知いたしました。よろしくお願い致します。

2190れん:2009/01/20(火) 19:57:15
犀角さんと問答さんの議論の緒を折る様で、申し訳ありません。

閲覧専用板で「本寺の祖廟に謁し戒壇に登る」が石山日有氏の言葉として引用されていたので、帰宅後確認しましたら、堀日亨氏による“註解”つまり解釈文でした。もっとも、日有さんの言葉には「大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂…彼は所生・此れは能生即本因本果本国土妙の三妙合論の事の戒壇…」というのが残っていますので、これまで議論されてきたように、六代の日時さんから日有さんの間に、初代彫刻が作られ今日の石山流の三大秘法義が確立したのであろうことは想像に難くないですね。

2191管理者:2009/01/20(火) 20:05:59

れんさん

>閲覧専用板で「本寺の祖廟に謁し戒壇に登る」が石山日有氏の言葉として引用されていたので、帰宅後確認しましたら、堀日亨氏による“註解”つまり解釈文でした

誠に有難う御座います。電子版の宗学要集でヒットした為、解釈文と気付かずにいました。今、その点確認しましたので、早速、閲覧専用掲示板の該当部分を訂正いたします。

2192そううそ:2009/01/21(水) 18:48:56
こんばんは
みなさん。

抜粋掲示板にもう一つだけ記載可能かもしれない点が1つ
あるので、皆さんで議論をして頂けないでしょうか?
私にはとても議論は出来ませんので御願いします。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51262446.html

こちらのれんさんのご意見はこちらの皆さんにとって
どれくらい確度の高い内容なのでしょうか?

「お前ン所の本尊をよこせ」だなんて大御本尊がなかった証拠かと。
それと本尊を渡す渡さない感覚にも驚かれます。

2193問答迷人:2009/01/21(水) 20:00:54

そううそ さん

結局、大石寺戒壇板本尊を作ったのは誰か、という議論なんだと思います。これが特定できれば、又、そこから新しい展開が開ける可能性が有りますね。

れんさんの御教示を待ちたいと思います。或いは、既にお示し戴いているのでしたら、再掲をお願いいたしたいと存じます。

2194問答迷人:2009/01/21(水) 20:31:41

犯人探しをする場合、やはり、その第一は動機でしょうか。強い動機を持っていた人物が犯人である可能性が高いのだと思います。

2195れん:2009/01/21(水) 21:18:10
犀角独歩さんのブログで自分の意見を書いた時は、石山十四代の日主さんが、彫刻の腰書きを書写したもの(金原本に写真掲載)が石山歴代の中での彫刻の存在を示す初見であるので、日主さんが作成したのではと思いましたが、日有さんにズバリではありませんが「日有云く、また云く、大石は父の寺・重須は母の寺・父の大石は本尊堂・重須は御影堂・大石は本果妙・重須は本因妙・彼は勅願寺・此は祈願寺・彼は所開・此は能開・彼は所生・此は能生・即本因・本果・本国土妙の三妙合論の事の戒壇なり」(文庫版・富士日興上人詳伝下巻)という、石山を本尊堂・事の戒壇とする意見・主張が見えるので、今、考え直しますと石山を自分のものとした日時さんの時代を上限として日有さんの代には、初代彫刻は作成されていた可能性が高いと考え直しました。つまり、日有さんの代には、初代彫刻を中心とした石山流の三大秘法の教義が確立されていた可能性も十分考えられると思います。

室町時代には、重須でも“本門寺大堂本尊”という宗祖直筆とされていた漫荼羅(天正年間の西山を首謀とする重宝強奪事件で紛失)を戒壇の本尊とすると主張(日殿申状など)しておりましたから、やはり石山が重須等の他の興門寺院に対抗するために、石山を手に入れた日時さんの代を上限に、室町初期から室町中期までに、日道さん門下における戒壇の本尊として、初代彫刻は作られたものと愚考します。

