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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
80
:
義春
:2011/06/30(木) 20:09:11
それで海軍の教官等をし軍歴の最後は戦艦武蔵に乗って終わったそうです。
退役の際に昭和天皇様に拝謁し銀杯を頂いたそうです。これも戦火を逃れて母方の本家に残されています。
これから話すのは歴史の闇になる事ですが、曾祖父の娘である祖母から聴いた通りに書きます。
廬溝橋事件というものが支那の国民政府と起こりましたが、その時、現場にいた兵士が祖母の担任にいました。
それで授業中にこういったそうです。
『あの事件は日本側から発砲した』
と・・・勿論、政府や軍部の発表とは全く違います。
戦前に於いて、これは非常にヤバかったのは言うまでもありません。
それだから(その頃、都島で地主をやっていた事から町内会長をしていた)曾祖父は担任や校長に口止めし担任が憲兵に捕まらない様に世話をしたそうです。
それで・・・大東亜戦争の開戦。
曾祖父は『この戦は負ける。だが、これは戦わねばならぬ戦である。』と言ったそうです。若い時に世界を観てきた曾祖父は全てを悟っていたのかもしれません。圧倒的な工業力・国力の差、白人支配の世界の恐ろしさ…その全てを…。
で、戦中の大阪大空襲…。
祖母が今でも言ってる事ですが…
『絶対に米軍のパイロットは私達が見えてたよ。だって私、米軍のパイロットを見たよ。あいつらは私らが逃げられないように淀川に焼夷弾を落として焼いて逃げられんようにしよった。』
『おばあちゃんの一番仲の良かった子も撃たれてね、死んだ。夜になると蛆が死体を喰ってる音がしたよ。だから、今でも鬼畜米英と思うよ。』
…焼け野原になった都島ですが曾祖父は進んで朝鮮人の世話をしたそうです。大半は世話をしても知らん顔でしたが、時折、恩を返しにくる人がいて喜んだとの事です。
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