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Web誌友会 板/2

3344復興G:2013/11/27(水) 15:34:13 ID:AB6RqYXc

 テキストp.112〜113 の、以下のご文章(佐瀬さんのご発言)も、うれしくなるご文章です。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 わたしは近ごろ 「生長の家」 の宣伝の方法を変えました。今までは誰にでも会う人ごとに 「生長の家」 の話をしなければ気がすまない。相手を見ず、人を見ず、遮二無二、神様の話をいたしますので、かえって反感を持たれていましたが、今では自然に向こうから求めてくる機会を掴むような気持ちになりました。すると不思議に向こうから話してくれと求められるようになりました。

 またある時にはわたしは 「生長の家」 というのはむずかしい宗教ではない、したいままをする教えである、こんなやさしい教えはない。「生長の家」 はコレをしてはならぬ、アレをしてはならぬとはいわない。あなたのしたいままをしなさいというのです。なんでもあなたのしたいままをしなさい。しかし一つの条件がある、それは 「自分は神の子である」 という自覚を持った上でというのです。

 デパートで物を買うにしても、何を買っても叱られるということはない。多く買えば買うほど百貨店から喜ばれる。しかし懐中にお金をもっていないで買えば万引きだといわれるでしょう。それと同じように 「自分は神の子だ」 という自覚がなしに、したいままをすればまちがいができる。ところが 「自分は神の子だ」 という自覚をもってすれば、自然によいことばかりできてきて皆様から喜ばれるのは、懐中にたくさんのお金をもっていて百貨店で買い物をすれば皆から喜ばれるのと同じことです、とお話しますと、「なるほどよく解る」 といわれる方が多うございます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ―― 「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。それが、「神ながら」 ということなのでしょう。

 「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

 という 「智慧の言葉」 (『生命の實相』 第22巻 p.10) も、しっかり守ってまいりましょう。


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