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Web誌友会 板/2
2217
:
トキ
:2013/07/09(火) 15:30:10 ID:Bz/1TirE
復興G様、ご多忙の中、ご指導を賜り、深く感謝申し上げます。
よろしくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
2218
:
うのはな
:2013/07/09(火) 17:42:21 ID:ZF4EvkZA
> 名前:復興G 投稿日: 2013/07/09(火) 15:05:46 ID:AB6RqYXc
合掌
皆さま ありがとうございます。
「web誌友会板」 で第一義の 『生命の實相』 を学ぶことを、粛々と実行してまいりたいと思います
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
暑中お見舞い申し上げます。
復興G様が第一義の『生命の實相』を学ぶことを、、、と申されますと
ものすごい説得力と威厳を感じますね。
それでは聖歌斉唱 『宇宙荘厳の歌』
参加しませんが、いつもありがとうございます(笑)
2219
:
復興G
:2013/07/09(火) 21:00:01 ID:AB6RqYXc
うのはな様
うのはな様からそのような祝福激励とお褒めをいただけるとはうれしい、光栄です。
がんばります。
感謝合掌
2220
:
山本富士子
:2013/07/10(水) 06:02:30 ID:RgtAnGTI
復興G様
いつもご指導ありがとうございます。
うのはな様
聖歌 すばらしいアイデァですね!。
ブログ誌友会に、よりいっそう宗教的雰囲気が漂います。
合掌ありがとうございます。
2221
:
a hope
:2013/07/10(水) 08:14:15 ID:edEDolt2
みなさま
おはようございます。
先週末から、忙しくしていてゆっくり掲示板を拝見する時間がありませんでした。
そんななかでも、自分自身の信仰姿勢をこれからどうしていったらいいのかと、
わたしなりにいろいろ考えたりしていました。
「唯神實相」「現象なし」の「生長の家の教え」は、宇宙最高の真理だと思っています。
では、まことにその信仰姿勢を貫き通すとはどういうことなのでしょうか?
実際には、ひどい現象がそこにあるのに、その現実に目をつぶって実相の光明面だけを見つめ、
現象の暗黒面とは適当に折り合いをつけて生きていくということでしょうか?
「大自然讃歌」や「観世音菩薩讃歌」は、現象人間の過ちが表現された二元論の長編詩です。
たしか、雅宣先生ご自身も、「あれは長編詩で聖経にかわるものではない」とおっしゃっているはずです。
雅宣先生が、ご自分の頭で考えられて真理を伝える方便としてお書きになったものだと感じています。
それなのにいつの間にか「お経」になって宇治別格本山などの練成会でも読誦され始めてしまったようです。
いったいどなたが、そのようなことを決められたのですか?
雅宣先生ご自身からのご命令なのですか?
「唯神実相」を悟らせることで衆生を悟りに導くのが生長の家の使命なのに、
あのような二元論の長編詩を「お経」として練成会などで読誦してしまったら、
せっかく真理を知って「唯神実相」に目覚めた信徒の魂を以前よりもさらに深く迷わせていまいます。
とても危険なことだと感じています。
わたしは、あの長編詩を「お経」として読誦することを即刻中止すべきだと思いますが、
みなさまは、どう思われますか?
2222
:
a hope
:2013/07/10(水) 10:14:51 ID:edEDolt2
>>2221
のわたしの問題提起はこのweb誌友板での
>>2180
〜の復興Gさまや曳馬野さま、ユタカさまトキさまなどの
やり取りを拝見していて感じたことですがすでに一連のお話は終わっているようですね(笑)
>>2215
で復興Gさまが
<<
「web誌友会板」 で第一義の 『生命の實相』 を学ぶことを、粛々と実行してまいりたいと思います。
第15回web誌友会は、『生命の實相』 第3巻 「生命篇上」 (p.97〜p.213) をテキストとして、
今週の金曜日 7月12日(金)夜21:30から 来週
15日(火・<海の日>で休日)夜23:00まで
「訊け」管理人様の司会で行われることになっているわけですね。
そしてその前に 「復興Gの講話」 がほしいというご要望がありますので、それにお応えすべく只今準備勉強中であります。>>
とあるのを見落としていました。
すみませんでした。
このわたしの問題提起ですが、信仰/体験板の方に貼らせていただきます。
みなさま、そちらのほうでご意見をお聞かせください。
2223
:
復興G
:2013/07/10(水) 23:40:10 ID:AB6RqYXc
合掌 ありがとうございます。
お約束していました 『生命の實相』 第3巻 「生命篇」 をテキストにしての 「講話」 ――遅くなりましたが、始めさせていただきましょう。
第3巻の 「生命篇」 はまた、非常に素晴らしい、真理の根本が詳しく説かれているところですね。
私は非常に感銘深く、法悦をもって読み返し、勉強させていただいています。
まず、ユタカ様が
>>2193
・
>>2194
で抜粋謹写してくださいましたが、第1章の最初のところ――
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第一章 はたして物質的治療は病気を征服しえたか
あらゆる病気と不幸とは、「心の迷い」の別名――否むしろ「心の迷い」が形にあらわれたものでありますから、「心の迷い」を消滅させずにいて、一つの病気を、対症療法的に、その症候に対して施術なり薬物なりで攻撃してゆきますと、一時その症候は消えて癒ってしまったかのごとき外観をしめしますけれども、それは真に治ったのではなく、しばらく「心の迷い」が姿をくらましたのでありますから、やがてまた同じ病気が再発してくるか、異なる病気(たいてい、いっそう重大なる病気)に姿をかえて現われてくるのであります。
一般周知の実例をあげますと、痔瘻を手術すると、肺結核が急に進行しておうおう死期を早める事実があり、皮膚病を治すと、内攻するといって腎臓病を起こす事実もあります。わたしの知っている例にも胃病が治ると痔を起こし、痔が軽快すると胃が悪くなる人があります。
病気というものはゴムの袋に水を入れておいて、一方を押すと、そこはへこむかわりに他のところがふくれるのと同じで、われわれの心の袋の中に「迷い」の水を入れておくかぎり、押えてへこましておいても、必ずどこかで、その「迷い」が頭をもたげてきて病気となり不幸となるのであります。(p.99)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――とあります。
それに続いて、天然痘を予防するために種痘を行うと結核に罹りやすくなるとか、結核予防のためにBCGを接種すると副作用の危険が大きいとか、これが書かれた当時さわがれた問題が取りあげられていますが、今なら iPS細胞を使っての治療法、再生医療なども同じことであろうと考えられます。
「人間は神の子、本来病なし」 の真理から外れてiPS治療などをすると、今度は癌が増える、というようなことが起こって来るであろうと予測されるのであります。
根本真理は、「病気は本来ない、それは迷いの映像(かげ)に過ぎない」 ということであります。それを 「あり」 として小手先の膏薬張りのようなことをしても、それは病気を他のところへ移転させるだけになると思われるのであります。
真理は、次に書かれていることです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
病気は非実在 (p.190〜 )
神のみ実在であり給い、神は生命でありますから生命のみ実在であり、「生命の虚」は換言すれば非実在でなければならない、したがって生命の虚なるところの病気は非実在でなければならないのであります。
実在するということはそこに神があるということであります。神がなければそこになに物も存在しえない。いやしくもわれわれ自身が存在するならば、その存在するものは神である、その存在するわれわれは神である、神以外になに物かが存在するという二元論は、神に対する一大不敬の論であります。 (中略)
このようにわれわれは、「人間は神である」という。人間が神であるといっても、心霊学者のいうような明神であるとか、水神であるとかそういう個別的な神霊――したがって相対的な存在であるところの個々別々の霊のことをいうのではない、神と交通するといえば、そういう個々別々な霊魂と交通することだと思うようにして、人間は宇宙最高の神、絶対的な円満完全な神とは感応交通できるものでないと誤解されやすいようにしたのは、霊媒を使って研究する近代心霊学の一大蹉跌(さてつ)であります。
絶対的な、唯一完全なる神は、それが絶対的であるがゆえに、われわれの内に遍満し、われわれはその神の内に存在を有し、われわれはこの神に対して心を開くと神の生命の流れが、現実世界に流れ込んで来る。
(p.190〜191)
<つづきます>
2224
:
復興G
:2013/07/11(木) 01:05:37 ID:AB6RqYXc
<つづきです>
去る6月27日の新聞で、
「厚生労働省の審査委員会は26日、理化学研究所などが申請していたiPS細胞を使う臨床研究計画を承認した。目の難病になった患者が対象で、2014年夏をメドにiPS細胞を使った発の治療が国内で始まる」
と報道されました。
それで6月30日埼玉教区の講習会の時、「生長の家式に考えると、この問題はどう考えたらよろしいでしょうか」という質問も出されました。
総裁のお答えは、要約すれば「人間中心主義、人間至上主義は間違っている。生長の家は“天地一切のものと和解せよ”という教えだから、他の動物を犠牲にして人間を治療するようなことをしてはならない」ということだったと思います。しかし、このたび厚労省で承認したiPS治療は、動物を犠牲にするものではないようです。
それはともかくとして、『生命の實相』 第3巻に照らして考えれば、答え方は違うと思います。
≪ あらゆる病気と不幸とは、「心の迷い」の別名――否むしろ「心の迷い」が形にあらわれたものでありますから、「心の迷い」を消滅させずにいて、一つの病気を、対症療法的に、その症候に対して施術なり薬物なりで攻撃してゆきますと、一時その症候は消えて癒ってしまったかのごとき外観をしめしますけれども、それは真に治ったのではなく、しばらく「心の迷い」が姿をくらましたのでありますから、やがてまた同じ病気が再発してくるか、異なる病気(たいてい、いっそう重大なる病気)に姿をかえて現われてくるのであります。≫
だから、もっと根本の問題、精神的な問題を考えるべきだ、ということになるのではないでしょうか。
また、「人間至上主義は間違っている」 と雅宣総裁はよく言われますが、それが「生長の家の教え」でしょうか?
生長の家では、肉体は人間ではない、天地一切のものと調和の関係にある霊なる神なるもの、至上者が真の人間であると教えられてきました。たとえば「本来生、不滅の神示」には
≪物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入(しゅつにゅう)する事もない。物質の世界に出入する事がないから物質の世界より見れば人間は不生(ふしょう)である。不生であるから滅することも亦ないのである。(中略)病なきを『人間』と言い、死なきを『人間』と言う。
釈迦は『人間』の生老病死の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ『人間』を見ていたのではない。念の影を見て『人間』と思い違いしていたに過ぎない。(中略)
真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来『浄(じょう)』にして不浄ではない。≫
そして「至上者の自覚の神示」には
≪ 人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が神だと悟った者を謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。斯くの如き想像をする者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。キリストが弟子の足を洗うことが出来たのも、自己が神だと悟っていたからである。
本当の謙遜は『神の自覚』から来る。神を自己の本性に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。本当の謙遜とは『自己は神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』と言う真理を何らの抗らいもなしに承認することである。此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神なり』の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来るのである。≫
とありました。
<つづく>
2225
:
復興G
:2013/07/11(木) 01:40:14 ID:AB6RqYXc
<つづきです>
そして、このたびの 『生命の實相』 第3巻にも
≪ 実在するということはそこに神があるということであります。神がなければそこになに物も存在しえない。いやしくもわれわれ自身が存在するならば、その存在するものは神である、その存在するわれわれは神である、神以外になに物かが存在するという二元論は、神に対する一大不敬の論であります。 (中略)
このようにわれわれは、「人間は神である」という。人間が神であるといっても、心霊学者のいうような明神であるとか、水神であるとかそういう個別的な神霊――したがって相対的な存在であるところの個々別々の霊のことをいうのではない……(中略)
絶対的な、唯一完全なる神は、それが絶対的であるがゆえに、われわれの内に遍満し、われわれはその神の内に存在を有し、われわれはこの神に対して心を開くと神の生命の流れが、現実世界に流れ込んで来る。……≫
とあるのであります。
ですからこの 「真の人間至上主義」 に立ち還れば、自然との大調和が実現し、「自然と共に伸びる運動」もできるのだと、私は思います。
「人間は神の子」 「実相独在」 の光を失えば、それはもう生長の家とは似ても似つかぬものと言わねばなりますまい。
ところで、
>>2221
:a hope様のご投稿
>> 「大自然讃歌」 や 「観世音菩薩讃歌」 は、現象人間の過ちが表現された二元論の長編詩です。
たしか、雅宣先生ご自身も、「あれは長編詩で聖経にかわるものではない」 とおっしゃっているはずです。
雅宣先生が、ご自分の頭で考えられて真理を伝える方便としてお書きになったものだと感じています。
それなのにいつの間にか 「お経」 になって宇治別格本山などの練成会でも読誦され始めてしまったようです。
いったいどなたが、そのようなことを決められたのですか?
