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生長の家政治連合と「今の教え」を考える
26
:
エンジェル
:2011/06/21(火) 22:22:02
トキさまが書かれた<政治活動停止の疑問点>についてのⅠ考察のために
実は私もこの事が本当はどうだったのか知りたくて(古今物語の掲示板でも話題になったことがあったので)
もしかしたらあの当事雅春先生の最もお側におられた貴康先生ならご存知かと思いうかがった事があります。
それまでは、清超先生が政治活動を嫌っておられてという噂もあったのですが、お話を聞いて驚きました。
私が、清超先生は政治活動がお嫌いだったのですかと貴康氏にお聞きすると
「好き嫌いの問題ではない、僕は玉置和郎の事務所で一年間丁稚奉公させられたんだよ、預けられたりは清超先生だよ笑、嫌いな世界に息子を預けはしないだろーよ」
「それでそのうちに玉置先生に見込まれちまって村上さんもいたんだけど俺の跡継ぎになってくれないかと誘われてね、僕も若かったから本気にしちゃって・・・」
「て゛もね、清超先生はおまえは生長の家を勉強して政治家ではなく政治家を使う立場の人間になれと言われたんだよ」
だからその後長崎の雅春先生の下に行かれたのだそうです。でもこの当事は選挙のたびに全国を応援に行き、特に村上さんの初当選の選挙では奥さんの臨月の日を超えて駆け回り、村上さんの当選確実が出た日にMさんは生まれたそうです。
さて、二回目の(一度雅春先生自身が活動停止を言われたことがあります)生政連の活動停止(凍結)になった時の話ですがここからは実際にお聞きしたことを
会話形式にして書きます(文責はエンジェル)
「あの日ね、清超先生から朝お電話があってね、あんたは政治活動にとても興味があったし誤解の無いように伝えておきたいことがあって・・・」
(実はこの当事、総本山の落慶大祭後、長崎に貴康先生の尽力で長崎『玉置会』が三菱関係を中心とした企業が参加して出来上がり、地方議員連盟も大いに拡大中で貴康さんも各地に応援に行かれていた等の背景があったようです)
清超先生「生長の家は自民党に結局利用されてしまったことは君も今度の法案の扱いや名簿順位の扱いで理解していると思う」
「信徒をこれ以上純粋な信仰活動よりも政治に関わらせて失望させるわけにいかない。ここは一時政治活動を凍結して純粋な信仰活動にもどり、
圧倒的な信徒の増大を図って出直さなければならないと考えたわけで、先ほど雅春先生にこの決断をお伝えして了解を戴いたところだからね理解して欲しい」
貴康氏 「活動の凍結とは信徒数が倍増した日には再び政治活動に参加するということですか」
清超先生「そう思ってもらってもよい、ただ自民党と今までのように協力するかはわからない」
貴康氏 「もし信徒さんを拡大できたら自分たちの政党を作る可能性もあるのですか」
清超先生「そういうこともあり得る、何しろこれからは政党に他の団体と天秤にかけられるようなことの無いように信仰的に熱烈に、
信徒数においても圧倒的な力を蓄えなければならないということだ」
貴康氏 「そういうことならば全く異論はありません。先生のおっしゃる通りです」
このようなお話があったそうで他の誰にもしばらくはお話にならなかったそうです。
このことから解るように、生政連は一活動が凍結されそれは、解散と云うことではなかったわけで
実際、経理上も生政連の会計と財産はその後何年も残っていたようです。
「この活動の凍結の決定はおそらく当事の理事会であったはずで、このころの理事会の書記は
森田征史さんだったろうから詳しくは聞いたらいいよ」とのことでした。
ちなみに、雅宣さんはとお聞きすると、あの当事は生長の家にはいなかったと思うよ、完全に解散になるころには
本部に入っていて当然大きく関わったとと思う。との事でした。
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