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Web誌友会 板/2

3926a hope:2014/05/23(金) 08:47:21 ID:cEpBaIdo
( a hope所感)

テキストp95〜101には、自己審判(自己処罰)または「良心の審判(さばき)」について述べられています。

「生長の家」の教えでは「神罰」はないとされていますが、
悪念(罪)は「念の具象化の法則」により現象界に不完全な状態(病気・不幸など)として現れでてしまうようです。

ただし、「悔い改め」=「魂の転向(コンパーション)」により、その罪を超越できるとも説明されています。


p101 4行目〜

<<・・・「罪」が現実的不幸として、客観化して現れるのは、罪自身がその存在権を主張するためではなく、
神のみ業――すなわち神の創造(つく)給いし完全なる実相のあらわれんがためであるとしますと、
「悔い改める」 すなわち心が「実相」の方へ完全に転回(コンパーション)してしまいますと、
さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と「神の創造(つく)給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、
罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」はそのままひらかれてしまい、
中味がそのまま握られてしまいますから「包み」の模様はもう問題とならない。

「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。>>


この、「悔い改め」=魂の転向(転回)が、「人間神の子(実相)の自覚」になるのだと思います。
聖典「生命の實相」をお勉強していると、色々な角度から、色々な方便で、この事が説明されているのがわかります。

(つづく)


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