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Web誌友会 板/2

3827ユタカ:2014/04/07(月) 22:31:31 ID:qaUx0OOg
>>
世界平和であっても、また日本国実相顕現あっても、環境保護であっても、
誰かの悲願であるから運動をするとか、それが自分の信じる宗教の運動だからする、
という考え方には、わたしもちょっと賛成できません。

@今、残留白ぽっぽがこんな感じ・・・孫だから間違いない。。

現象は間違えだらけ、自分で教えを実行することが大切か・・・・

難しいな。。。。。。

3828トキ:2014/04/08(火) 21:00:44 ID:r8BJKVNU
>>3825

a hope様

 いつも素晴らしいご文章を書いて下さり、深く感謝申し上げます。

 この点、確か、うろ覚えですが、聖使命会員に関する文章でしたか、
谷口雅春先生が書かれていたと思います。

 「谷口雅春先生に申し訳ないから、運動をする」というのは正しくない
という趣旨だったと記憶しています。「喜びの運動でないと、本物ではない」。

 聖典を熟読し、生活に生かして本当の喜びが得られた。そこから、他人に
も勧めたい。これが、基本的には運動の原点かと思います。

 馬の鼻先に人参をぶら下げるように、数字が上がったから偉い、という
世界にしてしまうと、これは本当の信仰ではないような気がします。

3829ユタカ:2014/04/08(火) 23:25:18 ID:N20ePDNw
ユタカは8つかえなくてXP使ってた。明日からアイホンだな。。。

3830a hope:2014/04/09(水) 19:50:25 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 p190 5行目〜

・・・『新約聖書』の偉大さはイエスを歴史的人物であると否とのごとき問題ではありません。そうかといって、わたしはイエスを歴史的人物でないと否定するものでありません。そんなことは問題とするにたりないと思うのです。『新約聖書』の中の言葉がイエス自身の御発言であろうとパウロの思索せる宗教的真理であろうと、その作者の名前に捉われる必要はないのです。

福音書が神の啓示に満たされているということは、福音書それ自体のうちにある永遠生命のある言葉みずからが証明しているので、「生長の家」が神の啓示に満たされているというのも、要するにその中に包蔵されている永遠生命の言葉――読んで病が治るほどの言葉自身が証明しているのであります。

書いた人の歴史的地位などを問題にしていては、「生長の家」もわたしという一介の会社員が事務の片手間に書いたにすぎません。

『妙法蓮華経』にしませいても、釈迦が、これこそ未顕真実(みけんしんじつ)の至上の真理であるといって『法華経』を説いたといいますが、誰も釈迦がそれを説いているのを見た人もない。皆、釈迦没後多年を経て書かれたものである。すると『法華経』は釈迦正統であるかどうかも証拠はない。

釈迦が説いたから尊いとか、イエスが説いたから尊いとか言っている人は、ここに到って何を信じたらよいかわからなくなるのであります。


大宅さん、真理というのは誰が説いても尊いのであります。何も釈迦が説かなければ尊くないとか、イエスが直接説かなければ尊くないとかいうものではありません。金剛教祖が説いてもよいし、大本教祖がといてもよいし、天理教祖がといてもよいし、またわたしが真理を説いてもよいのであります。

生長の家の神さまの神示に「誰にてもあれ、生命の実相を説くところにわれは顕れる」とあります。誰が説いても真理を説けばそこに神が顕れてい給うのです。なぜなら神とは真理そのものでありますから、実際、神があらわれないくらいなら真理を説いているのではないのであります。

もし歴史的に顕れた神が教えをとくから尊いといわれるなら、現在この世にあらわれている神が説く教えならいっそう尊いではありませんか。なぜなら歴史的ということは歴史家の考証に誤りがあるかもしれない、歴史家の偽作かもしれないが、現在、その教えをする神を見たという人が現に生きていて証拠となっている『生長の家』の教えの方がいっそう尊いではありませんか。

わたしが『生長の家』を書いているとき、わたしならぬいと神々しき神姿が筆を動かしている有様を見た人は現に埼玉県に生きている。昭和七年九月に仮見新道場修行に来ておられた松原太郎氏の母堂は、霊眼がひらけて同じく神姿を拝されました。また・・・(以下略)

3831a hope:2014/04/09(水) 19:52:21 ID:cEpBaIdo

>>3830 a hope所感)

この箇所はわたしたちが真理の追究をしていく上でとても重要なことが書かれていると感じました。
そして、>>3828のトキさまのご投稿の谷口雅春先生のお言葉にも関連するのではないかと思います。

<<生長の家の神さまの神示に「誰にてもあれ、生命の実相を説くところにわれは顕れる」とあります。誰が説いても真理を説けばそこに神が顕れてい給うのです。なぜなら神とは真理そのものでありますから、実際、神があらわれないくらいなら真理を説いているのではないのであります。>>

『真理の言葉』というのは、釈迦やキリストそして谷口雅春先生が説いたから尊いのではなく、
『真理の言葉』そのものが尊いのですね。

わたしたちは、聖典「生命の實相」(文中では『生長の家』)を拝読すれば「神に出会う」ことができるということなのだと思います。

本当に、ありがたいです。 合掌。

3832トキ:2014/04/09(水) 21:57:26 ID:CrCxN0aA
 宣宗皇帝の若いときに弟子となって、そこで修行した師匠の香厳和尚でもそうであり
ます。これは有名な和尚さんで、香厳の撃竹といって、石が竹を撃つ音を聞いて
悟りを開いたと言われる。いったい香厳和尚はそれまで瀉山和尚について修行してきた。
 しかし師についても、本を読んでもどうしても悟れない。何々経にはなんと書いてある
となかんかよく喋るけれども、そのものを直接に把んでいない。先生の瀉山から、
「書物にもなんにも書いてない、人のいった言葉の受け売りではない、自分の中から
出て来た自分の言葉で仏とはどんなものかいってみよ」と言われたが、どうしても
答えられない。つまり仏とはいかなるものか、ということが分らなかったので、いっさいの
書物を焼き捨て、もう瀉山和尚についていることも止めて、南陽の慧忠国師の遺跡に庵を
つくって、もう仏とはどんなものかということも考えずにいた。ある日、竹林の側を掃除
しておった。そうしたら、その箒に石ころが引っかかって、その石ころがコツンと竹薮の
竹にブッ突かった時に、その音を聞いた時に、竹と石と天地と自分と「一つ」-すべては
「一つ」だということがわかって悟りを開いたえらい坊さんであります。われわれが心の
耳を開いて聴けば、いたるところに先生がいるわけです。路傍に転んでいるところの石ころ
も、あの辺に生えているところの雑草も、あるいは藪に伸びている一本の竹であっても、
皆われわれが本当に心の眼を開いて見た時に、心の耳を開いて聴いた時に、そこに本当の
真理を語っているわけなのであります。

生命の実相 第11巻 195Pより謹写

3833トキ:2014/04/09(水) 22:01:04 ID:CrCxN0aA
>>3831

 すばらしいご文章、ありがとうございます。

Learn to live and live to learn というか、一生勉強なのでしょう。

藤原敏之先生が、練成で学んだ事を実生活で実践する事が大事だ、と
ご指導をされた事を思いだします。「真理の言葉」は、魂に共鳴する
と感じます。

3834トキ:2014/04/11(金) 22:08:59 ID:kOm.4.OU
「問題は既に回答があるのが問題だ」

 ところで、人生にどんな難問題がるかのように見えましても、本当は問題と云うもものは
解決し得るためにあるのであります。数学の問題でもそうです。どんなにあなた自身にとっ
て解決し得ない問題でも、実はその回答は既にあるのですが、自分がそれを算出し得ないだ
けの事なのであります。

 口で樹の木にぶらさがっていて、さあ返答せよと云われる場合、口をひらいたら千仞の
谷底に落ちると云うが、それは自分で、自分の手は動かないと信じて、自分の手で枝を
握る事を忘れているだけのことであります。この「動けるだけの力を、その時、その場、
その人に適する相に動かす」と云うことは、是こそ禅の極意なのであります。「禅機の
把握」と云うことは「全機の把握」でありまして、全体に行き届いてあらゆる点を動かし
得ることであります。これは心が全相に達したときに出来ることでありまして、心が
一部にのみ引っかかっているときには、その引っかかっていることに気を取られて、他
にすべき道が無数にあるのに、それを行うことが出来なくなるのでありまして、自分で
自分の力を「この位のもの」と限ってしまうから二進も三進も行かなくなるのであります。

 「大乗起信論」に「心、全相い達せざるを迷いと云う」と云うことが書かれております。
あらゆる部面を悉く知って適当な行いが出来ないのが迷いなのであります。そこで、全局
を支配するには、すべてのものと自分が渾然一体にならなければ「対立」が残っているよ
うなことでも思うようになりませぬ。

新版 真理 第3巻 282p より謹写

3835a hope:2014/04/13(日) 23:12:00 ID:cEpBaIdo
みなさま こんばんは。

>>3832 トキさま

素晴らしい文章のご謹写をありがとうございます。

ですが、文末に<<生命の実相 第11巻 195Pより謹写 >>とあるので確認しましたら、
この御文章は、第11巻ではなくて、第12巻よりの御文章ですね。

わたしも、ここの部分には赤線が引いてありました。


『ある日、竹林の側を掃除しておった。
そうしたら、その箒に石ころが引っかかって、その石ころがコツンと竹薮の竹にブッ突かった時に、その音を聞いた時に、
竹と石と天地と自分と「一つ」-すべては「一つ」だということがわかって悟りを開いたえらい坊さんであります。』


このような本物の『悟り』というのは、「悟りたい」と強く欲したり、
『悟ろう』と力を入れて努力しているときには悟れず、
無心になって何かに集中しているときに訪れるものなのかもしれませんね。


ですが、知識として「真理」が何たるかを頭で理解しておくことも、
本当の『悟り』を得るための下地としては絶対に必要であるとわたしは感じています。

そのためには、やはり、聖典「生命の實相」の拝読はかかせませんね。

3836a hope:2014/04/13(日) 23:15:03 ID:cEpBaIdo

第11巻の終わりから、第12巻の最初のところには、「天理教」の教えについて述べられていて、
「生長の家」教えとの違いが説明されています。


――――――――――

「生命の實相」第12巻 P3 後から4行目〜

・・・天理教ではこの「理(り)」を「神」と称しているのでありますが、生長の家では、
「理」をただちに神とはいわず、その理を「心の法則」といいまして、
その「理」「法則」の奥に神という理以上の存在があるというのであります。

――――――――――



天理教の教え  「理(り)」= 「神」

生長の家の教え  「理(り)」=「心の法則」(横の真理)  「神」 = 唯神実相(縦の真理)


ということになるのだと思います。

3837a hope:2014/04/14(月) 00:06:43 ID:cEpBaIdo

>>3836 つづき

「生命の實相」第12巻 p4〜

神を人格的存在として考えますと、悪因に対して悪果を与えられ、悪念に対して悪しき現実が与えられる場合、
この「理」としての一面だけを見ますとき、それは悪に報いるに悪をもってせられるのでありますから、
この「理法」(こころの法則)を人格化して称するとき、『旧約聖書』では「エホバの怒り」とも称され、
「神を畏るるは知恵の始め」(『箴言』1−7)などともあり、これを天理教では「神の立腹」とも称されてしまして、
「神の立腹を知る」とは、要するに因縁因果の理法を畏敬し、心の法則を知れということでありまして、
俗耳に入りやすきように、「神の立腹」とか「エホバの怒り」とか称されているのでありまして、
神が立腹して病気を創造したり、不幸悲惨を創造したりせられるのではありません。・・・

3838a hope:2014/04/14(月) 00:09:26 ID:cEpBaIdo

>>3837 a hope所感)

謹写部分からp8までの雅春先生のお言葉を拝読するとわかりますが、
「理(り)」=「神」と直接的に表現している天理教の教えですが、
教主の晩年の筆先になると、「病は本来ない」、それは「心の影」であるというように、
「生長の家」の教えと同じ真理を説くようになってきたようです。

要するに、天理教主も、釈迦と同様、最初から究極的な真理「唯神実相」を信者に説くのは避けたのですね。
現象を信じ切って生きている信徒に、いきなり本当のこと「病なし」だとか、「人間は神である」を説いても、
とても理解されないと思ったからでしょうか・・・

結局、教主は最後に本当の真理を説いたにも関わらず、それを悟るものがいないと嘆かれて、
亡くなってしまわれたようですが・・・

この部分はとても興味深く拝読しました。
そして、あらためまして、最初から「唯神実相」を教えの中心にもってきて説いた「生長の家」の教えの偉大さを実感しています。

「生長の家」の教えが万教帰一である所以は、ここにあるのですね!

