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Web誌友会 板/2

3270復興G:2013/11/01(金) 15:04:34 ID:AB6RqYXc

 上記 『生命の實相』 第6巻 「はしがき」 に書かれていますように、

<< 人類の不幸の根元を知らない人が多い。不幸の根元のうち最大なるものは、自己を罪人(つみびと)とする人類の罪悪意識であり、その罪悪意識が潜在意識にあるがために、人類は自己処罰として一切の不幸(戦争・病気・不慮の災禍等をも含めて)をつくりつつあるのである。>>

 というその 「一切の不幸(戦争・病気・不慮の災禍等をも含めて)」 には、自然環境破壊ということも含まれると思います。

 そのことは、>>3258>>3259でも触れていたとおりです。

 生長の家が宗教団体としてなすべき最も大切なことは、環境破壊のもとになっている 「人間は罪の子である」 という罪悪意識から人類が解放されて、

 ◎ 「人間は神の子である」 という 「中心自覚」 「根本自覚」――「この中心から外的な一切の善きものが流れ出でる円の中心のような自覚」 を呼び覚ますことにあるのではないでしょうか。

3271a hope:2013/11/01(金) 21:32:05 ID:/9IAdiFk
復興Gさま みなさま こんばんは

今月から、web誌友会の範囲が「生命の實相」第6巻になったのですね。
わたしは、現在、第30巻を拝読中ですが、第6巻も合わせてお勉強させていただきたいと思っています。

わたしは今までweb誌友会で、雅宣先生の教えのおかしいと思うころをたくさん批判させていただいてきました。

ですが、最近は、雅宣先生や純子先生のキノコ採りや、マウンテンバイク等のブログ内容なんかを拝見しているうちに、
今まで一生懸命そんなことをしてきた自分をとても馬鹿らしく感じています。

そしてそんなことに自分のエネルギーと時間を使うよりも、聖典「生命の實相」を拝読して一日も早く「真理」を悟りたいと思うようになりました。

これは正直な気持ちですが、わたしにそういう決意をさせてくださった雅宣先生と純子先生には、今、心から感謝しています。

ですからわたしは、これからはこのweb誌友会板では現象の生長の家教団に関することに関しては発言を控え、
純粋に「生命の實相」の真理を学ばせていただきたいと思っています。

みなさま、どうぞ、素晴らしい聖典「生命の實相」を拝読されて、このweb誌友会板で感動したところなどを教えて下さいね!

復興Gさまいつもご指導ありがとうございます。
発言は少ないですが、いつもお勉強させていただいています。

今月もどうぞ、よろしくお願いいたします。

3273トキ:2013/11/01(金) 22:16:15 ID:I.hjCShY
実は、今日は、朝から夕方まで、営利目的の投稿の削除で何も投稿できませんでした。
が、営利目的も投稿が多いのは、実は、閲覧者様の数が多い掲示版であるという証拠でもあります。
 閲覧者様がいて下さってこその掲示版ですから、心から感謝しています。

それも、投稿者様の皆様、特に復興G様のご指導のおかげと感謝申し上げます。


 11月ですが、みなさま、web誌友会をよろしくお願いいたします。

合掌 ありがとうございます

3274復興G:2013/11/01(金) 22:32:51 ID:AB6RqYXc

a hope さま 皆さま

 ありがとうございます。

 私は、明日はある所で谷口雅春先生の 『光明法語』 をテキストにした勉強会をすることになっているので、その 「11月の法語」 を予めよく読んでおこうと、拝読しました。その中で、特に次の箇所で深く感ずるところがあり、考えさせられました。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   十一月三日の法語 神の子の美を讃美せよ

 無いものは否定する必要もない。病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、病気をありと認めて、それに対して戦っていることになる。病気は益々あるかの如くその姿をあらわすのは 「ありと認めて」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

 病気の念を捨てなければならない。吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要らない.、吾らはただ人間が神の子であること、美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を讃美して歌をうたえば好(よ)いだけである。

   十一月十四日の法語 自然の彫刻にまかせよ

 常に自然であれ。そのままであれ。神にまかせよ。力んではならない。自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。我を出したら頭を打つのである。急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。

 雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に吾等の生活の設計も同一なものはない。然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。

   十一月十五日の法語 「声」と「コトバ」

 祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。人と人とは個々に孤立していて、神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。互いに呼び交わす声は、声にとどまり、互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

   十一月十六日の法語 傲(たか)ぶる心を捨てよ

 神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」 と波長を合わせる事をしないからである。自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、「わしが」 「わしが」 の心である。「わし」 と云う力みは、海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

   十一月十七日の法語 吾らは神の生命の枝

 「われは葡萄(ぶどう)の樹(き)、汝らは枝なり」 とイエスは言った。そして又 「われと父とは一体なり」 とも言ったのである。かくて吾らは 「天の父」 の枝なのである。われらの生命は天の父より来(きた)るのである。更に 「枝」 と 「枝」 とは互いに孤立することなしに、葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

 「何人(なんぴと)もわれによらで父に来る者なし」 とイエスが言ったのは、「何人もイエスと同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」 と言い給うたのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ありがとうございます。

3275ユタカ:2013/11/02(土) 06:55:06 ID:R1D4Jmeg
ありがとうございます。

もう月が替わって11月!! カレンダーもあと2枚! 一年って早いですね。

そして第6巻に突入! この間では 不幸の根源である人類の罪の意識を拭い去ることです。人間が本来罪なきことをを理論的に、体験実話を集めて述べた本書は、世を照らす太陽です。(本のカバーから)

上級な復興Gさまやみなさまと違ってユタカの心は、怒りの心で真っ黒です、なのでこの第6巻を熟読していきたいと楽しみです。
まとまった時間はないので、常に携帯してチョコチョコ読んで喜びたいです。


ユタカの 生命の実相の第6巻 の表紙裏の6巻の言葉は  『 感 謝 』 とあるので、今月ユタカは生活のなかで感謝唱行していきます!

6巻は初めから読んでいて嬉しい気持ちになります。 復興Gさま、トキさま、ahopeさま、みなさま、今月もよろしくお願いします。


トキさま、毎日のメンテナンス大変ですね、いつも私達の安全を守って下さってありがとうございます。

3276ユタカ:2013/11/02(土) 06:57:54 ID:R1D4Jmeg
訂正
>3275の 3行目 この間 という言葉は削除して読んでください。 単なる削除忘れ。

3277ユタカ:2013/11/02(土) 07:29:11 ID:R1D4Jmeg
いつ感謝するの?  ちょっと古いけど・・「今でしょ!」

私の怒りの心こそ 病念の素ですよね? ちょっと教化部に行っただけで、私の人相が悪くなってしまいました。 
素を絶たつと言う事は感謝の心というように思いましたので感謝の心で満たされるよう訓練していきます。

ちょ

3278復興G:2013/11/02(土) 09:27:30 ID:AB6RqYXc

 おはようございます。

 11月の 『光明法語』 後半の方で、魂にひびいたお言葉――

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   十一月十九日の法語 心柔和なる者

 氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだと知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」 「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。


   十一月二十九日の法語 無条件降伏

 神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。

   十一月三十日の法語 与えよさらば与えられん

 「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。併(しか)し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。子供が重病に罹って医者が手を放した様な場合に、「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、自分の子を与えてしまった方が、癒えるる事が早い。何故なら、 「是非いやし給え」 と祈っている時は、その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ありがとうございます。

3279再掲:2013/11/02(土) 15:36:52 ID:???

名前:曳馬野 投稿日: 2013/11/02(土) 15:21:47 ID:vpari8YQ


雅春先生を否定するものは投稿しないでくださいがトキさんですよね。

前にも書きましたがこの掲示板の設立目的が分からないのです。

3281あさひ:2013/11/03(日) 01:46:46 ID:u9w/1zYY
>雅宣総裁は、今の現象から見ると、「ワンダー・フル」 (不可解なことがいっぱい) な総裁です。

 しかし、もっと長ーーーい目で見たら、本当に 「ワンダフルな」 (素晴らしい) 総裁なのかも知れません
よ<

うまい表現に感心しています。

3282ロレックス サブマリーナ ブルー:2013/11/04(月) 15:48:45 ID:???
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3283a hope:2013/11/04(月) 19:07:37 ID:/9IAdiFk

みなさま こんばんは

今回のweb誌友会の範囲である『生命の實相』第6巻のはしがきを>>3269で復興Gさま謹写してくださっています。
その最後の方に、

<<本書はある意味においては人類への無罪宣言である。この宣言を素直に受けて信ずるものは、今まで自己を縛っていたあらゆる不幸から解放されるはずである。>>


という文章があって、その中に<人類への無罪宣言>という表現がありますが、それを拝見しましたら、
楠本加美野先生が類纂された『人類無罪宣言』を思い出しました。
それは、加美野先生が「生命の實相」の各章から「罪本来なし」に関する文章を抜き出して、系統的にまとめられた聖典なのですが、
その中には今回のテキスト中の『第一章「宗教上の「罪の赦し」について』は第5章として編纂されています。

今回、あらためまして楠本加美野先生のお書きになった「編者のことば」を拝読させていただきましたが、とても感動しましたので、一部抜粋紹介させていただきますね。

(つづく)

3284a hope:2013/11/04(月) 19:09:32 ID:/9IAdiFk
(つづき)

<<・・・私は昭和三十一年、宇治修練道場に於いて練成の手伝いに励んでいた頃、
後に述べるが如き家系に係る業因について悩んでいたのであるが、練成局長である徳久克己理事から、
『生命の實相』の各章から「罪本来なし」に関する文章を系統的にまとめて抜粋筆写して
潜在意識の中にある ″罪″の観念を徹底的に消去するよう勧められました。

その頃宇治では山を崩し、谷を埋める献労を中心とした練成をしていました。
私は昼間は山崩しに全精力を捧げ、夜は『生命の實相』をひたすら読み「罪本来なし」の問題にとりくんでいました。

私は新しい気持ちで『生命の實相』を読みはじめました。
入信まもなくの頃『生命の實相』十回通読を念願にたて、四回までは毎日毎日少しずつ読みましたが、
それからはわかりきった事を読むような気がして、思い出しては読む程度で八回通読しました。
今度はテーマを与えられた事によって、今までと全然違った感激をもって、読むことができました。
すると、今までわかったような気がしていたのが、実は漠然としていてさっぱりわかっていなかったことがはっきりしてきました。
先ず罪の問題を全て『生命の實相』から抜き書きしました。
次に谷口雅春先生のあらゆる御本から抜き書きしました。
しかしそれを系統的にまとめる事が難事でした。
何回もあきらめようとしましたが、その度に徳久先生から励まされ、終りに「祈りなさい」と言われました。

私は四時に起きて神想観をすることにしました。
二か月位つづけた時、目次がひらめきました。
それは、″苦行不要″ ″犠牲不要″ ″神罰なし″ ″罪なし″ ″懺悔″ ″因果を超越する″でした。
私は希望に燃えてまとめ出しました。

その頃、それまで三回も流産してその後、子供が宿らなかったわが家に、神の子が宿りました。
そしてこれまでの研究を「人類無罪宣言」としてまとめ上げた時、長男が生まれました。
谷口先生から行孝(ゆきたか)と御命名いただきました。・・・>>

(つづく)

3285a hope:2013/11/04(月) 19:13:11 ID:/9IAdiFk
(つづき)

わたしが何に感動したかといえば、加美野先生が「本来罪無し」の真理を悟られるためにものすごい努力をされていたということにです。
現在、宇治別格本山の長老としてたくさんの奇蹟を起こされて、たくさんの魂を救われている加美野先生ですが、
当時は真理を悟るために、聖典『生命の實相』を8回も通読されて、さらに「人類無罪宣言」を編纂するのにも大変な努力をされていたのですね。

過去には、そのような努力をされた講師の先生方が沢山おられたのではないかと思います。

復興Gさまも、過去の一時期「生命の實相」ばかり拝読していた時期があるとうかがった気がします。

わたしは、大熊先生の「いのちを守る親の会」の会員なのですが、以前、大熊先生とお電話でお話させていただいたときに、
大熊先生ご自身も何度も「生命の實相」は拝読されたとおっしゃっていました。
そして、わたし自身にも完全読破をすることを強くお勧め下さいました。

大熊先生の個人指導の内容等をブログなどで拝見すると、『生命の實相』中に紹介されている個人指導の内容にとソックリだと感じています。

わたしは「生長の家の教え」を法燈継承するためには、聖典「生命の實相」の繰返しの拝読、それは絶対に外せない事だと確信しています。

3286a hope:2013/11/05(火) 09:45:58 ID:/9IAdiFk

またまた大熊先生のブログのご紹介をさせていただきます。
素晴らしい「生長の家」のご指導ですよ!

