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ID再考 & 科学と疑似科学とを判別する
仕切り直します。
新しいスレッドも、基本的な課題設定から始めます。
能力には個人差が有ります。
これは如何ともし難いですね。
埋めようが無い差と言うものが存在します。
それを自覚出来ない、若しくは自覚するのを拒む人達も存在します。
結局彼らは終生真実に辿り着く事は有りません。
妄想を信じたまま終わる訳です。
それも自覚出来ないままにね。
>>260
>と、教わりたくない人に教える話に、脳内変換する。非専門家を参加させる話を、専門家を排除する話に、脳内変換する。最低限の思考力があるなら、改めてください。
先ほども書いたように、でしたら
>仮説検証・研究→発表→専門家集団による評価→当該研究の普及→その様な研究を踏まえた新たな研究、このサイクルから専門家を取り去る
とかみたいな書き方をしないで下さい。
自身の説明不良をこちらの解釈の未熟とみなすのは不愉快です。
あと初心だと教わるべきか否かの判断も難しいのですよ。
私がIDを教わりたくない人に教える行為と言う理由だけで批難しましたか?
それこそ脳内変換です。
>ほら、また言うことを変えた。
>>学びたいなら好きにすりゃ良いんです。(>>256 )
>と言ったでしょうが。そのとおり、学びたい人に教えるのだから、文句を言わないでください。
変えてませんよ。
私は一貫して正規の手順を守ろうね、としか言っていません。
学びたい人は好きにすれば良い。そうでない人に強制するには真っ当な手順を踏みましょうね。
それだけです。
>言っておきますが「しっかりした根拠」なんて、1人の仕事で作られるものではありません。多くの人の協同 と後継者へのリレーによるもので、それは「教える」という行為がなければ、成立しません。「しっかりした根拠」はその結果です。教えるのが先で、根拠の確立が後。地動説はそうしてケプラーの法則にいたり、光波動説は、そうしてヤングの実験に至ったのですよ。
そのために築き上げれた手法が例のサイクルです。
それを破壊する行為だから批判されるのです。
>大学教授であり続けるということは、継続的に論文を掲載させているのでは? 「専門家による評価検討」でダメだしされたら、そんなことにならんでしょうが。
掲載後も評価検討はされますよ。
あと論文掲載だけなら金だけ出せば載るところはいくらでもあります。
いわゆるハゲタカジャーナルですね。
掲載されるだけにそこまで価値はありませんよ。
>このサイクルから専門家を取り去る
>とかみたいな書き方をしないで下さい。
>>238 にて、
>仮説検証・研究→発表→評価→当該研究の普及→その様な研究を踏まえた新たな研究
と書いたではありませんか。あなたの文章を変え、「評価」の実行者を指定しない形にしたから、誰でも参加できる意味になってます。どう読めば、専門家を排除する意味になりますか。
>あと初心だと教わるべきか否かの判断も難しいのですよ。
余計なお世話です。何を学ぶかを決める権利は、当人にあります。子供なら親が決めます。公立校での教育なら、地域コミュニティが決めます。
これは個人の権利の問題だけではありません。自由こそが多様性を生み、次の進歩の芽が含まれる可能性が増大することは、広い合意があります。何が次の進歩を生むかを予測するのは非常に困難で、思いもかけない科学理論や技術が結果を出すことがある。地動説や光波動説が最も顕著な例ですが、同様の例は枚挙にいとまがありません。
そういう芽を摘み取ることの害悪に比べたら「リソースが割かれる」ことなど、問題にもなりません。そもそも、非主流の主張が、主流の主張に影響を与えるほどリソースを割くなんてことは起こりません。多くの支持とリソースを集めるからこそ、主流なのだから。
>学びたい人は好きにすれば良い。そうでない人に強制するには真っ当な手順を踏みましょうね。
ほら、結局そこに戻る。何がなんでも、私がID教育の「強制」を主張してることにしたいのですね。私の文章にそういう箇所があるなら、指摘してごらんなさい。
>そのために築き上げれた手法が例のサイクルです。
>それを破壊する行為だから批判されるのです。
そのサイクルを、専門家もそうでない人も、できるだけ多くの参加者でやるのがよい、と言っただけです。そして参加者を増やすには、教育を通して、対象の仮説が広く知られているのが有利とも言いました。これのどこが「破壊する行為」になりますか。
>論文掲載だけなら金だけ出せば載るところはいくらでもあります。
>いわゆるハゲタカジャーナルですね。
すると、あなたが「反日」と呼ぶ論文を掲載してるのは、例外なくハゲタカジャーナルですか? そんなところにしか載らない理論が、教育の場を支配したのですか?
