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Web誌友会 板/2

3333復興G:2013/11/18(月) 19:39:22 ID:AB6RqYXc

>>3332 のつづきです。

 私は学生時代に、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウエルの主著 『意志と表象としての世界』 (磯部忠正訳・創元社刊) をちょっと読んで、びっくりし、目が覚めた思いがしました。その冒頭に、

 「幼稚を脱却せよ、友よ、目覚めよ!」

 というジャン・ジャック・ルソーの言葉が掲げてあり、本文は次のように始まっています。――


 << 「世界はわが表象である」(“Die Welt ist meine Vorstellung”)――これは生き且つ認識する凡てのものに妥当する真理である。

 ところがこの真理を反省的抽象的に意識することの出来るのは人間だけであって、人間が実際に斯く意識する場合、そこに人間の哲学的思慮というものが生じたのである。

 してみると、人間が太陽を知り、大地を知るのではなくて、ただ太陽を見る目があり、大地に触れる手があるにすぎないということ、人間を取り囲む世界は表象としてのみ存在する、即ち全く他者即ち人間自身であるところの表象者に関係してのみ存在する、ということが明白に且つ確実になる。もし何らかの先天的真理なるものが言われるとすれば、これこそその真理である。

 何となれば、この真理は時間とか空間とか因果とかいう凡ゆる他の形式より一層普遍的な、凡ゆる可能なそして考えられ得る経験の形式を言い表わしたものだからである。(中略)

 此の真理ほど確実にして、凡ゆる他の真理に依存せず、また証明を要しないものはない。即ち認識に対して定在する一切のもの、即ち此の全世界、は主観との関係に於ける客観にすぎず、直観する者の直観、約言すれば表象に他ならないという真理である。

 勿論此の真理は現在にも、また過去や未来にも、遠いものにも近いものにも妥当する。何となれば、この真理はこれら凡てのものの区別が生ずる唯一の基たる時間や空間そのものにも妥当するからである。およそ此の世界に属するもの、また属しうるものは凡て不可避的にこのような主観による制約にとりつかれているのであって、すべてのものは主観に対してのみ定在する。世界は表象である。(中略)

 およそ現前する凡ゆる対象をば、自分の身体をも、率直にただ表象とみなし、単なる表象と名づける必要がある。ここで度外視してあるのは、世界の他の唯一の面をなす 「意志」 に他ならない。何となれば、世界は一面では徹頭徹尾 「表象」 によっているが、他面では徹頭徹尾 「意志」 によっているからである。

 この両者の何れでもなく、客観自体であるというような実在は、夢想の怪物であり、そのようなものを想定することは、哲学に於ける鬼火である。>>


 ――ここにいう 「表象」 とは、原語のドイツ語では “Vorstellung(フォアシュテルング)” となっている。この語は “vorstellen(フォアシュテレン)” <前に立てる、前に置くという原義から、思い浮かべる、心に描くという意味にも使われる語> の名詞形で、 「心像」 「観念」 「概念」 などの意味で、哲学用語としては 「表象」 と訳されているわけです。

 「表象」 という言葉は普段ほとんど使われない言葉ですから、「心像」 とか 「心の影」 と置き換えて読んでみると、わかりやすいかも知れません。

 ショーペンハウエルは、「この真理は、決して新しいものではない。インドの賢者たちが疾くに認識した根本真理である」 とも言っています。

 私は、このショーペンハウエルの哲学の第一歩に、深い影響を受けました。

 ただ、彼は 「唯神実相」 の真理には到らず、世界は存在しうる最悪の状態だとし、厭世哲学とも言われ、生長の家とは正反対の結論を出したのだということで、私はこの冒頭の部分だけに深い影響を受けたけれども、後の方は読んでいません。

 それにしても、ジャン・ジャック・ルソーの言葉のように、

 「幼稚を脱却せよ、友よ、目覚めよ!」

 ということは、目に見える現象をそのまま 「あり」 と考えるような幼稚性からは脱却しなければならないということで、それは肝に銘じたいと思います。


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