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聖典引用 板

98「訊け」管理人:2011/12/24(土) 16:14:48 ID:UodBcqiE

 念仏は人間自身のはからいによって称えるのではなく、絶対他力ー時空を
超越せる絶対神大実在の、救わずにおかない大慈悲力が廻向(えこう)し来
って、念仏となえる行となってあらわれるのであるから、念仏の進むところ
天の霊、地の霊もこれを敬いたまいて平伏し、魔界外道、仏界以外のものも、
何ら念仏の前には障りとなる訳のものではない。

『光明道中記』262項



 ・・・クリスマスイヴに親鸞を読んでいる、「訊け」管理人です。キリスト
も親鸞も天才でしょうけども、あらためて思うのが雅春先生の天才性です。
ホントに雅春先生って、何者なのでありましょうか。

 すごい人だよなあ、ホント。

99ひか:2011/12/31(土) 20:25:36 ID:0szYu2bo
  ひかりの言葉

  WORDS OF LIGHT

上段より1987年〜1998年
  までの31日付け日訓


 要らぬものを掴むな
要るものが入って来ない

Do not grasp the unnecessary.
The essentials
will not come to you.


 八方塞がりの時も
神様の方向が開いている

Even when every path is blocked
the way to God is open.


仕事を通して神の愛を伝えよ

Convey God's Love through
your work.


その人の光明面のみを
観るのが「愛」である

To see only the bright side
of a person is love.


正しく信じる者は癒される

Those who believe with proper
faith will be healed.


他(た)の人の幸福を見て喜ぶ心が
       本心である

Our real mind sees and rejoices
in the happiness of others.


最後まで堪えしのぶ者は勝つ

Those who endure
to the end will succeed.


人は「赦し」の大きさによって
    計られる

A person is judged by the
greatness of his forgiveness.


「今」の時間を生きるのが
 人生最大の悦びである

To live the present moment is the
greatest joy of human life.


素直に信じ、行ずる者が、
最後の勝利者となる

Those who are honest and
obedient in their faith and
practice will succeed in the end.


我れは神の子、神の無限の
  富の後継者なり

I am a child of God―the heir
to God's infinite wealth.


 愛の前には敵がない、
すべてのものが味方となる

In the face of love there is
no adversary.
Everyone becomes a friend.

100みそ:2011/12/31(土) 20:34:42 ID:0szYu2bo
      禊祓祝詞講義

どの宗教でも本来その教の来る本源たるものに達したならば、同じであって、一神一切神、一佛一切佛となるのであります。さて、序文はこれくらいにいたしまして「禊祓之祝詞」の本文に入ります。短いものですから全文一寸読んでみます。

「高天原に神留坐す。神魯伎神魯美の詔を以ちて、皇御祖神伊邪那岐命筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に身禊祓ひ給ふ時に生坐る祓戸の大神等、諸々の枉事罪穢を祓給へ清給へと申す事の由を、天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立てて聞召と畏み畏みを白す。」
「たかあまはらにかみつまります。かむろぎかむろみのみことをもちて、すめみおやかむいざなぎのみことつくしのひむかのたちはなのをどのあはきはらにみそぎはらひたまふときになりませるはらひどのおほかみたち、もろもろのまがことつみけがれをはらひたまへきよめたまへとまをすことのよしを、あまつかみくにつかみやほよろづのかみたちともにあめのふちこまのみみふりたててきこしめせとかしこみかしこみをもうす。」
  〜    〜   〜
それで「天津神国津神八百萬の神等共に天斑駒の耳振立てて聞召せ」と、私たちは、時間の経過をとおして、どうぞ徐々に、あまり激しい自壊作用なしに、此の世界を光明化して、浄化して下さいませ、と斯う云う風に祈り申し上げる言葉が禊祓の祝詞なのであります。これで禊祓の祝詞は終わっているのであります。
     禊祓祝詞講義 主に祝詞本文と最終文 『實相と現象』                              


     世界平和の根本となるもの

世界の平和は権勢欲や、自分の属する団体の勢力拡大欲によっては、得られるものではないのである。世界のどこかで争いが起こり、戦争が起こっているところを注意して見よ。そこには権勢欲と勢力拡大欲によってその目的を達するためには相手を傷つけることを何とも思わぬ残忍刻薄の人間によって指導されていることを見るのである。そのような自己拡大欲によっては決して平和は来たらないのである。平和は、真理によって魂が輝かされ、そのような争いの愚かさを知り、すべての人間を、唯一の神より出でたる兄弟姉妹であると知り、一人の人でも傷つくことを、自己みずからが傷つくごとく悲しく思う人々の殖(ふ)えることによってのみ起こるのである。どの山からも、どの国からも、どの寺院からも、どの協会からも、どの人種からも、どの民族からも、"唯一つの神"のみを拝し"唯一つの神"のほかに、別々の神なきことを知ることによってのみ得られるのである。

釈尊は「山川草木国土悉皆成仏・有情非常同時成道」と悟られたが、山も川も草も木も国土も、情(こころ)在るものも情(こころ)なきものも、その奥に同時に(今此処に)宇宙本源の神やどると悟られたのが釈尊である。山や川や草木にすら、同時に神やどるのであるのに、すべての宗教の講堂に、教会に、寺院に、唯一の普遍的親様なる神が宿らないでいる筈はないではないか。
     人生の秘訣365章 <完>


     新年を迎える心の準備

あなたの心のうちに新年を迎える準備が出来ていますか。今年もよく三百六十五日を無事に過ごすことが出来ましたのは神様、あなたのお陰でございます。神に感謝致しましょう。御先祖様に感謝致しましょう。父母(ふぼ)に感謝致しましょう、夫又は妻に感謝致しましょう。家庭の、又は勤め先の、協力者すべてに感謝致しましょう。みんなを心の中に思い浮かべて、しみじみと心の中で御礼を申しましょう。今年一年の間に過って何か不快な思いをさせたことがあったかも知れませんが、どうぞそれをお赦し下さいと念じましょう。この感謝と懺悔とによって、今年一年じゅうにあったすべての思いと行いとが清められるのです。そして来年になすべき善き事のプログラムを定めましょう。では皆さん、ご機嫌よう。
     幸福を招く365章 <完>

101ももんが:2011/12/31(土) 21:39:05 ID:XXCuaQns
>>100以前、私が、投稿しました。以上。

602:ももんが
11/12/03(土) 23:57:59 ID:XXCuaQns
皆様、今晩。今日も、1日、お疲れ様でした。明日もまた、良い日がくるように、頑張って、生きましょ!合掌、拝。


〜『禊祓之祝詞』〜

『高天原に神留坐す。神魯伎神魯美の詔を以ちて、皇御祖神伊邪那岐命 筑紫の日向の橘 の小戸の阿波岐原に身禊祓ひ給ふ時に生坐る祓戸の大神等、諸々の枉事罪穢を祓給へ清給へと申す事の由を、天津神国津神八百万の神等共に天の渊馬の耳振り立て聞き召と畏み畏みを白す。』


神道で、身を浄める場合に、唱える、『天津祝詞』です。『実相と現象』の196ページに、出てます。

昔は、神想観の前に、この、天津祝詞を唱えて、身を浄めてから、神想観に、入ったようです。

私は、最近、これを唱えて、心と身を浄めてから、聖経や神想観してます。

凄く、心が楽になる感じです。

では、皆様、おやすみなさい。また、明日も、嬉しいく、楽しく、頑張って、生きましょ!ありがとうございます。合掌、

102だい:2012/01/01(日) 20:46:49 ID:wVWWfOv2

第一篇 実相界に超入し
      霊の洗礼による"新生"を得よ

   新たに生まれるための祈り

われ今、合掌、天地四方を礼拝して、天地一切のものに感謝し奉る。古き天と地と四方一切のものは過ぎ去り、役目を果たして終わりぬ。ここにわれ住吉大神(すみよしのおおかみ)に導かれて竜宮海に入り、竜宮城の"神癒の社"に入り、大神の御前に坐して大神を礼拝し奉る。大神、右の手をあげてその掌(てのひら)もてわが全身を撫下(ぶか)し給いて霊をもって我を浄め給う。古き現象界の人類意識の妄想ことごとく浄められて、わが実相完全のすがたここに顕れたり。今より後、一切の悩みあることなく、苦しみあることなく、病いあることなく、老衰あることなく、貧しさあることなく、悲しみあることなく、憂いあることなし。久遠不滅の生命(いのち)われに宿れり、常住健康、歓喜無限の生命(いのち)なり。われ住吉大神の御禊(みそぎ)を受けて霊によって潔(きよ)められ、霊によって復活(よみがえり)のい!の!ち!を受けしことを、大神に感謝し奉る。今後、われ現象界に帰還したる後も、永遠にこの自覚をもちて生活せんことを大神に誓い奉る。ありがとうございます。
   『如意自在の生活365章』


"春" 積極的生活法
1.万物は一新す

   あなたは幸福の磁石である

あなたは今、幸福の年を迎へたのである。過去に如何なることがあったにせよ、それは除夜の鐘の音(ね)と共に消え去ったのである。新しき天と地とが黎明の帳(とばり)をあげて、新しき日光があなたの家に射し込んだのである。闇は消え、光の世界が始まったのである。万物が悉く新たになったのである。あなたの心が新たになったのである。見る心が一変して天地一新したのである。過去は、過去のあなたの心が描いたものや、潜在意識に蓄積していた想念が形にあらはれていたのである。これからは、あなたが今後あなたの心に想念するところのものがあらはれて来るのである。

あなたは今後、幸福のみを想ふのである。世界人類の幸福を、日本国民全体の幸福を、あなたの属する団体の幸福を、あなたの家庭の幸福を、そしてあなた自身の幸福を想念するのである。想念するものが集まって来るのである。類を以って集まるのである。あなたが今後幸福ばかりを想念すれば、あなたは幸福ばかりを引き寄せる磁石の如くなるのである。
   『人生の秘訣365章』


第一篇 "神"を生活の中に生きるには

   天地の恩

吾々の生活に、どんなに多く、大自然の恵みを受けているか、衆生の御恩を受けているかを顧みよ。あまりにも私たちは受けている恩恵に対して鈍感であり過ぎたのである。それらを当然のこと、当り前の事として感謝することを忘れていたのである。あまりにも自分が受けていた恩恵に対して気がつかな過ぎたのである。

何でも気がつかない時は、それが存在しても「無い」のと同じことである。自分のポケットに百万円の小切手があっても気がつかなかったら、その小切手は無いのと同じことである。では大自然の恵みも、衆生の恩も、国家の恩も気がつかなかったら、それは無いのと同じことである。「ある」ものに気がつかないのは盲人と同じことである。私たちは盲人になってはならないのである。すべての恩恵をみとめたとき、私たちはその恩恵の所有者になるのである。
   『生活の智慧365章』

103われ:2012/01/01(日) 20:49:39 ID:wVWWfOv2

吾れを伸ばすものは、
絶えず與へてゐると云う感じ、
絶えず人から喜ばれてゐると云う感じ、
與へる歓びは自己擴大の感じ、
自己の愛が次第に擴がる感じ、
この感じのうちに生命は伸びて行く。
  
  『生長の家』誌創刊号



  毎日の朝を"新生の日"とせよ

"今"が生まれ変わりの時なのである。毎日毎日があなたの人生の元旦でなければならないのである。朝目が覚めたら、その時を一年の元旦のように思うがよろしい。そしてすべての人々に「お目出とう。好い年が明けましてありがとうございます」と挨拶し得るほどに"新生の気分"になっていなければならないのである。「自覚の生まれ変わり」である。

  日訓(1991年1日)
  本文 新たに霊的に生まれるための祈り『聖経 続真理の吟唱』 



朝に 東方に面して
合掌礼拝して
霊々
妙々
円満の大生命を観ずれば
心身清浄
微妙の大生命は
雰囲気となって
我が身 我が心をひたす。
吾れとその雰囲気と
一体にして界なし
ああ 讃うべきかな生命
われが生命である歓びよ。
生かされている!
生かされている!
生かされている!
生かされている此の歓びを
心にみたして眼をひらけば
眼前に
朝の太陽は微妙の光をはなち
庭の木の若葉に生命が照り輝く。
若葉の生命の中を
別にまた一つの生命が躍っている。
雀が金色(こんじき)に輝いて枝から枝へ飛びうつる。
空気が躍っている。
内も外も
燦然たる生命の大光明世界だった。

 朝讃歌(ちょうさんか)『ひかりの語録』

104「訊け」管理人:2012/01/03(火) 22:34:09 ID:UodBcqiE
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65619533.html#more

光への道


もっともっと気高く生きよう。
最も気高いことのほか何事も考えまい。
最も気高いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他のためになろう。
他に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人と云うのは本来一人もいない。
地獄というものも決してない。
悪いことが其処に語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。
汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥って地獄へと墜落せん。

105「訊け」管理人:2012/01/03(火) 22:35:55 ID:UodBcqiE

 今日から誌友の家々を
 「生長の家々」と呼ぼう。


 わたしは信ずるのだー
 「生長の家々」はさかえるぞと。

 一ぺんに大木ならないからとて
 あなたの家(うち)はもう生長する家(いえ)に定められているのだ。

 この仕事は、
 人間の家々を皆な「生長の家々」にする為に
 神がはじめた仕事なのだ。


 わたしは「生長の家」の教祖ではない。
 「生長の家々」の一軒だ。

 わたしの内にいます神が、
 書けと云うとおりに
 私は書いているだけだ。

 私は神が書かせた通りに
 行なうと努力しているだけなんだ。

 私は神を信じて
 ただ結果を待っているだけなんだ。

 「生長の家々」のことを思うと
 わたしは嬉しさで一ぱいだ。

106「訊け」管理人:2012/01/05(木) 08:49:53 ID:D0Kb5yw.
 『私は神々しい、私は神々しい』と云うことを常に心に唱える、常に心に
思い浮かべる、そうすると悪いことは出来なくなるのです。大抵悪いことを
やると云うのは吾々が神々しいと云う自覚を失ってしまっているときであり
ます。

 この神々しさの自覚こそ、ほんとうの日本精神であります。軍国精神を、日
本精神だなどと間違えて宣伝したものですから大変な間違いを犯したのであり
ますが、日本精神の中核は、自分自身に神々しいと云う自覚を持っていること
であります。だから昔の日本人は総て自分自身のことを『命』(みこと)と呼
んでいるのであります。


『愛と光との生活』108項

107a hope:2012/01/08(日) 14:32:34 ID:kcv2QXTk

 デーリーは彼ら囚人達に直接話しかけてよくしてやろうという考えを放棄した。
彼ら囚人はデーリー自身の自己改善のために――「あの見苦しく見える極悪者の中にも善にして尊い神性がある」
ということを静かに拝みだす自己の力を養成するための自己改善のために――彼らが自分の敵として自分の目の前に
あらわれているのだと考えるようになったのである。
かくて、デーリーの囚人達を善導したいというような高慢な心は彼の生活を導く主導力としては消えてしまった。
かくて自分自身の魂をみがくために与えられた手段として、其処にあらわれて下さっているのだと受けとることが、
デーリーの生活活動を導くことになったのである。

 かくして彼はすべての敵の姿を自分の心の画廊に陳列して、それに心のイメージで修正の補筆を加えることにしたのである。
即ち彼らと自分との関係を愛の関係において、真実なる、高貴な友情の関係に於いて、現にあると心に描き、
その状態に於ける姿が彼の真の姿であると、観ようとしたのである。これは『生長の家』でいうところの『実相を観よ』というのと同じである。
デーリーはそれを「この実践は人生に於ける『高き悦楽のゲーム』(highly fascinating game)となった」と書いている。
それ以来、驚異すべき事実が続々として起こった。今までデーリーを避けていた囚人が突然予期もしないのに親しみ出して来た。
そんな奇蹟がデーリーの展けかかっていた人格に鉄の信念を加えるようになったのである。

