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本門戒壇の大御本尊様の偽作説について

2139れん:2008/05/18(日) 18:44:24
参考までに
1、二箇相承
これは、西暦1400年代に保田と北山の通用により、北山の日浄師から保田の日要師が伝来した北山関係の文書の切り紙の中にあるものと日尊門流の日広師の写本が最古写本ですが、それ以前において確実な文献においては二箇相承の存在を示すものはなく、このことから、二箇相承は、北山の日浄師が、石山や西山との正嫡論争における北山正当論の証拠となる文書として、同寺に所蔵される蓮祖真筆の貞観政要等の筆跡を参考にしつつ作成したものでしょう。また、日要師の写した北山の文書には二箇相承とともに、“本門寺大堂本尊”の“裏書”の写しもあります。北山の日殿師の申状によると、北山では自山を本門の戒壇と規定し、本門寺大堂本尊が三堂の内、本堂(法華本門寺根源)に懸ける漫荼羅としており、当時の北山文書を通読しますと、北山においては、二箇相承に見える“富士山本門寺戒壇”の漫荼羅は“本門寺大堂本尊”であったことが理解出来ます。
このことから分かるように、二箇相承は、あくまで北山で偽作され使用された文献で、石山でいう“唯授一人血脈相承”や石山の“お板”とは何の縁もゆかりもない文献ですね。天正年間の北山と西山の紛争により本門寺大堂本尊と二箇相承が紛失したあと、石山日主が二箇相承と“お板”腰書きの写本を作成していることから、北山の重宝紛失のドサクサに紛れて、日主が日道門流版の“戒壇本尊”を作成し、日道門流の正嫡論を主張したと見るのが至当です。日道門流に於いては、模刻板本尊は日影・日有の時代から見えますが、日道門流に於いて“戒壇本尊”としての漫荼羅(お板)の存在を示す歴代の文献の初見は日主ですので、日道門流における“戒壇本尊”を作成したのは日主でしょうね。

2、日興遺誡置文

これも、日興師の真筆や直弟子による写本は現存せず、確かな最古写本も保田日我師と要法寺日辰師のもので、時代も戦国時代後期まで下るため、日興師真撰説は証明が不可で、寧ろ後世に作成された偽書の可能性が高く、あくまで門流文書として扱うのが普通です。


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