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Web誌友会 板/2
3170
:
志恩
:2013/10/15(火) 12:05:58 ID:.QY5jUA6
私は、新編は、
「新編 生命の實相 」第6巻( 生命編 生命円相の真理(中) )まで購入しました。
第7巻も出ましたので、これも購入しようと思っているところです。
新編につきましては、復興G様がおっしゃっておられるように、
山ちゃん1952様、トキ様、訊け様、そして私も、その中に混じりまして、
かって、いろいろと意見を述べ合ったことが
あったのですが、
私は、新編の方も、順次、買い揃えています。
ですが、
私は、昔から頭注版になじんで来たので、ひもとくのは、頭注版の方が多いですけれど。
しかし、復興G様のつぎのコメントは、復興G様のお考えの方が、疑問に思えております。
復興G様ー
>>光明思想社版の 『新編 生命の實相』 は、編成順が 頭注版など、今までの 『生命の實相』
と変わってい て、「實相篇」 が第2巻に収録されています。
これに ついては、 「著作者人格権侵害ではないか」 という疑 問が出ています。>>
私は、文自体を変えてしまった場合は、著作者人格権侵害になると、思いますが、
文の 順序を変えた事が、人格権侵害になるのだろうか?と、疑問に思っております。
これにつきましては、私は、その道の専門家じゃないので、よくわかりません。
3172
:
神の子さん
:2013/10/15(火) 17:09:17 ID:Z6WT6I3k
3159 :復興G様
>>光明思想社版の 『新編 生命の實相』 は、編成順が頭注版など、今までの 『生命の實相』 と変わっていて、「實相篇」 が第2巻に収録されています。これについては、 「著作者人格権侵害ではないか」 という疑問が出ています。 <<
>>『生命の實相』 は愛蔵版も含めて、今までに刊行されたどの版でも、すべて順序は 「總説篇」 の次は 「實相篇」 となっている。それが、光明思想社版では 「總説篇」 の次に 「生命篇」、それから 「實相篇」 と順番が変えられている。これは、たしか 山ちゃん1952様が、すべての版について調べてくださったのだったと思います。だから、それは谷口雅春先生の御意思に反することではないかと、たしか本流の掲示板でも 疑問が出ていたと思います。 <<
ということなのですが、実際のソースがどこにあるか教えていただけないでしょうか?
そうでないと、復興G様が「新編 生命の實相」を売れないように企んでいると誤解してしまいます。
3173
:
3172です
:2013/10/15(火) 17:10:59 ID:Z6WT6I3k
すみません、3171で紹介されていますね。
失礼しました。
3174
:
復興G
:2013/10/15(火) 17:15:25 ID:AB6RqYXc
『文藝春秋』 の11月号に、(困難な局面に立っている) パナソニック新社長インタビューという記事が載っていて、その中で津賀一宏社長がこう言っています。
≪六月末の株主総会では、「創業者が生きていたら嘆かれたでしょう」 という発言がありました。しかし、創業者が生きていたら、嘆くより前に 「じゃ、こうしようか」 と真っ先に行動に移していたと思います。過去の成功にしがみついたり、失敗を憂えたりするのではなく、常に前を向いて改革を進めていたはずです。……≫
と。この 「創業者」 は、もちろん松下幸之助氏です。
また、ある友人はブログにこんな話を書いています。
≪ ある講演会で講師が、机上のコップを手で持つと、コップから水をこぼす仕草をし、こう言った。
このコップに入っている水は、こぼせば 代わりに 空気が入る。
これと同様に コップの水が 「人間我」 だとすると、
これが無くなると 神我(しんが)が入ってくるのである、と。
つまり 利己心、慢心が砕けると、代わりに 「神我」 がとって変わる、ということだ。
それはつまり、人間の生まれ更わりの時なのである≫
と。
私たちもひとりひとりが己を無にして空っぽになって、神我に生まれ変わって――「久遠の今」 に立って、光の前進をして行く時でしょう。
3176
:
志恩
:2013/10/15(火) 19:30:23 ID:.QY5jUA6
復興G様は、
根が正直でいらっしゃいますので、「学ぶ会」が、だいっきらいなので、
すぐに、売らなくてもいい喧嘩を「学ぶ会」に、無意識に売ってしまわれるのです。
悪いくせです。
今、「第7巻の新編生命の實相」が発売になりましたと、
光明掲示板で発表があったばかりのときに、
復興G様ー
>>光明思想社版の 『新編 生命の實相』 は、
編成順が頭注版など、今までの 『生命の實相』 と変わっていて、
「實相篇」 が第2巻に収録されています。これについては、
「著作者人格権侵害ではないか」 という疑問が出ています。 <<
こんなこと、仰ったら、たとえ、過去に「よくやったと思います」と
私は、言ってたんですよ、とおっしゃっても、そのときの言葉は、
帳消しになってしまうのです。
まるで、「新編生命の實相」を否定しているように、聞こえてしまうのです。
将来は、もともとの「生命の實相」も、発売される日が、きっと来ると思いますので、
新編は、新編で、おおらかに見守って差し上げて頂きたいと思っています。
毎度、きついことを、下の者ですのに、上のお方に申し上げて、すみません。
3178
:
復興G
:2013/10/15(火) 20:51:29 ID:AB6RqYXc
「努力」 について。
テキストの92頁〜94頁のところに、次のようにあります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
……ミケランジェロを現代に持ってきたような万能の天才がこの山根八春氏でありまして、「一所懸命に努力をすれば神が自分に入り込んでなんでも上達する」 との信念をもって、今まで努力に努力を重ねて自分の内に宿る神の無限力を開顕してこられたのであります。
「生長の家」 家族になられましてから、外の神が乗りうつるのではなく、努力にしたがって内の神がひらかれてくるのだとお気づきになりました。
日本現代の彫刻家中で最大の読書家であり、彫刻家であると同時に大工であり、指物師(さしものし)であり、左官であり、唐木細工師であり、経師屋(きょうじや)であり、画家であり、天文学、哲学などにも造詣が深いので、人間の能力は、出すようにすればどれだけでも出るとの生長の家の学説の見本をそのままそこに放り出したような人であります。
立仙淳三氏は、まことに山根八春氏の多方面に傑出したる能力を驚嘆して曰(いわ)く、「国勢調査であなたの職業はなんですかと調べに来たら、なんと答えたらよいことでしょうか?」と。満座の人たち山根氏の作品の百数十枚の写真を回覧せられるにしたがってひたすら感嘆して、ただもう言葉が出ないのでありました。
努力の再吟味
この大努力の天才を前にして、「人間には努力が必要か」 という問題が再吟味きれることになりました。
伊東種さんは 「努力なんか要らない。努力などという力みのないところに本当の生命の流れがある」 とおっしゃるのでした。
佐藤彬(あきら)さんは伊東種さんを評して 「努力なんか要らない、要らないといいながら、伊東さんほど努力している人はない」 といわれました。
山根八春さんは、「人は私を天才だといわれますが、わたしには天才はありません。わたしは自分に天才がないということに気づいたから努力しなければならないというので努力に努力を重ねてきました」 といわれました。
伊東さんのおっしゃるところも、山根さんのおっしゃるところもわたしには結局同じように受け取れました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――上記は、とても面白い、と言っては語弊がありますが、なるほど、と思わせて頂きました。
私も、「無我」 になって、空っぽになって、自我の努力でなく 「神我」 にお任せして……と思っているのですが、外から見たら、大変な努力をしている――ということになっているかと思います。
でも、無我夢中で、たのしい努力なんです。
3179
:
トキ
:2013/10/15(火) 21:00:17 ID:whce3742
>>3178
私の友人が、本業の傍ら、絵が趣味で大きなコンテストにも入選されています。この人と
話をしていると、こんな事を述べていました。
『神誌を渡したり、講演会に人を誘うのは立派な伝道であると信じます。が、例えば、生長の家の
信仰をもった人が自分の仕事や特技で能力を発揮し、立派な業績をあげる事も、ある意味では伝道で
はないか、と感じます。それは、真理を仕事や特技で実践し、成功した事例になるので、まだ真理を
知らない人に、生長の家への信頼を高める事になるからです。」
私の周囲にも、真理を学び、仕事や特技で高く評価されている人が多いですが、そういう方々に
話を聞くと、なるほど、と学ぶ点が多いであります。仕事は仕事、信仰は信仰と分けるのではなく
て、仕事と信仰が一体になるのが理想でしょう。復興G様が書かれた部分は実に奥の深い部分であり
ます。
3180
:
復興G
:2013/10/15(火) 21:32:40 ID:AB6RqYXc
>>3179
:トキ様
ありがとうございます。
少し話が変わりますが、
>>3174
でも引用させていただいた、私の友人のブログに、次のようなことも書かれています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
[過去を否定したら自分がなくなってしまいます]
間違った選択で
人生を過(あやま)っても
それも自分の行動の内、
結果に責任をとって
じっくり反省すればいいのです。
「間違った過去を捨てたいですか」
と聞かれれば
私は絶対 “ノー” と答えます。
自己に発するものは全部自己だから、
過去を否定したら
自分がなくなってしまいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――なるほど。
「過去」 という字は、「過(あやま)ちを去る」 と書いてあるけれども、それは 「過去を否定する」 ことではなかったんだ。
過去も、「すべては尊い生長の過程であった」 と拝んで生かすことだ! と思いました。
谷口雅春先生も、悟りを開かれる前に、随分ご苦労をなさったようだけれども、それがすべて無駄な過ちではなく尊いご体験であり、それがあったればこそ、その過去のご体験が人々を導かれる御教えの尊い肥やしになって、たくさんの人々を救われた。人生に無駄は一つもないのである、とご教示くださったことがあるのを思い出しました。
先生が自伝篇に書かれているように、ご自身やご家族がどちらかといえば病気がちでいらっしゃったために、医学や心霊治療法なども研究された、そうして 「物質なし、肉体無し。神のみ実在」 と悟られた結果が、今回のテキストも縦横に説かれているのだ、とありがたく思います。
すべてのこと、無駄はなく、光明ばかりなんですね。
ありがとうございます!
3182
:
マリーゴールド
:2013/10/15(火) 22:47:22 ID:???
復興G様
本流対策室の3869番に、新編「生命の實相」に対して述べさせて戴きました。
3184
:
神の子さん
:2013/10/16(水) 14:12:22 ID:bc9yGlps
復興G様は、ご自分が散々意見を言ってから、これはここの板では関係ないからと他人を排除されますね。
ご自分が「他の板で述べます」と言ってからまず自分が移動すべきではないでしょうか?