 愛は欠点を見てそれを矯正することではなく、そのいたい傷に触れることではなかったのである。
愛はその人の傷をやさしく包んでその人の欠点の奥にある円満完全なる実相を、じっと愛の心で眺めやり、
これが彼の実相であるとそれを心でいたわり育ててやることであったのである。
デーリーはかかる愛の実践が、ハッキリと敵の陣営にあった人々にこのような奇蹟を演ずる事実を見た。
そして彼らを隔てていた障壁が霞のように消えてしまい、新しい、より高貴なる基礎の上に昔あった友情が再建せられる事実を見た。
それは彼にとって最も神聖な、幽玄な、彼が今まで発見し得ずにいた愛の神秘力についての最も美しい事実であったのである。
それは一々の場合において、一々の問題に周到に意識的に応用して実践し得る愛の奇蹟であった。
彼は実験と経験とによって愛の焔が、どんな復活しがたい魂にも到達し、その石のような堅い殻をも溶融し、
到底見込みがないと捨てられていた極悪非道のものをも転回せしめる不思議な力があることを知ったのである。
ここにこそどんな強靭なキリストの敵、人類の敵にさえも神の与えたまう恩寵があるのである。
かかる神の愛の力が彼にも与えられて、彼を通して人々に頒ち得るとは何という悦楽であろうとデーリーは知ったのである。

谷口雅春先生著『愛は刑よりも強し』より

108うのはな:2012/01/10(火) 19:23:05 ID:El6gIMAw
天皇制の理念に就いて 『白鳩』誌昭和二十一年三月号掲載の予定なるも検閲にて全文削除さる

 凡そ形あるものは、内在の『形なき形』−理念的存在の具象化せるものである。
日本が皇統連綿二千六百余年の光栄ある歴史を存続せしめ得たのは、唯偶然の所産ではないのであって、
日本民族に内在する民族理念が終始一貫『中心』をもとめ、その『中心』に帰趨し還帰し復元しそこより
再び出発して其処に復るところの生命の中心本体を礼拝帰一せずにはおれないところの其の本然性の然らしむ
るところであるのである。

 斯く、中心者をもとめ、それに礼拝帰一せんとの本然性を、単なる封建性であると考えることは間違いである。
事物にはすべて中心がある。中心者の前には容易にひれ伏す素直な心情こそ、日本人に与えられる純粋なる幼な児の如き、
『神への帰一の心』−宗教心の発露であって、日本人の忠誠心は此の心の現われの一つであるのである。
そしてその生命の必然的礼拝の対象者として吾々の心の中に内在する理念的実在が『天皇なるもの』であらせられるのである。

 歴代の天皇はその理念の表現として具体的天皇であらせられた。そしてその具体的天皇は常に必ずしも理想的天皇の状態を
あらわし給うとは限らないのであって、その時代の国民の精神状態が反映して理念の完全なる天皇にも色々の影が反映したのである。
かくて古事記にも必ずしも完璧なる天皇の御状態のみが書いてあるのではない。
武烈天皇の如き天皇も歴代のうちには描かれているのである。
具体的現象の天皇が如何にあろうとも本当の天皇は理念の世界に理念的完全の天皇として日本民族の心の中にあるのである。

 永遠に完全でまします天皇 吾々の心の中には斯くの如き理念が存在して、それにすべての細胞的存在なる臣民の理念が奉仕しているのである
斯くの如き、有機的生命的世界観 日本民族に於ける中心への還帰帰一の心、忠誠心があるのが欠点なのではない。
この心を利用して自己の幕府的存在の野心を満足せしめようとした重臣的、又は軍閥的、将軍的存在が理念の完璧なる天皇の真象の顕現を隠覆して、その
聖明を蒙まし奉ったのである。それは月蝕に於ける表面の暗黒的存在が、太陽そのものにあるのではなくして、
地球みずからの影であるが如くである。

かくて、月蝕について太陽それ自体を犯罪者として非難する如きは愚かなることであって。地球みずからが
懺悔し反省しなければならないと同じように、国家の重臣、軍閥、将軍家的存在が、天皇の『久遠神聖の理念』の
顕現を曇らし奉ったことについて真に深き懺悔を必要とするのである。

『大和の国 日本』 谷口雅春 先生著 P89−90

109a hope:2012/01/10(火) 21:44:48 ID:kcv2QXTk

○どんな苦労があっても、因縁によって世話させて頂いていると思えばありがたいばかりの一筋である。
人間は他のために苦労させられているのではなく、自分の魂を高め上げ、
清め上げるための修行として苦労を恵まれているのである。
学校は先生のために勉強するのではなく、生徒自身の向上のために勉強するのである。
人生は魂の勉強する学校である。
苦労は教科書であり、苦労させてくださる人は皆自分の先生である。
われわれは苦労させてくださる人に感謝して拝まなければならない。
これが解ったら世の中にありがたくないものは一つもないのである。
これが解ったら人生は幸福なばかりである。
豚なら幸福とは快楽のことだと思っているかも知れぬが、本当の人間は苦労の中に喜べるものである。

○病気を口実にしているようでは病気は治らぬ。

○感覚の歓びを追うても飽くることを知らないのは、感覚の歓びは本来ない喜びであるからである。
本来ない歓びをいくら積み上げていっても、けっきょくわれわれは空虚の歓びを感ずるのであるから、
渇欲飽くることを知らずに追い求めることになるのである。

○因縁の理がわかっても、まだ因縁にとらわれている者は縁覚であって正覚(ほとけ)ではない。
正覚(ほとけ)は因縁の理を説きながら「本来因縁なし」の実相を悟れるものである。
縁覚は因縁の理を悟り、因縁を追うてなお因縁に墜落する。
(「智慧の言葉」より)

「生命の實相」第8巻 観行篇 p15〜 より

110ももんが:2012/01/11(水) 13:53:46 ID:XXCuaQns
〜『白隠禅師和讃』〜


☆衆生本来仏なり

水と氷の如くにて

水を離れて氷なく

衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして

遠く求むるはかなさよ

譬えば水の中に居て

渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて

貧里に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は

己が愚痴の闇路なり

闇路に闇路を踏そえて

いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は

称歎するに余りあり

布施や持戒の諸波原密

念仏懺悔修行等

其品多き諸善行

皆この中に帰するなり

一座の功をなす人も

積みし無量の罪ほろぶ

悪趣いずくに有りぬべき

浄土即ち遠からず

辱なくも此の法を

一たび耳にふるる時

賛嘆随喜する人は

福を得ること限りなし

いわんや自ら回向して

直に自性を證すれば

自性即ち無性にて

すでに戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ

無二無三の道直し

無相の相を相として

行くも帰るも余所ならず

無念の念として

うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく

四智円明の月さえん

此の時何をか求むべき

寂滅現前する故に

当処即ち蓮華国

此の身即ち仏なり


※臨済宗では、これは、良く唱和する、聖典です。

『神 真理を告げ給う』で、神様も、この聖典を、紹介してます。

この、聖典の心を体得出来れば、見性であり、神の子を体得人でしょ。

111うのはな:2012/01/11(水) 20:01:44 ID:El6gIMAw

  強力な組織をつくろう

 しかし吾々は智慧なくして真理を高くかかげることは出来ない。
吾々の行動は決して無秩序であったり、ひとりよがりであったりしてはならないのである。
こころみに共産党大会に行って、いくら神の福音をといても彼らは耳を貸さないであろう。
それは何故か、それは智慧ある行為ではなく、勝手気儘な説法であるから、その説法が生きて来ないのである。
それと同じように、吾々の光明化運動がテンデバラバラであったならば折角の光も暗黒に吸収されてしまって何の役にも
立たなくなる。それは何故かといえば、「数の威力」ということを知らないからである。

一人よりも二人、二人よりも三人、三人よりも十人が、より強力である。
したがって今あるわれわれの会合を数多く強力にすることに、どうして冷淡でいられるだろうか。個人の信仰は、冷たい灰の中に
抛り出された炭火のように、やがて立ち消えてしまう。しかし組織立って組み立てられた炭火は、ますます強くもえさかるのである。

 そのように、われわれは先ずわれわれの誌友会の数をふやし、強力にし、組織化し、魅力的にし、圧倒的にして行こう。
そうすれば、そこへ人々をひきつけることが出来るのである。私はこの最も根本的な問題をとくにみなさんに考えてもらいたいと思うのである。
立教の当初からとられているこの方法に、強力な愛の筋金をいれることこそ重大である。
愛と団結の力が今ほど要請されているときはないのである。五千万の人間が団結すれば、この国をどのような楽園にでもつくりあげることが出来る。
しかし十万やニ十万では、残念ながらそれが出来ないのである、、、。


 光明化運動要項 三十三年度版四三〜四九頁

112うのはな:2012/01/11(水) 20:51:14 ID:El6gIMAw

二月二十一日 躓かざる日  光明道中記 谷口雅春 先生著

 他(ひと)が怒ったら、ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
 生命の實相第十一巻

 真理は時処と人とによって相が変る。一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。
『生命の實相』は両方面から書いてある。腹を立てるなと書いてあるところと、自然に立つ腹なら腹を立てても好いと
書いてあるところとある。薬を廃めよと書いてあるところもあれば、薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。
自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と長上に反抗することも出来るであろうが、
扠また自分の方が善であると思える場合にでも、相手が腹を立てて来たら、「相手の心を掻き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。
人事処三相応である。凡そ吾がために躓かぬものは幸いである。

114うのはな:2012/01/12(木) 14:25:27 ID:El6gIMAw

 トキ管理人さん、
 申し訳ないですけど、改行考えないで書いたからよみにくくなりました。
 削除おねがいします。 113 上記

115うのはな:2012/01/12(木) 15:09:40 ID:El6gIMAw
 立教と光の進軍  生長の家の発祥

 悟りを開かれた先生は、その喜びを人々に伝える事こそ、自分の使命であると感じられた。
しかし当時の谷口先生には、教化のための雑誌を発行し、それを持続する資力も、雑誌を執筆
する時間的余裕もなかった。理想と現実の狭間で苦悩するなかで先生御一家は大震災以来二回目
の盗難にあわれ、衣類一切を失われたのだった。神啓が天下り、雑誌『生長の家』創刊を決意された
のはまさにその時だったのである。

  旅すれば遭ふ人毎を拝むなり 遍路の心尊くもかな

  人生は浄土に向ふ旅なれば  一歩一歩に愛を重ねん

         昭和六十年御題詠進 「旅」 谷口雅春


 『生長の家の火をかざして 永遠の谷口雅春先生』 P42

116トキ:2012/01/12(木) 17:34:42 ID:GIotOOCs
>>114

 了解しました。管理人

117ハマナス:2012/01/12(木) 23:47:40 ID:u5mC.eb2
神の子の皆さま、

ありがとうございます。ご無沙汰をしております。
この1か月の間に、色々の事が明るみに出てきました。一信徒として祈る事以外に何も出来ませんが、
教団のトップの方々と生命の實相派(?)の方々が歩み寄られて、是非雅春先生の意思を継いで頂きたいと、
切に願っております。

新春練成会に参加して、日本国と生長の家の実相顕現を祈ってきました。


一 月 十 三 日          (生命の實相第三七巻より)

 高邁な超越的立場を持する者も、時として戦うことがある。凝り固まった相対的立場

にいる者は一切包容の立場をも、一つの別の相対的立場と思いちがえて反撃してくること

があるからである。生長の家がどの宗教をもそれぞれの立場において宜しとして未だかつ

て一度も排斥したことがないのに、生長の家を新しく興った一派の宗教として反撃するも

のがあったのも同じような理由からである。しかし、今となっては生長の家のあらゆる宗

派に対する寛容な全包容的立場を理会しない者がほとんどない。どの宗派も生長の家に好

意をもっているし、生長の家がとり来たった宗教に実生活に生かすやり方をおのおのの宗

旨に取り入れない宗派はない。

 すべて宗教は生活を離れた時に概念の遊戯となる。宗教が生活を離れるのは時代を離れ

るからである。時代を離れるとき禅行も天魔の行となり、念仏も無間地獄の門となる。

禅行そのもの念仏そのものが、天魔地獄の行門ではない。時代を離れたところに禅行も念

仏も死の行となる。生かさぬものは宗教ではない。隻手の拍手よく三千大千世界に響くと

いえども、実生活を救いえない座禅もあり、死骸に念仏することのみを知って、生きた

人間には念仏どころか同業を嫉妬し、瞋恚(しんい)の炎を燃やす僧侶もあったが、今は

それがだんだんなくなったのは喜ばしい。

われわれは生きた人間にお念仏申す心にならねばならぬ。念仏とは、相手に合掌して

仏をその相手から拝み顕(あらわ)すことである。常不軽菩薩の行である。

118うのはな:2012/01/13(金) 11:33:50 ID:El6gIMAw

神そのままに完全なる人間  『真理』 第10巻 実相篇

 噴水は、水源があって其の圧力によって色々の美しい形に噴出しますが、
人間は、神と云う霊的本源があって、その“霊”なる流れの噴出でありますから、人間は
決して物質ではないのでのであって、霊的実在であります。霊的実在が人間であり、人間は
霊的実在である。その実相に於いて、人間は神の自己顕現として神そのままに完全につくられているのであります。

“つくられている”と云う語は最早当て嵌まらないのです。人間は神そのままに完全なのであります。
噴水の先端に於いては、水は水そのものの流動性を失って、霧の如く微粒子(ごく小さなブツブツ)
となって流動しないもののようにあらわれる。それと同じく、神の霊性は、その表現の先端に於いては、
多少その自由自在性を失って、固定化(かたまった形にあらわす)したように見え、“人間は物質だ”と云うように
見えますけれども、人間の本質は自由自在の“霊”なのです。

 谷口雅春 先生著

119商人:2012/01/13(金) 12:44:51 ID:TCt66b8E
戦後『昭和文学全集』を発行してたちまち出版界を席巻し、一年あまりのうちに一億円も儲けたと噂されている角川書店というのがある。その主人の角川源義氏は国学院大学出身のまだ青年と言って好い若い人である。


 終戦後の出版物飢饉状態の昭和二十三年の夏、名刺三枚を懐ろに仙台の阿部次郎氏邸を訪れたのである。
 氏は理想家であり、人格主義者であり、若い時に読んだ阿部次郎氏の論文『人格主義』にいたく感動したことがあったので、是非、終戦後の出版事業の旗あげに、この真面目な精神的な人格主義の論文を終戦後の混乱している人心を善導することに貢献したいと思って、その出版の許諾を阿部次郎氏に求めて行ったのである。

 一面識もない阿部先生であるけれども、この青年の熱と誠心とに打たれて阿部さんは出版の許諾を興えたのであった。それが角川氏の出版社としての成功の第一歩であって、自分の理想に向って敢然として進む断行の決断と勇気が、氏の後年大いに出版事業に成功する要素となっているのである。

 しかも感心なことには、氏は、その後、東北地方を襲った風水害の情報を手にすると取るものも取り敢ず、リュックサックに手に入るだけの食糧をつめて、阿部次郎氏を見舞っている。
 角川書店の後年の繁栄は實にこの角川氏の恩を忘れぬ心から来ていると言わなければならないのである。


 恩は原因を知る心である。
 本源を培うとき、その人は栄えるのである。

 しかし昭和二十四年五月頃角川書店の経営は最悪状態に陥った。
 角川文庫がサッパリ売れないで、三、四千万円の借金の支払の道に窮して二進も三進も行かなくなった。
 この時、角川氏自ら夫人と共に有楽町駅に立ってチラシを配った ー ここにも不屈不撓の強靭な商魂が見られるのであるが、氏の出版業の危機を救ったのは阿部次郎氏の『三太郎の日記』の出版であった。

 
 これは岩波書店で前から出していたが、あの東北地方の風水害のときにリュックで食糧を運んだその恩を知る青年の心に動かされて、阿部氏は岩波書店に手紙を書いて、それを角川書店で出版することの許諾を得てくれたのである。この『三太郎の日記』が、旺んに売れた。刷っても刷っても間に合わぬ位売れた。これが角川書店を立直らせた基となった。


 もし阿部次郎氏が『三太郎の日記』の出版許可を興えなかったならば、角川書店の今日はない。しかもそれが東北水害の際の食糧見舞にかけつけた恩を知る心がかくならしめたのである。

 
 角川氏は後に仙台に阿部日本文化研究所を建てて再び恩に報いるためにこれを阿部次郎氏に贈ったのである。
 あの成功した『昭和文学全集』は改造社の山本實彦氏が嘗て発行した『現代日本文学全集』の形や組方を模倣して一冊の中に大量を収録することにして出来たというので、その恩義に報いるため、『昭和文学全集』が出来上ると故山本實彦氏の霊前にその第一冊を捧げて感謝の意を表したというのも有名な話である。

 
 角川氏の今日の成功あるは全く氏の知恩の心からである。角川氏は又親孝行で宅には何百万円もする立派な仏壇があり、その奥には父の遺品天秤棒が祀ってある。


 孝は百行の基であるのは今も昔も変りはない。

 『若人のための78章』 谷口雅春先生著 より

私もがんばろう!!