2196れん:2009/01/22(木) 13:08:17
問答名人さん・そううそさん

補足いたしますが、動機という観点から見ますと、石山の戒壇本尊=彫刻の作成者として考えられるのは六世日時師ですね。
日時師は、日郷師門下の所有地だった石山の東坊地を、あの手この手の係争における裁判で勝ち、自身の所有地としますが、日時師を頂点とする日道門下には、安房妙本寺において継承された文永十一年の大本尊・正御影、重須本門寺において継承されていた本門寺大堂本尊(安房妙本寺文書によると、日要師が招来した重須六代日浄師所持の切り紙文書に「本門寺大堂本尊裏書云、日興上人授 此本尊 日蓮大事也 日蓮在判」云々とあり、日興門下上代の文献に見える“上人号授与の漫荼羅”の可能性が高い)・生御影に匹敵するものが無かったことから、日時師は、安房妙本寺や重須本門寺に対抗するために自門用の御影を作成し(現在の石山御影堂安置のもの)、ついで自門流の根本の本尊として、初代彫刻を作成した可能性も高いのではないかと考えます。たとえ日時その人の代の作成ではなくとも、先に引用した日有師の言葉から、日有の代には、日有自らが事の戒壇と規定した石山の根本の本尊として、日有の代には初代の日道門下にとっての戒壇本尊=彫刻の初代が作成されて、やがて石山流の三大秘法の教義の根幹に据えられていったのだろうと愚考します。

2197問答迷人:2009/01/22(木) 13:37:16

れんさん

ご教示、誠に有難う御座います。日時師ですか。

河辺メモの「その他は時師か有師の頃の筆だ。」と比べてしまいました。

もっとも、河辺メモが言うところの戒壇本尊は初代とは考えられず、たしか三代目だったでしょうか。にも関わらず、河辺メモが、その三代目を日時師や日有師の筆だ、というのは不思議ですね。この辺りをどう考えれば良いのでしょうか。

2198そううそ:2009/01/22(木) 23:06:02
れんさん

コメント有り難うございます。

しかしこちらでは「彫刻の初代が作成」とあるように
彫刻が複数ある認識が当たり前になっていますね。

本門戒壇の大御本尊は日蓮真筆、日法彫刻なんて美しい伝説を
信じ込まされたわけですが、一体何をおがんでいるのやら。。。

引き続き議論を御願いします。>みなさんへ

2199れん:2009/01/23(金) 13:41:00
問答名人さん・そううそさん

問答名人さんのご指摘の通り、河辺メモにおける阿部日顕氏の発言「その他は時師か有師の頃」というのは、私も気になるところです。石山の彫刻本尊の場合、諸賢のご指摘の通り、日憲図・完則図・現在の彫刻と、その勧請の十界の記名が異なるので、複数説が指摘されていますが、河辺メモの場合、現在の彫刻の首題・四大天王以外が「時師か有師の頃」という訳ですね。この場合は、現在の彫刻が時師から有師の頃に作られたということで、日顕氏は複数説を否定している訳ですね。日顕氏は本尊研究を能くされたと謂いますから、実見の上の見識ですから、説得力があります。
ただ、この場合、日時師や日有師の時点で、原本である禅師授与大漫荼羅が石山になければならないので、河辺メモの日顕氏の説には、少なからず懐疑的にはなりますね。

但し、日郷師門流の富士久遠寺の所伝(「日蓮宗の本山めぐり」の記事)では、同寺にある板本尊を真似て、石山が彫刻を作成したという伝承があります。富士久遠寺の本寺である安房妙本寺では、日郷師御遷化直後と応永年間に板本尊を造立しており、室町初期の頃、富士久遠寺が建立された時、その本堂安置の本尊として、本寺の先例に倣い、現存の富士久遠寺の板本尊が作成されたと考えられますので、石山における彫刻造立は富士久遠寺の板本尊作成安置の以後のことと思っております。

2200問答迷人:2009/01/23(金) 14:33:11

れんさん

有難う御座います。

以前、日禅授与本尊について、由井小雪によって偽造された曼陀羅ではなかろうか、という議論が有ったと思いますが、それだと、日禅授与本尊は江戸初期の1640年頃に制作されたものと年代が特定できます。
同年代の大石寺歴代を考えると、第十七世日精師が該当します。これがもし三代目の彫刻ならば、この時、日精師が、何らかの理由で、日禅授与曼陀羅と、日時、或いは日有師の曼陀羅の両方からパッチワークしたと考えれば、一応、辻褄は合いますね。真相は果たしてどうなのでしょうか。
ただ、日顕師は、日禅授与曼陀羅をはじめとして、日時、日有の曼陀羅も見ることが出来る立場に有りましたから、僕は、河辺メモが真相を言い当てている可能性が極めて高いと考えています。

2201れん:2009/01/24(土) 19:11:27
問答名人さん

なるほど、由井正雪ですか、由井=由比ならば、西山本門寺の開山日代師の実家の一族でしょうか?日禅授与が由井正雪が作成したものかどうかは、不明であるものの、正雪が西山の関係者ならば、重須の重宝が天正度に一時、西山に納められていたことがあるので、その際に、日禅授与の摸本が作成されたとして、正雪がそれを下書きとして、さらに摸本を複数作成したもの一つが、石山により入手され、それをもとに、日精師の代に十界の筆跡は日時筆に依って彫刻が作成されたとすれば、ご教示の点、なる程それもあり得ると思いました。

