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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

2151彰往考来:2008/05/25(日) 13:49:28
2150の続きです。

次は「富士大石寺明細誌」に、「紺紙金泥の漫荼羅  一幅  傍書に云ハく文永元甲子二月十五日」とある御本尊です。
享保年間(1720年頃)に作成された、日寛上人・抜書雑雑集(『研究教学書第九巻』)
インターネット資料:
http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/nukigaki.htm
にも紺紙金泥の漫荼羅の記載(「当山紺紙の御本尊 文永(甲子)元年也」)があることから、「富士大石寺明細誌」が成立した文政6(1823)年より少なくとも100年はその存在確認を文献上遡ることができますので、文永元年の紺紙金泥の漫荼羅が日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうちの一幅である可能性が高くなります。
しかし、この文永元年の紺紙金泥の漫荼羅は『富要集8巻』、『日蓮正宗大石寺』、『富士年表』、『日蓮正宗史の基礎的研究』など主要な資料に入集しておらず、つまりは御真筆として扱われていないのです。それは図顕日が文永元年であること、紺紙金泥であることから後世の偽筆と判断できます。このようなものが戒壇本尊の原本に成り得るとは考え難いと思います。
図顕日については日蓮正宗宗務院発行の『日蓮正宗要義』に「佐渡流謫の直前、相州依智発足の前日の十月九日、初めて楊枝をもって妙法曼荼羅を書き顕わされた」(昭和53年、日蓮正宗宗務院、152頁)とあることから、日蓮正宗でも宗祖の本尊図顕は竜の口の法難以後、文永8年になってからで第1番本尊からということになっています。つまりそれ以前の漫荼羅は怪しいということです。
紺紙金泥について寺尾英智氏は「曼荼羅本尊においても、日蓮より後のものについては紺紙金泥などの実例が豊富に存在しているが、実見した日蓮真蹟には、紺紙や紫紙、黄紙などの染紙が使用されている例はみられなかった。長い年月にわたり香の煙りに燻された結果、本来の紙色が判別つき難い場合もあるが、写真版によっても紺紙などの使用は一幅も見受けられないのであって、日蓮の曼荼羅本尊には基本的に染紙は用いられなかったといえよう」(寺尾英智『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』平成9年、雄山閣出版、10頁)と指摘しています。なお同書同箇所の注記5に「身延山にかつて伝わっていた曼荼羅本尊に紺紙金泥のものが一幅存在するが、諸尊の座配に類例がなく、真偽の検討を要する。山中喜八「日蓮聖人漫荼羅図集」(初出は『大崎学報』第一○二号、一九五四年。ここでは同『日蓮聖人真蹟の世界』上<雄山閣出版出版、一九九二年>による)七六頁」(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』20頁)とあります。
山中喜八「日蓮聖人漫荼羅図集」(『日蓮聖人真蹟の世界 上』76頁)には「迹化菩薩のかくの如き配位は、その例を見ない。紺紙金泥もまた他に例がない」とあります。この漫荼羅はC(Ⅱ)3に分類され文永11年に顕されたと推定されていますが、佐渡期に紺紙金泥は確かに不自然です。『日蓮聖人真蹟の世界 上』11頁に「普賢・文殊を上段(所謂仏部)の低位に、薬王・弥勒を中段に配せられたもの(C(Ⅱ)三)但し在疑」とあり、山中氏は明確に“在疑”としています。

以上、日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅について考証しました。考証結果から日主師のお虫支払い記録にある御本尊四幅のうち戒壇本尊の原本となりうるのは紫宸殿の御本尊だけであり、案外日有師が作成したこの御本尊の模刻が初代戒壇の板本尊だったのではないかとも考えられます。
>2144石山におけるそもそもの戒壇本尊として用意したのは安82であったろうと思えます
というれんさんの考えは的を得ていると思います。

by 彰往考来


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