雅宣先生ご自身からのご命令なのですか?<<
――について。
>>2127
で私は次のように書いています。
>>
>>2120
:志恩様。
>>詩だといいながら、経本として出版し、「毎日 読誦するように」、雅宣総裁が、全組織に総裁として命じておられます。<<
というのは、おそらく総裁は「私が命じたことはない」とおっしゃるでしょう。おそらくその通りで、総裁が「毎日読誦するように」と命じられたことはないと思います。
しかし、参議・理事などが、これは「新しいお経」として毎日読むように仕向けようと、運動方針書にも記載するようにした。すなわち「生長の家人類光明化運動・国際平和信仰運動 “自然と共に伸びる運動”実現のための第2次5ヵ年計画第2年度・第3年度 運動のポイント」
(平成24年1月24日 拡大最高首脳者会決定)に
≪1.平和・環境・資源の問題解決への貢献
(4)世界の幹部・信徒は、日常の聖経読誦に加え、『大自然讃歌』ならびに『観世音菩薩讃歌』の読誦を行い、神・自然・人間の大調和の実現を祈る。≫
とあります。
これは、総裁の承認がなければ「決定」にはなりませんから、結局 志恩様のおっしゃってるような結果になっていると言えましょう。
そういう運動が進められている中で、教団組織に所属しながら
「私は『大自然讃歌』ならびに『観世音菩薩讃歌』の読誦を行いません」
というのは、とても勇気の要ることです。<<
と。すでに 「拡大最高首脳者会決定」 として運動方針書に書かれて、それに従って運動が行われているのです。
<つづきます>
2226
:
復興G
:2013/07/11(木) 02:11:35 ID:AB6RqYXc
<つづきです>
>>2221
:a hope様 つづき
>> 「唯神実相」 を悟らせることで衆生を悟りに導くのが生長の家の使命なのに、あのような二元論の長編詩を 「お経」 として練成会などで読誦してしまったら、せっかく真理を知って 「唯神実相」 に目覚めた信徒の魂を以前よりもさらに深く迷わせていまいます。とても危険なことだと感じています。
わたしは、あの長編詩を 「お経」 として読誦することを即刻中止すべきだと思いますが、みなさまは、どう思われますか? <<
あの長編詩について、私は
>>2119
で
>>『大自然讃歌』・『観世音菩薩讃歌』などは、「神様から与えられたる素晴らしいお経」ではないと思います。
それは、雅宣総裁ご自身が、「私の書いた者は私が書いたのであって、神が書いたものではないから、“聖典”とは呼ぶな」という意味のことを言われており、このたび経本型にして出版されている詩の本も、当然のことながら“聖経”ではありません。それは、総裁が
≪生長の家の詩としては、谷口雅春先生の『生命の實相』第20巻(頭注版)聖詩篇に「生きた生命」や「光明の国」「夢を描け」など十数篇が「生長の家の歌」として収録されている。その筆頭は、現在「甘露の法雨」と呼ばれている有名な長編詩だ。これの後篇が「天使の言葉」であり、これらは生長の家の真理を凝縮した「聖経」として取り扱われている。私の長編詩は、形式としてはこれら聖経に似てはいるが、それに取って代わるものでは決してない。そうではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義−−例えば自然と人間との関係など−−について補強を試みている。読者諸賢からの感想をお待ちしている。≫
と、「唐松模様」に書かれている通りであります。
そして、私自身この『大自然讃歌』・『観世音菩薩讃歌』を読んでみての感想は――
聖経『甘露の法雨』には
万物はこれ神の心、
万物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
物質にて成るもの一つもなし。
物質はただ心の影、
影を見て実在と見るものはこれ迷。
汝ら心して迷に捉わるること勿れ。
神は遍在する実質且つ創造主なるが故に
善のみ唯一の力、
善のみ唯一の生命、
善のみ唯一の実在、
されば善ならざる力は決して在ることなし、
善ならざる生命も決して在ることなし、
善ならざる実在も亦決して在ることなし、
善ならざる力即ち不幸を来す力は畢竟悪夢に過ぎず。
すべて真実の実在は、
神と神より出でたる物のみなり。
神は完全にして、
神の作りたまいしすべての物も完全なり。
と、「完全なる神」 のみ実在であると書かれているのに対して、「讃歌」なる詩は現象をありとする方から書かれていて、立ち位置がちがい、聖経とは全然ちがうものだと思います。文法的にも、文語的な表現に口語的表現が混入していて不統一で、おかしいです。<<
と書いています。
これは、ただの長編詩ではなく、聖経に似せてつくった 「似せ経」 であり、[人為]的に作った「偽」 経であると思います。([人為]を一字にすると[偽]になる)
そのような、作者ご自身が「聖経に替わるものではない」と言われたものを、「聖経に替わるもの」のように、
「世界の幹部・信徒は、日常の聖経読誦に加え、『大自然讃歌』ならびに『観世音菩薩讃歌』の読誦を行い、神・自然・人間の大調和の実現を祈る。」
という運動方針書を作った教団幹部の責任、それを承認した総裁の責任は重大であると思います。
で、私は 「ニセ経」 は読みません、と言っていますが、
<あの長編詩を 「お経」 として読誦することを即刻中止すべきだと思います>
と言っても、何か重大なきっかけになるような事件でも起こらない限り、「即刻中止」ということは難しいでしょうね。
2227
:
復興G
:2013/07/11(木) 07:48:50 ID:AB6RqYXc
>>2226
のつづきです。
では、どうすればよいか。
ユタカさんは、
>>2122
で
>>『現象なし』 『無我』= ハイ!! 有難うございます。
以上が私の内なる答えです。<<
と書かれました。
>>教化部長 「新経を読んでください。」
ユタカ 「ハイ、ありがとうございます。」
(行事終了後、「聖経」をあげる)<<
とも。
>>2132
>>現象は無い、自分も無い。
何がある?! 実相がある。 じゃ、現実をどう生きていけばいいの?
『 ハイ 有難うございます。 拝 有難うございます。』だよ。
『生長の家』は始めなく終わりなく、永遠にイキイキ生きて生きとおして『あり』続ける実相さ。 不滅、不滅。 本来生、不滅、清浄真無垢なり。
聖経 真理の吟唱
天地一切と和解する祈り
われ今、ここに、神の子として新生し、神に感謝し奉る。 神は普遍的存在にましますのである。
一切を包容し、一切のものの周囲に、また一切のものの内にましまして、一切のものを渾然と一つに融和していたまうのである。
それゆえに、私もまた、神の子として、その渾然たる一つの融和体の中に存在するのである。
それゆえに、私は、天地一切のものと融和し、天地一切のものとの調和の関係にあり、わが働きは、他の天地一切のものを生かす働きとなり、また天地一切のものの動きは、また我を生かす動きとなるのである。
すべての人と事と物とは、今ここに渾然と調和しており、たがいに争い立つということはないのである。
現象の世界に 如何なる 対立の 関係 があろうとも、 それは 妄想の顕す ところであり、
妄想 (大自然讃歌、観世音菩薩讃歌など)は 『やがて 消えるべき 運命 にあるのであるから、 私は それ (新経) を恐れることもないし、 それに愕くこともないのである。
妖雲べきべきと空を覆うことがあっても、その上には常に蒼空があるのと同じように、如何に暗澹たる状態たる状態 (裁判・新経) が現象的にあらわれてこようとも、その状態に対して心を動ずることはないのである。
心を動ずることがないから、最も適切なる知恵が泉の如く湧き出て暗を消してしまう処置ができるのである。<<
――ユタカさんの、これは、すごい! 面白い!
古事記神話に、イザナミノミコトが「一日千人くびり殺す」と言われたら、イザナギノミコトは「では、千五百の産屋を建てよう(千五百人生みだそう)」と言われたように。
○常に生活が引き算になってはいけない。加え算にしなくてはならぬ。「これをしては他の迷惑になりはしないか。あの人は自分を迷惑がってはいないか」などと消極的に引っ込んでしまってはいけない。愛しよう、喜ばそう、為になろうと積極的に加え算になるようにすれば他をもいかし自分をも生かす。(智慧の言葉)
2228
:
ユタカ
:2013/07/11(木) 14:13:32 ID:R1D4Jmeg
天地一切と和解する祈り
>>2227
は 下記二重カッコ(( )) に注意してお読み下さい。 そうでないと、普通の祈りではない事に気づかないからです。
>妄想 ((大自然讃歌、観世音菩薩讃歌など))は 『やがて 消えるべき 運命 にあるのであるから、 私は それ ((新経)) を恐れることもないし、 それに愕くこともないのである。
妖雲べきべきと空を覆うことがあっても、その上には常に蒼空があるのと同じように、如何に暗澹たる状態たる状態 ((裁判・新経))) が現象的にあらわれてこようとも、その状態に対して心を動ずることはないのである。
心を動ずることがないから、最も適切なる知恵が泉の如く湧き出て暗を消してしまう処置ができるのである。<<
2229
:
復興G
:2013/07/11(木) 15:36:15 ID:AB6RqYXc
>>2228
:ユタカさま
そうでした。(( ))の中は、谷口雅春先生の「天地一切と和解する祈り」に載っている言葉ではなくて、
ユタカさんが、そういう気持で祈っている、ということですね。
よくわかりました。 ありがとうございます。
2230
:
復興G
:2013/07/11(木) 15:38:05 ID:AB6RqYXc
さて、今回のテキスト 『生命の實相』 第3巻 「生命篇上」 で、私が特に感銘深く魂に響いたのは、まず第3章のp.161〜164に、トルストイの思想について その遺稿 『人生の道』 から引用され、それが「生長の家」 の説くところとほとんど同じ思想に到達していたということは実に驚嘆に値する、と書かれているところです。
それは、私自身高校時代に魂が目覚める体験をしたり、学生時代に現実の悩みの中で切なる魂の求めからトルストイの 『人生読本』 というのを読んだとき 「これだ!」 と驚嘆にも似た歓喜の思いを持ったことを思い出させてくださったからです。
で、まずはそのあたりのところを謹写させて頂きます。(p.161〜 )
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
先日、ちょっと、神戸へ出たついでに書店へ寄ってみましたが、その時トルストイの遣稿の中から発見された『人生の道』という稿本の翻訳が見つかったので買って来ました。開いてみると「生長の家」の説くところとほとんど同じ思想にトルストイが到達していたということは実に驚嘆に値すると思うのであります。ちょっと御参考にその一節を読んでみます。
「神が永遠不滅であるように、その陰影(かげなる目に見えるこの世界も永遠である。がしかしながら、目に見えるこの世界は要するに彼の陰影(かげ)にすぎない。真に存在するのは目に見えぬ悠久の力、すなわち神のみである。」(同書29ぺージ)
「われわれはしばしば、われわれが手によって触知することのできる物のみが存在するのだというふうに考える。が、その正反対で、われわれの見たり聞いたり、触れたりすることのできないものだけが、すなわちわれわれが各自の『私』と呼んでいるもの、自己の霊と呼んでいるものだけが、真実に存在するのである。」(同書48ページ)
「もしもわれわれが自己の周囲に目睹(もくと)するすべての物象を、無限無窮のこの世界を、自分が眺めたとおりのものと思うなら、われわれは大いに誤っているのである。われわれが、形体を有するすべての物象を知っているのは、そういう認識に到達させる視覚、聴覚、触覚を持っている結果にほかならない。もしもそれらの感覚が異(ちが)ったものであったら、この世界全体が別個のものになったであろう。したがってわれわれは、われわれの望んでいるこの外的世界がいかなるものかを、ほんとには知っていないのだ。知りえないのだ。われわれの正確に完全に知っているのは、ひとりわれらの霊のみである。」(同書45ページ)
これによってみましても、教会宗教に反対して『キリスト教学批判』を書き教会から破門されながらも、「原始キリスト教に帰れ」と絶叫したトルストイの宇宙観がいかに「生長の家」の所説と一致しているかということがわかるのであります。つまり教会キリスト教(すなわち後世、人間が理知ででっちあげたキリスト教)でなしに、原始キリスト教――本当のキリスト教は、五官に見える世界は存在しないということを説いていたということになります。なんの教えでも真実の教え、深い教えは同じ真理に到達するのであります。トルストイはまた別のところでこんなことをいっています。
「鉄は石より固い。石は木より、木は水より、而して水は空気より固い。しかしながら触れることのできないもの、見たり聞いたりすることのできないものが、なによりも一番固いのである。これのみが過去、現在、未来を通じて厳存し、永遠に滅することが無いのである。ではそれは一体なんであるか? すなわち人間の内なる霊である。」(同書49ページ)
この「人間の内なる霊」という一句の「内」という言葉にわれわれは捉われてはならないのであります。「内」といっても、肉体は実在しないという前提がありますので、「肉体の内」という意味ではむろんないのであります。言いあらわしようがないので「内」といっていますが、「外」に対する「内」ではない、むしろ「虚(きょ)」に対する「実(じつ)」、「仮(け)」に対する「真(しん)」、「現(あらわれ)」に対する「実(ほんもの)」というような意味の「内」であります。
この「内なる霊」すなわち「真物(ほんもの)の自分」こそ一等固いものであるというのがトルストイの思想であって、「生長の家」の説くところに一致しているのであります。
「生長の家」では常に「真物の自分」というものは、金剛不壊(こんごうふえ)の実相身であって、刀仗(とうじょう)もなおこれを傷つけることができない、全世界の重荷もなおこの金剛不壊の実相身を圧重することができないというふうに説かれているのであります。
<つづく>
2231
:
復興G
:2013/07/11(木) 15:40:15 ID:AB6RqYXc
<つづき>
この「本当の自分」の金剛不壊の実相が解ってきたら、人間は本当の自由を得るのであります。全世界のいかなる者にも自分が害しよう、傷つけよう、と思っても害することも傷つけることもできない、鎖で縛って自由を奪ってやろうと思っても、縛りきれない自由自在なものが「本当の自分」であるということがわかってくると、もうなにも恐れるところがなくなるのであります。トルストイはこの遺稿に次のように書いています。
「吾人は肉体によって生くるに非ず、霊によって生くるのである。もしも吾人がこの事実を知って、自己の生命を肉体でなく霊に托するならば、吾人は鎖に縛られても、鉄の扉の中にいましめられても、なおかつ厳として自由である。」(同書67ぺージ)
このようにわれわれは自分自身というものを物質であると思わず、「本当の自分」というものを「金剛不壊」の霊的実体であるということを自覚することになると、形の上では縛られていても、実際において縛られていない自由自在な状態が実現するのであります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――トルストイの思想に関してのご文章は、だいたい以上です。
振り返ってみますと、私は、高校2年の終わり頃まで、「自分は肉体である。目に見えるものが、本当にあるものだ」と信じていました。
ところが私はその唯一頼りとする体が弱くて、小さい時から病気がち。高校2年を終えた春休みのある日、下腹部の激痛で七転八倒し病院に運ばれました。盲腸から炎症が拡がり腹膜炎で大腸は癒着状態ということでした。私はこれで「死ぬ」と思いました。
ところが死ななかったのです。
父が、生長の家に触れていて、聖経『甘露の法雨』を私の枕元に置き、祈ってくれているようでした。
やがて痛みがとれて熱もおさまり、一旦退院ということになりました。
自宅に帰って静養していたある日、突然に私は、自分と世界が一変しました。
それは、クリスチャンだった祖母――すでに亡くなってから14年ほどたっていた――の導きだったような気がします。
自分が、肉体の自覚から生命・霊なる自覚へと突然に転換してしまったのです。そして世界が、苦しい不自由な世界から、光り輝く自由に満ちた世界へと、一変してしまったのです!
