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Web誌友会 板/2

3306復興G:2013/11/06(水) 11:58:25 ID:AB6RqYXc

トキ様 皆さま

私が>>3304で申しましたは、テキスト『生命の實相』第6巻23頁からの 「本来罪なし」 のところに書かれていますね。24頁には

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 ……声の節廻しのじょうずへたと、霊魂の進歩すなわち 「実相の開顕」 との間にはなんの関係もないことであります。

 神は祈りの節廻しの上手さに感動してその者の祈りをかなえてくださるものでも、祈りの節廻しが下手だから応えてくださらないのでもありません。神は音楽のじょうずへたによって霊験を左右し給うものではないのです。

 神は「実相」の中にのみいますのですから、「迷い」 を去り、「虚飾」 を去りさえすれば、自然に神が顕われ、すべてが備われる 「実相」 の常楽の状態があらわれて来るのです。これこそ神の霊験というべきものです。

 実相絶対の神を知らず、「祈りの言葉」 でいい加減に言いくるめてやりさえしたら、神から霊験を詐取(さしゅ)することができるというような、不敬な考えを神に対して抱くべきではありません。

 祈りの価値は卑劣な心で、霊顕を乞食のように請願(せが)みとることにあるのではないのです。金光教祖も 「霊験はわが心にあり」 といわれましたが、霊験は心の目がひらいて、神を本当に知り、神と自己との本当の関係を知ったとき、すでにすべてが備われる 「実相」 のなかから、自然にポッカリと現象界に浮び上がって来るものなのです。

 だから、心の目を開いて実相を顕わすことを求めず、現象そのものに霊験御利益をもとめる祈りはすべて、卑怯な、乞食的な、哀願的な、一の功徳をもって百の報いを得ようという虫のよい利己的な、内の下劣を隠して外に言葉を飾り、報いを得んとする偽善的行為となるのであります。だからわれわれが祈るにはまず 「心の目を開いて実相を顕わす祈り」 を第一にしなければならないのです。

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 ――以上はテキスト 『生命の實相』 第6巻の24頁〜25頁からでした。かなり強い言葉でのおさとしですね。

 ありがとうございます。


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