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Web誌友会 板/2

3274復興G:2013/11/01(金) 22:32:51 ID:AB6RqYXc

a hope さま 皆さま

 ありがとうございます。

 私は、明日はある所で谷口雅春先生の 『光明法語』 をテキストにした勉強会をすることになっているので、その 「11月の法語」 を予めよく読んでおこうと、拝読しました。その中で、特に次の箇所で深く感ずるところがあり、考えさせられました。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   十一月三日の法語 神の子の美を讃美せよ

 無いものは否定する必要もない。病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、病気をありと認めて、それに対して戦っていることになる。病気は益々あるかの如くその姿をあらわすのは 「ありと認めて」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

 病気の念を捨てなければならない。吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要らない.、吾らはただ人間が神の子であること、美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を讃美して歌をうたえば好(よ)いだけである。

   十一月十四日の法語 自然の彫刻にまかせよ

 常に自然であれ。そのままであれ。神にまかせよ。力んではならない。自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。我を出したら頭を打つのである。急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。

 雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に吾等の生活の設計も同一なものはない。然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。

   十一月十五日の法語 「声」と「コトバ」

 祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。人と人とは個々に孤立していて、神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。互いに呼び交わす声は、声にとどまり、互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

   十一月十六日の法語 傲(たか)ぶる心を捨てよ

 神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」 と波長を合わせる事をしないからである。自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、「わしが」 「わしが」 の心である。「わし」 と云う力みは、海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

   十一月十七日の法語 吾らは神の生命の枝

 「われは葡萄(ぶどう)の樹(き)、汝らは枝なり」 とイエスは言った。そして又 「われと父とは一体なり」 とも言ったのである。かくて吾らは 「天の父」 の枝なのである。われらの生命は天の父より来(きた)るのである。更に 「枝」 と 「枝」 とは互いに孤立することなしに、葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

 「何人(なんぴと)もわれによらで父に来る者なし」 とイエスが言ったのは、「何人もイエスと同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」 と言い給うたのである。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ありがとうございます。


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