無意識に子を虐待してしまう<相談事例>

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

3287うのはな:2013/11/05(火) 10:15:00 ID:3Wm0z1bo
 a hope さん、お久しぶりです。
以前a hope さんのことをあほだといって、なんておっせかいに非難してくる人がいたので、
今日は讃嘆させていただきましょう。

 『生命の實相』の一巻から六巻までは特に重要だ、なんていう話を、昔、講師から伺いました。
a hopeさんは、いつも人の五倍くらい聖典を勉強されてるようで、その求道心の濃さみたいなものに
感銘を受けています。

 追従しながらすこしずつ勉強させてもらっています。
 これからもがんばってください。

 合掌 ありがとうございます。
  拝。

3288chanel 財布 2013:2013/11/05(火) 10:33:33 ID:???
シャネル 財布 カンボンライン
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3289流氷:2013/11/05(火) 11:00:52 ID:601yv0.U

 シャネル先生を呼び捨てにしているな!貧民街へでも行け!

3290流氷:2013/11/05(火) 11:06:28 ID:601yv0.U
 部外者に使われている教区幹部さまへ

 上の3288、3289、と今のこの投稿を削除してください。
 誌友会版で失礼いたしました。

3291復興G:2013/11/05(火) 15:00:09 ID:AB6RqYXc

あさひ様、a hope様、うのはな様、皆々さま。

ありがとうございます。

三連休の期間、私はネットを見る暇がないほど、他のことでいそがしく働いていました。元気で働けることがありがたいです。


>>3281 あさひ様

 「ワンダフル」 についての上記 私のコメントは、曾野綾子さんの 『人間にとって成熟とは何か』 という本からヒントをもらいました。

<< (p.20〜 )
 英語の 「ワンダフル」 は 「フル・オブ・ワンダー」 ということで、実は驚きがいっぱい、ということだ。すばらしい、という表現の基本には 「想定外」 が含まれるらしい。もし想定通りに事が進んだら、必ずしもワンダフルではないのかもしれない。

 驚きがいっぱいであることが、すなわちすばらしいことなのだ、という発想は実は宗教的な解釈なのだろう。神などいるものか、と言う人の考えに私は反対したことがない。神がいるかいないか、誰一人として証明できる人はいないのだから。

 ただ私は、神はいるという保証もないが、同じように神などいない、という保証もできないものだと思っているだけだ。(中略)

 善しか人道として許されるものはなく、したがって自分は善を追う人道の道を歩く、と簡単に信じ、信じているだけでなく、それを強烈にアピールする人と私は付き合えない。なぜなら少なくとも私は、そんなにいいことだけして生きようとしていないし、そう思う人は自己満足であって、何が社会や相手にとって正しくいいことかはそんなに簡単にはわからないことが多いからだ。

 いつも言うことだが人は皆ほどほどの生き方をしている。身勝手なような人も意外と他者のことも心に留めている。社会正義は誰でも好きなのだが、それも時と場合と程度によって簡単には決められないと密かに考えて悩んでいる。アラブの人たちはこの正義という点に関してもっと大人で正直だから、彼らは格言の中で次のように言っている。

 「正義はいいものだ。しかし誰も家庭ではそれを望まない」

 家の中で正義を貫いているというのは嘘だし、端的に住みにくくなるということだからだろう。>>

3292うのはな:2013/11/05(火) 19:29:08 ID:LuPv6mG2

合掌 ありがとうございます。

 いつも横から閲覧だけしているようで参加者の皆様には恐縮いたします。
 私は初めて練成会に参加する前に、近所の誌友さんから『神想観』の本や
 テープを借りたことを、昔のことをよく思い出します。
 そこで、みなさまにお聞きしたいのですが、神想観するとき、その環境や
 周囲のことで、何か気を遣っているところ、こだわっているようなことがあるでしょうか?

 私は夜でも昼でも、薄暗いところでは絶対やらない。灯りを煌々とつけるということや、
 暗くなったら窓は必ず閉めて行うように気をつけています。
 なにか意見があればお聞かせください。

 拝

3293復興G:2013/11/05(火) 20:07:34 ID:AB6RqYXc

>>3283 〜3286 :a hope さま

 『生命の實相』 第6巻はしがきの 「人類無罪宣言」 に関して。

 私も、「罪の子」 の観念から自己処罰の意識が強くて、死にたいと思ったり、死ぬような病気をしたりしたことがあります。

 前にも書いたことがある、高校2年のとき(今から60余年前)のことですが――

 ある日腹痛を起こし、もう七転八倒の苦しみで、高熱がつづき、日赤病院に入院しました。盲腸炎がこじれて腹膜炎で、炎症が進み腸に癒着が起きている。そんな状態で最近死んだ人がいると言われました。私も死ぬのだと思いました。「罪の価は死なり」 とイエスは言っている。自分は罪深いものだから、こうして死ぬのだ、という思いでした。

 その 「罪」 とは、特に性欲の問題です。性欲は汚らわしいもので、「罪」 だという思いが深かったのです。その性欲の虜になってしまう自分は、汚らわしい罪の子で、その罪の価は死なのだ――という思いが潜在意識に深く存在していたように思います。

 それは、今から考えると、やはり先祖からの業(ごう)――家系に係る業因を受け継いで来た結果のように思われます。

 そのひとつは、祖父母が必ずしも仲良くなかったこと。

 祖父は医者をしていましたが、その助手・看護師の役をしていた女性にも、一人の子を産ませているのです。

 それは以前、父の戸籍謄本にそのことが記されているのを見ました。父には一人の異母弟がいる。その生母の名も記されているが、父の異母弟(私からいえば叔父)は祖父母の戸籍に入れられていて、生母はその後どうされたかわからない、という状態なのです。

 それで、祖母は悩み、浄らかなものを求め、キリストの教えに救いを求めて教会に飛び込んだと思われます。

 亡くなった時、キリスト教の教会で葬式をし、教会に納骨堂を作ってもらってそこに遺骨が納められています。

 ところで私の死にかけた病気のあとですが――

 私は死を覚悟しました。しかし、死にませんでした。父が、枕元に 『甘露の法雨』 を置いていてくれ、祈ってくれているようでした。日に日に痛みがとれてきて、ついに退院ということになりました。手術はしませんでした。

 そうして家で少し静養していたある日のことです。
 「天地がひっくり返るような、人生観の大転換が、突然何ものかの力によって、なされてしまったような感じ」 という体験をしたのは・・・・。

 そのことは、web誌友会板(1)の>1589
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1589

 に書いていました。

 「肉体の自分は、本来なかったんだ! 自分は、生命だった! 出せば出すほど限りなく出てくる生命だったんだ!」 と目覚めた思いがしました。

 それは、祖母が霊界から導いてくれたという思いがしました。

 それから約60年たちました。いろいろありましたが、最近のことでは、>>2501に書いたようなことも起こったのです。

 今、言われている 「日時計主義」 で、「吾れは太陽の輝く時刻のみを記録す」 ということですが――

 わが内にすべてがある! 自分の中に太陽がある! 自分が太陽である、光である! と思えるようになりました。

 「自分が太陽である! “吾れは吾が輝く時刻のみを記録す” だ!」

 それが 「日時計主義だ!」 と思えるようになりました。

 時間は、本来ない。したがって、時間のなかに表現された一切のものは、本来ない。闇は、本来ない。罪は、本来ない! と思えるようになりました。バンザーイ! です。

 ありがとうございます!

3294復興G:2013/11/05(火) 20:23:39 ID:AB6RqYXc

>>3292 :うのはな様

 ご投稿、ありがとうございます!

 いつも、神想観をされているんですね。すばらしい!

 神想観をするときは、暗いところで行うと低級霊がかかってくることがあるから、なるべく明るいところでするのがよいと、谷口雅春先生のお教えにあったと思います。

 私も、夜でも電気をつけて、明るいところでしますね。

 ただ、ちゃんと正坐しての神想観ではなく、随時 電車の中ででも眼をつぶって祈るような場合もあります。そんな場合でも、暗いところで祈った記憶はありませんね。

 特に気を遣っているとか、こだわっているわけではありませんが、自然にそうなっている感じです。

3295復興G:2013/11/05(火) 20:47:20 ID:AB6RqYXc

 テキスト 『生命の實相』 第6巻 第1章 冒頭のご文章を謹写、掲示させていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   第一章 宗教上の 「罪の赦し」 について

       昭和九年三月本部道場において修行者たちに話した悟り

     わが実相の中にすでにすべては在る

 「生長の家」 が人類に告げんとするところは、人間の実相のなかにすでにすべてのものが備わっている、外に求むるよりも内に求めよということであります。

 ――わが実相は 「神の子」 であり、神は無限者であり、人は神の子として神の世嗣(よつぎ)であるから、欲(ほっ)するすべての事物はすでにわが持ち物であるのであります。

 すべてのものは今現象界のわが手になくとも、神の御手にあるものはすべて世嗣たるわれらの自由使用にゆだねられているのですから、すでにすべての物をわれらの手に与えられているわけであります。

 富を欲する者は無限の富をわが実相から引き出すことができまするし、生命を欲する者は無限の生命をわが実相から引き出すことができまするし、能力を欲する者は無限の能力をわが実相から引き出すことができるのであります。親の富は同時に世嗣の者の富なのであります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――>>3128でユタカさまが言われた 『光のある内に』 の

<< 人間は本来神の子であって、神の世継として、神の全財産をゆずられている。 神の全財産とは全宇宙のことです。

 全宇宙のすべての宝が自分の中にあるんですから、これ以上、何も外に求めることはない。 みんな自分のうちのある。

 ですから人間はただ喜ぶことしかないんです。

 ただ与えることしかないんです。

 だから私たちは本来喜びの歌をうたうしかないんですね。

 そして喜びの歌を歌えば、どんどん喜ぶべき世界が展開してくるんです。>>

 ということの典拠も、ここにあったんですね。

3296うのはな:2013/11/05(火) 20:52:18 ID:bcSF0IXc
>>3294 復興G様

 早速にコメントいただきまして、ありがとうございます。
 雅春先生の教えにも、明るいところで行なうことなどはよく知られていますね。
 それとは別に、私は最近、夜は魔が入りやすいから窓は閉める、ということも
 注意しています。私も以前は空いた電車の中で、世界平和の祈りなど黙念していました。
 たしか、電車の中の乗客の皆様の幸せを祈りましょう、というような白鳩会での指導があったころです。

 しかし、観行篇は六巻ではなかったですね。
 すこし脱線した質問で失礼しました。
 今後もよろしくお願いします。
 感謝 拝。

3297復興G:2013/11/05(火) 20:55:32 ID:AB6RqYXc

 昔の神誌 『生長する青年』(『理想世界』の前身) で、自動車王ヘンリー・フォードと光明思想家 R.W. トラインとの対話を連載で紹介してくださったことがあります。

 私は青年時代に、「これだ!」 と深い感銘を受けたのでした。

 その中で、印象的な言葉として今でも覚えているのは、つぎの言葉です。

<<フォード――天才とは、忍耐です。忍耐とは、徹底的実行です。

      内なる価値を磨き出せ

 トライン――一体成功の秘訣とか方法とかいうものがありましょうか? この言葉をあなたはお喜びにならないでありましょうが、とにかく我々がこの世に出て成功を得る方法ですね。青年男女が、この社会に漕ぎ出でて、順風に帆を上げて目的地にまで航海する方法ですね。

 フォード――それにはまず、まず何を成さんと欲するかを決定して、その決定したところのものに敢然として着手するのですね。その目的に終始一貫して、決して気を変えないことですね。そして常にその方向に向かって全力を注いで、自分を磨き出すのです。根本的法則としては、自分の手のとどくかぎりにある仕事を十分深切にやり遂げるのです。これが肝心です。

 自分の手のとどくかぎりにある仕事を十分深切にやり遂げるように努力すれば、それがどんなにつまらないように見えても、自分自身の内にある価値を磨き出してくれるものです。誰でも気がつかないが内にある自分の価値を磨き出すということが何よりも大切なんです。

 成功は外にあると思っていては間違いです。成功は必ず内にある。何でも皆、はじめは内にあるのです。内にあるものが鏡に映るように外界に映って形をもった現実となるのです。

 『外』 『外』 とばかり成功を心がけていては、たとい一時成功したように見えていても、砂の上の楼閣で、すぐ崩れてしまいます。内にある自分の価値を磨き出すだけでも一つの大いなる成功じゃありませんか。外の成功は、内の成功の影にすぎません。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 成功も、外にあるのではなく、内にある。内なる価値の展開が、外なる成功なのでした!