3839トキ:2014/04/14(月) 21:24:04 ID:in.6Zpfw
>>3838

a hope様

 素晴らしいご文章、ありがとうございました。

 また、中山みき様が天理教を始められた頃は、江戸時代ですから
当時の識字率を考えると、とても難しい事を説いても、大半の人が
解らなかったと思います。

 明治時代になると、教育が広まりましたが、まだ、そこまで高い
内容を説いてもわかならい人が多かったと思います。

 特に、天理教が飛躍的に発展した時期は、明治の始めにあたり、
当時は政府の干渉がきつく、純粋に教祖の教えを広めるのが難しい
時代だったと聞いています。実は、天理教の人が主宰している掲示板
でも、現在の天理教の教えは厳密には、中山みき様の教えと違う部分
がある、という事を示唆する文章があったのを記憶しております。

 そう言えば、キリスト教の死海文書を分析すると、イエスの教えは
生長の家の教えとかなり似ているみたいです。

3840a hope:2014/04/15(火) 17:08:42 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p23 7行目〜

・・・このように「生長の家」の生き方は、肉体の世界を念の映像(かげ)であると悟るのでありまして、映像の世界の成就は、むろん第二義的のものでありますから、別に第一義「実相世界」よりも重んずるのではありません。

しかし、世の人々の多くは、現象世界の完全ならんことを念願している方が多いのでありますから、これらの人々に「現象世界は実在ではないから捨てよ」と申しましても、それでは現実生活とかけ離れたようになりまして、世間の実生活者を救いに導くことができませんから、「現象世界を成就させようと思うならば、現象世界は映画であるから、フィルム(念)をととのえよ」ということを強調し、念を調えることによって、現象世界の調ってくる実証により、「なるほど現象世界はカゲであった」とさとらせるように説くのが「生長の家」の説き方なのであります。

今まで仏教などの宗教では、たいてい「現象世界は映像であるから捨てよ」という。が、カゲであるから捨てなくてもよい、「カゲの世界」を成就しつつ、その成就の実証によって実相を悟るように説いているのが「生長の家」であります。

3841a hope:2014/04/15(火) 17:34:29 ID:cEpBaIdo
>>3839 トキさま、ありがとうございます。

そうですか、天理教というのは、生長の家よりも歴史が長いのですね。
当時は文字すら読めない人も多かったのですから、教義をわかり易くするために
「神」を擬人的に説いたのも仕方なかったのかもしれませんね。

キリスト教の死海文書についてよく分かりませんが、
ほとんどの奇蹟が起きたような本物の宗教の本来の教義には、
最終的には同じ真理(唯神実相)が説かれているのでしょうね。

3842a hope:2014/04/15(火) 17:36:06 ID:cEpBaIdo
>>3840 a hope 所感)

ところで、>>3838でも述べましたが、わたしが聖典を拝読するかぎり、釈迦も天理教教主も、
最初は心の法則(理、唯心所現、因果報応等)を教義の中心とし、
最後に「現象なし」の「唯神実相」の真理を説かれたと説明されているように解釈できます。

ところが、「生長の家」では、最初から「唯神実相(実相世界)」を第一義とした上で、
第二義の「心の法則(現象世界)」も教義に組み込んでいるのですね。
それが「生長の家」の「縦、横の真理」であり、特徴的なところだと感じています。

>> 3840 の謹写部分には、「生長の家」の真理を人々に悟らせるための方便について述べられていますが、
最後のところに、

<<「カゲの世界」を成就しつつ、その成就の実証によって実相を悟るように説いているのが「生長の家」であります。>>

とあります。

文中の、『「カゲの世界」の成就』というのが、具体的には、病気が治ったり経済問題や家庭問題が改善されたりすることで、
言い換えれば「生長の家」の奇蹟にあたり、その『実証』というのが、『体験談』で公に発表することにあたるのだと思います。

「生長の家」では、「現象世界」のみを信じる人々の目を「実相世界」に目覚めさせるための方便として、
『奇蹟の体験談』をすることがとても重要な意味を持つということなのだと思います。


みなさま、わたしの解釈にまちがいがあれば、ご指摘、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

3843a hope:2014/04/15(火) 19:54:39 ID:cEpBaIdo
>>3842 訂正

「生長の家」では、「現象世界」のみを信じる人々の【目】を
               ↓
「生長の家」では、「現象世界」のみを信じる人々の【心】を

3844a hope:2014/04/18(金) 22:25:19 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p50 最後から1行目

真宗では「他力」を尊んで自力をけなすのであります。そして「自力」というものを価値のないもの、自分だけの力ではとうてい救われっこないものだと「自力」を軽蔑するのでありますが、いくら軽蔑いたしましても「自力」というものがそこにあるとうことを認めている以上は、「自力」を全然無視したとはいえないのであります。「自力」の存在を認めておればこそ「自力は駄目じゃ」といわねばならぬようなことになる。

ところが「存在するものは仏力ばかりである。神力ばかりである。自力というものは本来無いものじゃ」と解って、自力を全然認めないようになってしまえばアトは「他力」ばかりになってしまう。「他力」ばかりになってしまったら、もう「自力」などというものはない。この「他力」ばかりの信仰が「生長の家」なのであります。

「他力」と仮に申しましたが、「自力」に対立してこそ「他力」という言葉を使うことができまするが、もう存在するものは仏力ばかりであると解り、「自力」というものは何一つ存在しないということがわかりますると、自他の対立が無くなってしまう。自他の対立がなくなって、存在するものみんな仏力である、みんな神力であるということになってまいりますと、もう「自力、他力」の区別がいえなくなってしまう。すべて「絶対力」ということになってしまう。「生長の家」はこの絶対力の信仰である。

仏力のほかに「なんらかの力」をいっさい認めない。「阿弥陀仏」独在、阿弥陀仏のみこの世にあるのだというのですから、どこもかしこも阿弥陀仏の浄土ということになってしまう。どこもかしこも阿弥陀仏の浄土であるから、もう地獄などというものは無いことになってしまう。「みんな救われているぞ、みんなそのままで阿弥陀仏の浄土にいるんだぞ」これが「生長の家」が全人類に対する宣言なのであります。・・・

3845a hope:2014/04/18(金) 22:27:12 ID:cEpBaIdo
>>3844 まとめ)

浄土真宗 「他力(仏力)」を尊重
     「自力」を軽蔑

生長の家 「他力(仏力・神力)」しかない → 「絶対力」の信仰
     「自力」は本来ない


( a hope 所感)

「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱えることで、阿弥陀仏様に救ってもらう(「他力」に頼る)のではなくて、

<<「阿弥陀仏」独在、阿弥陀仏のみこの世にあるのだというのですから、どこもかしこも阿弥陀仏の浄土ということになってしまう。どこもかしこも阿弥陀仏の浄土であるから、もう地獄などというものは無いことになってしまう。「みんな救われているぞ、みんなそのままで阿弥陀仏の浄土にいるんだぞ」>>

このことを自覚せしめる(「絶対力」の自覚)のが、「南無阿弥陀仏」と唱えることの本来の意味だったのですね!

3846トキ:2014/04/18(金) 22:33:32 ID:3z.z80Ek
a hope様、すばらしいご文章、ありがとうございます。

南無阿弥陀仏と言えば、藤原敏之先生を思いだします。藤原先生は浄土真宗の
勉強を正式にされ、布教師もされていました。しかし、その頃から浄土真宗の
伝統的な考え方とは異なる説法をされていたので、御止めになられたそうです。

 その藤原先生が、生長の家に触れて、本当の親鸞上人の教えが解ったと説か
れています。

 嘆異抄に学ぶなどは代表ですが、きっと藤原先生もお慶びだと思います。

3847a hope:2014/04/20(日) 09:56:17 ID:cEpBaIdo

>>3846トキさま

ありがとうございます。

ご紹介の藤原敏之先生のご著書「嘆異抄に学ぶ」は、メインタイトルは「そのまま極楽の道」ですね。
そうですか、藤原先生は浄土真宗の布教師をされていたのですか・・・。
このご著書は未読ですが、いつかは拝読したいです。

3848a hope:2014/04/20(日) 10:51:42 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p84 2行目〜

・・・悪いと知って一歩一歩改善してゆくのは道徳的救いでありますが、 宗教的救いというのは飛躍の救いであります。自力の一歩一歩の改善ではどうしても救われない自分だと知った時に、その「改善しなければならないような悪い自分」というものは「虚仮(こけ)の自分」であった、言い換えると「ウソの自分」「本来ない自分」であったと知る――その時、忽然旧我が消えてしまって、本当の自分――尽十方無礙光如来と同体の自分というものが顕れて来るのであります。そこに完全に「我」というものの置き換えができるのであります。

今までは、「罪悪の自分」であると思っていた「ニセ物の自分」はその時忽然と消えて」しまって、罪を犯そうにも犯しようがない無限に善いところの「尽十方無礙光如来と同体の自分」というものが現れてくるのであります。すると自然に、法爾(ほうに)に善いことばかりしか思わなくなり、善いことばかりしか行わなくなるのであります。そんな都合のよいことが本当にできるかと思う人がありますが、それが本当にできぬくらいなら宗教的救いではない。

宗教的救いというものは、先刻申しましたように、極楽浄土という一地域の中へ罪悪深重のままで、悪を犯す傾向をもったままで移住することではない。「尽十方無礙光如来」と同体の本当の自分があらわれて来て、自然に善いことばかりに心が動き、自然に怒る心がなくなり、自然に争う心がなくなり、自然に恐れる心がなくなるのであります。どうしたらその宗教的救いが得られるかと申しますと、真宗では「南無阿弥陀仏」と称えればよいわけですこぶる簡単でありますが、「南無阿弥陀仏」の心がわからないで称えてもやはり、本当の救われた相(すがた)があらわれないで、片手に「南無阿弥陀仏」と称えながら片手で嫁をいじめをしている姑(しゅうとめ)さんもないことはない。これは南無阿弥陀仏のこころが解らないからであります。

「生長の家」では『生命の實相』をただ読むだけで「南無阿弥陀仏」の心を解らせる、いいかえれば阿弥陀仏に帰命し、阿弥陀仏と同体になっているところの自分の生命の正体をわからせるのです。すると突然、虚仮の自分――罪深い自分――本来ない自分というものが消えてしまって、「本来救われている自分」というものが現れて来るのであります。だから「生長の家」ではすこぶる簡単に救いがあらわれる、それは聖典『生命の實相』をただ読め、ひたすら読めということであります。

3849a hope:2014/04/20(日) 10:52:51 ID:cEpBaIdo
>>3848 a hope所感)

<<「生長の家」では『生命の實相』をただ読むだけで「南無阿弥陀仏」の心を解らせる、いいかえれば阿弥陀仏に帰命し、阿弥陀仏と同体になっているところの自分の生命の正体をわからせるのです。すると突然、虚仮の自分――罪深い自分――本来ない自分というものが消えてしまって、「本来救われている自分」というものが現れて来るのであります。だから「生長の家」ではすこぶる簡単に救いがあらわれる、それは聖典『生命の實相』をただ読め、ひたすら読めということであります。>>

ここにも、聖典「生命の實相」拝読の重要性が書かれています。

生長の家の信仰 = 聖典「生命の實相」の拝読 = 救われる   

というわけですね。

3850トキ:2014/04/20(日) 19:01:01 ID:NzS7L3Js
a hope様、ありがとうございます。

 藤原敏之先生が取り上げられた嘆異抄ですが、長らく浄土真宗ではほぼ禁書の扱いを
受けて来ました。暁烏敏という有名なお坊さんが、この本を取り上げた時も、部内では
いろいろとあったみたいです。

 暁烏敏さんは、いろいろとクセのあった人みたいですが、この本を取り上げた事で、
多くの人が救われたみたいです。しかし、藤原敏之先生のように、長年、会社勤めを
され、定年後に第二の人生で多くの人を救われた姿勢は、日常生活の中の真理を行じ
る姿勢の大切さを教えて下さっていると思います。

3851トキ:2014/04/22(火) 20:00:14 ID:CVE7kyjk
 本日、拝読した生命の実相第12巻のうち、少し感銘を受けた部分を紹介させて
いただきます。

 「近ごろ、宗教熱が勃興しましていろいろ「何々経講義」と題する本が出版され
ますが、その講義は字句の解釈の上では、相応立派なまちがいないものでありま
しょうが、その宗教的真理をそのまま「生活」に活きているというような人はす
くないと思うのであります。「生長の家」は何も変わったことを説くのではない、
「色即是空、空即是色、如来の寿命は無量なり」の宗教的真理を説くのでありま
すが、それが、説法と「生活」とが、先刻のお坊さんのように分離していない。

 説法講義と生活がピタリと一枚になっている。いわゆる宗教を生活に生きてい
るというのが「生長の家」であります。知識を満足さしたり、修養を衒ったり、
学者ぶったりするために宗教を説くのではない。宗教的真理をそのまま生活に
生きるのが「生長の家なのです。

(つづく)

3852トキ:2014/04/22(火) 20:03:48 ID:CVE7kyjk
以下はトキの感想です。

 もちろん、この話は生長の家の信徒ならご存知の話なのですが、真理を知っている
事と実践する事では、距離があります。しかし、問題は、今、どの位置にいるかでは
なくて、どちらに向かって動いているか、という事かと思います。