生長の家は、来るもの拒まず去るもの追わずの精神ではなかったでしょうか?
それとも自分の意見にそぐわないものは排除する精神に変わったのでしょうか?
3185
:
「訊け」管理人
:2013/10/16(水) 14:16:06 ID:???
関係ないものは、関係ないのです。そして、場所を考えることと「排除すること」とは、違うと思います。
以上です。
拜
3186
:
神の子さん
:2013/10/16(水) 14:33:37 ID:bc9yGlps
他人を動かさず、自分が先に動きなさいよということです。
3194
:
復興G
:2013/10/16(水) 22:15:57 ID:AB6RqYXc
トキ様、お世話をかけました。ありがとうございました。
皆さま、web誌友会のテーマから外れた発言を私が最初にしましたために、お騒がせして申し訳ありませんでした。
<3159・3162・3177>は、削除して頂きました。
それに関係する皆さまのご発言がまだ残っておりましたら、どうぞ各自 削除要請して下さいますよう、お願いいたします。ありがとうございます。
合掌
3196
:
トキ
:2013/10/16(水) 22:44:24 ID:fy0OTQvA
皆様、宜しくお願いをいたします。
管理人が行き届かず、皆様にご迷惑をおかけして、すみませんでした。
合掌 ありがとうございます
3197
:
a hope
:2013/10/16(水) 23:30:52 ID:Zlo2YeaM
>>3156
>>3157
復興Gさま
『新版 人生を支配する先祖供養』 の「古神道の一霊四魂(いちれいしこん)の説」を謹写してくださりありがとうございます。
<<それで、谷口雅春先生のような 「悟りをひらかれた魂(みたま)」 は、四魂一体の 「一霊」 として自由自在に顕幽(けんゆう)両界を往来して、愛他活動をしていらっしゃるのではないかと私は拝察しますが……これは想像です。
本当のことは、わかりません。誰にもわからないのではないでしょうか。>>
霊や魂の存在は確かですが、霊界や天界がどうなっているのかは本当のところは復興Gさまでも良くわからないのですね。
でも、もし雅春先生の魂(みたま)が、今、現象世界に顕在して愛他活動をされているとしたらどんな形でされているのしょうか・・・、なんか、そんなことを想像するのもまたお勉強になるような気がしています。
>>3160
でマリーゴールドさまが、
<<私は新編が字が大きく読みやすいので、頭注板と合わせて拝読しているのです。>>
とおっしゃっていますが、本当にとても読みやすいです。
光明思想社の編集者の方々が、心をこめて編集してくださっているのがわかります。
わたしは、頭注版「生命の實相」を全巻読破した暁には、自分へのご褒美として新編「生命の實相」を購入していきながら、
心あらたに再拝読してきたいと思っているのです。
3199
:
志恩
:2013/10/17(木) 03:46:10 ID:.QY5jUA6
トキ様
3176と、ここの削除をおねがいします。
3200
:
ユタカ
:2013/10/17(木) 05:04:04 ID:R1D4Jmeg
トキさま
復興Gさまの投稿はここWEB誌友会におけるご指導同様、高い見識とプロフェッショナルな視線からの貴重なご意見で、後世に役立つのではないでしょうか?
ユタカは今、覗いてみて削除は勿体無かった、復興Gさまのは「移動」で良かったのではないでしょうか?
これからは、復興Gさまの貴重なご投稿は「保存」という方向で運営していただきたくお願い申しあげます。
3201
:
ユタカ
:2013/10/17(木) 05:09:56 ID:R1D4Jmeg
トキ様、上記の件よろしくご検討ください。
自分で保存したくても、消えてしまっては・・・コピペも不可能で・・・
3203
:
復興G
:2013/10/17(木) 07:39:35 ID:AB6RqYXc
皆さま、おはようございます。ありがとうございます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
聖経「続真理の吟唱」より
〈住吉大神を顕斎殿に迎え奉るための祈り〉
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給え。
吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命。
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の機能。
天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ。
(招神歌四首朗誦の後、次の如く祈る)
龍宮実相世界の本宮にまします住吉大神の御前に谷口雅春(ここへ各人の姓名をとなえる)畏みかしこみ祈り奉る。
大神よ、龍宮の本宮より出御(しゅつぎょ)ましまして、大神の稜威(みいつ)をあらわし給いて、
現(うつ)し此の世の迷いの雲を祓い給いて、宇宙いよいよ清まりて、日本国の聖なる実相を顕現せしめ給え。
天照大御神の大御光(おおみひかり)を岩戸の彼方に幽閉することなく、その大御光をあまねく六合(りくごう)に照り徹(とお)らしめ給え。
すめらみことの身に恙(つつが)なく、憂えなく、その御徳(おんとく)いよいよ冴え輝きて、
此の世の人々悉くその光を仰ぐことを得せしめ給え。
凡そ〝悪〝と見ゆることは、実は〝悪〝が存在するにはあらずして、
天照大御神の御光がいまだ其処にあらわれざるという消極的な姿にてあれば、
天照大御神、天之岩戸より姿をあらわし給うならば、光が必ず闇を消すごとく、
此の世のすべての暗雲と不浄と争いと戦いと混乱と騒擾(そうじょう)とは消え去りて、
あとかたも無く、光あまねく人生の隅々までも射貫ぬきて、
一切の禍と不幸とは此世よりその姿を消し去ること必定なり。
今より後、人類に悲しみなく、嘆きなく、苦しみなく、ただ喜びのみに満たされて、
人生の不幸ことごとく消え失せん。
住吉大神、龍宮実相の本宮より出でまして、尽十方(つくし)の光明遍照(ひむか)の、
竪端(たちばな)の音霊(おと)のひびきにて宇宙を浄化したまう時熟しぬ。
堅端の音のアハギが原とは、〝今此処〝の祓いの事であるのである。
即ち迷いをハギ取り実相の完全さを開顕するための言霊五十音配列の竪(たて)の端(はな)にある
〝アオウエイ!!〝の母音が唱えられる場所のことであるのである。
発声の語尾にアオウエイの音霊(おんれい)をつづけるとき、
宇宙すべての言葉は浄まりて、
一切の災いも、病いも、悲しみも、悩みも悉く雲散霧消(うさんむしょう)して、
住吉大神の御光あらわれ、
一切の〝悪〝と見えるものは消え去り、
すべての妖雲はその姿を消し、
今まで覆われていましたる天照大御神の大御光は白日となって六合(りくごう)に照り渡り、
万物・万生ことごとく、その光を受けて、
暗黒は消え、禍は滅し、病いは癒え、争いはなくなり、
まことに天国浄土を今此処に顕現するのである。
そのゆえに我れ今〝竪端の音霊(おと)〝を大神の光を迎え奉るコトバの力として恭(うやうや)しく唱え奉る。
(朗らかに高音にて次の如く朗吟する)
アー、オー、ウー、エー、イー!!
アー、オー、ウー、エー、イー!!
アー、オー、ウー、エー、イー!!(三回)
(かくて宇宙浄まりて天照大御神輝くことを心に瞑視しながら、〝みすまるの歌〝を次の如く朗誦すること二回)
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり。
天照す御神の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
以上、前に a hope様が >1662 で謹写掲示してくださった 〈住吉大神を顕斎殿に迎え奉るための祈り〉 を転写させていただきました。
ありがとうございます。
3204
:
ユタカ
:2013/10/17(木) 08:19:28 ID:R1D4Jmeg
素晴らしいな!復興Gさま!a hope様の続真吟を貼って下さって有難うございます。元気モリモリ!さわやかな朝になりました!
今日も神の子として元気に活躍してまいりま〜〜す!
皆さんもご活躍ください。 行ってきまぁ〜〜す!
