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Web誌友会 板/2

3347復興G:2013/11/28(木) 10:33:11 ID:AB6RqYXc

>>3345 :トキ様

>>3346 :a hope様

 ありがとうございます。

 本当に、おっしゃるとおりですね。

>>「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。<<

 というところの、前のところ、“「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば” というところが、大切なところであると思います。

 しかしながら、その 「神の子の自覚」 とは、たしかにa hope様がおっしゃるように、「そう簡単に得られるものではない」 とも言えましょう。けれども、また 「決して難しいことではない」 とも言えると思います。なぜなら、「自分が、自分が」 と掴んでいた自分はなかったんだ、ただ神に生かされている、天地に、大生命に生かされていたんだと、自分を空っぽにするだけでいいんです。難しい自力の修行は要らないんです。

 『生命の實相』 第6巻第3章の座談会に出てくる佐瀬さんは、たしかにa hope様がおっしゃるように、

<<ご自分のお心の持ち方を反省されることで、養母さんと和解されたお話や、良い引越し先が見つかったお話、お子さんの脱臼が治ったお話など、数々の奇跡が紹介されています。
この方は当時はとてもお若いお母さんではなかったのかと思われますが、すべての自分の周りで起こる出来事を自分の心の陰であると反省することができる素晴らしい方>>

 ですね。その佐瀬さんは、

<<わたしは今まで養母(はは)から叱られるのは、養母がわたしを無理解だからだとのみ考えていましたが、それが 『生長の家』 を読ましていただくようになりましてから、養母は決して無理解なのではない。神は無理解な養母を造り給わないから、そんな無理解な母は決して存在しない。それはわたしの心が映ってそう見えるだけである。実相の養母は、理解ある知恵と愛とを円満具足した存在であると気がつきました。それからというものは、わたしは養母が急に前よりいっそう懐かしくなり、養母に会いたい、母に会って養母の実相を見たいと思う念が切々と動いてきたのでございます。>>

 というように変わられたとき、

<<今まではこうしたら、叱られやしないか、悪くとられやしないか、とハラハラしながら養母に気に入るように務めながらも、悪くとられて叱られていましたのが、今度はどうでしょう。のん気にしたいままをして、それが自然に気に入るのでございます。わたしの心が養母の実相を見たから、養母の本来の善いところばかりが出て来るのでございました。今まで現象に見えていた 「無理解の養母」 は本来無いのであって、こちらの念の影で、あるように見ていたのだということがハッキリわかりました。>>

 とおっしゃっているわけですね。

 こちらが素直になって神の無限の愛を信じたとき、周囲のすべてが素直に調う。

 それで私は、トキ様がおっしゃってa hopeさまが同意されている

>>『最低限は 「行」 をきちんとする事』 がとても大切<<

 という言葉は、もっともだとも思われますが、ちょっと違和感を感ずるところがあります。

 それは、その言葉にはなにか <自力で 「行」 をきちんとしなければ、私たちは神の子になれない> ――神の創造にまだ作りそこないがあり、われわれの自力修行を必要とするような不完全なつくり方をされているという、神に対する不信があるのではないか――というな感じがするんです。

 「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

 という 「智慧の言葉」 の、「二人の主に仕える」 ことになっていはしないか、ということです。

 私は、毎朝の神想観・先祖供養を当り前のこととして、習慣的に、よろこんでやっています。

 それは、無条件に神に、先祖に守られ生かされているのだから、あたりまえに感謝とよろこびを忘れないで出発するためです。自分はまだ不完全だから、修行して神に近づくためだとは思っていません。

 すでに、完全である。だから、ありがたいのみである。

 感謝とよろこびが神想観であり、感謝とよろこびが先祖供養なのです。


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