 本来あるべき自分に向かって努力する。人間、神の子の自分があらわれるようにがん
ばる。そこに人生の妙味があるように思います。

3853a hope:2014/04/23(水) 23:41:04 ID:cEpBaIdo
>>3850〜3852 トキさま

「生命の實相」第12巻の第三章のタイトルは「南無阿弥陀仏の実生活化」です。
そこには、真理を悟ることで、病気が治ったり生活が改善されたりと、現実生活に大きな力を発揮する事実が、
たくさんの体験談を例にあげて説明されています。

わたしがここを拝読していて感じたのは「本当に真理を悟れば、がんばらなくてもしぜんに生活が改善されていくのだ」ということです。
ですが、波動的に大きな影響力を持たれた谷口雅春先生がいらっしゃらない今、わたしたち信徒が「本当に真理を悟る」というのは、
とても難しくなって来てしまったような気がします。

ですから、そんな状態の中では、やはりわたしたち信徒は、トキさまがおっしゃるように、
<<本来あるべき自分に向かって努力する。人間、神の子の自分があらわれるようにがん
ばる。そこに人生の妙味があるように思います。 >>ということが大切なのだとわたしも思います。

そして、それには、聖典の拝読が一番重要であると感じています。

3854a hope:2014/04/24(木) 00:19:52 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p105 後ろから1行目

この「超克する」ということと「対応する」ということは、似ているようでも大変ちがうのであります。「超克」するということは、病気を無いもののように取り扱って超越して克服してしまうことであります。

「対応する」ということは、病気をアルとして取り扱ってそれに相対することであります。医者や民間療法は病気をアルとして取り扱ってそれに相対(あいたい)することであります。医者や民間療法は病気に対応しますが、「生長の家」は病気を超克するのであります。


(まとめ)

医者・民間療法 ・・・病気 ←アルもののように取り扱って「対応する」
生長の家    ・・・病気 ←無いもののように取り扱って「超克する」

(a hope所感)

かつては医者が匙を投げたような大病であっても、聖典を読むだけであっさりと治ってしまったのですよね。
ですが、現在はそうは簡単にいかないようです。

その原因はここにあると感じています。

「病気は無い」という生長の家の真理を知っている生長の家の信徒であっても、
実際には自分や家族が病気になれば医者に行き、民間療法を試したりするのだと思います。

真理をただ知っていることと、本当に悟っていることの違いがここでわかるような気がします。

ちなみにわたしは、自分や家族が病気になれば、病院に行きます。
全然、悟っていませんね(笑)

でも、ありがたいことに、最近はほとんど病気をしなくなりました!

3855a hope:2014/04/24(木) 12:16:23 ID:cEpBaIdo

今朝、大熊先生のブログに行きましたら、今回のテキスト「生命の實相」第11巻に関して言及されていました。
「唯物論者は病気でしょうか。」という質問にお答えしてくださっています。

そして、安易な「中絶」をなくすことと、日本国実相顕現との関係もご教示くださっています。

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

その御文章の明快さに感動しました。

(つづく)

3856a hope:2014/04/24(木) 12:23:23 ID:cEpBaIdo
(>3855 つづき)

さらに、昨日のブログには、

――――――
 榎本恵吾先生と言う

   縁の深い先生に

    先導で読んで戴いた時・・

 「私は覚念した」のです。

  神以外は「無い」のだ・・と。

   (後日、詳細は記してゆきます。)



  その時に禅の「無い」と、

    教えの「実相独在」(ある)

     が融合し、人生が変わった。


 それ以来、わたしの指導を受けたり

  挨拶したり、手紙を読むだけで

     奇蹟が起ったといい・・・


  お礼状などが、続々

    来始めたのでした。


 しかし、当初・・禅僧出身の私は、

  「心境がよくなりました」

    というお礼状は

      嬉しいのですが・・・


   続々寄せられる

    「奇蹟」という言葉に

      恥ずかしいような

       気分でいたものです。


 (今は、心が整い「奇蹟」らしきことが起こっても

   「わたしの起こした奇蹟でなく」その方の、

  生命の実相が現れただけですから、

     有り難い「あたりまえ(本来性)」

        という気持ちで感謝し受けています。。)


  わたしが素晴らしいのでなく、

     その方の命が素晴らしのです。


 わたしがすごいのでなく、

    その方の命がすごいのです。


  わたしが神業なのではなく、

    その方の生命の元が

       「神」なのです。

―――――――――
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/archive/2014/4/23

大熊先生は、「唯神実相」をまことに悟られているのですね。

(つづく)

3857a hope:2014/04/24(木) 12:25:28 ID:cEpBaIdo
(>3856 つづき)

大熊先生のご指導で、「奇跡」(ご本人はその言葉はあまりお好きではないようですが・・・)が続出しているのが、
その証拠なのだと思います。

みなさま、まことの「生長の家」の奇蹟を体験したかったら、
大熊先生の「いのちを守る」運動にご賛同されるといいのではないかと思います。

今週末にはいよいよ第1回の「命を考える講座」も開催されるようですよ!
大熊先生から、身近にお話が聞ける大チャンスなのではないでしょうか?

http://blogs.yahoo.co.jp/warai333warai

3858a hope:2014/04/24(木) 12:52:27 ID:cEpBaIdo
↑のわたしの発言で大熊先生にご迷惑がかかるといけないので追記します。

――――――
一般社団法人

   「いのちを守る親の会」   


 私たちは本気です。


   全ての垣根を超える


       超党派宣言


一般社団法人「いのちを守る親の会」は超党派・超宗派の「赤ちゃんのいのちを守る」中立的、一般社団法人です。
神社庁、カトリック教会、プロテスタント教会、生長の家、臨済宗、妙心寺とも一切公式(組織的)関係はありません。
外郭団体でも、公認団体でもありません。ご理解ください(理事会)

――――――

と、大熊先生はブログで宣言されています。

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/archive/2014/4/23

3859a hope:2014/04/25(金) 22:25:43 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p150 3行目

・・・もし、この「生長の家」が何々教というように、ほかの宗教に対して対立的になっている一つの宗教でありますならば、このように他のいっさいの宗教を包容して、そのすべてを生かしてゆくことができないのです。

「生長の家」がこのようにいっさいの宗教を包容してその神髄を生かしてゆくことができるのはなぜであるかと申しますと、「生長の家」はいっさいの「生命」がそこから発生し、そこから生長し出た「家」であるからであります。

「家」というのは「生(いき)」が「寄(よ)」る、すなわちいっさいの生命がそこに寄り集まる所をいうのであります。この「家」のことをまた「巣」と申すのでありまして、小鳥の巣、獣の巣、虫の巣などいろいろありますが、すべて「巣」というものは「生命」が集まって来て、そこで「生命」が窮屈な社会的仮面を脱いで、本来の伸び伸びした面目を発揮する所なのであります。

「家」すなわち「巣」というものは、蜘蛛の巣を見ましても一つの中心に集まっている。スベテが一つの中心に統一されている―――このスベテの「ス」、統一するという意味の「統べる」という言葉の「ス」スベテが統一されて、スキ通り、スミきって、少しも乱れがないいっさいを包容するという意味での「澄(すみ)」「透(すく)」などの意味が「生長の家」の語にはあるのであります。すなわちわれわれの教えは無色透明の「家」であるからこそ、すべての宗教の方々に喜ばれるのであります。


この「生長の家」というのは、そのように中心の無色透明の真理の家でありまして、「生」すなわち「縦」に無限に伸びること――すなわち無始無終の時間と、「長」すなわち「横」に無限に長びること――すなわち無始無終の空間とを、一つの中心より放射状に発生せしめて一切万象発現の枢機(すうき)を握り、一切万象そこより発し、そこに帰る中心を握っている巣(統、主)であるから、「生長の家」といったのであります。

このように「生長の家」といいますのは、一切万象をそのうちに統べ包んでいる宇宙をいうのでありますから、いっさいの宗教が「生長の家」に包容されるのは当然のこと、いっさいの事物の創造原理さえも「生長の家」に包容されねばならないのであります。

3860a hope:2014/04/25(金) 22:29:22 ID:cEpBaIdo
>>3859 a hope 所感)

ほとんどの方々は、「生長の家」というと八ヶ岳に本部がある「生長の家」教団組織のことが頭に浮かぶのではないのでしょうか?
でも、聖典にはこんなにもはっきりと「生長の家」がなんであるかが説明されています。

まことの「生長の家」はそんな枠にはまった小さなものではなく、ものすごく壮大な「真理の家」なんですね!

3861a hope:2014/04/29(火) 22:58:49 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p203 6行目〜

礼拝する、拝むということは絶対無条件でなければ拝んだのではない。条件があっては取り引きです。夫を拝むとか、子供を拝むとか、妻を拝むとかいいますけれども、それは絶対無条件の零(ぜろ)の拝み方でなければならない。拝んだら御利益が出て来るのだ。主人は放蕩しているけれども拝んだらキッとよくなるであろう――などとそんなことを思って拝んでおってはそれはよくならないのです。かえって悪くなってくる。

つまり夫をこの拝むという手段によって、まずそのまちがいをねじ直してやらなくてはならないと思って、飴ん棒のように捻じ廻したりしましても、ギリギリと掌(てのひら)を揉んで拝んでみましても、それでは、方便の礼拝でありますから、どうしたって真っ直ぐにはならないのです。真っ直ぐにするのは、歪んだものを把(つか)んで、それを捻(ね)じ直してみても駄目なので、真っ直ぐにするのは、歪んだものを放して、真っ直ぐに出して来なければならないのです。

3862a hope:2014/04/29(火) 23:04:43 ID:cEpBaIdo
(>>3861 a hope所感)

(a hope所感)

第五章「礼拝三昧禅」に実相礼拝の本当の方法が書いてありました。

<<拝んだら御利益が出て来るのだ。主人は放蕩しているけれども拝んだらキッとよくなるであろう――などとそんなことを思って拝んでおってはそれはよくならないのです。かえって悪くなってくる。>>

御利益を求めるということは、要するに現象の悪を認めてしまっていることですから、
そういう条件の上で実相を礼拝しても、現状は悪くなるばかりなのですね。

「絶対無条件の零(ぜろ)の拝み方」、それが「生長の家」の実相礼拝と言う訳ですね。

ふつうの人は御利益を求めて、神社やお寺等を参拝するのだと思います。

「生長の家」の実相礼拝はさすがにレベルが違いますね!

3863a hope:2014/04/30(水) 09:58:04 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」p213 

ミレーの「晩鐘(ばんしょう)」

あの有名なミレーの晩鐘の絵でありますが、農夫が夕焼けをしている広々とした畑のところに立って、そして拝んでいる。どこからか晩鐘が聞こえて来ているような、はるかに教会の尖塔が見えている。そういう景色の絵でありますが、わたしはその絵の複製を見るごとに、その拝んでいる農夫の姿の中に神の姿を見るのであります。

もし農夫の心の中に神が開いていなかったら、神がいらっしゃっても本当に「ありがたい」ということが分からないのであります。「ありがたい」ということがわかるのは、その人の心の中に、神の波長を感受する神の波長が開いているからであります。

おそらくこの農夫は何を求めているのでないのです。どうしてくださいというのではないのです。ただありがたい、この心境こそ、まことに尊いことであります。ただありがたいというのは、現象的にどういう御利益があるからありがたいというものではない、そういう条件付きのありがたさではない、いのち本物の中にそのまま坐りこんでしまって、ただありがたいのです。

念仏申す心――こういうふうに真宗では言っておりますが、その「念仏申す心」というのが、このいのちの本物の中にそのままどっかりと坐りこんでいるありがたさなのです。・・・

3864a hope:2014/04/30(水) 10:00:00 ID:cEpBaIdo
>>3863 a hope所感)

ここに、まことに「実相礼拝」できたときの心境が書かれているように思います。
「ありがたい、ただありがたい」そう心の奥から湧き上がってくるようにならないと、本物ではないようですね。

でも、実際に見える現象では、ひどい仕打ちをされれば、悲しみや苦しみ、そして絶望感、
もしくは口惜しさ、憎しみ、怒りなどの悪感情が湧き上がってくるのが現象人間なのだと思います。

そんな状況でも、わたしたちは、その現象や相手にむかって「ありがたい、ただありがたい」という心境になって「実相礼拝」が本当にできるのでしょうか?

大調和の神示には「本当の和解は互にこらえ合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。こらえたり我慢したりしているのでは心の奥底で和解していぬ、感謝し合ったとき本当の和解が成立する・・・」
とありますが、じゃあ、どうしたらそういう心境になれるんですか、神様!!!

たとえ、上司や親の言う事であっても「真理において納得いかないこと」にただしたがってしまうのは、
宗教の信仰者としては「虚説に和解」していることになってしまわないでしょうか?

