[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
素朴な疑問
1360
:
地名
:2004/05/17(月) 18:59
「地名辞典」の静岡県の富士宮市の項で「大石寺」については以下のように記されていました。あくまでご参考の一つとしてご理解願います。
「潤井川(うるい)上流右岸にある。日蓮正宗の総本山で、本尊板本尊。山号は多宝富士大日蓮華山。富士門流(興門派)の富士五山の一つ。寺号は富士山南西麓末端部の大石ヶ原(おおいし)に所在したことにちなむといい、建武五年(1338年)五月五日の南条時綱寄進状(安房妙本寺文書)に「大いしてら」とみえ、暦応二年(1339年)二月十五日の南条時綱置文(同文書)にも「おほいしてら」とあって、当時は訓読みしていた。大石寺蔵棟札銘および寺伝によれば、正応三年(1290年)十月、日蓮の弟子日興が上野郷(うえの)の地頭南条時光の外護を受けて創建し、日蓮を勧請開山とし、自らは二世となったという。日興は正慶元年(1332年)十一月十日、当寺の御堂・墓所を弟子日目(三世)に相承させた(「日興置文」歴代法主全書)。
翌二年、日目は大石寺を弟子日郷に相続させるため大久保本妙寺(おおくぼほんみょう)より当寺大学頭蓮蔵坊(れんぞう)に招いたという(古文書記興門雑記)。
同年十一月に日目は日郷ほかを随行させて上洛の途中、美濃国垂井駅(たるい)(現・岐阜県垂井町)で没した(本国寺年譜)。
日郷が当寺に帰住すると、留守を預かっていた当寺下之坊(しもの)の日道らは、南条氏出自ではない日郷よりも日目と同じ南条一族の自分が継承すべきだと異議を唱え、結局日道が当寺を継承したため、日郷は当寺を離れ、延元二年(1337年)小泉法華寺(こいずみ)に移ったという(古文書記興門雑記)。
しかし日郷は当寺蓮蔵坊については弟子日伝(日賢)に譲与し守ってゆくよう遺命したため、日道及び後継者の日行・日時らと係争が続き、蓮蔵坊を応永二十三年(1416年)小泉の久遠寺(くおん)(法華寺を改称)に移したという(天正十六年十月一日「日侃書状」西山本門寺文書)。
貞治四年(1365年)十一月十三日、法西は上野郷内法西知行分を大石寺御堂・西東坊とともに日行に去り渡している(「法西去状」大石寺文書)。この地は鎌倉時代以来南条氏の知行してきたところであった。しかし同年十二月二十九日、駿河守護今川氏家は大石寺の継承について、日伝の申分により取計らうよう、南条氏一族で日行の兄の興津美作入道に依頼し(「今川氏家書状案」安房妙本寺文書)、翌年九月十七日に日行り競望を止め、大石寺御堂坊地は日伝に返付されている(「法西置文写」古文書記興門雑記)。これに対して明徳三年(1392年)七月、日行の跡を継いだ日時は日伝方の押領だと幕府に訴え(「大石寺別当日時申状案」大石寺文書)、翌年一月二十三日には大石寺法華堂の地を日時に交付するよう命じられている(「散位某書下」同文書)。応永十年七月十二日、駿河守護今川泰範は当寺の堂地および西坊地等を日時に安堵しており(「今川泰範書下」同文書)、さらに同十二年四月十三日、興津氏の知行地であった当寺東坊地を日時に譲っている(「興津法陽去状」同文書)。当寺は今川氏が戦国大名への飛躍を遂げた氏親の時代からその保護を受けるようになる。享禄二年(1529年)三月十九日、氏親後室寿桂尼はさきに氏親が当寺に与えた諸役免除の判物紛失を証し、改めて門前の諸役・棟別を免除している(「寿桂尼朱印状」同文書)。以下略」
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板