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Web誌友会 板/2

3830a hope:2014/04/09(水) 19:50:25 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第11巻 p190 5行目〜

・・・『新約聖書』の偉大さはイエスを歴史的人物であると否とのごとき問題ではありません。そうかといって、わたしはイエスを歴史的人物でないと否定するものでありません。そんなことは問題とするにたりないと思うのです。『新約聖書』の中の言葉がイエス自身の御発言であろうとパウロの思索せる宗教的真理であろうと、その作者の名前に捉われる必要はないのです。

福音書が神の啓示に満たされているということは、福音書それ自体のうちにある永遠生命のある言葉みずからが証明しているので、「生長の家」が神の啓示に満たされているというのも、要するにその中に包蔵されている永遠生命の言葉――読んで病が治るほどの言葉自身が証明しているのであります。

書いた人の歴史的地位などを問題にしていては、「生長の家」もわたしという一介の会社員が事務の片手間に書いたにすぎません。

『妙法蓮華経』にしませいても、釈迦が、これこそ未顕真実(みけんしんじつ)の至上の真理であるといって『法華経』を説いたといいますが、誰も釈迦がそれを説いているのを見た人もない。皆、釈迦没後多年を経て書かれたものである。すると『法華経』は釈迦正統であるかどうかも証拠はない。

釈迦が説いたから尊いとか、イエスが説いたから尊いとか言っている人は、ここに到って何を信じたらよいかわからなくなるのであります。


大宅さん、真理というのは誰が説いても尊いのであります。何も釈迦が説かなければ尊くないとか、イエスが直接説かなければ尊くないとかいうものではありません。金剛教祖が説いてもよいし、大本教祖がといてもよいし、天理教祖がといてもよいし、またわたしが真理を説いてもよいのであります。

生長の家の神さまの神示に「誰にてもあれ、生命の実相を説くところにわれは顕れる」とあります。誰が説いても真理を説けばそこに神が顕れてい給うのです。なぜなら神とは真理そのものでありますから、実際、神があらわれないくらいなら真理を説いているのではないのであります。

もし歴史的に顕れた神が教えをとくから尊いといわれるなら、現在この世にあらわれている神が説く教えならいっそう尊いではありませんか。なぜなら歴史的ということは歴史家の考証に誤りがあるかもしれない、歴史家の偽作かもしれないが、現在、その教えをする神を見たという人が現に生きていて証拠となっている『生長の家』の教えの方がいっそう尊いではありませんか。

わたしが『生長の家』を書いているとき、わたしならぬいと神々しき神姿が筆を動かしている有様を見た人は現に埼玉県に生きている。昭和七年九月に仮見新道場修行に来ておられた松原太郎氏の母堂は、霊眼がひらけて同じく神姿を拝されました。また・・・(以下略)


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