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生長の家政治連合と「今の教え」を考える

1トキ:2011/06/20(月) 13:07:03
 このスレッドは、生長の家の「今の教え」と「本流復活」の問題に関連し、
「生長の家政治連合」と「今の教え」について、自由に議論をするため
に作成したスレッドです。
 生長の家に関連する話題なら、上記に話題に限定しないで、広く受け付けます。また
どの立場の人の投稿も歓迎しますが、基本的に生長の家の教義と谷口雅春先生の説かれた教え
を支持、共鳴する人のためにサイトです。生長の家と谷口雅春先生へのご批判をされる内容
の投稿はご遠慮下さい。
 投稿の削除はしない方針ですが、アダルトサイトや出合い系サイトの勧誘を含む内容など
明らかに目的外の投稿は、削除の対象となります。
 目的外の投稿の判断は、最終的には、管理人である「トキ」の判断になります。
ご理解下さい。

 スレッドのルールと方針は、生長の家の「今の教え」と「本流復活」を考えると、と同じに
考えております。

2トキ:2011/06/20(月) 13:12:10
<はじめに>

 この論考は、現在の状態に至までの生長の家と生長の家政治連合の概略を述べるとともに、現在の組織に与えた影響を考察したものです。

 生長の家政治連合は、現在の生長の家教団内部では、タブーになっています。また、「本流復活」と言われる人々の間でも、評価は別れております。
 最初にお断りしておきますが、私は、生長の家政治連合の活動そのものの評価をこの文章で行うつもりはありません。しかし、生長の家政治連合をタブーにしている現状には、一石を投じたいと考えております。

私自身は、当時、生長の家政治連合(生政連)にはほとんど関わっていません。ですから、生政連の是非や結果を論じる資格はないと思っています。また、直接、関与して
いなかったため、その情報の多くが、書物や伝聞によるものである事はご理解下さい。ここに書かれている事が「正しい」というつもりはありません。あくまでも、現在の生長の家の状態を説明する、一つの仮説だと思って下さい。おそらく、当時の関係者や歴史に詳しい人からは、不満がでるとおもいます。
 実は、この問題を論じると、本が1冊できるぐらいです。ですから、かなり事実関係を簡略化しました。其の点、あらかじめお詫びします。

 生長の家政治連合の関係者は、現在でも多数ご存命です。また、当時の関係者の証言もようやく聞かれるようになりました。多数のご投稿をお待ち申し上げます。

3トキ:2011/06/20(月) 13:13:38
<初期 谷口雅春先生時代>

 生長の家は、谷口雅春先生が始められたのですが、集会も当初は近畿地方や東京に限られていました。そのうち、全国で本を読んで、救われたという人達が本部に問い合わせて、近所の誌友と連絡を取り、勉強会を始めて、自然発生的に各地で支部が出来たのです。その後、急激に教えが広まると、各地で支部が出来、講演会も開かれるようになりました。しかし、支部の運営は有志の寄付などに頼っておりました。教化部長も常駐せず、定期的に本部から本部講師が派遣され、講話をするシステムでした。ですから、各地の支部は独立独歩の気概が強く、本部方針も細かい点まだは指事されませんでした。
言い方は悪いですが。家族的な雰囲気があると同時に、まだ、現在的な意味での「組織」ではなかったとは言えるでしょう。
 谷口雅春先生は、人間的な魅力に溢れ、教えの素晴らしさと相まって、信徒は父親のような気持ちで接しておりました。家族のような雰囲気が部内には溢れていました。
 戦争中、あるいは戦後は困難な時期が続きましたが、信徒はよく団結し、教団を守りました。(私は、この時期までの生長の家を“初期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

4トキ:2011/06/20(月) 13:15:05
<前期 谷口雅春先生時代>

 戦後は、生長の家の信徒が急速に増え、組織も拡大しました。
そのため、従来のような組織では、運営が出来なくなりました。試行錯誤の末、聖使命会員制度が発足、近代的な組織への一歩を踏み出しました。同時に、やや中央集権的な組織になりました。が、組織は順調に拡大し、信徒も増加の一途をたどりました。
 その頃、共産党などの左翼党派が跳梁跋扈し、安保改正などもあり、国内の思想状況は悪化していきました。そこで、愛国者陣営といわれるグループから生長の家に支援要請が届くようになり、それに応えて生長の家も少しずつ政治への接近を始めました。当時は、右翼陣営の世間的な信用は低く、評価の高い生長の家への期待が高かったのです。が、思想の悪化と左翼勢力の拡大は止まりません。国内の危機的な状況に、ついに、谷口雅春先生は、「日本を守るためなら、生長の家が潰れても良い」とのご信念のもと、生長の家政治連合を結成し、全面的な政治への参加を決意されたのです。
(私は、この時期までの生長の家を“前期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

5トキ:2011/06/20(月) 13:17:56
<中期 谷口雅春先生時代>

 この時期以後、生長の家は、純粋な信仰運動だけでなく、政治運動も始める様になりました。そのため、組織のあり方も中央集権的になり、運動のあり方もや組織のあり方、部内の雰囲気など、多くの点で変化が生じました。森田=安東の両先生などはこの時代の申し子と言えるでしょう。
 一部の信徒は、政治への接近に批判的でしたが、反面、当時の青年を中心に、情熱的な運動を求める雰囲気が強く、青年会を中心に、活動は活発化しました。その意味で、当初は生長の家の教勢発展に寄与したと言えるでしょう。元号法制化運動など、各種の運動で成果を挙げると、いよいよ政治への接近傾向が強まり、生長の家政治連合の関係者が肩で風を切る傾向が強まりました。

 生長の家政治連合は、生長の家教団の一関連団体にすぎないのに、実際には、生長の家を代表するような言動すらするようになりました。時には、総裁の権威をも無視する場合もありました。その反発を押さえる為に、生長の家政治連盟を中心とする上層部から中央集権化を合理化する教学が強化されました。私はこれは、組織教学と密かに呼んでいます。当時、谷口雅春先生はご高齢で教団運営の実務から離れつつあり、後継者の谷口清超先生の権威はまだ完全には確立していなかったので、生長の家政治連合の人達がその間隙をぬい教団に大きな影響を与え増しア。そして、彼らが、この組織教学の中心的な提唱者でした。

6トキ:2011/06/20(月) 13:20:49
<組織教学>

 これは、私の勝手なネーミングです。
 生長の家の「中心帰一」とは、真理や理念の中心への無条件の帰依を意味しました。
あるいは、「道」を大切にすること、「大調和」を大切にする事をも含みました。無理矢理の服従ではなく、心からの調和がポイントでした。が、この時期以降の中心帰一は、「上層部への無条件の服従」という意味へ拡大解釈されるようになりました。その上、総裁=副総裁=み教え、というラインが、現象人間の「総裁、副総裁」という意味をも含むまで広まりました。これが行き着くと、その世界は、生長の家ではなく、昔の陸軍の内務班になります。実際、谷口雅春先生の直弟子の本部講師が、「これは(生長の家の)中心帰一ではない。支那式服従だ。」と断言されたのを、この耳で聞いております。
 この時代までの教団内部の雰囲気は家族的でしたが、これ以後は、良い意味でも、悪い意味でも、軍隊のような雰囲気が混じりだした、と古い信徒さんは回想をしております。
 組織教学の弊害は、教団が正しい理念に基づき、運営されている間は、問題が生じませんでしたが、今日のような間違った理念の下で運営されると、その弊害は著しいものになります。
 生長の家政治連合の当時は、ご高齢になられたとはいえ、谷口雅春先生もご健在で、上層部にも谷口雅春先生の直弟子がご健在でした。暴走を指摘される生長の家政治連合の指導部も、部内では実力者だった森田=安東先生ラインでしたから、それなりの権威もありました。いわば、優れた指導者と有能な側近が健在なため、弊害はすぐには表面化しませんでした。
  なお、組織教学は、これ以後、総裁の交代や重要な運動方針の変更で、組織部内に動揺が生じたたびに、動揺を収めるための手段として、強化されていきました。

7トキ:2011/06/20(月) 13:22:11
<政治との絶縁生命>

  教団の過度な政治への接近は、信仰への軽視を生み出す場合もあり、次第に部内からも批判があがるようになりました。生長の家政治連合の関係者の専横も目立つようになりました。生長の家政治連合が推薦した議員のスキャンダル、支持政党の政治汚職なども加わり、内外から批判の声があがるに至りました。優生保護法改正での支持政党が約束を反故にした事等、政治への不信が強まり、遂に、谷口清超先生が、谷口雅春先生のご了承を得て、政治活動の停止を宣言しました。同時に、生長の家政治連合も解散となりました。
(私は、この時期までの生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

8トキ:2011/06/20(月) 13:24:00

<政治活動停止の疑問点>

 教団の政治活動停止の経過は、今日でも公になっていない点が多いです。

 政治活動停止が正しい決定だったとしても、段階的な廃止という手段もとれたはずです。なのに、何故、いきなりの停止だったのか、疑問があります。

 当時、「聖使命」新聞紙上に掲載された、「生長の家政治連合解散、政治活動の停止」についての声明文は、今から思うと、谷口雅宣先生のご文章と類似点があるような気がしております。気のせいでしょうか? 最近、公表された村上氏の回顧録を見る限り、谷口雅宣先生が生長の家政治連合に極めて批判的な言動を当時からしていたようです。

 谷口雅春先生が、生長の家政治連合の解散の報告を聞き、激怒された、という噂が教団内部に今日でもあります。が、教団の公式見解、ならびに本流復活の中にも、谷口雅春先生はご納得されていた、との事です。この点について、私は判断をする材料を持ちません。

その他、不明の点が多々あります。今後の解明が待たれます。

9トキ:2011/06/20(月) 13:26:35
<後期 谷口雅春先生時代>

 谷口雅春先生は、長崎に生長の家総本山を建立、信仰の力での日本国の実相顕現と世界平和に方向を転じられました。その後、共産主義の間違いが周知になり、冷戦崩壊へとつながったのはご承知の通りです。
 谷口雅春先生は、教団運営の実務を谷口清超先生に任せ、ご自分は長崎の総本山で、もっぱら、祈りによる日本国実相顕現に時間を費やされました。その後は、亡くなられるまで、総本山での活動を継続されました。この時期は、比較的に安定した時期でした。
(私は、この時期の生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

10トキ:2011/06/20(月) 13:29:18
<谷口清超先生時代>

 さて、生長の家政治連合の解散は突然発表され、部内での説明も不十分だったので、生長の家政治連合の関係者を中心に、多くの信徒からの激しい反発がありました。そのために生長の家から離れて、独自の運動を始める人も出ました。本部の権威も傷つきました。
それを納める為に上層部がとった手段が「組織教学」の強化でした。が、当時はまだ谷口雅春先生がご健在だったので、何とか納める事ができました。しかし、もっと順序を踏んでの議論をすれば、情勢は違ったと考えています。

 重大な事は、生長の家政治連合がなくなったのに、教団内部に生長の家政治連合の組織体質、発想、部内の雰囲気は残った、という点です。「純粋な信仰」を目標と掲げながらも、運動の発想などは、生長の家政治連盟当時と同じままでの運動が展開し、現場の活動者や会員は、その齟齬に悩みました。

 生長の家政治連合までは、生長の家は、外部への関わりを積極的に推進する方針でした。が、生長の家政治連合解散後は、内向き、閉鎖的な体質への変化をしました。それまで生長の家の行動は、社会に一定の影響を与えていました。また、生長の家から角界で活躍する有為な人材が多数輩出されていました。が、この時期以降、そのような事は少なくなりました。

 さらに、敢えて言うと、このときから、生長の家の迷走が始まったと言えるでしょう。
私見では、谷口清超先生の目的は、生長の家を政治への介入以前の状態、つまり信仰だけを目的とする組織に戻すものだったと推測できます。しかし、谷口清超先生には大変申し訳ありませんが、それに成功したとは感じていません。組織の目的が何なのか、現場の活動者にも不明なまま、活動をする状態が続きました。

 しかし、谷口清超先生は、偉大な指導者であり、谷口雅春先生の正当な後継者でした。この困難な時期にもかかわらず、教団を純粋な方向へと指導され、内外の信徒の尊敬を集めました。この先生だからこそ、この困難な状態を乗り切れたと言えるでしょう。
(私は、この時期の生長の家を“谷口清超先生時代"と呼んでいます)

11トキ:2011/06/20(月) 13:32:41
<谷口雅宣先生の時代>

  谷口雅宣先生は、副総裁時代に「大東亜戦争侵略論」をいきなり発表し部内を混乱させるなど、適性には最初から疑問視する声も一部にありました。

 その後、生長の家総裁に就任された谷口雅宣先生は、「国際平和信仰運動」なるものをご提言、「愛国的国際人」とか「両軸体制」とか「座禅的瞑想」とか、一見、おどろおどろしいが、実は内容のない合成語を羅列し、迷走状態にあった生長の家をまとめあげ、滅亡へとしっかりとご指導されているのです。彼は、生長の家政治連合を毛嫌いしていましたが、皮肉な事に、トップダウンが大好きで、議論を嫌い、邪魔な人間は片端から追放し、信仰以外の目的に組織を使うなど、やっている事は、生長の家政治連合の連中と似たり寄ったりの事をしているのです。しかも、その総裁の独裁を理論的に裏付けしているのが、生長の家政治連合時代に生み出された組織教学だったのです。

 彼の組織指導を見ていると、<中期 谷口雅春先生時代>の全否定だと言う事が見えます。この時代は、組織の一部が暴走し、制御がきかなくなっていました。その時代に感じた恐怖が現在の暗黒体制の動機になっているのでしょう。そして、生長の家政治連合について「正しい判断」を下した自分への過大な評価と、「間違った」信徒への過小な評価も見えます。強引な独裁体制を引いているのは、自分の頭脳への自信過剰のなせるものだと言えます。

 

 公平を守る為に彼を援護すると、生長の家という古い体質の組織を改革する必要は確かにあったのです。生長の家政治連盟当時の体質を改善し、普通の社会通念から見ても通用する組織にする意欲は持っていたと思います。
 当初、私を含めて、彼に期待していた人間は少なくないです。が、信徒の皆様がご存知の通り、組織指導の結果は悲惨なものです。今日では、もはや行き詰まりは明白、という状況になっております。

 以上が、生長の家と生長の家政治連合との関わりです。

12トキ:2011/06/20(月) 13:33:43
<現在の生長の家政治連合の教団からの評価>

 この生長の家政治連合の一連の事件は、当時の関係者に深いキズを遺しました。
生長の家という組織の威厳も低下しました。谷口雅宣先生が、かって
「祖父は間違いをしました。」と
言ったのは、この点をさします。
 彼は、もともと、生長の家政治連合を嫌っていました。また、村上正邦氏によると、自分が新聞社で希望する部署に行けないのは、生長の家政治連合関係者の妨害によるもの、と思い込んでいたようです。当時の生長の家政治連合推薦の議員が谷口雅宣先生に、散々、叱られたという話もあります。いくつか要因が重なり、彼は、生長の家政治連合に嫌悪感を持っているようです。