――そんなことを言っても、そのときの私の魂が歓喜した体験は、おそらくおわかりいただけないでしょうね。それは、不思議な光燿の体験でした。そのときから、私の実人生は始まったようなものでした。
何事にも消極的で事なかれ主義みたいだった自分が、一変して積極的な自分になりました。
「当たって砕けろ!」 と、意欲的に行動するうに変わりました。
「人生、何があっても魂が経験を積んで生長するチャンスだ。魂は、伸びるしかないのだ! 人生は、よろこびばかりだ!」
と思えるのでした。
テキストのp.170に、次のようにありました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
自分は無形の存在だと解れば自由になれる
人間は 「肉体」 ではない、有形のものではない、無形のものだということが悟れるまでは、肉体という物質的な制限に心が捉えられていますから、本当に心が自由になれないのであります。心が自由になれないから、本当ののびのびした安らかな心境になれないのであります。
これに反して、「人間」 は無形のものだ、「本当の自分」 というものは無形のものだ、ということがわかってきますと、心全体が 「行雲流水(こううんりゅうすい)」 のように自由な境地になれるのであります。行雲流水といいますが、まだ雲でも水でも形がありますから、風とか、岸とかいうものに支配されるのでありますが、「自分」 というものが、本当に無形の存在であるということがわかってきますと、もう何物にも支配されない自由自在な心境にでられるのであります。
この真理がわかったとき人間は本当に安らかな心境になり、この安らかな心境を実生活に顕わしたときには、それがそのままで 「生長の家の生き方」 になるのであります。だから 「生長の家の生き方」 というものは、常に明るい生活であって、暗い影をもっていない生活であります。
2232
:
復興G
:2013/07/11(木) 16:08:22 ID:AB6RqYXc
あと、テキストp.173からの 「罪を他に帰するは自分を木偶人形にすること」 というところの前後も、私たちが生長の家の生き方をする上で、とても大切な指針のお言葉であると感じさせて頂きました。それを謹写させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
人間の実相(ほんとのすがた)は神の子であって、本来無形のものである。無形であるから、何物にも縛られない自由自在なものである、金剛不壊(こんごうふえ)の霊的実在であるということを自覚しないからであります。このいかにしても害しようのない、金剛不壊の自分自身でありながら、その「本当の実相」というものを悟らず、他(ひと)とか物とか事件とかが自分を害したと思う、害したと思うと腹が立つ、腹が立つとそこによくない精神波動を起こす、類は類を招(よ)び、自分のよくない精神波動は、宇宙に漂っているよくない精神波動を招び寄せて、ついにその精神波動が形に化して病気を具体的に起こすことになるのであります。
罪を他に帰するは自分を木偶(でく)人形にすること
この「生長の家」の生活を始めない以前のわたし、つまり金剛不壊の自分の「生命」の実相を自覚しない以前のわたしは、絶えずこの悪い精神波動を起こしていましたので、不断に身体も悪く、心も不快だったのであります。
今から考えてみますと、今でもまだ本当に善くなってはいませんが、わたしほど悪い人間は少なかったかもしれないのです。ちょっと胃腸が悪いと、「お昼にあんなおかずを食べさせたからだ」といって小言をいう。「おかずが半煮えであったから、そのために野菜の繊維素が不消化だったのだ」などという。つまり、人間というものを宇宙の主宰者である神の子であるとは考えずに、一片の野菜の繊維よりも弱いものだと考えていましたので戦々兢々(せんせんきょうきょう)として、自分に対して与えられるものに警戒していなければならなかったのであります。
そんな弱い信念しかもっていないのでありますから「心」の顕現(あらわれ)である身体(からだ)が善くなるはずがないのであります、インキ壺をひっくり返してでも、これは自分が不注意であったのだ、自分が自己の円満完全な本性の自覚が足りなかったためにこんな失錯をしたのだとは考えずに、「お前がこんな所ヘインキ壺を置いておくものだからインキがひっくりかえったのだ」などという。あるいは「お前が呼んでも返事をしないものだから、手をあげる拍子に袖がひっかかって机からインキ壺が落ちたのだ」などという。終いにはこれは自分が悪いのではない、親がわたしの性格をこういうふうに生んだのだなどとまで思ったりする、始末にいけないわたしだったのです。
何事が起こっても悪いことはみんな他(ひと)のせいにし、みな他(ひと)に責任を負わしてしまって、自分だけは責任のがれをしようと思う。
こんな卑怯な虫のよい心は、ちょっと考えると、悪いところを他(ひと)にばかりなすり付けて自分は善い所ばかり独占するのだから、大変得になる心の持ち方であるかのように思われますけれども、けっしてそうではない。
<つづく>
2233
:
復興G
:2013/07/11(木) 16:12:37 ID:AB6RqYXc
<つづき>
聖典の第一巻で 「他(ひと)を生かせ自分も生きる」 という題で説明したことがありますように他を罪する心は自分を罪することになるのであります。他を心で斬るものは自分も他から斬られる――これが心の法則であります。
寝られないと他(ひと)のせいにする、胃腸が悪いと他のせいにする、不幸があると他のせいにする――こういう心は、自分というものが全然他の人または他の物の傀儡(かいらい)であって、土偶(でく)人形のようなものだと考えていると同様である。
土偶人形というものは少しも自主独立な選択力がない。右を向かせれば右を向き、左を向かせれば左を向く、手を上げるのもインキをひっくりかえすのも自分の力ではない。だからわたしがインキをひっくり返してもわたしが悪いのではないという弁解も成り立つ。この土偶人形と同じように自分自身にはなんの力もないものだ他動的にのみ支配されているものだ、とわたしは「生長の家」の心の持ち方になるまでの長い期間、「わたし自身」を考えていたのであります。
そういう弱い自覚を持っていたから、わたしはしじゅう「他から害される」という強迫観念をもっていた。そして毎日「他(ひと)がこうだからわたしはこんな目に会った」とつぶやいていたものであります。人を恨む、その癖自分は同情されたい。その間じゅうわたしは神経衰弱で、不眠症になったり胃がつかえたり、下痢したり、震災に会ったり、泥坊に二度もはいられたりしていました。
が、人間というものはそんな他から支配されるような土偶人形ではない、自主独立的な神の子である、自分の肉体、自分の運命、自分の境遇は、自分で自由自在に変化させうるものであるという真理をさとってからは、だんだんわたしのつぶやきも減ってきました。
こうして自己の神性の自覚ができまして、つぶやきが減ってきますと、わたしの身体(からだ)も健康となり、以前にはずいぶん虚弱だったわたしが、会社生活の片手間にでも雑誌の執筆編集から、他人の病気相談にいたるまで、二重三重の激務に従事できるようになってきましたし、境遇もだんだん善くなりつつあるのであります。
他(ひと)の陥るおとしあなを造っておけば自分もまたおとしあなに落ちるという意味で、昔から 「他(ひと)を呪わば穴二つ」 という諺がありますが、この 「呪う」 ということは本当は言葉で悪くいうことでありますから、「つぶやく」 ということも要するに 「呪い」 にほかならないのであります。だからこの 「他を呪わば穴二つ」 という諺は 「つぶやくものにはつぶやくような不幸が来る」 ということに言い換えることもできるのであります。
2234
:
復興G
:2013/07/11(木) 16:27:35 ID:AB6RqYXc
上記を読んで、私は 「谷口雅春先生でも、お悟りになる前は、何でもひとのせいにするようなことがあられたのか!」 と、ちょっとびっくりするとともに、安心しました。先生でもそうだったんだ、と。
「罪を他に帰するは自分を木偶(でく)人形にすること」
――その逆に、何でも 「自分の責任」 として引き受けられる者こそ、イエス・キリストや天皇陛下のように、偉大な業を成し遂げられるものとなるのだと思いました。
ありがとうございます。
2235
:
ユタカ
:2013/07/11(木) 16:57:10 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま、a hopeさま 志恩さま、皆様
明日の開会の時間までぎりぎりか、間に合わないか? のどちらかで帰宅します。
ですので、遅刻して参加します、皆さんのご予定はいかがですか?
a hopeさまは開会のお祈りを引き続きできますでしょうか? よろしくお願いいたします。
2236
:
a hope
:2013/07/11(木) 23:10:15 ID:edEDolt2
みなさま こんばんは
>>2225
復興Gさま わたしの問題提起へのお返事をありがとうございます。
そうでしたね。
復興Gさまは、以前、志恩さま宛にその件に関してはお答えくださっていたのでした。
たしか、聖経『甘露の法雨』や『天使の言葉』などは、それを読む人が、病気が治ったり、生活苦から解放されたりと、
たくさんの奇蹟が起ったから、長編詩から聖経と呼ばれるようになったのですよね。
一方、『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』は奇蹟も何も起こっていないのに、
むしろ、信徒の魂を迷わし不幸にする偽経なのに、
<<参議・理事などが、これは「新しいお経」として毎日読むように仕向けようと、運動方針書にも記載するようにした。>>
ことによって、新経本となり信徒に強制的に読誦させているのですよね。
本当におかしな話だと思います。【経】を辞書検索してみると(大辞泉より)
―――――――――――――――
きょう〔キヤウ〕【経】
1 《(梵) straの訳。音写は修多羅》仏や聖者の言行や教えを文章にまとめたもの。
2 仏教以外の、宗教や学芸の根本となる書物。聖典。「五―」
―――――――――――――――
とありました。
【聖】という字がつかなくても、すでに【経】をつけてしまった時点で、それは神聖なものでなければいけないのだと思います。
ご兄弟とも和解されていない雅宣先生が神や仏の言葉のラッパになれるわけがありません。
復興Gさまはハッキリ【偽経】であるとおっしゃっていますが、わたしはそのことを生長の家の全信徒に知らしめる必要があると思います。
わたし達は、実相(人間)には和解しなければいけませんが、妄想(虚説)には決して和解してはいけないのではありませんでしたっけ?
たとえば、ユタカさまや復興Gさまは
『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』が【偽経】(妄想・虚説・誤れる見解)だとはっきりわかっているわけですから、
>>教化部長 「新経を読んでください。」
ユタカ 「ハイ、ありがとうございます。」
(行事終了後、「聖経」をあげる)<<
ということが可能なのかもしれません。
ですが、それれが偽経だと知らず真面目に読誦している多くの信徒のことはどうするのですか?
今現在もたくさんの人々が病気や生活苦、人間関係等で苦しみ魂の救いを求めています。
そのような人々に「真の教え」を伝えて、信徒を真理に導くのが講師方々のお役目なのではないのですか?
(ユタカさまが講師かどうかは知りませんが・・・)
わたしは、もっともっと積極的に『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』が【偽経】(虚説)である事を
アピールしなければいけないような気がしてきましたよ。
それは決して、雅宣先生ご自身を批判することにも、実相を礼拝しないことにもなりませんよね?
(つづく)
2237
:
a hope
:2013/07/11(木) 23:10:45 ID:edEDolt2
以下、「生長の家本流宣言掲示板」の宣言より引用させていただきます。
―――――――――――――――
……さらに例をあげてみれば、ここに放蕩息子がいるとします。放蕩息子といえども人間でありますから、実相は放蕩息子ではないのであります。放蕩息子にあらわれているのは仮相すなわちウソのスガタであります。
それでその息子に和解する場合を考えてみますと、「放蕩息子よ、よう放蕩してくれた。わしはお前の放蕩を喜ぶぞ」というように仮相(=仮の姿)に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来るのであります。
……よく富豪の甘い親をもった家庭に始末におえない道楽息子があることがあります。これは道楽息子という仮相を排撃することをしないで、仮相に和解してしまったからであります。
仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。
……われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまきれてしまうのであります。だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。
「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますから、われわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。
……虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳がないように思うのはまちがいであります。また虚説を容(い)れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちいであります。虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。
……虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す……。どうかみなさんも虚説(=ないもの)に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(=罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(=その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。
要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大のまこと誡命(=いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。
(『生命の實相』第14巻「倫理篇」)
――――――――――――――――――
わたしは、『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』こそ、わたしたちが決して許してはいけない虚説(誤れる見解)であると思います。
そして、雅宣先生(人)に対してはどこまでも実相を見て許さないといけないのだと思います。
(
>>2230
〜の復興Gさまの御文章は未読ですが、取り合えず投稿させていただきます。)
2238
:
a hope
:2013/07/11(木) 23:29:16 ID:edEDolt2
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第15回web誌友会予告
日時 7月12日(金)21:30から15日(月)23:00まで
テキスト『生命の實相』 第3巻 「生命篇上」 (p.97〜p.213)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
>>2235
ユタカさま
<<a hopeさまは開会のお祈りを引き続きできますでしょうか? >>
ハイ 喜んで!
明晩、9時くらいになりましたら、準備祈願のお祈りの言葉(ユタカさま作)を貼らせていただき、
いつものように、「真理の吟唱」より祈りの言葉を謹写させていただきます。
「訊け」管理人さま、今回も司会楽しみにしています。
無理のないように、楽しんで司会をしてくださいね!
