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Web誌友会 板/2

3911a hope:2014/05/16(金) 10:29:13 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p73〜76

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2849n-

(a hope 赤線部分)

<<では「神を愛する」とはなんであるかと申しますと、
「愛する」とは自己と一体として認めることであるという一般定義に従いますと、
「神を愛する」とは神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。

妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは子と一体であると認めること、
隣人を愛するとは隣人と一体であると認めること、この「一体であると認める」すなわち愛するということが第一であって
いろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」
とかいういろいろの外形的な細目は、「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば
自然にととのってくることなのであります。>>


(a hope 所感t)

ここに、「中心自覚」という言葉がでてきました。
また、後半部分には「中心善」という言葉も出てきます。

この二つのことばは a hopeの解釈ではほぼ同義になると思いますが、
要するに、「中心自覚がととのえば、おのずと中心善もととのう」ということなのだと思います。
その説明が、上の抜粋分に詳しくされていますね。

『いろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」
とかいういろいろの外形的な細目は、「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば
自然にととのってくることなのであります。』

生長の家の教えでは「罪なし」「悪なし」ですから「生長の家」を信仰しているものが、
「罪」や「悪」を認めてしまえば「生長の家」からみれば、それが「虚説」となるのだと思います。

わたしたち、「生長の家」人には、そんな人々の罪を認め、罰するような考え方や法律は全く必要ありませんね。

だって、すべての善き行い(善)は『「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば
自然にととのってくる』わけですから・・・

そして、これが、人類光明化運動の基本なんだと思います。

ほんとうにありがたい教えだと思います。
a hopeは、この「生長の家の教え」に出会えたことに、いつも、心から感謝しています。

合掌。


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