3205
:
トキ
:2013/10/17(木) 09:55:24 ID:7C3dP3iM
>>3201
ご投稿、ありがとうございました。
今後、気をつけます。なお、今回の復興様のご投稿については、
復活は可能です。復興G様御自身のご希望があれば、他の掲示版に
投稿する事は可能であります。
よろしくお願いいたします。
合掌 ありがとうございます
3208
:
ユタカ
:2013/10/17(木) 19:44:45 ID:R1D4Jmeg
トキさま
復興Gさまの投稿は全部とっておいて下さい。 いつか絶対必要になると思いますので。
よろしくお願いします。
3209
:
復興G
:2013/10/20(日) 16:36:44 ID:AB6RqYXc
さて、しばらくお休みしましたが、もう一度テキストを最初から読み返してみましょう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『生命の實相』 第5巻
は し が き
聖書にあらわれた奇跡の記述において、もっともいちじるしき部分は 『使徒行伝』 であると言わねばならない。しかもそれはキリスト自身の奇跡ではなく、キリストが 「われを信ずる者はわれより大なる業(わざ)を成さん」 と予告したごとく、イエスの弟子たちに起こったところの、常識では判断しがたいような、多くの驚歎すべき奇跡の連続が記載されているのである。しかも、それが二千年前の過去においてではなく、今現実にこの奇跡を諸君自身において起こしうるとしたならば、過去の奇跡を聖書において求むるよりも、まず現代において、現実にそれを手近に求めて、その奇跡の力をわがものとなすべきではないでしょうか。
本書は民間のいろいろの治療法に言及し、いっさいの医療はもちろん、民間療法の門をくぐってなお癒えなかった人々が、ひとたび心をあらためて 「空手(くうしゅ)の生活」 にはいり忽然(こつねん)として長期間の難症より快癒した実例を本人の体験を通じて述べつつ、その快癒する心境の叙述により、その過程を自己の心的体験となし、自然に読む人の信念が高まり、「なるほど、ここだ!」 と、悟りの「コツ」とも言うべきものに悟入するように書かれているのである。
この頭注版 『生命の實相』 全集の第一巻より第四巻に至るまでにおいて、あるいは哲学的、あるいは心理学的に、あるいは宗教的に述べ来(きた)った 「人間本来完全円満」 の真理が、この第五巻においては体験的な真理の体得となって果を結ぶように編纂されているのである。
特に第七章においては、キリスト教および仏教――特に曹洞宗、真言宗、浄土宗、日蓮宗、天理教、金光教等が、その説かれている神髄がいずれも 「同一真理」 であり、教義の外観にとらわれないで、その同じき 「一つの真理」 を把握するとき、万教はただ一つの真理に帰一すること、しかも、それがただの総合や、各宗派の寄せ集めて最大公約数にしたというようなものではなく、「生ける救済の真理」 の把握であることが、この真理を生活に実践して、奇跡的な生活改善の効果をあげえた人々の事実によって証明されているのである。
治病の奇跡的な出来事は、その生活改善的効果のわずかに一部分にすぎないのである。わたしはすべての人類がこの宗派を超越して、すべての宗教に内在する唯一の共通的真理に触れられ、世界の万教が仲よく手をつなぐ時期の来るであろうことを待ちのぞむとともに、本書に掲げられたような無数の奇跡とも見えるごとき生活改善の実をあげられるよう希望するものである。
天国はこの普遍の唯一真理をわがものとする人の掌中にあるのである。
昭和三十七年八月二十日
著 者 し る す
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
<つづく>
3210
:
復興G
:2013/10/20(日) 16:39:41 ID:AB6RqYXc
<つづき>
以上の 「はしがき」 の後半の方に、「生ける救済の真理」 というお言葉が出てまいります。
「生ける救済の真理」 とは、何でしょうか。
そもそも、宗教の目的とは、人間の救済、「救い」 にあるということができると思います。では、その宗教的な 「救い」 とは、いったい何でしょうか。
病気が治ることでしょうか。金が儲かることでしょうか。自己や災害から守られることでしょうか。
それらも、一時的な救いにはなるでしょう。
しかし、そんなことは一時的な、影としてのあぶくのような救済であって、やがてみんな死んで行くのだとすれば、根本的な救いにならないことは明白だと思います。
宗教的な意味に於ける根本的な救いとは、
≪人間は環境の奴隷となっている、「死すべきもの」 である肉体人間の自覚から、環境の主人公である 「真の人間」 に生まれ変わって、自由自在を得ること。「神の子」 「至上者」 の自覚を得て、真生命が解放されること。≫
と言えるのではないでしょうか。
つまり、「神の国はわが内にあり」
「人間は神より出でたる光なり」
と知ること。
「自分の内にすべてがある。私は太陽である。世を照らす光として生まれた者である」 と自覚することであると思います。
今夜は、これからリアルの誌友会に出かけます。
また明日以後に書かせて頂きましょう。
3211
:
a hope
:2013/10/21(月) 00:14:10 ID:Zlo2YeaM
復興Gさま みなさま こんばんは。
わたしは今、聖典「生命の實相」40巻読破に向けて、時間さえあれば「生命の實相」を拝読しています。
ちなみに、現在、第26巻の教育実践編を拝読中です。
>>3210
で復興Gさまがおっしゃるている
<< 宗教的な意味に於ける根本的な救いとは、
≪人間は環境の奴隷となっている、「死すべきもの」 である肉体人間の自覚から、環境の主人公である 「真の人間」 に生まれ変わって、自由自在を得ること。「神の子」 「至上者」 の自覚を得て、真生命が解放されること。≫
と言えるのではないでしょうか。つまり、「神の国はわが内にあり」「人間は神より出でたる光なり」と知ること。
「自分の内にすべてがある。私は太陽である。世を照らす光として生まれた者である」 と自覚することであると思います。>>
この内容は「生命の實相」全巻を通して、色々な角度から、様々な体験談を通して、言葉を変えながら何度も説かれている「生長の家」の中心真理なのだと思います。
そして、このすばらしい自覚(悟り)は、聖典「生命の實相」を繰り返し拝読するだけでおのずと得られると書かれているのです。
実際に、今のような教団組織も練成会も総裁の講習会もなかった昔は、「生命の實相」の真理の言葉の一部を読むだけで、
病気が治ったり、運命が好転するような奇蹟が頻繁に起きていて、それにより真理に目覚め救われる人が続出していたのですものね。
そんなことから考えると、今の「生長の家」で昔のような奇蹟が起きなくなって、人々が救われなくなっているのは、
余計なことを学びすぎたり、現象の運動にこだわりすぎているからなのではないのでしょうか・・・?
「生命の實相」こそまことの聖典で「生長の家」の神殿なのですから、本当に真理を悟り救われたかったら、
余計なことはしないで、聖典「生命の實相」だけ拝読していればいいのではないかと感じています。
3212
:
ユタカ
:2013/10/21(月) 09:11:33 ID:R1D4Jmeg
おはようございます。ユタカは今日は3週間ぶりに自分の時間が持て、>3209〜3211をゆっくり読むことができて幸せな気持ちになりました。
復興G様が一人ひとりが現象を超えて太陽のように輝く人生を創造、発展していけることの喜びを毎回ご解説下さり、a hopeさまが、講習会等の体制の整備がなされていない時代などは、直接谷口雅春先生のご文章から学んでいけていたとのことに勇気を頂きました。
『生長の家』の御教えは「完成されている」と思いますので、a hopeさまの仰る事よく理解できます、私達は、仕事、家庭、地域などを通して「生長の家」を生きるという事が大切なことなのではないかと、みなさんとお勉強をするうちに分かってきました。
ですから、今は大衆に溶け込むこともとても大切で、また七つの燈台の神示も非常に重要で人生の根本と思います。
で、今日は久しぶりにうなぎやさんで両親孝行してまいります。。。^^
先の素晴らしい投稿に圧倒されてユタカの投稿は気がひけてしまいますが・・・
P、118 L3
「聖典『生命の実相』を注文して聖典が到達すると同時に、不思議に病気が軽快した例は沢山あります。これは本人の潜在意識が本の内容を読んで真理を知ったというよりも、
聖典『生命の実相』を護持している霊界の諸神諸霊がある。
その霊界の諸神諸霊たちが、危険の瞬間、霊界から守護の手をくだして聖典の所持者をその危害から救ったのだと思われます。
以上の箇所に『生命の実相』の聖典が本当に『神殿』である事の一部をご紹介下さっています。
ますますWEB誌友会の素晴らしさがよく分かります。トキさま、復興Gさま、ご参加のみなさまにさらに感謝いたします。
3213
:
復興G
:2013/10/21(月) 11:14:34 ID:AB6RqYXc
a hope さま、ユタカさま、ご投稿ありがとうございます。
>>3211
:a hopeさま
>>実際に、今のような教団組織も練成会も総裁の講習会もなかった昔は、「生命の實相」の真理の言葉の一部を読むだけで、病気が治ったり、運命が好転するような奇蹟が頻繁に起きていて、それにより真理に目覚め救われる人が続出していたのですものね。
そんなことから考えると、今の「生長の家」で昔のような奇蹟が起きなくなって、人々が救われなくなっているのは、余計なことを学びすぎたり、現象の運動にこだわりすぎているからなのではないのでしょうか・・・? <<
――その通りだと思います。それは
>>3212
:ユタカさま
>>「聖典『生命の実相』を注文して聖典が到達すると同時に、不思議に病気が軽快した例は沢山あります。これは本人の潜在意識が本の内容を読んで真理を知ったというよりも、聖典『生命の実相』を護持している霊界の諸神諸霊がある。その霊界の諸神諸霊たちが、危険の瞬間、霊界から守護の手をくだして聖典の所持者をその危害から救ったのだと思われます。(p.118)<<
によっても明らかで、人々が救われるのは、必ずしも現象界の教団によってではない。「真理」 により、また霊界の諸神諸霊の守護の手によって救われるのですね。
それで病気が治ったり、運命が好転するような奇蹟が頻繁に起きて、そこから 「神の子・人間」 の根本真理に目覚めて救われる人も続出したのですね。
昨夜 私はリアルの誌友会に出講で、会場リーダーからの注文が、「日時計主義の生活」 というテーマで話してほしいということでした。幸いにして、使用するテキストは一任ということでしたから、私はためらわず 『生命の實相』 第7巻の 「生活篇」 を使いました。
第7巻 「生活篇」 は、読むにつれ、命が燃えてきます。やる気に火がつきます。「生きていてよかった!」 と、ますます勇気と希望がわいてきます。
谷口雅宣総裁の 『日時計主義とは何か?』 という本もあります。しかし、これを読み始めると、屁理屈ばかりなのにうんざりし、やる気を失ってしまうことの方が多いです。これをテキストに使うと、誰も乗ってきません。なぜでしょうね。
これから出かける用がありますので、また夕方以後に投稿をしたいと思います。ありがとうございます。
3214
:
トキ
:2013/10/21(月) 19:07:40 ID:3mgcm06U
偶然ですが、ある教区の信徒さんから、近所の人が神経系統の病気で悩んでいるので、
何とか救ってあげたいが、どうしたらいいでしょうか? という相談がありました。
状況が深刻なので、早く返事が欲しい、また、いい本があったら送って欲しい、という
内容でした。
その教区にも、教化部があるのですが、どうも環境保護のお話ばかりで、個人救済は