 今日の生長の家では、生長の家政治連合とその時代は、生長の家の「汚点」と見なされています。少なくとも、現在の総裁はそう考えています。で、「日時計主義」を唱える原宿教団では、「臭いものにフタ」とばかり、この件を議論する事は禁じられています。そのくせ、生長の家政治連合と親近性のある言動は取り締まられる、という現実があり、このあたりが部内を萎縮させる原因となっています。

13トキ:2011/06/20(月) 13:34:51
<現在の生長の家政治連合の関係者からの評価>

 生長の家政治連合の末期には、その専横や内容に対し教団内部でも批判が強かったので、生長の家政治連合の活動停止には、賛同する声が多かったです。しかし、生長の家政治連合は信徒の自発的な動きではなく、生長の家教団の意向で始まり、活動をしていたのです。発表も突然でした。ですから、関係者からは「裏切られた」という声があがりました。現在でも、「本流復活」掲示板などに、当時の関係者が怒りの投稿をするのは、こういう背景があるのです。それが嵩じて、生長の家政治連合廃止の急先鋒だった谷口雅宣先生への敵意へとつながっているのです。
 特に、谷口雅宣先生は、谷口家の他の兄弟姉妹と違い、運動には参加せず、冷笑的な立場だったと言われています。当時の活動者からは嫌悪されていた、との投稿が別のサイトにありました。これが一般信徒ならともかく、信徒の浄財で小学校から一流私立大学に通い、海外留学までされた人物だったから当然です。言い換えれば、闘わなかった人間が、「美味しい汁」だけ頂戴し、闘った人間を批判し,その上、指導者になったのです。賛否は別にして、関係者の怒りは理解は出来ます。

14トキ:2011/06/20(月) 13:35:40
<私見>

 現在の教団内部では、生長の家政治連合は、タブーになっています。それは、関係者が生長の家政治連合を「汚点」と考えている点や、この問題を掘り下げると、生長の家教団、ひいては谷口雅春先生の責任論が噴出しかねないと考えているのでしょう。
 しかし、この問題をタブーにしていたために、現在の迷走が始まったと思うのです。ですから、どこかで、一度、きちんとした総括なり反省はしなければいけないと思います。

 この文章で、生長の家政治連合の是非を論じるのは、あまりも範囲が広すぎるので、省きます。また、私は、当時、生長の家政治連合には反発を感じて距離を置いていた人間でしたから、論じる資格もないです。

 今日から考えると、谷口雅春先生は、日本国という立場で行動をされました。生長の家の損得ではなく、国家の正義という観点からの行動だったのです。現在の政治の混迷を見る限り、生長の家政治連合が目指したものは、否定はできないのではないか、という気がします。また、谷口雅春先生と当時の指導部が目指したものは、当時の社会情勢を見る限り、当然とも言えるものでした。ですから、生長の家政治連合を論じても、決して、谷口雅春先生を否定するものではない、と考えております。この点については、当時の関係者の積極的なご投稿を期待しております。

15トキ:2011/06/20(月) 13:36:48
<雑感>

 生長の家政治連合の突然の解散は、関係者に深いキズを残しました。これこそが、日本を救うのだと信じて、政治活動をしていたのに、いきなり「間違い」にされてしまったのです。私は、生長の家政治連合にはいくつかの点で否定的な考えを持っていますが、この点については、彼らが怒るのは当然だと思います。当時の理事長の和田英雄さん(のちに教団を離れました)など、当時の責任者の説明も心のこもったものではありませんでした。今でも、この問題がぶり返されると、教団上層部は上から目線で説教をします。が、彼らにそんな資格があるか、どうかは疑問だと思います。
 極端な言い方をしたら、生長の家政治連合が問題というよりも、その後始末のまずさこそが問題だと考えています。

 現在の谷口雅宣先生は、再三、生長の家政治連合は「間違い」だった、と断言をしております。実は、私自身、生長の家政治連合には批判的だったので、この点について、何もいう権利はありません。しかし、彼は評論家ではありません。生長の家総裁です。もし、生長の家政治連合の活動が「間違い」だったというのなら、彼の立場では、先ず、生長の家という組織がした間違いについて、当時の関係者に謝罪をすべきです。これは彼の個人的な見解とは別の話です。公人としての義務です。

 さらに、生長の家政治連合はなくなったのに、当時生み出された「組織教学」は、そのまま残りました。少なくても、「前期 谷口雅春先生の時代」までは、総裁がここまで独走できる体制ではなかったです。これが、現在、谷口雅宣先生の「独裁」を正当化する理論とされているのです。この「組織教学」を否定する事ができないまでも、21世紀の新しい「組織教学」の検討が必要な気がします。もし、生長の家政治連盟の活動に「負の遺産」があるとしたら、この「組織教学」かもしれません。

 生長の家が、ある時期、政治に関わり、運動をしていたのは、否定できない事実です。それを単に否定するのではなく、もっとポジティブにとらえ、将来への教訓にもする姿勢こそが、必要だと考えています。その意味で、皆様のご投稿をお待ちしております。生長の家政治連合の肯定的な側面からの投稿も歓迎します。よろしくお願い申し上げます。

16トキ:2011/06/20(月) 13:53:39
<追加>

 生長の家の長い歴史を見ると、障害もなしに順調に発展をしたとは言えません。「生長の家30年史」「40年史」「50年史」も良い本ですが、谷口雅春先生のかかれた「明窓浄机」が実は、生長の家の歴史を知る上では、たいへん参考になります。それを読むと、谷口雅春先生がたいへんなご苦労をされたのがよくわかります。その歴史の中で、栄光もあれば、挫折もあったのです。
 私自身、長く活動をしてきて、その間には、良い事がたくさんありました。が、否定的な事も、現象としては、現れた事があります。組織としての生長の家にも、類似の事があったと思います。
 これは、たいへん畏れ多い事ですが、生長の家という組織は、世界や国家、個人にとって、優れた貢献を多数しました。が、何十年という間には、知らない間に「業」は積んでいた部分があったと感じます。多くの本を読み、そう感じました。
 
 ここで、「業」というと、生長の家と谷口雅春先生を批判する人がいますが、それは間違いである、という点は申し上げます。人間であれ、組織であれ、行きて活動をする人は必ず「業」は積んでいるといえるでしょう。私は、この文章を書いている時点ですら、生長の家と谷口雅春先生の偉大さを一点の疑いもなく、信じております。
谷口雅春先生の愛国心、理想を求める純粋な姿勢とともに、教団運営のために、隠れたご苦労をされた点を、現在の信徒一同、深く感謝申し上げるべきだと強調したいです。その点は、何回でも繰り返したいと思います。

 今日、生長の家で起こっている混乱、あるいは総裁の暴走は、今日、突然、生まれたものではなく、生長の家という組織に生じた永年の「業」が。出たものかもしれません。今回、生長の家政治連合をテーマにしましたが、実は、生長の家という組織の永年の「業」がでたものだと考えています。その意味では、総裁や生長の家という組織の問題であると同時に、生長の家に関わった信徒一人一人の問題だとも考えています。

 でも、悲観をする必要はありません。
「業」は現れたら、消えて行くと教えられています。
 今回の一連の事件で現れた以上、消えると確信しています。間もなく、問題は解決すると信じております。その意味で、夜明けは近いと確信しています。

17山ちゃん1952:2011/06/21(火) 01:02:15
トキ様ご提言ありがとうございます。
さて、本部内部の事情はわかりませんが末端の信者などを無視した行動は組織
としてどんな事情があるにせよ失格であり、私は擁護など出来ません。
そうしたツケがそのまま今の現状になっていることは本来猛省するしかありません
が今の組織に「祖父は間違っていた」という資格はないことは明確であり。
反対に反省しても、どうする対処も出来ないことは自明である。
それは組織の総括も出来ない組織は他を批判は出来ません。

さて、私は以前に「生長の家」の歴史を勉強することの大切さを提言しました。
何故そう書いたのか理由は書きました。
ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史を学ぶ」という言葉がありますが
人の経験というのはその人の歴史しかわかりませんが、歴史は綿々と流れた
縦の歴史を学ぶものです。その歴史がその人を見ていると悪い人は沢山いますが
それを長いスパンで考えると悪人と思えるひとが実は歴史に功績を残した実例は
あります。

たとえば、徳川綱吉は「犬公方」ともよばれ当時の新井白石すらその悪行を綴った
と言われます。
だが、長い歴史から見ると、日本人の優しさのようなものが熟成された初期にも
感じます。またいろいろと述べてみたいところですが、結論からすれば歴史は長い
スパンが必要なのです。

藤原正彦さんは近現代史は「共産主義」の脅威を語らないのでいる。分野の異なる
私がその歴史を紐解くことをされている。(数学者)

そこなんですよ、生長の家の政治に何故谷口雅春先生は推進されたかを語らないと
片手落ちのような気がします。トキ様にはそういう事を語って戴きたい。
しかし、私論では行けませんので生長の家政治連盟の作成した文書や経緯など
わかる範囲でお願いしたい。

私はそういうパンフレットや著書など僅かしかなく資料とはいえない。

是非公けにしていただければ助かります。ただ外部にマル秘は致しかたない。
許せる範囲でお願いいたします。

それにより、負の歴史というのはそうでないことも理解できるように思える。

18トキ:2011/06/21(火) 09:42:05
>>17

山ちゃん1952様

 コメント、ありがとうございました。

 こんな長い文章を読んで下さり、ありがとうございました。

 生長の家政治連合の事を調べるのは、部内でも難しいです。複数の当時の生長の家政治連合の関係者に
当時の話を聞いても、皆さん、話してくれませんでした。教化部でも、当時の資料は処分されているみたい
です。たまたま、個人が所蔵していた資料が、ご本人が亡くなり、ご遺族により表に出るのが数少ない例外
です。

 生長の家を辞めた、生長の家政治連合関係者にも会った事がありますが、これは、ろくでもない人でした。
なるほど、生長の家政治連合が活動停止になったのも、宜なるかな、です。

 生長の家の歴史を勉強する事の大切さは、全く同感です。素晴らしいご提言です。

 生長の家の歴史で言うと、30年史にしろ、50年史にしろ、生長の家に都合の悪い事は書いてないです。
50年史を編集した人は、森田=安東先生派の人でしたが、あまりにも谷口雅春先生を尊敬するあまり、
生長の家を美化し過ぎるし、編集者の主観に会わない部分は控えめにしてあります。これも良くないと感じます。

 一番、頼りになる資料は、谷口雅春先生の「明窓浄机」で、これは、結構、生長の家に都合の悪い話も
たくさん掲載されています。「ゆにはデパート」の話なんか、この本がなければ、知らなかったと思います。
 谷口雅春先生は、ご自分に都合の悪い話も、全部、正直に書いておられます。この点は、素晴らしいと
感じます。

 ただ、生長の家政治連合というのは、日本の政治史の上でも、一つの大事な存在だと思うのです。
私も勉強中です。
生長の家政治連合については、これから、当時の関係者の投稿をお待ちしております。

合掌 ありがとうございます

19トキ:2011/06/21(火) 09:48:32
>>9

訂正です。

×(私は、この時期の生長の家を“中期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)
◎(私は、この時期の生長の家を“後期 谷口雅春先生時代"と呼んでいます)

20山ちゃん1952:2011/06/21(火) 13:49:23
普通会社では社史などは自社の悪いことは書きません。勿論余程社会の通念でなければ
避けるとは思います。過去に悪い印象を残したくないのは当然だと思います。それぞれの編纂史があります。
先日池田市の池田文庫に行ってきましたが、阪急電車の社史や宝塚歌劇団の通史が
掲載されていましたが、そこに悪いことは流す程度で良い方向に書くのは通史です。
それぞれの通史があります。神社は神社史や市史などいろいろありますが、自分の事は悪くは書きません。

生長の家50年史編纂に関わったのはS氏と言われますが、その細部に関わったOさんは生長の家
の歴史には大変詳しく、何度も大本教に行ったことなど詳細に語っていただいた事があります。
今は異なる所で活躍されておられますので、名前は出せませんが現在東京にお住まいであります。

昨日会社を休んで戦後を中心に雅春先生の年譜作成していました。数年前は気にも留めなかった
生政連のパンフレットが見つかりました。田中忠雄先生を中心の時代の小冊子です。

21トキ:2011/06/21(火) 15:51:00
>>20

山ちゃん1952様

 コメント、ありがとうございました。

 古い信徒さんと話していた時に、聞いた話です。

 生長の家の組織は、各地の信徒さんが、自発的にお金を出し合い、分担して労力を提供し、独立独歩、作ったものが大半です。
もちろん、谷口雅春先生のご活躍が中心ですが、各地の信徒さんの協力がなければ、今日の組織はあり得なかったのです。今日の
原宿教団の歴史には、その視点が欠けていると感じます。ですから、過去、各地の信徒さんが、本部の専横には断固抗議したのは、そう
いう背景があるからなんですね。

 谷口雅宣先生が、森のオフィスとか、環境とか、勝手な事をするのも、そういう視点が欠けているのが原因だと思います。
言い方は悪いですが、こんな勝手気ままをするのは、近代的な組織ではなく、”谷口商店”ではないか、という感じです。組織教学に
ついてですが、具体的な証言は紹介できないですが、谷口雅宣先生が、谷口清超先生の言う事には従わなかった、という証言は
複数あります。ところが、自分の言う事には従え、という世界ですから、困ったものです。

 あと、生政連については、関係者もタブーとして、証言されませんね。見事なものです。
 本当は、森田先生や安東先生など、関係者がきちんと証言を残して欲しいと願っています。

やはり、体験者の投稿は勉強になります。今後ともよろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

22ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/21(火) 16:55:17

 本日ブログにて、雅春先生のご回答―倉田百三氏宛て―をアップしました。
是非ご高覧あれ、であります。

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559793.html

 いやー、雅春先生の御言葉をそれこそ、20ページ分書き写し(PCなんで打ち
写し)しましたけど、スゴイ効果ですね(笑)もう今私の脳内は、雅春先生
ご主張(しかも昭和11年ヴァージョン)で一杯です。ええ、原理主義者と言わ
れる方以上の原理主義者と言えるでしょうか(笑)
 まあ、素晴らしい機会となりましたこと、皆様に御礼申し上げます。

合掌

23ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/21(火) 16:57:12
 すみません・・・スレッドを間違えました(笑)