2202問答迷人:2009/01/24(土) 19:21:33

れんさん

有難う御座います。由井正雪は由比正雪とも書きますね。もし、そうなら面白い展開ですね。

ところで、北山の重宝に日禅授与本尊、つまりは北山万年救護本尊は、何時頃までその記録が遡れるのでしょうか

2203れん:2009/01/25(日) 21:29:53
問答名人さん

北山の日禅授与本尊が確認出来る初出文献ですが、矢張り、石山日精師の家中抄ではないでしょうか?北山に石山日精師以前の北山の歴代による目録があればそれに載っているかもしれませんね。
石山日精師の“保田妙本寺諸役僧中”に「富士門流御本尊重須に十壹幅、大石寺に六幅、西山に二幅、久遠寺に二幅、貴寺(引用者註・安房妙本寺な事)に八幅」とありますので、日精が挙げた重須の十一幅の中に、日禅授与は入っているでしょうが、家中抄以前の物はそれ以前の北山関係の記録は残念ですが管見に入ってません。

2204問答迷人:2009/01/25(日) 21:50:24

れんさん

有難う御座います。

やはり、日精師が最初ですか。そうすると、北山の日禅授与も大石寺の日禅授与も共に由比曼陀羅の可能性が高まると僕には思えてなりません。由比が二幅作って、北山と大石の両方に売り込んだと。大石寺の日禅授与は板曼陀羅の原本として利用され、用済みになった大石寺日禅授与曼陀羅は、密かに大石寺門流の何処かに隠されてきたが、それが何らかの理由で売りに出されて、それを又法道院が見つけて買取り、最終的に本山に収めたと、こう言う筋書きが一番解り易いストーリーですね。これは現三代目板曼陀羅の製作に関してです。やはり、三代目は日精師が一番疑わしいと思いますが。

2205れん:2009/01/26(月) 20:02:35
問答名人さん


話の緒を折るようで、恐縮ですが、由井正雪が書いた蓮祖大漫荼羅の模写は現存するのでしょうか?
現存する由井漫荼羅と比較しなければ、日禅授与が由井正雪による創作であるとは断定は出来ないと思います。なお、昨年、彰往考来さんが北山の日禅授与を直見されていますので、ご意見を伺えればと存じます。

その他の部分の問答名人さんのご意見は、私も、その可能性は高いものと思います。

2206犀角独歩:2009/01/26(月) 20:43:37

れんさん

金原本でサンプルを得て、北石両山所蔵の日禅授与本尊の比較は既にしてみました。結論として、片方が模写であり、相剥ではないと思われます。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51208577.html

由井贋作の可能性は、仰るとおりの比較して答えを出すべきであると思います。

しかし、わたしは金原さんなどが言うように、石山蔵の日禅授与本尊が真筆である可能性は低いと思います。

いうまでもなく、『御本尊集』には3舗の石山蔵が入集されます。この段階で堀さんが、日禅授与本尊を確認していたかどうか、これは一つの決め手になると思えます。この内外両舌を恣にした日亨さんは、しかし、富士宗学要集第8巻ではこの本尊に取り上げていますね。しかし、雪山坊に写真製版から模を作って執心するほどなのに、日禅授与には関心を示さなかったのは故なきもないと思えます。

堀の眼力は、ほとんど当てになりませんが、しかし、既に堀さんが確認していた石山蔵日禅授与本尊につき、碩学達の雑談に上らなかったこと自体、弥不自然と映じます。『御本尊集』入集の3舗も写真での提供という話もあります。つまりは、真筆として俎上に上った故でしょう。しかし、日禅授与本尊に関しては、その後もさした話題になっていません。つまりは、この本尊、はなから真筆などと思われていなかったのではないでしょうか。

あと、板本尊、また、所謂「本門戒壇の大御本尊」の初代以来の造立を考えるうえで看過できない1体があります。それは日応氏、日達さんも取り上げた日有の身代わり本尊です。この本尊の実態を明らかにすることは非常に意味のあることと思えます。

2207問答迷人:2009/01/26(月) 22:45:11

れんさん

>現存する由井漫荼羅と比較しなければ、日禅授与が由井正雪による創作であるとは断定は出来ないと思います。

仰るとおりです。一つの仮説として考えているに過ぎません。北山日禅授与の由比曼陀羅ではなかろうか、と言うのは、独歩さんもご指摘のように、これが「御本尊集」に入っていないからに外なりません。ですから単なる憶測でしか有りません。