公立校の理科の授業でインテリジェントデザイナー論を教えたら、国家による思想統制になっちゃいますね。
>余計なお世話です。何を学ぶかを決める権利は、当人にあります。子供なら親が決めます。公立校での教育なら、地域コミュニティが決めます。
>これは個人の権利の問題だけではありません。自由こそが多様性を生み、次の進歩の芽が含まれる可能性が増大することは、広い合意があります。何が次の進歩を生むかを予測するのは非常に困難で、思いもかけない科学理論や技術が結果を出すことがある。地動説や光波動説が最も顕著な例ですが、同様の例は枚挙にいとまがありません。
インテリジェントデザイナー論を科学理論として教えたいなら、まず、科学理論としての体裁を整えましょう。
「中生代の品種改良」が、どういう生物によってなされたのか、客観的な証拠を示すあたりからが順当かな。
>>273
>>仮説検証・研究→発表→評価→当該研究の普及→その様な研究を踏まえた新たな研究
>
>と書いたではありませんか。あなたの文章を変え、「評価」の実行者を指定しない形にしたから、誰でも参加できる意味になってます。どう読めば、専門家を排除する意味になりますか。
専門家なしでも問題ないとも捉えれますよ。
私は専門家は絶対的に必要だと言っています。非専門家が参加するか否か関係なく絶対的にです。
評価者に専門家を必ず入れるのがOKならこちらは文句はありませんよ。
>余計なお世話です。何を学ぶかを決める権利は、当人にあります。子供なら親が決めます。公立校での教育なら、地域コミュニティが決めます。
>これは個人の権利の問題だけではありません。自由こそが多様性を生み、次の進歩の芽が含まれる可能性が増大することは、広い合意があります。何が次の進歩を生むかを予測するのは非常に困難で、思いもかけない科学理論や技術が結果を出すことがある。地動説や光波動説が最も顕著な例ですが、同様の例は枚挙にいとまがありません。
それはもう科学ではありません。
反日教育と同じですね。
自由と無法を履き違えています。
>ほら、結局そこに戻る。何がなんでも、私がID教育の「強制」を主張してることにしたいのですね。私の文章にそういう箇所があるなら、指摘してごらんなさい。
根拠が薄い現状で根拠のある説と並べて教育することは強制以外の何ものでもありません。
普通そんなもんを公共教育にねじ込むのは力なくしてあり得ません。
強制しないなら、ねじ込まなければ良い。
常温核融合やら高温超伝導やら未科学と呼ばれる分野の研究者とか、そんなことせずコツコツと研究を続けてちゃんと発表とかもしています。
一部のIDはなぜそれをしないの?
なぜIDだけその異常な行動を良しとするの?
公共教育にねじ込まず常温核融合研究みたいになぜ地道に行こうとしないの?
そこが問題なんです。
私はIDだから文句を言っているんじゃ無いんです。何度も言っていますが私はむしろIDを肯定したい部類の人間です。
科学の手法をないがしろにしているから文句を言うんです。
真面目な肯定派においてその様な手法を認める派閥は否定派以上に邪魔な存在です。
>そのサイクルを、専門家もそうでない人も、できるだけ多くの参加者でやるのがよい、と言っただけです。そして参加者を増やすには、教育を通して、対象の仮説が広く知られているのが有利とも言いました。これのどこが「破壊する行為」になりますか。
色んな人が参加するのは大いに結構です。
問題は参加者を増やすとかの名目でサイクルを破壊する行為です。
具体的には公共教育に根拠も薄いのにねじ込むような、「専門家集団による評価」が不十分な状況で「当該研究の普及」をする行為です。
サイクルが明後日の方向に行くリスクが跳ね上がる行為です。
>すると、あなたが「反日」と呼ぶ論文を掲載してるのは、例外なくハゲタカジャーナルですか? そんなところにしか載らない理論が、教育の場を支配したのですか?