2239
:
志恩
:2013/07/12(金) 03:52:34 ID:.QY5jUA6
WEB誌友会
いよいよ今夜からスタートですね。
とてもたのしみにしています。
復興G様、たくさんの貴重な資料のご謹写と、すばらしいご講話、
誠に、ありがとうございます。拝読しました。
いつもご指導、感謝申し上げております。
トキ様のコメント、
a hope様の疑問、ユタカ様の書き込みも、読まさせて頂いております。
SAKURA様は、お一人だけ、強力な 雅宣さん擁護派でいらっしゃいますが、
私は、雅宣さんが頭で考えて、作り出したお経は、どうしても読めません。
私には波動が、合いませんので、どうしても読めません。
上の人に、読めと言われないで済んでいるのは、
今は私は、組織に属していないからですが、よかったです。^^
人それぞれに、自分が合う生き方を、自然体で生きるのが、幸せな生き方だと思っております。
私は、連休なので、来客がありますし、主婦なので昼間は、多忙ですし、
しゃべりすぎるところが、ありますので、
なるべく出しゃばらず、たま〜に発言するように、心がけたいと考えております。
司会の訊けさん、司会をお引き受け下さって、ありがとうございます。
ご閲覧下さってる皆様、本流の皆様も、傍流の皆様も、
世界へ向けてのWEB誌友会ですので、よろしかったら、15日の夜まで
ございますので、ご参加下さいませ。
2240
:
「訊け」管理人
:2013/07/12(金) 08:28:35 ID:???
>>2239
こんな文章を読むと、なんで「ムカツク」んだろう。
司会はムリかもしれません。
拜
2241
:
「訊け」管理人
:2013/07/12(金) 08:30:24 ID:???
いやもうホント、私を信用してくださった復興Gさま、すみません。
でも自分、もう、どーしても許せんです。この、思春期をコジらせた妄想老人のお相手は。メンドウです。コイツら甘えてきってやがる。
・・・・・いや現在、ムカツイてムカツイて、仕方ない状況です。とても司会は務まらぬと思います。志恩さんや童子さん、これらホンリュウの方々がバカに見えて仕方がない状況です。「偉そうにしやがって、コンチクショー」な状態と云う意味です。ですんでたぶん、皆さんにご迷惑をおかけすると思うのです。
いや、もう、ホント・・・・「なんで貴重な時間を使って」「こんなバカどものご機嫌を、取らなきゃイカンのか。」そんなセリフを「平気で公言出来る気分」です。・・・そんな事に時間を使うよりは、他の生産的なことに投下したいですよ、自分のエネルギーをね。(高校生に勉強を教えたり、野球部の応援に行ったり。あるいは、近所のクソがきに野球を教えたり・・・・ですね)
・・・・榎本惠吾先生に申し訳ないので、私は司会を降りたいです。いや、どーしても「自分ダケが正しく」「他が間違っている」と思えます。無反省です。そして、ホンリュウの卑劣さ下品さに、嫌気が差して来ております。和解派のクセに、です。そして現状は、一部老人に対して「偉そうにしやがって、コンチクショー」な状態でして、とても司会は務まらぬと思います。「榎本先生のご命日だ、自戒せよ」てな作法が、とても小賢しく思える現在です。「はっきり、言ってやれ」てな気分なのです。とても司会は務まらぬと思います。
拜
2242
:
a hope
:2013/07/12(金) 08:56:02 ID:edEDolt2
「訊け」管理人さま
このweb誌友会の司会が出来ないことへの、言い訳はいらないのではないのでしょうか?
わたしは、今回は司会なしでいいのではないかと思います。
2243
:
復興G
:2013/07/12(金) 09:45:08 ID:AB6RqYXc
>>2242
:a hope:2013/07/12(金) 08:56:02 ID:edEDolt2
「訊け」管理人さま
わたしは、今回は司会なしでいいのではないかと思います。<<
――私も同感です。 よろしくお願いします。 ありがとうございます。
2244
:
「訊け」管理人
:2013/07/12(金) 10:00:05 ID:???
ありがとうございます。
当日でのドタキャンになりますが、その点はお詫び致します。
拜
2246
:
復興G
:2013/07/12(金) 12:42:54 ID:AB6RqYXc
>>2244
:「訊け」管理人殿
司会者としてでなく、参加者として自由発言で参加されることを期待します。
2247
:
神の子さん
:2013/07/12(金) 12:51:40 ID:U0BvKudI
>>2240
訊けさんがそうおっしゃるように、「訊け」と見ただけでムカつく人も多々ありましょう
2248
:
志恩
:2013/07/12(金) 13:26:58 ID:.QY5jUA6
訊けさん
あれあれ、司会、ドタキャンされたのですね。残念です。
あなたはね、本流だと思うと、噛み付いて噛み付いて、
それだから、反論して 振り払ったら、
今度は、私や童子さまにむかついて、むかついて、
私や童子さまのせいで、やる気なくした、という具合に、司会をドタキャンしてしまって、
まるで、こどもみたい!!
いつもの威勢のいい訊けさんは、どこへ行ったのかしら。
くじけずに生きて行って下さい。
司会はやめられても、
発言は、されることを、復興G様同様に希望します。
2249
:
志恩
:2013/07/12(金) 15:07:50 ID:.QY5jUA6
訊けさんへ
WEB誌友会参考資料板より
>>4
:復興G様
略
元生長の家本部講師 榎本恵吾先生(故人)の書かれた論文
『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―』 というのがあります。
53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な量のご文章です。
これは、榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年から11年(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」で神想観・神癒祈願をされたあと、
この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。
これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。
榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。
それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」宛に送っておられたそうです。
検討委員会では、教化部長・本部役職者・本部講師の人たちから「提言書」を募集していたのですが、
「優秀提言の選考と褒賞」の対象としては平成10年6月末で締め切ったので、7月以降に提出された榎本先生の論文は選考の対象とはならなかったようですが、これを読んだ担当者は、非常な感銘を受けたと漏れ承っています。
今、私はそれを保存されていたのをいただき読み返してみて、実に「今」――行き詰まり・分裂状態を呈している(と思われる)生長の家の運動を根本から考え直すために
、用意されていた光明化運動論ではないかと、深い感銘を覚えます。略<<
このように、今回の参考資料は、
訊けさんも、尊敬してやまない榎本恵吾先生のご文章を、復興G様が、謹写下さっています。
ですから、私よりも、訊けさんが、参加される方が、大事なのです。
で、訊けさんが、大嫌いな、私が居て、「志恩」という字を見ただけでムカつくのでしたら、
私が、欠席します。
いいですね、訊けさん、
私が、欠席しますから、訊けさんは、出て下さい。
訊けさんは、今は、まだ相変わらず、ヤンチャですが、
若いお方で、将来の生長の家にとりましても、日本や世界にとりましても、
重要な役割を果たすお方だと、思っておりますので、
時間のゆるすときに、ご参加ください。
榎本恵吾先生も、天国からいらして、参加されると存じますので、
よろしくね。
2250
:
志恩
:2013/07/12(金) 15:23:40 ID:.QY5jUA6
訊けさんへ
上記の投稿文は、あなたがいつも勘ぐる、「私が好感度を上げるために」
いっているのでは、ありません。私は、そのような小賢しいことをする人間では
ありません。
私のせいで、司会を降りた様な言われ方をして、
ひどく心外に思うところがあり、それも含めて、私の方が、
今回、欠席することにしたのです。
誌友会が終わったあとに、感想を述べさせていただくことは、
あるかもしれませんが、それにつきましては、ご容赦下さい.
2251
:
復興G
:2013/07/12(金) 18:15:27 ID:AB6RqYXc
皆々様。
ありがとうございます。
本日夜21:30から始まる第15回web誌友会の前に復興Gの講話を、というご希望があり、いろいろ書いて勉強しておりましたが、まとまりのないまま、お約束の 「夕方までに」 という時間が来てしまいました。それで、まとめは誌友会後にさせていただくことにいたします。ご了承下さい。
合掌
2252
:
トキ
:2013/07/12(金) 18:27:52 ID:77yRiluA
復興G様、では、よろしくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
2253
:
神の子さん
:2013/07/12(金) 20:13:33 ID:63Scxhoo
2247 名前:神の子さん 投稿日: 2013/07/12(金) 12:51:40 ID:U0BvKudI
>>2240
訊けさんがそうおっしゃるように、「訊け」と見ただけでムカつく人も多々ありましょう
2254
:
トキ
:2013/07/12(金) 20:31:14 ID:77yRiluA
誌友会の前ですから、不規則発言はおしまいでお願いします。
合掌 ありがとうございます
2255
:
a hope
:2013/07/12(金) 20:58:28 ID:edEDolt2
第15回web誌友会開会の時刻 が近づいてまいりましたので、「準備祈願」としての祈りの言葉を掲載させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(準備祈願) 住吉大神様 住吉大神様 谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
住吉大神様、本日の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
今夜の生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
今夜の参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます
世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。
光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
2256
:
a hope
:2013/07/12(金) 21:05:20 ID:edEDolt2
つづきまして、聖経「続 真理の吟唱」より『神の愛 万物を霑(うるお)す祈り』を謹写させていただきます。
『神の愛 万物を霑(うるお)す祈り』
ほんとうの愛は人間の外面の美を愛する愛ではないのである。
本当の愛は〝神を愛する愛〝である。
神はすべての人の生命(いのち)の中に宿ってい給うのである。
その各々(おのおの)の人間の生命の中に宿っていられる神を愛するのが本当の愛であり、
それによって、神を愛することと人を愛することが、食いちがうことなく、
ひとつにぴったり重なり合うことになるのである。
もし人間が人間の表層のみを愛し、皮膚の美を愛し、筋肉の美を愛し、
体力の逞ましさを愛し、或いはまた知能のすぐれたるを愛するならば、
それは人間の現象面のみを愛するのであるから、現象は無常であって常に遷(うつ)り易(かわ)るものであり、
常に萎び、衰え、消えてゆくものであるから、その愛を末遠く永遠に持続することが出来ないで、
その愛を中断して消えてしまうか、愛する対象が萎び衰えほろび行く姿を見て、
愛が却って悲嘆に変わってしまうことになるのである。
このように人間の表情や外面のみを愛する愛は、その愛を最後まで完(まっと)うすることができないのである。
これに反して、神を愛する愛は、神より出でて神に還るのである。
神は無限であり、神の愛も無限であるから、神を愛する愛を以て人間に内在する神性を愛し、
仏性を礼讃するならば、その愛は消えることなく衰えることなく、彼もわたしの神性を愛し、
われも彼の神性を愛し、神性と神性とが互いに還流して、
神の普遍的な愛の本源よりさらに大いなる愛の流れを汲むことが可能となり、
雨期の雨がひろく地上を霑(うるお)す如く、空気があらゆる空間に隙間なく瀰漫(びまん)するが如く、
この世界は神の愛、人間の愛、万ず生ける物の愛が充ち満ちていることは勿論、
山川、草木、国土、鉱物も植物も如何なる微生物も、ことごとく、その実相たる神性仏性を顕わし、
万物互いに生かし合い、扶(たす)け合いて、まことに地上到る処に天国浄土が実現するに至るのである。
われは今、神の愛にこころ満たされ、すべての人々の実相円満完全のすがたを敬し、拝するのである。
愛は今まで埋没していた内在の神性が具有するすべての美と徳とを顕在の世界にまで招き出だす力であるから、
「神があらわるれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし」
と聖経『甘露の法雨』に示し給えるが如く、今より後、歎く者無く、悲しむ者なく、憂える者なく、
祝福の霊波は慈雨の如く天界より降り濺(そそ)ぎて、すべての生物神を讃え、
すべての人々の病いは癒やされ、暗黒は消え、すべてのものに霊光かがやき、
十方世界光明遍照の実相世界を現実に今見るのである。
かくして神を愛する愛がすべてのものを貫いてこれを霑(うるお)すとき、
いたるところに龍宮無限の宝庫は開かれ、今ここに天国浄土が実現するのである。
この真理を知らしめ給いし神に感謝し奉る。
ありがとうございます。
2257
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 21:08:04 ID:R1D4Jmeg
ありがとうございます。 ユタカ到着しています。
2258
:
a hope
:2013/07/12(金) 21:18:21 ID:edEDolt2
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第15回web誌友会予告
日時 7月12日(金)21:30から15日(月)23:00まで
テキスト『生命の實相』 第3巻 「生命篇上」 (p.97〜p.213)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
もう、15分ほどで、第15回web誌友会の開会です。
復興Gさま、ご講話のまとめをどうぞよろしくお願いいたします。
ユタカさまもありがとうございます。
とても心強いです。
今回も自分自身の魂の向上のため、精一杯お勉強させていただき、
そして、心を空しくして素直な気持ちで発言していきたいと思います。
みなさま、どうそよろしくお願いいたします。
2259
:
復興G
:2013/07/12(金) 21:20:12 ID:AB6RqYXc
a hope さま
<<第15回web誌友会開会「準備祈願」としての祈り>>
そして
<<聖経「続 真理の吟唱」より『神の愛 万物を霑(うるお)す祈り』>>
素晴らしい祈りの言葉で、浄められました。
ありがとうございました。
ユタカさま
お帰りなさい。
よろしくお願いします。
2260
:
復興G
:2013/07/12(金) 21:35:38 ID:AB6RqYXc
>>2258
:a hope様
>>復興Gさま、ご講話のまとめをどうぞよろしくお願いいたします。<<
これは、
>>2251
で
>>本日夜21:30から始まる第15回web誌友会の前に復興Gの講話を、というご希望があり、いろいろ書いて勉強しておりましたが、まとまりのないまま、お約束の 「夕方までに」 という時間が来てしまいました。それで、まとめは誌友会後にさせていただくことにいたします。ご了承下さい。<<
と書いておりました。
いろいろリアル世界で予期せぬハプニングもありまして、時間的に難しくなったので、「講話のまとめ」はないままで誌友会に入って頂きたいと思います。
もし、皆さまからのご発言がなければ、また私の投稿をさせて頂きましょう。
ありがとうございます。
2261
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 21:50:09 ID:R1D4Jmeg
ユタカは今、復興G様の講話を読んで、ちょっと怖くなりました。。。
暗い悪い言葉が呪いと言うことはわかりますが、つぶやきも『呪い』に谷口先生は分類されておられます。。。
私達はもっと、もっと、実相独在を勉強して自ら大光明をはなったら、全ても光って見えてくるのでしょうか?