3298復興G:2013/11/05(火) 21:19:41 ID:AB6RqYXc

>>3296 :うのはな様

 「観行篇は六巻ではなかった」 けれども、第6巻でも神想観について書かれていますよ。謹写させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     すでに成る天国

 「祈り」 はこの信念を強くする役目をするのであります。

 「御心の天に成るがごとく地にも成らせ給え」 というイェスの祈りによりましても、イエスも神の御旨(みこころ)はすでに 「天」 すなわち 「実相の世界」 においては成就していることを知っていたのであります。

 すでに成れる 「実相の世界」 を祈りで変化するなどということはないのであります。

 「実相の世界」 はすでに改造するも改造しないもない、すでに神の御心のままに完全にでき上がっているのであります。それは既成の世界であります。

 神を知る者は、神の完全さを知る者は、神の無限能力を知る者は、

 「神が造った実在の世界はすでに完全であるぞ。」

 「ハイハイ、ありがとうございます。」

 「神が造った実在の人間はすでに完全であるぞ。」

 「ハイハイ、ありがとうございます。」

 ただそれだけでよいのであります。文句も理屈もいらないのであります。ただハイハイと受ければよいのであります。

 「お前は神の創造った神の子である。神の子が病気になったりするものでないぞ」

 といわれたら、

 「ハイハイ、ありがとうございます。神の子であるわたしは病気でないことがハッキリわかりました」

 と素直に答えるのが 「本当の祈り」 であります。

 神が何か自分に与えるのを忘れているかもしれぬから、声を出して時々神様に注意を与えるつもりで神を呼ぶなどは神の全知を無視したもので、不信心もはなはだしいのであります。

     神想観の極意

 「生長の家」 では神想観といって、坐禅観法によって自己の実相を観ずるような修行をいたしますから、大変むずかしい修行のように思う方がありますが、神想観の修行というのは、この 「ハイハイ、ありがとうございます」 の修行なので少しもむずかしいことはないのであります。

 「お前は神の子だ」 と自分の心に呼んで

 「ハイハイ、わたしは神の子でございます、ありがとうございます」

 と受ける行事が神想観なのであります。神想観において

「神の生命がさきはえられて、自分に流れ入って神の生命が自分の生命となる」

 と観じながら静かに息を吸うのは、

 「お前は神の子だ」 と自分自身に対して呼びかけ、その事実に対して注意を促しているのと同様なのであります。(後略)

3299トキ:2013/11/05(火) 22:18:45 ID:Lxq0GaG.
>>3298

 素敵なご指導、ありがとうございます。

 神想観は、入信して時間のない人は、悩む事が多いみたいです。
形式的な指導がメインになりがちですが、実際にはこういう指導が大切なの
でしょう。貴重な内容だと感じます。

合掌 ありがとうございます

3300復興G:2013/11/05(火) 22:36:55 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございます。

3301a hope:2013/11/05(火) 23:01:55 ID:/9IAdiFk

みなさま こんばんは

>>3287うのはなさま

わたしを讃嘆してくださり、嬉しいコメントをありがとうございます(涙)


<<『生命の實相』の一巻から六巻までは特に重要だ、なんていう話を、昔、講師から伺いました。>>

わたしも本当にそうなのだと感じています。
なぜなら、今までこのweb誌友会で第5巻まで(現在は第6巻ですが)みなさまとじっくりお勉強させていただいたおかげで、
わたしはかなり、生長の家の教えを体得できてきているような気がしているからです。

今まではとても難しく感じていて、読み飛ばしていた『万教帰一篇』も、
今ではとても良く理解できるようになっていて、自分でも驚いています。

本当に復興Gさまやトキさまはじめ、このweb誌友会に参加くださたすべての方々のおかげで、
アホのa hopeは、どんどん生長させていただいているのだと思います。
みなさまには、心から感謝しています。

また、うのさまがいつも見守ってくださっているのも、とても心強く感じていました。
今回は、参加までしてくださっていて本当にうれしくてうれしくて、涙がでそうです。


>>3293復興Gさま

御祖父母さまに関する貴重なお話をありがとうございます。合掌。
復興Gさまの御祖母さまが、なぜ当時は珍しかったであろうクリスチャンだったのかすこし不思議に感じていましたが、
今回のお話で納得できました。

復興Gさまの御家系にも、やはり<<先祖からの業(ごう)――家系に係る業因を受け継いで来た結果>>が存在していたのですね。


ちょうど、1年前のweb誌友会での復興Gさまの素晴らしい体験談が含まれた当時の内容を再拝読してきました。


web誌友会板(1)の>1589
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/1589


復興Gさまのお話の内容に再び感動するとともに、あらためましてこのweb誌友会のレベルの高さに驚いています。

もっとじっくり他の内容も拝見していたいのですが、実は、明朝、職場の健康診断がありまして、
わたしは今夜は10時以降は飲食禁止なのです。
これ以上起きていると、何か食べたり飲んだりしてしまいそうなので、今夜はもうおやすみしますが、
また時間のある時に、ゆっくりと内容を拝見させていただきます。

それではみなさまおやすみなさい。

3302トキ:2013/11/06(水) 09:43:02 ID:L78yryKo
>>3300

 こちらこそ、深く感謝申し上げます。

 思うのですが、ベテランと言われる人には常識とか考えた事がない疑問を、入信まもない人は結構、
感じるみたいです。

 個人的には、招神歌が疑問でした。ある講師は、「招神歌は大切です。テープがありますから、あの
通り、節から外れないように、徹底して練習しなさい」と言い、別の講師は、「招神歌は大切です。
神様とつながる機会ですから、心を神様にだけ振り向けなさい。最初は少々節から外れてもいいです
よ。」と言われたので、どちらが大事かわからないまま、結局、テープに合わせて練習はしたので、
普通に唱えられるようになったので、疑問も忘れてしまった事がありました。(高校生の頃です。)

 実は、こういう些細な疑問と、それに対する回答こそが大事ではないか、と感じた次第です。

合掌 ありがとうございます

3303トキ:2013/11/06(水) 10:10:08 ID:dkHqmOAw
 復興G様のご回答は、行き届いており、さすがと思いました。
ありがとうございます。

3304復興G:2013/11/06(水) 11:03:02 ID:AB6RqYXc

>>3302 :トキ様

ありがとうございます。 おっしゃるとおりですね。

招神歌については、私は
「招神歌は大切です。神様とつながる機会ですから、心を神様にだけ振り向けなさい。最初は少々節から外れてもいいですよ。」

の方が、第一義だと思います。

というのは、服部仁郎先生は重症の肺炎で呼吸困難になり、医者から見放された時に、一冊のパンフレットと招神歌をメモした紙を同業の片岡環(たまき)さんからもらい、その招神歌を、節回しなど全然知らないまま読んだ時に、「自分が生きているのではない。神が生かしてくださっているんだ」 と思っただけで、呼吸がすーっと通って楽になり、起ち上がられた。そして、多くの人を悟りに導き、病いを癒す力も得られたのです。

その服部先生の招神歌は、すごいオンチだったということで有名です。


また、『真理は死刑の鎖も断つ』 の著者遠藤義雄先生は、大東亜戦争後、海南島に戦犯容疑で死刑囚として判決を受け抑留されていた時に、『生命の實相』 第6巻(全20巻ものの第6巻で「万教帰一篇」)と聖経 『甘露の法雨』 を差し入れられ、読むと人間は霊的実在で不生不滅だと悟り、死刑の執行が恐ろしくなくなった。

そして 『甘露の法雨』 の前に書かれている招神歌を念じ 『生命の實相』 に書かれている神想観を、おおよそこうするのであろうと実行したら、群がる蚊が黒ごまを振りまいたようにたかっていたが一匹も氏の血を吸うものがなくなるなどの奇跡的な状態が現出し、中国人の看守が免刑の嘆願書を中央政府に出してくれて、無罪となり生還された、というようなことも起こったのですからね。

招神歌を上手に唱えたから救われるというものではないのですね。

形から入るのも一つの方法ではありますが、大切なのは形よりも心だと思います。

3305復興G:2013/11/06(水) 11:24:59 ID:AB6RqYXc

>>3301 :a hope さま

うれしいコメント、ありがとうございます。

私は、この『生命の實相』 第6巻は、特に素晴らしい大切な真理が書かれていると感じています。

今回こうしてweb誌友会で学ばせて頂いて、また一層深く魂にひびき、ありがたい極みです。

第1章 18頁からの 「罪を消す道」 なども、再読心読して、深い感銘を新たにしています。

私も、a hope さまに負けないよう、勉強して行きます。

ありがとうございます。

3306復興G:2013/11/06(水) 11:58:25 ID:AB6RqYXc

トキ様 皆さま

私が>>3304で申しましたは、テキスト『生命の實相』第6巻23頁からの 「本来罪なし」 のところに書かれていますね。24頁には

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ……声の節廻しのじょうずへたと、霊魂の進歩すなわち 「実相の開顕」 との間にはなんの関係もないことであります。

 神は祈りの節廻しの上手さに感動してその者の祈りをかなえてくださるものでも、祈りの節廻しが下手だから応えてくださらないのでもありません。神は音楽のじょうずへたによって霊験を左右し給うものではないのです。

 神は「実相」の中にのみいますのですから、「迷い」 を去り、「虚飾」 を去りさえすれば、自然に神が顕われ、すべてが備われる 「実相」 の常楽の状態があらわれて来るのです。これこそ神の霊験というべきものです。

 実相絶対の神を知らず、「祈りの言葉」 でいい加減に言いくるめてやりさえしたら、神から霊験を詐取(さしゅ)することができるというような、不敬な考えを神に対して抱くべきではありません。

 祈りの価値は卑劣な心で、霊顕を乞食のように請願(せが)みとることにあるのではないのです。金光教祖も 「霊験はわが心にあり」 といわれましたが、霊験は心の目がひらいて、神を本当に知り、神と自己との本当の関係を知ったとき、すでにすべてが備われる 「実相」 のなかから、自然にポッカリと現象界に浮び上がって来るものなのです。

 だから、心の目を開いて実相を顕わすことを求めず、現象そのものに霊験御利益をもとめる祈りはすべて、卑怯な、乞食的な、哀願的な、一の功徳をもって百の報いを得ようという虫のよい利己的な、内の下劣を隠して外に言葉を飾り、報いを得んとする偽善的行為となるのであります。だからわれわれが祈るにはまず 「心の目を開いて実相を顕わす祈り」 を第一にしなければならないのです。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――以上はテキスト 『生命の實相』 第6巻の24頁〜25頁からでした。かなり強い言葉でのおさとしですね。

 ありがとうございます。

3307トキ:2013/11/06(水) 20:49:49 ID:o8tDy51c
復興G様、御丁寧なご指導、ありがとうございました。

 確かに、その通りで、招神歌が下手だけど、たくさんの人を救済している講師はたくさんいます。

 思い出したのが、昔、舞鶴の長村婦美子先生の練成を受けた時に、長村先生が、ある講師に

 「あんたの招神歌はうまいなあ。けど、信徒さんは騙せても、私は騙せない。あんたの招神歌
には心がこもっていない!」

と言われたのを偶然、耳にした事がありました。私も信徒として、自戒すべき事だと考えています。

3308トキ:2013/11/07(木) 19:16:13 ID:2msfJH7c
>>3306

復興G様

 招神歌の問題について、最適な場所を教えて下さりありがとうございました。
深く感謝申し上げます。美しいという事は大切ですが、それに心がなければい
けないのですね。改めて感じました。心の持ち方は今でも宿題であります。

3309曳馬野:2013/11/07(木) 21:40:24 ID:vpari8YQ

● 「潜在意識が浄まれば、すべての罪業は消える!」って、素晴らしい真理だと思いませんか?


この a hope さんの云うことが生長の家の教えですか?

復興Gさんご意見をお聞かせください。

こちらには出てこないつもりでしたが、疑問に思いましたので。

3310a hope:2013/11/07(木) 22:16:09 ID:/9IAdiFk
>>3309曳馬野さま

●「潜在意識が浄まれば、すべての罪業は消える!」って、素晴らしい真理だと思いませんか?


聖典引用板>>2644に謹写させていただいた、雅春先生のお言葉を拝読して発言したのですが、言葉が足らず誤解されたのなら申し訳ありません。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2644

<<この実例によって、業というものは何処に存在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって、
聖典読誦の繰返しによって潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は
消えてしまうものだということが証明されたのである。>>

わたしの発言はこの雅春先生のお言葉のこの部分のことです。

発言を言い変えさせていただきますね。

○「潜在意識が浄まれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は消える!」って、素晴らしい真理だと思いませんか?

ですがそれは、

○「すべての人類の潜在意識が浄まれば、すべての罪業は消える」ともいえるのではないかとわたしは思います。

そのときが、まさしく地上天国が実現する時なのではないのでしょうか?

