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Web誌友会 板/2

737復興G:2013/04/21(日) 21:31:23 ID:AB6RqYXc

あさひ様、トキ様、a hope様。

レス、ありがとうございます。

皆々さま。

今回はテーマが少し難しいと感じられたのでしょうか、ほとんど私の独演会みたいになっていますが、どうぞご遠慮なく何でもお書き込みください。

さて、>>720で私は、

>>只今『[類纂]神の真義とその理解 住吉大神顕斎の意義』(谷口雅春先生著・生長の家本部編)などの資料を丁寧に読み返し、
「生長の家とは」
「生長の家の本尊・主斎神とは」
「七つの燈台の点燈者」とは
「生長の家大神」・「住吉大神」とは
「人間とは」・「自分とは」
といったことについて、簡潔に的確に叙述してみたいと思い、勉強中であります。しばらくお待ち願いたいと思います。よろしくお願い申し上げます。<<

と書いておりました。が、まだできておりませんでした。

それについて、「簡潔に的確に」 書いてみようと思います。

   * * * * * * * * * * * * * * * * *

1. 「生長の家」とは何か。
  それは、自分の「いのち」のことである。
  (榎本恵吾先生にならいました)

2. 「生長の家の本尊・主斎神」とは何か。
  それも、自分の「いのち」である。

  ≪(『叡智の断片』49頁〜より)
    自性円満の自覚
 汝若し能(よ)く念々の馳求(ちぐ)の心を歇得(かつとく)せば便(すなわ)ち祖仏と別(こと)ならず。汝祖仏を識ることを得んと欲するや。汝、面前、聴法底(ちょうほうてい)是なり。(臨済録)

 悟りというものは、一切を外的原因だとして、責任を外に負わしていた者が、一転一切の責任は自己にありと、脚下照顧、自己に反照して、一切万事吾より出でて吾に還ると知ることである。

 外に神を求め、社殿に廟宮に寺院に教会に跪(ひざまず)いて、此処に神仏があり自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信から一転して、汝の祖師、釈迦仏もキリストも汝の内にあり、功徳の本源は自己の内にありと自覚する事が真の宗教であるのである。

 引用せる臨済録の「馳求(ちぐ)の心」とは外に求める心であって、「外に求めていた心を歇(や)めてしまったら、汝は即ち、今直ぐ仏と同体だ。汝、仏が何処にあるか知りたいと思うか。では教えてやろう。此の眼の前で仏法を聴いている其奴が仏其の者じゃ」と一喝したのである。

 生長の家の根本哲学『生命の實相』の冒頭の「生命の実相の自性円満なることを自覚すれば神の癒す力がはたらいてメタフィジカル・ヒーリングとなります」と書いてある。
 「吾人生命の自性円満」とは即ち仏性なり、神性なり。仏そのものであり、神そのものである。それを自覚せずんばすなわちやむ。
 自覚せば本来の円満性あらわれて神の癒す力が実現するのである。神は外にあらず。内にまします。今・此処、面前に法を聴く者、本書を読む者そのままに仏也。

 他に求むる事をやめよ。他に求むる心は争いの因也。真の人格主義は他に求めず他を奪わず、自己内在の力を礼拝して、一切万事我れより出でて我れに還ると知るのである。かく自分を仏と知りて、初めて他の人々をも仏と知る。仏と仏と相対せる世界此の世界なり。≫

3. 「七つの燈台の点燈者」とは
  それも、自分のことである。

4. 「生長の家大神」・「住吉大神」とは
  それも、自分の「いのち」の中に在すのである。

5. 「人間とは」・「自分とは」
  無である。 無即神である。愛である。光である。一切者である。


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