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素朴な疑問
1370
:
地名
:2004/05/19(水) 23:28
1365 顕正居士さん
ありがとうございます。
>『蓮蔵坊72年の係争』(高橋粛道・『大日蓮』・昭和60年)に…
高橋師の内容拝見いたしました。なんといってよいか迷いますが、高橋師の御説にしては少しがっかりというのが感想です。
坂井法曄師の「道郷論争と大石寺東坊地の係争」(「興風」13号・興風談所・平成12年)の「むすび」の一部を対照のため記します。
「…東坊地の相論については、二章において現存文書を公平に分析し、それなりの結論を出したつもりである。すなわち、東坊地の相論は、南条家の退出と日郷の入寂を機に、日行が押領したことにより始まったこと、また係争の結果に影響を及ぼしたのは、従来の説、すなわち南条家の縁・無縁によるものではなく、草創期いらい、大石寺を支えてきた奥州をはじめとする旧来の勢力であったこと、などを述べた。
そして、東坊地の係争は、道郷論争の延長のように言われてきたが、逆に東坊地の係争の終結後に深化した、両門下による対立感情から道郷論争は作り上げられたことなども提示しておいた。
近年における道郷論争に関する考察といえば、決まって日精の「家中抄」説をもとに進められてきたが、本稿では、日精説それ自体を疑問視し、どのような過程においてその説が成り立ったのか、換言すれば、道郷論争は何にして成立したかを考察することに主眼をおいた。すなわち、道郷論争から東坊地の係争を観るのではなく、東坊地の係争から道郷論争の実体を探ろうという、時代の流れに逆行する方法を採ったわけである。それは日精説の再検討だけでは、全く従来の焼き直しになってしまうからであり、本稿における考察方法は、事態の打開を図るための試論の一つであり、それを実行したものである。もとよりそれは、私に「道郷論争は架空のものである」という固定観念にも似たものがあったからこそ、なし得たことであり、そもそもの方法論の可否についてもご批判をいただければと思う。
それから本稿では、係争後に記された大石寺の系譜を再考するために、日道と大石寺との関わりについての批判的考察をしたが、ついに大石寺における日道の活動は見られなかった。また日精等によって付加された、日道の位置づけを排除したが、そのことを強調したことによって、ややもすれば日道に対する批判的な印象を与えたかも知れない。しかし富士門流は、何も大石寺のみによって成り立っていたのではなく、むしろ日興の在世中に、その拠点となっていたのは重須大坊であり、日道はそこにおいて「日興上人御遺告」を筆録し、「三師御伝土代」を完成させるなど、大石寺の日盛や日郷には見られない活躍がある。ゆえに日道が当時の富士門流における重鎮たることを否定したのではない。
その末弟のいだく正嫡意識によって、日道は無理に「大石寺四世」に固定されてしまったからこそ、さまざまな矛盾が生じるのであり、本来は存在しなかった、そのような肩書きを取り外し、当時の富士門流という枠の中で捉えようとするならば、日道の存在価値は、改めて確認されるだろうし、現在の系譜をそのまま当時に持ち込めば、当然ながら矛盾が生じるし、過小評価を与える結果となるだろう。
日道や日代の位置、そして大石寺と重須本門寺など、富士門流をトータル面から捉える考察も、今後の大きな課題となろう。また、これを機に富士門流の諸問題に関する議論の高まることを、切に願うものである。」
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