ただ、判らない事について考える場合、いろんな仮説を考えて、一つずつ消してゆく、そして、そこに真相が浮かび上がる。このような事を期待して、仮説を述べているに過ぎないとご理解賜りますれば幸いです。

2208れん:2009/01/27(火) 19:23:40
問答名人さん

おっしゃる旨、了解致しました。現在のものは日禅授与を原本にしてますから、江戸時代に作られたとすれば、日精あたりが入手した模写が原本の可能性も十分あると、私も考えます。



犀角独歩さん

なる程、確かに仰る通りですね。日禅授与が「御本尊集」に掲載されなかったことは決して軽い事柄ではなく、仰る通り、北石のものは共に“御真筆”ではなかったことの証左だと思います。

ご指摘の“身代わり本尊”ですが、これは日有の造立にかかるものですが、以前もどこかで議論の俎上に乗ったとおもいますが、これが二代の可能性はあると思える場合も考えられますね。石山上代で身代わり本尊の原本の“御筆”は日有以前から複数模刻されており、この原本が、日時以降の石山門でかなり重要視されていた印象を受けます。としますと、石山で最初に戒壇本尊として持ち出したのが、身代わり本尊の原本で、続いて日有の代に、石山の本尊堂安置用に身代わり本尊が作成され、その後、例の腰書きの付された、いわゆる戒壇の板本尊が作られたという流れの可能性も考えられるところといった感じでしょうか?

2209犀角独歩:2009/01/27(火) 21:01:46

れんさん

ありがとうございます。ご承知の通り、わたしは、彫刻作成の張本人は日精という考えできたのですが、れんさんの近日のご投稿に揺らがされています(笑)
ご賢察をさらに期待します。

2210彰往考来:2009/01/28(水) 07:55:03

れんさん

>2205 由井正雪が書いた蓮祖大漫荼羅の模写は現存するのでしょうか?・・・彰往考来さんが北山の日禅授与を直見されていますので、ご意見を

以前、由井漫荼羅について調べたことがあるのですが管見に入った限りでは中尾堯氏の「真蹟遺文と肖像からみた日蓮の実像」(『駒澤大學佛教學部論集 第24号』平成5年、駒澤大學佛教學部、62頁)に少しばかりの記載があるのが唯一の資料でした。そこには、
「贋作について、江戸時代前期に由井正雪が反乱を起こすにあたり、日蓮の真蹟を数多く作って高値で売り捌き、軍資金を集めたという伝承がある」とあるのみです。
ここで中尾氏にあえて苦言を呈せば、「日蓮の真蹟を数多く作って」というのは変です。「日蓮の贋作を数多く作って」とか、「日蓮の真蹟と詐称する贋作を数多く作って」というなら解かりますが、「日蓮の真蹟を数多く作って」では言葉足らずでしょう。

由井漫荼羅とはどういうものなのでしょうか。かつて某氏に伺ったところでは、
・ 日蓮宗系の寺院に相当寺宝として所蔵されている
・ 出来はかなりよい。真蹟として扱われているのが相当数ある
・ 日蓮聖人の真蹟御本尊は砧で叩いてあるが、由井漫荼羅は砧で叩いていないのが特徴
ということでした。
由井漫荼羅と称する実物を私は拝見したことがないので、はっきりしたことは言えませんが、由井正雪の伝記などを紐解くと、紀州家の徳川頼宣と関係があったことが解かります。(例えば、進士慶幹『由比正雪』昭和61年新装(初版:昭和36年)、吉川弘文館)
この観点で、『太田区史 資料編 寺社(2)』(昭和58年、東京都大田区)の「伝・日蓮本尊」(1263頁)の項をみてみると、「寄進主 紀州中納言宗直卿」といった紀州家由来の裏書のがある「伝・日蓮本尊」の存在に気が付きます。これら紀州家の裏書のある偽筆本尊が由井漫荼羅である可能性はあるでしょう。ただ、由井正雪が頼宣の印章文書を偽造していた史実がありますので、あるいはこのことが由井漫荼羅伝説になっていった可能性もありよく分かりません。

さて、お尋ねの北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅が由井漫荼羅であるかどうかです。
由井漫荼羅と称する偽筆御本尊の実物を見たことがないので比較考証はできないのですが、結論から言って私は北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅は由井漫荼羅ではないと考えています。北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅は相剥の影本である可能性が高いので砧で叩いてあるかどうかは鑑定の判断基準になり得ませんが、北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅の紙質が江戸期のものではなく鎌倉期のものではないかと実見した際に思いました。
つまり紙質から北山本門寺蔵禅師授与漫荼羅は江戸期のものではない(=由井漫荼羅ではない)と判断した次第です。