24トキ:2011/06/21(火) 20:08:13
>>23

いえいえ、気にされないで下さい。

25現職員、妻:2011/06/21(火) 22:15:42
トキ様
生長の家史論文を読ませて頂きました。
大変貢献の高い仕事をして頂き、ありがとうございます。

今の組織のあり方は、生長の家の歴史から
自分なりに理解していましたが、
トキ様が示して下さった「組織教学」、
私には組織を考えるに、
ずっと理解の課題でしたので、納得するところでした。
また組織自体の業の行方。
トキ様は、
一般的には、こういう状態の組織は、組織が崩壊するか、
指導部が失脚するか…
と書かれていましたが、
これからの生長の家の組織のあり方や方向の可能性に、
何か展望のようなお考えをお持ちでしょうか。

26エンジェル:2011/06/21(火) 22:22:02
トキさまが書かれた<政治活動停止の疑問点>についてのⅠ考察のために

 実は私もこの事が本当はどうだったのか知りたくて(古今物語の掲示板でも話題になったことがあったので)
もしかしたらあの当事雅春先生の最もお側におられた貴康先生ならご存知かと思いうかがった事があります。
 それまでは、清超先生が政治活動を嫌っておられてという噂もあったのですが、お話を聞いて驚きました。

私が、清超先生は政治活動がお嫌いだったのですかと貴康氏にお聞きすると
「好き嫌いの問題ではない、僕は玉置和郎の事務所で一年間丁稚奉公させられたんだよ、預けられたりは清超先生だよ笑、嫌いな世界に息子を預けはしないだろーよ」
「それでそのうちに玉置先生に見込まれちまって村上さんもいたんだけど俺の跡継ぎになってくれないかと誘われてね、僕も若かったから本気にしちゃって・・・」
「て゛もね、清超先生はおまえは生長の家を勉強して政治家ではなく政治家を使う立場の人間になれと言われたんだよ」
だからその後長崎の雅春先生の下に行かれたのだそうです。でもこの当事は選挙のたびに全国を応援に行き、特に村上さんの初当選の選挙では奥さんの臨月の日を超えて駆け回り、村上さんの当選確実が出た日にMさんは生まれたそうです。

 さて、二回目の(一度雅春先生自身が活動停止を言われたことがあります)生政連の活動停止(凍結)になった時の話ですがここからは実際にお聞きしたことを
会話形式にして書きます(文責はエンジェル)
「あの日ね、清超先生から朝お電話があってね、あんたは政治活動にとても興味があったし誤解の無いように伝えておきたいことがあって・・・」
(実はこの当事、総本山の落慶大祭後、長崎に貴康先生の尽力で長崎『玉置会』が三菱関係を中心とした企業が参加して出来上がり、地方議員連盟も大いに拡大中で貴康さんも各地に応援に行かれていた等の背景があったようです)

清超先生「生長の家は自民党に結局利用されてしまったことは君も今度の法案の扱いや名簿順位の扱いで理解していると思う」
     「信徒をこれ以上純粋な信仰活動よりも政治に関わらせて失望させるわけにいかない。ここは一時政治活動を凍結して純粋な信仰活動にもどり、
      圧倒的な信徒の増大を図って出直さなければならないと考えたわけで、先ほど雅春先生にこの決断をお伝えして了解を戴いたところだからね理解して欲しい」
 貴康氏 「活動の凍結とは信徒数が倍増した日には再び政治活動に参加するということですか」
 清超先生「そう思ってもらってもよい、ただ自民党と今までのように協力するかはわからない」
 貴康氏 「もし信徒さんを拡大できたら自分たちの政党を作る可能性もあるのですか」
 清超先生「そういうこともあり得る、何しろこれからは政党に他の団体と天秤にかけられるようなことの無いように信仰的に熱烈に、
      信徒数においても圧倒的な力を蓄えなければならないということだ」
 貴康氏 「そういうことならば全く異論はありません。先生のおっしゃる通りです」

このようなお話があったそうで他の誰にもしばらくはお話にならなかったそうです。
 このことから解るように、生政連は一活動が凍結されそれは、解散と云うことではなかったわけで
実際、経理上も生政連の会計と財産はその後何年も残っていたようです。
 「この活動の凍結の決定はおそらく当事の理事会であったはずで、このころの理事会の書記は
森田征史さんだったろうから詳しくは聞いたらいいよ」とのことでした。
 ちなみに、雅宣さんはとお聞きすると、あの当事は生長の家にはいなかったと思うよ、完全に解散になるころには
本部に入っていて当然大きく関わったとと思う。との事でした。

27トキ:2011/06/22(水) 10:25:05
>>26

エンジェル様

 たいへん貴重な証言をご紹介下さり、ありがとうございました。驚くような内容ですね。
貴康先生は、ご紹介下さった清超先生との会話の一番最初の部分は、部内での文章で明らかにされていました。
が、続きの部分は、こちらで紹介されるのが、初めてだと思います。

 この証言が、当時、紹介されていたのなら、後の流れが変わったかもしれません。その意味では、惜しいと
も感じます。あれ以降、組織にガタが出る様になってきましたから。

 清超先生が、そのようなお考えだったとしたら、 ますます雅宣先生が生政連の活動停止について占める役割りが大きい
と推察できます。が、証拠はありません。

 共産党なんかも、スターリン批判とか、六全教とか、突然の方針転換で組織が動揺した歴史がありますが、この問題
は、もっともっと歴史が明らかになるべきですね。

 今回は、本当にご投稿、ありがとうございました。

合掌 ありがとうございます

28トキ:2011/06/22(水) 10:44:41
>>25

現職員、妻様

 ご投稿、ありがとうざいました。

 実は、不確定要素が多すぎて、予測不能です。神様しかご存知ないでしょう。(笑)

ただ、今の生長の家は、運動にしろ、組織にしろ、あまりにも「澱」というか、少し余分なものがついていると思います。
一度、リセットして、シンプルなものに戻すべきかもしれません。

 柳田国男さんの「零戦燃ゆ」という本を読んでいたら、こんな話がありました。

 戦争末期、硫黄島を守る為に零戦隊が硫黄島に進出しました。が、飛行機が足りないので、最新式の零戦が半分しか手に入りませんでした。そこで、倉庫に眠っていた
古い零戦を引っ張りだして使う事にしました。
 やがて、アメリカに戦闘機が空襲に来たので、レーダーで探知した零戦が飛び上がって迎撃しました。戦闘が終わってから零戦が戻ってきましたが、驚いた事に
最新式の零戦の大半は撃墜されて帰ってきませんでした。逆に古い零戦は全機、無傷で帰ってきました。おまけに、全員がアメリカの戦闘機を撃墜したと報告しました。

 何故、こんな事になったのか?

 最新式の零戦は、研究の結果、いろいろな装備がついていました。が、肝心のパイロットがそれを使いこなす事が出来なかったのです。おまけに、いろんな余計な装備
をしたため、動きが鈍くなり、そこをアメリカの戦闘機につけこまれて撃墜されたのです。

 古い零戦は、基本的な装置以外は、何もついていませんでした。ですから、パイロットが飛行機を使いこなす事が出来たのです。余計な装備がないので、飛行機の動きも
俊敏でした。ですから、アメリカの戦闘機と空中戦をしても、動きが早いですから、敵がモタモタしているところを巧みな動きで優位にたち、次々と撃墜していったのです。

 最近の家電でも、携帯電話でも、多機能になり過ぎて、かえって使いにくいという話はあります。
生長の家も、少し、余分なものが憑き過ぎたと感じています。絵手紙や環境が悪いとは思いませんが、それは、個人の判断に任せる事だと思います。もっと基本を大事に
すべきだと思います。

どうも、勝手な事を書きまして、すみません。

合掌 ありがとうございます

29現職員、妻:2011/06/22(水) 14:10:10
トキ様
トキ様の見識にすがりたくなり、漠然とした組織の行く末をお尋ねすることとなり
すみません。

私にも分かりやすい例をあげて下さり、ありがとうございます。
しっかり狙いを定めて操縦できるシンプルな零戦に戻って頂きたいですね。

トキ様のようにはっきり意思を
持って組織に残る方を、
私は周りに知らなかったので…
(まあ話せることでもなかったのですが、)
トキ様の実感では、そういう傾向もいまの組織には感じられますか。
信徒の方も含め組織を辞めるか、今の雅宣先生のやり方に迎合していくか…だと思ったり、
なかなか客観的に組織を考えられなくもなっていたので、
それだけではない力に希望を感じたいです。

正直、今の講習会や全国大会を
推進する気にはなれないですが、
(本当はもともと「宗教を推進する」というのは、感覚的にずっと抵抗がありますが…)
若い方が生き返るような真理を、スパッと説いてくださる様な集まりが現実に出来ないというのは、
今触れる新しい方には、逆に気の毒な気がしたりします。

信徒さんが組織を離れて幸せになるならそれはそれでよいと思います、が、
私の知人には、組織に失望して逆に宗教アレルギーになったり、
真理を精神世界に求めて(ある意味魑魅魍魎?の世界に)いった方もいるので、
極端な例ですが、真理を求める方のそうした流れはやはり残念です。

宗教組織の宿命でもあるんでしょうか。

本当に私にはわからない事が多く、とりとめない事を書きまして、失礼しました。
自分としても組織との関わりをこれからも考えていきたいと思ってます。
ありがとうございました。


30義春:2011/06/22(水) 16:05:44
全国大会ネタがあったので、一寸書いてみる。

確かに、今年の全国大会は行く気になれんかったなぁ…そりゃ青年会の会長から推進の葉書頂いたりで、あぁ、頑張ってらっしゃるんだ…とは思ったし、それには人として尊敬します。

だけど、さ…まぁ〜色々付き合いというものがあるから行って感じたけど、体験談まで環境はないでしょうよ(泣)

そりゃエライよ…農業とかって呂氏春秋じゃないけど農人に謀らずな天と土との対話をしなくちゃいけないからさ…俺には出来ないと思う。

だけど、それが人に何か影響を与えるの?真理は何処に行ったの?

…と。まぁ…でも、体験談した人を責める訳じゃないよ。以下の事が考えられるからね。

去年の全国大会の体験談をした人が内幕教えてくれたけど、本当は話した内容ではなく、周りの人が生長の家の真理で救われた…ていう話をしたかったのに、本部の都合で無理矢理変えられた、しかも色々手際悪くて、もう厭だ!と嘆いていた…だから、もしかしたら、今年もそうなんかもしれないからね。

まぁ…来年は行かないと思う。
高橋是清みたいな苦労人の事を『古い考え』とか切り捨てる人の話を聴く気になれん…まぁ…今年も思いっきり寝てたけど(笑)
ちなみに私の周りのバイオや環境関係の人達は彼の話を聴いても情報のソースを疑うし、生物系の人間をいっさいがっさい切る言い方には、かなり反感持っているンだよね。

31現職員、妻:2011/06/22(水) 17:43:26
体験談、不手際事件〜
残念ながら私も体験しました…
まあ妻になる前の話なんですが、
本部のせいねんかいってとこは
大丈夫なんだろうか…
なんて、その時は思いましたよ、、

普及誌も機刊誌も誰のため?って話がありましたが…
結局、全国大会の体験談も、
総裁先生のご満足なお話を、
お聞かせする場なのでしょうか。

義春様もいなくなる全国大会、
ますますさみしくなりますわ…

33トキ:2011/06/22(水) 19:40:35
 青年会の全国大会、残念でしたね。いい時代に自分が青年会が出来た幸せを感じると共に、これから入る青年が可哀想だなあ、と思ってしまいます。
看板は生長の家で、中味は環境の家では、羊頭狗肉ですよね。

 教区では、情報が入らないので、若手の活動者では、「本部の考えている事だから、大丈夫だろう」と思っている人が多いです。でも、古手の活動者と話をすると
「もう、ダメだろう」と言います。理念がどうの、というレベルではなく、組織運動という側面から観察すると、成功するはずがないのです。昔の陸軍のインパール作戦
とか、山一証券の倒産とか、ワンマンな指導者の暴走で組織が崩壊する、という話はよく聞きますが、我々は、今、リアルタイムでそれを見ているのですね。

 で、この際、生長の家という組織体が、どういう動きをするか、予想は難しいです。

 ただ、一般論ですが、個人であれ、組織であれ、過去にその人やその組織の歴史を観察すると、だいたい同じパターンを取るのですね。ですから、生長の家の歴史を
調べると、だいたい、有る程度の予想はできるのではないか、と考えているのです。総裁が暴走する、というのは過去にないパターンですが、生長の家が存亡の危機に
なった、というのは、終戦時などはありました。ですから、少し調べてみようかと考えています。それがわかると、次に、どう動けば良いか、予想がつきますから。

合掌 ありがとうございます

34義春:2011/06/22(水) 19:59:31
>>31
現職員妻さま
仕方ない事ですよ。今年だって『俺は行かんぞ!』と宣言してたのを折れに折れて参戦したら、この体たらく…俺はこんなもんを見る為に生きたのじゃない!こんなんだったら(古代の習わしで貴人の往く道を掃除する)除道として清超先生の先に逝っておけば良かった…と怒りと悲しみと悔しさと…言葉に言い表せない苦しみだったんですよ…。

35義春:2011/06/22(水) 20:10:58
・・・かと言って、雅春先生を学ぶ会にも行く気はないんだよな…会報は読んだけど、若い奴が求める創造性がない。

確かに、雅宣総裁の欠点は的確についてるけど、その先がどうしても見えないんだよな。

今の時代に必要とされる事、次の時代の展開がない…雅宣総裁の批判より、それを前面に出したら生長の家を知らない層にも生長の家の真理を伝えられるのに…と凄く残念に思ってる。

これからは生長の家を知らない層にどう伝えるか?だと思っているんです。

36ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/23(木) 11:00:34

>義春さん

 うーん・・・貴君が「学ぶ会に魅力なし」と申されるか。うーん、「それ
じゃあ少し考えよう」てな感想を持つ次第ですね。(あなたの見る目を評価
してるんで)そうか・・・貴君印象では、学ぶ会も「あんまり」か。

>確かに、雅宣総裁の欠点は的確についてるけど、その先がどうしても見えないんだよな。

 そうなんだよね。それは(組織部外者)の私も強く感じることだね・・・と
は申せ私のは、ホニャララ掲示板から推察した「学ぶ会イメージ談」的話だけ
どね(世間では「妄想」とも云う)でも貴君までそう評されるとは・・・やや
残念感はあるね。

>若い奴が求める創造性がない。

 会報未読の身ではなにも申せぬとは云え、まあ、(くどいが)ホニャララ掲
示板の雰囲気から推察するに、「そうなんだろうなあ」とは感じるかな。
 たとえば、ですよ、たとえば『生命の實相』に触れたばかりの若者(20代)
がなにを求めているのか?こういった視点は完全に抜けている気が(私も)し
ています。
 今の若者って――こんな断言は危険とは云え、それでも自信があるんで言わ
ざるを得ないが――現在の団塊世代以上に〝苦労〟している世代ですよ。詳細
過ぎる例で恐縮だけど、まあ例えば、団塊世代が普通に得られた「休業手当」
ってヤツ・・・今の若者には「夢のような待遇」でしょう、これ。そしてそん
な認識はあまり、現在の団塊世代以上は持ちえていないのかなあ、と。