わたしもこの件に関しては、復興Gさまにご指導をお願いしたいです。

3311曳馬野:2013/11/07(木) 23:02:03 ID:vpari8YQ
 ● この実例によって、業というものは何処に存在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって、
   聖典読誦の繰返しによって潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は
   消えてしまうものだということが証明されたのである。

   わたしの発言はこの雅春先生のお言葉のこの部分のことです。


 ○ 復興Gさんのお話をお聞きしたいのではありますが。

  雅春先生の潜在意識は浄められている、とすれば、『家系に伝わるすべての罪業は
   消えてしまうものだということが証明されたのである。』はずなのにあなたは、雅宣先生はおかしいと主張されます。

  これはどういうことになるのでしょうか?

3312神の子さん:2013/11/07(木) 23:28:45 ID:5cnX3oXo
〉〉3311

 唯神実相論にしろ、心の法則にしろ、自分の心境を高め、または
他人を救うためにあるもので、他人を攻撃する道具に使うのは違うと
思う。

3313曳馬野:2013/11/07(木) 23:48:13 ID:vpari8YQ

>>3312さん

その通りですね、其の為には正しく真理を体得しなくてはならないのではないですか。

其の為に真理の理解への疑問なんですよ、a hopeさんの真理追求姿勢は素晴らしいと思っています。

3314トキ:2013/11/08(金) 09:30:33 ID:DU1rHjBU
曳馬野 様

 ご投稿、ありがとうございます。

 よかったら、曳馬野様御自身の見解もご披露下さると後進の私も勉強になります。
よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3315復興G:2013/11/08(金) 11:35:27 ID:AB6RqYXc

>>3309 :曳馬野さん

>>● 「潜在意識が浄まれば、すべての罪業は消える!」 って、素晴らしい真理だと思いませんか?
この a hope さんの云うことが生長の家の教えですか?<<

谷口雅春先生は、楠本加美野先生の体験に関して、「明窓浄机」 (昭和33年3月号 『生長の家』 誌)に

<< この実例によって、業というものは何処に存在しているかといえば、潜在意識の中につかまれているのであって、聖典読誦の繰返しによって潜在意識を浄化すれば、個人及び家系に伝わるすべての罪業は消えてしまうものだということが証明されたのである。>>

と書かれていますが、生命の実相哲学、「実相独在」 の根本真理から言えば、現象の潜在意識も実在ではない、本来無い。無いから消える、というのが根本真理でしょう。

その真理からいえば、「人類無罪宣言」 の通り、人類のべての罪業は、無である。

「雅宣先生はおかしい」 などということは、妄想でありますね。

それとともに、「“本流” と称する人たちはおかしい」 というのも、妄想でありましょう。

テキスト 『生命の實相』 第6巻 37頁〜38頁に

<< 実相を見ればわれらはすでにすべてのものを与えられているのです。与えられているのに与えられていないと見るから、これを称して妄想(まよい)というのです。

 だから 『観普賢菩薩行法経』 の偈(げ)には 「一切の業障海(ごっしょうかい)は皆妄想(まよい)より生ず。若(も)し懺悔(ざんげ)せんと欲せば、端坐(たんざ)して実相を念(おも)え。衆罪(しゅうざい)の知恵の光にて消除すること霜露(そうろ)の如し」 と書いてあるのであります。

 実相の中には一切の業障(ごっしょう)はない。衆罪の積聚(せきしゅう)はないのであります。「懺悔」 すなわち 「罪を捨てる道」 は、ただ端坐して実相の光を見ればよいのであります。

 太陽に背中を向けて、そこにできた暗黒を 「どうぞ除いてください」 と祈っても暗黒は消えないのです。一々 「暗黒」 を除いてくださいと祈らなくとも、クラリと太陽の方へ向き変われば、すでにすべての光は与えられているのであります。

 病気はもちろん、家庭争議などでも同じことでありまして、われわれは 「夫婦喧嘩や親子喧嘩がわたしの家に絶えないが、どうぞして治す方法はありませんか」 などといって尋ねられることがあります。しかしそういうお尋ねをなさる人の家庭でも、神がすでに与え給うた家庭の実相を見れば、われわれの家庭はすでに夫婦相和し親子仲よく、すべての家庭皆調和して栄えているのであります。

 すでに調和し、すでに栄えているのに 「調和していない、栄えていない」 とみる――すなわち実相を包んでみる――すなわちこの 「包み」 を 「罪」 というのであります。だから罪の懺悔すなわち 「包み」 を消除するにはただ神の与え給うたアリノママの実相を見ればよいのであります。>>

 とお教え頂いております。

 ただひたすら、この根本実相の真理をいっそう深く学び、「実相独在」 なる根本真理、一切の罪業のない 「久遠の今」 に立って、明るく勇往邁進してまいりましょう。

3317復興G:2013/11/08(金) 14:20:02 ID:AB6RqYXc

誤文訂正です。

× 人類のべての罪業
     ↓
○ 人類のすべての罪業

3318曳馬野:2013/11/08(金) 17:12:44 ID:vpari8YQ
復興Gさんお答えありがとうございました。

業障界に有って業の消滅と格闘する、潜在意識を浄める行き方は、 無始劫以来の罪業を浄めることは勿論、

今現在も犯している罪業の外に出ることは出来ない、それらの追い付かないところへ飛行機に乗って飛び出すのです、

との意味のことを先生は仰っていたと思いましたので、ちょっとお聞きしました。

3319復興G:2013/11/08(金) 20:10:41 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

ありがとうございました。

テキストの20頁にも、

<< 「罪」 は 「罪」 をとらえて一つずつ支払っていても無くなるものではありません。それは例えば、あなたが暗黒(やみ)の中にいて、暗黒(やみ)を捨てようと思って暗黒を握ってなげ棄てなげ棄てしても、暗黒は無くならないのと同じであります。暗黒はすなわち 「光が無いこと」 ――本来 「無」 でありますから、暗黒を握って捨て去るわけにはゆかない。罪も本来 「無」 でありますから、「罪」 をとらえて一つずつ支払っても消えるものではない。暗黒を消すにはただ光を点ずればよい。罪を消すにはただ 「生命の実相」 に帰入するだけでよいのであります。>>

とありました。

ありがとうございます!

3320a hope:2013/11/08(金) 20:14:34 ID:/9IAdiFk

>>3311 曳馬野さま

もしかして、

<<雅春先生の潜在意識は浄められている、とすれば、『家系に伝わるすべての罪業は
 消えてしまうものだということが証明されたのである。』はずなのにあなたは、
雅宣先生はおかしいと主張されます。これはどういうことになるのでしょうか? >>

これは、わたし、a hopeへの質問だったのでしょうか?

以前、SAKURAさまにもお願いしたのですが、もしわたしへの質問であれば、a hopeへ、と呼びかけて下さらないと、
ご質問を見過ごしてしまうことがありますので、その時は失礼をお許しくださいね。


わたし自身は、「雅宣先生をおかしい」と言ったことはないと思います。

「″雅宣先生の教え″がおかしい」もしくは、「天地一切のものとの和解を説く生長の家の″総裁″(信徒に大きな宗教的影響を与える公人)が、
ご兄弟や分派の方々と和解していないのはおかしい」というような、一般論は言った覚えはありますが・・・。

全て、このweb誌友会で聖典「生命の實相」を中心に「生長の家の教え」を学んでいて率直に感じたことを発言させていただいてきました。


それに、雅宣先生が罪業を持たれているかどうかは、それは、ご本人の問題だと思います。

>>3315の復興Gさまのご指導のとおり、

<<生命の実相哲学、「実相独在」 の根本真理から言えば、現象の潜在意識も実在ではない、本来無い。無いから消える、というのが根本真理>>

なわけですから・・・。

もし、雅宣先生が「実相独在」を悟られていれば罪業も消えていらっしゃるでしょうし、そうでなければ潜在意識に蓄積されていらっしゃるかもしれません。

もし他の誰かが「雅宣先生に罪業がある」と思っているとしたら、その方御自身が「実相独在」を悟られていないからということになるのではないでしょうか・・・?

わたし自身「実相独在」を体得したわけではありませんので、「雅宣先生は罪業を持たれている」ような気がしてしまいますが・・・。

ですが、わたしはこれからはこちらのweb誌友会では、雅宣先生や教団の問題には触れず、真理のお勉強を中心にさせていただきたいと思っています。

曳馬野さま、わたしはこれからは批判的な発言は控えますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

3321再掲:2013/11/08(金) 21:06:03 ID:???
名前:トキ 投稿日: 2013/11/08(金) 09:30:33 ID:DU1rHjBU
曳馬野 様

 ご投稿、ありがとうございます。

 よかったら、曳馬野様御自身の見解もご披露下さると後進の私も勉強になります。
よろしくお願いします。

3325a hope:2013/11/17(日) 16:15:50 ID:/9IAdiFk

復興Gさま トキさま みなさま こんにちは

ひたすら聖典「生命の實相」の拝読に励む a hopeです。
今月は、第六巻が範囲なので、第六巻を読み返していてちょっと疑問に思ったことがあったので質問させていただきます。

「生長の家の教え」は、自己内在の神(内在のキリスト)を祈る、
つまり「実相礼拝」する教えであることは、今までお勉強してきたので頭では充分理解しているつもりです。

ですが、一方、「生長の家」の祈りや神想観やの中には『日本国実相顕現の祈り』や、『住吉大神宇宙浄化の祈り』のように、
「住吉大神あれましぬ。住吉の大神あれましぬ。」「住吉の大神出でまして宇宙を浄め給う…」
「住吉の大神ここにあつまれるすべての人々の生命を浄め給う」というように、
あたかも、住吉の大神さまが自分とは離れた存在(絶対的存在ではなく、相対的存在)であり、
宇宙浄化やわたしたちの生命浄化をしてくださるという表現がされているのがとても気になるのです。

わたしが、なぜこの事に疑問をもったかというと、今回のテキストの中のある文章を拝読したからです。以下謹写させていただきます。
(つづく)

3326a hope:2013/11/17(日) 16:17:16 ID:/9IAdiFk

(つづき)
生命の實相 第六巻 P35 5行目〜
『・・・では、人の病を癒やすにはどういう祈りがよいのでしょうか。「神よ、この者の罪を赦して病(やまい)を取り去り給え」と厳かに声を出して、患者に聴こえるように唱えて大いに効果を奏することもあります。

しかし、これは、神というものは人間みたいな人格的なものであって、頼めばきいてくださるし、頼まなければきいてくださらないというような、神と人間とが相はなれた観念を与えやすいのであります。

このような祈りだけでは人間が「神の子」であり、本来無病である真理がわからないのであります。神と人間とが対立的になって、人間は本来病気になるものであって、人間と対立した神秘的な人格神があらわれて、その病気を治してくださるだろう、という自分の期待と信念によって治るのであります。

そのような期待の念と深い信念とは、「環境は心の影」という心の法則によりまして、われわれの周囲に、われわれに働きかけて治してくれる人格神を引き寄せることになるのであります。この人格神というのは聖典『生命の實相』に説いてある第三義の幽神(かみ・ゆうしん)、すなわち「個性ある何かの霊魂」であります。

いわゆる信心深いというという人で、お宮やお厨子(ずし)を飾りたてて、その中に住んでいられる神秘的人格神の冥護(めいご)を常に祈っているような人たちの周囲には、この「個性ある何かの霊魂」が感応して、ある程度の守護をしてくれる場合が多いのであります。ふつう「守護神」といわれるもののうちには、自己の祖先霊のほかにこの種の霊魂がおうおうあります。


かく、悟りによらず、祈願による場合は、(1)祈りに対する自己の期待と信念によって病気が治る。(2)前記のごとき「個性ある何かの霊魂」に感応して病気を治してくれる。この二者の一方または両方が作用しまして、ある程度まで確かに効きますが、その治るのは吾が実相の無限神性が現れるからではなく、実相の絶対神が作用するのではなく、病気の人間が「第三者」に治してもらうというように相対的に働くのであって、「病気でない神性の自覚」ではないのでありますから、根本的癒しとはならないのであります。

詳しくいえば、それは「病気あり」と認めて、霊魂の医者にかかって治してもらうということになっているのであります。こういう相対的に働く霊的治療と、自己の絶対神性を悟って、神の子本来の「無病の実相」があらわれるのとは別であります。・・・』

以上、謹写終わり

感謝 合掌

(つづく)

3327a hope:2013/11/17(日) 16:19:12 ID:/9IAdiFk
(つづき)
「住吉の大神宇宙を浄め給う」「住吉の大神ここにあつまれるすべての人々の生命を浄め給う」という祈りは、
「神よ、この者の罪を赦して病(やまい)を取り去り給え」という祈りと、
同質の相対神(人格神)に対する祈りのような気がしてしまうのですが・・・。

つまりは、自己内在の神に対する祈りではなくて、住吉の大神さまという、
個性ある働きをする人格神に対する祈りのように感じてしまうのです。

それとも、生長の家の神さまであるという「住吉の大神」さまも、キリストと同じく、
自己内在の神であると理解していいのでしょうか?