彰往考来

2211れん:2009/01/29(木) 09:08:28
犀角独歩さん

文献上、かなり詳しく石山中心の歴史を紡いだのが日精ですし、石山歴代で彫刻を最初に自分の著作で宣伝したのも日精ですので、彫刻作成の張本人を日精に比定する犀角独歩さんのお考えも一理も二理もありますね。
先に問答名人さんのご指摘の、彫刻を作成する“動機”という点から考えれば、日時・日有・日主に、それぞれ動機はありますので、日精以前に石山が彫刻を作ったとすれば、この三人に絞られると考えております。
日時は、安房妙本寺との裁判に勝ち、石山境内を全て我が物として、日道門流=富士大石寺門流を形成しますが、元来、日道門下には安房妙本寺や北山本門寺に匹敵する本尊・御影が無いので、日時は自ら願主となって御影を造立しましたし、本尊も用意または作成した可能性があります。日有は石山歴代で初めて、石山=事の戒壇・本尊堂という主張をしておりますので、自らの主張に見合う戒壇本尊を用意または作成した可能性があります。日主の代に、北山本門寺から、西山との出入りにより、北山において信仰の中心とされ戒壇本尊としていた本門寺大堂本尊が紛失するという事件があり(この後北山では生御影信仰が中心に据えられていくことになる)、この機会を捉えて、日主は、石山こそ真の戒壇という類での正統性を主張し、自身の主張に見合う戒壇本尊を用意または作成した可能性があります。

以上、少なくとも日精以前に石山で彫刻またはそれに準ずる漫荼羅の用意または作成するということをやった可能性の高い人物を挙げるとしますと、日時・日有・日主の三人が“動機”の面で浮かび上がるということになりますね。

2212れん:2009/01/29(木) 20:48:00
彰往考来さん


由井漫荼羅と北山の日禅授与漫荼羅についての御教示有難うございました。

実体は分からないものの由井漫荼羅が日蓮系寺院において真筆と“認識”されて所蔵されているとのこと、出来が良すぎるくらいの“偽物”なのですね。
北山の日禅授与漫荼羅は、紙質からは、江戸時代以前のものということで、由井正雪による創作ではないことは分かりました。
ご教示有難うございました。

2213犀角独歩:2009/01/29(木) 23:22:00

れんさん

お立てになった時系列、説得性がありますね。

あと、北山の日禅授与本尊、これは大石寺の日禅授与本尊の相剥でないことは、既に図形鑑別で検証しました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51208577.html

いちばん問題なのは、北山の本尊が由井の贋作かというより、大石寺日禅授与本尊が日蓮真筆かどうか、これを真筆だといったのは、日亨さんですが、この人の鑑識眼は問題外。最近では金原さんですか。それ以外で、この本尊を真筆だといっている話は聞きませんね。

2214犀角独歩:2009/02/04(水) 17:47:18

日寛書写本尊と完則図につき、ブログに投稿しました。
ご批正を頂戴できれば有り難く存じます。

日寛本尊は、完則図原本の模写か?
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/51496935.html

2215阿佛棒:2010/01/20(水) 15:36:31
皆さんは大御本尊樣をニセモノだのインチキだのいいますが
本当にそうでしょうか?