そりゃ例外はあるでしょうよ。
でもそもそも論文のあるなしは関係ない問題です。
反日教育なんてイデオロギーの問題です。上の人間の思想が支配した結果でルイセンコに似ています。
要するに科学じゃ無いんです。
議論を混乱させている最大の問題の一つは宗教の介入です。
ID論を攻撃する人たちはソレが宗教であると言うのが一つの論拠です。
ドーバー裁判の判事もベーエの主張を宗教に根差していると極め付けていますね。
ベーエが公式に宗教的な発言をした記録は残っていません。
この判事の判断は根拠のない予断に基づいています。
一般的にID論を攻撃する人たちの論法に乗っかっているだけで、この判事自身が思考し判断した形跡はありません。
実際宗教者からもID論は主張され、米国プロテスタント聖書原理主義者からも強く主張されていますが、彼らの採る若い地球説はID論と本質的に折り合う訳もありません。
自然神学の説く神の存在はそのままIDに繋がりますが、勿論それは人格神、啓示神ではありません。
ID論自体は宗教とは切り離して論じられるべきで、それが混同されるとID論の本質を見誤ることになります。
ID論が科学的でないと主張する人たちは自然選択論の検証を全く棚に上げて非難しますね。
自然選択論が科学である根拠を彼らは決して語れません。
そう勝手に思い込んでいるだけで、実際は何ら科学的な手法に則っていませんからね。
これは何度も述べてきた通りです。
それにも拘らず、ID論は宗教若しくは非科学で自然選択論は科学であると主張します。
何らその根拠を示せないにも拘らずです。
背理法によるIDの存在証明が理解出来ない、ロジックが分からない、それは自らの知性の低さを示すだけなんですがね。
繰り返し説明してきた通り、ID論は極めて簡明に証明されます。
それは自然観察に基づく合理的な結論です。
反証は不可能と言っていいでしょう。
そしてそれを否定する具体的な論拠は実体不明であるものを信じたくない、それ位しかありません。
それが論拠にならない理由も何度も説明してきましたね。
逆にあらゆる事象は設計者の存在を示唆します。
それを強いバイアスに依って素直に認めることを拒む人たちも多数存在します。
その様なバイアスは科学に反するものです。
それが理解出来ないのはつまり科学を理解していないという事です。
科学的証明とは、事実に依る証明です。
数学は科学とは呼ばれませんから、数学の場合はひたすらロジックと計算に依ります。
そこが科学と数学の違いです。
従って、科学においては事実の裏付けの無いものは証明されたとは言えません。
幾らレトリックを弄して、この様に考えれば説明できると言ってみたところで、それに照応する事実を示せなければ証明した事にはなりません。
全ての科学理論は事実による検証が不可欠です。
物理や化学においてはそれは言うまでもない事で、どの様な理論も必ず事実による検証に曝されます。
相対性理論や量子論ですら、未だに検証の対象でもあります。
それに対して科学を標榜しながら検証を放棄しているのが自然選択論です。
その支持者たちは、それが検証されていると言うトンデモナイ錯覚に陥っている。
若しくは最初から信じ込んで検証を放棄している訳です。
それは科学ではなくて宗教です。
>評価者に専門家を必ず入れるのがOKならこちらは文句はありませんよ。
必要なのは「専門家」の肩書ではない、と言っておきます。センメルウェイスに反対したのは当時の医学界の専門家でした。ソ連ではルイセンコ農法に多くの専門家が協力しました。「反日」思想を教える人も、世間では専門家の肩書がついてることでしょう。
重要なのは、完全自由競争の環境を確保することです。誰でも自由に参加し発言できるようにしたら、あとは内容の勝負になり、優れた人は結果をだします。逆に、それができないなら「専門家」の肩書に価値はありません。「専門家を必ず入れる」のではなく、誰でも入れるようにして、優れた見識をもつ本物の専門家が誰か、明らかになるのを待てばよいのです。
>それはもう科学ではありません。
>反日教育と同じですね。
>自由と無法を履き違えています。
自由を無法と言い換えるのは、他人の行動を制約する人の常套句ですね。誰もが自分の考えを表明し、他者の同じ権利を侵害しないなら、それは自由であって無法ではありません。