 ああなんか、とりとめの無い話になりましたが、まあ貴君認識に(妄想ベー
ス談とは申せ)「同意」ですね。

37現職員、妻:2011/06/23(木) 11:55:20
そうですね、
まさにその行き場のない想いを抱える信徒さんの受け皿は
どこなんだろう、と、ずっと思ってました。

他の会が受け皿に、というならそれで良いと思いますが、
義春さまの受け皿になる会に感じた実感が伝わります。

今は逆に生長の家の救いを伝えていく入り口がますます狭くなってるのが現実なんですね。

森の本部、については、
教区や信徒さんの本音はだいたいどんな感じなのでしょう。
若い人は本当に関心持つ人は多いのかしら…(私とだからかな)森、に関して話をしてますが。
私はいくら意義を理解しようとしても、心ではしらーとした気持ちになります…

本部が森へこもれば、
総裁の森論文、純子先生森エッセイにますます拍車がかかるだろうし、
本部も信徒さんの声からますます乖離しますよね。

雅宣総裁は、
雅春先生の真理のお言葉をちょこちょこと引用してご自分の「新しき時代の教義(狭義)」を解説されますが、
論理で導かれる結論と、
自分の中で感じる違和感の乖離がやはり、大きく感じ、
雅春先生の偉大な真理から、あれ、いつの間に巧妙に論理のすり替えをされて、
こんなところにつれてこられたのだろう…と、正直そんな感じが否めないのです。
(この度の谷口雅春大聖師の二十六年祭のお言葉も、なんだか私にはそんな印象でした)

トキ様の歴史に学ぶ姿勢は、
頼もしいです。

崩壊も暴走も、諸共に行こうと思います。

38義春:2011/06/23(木) 12:36:03
>>36
雅春先生に訊けブログ管理人さま

そうなんですよね…残念過ぎます。
ガンダム0083でガトーが決め台詞言って(GP02の)アトミックバズーカをぶっぱなす時に不発だった並みに残念感があります。

・・・実を申すと10年近く前に向こうの上の人にに電話掛けた事があるんですよ。やっぱり直接話さないと分からないですからね。

その時も雅宣総裁より遥かに、いや比べたら申し訳ないくらいに温かみを感じた。信仰者としても尊敬もした。

だけど、若者に対しての眼を感じなかった…だから、行けなかった。今もだけど、あの頃も命をかけて何かしら遺せる場所をのみ求めてましたから。

某掲示板には、同じ匂いを感じますね。

創造的・建設的なものを求める心、又、身近な悩みや将来への不安を若い世代は抱えてますから。

だから、日本や世界の将来へのビジョン…方向性を指し示し、具体的に動く事が雅宣総裁を凌駕する唯一の道だと想うのです。
まぁ…私も仲間にそれを図って動いています…まっ、中々、あんまり上手く行ってないけどね!まだまだ時期じゃないのかもしれない(笑)

そういえば、学ぶ会の見真会の感想が某掲示板にあったから、丁度、他教区を放浪中でベテランの先生といたから『こうだった様ですよ』と伝えたら『そんなんだと雅春先生はお怒りになるだろうな…雅春先生に近づくどころか全く逆に行ってないか?』というような感想を述べてらっしゃいました。


まぁ…私達の世代は団塊の…親父達の世代より苦労してるかな?ただ、パワーを感じないですけど…ね。

困難と戯れよ!どころか困難の奴隷と化してる感すらあります。現象と闘え!己が限界を越えろ!困難を喰え!喰って力をつけろ!パワーこそ力だ!…と想う事がバシバシ…いや、しばしば…色々あるんですよ(泣)

私は病気と闘ってきた人間なので、その喩えは身に染みるくらいに分かりますよ。私は闘病時、社会保険の傷病手当と限度額負担免除を併用して乗りきりました。ちなみに手術前に万事手筈を整え、金という兵坦線を確保しなくっちゃ戦は出来ませんので、兵坦を整えてこそ気合いも空回りせんですからに。

ホント、私もとりとめない事を書いてしまいました…ホント、何処に命をかける場があるんやら…。

39義春:2011/06/23(木) 12:52:20
>>37
現職員妻さま
まぁ〜教団がどうなっても生きてれば再起出来る。現に私は仕事も金も家族も…身体さえも失っても神の子無限力で諦めずに頑張ったら再起しましたもん。

今だと上司に『義春君がいないと仕事回らん』と言われてるくらいに仕事人間ですよ。

五体満足な皆だと、これくらい何も問題なくこなせると思いますよ。教団も同じ。問題という迷いは現れたら消える、今は力を蓄えて準備する時なんだって思ってます。

森なんて俺からしたらどうでも良いレベルですよ。ネット的に言えば『日本語でおk』とか『環境破壊して環境保全?バロス』な感じです。

Mなんかは『自然を破壊しといて環境保全?オカシイじゃん』なんて言ってたらしいけど 全 く 同 感 で す(笑)

40エンジェル:2011/06/23(木) 20:28:37
『C02出さないために森までガソリン車で行って森で薪拾ってストーブで燃やして』
ってのもひっくり返りそうなギャグですね。
『動物が嫌いで特に虫は天敵!ゴキブリみるとカナきり声だしてスリッパ片手に追いかける夫人』
この人のワクワクする笑みの日々もさてどうなるものか。

 それにしても今まで散々環境破壊してきた大手ゼネコンにオフィスを作ってもらうなんて・・
コリャアシャレニならんね。Mくんの感性はとってもまとも。

 横から失礼しましたーw

41トキ:2011/06/23(木) 20:48:10
>>40

 余談ですが、宇治の練成を受けた時に、新練成道場が出来てすぐに、手抜き工事から
ひび割れや雨漏りがすると聞いた記憶があります。工事を担当したのが、某大手ゼネコンらしいです。

42現職員、妻:2011/06/23(木) 21:17:35
「命をかけて何かしら遺せる場所をのみ求める」義春様の姿は、
周りにきっと大きな影響を与えていますね。
(私にさえ「熱い心の火の粉」が飛んできてますから…)
義春様のご友人たちは、こんな友達を持って幸せだろうな〜と、想像しています。

それにしても、長い、
この長い、ひっくり返りそうなギャグに、
一体誰が最後に
「おい!」
ってツッコミをいれるのでしょうか…。

43義春:2011/06/23(木) 22:19:26
>>42
現職員妻さま
まっ、周りにとっては破壊神らしいですから迷惑でしょうよww

でも、命をかけるものがなくなる・・・虚無感に襲われそうにもなったのは事実ですよ。だから自分で場を作ろうと頑張ってるんですよ。

自分は基本的にアナログ人間なのでネットとかを使わないで実際に会ってく方法ですけどね(笑)

だいたい、ネットde真実なんていうネット右翼と同類化する可能性があるから厭なんですわ。此処?此処は某掲示板で暴れたから最後まで責任取らないといけないなぁ…というアレですよw

まぁ…暴れさせた方が悪いと自己弁護しておきますねw黙ってみてる方がフラストレーションがたまって仕方なかったですからのw

44義春:2011/06/23(木) 22:36:51
まっ、雅宣総裁には色々マジギレする事が多々あるが山梨ルールで怪我されても面白くないから一寸書いてみたw

45トキ:2011/06/25(土) 10:27:29
義春様

 学ぶ会は、確かに大きくはなりましたが、現在の教団の状態を考えると、驚くほどの発展ではないと感じます。
原宿教団を辞めた人はたくさんいるのですが、そのうち、本流復活の諸派に入ったのは一部でしょう。
 実際、私の周囲を見ても、「学ぶ会」に入ったメンバーは、必ずしも、教区でのベストメンバーではないです。
また、風の噂を信じるのなら、「ときみつる会」も、「学ぶ会」とは、少し距離を置いているとは聞いています。

 この当たりを考えると、思う程発展しないのは、いくつか原因があると思います。

*「今の教え」に不満を覚えている人の中には、「初期 谷口雅春先生時代」の教学を信じている人から、「谷口清超先生時代」の教学を信奉している
 人まで多岐にわたります。ところが、「学ぶ会」は「中期 谷口雅春先生時代」の教学を根底に置いて運営がされており、それ以外の人達を切り捨てて
 います。「中期 谷口雅春先生時代」というのは、あの時代だから魅力的だったので、今の時代では少し無理があるのです。もし、私が「学ぶ会」の
 立場なら、「初期」か「前期」の「谷口雅春先生時代」の組織を参考に、今の時代にあった運動を構築すると思います。

*「本流復活」の掲示板は、生長の家から谷口雅宣総裁を追放し、まともな総裁をつける事を目的にしています。私は、「学ぶ会」の人達の本音も、この
 あたりにあるとは考えています。しかし、これは「きわめて難しい」ことです。その論証は、あちらの掲示板で「一白鳩会員」が書いた文章を読んで
 もらうとして、組織内にいる人間からは、不可能に近い事です。それなら、もう「分派」という立場に立って、原宿教団は無視する方針で、運営をした
 ほうが良いでしょう。そのうち、原宿教団内部で変化が起こり、合併という話が出たら、その時に考えたらよいではないでしょうか。

*谷口雅宣総裁への怨嗟の感情が強すぎると感じます。もちろん、彼は、生長の家という教えも組織も無茶苦茶にした、とんでもない人間です。
 しかし、それを全面に出したら、生長の家の信仰という観点からは問題です。そんなに彼に恨みがあるのなら、藁人形に顔写真と名前をはりつけ
 深夜 卯の刻、五寸釘と金槌を持って、神社の「森の中」に行って,トントンと打ってしまえばいいのです。そうではなくて、その先をどうすれば
 良いかという論点をメインにすれば良いと思います。(注:卯の刻参りは、恨みの念が自分にも返ってきますから、やった本人の運命もたいへん
 悪くなります。絶対に、しないで下さい。)

*「原宿教団」もそうですが、「学ぶ会」も、閉鎖的だと思います。もっと、開放的な態度をとったほうが良いと思います。

 他にも、いくつか感じる点がありますが、おもいつくまま、書きました。

 では、今後ともよろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

46山ちゃん1952:2011/06/25(土) 14:07:32
トキ様
あまり難しく考えないで下さいね。

雅春先生の初期とか中期とか?

昔は良かったなんてセンチメンタルなことだけは考えないようにしたいと思っています。

それじゃ、いまの崩壊の状態に責任取れますか?

そんな取れることが出来ない。

雅宣氏に悪く言うのも情けなくなるような感情です。

分派やゴタゴタなど戦前にも沢山ありました。戦後間もない頃にもありました。

過去の良かったのは勢いがあったということです。

今後正しく導くにはしっかり勉強することです。感情に押し流されない。泰然自若な精神を持ちたい
ですね。

それとここは『生長の家政治連合の話』のスレッドですね。

田中忠雄先生のような立派な先生がおられたということは、「生長の家」というのは
素晴らしいことなんですよ。誇りを持って下さい。

47義春:2011/06/25(土) 14:20:47
>>45
トキさま
全く同感ですね…ときみつる会は前期・初期雅春先生の時代の感じでやられているみたいです・・・宮澤先生の御文章のスタンスも『自分は生命の實相という神殿への橋の橋守みたいな存在』と書かれています。
原宿教団は殆ど無視みたいな感じですね。学ぶ会の会報と比べると心に葛藤を引き起こさなくて済むのは大きいし、雅宣総裁を抜きにして生長の家を人に勧められる・・・其所も原宿教団を見せなくて良いのは気が楽…です。

違う総裁を就けるのは現状から言って絶対に無理ですね。だいたい、中の人にそんな発想があるとは到底思えないンです。

48トキ:2011/06/25(土) 15:26:37
>>46

山ちゃん1952様

 素晴らしいご教示、ありがとうございました。田中忠雄先生、懐かしいです。神誌には、常連で執筆をされていま
した。難しい文章でしたが、風格のあるご文章でした。今も時々、昔の神誌を拝読するのですが、お弟子さん達も
深い心境をお持ちでしたね。

 確かに、終戦後、栗原先生の独立問題などもあり、揺れた時期がありました。あの時もたいへんだったみたいです。
あの時は、谷口雅春先生も苦労されたみたいです。ただ、話を聞いていると、あの頃は、谷口雅春先生も誠実に対応
をされたので、信徒も結局は組織や運動への信頼を失う事がなかったと思います。

 生長の家政治連合の活動停止の際の説明では、日本国の実相顕現という目標は今後も維持するが、政界を通じての
活動には無理があるので、止める、という内容だったと記憶しております。(違ったらごめんなさい)。それが、
いつのまにか、日本国の実相顕現という目標自体が消滅し、事前にも事後にも説明がなかった、と言えるような
気がします。勝手な想像ですが、谷口清超先生は、日本国の実相顕現という目標は持っておられた、と思うのです。
が、現在の総裁には、「どうでもよい」事かと思います。

 生長の家政治連合については、私は「傍観者」だったので、よくわからない部分があります。
ただ、生長の家政治連合の活動停止以後、生長の家という組織や運動への信頼感が、信徒から薄らいだような
感想を持っています。生長の家という組織は、二階にあげて梯子を外すようなマネをする、という感じです。
 実際、私と同期で、バリバリ活動し、バツグンの実績をあげていた人が、本部から声がかかったのですが、
断りました。後日、理由を聞くと「総裁が変わるたびに、方針が変わるような組織に人生をかけられない」
と言っていました。

 個人的には、当時、生長の家政治連合にかかわった人達が、何を感じていたのか、生長の家政治連合の活動停止
にどんな感想があるのか、知りたいと思っています。山ちゃん1952様ご自身は、当時どんな事を考えておられた
のでしょうか。差し支えなければ、ご教示下されば幸いです。

 どうも、行き届かない事が多々ありまして、申し訳ありません。

合掌 ありがとうございます

49トキ:2011/06/25(土) 16:04:49
>>47

義春様

 「ときみつる会」の事は知らなかったので、勉強になりました。宮澤先生は、ずっと外国におられて、あまり日本国内のゴタゴタには
関与されていないので、それが良かったとは思います。

 この騒動の行き先ですが、長期的には、心配はしていないのです。落ち着くところへ落ち着くでしょう。ただ、短期的には、考える点
があります。組織や運動に関わっている人の中に、深いキズをおう人もいます。あと、1年間に自殺者が3万人も出て、このあたり、
教団があんまり関心もないみたいで、その点も残念です。昔の運動も、ずいぶん不合理な事とか、馬鹿な事もありましたが、今みたい
に、外界の事に無頓着な体質はなかったと思います。