あえて大御本尊様を擁護する論陣を張りその功徳で成仏したいですw

今日の歴史学においてブッダの没年は
紀元前383年(中村説)とされ末法は江戸時代に到来したものと考えられます。
そこで、

仮設1
日蓮の秘密の遺言(後に消失)によってこの大御本尊は江戸時代に製作されたもの

仮設2
大御本尊には人格が宿っており江戸時代に富士派の僧侶と佛師をあやつり
自然に世に現れ世の人々を救わんと富士派の僧侶らに超自然の力で語りかけた
かんなぎ説w

もちろん学問的には荒唐無稽ではありますが
信仰とは本来こういうもの。

もし私が正しいなら私には無量の功徳があり
大御本尊を誹謗した諸兄らは阿鼻獄に入らん

ちょっと脅かしてみましたw

2216問答迷人:2010/03/06(土) 12:51:47
このスレッドにて、日顕上人の述べた偽作説について詳しく議論されています。

2217阿佛棒:2010/03/13(土) 17:49:31
それについては存じておりましたが、改めて拝見。

科学的な年代測定を行うのが1番でありましょう。
素材、塗料などからあるていど年代が測定できるものと心得ます。

が、

究極、日蓮が書いたものでなくても本門戒壇であると
末法の本佛とその眷属の使いである創価学会が認めるなら
本門の戒壇となる。

これはもう信仰の問題なわけです。解釈としては末法に相応して出現したと自称する創価学会こそが
宝塔であり、三代秘法そのままなのであると強弁してしまうことも可能

ここまで言い切ってしまうともう日蓮宗の枠におさまらず正に池田教ではないかとの謗りもありましょうが
それくらい突き抜けてしまってもいいのではないかと思う今日この頃

2218阿佛棒:2010/03/13(土) 17:55:56
そして、同じ主張を顕正会や他の法華諸宗教団体が行うことも可能。

ミレニアムを超えた今こそ新たに全創価学会員の発願で
新御本尊を製作するのもまた可でしょう。

と、これは偽作説のスレから外れてしまった話になりました.すみません。

2219ひきこもり:2010/08/28(土) 22:17:37
大御本尊が偽作であるという事が決定したらば、日蓮正宗は全滅ですよ。

2220問答迷人:2010/08/29(日) 05:21:43

ひきこもり さん

僕も同じ意見です。

そもそも日蓮正宗は、日蓮門下の中では異端だと思います。日蓮正宗が全滅して、却って日蓮聖人の教えの全貌が明らかになると僕は考えています。

日蓮聖人の教えでないものを、日蓮聖人の教えだと言って布教するのは如何なものか、という事です。

2224三船敏郎:2010/11/12(金) 11:04:06
創価学会内部改革派憂創同盟 最後の警告 というサイトを立ち上げている元創価学会員です。
日蓮正宗法華講に入っていましたが、犀角独歩さんの論文を読み、日蓮正宗法華講を辞める決心をしました。
そして保田妙本寺に入ろうとしましたが、民衆救済の精神がないことから入るのを辞めることにしました。
今、自分一人です。ヤフーの知恵袋で頑張っています。
創価学会に戻ることを考えています。

2225問答迷人:2010/11/12(金) 13:52:08

三船敏郎さん

どこかの組織に付かないと、日蓮法華信仰は出来ないのでしょうか、そんなことはないと思います。僕は何処かに所属する信仰はもう止めました。

それでも、僕は信仰を捨てたわけでは有りません。日々、生活・人生の糧として日蓮法華信仰に励んでいます。指針は日蓮聖人の真蹟遺文です。

こうした信仰の有りかたは、伝統仏教は認めようとしませんが、伝統仏教の宗派から、インチキ教義とインチキ解釈を刷り込まれた身としては、ずっとずっと晴れ晴れとした信仰だと自負しています。

2226問答迷人:2010/11/13(土) 15:05:38

追伸です。

「伝統仏教の宗派から、インチキ教義」と書きましたが、僕の場合の伝統仏教とは『日蓮正宗』であり、インチキ教義とは、「日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊」と「唯授一人の血脈相承」という二つの『我田引水の邪義』です。蛇足ながら申し添えます。

創価学会は、いまだにこの二つの日蓮正宗譲りの邪義に固執しています。まぁ、僕はこんなインチキ団体には近づかないのが良いと考えています。君子危うきに近寄らず、です。

2227ひきこもり:2010/11/28(日) 18:47:00
>>2226
それでは日蓮正宗も創価学会も嘘の宗教であり、終戦後の動乱状態を騙して、
脅迫である罰論や誘惑である功徳論を展開して、信者を集めた団体と言うことになっ
てしまうではありませんか。

僕は中学生の時から、「人は信仰を持たないと何をするか分からない」と言う理由で
入会しましたが、騙されていたのではたまりません。

日蓮正宗も創価学会も嘘の宗教だったら、もう科学で宗教を研究しなければなりませ
ん。しかし自分の体験から戸田先生の「生命論」は間違いありませんよ。体験こそ真
実ですから。

2228問答迷人:2010/11/29(月) 06:51:28

ひきこもりさん

>それでは日蓮正宗も創価学会も嘘の宗教

これは、僕は間違いの無いところだと認識しています。

「日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊」と「唯授一人の血脈相承」

この二つの日蓮正宗の根幹教義が史実に基づく教義である事証明する事は不可能だと考えています。

>自分の体験から戸田先生の「生命論」は間違いありませんよ。体験こそ真
実ですから。

戸田師の生命論に、「日蓮大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊」と「唯授一人の血脈相承」を直接述べた部分は有りましたでしょうか?