120うのはな:2012/01/13(金) 14:32:52 ID:El6gIMAw
 生長の家社会事業団の設立 『生長の家』誌昭和二十年十一月号

 爰に(ここに)吾等は時局に鑑み、生長の家社会事業団を設立し(財団法人の手続準備中)
日本未曾有の難局を乗切り全国十万の誌友が真理への開眼の神恵に応えんが為、大死一番、一身を捧げ、
一切の利害を擲って成就すべき具体的転法輪たらしめんとす。

神恵感謝の同志は諸費を節して是非此の事業団に参加協力せられんことを望む。
本部に於ては戦時は国策協賛会を設け、総裁直授の光明思想講習会にて収受する
講習料を全部国債購入に当てたるも、戦後はその会計を引きつぎて社会事業団の基金経費に転換す。

121うのはな:2012/01/16(月) 10:37:44 ID:El6gIMAw
あたたかき御手のうちに  谷口恵美子

「お父様、ありがとうございました・羽化登仙なさったのですね。」
私と上野さんは、父のベットの両側にひざまずいたまま、あたたかく柔らかい父の手を、
両方からそれぞれの合掌の手の中に囲むように、そっと持ってうつむいて泣きました。
「先生が....」「え?」と上野さんの視線を追うと、閉じた父の左の目から、ひとしずくの
涙がスーッと耳の方につたわりました。
「きっと皆様とのお別れの涙なのね」こんなときにも、私は自分の父でありながらも、多くの方達の
大いなる父であることが忘れられずに心の中でつぶやきました。
「きれいなお顔になさって・・・」と私は父のやわらかい髪を撫でながら、その清らかな美しさにみとれました。
九十一歳なんて、とても信じられません。
「上野さん、ありがとう、ほんとに有難う・・・」
夜の間、一緒にいてくれた雅宣が、父の安らかな呼吸と血圧の安定をみて、公邸に戻るといって出てから十五分くらいの間の出来事でした。

 電話を掛ける暇もないほどでした。すぐ来るという母には、間もなく帰りますから、そちらの準備を、と頼みました。
夫は、盛岡から昨夜帰り、長崎へ向おうとしているところでした。
 公邸に向った雅宣は途中から戻り、貴康たちも駆けつけて、お祖父様とお別れをしました。
「おしゃれなお祖父様でしたから.....」と、おひげやお爪を、それぞれの想いを込めて、きれいに整えてあげました。
「あんなに沢山の原稿を書かれたのに、ペンだこもできていないんだなあ....」と、どこにも万年筆を持ったあともない、やわらかい指を
雅宣は感心して撫でていました。
 父と共に公邸に帰り着きますと、母は、二日前に偶然に贈られた白羽二重を、昨日一日で縫ってもらったという話をして、父に着せるのに
間に合ったことを不思議がっていました。

 今回、長崎を訪れた私は、最後の十一日間を父と共に過しました。
食事をほとんど召上がらないと聞いて、東京を発って長崎に着いたとき、特に変った様子もなく、父はベットにいました。
食事の時間になると、いつものように椅子に腰かけ、食前の祈りをする父でした。
 けれども箸を取らないで、ただ腰かけたまま、私たちがおしゃべりしながら頂くのを優しい眼で見ていました。
父はふと私を見て尋ねました。「恵美子さんは、どうして此処に来る気になったのですか」
「お父様が、あまり召上らないと聞いて、ちょっと来てみました」
「あなたが来たら、食べると思いましたか」私は当惑しながらも、以前に一度そのようなことがあったので、
「ハイ」と答えました。
父はそれに対しては何も言わないで、召上るものをおすすめしても、わずかに微笑みをたたえた顔を横に静かにうごかし、
端然と腰かけたままでした。

122うのはな:2012/01/16(月) 10:49:55 ID:El6gIMAw
121 つづき

 次の日、貴康が、何かおいしそうなものなら召上るかもしれないと、海に出て、
きすを釣って、心をこめて糸作りにして持ってきました。
「貴康がいま作った新しいおいしいきすですよ」
父は、青じその上に、つやのよい糸作りが美しく盛りつけられているのに目をやりましたが、
何事も起りませんでした。縁側の方から様子を見ていた貴康は、目をおとして姿を消しました。
お粥を炊いて出しますと、「僕は病人ではありませんから御飯でよろしい」
御飯に替えても、やはり手をつけられず、まるで神様にお供えして下げているような感じがつづきました。
そして又ベットにもどります。もういつものように大好きなお風呂に入るともいわず、テレビもつけないで眠っている
時間が長くなりました。

123うのはな:2012/01/16(月) 12:20:47 ID:El6gIMAw
122 つづき

 ベットのそばにゆき顔を近づけますと、両手を伸ばし、あたたかい手で私の顔を挟んで、
「あんたも、やせたね」といわれる。そっと胃のあたりに手を当てますと、父は私の手を
胸の方に移動させて、私の手の上に自分の手をかさねたまま眠ってしまいました。
しばらくして母が入ってきて、父が細く目を開けると、大きな声で私のことを父に聞きました。
「お父様、この人誰だか知っていますか」
すると父は、ふざけたような笑いをふくんだ声で答えるのです。
「天の使いです。天の使、来たりて歌い給う」
又ある時は、そばの椅子に腰かけている私を、ふと目をさました父がチラリと見て、
「恵美子さんが元気そうでうれしい」と寝言のように言って又眠ってしまわれたこともありました。
食事をしなくてもお腹もすかず、父は淡々とした表情の中で、自分にいま何が起りつつあるかをみつめて
いられるようでした。上野さんが一人でお傍にいるとき、父は四月の末頃に書いておいた『生長の家』誌の
「碧巖録」の終講の辞という永い文章を読み返し、「日本教文社か、その関係の人に渡して下さい」
と渡されたと聞いて、その時読ませていただいた。それには皆様へのお別れの御挨拶と、次の境涯で再会できる
ということなどが書いてありました。

 主治医のすすめで点滴を受けられることになったが、食事は一口もとられず、朝の牛乳だけは半分ほど召上っていた
六日目、飲むものもいらない風になりました。
背中を撫でてあげると、寝返りを打ちながら、「もう、お別れかもしれないね」と、やさしい声で、まるで人事のように言われるのです。
 私はその夜、眠れないまま思いました。昆虫はさなぎになる前に、青葉を食べるだけ食べると、ある時期に何も食べなくなってしまう。
そして、さなぎになり、さなぎが蝶になって飛び立とうと、静かに、静かに、自然に自然に羽化するそのとき、決して邪魔をしてはならない。
 私は揚羽蝶が、静かに時間をかけて羽化するのを見たことがある。本当は誰にも見てほしくない。
それはとても神秘な時間に思えました。この世界が神秘な世界であることを忘れてはならない。

 無理に羽化させまいとしたとき、蝶はどうなるであろうか。
やがて、蝶は見事な美しい羽根をのばして、自由な青空に飛び立ってゆきました。
 少しでもよくなられたら、食べられるようになられたら、という人々の願いのままに入院という
ことになったけれども、父は羽化の過程を進めつづけられた。
『甘露の法雨』には次のごとく書かれている。

 汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
 然らば肉体は人間に非ずして、人間の繭に過ぎざるなり。
 時来たらば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、
 人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。
 汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。
 人間は生命なるが故に 常に死を知らず。

 「ほんとうに、ありがとうございました......」
あたたかき御手のうちに、どれだけ多くの人たちが救われたか知れない。
その方たちの想いも込めて、私は合掌し感謝を捧げたのでした。


『生長の火をかざして 永遠の谷口雅春先生』 谷口恵美子 先生

124志恩:2012/01/16(月) 18:01:56 ID:.QY5jUA6
うのはなさま

おだやかなおだやかな神聖な雰囲気のなかで、恵美子先生のお言葉をお借りすれば
雅春先生が「羽化登仙される」間際のご様子を、目にみえるように書かれた
「あたたかき御手のうちに」という題の恵美子先生のご文章を書き込んでくださって、
誠にありがとうございました。胸がいっぱいになり,涙がこぼれました。

最後の最後に雅春先生が「碧巌録」をしたためられたことも、ここに書かれてますね。
その「碧巌録」の終講の辞には、皆様へのお別れのご挨拶と、次の境涯で
再会できるということなども書かれてあったというご紹介もあり、とても
有り難い気持ちになりました。
私も、次の境涯で、また、雅春先生のおそばに、馳せ参じるつもりでおります。

125123:2012/01/16(月) 23:19:22 ID:El6gIMAw

123 訂正  
     永い文章 誤  長い文章 正

126「訊け」管理人:2012/01/17(火) 11:18:01 ID:.rhQDbF6

>うのはなさん

 うん、素晴らしい文章で感動しました。うん・・雅春先生はそのようにして
羽化登仙あそばされたのか。雅宣総裁は手にペンだこもなかったと気づかれた
か。そして、貴康先生はキスを釣ってこられたか、ああ・・いい話です。

>教頭先生

『碧巖録解釈』ですが、ますます読みたくなりました。わたしは未読の同書
です。復刊してくれませんかね?日本教文社さま、ぜひお願いします。

127うのはな:2012/01/17(火) 16:58:33 ID:El6gIMAw

 「百万人の児童を救ふ運動を起せ」「日本再建の道を拓くもの」

 昭和二十七年、日本は講和条約と日米安保条約の発効によって独立は回復したが、
政治状況は対立と混乱に覆われていた。こうした中、先生は『生長の家』八月号に
「日本再建の道を拓くもの」と題する論文を発表、日本のあるべき姿を示された。

また避妊と堕胎の公認は性道徳を頽廃せしめると指摘され、『白鳩』七月号の巻頭言
に「百万人の児童を救ふ運動を起せ」を発表。
これは優生保護法の改正運動を提唱された最初である。

『生長の家の火をかざして』P52 編集・宗教法人 生長の家

128うのはな:2012/01/18(水) 13:39:14 ID:El6gIMAw
  戦時下の人類光明化運動

 昭和十六年に入ると国際情勢は緊迫の度を増し、ついに十二月八日、日本は米、英との
戦争状態に入り大東亜戦争に突入した。
 谷口先生は最初大東亜戦争を“価値実現のための戦争”と捉えられたが、しかし実際はそれとは
大きく懸け離れた“迷いと迷いの打合って自壊する”戦争へと展開して行ったのである。

 戦局の悪化により出版・言論統制も厳しさを増し、印刷用紙の配給が壮絶するに及んで光明図書、
月刊誌の出版も困難になった。更に講演活動にも種々の制約が課せられた。講習会の際にも絶えず警官が
傍聴し、先生は「思想警察から揚げ足をとられないように注意を払いながら」講演されたのである。
しかしこのような状況の下でもご巡錫は続けられた。日本国内はもとより、昭和十七年には朝鮮・満州各地を
ご巡錫。十九年には江蘇省の兵団長小林信男中将の招聘により渡支。中支、北支の諸地方で講演された後、南京に
着かれた。そこで先生は熱心な『生命の實相』の愛読者であった大陸派遣軍総司令官岡村寧次大将と面談され、現実の軍隊が
上官の命令が下に通らないような、とても皇軍とは言えない実情であることを知らされた。
その頃から、先生は敗戦を予感しておられたようである。

 そして遂に日本軍の無条件降伏ー敗戦。
《この教えの宣伝をば、もっと政府が理解してくれて日本軍全体に広めていたならば、無論戦争は
起らなかったでありましょう・・・》『生長の家』昭和二十一年二月号より

 しかし、先生は「国体は決して滅びたのではない」と言われ、終戦と同時に祖国再建に向って起ち上がられたのであった。


『生長の家の火をかざして』 永遠の谷口雅春先生 P48

129ハマナス:2012/01/19(木) 16:19:19 ID:u5mC.eb2

『碧巌録解釈』後篇――『碧巌録』終講の辞より

宇宙の真理と云うものは、それを長廣舌を揮って詳密鄭寧に書けば一生涯続けても、
書き終わるを得へく簡単なものではないが、それを百歳の長寿を保って最後の時が来るまで書き続けても書き終わり得るべきものでもない。もう九十三歳の歳を迎えているので
何時、私の霊魂も現世から他界へ移住するよう神から命ぜられるかもわからない。
『碧巌録』の最後の章まで毎月一章づつ書いているのでは、それをとても書き了える
日時まで現世の寿命を保ちえるという保証も自信も私にはないのである。好き機会に終講のチャンスを捉えて諸君とのお別れの挨拶を書いて置くのも老人の智慧であると
思いついてので、読者諸賢に、今まで御愛読下されたそのご愛念に感謝の辞を述べて
置くのが老人の智慧であり、礼儀でもあると思いついたのである。

それで、そのような意味のご挨拶を述べさせて置いて貰った方が、一言の挨拶を
述べないで頓死してしまったような無ざまな死に方をするよりも、行き届いて
生前の御礼を言って置いて、何時他界しても皆さまに挨拶もしないで別れて
行くよりも、此の世に思い残すことがなくなり、もう何も此の世でして置くことは
残っていないと心の肩の荷を卸して、他界へ移転して行く方が思い残すことが
何もない、気楽な気持ちで他界へ移住することが出来ると考えついて、私は今、
この様なあいさつ文を書いているのである。

130ハマナス:2012/01/19(木) 16:20:37 ID:u5mC.eb2
つづき 

それでは、「左様なら!!とニッコリ笑って、皆様とお別れ致しましょう。
しかし今別れても次の境涯で皆様と再会する時期が屹度来ると信じます。
私は今年(編註:昭和六〇年)四月の何日でしたか、好天に恵まれまして
「西海橋」と、その別れにふさわしい再会を約したような名称の。長崎に
住んでいる人なら誰にでも再会のできる西海橋公園に参りました。
その日は見渡す限り桜花爛漫と咲き揃っている公園で、昨年此処で出会った
人々とまた今年も斯うして再会できる喜びを祝ったことでありました。
まことに西海橋公園は、彼岸(彼方の岸)に渡す橋の下に見渡す限り桜花が
爛漫と咲き揃っているのでした。橋を通って彼岸に渡ってしまわないで、
その下へ墜落しても、此処が再会極楽浄土になっているという実相常楽世界を
象徴的に再現したような世界(公園)なのです。この世界そのものが公園
なのです。私は此処へその日、好天気に恵まれまして観光に参りました。
私がいつでも出かけようと思う日は、いつも好天に恵まれるのです。
いえ、それは、その日が好天だから出掛けようと思ったと云うような順序で
起こる現象ではないのです。私が自由意思で、”今日は出掛けよう”と思うと、
今まで雨が降り様に一天掻き曇っているような時にも、急に雲が動き出して
間もなくj晴れ渡って蒼空になってしますのです。まるで、天の司(つかさ)“が
私の外出を霊感によって察知し、空の雲を蹴散らしてしまうようにです。

