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Web誌友会 板/2

2289ユタカ:2013/07/13(土) 13:51:42 ID:R1D4Jmeg
神ひとに語り給う
「病んでいると言う病いは本来ない、苦しんでいると言う苦しみは本来ない。『これだけ自分は苦しんでいる』と、その苦しみを自慢にするような心は、却って病気を招く心である。

 キリストの受難に倣(なら)って自分も亦苦しもうなどと言う心も愚な心である。キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。十字架も受難ではなく受苦ではなく法楽である。神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく任運無作(にんうんむさ)、法爾自然(ほうにじねん)、水の流るるが如く、すべてが惟神(かんながら)の法楽である。」

「任運」といふのは運に任せて、「無作」といふのは計らいがないといふこと、”そのままの心”でゐるといふことです。「法爾」というのは、法そのままです。 法そのままの動きにまかせるのです。「法」とは真理であります。
真理の内部的催しそのままに自然に動き出して、ちょうど、水が高いところから低いところへ流れるようなものであって、すべてに無理がないのであるといふことであります。すべてに無理がないから、其処には楽があるばかりであります。その楽は人間が工(たく)する人工的な楽ではないから、「すべてが惟神(かむながら)の法楽である」と示されてゐるのであります。 「惟神(かむながら)」といふのは、”かみながれ”といふこであります。「神催し」と言ってもよいのでありますが神様のおはからひから自然にもよほす流れのままに生き、動き、生活して行くことであります。

そこに真理の喜びといふものが湧いてくるのであり、これが法楽であります。 日本では「神ながら」といふ場合に「惟神(ただかみ)」と書いて「かんながら」と読む習慣(ならはし)になってゐるのは、神のみが実在であり、そのほかのものは、妄想だといふことを何となく知ってゐたと思はれます。


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