 生長の家政治連合に関しては、「学ぶ会」は、当時の関係者もいるでしょうから、正面から論じて欲しいと思います。
あの運動が、あのまま、うやむやになるのは、生長の家の将来のためにも、良くないし、関係者の心情を考えると、たまらないだろう
とも思います。私も、当時の本なんかを読んでいるのですが、内情まではわかりません。やはり、関係者のオーラルヒストリーを
期待したいです。

 とりとめもない話を書いて、失礼をしました。また、今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

50山ちゃん1952:2011/06/26(日) 01:14:06
トキ様
私は1番気にしているのは憶測でものを言うことです。
生政連をどうして「谷口雅春先生」が発起されたかということです。
戦後間もない頃にも自ら衆議院に参戦されようと京都で進められました。
だが時期尚早ということで断念されたと「五十年史」に記載されています。
しかし、執筆追放から思いを秘められておられました。だが昭和27年頃から
我思いの根底を揺らぐような気持ちで政治に言葉を発せられます。
だが、理事の反対にも遇いなかなか思いも伝わらなかったように感じます。

沸沸たる思いを持続させ生政連発足に漕ぎ付けられます。
だからとはいえ、雅春先生の迷いは相当です。

この最初にトキ様が指摘した

教団の過度な政治への接近は、信仰への軽視を生み出す場合もあり、次第に
部内からも批判があがるようになりました。

だが、ご存知のとおり明窓浄机の昭和50年頃には「共産党とも手を組むことも」
考えなければならない。と記載しています。だからとはいえそこだけ読むと解釈を間違えます。

当時の自民党が「生命尊重」をしない政党にウンザリしていたからです。

だから「日本再建」をしたいが、遅々として進まず「本流復活掲示板」に記載した遺言のような
遺文「耿耿の言」です。
谷口雅春先生が昭和58年5月号に寄稿された文章を掲載させていただきます。寄稿されたのは
『動向』であります。
寄稿としての文章はこれが最後の文であります。遺稿の御著書は『碧巌録解釈』がありますが、
お亡くなる二年前に書かれ、政治に対して、私たち信徒に対しての遺稿の文章だといえます。
私はこの雅春先生がどうして「耿耿」としてお書きになられたのか?何か涙が出るのです。
「耿耿」は”気にかかることがあって、心が安らかでない様。

最後まで”安らかでない気持ち”とはいかなるものか

私は「生政連」の活動停止は「雅春先生」は許可をしていないように考えます。
それは連続して「明窓浄机」を読んだ感想です。
また『動向』に寄稿された文章を読んでです。


活動停止にどのような印象があるかですが

停止しても良いが
筋道を通した行動ではなかった。議論を重ねて行うのが筋であろうと思います。
当時の大阪生政連委員長は「本部」に抗議文を提出されていました。
それは本当にまともな文面でした。

51トキ:2011/06/26(日) 13:14:33
山ちゃん1952様

 投稿、ありがとうございました。

 出先なので、資料がないのですが、確か、明窓浄机に谷口雅春先生が過去、参院選にご出馬をかんがえ
られた事があり、鳩山一郎さんの奥さんの薫さんから、「政界は汚いところですから、出馬はお止めに
なられたほうがいいです」との忠告を受け入れ、断念したと書かれていました。
 ですから、政治へのご関心は強かったと思います。
自民党への失望も、どこかに書かれていたと記憶しております。他にロクな正当がないから、仕方なしに支持している
という趣旨の御文章もあったと記憶しています。

 反面、生長の家に対する影響などもかなり心配をされていました。
谷口雅春先生は、結構、他人に気を使う方で、やさしいご性格でしたから、意に添わない事を我慢する
事も多かったと拝察します。ご本心では、かなり失望をされたとは思います。

 簡単なお返事になり、申し訳ありません。また、投稿します。

合掌 ありがとうございます

52トキ:2011/06/27(月) 09:35:39
>>50

 京都から立候補を考えられたというくだりですが、何故、京都から? と疑問に感じたので、
京都第一教区にいる古い誌友さんに電話をして、聞いてみました。

 その方の説明では、当時の関係者は既に全員が亡くなっているので、詳細は不明だ、との事です。
ただ、その方の話では、終戦直後の京都教区は、以下の理由で、谷口雅春先生は頼りにされていた、との事です。

*当時は日本の大都市の大半は、戦災で壊滅状態であり、大半の組織も活動停止に近い状態だった。が、京都には戦災がほとんどなく、
 生長の家の組織も温存されていた。

*当時の京都財界の指導者 石川芳次郎氏は、生長の家の熱心な指導者であり、石川氏の奥様の貞子先生は、京都教区の
 支部長だった。その他、京都の政財界に信徒や理解者が多数いた。

*戦争中も京都教区は活動を継続していたほど、しっかりした組織だった。

 その後、谷口雅春先生が公職追放を受けると、京都教化部は、西日本教化部として、西日本の生長の家の組織指導をした
事実があります。

 昔の事を調べると、いろいろと面白い事がわかると思います。もう少し、調べてみます。

合掌 ありがとうございます

53山ちゃん1952:2011/06/27(月) 12:15:39
トキ様
京都教化部が戦後間もない頃は西日本教化部としてGHQの関係もあり分けていました。
二三年の間だけだと思っています。その為に昭和50年頃にも京都教化部の地下倉庫に戦前の本が山積みされていました。

京都には『甘露の法雨』を最初に発行した経緯もあります。戦災に遭わなかったために組織がまだ
しっかりしていた部分もあったのでしょう。

私も一時期戦後の生長の家の歴史を調べたことがあります。主に大阪中心です。ただ船越縫次郎先生(立教当時からの信者)の
伝道はすこぶるわかりやすく面白かったですね。
船越先生はカバン職人です。地方に行ってそこで商売と伝道するのですが、長崎県がどうして南と北に分かれているのだと
いうと、当初の船越先生の真理の宣布の方法でそうなったと聞いています。
仕事の関係だけではすぐに帰阪できるのですが、それよりも生長の家を熱心に取り組まれておられ
数日間の地方滞在のほとんどが真理の宣布です。
そうした諸先輩のお陰で生長の家が発展していったのですね。
また吉田清吉先生にもお会いして昔の話を聞いたことがあります。昔はそうした
伝道の姿勢が今と違います。

昨日も昔の資料を見ていたのですが、やはりそうした資料を今は見せないのです。
組織として駄目ですね。歴史があってこその生長の家ですから…

54トキ:2011/06/27(月) 20:46:23
 東山半之助先生の「ざっくばらん」という本を読むと、当時の地方信者の心情がよくわかり、面白いです。

山ちゃん1952さんのご文章を拝見し、それを思い出しました。昔の神誌を読むと、地方道場の由来を書いていますが、
みなさん、本当に、手弁当で、独立独歩、教えを広めてこられたのです。大阪も阿倍野道場の由来が書いてあり、
信徒さんが、お金を出し合って運営された様子が生き生きと描かれていました。

 昔の人の話を聞くと、谷口雅春先生を含めて、人間味があるのです。今の組織みたいに、ハイアラーキーな組織では
なく、義理人情の通る世界でした。これが間違っているとは思いません。信徒が寄付をし、労力を提供する以上、信徒
にはそれを要求する権利があると思っています。

 大阪の話は、私も勉強になります。どんどん、お願いします。また、私も投稿をします。

合掌 ありがとうございます

55山ちゃん1952:2011/06/28(火) 09:18:28
トキ様
東山半之助先生の「ざっくばらん」という著書は持っていませんので、ぜひとも読みたいですね。

私は過去のそうした歴史を大切にする組織が発展すると信じています。それぞれその誌友さんが
そうした、地元の先生の事を信頼してそれにまとまって生きている姿が本来の生長の家でした。
私の地元に「片村四八先生」という大阪教化部長まで歴任された人がおられます。
大東亜戦争では陸軍の総司令官でインパ−ル作戦では総指揮を執られた立派な人です。

その人が自宅の離れ部屋を提供し、信徒達を呼び集め吹田道場を設立されました。
そうした人の無償の提供が組織が発展する土壌が築かれる。
そういう人は何人もおられ、現在の道場とかよばれるところはほとんどそうした
無償の寄付によりなりたっています。
吹田道場で育って本部講師にもなられた人もおられます。
昭和30年代は神童会も盛んで300人以上の人を集めて賑やかに行っていました。
私も神童会出身なんです。幼稚園の所を借りて行っていました。当時は薫英学園でも
という学校でも少なからず誌友会を行っていました。

そうした有志の人が多く集まったのも生長の家の特色です。

そこで組織がどうして発展したのか今の組織は分析する必要があると思います。
過去の断罪ばかりででは組織は成り立ちません。総括とともに生きた組織の運営
が必要です。

56トキ:2011/06/28(火) 11:13:51
 片村四八先生は、戦史に登場する有名な方ですね。興味は持っていました。
悪名高い牟田口廉也中将の後を受けて、インパール作戦で壊滅した日本軍の再建を指揮した人です。

 牟田口廉也中将は、独善的で、我が侭、無能な人物で、実行不可能な作戦計画を立てて沢山の兵隊
を殺し、作戦が失敗すると、部下の師団長に責任を転嫁して次々に解任した人物として知られています。
作戦が失敗しても、責任を取らなかった点も評判が悪いです。
(どこかに似たような人がいると思っては、いけません。)

 戦史では、牟田口廉也中将に解任されて入院中の山内師団長を見舞い、優しい言葉をかけてねぎらった
ので、山内師団長が感激のあまり泣き出した、という記述もあります。

 「ざっくばらん」の話では、奥様の病気がきっかけで入信をしたみたいです。

 昔の陸軍の将官の中にも、信徒さんは何人もいたみたいです。横山中将という方が、確か信徒さんで、
戦記雑誌に、その方の部下の回顧録が書いてありましたが、「最近の軍隊からヒューマニズムが消えてしま
ったのは、残念だ」と言われていたとあります。

 片村先生は、戦後の事はあまり知られていませんが、こういう事もしっかりと記録する必要があると思います。

合掌 ありがとうございます

57ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/29(水) 11:05:19

>山ちゃん1952さま
>トキさま

 いやー、信仰五歳児にとってはスゴイ話です。いやほんと、生長の家って
戦前、日本の「なにか」を支え続けていた気がしています。こういった歴史
は大切にすべきですよね。そしてそんな歴史は他宗と比較しても、偉大過ぎ
る物語が溢れているんじゃないでしょうか。わたしももっと、そんな話を聞
いてみたいです。

 余談になりますが、私の祖父も陸軍大尉でした。こんな話を読みますと、
まあ、「祖父の連隊長が生長の家の方だったら・・・」なんて思ってしまい
ます。もしも祖父上官が誌友の方であられれば、我が家にももっと早くに、
この御教えが入っていたでしょうから・・・まあ御教えなしで武功を上げ、
かつ生還した祖父もスゴイですけどね(笑)祖父は「敵前上陸二回+白襷隊
(決死隊)二回」の、尋常ではない猛者でありました(笑)戦史解説は非常
におもしろかったですけど、まあ、連隊長は誌友の方ではなかったのであり
ましょう(笑)我が家には雅春先生の本、一冊しかありませんでしたしね
(笑)

58山ちゃん1952:2011/06/29(水) 12:01:22
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様

もうすでに御存知だと思いますが、一度靖国神社の就遊館に行かれたよいと思います。
確か人造半皮『生命の實相』に日記が認められているのが展示されていると思います。

もし、展示されていなければ聞けばわかります。
そうした、戦前の日本の姿を垣間見ることも必要だと思います。

私は遅々として進まない『社会運動の状況』という昭和11年から昭和16年までの
内務省警保局(特高)の資料をコピ−しています。
生長の家の当時の状況が特高という地点から見れるので大変参考になります。
当時どのような運動をしていたのか、教勢はどうであったかという一部は細部まで
見れます。
人間の嫉妬のような文章もあり、生長の家の経験が少ない人には一部見せられない
資料であります。

戦後の『日の丸推進運動』を積極的に推進したのは「生長の家」なのです。
街頭で「日の丸行進」をしてアピ−ルしたのも今や懐かしい思い出しかありません。

トキ様

東山半之助先生は昔から有名な先生ですね。
北海道網走市編纂の資料には『生長の家本部講師東山半之助講演会』と題して
講演会を開催されています。そういうのが市史編纂に掲載されているのです。
昭和26年7月7日開催

「生長の家」本部でもそういう資料が少ないのも事実です。整理が出来ていなかったのでしょうね。
以前に書きました『谷口雅春著作集年譜』の編纂をしているのですが、未確認の
いろいろな資料があり、お蔵入りというのもあります。調べてもわからないのが実情です。

たぶんこの私の資料は「生長の家」の著作集では一番網羅していると思います。
また徐々に発表していきます。

昔は講演会場が少ないので「○○市立小学校」で講演会を行っていたのも
今では考えられない事ですね。

59ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/29(水) 12:52:05

>山ちゃん1952さま

 靖国神社の件ですが、当然ながら知りませんでした(笑)へえ、そんな資
料が展示してありましたか。次回上京の際には確認してみようと思います。
あの就遊館は上京の際、必ず行く場所です。私の大叔父(祖父の弟)が海軍
少佐でありまして、そしてサイパンで戦死したのですけど、遺影が飾られて
おりますもので。(非常に優秀な人であった模様です。双発爆撃機の設計に
も携わっていたらしいのですが・・・なんでも前線で一次情報収集中だった
とかで。)

 なんてことを述べながら、さてここからが本文なんですが、その貴殿がコピ
ー中と申されますその特高資料・・・も の す ご く 興 味 が あ 
り ま す(笑)いやーすごい方ですね、貴殿(笑)それはぜひ、(一部で
も構いませんが)公開願いたいものだと。そうです、生長の家の「明」の部
分も「暗」の部分も、包み隠さずに行って頂きたいものだと(笑)よろしく
お願い致します。

追伸

 トキさまへ提案なんですが・・・本年末の忘年会でもしませんか(笑)こ
こにおられる方々の都合を聞きまして、そしてどこかに一同会しようではあ
りませんか。
 やや気が早い話とは申せ、今から動けばなんとか、年末予定も空けられる
と思うのです。そして既に、もう6月末でもあります。もう高校野球予選が
開始されますと、体感速度的には「2ヶ月で年末が」くるような昨今(年な
んでしょうかw)・・・と云うことで、どうでしょうか。皆で一同結集する
機会を持とうではありませんか。
(それにしてもおもしろそうな方が、多すぎですここw)

60山ちゃん1952:2011/06/29(水) 13:42:26
先日の「生長の家本流掲示板」でのもみじ様の「谷口雅宣氏を撃つ」という表現を
指摘したのですが、「穿つ」に変更をお願い致しましたところ、早速訂正していた
だきました。なお、少し腹がお立ちだったのでしょう。
わたしの間違い記入も言われました。(笑)

