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Web誌友会 板/2

2237a hope:2013/07/11(木) 23:10:45 ID:edEDolt2
以下、「生長の家本流宣言掲示板」の宣言より引用させていただきます。

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……さらに例をあげてみれば、ここに放蕩息子がいるとします。放蕩息子といえども人間でありますから、実相は放蕩息子ではないのであります。放蕩息子にあらわれているのは仮相すなわちウソのスガタであります。


それでその息子に和解する場合を考えてみますと、「放蕩息子よ、よう放蕩してくれた。わしはお前の放蕩を喜ぶぞ」というように仮相(=仮の姿)に和解していたのでは、仮相はますますのさばって大きくあらわれて来るのであります。


……よく富豪の甘い親をもった家庭に始末におえない道楽息子があることがあります。これは道楽息子という仮相を排撃することをしないで、仮相に和解してしまったからであります。


仮相に和解してしまったら仮相があらわれる。それではいけない。それで「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には、「仮相に対しては実相をもって、相対せよ」「非実在に対しては実在をもって相対せよ」と書いてあるのであります。


……われわれはいかなる態度をとるべきでありましょうか。「迷い」に対して和解したら、真理が消えてしまうのであります。「誤れる見解」に対して和解したら実相がくらまきれてしまうのであります。だからわれわれは、決して「誤れる見解」に和解してはならないのであります。


「誤れる見解」をわれわれは「虚説」と申しますが、虚説とはよく名づけたものであります。「誤れる見解」は実相の世界にはない。それは「虚説」すなわち「無い説」でありますから、われわれは虚説と和解することは絶対にできないのであります。虚説に和解したら自分の完全なる実相が昧(くら)まされ、完全なる実相が昧まされたならば、その投影として不完全なる現象すなわち不幸、病気、災厄等があらわれてくるのであります。


……虚説を許さないことをもって、和解と寛容の徳がないように思うのはまちがいであります。また虚説を容(い)れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのもまちいであります。虚説を排撃することいよいよ明瞭であればあるほど、真説は明らかに照り、それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。


……虚説に対してはあくまでも戦い、人に対してはどこまでも実相を見て許す……。どうかみなさんも虚説(=ないもの)に対しては和解することなく、どこまでも「サタンよ去れ」の態度で進んでいただきたく、人間に対しては、その表面の包み(=罪)を見ないで、その罪なき完全なる実相を見て、その罪を赦す(=その罪を本来無いと見て捨てる)ことにしたいのであります。


要は「天地一切のものと和解せよ」との「生長の家」の第一最大のまこと誡命(=いましめ)は、「天地一切のものの実相と和解せよ」ということであって、仮相や虚説に対しては「サタンよ去れ」と排撃すべきなのであります。釈迦もキリストも同じような態度で虚説を駁撃せられたのであります。
(『生命の實相』第14巻「倫理篇」)

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わたしは、『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』こそ、わたしたちが決して許してはいけない虚説(誤れる見解)であると思います。
そして、雅宣先生(人)に対してはどこまでも実相を見て許さないといけないのだと思います。

>>2230〜の復興Gさまの御文章は未読ですが、取り合えず投稿させていただきます。)


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