自由競争の中で選択圧力が働くなら、玉石混交でも多様な理論が現れることが、進歩につながります。100のうち99が駄目でも、1つがものになれば、進歩が生まれます。生物の突然変異の大半は有害でも、わずかに有益なものが混ざっていれば、種が進化するのと同じなのです。
歴史の中の、そういう例に、私は地動説と波動説を挙げました。私の主張を否定なさるのなら、最低でも>>213 で語ったことに具体論で反駁されるべきです。16世紀の地動説と、18世紀の光波動説と、現在のIDを比較し、IDを支持する根拠は、前2者よりも小さいと論証することです。私は前2者の方が、IDよりも合理性はないと言いました。
>根拠が薄い現状で根拠のある説と並べて教育することは強制以外の何ものでもありません。
>普通そんなもんを公共教育にねじ込むのは力なくしてあり得ません。
言葉の解釈を曲げて、誤魔化さないでください。
強制とは、教育を受ける側の意志に反して教えることで、教える内容とは無関係です。正しい理論でも、必ず学ぶことを義務にすれば、善悪は別にして、強制です。
>具体的には公共教育に根拠も薄いのにねじ込むような、「専門家集団による評価」が不十分な状況で「当該研究の普及」をする行為です。
だって、評価のプロセスに多くの人が参加するには、対象の仮説が多くの人に知られているのが前提でしょうが。それは現象的には普及ですよ。それをやるなというなら、結局、少数の利害関係者だけで、評価をすることになります。センメルウェイスの考えを封殺した、当時の医学界が、まさしくそうではありませんか。そんな「専門家」は捨て置いて、手洗いの効果を、直接、世間に知らせればよかったのです。本当に効果があれば定着するし、効果がなければ淘汰されるだけです。センメルウェイスが今生きておれば、間違いなくネットで発信することでしょう。
>サイクルが明後日の方向に行くリスクが跳ね上がる行為です。
検証が間違った方向へ向かっていると考えたら、間違った方向へ向かう人を抑えるのではなく、自分と同じ考えの人を集めて、自分たちのグループを作ればよいのです。どちらのグループが正しいかは、目に見える結果で決めるしかありません。議論で結論が出ないなら、実験で結果を出すのと同じですよ。
>コツコツと研究を続けてちゃんと発表とかもしています。
>一部のIDはなぜそれをしないの?
世のIDは血液凝固や鞭毛、私は鳥の進化と、自然選択とは考えにくいと判断する例を挙げてます。そう判断する理由も説明しています。それが研究です。
>査読付きの専門誌にでも根拠を示しまず載らないとIDの価値はすこぶる低い(>>244 )
>もそも論文のあるなしは関係ない・・・要するに科学じゃ無い(>>275 )
自分でも、破綻した強弁だと分かりますよね。科学としての価値を判断する基準に、査読を通った論文を挙げたくせに、査読を通った論文を否定する理由が「科学じゃ無い」。判定する基準と判定される対象が、前と後で逆転しており、こういうプログラムを書くと、コンピュータがハングアップします。
ダーウィンは存在する化石群が不連続である事、また例えばカンブリア紀に突然一斉に出現する多様な化石群がそれ以前の地層には全く存在しないことを認めています。
これは地質学者としては当然の態度です。
しかしそれにも拘らず彼は変異は全て連続的であり、カンブリア紀以前にもそれ以降と同様に生物の進化の連続が存在していた筈と主張します。
ただ化石証拠がいくつかの理由により存在してないだけ、発見されていないだけというのが彼の言い訳です。
つまりそれは全て彼の空想です。
カンブリア紀に至るそれ以前の連続した変異は現在完全に否定されていますね。
彼はスノーボールアースを知りません。
全ての中間種を埋め尽くす微細な変異の連続も未だ発見されていません。
自然選択論はつまりこの様なダーウィンの想像に完全に依存しています。
そしてその証拠が存在しないものを科学と称したりします。
それに対する反論を非科学的と非難したりもします。
呆れ果てますね。
それが現代進化論の主流とされる立場です。
この愚かしさは一体何なんでしょうね。
自然選択論に否定的な人たち、例えばID論者の中にでも自然選択論を完全に否定している人たちは必ずしも多くは無い様です。
むしろ完全否定はしていない人達の方が多数派の様にも見受けられます。