してくれないみたいです。思案していると、生長の家宇治別格本山の体験談集『宝蔵」
が目についたので、バックナンバーをまとめて宅急便で送りました。すると、数日後、
体験談集と『生命の実相」を何冊か一緒に進呈すると、その近所の人の病気が快癒した
というので、本日、その信徒さんが地元の名産を一山送って下さりました。
生命の実相は、今も救済に大いなる力を発揮すると痛感した次第でありました。
3216
:
復興G
:2013/10/21(月) 20:33:20 ID:AB6RqYXc
>>3213
のつづきです。
私は、考えます。
宗教の目的は、人間の救済、「救い」 にある。
では、人間の救済、「救い」 とは何か。
それは、「幸福」 を与えることである。
では、「幸福」 とは何か。
幸福論と言えば、西洋の古典ではカール・ヒルティの 『幸福論』、アランの 『幸福論』 などが有名で、私も学生時代(約60年前)に読んで今も持っています。
谷口雅春先生も 『幸福の哲学』 『幸福の原理』 『幸福生活論』 といった本も書かれていますし、『生命の實相』 第7巻生活篇の冒頭にも
<<われわれは人間として生まれて来た以上、幸福に暮したい。これは人間として、本能的にもっている欲望である。しかし人生はそんなに幸福な人ばかりで充たされていない。それはどうしたわけであろうか。その一つは彼らが「心の法則」を知らないこと、その二つは幸福とはなんぞやということを知らないからである。
……(中略)人間は金があっても必ずしも幸福にはなれないが、心をこの生き方にしたがわすとき、ひとりでに幸福になれるのだ。>>
と書かれています。
比較的最近に面白いと思ったのは、2005年2月28日付けの “TIME” 誌が “THE SCIENCE OF HAPPINESS” (幸福の科学<心理学>)というのを特集している記事です。それは雅宣先生の 『日時計主義とは何か?』 の101頁にちょっと紹介されており、私はその “TIME” 誌を買って持っていました。
そこでは、世界の著名な心理学者たちがメキシコに集まって 「人間は何をもって幸福を感じるか」 についての調査結果などを発表し合った結果が17頁にわたってレポートされているのですが、集約すると、幸福の条件は金でもなければ健康でもない。持続的な幸福感は、明るい感謝の心や宗教心から得られる、という結論になっています。
要するに、幸福は外的条件によって得られるのではなく、人の心にある、ということだと思います。
幸福は、外にはない。内にある。感謝の心にある。
このことに気が付かせ、大安心の心に導くのが宗教的救済であり、その救済をもたらすのが宗教の第一の根本的役割であろうと思うのです。
さて、生長の家は今、その第一の根本的役割である宗教的救済を人々に与えているか。
人間を、本来の 「神の子」 と見ず、自然環境を破壊する悪者の肉体的人間を見て、「人間至上主義はいけない」 「CO2排出を削減しなければ人間は救われない」 として環境問題にばかり力をそそぎ、宗教としての第一の根本的役割である 「人間救済」 をおろそかにしてきたのではないか。
だから、信徒がどんどん離れて行って、教勢がどんどん落ちているのではないか――。
3217
:
復興G
:2013/10/21(月) 20:36:05 ID:AB6RqYXc
>>3214
:トキ様
ありがとうございます。本当に、そうですね。
3218
:
復興G
:2013/10/21(月) 20:58:17 ID:AB6RqYXc
ところで皆さま、このweb誌友会のテキストですが、今月は 『生命の實相』 の第5巻前半ということでやってきました。しかし、a hope様は全40巻読破に向けて、時間さえあれば「生命の實相」を拝読し現在、第26巻の教育実践編を拝読中ということですし、ユタカさまが引用されたp.118も第4章で第5巻の後半に入っています。それで、もう 「前半」 という枠をはずし、今月は第5巻全部ということにして、今後毎月1巻ずつ勉強することにしたらどうかと思います。いかがでしょうか。
3219
:
トキ
:2013/10/21(月) 21:01:45 ID:3mgcm06U
>>3218
私は賛成いたします。今後ともご指導のほど、お願いいたいます。
3220
:
ユタカ
:2013/10/21(月) 21:11:13 ID:R1D4Jmeg
さて、生長の家は今、その第一の根本的役割である宗教的救済を人々に与えているか。
人間を、本来の 「神の子」 と見ず、自然環境を破壊する悪者の肉体的人間を見て、「人間至上主義はいけない」 「CO2排出を削減しなければ人間は救われない」 として環境問題にばかり力をそそぎ、宗教としての第一の根本的役割である 「人間救済」 をおろそかにしてきたのではないか。
だから、信徒がどんどん離れて行って、教勢がどんどん落ちているのではないか――。
全くそのとおりーーー!!!だと思います。
しかしだからこそ、真剣に勉強できるし、本当は100年後にこういうことが起きて収集がつかなくなると言うことが起こるかも知れないところをいち早く分裂沙汰が起きたのも何かの救いかも知れません。まだ、開祖先生をご存知の方が沢山いる時代だから素晴らしいです。 やる気の出ない駄本も使命を果たしているのではないでしょうか??
雅宣総裁が亡くなったら、さらに素晴らしい生長の家が出てくるような気がします。総裁先生の没後の話で申し訳ありませんが・・・
3221
:
ユタカ
:2013/10/21(月) 21:13:35 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま
>>3219 賛成でーーーす。。。
いつも素晴らしいアイデアをありがとうございます!
3222
:
トキ
:2013/10/21(月) 21:18:24 ID:3mgcm06U
>>3216
少し前にある教区の講習会に参加したところ、青年会時代の友人に久しぶりに会いました。講習会が終わってから、
近くに喫茶店に入って、少し話しをしました。
彼女は、青年会時代、光明実践委員の資格をとり活躍していたのですが、結婚、出産、子育てと他府県への転居が
重なり、しばらく活動を休んでいたそうです。最近、子供が手がかからなくなったので、ご主人の許可を得て、活動
を再開、地方講師の資格も得て活動をしているそうです。(光明実践委員の資格は、ある一定の年齢で消滅します。)
その彼女が、地方講師の受験前に注意されたのが、光明実践委員の受験の時と同じ内容の答案を書くと、今は不合格
になるから気をつけるように、との事でした。具体的に言えば、環境問題は外せない、教えの内容も谷口雅春先生の本
ではなくて、谷口雅宣先生の説き方で、理屈で説くようにと言われたそうです。講師補は、まだ、その程度で合格した
が、昇格試験は、総裁の本を舐めるように読まないと合格しないと言われているみたいです。
『講師補の試験でも、昔の知識で書くと、記述式はもちろん、選択式の部分でも間違えるわよ。」
とも言っていました。ちょっと驚きましたし、寂しい気持ちになりました。
おまけに、お互いの教区の様子を話すと、『信徒さんがどんどん減少している」という事では共通で、これも
思案してしまいました。
どうも、話がずれてすみませんでした。
3223
:
ユタカ
:2013/10/21(月) 22:11:26 ID:R1D4Jmeg
信徒が減るのは高齢者が亡くなるからでは?
自分の支部に人が沢山来るように自分をみがきましょう。
総裁のせいではなく自分のカリスマが足りないと思ってさらに「神の子」を輝かせていきましょう、それしかない。。。気がする。。。
そういうと安東巌先生の言葉を思い出します。「雅宣先生は素晴らしい!講習会はすばらしいから人を沢山動員してください。動員できない人は自分に魅力がないのですから愛行をして下さい、そうすると講習会終了後に願いがかないます」と雅宣先生講習会を大絶賛していました、講習会推進の支部長宅訪問時のお話でしたね。
3224
:
復興G
:2013/10/21(月) 22:47:10 ID:AB6RqYXc
>>3220
:ユタカさま
>>しかしだからこそ、真剣に勉強できるし、本当は100年後にこういうことが起きて収集がつかなくなると言うことが起こるかも知れないところをいち早く分裂沙汰が起きたのも何かの救いかも知れません。まだ、開祖先生をご存知の方が沢山いる時代だから素晴らしいです。 やる気の出ない駄本も使命を果たしているのではないでしょうか??<<
>>3223
>>自分の支部に人が沢山来るように自分をみがきましょう。
総裁のせいではなく自分のカリスマが足りないと思ってさらに「神の子」を輝かせていきましょう、それしかない。。。気がする。。。<<
――えらい!
素晴らしい光明思想。一切者の自覚。
3225
:
復興G
:2013/10/21(月) 23:21:33 ID:AENtSm/U
私は、昨夜の誌友会で、『生命の實相』 第7巻の
(p.29) 「四、ひとの生命の実相を礼拝せよ」
に関して、次のように話していました。
実相礼拝の生活のヒントは――
◎ 「○○の実相」 (「夫の実相(または妻の実相)」) を拝むのではなく、
「実相の○○」 (「実相の夫(または実相の妻)」 を拝む ことです。
――まず現象の夫(妻)を見てから、その奥にある実相を観るなんて考えるから、だめなんだ。
まず先に神につくられたままの完全な夫(妻)を心に思い描き、それのみが実在で、現象に見える姿は夢まぼろし、絵空事だと否定するんです。
なぜなら、「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし。神は実在のすべてを蔽う。存在するものにして神によって造られざるものなし。」
であり、
「すべて真実の実在は、神と神より出でたる物のみなり。神は完全にして、神の作りたまいしすべての物も完全なり。」(聖経『甘露の法雨』)
――ですから。
そしてまた、
「総裁の実相を拝む」 なんて考えたら、だめ。
「実相の総裁」 を思うのです。
「実相の総裁」 というのは、神界にある生長の家本部にいます生長の家大神、住吉大神そのものでいらっしゃいます。
その生長の家大神は、外に在(いま)すのではなくて、わが内にいます。
その、わが内にいます生長の家大神なる総裁を、拝むのですね。
ありがとうございます!
3226
:
復興G
:2013/10/21(月) 23:29:20 ID:AB6RqYXc
「悪」 という積極的存在が 「ある」 のではない。
悪と見えるものは、「善」 が顕れ出ようとする過程なんですね。そう見るのが光明思想であり、生長の家の御教えなんですね。
3227
:
復興G
:2013/10/21(月) 23:36:58 ID:AB6RqYXc
ありがとうございます!
3228
:
ユタカ
:2013/10/22(火) 04:28:19 ID:R1D4Jmeg
ああ、そうでした!!
ありがとうございます!!
素晴らしい! 今此処実相か! 「善」の現れる過程ですか!
よく分かります!全部! ありがとうございます!
3229
:
ユタカ
:2013/10/22(火) 04:37:35 ID:R1D4Jmeg
我が内にいる総裁が分かりません・・・
3230
:
ユタカ
:2013/10/22(火) 04:38:51 ID:R1D4Jmeg
すべて自分の内にある?
3231
:
ユタカ
:2013/10/22(火) 07:27:21 ID:R1D4Jmeg
神様と自分だけではダメなのですか?
総裁も我が内にある ということはどういうことでしょうか?
3232
:
神の子さん
:2013/10/22(火) 08:27:22 ID:Z0r.fvXk
>>3223
安東先生って、そんなつまらないことおっしゃったなんて信じられないです。
まさのぶさんが、素晴らしいのではなく、教えが素晴らしいんでしょ?