131ハマナス:2012/01/19(木) 16:21:55 ID:u5mC.eb2

つづき

もう十数年前の事になりますが、私たち夫婦がドイツに参りました時には,恰も
多分十月頃だったと記憶しますが、その頃にはドイツは朝雨が屡々降る季節なのです。
その頃私をドイツ旅行で案内して下さったのは、日独交換教授で其の頃ドイツに
滞在中の山田先生と云われる方でした。ある日私たちは一行が出かけようとすると、
山田先生は、今にも一雨降りそうな暗黒なお空の様子を見て、「今日は外出を
止めときましょう。雨降りですから」と言われました。「いいえ、私たちが出かける
時には雨は降らないことになっているのです」と私は言って、観光に出掛けましたが
お空はいつの間にか晴れ渡って一滴の雨もその日は降りませんでした。
何でも私たちが外出して行動をおこそうとすると、天候までも私たちの行動を祝福
するが如く、振りかけている雨もやんでしまうのです。こう云う現象を私は
「潤滑現象」と名づけました。その後、日本の若い学者の心霊現象研究のグループ
の機関誌を拝見していますと、それには、そのように何事もスラスラと潤滑に滞り
なく日常生活が行われる現象を、やはり「潤滑現象」と名づけておられるのを
拝見しました。

三界は唯心の所現でありますから、皆さん自身の心境の如何によりまして何事も、
そんなに力まないでも、何事でも、自分の日常生活が潤滑に滞りなく行われる
――潤滑現象が起こるようになり得るのです。現世浄土と云う語がありますが、
自分の心境が何事にも滞らずに潤滑になりますから、唯心所現の世界ですから
現世がそのまま、極楽浄土の顕現になるのです。
 釈迦牟尼如来は大無量寿経をお説きになりました直後、「如来の當(まさ)に為すべき
ことはなし了(おわ)れり」と仰せられたと伝えられております。私は今まで本誌に
『碧巌録』の講義を書き続けて来ましたが、本講を以て、釈尊と同じく「谷口雅春
如来の當に為すべきことは成し了れり」と申すことにしたいと思うのです。

132ハマナス:2012/01/19(木) 22:05:33 ID:u5mC.eb2

 碧巌録解釈』後篇――『碧巌録』終講の辞より
 131番のつづきです。

『碧巌録』の第九十二則の「世尊陞座(しんぞ)」の項の垂示には、
「絃(げん)を動かして曲を別つ、千歳にも逢い難し」と云う句で始まっているが、
これは支那の古典『列子』にある伯牙(はくが)と云う人と鐘子期(しょうしき)と
云う人との間に交わされた故事のことを指しているのだと伝えられているのである。

 それはある日、伯牙が琴を掻(か)き鳴らして、
「志、高山に在れば…」と上の句を歌い始めると、鐘子期は、忽ちそれは何の
曲であるかを瞬時にして察知して、
「峩々(がが)として泰山の如し」とその下の句を一緒に朗々と歌い出したと
云うのである。
つづいて伯牙が、
「志(こころざし)、流水に在れば、」と上の句を歌い始めると、鐘子期は
「洋々として江河の如し」とその下(しも)の句を合唱したとう云う。
現代の事実を以て例示すれば、生長の家から出版している「日めくり日訓」の
或る日の項の上の句に、「愛は最後の勝利者である」とあれば、
「恒久的に敵する者は無い」とその下の句を並べて書いてあるのにも似ている。
これは対句になっていて時数も互いに同数である。

『碧巌録』にたくさんの此の種の対句がある。例せば、その第九十三則の
「大光作舞(まいをなす)」の項には、挙(こ)す、僧、大光に問う。
「長慶道(ちょうけいいわ)く、
“齋(さい)に因って慶讃す”その意旨(いし)如何」
大光、舞を作(な)す。
「舞を作す」とは「全く有り難いことでございます」と 慶讃の意を動作に
表現したのである。
光云(こういわ)く、
“儞、箇のなにを見て礼拝したる哉”
僧舞を作す(まいをなす)。
 光云く “這の野狐精(このやこせい)(野狐の霊が人間に化けて出現して
人間の真似をして礼拝しているので、礼拝の意義も何も分からずに動作を
真似ているだけだぞ。そのボロが禿げたぞと喝破した語である。)

133ハマナス:2012/01/19(木) 22:06:25 ID:u5mC.eb2

つづき

これで『碧巌録』第九十三則の”本則”が終わっているのである。
 大光禅師とは、もと京兆の人で、法を石霜禅師に嗣(つ)ぎ、その後
潭州大光山の禅院に住持しておられた居誨(こかい)和尚の事だと云う。
 ある日、一人の僧來って問う。
「祗(た)だ達磨の如きは是れ”祖”たりや否や」と。
仏法は達磨が教祖となって創始した宗教ではないから、大光禅師は、
「是れ祖ならず」と答えた。すると、問僧は、
「既に祖に非ずんば、又來って何を為す」と問う。
「ただ儞等の薦(すす)まざるが為すなり」(お前達が本当に祖を薦挙しないからだ)
と応えている。すると僧は、「我等が誰かほかの人を推挙した後は、如何?」
と反問している。
すると、大光は、
「方(まさ)に彼を祖とするに足らず」とハッキリ答えている。
 ほかの人を推挙しようが、推挙しまいが方(まさ)に宇宙の法則
として、彼は教えの祖として推挙するに足りないのである。
  私が『碧巌録』の講義をここに連載しようが、連載しまいが方に(まさに)
私は『碧巌録』講義の祖ではないのである。私の今まで書き綴ってきた講義は、
単に先師の講義せられたところに啓発されたところの祖述に過ぎないのである。

『碧巌録解釈』後篇 [完]

134志恩:2012/01/19(木) 23:31:54 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

先日、うのはなさんが書き込んでくださった 雅春先生が、羽化登仙されるときの恵美子先生のご文章がキッカケでしょうか、
拝読したかった(私だけでなく多くのお方が,と存じます)絶版になっている
【雅春先生著書「碧巌録解釈」終講の辞 その他】を、

ハマナスさま、
掲載してくださって、誠にありがとうございました。
難しい漢字が、いっぱいあり、書き込まれるのが、たいへんでいらしたでしょう。感謝しています。

135ハマナス:2012/01/20(金) 12:11:35 ID:u5mC.eb2

志恩様

レスをありがとうございます。

そうなのです。うのはな様が引用して下さり、世界一のブログを
書かれる訊け様も『碧巌録』をお持ちでないと拝見しましたので、掲載
させて頂きました。

パソコンがあまり得意でないので、時間がかってしまいましたが喜んで下さり
嬉しいです。

どなたか、簡単な本からの引用の方法がおわかりでしたら、教えて下さいます?。
よろしくお願いいたします。
(著作権の問題もあるかもしれませんが・・・)

136ハマナス:2012/01/20(金) 12:13:57 ID:u5mC.eb2

あわててしまいました。訂正いたします。

教えて下さいます?。ーー>教えて下さいますか?

137うのはな:2012/01/20(金) 22:29:45 ID:El6gIMAw

 ハマナス様。ありがとうございました。あらためて感謝いたします。

 昔の神誌などで連載されているのをいくつか読んだことはありますが、
全巻揃っているわけではなく、『生長の家の火をかざして』の中の終講の辞を
読ませてもらい、遺稿なら、数年前買っておくんだったと思っています。
ハマナス様もどこかで入手できたらいいですね。
これからの御健筆を楽しみにさせていただきます。

  感謝合掌

138うのはな:2012/01/21(土) 15:10:05 ID:El6gIMAw

黒髪を願ったのに

 生長の家で、「この世は、思ったとおりになる」こういいますと、
「それはウソだ。私は思ったとおりになったことはない」と反対する人がありますが、
その人は、ほんとうは、「自分が思ったとおりにならない」と信じ思ったとおりに、
“思ったとおりになっていない”のですから、結局は、思ったとおりになっている、というわけなのです。

 頭髪が半分ほど白くなった婦人が、「神さま、私の頭髪を黒くしてください」と
熱心に祈りましたら、急に真っ白になったという話があります。こんな人は、
きっと、神さまは私の祈りをきいてくださらなかった、と神さまに文句をいうことでしょうが、
これは祈り方が悪いので、神さまが悪いのではありません。どうして、こんなことになったかと
いいますと、「黒くしてください」と祈ることは、「私の頭髪は白くなったから...]
ということを、強く心に描く結果となってしまったのです。
ですから、私たちは、言葉の力を使う時には、もうその状態になっていると信じて、いわなければだめです。

今、現実に全然現れていないことを、もうちゃんと現われているかのようにいうのは、おかしいではないか、
という人もありますが、種というものは、何もはえていない畑へまくもので、まだ何も現れていないものを、
現わすためにまくものなのです。

『心とカラダと運命』 P60−62 徳久克己 先生著

139ハマナス:2012/01/23(月) 00:18:32 ID:u5mC.eb2
皆さま、ありがとうございます。

19日の129番から「『碧巌録』終講の辞」を投稿いたしましたが、
最初の部分が未投稿でした。すみません、あらためて全部載せさせて
頂きます。

『碧巌録解釈』後篇――『碧巌録』終講の辞より P.854〜

私が毎日『碧巌録』を本誌(編註。「生長の家」誌)に於いて第九十一則まで講義を
続けて来たが、本稿に於いてその講義を締めくくることにする。それは何故かと
云うと、『碧巌録』第九十二則「世尊陞座(しんぞ)」の項に、「文殊白槌(びゃくつい)
して云く、諦観法王法(たいかんほうおうほう)、法王法如是(ほうおうほうにょぜ)。
世尊便ち(すなわち)下座」とあるからである。
即ち私も『碧巌録』第九十二則の世尊に倣(なら)って口座から下座すべき時が来たと
悟ったからである。
 印度以来の仏法の口座の法式で、禅家に於いては、法座のレギュラーの講師に
較べてもをさをさ劣らぬ最高の学者的人物が 白槌師(びゃくついし)と云う役割を
演ずる。現代で謂わば司会者となるのである。そしてその司会者が、三度槌を打ち
鳴らし、「法筵龍象衆、常観第一義」と言い、新たにカチンと一つ槌を打ち鳴らし、
それが合図に説法が始まる。そしてその説法が済んだという時に、その司会者の
白槌師が再び進み出て、「諦観法王法、法王法如是」即ち「これで法王の説法は
終わりました。如是――是の(この)通り終わりました」という意味を告げることに
なっている。「法筵龍象衆」と云うのは、仏法の講座(法筵)に参聴するために集まった
ところの、動物で謂えば神通自在の「龍」や、哺乳類のうちでは最も巨大な象にも
比すべき大人格者たちを尊敬して呼びかける語(ことば)である。
即ち「此の講座に参聴せられた龍象にの比すべき大人格者たちよ」と呼びかける
挨拶語である。茲(ここ)では、「今迄、私の書いて来た『碧巌録』の講座を毎号
御愛読下さった偉大なる読者諸賢様よ」と呼びかける言葉である。弁舌を揮う講座
ではないところの、文章に於いては、司会者たる白槌師が無いから、筆者の私自信が
白槌師の役をつとめる譯(わけ)である。

140ハマナス:2012/01/23(月) 00:20:17 ID:u5mC.eb2

つづき

宇宙の真理と云うものは、それを長廣舌を揮って詳密鄭寧に書けば一生涯続けても、
書き終わるを得へく簡単なものではないが、それを百歳の長寿を保って最後の時が来るまで書き続けても書き終わり得るべきものでもない。もう九十三歳の歳を迎えているので
何時、私の霊魂も現世から他界へ移住するよう神から命ぜられるかもわからない。
『碧巌録』の最後の章まで毎月一章づつ書いているのでは、それをとても書き了える
日時まで現世の寿命を保ちえるという保証も自信も私にはないのである。好き機会に終講のチャンスを捉えて諸君とのお別れの挨拶を書いて置くのも老人の智慧であると
思いついてので、読者諸賢に、今まで御愛読下されたそのご愛念に感謝の辞を述べて
置くのが老人の智慧であり、礼儀でもあると思いついたのである。

それで、そのような意味のご挨拶を述べさせて置いて貰った方が、一言の挨拶を
述べないで頓死してしまったような無ざまな死に方をするよりも、行き届いて
生前の御礼を言って置いて、何時他界しても皆さまに挨拶もしないで別れて
行くよりも、此の世に思い残すことがなくなり、もう何も此の世でして置くことは
残っていないと心の肩の荷を卸して、他界へ移転して行く方が思い残すことが
何もない、気楽な気持ちで他界へ移住することが出来ると考えついて、私は今、
この様なあいさつ文を書いているのである。

それでは、「左様なら!!とニッコリ笑って、皆様とお別れ致しましょう。
しかし今別れても次の境涯で皆様と再会する時期が屹度来ると信じます。
私は今年(編註:昭和六〇年)四月の何日でしたか、好天に恵まれまして
「西海橋」と、その別れにふさわしい再会を約したような名称の。長崎に
住んでいる人なら誰にでも再会のできる西海橋公園に参りました。
その日は見渡す限り桜花爛漫と咲き揃っている公園で、昨年此処で出会った
人々とまた今年も斯うして再会できる喜びを祝ったことでありました。
まことに西海橋公園は、彼岸(彼方の岸)に渡す橋の下に見渡す限り桜花が
爛漫と咲き揃っているのでした。橋を通って彼岸に渡ってしまわないで、
その下へ墜落しても、此処が再会極楽浄土になっているという実相常楽世界を
象徴的に再現したような世界(公園)なのです。この世界そのものが公園
なのです。私は此処へその日、好天気に恵まれまして観光に参りました。
私がいつでも出かけようと思う日は、いつも好天に恵まれるのです。
いえ、それは、その日が好天だから出掛けようと思ったと云うような順序で
起こる現象ではないのです。私が自由意思で、”今日は出掛けよう”と思うと、
今まで雨が降り様に一天掻き曇っているような時にも、急に雲が動き出して
間もなくj晴れ渡って蒼空になってしますのです。まるで、天の司(つかさ)“が
私の外出を霊感によって察知し、空の雲を蹴散らしてしまうようにです。

もう十数年前の事になりますが、私たち夫婦がドイツに参りました時には,恰も
多分十月頃だったと記憶しますが、その頃にはドイツは朝雨が屡々降る季節なのです。
その頃私をドイツ旅行で案内して下さったのは、日独交換教授で其の頃ドイツに
滞在中の山田先生と云われる方でした。ある日私たちは一行が出かけようとすると、
山田先生は、今にも一雨降りそうな暗黒なお空の様子を見て、「今日は外出を
止めときましょう。雨降りですから」と言われました。「いいえ、私たちが出かける
時には雨は降らないことになっているのです」と私は言って、観光に出掛けましたが
お空はいつの間にか晴れ渡って一滴の雨もその日は降りませんでした。
何でも私たちが外出して行動をおこそうとすると、天候までも私たちの行動を祝福
するが如く、振りかけている雨もやんでしまうのです。こう云う現象を私は
「潤滑現象」と名づけました。その後、日本の若い学者の心霊現象研究のグループ
の機関誌を拝見していますと、それには、そのように何事もスラスラと潤滑に滞り
なく日常生活が行われる現象を、やはり「潤滑現象」と名づけておられるのを
拝見しました。

