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Web誌友会 板/2
3848
:
a hope
:2014/04/20(日) 10:51:42 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p84 2行目〜
・・・悪いと知って一歩一歩改善してゆくのは道徳的救いでありますが、 宗教的救いというのは飛躍の救いであります。自力の一歩一歩の改善ではどうしても救われない自分だと知った時に、その「改善しなければならないような悪い自分」というものは「虚仮(こけ)の自分」であった、言い換えると「ウソの自分」「本来ない自分」であったと知る――その時、忽然旧我が消えてしまって、本当の自分――尽十方無礙光如来と同体の自分というものが顕れて来るのであります。そこに完全に「我」というものの置き換えができるのであります。
今までは、「罪悪の自分」であると思っていた「ニセ物の自分」はその時忽然と消えて」しまって、罪を犯そうにも犯しようがない無限に善いところの「尽十方無礙光如来と同体の自分」というものが現れてくるのであります。すると自然に、法爾(ほうに)に善いことばかりしか思わなくなり、善いことばかりしか行わなくなるのであります。そんな都合のよいことが本当にできるかと思う人がありますが、それが本当にできぬくらいなら宗教的救いではない。
宗教的救いというものは、先刻申しましたように、極楽浄土という一地域の中へ罪悪深重のままで、悪を犯す傾向をもったままで移住することではない。「尽十方無礙光如来」と同体の本当の自分があらわれて来て、自然に善いことばかりに心が動き、自然に怒る心がなくなり、自然に争う心がなくなり、自然に恐れる心がなくなるのであります。どうしたらその宗教的救いが得られるかと申しますと、真宗では「南無阿弥陀仏」と称えればよいわけですこぶる簡単でありますが、「南無阿弥陀仏」の心がわからないで称えてもやはり、本当の救われた相(すがた)があらわれないで、片手に「南無阿弥陀仏」と称えながら片手で嫁をいじめをしている姑(しゅうとめ)さんもないことはない。これは南無阿弥陀仏のこころが解らないからであります。
「生長の家」では『生命の實相』をただ読むだけで「南無阿弥陀仏」の心を解らせる、いいかえれば阿弥陀仏に帰命し、阿弥陀仏と同体になっているところの自分の生命の正体をわからせるのです。すると突然、虚仮の自分――罪深い自分――本来ない自分というものが消えてしまって、「本来救われている自分」というものが現れて来るのであります。だから「生長の家」ではすこぶる簡単に救いがあらわれる、それは聖典『生命の實相』をただ読め、ひたすら読めということであります。
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