住吉の大神さまのお働きと、「生長の家の実相礼拝」との関係を教えていただけるとありがたです。

3328a hope:2013/11/17(日) 20:06:22 ID:/9IAdiFk
>>3327 つづき

復興Gさま

先ほど、住吉の大神さまについては、以前復興Gさまからご指導いただいていたことがあったのでその所を探してきました。
この、web誌友会板/2の>>724から>>737までです
、復興Gさまが過去の投稿文をわかりやすくまとめて説明くださっていました。


とても難しい内容なので、わたしは良く理解できていなかったようです。

もう一度拝読しなおしてみたいと思います。

3329a hope:2013/11/17(日) 20:28:54 ID:/9IAdiFk

>>3328 訂正

住吉の大神さまについてのご説明は、web誌友会板/2の『>>723』から>>737までです。
過去のユタカさまのご質問に復興Gさまがお答えくださっています。

本当に、とても高度な内容だと思います。
わたしたちは、このweb誌友会で復興Gさまご指導の下、すばらしお勉強をさせていただいているのだと思います。
当時はわからなかったことも段々わかるようになってきていて、本当にうれしいです。

3330トキ:2013/11/17(日) 23:15:37 ID:aZGVb0iM
 招神歌の話題です。

 詳説 神想観では、招神歌は生長の家の大神の導きをいただくための大切なものである、と
いうご説明がされています。実際、招神歌により護られた、という体験は多数あります。

 通説では、招神歌により、生長の家の大神のご守護をいただき、結果、悪い波長が合わない
というものです。が、招神歌により、自己内在の神様と直結する事で、悪い波長が合わないの
だ、という解釈をする人もいました。これは、その人の独自の解釈ですが、ある部分、面白い
解釈だな、と思いました。

 ただ、最近、招神歌の意義を尊重する精神が忘却され、単に儀礼的に招神歌を唱える傾向が
ありますが、これは気をつけないといけないかもいけないかと感じます。

3331神の子さん:2013/11/18(月) 09:45:50 ID:???
ブラジルをはじめ海外では、雅宣氏の命令により
招神歌をうたう事が禁じられています。

3332復興G:2013/11/18(月) 09:58:44 ID:AB6RqYXc

 a hope さま

 生長の家の 「生命の実相哲学」 の根幹に関わる貴重な重要な問題提起と、過去のweb誌友会記録資料掲示までしてくださって、ありがとうございました。

 生長の家の 「生命の実相哲学」 の根幹は、「現象なし」 「実相独在」 ――

 「完全なる神の 『心』 動き出でてコトバとなれば 一切の現象展開して万物成る」

 というこにあると思いますが、これは、

 「生命は時間・空間の枠組みの中に誕生したものではなく、時空間以前の、時空を超えたものであり、生命が時空間を創り出したのである。人間そのもの、自分そのものもまた生命であって、時間・空間の枠組みの中に誕生したものではなく、時空間以前の、時空を超えたものであり、時空間を生み出した主体者なのである」 という、驚くべき真理の自覚につながること。

 時空間が本来ないものだから、時空間の中に現れて見える現象も、一切が影にすぎず、「ない」 ものなのである。

 時空間をも生み出した元のところを 「未発の中」 と言い、「久遠の今」 と言い、そこに 「実相」 すなわち

 「完全なる神の 『心』 動き出でてコトバとなれば 一切の現象展開して万物成る」

 ところの完全理念がある。それが根本実在であり、そのほかに真実の実在はないということですね。

 このことについて、もっと書きたいのですが、今日はこれから出かけなければならない予定がありますので、また夜にでも書かせて頂きたいと思います。

 ありがとうございます。

3333復興G:2013/11/18(月) 19:39:22 ID:AB6RqYXc

>>3332 のつづきです。

 私は学生時代に、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウエルの主著 『意志と表象としての世界』 (磯部忠正訳・創元社刊) をちょっと読んで、びっくりし、目が覚めた思いがしました。その冒頭に、

 「幼稚を脱却せよ、友よ、目覚めよ!」

 というジャン・ジャック・ルソーの言葉が掲げてあり、本文は次のように始まっています。――


 << 「世界はわが表象である」(“Die Welt ist meine Vorstellung”)――これは生き且つ認識する凡てのものに妥当する真理である。

 ところがこの真理を反省的抽象的に意識することの出来るのは人間だけであって、人間が実際に斯く意識する場合、そこに人間の哲学的思慮というものが生じたのである。

 してみると、人間が太陽を知り、大地を知るのではなくて、ただ太陽を見る目があり、大地に触れる手があるにすぎないということ、人間を取り囲む世界は表象としてのみ存在する、即ち全く他者即ち人間自身であるところの表象者に関係してのみ存在する、ということが明白に且つ確実になる。もし何らかの先天的真理なるものが言われるとすれば、これこそその真理である。

 何となれば、この真理は時間とか空間とか因果とかいう凡ゆる他の形式より一層普遍的な、凡ゆる可能なそして考えられ得る経験の形式を言い表わしたものだからである。(中略)

 此の真理ほど確実にして、凡ゆる他の真理に依存せず、また証明を要しないものはない。即ち認識に対して定在する一切のもの、即ち此の全世界、は主観との関係に於ける客観にすぎず、直観する者の直観、約言すれば表象に他ならないという真理である。

 勿論此の真理は現在にも、また過去や未来にも、遠いものにも近いものにも妥当する。何となれば、この真理はこれら凡てのものの区別が生ずる唯一の基たる時間や空間そのものにも妥当するからである。およそ此の世界に属するもの、また属しうるものは凡て不可避的にこのような主観による制約にとりつかれているのであって、すべてのものは主観に対してのみ定在する。世界は表象である。(中略)

 およそ現前する凡ゆる対象をば、自分の身体をも、率直にただ表象とみなし、単なる表象と名づける必要がある。ここで度外視してあるのは、世界の他の唯一の面をなす 「意志」 に他ならない。何となれば、世界は一面では徹頭徹尾 「表象」 によっているが、他面では徹頭徹尾 「意志」 によっているからである。

 この両者の何れでもなく、客観自体であるというような実在は、夢想の怪物であり、そのようなものを想定することは、哲学に於ける鬼火である。>>


 ――ここにいう 「表象」 とは、原語のドイツ語では “Vorstellung(フォアシュテルング)” となっている。この語は “vorstellen(フォアシュテレン)” <前に立てる、前に置くという原義から、思い浮かべる、心に描くという意味にも使われる語> の名詞形で、 「心像」 「観念」 「概念」 などの意味で、哲学用語としては 「表象」 と訳されているわけです。

 「表象」 という言葉は普段ほとんど使われない言葉ですから、「心像」 とか 「心の影」 と置き換えて読んでみると、わかりやすいかも知れません。

 ショーペンハウエルは、「この真理は、決して新しいものではない。インドの賢者たちが疾くに認識した根本真理である」 とも言っています。

 私は、このショーペンハウエルの哲学の第一歩に、深い影響を受けました。

 ただ、彼は 「唯神実相」 の真理には到らず、世界は存在しうる最悪の状態だとし、厭世哲学とも言われ、生長の家とは正反対の結論を出したのだということで、私はこの冒頭の部分だけに深い影響を受けたけれども、後の方は読んでいません。

 それにしても、ジャン・ジャック・ルソーの言葉のように、

 「幼稚を脱却せよ、友よ、目覚めよ!」

 ということは、目に見える現象をそのまま 「あり」 と考えるような幼稚性からは脱却しなければならないということで、それは肝に銘じたいと思います。

3334トキ:2013/11/18(月) 20:39:47 ID:pV28pxMg
>>3333

復興G様

 素晴らしいご指導、ありがとうございます。「唯神実相」論の奥義とも言うべき部分
で、拝読して、自己の心境を反省するのみであります。

 眼に見えない部分・・・・というと、普通は霊界を想像しがちですが、それよりも
ずっと上の世界こそが本当に学ぶべき世界と痛感します。

 あらためて感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

3335復興G:2013/11/19(火) 09:54:41 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございます。


a hopeさま

>>3327
>> 「住吉の大神宇宙を浄め給う」 「住吉の大神ここにあつまれるすべての人々の生命を浄め給う」 という祈りは、「神よ、この者の罪を赦して病(やまい)を取り去り給え」 という祈りと、同質の相対神(人格神)に対する祈りのような気がしてしまうのですが・・・。
つまりは、自己内在の神に対する祈りではなくて、住吉の大神さまという、個性ある働きをする人格神に対する祈りのように感じてしまうのです。
それとも、生長の家の神さまであるという 「住吉の大神」 さまも、キリストと同じく、自己内在の神であると理解していいのでしょうか?
住吉の大神さまのお働きと、「生長の家の実相礼拝」 との関係を教えていただけるとありがたいです。<<

などのご質問の答えは、a hopeさまが過去の記録を探してくださった

「この、web誌友会板/2の>>724から>>737までです、復興Gさまが過去の投稿文をわかりやすくまとめて説明くださっていました。」

や、web誌友会参考文献板の >175

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1372208204/175

同 >181

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1372208204/181

などをお読み下さると、納得される点があるのではないかと期待しています。

いや、すでにわかってくださっていると信じます。

ありがとうございます。

3336a hope:2013/11/20(水) 09:06:54 ID:/9IAdiFk

>>3330 トキさま

<< 通説では、招神歌により、生長の家の大神のご守護をいただき、結果、悪い波長が合わない
というものです。が、招神歌により、自己内在の神様と直結する事で、悪い波長が合わないの
だ、という解釈をする人もいました。これは、その人の独自の解釈ですが、ある部分、面白い
解釈だな、と思いました。>>

そうなのですか?
わたしは、聖典「生命の實相」を拝読している限り、
<<招神歌により、自己内在の神様と直結する事で、悪い波長が合わないの>>という解釈の方が正しいような気がします。
自己内在の神(実相)以外に、外に神を求めてしまった時点で、それは生長の家の「唯神實相」から外れてしまうような気がするのですが・・・。

だから、神招歌というのも、本来は自分の中に内在する「生長の家の大神」に呼びかけている歌ということになるのではないでしょうか・・・?

そんな風に感じました。

3337a hope:2013/11/20(水) 09:08:32 ID:/9IAdiFk

>>3332 〜 復興Gさま

ご指導をありがとうございます。
今、過去の投稿文や榎本恵吾先生の御文章を拝読中です。
そして「実相独在」や「唯神實相」の真理を頭で理解することと、まことに体得(悟る)ことの隔たりの大きさを実感しています。

たとえ頭では「自己の内部にすべてがある」と理解できていても、
それでも外に神を求めてしまい外にある大きな力に運命を支配されているように感じてしまっているのが、
釈迦やキリストや雅春先生のように悟り切れていないいわたしたちなのだと思います。


でも悟り切れば、

『実相を観ずる歌』のような状態が顕現するのでしょうね!

生長の家の教えって、ホントにすごいですよね!!!