141ハマナス:2012/01/23(月) 00:22:11 ID:u5mC.eb2

つづき

三界は唯心の所現でありますから、皆さん自身の心境の如何によりまして何事も、
そんなに力まないでも、何事でも、自分の日常生活が潤滑に滞りなく行われる
――潤滑現象が起こるようになり得るのです。現世浄土と云う語がありますが、
自分の心境が何事にも滞らずに潤滑になりますから、唯心所現の世界ですから
現世がそのまま、極楽浄土の顕現になるのです。
 釈迦牟尼如来は大無量寿経をお説きになりました直後、「如来の當(まさ)に為すべき
ことはなし了(おわ)れり」と仰せられたと伝えられております。私は今まで本誌に
『碧巌録』の講義を書き続けて来ましたが、本講を以て、釈尊と同じく「谷口雅春
如来の當に為すべきことは成し了れり」と申すことにしたいと思うのです。


『碧巌録』の第九十二則の「世尊陞座(しんぞ)」の項の垂示には、
「絃(げん)を動かして曲を別つ、千歳にも逢い難し」と云う句で始まっているが、
これは支那の古典『列子』にある伯牙(はくが)と云う人と鐘子期(しょうしき)と
云う人との間に交わされた故事のことを指しているのだと伝えられているのである。

 それはある日、伯牙が琴を掻(か)き鳴らして、
「志、高山に在れば…」と上の句を歌い始めると、鐘子期は、忽ちそれは何の
曲であるかを瞬時にして察知して、
「峩々(がが)として泰山の如し」とその下の句を一緒に朗々と歌い出したと
云うのである。
つづいて伯牙が、
「志(こころざし)、流水に在れば、」と上の句を歌い始めると、鐘子期は
「洋々として江河の如し」とその下(しも)の句を合唱したとう云う。
現代の事実を以て例示すれば、生長の家から出版している「日めくり日訓」の
或る日の項の上の句に、「愛は最後の勝利者である」とあれば、
「恒久的に敵する者は無い」とその下の句を並べて書いてあるのにも似ている。
これは対句になっていて時数も互いに同数である。

『碧巌録』にたくさんの此の種の対句がある。例せば、その第九十三則の
「大光作舞(まいをなす)」の項には、挙(こ)す、僧、大光に問う。
「長慶道(ちょうけいいわ)く、
“齋(さい)に因って慶讃す”その意旨(いし)如何」
大光、舞を作(な)す。
「舞を作す」とは「全く有り難いことでございます」と 慶讃の意を動作に
表現したのである。
光云(こういわ)く、
“儞、箇のなにを見て礼拝したる哉”
僧舞を作す(まいをなす)。
 光云く “這の野狐精(このやこせい)(野狐の霊が人間に化けて出現して
人間の真似をして礼拝しているので、礼拝の意義も何も分からずに動作を
真似ているだけだぞ。そのボロが禿げたぞと喝破した語である。)

142ハマナス:2012/01/23(月) 00:24:12 ID:u5mC.eb2

つづき

これで『碧巌録』第九十三則の”本則”が終わっているのである。
 大光禅師とは、もと京兆の人で、法を石霜禅師に嗣(つ)ぎ、その後
潭州大光山の禅院に住持しておられた居誨(こかい)和尚の事だと云う。
 ある日、一人の僧來って問う。
「祗(た)だ達磨の如きは是れ”祖”たりや否や」と。
仏法は達磨が教祖となって創始した宗教ではないから、大光禅師は、
「是れ祖ならず」と答えた。すると、問僧は、
「既に祖に非ずんば、又來って何を為す」と問う。
「ただ儞等の薦(すす)まざるが為すなり」(お前達が本当に祖を薦挙しないからだ)
と応えている。すると僧は、「我等が誰かほかの人を推挙した後は、如何?」
と反問している。
すると、大光は、
「方(まさ)に彼を祖とするに足らず」とハッキリ答えている。
 ほかの人を推挙しようが、推挙しまいが方(まさ)に宇宙の法則
として、彼は教えの祖として推挙するに足りないのである。
  私が『碧巌録』の講義をここに連載しようが、連載しまいが方に(まさに)
私は『碧巌録』講義の祖ではないのである。私の今まで書き綴ってきた講義は、
単に先師の講義せられたところに啓発されたところの祖述に過ぎないのである。

『碧巌録解釈』後篇 [完]

143志恩:2012/01/23(月) 17:14:41 ID:.QY5jUA6
ハマナスさま

「碧巌録解釈」後編、かなりの長文でしたのに、よくぞ、書き込んでくださいました。
 難しい漢字が、つぎつぎあり、内容も高度で難しいご文章なのですね。

 この雅春先生の絶筆であるご著書は、絶版になっていて、われわれは、拝読することが、できませんでしたけれど、
 このようにハマナスさまが、書き込んでくださって、私も、有り難かったけれど、ここをご覧の多くの方々も、さぞお喜びのことと思います。
 ご愛念、感謝申し上げます。難漢字を、1字1字、漢字変換されて書き込まれたのですものね。ほんとにおつかれさまでした。

144志恩:2012/01/23(月) 18:17:02 ID:.QY5jUA6

 F.Lホルムス・著「こころの発見」より。。日本教文社 出版

 ”われ信ぜん
 善きことのみが 悪しきことの終極にあることを
 ただ一つの生命も滅ぼされず
 屑として虚無に投げ入られるることなきを
 神来たりて全きものとなし給うその日まで”

145志恩:2012/01/23(月) 18:35:07 ID:.QY5jUA6
  F.Lホルムス 〜つづき〜



  "どうも凡々たる生活さ、と言って ため息をつく
 
 しかし、われわれは、そう ため息ばかりしていて、よいものだろうか
 凡々たる空に 凡々たる太陽
 それで凡々たる一日ができあがる
 月も星も みな凡々たるしろものだ
 咲く花も 歌う鳥も

 しかし、花の色があせ、太陽がのぼらないとしたら
 世の中は まっ暗で 
 われわれの運命も悲しいものとなろう
 そして、個々の魂をみそなわす神は
 この凡々たる生活をあつめて 美しい全体をつくって いるのではないか”

146志恩:2012/01/23(月) 18:55:16 ID:.QY5jUA6
 F.Lホルムス 「静寂の歌』

 ”敗北だと?否,さえぎられ、一時とじこめられているかもしれないが
 しかし、河の流れのように
 私の人生の滔々たる水流は、ひとところに集まり
 渦を巻いて、行くてをはばむ材木をも 押しやろうとしている

 ダムのかなたは、水はさらに深く
 渦巻きは、さらにゆたかな生命の證左だ
 宿命とぶつかって、力をためす者の筋肉は、ますます強さを加え
 戦いのたびに ますます立派な男になるのだ

 さからう力と堂々と戦え、あるいは それを無視せよ
 汝の天才を制約しようとしても、どんな力も役立たぬ
 神は雨を降らして、汝の河水をゆたかにし、水位を増した河は
 その魂の突進をさえぎる あらゆるものを一掃する”

147志恩:2012/01/23(月) 19:47:33 ID:.QY5jUA6

 谷口雅春先生のおことば  (生長の家誌 S43 年 5月号)

 {今日を 恋人の如く迎えよ}

 ”今日”を迎えるのに 悦びの念(こころ)をもって迎えよ。
 「自分は”神の子”だから 必ず善き事が訪れる」
 と、明るい期待をもって”今日”を迎えよ。

 あなたが、恋人に逢いに行くかのような うれしい明るい心をもって”今日”を迎えるならば、
 ”今日”もまた あなたを、恋人のような明るい嬉しい顔をして迎えるであろう。

 そうして、あなたの人生が天国となり、あなたの周囲に極楽世界が展開するのでる。
 何故なら、あなたの迎える世界は、あなたの”心の展開”であるからである。

148ももんが:2012/01/23(月) 22:01:43 ID:XXCuaQns
〜『碧眼録・第七即評』
(曹源の一滴水)

☆一日、法眼陰座す。僧あり問う『如何なるか、是れ曹源の一滴水?』法眼云く、『是れ曹源の一滴水。』その僧惘然として退く。韻国師衆中にあって之れを聞き、忽然として大悟す。のち出世して法眼に承嗣す。頌あり呈して云く、『通玄峯頂、是れ人間(じんかん)にあらず。心外無法、満目青山』と。法眼印して云く、『只だこの一頌、吾が宗を継ぐべし。子のちに王候の啓重することあらん。吾れ汝に如かじ』と〜


法眼禅師には『曹源の一滴水』という。公案があります。
ある日、法眼が講座に上がると、ある僧が、『如何なるか、是れ曹源の一滴水?』とたずねた。


法眼は声を励して言った、『是れ曹源の一滴水!』

その僧は惘然として退いた。

のちの天台徳韻国師がこのとき大衆の中にいて忽然として大悟した。


天台徳韻は久しく疎山に参じ、自から詣を得たりとなし、疎山平生の文字・頂相を集め、衆を領いて行脚した。法眼のところにきても、かれ自身は入室せず、ただ参徒だけを入室させていたが、前記の『是れ曹源の一滴水』という法眼の言下に忽然大悟して、覚えず感涙滂沱として衣を潤した。のち出世するに方って、法眼に嗣法(法を継承)して頌(詩)を呈した。

『通玄峯頂、是れ人間にあらず。心外無法、満目青山』と。

この意味は、

『天台山の通玄峰の頂きは、俗塵をはるかに絶して人間世界を超越している。心の外に存在はない、法界一心に収まり、その一心法界は法如々 たるこの満目の青山に現前している、と。諸法実相(法華経)、法界体性(華厳経)の理を見事に詠みあげている。法眼はこれを印可して言った。『たたこの一頌だけで、わが宗を継ぐに足る。貴公はのち王公の信者を得よう。わしは貴公に及ばない。』


法眼は、『曹源の一滴水?』と問われて、『曹源の一滴水』と、鸚鵡返しした、こう言う、法眼のやり方を、『箭鋒相さそう』といって、『法眼宗』の宗風を示すものとされている。両方から飛んで来た矢の根がぴったと合うような戦略だと言うのだ。


また、『巡人犯夜』(夜回りが盗みをする。
『鎗頭捩点』(敵の鎗で敵をつく)などとも言う。


上の、文面で、天台山の通玄峯は、『観音さま』の住まわれてる、ところで、大変な、霊場だそうです。


この、公案の、一番、肝心要の句は、以外な、言葉だが、

体験の無い方には、言葉の羅列となり、伝統の碧眼録の真理を見つけられずに、違う物を正しいと、認識するは、哀れと言う他に、言葉は、無い。

149ハマナス:2012/01/24(火) 01:24:28 ID:u5mC.eb2
志恩さま

喜んで頂いて嬉しいです! やさしいお言葉をありがとうございます。
ホルムス氏の文章も素晴らしいですね。

ももんがさま
『碧巌録解釈』第七則の引用をありがとうございました。


『碧巌録解釈』は、谷口雅春先生の最後に執筆されただけあり、語彙も難しく
内容も深く、素晴らしく、難解な本ですね。

雅春先生は『碧巌録解釈』の他に、『法華経解釈』、『維摩経解釈』、『無門関解釈』と
難しいご本を真理を元にお書き下さっておられます。

その業績の偉大さに触れ、恐れ多い気持ちになり、同時この様な貴重なご本をお書き
下さったことに、深い感謝の気持ちでいっぱいになりました。
「生命の実相」「甘露の法雨」は、もちろんの事です。

いつか、この掲示板の皆さまとご一緒に、これらのご本をお勉強できる日が
来ることを願っています。

150ハマナス:2012/01/24(火) 12:40:24 ID:u5mC.eb2
神の子の皆さま、ありがとうございます。

光明法語  (谷口雅春先生著作集 第1巻) P.29より
一月二十四日の法語   天地に遍満する神の恩恵を知れ

 人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものにとりまかれて
いるのである。神の恵みはあらゆるものに、空気に、日光に、水に、
見渡す景色に、さえずる鳥に、あらゆるものに現れて吾々を恵み、
はぐくみ養い給う。神の恵みは吾々をとりまいていて一分一厘の
逃れる隙間もないのである。昨日が如何にあろうとも、今日何事が
起ころうとも、神は善と共にいますのである。
人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、心の中に次の言葉を
繰り返して念ぜよ。

「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」

151うのはな:2012/01/24(火) 21:04:51 ID:El6gIMAw

 入信数年間の調和生活 

 それにしても不思議なことに“生長の家”の説く真理に触れて、物質的世界観から霊的世界観に
一転した当座の数年間は、すること為す事、万事が都合よく往って、家庭は調和し、家族は皆健康となり、
事業は発展し、自然に富が生成せられるのである。富を求めずして自然に富が成就するのである。

 それは何故かというと、物質的法則に縛られていた過去の唯物論的人生観から来る相互拒絶や相互衝突や、
利害の相反から来る反感や対立感情によって、人間の行動がゆがめられていて調和が得られなかった状態が、
神一元の霊的人生観によって、あらゆる点に摩擦や、相反や、矛盾が無くなり、大調和が得られる結果、すべての
行動が順調に掉さす帆船が、追風に吹かれて進むように、何の障りもなく善き成果が得られるからである。

『愛はかくして完成す』 谷口雅春 先生著 P54

152トキ:2012/01/24(火) 21:31:50 ID:A3Pq4Dgo
ももんが様

 すばらしい御文章です。勉強になりました。こういう時期だからこそ、大切な
話だと思います。ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

153うのはな:2012/01/29(日) 16:36:20 ID:El6gIMAw
   国家論の欠如した政党に国は任せられない

 民主党政権で最も危惧することは、彼らには、日本とは何か、国家とは何かという
国家観が欠如していることである。日本の歴史、文化、伝統という国家を支える精神的基盤
に対する意識がまったく欠如している。普天間基地の移設問題の迷走ぶりは、実はここに大きな
問題があるからだと私は考えている。国家存立の大きな基盤は防衛・外交問題であるが、国家観の
欠如しているところに、この問題をいくら議論しても、実はこれを考える基軸がないのであるから、
国を誤らせるのみである。

 もちろん、このことは民主党だけではなく、自民党においても、五十歩、百歩である。
昨平成二十一年の自民党は政権担当政党から下野し、総裁選が争われたが、候補者の誰一人、
日本とは本来こういう国であり、だからこそ自民党の結党精神は自主憲法制定にあるといった
議論は何一つなされなかった。私は自民党の再生に絶望を覚えたのであった。

『平沼赳夫の本懐』 平沼赳夫  先生著  光明思想社 刊

154ぼるぼ:2012/01/29(日) 18:54:49 ID:nI/H1ehM
理趣経百字の偈

菩薩は勝れし知慧を持ち、なべて生死の尽きるまで

恒(つね)に 衆生の利をはかり、たえて涅槃に趣(おもむ)かず。

世にあるもの[=方便]も、その性[=般若]も、智慧の及ばぬものはなし。

もののすがた[=有]も、そのもの[=法]も、一切のものは皆清浄し。

欲が世間をととのえて、よく浄らかになすゆえに、

有頂天(すぐれしもの)もまた悪も、みなことごとくうちなびく。

蓮は 泥に咲きいでて、花は垢(よごれ)に 染(けが)されず。

すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。

大なる欲は清浄(きよき)なり、大なる楽に富み饒(さか)う。

三界(このよ)の 自由身につきて、固くゆるがぬ利を得たり

(翻訳文:金岡秀友先生 東京美術「理趣経」)

経文と読み

菩薩勝慧者 乃至尽生死 恒作衆生利 而不趣涅槃

般若及方便 智度悉加持 諸法及諸有 一切皆清浄

欲等調世間 令得浄除故 有頂及悪趣 調伏尽諸有

如蓮體本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生

大欲得清浄 大安楽富饒 三界得自在 能作堅固利

ほ さっ しょう けい しゃ だい し しん せい し こう さく しゅう せい り じ ふ しゅ でっ ぱん

はん じゃ きゅう ほう べん ち と しっ か ち しょ ほう きゅう しょ ゆう いっ せい かい せい せい

よく とう  ちょう せ かん れい とく せい ちょ こ ゆう てい きゅう あく しゅ ちょう ふく しん しょ ゆう

じょ れん てい ほん ぜん ふ い こ そ ぜん しょ よく せい えき ぜん ふ ぜん り きん せい

たい よく とく せい せい たい あん らく ふう じょう さん かい とく し さい のう さ けん こ り

155役行者:2012/01/29(日) 22:05:57 ID:w8hNmueg
 >>154

  ぼるぼ様

 合掌 ありがとうございます。

 般若理趣経には、一時、ハマりまして、読経をしてた時期があります。理趣経のクライマックスに理趣経 百字の偈が綴られてますね。
  般若理趣経を凝縮して纏めますと、百字の偈で言い表すことができるほど、内容の深いものと思ってます。
 