戸田師の生命論が間違いないとしても、それで、戒壇本尊や唯授一人の血脈が史実だと証明されるわけではない。日蓮聖人の教えが正しい、というのなら分りますが・・・ここに混同があると思います。

僕は日蓮聖人の教えを深く信奉しています。しかし日蓮正宗の様な、似非日蓮は断固否定しています。

2229ひきこもり:2010/11/29(月) 21:52:32
>>2228
分かりました。御書のどこにも死んでこの世に再生すると言う文言はないですね。
「折伏経典」は戸田先生ではなく、次期会長と目されれていた、石田次男氏が書い
たものと分かりましたが、、戸田先生と石田さんは生命論を知っていましたよね。

2230ひきこもり:2010/11/30(火) 21:05:12
>>2228
問答迷人さん。私は池田先生の「若き日の日記」に「死んで眠りたい永久に」と書かれてあったことに
高校生時代に驚きました。あと柏原ヤス全国婦人部長が電車の中の中吊り広告に「1回だけの人生をど
うするか」と書いてあったのを見て驚きました。また2年ぐらい前の聖教新聞に池田先生が「1回だけ
の人生」を発言していたことが記載されていました。先生は生命論を理解していないのではないかと疑問
に思いました。あとあれだけ反戦平和の公明党が自民党と癒着してから、もう私は神経が参っています。

私が少年時代に良く唱題しに行った池袋の常在寺の前には、いつも黒い車が駐車していて、私の少年時代
とは大変わりになってしまいました。創価学会も日蓮正宗もインチキ宗教だったのならば、損害賠償金を
国に訴えますよ。

2231ひきこもり:2010/11/30(火) 21:23:15
>>2224
三船敏郎さん。僕は創価学会に入会する前までは、気が弱い少年でした。しかし虐めに遭って
創価に入会した後、創価の人達は僕を助けてくれました。勉強嫌いが御書や人間革命をむさぼ
り読むようになり、最高学府まで出ることができました。創価学会なくしては、今の私は無い
と思います。他の宗派はありますが、苦しんでいる人達を救おうとした団体はありません。

今は経済的にも恵まれていて、平穏な毎日を送っています。中学生の時に入会して厳しい指導
を受けてから、猛勉強をしました。

2232問答迷人:2010/12/01(水) 15:28:41

ひきこもり さん

僕は、17才で単身、創価学会に入会し、約10年間信仰に励みました。創価学会の組織には人情があり、助け合いの姿がありますね。特に縦線の時代は、人間関係が豊かだったと思っています。創価学会で学んだものは沢山有ります。また、失ったものも沢山有ります。

その後、板本尊謹刻問題で、創価学会を辞めて、日蓮正宗の末寺に付きました。ここでは学んだものも失ったものもそんなにはありません。まぁ、時間の浪費は有ったと思いますが・・・

そして、戒壇板本尊が偽物だと知って、日蓮正宗を離れました。

最初は、何処かに付かなければ信仰できない、との脅迫観念に苦しみましたが、どの教団も似たようなもので、日蓮聖人の教えが正しく伝えられている訳でもない、と感じましたので、教団探しは止めにしました。

今は、静かに日蓮法華信者として、現当二世を祈る生活を送っています。

何か、内村鑑三の無教会主義を真似ているような感じです。

創価学会や日蓮正宗を恨む気持ちは全然有りません。却って、日蓮法華信仰を教えてくれた恩人の様な捉え方すらあります。かと言って、創価学会や日蓮正宗に戻ろうとは毛頭考えていません。「日蓮法華信者」で有りつつけることは誰からも邪魔されません。これで良いのだろうと考えています。

2233ひきこもり:2010/12/03(金) 21:47:41
>>2232
そうですよね。僕は14歳の時に日蓮正宗の信徒になり、同時に創価学会の会員になりました。
14歳なんて今から思えばまるで子供でしたねw

創価は悪い団体ではありませんよ。真面目な人がほとんどです。

2234常修二番弟子:2013/10/21(月) 18:17:09
下記サイトを見て、本門戒壇の大御本尊が、大聖人の御真筆であること、確信しました。
一度見て下さい!
エイチティティピーコロン、スラッシュスラッシュ
zyoushuin2.web.fc2.com/

2235サム:2015/10/14(水) 14:38:37
私(サム)は、

日蓮聖人漫荼羅一覧
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/mandaraitiran.html

にある他宗門公開の全ての現存大聖人御真筆御本尊と比較して、

『石山(せきざん)本尊の研究』京都要法寺僧侶 柳澤宏道編著
http://www.hachisubunko.com/%E3%81%AF%E3%81%A1%E3%81%99%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/
に紹介されている石山本尊の研究-01.pdf、にある楠板本尊との間に、

決定的な違いを見出したのです。 
(かなりの学会員さんは、既に発見されていたかも知れませんが。)