しかしここは重要な点で、果たして自然選択による進化が起こり得るのか、そこをしっかり見極める必要があります。
結論は、言うまでも無くこれまで繰り返し説明して来た通り、自然選択によって進化が起こる事は一切ありません。
先ず第一にロジックが完全に破綻しています。
それは不必要な膨大な選択されざる敗者を生むシステムだからです。
その様な非効率なシステムは進化のエンジンとしては到底採用出来ません。
そして実はそこが多くの研究者から見逃されている点です。
その膨大な敗者の化石証拠の不存在をダーウィン自身もずっと気にしていました。
少なくとも彼は膨大な敗者の存在が必要で有る事までは認識していたのです。
そしてその想定自体が現実を説明するロジックとしては成り立たない理由です。
勿論その膨大な敗者を示す化石証拠も皆無です。
競争原理は文字通り淘汰、つまり不適合者を排除する為の原理であり、進化をもたらす原理ではありえないのです。
計らずもselectを淘汰と訳した日本語訳はその事実をよく示しています。
選別は生存の制限でしかなく、その膨大な敗者を生むシステムは進化のエンジンとしては機能する事は有りません。
私の論点は、あくまでも科学の進歩であって、教育ではありませんが。ひと言、言っておきましょう。
教育という視点で見ると、IDを学ぶのは、結局、自然選択を学ぶことになるのです。
なぜなら、IDが、特定の進化を品種改良と主張するのは、その進化が自然選択では起こらないと主張することだからです。なぜ自然選択では起こらないかを、教師が説明するには、自然選択による進化は、どういうメカニズムで起こるかを理解させることが不可欠です。
ゆえに、子供にIDを教える教師は、必然的に自然選択を教えることになる。教わった子供が、問題の進化が自然選択ではないという結論にいたるには、もしそれが自然選択で起こるとしたら、どういう環境で、どういう選択圧が働くかを、考える過程が含まれます。これは、有効な勉強方法ですよ。
自然選択とは完全に無縁のところで、生物の発生を説明する、天地創造論との違いは、そこにあります。
>教育という視点で見ると、IDを学ぶのは、結局、自然選択を学ぶことになるのです。
インテリジェントデザイナーという思想と、自然選択という科学理論を、意図的であるかはともかく混同していますね。
そんな詭弁じゃ、公教育でデザイナーを教えることを正当化できませんよ。
>世のIDは血液凝固や鞭毛、私は鳥の進化と、自然選択とは考えにくいと判断する例を挙げてます。そう判断する理由も説明しています。それが研究です。
はて。きちんと検証できていますか? 血液凝固や鞭毛についての主張、つまりベーエの「還元不能な複雑性」について、以下の引用を参照してください。長いですが、ぜひ、最後まで読んでください。
「(ドーバー裁判の)判事ジョン・E・ジョーンズIII世は弁護側のベーエの証言を非常に重要と見なした。ジョーンズ判事の発言を引用する:
ベーエ教授のIDの議論の妥当性は際だって、紛れもなく、教授の神の存在への信仰に依存していると考えられる[7]。
記録の証拠の欠落は、ほかのいかなる科学的提案の重要性も、神への信仰を基盤としていると示している。法廷はいかなる科学的提案も承認していない。ベーエ教授の主張は彼の視点の重要な証拠であり、それは他のIDの著名な指導者と同等であり、IDは宗教的であって科学的な提案ではない[7]。
まず、被告側の専門家フラー教授はIDが科学の「基本的なルールを変更する」ことを切望していると述べた。首席の被告側専門家ベーエ教授は、彼の拡張された科学の定義は、それにはIDも含まれるが、それは占星術も受け入れると認めた。さらに被告側のミニッチ教授はIDが科学と見なされるために、超自然的な作用の考慮も許すよう科学の基本的なルールを拡張せねばならないと認めた[8]。
そのうえ、被告側の専門家は、IDがNASが定義したような意味での理論ではないとみとめ、せいぜい科学界に受け入れられなかった周辺科学(未科学)であると認めた[5]。
我々はしたがって、ベーエ教授の還元不能な複雑さという主張が査読付き研究論文としては拒否され、一般的な科学界から受け入れられなかったことが分かる[6]。
