[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
Web誌友会 板/2
3341
:
復興G
:2013/11/27(水) 14:02:50 ID:AB6RqYXc
――以上、テキスト第3章のはじめの方のご文章(p.68~71)で、特に最初の南さんの質問
<< 南――われわれの心のうちには地獄もあれば極楽もある。心が悪を描けば地獄が出てくる、心に善を描けば極楽が出て来る。ひっきょう地獄も極楽も本来無いものであって、それは皆われわれ自身の心の中にあると悟るのが、実相を悟ったということになるのでございましょうか。>>
に対して、谷口雅春先生は
<< 谷口――それは 「現象の法則」 を悟ったというものであって、実在の実相を悟ったものではありませんねえ。>>
とお答えになっている。
ちょうど、ちょっと前にある講師が、教区の「地方講師会だより」に、次のように書かれているのを見ました。
「日時計主義こそ実相独在、唯心所現の生活実践です。現実にはまだ光明が十分現れていなくても、現象の背後にある実相を信じて、言葉を読んで、引き出すことで、地上に光明が現れる。そういう信仰と原理なくして、日時計主義は成立しません。」
と。
皆さま、どうお考えになりますか?
「実相」 とは、現象の背後にあり、言葉を読んで、引き出すことをしなければ地上に現れないものなのでしょうか?
それって、「二元論」 ではありませんか?
谷口雅春先生は、
<< 「悟り」 というものは現象にとらわれないで、直接 「生命の至妙の実相」 を把握することなのです。「修養」 というものは現象(いまのあらわれ)の中で悪いものを、それを見わけてそれを握って捨てようとするのですから、けっこうには違いないが、現象をあるとして取り扱って、現象に依然としてとらわれるから、なかなか至妙常楽の実相を顕わすことができないのです。……
……雲など吹き払おうと思う必要はない。一躍して実相界に跳び入るのです。そこから無限の自由、無限の力が湧いて来るのです。雲はあっても無くとも好(よ)い、アルとかナイとかかかわっている間はだめだ。雲を跳び越えて、雲の彼方(かなた)にある太陽の輝く世界に跳び入るのです。雲はあっても無くとも雲の彼方の世界は太陽で輝いている。その世界に跳び込んでしまっておれば、雲はわれわれの念の力で繋(つな)ぎ留めておかないから自然に散って消えてしまう。この雲、あの雲にとらわれて、その雲をどうかしないでは救われないなどと考えるのは、現象にとらわれているのです。>>
とおっしゃっています。
「実相」 というのは、時間・空間が現れる元のところ、「久遠の今」 にある理念の世界であり、無限完全円満であって、それのみが実在である。時間・空間は仮想であって、ナイのである。したがって時間・空間のスクリーン上に現れて見える現象も、ナイのである。
「日時計主義」 とは、
<< “I record none but hours of sunshine.”(われは太陽の輝く時刻のみを記録す)
自分はこの標語を「日時計主義」だと言うのである。>>
と 『生命の實相』 第7巻に書かれているが、この 「太陽」 は、自分の外にあるのではない。自分の内にあり、自分が太陽なのである。だから、「われは太陽の輝く時刻のみを記録す」 というのは、「われはわが輝く時刻のみを記録す」 ということである。
――私は、そう思いました。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板