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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
2019
:
犀角独歩
:2008/02/21(木) 06:19:25
―2018からつづく―
> 本尊をフォトショップでレイヤ処理
実際は違うソフトを使用しています。また、わたしは本尊を処理などしていません。本尊の写真を処理しています。ここは重要です。わたしの信仰観において、手書きの本紙は本尊たり得ても、写真にとって複製されたものは、単に写真であり、複写です。わたしはたぶん、あなたより、はるかにこの真筆御筆大漫荼羅に対しては信仰が深いと思いますよ。しかし、本尊写真に信心があったら、事実究明はできないのです。本尊の真実を糾明するためには複写に過ぎない写真を大いに加工してその事実を探るということです。
わたしが50年間、時には創価学会におり、時には「日蓮正宗」大石寺内事部『大日蓮』編集室、同教学部から仕事を依頼されもしてきたこの集団の実態を究明するためには、この集団とその構成員(石山僧侶)への畏敬は不用です。むしろ、事実を正面から見る目を曇らせます。わたしから、あなたの心理状態は、そうした考証以前の段階で右往左往しているように映じます。
わたしは日蓮を尊敬します。しかし、それは集団や、その集団の教義から「日蓮大聖人」と呼ばなければ信仰がないと心理操作された形とは異なっていると言うことです。この相違が理解できず、受け入れられない外陣さんは、既に「日蓮正宗」の心理操作の罠にかかっているとわたしには映じます。
近代における日蓮伝記の最高峰は、二もなく三もなく、故高木豊師の『日蓮』(太田出版)でしょう。このなかで高木師は一貫して「日蓮」と尊称をつけず、記しています。しかし、実像から見た日蓮に対する深い信頼と思いが紙背行間から伝わります。この高木師の気迫を、「日蓮大聖人と呼ばなければ信心がない」と思うように操作された人々には、けして理解することはできないでしょう。
石山僧俗が言う「日蓮大聖人」と、日蓮門下僧俗が言う「日蓮聖人」と、高木師が言う「日蓮」はまるで別の人物です。そして、わたしが追及して止まない実像としての「日蓮」もまた、外陣さんが考える「御本仏」とは似ても似つかない“人物”です。ですから、わたしが敬愛して「日蓮」と呼ぶことで本仏論者から不信心と言われるのであれば、それはそれ、甘受する意識で臨んでいます。
> 人間を蔑むような印象を受ける
これは、わたしはあなたの文章を読んで、わたしを蔑んでいるという印象を受けました。そう自分が映じているという自意識はないでしょう。
しかし、わたしはあなたが感じた印象はわかりますよ。かつて、わたしがいまのわたしのような人物がいたら、そう思っただろうことは、過去の自分に当てはめて想像がつくからです。
> …正宗の法門から仏道に縁をさせていただいたのでしょうから、いくらなんでも礼儀はわきまえてほしい
この表現は、あなたの立場を反映しています。
あなたはわたしを「正宗」の下に置いて考えているでしょう。
礼儀をわきまえるのはお互い様と言うことです。対等な立場ですから。
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