結局は、まさのぶさんに魅力がないから信徒も魅力がなくなるんですよ。
3233
:
a hope
:2013/10/22(火) 09:24:42 ID:Zlo2YeaM
ユタカさま、神の子さん、よこぎりまして申し訳ありません。
>>3218
復興Gさま
<<今月は第5巻全部ということにして、今後毎月1巻ずつ勉強することにしたらどうかと思います。いかがでしょうか。>>
賛成させていただきます。
「生命の實相」は全巻を通して、何度も同じ真理が、言葉や表現を変えて説かれていると思いますので、
できれば範囲は全40巻からということにしていただきたいくらいですが、それでは広範囲すぎますので、
毎月1巻ということに範囲を決めておいても、実際はそれほどこだわらなくてもいいのではないかと思いました。
たとえば、今月の範囲の第5巻第5章の『「ねばならぬ」を解放する宗教』では、小見出しに、
「生長の家とは何であるか」「宗教本来の使命」「各宗門は家に入る通路」「生長の家とは何か」・・・
とあるように、宗教や生長の家の使命に関した内容が論理的に述べられています。
そして、現在、わたしが拝読中の第26巻第4章『宗教教育をいかに施すか』の中の内容は、
谷口雅春先生が、校長先生や社会評論家などを交えて座談会形式で「宗教とはいったいどういうものか」を話し合われています。
わたしは今まで自分の読書に関してはこだわりがありまして、「生命の實相」のような続き物(?)は、
第1巻から順番に自分が納得できるまで読み込む形で読破していかないと気持ちが落ち着かなかったのです。
ですが、「生命の實相」に関しては、結局、同じ「真理」が形を変えて何度も説かれているということがわかってきました。
だから、拝読していて少しくらい意味の通じないところがあっても、どんどん読み進んでいってかまわないということにやっと気が付きました。
ですから、わたし自身は全巻読破に向けて、これからはどんどん拝読を進めていかせていただきますが、
その中で、このweb誌友会の話題に外れない内容に関しましては質問・問題提起などさせていただきたいと思っています。
復興Gさま、トキさま、ユタカさま、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
3234
:
復興G
:2013/10/22(火) 11:50:09 ID:AB6RqYXc
>>3229
〜
>>3231
ユタカさま
>>我が内にいる総裁が分かりません・・・
すべて自分の内にある?
神様と自分だけではダメなのですか?
総裁も我が内にある ということはどういうことでしょうか?<<
――お返事が遅くなって、すみません。
「総裁も我が内にある」
と言った時、私は
「生長の家大神なる(実相の)総裁が、わが内にある」
ということしか考えていませんでした。
現象の、不完全と見える総裁は、夢まぼろしのごとく、本来無い。時間も空間も本来無いのですから、時空間の中に現れて見える姿は、みんな影であって本来無い。
時空超脱の 「久遠の今」、「時空間はわが内にあり」 というところに立てば、「すべてはわが内にあり」 となる。
――それは、観念的にそうなるのですが、もう少し具体的に考えると――
現象の、不完全と見える総裁は、私たちの現在の心境に於いて、必要な姿として使命を果たして下さっている、と私は考えます。
それは、
>>3220
でユタカさまが
>>だからこそ、真剣に勉強できるし、本当は100年後にこういうことが起きて収集がつかなくなると言うことが起こるかも知れないところをいち早く分裂沙汰が起きたのも何かの救いかも知れません。まだ、開祖先生をご存知の方が沢山いる時代だから素晴らしいです。やる気の出ない駄本も使命を果たしているのではないでしょうか??<<
と書いて下さったような使命を果たして下さっていると思います。
本当に、雅宣総裁と教団が今のような状態で、分裂沙汰が起きてきたからこそ、私たちはこうして真剣に 『生命の實相』 を学ぶようになれたのですからね。
本当にありがたいことだと思いますが、いかがでしょうか。
3235
:
復興G
:2013/10/22(火) 12:00:50 ID:AB6RqYXc
雅宣総裁は、今の現象から見ると、「ワンダー・フル」 (不可解なことがいっぱい) な総裁です。
しかし、もっと長ーーーい目で見たら、本当に 「ワンダフルな」 (素晴らしい) 総裁なのかも知れませんよ。
信徒一人一人が本当に 「神の子」 の自覚に目覚めるために。
3236
:
復興G
:2013/10/22(火) 12:10:14 ID:AB6RqYXc
トキ様、a hope様、テキストの件についてご賛同ありがとうございました。
では、今後とも どうぞよろしくお願いいたします。
合掌 ありがとうございます。
3238
:
ユタカ
:2013/10/22(火) 23:16:48 ID:/B6zFSOc
復興Gさま
分かりました、私「総裁」と言う文字に拒絶アレルギーがあるのかも知れませんね、どうもすみません。。。
神の子さま
安東先生は講習会の動員の手段は数・数・数を追っていました。 「とにかく誘え! 雅宣先生は素晴らしい!!」って大絶賛していました。
有名でしょ、こんな話。 それで講習会に人数は上がるけど、午後から会場はガ〜ラ〜〜ンとしらけ切ったムード満載です。。。
講習会の無い年は一般の有名人を呼んでいたので、会場は午後の最後の時間まで満杯!!
総裁、ミジメ〜〜〜! 総裁はしらないでしょ、こんな現実。。。 金魚の糞のようにくっついているオッサンの誰かが教えてあげれば親切だと思うよ。
3239
:
ユタカ
:2013/10/23(水) 06:24:29 ID:R1D4Jmeg
自分が「生長の家 総裁」なんだ!
と思って日々の伝道を行うというのではどうでしょう??
うん! これ、いいかも!!
復興Gさま、これって神の子自覚になりますか??
おかしい??
3240
:
復興G
:2013/10/23(水) 10:07:49 ID:AB6RqYXc
ユタカさん、またお返事遅くなりました。
>> 私 「総裁」 と言う文字に拒絶アレルギーがあるのかも知れませんね <<
いや、私も実は、それ、ありますね。
「総裁」 といえば 「雅宣総裁」 が浮かんでしまう。そうすると 「私の中に生長の家総裁がある」 とは素直にすぐ思えないものがあります。
それで、
「生長の家大神なる(実相の)総裁が、わが内にある」
と、現象の世界を去って実相(久遠の今)の方から思い直したんです。
そうして、「実相独在」 「実相・現象 渾然一体」 と祈る。
そんなことをやっています。
>>自分が 「生長の家 総裁」 なんだ!
と思って日々の伝道を行うというのではどうでしょう??
うん! これ、いいかも!!
復興Gさま、これって神の子自覚になりますか?? <<
――そういう気持で日々の伝道を行うというのは、素晴らしいことだと、私は思いますね。信徒がみんなそういう気持で伝道すれば、すごい、素晴らしいことになると思われます。
私は、まだそういう気持にまでなっていませんでした。
神の子の自覚が、足りませんでした。
あらためて、思い直します。
3241
:
復興G
:2013/10/23(水) 11:27:58 ID:AB6RqYXc
谷口清超先生のご著書 『愛と祈りを実現するには』 に、次のような素晴らしいご文章があります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
愛は生きている (p.256〜 )
断乎として立ち上り、良心の命ずるままに従え。神示に従え──如何に困難であろうともそれに従え。立ち上った時、かならず道は開けてくるのである。
壁に向かって突き進む時、壁は汝のために扉を開き、その彼方に楽園があるのだ。花咲き、鳥歌い、甘露の泉がわく所がある。吾々はそれに到ることが出来る。ただ愛を実行する勇気を示すことによってのみそれが出来る。
「宗教時報」 の何月号かに二人の闇の女(注・売春婦)が更生をちかった投書がのせてあった。彼女らは電車の中で一人の美しい婦人が、ボロボロの服をまとった老婦人をいたわりはげましている会話をきいたのである。美しい婦人は、醜い婦人の生活苦の話をきいて、それをなぐさめ、はげまし明るい希望を与え、そうして最後に、千円札を彼女の荷物の中にそっと落してやったのである。貧しい婦人は、乗り換えの駅で、美しい婦人に両手を合せ、土下座して、泪(なみだ)を流して、伏し拝んで礼を言ったのである。闇の女は、この光景をみて、それ以来郷里にかえって正業にかえる決心をしたという投書である。
諸君はこれを何でもない事だというであろうか。行きずりの 「愛」 の行為が少なくとも三人の女を救うということは、神に於いて偉大なる行為ではあるまいか。百千の議論を討わし、如何に立派な頭脳をもち金をもち合せていても、それを批判と不決断と下劣な欲望とに浪費する者は、よく反省しなければならない。諸君よ、「愛」 は生きている。生きているが故に愛は人間に生命を吹き込むのである。
人間が幸福となる喜び (p.341〜 )
吾々は他の喜びを吾が歓びとするのである。ひとが幸福であることが此の上なく喜ばしく感ぜられる。吾が喜びのために、ひとの喜びを犠牲にするのではなく、彼女が幸福であることが吾が歓びであり、彼の成功が吾がことのごとく喜ばしいのである。
「生長の家」 の御教えが全国に伝えられるのは限りもなく喜ばしい事であるが、それは人々がこの御教えによって幸福になることがわかり切っているから喜ばしいのであって、教団が拡張するのが喜ばしいのでもなければ、同士がふえるのが楽しいのでもないのである。人間が真に幸福であること以外に吾々の喜びはない。
「生長の家」 という名前が地上から消滅しても、生長の家の説く 「人間神の子、不幸なし」 の御教えは不滅であるから人類は幸福であり、その人類の幸福が、又同時に吾々の幸福なのである。若しかりに、教団の組織が、麻の如くみだれたとしても、吾々はそれによって人間神の子の真理がくもらされるとは思わないし、吾々が完全円満である神の子であることに狂いが来るとも信じない。何事もないのである。畢竟 「吾が国は此の世の国にあらず」 である。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
以上は谷口清超先生著 『愛と祈りを実現するには』 (昭和27年2月、日本がまだ戦後、占領下にあった時に初版が発行されたもの)からでした。
今日の私たちのために書かれたご文章のようです。
ありがとうございます。
3242
:
ユタカ
:2013/10/23(水) 22:29:08 ID:R1D4Jmeg
以上は谷口清超先生著 『愛と祈りを実現するには』 (昭和27年2月、日本がまだ戦後、占領下にあった時に初版が発行されたもの)からでした。
今日の私たちのために書かれたご文章のようです。
ありがとうございます。
本当に!! 自分のために書かれた文章だと思いました。
このようなご文章を見つけて長文を謹写くださり、復興Gさま、本当にありがとうございます。
それにしても、次から次へと総裁は課題をくれますね。。。
3243
:
ユタカ
:2013/10/23(水) 22:31:16 ID:R1D4Jmeg
> 雅宣総裁は、今の現象から見ると、「ワンダー・フル」 (不可解なことがいっぱい) な総裁です。
しかし、もっと長ーーーい目で見たら、本当に 「ワンダフルな」 (素晴らしい) 総裁なのかも知れませんよ。
信徒一人一人が本当に 「神の子」 の自覚に目覚めるために。
これが、真実なのだと思います。 それにしても、明るくて楽しい表現ですね! 復興Gさま! 面白くて楽しくなってしまいます!!