 これを機会に、せめて般若理趣経 百字の偈は毎日、読経させていただこうと思いました。

           敬具

156トキ:2012/01/30(月) 20:52:25 ID:eJZeXtyk
ぼるぼ様

 すばらしいご文章をありがとうございました。

 実は、真言宗の僧侶の方が、内緒に生長の家の行事に勉強に来られた時に
お話をした経験があります。
 やはり、正しい信仰は、宗派を超越して、人類を救済すると思いました。

合掌 ありがとうございます

157うのはな:2012/02/01(水) 21:29:37 ID:El6gIMAw
本当のお陰は“魂の宝”を獲ることである。 (昭和36・12・17)

    谷口先生の真実のお心は 伊藤用蔵

 本日の実相研鑽会は、地方講師としてみ教えをお取次ぎさしていただくわれわれ弟子としまして
“こういうことが必要ではないか”と信ずることを申上げて、互いに魂を研くことにしたいと思います。
 私は谷口先生の現象面の弟子だけでなく、永遠の弟子にならなきゃいけない、と考えております。
かつて私は日本山妙法寺の僧侶と一晩語り明かしたことがあります。
 その動機は、その坊さんが黒革表紙の『生命の實相』の表紙がボロボロになったのを、机の上に正しく置いておられたので、
訊ねたのであります。

「あなたは『生命の實相』をお読みですか」するとお坊さんの言われるのに「私は谷口先生を非常に尊敬しているんです。それで
『生命の實相』を全部持っております。....始終もって歩くものですから、こんなボロボロになりました」というわけでした。
いろいろ話してみますと、そのお坊さんは終戦前、満州から蒙古、パキスタン、インド、タイ...をずっと廻られたが、いつも『生命の實相』を
背負って歩かれた。そして聖典を通して谷口先生を非常に尊敬しているというお話に、“わが意を得たり”と語り明したわけであります。

 そのお坊さんが戦時中、南京、上海で、軍部の横暴に対して大胆に自分の意見(み教えに基ずく)を発表したために、少壮軍人から非常な怒りをうけ、
「貴様は非国民だ、座れ。斬ってしまう」と座らされたことが、二度や三度ではなかったそうです。
そのとき、谷口先生に教えられた神想観の型通りに端然と座ると、夜叉のように怒った少壮軍人でも、振り上げた刀を掉り下されなかった、と申されました。
そして竜の口の日蓮上人の法難が事前に防がれた話も本当だとしみじみ悟らせていただいたという話に、私も、“なかなか気骨のあるお坊さんだ”と思って
「谷口先生は、谷口先生は....」と話しておりました。

 話のなかば頃にお坊さんが言われました。
「伊藤さん、あんたは谷口先生、谷口先生と言われるけれども、谷口先生の真実のお心はまだわかっていませんよ」
しかし私は、他宗の坊さんはそう言われるかもしらんが、「わしは直弟子だ、谷口先生のお心はよく分かっている」と
思っていたのです。が、つづいて坊さんが「谷口先生のお心を本当にわかる人は、世界に三人とないですよ」と
言われるに及んでビックリして、“これでは私が解ってるなんてとんでもないことだ”と今度は少し折れまして、
「それでは、谷口先生のお心を解るようになるには、どうしたらよいですか」と訊いたところ、「おそば近く仕えなさい。
.....先生の雰囲気にふれることも非常に良いことです。しかし皆がみな、谷口先生に仕えるわけにいかないでしょう」といって、
ボロボロになったの『生命の實相』をうやうやしく取り上げて、「伊藤さん、これが谷口先生ですよ」と言われました。

 私も、なるほど、いのちがけで修行した人はやはり違うなとつくづく感じいって、宗教、信仰の話に夜を明したしだいでした。

『實相研鑽・3』  谷口雅春 先生監輯

158トキ:2012/02/01(水) 21:32:12 ID:gsg6uw32
>>157

うのはな様

 素晴らしいお話ですね。感動しました。これからも、宜しくお願いします。

159ハマナス:2012/02/02(木) 10:37:54 ID:u5mC.eb2
 
「日々読誦三十章経」より  二日の経言(のりごと)  
     心の独立を得る言葉

 自分は神の子であるから、今事自己の生活を、意識的に自分自身で支配するのである。
自分は今より自分の考えようと思う事物をのみ考える。自分は自分の生活に何事が
湧いて来ようとも自己の心を支配することによってそれを支配することが出来るのである。
吾等は事故の思想を日に日に一層よきもの足らしめ、創造を司る宇宙霊が、吾等に一層
幸福なる状態に此の世界を創造して呉れることを信ずる。吾等は至上の智慧に導かれんが
ために、真理についてのみ考えるのである。吾等は、あらゆる知能に優った神的平和を
得るために信仰の事についてのみ考えるのである。

 吾れは今愛の霊に充たされている。吾れは今聖なる宇宙の心と調和している。
吾れは今心を開いて至上なるものの感情を胸に受けているのである。吾れは今意識的に
愛とそして智慧なる宇宙の心に接触している。吾れは今神の御側(みそば)にはべって、
神が吾が力を新たならしめたまうのを待っている。
吾が心は今神の上にのみ注がれている。それ故に、吾れはすべての人々に対して、又
自分自身に対しても平和なのである。如何なる禍も自分のうえには降り濺(そそ)がない。
愛の天使が自分の周囲をとり巻いている。吾れはいま吾がいのちが神の子であることを
知るが故に、無限なる者の力をうけて歩むのである。吾らが神の子として生きて決して
奴隷の如くには屈従しない。われは法則を守り、法則は吾れを護るのである。
われは法則に従い、法則はに吾れに従うのである。

吾れは無我の聖悦に充たされながら、神に吾が胸を打ちまかすのである。
今此の時、吾れは神の援助の慈手(やさしきみて)が吾が上に来ている事を感ずる。
吾れは歓喜(よろこび)に充たされている。吾れは強し。吾れは今生命を愛とを
吾が裡に感ずる。

160ハマナス:2012/02/03(金) 09:19:22 ID:u5mC.eb2

二 月 三 日     『生命の實相』第37巻P.34より    

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。失われた一匹の
羊が帰って来ることは、亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるうよりも
嬉しいとイエスは言った。仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。

 争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、
医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。『生命の實相』の巻頭に
「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて病気が治らないと
かこっている人はないか。
 あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に
足りない人である。神はまことである。まことは円相である。○(まる)は
和解のしるしである。・・・・・・・
 
もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、わたしたちは人を
責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。わたしたちは
人を赦すほかに仕方がないのである。
 ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。ただ人と
仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。
 仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれる
ものではない。・・・・・・・

 傲慢ということはかかる心持を云うのである。謙虚、へりくだりの心持は
正直に事物をまともに見る心である。まちがっていたと気づいたら素直に
あやまれる心である。放たねばならぬ物は素直に放つ心である。本来ありもせぬ
栄えとか虚名とかを、あるかのごとく装おうとする心が苦しむのである。
隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。
 
無邪気に気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。
相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、こちらに
隔て心があるからである。
 隔てのない心。角のないこころ。仲のよい心。○い心。○はいっさいを包んで
いる。隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸の心である。

161うのはな:2012/02/04(土) 21:25:52 ID:El6gIMAw

公邸のすぐ前のところに、旅館と結婚式場を兼ねたお店がありますが、そのあたりから、
最近、大きな工事が始まりまして、聞くところによりますと、そこを「オランダ村」というのにして、
風車を置いて観光地にするということで、大きな建物が建ち始めていました。
父が卒寿の時になさった「人間は生き通しである」というお話の中に出てきます、柿の木の見える二階の
窓から見ますと、風車らしいものがズンズン高くなって行くのが見えるわけですね。

 それで私は“まあ、折角自然の美しいところに、こんなのが建って、いやだわ”と
思いましてね“まあ、どうしてこんなのができてしまったのかしら”などと思っていました。
ところが父は二階へ行きまして、「あれは、何ができるんだ」と言いますので、
「あれはオランダ村だそうです。風車ができるそうです」と言いましたら、
「ああ、オランダ村がねえ。日本からオランダが見えるのかねえ」
と言っておりまして、その窓から見える正面の山には七つの燈台のうち、三つの燈台がちょうど見えるわけです。
その燈台ができる時にも楽しみに見ていらしたわけですが、「ああ、オランダ村。オランダが日本から見えるとは...」
と言って、「ああ、オランダ村にも七つの燈台が照るんだなあ」という風に申しました。(拍手)私はそのとき、
“ああ、素晴らしいなあ”と思いました。

 私は“あんなものが建って、父の家まで見下ろされてしまって、まあ、何ていうことかしら”と
排斥したいような気持ちでおりましたら、父はそのように言って、その工事ができてゆくのを眺めていらっしゃるわけなんですね。
やっぱり万教帰一の生長の家ですから日本にもオランダにも光をあて、それぞれの人たちが栄えてゆくように、あたたかい気持ちで
見てあげなければならないということを、私は教えられたような気がしました。(拍手)


『神さまからのいただきもの』 谷口恵美子先生講話集

162ももんが:2012/02/05(日) 20:56:45 ID:XXCuaQns
安谷老師の『無門関』第5即より

〜さて、谷口雅春氏の『無門関解釈』六四ページには、次のとおりに、書いてある。

《『口に樹枝を噛み、手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず、樹下にあつて西来意を問はん……』と云うのが、何故に進退両難であるか。手が枝に触れなかつたら、みづから能動的に手を動かして枝にを握れば好いではないか。枝を握つて口を離して、さてそれから祖師西来意に就て応答すれば好い。何処にも事実上進退両難はないのである。進退両難の原因は『手に枝をよぢず』と自分自身の本有の自由自在の力を限ってしまつたところにある。云云』》


実に面白い解釈である。ちょうど数学の問題で、題意を勝手に変更してしまって、その変更した題意に適合した答えをだしたようなものだから、面白いというのだ。
『手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず』という漢文は、『手に枝をよじては相成らん。足にも樹を踏んでも相成らん。』ということを約束しているのであって、自己暗示や、空想上の弄戯ではない。この約束のもとで、立派に西来意に答えることのできる事実を発見させるのが、この公案の要点である。
この要点を逃してしまて、『香厳真の杜撰、悪毒尽限なし』という、無門の評語そのまま正直に受け取っておられるところなどは、谷口氏のお人柄の好いところではあるまいか。〜

163志恩:2012/02/05(日) 22:03:49 ID:.QY5jUA6
ももんがさま

書いてあるところを、教えて下さって、ありがとうございます。

安谷白雲老師著「禅の心髄・無門関」第5 香厳上樹(きょうげん じょうじゅ)

という題の、5頁あるうちの4頁目の、下段のところに書いてあるのでしたね。
私、そこの第5の,
5頁を全部を読んでいるところです.

しかし、すごいことです。。雅春先生が、「無門関解釈」を出版されたと同時くらいに、すぐ読んでくださってたなんて、雅春先生のこと
どういうお方か、すでに、ご存知だったということでもありますものね。

でも、この老師のおかたは、雅春先生のことだけではなく、あちこち叱った文章を,た〜〜くさん書いておられますね、なんか、
安心しましたよ。雅春先生だけ批判されたのかと思っていましたから。
禅仏教という性格は、そういうものなんでしょう。

この、紹介されてる香厳禅師は、人が一を問えば十を答えたという人だそうですが、兎に角、口が悪くて、
「さあ、なんとか言ってみろなどと、鬼のような目をギョロギョロさせれ、修行者をにらんでござるわい」
みたいな人でね。

修行者に、難問題を出しては、修行者たちの目を白黒させた。、、(なんか、ももんがさんみたいな人)

言葉の表面は、ひどく罵倒するが、指導は適切だった、と書いてありますね.

ご親切に、ありがとうございました。感謝、拝。

164ももんが:2012/02/06(月) 01:57:58 ID:XXCuaQns
>>163

志恩様


志恩様、勝手に、解釈してはいけませんよ。


安谷老師は、雅春先生が、『問題の題意を勝手に変更して、それに、答えを着けた 』と言われて、雅春先生を叱っているんす。

こんな事を、言うと、また、怒る人もいると、思いますが、安谷老師は、雅春先生対して、自分の室内に、独参に来て、本当の目を養えと、言われいるように、私には、読みとれます。

安谷老師の親切心でしょ。

私も、良く、同じ様な事を言われて来ましたら。

165志恩:2012/02/06(月) 04:23:36 ID:.QY5jUA6
ももんがさま

勝手に解釈してとは?

私は、雅春先生は、安谷老師に、叱られていない等と、言っていませんよ。
よくお読みになってください。
批判されている、叱られている、という意味のことを、ちゃんと書いています。

だけれど、この老師のお方の、他の文章を拝見しますと、雅春先生だけでなく、
他の方達の事も叱っておられる。

ですから、叱られたのは、雅春先生だけなのかと、思っていましたよ。と書いたのです。

以前、ももんが様が、書かれた雅春先生批判の文章を読みますと、まるで、雅春先生だけにスポットライトを
あてて、安谷老師が、叱っている様に、受け取れたからです。

①「白雲会の安谷白雲老師は、著書の「無門関」の中で、谷口雅春先生の「無門関解釈」の誤りを、手厳しく、
 指摘されてます。雅春先生といえども、過ちは、あるのです。」

②トキ様宛に
 「安谷老師の「無門関」見つかりましたから、雅春先生を批判されている箇所、今度、掲載いたしますので、
  楽しみに、お待ち下さい」

この①②の、あなたの文章を読み、私は、あなたの善意というものが、全く感じられませんでした。
雅春先生が、叱られてる.前にも言いましたよね、。禅関係の人が、雅春先生の本を、糞の役にも立たない本だ、
と言ってたよ、って。
言い方が、いやみっぽくて、雅春先生に対する侮辱としか、とれませんでした。。

でも、この安谷白雲老師の著書を読ませていただいて、わかったことですが、仏教の人は、だいたいが、ものすごく口は悪いけれど、
根は、親切心で、叱っている事が、多いということが理解できたのは、よかったと思っているところです。

貴方の、その口の悪さは、ここの影響では、ないかしら。

話を戻しますが、
安谷老師は、禅仏教の宗教団体「三宝教団」の教祖でおられます。
仏教界の大御所からみたら、仏教本来の解き方があり、それは、ちがうぜ、と思うことも多々あって当然です。

しかし、雅春先生は、著書「無門関解釈」の凡例に、

1、本書は禅宗第一の書「無門関」に、日本的新解釈を与え、、、、、

1、本書は、萬教帰一の日本学的立場から、仏教の各公案を解釈し、更に処々に聖書のイエスの語を引用して、
 東西の真理は、畢竟一に帰する所以(ゆえん)を明らかにして、神仏耶の三教が、派を立てて争うことなく、

 一億一心一真理に帰一して、そのとき、その場、その人、各々持ち場に就いて、国家に尽くしうる原理を
 提供せんとするものである。


というように、私は、日本的新解釈で、書きますからね、と前置きしてから書かれておられるのです。

ですから、安谷白雲老師が、批判してると言われても、それは、そうでしょね。
解釈の仕方が、違うのですからというしか、私には、このことは難しすぎてわかりません。

166志恩:2012/02/06(月) 04:54:52 ID:.QY5jUA6
難しすぎても、そうですが、
著者、雅春先生ご本人でしたら、別の真意のご説明があるでしょうけれど、
私は、ご本人でないから、答えようが無い、という事です。