これは、わたしがこの3年間、ず〜と考えている「公案」ですが・・・(笑)
どなたかご意見、ご指導をいただければありがたいです。

3865トキ:2014/04/30(水) 20:06:37 ID:QatTUPLw
>>3864

a hope様

 素晴らしいご文章、ありがとうございます。

 この問題はなかなか難しいと思います。小林春恵先生の「わが信仰の旅路」には、
小出タケさんの話が出ています。この人父親はとても酷い人で、後妻さんと一緒に
小出さんを散々苦しめます。それで、小林春恵先生のところへ相談に行って、許さ
ないといけない、と言われるのですが、なかなか許せないので悩むという話がでて
きます。

 私も、この問題には答えがないのです。

 ただ、以前にも書きましたが、私は大学が理工系の勉強をしました。すると、
量子力学とか解析学などの難しい勉強をさせられます。いくら勉強してもわか
らないので、教授のところへ質問に行くと、

 「今、わからないからと言って、そんなに悩む事はないよ。今わからない事
でも、勉強をしているうちに、自然にわかるようになるよ。」

と言われた事があります。信仰でも、似たような事が言えるのかもしれません。

3867トキ:2014/04/30(水) 22:01:59 ID:QatTUPLw
追伸です

 許す、許さない、というのは、実際にやらないとわからない部分はあります。

 自分も過去、不当な扱いを受けた相手を"許し”ましたが、確かに精神的には
ある種の”高み”にのぼったような気持ちにはなりました。結局は相手の問題で
はなくて、自分の器量とか器の問題なのかもしれませんね。

 とはいえ、何でもかんでも、「いいです、いいです」というのも間違いだと
思います。

 基本は”神意”なんでしょうね。

3868曳馬野:2014/05/01(木) 00:01:54 ID:I/wU8psA
a hope さん

* これは、わたしがこの3年間、ず〜と考えている「公案」ですが・・・(笑)どなたかご意見、ご指導をいただければありがたいです。

* 私も、この問題には答えがないのです。(トキさん)

*本流側の偉才・縹さんと、同じく異才・トンチンカンさんを相手に論戦を挑んでおりますが、なかなか勝てそうにありません。

① 「曳馬野」=マサノブ君は、『生命の實相』を本気で読んでいない為、開祖・谷口雅春先生の『御教え』批判を、現象肉体脳髄の
“人間知”であ〜だ、こ〜だと盛んに疑問を呈し投稿しておりますが、彼の『御教え』批判点の解答は、開祖・谷口雅春先生の御著書
を読んでいれば全部答えが書いていることばかりであります。彼は肉体人間知面ではひねくれもので、まともな霊的理解力や真摯な求道心を
持っていないために、『御教え』悟得の基本点、すなわち無心になって開祖の御著書を読む、そして疑問点が生じてきても必ず
この先にその解答が書かれていると信じて読み続けるという『御教え』悟得の基本姿勢に欠けているのであります。議論と理屈だけでは
何時まで経っても真理の周りを堂々巡りするばかりであります。

② 偉才・縹さんは謙虚な求道心を持たれておられますから、「曳馬野」=マサノブ君の疑問にもまことに丁寧に答えておられれることが
判ります。「曳馬野」=マサノブ君はやはり霊的には全くの音痴状態にある事がハッキリとわかるのであります。(公平なる観察者さん)

===============================================================================================

これらの発言から云いますと、御教えを悟得されているらしい【公平なる観察者さん】にお聞きするのが一番良いようですね。

でもまぁ、「曳馬野」=マサノブ君の疑問に、なんて観方の方ですので、公平なる観察者であるかどうかはしりませんが。

3869a hope:2014/05/01(木) 00:40:28 ID:cEpBaIdo
>>3856 トキさま

小林春恵先生の「わが信仰の旅路」の小出タケさんの父親と後妻さんを許す話は、、
以前、信仰/体験板の>1527〜に謹写させていただいました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1333192083/1527n-

拝読して、とても感動して、これが本当の生長の家の「許し」なんだと思いました。

わたし自身、「生長の家の教え」に触れる前には、母親とよくケンカをしていましたが、
最近では、聖典を拝読したり、神想観をすることで心が整って来ているので、以前よりずっとすぐに許せる心境になってきました。

<<「今、わからないからと言って、そんなに悩む事はないよ。今わからない事
でも、勉強をしているうちに、自然にわかるようになるよ。」>>

ということは、生長の家に於いては、やはり、三正行を欠かさないことがそういう心境に近づける近道なんだと思いました。

トキさまのコメントで大切なことを再確認できました。

ありがとうございます。合掌。

(つづく)

3870a hope:2014/05/01(木) 00:41:52 ID:cEpBaIdo
(つづき)
ですが、わたしが考え続けている「公案」というのは、酷い仕打ちを受けた当事者の内面のことではなくて、
「真理において納得いかないこと」に対する、信仰者の態度に関してなんです。


例えば一例ですが、個人救済することが使命の宗教団体の信仰者が、自分の権力的な立場を利用して、
立場の弱い個人の魂を酷く傷つけ、運命を台無しにしてしまうような真理(神)からかけ離れた行為をしているのに、
そんなに非道な行為であっても「中心帰一」だからと容認してしまうことが、
本当に「生長の家」の信仰者の態度なのだろうか?と疑問に感じるのです。

もちろん、内面的には、小出タケさんのように、どんなにひどい罪を犯した「人間」であっても、
最終的には許し和解するのが「生長の家」の教えであり、本人が救われる唯一の道だと思っています。

でも、今、現在、犯され続けている「非道な行為(真理から外れた行為)」を容認てしまうということが、
本当の「生長の家」の信仰者の取るべき態度なんでしょうか?ということです。

それとも、本来「悪はない」のだから、そんな「非道な行為もない」と考え、
ひたすら実相礼拝をしつづけるのが正しい信仰者の態度なのでしょうか?


わたしは、そんなことを、三年間考え続けているのです。
そして、いまだ、答えがみつかりません。。

3871a hope:2014/05/01(木) 00:43:39 ID:cEpBaIdo
ところで、みなさま、そんなことを考えている間に、午前零時をまわり、5月1日になってしまいました。
5月になりましたので、第24回web誌友会を終了し、第25回web誌友会を開会させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第25回 web誌友会 案内

期間  5月1日〜5月31日まで
テキスト 「生命の實相」第13巻 倫理篇〈上〉
     

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3872a hope:2014/05/01(木) 00:44:28 ID:cEpBaIdo

始めにいつものように祈りの言葉を掲載させていただきます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

みなさま、今月もどうぞよろしくお願いいたします。

3873a hope:2014/05/01(木) 00:57:50 ID:cEpBaIdo

>>3868 曳馬野さま

お久しぶりです。

<<*本流側の偉才・縹さんと、同じく異才・トンチンカンさんを相手に論戦を挑んでおりますが、なかなか勝てそうにありません。>>

そうなのですか?

申しわけありませんが、わたしは時間があまり取れないので、
曳馬野さまと縹さま、トンチンカンさまとのやり取りはほとんど拝見していないのです。

また、【公平なる観察者さん】というのが、どういう方なのかもよくわかりません。

でも、曳馬野さま、ご投稿ありがとうございます。

>>3870にわたしの「公案」について、具体的な例も挙げまして、もう一度説明しましたので、
曳馬野さまのご意見を伺えたらとてもうれしいです。

よろしくお願いいたします。

3874トキ:2014/05/01(木) 20:21:10 ID:JRJ33pmQ
>>3871

a hope 様

 お祈り、ありがとうございます。

 一月の間、みんなで地道に勉強しましょう。
ご覧になられている皆様、どんどん投稿を御願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3875曳馬野:2014/05/02(金) 01:12:05 ID:I/wU8psA
a hopeさん

**「真理において納得いかないこと」に対する、信仰者の態度に関してなんです。

**例えば一例ですが、個人救済することが使命の宗教団体の信仰者が、自分の権力的な立場を利用して、
立場の弱い個人の魂を酷く傷つけ、運命を台無しにしてしまうような真理(神)からかけ離れた行為をしているのに、
そんなに非道な行為であっても「中心帰一」だからと容認してしまうことが、
本当に「生長の家」の信仰者の態度なのだろうか?と疑問に感じるのです。

**最終的には許し和解するのが「生長の家」の教えであり、本人が救われる唯一の道だと思っています。

**でも、今、現在、犯され続けている「非道な行為(真理から外れた行為)」を容認てしまうということが、
本当の「生長の家」の信仰者の取るべき態度なんでしょうか?ということです。

**わたしは、そんなことを、三年間考え続けているのです。
そして、いまだ、答えがみつかりません。。
------------------------------------------------------------------------------------------
三年間考え続けているのに、生長の家で救われたと云う人から答えがないと云うのも寂しいことですね。ご自分が真理とはこういうものだろうと
思うものを心に掴んだものからでは納得がいかない、その例として教団の在り様を挙げているのでしょうか。今現在非道な事が為されていると
貴女が感じているのですよね。貴女は『生命の実相』をひたすら読み続ければ救われると云われました。

私の思うところは、『幸福生活篇』第三章「無碍の大道」p70-p77二行目辺りまでで答えになるのではと思います。
世の中に非道な事があるのでしょうか、されていると思う人は居るでしょうが、生長の家の信徒にして、そのように思うことはさて如何でしょうか。

教団の在り様が正しいと云う立場で言っているのではありません、あくまで真理に生きるとはどのような事かという視点からのものです。

3876a hope:2014/05/02(金) 22:46:33 ID:brQxC10.
>>3875 曳馬野さま

<<私の思うところは、『幸福生活篇』第三章「無碍の大道」p70-p77二行目辺りまでで答えになるのではと思います。>>

とのことでしたので、『幸福生活篇』第三章「無礙の大道」をもう一度拝読してみました。
この箇所はわたしも以前とても感銘を受けていて、赤線をあちこちにひいてあります。

前半部分は「生長の家とは何か」の定義のようなことが書かれていて、
そこのところは以前聖典引用板に謹写させていただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2678n-


曳馬野さまが、わたしの「公案」の答えになるだろうとご指摘くださった後半部分は、
p75からですが聖典引用板に謹写させていただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2834n-

とても素晴らしい真理が書かれていると思います。

要するに、全ての出来事を幸福であると見なし、すべてに感謝して生きる生き方ですよね。
これこそが、まことの「生長の家」の生き方なのですね。

そして曳馬野さまがおっしゃるように、当事者の内面的な面からみれば
<<真理に生きるとはどのような事か>>ということの答えになるのだと思います。

ですが、わたしの公案は、『真理に生きるとはどのような事か?』ではなくて、
『「生長の家」の信仰者の取るべき態度とはどのようなものか?』なのです。


ですが、曳馬野さまの

<<ご自分が真理とはこういうものだろうと思うものを心に掴んだものからでは納得がいかない、
その例として教団の在り様を挙げているのでしょうか。
今現在非道な事が為されていると貴女が感じているのですよね。
貴女は『生命の実相』をひたすら読み続ければ救われると云われました。>>


というご発言を何度も拝見していて、「はっ」と気が付きました。

要するに、わたしはもう自分で答えを出しているんですよね!

自分の頭で考えるのではなく、ひたすら聖典を拝読して神想観をして『神意』にしたがい行動すること。

それがまことの「生長の家の信仰者の態度」となるのだと思いました。

それに>>3867でトキさまも、

<<基本は”神意”なんでしょうね。>>

とお答えくださっていましたね!


a hopeは、ますます、聖典のお勉強に意欲が湧いてきました。
曳馬野さま、すばらしいご指導をありがとうございます。

合掌。

3877トキ:2014/05/03(土) 18:37:16 ID:EK75HwoA
>>3875

 これは、難しい問題だと思います。

 ただ、一つ言えるのは、本来、谷口雅春先生が説かれた「生長の家」という教えへの帰依
がポイントだったのに、いつの間にか、「生長の家」という組織への忠誠がポイントにすり
かわったしまった現実があります。もちろん、生長の家という教えを広めるためには、組織
は大事な手段です。しかし、手段と目的が入れ違ったら、おかしくなります。

 今回の騒動で、そういう基本的な部分をみんなが考えるようになったら、それも一つの
前進かもしれません。

3878曳馬野:2014/05/03(土) 19:26:32 ID:I/wU8psA
>>3877

>>本来、谷口雅春先生が説かれた「生長の家」という教えへの帰依がポイントだったのに、

教えへの帰依とはどういうことですか、其の為に無碍の大道に書かれている其の儘の真理を引用したのですが。
文句を言っている人は何処で生きて居ましょうとも、引用の真理を実践しているとは言えないと思いますよ。

>>いつの間にか、「生長の家」という組織への忠誠がポイントにすりかわったしまった現実があります。

私の云う文句の一つですね。

3879a hope:2014/05/05(月) 06:46:50 ID:cEpBaIdo
「児童教育に関する神示」

多くの母親は子供のことを余りに取り越し苦労するために、
かえって子供に悪思念を放送して子供の健康や運命を害している。
ある母親は一瞬間でも自分の眼の前にいないと心配でたまらないのである。
彼は自分の想像の中で、躓(つまず)いて転んでいる自分の子供の姿を思い浮かべる。
自動車にひかれかかっている自分の子供の姿を思い浮かべる。
水に陥って溺れかかっている自分の子供の姿を思い浮かべる。
世の母親よ、何故あなたはこの反対をしては可けないのか。
こんな取り越し苦労が起こるのは、
子供を神の子だと思わないで人間の子だと思うからである。
神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。
人間の子だと思うものは終世、取り越し苦労をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思うものは、子供を尊敬して出来るだけその世話をさせてはいただくが、
神が守ってい給うと信ずるがゆえに取り越し苦労は必要はないのでる。
人間力で子供を生かしうると思うなら終日終夜起きて子供の番をしておれ。
それはできなかろう。
できない間に子供を生かしているのは神の力である。

感謝 合掌

3880a hope:2014/05/05(月) 06:48:02 ID:cEpBaIdo

わたしの大切な「生長の家」のみなさま

おはようございます!
今日はこどもの日ですね。

今回のweb誌友会のテキスト第13巻には、最初に「本当の教育についての講演」があります。
これは昭和10年三月十五日に、横浜市浦島小学校講堂で全校生徒保護者たちのために
講演したものの筆記であると最後に述べられています。

拝読してみると、当時はまだ「生長の家」は宗教団体ではなくて『光明思想団体』として活動していたのがわかります。

だから、一公立小学校の全保護者に向けて「生長の家の教育について」講演が可能だったのかもしれませんね。

その後、色々な経緯があって、「生長の家」は宗教団体になりましたが、
そんな経過とともに、もちろん利点もたくさんあったのでしょうが、
発現当初のような自由自在さを失ってしまって、枠にはまってしまってきたような気もします。

本来の教えから言えば、教団信徒で出会っても信徒でなくても、「生長の家の教え」「實相哲学」を学ぶもの、信じる者、継承するものは、
全ての人が生長の家人であり、家族なんですよね。

そう思うと、なんだかとてもうれしいですね!