「IDの支持者は主に、ベーエ教授の「還元不能な複雑」なシステムがダーウィン主義的メカニズム、あるいはいかなる自然的メカニズムでも生み出されることがないというような主張で例示されるように、進化論に対する否定的な議論を通してデザインを主張する。しかしながら......進化に対する議論はデザインについての議論ではない。専門家の証言が明らかにしたのは、今日の科学者が生化学システムの進化を説明できないことは、それらが進化できないことや、将来も説明できないことを意味しないということである。パディアン教授が適切に指摘したように「証拠の不在は不在の証拠ではない」......還元不能な複雑さは進化に対する否定的な主張だが、被告側のミニッチ教授が認めたように、デザインの証拠ではない[39]。
ベーエ教授の還元不能な複雑さという概念は、進化の既知の要因を無視することに依存している。ベーエ教授の還元不能な複雑さの定義は強固であるが、彼が(生物の複雑な機能の)前身がパーツを欠いていれば定義上それは機能しないと言うとき、彼が明らかに意味しているのは「現在のパーツが全てそろっているときと全く同じようには機能しな
「い」と言うことである。例えば細菌の鞭毛の場合、パーツの欠如は鞭毛モーターの回転を妨げるかも知れない。しかしベーエ教授は、定義上、細菌の鞭毛の前身が回転モーターではなくて他の何らかの用途、例えば分泌システムとして機能したかも知れない可能性を無視する[40] 。
ベーエ教授は還元不能な複雑さという概念をほんの少しの選ばれたシステムだけに適用した:(1)細菌の鞭毛;(2)血液凝固カスケード;(3)免疫系。自然の無数のシステムの中の、これらわずかな生化学システムに関するベーエ教授の断定に反して、ミラー博士は査読付き研究に基づき、それらですら実際には還元不能な複雑さでないことを示す証拠を提示した[41]。
...(IDの)支持者はデザイナーの性質に基づいた仮説の提唱を拒否し、メカニズムの提案をせず、デザイナーがどんなものか(男か、女か、物か、複数か)もわかっていないと断言する。...」(ウィキペディア;マイケル・ベーエ)
(続く)
私は、判事ジョン・E・ジョーンズIII世という非専門家の、『専門家の証言が明らかにしたのは、今日の科学者が生化学システムの進化を説明できないことは、それらが進化できないことや、将来も説明できないことを意味しないということである。パディアン教授が適切に指摘したように「証拠の不在は不在の証拠ではない」という......還元不能な複雑さは進化に対する否定的な主張だが、被告側のミニッチ教授が認めたように、デザインの証拠ではない[39]。』という部分が、最も大事なんじゃないかと思います。
「鳥の進化が自然選択とは考えにくい」という判断・そう判断する理由というのも、「この現象は自然の]理に反する、デザイナーがいなければありえない」という、人間の勝手な思い込みじゃないでしょうか。
確かな自然理解とは、人がどうしても陥りがちな憶測をさけ、「できる限りの確かさに」近づくという、発祥当時から科学の方法論が求めたものに拠ると思います。
ひとつ付け加えておきたいのは、化学・物理が扱う自然の領域と、進化理論が扱う自然史を理解するための方法論的な違いです。
ここを理解できれば、「中生代の品種改良」などという暴言が生まれるわけないんですけどね。
マイヤーは、インテリジェント・デザイン論を次のように説明する――
前提1:徹底的な研究がなされたにもかかわらず、大量 の特定された情報を生み出す能力を示すいかなる物的原因も発見されていない。
前提2:知的原因は、大量の特定された情報を生み出す能力をこれまで示してきた。
結論:知的デザインが、最上の、最も因果論的に有力な、細胞の中の情報の説明を構成する。
マイヤーは、IDに対してこれまで向けられたさまざまな議論を検討するのに2つの章を割いているが、私はある人たちが言っている、IDは反証不可能であり「テスト可能な予言をすることができない」から科学ではない、という反対意見を手短に取り上げることにする。マイヤーは、この反論は完全に間違っている、その理由は特に「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」ことを示すだけで、あるいは特定された情報が「生命体の中に存在していなかった」ことを示すだけで、現実に反証できるからだと言う。予言については、IDのほうが、対抗する唯物論的進化理論よりも「ジャンク」DNAの価値を、よりよく予言できたことをマイヤーは指摘する。