あの時初めて携帯でスレッドの書き込みしたので、深層心理の真相心理という字にしてしまって
いたのです。間違って気が付いたときには送信した後。電車内ではどうすることも出来ません。
もみじ様はプライドが高いのでしょう。

ブログ「雅春先生に訊け」管理人様
いえいえ全くの勉強不足です。わからない事だらけで知ったかぶりをしているだけです。

恥ずかしいかぎりですよ。

皆様より少しだけ長く生長の家の活動を底辺でしていただけです。

本部とか教化部には現在では縁がありません。

『陵墓』や『怨霊』や『万葉集』『日本書紀』『古事記』『日本霊位記』
などに興味を示す。少し変わった人間です。

それ以外に最近は友達と旅行行ったり飲んだりして楽しんでいます。

趣味は読書にトレッキングにサイクリングです。

61山ちゃん1952:2011/06/29(水) 13:52:43
すいません。『日本霊異記』の間違いです。
この本は『行基』などの説話で深くしり、大変興味がありそういう場所は近畿では沢山ありますので
信仰するうえでも面白いです。
また『石田梅岩』なども江戸時代の初期の人ですが中期から後期にかけて日本全国に
その思想が広まり「規範」「しつけ」など日常における道徳観念を教えて人ですね。

辻説法で教えを広めて行かれたのです。

62トキ:2011/06/29(水) 16:24:46
山ちゃん1952さま

 当時の「内務省警保局」は、検閲などを担当していた部署ですね。「日本憲兵正史」という枕になりそうな
分厚い本によれば、当時の陸軍の憲兵も、内務省警保局に出向して検閲に当たっていたようです。思想運動全般を
扱っていましたから、おそらく、生長の家に関しても貴重な資料が山盛りでしょう。あと、戦後のGHQでも検閲を
しており、当時の生長の家の刊行物が、保存されているみたいです。何かのカタログで、大阪の青年会の機関誌が
出ていました。

 まあ、運動をしていると、正直、きれいごとばかりではないです。人間ですから、感情的にもなります。
こういうボランティア運動の場合、厚意で皆さん動いているので、一つ間違えると、深く傷つける事になります。
だいたい、どんな文章が予測はつきますね。

 生長の家の地方の教化部の歴史は、だいたい、パターンがあります。
本とか神誌で救われた人が、自発的に立ち上がり、連絡を取り合って、会合を始め、そこから、お金や労力、不動産
を提供して組織を作り、講演会を始めて、組織を大きくする、というものです。その中に、いろいろな人間のドラマ
がある訳で、義理人情もあれば、葛藤もあるのです。それを無視しては、間違うと感じますね。

 また、ご投稿をお待ちしております。

合掌 ありがとうございます

63トキ:2011/06/29(水) 16:40:39
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様

 そうですか。ブログ「雅春先生に訊け」管理人様も優秀ですが、ご親族も優秀な方が多いのですね。
サイパン島で亡くなられたのは、本当に惜しいです。余談ですが、サイパン島は、名古屋の師団が
守備についており、在留邦人の大半は沖縄県の出身の方だと聞いております。鹿児島県の方は、硫黄島
で多くなくなられたと聞いています。おじいさまは、本当に勇敢な方だと尊敬の念を感じます。さすが
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様のご親族です。

 個人的な事情で年末の予定が立てられない状態なのですが(すみません)、有志でお会いする事は素敵だと
思います。
 遠隔地の人などは、どうすれば良いか考える必要があり、また、組織にいる方の中には、顔と名前は内緒、
という人もいるので、そのあたりどうするか、など、宿題もあるので、皆様のご意見も募集したいです。
もちろん、参加したい人だけになるでしょう。「挨拶」板もありますから、ドンドン、ご意見をお願いします。

 では、今後ともよろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

64山ちゃん1952:2011/06/29(水) 17:44:36
トキ様
GHQの検閲に関しては「谷口雅春先生著作」で私の方でまとめて資料を出しました。

大阪の青年会の歴史については纏めたことがあり、その当時はまだ揺籃の時期で
あり「生長の家50年史」に掲載されていますが、主に戦前の図書に関しては検閲
作業はされています。だが、昭和23年?ぐらいの草創期なのでもしGHQに資料があるので
あれば、情報は多岐にわたっていたのでしょうね。

65トキ:2011/06/29(水) 21:24:50
>>64

 「プランゲ文庫」というものがあります。終戦後に検閲された資料がここに集められています。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/プランゲ文庫

 この資料の中に、大阪青年会の会報があるみたいです。業者がマイクロフィルムをコピーし、有料で頒布して
いた時期もあったみたいです。その中に、「生長の家大阪青年会の会報」という文字があったのを記憶しています。
 とにかく、量が異常に多いので、探すのが少し大変かもしれません。しかし、オリジナルの資料が残っているのは
ここぐらいでしょうね。

 大阪青年会の歴史をまとめられたとは、すごいですね。吉倉先生もご健在ですから、記憶しておくとし
たら、今ですね。

 余談ですが栗原得二先生は、その後、どうなったのでしょうか?(つまらない質問をして、すみません)

合掌 ありがとうございます

66トキ:2011/06/29(水) 21:26:38
「Wikipedia」より

プランゲ文庫(プランゲぶんこ)とはゴードン・ウィリアム・プランゲ博士(Gordon William Prange)によって占領下の日本で検閲された出版物が収集されたコレクションである。

米国メリーランド大学の歴史学教授に籍を置きつつ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の参謀第二部(GII)で戦史室長の任を勤めていたゴードン・ウィリアム・プランゲ博士によってGHQにより検閲された資料がメリーランド大学に移送された。当時、発禁となった刊行物も多数含まれており、占領下の日本の資料として他に類を見ないものである。
当時の時局を反映して紙質が悪く、更に空調設備のない書庫により資料が経年変化で劣化していることから、80年代よりマイクロフィルム化が進められてきた。早稲田大学の山本武利教授を代表とするプロジェクトチームは、2007年にデータベースを完成させ、現在はその修正作業を行っている。(占領期新聞・雑誌情報データベース)

(ご参考まで)

67ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/30(木) 08:57:12

 トキさんすみません・・・ブログコメント欄不調のため、こちらに掲載さ
せて頂きます。

>茉莉香さま

 返信が遅れてすみません。しかしながら驚いたことを一点。
 貴女が弊ブログに寄せられた「盲亀浮木」の故事でありますが、これ、ち
ょうど一週間前に知ったものでありました。貴女が投稿してくださらなけれ
ばあやうく失念するところでした。ありがとうございました。
 本当にこの故事は、含蓄に富んだものですよね。素晴らしい例え話だと思
います。また貴女さまと関心の所在が一致しておりまして、嬉しく思う次第
です。今後もよろしくお願いします。
 なおコメント不調の件ですが・・・管理人直接投稿以外はOKです(笑)
ですんでガンガンにお願いします。(返信はこちらになるやもw)笑える話
がありまして、先日貴女さまへ返信を書きましたらいきなり、投稿記事が乱
れまして、そして掲載していた写真がなぜか「藤原敏之先生」に代わってし
まい(爆笑)「もう、先生・・・そこまでファンを(貴女のこと)大切にな
さるのか」とツッコミを入れた次第でした(笑)

>商人さま

 上記のような次第でありまして、コメント返信遅れを深くお詫び致します。
さて最近、感動したお話など。
 栄える会に所属される方が、電話で教えてくださったことなんですけどね、
なんと神は、会社創業の際に(   )までも同時にお創りになられておられ
るとかで・・・で、この(    )内に入る言葉、お解かりになりますか?
 まあ多分、この話・・・たぶん私と貴殿しか「おおお!」と感動できぬと云
う、そんな話になりますけどね、ですんでこの答えですが、あきんどの方以外
はあまり期待されない方がよいのですが・・・やや余談を述べますと、なんせ
かのドラッカー先生ですが「どんな聖人君主でも天使でも、ひとたび彼がCE
Oの座についたその30秒後には・・・ 利 益 の こ と を考えざるを得
ない」なんておっしゃってます・・・まあ、こんな世界に生きている人しか感
動できぬ、そんな話になりますが。

 で、カッコ内の答えなんですが、これ、「顧客」らしいです。

 おお、神は会社創業の際、顧客までもお創り給うておられたか(!)いやー
バンザイ三唱でも足りないくらいのお話しですね。南京攻略時の熊本第六師団
なみの大音声で「バンザーイ」と叫びますかね(ちなみにわが祖父、六師団で
すたw)
 私はこの言葉で、だいぶ気持ちがラクになりましたよ。「事業に於ける有
効な定義は唯一つしかない。それは『顧客の創造』である」(ドラッカー)
なんて云われ、そしてあせりまくっております昨今ですが、雅春先生ならド
ラッカーさんに対し「・・・もうそれは、創造済みなのでありますよ」とお
答えになろうかと(笑)

 追伸

 でもまあドラッカー先生ですが、この人はやはり、天才だと思います。私
は同先生を「日本的経営を肯定している点」で評価します。非常に好きな人
なんですがね。ただ高校野球の女子マネには、経営よりも「男ゴコロを」学
んで欲しいですが。

68ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/30(木) 09:00:50

>トキさま
>山ちゃん1952さま

 有益なる御話をありがとうございます。なお以下は、生長の家「〝偉大な
る〟先輩談」の呼び水として、そして一方的ではありますが、「我が家の先
祖供養」を兼ねましての、そんなお話になります。お付き合い頂けますと幸
いです。

 我が祖父は、かの熊本第六師団――司馬遼太郎談「日本最強の師団」の基
幹連隊・都城二十三連隊におりました。支那事変では、杭州湾上陸戦に参加
しまして「演習の時のほうがたくさん死んだ」という(どんな演習だ、それ?!)
圧勝を以ってかの地へ上陸した模様です。支那軍は、この祖父所属連隊の数
字「23」を見るだけで潰走したらしいのですが、まああんな「祖父みたい
なイキモノが何万人も来れば、そりゃ逃げるわ」と同情する次第でもありま
す。その後この六師団ですが「鹵獲兵器20余万点」という、空前絶後の戦
史レコードを作っています。個人的には「当時の支那人に生まれなくてよか
った」と思えるほどの、そんなオソロシさです(笑)
 そして以下は、まああまり戦史に記録されていないことですが、祖父現場
談を述べますと、「三菱は鬼畜である」と(笑)
 なぜといって蒋介石軍陣地を占領しますと、なんと多数の日本製兵器があ
ったとかで・・・ああこれ、あまり話すとヤバイんでしょうかね(笑)まあ
三菱ですが、敵方にも兵器を売っていたんですね(笑)ですんで就職活動の
時、祖父は私に「三菱に行ったら孫に非ず」と厳命してましたが(笑)

 その後の祖父ですが昭和16年開戦時に、比島リンガエン湾上陸戦に参加
します。あの小林よしのり氏『戦争論』にて、高村氏という方の戦場記録が
描かれておりますが、あの上陸地点で照明弾を上げたのは・・・なんと、我
が祖父の小隊でありました(笑)
「上陸前日、なーぜーかーオレの部隊だけ、食事に『梅干』がついていた。」
「他は米だけだった」「だから『あっ、明日は命日だ』と思った」とかで(笑)
いやー、ヒューマニズム欠如の日本陸軍ですが、まあ、照明弾を上げる部隊
に「梅干をサービスする」くらいの配慮は、あったんですね(笑)
 ・・・「梅干を食べたから」かどうかは知りませんが、まあ予想どおり祖
父小隊は「照明弾をあげよ」と命じられます。そして上陸した祖父は照明弾
を上げたのですが、その後「 重 機 関 銃 !!!ババババババババ!
!!」(口調、祖父のソレそのままw)の猛射を受けます。もうそれは「大
便をもらしたゾ」てな位の脅威であったらしく、さすがの祖父も「ここで死
ぬ」と思ったようです。しかし「ここで逃げたら先祖に申し訳ない」とのこ
とで、祖父、ここで部下に「前進撤退」を命じます(笑)いやー、この前進
撤退ですが、ヤンキー共は度肝を抜かれたらしく・・・なぜか祖父は生存し
ます。しかも部隊全員生還だったとかで(笑)島津家は関ヶ原でほとんど戦
死しましたが、祖父は強運でしたね・・・しかし迫ってくる、その帝国陸軍
中尉には、ウンコ(梅干入り)ついているだから、なにも逃げなくてよかっ
たのに、米軍(笑)
 
 ・・・その後コレヒドール要塞攻略戦に参加し、「マッカーサーを捕り逃がし
た!」(祖父談)が勝利しまして、そしてあの捕虜護送「バターン死の行進」
にも参加しております。『東洋の凱歌』という記録映像にバッチリ映ってい
るらしいんですが、どれだか判りません。

 その後祖父はマラリアに罹患し、野戦病院で母方祖父の上官(軍医)に出
会います。軍医だった母方祖父(野球の名手でもありました)とはここで縁
ができまして、そしてその後、肉体の私が誕生した次第です。まあ肉体の私
がここにいるのも、マッカーサー菩薩様のお導きと云えようかと(笑)

 祖父も11年前に亡くなりましたが、亡くなる前日の言葉は「マッカーサ
ーを捕り逃がした・・・」でしたが、いやー祖父にも御教えが入っていれば
・・・(中略)・・・まあ、まだまだオモシロイ話があるのですが、本日は
このあたりで。

69ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/30(木) 09:23:37
「我が家の先祖供養」を兼ねましての、そんなお話になります。

 ・・・なんて云いながら「ウンコもらした」はないですね(笑)ごめんなさい、
おじいさま(笑)

70ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/30(木) 09:28:49
追伸

 大切なことを云い忘れておりました。補足です。テーマは「愛国心」にな
ろうかと。
 愛国心とか申しますと、なんか祖父のような系統の、そんな武勇伝がメイ
ンになりがちです。でも私は、「これは少し違うぞ」とも思うのです。
 そんな気持ちを込めまして、先日こんなブログ記事をアップしました。こ
の「筑前の正助」ですけど、こんな一見地味な行為の積み重ね・・・これぞ
真の愛国者の姿ではなかろうかと。

●利己心を死に切る
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65562827.html

71山ちゃん1952:2011/06/30(木) 09:54:52
トキ様
名前は占領史のなかで聞いていましたが実際の資料は見ていませんでしたので
本当にありがとうございます。
ただ、会社ではこのブランゲ文庫は開封することが出来ません。
財団法人でその資料のコピ−等を行っているのですね。

当時の生長の家は進駐軍の所在地から近くあり、当時の上六(上本町六丁目)
付近で都ホテルが焼け残っていたと聞いています。たぶん目立ったのでしょうね。

吉倉先生は草創期の青年会のメンバ−です。御著書にはそうした当時のご様子も記入
していますが、詳しくは残っていないです。
さて、我らの大先輩である吉倉修三先生のお宅に訪問してみます。

72トキ:2011/06/30(木) 10:29:59
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様

 どうぞ、どうぞ、どんどんご利用下さい。

 ところで、昔の陸軍では、九州の部隊は強かったみたいです。東北の部隊は粘り強く、関西の部隊は計算をする、と読んだ事があります。

>>「演習の時のほうがたくさん死んだ」という(どんな演習だ、それ?!)