だって、「生長の家」や「谷口雅春先生」は『生長の家教団』だけのものではないのですから・・・
わたしたち、「生長の家」を愛するものみ〜んなのものですね!

みなさま、今日も素晴らしい一日をお過ごしくださいね!!

3881a hope:2014/05/05(月) 06:51:07 ID:cEpBaIdo
>>3880訂正

教団信徒で出会っても信徒でなくても、→教団信徒であっても信徒でなくても、

3882トキ:2014/05/06(火) 21:25:39 ID:027zaSsg
 戦前は、例えば、生長の家の講習会を比叡山や高野山で開催されていました。
それも数日間に渡り開催されていました。たくさんの受講生が来ていたみたいで
す。同志社と言えば、八重の桜で有名なキリスト教の学校ですが、同志社の講堂
でも講演会がなされていました。それだけ尊敬を集めていたのですね。

3883a hope:2014/05/07(水) 01:03:43 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p56 3行目〜

人生の目的とは、要するにこの世に神の生命を顕現することであります。
神がこの世にあらわされた生活を示現することであります。
音楽は音楽家の永遠の生命が、五官に触れる形式であらわされたのであるがごとく、
人生は神の永遠の生命が、五官に触れる形式にあらわれたものでなければならないのです。
完全な意味においては、人間とはひっきょう「神人」でなければならないし、
人生とはひっきょう「神生」でなければならないのであります。

「神」なる「永遠の価値者」と諧和(かいわ)した生活であってこそ、
その人の人生が永遠価値あるものとなるのであります。
「生長の家倫理学」とは要するに、「人生に永遠価値を生きる生活の指導学」ということになるのであります。
それは神の生命がこの世に顕現する道の指導学、神なる「永遠の価値者」を
正しく人生に投映する生活はいかにすべきかの指導精神の解明となるのであります。

3884a hope:2014/05/07(水) 01:06:10 ID:cEpBaIdo

>>3883 a hope所感)

思い返せば、わたしは今までいろんなことを考えながら、疑問に思いながら生きてきました。

「何のために生まれてきたの?」
「なぜ、この両親の子どもなの?」
「なぜわたしは日本人なの?」
「何のために勉強するの?」
「何のために仕事をするの?」
「どうして、人を好きになるの?」
「どうして思いどおりにいかないの?」
「何のために結婚して、子供を生んで、育てるの?」
「いったい本当の幸せってなに?」・・・

そんなことをいつも考えながら、心の中で葛藤しながら、
「人間として生まれて来ちゃったんだから、とりあえずは人並みなことをして生きて行かなくては・・・」
と思って、それなりに人並みなことをして生きてきました。

ですが、聖典「生命の實相」に出会い、わたしは本当に幸せでした。
だってそれを拝読していると、今までのわたしの人生に対するすべての疑問がするすると解決していってしまうのですから・・・。

<<人生の目的とは、要するにこの世に神の生命を顕現することであります。
神がこの世にあらわされた生活を示現することであります。>>

うーん、まだまだ、わたしの私生活は、『神がこの世にあらわされた生活』とはとてもいえませんが、(;´∀`)
人生の目的が明らかになった今、わたしの心はとても落ち着いています。

文中にもありますが、この 倫理篇の『永遠価値の生活学』とは、いい換えると「生長の家倫理学』です。

「倫理」とは、webで調べると、

――――――――

りん‐り 【倫理】

1 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。「―にもとる行為」「―観」「政治―」
2 「倫理学」の略。

――――――――

とありました。

ということは、この篇をきちんと理解すれば、
どのように行動することが「生長の家」人として守り行うべき道なのかがわかるのだと思います。

とても難しそうですが、ゆっくり、丁寧にお勉強を進めたいと思います。
みなさま、ご参加、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

3885a hope:2014/05/07(水) 10:08:43 ID:cEpBaIdo
>>3882 トキさま

生長の家の30年史、40年史なんかにある昔の写真を拝見しますと当時の生長の家がどれだけ勢いがあり、
人々に必要にされていたかがわかります。

「生長の家」教えはむずかしいですが、その真理をちゃんと悟っている雅春先生や、
その他の講師の先生が講演会などでお話になると内容はしっかり理解できなくても、
その波動が人々に伝わり元気になったり、運命が好転したりすることが多々あったのではないかと思います。
だからこそ、人々が集まったのですよね!

「訊け」管理人さまが今、UPしてくださっている榎本恵吾先生のご講話を拝聴していると、
それぞれ講演会のテーマはあるのですが、どのテーマであっても、
同じ真理「実相独在」のみをず〜と繰返しお話されているような印象をもちます。
だからこそ、その説得力がすごいんですよね!

本当に、どんな罪を犯していると自責している人であっても、恵吾先生の講演を聞いたりご指導を受けたりすると、
「歓んでいいんだ、こんなわたしでも、歓んでいいんだ!」心がどんどん軽くなり救われたのだと思います。

「生長の家の運動」は、この「実相独在の悟り」があって初めて成立するものなのではないでしょうか?

中心に「生命の實相」のない運動は人々の心に響かず、なんの影響力ももたないと思います。

3886a hope:2014/05/08(木) 00:11:05 ID:cEpBaIdo
(a hope まとめ)

「生命の實相」第13巻 p56〜63

『古来からの人間の世界観』

○唯物的世界観 とは・・・
この世界は物質と物質の偶然的集合によって成り立つ存在であり、われわれを進歩に導いていく目的意志とか統一知性とかを認めない世界観

(結果)→ 人生に意義はなく、永遠価値もないので、無目的な、生き甲斐の無い、暗中模索的な生活になる(自暴自棄なデカダン生活)


○唯心的世界観(4種類)

① 多元的唯心論(多元的世界観)とは・・・
宇宙のいろいろの神を認めて、おのおのの神が、おのおのの目的意志をもって、おのおのバラバラに世界の各部各部を支配しているという世界観

(結果)→ 宗教争いが起こる


②二元的唯心論(二元的世界観)とは ・・・
世界を支配している「心的存在」に、悪魔と神、悪と善との二大潮流がある事を認め、それが対立していると認める世界観
(現今の多くのキリスト教信者の抱く世界観)

(結果)→ 悪は戦って克服しなければならないとか、人間は苦しむことが必要で、苦痛により進化する、などという自己虐待のような病的人生観が生まれる


③一元的唯心世界観とは・・・
二つ以上の相争う意思がなく、世界全体が一つの心に支配されている、という調和ある世界観
(生長の家の唯神実相哲学、万教帰一の教え  一神展開して多神を生ずる日本神道の世界観)

(結果)→ 実相世界の顕現、地上天国の実現


④不完全な一元的唯心世界観 ・・・
「一個の天地を貫く力」は認めるが、それは「盲目的意志」でありとするショーペンハウエルのような世界観

(結果)→ 不完全な世界の成立を予想するため、「念の具象化する法則」によりその人の人生観が厭世的になり、現実生活が不幸になり、病気や貧困が具象化する


↑ 間違いがあれば、ご指摘、ご指導をよろしくお願いいたします。

3887a hope:2014/05/08(木) 00:14:37 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 p59 後ろから3行目〜

何宗の信者でも、本当の生命を把(塚)んでいる人の宗教は生きているし、同じ名前の宗教でも、形骸や名称だけを摑んで、本源真実の生命を摑んでいない人の宗教は、死んでいるのであります。そこで松の木やいろいろの樹木がある、何々教の神やいろいろの神がある、それが離れ離れに勝手にほしいままに生きており、勢力を主張している――こういうように観るのが多元的唯心論でありまして、一つの生命と他の生命とが勢力を争い、一つの宗教と他の宗教とが勢力を争っているのであります。世界を支配する「心的支配者」はみとめるが、その「心的支配者」が複数であって一つに統一されなていないのであります。それを一つに統一する本源真実の生命を認め、松の木も梅の木も同時に認めながら、キリスト教も神道諸派も仏教諸宗も同時に認めながら、それを生かしている一つの本源真実の生命を認めしめるのが「生長の家」であります。


(a hope 所感)

<<何宗の信者でも、本当の生命を把(つか)んでいる人の宗教は生きているし、同じ名前の宗教でも、形骸や名称だけを摑んで、本源真実の生命を摑んでいない人の宗教は、死んでいるのであります。>>

「本当の生命」、「本源真実の生命」とは明らかに「生命の實相」のことですね。
いい換えると、

<<生長の家の信徒でも、「生命の實相」を把んでいる人の宗教は生きているし、同じ「生長の家」という名前の宗教でも、その形骸や名称だけを摑んでいる人の宗教は、死んでいる>>

となりますね。

雅春先生の言葉(神さま)のお言葉ですが、なんか、とってもシビアな批評に感じてしまうのはわたしだけでしょうか・・・?

3889a hope:2014/05/08(木) 09:48:14 ID:cEpBaIdo
>>

3890a hope:2014/05/08(木) 09:51:46 ID:cEpBaIdo
>>3887 訂正

把(塚)んでいる人→把(つか)んでいる人
雅春先生の言葉(神さま)のお言葉ですが、→雅春先生(神さま)のお言葉ですが、

誤字等多くすみません。気を付けます。

3891a hope:2014/05/08(木) 22:40:44 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 p62 2行目〜

こういうふうな多元的唯心世界観や、神や悪魔との対立する二元的唯心世界観は、世界を支配する意志が複数にあって、それらが互いに和協統一していないことを認めるのでありますから、かかる世界観を抱く人々は「われ欲する」と「彼欲する」との間に矛盾衝突があることを想定し、その矛盾衝突を克服してゆくためには苦痛困難の来ることを予想し、予想するものは皆来るの「心の法則」によって、彼の人生には苦痛困難が具象化してくるのであります。

だから世界観や人生観などは、哲学者のもてあそぶ閑人の閑事業で、忙しいわれわれにはなんの用事もないと思っていられますと大変なまちがいでありまして、遮二無二多忙に立ち働いたからとて、その人の人生が必ずしも幸福になるものではなく、正しい世界観、人生観が確立していなければかえって苦難を呼び迎えるような働き方にもなりますので、することなすこと不幸な結果を招くようになる人々は、必ずやその人の世界観人生観が正しくないからでありますから、まず世界観人生観の方向転換をしておいて働き出すということにすれば、その人の働きが幸福を現実に持ち来すような結果になるのであります。

いくら走っても方向がまちがっていては目的地に達しないのと同じように、働くばかりが目的を達するゆえんではない、まず世界観人生観の方向転換が緊急事なのであります。

3892a hope:2014/05/08(木) 22:45:08 ID:cEpBaIdo
(a hope所感)

<<いくら走っても方向がまちがっていては目的地に達しないのと同じように、
働くばかりが目的を達するゆえんではない、まず世界観人生観の方向転換が緊急事なのであります。>>

雅春先生は、世界観人生観の方向転換が緊急事だとおっしゃっています。

「生長の家」の運動であっても、この世界観、つまりは立ち位置を間違ってしまうと、
世界暗黒化運動となってしまうのだと思います。

現象世界での運動にしても、わたしたち「生長の家」人は常に実相世界の完全円満さを信じながら、
愛念をもって行動しなければいけないのだと思います。

「地区会員」板 >1197のトキさまのお話では、最近の生長の家は「このままでは地球は滅びる」と言っているそうですが本当ですか?