つまり、
「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」
事があり得ない事が証明されれば、背理法に依ってその情報に知性が介在することが証明されます。
それを否定するためには逆に上記条件の下にその結果が生じる事が証明できればいい訳です。
どうしてもID論を否定したければ、それをやってもらいましょう。
>>279
>必要なのは「専門家」の肩書ではない、と言っておきます。センメルウェイスに反対したのは当時の医学界の専門家でした。ソ連ではルイセンコ農法に多くの専門家が協力しました。「反日」思想を教える人も、世間では専門家の肩書がついてることでしょう。
だれも肩書きが必要とは言ってないでしょうが。肩書きでは無く必要なのはその知識であり「専門家そのもの」です。
>「専門家を必ず入れる」のではなく、誰でも入れるようにして、優れた見識をもつ本物の専門家が誰か、明らかになるのを待てばよいのです。
とか言って、こちらは非専門家の意見を排除するつもりは無いと言っているのに、非専門家の意見を受け入れないように語る…
自分で批判したことをしないで下さいな。
あと専門家が協力したとかは問題じゃ無いんですよ。もうちょっとここでのお話の本質を考えて下さい。
当時の医学界の専門家が評価したから問題じゃ無いんです。
科学の手順から逸脱した判断に則ったから問題なんです。
>自由競争の中で選択圧力が働くなら、玉石混交でも多様な理論が現れることが、進歩につながります。100のうち99が駄目でも、1つがものになれば、進歩が生まれます。生物の突然変異の大半は有害でも、わずかに有益なものが混ざっていれば、種が進化するのと同じなのです。
場合によっては絶滅します。
暴論です。
>歴史の中の、そういう例に、私は地動説と波動説を挙げました。私の主張を否定なさるのなら、最低でも>>213 で語ったことに具体論で反駁されるべきです。16世紀の地動説と、18世紀の光波動説と、現在のIDを比較し、IDを支持する根拠は、前2者よりも小さいと論証することです。私は前2者の方が、IDよりも合理性はないと言いました。
その二つは当時も科学の手順に逸脱していません。
>言葉の解釈を曲げて、誤魔化さないでください。
>強制とは、教育を受ける側の意志に反して教えることで、教える内容とは無関係です。正しい理論でも、必ず学ぶことを義務にすれば、善悪は別にして、強制です。
そもそも義務教育自体が強制ですからね。
その中で培われたルールがあり皆それに則って行っています。
それに納得いかないのは勝手ですが、それを変えるのも決まった手順があります。それを守れと言っています。
日本を含め基本的に法治国家ですからね。
もう一度言います。自由と無法を履き違えています。
>だって、評価のプロセスに多くの人が参加するには、対象の仮説が多くの人に知られているのが前提でしょうが。それは現象的には普及ですよ。それをやるなというなら、結局、少数の利害関係者だけで、評価をすることになります。
それを真っ当な手順でやれと言っているのです。
正規の手順を踏まない理由は何ですか?ただの怠慢でしょうが。
それにID論肯定派の集団も小数の利害関係者です。
>検証が間違った方向へ向かっていると考えたら、間違った方向へ向かう人を抑えるのではなく、自分と同じ考えの人を集めて、自分たちのグループを作ればよいのです。どちらのグループが正しいかは、目に見える結果で決めるしかありません。議論で結論が出ないなら、実験で結果を出すのと同じですよ。
そうですね。そうやって議論できれば良いのですけどね。
でも公共教育にねじ込むやり方は議論をすっ飛ばす行為です。そこを理解して下さい。
だから批判されるんです。
>世のIDは血液凝固や鞭毛、私は鳥の進化と、自然選択とは考えにくいと判断する例を挙げてます。そう判断する理由も説明しています。それが研究です。
それらはことごとく叩き潰されていますが…
まぁ、それはそれとしてそう言う根拠があるならそれを持って議論すれば良いんですよ。
なぜそれをせずにすっ飛ばして公共教育にねじ込もうとするの?