まだ、自分の周囲に対して何か、暗いところが見えるのは、自分の内なる神が輝いていないと言うことなのですね?
実相独在、光明一元に自分が立ったときには新経『大自然や観世音』はどうみえるのかなぁ????
と思いました。
2262
:
a hope
:2013/07/12(金) 21:52:01 ID:edEDolt2
>>2260
復興Gさま
読み間違いをして申し訳ありませんでした。
今回は、わたしもここのところ色々と忙しくしていて、
web誌友会参考文献板の榎本先生の御文章も、まだ全部拝読し終わっていないです。
ですが今回は期間が長いので、じっくり自分のペースで参加していきたいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
2263
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 22:06:40 ID:R1D4Jmeg
無形とは『素直』に生きるということに繋がっていくのでしょうか?
>自分は無形の存在だと解れば自由になれる
人間は 「肉体」 ではない、有形のものではない、無形のものだということが悟れるまでは、肉体という物質的な制限に心が捉えられていますから、本当に心が自由になれないのであります。心が自由になれないから、本当ののびのびした安らかな心境になれないのであります。
これに反して、「人間」 は無形のものだ、「本当の自分」 というものは無形のものだ、ということがわかってきますと、心全体が 「行雲流水(こううんりゅうすい)」 のように自由な境地になれるのであります。行雲流水といいますが、まだ雲でも水でも形がありますから、風とか、岸とかいうものに支配されるのでありますが、「自分」 というものが、本当に無形の存在であるということがわかってきますと、もう何物にも支配されない自由自在な心境にでられるのであります。
この真理がわかったとき人間は本当に安らかな心境になり、この安らかな心境を実生活に顕わしたときには、それがそのままで 「生長の家の生き方」 になるのであります。だから 「生長の家の生き方」 というものは、常に明るい生活であって、暗い影をもっていない生活であります。
生命の実相を熟読して考察する事は、なんと、嬉しい、有難いことでしょうとおもいます。
2264
:
復興G
:2013/07/12(金) 22:15:22 ID:AB6RqYXc
>>2236
・
>>2237
の a hope様 投稿の問題提起は、とてもとても考えさせられる大問題です。
新経は、ニセ経(似せ経、偽経)だと思う。
a hope 様は
>>ユタカさまや復興Gさまは
『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』が【偽経】(妄想・虚説・誤れる見解)だとはっきりわかっているわけですから、
>教化部長 「新経を読んでください。」
ユタカ 「ハイ、ありがとうございます。」
(行事終了後、「聖経」をあげる)<
ということが可能なのかもしれません。
ですが、それれが偽経だと知らず真面目に読誦している多くの信徒のことはどうするのですか?
今現在もたくさんの人々が病気や生活苦、人間関係等で苦しみ魂の救いを求めています。
そのような人々に「真の教え」を伝えて、信徒を真理に導くのが講師方々のお役目なのではないのですか?<<
ユタカさまは、
>>2261
>>暗い悪い言葉が呪いと言うことはわかりますが、つぶやきも『呪い』に谷口先生は分類されておられます。。。
私達はもっと、もっと、実相独在を勉強して自ら大光明をはなったら、全ても光って見えてくるのでしょうか?
まだ、自分の周囲に対して何か、暗いところが見えるのは、自分の内なる神が輝いていないと言うことなのですね?
実相独在、光明一元に自分が立ったときには新経『大自然や観世音』はどうみえるのかなぁ????<<
――さあ、この公案にどう応えるか?
2265
:
復興G
:2013/07/12(金) 22:20:30 ID:AB6RqYXc
>>2263
:ユタカ様
ありがとうございます!
そう、どんな問題にも正解がある!
>>生命の実相を熟読して考察する事は、なんと、嬉しい、有難いことでしょうとおもいます。<<
本当に、そうです!
2266
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 22:24:57 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま
開会のお祈りと真理の吟唱の謹写をありがとうございました。
真理の吟唱を読ませていただくと、安心します、このような世界ばかりが観れるような「自分に」なりたい!!
2267
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 22:35:11 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま
>そう、どんな問題にも正解がある!
本当ですか!! 嬉しい!! このWEB誌友会でとりあげられている問題のすべてに正解があるのですね!!!
勉強するのが嬉しい楽しい有難〜〜い! ワクワクどきどきです!!
今自分は、あのお方に感謝しております。。。。 (誰かに石を投げられるかも?! ですが・・・)
2268
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 22:37:49 ID:R1D4Jmeg
復興Gさまとユタカしかいない気がする・・・(笑)
2269
:
トキ
:2013/07/12(金) 22:47:07 ID:77yRiluA
この経本の問題は難しいと思います。
違法拘束命令、という言葉を聞いた事があります。組織の上司の命令が、違法なものであった場合、この
命令に従うべきか、どうか、という事があります。この問題が議論になったのは、昭和の始めに起こった
二・二六事件でした。あのとき、反乱軍の将校が勝手に天皇陛下の軍隊に命令を出し、その命令に従い
反乱軍の兵隊さんは、陛下の股肱を殺害したのです。この兵隊さんの行動は、上官の命令を忠実に守った
という点だは忠義を尽くしたかもしれませんが、上官の命令が明らかにおかしいのですから、その意味で
は不忠であったと言えます。それ以来、法律の世界でも、この問題は大きなテーマになったと聞きました。
先日、亡くなられた東京電力の福島第2発電所の吉田昌郎所長(当時)は、大震災のときに、東電本社
が「首相の了解が得られていない」として海水注入の中止を命じたのに対し、吉田氏はこの指示を無視して
注水を継続し被害の拡大を防いだ、とされています.
もちろん、現場の人間が、勝手な判断を連発したら、組織は崩壊してしまいます。だから、そう簡単に
『命令違反」をしても良いとは思いません。しかし、明らかに指導部が間違った場合、その命令に従う
事が、倫理的に正当化できるか、という事は難しい事です。私自身は、本流復活派の考え方は支持しません。
が、教団指導部は、いくつかの点で間違っています。要は、原則として組織の命令には従うべきですが、
間違った指導に従う事は、それが間違いだと気がついた以上は、従わない事が義務になるのかもしれません。
2270
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 22:47:45 ID:R1D4Jmeg
う〜〜ん・・・
水でもまだ形があるんだ・・・ もっともっと無形か・・・ 実感してみたい!
>まだ雲でも水でも形がありますから、風とか、岸とかいうものに支配されるのでありますが、「自分」 というものが、本当に無形の存在であるということがわかってきますと、もう何物にも支配されない自由自在な心境にでられるのであります。
↑↑ 難しい!!
2271
:
ユタカ
:2013/07/12(金) 22:55:46 ID:R1D4Jmeg
>間違った指導に従う事は、それが間違いだと気がついた以上は、従わない事が義務になるのかもしれません
トキ様のような教区の立場の上層の信徒方々が結束して行動したら山が動きそうですが・・・
下層の信徒は(ユタカ)ひたすら神さまに正解を求めていきたい・・・
2272
:
トキ
:2013/07/12(金) 23:06:46 ID:77yRiluA
個人的な考えですが、喧嘩はよくないですが、無闇に従う必要もないと思います。
今の生長の家という組織は、谷口雅春先生や先達が苦労して作られたものですから、
今の世代の私達は、後の世代に継承する義務はあると思います。同時に、正しい教え
が継承される事が大事だと思います。判断基準は外形の行動ではないくて、内心から
判断されるものかもしれませんね。
2273
:
あさひ
:2013/07/12(金) 23:22:15 ID:/3nxKE2Q
訊け様
ものすごく有能な訊け様でも むかつく事があるのですね。
意外でした。でも人間的でいいですね。
合掌
2274
:
復興G
:2013/07/12(金) 23:23:40 ID:AB6RqYXc
私は今、投稿文を作成中ですが、ここでちょっとお風呂に入ってきます。
風呂から出てから続きを書いて投稿します。
もう夜遅いですから、皆さま、どうぞおやすみ下さい。
では、また明日。
2275
:
復興G
:2013/07/13(土) 04:34:14 ID:AB6RqYXc
無門關の第五則に、「香嚴上樹(きょうげんじょうじゅ)」の公案というのがあります。
「千仞の谷の上に懸かっている樹の枝を口でくわえてぶら下がっている人がある。手は枝をさわってはならない、脚は樹を踏んではならない。その時に返答しなければならぬ問題を問われて、返答しなかったら首を切るぞ。返答したら口が枝を離れて千仞の谷底へ落ちて死んでしまうぞ。さあ、どうするか」
という公案(禅の悟りの試験問題)を、香嚴(きょうげん)和尚が出したのですね。
谷口雅春先生は、『新版 真理』 第3巻で、これについて次のようにご指導くださっています。
禅は「全」である。禅の悟りは、自分が全局の支配者となることである。対境(対する境遇)に支配されるようではいけない。上の公案では、自分で自分を勝手に縛っている。「手は枝をさわってはならない、脚は樹を踏んではならない」と。ありもしない公案をあるかのように想像して、自分で勝手に「板挟み」に陥っている。それが人生の困難のすべての場合であるのである。
人生にどんな難問題があるように見えても、本当は問題というものは解決し得るためにあるのである。
「口で樹の枝にぶら下がっていて、さあ返答せよ」と言われる場合、口をひらいたら千仞の谷に落ちるというが、それは自分で、自分の手は動かないと信じて、枝を握ることを忘れているだけのことである――と。
『無門關解釋』には、戦時中にあった体験として、次のような話が書かれています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
何故この公案がそんなにも馬鹿々々しいものであるかというと、机上の閑(かん)空想の葛藤であるからである。
葛藤本来なく、進退両難本来なしであるのに、わざとわが心で葛藤を作り、進退両難を爲(つく)っているからである。
「口に樹枝をふくみ、手に枝を攀(よ)じず、脚に樹を踏まず、樹下に人あって西来意を問わんに……」というのが、何故に進退両難であるか。
手が枝に触れなかったら、みずから能動的に手を動かして枝を握れば好いではないか。枝を握って口を離して、さてそれから祖師西来意に就て応答すれば好い。何処にも事実上進退両難はないのである。
進退両難の原因は「手は枝を攀じず」と自分自身本有の自由自在の力を限ってしまったところにある。それは白墨の線を自分を縛る綱だと思って身動きの出来ないような自己暗示に陥った鶏の不動金縛りと同じことである。
不動金縛りは自分の心の中に在る。心から不動金縛りを取り去ったとき、吾々はいつでも進退両難の窮境から脱却することが出来るのだ。何故なら、
進退両難の窮境は実相に於ては無いものであって、唯空想の中にのみ存するものに過ぎないからである。
太平洋戦争中の事である。ある日、私はいつになくAKのラジオのスイッチを拈(ひね)って見たら、そこに語られている話は航空兵田中曹長の美談であった。
話の前半は聞き洩らしたので何処の戦闘の時であるかは知らない。上官下方(しもかた)准尉の操縦せる飛行機は不幸にしてそのエンジンの一つに敵弾を受けた。味方の陣地に帰還するには距離が遠いし、予備のエンジン一個のみの力では力が足りずにズンズン機体が下降して行く。
下方には敵軍が待ち設けていて、飛行機が落下したら、それを鹵獲(ろかく)し、乗組員を捕虜にしようと待ちかまえている――まことにこれこそ進退両難である。下方准尉は捕虜になり機体を鹵獲せられるのは残念であるというので、潔(いさぎ)よく機体と共に自爆せんものと、既に自爆の準備を行っているのが田中機からは見えたのである。
田中曹長はそれを見ると大声で「自爆しては可(い)けない。死するばかりが忠義ではない。生きられる限り生き伸びて最後の一分間までも自分の任務のために尽くすのだ。低空飛行をして続く限り味方の陣の方へ引返せ」と呼ぶけれども、それは無論聞えはしないのである。田中曹長は仕方がないから空中に大きく字を書いてその旨を合図する。
下方准尉はその合図に気が附いたものか自爆を中止して、エンジンが傷ついて浮揚力の少い飛行機で低空飛行を続けて味方の陣地へ引返そうとするのだけれども、機体は愈々浮揚力を失って、敵陣の中へ滑走状態で墜落した。田中曹長は上空から見ていると、下方機は道なき道へ滑走状態で墜落したと見る間に、地面の凹凸に衝突して顛覆して破壊した。
<つづく>
2276
:
復興G
:2013/07/13(土) 04:34:53 ID:AB6RqYXc
<つづき>
と、下方准尉は機から這い出て来て機密書類を焼却していると、敵兵が周囲から集って来て下方准尉を包囲攻撃する。附近部落の村民まで出て来て敵軍に加勢する。下方准尉は拳銃を以てそれに防戦するのであったが、敵は多勢であり、味方は一人であり、拳銃の弾が尽きたら万事休すである。
田中曹長はそれを上空から見ていたが、加勢に自分が降りて行って下方准尉を自分の飛行機にのせて還って、その急場を救いたいと思うのだけれども、適当な着陸地点がないから、もし着陸せぱ下方機と同様に顛覆して、もう再び空中へ舞い上ることが出来ない。そして味方の重要な飛行機が無駄になるのだ。
又仮令(たとい)無事着陸しても下方准尉を救い還るには田中機は一人乗りだ。もし自分が救援に赴かなかったならば、下方准尉はあのまま敵の重囲に陥って戦死してしまう。
それでは上官を見殺にしたのであって、自分の日本魂が満足しない。右するも死、左するも死である。「香嚴上樹」の架空的な机上の閑葛藤とは訳が違ふ.、真(まこと)にこれ如実に進退両難である。
その時、田中曹長は、此の進退両難の世界から跳び出した、そして矛盾のないただ一筋の道に驀然として突きすすんだ。
(私が此の講話を生長の家本部の道場でしたときに、企画部の星君が私のあとに道場で立ち上って、田申曹長が生長の家誌友であって現在内地に無事帰還していて、その体験談を誌友会で述べたということを発表せられた。)
かくの如き危急の世界に於てさえも生長の家の悟りから見るときには、「進退両難」などというものはないのである。肉体は本来無く矛盾も本来無い。着陸地が無いということもない。「着陸地が無い」ということは、ただ心の世界に空想に描いた閑葛藤に過ぎないのである。着陸の必要がある限り、着陸地は到るところにあるのである。
田中曹長は空想に描いた「着陸地なし」の閑葛藤を見事に截断(せつだん)して、敵兵の群がる頭上へ滑走状態で着陸した。敵兵は逃げまどう。滑走する田中機の下敷になって職死する敵兵は無数である。
閑葛藤を見事に截断した田中機は、見事敵兵が虚を衝かれて退くところを、下方准尉に応援し、既に疲労してふらふらになっている下方准尉を「上官殿、私の飛行機に乗って下さい」と負うようにして、その一人乗の田中機に乗り込んでエンジンにスタートを掛けた。
もう進退両難などは田中曹長の前にはないのである。
「一人乗りの飛行機に二人乗らせては飛行出来ない。飛行出来なかったら戦死か捕虜かどちらかより仕方がない。この場合どうするか。」
――香嚴和尚ならば、こんなことを進退両難の葛藤の公案として弄(ひねく)りまわすかも知れないけれども、実は進退両難などは空想上の弄戯(ろうぎ)に過ぎないのである。二人を乗せた一人乗りの田中機は無事離陸して味方の陣地へ帰還したのである。
だから無門が、此んな進退両難を公案に持出すなど「香嚴(きょうげん)真の杜撰(ずさん)、悪毒尽限無し」と酷評したのも無理はないのである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「人生にどんな難問題があるように見えても、本当は問題というものは解決し得るためにあるのである。」
「進退両難」というのは空想に過ぎない。実相においては、「進退両難」というものは「無い」のである。
――うーん、すごいことですね。
<< どんな問題にも正解がある!