3244
:
復興G
:2013/10/23(水) 22:59:29 ID:AB6RqYXc
>>3242
・
>>3243
ユタカさん
メッセージを受けとってくれて、ありがとう!!
3245
:
ユタカ
:2013/10/23(水) 23:26:59 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま
復興Gさまのいつもの素晴らしいメッセージは、ここに書いている人もいない人もみんな(万人)が受け取っていると思います。
ユタカは返事を書いていない時も、(読むたびに)感謝しています。 どんどん進んでいく速度に間に合わずに、返事の抜けが多くて、申し訳ありません。
3247
:
トキ
:2013/10/28(月) 00:17:57 ID:Ra1M0mRc
>>3241
復興G様が極めて貴重なご文章を投稿されたので、再度、注目してもらうために
書きます。
谷口清超先生は、個人的にはかなり組織の充実に力を入れた方だという印象を
持っていました。これは、職員さんの待遇も悪く、苦労された人も多かったとも聞いて
います。私が新米の頃に徳久克巳先生に聞いたところでは、理事(その頃は参議はなか
ったと思います)でも給料が安かったと聞いています。そのため、運動を発展させる
ために、組織の充実に力を入れられたと思います。
ただ、谷口清超先生御自身は、そんな無茶な運動の展開はご希望ではなかったと
思っています。それは、講習会の前の特別幹部会で、当時の百万運動について、青年会
の執行委員長に『結婚資金までつぎ込んでいる人がいると聞いていますが、そんな無理
はしないように」とご指導をされ、数字を減らすようにと言われているからです。
しかし、そういう先生のお心を知らずに、無理を言う幹部はいました。組織が拡大した
のは嬉しい事ですが、やはり無理がなされ、それが積もり積もって、今回のような事の
遠因になったと感じます。
一連の騒動で、信徒さんの中には、かなり恥ずかしく感じ、組織は勿論、信仰にまで
動揺を感じている人がいると思いますが、このご文章を読んで下されば、信仰の大切さ
を感じる事ができると思います。
3248
:
トキ
:2013/10/28(月) 00:22:03 ID:Ra1M0mRc
数日、誌友会に書き込みがありませんが、気軽に書き込んで下さい。
むしろ、新人さんや、あまり投稿をされなかった方々のご投稿をお待ちしています。
よろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
3250
:
神の子さん
:2013/10/28(月) 07:36:23 ID:AB6RqYXc
>>3247
・
>>3248
トキ様
ありがとうございます。
皆さま、ありがとうございます。
ここ数日私は公私いろいろ日程が詰まって多用だったためご無沙汰しました。
今月もあと残り少なくなりましたので、私もまた書き込みをさせていただこうと思っていますが、どうぞ皆さまも遠慮なくご投稿ください。
ありがとうございます。
3251
:
トキ
:2013/10/28(月) 09:37:48 ID:gh6g3OwI
>>3520
復興G様、ご返信ありがとうございました。
失礼をしました。また、ご指導のほど、お願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
3252
:
復興G
:2013/10/28(月) 10:12:14 ID:AB6RqYXc
トキ様、ありがとうございます。
>>3250
:神の子さん は、復興G でした。
3253
:
復興G
:2013/10/28(月) 10:24:59 ID:AB6RqYXc
テキスト 『生命の實相』 第5巻 <第5章 「ねばならぬ」 を解放する宗教> p.124〜 に、次のようにあります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
宗教本来の使命
宗教本来の使命からいいますならば、宗教というものは人間を互いに和解せしめる働きをしなければならないものだと思いますが、この、人間を互いに和解せしめる働きをしなければならぬ宗教が、かえって人間を争わせる結果となるというのは、どうしてそんなことになるかと申しますと、それは一つのものに凝(こ)りかたまって、ほかのものの善さを見ることができないからであります。自分のものばかりが善いと思ってそれにばかり凝りかたまるから、他のものの善さを見ることができず互いに争わねばならぬようになるのであります。
宗教は人を救うものだと申しますが、その 「救う」 ということはどんなことかと申しますと、「天国」 という物質的設備の至れり尽くせりの一区劃(くかく)に救い上げてもらうことでもなければ、極楽という装飾満ち備わった一環境へ連れて行かれるということでもない。人間が人間本来の 「無限の自由」 を回復することであります。
「自由」 という言葉は近代的な言葉でありますが、古くからの仏教語で申しますと 「解脱(げだつ)」 ということであります。「解脱」 の反対は 「障(さわ)り」 とか 「凝り」 とか 「執着」 とかいいまして、何かに凝りかたまり引っかかってとらわれることをいうのであります。何かに凝りかたまり引っかかると、もうその人は自由ではない。方々へ衝突してスラスラとゆかないのであります。
この 「解脱」 といって、凝りかたまりを無くすると本当にその人の 「生命」 が自由になる、この人間自身の 「生命」 が本当に自由になることを救われるというのでありまして、天国浄土と称する金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の中におかれていましても、その人の 「生命」 にとらわれがあり、引っかかりがあると環境はいくら結構そうに見えましてもその人はあせったり、いらいらしたりして苦しむ、結局救われていないということになるのであります。
それでいずれの宗教の開祖でも、この人間の 「生命」 を自由にするために教えを編み出されたものでありますから、どの宗教へ這入(はい)りましても、その神髄のところまで入り込んでゆきますと 「生命の自由」 を得る――すなわち本当に救われるということになるのであります。
ところでその宗教で本当に救われた人が一人でも二人でも数人でもできてまいりますと、多くはその宗教の門に這入らなければ救われない、他の宗教の門から這入っては救われないというような偏見が湧いてきやすいのであります。
だからキリスト教信者の大道演説などを見ていますと、 「キリスト教でなければ救われない」 と大声疾呼(たいせい しっこ)していますと、その隣に仏教僧侶が袈裟衣(けさぎぬ)を着け、 「仏教でないと人間は救われない」 とやり返しているような場合がおうおうあるのであります。そういう場合、仏教の悪口をいっているキリスト教の牧師に 「君はどれだけ仏教を研究してみたか」 と尋ねると、ギャフンとまいって返答に困るのであります。
<つづく>
3254
:
復興G
:2013/10/28(月) 10:25:46 ID:AB6RqYXc
<テキスト謹写 つづき>
(『生命の實相』 第5巻 p.126〜 )
各宗門は家に入る通路
救われるということは、人間がその本来の生命の自由を得るということでありますから、多くの高徳達識(こうとく たっしき)の開祖たちはその時代に応じ、人に応じて、人間本来の生命の自由を得る門をお開きになりましたのであります。
その宗門を通って自分が救われたからといってその人が、他の人もその門にはいるように誘いたいというのは人情の当然のことでありますが、「救い」 に到達する 「門」 は、自分の宗門一つで他にそんな 「門」 はないと考えて、ほかの 「門」 から這入ってみたこともない癖に、ほかの 「門」 に難癖をつけたりけなしたりすることは慎しむべきことだと思うのであります。
それで 「生長の家」 はそういう各派の宗教に対してどういう位置にあるかと申しますと、 「生長の家」 は 「家」 といってなになに教といわないのであります。なになに教といって各派の宗門に対立するような宗門ではないのであります。
一つの門から他の門へ這入(はい)るのでしたら、一方の門を出てから他の門へ這入らねばなりませんけれども、これは相対的に立っている宗教の門としては必然のことでありますが、それでこそ他の宗門排撃ということも起こるのでありますが、「生長の家」 は宗門ではない。門でないから、他の宗門を出てこの門へお這入りなさいということは申さないのであります。
「生長の家」 は 「家」 であるから、どの宗門からお這入りになりましても一向さしつかえはありません。どうぞ御遠慮なく御自分の宗門をそのままズッと奥まで、内陣までお這入りなさい。そこに広々とした奥座敷がある――
その奥座敷が 「生長の家」 というのであって、この奥座敷には、どの宗教門をお這入りになった方でもかまわない。ずっと深くその教えの堂奥までお這入りになるならば必ずそこに到達する――それは広い解脱の境であって、本当の自由の境であるから、もう宗派争いなどということはない。
あらゆる宗門からお這入りになった方も、皆互いに 「生長の家」 の家族として仲よく手をつないで生活できる境地になる――これが 「生長の家」 なのであります。
だから 「生長の家」 は一面では人間を和解させるのでありますが、また一面宗教と宗教とを和解させる働きをももっているのであります。
生長の家とは何か
そんな自由な宗教があるものかと驚かれるかもしれませんが、「生長の家」 は宗教というべきか生活というべきか、思想というべきか、光明思想普及団体というべきか、教化団体というべきか、わたしは知らないのであります。
まあ、どのようになりと名前をおつけになるがよい、ただ、在来の宗教というものは、教えというものと生活というものとが離れ離れになっている、教えは教え、生活は生活というふうに分れ分れになっていて宗教は信ずるが、家庭はなっていないとか、家族に不幸や病人の絶え間がないとかいうようになっていて、宗教とは心だけの救い、実生活にはなんの関係もないものだというふうになっていましたが、「生長の家」 では教えがそのまま、生活上の救いになっているのでありまして、教えを聴いて病気が治る、教えを読んで貧乏が治る、夫婦喧嘩が治る――というふうになっているのであります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
3255
:
復興G
:2013/10/28(月) 11:27:15 ID:AB6RqYXc
<< 救われるということは、人間がその本来の生命の自由を得るということであります >>
と、上記
>>3254
にありました。
これを拝読して、思ったこと――
「救われる」 ということは、「解放される」 ということである(解脱)。
人間はみんな 「自由」 を求めている。
イエス・キリストは、新約聖書ヨハネ伝第8章31〜32節で、
「汝等もし常に我が言(ことば)に居らば、真(まこと)にわが弟子なり。また真理を知らん、而して真理は汝らに自由を得さすべし」
と言っています。このイエスの言葉
「我が言(ことば)に居らば」
とは、どういう意味でありましょうか。
それは、同じくヨハネ伝の第1章1〜4節に
「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」