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1345969132/1197


わたしも訊商業さま同様、「地球が滅びるはずがない」と信じています。

「生長の家」の信徒がそんな恐ろしいことを予想して、その対応のために環境保護運動をしていたら、
それは光明化運動ではなくて、世界暗黒化運動になってしまいます。

「生長の家」の教えを信仰していれば、常に「美しくて優しい地球」に感謝しているはずですから、
そのままで、無理なく地球環境にさやしい生活が実現していくのだと思います。

「生長の家」教団のする環境保護の運動は、現象の悲惨さに対応していくような運動ではなくて、
「美しくて優しい地球」への感謝を中心とした信徒の自発的な運動であってほしいです。

3893トキ:2014/05/09(金) 10:04:07 ID:2noOJG2s
a hope様

 ご投稿、ありがとうございます。

 最近の生長の家が好きなのは、国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)
第2作業部会の最新報告書です。この報告書は、このままでは、今世紀末までに世界
全体で年鑑最大148兆円の損失が世界規模で起こるとかで、他にも、これでもか、
これでもか、という恐ろしい内容が書いてあります。総裁御自身は「地球が滅びる」
という表現は使われていないですが、このようなご指導を受けた幹部は、「地球が
滅びる」という表現をしている人が複数おられます。

3894a hope:2014/05/09(金) 11:16:05 ID:cEpBaIdo
>>3893 トキさま

そうなのですか!
そんな恐ろしい内容なのですか!!

テキストのp63の後ろから6行目〜

『だから、われらの把持する世界観人生観は、それは世界の支配者が唯心的一元であるというだけでは、
健全なというはできないのでありまして、その唯心的一元が、無限に完全な知恵と愛と能力と調和を備えている
大知恵大愛大能力者なる神であって、世界はこの無限に完全なる神によって支配され動かされているゆえに、
不完全のありようはないという「生長の家」式唯神実相世界観になってこなければ健全な世界観にならないのであります。』

と書いてありますよ!!!


<<総裁御自身は「地球が滅びる」という表現は使われていないですが、
このようなご指導を受けた幹部は、「地球が滅びる」という表現をしている人が複数おられます。 >>

雅宣総裁は、この『「生長の家」式唯神実相世界観』を理解されていないはずがありませんから、
「地球が滅びる」という表現は、口がさけてもされないと思います。
その報告書は、あくまでも、資料の一部として啓示されただけなのではないでしょうか?

となると、雅宣総裁のご指導を、幹部の方々が間違って理解されている可能性がありますね。

でも、「生長の家」幹部の方でしたら、「聖典」をちゃんとお勉強されているはずですから、
「念の具象化する法則」を知らないはずはありませんのに、どうしてそのような発言をされるのでしょう・・・。

『世界はこの無限に完全なる神によって支配され動かされているゆえに、
不完全のありようはないという「生長の家」式唯神実相世界観になってこなければ健全な世界観にならないのであります。』

教団は、現象の暗黒面を見て環境運動に取り組むことをやめて、この「生長の家」式唯神実相世界観に立って運動しなければ、
まことの生長の家の運動とは言えませんよね。

それにトキさまや訊商業さまも危惧されていますが、わたしもそのような指導の仕方は、一宗教の指導としても健全であるとは思いません。

3895a hope:2014/05/09(金) 11:47:43 ID:cEpBaIdo
>>3894 訂正

資料の一部として【啓示】 → 、資料の一部として【掲示】

3896トキ:2014/05/10(土) 20:14:00 ID:ZEoPpauM
 以前、聞いた話ですが、ブラジルなどは、移民された一世の方は、日本の仏教や神道を
信仰するが、二世や三世になると、キリスト教を信仰する人が多く、従来は、家庭内で
信仰の争いが起きていたみたいです。しかし、生長の家の信仰が広まると、仏教でも神道
でもキリスト教でも実は同じであることがわかり、家庭内が円満になったという話を聞き
ました。

 さらに言うと、キリスト教でも、現在のキリスト教と過去のキリストが説いた教えとの
間に齟齬があるのはわかっています。有名な死海文書などがそうですが、過去の文献が
最近、次々と発見され、当時のキリストの教えがわかってきました。それを見ると、実は
谷口雅春先生が説かれている教えとほぼ同じみたいな感想を持っています。

 親鸞上人について、これは出典の本を失念したのですが、最近、親鸞上人の蔵書を調べて
いると、「景教」の文献があったそうです。これは、中国に伝わったキリスト教の事です。

 これらの事を総合すると、谷口雅春先生の説かれた事は、歴史的にも、また現在の世界
情勢にも適合すると考えています。

3897曳馬野:2014/05/11(日) 10:09:28 ID:I/wU8psA
a hopeさん

●『世界はこの無限に完全なる神によって支配され動かされているゆえに、
 不完全のありようはないという「生長の家」式唯神実相世界観になってこなければ健全な世界観にならないのであります。』

●教団は、現象の暗黒面を見て環境運動に取り組むことをやめて、この「生長の家」式唯神実相世界観に立って運動しなければ、
 まことの生長の家の運動とは言えませんよね。

○【教団は、現象の暗黒面を見て環境運動に取り組むことをやめて】と思うことが
 【不完全のありようはないという「生長の家」式唯神実相世界観】で見ていることになるのですか?

○ イタイイタイ病、足尾銅山鉱毒事件、水俣病、カネミ油症事件、四日市公害、貴女がこれらの地域で関係被害者であったとしまして、
  【不完全のありようはないという「生長の家」式唯神実相世界観】に立つとは、どのように生きていきますか?

3898a hope:2014/05/11(日) 11:27:49 ID:cEpBaIdo
>>3897 曳馬野さま

素晴らしい問いかけをありがとうございます。合掌。

わたしは現在、「生長の家」の「唯神実相哲学」をまさにお勉強中の身ですから、
曳馬野さまのようなご質問があると、さらに深く考える事ができるのでほんとうにありがたいです。

今、現在のわたしの思うことを素直にお答えしたいと思います。

○【教団は、現象の暗黒面を見て環境運動に取り組むことをやめて】と思うことが
 【不完全のありようはないという「生長の家」式唯神実相世界観】で見ていることになるのですか?

( a hope 答え) 
はい そのつもりです。

○ イタイイタイ病、足尾銅山鉱毒事件、水俣病、カネミ油症事件、四日市公害、貴女がこれらの地域で関係被害者であったとしまして、
  【不完全のありようはないという「生長の家」式唯神実相世界観】に立つとは、どのように生きていきますか?

(a hope 答え) 
どんな現状であっても、全てに感謝して生きていけたらいいなと思います。
ですが、実際に公害被害に遭われた方々は本当にお気の毒だと感じます。
本当の「生長の家」の教えを伝道して救ってあげたいと思います。

3899曳馬野:2014/05/11(日) 13:06:58 ID:I/wU8psA

a hopeさん

【現象の暗黒面を見て環境運動に取り組むこと】をしたことにより、タイイタイ病、足尾銅山鉱毒事件、水俣病、四日市公害、とうの
原因が企業の垂れ流しにあったことが分かり、昭和45年ごろの水質汚濁防止法、大気汚濁防止法やらの公害防止になったのです。

(a hope 答え) 
どんな現状であっても、全てに感謝して生きていけたらいいなと思います。ですが、実際に公害被害に遭われた方々は本当にお気の毒だと感じます。
本当の「生長の家」の教えを伝道して救ってあげたいと思います。

この答えですと、垂れ流しの企業の生き方と、被害にあった人の生き方の両方についてのものになっていないように思いますが如何ですか。
無限の繁栄の裏側に、犠牲になった人がいた。その人たちを真理を伝えることにより救うとはどのようなことですか?
【どんな現状であっても、全てに感謝して生きていけたらいいなと思います】ということですと企業の責任は問わずと聞こえるのですが。

これを教団の在り様を虚説に基づくとして非難する事により、生長の家の環境をきれいにしようとする事の整合性が分かりません。

3900a hope:2014/05/11(日) 14:19:32 ID:cEpBaIdo

>>3899 曳馬野さま


<<この答えですと、垂れ流しの企業の生き方と、被害にあった人の生き方の両方についてのものになっていないように思いますが如何ですか。
無限の繁栄の裏側に、犠牲になった人がいた。その人たちを真理を伝えることにより救うとはどのようなことですか?>>

「生長の家」の教えでは、『現象は本来ない』『現象は影である』ですから、
その真理から言えば、現象世界における無限の繁栄など影であり、犠牲になった人などもいないということになります。

本来、実相(神)しかないわけですから、その実相(神)の心が呼び起されれば、現象(影の世界)も変わるのだと思います。

その真理をお伝して、人々を救済するのが「生長の家」の使命なのだと思うのです。



<<【どんな現状であっても、全てに感謝して生きていけたらいいなと思います】ということですと企業の責任は問わずと聞こえるのですが。>>

わたしは、あくまでも、「生長の家」の「生長の家」式唯神実相世界観の立場から考えて発言しています。

現象世界の企業の責任問題を追及するのは、「生長の家」の役割(使命)なのでしょうか?


<<これを教団の在り様を虚説に基づくとして非難する事により、生長の家の環境をきれいにしようとする事の整合性が分かりません。>>


ですから、もし、経団の考え方(在り様)が現象人間の環境を破壊した罪を認めてしまっていて、
その償い(対策)として環境保護運動をしているのであれば、それは物質(破壊された環境)も、人間の罪も認めた運動ということになってしまいます。

「生長の家」の教えは「物質なし」「罪なし」が教義の基本です。

だから、わたしは、もし、現教団が上記のようなお考え(立ち位置)で環境保護運動をされているのであれば、
それは、「生長の家」の教えからみれば間違った運動方針(虚説?)なのではないかと感じてしまうのです。

誤解して欲しくないのは、わたし自身は「環境保護運動」には大賛成なのです。

問題は、それが「生長の家」式唯神実相世界観の立場からのものでないといけないのではないかと思っているのです。

曳馬野さま、これがは今のわたしにできる精一杯のお答えです。
わたしは、完全に「生長の家の唯神実相」を悟ったわけではないので、これ以上のお返事は無理だと思います。

ご理解いただけるとうれしいです。

また、こちらをご覧のみなさま、ご意見をいただけるとさらにお勉強になると思います。

よろしくお願いいたします。

感謝 合掌。

3901曳馬野:2014/05/11(日) 17:07:31 ID:I/wU8psA


●「生長の家」の教えでは、『現象は本来ない』『現象は影である』ですから、
 その真理から言えば、現象世界における無限の繁栄など影であり、犠牲になった人などもいないということになります。

○実相はまことに無相なり。真に甚大久遠なり。これを夢想という。実に月潭底を穿って水に迹なし、昔ながらに。看よ看よ。
 有りと見て無きは常なり水の月。無しと見て有るは常なり水の月。全く 夢の世を夢の世じゃとて怨にすな、夢の世ばかり己が世なれば

と云った人がいます。

●現象世界の企業の責任問題を追及するのは、「生長の家」の役割(使命)なのでしょうか?
 物質(破壊された環境)も、人間の罪も認めた運動ということになってしまいます。

○みんながみな環境を支配できる心の持ち主ではないので、政治という形で環境を整備する必要があるとは、生命の実相の一巻にある言葉
 ではないですか。環境が破壊されたと思うことと、病気で困ると思うことは実相を観ないことによる、として見方を変えてもらい、その結果
 環境を望ましいものに変えることが、生長の家の本義という事でしょうか。環境破壊が人間によって為された時、そこに罪有として憎みとか、
 怒りの心を持つのでなく、過っての公害が罪の意識失くして、知らずして起こされた罪は重いと云うものとして、その解消をしていくことが
 必要ではないですか。

病人が居なければ病気治しはいらない、環境が東洋の神秘と云われた昔の日本であれば、環境運動もいらない、経済優先で環境破壊をする人が
居なければ、今の運動もいらない。
【本来、実相(神)しかないわけですから、その実相(神)の心が呼び起されれば、現象(影の世界)も変わるのだと思います。】
と云われるその心を忘れ、儲け主義に走っている結果の環境破壊ではありませんか。

精神疾患の人が増え、子供を産むことさえできなくて少子化という。人間個人の心も、環境を動かす心も二つあるものでないと思うのです。
個人の心が正常に働くことと、環境を美しく維持していく心とは、同じではないでしょうか。そういうことで、個人救済を主にする本流もよし、
環境と云うより大きにものに、心を向うことにより個に執着する心を離れる教団もよし、其処にいがみ合いの心を持ち込むことがいけないのでは
ないですか。誠の心を生かしさえすれば生きる様子はどの様でも好いのでは。

こたえは結構ですよ、私の独り言、つぶやきです。  ごきげんよう ahopeさん

3902a hope:2014/05/11(日) 18:01:18 ID:brQxC10.
「生命の實相」第13巻 p64、65

物質の法則は神の法則か

(まとめ)

○「『物質の法則』も『愛の法則』も神の法則である」とする考え方
※物質の法則・・・ 神は物質世界も創造したとの考え方(物質ありの考え方)

(結果)→『物質の法則』は『愛の法則』に打ち勝つので、地上には天国も理想世界もない、ただ薄情な、巧者に物質の法則を立ち回るものが勝利を得るという不合理な世界になってしまう

