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Web誌友会 板/2

3887a hope:2014/05/08(木) 00:14:37 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 p59 後ろから3行目〜

何宗の信者でも、本当の生命を把(塚)んでいる人の宗教は生きているし、同じ名前の宗教でも、形骸や名称だけを摑んで、本源真実の生命を摑んでいない人の宗教は、死んでいるのであります。そこで松の木やいろいろの樹木がある、何々教の神やいろいろの神がある、それが離れ離れに勝手にほしいままに生きており、勢力を主張している――こういうように観るのが多元的唯心論でありまして、一つの生命と他の生命とが勢力を争い、一つの宗教と他の宗教とが勢力を争っているのであります。世界を支配する「心的支配者」はみとめるが、その「心的支配者」が複数であって一つに統一されなていないのであります。それを一つに統一する本源真実の生命を認め、松の木も梅の木も同時に認めながら、キリスト教も神道諸派も仏教諸宗も同時に認めながら、それを生かしている一つの本源真実の生命を認めしめるのが「生長の家」であります。


(a hope 所感)

<<何宗の信者でも、本当の生命を把(つか)んでいる人の宗教は生きているし、同じ名前の宗教でも、形骸や名称だけを摑んで、本源真実の生命を摑んでいない人の宗教は、死んでいるのであります。>>

「本当の生命」、「本源真実の生命」とは明らかに「生命の實相」のことですね。
いい換えると、

<<生長の家の信徒でも、「生命の實相」を把んでいる人の宗教は生きているし、同じ「生長の家」という名前の宗教でも、その形骸や名称だけを摑んでいる人の宗教は、死んでいる>>

となりますね。

雅春先生の言葉(神さま)のお言葉ですが、なんか、とってもシビアな批評に感じてしまうのはわたしだけでしょうか・・・?


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