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Web誌友会 板/2

3901曳馬野:2014/05/11(日) 17:07:31 ID:I/wU8psA


●「生長の家」の教えでは、『現象は本来ない』『現象は影である』ですから、
 その真理から言えば、現象世界における無限の繁栄など影であり、犠牲になった人などもいないということになります。

○実相はまことに無相なり。真に甚大久遠なり。これを夢想という。実に月潭底を穿って水に迹なし、昔ながらに。看よ看よ。
 有りと見て無きは常なり水の月。無しと見て有るは常なり水の月。全く 夢の世を夢の世じゃとて怨にすな、夢の世ばかり己が世なれば

と云った人がいます。

●現象世界の企業の責任問題を追及するのは、「生長の家」の役割(使命)なのでしょうか?
 物質(破壊された環境)も、人間の罪も認めた運動ということになってしまいます。

○みんながみな環境を支配できる心の持ち主ではないので、政治という形で環境を整備する必要があるとは、生命の実相の一巻にある言葉
 ではないですか。環境が破壊されたと思うことと、病気で困ると思うことは実相を観ないことによる、として見方を変えてもらい、その結果
 環境を望ましいものに変えることが、生長の家の本義という事でしょうか。環境破壊が人間によって為された時、そこに罪有として憎みとか、
 怒りの心を持つのでなく、過っての公害が罪の意識失くして、知らずして起こされた罪は重いと云うものとして、その解消をしていくことが
 必要ではないですか。

病人が居なければ病気治しはいらない、環境が東洋の神秘と云われた昔の日本であれば、環境運動もいらない、経済優先で環境破壊をする人が
居なければ、今の運動もいらない。
【本来、実相(神)しかないわけですから、その実相(神)の心が呼び起されれば、現象(影の世界)も変わるのだと思います。】
と云われるその心を忘れ、儲け主義に走っている結果の環境破壊ではありませんか。

精神疾患の人が増え、子供を産むことさえできなくて少子化という。人間個人の心も、環境を動かす心も二つあるものでないと思うのです。
個人の心が正常に働くことと、環境を美しく維持していく心とは、同じではないでしょうか。そういうことで、個人救済を主にする本流もよし、
環境と云うより大きにものに、心を向うことにより個に執着する心を離れる教団もよし、其処にいがみ合いの心を持ち込むことがいけないのでは
ないですか。誠の心を生かしさえすれば生きる様子はどの様でも好いのでは。

こたえは結構ですよ、私の独り言、つぶやきです。  ごきげんよう ahopeさん


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