(例)
1、溺れている子を助けるという愛の行為をした人が肺炎にかかって死ぬ
2、肺病を看護した人が、肺病に伝染して自分が先に死ぬ


○「物質の法則は本来無い、『愛の法則』のみが神の法則である」とする考え方
※物質の法則は神の法則ではなく『念の具象化の法則』である

(結果)→ 愛の行為が人間を肺炎にしたり結核にしたりするようなことは断じてない、という自覚に到達し、まっしぐらに愛行の中に飛び込める

(例)
1、寒中、水中に飛び込めば風邪を引くと思う人は風邪を引き、そういう『念』をもたない人は風邪を引かない
2、結核菌にふれると肺病になるという『念』をもっている人は肺病になるが、そういう『念』をもたない人は結核菌に触れても一向に病気にならない

3903a hope:2014/05/11(日) 18:03:00 ID:cEpBaIdo
>>3902 a hope所感)

この「物質の法則は本来無い、『愛の法則』のみが神の法則である」とわたしがテキスト内の文章をまとめた言葉は、
即ち「生長の家」式唯神実相世界観と同義になるのだと思います。

曳馬野さまの>>3901の「おひとりごと」にはお返事を控えさせていただきますが、
この世界観が人類に確立されれば、たとえ、公害にあっても発病しなくなるでしょうし、
発病した人も治癒するでしょうし、それ以前に公害すらも起らない、自然破壊すらも起らない、
という理想世界が実現するのだと思います。

「生長の家」の人類光明化運動とは、この「生長の家」式唯神実相世界観を人々に知らしめることなのではないでしょうか?
そうとしか、今のわたしには考えらませんが・・・。


雅春先生この唯神実相をまことに悟られていて、その世界観から現象世界を見つめられました。
だから、現象世界の運動をされてもそこに何の矛盾も生じなかったのだと思います。

雅春先生のいらっしゃらない今、わたしたちがすべきことは、まずは聖典「生命の實相」を真剣にお勉強してその世界観に立つことだと思うのです。

すべての「生長の家」の運動は、そこから出発しないと本物ではないような気がしています。

3904トキ:2014/05/12(月) 01:02:16 ID:Ug6wWcqQ
>>3903

a hope様

 私もご意見に賛成です。と、言うよりも、現実にやってみて、どちらの考え方が成果を
出しているか、明白だと思います。

3905a hope:2014/05/13(火) 07:47:36 ID:cEpBaIdo
>>3904 トキさま

賛成コメントをありがとうございます。 合掌。


みなさま おはようございます。

今、わたしはテキストである「生命の實相」第13巻のp66〜76を何度も拝読しなおしています。

そこには、「生長の家」式唯神実相的世界観とはどういう世界観なのかが、とても詳しく述べられているのですが、
その真理は余りにも深く、究極的で、超人的な内容なのでa hopeはどう所感をのべていいのかわからないのです。

また、わたしが適当な言葉でまとめてしまうことにとても抵抗を感じるので、
時間がかかるかもしれませんが、聖典引用板に前文謹写させていただきたいと思います。


感謝 合掌。

3906a hope:2014/05/13(火) 22:29:21 ID:cEpBaIdo

テキスト第13巻 p66〜67

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2841

(a hope 赤線部分)

『ところが、われわれが外界にも生きて行く上に「善」を※云為(うんい)し、魂が一種の善(ただ)しさを要求し、
「善」とか、「人道」とか、「愛」とか、「※憐憫」とかいうものに関心をもたずにいられないというのは、
自己の存在の根底において、われわれは内界において自由であるとともに、
外界においても自由であるとの根本自覚をもっているからであります。』

※云為・・・言ったり、したりすること。言葉と動作。
※憐憫・・・いとしく思って憐れむこと。


『われわれはいっさいのものを外界をも完全に支配する自由を与えられているのであります。』


『だから、人の世に内外両面、主客相(あい)貫いた「善」というものの価値と権威を確立するには、
心の自由は同時に行為の自由であり、心に描かれたことは必ず客観世界にも実現する、
心の世界と客観世界とはただ一つのものの両面である――客観世界は心の世界の影であるという、
「生長の家」の※所説に基づいてこなければならない。
※倫理学は要するに、「生長の家」に来なければ主客両面、内外相(あい)貫いた
その本当の根拠がつかめないということになるのであります。』

※所説・・・主張している事柄。述べている意見。
※倫理学・・・善悪の標準や行為・欲求の規範など道徳一般を研究する学問。

(※は頭注より)

3907a hope:2014/05/14(水) 22:12:29 ID:cEpBaIdo

テキスト第13巻p67〜71

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2844

(a hope 赤線部分)

『唯一の「善」は神のみである。
ということであります。「善(グッド)」は「神(ゴッド)」の別名なのであります。
「神」のいます処、そこに、「善」があり、「神」のいまさない処、そこに「善」がないということになるのであります。』

『自と他と、我と彼と、心と物と相離れているように見えますけれども、実は相離れているのではない、
本来、自他一体なのであります。神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。』

『「神は愛である」とは、『ヨハネ第一書』以来今日にいたるまで、神について下された最も要領を得た定義であります。
では愛とは?「おのれのごとく隣人を愛すべし」何故(なにゆえ)であるか。
答えて曰く、神はすべての親であるから、自己と他とは一体であるから、その答えは大いによろしい。
自他包容の渾一体(こんいったい)――すなわち「自他一体」そのものが神なのであります。
自他一体を生きるということが神を生きるということ、神をこの世に顕現することであります。』

『自他一体を生きることが神を生きることになるのでありますから、軽くいえば自己のごとく他を愛する。
いっそう切実にいえば自己そのものとして他を愛することが、神を生きることになるのでありまして、
「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは「愛」を生きることにほかならないのであります。 』



(a hope所感・・・少しだけ)

これが「生長の家の愛」すなわち「自他一体の自覚」ですね。

<<神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。>>
<<自己そのものとして他を愛することが、神を生きることになるのでありまして、
「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは「愛」を生きることにほかならないのであります。>>


これこそ、まことの「実相礼拝」なのではないかと思いました。
それにしても、すごい真理ですね!!

3908a hope:2014/05/15(木) 10:23:17 ID:cEpBaIdo
みなさま おはようございます!

最近、yahoo検索で「中絶」と検索すると、大熊先生の「いのちを守る親の会」の公式ブログが第1ページに表示されます。
そこで表示されるのは、「胎児を殺さないで」というメッセージのついた、衝撃的な中絶画像です。
わたし自身は、そのショッキングな写真の数々を、正視することはできません。

そして、正直に言えば、いくら「ちいさな命を守る」ためだとはいえあのような画像を一般に公開して、
妊婦に罪の意識を起こさせるようなやり方が本当に光明化運動につながるのであろうか・・・と疑問に思っていました。

ですが、今日の同じブログの記事を拝見して大熊先生の本意をやっと理解できました。

http://blogs.yahoo.co.jp/inoti333mamoru777/MYBLOG/yblog.html

大熊先生の「ちいさな命を守る運動」が「赤ちゃんを殺さないで」運動ではなく、
「お母さん産んでくれてありがとう」運動であるのは、それがまことの「光明思想」から生まれたの運動だからなんですね!


大熊先生は、日本国内で年間100万といわれるいう胎児が中絶されているという現実に慈悲の心を起こされて立ち上がられました。
そして、「生長の家の愛」「自他一体の自覚」に立たれて、それこそ、命がけで「ちいさな命を守る」運動をされています。

これは、谷口雅春先生が、人類光明化運動に立ち上がれた時とソックリです。


わたしは大熊先生はまことに「唯神実相」を悟られているのだと確信しています。
こちらの大熊先生のブログを拝見すると、人類光明化への情熱が伝わってきてパワーをもらえますよ!


http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/folder/172638.html

3909a hope:2014/05/15(木) 20:41:53 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p71〜72

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2846

(a hope 赤線部分)

<<「神は愛なり」とは、神は万物の本源でありますから、「神はすべてのものを自己そのものとして観給う」
――これが「神は愛なり」という意義であります。>>


<<「われわが子を愛す」といえば、「われそのものとして観る」ということであります。
子を愛する母は、わが子の噛んだものを口移しに食べても「穢(きたな)い」と感じない、
それはわが子をわれそのものとして観るからであります。
「穢い」などという感じ、すべての軽蔑の感じは自と他と相疎隔した感じによって起るのであります。>>

<<「美とはそこに生命があらわれていることである」と『智慧の言葉』にありますが、
ある種の美術はちょっと見るとどこが美しいのかわからない、
じっと見ていると美しさがわかってくる、それはその美術に顕れている「生命」を見いだし、
その「生命」を自分の「生命」と同じものとして感じる、
すなわち自他一体の感じを受けるから「美しい」と感ずるのであります。
だから「美」も「愛」も「生長の家」から観れば同じことでありまして、
自己と同じ生命を見出すとき、そこに美を感じ愛を観ずるのであります。 >>

3910トキ:2014/05/15(木) 22:15:39 ID:5KIvbXvk
>>3905

 ありがとうございます。続きを楽しみにしております。

3911a hope:2014/05/16(金) 10:29:13 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p73〜76

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2849n-

(a hope 赤線部分)

<<では「神を愛する」とはなんであるかと申しますと、
「愛する」とは自己と一体として認めることであるという一般定義に従いますと、
「神を愛する」とは神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。

妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは子と一体であると認めること、
隣人を愛するとは隣人と一体であると認めること、この「一体であると認める」すなわち愛するということが第一であって
いろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」
とかいういろいろの外形的な細目は、「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば
自然にととのってくることなのであります。>>


(a hope 所感t)

ここに、「中心自覚」という言葉がでてきました。
また、後半部分には「中心善」という言葉も出てきます。

この二つのことばは a hopeの解釈ではほぼ同義になると思いますが、
要するに、「中心自覚がととのえば、おのずと中心善もととのう」ということなのだと思います。
その説明が、上の抜粋分に詳しくされていますね。

『いろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」
とかいういろいろの外形的な細目は、「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば
自然にととのってくることなのであります。』

生長の家の教えでは「罪なし」「悪なし」ですから「生長の家」を信仰しているものが、
「罪」や「悪」を認めてしまえば「生長の家」からみれば、それが「虚説」となるのだと思います。

わたしたち、「生長の家」人には、そんな人々の罪を認め、罰するような考え方や法律は全く必要ありませんね。

だって、すべての善き行い(善)は『「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば
自然にととのってくる』わけですから・・・

そして、これが、人類光明化運動の基本なんだと思います。

ほんとうにありがたい教えだと思います。
a hopeは、この「生長の家の教え」に出会えたことに、いつも、心から感謝しています。

合掌。

3912a hope:2014/05/16(金) 23:16:10 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは。

a hopeは、今夜からテキスト13巻の第二章に進みたいと思います。

第一章では、「人間の世界観」、「念の具象化の法則」、「自他一体の真理」等を勉強することで、
「生長の家」式唯神実相世界観がどのようなものなのであるかをよく理解できました。

この後の二章から五章までは、主に「神性隠蔽」について書かれているようです。

見方を変えれば「神性隠蔽」とは、第一章で学んできた「生長の家」式唯神実相世界観に立つことを阻害するような考え方、見解であるともいえると思います。

それはいったいどのような考え方、見解であるのかということが、第一の神性隠蔽、第二の神性隠蔽、第三の神性隠蔽、第四の神性隠蔽、
というように、このテキストに順を追って詳しく説明されています。

第五章「実相を隠蔽する驕慢と自卑」の冒頭に、二章から四章までの内容のまとめ的な文章があるので、
まず最初にその個所を聖典引用板に謹写させていただきました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2854

みなさま、a hopeは名前の通りほんとにアホみたいな普通の主婦なんですが、「生命の實相」が大好きなんです。
だから、ここで「生命の實相」をお勉強させていただけるのはとても幸せなのですが、なんか、みなさまの反応が少ないのが少々気になります。

それに、a hopeの「生長の家」というか、「生命の實相」信仰歴はまだ4年目に入ったばかりです。
だから、まとめ方や所感、解釈等におかしなところもあるのではないかと思うのです。
ですから、間違いがあればぜひ、ご指摘、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。


ところで、今回のこのテキスト13巻14巻には、今の「生長の家」全体の問題を解決する重要な内容がいくつも含まれているような気がします。

わたしたち信徒がこの「生命の實相」のお勉強がおろそかにしているから、現在の「生長の家」がこのような有様になってしまったのだと思うのです。


テキスト p125

『「自他一体」の事実が悟れないゆえに、利己主義が生じ、利己主義が、「物あり」という迷いと混合して、
貪欲、怒り、憎み、嫉妬、虚栄などの諸罪を構成するのであります。』


みなさま、このテキストをお勉強してこの「自他一体」の事実を悟れば、全ての悪感情はなくなるようですね。

そうすれば、病気が治ったり、家計が楽になったり、商売がうまくいったり、人間関係が改善されたり・・・と、
かつての生長の家で奇蹟と呼ばれたようなことが必ず起こると思います。
(でも、本当は当たり前【本来の姿】に戻ることなんですよね!)

みなさま、a hopeと一緒に、ここで聖典「生命の實相」をお勉強して奇蹟を起こしていきましょう!!

