[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
3832
:
トキ
:2014/04/09(水) 21:57:26 ID:CrCxN0aA
宣宗皇帝の若いときに弟子となって、そこで修行した師匠の香厳和尚でもそうであり
ます。これは有名な和尚さんで、香厳の撃竹といって、石が竹を撃つ音を聞いて
悟りを開いたと言われる。いったい香厳和尚はそれまで瀉山和尚について修行してきた。
しかし師についても、本を読んでもどうしても悟れない。何々経にはなんと書いてある
となかんかよく喋るけれども、そのものを直接に把んでいない。先生の瀉山から、
「書物にもなんにも書いてない、人のいった言葉の受け売りではない、自分の中から
出て来た自分の言葉で仏とはどんなものかいってみよ」と言われたが、どうしても
答えられない。つまり仏とはいかなるものか、ということが分らなかったので、いっさいの
書物を焼き捨て、もう瀉山和尚についていることも止めて、南陽の慧忠国師の遺跡に庵を
つくって、もう仏とはどんなものかということも考えずにいた。ある日、竹林の側を掃除
しておった。そうしたら、その箒に石ころが引っかかって、その石ころがコツンと竹薮の
竹にブッ突かった時に、その音を聞いた時に、竹と石と天地と自分と「一つ」-すべては
「一つ」だということがわかって悟りを開いたえらい坊さんであります。われわれが心の
耳を開いて聴けば、いたるところに先生がいるわけです。路傍に転んでいるところの石ころ
も、あの辺に生えているところの雑草も、あるいは藪に伸びている一本の竹であっても、
皆われわれが本当に心の眼を開いて見た時に、心の耳を開いて聴いた時に、そこに本当の
真理を語っているわけなのであります。
生命の実相 第11巻 195Pより謹写
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板