って、その通りですね。今なら、大問題になるでしょうね。w
 しかし、こういう貴重な英霊の犠牲の上に、今日の平和と繁栄があるのですから、私達は心からの感謝と尊敬の気持ちを護国の英霊の皆様に
表しなければいけないと思うのです。

 愛国心についても、ご教示の通りだと思います。
 昔は、よく戦争をしておりましたから、戦争で闘うのが愛国心である、という発想でも通用しましたが、これからは、もっと地道で目立たないが
コツコツとした行いをし、それを継続する事が、大切であると感じます。

 いつもすばらしいご投稿に感謝申し上げます。忘年会の件も、関心の有る方は、「挨拶」板へご投稿をお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

73トキ:2011/06/30(木) 10:42:35
山ちゃん1952様

 生長の家の歴史を調べる時に、どうしても部内の資料を集めるとうい発想をしますが、部外の
資料を見る発想は出て来なかったです。『社会運動の状況』は、左翼運動に歴史を調べる人には
常識なのですが、生長の家の運動が記録されていたとは思わなかったです。

 他には、古い「生長の家」誌(緑色の表紙)を読むと、各地方道場のいきさつが連載されていて、面白
かったです。こういうのも貴重な資料ですね。

 他には、信徒さんや講師さんが、自費出版で回顧録を出しているのを、古本屋でよく見受けます。
以前は見逃していたのですが、少しずつ、集めてみようかと思います。

合掌 ありがとうございます

74商人:2011/06/30(木) 12:37:13
我が尊敬するブログ「雅春先生に訊け」管理人さま
 今日もとてもすばらしいお話しありがとうございます!!
今日もまた幸せな気持ちになりました。
只今、藤原先生のご本を繰り返し繰り返しよんでおります。
とてもよいご本を紹介していただき感謝しております。

6月も今日でおしまいですね。7月もよい方へ善い方へ進めますようにがんばります。
我が尊敬する管理人さんのブログとてもためになります。 ありがとうございます。
いろいろ教えていただけるすばらしい!私の先生です。

トキさん 
ここの掲示板もすばらしい内容ばかりですね。
どんどん増えていきますね、過去の記事が埋没するのがもったいないくらいですね。
 
すばらしいですね トキさん

75トキ:2011/06/30(木) 12:44:50
商人様

 過分のお褒めのお言葉、恐縮いたします。商人様を始め、すばらしい投稿者ばかりですから、素晴らしい掲示板になったのです。
本当に感謝申し上げます。藤原先生も、きっとお慶びでしょう。ご存命中に会う機会がなくても、藤原先生は、きっと皆様のそばに
おられます。目は鋭かったですが、暖かい先生でしたから。

 では、今後ともよろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

76ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/06/30(木) 17:32:49
>商人さま

 最近流行っている言葉があるようですね。それは幻冬舎社長の見城さんの
言葉らしく、サイバーエージェントの藤田社長経由で広まっている言葉らしい
のですけど、その言葉とは、

憂鬱でないのは仕事じゃない

 なんて言葉らしいのですwこの言葉、確かに迫力ありますし、「流行るのも
頷ける」次第ですし、たくさんのビジネスマンが「感動しました」と意志表明
するのも分かります。けど・・・
 我々は良かったですよねwなんせ我々にある言葉は「憂鬱でないのは仕事じゃない」
なんて言葉ではなく、「自壊作用」「向こう倍力」なんて(強力な)言葉です。
「ああ早く、皆に雅春先生の御教えを届けてやりたい」なんて思う次第です。

77山ちゃん1952:2011/06/30(木) 19:35:58
トキ様
栗原得二先生は『人間性の解剖』昭和24年二月一日発行の場合、著作として出版されておられます。
後ほどに編者として名前が出てきます。
はたして、どういうことか今では分からないが、三通り考えられる。
まず、谷口雅春先生が執筆追放のため著作を栗原得二様にて出版なされたのか?十分にありえます。
もう一つは栗原得二先生がそのまま編集のみ行っておられたのか?
次に栗原先生の文章を谷口雅春先生が校閲されたかです。今ではわかりません。

さて質問にあった栗原得二先生ですが、大阪に住まわれたのか知りません。

ひょっとすると、栗原保介先生ではありませんか?

昭和11年頃には東京下落合の相愛会の責任者です。
その後大阪の豊中に移られ、萬成書房の出版責任者として活躍されます。
その当時は本部講師役職です。
昭和30年代にはその名前は消えていきます。
以前に大先輩に聞いたのですが、控えていなかった為、忘れています。

78義春:2011/06/30(木) 19:47:59
♪またも負けたか第8連隊
…っと大阪から、こんばんわ。
上記の節は婆ちゃんから習いました。

先祖供養がてらに私が聞き及ぶ話を一寸書いてみますか。

私の家は代々、海軍の一家で何代か前の先祖は海軍大将となった様です。今も母方の本家に海軍大将の正服があります。

私が昔語りするのは曾祖父の事です。

何から話すか悩みますが戦前の大事なところを観た人なので長文ご容赦下さい。

曾祖父は(恐らく明治末期から)大正時代及び昭和初期に海軍に属してました。呉の海軍兵学校卒業後に世界一周に出るのですが、アメリカには寄港しなかった…との事。大東亜戦争開戦よりだいぶ前だった筈ですが…アメリカにはオレンジ計画があったので、お互い仮想敵国として観ていたのかもしれません。

帰国した後、閑院宮の侍従武官として宮中にも出入りし、大正天皇様の俗に言う『丸眼鏡事件』も現場で観ていたそうです。

大正天皇様の資質が問われる事件だったので、私自身、衝撃を受けたものです。(※私は大正天皇様の漢詩に飛行機を詠みあげる作品とか好きなんで)

…で、此処からは私には血の繋がりを感じさせる話なんですが・・・曾祖父…或る時、閑院宮様を連れ出して呑み歩いたそうですw

ひいじいちゃん、あんた、何してるんですか!?(汗)な話ですが…本当の話なんで質が悪いw

で、宮さん、お土産に饅頭買っていって宮家の人に『これは預からせて頂きます』と言われて没収された…らしい…ホント、何やってるんですかw

ちなみに、どっちが金を出したかは知りませんw

(続きます)

79山ちゃん1952:2011/06/30(木) 19:49:45
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様
私も大阪出身ですから陸軍のことは父から聞いています。
『またも負けたか八連隊 それでは勲章九連隊」
(京都の歩兵第9連隊 「くれんたい=もらえませんよ」のもじり)」

大阪の陸軍は弱いという定説が広まりましたが、実際は違うようですよ。
それは「西南の役」にその噂が始まったとされます。『近世日本国民史』徳富蘇峰がその
一躍を買ったといえます。

だが、噂というのは今も確証なしに語られています。

80義春:2011/06/30(木) 20:09:11
それで海軍の教官等をし軍歴の最後は戦艦武蔵に乗って終わったそうです。
退役の際に昭和天皇様に拝謁し銀杯を頂いたそうです。これも戦火を逃れて母方の本家に残されています。

これから話すのは歴史の闇になる事ですが、曾祖父の娘である祖母から聴いた通りに書きます。

廬溝橋事件というものが支那の国民政府と起こりましたが、その時、現場にいた兵士が祖母の担任にいました。

それで授業中にこういったそうです。

『あの事件は日本側から発砲した』

と・・・勿論、政府や軍部の発表とは全く違います。

戦前に於いて、これは非常にヤバかったのは言うまでもありません。

それだから(その頃、都島で地主をやっていた事から町内会長をしていた)曾祖父は担任や校長に口止めし担任が憲兵に捕まらない様に世話をしたそうです。

それで・・・大東亜戦争の開戦。
曾祖父は『この戦は負ける。だが、これは戦わねばならぬ戦である。』と言ったそうです。若い時に世界を観てきた曾祖父は全てを悟っていたのかもしれません。圧倒的な工業力・国力の差、白人支配の世界の恐ろしさ…その全てを…。

で、戦中の大阪大空襲…。
祖母が今でも言ってる事ですが…
『絶対に米軍のパイロットは私達が見えてたよ。だって私、米軍のパイロットを見たよ。あいつらは私らが逃げられないように淀川に焼夷弾を落として焼いて逃げられんようにしよった。』

『おばあちゃんの一番仲の良かった子も撃たれてね、死んだ。夜になると蛆が死体を喰ってる音がしたよ。だから、今でも鬼畜米英と思うよ。』


…焼け野原になった都島ですが曾祖父は進んで朝鮮人の世話をしたそうです。大半は世話をしても知らん顔でしたが、時折、恩を返しにくる人がいて喜んだとの事です。

81義春:2011/06/30(木) 20:27:11
…曾祖父の最期ですが…私は曾祖父の逸話の中で一番感動し、又、その曾祖父を誇りとする話です。

曾祖父も私と同じ様に直腸癌で死にました。まだ昭和30年代。

私も身を以て知っているのですが末期になると手をつけれない痛みに苦しみ、人格すら崩壊する激烈で凄惨な痛みに襲われるのですが、曾祖父は一言も『痛い』とは言わなかった…それどころか人格を保つ為にモルヒネすら使わなかった…そして看護婦さんに凄く気を遣っていた…と。

病状を知ると…ただ、『●●君に頼む。』と知り合いで小さな頃から世話をした医師の名を挙げ、淡々としていた…と。

私は、身体は癌に侵されても、心や魂までは病に負けず、己の生き方を通した曾祖父を誇りに思う。

だから、人工肛門を観た(曾祖父の娘である)祖母が『お父さんも苦しんだ人工肛門がお前にまで・・・』と涙にくれたのを観ても、曾祖父が守ってくれてる様な気がして、逆に嬉しくなった…母方の一族が苦しんだ大腸の病、我が代で必ず、勝ってみせる、そして黄泉でまみえた時に胸を張って会いに行こう…と。

その曾祖父も黄泉から私を助けてくれている様で、前回の闘病後に買った家の引っ越しの折り、祖母の心に『水回りの道具持っていかんでどうする!』と叱ってきた…そうです。俄に信じられないけど、買った家も有り得ないくらいのタイミングで手に入ったりで、先祖達の助けがあるのだと思わざるを得ない。

…そんな、とある一族の歴史でした。

82義春:2011/06/30(木) 20:33:17
>>79
山ちゃん1956さま
そうなんですよね〜結構強かったりするんですけど、都市部出身者は弱兵だというイメージが強かったみたいですね。

そういえば、私が異常に歴史に詳しいのを以てド阿呆な事を書いていた輩がいましたが…一言言うなら『こっちは先祖達の想いが詰まってるんだよ!そんなそこらの奴と一緒にするな!あんたらはどれだけ先祖達と共に生きたかった分かるか?どれだけ先祖達の想いを後世に遺したいか分かるか?』とだけは言いたいかな。

84トキ:2011/06/30(木) 21:20:59
>>77

山ちゃん1952さま

 栗原先生で勘違いをしておりました。申し訳ありませんでした。
栗原保介先生と栗原得二先生を混同しておりました。

 私が、古い信徒さんから聞いているのは、以下の通りです。

 大阪の栗原先生は、青年の育成に努力をされ、大阪の青年会を大いに発展させました。
が、その後、野心を起こされ、独立して別派を立てられました。そのときは、生長の家の青年を
大勢、引き抜いたと言われています。谷口雅春先生は、たいへん悲しまれました。その時に
生長の家に残った数少ない幹部が、吉倉先生という事です。

 戦前からの本部講師経験もある方から聞いた話では、当時の本部講師は薄給で、栗原先生はお子様
が多数おられたので、生活のために、やむを得なかったのではないか、と話をされていました。

 ただ、独立後は、噂をきかないので、どうなったのかなあ、と思っています。

 一般論として、別派を立てた人は、長く続かないみたいです。幸福の科学の善川さんと、白光の五井さん
ぐらいしか、続いた人はいないみたいです。

合掌 ありがとうございます

85トキ:2011/06/30(木) 21:24:13
 義春様の先祖はすごいです。きっと、指導霊として、正しく導いていますよ。

>>大正天皇様の俗に言う『丸眼鏡事件』

 すごい現場におられたみたいですね。やはり、素晴らしいご先祖様がおられるから、義春様も素晴らしいと
思います。これからも、期待しております。頑張って下さい。

合掌 ありがとうございます

86義春:2011/06/30(木) 21:41:31
>>85
トキさま
絶対にそうだと思います。

曾祖父も和籍・漢籍に詳しかったのですが、私も小学生時代から普通に読んでました。何か趣味とか色々なエピソードが似てるんですよね…で、困った事に俗に守護霊の1.5割増くらい強烈に影響されるというので、この困った性格も曾祖父の影響なんだと思います(笑)

まっ、嬉しいンですけどね(笑)

ちなみに生長の家は現象的には父方から受け継いだのですが、曾祖父の嫁さんの曾祖母も戦前、未だ初期の頃に生長の家を信仰していたみたいです。

でも曾祖父が『軍人の嫁たる者が宗教信じるなんて赦されん』という事で止めたらしいです。

その曾祖母は私が3歳の時に亡くなりました。(あぁ雅春先生と同じ年に逝ったのかな?)