だって雅春先生はわたしたち信徒に聖典「生命の實相」という形で「悟りへの道」への指針をハッキリ残してくださっているのですから、
わたしたち信徒は、ただただ「自己内在の神」の存在を信じて「生命の實相」心読すればいいのですから・・・。

わたしはこれからもひたすら、聖典「生命の實相」の拝読に励みたいと思います。

みなさま、今日も素晴らしい一日をお過ごしくださいね。

3338トキ:2013/11/20(水) 10:08:16 ID:LuR7Ta0I
>>3336

a hope 様
 
 ご投稿、ありがとうございました。

 『通説」的な理解の根拠は、招神歌の最後の言葉

 『生長の家の大神 まもりませ」

が、根拠だと思います。これに対して、『独自の解釈」は、『大実在たる
無限の生命」に精神を統一する(詳説 神想観 p78)で説明をします。
ただ、『独自の解釈」は、祈っている時に、霊感で感じた事だったみたい
です。個人的には、独自の解釈のほうに親近感を持ちますが、私はどちら
が正しいか、どうか、という点について、決定するだけの能力がないので
宿題にしております。

合掌 ありがとうございます

3340復興G:2013/11/27(水) 14:01:53 ID:AB6RqYXc

 さて、今月11月があと残り少なくなりました。

 今月のテキスト 『生命の實相』 第6巻には実に深い教えが説かれていて、うれしくなります。

 第3章 「無限能力をひらく道」 から、少し抜粋謹写し、思うことを書かせて頂きます。

 これは、昭和9年4月22日、生長の家本部(当時神戸近郊の御影(みかげ)元住吉にあった)で、谷口雅春先生を中心にした誌友たちの座談会記録です。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 南――われわれの心のうちには地獄もあれば極楽もある。心が悪を描けば地獄が出てくる、心に善を描けば極楽が出て来る。ひっきょう地獄も極楽も本来無いものであって、それは皆われわれ自身の心の中にあると悟るのが、実相を悟ったということになるのでございましょうか。

 谷口――それは 「現象の法則」 を悟ったというものであって、実在の実相を悟ったものではありませんねえ。

 南――なるほど、それは現象の法則を悟ったというものですか。はハア、なるほど。……

 谷口――現象界は心の展開として、いろいろに地獄にも極楽にも顕われて出て来るのであって、現象界は本来無いものじゃと悟る――これは 「現象の実相」 を悟ったものであって、まだ 「生命の実相」 を悟ったということにはならない。本来固定した相が無くて地獄にも極楽にも、心に従って顕われて来るのが現象界でありますが、実相界というものはただ 「極楽」 のほかはない、常楽妙々の世界なのであります。

 南――心に従って地獄にも極楽にも顕われて来るのを、心を浄めて極楽の状態のみを顕わそうとする、それがわれわれの心の修養というものでありましょう。

 谷口――そうです。それは修養でありますが、それはまだ悟りではない。「悟り」 というものは現象にとらわれないで、直接 「生命の至妙の実相」 を把握することなのです。「修養」 というものは現象(いまのあらわれ)の中で悪いものを、それを見わけてそれを握って捨てようとするのですから、けっこうには違いないが、現象をあるとして取り扱って、現象に依然としてとらわれるから、なかなか至妙常楽の実相を顕わすことができないのです。

 南――現象の雲を吹き払う風を作るということが必要ですねえ。

 原――風が吹くほど雲を起こすということにもなりはしませんか。

 谷口――だから雲など吹き払おうと思う必要はない。一躍して実相界に跳び入るのです。そこから無限の自由、無限の力が湧いて来るのです。雲はあっても無くとも好(よ)い、アルとかナイとかかかわっている間はだめだ。雲を跳び越えて、雲の彼方(かなた)にある太陽の輝く世界に跳び入るのです。雲はあっても無くとも雲の彼方の世界は太陽で輝いている。その世界に跳び込んでしまっておれば、雲はわれわれの念の力で繋(つな)ぎ留めておかないから自然に散って消えてしまう。この雲、あの雲にとらわれて、その雲をどうかしないでは救われないなどと考えるのは、現象にとらわれているのです。

 原――先生のおっしゃるのでは、「本来、どうしないでも人間はすでに救われている」 のだよ。無限の自由、無限の力はすでに有る……

 南――その救われている事実を、すでにある無限の力を、現実にあらわすのには……?

 谷口――本来至妙の実相が屈折せずに、歪(ゆが)まずに現象界に映って来るようにすればよいのです。それには実相が現象界に映し現われるための 「念のレンズ」 を浄めればよいのです。「念のレンズ」 を浄めるには、今現われている現在不完全な相(すがた)にとらわれないで、実相完全な相(すがた)のみを見るようにすればよいのです。本来救われているわが実相を見るようにすればよいのです。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と本来一体の自分を見るようにすればよいのです。

 南――現象にとらわれないで、ただ 「南無阿弥陀仏」 と称えて実相を見るようにしても、なかなか極楽的な状態を現象界にあらわしていない人がたくさんありますなア。南無阿弥陀仏にもいろいろの段階があるようです。南無阿弥陀仏と称えながら嫁いびりをする姑さんもありますなア。

 谷口――むろん 「南無阿弥陀仏」 にもいろいろの段階があります。阿弥陀仏とは木像(もくぞう)だとか金仏(かなぶつ)だとか考えていて、自分の実相ではないと考えている人もある。同じ 「南無阿弥陀仏」 でも 「帰一木像」 「帰一金仏」 では救われない。やはり 「帰一常楽実相」 の意味でないと、本来救われている実相が出て来ないのです。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

3341復興G:2013/11/27(水) 14:02:50 ID:AB6RqYXc

 ――以上、テキスト第3章のはじめの方のご文章(p.68~71)で、特に最初の南さんの質問

<< 南――われわれの心のうちには地獄もあれば極楽もある。心が悪を描けば地獄が出てくる、心に善を描けば極楽が出て来る。ひっきょう地獄も極楽も本来無いものであって、それは皆われわれ自身の心の中にあると悟るのが、実相を悟ったということになるのでございましょうか。>>

 に対して、谷口雅春先生は

<< 谷口――それは 「現象の法則」 を悟ったというものであって、実在の実相を悟ったものではありませんねえ。>>

 とお答えになっている。

 ちょうど、ちょっと前にある講師が、教区の「地方講師会だより」に、次のように書かれているのを見ました。

 「日時計主義こそ実相独在、唯心所現の生活実践です。現実にはまだ光明が十分現れていなくても、現象の背後にある実相を信じて、言葉を読んで、引き出すことで、地上に光明が現れる。そういう信仰と原理なくして、日時計主義は成立しません。」

 と。

 皆さま、どうお考えになりますか?

 「実相」 とは、現象の背後にあり、言葉を読んで、引き出すことをしなければ地上に現れないものなのでしょうか?

 それって、「二元論」 ではありませんか?

 谷口雅春先生は、

<< 「悟り」 というものは現象にとらわれないで、直接 「生命の至妙の実相」 を把握することなのです。「修養」 というものは現象(いまのあらわれ)の中で悪いものを、それを見わけてそれを握って捨てようとするのですから、けっこうには違いないが、現象をあるとして取り扱って、現象に依然としてとらわれるから、なかなか至妙常楽の実相を顕わすことができないのです。……

 ……雲など吹き払おうと思う必要はない。一躍して実相界に跳び入るのです。そこから無限の自由、無限の力が湧いて来るのです。雲はあっても無くとも好(よ)い、アルとかナイとかかかわっている間はだめだ。雲を跳び越えて、雲の彼方(かなた)にある太陽の輝く世界に跳び入るのです。雲はあっても無くとも雲の彼方の世界は太陽で輝いている。その世界に跳び込んでしまっておれば、雲はわれわれの念の力で繋(つな)ぎ留めておかないから自然に散って消えてしまう。この雲、あの雲にとらわれて、その雲をどうかしないでは救われないなどと考えるのは、現象にとらわれているのです。>>

 とおっしゃっています。

 「実相」 というのは、時間・空間が現れる元のところ、「久遠の今」 にある理念の世界であり、無限完全円満であって、それのみが実在である。時間・空間は仮想であって、ナイのである。したがって時間・空間のスクリーン上に現れて見える現象も、ナイのである。

 「日時計主義」 とは、

<< “I record none but hours of sunshine.”(われは太陽の輝く時刻のみを記録す)
 自分はこの標語を「日時計主義」だと言うのである。>>

 と 『生命の實相』 第7巻に書かれているが、この 「太陽」 は、自分の外にあるのではない。自分の内にあり、自分が太陽なのである。だから、「われは太陽の輝く時刻のみを記録す」 というのは、「われはわが輝く時刻のみを記録す」 ということである。

  ――私は、そう思いました。

3342復興G:2013/11/27(水) 14:54:35 ID:AB6RqYXc

 さて、>>3340 で謹写引用させていただいたご文章のつづきに、次のように書かれています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 杉野――今日、日の本足袋の松並さんから一冊のパンフレットを送って来ました。ひらいて見ると高橋正雄さんの講演で、なかなかおもしろいことが書いてある。極楽というものは高い所にあるのかと思っていたら、地獄の釜の底にあったということが書いてある。

 地獄から逃げ出したいと思うから苦しいので、地獄の方へ突進して、地獄の底に衝突して、地獄の底をブチ割ってしまったら、その地獄の底の下に極楽がある。

 家庭の借銭問題でも、あいつは血も涙もない鬼のような奴じゃという、そこにはや地獄ができている。この地獄からのがれる道は、借銭を逃れようとすればするほど地獄の鬼が追いかけて来るので、借銭を愛するようにしなければならない。

 借銭を愛するというのは、その借銭のいうことをきいてやるようにしなければならない。借銭は何をしてくれというかといえば、その要求するところは、ただ「払ってくれ」ということである。だからこの借金の問題を解決するのは、借金を愛して、借金の要求たる 「払ってくれ」 ということをきいてやりさえすればよい。そして問題のまっただ中へ飛び込んで、それを払うように一所懸命に働けば、地獄の釜の底がブチ割れて、地獄だと見えていたところのものから極楽が出て来るというのです。(中略)

 ……というので高橋正雄さんは以前のままにその家に住むことになったのです。そしてそんな立派な家に住むことができるようになったのは、借金があったからこそのお蔭である。借金が恩人であるから、その恩人のいうことをきいてやらねばならぬ。借金はありがたい、借金の力でこうして住まわしてもらっているのじゃ。だから、その恩人のいうこと 「払ってくれ」 という要求を叶えねばならぬと決心した、そこに無限の働く力が湧いて来て、間もなくその借金を払ってしまったというのです。

 谷口――(前略) 高橋正雄さんは 「借金はありがたい、借金のオカゲでこの家に住まわせてもらえる。借金を忘れぬようにしなければならない」 と思って、毎朝 「わしには借金があるんだぞ、獅子奮迅(ししふんじん)」 と大声に叫んで、借金のことを忘れずに、獅子奮迅の努力をして行かれることにせられた。

 これは高橋さんのような道徳的天才にしてできたことで 「わしには三千円の借金があるんだぞ」 と思うだけで、ウンザリして意気沮喪してしまう人もたくさんあります。親の借金をこんなにたくさん背負わされてばからしいと思って、反対に自暴自棄になる人もある。それに、高橋さんは 「わしには借金があるんだぞ。獅子奮迅」 と毎朝大声で叫ぶという事によって、獅子奮迅の力が湧いてきた。

 これは語尾の 「獅子奮迅」 という言葉の力が働いていることは見のがせないのであります。これとは反対に 「わしには借金があるんだぞ。意気沮喪」 とか、「わしには借金があるんだぞ。失望落胆」 と呼ぶようにしてごらんなさい。失望落胆、意気沮喪して働く勇気が出て来ないのであります。だから借金という悪いものを背負っている自分だということを思い出したのが、高橋正雄さんに獅子奮迅の力を出させたわけではない、この事実を見のがしては真相を見のがすことになるのです。

 それでは高橋正雄さんが 「わしには借金があるんだぞ、獅子奮迅」 と、偶然に 「獅子奮迅」 という言葉をつけたから、単に言葉の力だけでそんな獅子奮迅の力が出て来たのであるかと申しますと、それだけでもない。わしにはこんなに借金があって逐(お)い出されてもしかたのない自分であるのに、こんなに良い家に住まわせてもらっているのは、これ天地から生かされているのである、ただありがたい、自分の力で生きているのではない。

 天地をつらぬく生命が自分に宿って生かそうとしているのである――というありがたいという気持ち この実相を知るありがたい気持ちは、小我の力を否定して、「大生命われに宿って生きる」 の自覚である。この自覚があってこそ 「獅子奮迅」 という言葉も自然に出て来たのであり、その言葉の力も生きて来たのであります。(後略)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

3343復興G:2013/11/27(水) 14:55:11 ID:AB6RqYXc

 ――以上のご文章も、胸に響くものがありました。

 私たち、いろいろな問題をかかえている。言わば大きな借金をしているようなものです。その 「借金」 から逃げ出そうとしたら、苦しくなって、今ここが地獄になる。「地獄の方へ突進して、地獄の底に衝突して、地獄の底をブチ割ってしまったら、その地獄の底の下に極楽がある」 という杉野さんの発言は、今の私のためにあったのだと思わせて頂きました。

 借金は、「払ってくれ」 と言っているのです。その言うことをきいて、払ってやればいいのです。「私には借金があるんだぞ。獅子奮迅! 天地から生かされているんだぞ。獅子奮迅!」 と毎朝叫んで(声には出さなくても)、問題のまっただ中へ飛び込んで、それを払うように一所懸命働いて行きたいと思います。

 ありがとうございます。

3344復興G:2013/11/27(水) 15:34:13 ID:AB6RqYXc

 テキストp.112〜113 の、以下のご文章(佐瀬さんのご発言)も、うれしくなるご文章です。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 わたしは近ごろ 「生長の家」 の宣伝の方法を変えました。今までは誰にでも会う人ごとに 「生長の家」 の話をしなければ気がすまない。相手を見ず、人を見ず、遮二無二、神様の話をいたしますので、かえって反感を持たれていましたが、今では自然に向こうから求めてくる機会を掴むような気持ちになりました。すると不思議に向こうから話してくれと求められるようになりました。

