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Web誌友会 板/2
2288
:
復興G
:2013/07/13(土) 11:54:10 ID:AB6RqYXc
皆々様
ありがとうございます。
毎回のweb誌友会で、いちばん勉強させて頂いているのは私であると思い、感謝しています。
今回も、そうです。
今回の第15回web誌友会は、15日(月・休日)の23:00までですね。歓喜に満ちて深く勉強研鑽させていただいています。ありがとうございます。
本日午後はリアルの誌友会に出講することになりましたので、夜までPCから離れます。
離れる前に、今回のテキスト 『生命の實相』 第3巻の最初に、「七つの燈台の点燈者の神示」 として、8つの重要な神示が掲載されていますが、その中の一つ、「無病常楽の神示」を謹写掲示させて頂きます。
<< 無病常楽の神示
病んでいると言う病いは本来ない、苦しんでいると言う苦しみは本来ない。『これだけ自分は苦しんでいる』と、その苦しみを自慢にするような心は、却って病気を招く心である。
キリストの受難に倣(なら)って自分も亦苦しもうなどと言う心も愚な心である。キリストは神性であるから未だ嘗つて一度も受難はない。十字架も受難ではなく受苦ではなく法楽である。神の子には『難』の受けようがなく、『苦』の受けようがなく任運無作(にんうんむさ)、法爾自然(ほうにじねん)、水の流るるが如く、すべてが惟神(かんながら)の法楽である。
斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭(いと)う心もおのずから消え去ってしまい、苦もなく、艱難もなく、苦楽を超越した本当の楽想(らくそう)を生じ、吾れが一変し、天地が一変し、人生はただ歓びの讃歌に満たされるのである。
実相は苦楽を超越する法楽であって、実相をもって苦もなく楽もないと言うのは謬見(びゅうけん)である。
汝らが『楽』と称する『楽』は本当の『楽』ではないから、『楽』を求むれば必ず苦を生ずるのである。五官のうちに、感覚の惑わしのうちに『楽』があるとするのは謬見である。五官の『楽しみ』はその本性(ほんしょう)決して『楽』に非ざるが故に『苦』に変ずるのである。
実相はかくの如き仮相(けそう)の苦楽を超越すれども、真相の『楽』そのものである。法悦そのものであり法楽そのものである。その『楽そのもの』が『常住の我』であって、これが『神の子』である。『神の子』が『人間そのもの』であって、その外(ほか)に『人間』はない。
人間とは常楽を言い、無病を言い、不苦を言い、不悩を言い、不壊(ふえ)を言う。肉体は『人間』ではない。人間の心の痕跡(こんせき)であり、足跡(そくせき)である。破壊すべきものは人間ではない。汝らよ、汝ら自身の不苦不悩無病の実相を見よ。
(昭和七年十一月十日神示)>>
ありがとうございます。
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