曾祖母に母方の一族は男子が居なくて大変可愛がられたとの事なので、たぶん、霊的には母方の方から伝わったのだと思います。

何故かと言うと、何故か生長の家に関しては色々口では言い表せないのですが上手くいかなかった…だけど、国の事を学び始めてから自然と上手くいく様になった…それだから、黄泉に於いて、曾祖母が曾祖父を説得なされたのと、曾祖父は私の根性がマシになったのを御覧になられ私の信仰を許されたのだと想うのです。

だから、信仰は四代目にして活動は初代という滅茶苦茶な感じになってしまいました。

87山ちゃん1952:2011/06/30(木) 21:43:43
トキ様
そうですね。たしか別派を立てられて出て行かれましたね。

青年会の一部を引き連れてです。

栗原保介先生は『白鳩』誌の創刊号に掲載されていますから有名です。

だが急遽に本部講師になると駄目ですね。勉強はしていないし、理屈のみで対処
するからいけません。やはり伝道や家庭訪問を通して育った人は筋があります。

それと歴史観と国家観が熟成していないと無理でしょう。

88山ちゃん1952:2011/07/01(金) 10:37:55
義春様
大東亜戦争の勃発時の国民の状況というのは凄まじいものを感じます。
当時の新聞や雑誌等は非常事態を煽り、国民は疲弊していたのにも拘らず
それを推進していた部分もあります。
また、食糧難や物資の配給等戦前でもありました。しかし、戦争は駄目だとは
簡単に言えます。だが当時の状況下で果たしてそういうことが言えるかどうかは
が難しい所であります。
国民は騙されていたということも簡単に言えます。だが、国際的にもそうした国
が多かったのも事実であります。

私も近世の歴史をあらゆる部分で見た時に「15年戦争」とかいう大学教授はいますが
決して歴史というのはそういうスパンではみれない。

たとえば、明治時代の「岩倉使節団」からの日本の脅威の発展は江戸時代の優れた技術
というのがあればこそなんです。
それを無視して日露戦争や日清戦争は語れないのです。それこそ江戸時代は未開の
地であった日本が何の技術もなく、たとえイギリスやドイツの技術者を呼んでも
そこまで到達するかは疑問であります。
そこには”文字書き”が出来る要素があり、語学を学べる要素があったからなのです。

「逝きし世の面影」は渡辺京二著の大著であります。江戸時代の後期の日本人の人物像
を探るには欠かせない書物であります。
また「江戸という幻影」という書物も見ごたえがあり、いかに日本人が生きたか
また現在とあまり変わらない生活にびっくりされると思います。


また、大阪では町人の町ですが、だからと言って武士の人数はどうだったのかしっかり
判別できていません。だが武士と商人との格差というのを感じなかったというのが
判明している所です。

戦後66年、どれだけのことを私を含め知っているのでしょう?
自虐的史観だけでは到底歴史はわかりません。
今は「生長の家」からそうした専門的な分野で博識な人は
いません。

まだ、私が青年会時代は歴史に詳しい人は何人もいました。勿論
憲法についても同じです。
運動もやりながら必死に勉強していた人ばかりです。
千葉県教化部長を歴任された安東先生は博識であり勉強家でありました。
家には蔵書といわれるものが30数年前でも2万冊はあるといわれていました。
森田先生もそうですね。一度聞いたことがありますが「数えたことが無い」と言われましたが
大宰府では家に書斎を作られています。

私も天皇陛下の関連書物は1000冊は超えます。憲法や歴史や大東亜戦争
そして生長の家の本と1万冊は軽く超えます。だがいつも勉強不足を痛感
致します。
とりとめのない話になりましたが、歴史をある一点だけで見ないことが大切
です。

89トキ:2011/07/01(金) 10:46:14
>>86

 昔の軍人さんの中には、生長の家とか信仰を毛嫌いした人がいたみたいです。
硫黄島守備隊関係者の回顧録に、部隊長が「生命の実相」に感激し部下に配布しようとしたら、
副官が反対して止めさせた、という話が書いてありました。

 でも、霊界で、ご先祖様も、きっと真理を勉強されています。
義春様のご活躍も、ご先祖の導きによるものでしょう。

 今後とも、宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

90トキ:2011/07/01(金) 11:23:08
>>87

山ちゃん1952様

 生長の家の講師で、たまに分派をされる人がいますね。
谷口雅春先生は、秘密主義ではなく、何でもオープンにしますから、
やる気の有る弟子だとすぐに上の方に行けます。
 特に、ある種の霊感がついてきた人は、独立をされたり、ある種、
勝手な振る舞いをする人が多いです。しかし、そういう人が続くのは
あまりないみたいです。栗原先生は、どうだったのでしょうか。

 幸福の科学の善川三郎さんとか、白光の五井昌久さんなどは例外的に
続いています。生長の家から信徒を引き抜いて独立する人もいます。

 生長の家の幹部や講師の中には、夜郎自大になり尊大な人がたまに
います。救済力はあるのですが、危ないな、と感じるときがあります。
谷口雅宣先生の尊大な態度も、こういう教団の風潮と関係がないとは
言えないと感じます。

 あと、榎本先生が、晩年、回顧録を書いておられて、信頼の出来る人
だけに配布してた、という噂を聞いた事があります。自分の気持ちを理解
してくれる人だけに渡していたみたいです。

 とりとめもない感想を書いて、すみません。
また、ご教示のほど、お願いします。

合掌 ありがとうございます

91義春:2011/07/01(金) 11:37:28
>>88
山ちゃん1952さま

先ず、お名前間違ってしまっていた事、お詫び申し上げます。(何となくですが、書き込みを拝読しながら私、山ちゃん1952さまを存じ上げてる様に感じました。)

勿論、歴史は川の流れみたいに途絶える事がなく、又、色々な立場により色々な見方がある・・・そう感じ、理解してます。
(自虐史観はその流れを絶ち、断絶的に観るから断絶史観と自分では思ってます)

細かいところになりますが・・例えば、江戸時代の手拭いのデザイン等は今と何ら遜色がないというより…むしろ斬新さがあり観る度にはっとさせられたり、大坂では今と同じ様に先物取引が開始されたり…又、曾祖父の生きた大正時代の東京を調べると大変華やかで洗練された都市だなぁ…と感じます。

確かに、道はアスファルトではなく良くて(『盲目のアッピウス』以来のローマ時代から使われていた)石畳ですが、それすらアスファルトにはない味すらあるなぁ…と感じました。

正直、今の大阪の青年会には・・・最早、歴史に詳しい方は殆ど…数人くらいしかいらっしゃらなくなりました…ね…尊敬する先輩方も次々に卒業なされました・・・ですが、今ほど勉強したいとって想える時はないです。(※曾祖父の話に出てきた廬溝橋事件等は私自身は資料を漁ってると八路軍の工作によるものしか思えないから、何でそんな発言が出てきたか…と少しずつ調べてます。そもそも教員に復職出来たのか?とか色々疑問点があるので…。)

森田先生のいらっしゃった頃にもう少し勉強しとけば良かった…と思いっきり反省してます。

重ね重ねのご教示、真に有り難うございます!

92義春:2011/07/01(金) 11:46:04
>>90
トキさま
大川隆法の『谷口雅春の霊言』は善川三郎の著作みたいですね。善川自身は生長の家の組織を手本にしたかった…と聴いてます。(ちなみに能力的には大川の兄、富山(故人)の方が高かったらしい)

で、此処だけの話、アレの元は幹部限定の講話資料を本部より…したという事だと聞き及んでいます。

そういえば・・・雅宣総裁に苛められ辞めた人が幸福の科学に入り、幹部となり、この前の衆院選で幸福実現党の幹部になってました…。

93ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/07/01(金) 11:50:53
>山ちゃん1952さま
>義春さん

<「またも負けたか八連隊」の件>

>大阪の陸軍は弱いという定説が広まりましたが、実際は違うようですよ。

 同意です。「大阪朝鮮高ラグビー部」を例に出すまでもなく、あの大阪人
が、ヘタレなわけがない(笑)
 以下は祖父談を元にした類推なんですけど、まあ、かの帝国陸軍ですが・
・・都市部の連隊の扱いには「非常に困っていた」様子ではありますね。ど
う困っていたかと申せば(祖父曰く)「戦死者出ると、大量の未亡人が出る
だろ?」「都市部未亡人は、身を寄せるところがないだろう?」てなお話し
でありました。日露戦後の日比谷焼き討ち事件に見られるが如く、まあ、都
市部連隊で戦死者が大量発生しますと、政情不安を喚起するとかで・・・

 で、そこで登場するのが九州ですよ(笑)ここの連隊は非常に〝便利〟で
す。いくら死のうが政情不安になりません(笑)むしろ「○○さあんとこ死
んだ?」「ああ、名誉なこって、かっこよかー!」てな連中がゴロゴロおり
ますし、家計も長男が死のうが「次男三男・・・八男」まで、豊富に取り揃
えております。さらに戦争未亡人を支える共同体まで、完備されているとい
う(笑)ですんでまあ、九州連隊、「強かった」のは確かでしょうけど、
「運用されやすかった」ゆえの、そんな強さだったのではなかろうかと。
「他と比較して実戦経験が尋常ではなかった」なんてところが、要因なので
はないでしょうかね(笑)

追伸

「戦争未亡人が 大 阪 で 大量発生したら」なんてイフ話・・・おそろ
しくで想像できません(笑)おそらく日比谷焼打事件を、軽く超える規模の
暴動に・・・(中略)・・・ゆえに「またも負けたか八連隊」ですが、誰か
が、仕掛けた話なのかもしれませんよね。「またも負けたか八連隊」である
限りは、まあ、「大阪連隊の投入・・・今回は見送りましょう」てな空気を、
会議席上で醸成しやすかったでしょうからね。

余談・・・

 書きながら思い出した、祖父戦場談などを。なにかの小ネタにお使いくだ
さい(笑)
 この、連隊に於ける〝強さ〟の定義なんですが・・・日本陸軍には特殊事
情があった模様です。その特殊事情のキーワードは〝武器の故障〟であり、
連隊の強さとは「故障修理のうまい兵隊が、どれだけいるか」なんて部分が、
大きかったとか(笑)
 これ、山本七平さんも述べておられましたけど、「射撃の名手とは、修理
の名手なのだ」というのが実情だったようで・・・要するに日本陸軍、「武
器の故障に悩まされたつづけた」のが実態のようです。そんな視点を入れれ
ば田舎連隊、強かったでしょうね。都市部よりは九州連隊、手先の器用な兵
隊がワンサカいたでしょうし、そしてそれゆえの「九州連隊最強」神話、な
のかもしれませんね。

 ところで我が祖父、「三菱が兵器に〝菊の御紋〟を入れるから、現場から
苦情が言えなかったのだ」なんていう、ミモフタモ無いストレートを投げて
ましたが(笑)「あの〝菊の御紋〟は、メーカーのクレーム回避術だったの
か!」と気づいた次第です(笑)陛下からタマワッタなんていうことにしと
けば、これ、現場はクレームつけられませんもんね(笑)ですんで祖父は、
戦後も日本製、あまり信用してませんでしたね。「余程怖い思いをしたんだ
ろ(日本製品で)」てな私見を持っている次第です。

>義春さん

 あんたの祖先、おもしろい(笑)あとでツッコミます(笑)

94義春:2011/07/01(金) 12:08:47
>>93
ブログ「雅春先生に訊け」管理人さま
うちのひいじいちゃん、オカシイ過ぎるw
何で皇族連れて呑み歩くんだ…と色々、あの世に逝ったらツッコミたいw今から死ぬのが愉しみになってきましたw(ヲイ

ちなみに、実際に聴いた私はその場で茶噴きましたw

ってか閑院宮…たぁ〜ぶん年齢や行状からすると最後の閑院宮だと想いますけど、閑院宮って軍籍は陸軍なんですよね・・・で、曾祖父は海軍。侍従武官になれんかと思ったりしますwもしかすると閑院宮が軍籍に入る前かもしれませんけどw

(戦艦武蔵は戦前の物みたい、戦艦も代替わり(?)していたみたい)

大阪で未亡人大量発生したら大阪城の駐屯地がエライ事になってたと確信しますよ、考えたらだけで恐ろしい。
(・・・そういえば、薩摩出身の父方の婆ちゃんの弟、海軍で戦死なさってました。)

95ブログ「雅春先生に訊け」管理人:2011/07/01(金) 12:15:52
>義春さん

 へえ、戦艦武蔵って戦前にもあったの?知らなかったよ(笑)
しかし宮様と交流なんてすごいわ(笑)

 うちの祖父は近衛連隊、受験してオチたらしいんだけど、あとで他の方に
聞いたら「近衛は美男子でないと」とのオチがあり(笑)でも孫のオレ
はなんで、福山雅治ソックリなんだろう・・・(中略)・・・

96義春:2011/07/01(金) 12:39:51
>>95
ブログ「雅春先生に訊け」管理人さま
何処かは知らんけど母方の一族、たぶん、(曾祖父の)植田家ではなく、曾祖父の嫁さんの方が華族の出だったみたいで、こうなったみたいです。

まぁ…こっちが驚きですわなw
ホント、何やらかしてんの!?と冷や汗流れます。

戦艦武蔵は私も嘘だろーと思ってましたよ。そうしたら友人から『これの事か?』と写真送られてきました。巡洋艦みたいな武蔵でしたよ。

そういえば、友達に憲仁親王殿下とお付き合いがあるんですが、靖国神社について某国には触れず『(賊軍として)西南戦争や戊辰戦争で亡くなられた方々も祭らないといけない』と仰っていたそうです。

なるほどと納得しました。
西郷さんも祭られる日がくる事を祈ってます。

97義春:2011/07/01(金) 12:53:34
…やっぱり気になったから調べてみたけど、やっぱり武蔵はレイテ沖海戦に沈んだものしかないんだよなぁ・・・ひいじいさんは昭和30年代前半に64歳で亡くなってるから、1942年の着水に軍籍があった…と言えば疑問なんですが・・・まぁ…あの世逝ってから聴いてみますか…この辺り、知りたくて仕方ないのですが、婆ちゃん呆けて聴けないのが痛いです。

98トキ:2011/07/01(金) 14:47:28
>>97

 日本海軍では、軍艦の名前は襲名して使用しておりました。

 有名な戦艦大和や戦艦武蔵も2代目で、初代は明治時代に建造されましたと
読んだ事があります。初代が除籍後に、2代目が誕生した訳です。

合掌 ありがとうございます

99義春:2011/07/01(金) 21:47:50
>>98
トキさま
レスを乗っ取ってしまって申し訳ありません。それから御教示有り難うございます!
じゃあ、曾祖父の話は本当だったみたいですね・・・嬉しかったです!本当に有り難うございます!

100トキ:2011/07/04(月) 21:21:59
トキです。「生長の家」誌の昭和42年11月号の「明窓浄机」に興味深い記事がありましたので、
ご紹介申し上げます。

 藤田組という建築会社が、那須高原の百万坪を整地して都市づくりを始めるので、そのうち二千坪
を谷口雅春先生に寄付をしたい、との申し出が、藤田組の副社長からあったそうです。谷口雅春先生
は、

「忙しい生活を送っているから、別荘を作って避暑にでかけるほどの贅沢ができる身分ではない
けど、かねがね日本の若い人達に日本精神を少年時代から養って、将来、日本の国の柱となる人物を
養成するために高等学校を建設したい思っていたので」

 その場所を別荘ではなく、学校建設をしたいとお考えになり、その調査を本部の教育局に命じられた
そうです。が、調査の結果、別荘には良い場所だが、傾斜がきつく学校用地としては不適当である事
や、避暑には良いが、冬は摂氏マイナス20度にもなる事から、冬期の生活が大変だ、という理由で
計画を断念し、土地もそのまま藤田組に返却をしたそうです。

 藤田組の副社長は、「先生は欲がないなあ。やっぱり神様だ。」と驚いたみたいです。


合掌 ありがとうございます


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