 またある時にはわたしは 「生長の家」 というのはむずかしい宗教ではない、したいままをする教えである、こんなやさしい教えはない。「生長の家」 はコレをしてはならぬ、アレをしてはならぬとはいわない。あなたのしたいままをしなさいというのです。なんでもあなたのしたいままをしなさい。しかし一つの条件がある、それは 「自分は神の子である」 という自覚を持った上でというのです。

 デパートで物を買うにしても、何を買っても叱られるということはない。多く買えば買うほど百貨店から喜ばれる。しかし懐中にお金をもっていないで買えば万引きだといわれるでしょう。それと同じように 「自分は神の子だ」 という自覚がなしに、したいままをすればまちがいができる。ところが 「自分は神の子だ」 という自覚をもってすれば、自然によいことばかりできてきて皆様から喜ばれるのは、懐中にたくさんのお金をもっていて百貨店で買い物をすれば皆から喜ばれるのと同じことです、とお話しますと、「なるほどよく解る」 といわれる方が多うございます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ―― 「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。それが、「神ながら」 ということなのでしょう。

 「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

 という 「智慧の言葉」 (『生命の實相』 第22巻 p.10) も、しっかり守ってまいりましょう。

3345トキ:2013/11/27(水) 18:56:42 ID:QsleMvcs
>>3344

復興G 様

 今月は、生命の実相第6巻がテキストなので、毎日、繰り返し拝読しております。

>>「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。

という部分は重要であり、同時に気をつけないといけない部分かと感じます。

 過去の宗教などでは、「あれをしてはいけない」「これをしなさい」という部分が
多くて、ずいぶん窮屈な印象がありました。あまり具体的な事例をあげると誤解をう
けて問題になるので止めますが、特定の信仰を持っている私から見ても、「いったい
神様がそんな窮屈な事を言うかしら?」としか思えないような教えもあります。

 その意味では、谷口雅春先生のこの部分はたいへん重要で、かつ大切な部分だと
思います。最近の生長の家では、こういう部分があまり重視されていないみたいで
すが。

 反面、「自分は神の子である」自覚がないまま、ニセモノの自分が神の子である、と
誤解して、好き勝手をすると、これも大変な事になるかと感じます。

 すると、最低限は「行」をきちんとする事が前提のような気がします。ただ、その辺り
の基準は自分もまだ勉強中であります。

 素晴らしい部分をご紹介下さった復興G様に心から感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

3346a hope:2013/11/28(木) 00:07:49 ID:/9IAdiFk

復興Gさま 

ご指導をありがとうございます。
>>3344にご紹介の文章には、わたしも赤線を引いてありました。

このお話をされている佐瀬さんという方は、小さいお子さんもいらっしゃるお母さんですね。
この文章の前にも、ご自分のお心の持ち方を反省されることで、養母さんと和解されたお話や、
良いい引越し先が見つかったお話、お子さんの脱臼が治ったお話など、数々の奇跡が紹介されています。

この方は当時はとてもお若いお母さんではなかったのかと思われますが、
すべての自分の周りで起こる出来事を自分の心の陰であると反省することができる素晴らしい方だと感じました。

そんな、彼女が伝道をされるときに、
<<「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。>>
というようなことを言われたのですね。

ですが、この言葉がですが、>>3345でトキさまも

<<「自分は神の子である」自覚がないまま、ニセモノの自分が神の子である、と
誤解して、好き勝手をすると、これも大変な事になるかと感じます。>>

おっしゃっていますが、わたしも相手を見て慎重に判断して言わないといけない言葉なのではないかと感じました。
なぜなら、まことの「神の子の自覚」とは、そう簡単に得られるものではないと思うからです。

わたし自信も「人間は神の子だ」ということは頭では理解していますが、実際それを体得しているとはとても言えません。

これは「生長の家の教え」の基本ですが、まことに悟り、復興Gさまのおっしゃるような「神ながら」の行動をとれるようになるには、
トキさまのおっしゃるように『最低限は「行」をきちんとする事』とても大切な気がしました。

復興Gさま、わたしはこのように感じました。

ご指導をどうぞ、よろしくお願いいたします。

3347復興G:2013/11/28(木) 10:33:11 ID:AB6RqYXc

>>3345 :トキ様

>>3346 :a hope様

 ありがとうございます。

 本当に、おっしゃるとおりですね。

>>「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。<<

 というところの、前のところ、“「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば” というところが、大切なところであると思います。

 しかしながら、その 「神の子の自覚」 とは、たしかにa hope様がおっしゃるように、「そう簡単に得られるものではない」 とも言えましょう。けれども、また 「決して難しいことではない」 とも言えると思います。なぜなら、「自分が、自分が」 と掴んでいた自分はなかったんだ、ただ神に生かされている、天地に、大生命に生かされていたんだと、自分を空っぽにするだけでいいんです。難しい自力の修行は要らないんです。

 『生命の實相』 第6巻第3章の座談会に出てくる佐瀬さんは、たしかにa hope様がおっしゃるように、

<<ご自分のお心の持ち方を反省されることで、養母さんと和解されたお話や、良い引越し先が見つかったお話、お子さんの脱臼が治ったお話など、数々の奇跡が紹介されています。
この方は当時はとてもお若いお母さんではなかったのかと思われますが、すべての自分の周りで起こる出来事を自分の心の陰であると反省することができる素晴らしい方>>

 ですね。その佐瀬さんは、

<<わたしは今まで養母(はは)から叱られるのは、養母がわたしを無理解だからだとのみ考えていましたが、それが 『生長の家』 を読ましていただくようになりましてから、養母は決して無理解なのではない。神は無理解な養母を造り給わないから、そんな無理解な母は決して存在しない。それはわたしの心が映ってそう見えるだけである。実相の養母は、理解ある知恵と愛とを円満具足した存在であると気がつきました。それからというものは、わたしは養母が急に前よりいっそう懐かしくなり、養母に会いたい、母に会って養母の実相を見たいと思う念が切々と動いてきたのでございます。>>

 というように変わられたとき、

<<今まではこうしたら、叱られやしないか、悪くとられやしないか、とハラハラしながら養母に気に入るように務めながらも、悪くとられて叱られていましたのが、今度はどうでしょう。のん気にしたいままをして、それが自然に気に入るのでございます。わたしの心が養母の実相を見たから、養母の本来の善いところばかりが出て来るのでございました。今まで現象に見えていた 「無理解の養母」 は本来無いのであって、こちらの念の影で、あるように見ていたのだということがハッキリわかりました。>>

 とおっしゃっているわけですね。

 こちらが素直になって神の無限の愛を信じたとき、周囲のすべてが素直に調う。

 それで私は、トキ様がおっしゃってa hopeさまが同意されている

>>『最低限は 「行」 をきちんとする事』 がとても大切<<

 という言葉は、もっともだとも思われますが、ちょっと違和感を感ずるところがあります。

 それは、その言葉にはなにか <自力で 「行」 をきちんとしなければ、私たちは神の子になれない> ――神の創造にまだ作りそこないがあり、われわれの自力修行を必要とするような不完全なつくり方をされているという、神に対する不信があるのではないか――というな感じがするんです。

 「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

 という 「智慧の言葉」 の、「二人の主に仕える」 ことになっていはしないか、ということです。

 私は、毎朝の神想観・先祖供養を当り前のこととして、習慣的に、よろこんでやっています。

 それは、無条件に神に、先祖に守られ生かされているのだから、あたりまえに感謝とよろこびを忘れないで出発するためです。自分はまだ不完全だから、修行して神に近づくためだとは思っていません。

 すでに、完全である。だから、ありがたいのみである。

 感謝とよろこびが神想観であり、感謝とよろこびが先祖供養なのです。

3348トキ:2013/11/28(木) 15:57:33 ID:5Wa7vmvU
>>3347

復興G様

 丁寧なご指導深く感謝申し上げます。

 青年会の頃などは、神想観や聖経読誦が苦手な時期もありまして、どうも内心忸怩たるものが
ありました。ある程度続けると、楽しみに変わります。まだまだ復興G様の域には達しませんが、
精進を重ねたいです。生長の家信徒行持要目の最後、『毎日一回は神想観を実修して心を光明化
すべし」ですが、神の子たる自分を思い出す事の大切さを感じます。

 生命の実相第6巻には、巻末に体験談が掲載されていますが、あれは修行者のありかたを別の
角度で説かれたもので、選りすぐりの体験だと思います。

 今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3349a hope:2013/11/28(木) 22:11:31 ID:/9IAdiFk

>>3347 復興Gさま 

ご指導をありがとうございます。

おかげさまで、わたしにとって今や「神想観」は快感です(笑)
いつもは40分くらいですが、たまに1時間以上することもあります。
リビングのフローリングの床に薄い敷物を敷いてしていますが、最近はまったく足がしびれなくなりました。

聖経読誦は神想観ほど熱心にはできませんが、黙読するようにしてから以前より集中できるようになりました。
なによりも、ご先祖さまやご縁のあった御霊さまたちに感謝の気持ちを込めるようにしています。

生長の家の、三正行は、「神想観」、「聖経・聖典の拝読、、そして「愛行」ですが、
わたしは、「愛行」は主に家族に対してや、仕事を通して実行してます。


Gさまご紹介の智慧の言葉

「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

を実行するには、まずは「生命の実相」を悟らなければ話にならないのではないでしょうか?
(むしろ、生悟りのままこれを実行するのは、自分の経験から危険であると感じています。)


復興Gさま、わたしも、生長の家の三正行は、<<自分はまだ不完全だから、修行して神に近づくため>>のものだとは思ってしていません。

自己内在の神を観ずる「神想観」、潜在意識を浄めるための聖経・聖典の拝読、そして、自他一体感を自覚する「愛行」、すべては、「生命の実相」「人間神の子」を大悟するための、完璧な「行」であるとわたしは信じています。

ですからわたしは、トキさまのご発言『最低限は 「行」 をきちんとする事』には、何の違和感もありませんでした。

むしろ、「生長の家」の講師の方々が三正行の必要性を信徒にきちんと説かなくなってしまう方が問題だと感じています。

復興Gさま、 a hopeのたいへんな生意気をお許しください。
ですが、復興Gさまの大きな胸をお借りして、素直に感じたことを述べさせていただきました。

引き続き、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

3350トキ:2013/11/28(木) 22:48:27 ID:5Wa7vmvU
 今読み直すと、私の先の投稿は支離滅裂で、申し訳ないです。

 まず、行についての復興G様のご指導は、私の考え方が、形式的というか、
掛け声だけだったのをご注意下さったものかと感じております。この点、
気をつけるべき点だと反省しております。

 それと、a hope様のご投稿は、楽しくて、とても励まされます。いきいき
していて、嬉しくなるような内容ですね。

今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3352復興G:2013/11/29(金) 19:33:01 ID:AB6RqYXc

>>3349 :a hope さま

 ありがとうございます。

 さて、「行」 について思うことをもう少し書かせて頂きます。

 私の知る限りでは、生長の家で 「行」 を最もひたむきに激しくきびしく実践した人は、榎本恵吾先生ではないかと思っています。

 榎本先生は高校生の時、アパートの一室を借りて住んでいた親友のところに一週間、居候をさせてもらって、その間ずっと神想観をつづけたことがあったそうです。焼きおにぎりを7個買ってきて、1日に1個食べ水を飲むだけの食事で、只管神想観を続けていた。友人は登校して帰って見ると、出かける前と同じ姿勢で神想観をしている。それが一週間続いた。友人は、「この男はすごい男だ」 と舌を巻いたそうです。

 この話は、恵吾先生の一年祭・追善供養の集いをしたときに、その友人(当時、榎本先生の郷里和歌山県のある町の町長になっていた)から聞いた話です。

 高校卒業後、飛田給道場で 「練習生」 (徳久克己総務の許で道場に住み込み、昼間は奉仕しながら夜間大学に通って勉強させてもらう研修生) となって修行された。道場ではもちろん早朝行事(神想観・聖経読誦)から毎日が始まる。そして当時道場で飼っていた鶏の世話をする仕事を与えられ、それも一所懸命されていた。

 先輩から、「鶏に愛の心を注いで世話をすれば、卵をたくさん産むようになる」 と言われ、真剣にそうしているつもりなのだけれども、産卵数はいっこうに増えない。それは自分の修行努力が足りないからだと反省し、自分を責めてばかりいた。

 そうしているうちに、高校時代の友人からは、「お前は生長の家を知らない時の方がよっぽど明るかった。生長の家をやるようになってから、雰囲気がどんどん暗くなって行った」 といわれたそうです。