167志恩:2012/02/06(月) 05:07:42 ID:.QY5jUA6
そして、どうしてこんなにまで
ももんがさんは、雅春先生について、過ちがあるだの、糞の役にも立たない本だと言ってた等、書き込んで
雅春先生の、品格を下げようとしているのか、その真意も、はかりかねます。

168トキ:2012/02/06(月) 10:11:09 ID:xQ8phuq.
 最近、立川談志がなくなられましたが、亡くなる直前、石原慎太郎知事が彼に電話をかけて

「おい、談志、もうすぐ死ぬんだろう。ざまあみろ」

と言ったと電話で話をしたと本人が言っていました。知らない人が聞いたら、何という暴言だと
怒るところですが、二人が永年の親友である事を知っている周囲は問題にしませんでした。

 私は、安谷老師という方には面識が全くないので憶測になりますが、禅の僧侶の中には、そういう
言い方をする人はいるみたいです。赤尾敏氏なども谷口雅春先生の悪口を書いていて、あきれた事が
ありますが、考えてみれば、みんながみんな、谷口雅春先生の真意を理解できる訳ではないと思います。
また、世間には口の悪い人がいて、そういう人の発言が伝聞で伝わると、内容や雰囲気が変わる場合も
あると思います。

 かって、某新聞社が谷口雅春先生の悪口をかき立てた事がありましたが、その後、社主が谷口雅春先生
の真意を知って、わざわざ謝罪に行かれた、という話もあったそうです。

 ただ、安谷老師という方が禅の世界では偉い人だとしても、谷口雅春先生をはじめ、外界の人の批評
ばかりしているようでは、多様性や寛容を要求するこれからの時代には即応できないような印象を
持っています。

 しかし、案外、安谷老師ご本人は好人物で、悪口は言っているけど、それなりに谷口先生を認めているような感想も
あります。

合掌 ありがとうございます

169うのはな:2012/02/06(月) 18:46:18 ID:El6gIMAw

訊け管理人さんの擁護代表 志恩様

 本流復活宣言掲示板 葵 新吾 様の「志恩さんへ」という文章をお読みください。

170うのはな:2012/02/06(月) 19:09:55 ID:El6gIMAw

 教育は国家百年の大計

 私の父親は、今はコスモ石油となっているが当時の大協石油に勤めていた。
市にある製油所長を六年間務めていた。その当時、私は東京で一人住まいをしていたが、
正月には四日市の両親の元に行った。私の母親は、生長の家の谷口雅春師が四日市に講演に
来られた時にお話を聞きに行っており、その折りに母親が『生命の實相』の一巻を購入して
持っていた。
当時、私はその本を読んで感ずるところがあった。それで東京に帰った時、原宿の生長の家本部を
訪れ、『生命の實相』全四十巻を買い、大変感動したのである。この本との出会いによって、私は
これまでの唯物的価値から心を大切にする唯心的価値観に変っていったのである。
そして自己への信頼が深まっていった。中でも次の言葉が私を大きく成長させてくれた。
「日本人は昔より、天照大御神を皇室の始祖と仰いだだけではなく、一人ひとりを天照大御神の息子、
娘として、日子命、日女命と称してきたのである」
 だから、日本人が本来持っていたところの「神の子」観に目覚め、私たち一人ひとりが、その神性を
発揮できるようになれば、大変良い世の中になるのである。政治は、その神性を見詰め努力していける
環境を整えることである。そしてなにより健全な人間観を涵養する教育が大切である。

 教育は国家百年の大計と言われるとおり、極めて大切なことである。
戦後の日本がこのように自国の歴史・文化・伝統を省みない、魂のない国になってしまったのも、
先人、先祖を貶め、愛国心を教えてこなかった日教組リードの戦後教育が大きな原因である。

後略

『平沼赳夫の本懐』 平沼赳夫 先生著  光明思想社

171役行者:2012/02/07(火) 08:26:14 ID:ZtqzBGSY

 >ももんが様、トキ様、志恩さま

 私は、ももんが様の下記投稿文に関しまして、賛同しております。
 安谷老師はするどい指摘をされるなと、ももんが様が投稿する前々から思っていたのです。


 >安谷老師は、雅春先生が、『問題の題意を勝手に変 更して、それに、答えを着けた 』と言われて、雅 春先生を叱っているんす。
  こんな事を、言うと、また、怒る人もいると、思い ますが、安谷老師は、雅春先生対して、自分の室内 に、独参に来て、本当の目を養えと、言われいるよ うに、私には、読みとれます。
 安谷老師の親切心でしょ。<


 ここまで雅春先生に対して酷評はできませんが、
「悟られ、多くの大衆の方々を良き方向に導き、救済運動を展開している日本では一番マトモな新興宗教を、この戦後日本によくここまで定着して下さった」と、既成宗教のなかで深く真理究明に命をかけてきた安谷老師だからこその、謝意も言葉のニュアンスから私は感じ取れました。
 この箇所は前々から、疑問に思っていたところで、見事、ももんが様が指摘くださいましたので、ついつい拙い感想を述べてしまいました。
 


 雅春先生の解釈に対して、安谷老師が評する。以下文章。

 【『口に樹枝を噛み、手に枝をよぢず、脚、樹を踏 まず、樹下にあつて西来意を問はん……』と云うの が、何故に進退両難であるか。
 手が枝に触れなかつ たら、みづから能動的に手を動かして枝を握れば 好いではないか。
 枝を握つて口を離して、さてそれから祖師西来意に就て応答すれば好い。何処にも事 実上進退両難はないのである。
 『進退両難の原因は 手に枝をよぢず』と自分自身の本有の自由自在の 力を限ってしまつたところにある。云云。】


 上記が雅春先生のご文章!
 それに対して、下記ご文章が安谷老師。


 【 実に面白い解釈である。ちょうど数学の問題で、題 意を勝手に変更してしまって、その変更した題意に 適合した答えをだしたようなものだから、面白いと いうのだ。

  『手に枝をよぢず、脚、樹を踏まず』という漢文 は、『手に枝をよじては相成らん。足にも樹を踏ん でも相成らん。』ということを約束しているので あって、自己暗示や、空想上の弄戯ではない。
 この 約束のもとで、立派に西来意に答えることのできる 事実を発見させるのが、この公案の要点である。
  この要点を逃してしまて、『香厳真の杜撰、悪毒尽 限なし』という、無門の評語そのまま正直に受け 取っておられるところなどは、谷口氏のお人柄の好 いところではあるまいか。〜】

 追伸にて;

 今回の解釈に関しては確かに安谷老師の仰るとおりかと私は思っておりますが、イエス然り、釈尊然り、既成宗教にメスを入れ、新しい生命をそそぎ込む役目を担って、文章を更新する場合もあります。

 最終的には、神のみぞ知ることで、如何に人類を救済するか!ということが大切なことと存じています。

           合掌

172志恩:2012/02/07(火) 09:23:57 ID:.QY5jUA6
役行者さま

安谷白雲老師の「無門関」の中で、雅春先生が、雅春先生の著書「無門関解釈」に(171:役行者さまが、貼付)
解釈された公案の回答の,間違いを指摘されてることにたいして、

役所者さまは、今回のことは、安谷老師が、おっしゃる通りと、自分は捉えたと、
教えて下さって、誠にありがとうございました。
私には、この公案は、難しすぎて、わからないと申し上げたのでしたが、
著者「雅春先生」ご本人ではないから、雅春先生でしたら、真意はご説明されたでしょうから、とも
おこたえしたのですが、

数学に例えたら、題を変えてそれについて、回答したような、ことだ、という安谷老師のご批判は、その通りだ
ということですね。

もしかしたら、雅春先生に,安谷老師が、間違いを直接,指摘されたら、雅春先生ご本人でしたら
「そうでしたか。間違いでしたか。」と、素直に認められて,簡単に終わる話なのかもしれませんね

でも、禅関係の方が、雅春先生の「無門関..」他を、「糞の役にも立たない本だ」と言ってたということにたいしては、
どう、思われますでしょう?やはり、その通りなんだろうと、役行者様は,思われますか?
私には、これも、難しすぎて、どう捉えてよいか、判断が、わからないのです。

私は、ももんがさまが、たびたび
禅関係の方々の口を借りて、雅春先生の「過ちがある」ことや、「糞の役にも立たないと言ってた」というように、
雅春先生の悪いところだけの、1点、1点に脚光を当てて、ここへ書き込まれる真意が、分からないのです。

やはり、ももんがさまは、教団派だからだと思うのです.。
1点、1点の雅春先生の過ちだと他の人が言った点だけを指摘し、闇を際立たせ、
そうすることによって、「今の教え」は、正しいのだと主張されたいのだと思うのです。

173志恩:2012/02/07(火) 10:25:14 ID:.QY5jUA6
私は、仏教の教え自体については、以前から、難しい教えですが、
とても好意的に思っているのです。

私の,妹の一人、アメリカで仕事している人間の職場は、
仏教関係の職場ですから、それにより、親近感をいだいているということもあります。

妹は、雅春先生の仏教解釈は、日常生活に活かし易く説かれているし、仏教を分かり易く
書いてくださっているから、その他,生命の實相などからも,学び、多くの生徒さんに教える時も、
すごく、助かっているのよ、と常々私に、電話やメールで、伝えて来ている、事実があるのです。

でも、ももがさまのように、仏教の先達達は,こうも,雅春先生を批判してるとか、繰り返して言いますが、
糞の役にも立たない本だと、酷評している、そのような悪い点のことばかり、書き込まれますと、
不自然さが感じられて、なんだかな〜〜と、いやなきもちに 陥るのです。

174うのはな:2012/02/07(火) 11:25:14 ID:El6gIMAw

大調和の神示や、雅春先生が人を批判するのを許すのかと、光明思想を掲げながら
人を排除する勢力だとでっちあげては、
自分の大義名分で女信者を撃ちまくってくる。そんな男のクズでも、言論の自由、
信徒としての権利のもとにあれこれ言いたい放題に登場している以上、
ももんがさんの自由も認めなくてはならないのではないでしょうか。

175うのはな:2012/02/07(火) 11:26:57 ID:El6gIMAw

 すみません。聖典版に関係ない話を書きました。
 あとで削除をおねがいします。174と175

176志恩:2012/02/07(火) 11:36:06 ID:.QY5jUA6
 172:一行目、一部訂正

×安谷白雲老師の「無門関」の中で、雅春先生が、、
○安谷白雲老師の「無門関」の中で、安谷老師は、雅春先生が、、、

177志恩:2012/02/07(火) 11:47:21 ID:.QY5jUA6
うのはなさん

ももんがさんが、発言される自由は、あるに決まってるでしょう。
でも、雅春先生にかかわる事ですので、悪い点ばかり書き込まれるという疑問点を、発言する自由もあると思います。

疑問点は、疑問点で、言っていますが、
私は、仏教の先達の、ももんがさんに、仏教のことで教えていただこうと思いまして
「正法眼蔵随聞記」も、購入して、読みはじめてもいるのです。

178うのはな:2012/02/07(火) 12:09:44 ID:El6gIMAw
だから、疑問点を書いてよくないとはいってませんよ。

 雅春先生に背教するエージェントがシモネタ漫才をやり続けても、
それはうのはさんに関係しているようだと擁護してやる、生長の家人らしい
思いやりのある人なら、雅春先生についておかしな発言があったからといって
そんなに心配することはないだろうと思ったのです。
雅春先生の真理や正論証拠になる文献はあるわけですから。

179志恩:2012/02/07(火) 12:15:40 ID:.QY5jUA6
うのはなさん

私は、うのはなさんのいうように訊け君に,甘いです。
でもね、うのはなさんに対しても、結構甘いな、ってことが、
他の人が、見た場合、 バレてると思う。

わかってないのは、うのはなさん だけ。

182神の子さん:2012/02/07(火) 14:21:14 ID:PvqmH7IM
この女の人、本当に救いようがないですね。
ここは聖典板、ここでもやるの?そんな話を!
彼は一度謝ってます。

本当に止めてくださいね

183うのはな:2012/02/07(火) 14:38:49 ID:El6gIMAw

ほらほら、また出てきて攪乱してくると思ってましたよ、神の子さん。
神の子さんにいわれるまでもなく、上で、志恩さんに、ここは聖典版だから
他でしましょうとかいていますし、管理人さんに削除するように要請していますよ。

 大人の塗り絵でも買って、脳老化を予防してください。
 お願いします。

 それにわたしの以前からの質問に答えなさいね。

184神の子さん:2012/02/07(火) 14:50:45 ID:8.XS6TuQ
撹乱してんのどっち?バカ?

185トキ:2012/02/07(火) 18:06:57 ID:narRGotc
 お二人とも、ご静粛にお願いします。

by コウモリ

186「訊け」管理人:2012/02/07(火) 19:07:19 ID:JERRDVVQ

神の創造を疑うものは天地一切のものを疑うものである。
疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。
否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。
神を否定し、神と争い、神と調和せず、天地一切のものと和解せぬ者が
幸福でありえないのは当然のことである。

『生命の實相』38巻40項より謹写

 人を心で憎むことと、人の悪口を言うこととは、短刀をもってその人を刺し貫くに等しい。
 善人だという人の中に、そういう人が多いというのは驚くべきことである。善人よ、みずから省みよ。われわれは人の善悪を測る標準を変えねばならぬ。

『生命の實相』37巻86項より謹写

187うのはな:2012/02/08(水) 16:41:02 ID:El6gIMAw

  生長の家とは

 われわれが子どもに対して、あるいは親に対して、舅姑に対して、あるいは
夫婦互いの間において、常に和やかな言葉を使って、和やかな表情をしておりましたら、
そこに必ず善き家庭というものが出来上がります。それを称してわれわれは
「生長の家」と、こう言っているのであります。

「生長の家」というと、われわれの教団の名前だと思っていらっしゃるか知らんけれども、
それは、本来、宗教を創るつもりで僕が『生命の實相』の本を書いたわけでも、
『生長の家』という雑誌を書いたわけでもなかったわけなんです。

 ただそれを書いた....その文章の力がですねぇ、いろいろ人生を左右し、中には
医者では治らないと言っておった病気が精神転換と同時に治ってしまう、というようなことを起した。
そして「本を読めば病気が治る」っていうような噂がひろがって、「これは奇蹟である」
ということになって、それで「生長の家は宗教だ」と世間の人が認めるようになったのであります。
 別に「生長の家」という一宗一派があるのではないのでありまして、諸宗の、諸々の宗教の神髄を
実践生活に応用することを説いているのが、これが生長の家なのであります。

 白鳩さんのための放送講話 昭和五十五年『白鳩』誌より 谷口雅春 先生

188神の子さん:2012/02/10(金) 19:46:17 ID:kcv2QXTk

人間

吾は『真理』なり、
『真理』より遣わせたる天の使いなり。
『真理』より照りかがやく『光』なり、
迷いを照破する『光』なり。
吾は『道』なり、
わが言葉を行うものは道にそむかず。
吾は生命なり、
吾に汲む者は病まず死せず。
吾は救いなり、
吾に頼む者はことごとくこれを摂取して実相の国土に住せしむ。

