したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

2018犀角独歩:2008/02/21(木) 06:18:09

外陣さん

まず、一つ。質問をしておきますが、1989に「自己の都合による事情からウェブサイトに掲示」とは、誰の、どのような都合を指しているのでしょうか。具体的に記してください。

所謂「本門戒壇の大御本尊」と写真をウエブサイトにアップしているのは、ほかに誰がいますか。ここで、該当するのはわたし一人です。これが誤解であるというのであれば、そのような曖昧な表現で、だれがしかを批判するような書き付けこそ、「喧嘩腰」ではないでしょうか。あなたは、わたしの背はよく見えるようですが、自分の文章のとげが嫌味を帯びていることには気づけませんか。

> 真に日蓮大聖人を尊び、宗門を憂い、正しい組織にしていこうとされているならば、「日蓮」と対等に呼び捨てしたり、本尊をフォトショなどでレイヤー化したりできるはずはないと考えるのです。

この点について、まず、わたしは「日蓮正宗」の宗門を正しい組織にしていこうなどという意図はまったくありません。集団犯罪組織という認識です。解体して当然という認識です。

わたしが何故、尊称を省くか。実はその意図に既にあなたは乗っています。
2004年来ウエブサイトでこの点は説明しています。

「まず情報操作という点について申し上げたい。
 以下の記述では信仰者間で鉄則として遵守される尊称・用語を敢えて一切斥けた。たとえば「大聖人」と呼ぶことが信仰の証と知ることを百も承知で「日蓮」とその尊称を省いた。たぶん、これだけで当文書に腹を立てる信者は多く存するだろう。また、「漫荼羅」とは日蓮自身が認(したた)めるところである。それにも拘わらず、信徒会員は「御本尊様」と呼ばないと何か違和感を懐く。

 しかし、考証論考を記す場合、その尊称を略し、一般的用語を使うことは常套なのであって、不敬を目的にしたことにはならない。それ故、ここでは一般常識に準じた。
 もし、この記述法に不快感、憤慨を湧き出る人があれば、その内心をよくよく観察してみていただきたい。そして、呼称一つで「信心がある。信心がない」と峻別してしまうことが如何なることであるのかを考えてみていただきたい。尊称一つで感情が動くこと、そこに情報操作、心理操作がはたらいている自己分析を踏まえ、以下、読み進んでいただきたいと思う。

 また、一般読者、あるいは他の信仰に属する方々には、「本門戒壇之大御本尊」信奉者の心理構造とは斯くなるものであることを認識していただければ、理解を、さらに助けることになると付言させていただくものである。」
(所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

外陣さんは「日蓮大聖人」と記していますが、日興は「日蓮聖人」と記しています。もし、日興を信じるのであれば、後者を採るのが一般でしょう。また、現在は法華講とのことですが、となれば、真偽・珠玉の混じった大石寺版の御書によるわけですか。このなかに「日蓮御房」(佐渡御書)とありますね。つまり、在世当時は大聖人、聖人といった呼称はなかったことを意味しています。
それにもかかわらず、「日蓮大聖人と呼ばなければいけない」とあなたが思う理由は何か、です。あなたの頭の中で「日蓮大聖人」と呼ばず、日蓮と呼び捨てにすることが悪いというフィルターはどうして構成されたのか、むしろ、わたしは、そこを考えてもらいたいという意図があります。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板