ひたすら神さまに正解を求めていきたい・・・ >>
――それで行きましょう。神様を信じて、明るく驀進しましょう。
2277
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 05:38:11 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま
有難うございます、素晴らしいお話に涙がでてしまいました・・・・
2278
:
あさひ
:2013/07/13(土) 05:43:30 ID:/3nxKE2Q
復興G様
>「口で樹の枝にぶら下がっていて、さあ返答せよ」と言われる場合、口をひらいたら千仞の谷に落ちるというが、それは自分で、自分の手は動かないと信じて、枝を握ることを忘れているだけのことである――と。
そうですよね。 合掌
2279
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 05:51:42 ID:R1D4Jmeg
そして、田中曹長の行動はまさに天地一切のものと和解する祈りに通じるように思いました。
>妖雲べきべきと空を覆うことがあっても、その上には常に蒼空があるのと同じように、如何に暗澹たる状態たる状態 ((裁判・新経))) が現象的にあらわれてこようとも、その状態に対して心を動ずることはないのである。
心を動ずることがないから、最も適切なる知恵が泉の如く湧き出て暗を消してしまう処置ができるのである。<<
私達は、つぶやいていないで、もっと智慧をだして勇敢に行動しなければ!
それは建設的な思想で建設的な行動で、と思います。 情けないことに、具体的にどういう行動になるのか解りません。。トキ様でしたら、どのように教区で行動なさいますか?建設的なこうどうでしたら・・・
2280
:
復興G
:2013/07/13(土) 05:53:28 ID:AB6RqYXc
『新版 真理』 第3巻 p.282〜p.284には、次のようにお教え下さっています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
問題は既に回答があるのが問題だ
ところで、人生にどんな難問題があるかのように見えましても、本当は問題と云うものは解決し得るためにあるのであります。数学の問題でもそうです。どんなにあなた自身にとって解決し得ない問題でも、実はその回答は既にあるのですが、自分がそれを算出し得ないだけの事なのであります。
口で樹の枝にぶらさがっていて、さあ返答せよと云われる場合、口をひらいたら千仞(仞は一尺の八倍。八千尺)の谷底に落ちると云うが、それは自分で、自分の手は動かないと信じて、自分の手で枝を握ることを忘れているだけのことであります。
この「動けるだけの力を、その時、その場、その人に適する相(すがた)に動かす」と云うことは、是こそ禅の極意なのであります。
「禅機の把握」と云うことは「全機の把握」でありまして、全体に行きとどいてあらゆる点を動かし得ることであります。これは心が全相(あらゆるすがた)に達したときに出来るのでありまして、心が一部にのみ引っかかっているときには、その引っかかっていることに気をとられて、他になすべき道が無数にあるのに、それを行なうことが出来なくなるのでありまして、自分で自分の力を「これ位のもの」と限ってしまうから二進も三進も(にっちもさっちも)行かなくなるのであります。
『大乗起信論』には、「心、全相に達せざるを迷いと云う」と云うことが書かれております。あらゆる部面を悉く知って適当な行いが出来ないのが迷いなのであります。
そこで全局(ぜんたいの場面)を支配するには、すべてのものと自分が渾然一体にならなければ、「対立」が残っているようなことでも思うようになりませぬ。
人間は本来大力量である
『無門関』に「大力量人」と云う公案がありまして、松源(しょうげん)と云う和尚が、「大力量の人、何によってか脚(あし)を擡(もた)げ起さざる」と云っています。そしてその公案の終りに、
「脚を擡(もた)げて蹈翻(とうほん)す香水海」
と書かれています。香水海と云うのは、釈尊時代の印度の天文学では、この宇宙は須弥山(しゅみせん)と云う山が中心にあって、その周囲に金剛囲山(こんごういせん)と云う金剛不壊(ふえ)の山脈が、何条にも取囲んでいる。その山脈と山脈との間に香水の海があると考えられていたのを引用したのですから、香水海と云うのは、「銀河系宇宙」全体と云うような意味であります。
「何故お前は本来神の子であるのに、脚を擡(もた)げてこの宇宙全体を蹈翻(けとば)すことが出来ないのか、出来るではないか」と云う強い自覚を促す言葉がここに書かれているのであります。
本当にあなたが自分自身の無限力なる「神性」を自覚したならば地球ぐらいは蹴とばすことが出来るのが当り前なのであります。キリストも「もし芥子種(からしだね)ほどの信だにあれば、この山に動いて海に入れと云うと雖も、必ず成らん」と教えているのであります。これが生命の実相をさとった境地であります。
2281
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 06:06:29 ID:R1D4Jmeg
あさひさま
>
訊け様
ものすごく有能な訊け様でも むかつく事があるのですね。
意外でした。でも人間的でいいですね。
合掌
ありがとうございます。これはもしかすると、神さまが、もっともっと、復興Gさま、トキさま、訊け様たちに『感謝』しなさい という意味なのかも知れませんね。
と言うか、私はそう思って感謝します。(今はWEB誌友会が始まっているので、心の中から、訊けさま始め皆様に感謝の念を送っています。)ありがとうございます。合掌。
2282
:
復興G
:2013/07/13(土) 06:15:03 ID:AB6RqYXc
ユタカさま、あさひ様、皆さま、ありがとうございます。
「行動」は、無鉄砲な、軽はずみな、心が一部にのみ引っかかっているような行動ではいけない、と思います。
「抗争」であってはいけません。
>>全局(ぜんたいの場面)を支配するには、すべてのものと自分が渾然一体にならなければ、「対立」が残っているようなことでも思うようになりませぬ。<<
とお教え頂いているのであります。
自分の中に宇宙がある。自分は宇宙である。すべての根源なるものである。一切者である。だから、地球ぐらいは蹴とばすこともできるのである! 山に動いて海に入れと云うとも、必ず成るのである!
ありがとうございます。
2283
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 06:30:25 ID:R1D4Jmeg
>『自分の中に宇宙がある。自分は宇宙である。すべての根源なるものである。一切者である。だから、地球ぐらいは蹴とばすこともできるのである! 山に動いて海に入れと云うとも、必ず成るのである!』
カーーーー!!! ここはカァっっコイイ!! 谷口雅春先生、素晴らしい!!
心がドンドン明るくなってきます。 復興Gさま、万歳!! WEB誌友会 万歳!!
みなさま、万歳!! 有難う!有難う!! 万歳!! 万歳!! 嬉しい!嬉しい!!
2284
:
a hope
:2013/07/13(土) 09:03:56 ID:edEDolt2
みなさま おはようございます!
最近外回りの仕事が多くて、暑さにやられてしまったようです(;'∀')
昨晩、web誌友会の合間に、榎本先生の『「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書』を拝読していると、
天国にいるように気持ちよくなってしまって、ちょっとソファーに横になったらそのまま爆睡してしまいました....
きっと、人間無限力の真理をまことに悟っていれば、暑さや仕事で肉体が疲労するなんてこともなくなるのだと思います。
もっと、もっと「生命の實相」を拝読して、無限力を発揮できるようになりたいです。
これから、昨晩からの皆さまのご投稿を拝見します。
2285
:
a hope
:2013/07/13(土) 09:30:16 ID:edEDolt2
>>2263
ユタカさま
<<生命の実相を熟読して考察する事は、なんと、嬉しい、有難いことでしょうとおもいます。 >>
同感です!!!!
2286
:
トキ
:2013/07/13(土) 09:43:12 ID:CtPMtdp6
おはようございます。
何であれ、迷った時は、生命の実相」を拝読すると、その中に答えが書いてあると思います。
具体的に答えがかいてなくても、読めば、何か、答えにつながるご文章があります。
2287
:
a hope
:2013/07/13(土) 10:25:13 ID:edEDolt2
>>2264
復興Gさま
今回も、わたしの問題提起を取り上げて下さいましてありがとうございます。
わたしが「生長の家の教え」を信仰したのは、聖典「生命の實相」に魂を震わしからでした。
その後、教団の信徒となり母親教室や、勉強会、練成会などに参加させていただいているうちに、
徐々に生活のリズムが狂いはじめ、体調を壊していったのです。
雅宣先生の教えは、現象のことばかりです。
一方、『生命の實相』では、「現象なし」です。
当時は、その矛盾がわかりませんでしたからわたしの魂は混乱しました。
そのうちに、神想観をしても落ち着かなくなり、あれほど魂を震わせた『生命の實相』を拝読しても、
その意味が通じないばかりではなく、拝読するのが苦痛にすら感じてしまうようになりました。
一時は寝たきりのようになってしまい、約3年前は子どもたちも今よりも手がかかりましたから、
家族に大変な迷惑と心配をかけてしまいました。
ですから、わたしは「生長の家」で二元論的見解をすることの危険性は、人一倍わかっているつもりです。
わたしの言う、雅宣先生の二元論的見解とは、
「現象なし」「唯神実相」を口では説きながら、実際は「現象(物質)」を見ていて「人間の罪」を認めてしまっている見解のことです。
雅春先生も、「生命の實相」で二元論的見解は決して許してはならない「虚説」であるとハッキリおっしゃっていますよね。
わたしは、たとえ、それが生長の家の総裁先生のお言葉であろうと、
わたし達は、まことに「生長の家」を信仰していくためにはそれを決して許したらいけないと思います。
なぜなら、そういう見解は、人々の魂を迷わせを不幸にしてしまうからです。
その点、榎本恵吾先生は、まことの「唯神実相」を悟られていたのだと感じ安心して御文章を拝読できます。
そのご文章の放つ波動は人々に「神の子」の自覚を目覚めさせ、人々の魂を向上させる働きがあるのだと思います。
わたしの今感じていることを、素直に述べさせていただきました。
合掌。
2288
:
復興G
:2013/07/13(土) 11:54:10 ID:AB6RqYXc
皆々様
ありがとうございます。
毎回のweb誌友会で、いちばん勉強させて頂いているのは私であると思い、感謝しています。
今回も、そうです。
今回の第15回web誌友会は、15日(月・休日)の23:00までですね。歓喜に満ちて深く勉強研鑽させていただいています。ありがとうございます。
本日午後はリアルの誌友会に出講することになりましたので、夜までPCから離れます。
離れる前に、今回のテキスト 『生命の實相』 第3巻の最初に、「七つの燈台の点燈者の神示」 として、8つの重要な神示が掲載されていますが、その中の一つ、「無病常楽の神示」を謹写掲示させて頂きます。
<< 無病常楽の神示
病んでいると言う病いは本来ない、苦しんでいると言う苦しみは本来ない。『これだけ自分は苦しんでいる』と、その苦しみを自慢にするような心は、却って病気を招く心である。
キリストの受難に倣(なら)って自分も亦苦しもうなどと言う心も愚な心である。キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。十字架も受難ではなく受苦ではなく法楽である。神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく任運無作(にんうんむさ)、法爾自然(ほうにじねん)、水の流るるが如く、すべてが惟神(かんながら)の法楽である。
斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭(いと)う心もおのずから消え去ってしまい、苦もなく、艱難もなく、苦楽を超越した本当の楽想(らくそう)を生じ、吾れが一変し、天地が一変し、人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。
実相は苦楽を超越する法楽であって、実相をもって苦もなく楽もないと言うのは謬見(びゅうけん)である。
汝らが『楽』と称する『楽』は本当の『楽』ではないから、『楽』を求むれば必ず苦を生ずるのである。五官のうちに、感覚の惑わしのうちに『楽』があるとするのは謬見である。五官の『楽しみ』はその本性(ほんしょう)決して『楽』に非ざるが故に『苦』に変ずるのである。
実相はかくの如き仮相(けそう)の苦楽を超越すれども、真相の『楽』そのものである。法悦そのものであり法楽そのものである。その『楽そのもの』が『常住の我』であって、これが『神の子』である。『神の子』が『人間そのもの』であって、その外(ほか)に『人間』はない。
人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊(ふえ)を言う。肉体は『人間』ではない。人間の心の痕跡(こんせき)であり、足跡(そくせき)である。破壊すべきものは人間ではない。汝らよ、汝ら自身の不苦不悩無病の実相を見よ。
(昭和七年十一月十日神示)>>
ありがとうございます。
2289
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 13:51:42 ID:R1D4Jmeg
神ひとに語り給う
「病んでいると言う病いは本来ない、苦しんでいると言う苦しみは本来ない。『これだけ自分は苦しんでいる』と、その苦しみを自慢にするような心は、却って病気を招く心である。
キリストの受難に倣(なら)って自分も亦苦しもうなどと言う心も愚な心である。キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。十字架も受難ではなく受苦ではなく法楽である。神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく任運無作(にんうんむさ)、法爾自然(ほうにじねん)、水の流るるが如く、すべてが惟神(かんながら)の法楽である。」
「任運」といふのは運に任せて、「無作」といふのは計らいがないといふこと、”そのままの心”でゐるといふことです。「法爾」というのは、法そのままです。 法そのままの動きにまかせるのです。「法」とは真理であります。
真理の内部的催しそのままに自然に動き出して、ちょうど、水が高いところから低いところへ流れるようなものであって、すべてに無理がないのであるといふことであります。すべてに無理がないから、其処には楽があるばかりであります。その楽は人間が工(たく)する人工的な楽ではないから、「すべてが惟神(かむながら)の法楽である」と示されてゐるのであります。 「惟神(かむながら)」といふのは、”かみながれ”といふこであります。「神催し」と言ってもよいのでありますが神様のおはからひから自然にもよほす流れのままに生き、動き、生活して行くことであります。
そこに真理の喜びといふものが湧いてくるのであり、これが法楽であります。 日本では「神ながら」といふ場合に「惟神(ただかみ)」と書いて「かんながら」と読む習慣(ならはし)になってゐるのは、神のみが実在であり、そのほかのものは、妄想だといふことを何となく知ってゐたと思はれます。
2290
:
rei
:2013/07/13(土) 14:15:26 ID:ZIftZ1jM
合掌
