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Web誌友会 板/2
2230
:
復興G
:2013/07/11(木) 15:38:05 ID:AB6RqYXc
さて、今回のテキスト 『生命の實相』 第3巻 「生命篇上」 で、私が特に感銘深く魂に響いたのは、まず第3章のp.161〜164に、トルストイの思想について その遺稿 『人生の道』 から引用され、それが「生長の家」 の説くところとほとんど同じ思想に到達していたということは実に驚嘆に値する、と書かれているところです。
それは、私自身高校時代に魂が目覚める体験をしたり、学生時代に現実の悩みの中で切なる魂の求めからトルストイの 『人生読本』 というのを読んだとき 「これだ!」 と驚嘆にも似た歓喜の思いを持ったことを思い出させてくださったからです。
で、まずはそのあたりのところを謹写させて頂きます。(p.161〜 )
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
先日、ちょっと、神戸へ出たついでに書店へ寄ってみましたが、その時トルストイの遣稿の中から発見された『人生の道』という稿本の翻訳が見つかったので買って来ました。開いてみると「生長の家」の説くところとほとんど同じ思想にトルストイが到達していたということは実に驚嘆に値すると思うのであります。ちょっと御参考にその一節を読んでみます。
「神が永遠不滅であるように、その陰影(かげなる目に見えるこの世界も永遠である。がしかしながら、目に見えるこの世界は要するに彼の陰影(かげ)にすぎない。真に存在するのは目に見えぬ悠久の力、すなわち神のみである。」(同書29ぺージ)
「われわれはしばしば、われわれが手によって触知することのできる物のみが存在するのだというふうに考える。が、その正反対で、われわれの見たり聞いたり、触れたりすることのできないものだけが、すなわちわれわれが各自の『私』と呼んでいるもの、自己の霊と呼んでいるものだけが、真実に存在するのである。」(同書48ページ)
「もしもわれわれが自己の周囲に目睹(もくと)するすべての物象を、無限無窮のこの世界を、自分が眺めたとおりのものと思うなら、われわれは大いに誤っているのである。われわれが、形体を有するすべての物象を知っているのは、そういう認識に到達させる視覚、聴覚、触覚を持っている結果にほかならない。もしもそれらの感覚が異(ちが)ったものであったら、この世界全体が別個のものになったであろう。したがってわれわれは、われわれの望んでいるこの外的世界がいかなるものかを、ほんとには知っていないのだ。知りえないのだ。われわれの正確に完全に知っているのは、ひとりわれらの霊のみである。」(同書45ページ)
これによってみましても、教会宗教に反対して『キリスト教学批判』を書き教会から破門されながらも、「原始キリスト教に帰れ」と絶叫したトルストイの宇宙観がいかに「生長の家」の所説と一致しているかということがわかるのであります。つまり教会キリスト教(すなわち後世、人間が理知ででっちあげたキリスト教)でなしに、原始キリスト教――本当のキリスト教は、五官に見える世界は存在しないということを説いていたということになります。なんの教えでも真実の教え、深い教えは同じ真理に到達するのであります。トルストイはまた別のところでこんなことをいっています。
「鉄は石より固い。石は木より、木は水より、而して水は空気より固い。しかしながら触れることのできないもの、見たり聞いたりすることのできないものが、なによりも一番固いのである。これのみが過去、現在、未来を通じて厳存し、永遠に滅することが無いのである。ではそれは一体なんであるか? すなわち人間の内なる霊である。」(同書49ページ)
この「人間の内なる霊」という一句の「内」という言葉にわれわれは捉われてはならないのであります。「内」といっても、肉体は実在しないという前提がありますので、「肉体の内」という意味ではむろんないのであります。言いあらわしようがないので「内」といっていますが、「外」に対する「内」ではない、むしろ「虚(きょ)」に対する「実(じつ)」、「仮(け)」に対する「真(しん)」、「現(あらわれ)」に対する「実(ほんもの)」というような意味の「内」であります。
この「内なる霊」すなわち「真物(ほんもの)の自分」こそ一等固いものであるというのがトルストイの思想であって、「生長の家」の説くところに一致しているのであります。
「生長の家」では常に「真物の自分」というものは、金剛不壊(こんごうふえ)の実相身であって、刀仗(とうじょう)もなおこれを傷つけることができない、全世界の重荷もなおこの金剛不壊の実相身を圧重することができないというふうに説かれているのであります。
<つづく>
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