とあります。その 「太初(はじめ)」 とは、時間も空間もまだ現れない前の、「未発の中(みはつのちゅう)」 すなわち 「久遠の今」 である。その 「太初(はじめ)」 にある 「言(ことば)」 に 「居る」 とは、神の生命そのもの、光そのものを生きる、「吾が生くるは吾が力ならず 天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」 と、己をむなしくして天地に満ちる生命をただ喜んで感謝いっぱいに生きる、ということでしょう。
それは、釈尊が 「天上天下唯我独尊」 と言われたように、「我れの外にあるものなし、自分は一切者である」 というところに立つこと。
そこが 「生長の家」 である。
それが、すべての教え(万教)の 「奥座敷」 である。
そこに到ると、自ずから万教は一つに帰して、即、和解できてしまう――ということになる。
「外にはない、すべては我が内にある」
これがキーワードだと思いました。
3256
:
トキ
:2013/10/28(月) 13:34:28 ID:gh6g3OwI
古典的な宗教は、外の神様におすがりする、という発想のところが多かったみたいです。
しかし21世紀になり、多くの既成宗教を含めて、内在の神様を見るという信仰こそ本当の宗教で
あるという事に気がつかれたと感じます。
宗教が原因で、戦争や争いが起こるのは、この外の神様にすがるという発想が原因だと思います。
釣りをする人は、『釣りはフナから始まり、フナに終わる」というらしいですが、生長の家の信仰
も、ここから始まるような気がします。簡単なようで、奥が深いと感じます。
3257
:
トキ
:2013/10/28(月) 21:02:31 ID:gh6g3OwI
web誌友会参考文献板
>>159
榎本恵吾先生が書かれたご文章ですが、運動を経験しているので考えさせられました。
地道な運動よりも、目先の数字をおいかける傾向はありました。ただ、今からでも間に合い
ますから、信徒の一人一人が、運動や信仰を原点から考え直すべきだと思います。
いつもすばらしいご文書をアップして下さる、復興G様に心から感謝申し上げます。
合掌 ありがとうございます
3258
:
復興G
:2013/10/28(月) 22:18:22 ID:AB6RqYXc
環境問題について考えてみたいと思います。
三界唯心、環境はわが心の影である。
その 「環境」 には、もちろん 「自然環境」 も含まれる。
人間は神の子として、自然環境をも霊的に支配する権能を神から与えられている。
それは、『生命の實相』 第11巻 「万教帰一篇」 (p.31) で、旧約聖書 「創世記」 に
○神、彼等を祝し、神、彼等に言い給いけるは生めよ殖えよ、地に満てよ、之を従がわせよ。又海の魚と空の鳥と地に動く所の諸(すべ)ての生き物を治めよ、神いい給いけるは視よ、我全地の面にある実蓏(たね)のなる諸ての草蔬(くさ)と、核(たね)ある果実(このみ)の生(な)るすべての樹とを汝等に与う、これは汝らの糧となるべし。又、地の諸(すべ)ての獣と天空(おおぞら)の諸(すべて)の鳥および地に匍(は)う諸の物など、凡そ生命ある者には、我れ食物として諸の青き草を与うと。即ち斯くなりぬ。神その造りたる諸の物を視たまいけるに甚だ善かりき、夕(ゆうべ)あり朝(あした)ありき是れ六日なり。(『創世記』第一章―二八〜三十一)
とあり、そのご解説として
(p.33)
<< なおこの一節で注意すべきことは、神の像(かたち)のごとく完全につくられたる 「人間」 こそ万物の霊長であって、他のいっさいのものを支配する権能を与えられている真理がいとも明らかに現わされていることであります。神は人間を祝福してすべての生き物を治めよと宣(い)いました。これ神の命令(みことば)であります。神の命令は絶対的なものであって、いかなる権威者もこれに逆うことができないのであります。>>
とある通りであります。
なお、自然環境について、谷口雅春先生は 『神 『新版 真理』を告げ給う』 に、神のみことばとしてどのように書かれているでしょうか。抜粋謹写させて頂きます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(p.20〜)
“わたし” は一切の現象の中に “わたし” の智慧と愛と生命とを顕現している。 “わたし” を見たければ森羅万象を見ればよいのである。しかし肉眼でそれを見るならば、必ずしも “わたし” の創造した万象の “真実の姿” を見ることはできない。何故なら、肉眼で見る人は、自分の先入観念や迷いの念で “雲” をつくって “真実の姿” を覆い隠しているからだ。だから神想観の時には肉眼を瞑じて、心の眼をひらいて実相を直視せよというのである。
○
(p.30)
“わたし” は天地一切のものを創造った。そして人聞を最後に “わたし” の最高の自己顕現として造った。 “わたし” は最高の智慧であり、完璧の善であるから、 “わたし” の創造した一切のものはことごとく完璧の善であって “悪しきもの” は何ひとつ無いのである。(後略)
○
(p.39〜40)
“わたし” の心は、限りなく、一切のもの――有情(うじょう)・非情(ひじょう)の悉く――を包容して余すところがないのである。包容しているというのも本当は適切ではないのである。有情・非情の悉くは “わたし” 自身のアイディアの展開であるのであって、その展開せる生物・無生物を存在せしめ、ところを得せしめているのは “わたし” のいのちそのものの力によるのである。
“わたし” は到るところの空間に、そして凡(あら)ゆる時間に充ち満ちているのであって、限りがないのである。空間も時間も、 “わたし” のアイディアの展開である。 “わたし” が “空間” というアイディアを引っ込めれば “空間” がなくなり、 “わたし” が “時間” というアイディアを引っ込めれば “時間” がなくなる。 “時間” も “空間” も、 “わたし” が現象界に “わたし” のアイディアを演出するための舞台とその持続をあらわすために “わたし” がつくった認識の形式に過ぎないのである。
○
(p.40〜41)
“存在する” ということは “わたし” のアイディアがそこにあるということであり、そこに “わたし” のアイディアが展開してあるということである。 “わたし” のアイディアは常に善であるから、凡そ真に “存在する” ものは “善なるもの” のみであって、 “悪” なるものは存在しないのである。病気というようなものは “悪” であるから、 “わたし” のアイディアの展開ではない。従って、それは如何に存在するように見えても、本当は存在しないのである。
不幸・災難の如きは、 “わたし” のアイディアの展開ではないから、それは如何に存在するように見えても、本当は存在しないのである。 「存在しないのだ」 と心に強く否定して、それからその否定が現実になるように現象的手続を着々と行うがよい。
<つづく>
3259
:
復興G
:2013/10/28(月) 22:19:13 ID:AB6RqYXc
< 『神 『新版 真理』を告げ給う』 より謹写 つづき>
○
(p.79〜80)
更に、人間は万物の霊長であるから、単に人間同士が相愛して、互いに傷つけるような事を慎まなければならないのは無論であるが、あなたは天地の万物に対しても “愛” をもたなければならないのである。
今まで多くの人間は、自然界の動植物を、自分の利益と快楽とのために利用し得る間は、好き候に利用しつくして、あとは棄ててしまって顧るということをしなかったのである。所謂(いわゆ)る “使い棄て” 精神で、万物の生命をおろそかにし、それに感謝することを忘れ、折角の美しきものを醜くして、悪臭芬々(あくしゅうふんぷん)たる状態にして流し棄てていたのである。
現今、 “公害・公害” といって騒がれているのは、結局、人間自身が自然界の万物に対して “愛” をわすれて使い棄てにしていた報いである。
人間でも、美しく元気で役に立ったり、楽しむことが出来る間は、利用し娯(なぐさ)みものにしながら、年老いて醜くなり弱ってしまって来たならば、 “使い糟(かす)” として棄ててしまうというようなことは、人間の心に “愛” が目覚めている限りは出来ないことであり、また、してはならない事なのである。
人間に対してだけではなく、自然界の一切の事物も、ことごとく 「神の生命」 の自己顕現であるから、人間と兄弟姉妹の関係にあるのであるから、美味(おい)しいところだけを利用して、あとは醜い姿にして棄ててしまうようなことをしてはならないのである。
自然界の万物も、みな “わたし” の生命の顕現であるから、もっと尊敬し、愛し、醜く廃(すた)れたものでも何でも生かして使ってやろうという行きとどいた愛念をもって万物を扱うならば、あなたは廃物と見えた煤(すす)の中にも輝くダイヤモンドと同質のものが秘められていることを発見し、そこから金剛(こんごう)の光を発することが見られるであろう。
善きものの発明や発見はそのような心構えから出て来るのである。万物はすべて愛念をもってその実相を見るならば、そこには廃物というものはひとつもないのである。愛念をもって廃物に接すれば、その廃物の内に潜む宝庫を見出し、その宝庫の扉をひらくにはどうすればよいかの智慧もおのずから湧き出て来るのである。使い棄てにして万物のいのちを大切にせぬものは、その報いをみずからの生活で収穫しなければならないのだ。
○
<ここからが大事なところだと思います>
(p.81〜82)
だいたい一旦、罪を犯した者が、再び罪を犯すようになるのは、再び罪を犯す事そのことが自己処罰の一形式であるからなのである。
みずから再び罪を犯す事が自己処罰であるというのは、いつまでも彼自身罪を繰返し繰返しして 「罪の世界」 の檻(おり)の中にみずからを監禁していて、彼自身を 「罪の世界」 から出られないように閉じ込めているからである。
彼を 「罪の世界」 という檻の中から解放して自由の身にしてやるためには、自己処罰をする必要のないように彼をしてやらなければならないのである。換言すれば自己を “罪人(つみびと)” だとか “罪の子” だとか “罪悪深重(じんじゅう)の凡夫(ぼんぶ)” だとか思う必要のないようにしてやらなければならないのである。
すなわち “罪悪意識” から彼を解放してやらなければならないのである。
本当に正しい宗教は人間を此の “罪悪意識” から解放してやるために、 “わたし” が教祖となる人々を選んで、 “人間本来罪なし” の真理を説かせるように仕組んだのである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――正しい宗教として、本当に人間を救い、自然を救うためには、根本――神に立脚しなければならない。それには、この最後のところが一番基本となる大切なところではないでしょうか。
「人間至上主義ではいけない」 と言われるときの 「人間」 とは、「罪の子」 なる 「肉体人間」 を指していると思います。そこから一転して、「神の子・人間」 至上主義に立ち還らなければ、宗教としての最も大切な使命を果たすことにならないのではないでしょうか。
3260
:
復興G
:2013/10/28(月) 22:23:01 ID:AB6RqYXc
ごめんなさい。
『神 『新版 真理』を告げ給う』
は、 『神 真理を告げ給う』 の誤りでした。お詫びします。
3261
:
復興G
:2013/10/28(月) 22:38:09 ID:AB6RqYXc
『神 真理を告げ給う』 の中で、“わたし” とあるのは 神御自身であり、神の御言葉であります。
3265
:
復興G
:2013/10/31(木) 14:58:37 ID:AB6RqYXc
今月のテキスト 『生命の實相』 第5巻 第5章より