ありがとうございます
ユタカさま
後方にて参加させて頂いております。
発言しないのはポイントがずれないようにとの思いです。
ユタカさまとa hopeさまの質問がとてもわたしの疑問と同じだからで
その通りその通りと頷いてますよ。ありがとうございます。
訊けさまは、初めて本音を語ってくれたみたいで、好感を持っています。
あなたの「自分はみ教え擁護です」という発言はとても私の心を打ちました。
またここへも出てきてくださるといいなと思っています。
復興Gさまいつも本当に感謝しております、ありがとうございます。
再拝
2291
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 14:20:16 ID:R1D4Jmeg
> 斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭(いと)う心もおのずから消え去ってしまい、苦もなく、艱難もなく、苦楽を超越した本当の楽想(らくそう)を生じ、吾れが一変し、天地が一変し、人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。
実相は苦楽を超越する法楽であって、実相をもって苦もなく楽もないと言うのは謬見(びゅうけん)である。
ここが大切ですね。「苦楽を超越した本当の法楽」でないと本物でない。今迄「楽」と思って快楽を続けてゐると、それはやがて「苦」に変わってしまうのです。苦しみをさけて楽を得たいとか、肉体の快楽を得たいとかいふその「楽」では、それは相対的な「楽」でありますから、相対条件の如何によって変化するのであります。肉体の五感のたのしみはそれを嘗めてゐるうちにその快楽が苦しみに変わって来るのです。 ご飯でも「うまいなぁ」と思って食ってゐると、あんまり食べ過ぎると、お腹をこはして苦しみに変わって来るのであります。”性”の快楽などもあまり貪ると心身困ばいしてノイローゼになってしまふ。麻薬を吸引して恍惚となってゐると、それが習慣になると大変な苦痛となる。
さふいう苦楽を超越したところの絶対的なものが「法楽」であるのであります。「自分」といふものがある間は「自分」と「他」と、或いは「自分」と「神」とが対立してゐる。
対立は摩擦であるか、絶縁であるか、どちらかで、ピッタリ「一つ」になることが出来ない。先ず自分がなくなることが必要である。「自分」がなくなり、カラッポのパイプの中へ水が流れいるように「神」を流れ入らしめたら、「吾が一変し、天地が一変し、人生はただ、歓びの讃歌にみたされるのである。実相は苦楽を超越する法楽であって、實相をもって苦もなく楽もないと云ふのは謬見である」といふような状態が自分自身の生きた体験として味はふことができるやうになるのであります。
2292
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 14:36:25 ID:R1D4Jmeg
>汝らが『楽』と称する『楽』は本当の『楽』ではないから、『楽』を求むれば必ず苦を生ずるのである。五官のうちに、感覚の惑わしのうちに『楽』があるとするのは謬見である。五官の『楽しみ』はその本性(ほんしょう)決して『楽』に非ざるが故に『苦』に変ずるのである。
楽をしたい楽をしたいと思ってゐると益々苦しみになる。例えば、覚醒剤を注射したら苦しみがなくなると思って注射すればするほど、覚醒剤中毒にかかって苦しみは増えて来るし、酒を飲んだらしばらくの憂さ晴らしができるかと思ったら益々苦しみは増えて来る。財産でも殖やしたら益々楽かと思って財産が殖えると、貧乏の親戚などが無闇に無心にやって来る。いろいろの団体から寄付金の強要にくる。強盗は来るし、税務署から呼び出しがあり、行かなければ、叱られた末、税金は取られるし、いろいろのたかりが集まって来て厄介は益々殖え、それに対する処置に困るーーーといふことになって、一向「楽」といふものは出て来ないのであります。だから神さまは「楽を求むれば必ず苦を生ずる」とお示しになってゐるのであります。
2293
:
a hope
:2013/07/13(土) 14:55:48 ID:edEDolt2
>>2287
で、わたしの経験と考えを宣べましたが、
もし、わたしが3年前から『生命の實相』だけを唯一の教えとして信仰していたら、
つまり、教団と関わらず、雅宣先生の教えも知らなかったらどうだったのでしょうか。
おそらく、あんなに体調や精神状態をおかしくすることもなかったかもしれません。
でも、今はそんことすべてに心から感謝しています。
そして、今、わたしは自分の使命を感じています。
それは、「生長の家の教え」で病気を克服したり、生活苦を解消したり、
人間関係を改善したりした人たちがその後、使命感をもって、
伝道に励まれるのと同じ気持ちなのではないかと思います。
わたしは、これから「生長の家の教え」はそんなんではないのですよ!
と、声を大にして発言していかなければいけないような気がしています。
また、谷口雅春先生の教えではあっても、自分たちがしている運動(政治運動など)に都合の良いものだけを信仰して、
都合の悪い教えには目をつぶるというのも正しい信仰姿勢とは言えないのではないかと思います。
今、大切なのはことは基本に戻ることです。
基本=「生命の實相」=和解・大調和・感謝 です。
教団も、学ぶ会さまも、ときみつる會さまも、個人で信仰している方たちも、
すべての信徒が聖典「生命の實相」に戻りそれを忠実に勉強していけばおのずと一つになれるはずです。
だって、「生長の家の教え」はそういう教えなのですから・・・・。
2294
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 15:03:23 ID:R1D4Jmeg
>実相はかくの如き仮相(けそう)の苦楽を超越すれども、真相の『楽』そのもおうたいのである。法悦そのものであり法楽そのものである。その『楽そのもの』が『常住の我』であって、これが『神の子』である。『神の子』が『人間そのもの』であって、その外(ほか)に『人間』はない。
人間とは常楽を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不悩を言ひ、不壊を言ふ」
實相といふものは、相対の「楽」ではなくて、「絶対楽」であり、その「楽」そのものが「本当の人間」だといふのであります。「本当の我」と「楽」とは一体であるといふので、ここには涅槃経の”常楽我浄”の大乗佛教思想と同じものがあらはれてゐるのです。苦しんでゐるのは「本当の我」ではないのであって、「本当の人間」とは常楽即ち常に楽しいのであります。「人間」とは本来無病のものなのです。
「人間じやもの四百四病の病ひの容れ物だ」なんて言ふ人がありますが、決してさうじやないのでです。人間が病気するんじゃなくて、人間の”抜け殻”が病気をするのです。本当の人間は「神の子」ですから、絶対に病気もしないし苦しみもしないのであります。
だから、神示には「人間とは常楽を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不悩を言ひ、不壊を言ふ」とあるのであります。「不苦」即ち苦しまない、「不悩」即ち悩まない。「不壊」即ちくだけないところの、「常」であり、「楽」であるところの「真我」が「本当の自分」なのであります。常に無常で、うつり変わるところの肉体は「人間」ではないのであります。だから、(つづく)
2295
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 15:35:26 ID:R1D4Jmeg
>肉体は『人間』ではない。人間の心の痕跡(こんせき)であり、足跡(そくせき)である。破壊すべきものは人間ではない。汝らよ、汝ら自身の不苦不悩無病の実相を見よ。
(昭和七年十一月十日神示)>>
だから、(つづき)↑と示されてゐるのであります。
肉体の現在の状態は心の足跡でありますから心がどこを歩むかとふことによって、肉体の健、不健の状態の現れやうが変わって来るのであります。肉体は人間じゃなくて「心の痕跡」であるとは巧みな形容であります。だから、肉体に病気が現れてをつても、それは「人間」が病気をしてゐるのではなくて、「心の足跡」gsそんな姿にあらはれてゐるのに過ぎないものですから、「病気は無い!」とはっきり言へるのであります。たとひ肉体に病気があらはれて人から「お前、偉そうにいったって病気しとるんじや」と言ふことになるのであります。
森川政輝といふ人が、唯今、小豆島の観海楼といふ旅館の料理場の主任になってゐるのですが、この人は、唯今、生長の家の教化支部長として、関西教区方面にいられる秋月暁君といっしょに、私が住吉に居った自分に生長の家本部にやってこられたのでした。そのころ京都の宇多野療養所にをって二人とも肺病で、なかなか治らないで悲観しておられた。所がたまたま『生長の實相』を読んで生長の家にやって来て、一ヶ月位私の家に通って私の話をきいて私と一緒に神想観をした。
それで二人とも治って健康になったのですが、その治りつつある頃に森川政輝君は、あれは何とかいふ紀州淡輪(きしゅうたんなわ)にある淡輪ホームという療養所にをられましたが、ある日、その療養所から私に手紙を寄こされたのでした。何と書いてあったかと言ふと「私は、病気でねてゐながら、病気をしてゐない、”本当の自分”といふものがあるといふことがわかりました。」かふいふ手紙を寄こされたのであります。
かうして肉体は病気しても「本当の自分」は病気してゐないといふことがわかったといふ悟りを手紙に書いて寄こすやうになってから病気が完全に治ってしまったのです。
2296
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 16:32:45 ID:R1D4Jmeg
それからもう二十数年にもなりますが、其後、諸方へ転々として行かれたらしいのですが、今では観海楼の料理場の主任をしてゐて、料理が美味しいというので評判がよい。どこで料理の仕方をおぼえたのか知らんけれども、観海楼に行くとあの人が僕に特別に念を入れて料理をしてくれる。旅館の板前の主任をやっているのいで、ただの料理の職人かと思ったら、ちゃんと立派な二回建の自分の家を一軒建てて、裕福に暮らして人間とし成功していられます。「かうなったのは先生のお陰です」と会ったときお礼を言ってゐられました。
もう一人の秋月さんも生長の家で肺結核が治って、一時大阪で生長の家の講師をしておられたが、その後、途中で信仰がふらふらになり、脱線しましたら、再び結核が再発したのかどうか知らぬが、顔色が黒っぽい紫色の所謂悪液質みたいになり、やせ細りましてもう顔に死相があらがれたやうになってゐました。これは罰が当たったじゃないのであります。
生長の家の神様は罰を与へないけれども、自分自身で自己処罰して罰を当てるのです。それで一時瀕死の状態みたいになってをられましたが、 今まで自分は間違ってゐた、生長の家で一ぺん生命が救われてゐながら、生長の家をはなれるなんて申し訳なかったと気がついて再び生長の家にもどって来られて、生長の家講師として人を救う愛行をして生涯を捧げようと決心されて、わが身の病気をわすれて、人を救うために真理を説いてあるかれたのです。
あの人の話は面白いのでなかなか評判がよい。落語家の金語楼みたいな風格があり、人を笑わせながら真理を説くのが上手なのです。さうして愉快に楽しく心を明るくする真理を教えて歩いているうちにまた、健康が回復してぷくぷく肥えてこられました。
人間は「肉体」ではないのですから、霊であつたら、普遍的の存在であり、自他一体でありますから、他を生かすようにしてゐれば自分が生きてくるようになるのです。
他を生かすことを止めて利己的になり、互ひの恩愛を遮断するようになると、大生命の流れがそのままに現象化しないで病気があらはれます。「人間は神の子である。」といふことを本当に自覚したら自然に他の人にもその真理を伝えたくなるのです。他に伝えたくないやうだったら、「人間・神の子・自他一体」の真理を自覚していない証拠です。
「報恩行についての神示」にありますやうに、吾々は、神さまの真理を知らしてもらふ機縁を与えて下さった橋架けなった人ーー真理と縁を結んでもらったひとに対して、その恩といふものをわすれてはならないのです。
生長の家の誌友は生長の家といふ縁を通して、神様を知らしていただいたのでありますから、「もう真理を知ったから、私は神さまと直結だ。もう生長の家など通さないでよい」などと恩を遮断すると、其の生命を断ち切る心の反映として、現象的に病気その他の不幸があらわれてくるのであります。
生長の家の教へは簡単ですから、もう知ったら止めようとおもったらいつでも止めれるけれども、知るという事と体得するといふ事とは違う。
生長の家の真理の書物は非常に沢山ある。他のどの宗教にも無いくらゐに沢山あるけれども、 簡単に言へば縦の真理は”人間・神の子”ということであり、横の真理は ”環境も肉体も吾が心の影” といふことで、縦と横との二つの真理で、それでおしまひだ。
「それでわかった。はいさやうなら。人間は神の子だから自分は神の子で神さまは親だから『子』と『親』とこれから直通だ」といふ訳で、相愛会へも教化部へも道場へも往かぬ。
そして「わしはわしで独立独歩の神さまの子だ」と考える人もあるけれども、それはやっぱり間違ってゐるのであります。 それは人間といふものが、神さまとのみ直通してゐると考えて、神の子の相互連関による孤立した存在ではないといふところの真理を忘れてしまってゐるのであります。
人間は「全体」の中にゐるところの「一人」であって、全体とのつながりに於いて生かされてゐるのであるといふことが神の子の自覚であるといふことを忘れてしまって、自分だけの力で神さまと直通だ!というやうな考えをおこしてゐるから、さういう間違った考へを起こすことになるのであります。
2297
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 16:49:35 ID:R1D4Jmeg
臨済宗方広寺派の管長足利紫山労師が大分市の関川晃代さんに言はれた言葉に「あんたは、生長の家によって真理を悟らしてもらったんだから、ほかの宗教によろめいては行ってはいけませんよ。信仰にも貞操がなければならない」といふのでありますが、まことにそうであります。
「萬教は唯一つの真理に帰するから、何処へよろめいていっても同じぢやないですか」という理屈づけをして他の宗派をのぞいてくる人がありますが、これは自分の神性をはらかして頂いた「因」に対する純潔を欠いてゐるので、なんぼう偉さうに道をといてもいけないのです。
嘗て講談社の校正係をしとつた人で、人を恨み憎んでころしてやりたい位だったその恨みが、生長の家の神示を実行して消えた。そして今は清々しい気持ちになれた。その恨みが消える方法を教えてもらったのは生長の家のお陰であるというので、毎年二、三回は必ず、私にお礼の手紙をよこす人がありますが、さういう人は、本当に因縁の理を知り、恩を忘れない立派な人だと言はなければなりません。
以上 神 ひとに語り 給ふ 無病常楽の神示 講義 謹写を終わります。(漢字を現代漢字に変えています)
。
2298
:
トキ
:2013/07/13(土) 18:40:21 ID:CtPMtdp6
私が大学時代、教授から言われた言葉に
「わからなくなったら、原理原則に戻りなさい。そうすれば、見えてきます」
というものがあります。信仰でも同じだと思います。訳が代わらなくなったら、
原理原則に戻って考える。すると、見えて来るものがあると思います。
2299
:
a hope
:2013/07/13(土) 18:55:28 ID:edEDolt2
復興Gさま ユタカさま
『無病常楽の神示』と、その講義(「神 人に語り 給ふ」より)のご謹写ありがとうございます。
たしか、「神 人に語り 給ふ」は重版停止状態の聖典でしたね。
たいへんな時間がかかったのではないのでしょうか?