3914a hope:2014/05/17(土) 21:47:59 ID:brQxC10.
(a hope まとめ)p77〜

第一の神性隠蔽 とは・・・「神我一体」の実相を包んで見ざること  

【第一の神性隠蔽についての仏教的見解】
「浄土は毀(やぶ)れざるに、しかも衆(ひとびと)は焼け尽きて憂怖(うふ)諸々(もろもろ)の苦悩のことごとく充満せりと見る」(『法華経』「寿量品」)

【第一の神性隠蔽についてのキリスト教的見解】
実相の天地はすでに造られ、山野の果樹野菜はすでに繁茂し、すでに実相の人間は神の像(すがた)として完全に造られたるに(『創世記』第一章)
国土にはなお植物生ぜず、人間造られず、やがて人間は土の塵にて不完全に造られ、蛇の知恵に騙され、エデンの園を追い出され、労苦して、本来土の塵(ちり)に帰す(『創世記』第二章) アダムの原罪

【第一の神性隠蔽についての生長の家の万教帰一的見解】
「実相人間」から「仮相人間」への墜落、「本物の人間」から「ニセ物の人間」への墜落。
「実相人間」は本来、壊せず、毀(やぶ)れず、墜落せず、今も実相常楽の国土に、悠々歓びの創造を続けているにもかかわらず、夢のごとく、幻のごとく、物質の人間ありと観、土の塵にて造られたる人間ありと観ている。
だから、『法華経』と『創世記』は同じことが書いてある。


○実相の国土(「神の国」)・・・確実にあるもの。生滅増減しない。全部完全に儼存(げんぞん)する。

●現象世界・・・自分の念をもって賦彩(いろづ)けし投影した状態を見たもの。念に従って、生滅増減する。本来無いもの。

3915a hope:2014/05/17(土) 21:49:06 ID:cEpBaIdo
(a hope まとめ)p80 6行目〜 p81 2行目

第一の神性隠蔽 = 最初の迷い「包み」(罪)【アダムの原罪】 とはどのような見解をすることか・・・ 

1、 霊的実在を包み隠して、物質的存在と観る
2、 霊的人間の実相を包み隠して物質人間と観る
3、 神の国を現世の次に来る世界と観る
4、 「神の国」を今すでにある永遠無辺の世界だと観ず、吾人の物質的存在が終わらなければ「神の国」へ誕生できないと観る
5、 「神なる人間」を久遠常住の存在だと悟らない


以下、テキストを謹写  p80 後から 5行目〜

<<この原罪(第一の神性隠蔽)によって、人間をば「土の塵」――すなわち「物質的肉体だ」と観じ、世界をば物質的存在だと観じ、
自己を物質的存在だと見る限り、肉体は各人互に離れ離れのものでありますから、そこに利己主義の萌芽を顕わし、
物質は一見有限のものでありますから、与えれば減るの観念を増長せしめ、争闘、劫掠(ごうりゃく)、奪い合いを現出するにいたったのであります。

ここに「実相の『神の子・人間』は争闘、劫掠、奪い合いを現にしていないのに、現象人間は争闘、劫掠、奪い合いをなせる有様を現している」というふうになってきているのであります。>>

3916a hope:2014/05/18(日) 10:21:22 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

テキストp81〜 は、主に、現代のキリスト教の問題に言及していて、
その原因がキリスト(神)を肉体イエスに見いだそうとする「偶像崇拝」によるものであると、
述べられています。

<<キリスト教では形あるものを崇拝することを偶像崇拝といって、非常に軽蔑して忌み嫌うのでありますが、
「永遠の神性」を礼拝の対象にせず、二千年前ユダヤに生まれた肉体イエスを通さねば救われないなどと、
肉体を礼拝の対象にしているなどは、みずから忌み嫌う偶像崇拝に陥っていることになるのであります。
こうして「永遠神性(かみそのもの)」に背を向け顔をそむけて、ある特定の肉体を崇拝の的にすることは神の実相を見ざるもの、
本当の神を「自己の迷い」をもって包み隠せるはなはなしき罪なのであります。>>


この現象世界だけが唯一の実在であり、その世界の出来事だけが事実である信じている人間であれば、
自分自身に「永遠の神性」が宿っていて、自分自身が「神」そのものであるなんてことは、
絶対に受け入れられない事実だと思うのです。

だって、一肉体人間の力なんて、宇宙全体の壮大さから考えれば蟻粒よりももっと小さいですものね。
特に、実際に、人生で絶望感を一度でも味わった人ならば、
何か別の偉大な力に頼りたいと思うのはあたりまえの心情だとも思うのです。
だから、偶像崇拝のようなことが起きてしまうのですね。


本来の「生長の家の教え」はそんなんではないですよね?


ですが、わたしはどうもテキストのここら辺を拝読していると、
「生長の家」人であっても『「谷口雅春先生」を超えられるような偉大な人物はいない!』
などというふうに考えてしまうことは、この「偶像崇拝」なのではないかと感じてしまうのですが・・・。
それとも、これは、わたしが増上慢なのでしょうか?

P82 5行目の 「宗教争いは偶像崇拝より起こる」を、聖典引用板に謹写させていただきました。

みなさな、ご意見、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

3917a hope:2014/05/18(日) 10:26:19 ID:cEpBaIdo
>>3916 追記

「生命の實相」第13巻 P82  「宗教争いは偶像崇拝より起こる」

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2855

3918a hope:2014/05/20(火) 08:43:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 p83 「人間の不自由の萌芽(ほうが)」

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2857

3919a hope:2014/05/20(火) 08:44:40 ID:cEpBaIdo

テキストp84〜 キリストとニコデモ より

( a hope赤線部分)

<<現代でも多くのニコデモがいて、※わたしの主張に対して「いかでかかることどものありうべき」と反駁するでありましょう>>

※「わたし」・・・谷口雅春先生
「主張」・・・「現象人間から心の眼を一転して実相人間を見ることだ」ということ。

<<「すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得んがためなり。」この一節は、今までキリスト教徒が、イエスを通さなければ永遠の生命が得られないと主張する根拠となった一節であります。

しかし、何故、イエス御自身の言葉として、「すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得んがためなり」と三人称でいわれて、「われによりて」といわれなかったのでありましょうか。

イエスはここで特に「人の子」といったり「彼」といったりしているのであります。

それは「人の子」というのはイエス自身が注釈して「天より降りし者をいう」といっている。言い換えると実相世界に誕生した者――実相人間全体を普通名詞としていっているのであります。

イエスは「われを信ぜよ」といったのではなく、「人の子を信ぜよ、実相人間を信ぜよ、わたしはその一例だ、『久遠の実在』としての実相人間を信ずる者には肉体は死んでも、永遠の生命が与えられるのだ」といったのであります。>>

3920a hope:2014/05/20(火) 08:46:45 ID:cEpBaIdo

>>3919 a hope所感)

<<【イエス】は「われを信ぜよ」といったのではなく、「人の子を信ぜよ、実相人間を信ぜよ、わたしはその一例だ、『久遠の実在』としての実相人間を信ずる者には肉体は死んでも、永遠の生命が与えられるのだ」といったのであります。>>

↑を置き換えてみたいと思います。

<<【谷口雅春】は「われを信ぜよ」といったのではなく、「人の子を信ぜよ、実相人間を信ぜよ、わたしはその一例だ、『久遠の実在』としての実相人間を信ずる者には肉体は死んでも、永遠の生命が与えられるのだ」といったのであります。>>

このような考え方をしてしまうわたしは、増上慢であり、まことの「生長の家」信徒ではないのでしょうか?

谷口雅春先生は確かに偉大な宗教家で、哲学者で、人間的にも素晴らしい人格の持ち主だったと思います。
だから、わたしはもちろん、谷口雅春先生には直接お会いしたことはありませんが、心より尊敬していて信頼しています。

でも、だからこそ、谷口雅春先生の残された聖典「生命の實相」のお言葉を素直に信じたいのです。

「谷口雅春先生は神から選ばれた偉大な人だったから「唯神実相」が悟られたのだ」
「自分たち弟子には同じことはできない」などと考えてしまうのは、
谷口雅春先生がおっしゃっている「第一の神性隠蔽」「偶像崇拝」の罪を犯すことになってしまわないのでしょうか?

先輩方が今、憲法改正運動や、環境保護運動等、さまざまな「生長の家」の運動をされているようですが、
「自分が神の子である」「自分も谷口雅春先生と同じなんだ」というこの大切な真理を悟らなかったら、
その運動は、まったく谷口雅春先生のご意志とは、別の方向に行ってしまうのではないでしょうか?

教団も、本流の先輩方も何が『本当の「生長の家」の光明化運動』なのかを思い出されて、
その基本に戻って運動されたら、「生長の家」は一つになれると思うのですが・・・。

それこそ、谷口雅春先生が一番よろこばれることで、本当のご遺志だったのではないでしょうか?

3921a hope:2014/05/21(水) 09:15:40 ID:cEpBaIdo

(a hope 赤線部分)

第二章の後半(p88〜)には、「罪」について書かれています。

<<アダムの原罪(第一の神性隠蔽)以来、罪悪の観念は、すべての肉体人間の心の奥底に横たわっている観念であります。>>

<<罪なき者――本来無罪清浄なる人間に、なぜ、罪の観念が起こるかといいますと、われらは本来「無罪」なればこそ罪の感じが起こるのであります。>>

<<この「本来の相(すがた)」でないという自覚が、「罪」の観念であります。それは本来の完全な相を、本来の自由な相を、表出せんと喘ぎもとめている心の呻きなのであります。>>

<<そのように、われわれの「完全なる実相」そのものは罪なきもの迷いなきものでありますから、罪の意識はわれわれ自身の本姓にはないものであります。>>

3922a hope:2014/05/21(水) 09:17:28 ID:cEpBaIdo
(a hope所感)

みなさん おはようございます!

このテキストの部分には、人間の「罪の意識」を「炭火」から立ち上る「煙」に例えて、説明しています。
「炭火」そのものからは「煙」は立ち上がらない。
そこに、塵埃(じんあい)=「迷い」 があるから「煙」が発生する。

炭火の火力の強さ=生命の実相の悟りの深さ
塵埃の量=迷いの量
煙のあらわれ=罪の意識のあらわれ

<<宗教というのは、この「生命の実相」のうちに眠っている炭火の火力を熾盛(しじょう)ならしめる働きをするものであります>> p91 9行目

この、テキストの部分の説明はすごくわかり易いと思いました。

煙ばかりたくさんたっても、炎が燃え上がらなければ不完全燃焼です。

同じように、「罪の意識」をおこし、「迷い」の「塵埃」の存在に気づくことは必要だが、
それだけでは救われないのですね。

「人間神の子」の真理に目覚めて、「実相」の炎を燃え上がらせて初めてわたしたちは本当に救われる、というわけですね。

ここにも、また、素晴らしい真理が書かれていますね。

「罪は本来ない」という真理を本当に悟るには、この一連の作業が必要なようです。

a hopeは、「生長の家」の「浄心行」の本当の意味がだんだん解ってきましたよ!

3923a hope:2014/05/22(木) 09:00:52 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます!

どうやら今現在、信仰/体験板は試合会場になっているようですので、
こちらに投稿させていただきます。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1333192083/1855

わたしは、↑の投稿をして、「偽善」という言葉に関して自分の意見を述べて、
その後、大熊先生のブログを紹介させていただきました。

今朝、大熊先生のブログに行きましたら、なんと、また、シンクロニシティ現象が・・・

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/folder/172638.html

↑唯神実相を悟られた、大熊先生の素晴らしいご指導が受けられますよ!

必見です!!!

3924トキ:2014/05/22(木) 20:23:46 ID:Z9No9Nic
>>3923

 どうも、申し訳ありません。

3925a hope:2014/05/23(金) 00:04:21 ID:cEpBaIdo
>>3924 トキさま

全然、気になさらないでくださいね。

トキさまのおかげで、いつでも自由にこの掲示板でお勉強させていただけることに心から感謝しています。

合掌。

3926a hope:2014/05/23(金) 08:47:21 ID:cEpBaIdo
( a hope所感)

テキストp95〜101には、自己審判(自己処罰)または「良心の審判(さばき)」について述べられています。

「生長の家」の教えでは「神罰」はないとされていますが、
悪念(罪)は「念の具象化の法則」により現象界に不完全な状態(病気・不幸など)として現れでてしまうようです。

ただし、「悔い改め」=「魂の転向(コンパーション)」により、その罪を超越できるとも説明されています。


p101 4行目〜

<<・・・「罪」が現実的不幸として、客観化して現れるのは、罪自身がその存在権を主張するためではなく、
神のみ業――すなわち神の創造(つく)給いし完全なる実相のあらわれんがためであるとしますと、
「悔い改める」 すなわち心が「実相」の方へ完全に転回(コンパーション)してしまいますと、
さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と「神の創造(つく)給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、
罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」はそのままひらかれてしまい、
中味がそのまま握られてしまいますから「包み」の模様はもう問題とならない。

「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。>>


この、「悔い改め」=魂の転向(転回)が、「人間神の子(実相)の自覚」になるのだと思います。
聖典「生命の實相」をお勉強していると、色々な角度から、色々な方便で、この事が説明されているのがわかります。

(つづく)


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