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「なければならぬ」 を捨てよ (p.138)
こうでなければならぬ、ああでなければならぬというのは人間の小智才覚の凝(こ)りであります。この心の凝り――こうでなければならぬ、ならぬならぬという凝りが心の中にありますために、その 「なければならぬ」 という自分で作った法則に自縛(じばく)せられて、ちょっとでもその法則を破ると身体が衰弱したり病気になったりするのであります。
ところが 「こうでなければならぬ」 と心で掴(つか)んでいる凝りをパッと放してしまうと、人間は本来の自由を得る――どうしなくとも生きられる本来の自由な自分自身を見いだすのであります。工藤てつさんが、「人間は食べ物を食べなくとも生きられる」 と悟られたら、かえって今まで食道を通らなかった食物が通るようになった。ここに人間生命を生かす奥義――すべての病を癒やす秘訣があるのであります。すべての 「ねばならぬ」 が破れた時に、すべての自分の作った 「ねばならぬ」 に束縛せられていた自分の生命の自由が解放されるのであります。
宗教同志争うな (p.172〜 )
人類が各自に異なる宗教を信じているがために、夫婦でさえもこのように互いに争わなければならないというのでは、宗教は人間を悩ますためにあるのか人間を悩みから救うためにあるのかわからないということになるのであります。その悩みのために肉体に病気まであらわしている人がどんなに世界には多いか知れないのであります。
こんなことでは宗教は人間を救うことができない。宗教そのものが争っているのですから、その宗教を信ずる人同士が争うのは無理もありません。だからその争っている宗教を包容して、一つに和解さすところのズッと広い大きな真宗教が出てまいらなければならないはずでありますが、それが 「生長の家」 なのであります。
ふつう一つの宗教が出現しますと、その宗教を信ぜしめるため、今までの宗教を捨てさせて今度の宗教に改宗せしめようと思って、その宣伝に当たる人が苦心するものでありますが、 「生長の家」 ではそういうことはいたさないのであります。どの宗教の信者が来られましても、 「その宗教を止めて生長の家へ入れ」 とは申さないのであります。そして 「あなたはあなたの宗教の神髄に帰れ」 というのであります。
「そちらの宗教を止めて、こちらの宗教に入れ」 ということになると、暗にそちらの宗教は悪いといっていることになりますから、そちらの宗教を信じている人は、 「ナニ、僕の信ずる宗教が悪いというが、貴様の行ないは現になっておらんじゃないか。貴様の信ずる宗教が悪いからそんな行ないをするのだ」 というふうに互いに審判(さば)き合いをしなければならなくなるのであります。
そうなると夫婦でさえも常に争って、揚句(あげく)の果(はて)には病気にならなければならないのでありますから人生全体が光明化されるはずがない。ところが 「生長の家」 のように 「あなたはあなたの宗教の神髄に帰れ。そこに真実の道があり、それが生長の家である」 といわれると、もう争いようがない。
キリスト教はキリスト教のままで救われている。仏教は仏教のままで救われている。神道は神道のままで救われているということになりますから、宗教争いをしようにも宗教争いのしようがなくなるのであります。こうして、この天理教信者の御主人は天理教そのままでいて、先の信仰よりも深く這入(はい)って行きお救われになったのであります。
<つづく>
3266
:
復興G
:2013/10/31(木) 15:04:08 ID:AB6RqYXc
<今月のテキスト 『生命の實相』 第5巻より謹写 つづき>
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(p.173〜 )
――この 「あなたはあなたの宗教の神髄に帰れ。そこに真実の道があり、それが生長の家である」 というのは、
「時空間は認識の形式に過ぎず、時間・空間本来なし」
「時空間をも生み出した本源世界に、既に大調和・無限生命、無限供給、無限歓喜の実相があり、時空間の中に展開されて見えるところの現象はすべてその影に過ぎず、本来なし」
という 「久遠の今」 に立ち還ること。
そこにすべての宗教の神髄があり、そこに真実の道がある。それが生長の家である。
そこに立ち還った時、
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(p.212 最終頁)
生長の家では「無」は「そのまま」であって、我(が)の 「はからい」 がなくなることです。「はからい」 がなくなれば、天地無限の供給の実相と波長が合うことになって、おのずから無限の供給が現象界にあらわれてくるのであります。
天地間の生物界の実相を奪い合いとみることそのことが我(が)の見解でありまして、奪い合いを心に描いている限りは、現象界にもそれは消えません。天地間をただ、神一元の無限の供給の世界であると、そのまま信じて我見(がけん)を無にするとき現象界にも無尽蔵があらわれてくるのであります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ということになる。
それを生活に生きるのが生長の家の生き方であると思うのであります。
3267
:
復興G
:2013/10/31(木) 15:43:48 ID:AB6RqYXc
上記は、web誌友会参考文献板 >167 に
<< イエス・キリストの言葉と大聖師谷口雅春先生とは神においてひとついのちなのである。万教帰一とはこの意味でもあるのである。釈尊のいのち、日蓮、親鸞、道元、等々、すべての人々と一体のいのちである實相に帰り給うて、人々だけ、教えだけではなく、天地一切万物と一体であるその實相より鳴り出でたのが 「万教帰一」 ということそのことなのである。
大聖師谷口雅春先生の説かれる如く、自分をとりまくすべてのすべては、観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばなのであれば、天地一切万物がひとつであるということが万教帰一ということであるのであった。ここにおいて、万教帰一ということと、中心帰一ということは、ひとつのこととして拝受されて来るのである。>>
とあるのを拝読しますと、より明らかにおわかり戴けるかと思います。
つまり、時空未発の 「久遠の今」 において、イエス・キリストと大聖師谷口雅春先生とは神においてひとついのちなのであり、釈尊のいのち、日蓮、親鸞、道元・・・・等々すべてと一体のいのちである實相に帰一する。そこにおのずから 「万教帰一」 がある、ということなのであります。
バンザーイ!
ありがとうございます。
3268
:
トキ
:2013/10/31(木) 17:47:31 ID:n3VvP5Gk
>>3267
言い換えると、この「いのち」ということが分かれば、あとの問題、例えば、政治の問題も
環境の問題も自ずとわかる、という事なのかな、と個人的には感じています。
3269
:
復興G
:2013/11/01(金) 14:39:17 ID:AB6RqYXc
ありがとうございます。
このweb誌友会は、毎月 『生命の實相』 を1巻ずつテキストにして勉強して行くことにしました。
それで11月になりましたから、第6巻に入ることになります。
『生命の實相』 第6巻の 「はしがき」 に、次のように書かれています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
はしがき
人類の不幸の根元を知らない人が多い。不幸の根元のうち最大なるものは、自己を罪人(つみびと)とする人類の罪悪意識であり、その罪悪意識が潜在意識にあるがために、人類は自己処罰として一切の不幸(戦争・病気・不慮の災禍等をも含めて)をつくりつつあるのである。
罪の問題は宗教上の一大問題であり、人間に罪があるので宗教というものは存在するのであると説く宗教家さえあるのである。しかしこれは重大なる誤りであることをわたしは知ったのである。
釈尊生まれて二千六百年、キリスト降誕して二千年、無数の高徳の弟子がその道を説いて来たけれども、結局人類を救うことができないで、原爆水爆の惨禍の予想の恐怖の前に驚いていなければならないというのは、今までの宗教の説き方のどこかに、まちがいがあったからである。
そのまちがいは、罪を 「実在」 するがごとく説くことによって、かえって人類に罪を犯すように駆り立てていることである。それはあたかも、社会から前科者呼ばわりされた人間が、その言葉の実現力に駆り立てられて、再び罪を犯すようになるのと同じことである。
人類を 「罪人」 だと宗教家が呼号すれば呼号するほど、人類は自己処罰として更に再び罪を犯すようになるのである。病気も戦争も一切の惨禍(さんか)は、潜在意識の自己処罰から起こる。これは最近発表された精神科学上の原理である。
人生を、戦争や病気やいろいろの不幸な惨禍から救うためには、人類の罪悪意識を拭(ぬぐ)い去るための、精密なる理論体系を必要とするのである。その理論体系が私の「生命の実相」哲学である。
実際、人類から罪悪意識が拭い去られたならば、いかに人間が解放されるか実証として、それぞれ、この 「生命の実相」 哲学にふれた人々が誌友会に集まって、その体験談をとおして、人間が本来清浄(しょうじょう)にして罪なきことを明らかにするために語り合った実際の対話を編集したものが本書である。
罪は意識の中にのみ存在するのであって、「実在」 として固定するものでないから、イエス・キリストも 「汝の罪ゆるされたり」 の一言で、その患者の罪悪意識が消え、罪悪意識から来る自己処罰によって生じていた病気が、長期間の歩行困難の跛者(あしなえ)までが癒されているのである。
イエスにできた奇跡も、実はイエスにのみできる神秘的な奇跡ではなく、精神科学的な事実であるから、その精神科学的原理を知って、その原理を実際に応用すれば、何人(なんぴと)にもイエスと同じような奇跡的事実を実演することができるのである。
その体験談を集めたのが本書である。他(ひと)の体験といえば、なんだか他の人の経験みたいで、自分になんの関係もないことのように思う人があるかもしれないけれども、これは物理学者が物理実験室やビキニ環礁で行なう実験と同じことである。
彼らは原爆水爆の実験をして原子力の実在と用途をためしてみるのであるが、わたしたちは、人生という実験場で、「精神」というものを材料として実験し、そこから「罪」の観念(罪悪意識)を引き出してみたらどんな結果が生ずるかを実験してみたのであり、また実験しつつあるのである。
その点ではわたしたちは宗教家であるというよりも科学者である。やがて全人類は想念・感情の力が原子力よりもなお偉大なる力であり、人間の幸不幸はそれによって左右されることをことごとく知る時が来ることを信じて疑わないのである。
本書はある意味においては人類への無罪宣言である。この宣言を素直に受けて信ずるものは、今まで自己を縛っていたあらゆる不幸から解放されるはずである。
人間の解放には外からの物質的解放と、内からの霊的解放とがあるが、本書は、罪の本来無を説き、その実証を示すことによって後者の役割を果さんとするものである。幸いに、本書によって読者諸賢が自己解放を遂げられ、以前に優(ま)した幸福な生涯を送ることをえられれば喜びこれに過ぐるものはない。
昭和三十七年九月二十日
著 者 し る す
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