復興Gさまもそうですが、ユタカさんもホントにすごいパワーのある方ですね!
貴重な文献のご謹写に心から感謝して、拝読させていただきます。 感謝 合掌。
(途中横切りまして、失礼いたしました。)
2300
:
a hope
:2013/07/13(土) 18:57:54 ID:edEDolt2
>>2298
トキさま
トキさまは「生長の家の教え」の信仰の原理原則とはなんだとお考えですか?
2301
:
復興G
:2013/07/13(土) 19:32:20 ID:AB6RqYXc
復興G、只今帰りました。
ユタカさま、神示ご講義の謹写、本当にありがとうございました。
おかげさまで、いっそう深い真理の勉強ができます。
ありがとうございます!
2302
:
トキ
:2013/07/13(土) 19:47:12 ID:CtPMtdp6
>>2300
谷口雅春先生が、亡くなられる時に、言い遺されたお言葉に凝縮されていると思います。
2303
:
トキ
:2013/07/13(土) 20:18:23 ID:CtPMtdp6
個人的には、『人間、神の子」という言葉に戻ると、自ずから見えて来るような間がをもっています。
とはいえ、偉そうにいう資格は全然、私にはないとも自覚しています。
2304
:
復興G
:2013/07/13(土) 21:02:23 ID:AB6RqYXc
a hope 様。
a hope 様の
>>2287
書き込み文は、とても重い、重大なことだと受け止めています。
私も学生時代にトルストイの『人生読本』という本に強い影響を受けたということを前に書いていました(
>>2230
)が、その最初のところをご紹介しましょう。
この本(トルストイの『人生読本』)は春の巻・夏の巻・秋の巻・冬の巻と4巻になっていて、それぞれ「○月○日」と全365日の項目に分け、古今東西の哲人たちの言葉を抜粋して掲げてあるのですが、その最初の「一月一日」というところに、次のようにありました。
<< 一月一日
中途半端な事を夥しく知るよりも、真に優良な必要事を少し知る方が優(ま)しである。
(1) 選び編まれた小さい文庫の中に、如何に大きな富があることだらう! 数十年の長きに渉つて此の世のあらゆる文明國から選び上げられた最も聰明にして価値高き人々の集團が、其処に於て吾々に、自己の研究と叡智の所産を、最上の整頓裡に提供してくれたのである。
それ等の人々自身は紙背に姿を隠してゐて、近附き難い。また、若しも吾々が彼等の幽棲の空寂を破り、彼等の仕事を妨害したならば、彼等は恐らくそれに耐へ得なかったであらう。更にまた、いろいろの社会的条件が彼等との交際を不可能にしたかも知れない。
併しながら、その最上の親友達にさへも彼等の公開しなかつた思想が、異なる世紀の局外者の爲めに、明瞭な言葉でここに書き現はされてゐるのである。然り、まことに吾々は、吾々の生涯に於ける最も主要な霊的方面の恩恵を、書籍から蒙つてゐるのである。(エマスン)
(2) 吾々は一種の反芻動物だ。從つて、いろんな書籍をうんと詰め込むだけでは不十分である。若しも吾々が自分の丸呑みにした凡ての事柄を、改めてよく噛みしめ味ひ直さないならば、書籍は吾々に力と滋養を與へぬであらう。(ロック)
(3) いろんな筆者のいろんな種類の書籍をあさり読む結果、読者の脳裡に溷濁と不明瞭の醸し出される事を警戒するがいい。有益な何物かを得たいと思ふなら、ただただ疑ふ余地なき価値を有する諸氏の著述によつてのみ、自己の頭脳を養ふべきである。
書籍の過読乱読は、吾々の知能を迷誤錯乱に陥れる。だから、異論なしに良書と認定された書籍だけを読む事だ。若し違つた種類の著作の耽読に暫時移つて見たいといふ氣持のあらはれるやうな事があつたら、さういふ場合には、絶対に再びもとの読書の世界へ立還れなく置れなくなるのだといふ事を忘れないがいい。(セネカ)>>
――私は上記トルストイの『人生読本』を読んで、そうだ! と思い、しばらく『生命の實相』ばかり読むことに没頭していた時がありました。
2305
:
a hope
:2013/07/13(土) 21:09:36 ID:edEDolt2
>>2302
トキさま
病なし、迷いなし、罪なし
これが生長の家の
根本真理であります。
それでは、神様
ただ今より眠らせていただきます。
(訊けブログより、引用させていただきました。)
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65556575.html
生長の家の教えは、本当にすごい!!
これですね!
2306
:
復興G
:2013/07/13(土) 21:14:48 ID:AB6RqYXc
>>2290
rei 様。
いつもよく読んで下さっていて、ありがとうございます。
どうぞ、遠慮なく前に出てきてご発言くださいよ。
みなさん、大歓迎だと思います。
2307
:
復興G
:2013/07/13(土) 21:31:32 ID:AB6RqYXc
>>2304
のつづきです。
同様のことが、 『生命の實相』 第38巻 「七月一日」・「七月二日」 のところに、次のように書かれています。
(
>>2185
に書いていたことですが)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
七月一日
深海の中に棲む魚は盲(めしい)である。暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。光を見る心になったときわれわれに眼ができ、美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。
思想することは自由である、幸福になるように、あるいは不幸になるように。けれどもそれは各人の選択である。
ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。
すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。ただそれだけを知ればよいのである。ただそれだけを直視(じきし)すればよいのである。
思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出ずるものである。
いろいろと変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、自分の運命が混乱してくる。
罰を当てるのではないが、いちどお蔭を戴いてから去ったものの運命がそれほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。
元の思想に還ればまた幸福がその人のために蘇(よみがえ)ってくるのだが、いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして正直に懺悔の心を表白することができない。そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。
真理の前に脆(ひざまず)くことは、不幸の中に身をまかせていることよりもいっそう勇敢なことであることを知らねばならない。
七月二日
本当の平和はわが心が神に結ばれたときのみに得られるのである。
神さえあれば何も要らない。心に神を持つことは 「すべて」 を持つことである。神は 「すべてのすべて」 であるからである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ありがとうございます。
2308
:
a hope
:2013/07/13(土) 21:41:00 ID:edEDolt2
>>2290
reiさま
わたしも
>>2306
復興Gさまに同感です。
reiさまのあたたかいお言葉にはいつも励まされています。
わたしは、前回からは補佐役ではない一参加者ですので、
一人一人の投稿者さまへのコメントはしていませんが、
reiさま、あさひさまそして他の閲覧者さまのたくさんのご参加は大歓迎です。
2309
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 22:03:27 ID:R1D4Jmeg
rei様
ありがとうございます。どんどん出てきてください。いろいろな方のご意見を聞くことはとても勉強になります。
軌道がずれていたら、神さまが修正してくれますしね。 それに、なんたって復興G様がいらっしゃいます。
安心してご発言して下さいと思います。
訊けさまには、ぜひ出てきていただきたいですね。 人気のある方ですものね。。。
2310
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 22:37:34 ID:R1D4Jmeg
>>2307
もう、白旗です。。。ありがとうございます。
>ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。
>すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。ただそれだけを知ればよいのである。ただそれだけを直視(じきし)すればよいのである。
>思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである
>真理の前に脆(ひざまず)くことは、不幸の中に身をまかせていることよりもいっそう勇敢なことであることを知らねばならない。
>神さえあれば何も要らない。心に神を持つことは 「すべて」 を持つことである。神は 「すべてのすべて」 であるからである。
神様さえあれば、何も要らない!! 解るなぁ、其の気持ち。 内なる神と宇宙の全体に神がカチカチ音を立てて一体になってゆく。
WEB誌友会は最高です!! 毎日感動しています、素晴らしいなぁ、自分を神の子と言ってもらえて・・・益々自覚が深まっていきます。
復興Gさま、ありがとうございます。
2311
:
a hope
:2013/07/13(土) 22:43:55 ID:edEDolt2
>>2304
復興Gさま
トルストイの『人生読本』は、以前のweb誌友会前夜祭の時にも
>>166
で復興Gさまがご紹介くださっていましたよね。
あの時は、その後いろいろあってお返事ができなかったのでした。
わたしも、これからしばらくは「生命の實相」に専念して、とりあえず全巻読破を目指したいと思っています。
そしてこうして、このトキ掲示板で「生長の家の教え」をお勉強させていただけることに感謝の気持ちで一杯です。
2312
:
ユタカ
:2013/07/13(土) 23:09:12 ID:R1D4Jmeg
a hopeさま
私もa hope様のような純潔な魂の方は、今は唯ひたすらに「生命の実相」に没頭してa hopeさまの腹の底の底から大光明を発してたとえ暗黒がぶつかりに来ても自分の発する大光明で消してしまえるほどの強さで輝くまで、ドンドン光を、、a hopesの魂の中に生命の実相の光を入れていけばいいのでは?と思っていました。
そして、私も、谷口雅春先生の真理のみでやっていきたいですのでよろしくお願いします。 同じく日々感謝の思いで一杯です。。。
2313
:
a hope
:2013/07/13(土) 23:31:27 ID:edEDolt2
>>2312
ユタカさま
ありがとうございます。合掌。
わたしは、「生命の實相」の真理を自分自身の生活に生かせるようにしたいと思っています。
そのためには、ユタカさまのおっしゃるように、
<<腹の底の底から大光明を発してたとえ暗黒がぶつかりに来ても
自分の発する大光明で消してしまえるほどの強さで輝くまで、ドンドン光を、、>>
わたしの魂の中に入れていこうと思います。
「自分が変われば世界が変わる」
この言葉の本当の意味もだんだんわかり始めてきました。
ユタカさま、こちらこそこれからもよろしくお願いいたします。
わたしは今日はこれでおやすみさせていただきます。
それでは、みなさま、安らかな眠りと、良い夢を・・・!
2314
:
ユタカ
:2013/07/14(日) 07:24:14 ID:R1D4Jmeg
ユタカのイチオシ!!
>すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。ただそれだけを知ればよいのである。ただそれだけを直視(じきし)すればよいのである
自分の魂にビンビン響いてきます。 皆は魂に響いてくる言葉に出会えましたか??
WEB誌友会は最高! 万歳!!
2315
:
復興G
:2013/07/14(日) 07:47:06 ID:AB6RqYXc
皆さま、おはようございます。
私は一昨夜あまり寝てなかったので、昨夜は少し早く寝てしまいました。
皆さまの 光り輝くご投稿が、まぶしい。
そして、「web誌友会参考文献板」 に掲示させていただいている榎本恵吾先生のご文章にも、共感 共鳴して、私も、今日もまた「無」の法悦の中に遊戯(ゆげ)三昧に愛を行じてまいりたいと、神に祈っております。
生長の家バンザイ! 皆さま、バンザイ!
2316
:
こんにちは
:2013/07/14(日) 10:24:13 ID:cCXifkCY
こんにちは
http://888.pm/4nx
http://888.pm/hkd
http://888.pm/7rg
http://888.pm/t3m
http://888.pm/DXu
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