まず最初に「吾は真理なり」と書いてありなすが、
この「吾」というのは天使(てんのつかい)のことであります。
「吾は真理なり、真理より遣わされたる天使なり」とある。
天の使は、真理より遣わされたものですから、つまり真理そのものであります。
しかし、真理そのものは目には見えないし、耳にも聞こえない。
それで真理が人格化して天使となり、われわれの目に見え、
耳にも聞こえる姿となって現れるということになるのであります。
どうして真理の姿が人格化して出てくるようになるかといいますと、
仏典に『衆生、仏を憶念すれば、佛(ほとけ)衆生を憶念す』とあるように、
衆生が仏を憶(おも)うと仏が衆生を憶ってくださる。
迷いの人間が、迷いに苦しめられて、ああ苦しい救って欲しいと思った時に、
その救ってほしいという念が真理に感じて、そこに救ってやろうという働きを起こる。
空中電気にマイナスが起こればプラスが起こって中和しようという働きを起こす。
電気そのものは目に見えないがマイナスとプラスとが中和する時にはパチッといって火花が散る、
その火花なら目に見える。
それと同じく、神さまがわれわれの悩みを中和してやろうと顕われる時、
その働きが目に見える姿と化して現わされるということになるのであります。
けれども、それが必ず誰にも見え、誰にも聞こえる姿となるのでもない。
救ってやろうという働きは真理の発した救いの言葉、仏教で言えば弥陀の本願力である。
その本願力が霊眼、霊耳の開けた人に分かって姿が見えるのです。
また姿が見えなくとも、その人が救いの本願力を振り向けられ、真理の言葉を口で語り、
筆に現わしてゆくことにすれば、それによって多くの人が救われるということになってくるというのは、
真理を取り次ぐ人の言葉はもう、肉身(にくしん)の自分が言う言葉ではなく、
真理みずから神みずからが語る言葉であるからであります。
それを霊眼で見れば天使の姿にも見えるのであります。

(つづく)

189a hope:2012/02/10(金) 19:47:56 ID:kcv2QXTk

↑ a hope です。

(つづき)


(中略)

その浅野さんのお嬢さんがなんでも三年ほど前、
まだ生長の家のことを全然御存じないころ大変熱心なクリスチャンであられたのです。
そのころのある晩キリストの夢を見た。
夢で見たキリストは真っ白な裾まで垂れた衣服を着て立っていられ、実に神々しい姿でありました。
あまり印象が深いので浅野さんのお嬢さんはそれをはっきり覚えていられました。
その浅野さんのお嬢さんがこの前わたしの講演会に村井さんに連れられて、
初めてわたしの話を聞きに来られたのです。
その時に、浅野さんのお嬢さんがふとわたしの顔を見られると、
わたしの顔が三年前に夢にみたキリストと同じ顔をしていたというのです。
もちろん着物は異(ちが)います。
わたしはこんな、普通の着物を着ていましたけれども三年前に夢見たキリストは長い白衣の神の姿だった。
けれども、その顔がわたしとそっくり同じだったという話なのであります。
これはわたしの肉体がキリストと同じ容貌をしていたというわけではない。
真理を語りつつあるわたしの内に宿る真理がキリストの姿に現われて見えたのであります。
キリストも天の使であるかと言うと、多少前に言った天の使という意味と違いますが、
キリスト自身「吾は神の子である、天の父より遣わされたものである」と言っていますから、
父から遣わされた神御自身の分身分霊であって、それが取りも直さず、
すなわち神の子であり、天の使であるわけであります。
それでキリストは二千年前においてユダヤ地方の人間に神から遣わされた天の使であったが、
現代においては、天の使がキリストとはまた別な姿をもって現われるともいえるのであります。
神の救いは、衆生が救ってほしいというその時代の相応の姿であらわれるのです。
神は要するに時代に相応して教祖というものを遣わしたまいて、それを通じてわれわれに現われられる。
だから、すべての宗教の教祖は天の使であるとも言えるのです。
肉体はどんな服装をし、容貌をしていましょうとも、真理を語る人には真理がやどっておる。
だから、その「内なる人」は天の使であり、霊眼の見える人が見たら後光が見えたり、
キリストの姿が見えたりするのであります。
いくら神の働き―――神の救いの念波を送られても霊智、心眼の開けていない人にはそれが見えないし、
聞こえもしないのですから、それを聞くことのできる、見ることのできる人を通して、
教祖を通して、時代に相応して救いが現わされるということになるのであります。


頭注版「生命の實相」第21巻 經典篇 P154〜

19065:2012/02/11(土) 18:02:14 ID:jpmvgJz2
最近話題になってる「無門関解釈」の香厳上樹の所を気になって読んでみた。



太平洋戦争中の事である。ある日、私はいつになくAKのラジオのスイッチをひねって見たら、そこに語られている話は航空兵田中曹長の美談であった。
話の前半は聞き洩らしたので何処の戦闘の時であるかは知らない。上官下方准尉の操縦せる飛行機は不幸にしてそのエンジンの一つに敵弾を受けた。
味方の陣地に帰還するには距離が遠いし、予備のエンジン一個のみの力では力が足りずにズンズン機体が下降して行く。下方には敵軍が待ち設けていて、
飛行機が落下したら、それをろ獲し、乗組員を捕虜にしようと待ちかまえている――まことにこれこそ進退両難である。下方准尉は捕虜になり機体を
ろ獲せられるのは残念であるというので、潔く機体と共に自爆せんものと、既に自爆の準備を行っているのが田中機からは見えたのである。
田中曹長はそれを見ると大声で「自爆してはいけない。死するばかりが忠義ではない。生きられる限り生き延びて最後の一分までも自分の任務のために
尽くすのだ。低空飛行をして続く限り味方の陣の方へ引返せ」と呼ぶけれども、それは無論聞こえはしないのである。田中曹長は仕方がないから空中
に大きく字を書いてその旨を合図する。下方准尉はその合図に気が付いたものか自爆を中止して、エンジンが傷ついて浮揚力の少ない飛行機で低空飛行
を続けて味方の陣地へ引返そうとするのだけれども、機体はいよいよ浮揚力を失って、敵陣の中へ滑走状態で墜落した。田中曹長は上空から見ていると、
下方機は道なき道へ滑走状態で墜落したと見る間に、地面のでこぼこに衝突して転覆して破壊した。と、下方准尉は機から這い出て来て機密書類を焼却
していると、敵兵が周囲から集まって来て下方准尉を包囲攻撃する。付近部落の村民まで出て来て敵軍に加勢する。下方准尉は拳銃を以ってそれに防戦
するのであったが、敵は大勢であり、味方は1人であり、拳銃の弾が尽きたら万事休すである。田中曹長はそれを上空から見ていたが、加勢に自分が降
りて行って下方准尉を自分の飛行機に乗せて帰って、その急場を救いたいと思うのだけれども、適当な着陸地点がないから、もし着陸せば下方機と同様
に転覆して、もう再び空中へ舞い上がる事が出来ない。そして味方の重要な飛行機が無駄になるのだ。又たとい無事着陸しても下方准尉を救い帰るには
田中機は一人乗りだ。もし自分が救援に赴かなかったならば、下方准尉はあのまま敵の重囲に陥って戦死してしまう。それでは上官を見殺しにした
のであって、自分の日本魂が満足しない。右するも死、左するも死である。「香厳上樹」の架空的な机上の閑葛藤とはわけが違う。真にこれ如実に進退
両難である。

19165:2012/02/11(土) 18:03:01 ID:jpmvgJz2
それでは上官を見殺しにしたのであって、自分の日本魂が満足しない。右するも死、左するも死である。「香厳上樹」の架空的な机上の
閑葛藤とはわけが違う。真にこれ如実に進退両難である。その時、田中曹長は、この進退両難の世界から飛び出した。そして矛盾のないただ一筋の道
にまくねんとして突き進んだ。(私がこの講話を生長の家本部の道場でしたときに、企画部の星君が私のあとに道場で立上って、田中曹長が生長の家
誌友であって現在内地に無事帰還していて、その体験談を誌友会で述べたということを発表せられた。)かくの如き危急の世界に於いてさえも生長の家
の悟りから見るときには、「進退両難」などというものはないのである。肉体は本来無く矛盾も本来無い。着陸地が無いということもない。
「着陸地が無い」ということは、ただ心の世界に空想に描いた閑葛藤に過ぎないのである。着陸の必要がある限り、着陸地は到るところにあるのである。
田中曹長は空想に描いた「着陸地なし」の閑葛藤を見事に切断して、敵兵の群る頭上へ滑走状態で着陸した。敵兵は逃げまどう。滑走する田中機の
下敷になって戦死する敵兵は無数である。閑葛藤を見事に切断した田中機は、見事敵兵が虚をつかれて退くところを、下方准尉に応援し、既に疲労して
ふらふらになっている下方准尉を「上官殿、私の飛行機に乗って下さい」と負うようにして、その一人乗りの田中機に乗込んでエンジンにスタートをか
けた。もう進退両難などは田中曹長の前にはないのである。「一人乗りの飛行機に二人乗らせては飛行出来ない。飛行出来なかったら戦死か捕虜かどち
らかより仕方がない。この場合どうするか。」――香厳和尚ならば、こんなことを進退両難の葛藤の公案としてひねくりまわすかも知れないけれども、
実は進退両難などは空想上の弄戯に過ぎないのである。二人を乗せた一人乗りの田中機は無事離陸して味方の陣地へ帰還したのである。だから無門が、
こんな進退両難を公案に持出すなど「香厳真の杜撰、 悪毒尽限無し」と酷評したのも無理はないのである。



この「無門関解釈」s39(1964).11.22に掲載されている内容は「太平洋戦争中の事である。」と書かれてあるので最初の版である「無門関の日本的解釈』
1940(s15年)10.20には載っていないのだろうか。また「太平洋戦争中の事である。」という一文は満州版『大道無門』康徳10(s18年).4.25には載って
なく、s39(1964)の版で加筆されたのだろうか。

192うのはな:2012/02/11(土) 19:41:33 ID:El6gIMAw
現代かな変更筆写 投稿者記

  昭和十五年四月九日午後二時より 名古屋公会堂に於ける講演の速記

 昨年議会を通過しました宗教団体法がこの四月一日から実施されることになりまして、
生長の家はこの宗教団体法によって、宗教であると認められて文部省の管轄に入ることになったのであります。
 実は、生長の家は『教化団体生長の家』と云う名前によりまして、もう一年半ばかり前から届書を拵えて当局の
方へ出してあったのであります。東京府を通過いたしまして、文部省へ参りましてから、文部省の見解では、
生長の家は教化団体と云うよりも宗教の団体である、左様に見る、と云うような見解がございまして、そこで暫く
その届書が文部省で滞っておったのであります。

 生長の家本部の副理事長の秋田子爵、それから係の中神学と云う人達が文部省へ参りまして、稲田宗務局長その他の
係の人たちと色々交渉したのであります。
 宗教団体法によりますと、宗教と云うものには一定の『教義』がなければならない、それから
『儀礼』を行うものでなければならない、それから『本尊』がなければならない、本尊として奉斎する神様、又は安置するところの
佛がなければならない、そう云うものがなければ宗教でないと云うようになっておりまして、宗教団体法によるところの届書には、
教義と、儀礼と、奉斎神又は安置佛と云うものを書くべき各欄が設けてあるのであります。

つづく

193うのはな:2012/02/11(土) 19:56:37 ID:El6gIMAw
192続き

 ところが生長の家は、教義と云っても生長の家独特の教義がないのであります。
ないと云うとおかしいけれども、生長の家は佛教の話もする、お釈迦様は斯う云うように被仰ったと
云って、佛教は斯う云うものであると云って話もする。またキリスト教は斯う云うものである、耶蘇はこう被仰ったと
云って話もする。また金光教の教祖は斯う云われた、天理教祖は斯う云われた、日本の『古事記』には
斯う書いてある、老子には斯う云う事が書いてある、孔子は斯う被仰ったと云う風に、色々の教を一つにして説いて、
相手に随って自由無礙に方便自在の説教をしているのでありますから、一定の生長の家の教と云う教義と云うたらどんなものだと
云われると困るのでありまして、生長の家独特の教義と云うようなものがないのであります。

 後略

『超宗教を建つるまで』 谷口雅春 先生著 光明思想普及会 発行

194うのはな:2012/02/13(月) 15:35:30 ID:El6gIMAw

 招神歌の第一首の歌には、『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神元津霊ゆ幸へ給へ』
とあります。あの『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神』と申上げるのは、これは宇宙大生命で
あります。『古事記』に書かれているところでは天之御中主神であり、光華明彩、六合の内に照り徹らせる大神として
顕現ましましたのが、天照大御神であらせられ、人体を備へ給いて現人神としてお現れ遊ばした神様は、天皇様であらせられます。

 この天之御中主神 天照大御神、天皇様のお三方は一体であって、吾々の、否、生きとし生ける者の御祖神様であらせられる。
吾々はその赤子であって御祖神の子であります。吾々が天皇の赤子であると、申すのは斯う云う意味であります。
吾々、生きとし生けるものが幸福である、サイハヒであるとは、御祖神の大御命の割き生えによってのみサキハエとなるのでありますから、
幸福のことを『サキハエ』と云い、転じて『サイハヒ』と申すのであります。

 吾々の幸福は一に 天皇陛下の御仁徳に懸ってあるのであります。
天皇陛下なしには吾々のサイハヒはないのであります。

195うのはな:2012/02/13(月) 15:51:01 ID:El6gIMAw
194続き

 さて宇宙大生命とは天皇様であらせられることがわかりましたが、『招神歌』の
第四首に『天地の御祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ』と云う歌があるのでありますが、
天地の御祖神の道、宇宙大生命の道を伝え導いて東道の役目を果す神が生長の家の大神であると云うことが、この
第四首の歌に現れているのであります。

 そういう風に生長の家の神様は御祖神様のお道を明かにし、道案内をし、日本国体を明徴ならしめ、日本の国威を輝かすために
出現せられた神様であらせられ、その神様が支那事変、世界の大動乱に先立って現れいでたと云うことは、日本国が丁度、神武天皇様の
御東征時代とか、神功皇后様の三韓征伐時代とか云うのに匹敵する大事変に際會しているからだと思われるのであります。


『超宗教を建つるまで』 谷口雅春 先生著P401〜  (現代仮名に投稿者変更)

196うのはな:2012/02/13(月) 17:19:22 ID:El6gIMAw

英国の大詩人ブラウニングは、真理に達した人だけあって次のように歌っています。


 叡智と云うものは常に内にある、どんなに外のものを信じようとも
 外のものからは叡智は湧いて来ない。
 吾々にはその内奥の深い処に中心がある。
 その中心に無限の真理が宿る、
 その真理を発掘すること、
 それを吾々は叡智を汲み出すと云うのである。

 神は自己の内に宿る、真理は自己のうちに宿る。自己のうちに、神が、
 叡智が、真理が宿っていないで、神とか、叡智とか、真理とか云うものが
 自己の外にのみあるものならば、人間は永遠に自由になることは出来ないでありましょう。

 神とか真理とかに従うと云うことは、吾々自身が『外』から縛られることになりますので、
 吾々は決して自由になれないのであります。神とか、真理とか云うものが自己の『内』に埋蔵
 されている真性であるからこそ、神に従うと云うこと、真理に従うと云うことが、自己に埋められている
 真性を伸び伸びと外に出すことになるのであります。

『百事如意』 谷口雅春 先生著    (原文は旧仮名)

197うのはな:2012/02/13(月) 19:22:43 ID:El6gIMAw

 感謝行は同時に深切行である。ひとの為に尽したら自分の生命力が減ると思うのは
迷信に過ぎない。誌友某氏は眼病の中でも最も難症だと云われている網膜剥離症に罹って
いられて、聖典『生命の實相』の細かい活字を読むのに、自分の為に読むのだったら、一頁半も
読めば眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。

 それだのに驚く勿れ、他の病気を癒してあげたいと思って『生命の實相』を他に読んで聞かせる段に
なると、一時的にその眼疾が癒って了って、連続四五十頁を読んでも眼に痛みを感ぜず、
読後また眼の疲労を少しも覚えないのである。『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、
他の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。

 自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、自分のためでない所に自他一体の無限の悟に到達する。
まだ病気が顕れているのは働きに利己主義の心持が混るからである。自分の病気が治ったら他を救ってあげようと思っていては
機会がなく他を救っている間は病気は治っているのである。
永久に他を救っていれば永久に病気はない。

 月刊『生長の家』の巻頭言より 谷口雅春 先生


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