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Web誌友会 板/2
3352
:
復興G
:2013/11/29(金) 19:33:01 ID:AB6RqYXc
>>3349
:a hope さま
ありがとうございます。
さて、「行」 について思うことをもう少し書かせて頂きます。
私の知る限りでは、生長の家で 「行」 を最もひたむきに激しくきびしく実践した人は、榎本恵吾先生ではないかと思っています。
榎本先生は高校生の時、アパートの一室を借りて住んでいた親友のところに一週間、居候をさせてもらって、その間ずっと神想観をつづけたことがあったそうです。焼きおにぎりを7個買ってきて、1日に1個食べ水を飲むだけの食事で、只管神想観を続けていた。友人は登校して帰って見ると、出かける前と同じ姿勢で神想観をしている。それが一週間続いた。友人は、「この男はすごい男だ」 と舌を巻いたそうです。
この話は、恵吾先生の一年祭・追善供養の集いをしたときに、その友人(当時、榎本先生の郷里和歌山県のある町の町長になっていた)から聞いた話です。
高校卒業後、飛田給道場で 「練習生」 (徳久克己総務の許で道場に住み込み、昼間は奉仕しながら夜間大学に通って勉強させてもらう研修生) となって修行された。道場ではもちろん早朝行事(神想観・聖経読誦)から毎日が始まる。そして当時道場で飼っていた鶏の世話をする仕事を与えられ、それも一所懸命されていた。
先輩から、「鶏に愛の心を注いで世話をすれば、卵をたくさん産むようになる」 と言われ、真剣にそうしているつもりなのだけれども、産卵数はいっこうに増えない。それは自分の修行努力が足りないからだと反省し、自分を責めてばかりいた。
そうしているうちに、高校時代の友人からは、「お前は生長の家を知らない時の方がよっぽど明るかった。生長の家をやるようになってから、雰囲気がどんどん暗くなって行った」 といわれたそうです。
「生命の実相を悟りたい、悟りたい。まだだめだ、まだだめだ」 と一所懸命に 「行」 をすればするほど真理から遠ざかるように 「暗く」 なって行ったというのです。
その榎本先生が、ある日聖歌を歌っているとき、フッと 「悟りは明日にしよう」 と思った。「悟りたい」 と思う心を捨てたのです。そしたらパッと 「今、生かされている! そのままでよいのだ!」 という喜びの光が心を満たした。
それから、「行」 は真理を悟る 「ため」 のものではなく、ただ光が光する行となった――と聞きました。
そして、「自然の美しい花などは、神想観をしてから咲いたのではないでしょう。人間も神想観をしてから生まれてきたのではないでしょう。そのまま喜んでいいのですよ。修行をしなければ救われないと思うところには、神が自分を不完全につくった、つくりそこないをしたという不信があることになる。すでに完全につくられていることを喜ぶのが神想観ですよ」 と説かれた。
私は青年時代に先輩講師などから、「神想観をしなければ真理はわからない。神想観をしなければ救われない」 と言われて、疑問を持ち反撥を感じたことがあります。
生長の家はまだ立教後たかだか ○十年だ。谷口雅春先生が現れられ、生長の家が始まるまでの人には、救われる道がなかったのか? 神は、そんな不完全な創造りかたをされたのか?――と。
それで、神想観といえば形のことだとしか受けとっていなかった私は、なにか反撥を感じていました。
a hope さまは、神想観・聖経、聖典の読誦・愛行の三正行を喜んで素直に行じていらっしゃるのは、すばらしいと思います。が、私はやはり、『最低限は 「行」 をきちんとする事』 ということは、“掛け声だけの形式的な 「行」 の勧め” になるおそれがあり、かえって人間を縛ることになり、真理から遠ざかることになる可能性があると危惧します。
「三正行」 も、“……のために” となると、たとえそれが “「人間神の子」を大悟するため” であっても、ちょっとちがうのではないか。すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、という榎本先生のような生き方が本当だと私は思っています。
三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行であることを説くことは必要でしょうが……。
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