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Web誌友会 板/2

3355a hope:2013/11/29(金) 23:33:14 ID:/9IAdiFk

>>3352 復興Gさま

キリストも釈迦も雅春先生も恵吾先生もお悟りになるために厳しい修行を積まれたのですね。
でも、その結果、そんな苦しみの伴う修行は必要ではなかったと実相世界の完全円満を悟られた。

でもそれって客観的にみたら、やはり厳しい修行があったから「大悟された」ということになるような気がするのです。

今、信仰/体験板で 訊け管理人さまやトキさまと、恵吾先生の「罪すらも『光』なんだ!」発言について、お勉強させていただいているのですが、
その内容から考えると、恵吾先生は『ご自分の経験された「悟りを求める修行」を間違いだった』とは思われていなかったのではないでしょうか?

その暗(やみ)の修行(一度、真理から遠ざかること)があったからこそ、まことの「実相独在」を悟ることができたのでると、
「あの辛い修行も光だったんだ!必要なことだったんだ!」と感謝されているような気がします。



ところで、復興Gさまが危惧されている、

<<『最低限は 「行」 をきちんとする事』 ということは、“掛け声だけの形式的な 「行」 の勧め” になるおそれがあり、>>

ということに関しては、>>3350でトキさまもご自分自身で反省されているようなので、わたしも納得させていただきました。
ご指導をありがとうございます。


ですが、

<<「三正行」 も、“……のために” となると、たとえそれが “「人間神の子」を大悟するため” であっても、ちょっとちがうのではないか。すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、という榎本先生のような生き方が本当だと私は思っています。
三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行であることを説くことは必要でしょうが……。 >>

という御文章中の、『すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、』という生き方ができるのは、
やはり「実相世界の完全円満さ」を完全に悟られている恵吾先生や復興Gさまだからだと感じてしまいます。


それに「詳説 神想観」の中で、「三正行」について、雅春先生がご指導くださっている御文章があるのですが、
それを拝読する限り、「三正行」はやはり真理を体得するためにする「行」であるとわたしは感じてしまいます。

わたしは、どんな人間にも、「真理を知りたい」という欲のようなものはあるのではないかと思うので、
「三正行」を真理を体得するために行ずるという考え方も間違えではないような気がします。
少なくともわたしはそういう理由でしています。


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