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Web誌友会 板/2

2224復興G:2013/07/11(木) 01:05:37 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 去る6月27日の新聞で、

 「厚生労働省の審査委員会は26日、理化学研究所などが申請していたiPS細胞を使う臨床研究計画を承認した。目の難病になった患者が対象で、2014年夏をメドにiPS細胞を使った発の治療が国内で始まる」

 と報道されました。

 それで6月30日埼玉教区の講習会の時、「生長の家式に考えると、この問題はどう考えたらよろしいでしょうか」という質問も出されました。

 総裁のお答えは、要約すれば「人間中心主義、人間至上主義は間違っている。生長の家は“天地一切のものと和解せよ”という教えだから、他の動物を犠牲にして人間を治療するようなことをしてはならない」ということだったと思います。しかし、このたび厚労省で承認したiPS治療は、動物を犠牲にするものではないようです。

 それはともかくとして、『生命の實相』 第3巻に照らして考えれば、答え方は違うと思います。

≪ あらゆる病気と不幸とは、「心の迷い」の別名――否むしろ「心の迷い」が形にあらわれたものでありますから、「心の迷い」を消滅させずにいて、一つの病気を、対症療法的に、その症候に対して施術なり薬物なりで攻撃してゆきますと、一時その症候は消えて癒ってしまったかのごとき外観をしめしますけれども、それは真に治ったのではなく、しばらく「心の迷い」が姿をくらましたのでありますから、やがてまた同じ病気が再発してくるか、異なる病気(たいてい、いっそう重大なる病気)に姿をかえて現われてくるのであります。≫

 だから、もっと根本の問題、精神的な問題を考えるべきだ、ということになるのではないでしょうか。

 また、「人間至上主義は間違っている」 と雅宣総裁はよく言われますが、それが「生長の家の教え」でしょうか?

 生長の家では、肉体は人間ではない、天地一切のものと調和の関係にある霊なる神なるもの、至上者が真の人間であると教えられてきました。たとえば「本来生、不滅の神示」には

≪物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は『神の子』であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入(しゅつにゅう)する事もない。物質の世界に出入する事がないから物質の世界より見れば人間は不生(ふしょう)である。不生であるから滅することも亦ないのである。(中略)病なきを『人間』と言い、死なきを『人間』と言う。

 釈迦は『人間』の生老病死の四苦を見て出家したと言えども、釈迦はそのときまだ『人間』を見ていたのではない。念の影を見て『人間』と思い違いしていたに過ぎない。(中略)

 真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身、実相身、清浄身である。人間は神の子なるが故に本来『浄(じょう)』にして不浄ではない。≫

 そして「至上者の自覚の神示」には

≪ 人即ち神であると言う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。『生長の家』が此世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、自己の本性が神だと悟った者を謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。斯くの如き想像をする者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。キリストが弟子の足を洗うことが出来たのも、自己が神だと悟っていたからである。

 本当の謙遜は『神の自覚』から来る。神を自己の本性に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。本当の謙遜とは『自己は神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』と言う真理を何らの抗らいもなしに承認することである。此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神なり』の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来るのである。≫

 とありました。

<つづく>


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