 「生命の実相を悟りたい、悟りたい。まだだめだ、まだだめだ」 と一所懸命に 「行」 をすればするほど真理から遠ざかるように 「暗く」 なって行ったというのです。

 その榎本先生が、ある日聖歌を歌っているとき、フッと 「悟りは明日にしよう」 と思った。「悟りたい」 と思う心を捨てたのです。そしたらパッと 「今、生かされている! そのままでよいのだ!」 という喜びの光が心を満たした。

 それから、「行」 は真理を悟る 「ため」 のものではなく、ただ光が光する行となった――と聞きました。

 そして、「自然の美しい花などは、神想観をしてから咲いたのではないでしょう。人間も神想観をしてから生まれてきたのではないでしょう。そのまま喜んでいいのですよ。修行をしなければ救われないと思うところには、神が自分を不完全につくった、つくりそこないをしたという不信があることになる。すでに完全につくられていることを喜ぶのが神想観ですよ」 と説かれた。

 私は青年時代に先輩講師などから、「神想観をしなければ真理はわからない。神想観をしなければ救われない」 と言われて、疑問を持ち反撥を感じたことがあります。

 生長の家はまだ立教後たかだか ○十年だ。谷口雅春先生が現れられ、生長の家が始まるまでの人には、救われる道がなかったのか? 神は、そんな不完全な創造りかたをされたのか?――と。

 それで、神想観といえば形のことだとしか受けとっていなかった私は、なにか反撥を感じていました。

 a hope さまは、神想観・聖経、聖典の読誦・愛行の三正行を喜んで素直に行じていらっしゃるのは、すばらしいと思います。が、私はやはり、『最低限は 「行」 をきちんとする事』 ということは、“掛け声だけの形式的な 「行」 の勧め” になるおそれがあり、かえって人間を縛ることになり、真理から遠ざかることになる可能性があると危惧します。

 「三正行」 も、“……のために” となると、たとえそれが “「人間神の子」を大悟するため” であっても、ちょっとちがうのではないか。すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、という榎本先生のような生き方が本当だと私は思っています。

 三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行であることを説くことは必要でしょうが……。

3353復興G:2013/11/29(金) 19:56:33 ID:AB6RqYXc

 web誌友会参考文献板の >183 に、このテーマにぴったりの、榎本恵吾先生のご文章がありました。

 ありがとうございます。

3354復興G:2013/11/29(金) 22:28:32 ID:AB6RqYXc

a hope さま、聖典引用板の >2678〜2684 に抜粋謹写された 『生命の實相』 第36巻 第3章 「無礙の大道」、すばらしいと思います。

また、信仰/体験板2 の >1471〜1482 で 「訊け」 様との対話、そして >1484 の トキ様が 『神真理を告げ給ふ』 p.44 からの謹写引用をされての締めは、まさに神が真理を告げ給うたお言葉だと感じました。

ありがとうございます。

3355a hope:2013/11/29(金) 23:33:14 ID:/9IAdiFk

>>3352 復興Gさま

キリストも釈迦も雅春先生も恵吾先生もお悟りになるために厳しい修行を積まれたのですね。
でも、その結果、そんな苦しみの伴う修行は必要ではなかったと実相世界の完全円満を悟られた。

でもそれって客観的にみたら、やはり厳しい修行があったから「大悟された」ということになるような気がするのです。

今、信仰/体験板で 訊け管理人さまやトキさまと、恵吾先生の「罪すらも『光』なんだ!」発言について、お勉強させていただいているのですが、
その内容から考えると、恵吾先生は『ご自分の経験された「悟りを求める修行」を間違いだった』とは思われていなかったのではないでしょうか?

その暗(やみ)の修行(一度、真理から遠ざかること)があったからこそ、まことの「実相独在」を悟ることができたのでると、
「あの辛い修行も光だったんだ!必要なことだったんだ!」と感謝されているような気がします。



ところで、復興Gさまが危惧されている、

<<『最低限は 「行」 をきちんとする事』 ということは、“掛け声だけの形式的な 「行」 の勧め” になるおそれがあり、>>

ということに関しては、>>3350でトキさまもご自分自身で反省されているようなので、わたしも納得させていただきました。
ご指導をありがとうございます。


ですが、

<<「三正行」 も、“……のために” となると、たとえそれが “「人間神の子」を大悟するため” であっても、ちょっとちがうのではないか。すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、という榎本先生のような生き方が本当だと私は思っています。
三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行であることを説くことは必要でしょうが……。 >>

という御文章中の、『すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、』という生き方ができるのは、
やはり「実相世界の完全円満さ」を完全に悟られている恵吾先生や復興Gさまだからだと感じてしまいます。


それに「詳説 神想観」の中で、「三正行」について、雅春先生がご指導くださっている御文章があるのですが、
それを拝読する限り、「三正行」はやはり真理を体得するためにする「行」であるとわたしは感じてしまいます。

わたしは、どんな人間にも、「真理を知りたい」という欲のようなものはあるのではないかと思うので、
「三正行」を真理を体得するために行ずるという考え方も間違えではないような気がします。
少なくともわたしはそういう理由でしています。

3356a hope:2013/11/29(金) 23:34:52 ID:/9IAdiFk
>>3355の文章は復興Gさまのご投稿>>3354を拝見する前に作成しました。)

>>3354 復興Gさま

お褒めくださりありがとうございます。
聖典「生命の實相」の素晴らしさに、毎日魂を震わせています。

3358復興G:2013/11/30(土) 13:58:37 ID:AB6RqYXc

>>3355 :a hope さま

>>今、信仰/体験板で 訊け管理人さまやトキさまと、恵吾先生の「罪すらも『光』なんだ!」発言について、お勉強させていただいているのですが、その内容から考えると、恵吾先生は『ご自分の経験された「悟りを求める修行」を間違いだった』とは思われていなかったのではないでしょうか?<<

――その通りだと思います。

すべては光、罪すらも光だと、榎本先生は悟られたと思います。

>>「詳説 神想観」の中で、「三正行」について、雅春先生がご指導くださっている御文章があるのですが、それを拝読する限り、「三正行」はやはり真理を体得するためにする「行」であるとわたしは感じてしまいます。<<

――それは、現象の側から見ればそうで、実相(光)の側から見れば、すでにある 「完全」 が、現れたくて、生まれ出たくて胎動を起こしている状態なのではないでしょうか。

3359a hope:2013/11/30(土) 17:14:12 ID:/9IAdiFk

>>3358 復興Gさま

<<実相(光)の側から見れば、すでにある 「完全」 が、現れたくて、生まれ出たくて胎動を起こしている状態なのではないでしょうか。 >>

実相世界の状態は、わたしにはわからないのです。

だからそれを悟りたいから、「人間神の子」の本物の自覚を得て、人類光明化に全力で取り組みたいと思うから、
だから、わたしは毎日神想観をして、聖典・聖経を拝読して、愛行をしているのです。

復興Gさまの

<<三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行である。>>

このような境地にはわたしはまだ達していないのです。


たしかに、榎本恵吾先生のご文章を拝読したりご講話を拝聴したりすると、心が軽くなって元気になります。
それは、恵吾先生が、まことに実相独在を悟られていてそれに徹していらしたからだと思います。

また、直接個人指導を受けたりご講話を聴いたりすると、その波動がより強く伝わってさらに実相世界を悟ったような気がするのかもしれません。

ですがそれは、「悟り」のきっかけを与えられただけであって、その後は、やっぱり自分自身の修行が大切になるのだと思います。

生長の家の「三正行」はそのためにあるのだとわたしは思うのですが・・・。

違うのでしょうか?


詳説 「神想観」の雅春先生の「三正行」のご指導文を、聖典板に謹写させていただきます。

3360復興G:2013/11/30(土) 20:35:48 ID:AB6RqYXc

a hope さま

詳説 「神想観」の雅春先生の「三正行」のご指導文を、聖典板に謹写してくださって、ありがとうございました。

プリントアウトして、赤線を引いてしっかり拝読させていただいています。

三正行の大切さが、よくわかります。

もっともっと、精進しましょう。

ありがとうございます。合掌

3364a hope:2013/12/01(日) 11:05:35 ID:/9IAdiFk

>>3360 復興Gさま 

わたしの思いを理解してくださりうれしいです。感謝 合掌。

実相世界は確かに存在していて、それが唯一の実在だということは、
生長の家の信徒だったら、雅春先生の聖典を拝読されていらっしゃる方だったら、
ほどんどの方が頭では理解されていることなのだと思います。

ですが、それを『体得する』というのは、全く別の次元のお話なのではないかと思うのです。

聖典引用板 >>2691に謹写させていただいた【真理を完全に悟るには――生長の家の三行】
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2691

わたしは、これを成し遂げることが「まことの法燈継承」なのだと感じています。

3365a hope:2013/12/01(日) 11:09:12 ID:/9IAdiFk

みなさま こんにちは

聖典 「生命の實相」や「生長の家の教え」をもっともっとお勉強されたいみなさまにうれしいお知らせです!

もと宇治別格本山の大人気講師だった大熊先生が、ご自身のブログでとてもおもしろい講義をしてくださっています。
3D形式(?)で、臨場感満載です(笑)
また、今日は、この掲示板で話題になっている榎本恵吾先生との秘話(素晴らしいエピソード)もお話してくださっています。

最近、やっとコメント欄を発見できたわたしもコメントしていますよ!(笑)

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/folder/172638.html

3366復興G:2013/12/02(月) 10:15:31 ID:AB6RqYXc

a hope さま
皆さま

私は昨日は朝から夜遅くまでリアルの世界で息つく暇もないほど4つの意義ある行事をこなし、このネット掲示板は開いてみることも出来ませんでした。充実した、私にとって忘れられない一日になったと思います。

さて、12月に入りました。

おもえば、今までこのトキ様が立ち上げ運営してくださっている掲示板で、たくさんの書き込みをさせていただき、たくさんの方々と心の交流をして真理を深く学ばせて頂きました。それによって私は素晴らしい魂の生長をさせていただいたと、深く感謝しています。

トキ様には、日夜ほとんど心のやすまるいとまもないくらい、この掲示板の運営にはご心労もあったのではないかと思います。深いご愛念に、ただ感謝あるのみです。

いま私は、この12月を区切りとして、この掲示板から退場させて頂きたいと思っています。

来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、私の生命表現、使命実現をして行きたい。

a hope さまが聖典引用板に謹写して下さった

<< 「知」が「信」によって生命を吹き込まれ、更にそれを愛行によって実践するとき真理が生動するものとなるのです。>>

とご教示いただいている愛行を、新たな場で、全生命をかけて実践して行きます。

ここはトキ様が運営して、生長の家あり方を真剣に考える皆さまのために開放して下さっている、万人のための掲示板です。このweb誌友会板で、私は昨年5月から約1年半にわたり、皆さまに推されて司会者とか、指導者とみなされるような立場におかれて勉強させていただいてきましたが、これは私の掲示板ではありませんから、私の色が濃くでてしまうのはよくないと思います。で、このあたりで退場させて頂いて、トキ様、皆さまにお返しするのが適当であると考えました。

今月、12月は、これまでのつづきとしては、『生命の實相』 第7巻を勉強することになりますが、第7巻に限らず、『生命の實相』 全巻および全聖典をテキストと考えて、私としては最後のweb誌友会とさせていただきたいと思います。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます。

3367トキ:2013/12/02(月) 11:58:11 ID:vniWpnlU
復興G様

 今月いっぱいでこの掲示板を卒業されるとの事、驚きました。
今まで、素晴らしいご指導を賜っていたので、私達後進としてはたいへん寂しく、また、
残念です。今まで賜ったご恩に深く感謝申し上げます。

 復興G様は教えの大先達ですが、ご多忙の中、私達後進のために貴重な御時間を使い、
ご指導を賜った事は、神界から谷口雅春先生もお慶びかと拝察する次第であります。
 本当にありがとうございました。

 しかし、今後は、もっとすばらしい場所で、生長の家と信徒のために、もっと素晴らしい
活動を展開されると確信をしております。

 あと一月ですが、これが復興G様ご指導の誌友会は最終回になります。どうか、皆様、
奮ってご参加のほど、お願いを申しあげます。

 また、残り一月ですが、復興G様のご指導のほど、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3368志恩:2013/12/02(月) 12:13:24 ID:.QY5jUA6
復興G様

12月いっぱいで、ここの掲示板を卒業されるのですか。びっくりです。
私も、復興G様に、たくさんたくさん教えて頂きましたご恩を忘れません。

誠に、ありがとうございました。

>>来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、
私の生命表現、使命実現をして行きたい。<<

と、おっしゃっておられますが、
“リアルの世界とネット空間の双方ともに“....ということは、
ネットでも 新しいことを始められるということでしょうね。

楽しみに期待させて頂きます。

卒業とおっしゃっても、たまにでもいいですから、また、「特別ゲスト」として、
いらして下さって 教えて頂けましたら、有り難く存じております。


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