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Web誌友会 板/2

2291ユタカ:2013/07/13(土) 14:20:16 ID:R1D4Jmeg
> 斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭(いと)う心もおのずから消え去ってしまい、苦もなく、艱難もなく、苦楽を超越した本当の楽想(らくそう)を生じ、吾れが一変し、天地が一変し、人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。

 実相は苦楽を超越する法楽であって、実相をもって苦もなく楽もないと言うのは謬見(びゅうけん)である。

ここが大切ですね。「苦楽を超越した本当の法楽」でないと本物でない。今迄「楽」と思って快楽を続けてゐると、それはやがて「苦」に変わってしまうのです。苦しみをさけて楽を得たいとか、肉体の快楽を得たいとかいふその「楽」では、それは相対的な「楽」でありますから、相対条件の如何によって変化するのであります。肉体の五感のたのしみはそれを嘗めてゐるうちにその快楽が苦しみに変わって来るのです。 ご飯でも「うまいなぁ」と思って食ってゐると、あんまり食べ過ぎると、お腹をこはして苦しみに変わって来るのであります。”性”の快楽などもあまり貪ると心身困ばいしてノイローゼになってしまふ。麻薬を吸引して恍惚となってゐると、それが習慣になると大変な苦痛となる。

さふいう苦楽を超越したところの絶対的なものが「法楽」であるのであります。「自分」といふものがある間は「自分」と「他」と、或いは「自分」と「神」とが対立してゐる。

対立は摩擦であるか、絶縁であるか、どちらかで、ピッタリ「一つ」になることが出来ない。先ず自分がなくなることが必要である。「自分」がなくなり、カラッポのパイプの中へ水が流れいるように「神」を流れ入らしめたら、「吾が一変し、天地が一変し、人生はただ、歓びの讃歌にみたされるのである。実相は苦楽を超越する法楽であって、實相をもって苦もなく楽もないと云ふのは謬見である」といふような状態が自分自身の生きた体験として味はふことができるやうになるのであります。


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