楠板本尊の座配図を書かれた京都要法寺僧侶の柳澤宏道氏は
「板マンダラの写真は『日蓮聖人』(熊田葦城著・明治44年発行)と『聖教乃正義』(荒木清勇著・大正4年11月11日発行)(二人とも大石寺の信者)の口絵に掲載されたものが全貌を示すものだが、巷間で批難されているがごとく不鮮明なものである。しかし、著者はこの写真から、正確に座配図を読み取るため、マイクロ写真にて「AO版」(畳1枚程の大きさ)まで拡大して検証した結果、既刊の研究書とはかなり異なる結果となった」
と述べており、実際の楠板本尊の相貌に間違いないであろうと推考します。

決定的証拠

①御真筆で図顕年月日が記載されている御本尊は全て「干支」も付記されているが、楠板本尊には「干支」の記載が無い。 干支の無記載は日興上人以降の様式である。
②弘安元年七月以降の御真筆本尊は全て「仏滅度後」との讃文だが、弘安二年十月御図顕とされる楠板本尊は「仏滅後」の表示である。

私が調べた処では①②共に例外はありません。
7月末に某掲示板に発表して現在9月3日に至るまで、法華講員さんの明確な反論は一切ありません。 
今からでも結構ですので、戒壇本尊肯定者や、法華講の方々で、御自分で調査するなり、講役員や宗門関係者にお聞きするなりして、反論・ご意見を募集しております。

反論が無ければ、結局、『本門戒壇本尊とされる楠板本尊は後世の模作だった』と結論します。

今こそ『楠板本尊は、大聖人の出世の本懐ではなく後世の模作である』と創価学会総体が、宣言した時こそ、私は「創価学会の発迹顕本の時」だろう、と信じています。

2236サム:2015/10/14(水) 14:48:41
御図顕或いは御書写の年月日に干支が記載されている御本尊は、

『石山(せきざん)本尊の研究』京都要法寺僧侶 柳澤宏道編著
http://www.hachisubunko.com/%E3%81%AF%E3%81%A1%E3%81%99%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%81%AE%E5%87%BA%E7%89%88%E7%89%A9/
に、紹介されている石山本尊の研究-01.pdf、石山本尊の研究-02.pdf、から調査しますと、
(文末の分数は、年月日記載の本尊に対する干支必掲本尊数です。)

開山日興上人では、0/19
3世日目上人では、1/1
26世日寛上人では、2/3
33世日元上人では、1/1
48世日量上人では、1/1
51世日英上人では、1/1
52世日霑上人では、1/1
なお、近代の法主は、全て干支を付記していません。

堀日亨上人の「第三、漫荼羅脇書等」(富要集8巻177頁)に依りますと、

開山日興上人では、6/188
3世日目上人では、0/8
4世日道上人では、2/6
5世日行上人では、0/8
6世日時上人では、26/28
7世日影上人では、1/2 (日亨上人は日影上人を7世としている)
9世日有上人では、4/22
12世日鎮上人では、5/9
13世日院上人では、2/5
14世日主上人では、9/11
15世日昌上人では、7/11
16世日就上人では、1/11

日蓮聖人漫荼羅一覧
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/mandaraitiran.html
では
日蓮大聖人は、104/104

となり、大聖人以外の石山法主の御本尊は、干支を付記したり、しなかったりしているのですよ。

2237通りすがりの人:2019/08/21(水) 17:31:21
管理人さんはお元気なのでしょうか?

2238signifie:2021/04/04(日) 17:42:12
それでは日蓮正宗が「その最後の8年間で出世の本懐である法華経を説かれました。」というのはどうでしょう。これも明らかに間違いです。法華経は釈迦が説いたものでないのはもちろん、誰が書いたのかもいまだにわかっていません。しかも書かれたのは釈迦が死んで少なくとも500年以上経ってからということまではわかっています。日蓮正宗に破門された創価学会でさえ、法華経は釈迦が説いたものではないという史実を認めていますが、日蓮正宗は今もこのように「法華経は釈迦の晩年8年間に解いた究極の教えだ」という立場を崩すことはありません。それもそうでしょう。日蓮正宗は法華経を最高の教えであるということを前提に成り立っているのですから、その法華経が間違ってましたなどと認めるわけにはいかないんでしょうね。いいんです。べつに日蓮正宗を批判しているのではありません。ただ史実とは違うことを言い続けなければならない日蓮正宗は、何を持って「正しい」と言えるのかどうか心配にすらなります。でもいいんです。宗教なんだから。史実がどうあれ、誰に迷惑をかけていないのでれば、信じれる人が信じたらいいんじゃないでしょうか。私はそう思っています。私はとても信じる気にはなれませんけどね。


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