一部のIDはなぜそれをしないのか?の質問の答えになっていません。
>自分でも、破綻した強弁だと分かりますよね。科学としての価値を判断する基準に、査読を通った論文を挙げたくせに、査読を通った論文を否定する理由が「科学じゃ無い」。判定する基準と判定される対象が、前と後で逆転しており、こういうプログラムを書くと、コンピュータがハングアップします。
ちゃんと考えて下さい。
査読付き論文なんか判断基準の一つに過ぎません。>>105 でも述べたでしょうが。
論文さえ書けば科学とかそんなわけ無いでしょうが。そこから議論が始まるんです。
んでもって反日教育とかは論文の有無ではなく情緒の問題です。
過去の同じ過ちを繰り返させない正義の心か政治的な駆け引きか大本は知りませんがそれが大きな影響を与えた結果です。
科学じゃ無いんですよ。
>>282
>教育という視点で見ると、IDを学ぶのは、結局、自然選択を学ぶことになるのです。
そんなものに頼らずとも充分自然選択は教えられます。
そんなしょうもない利点で懐柔しようとせず、IDの正しさを示す明確な根拠を持って主張すべきです。
そもそも自然選択で説明が難しい現象はID以外の別の説明でほぼほぼコンセンサスが得られています。
現状出る幕は無いんですよ。
ですからIDのやるべきは「ID以外だと説明困難な事象」を示すか、「IDそのもの」を示すか位しかありません。
それが無理ならコツコツ地道に証拠固めするしかありませんよ。
あいかわらず、具体例のない抽象論で決めつけるのが多いなあ。やはり、一番具体論にはいれそうなのは、これですかね。
>その二つは当時も科学の手順に逸脱していません。
このように、説明抜きで結論だけ出すのをやめてほしいから、>>213 で3つの仮説を整理しました。再掲します。
[地動説]
主張の根拠は、惑星の逆行運動
その現象は、周転円を想定した天動説も説明した
地動説には、恒常的な風が吹かないという、天動説にはない矛盾があった
[光波動説]
主張の根拠は、光の交差、屈折、ニュートン環など
それらの現象は、粒子説も説明した
波動説には、鉄より硬い媒質という、粒子説にはない矛盾があった
[ID]
主張の根拠は、複雑すぎる進化。私(Ken)の場合は、鳥の進化の力学
それらの進化は、自然選択でも説明できる(私は、鳥の進化は自然選択では難しいと考えますが、ここでは説明できるものとします)
地動説、波動説と異なり、物理法則を否定する矛盾は、IDにはない。
品種改良を行える生物は、物理法則と両立できるが、風を受けずに動ける物体も、あらゆる空間を充たす物質も、その時代の物理法則と両立できません。理解すべきポイントはここです。
このように整理することで、現在のID論とかつての地動説、光波動説を比べ、支持できる理由が弱いのは、むしろ地動説と光波動説の方だと言いました。
間違いと言われるなら、上記のどこが間違ってるのか、具体論で説明してください。(注意:正体不明の不思議物質なんて、ただの説明放棄で、具体論になってませんよ)
現代の主流説とされる総合説とID論を比較してみましょう。
先ずID論から行きましょうか。
ID論は科学的な知見に基づく推論です。
その推論はあらゆる科学的知見からロジカルに導かれます。
そういう意味では科学的な仮説と言って差し支えないでしょう。
しかし他の科学的仮説と大きく異なる点は知性と言う科学的な定義がかなり困難なものをその前提に置く点です。
これは知性の解釈と言う人間の意識にも関わる複雑な問題を提供します。
しかし知性をどう定義しようと、因果律をもたらすアルゴリズムの存在は否定の仕様がありませんね。
その様なアルゴリズムは何故生み出されたのかという事です。
答えは背理法に依って明確に導かれます。
一方の総合説ですが、これはずっと述べてきた通り、あまりにお粗末です。
多くの人たちはそれを科学と信じているようですが、これも繰り返し説明した来た通り全く科学理論の体をなしていません。
先ず事実に依る実証が皆無です。
都合の良い変異が起こりさえすればそれが自然選択だとするトンデモナイ誤解と極め付けが横行しています。
それは選択と言う自然選択における最も重要なフェーズを無視していることになります。
そして膨大な選択されざる者たちを生産し続けなければならないそのシステムのロジック自体が自家撞着であると言えます。
その様な誤解が生じる大きなポイントは、選択という事象に対する無理解です。
この自然選択論の最も根幹の部分の事象がロジカルに理解出来ないでいる訳です。
その最も肝心な部分の検証を完全にパスして、それを科学理論と称している訳です。
自然選択論の科学分野における正しい位置づけは、ダーウィンとその追従者によって提唱され信じ込まれている科学的な実証が全く伴わない淘汰されるべき仮説です。
科学の方法論を全く踏襲していないのが自然選択論ですが、何故か自然選択論は科学的であると主張されその様に信じ込んでいる人たちがむしろ多数派だと言うのは大変理解に苦しみます。
繰り返し述べてきましたが、ダーウィン自身科学と言う言葉を殆ど使っていません。
ダーウィンが科学の方法論を正しく認識していた形跡もありません。
彼の主張は基本的にこの様に考えれば説明できると言う彼の想像の世界での話です。
その後1930年代の集団遺伝学者と称される人たちによって科学の体裁を整えたかのように錯覚されますが、これも何一つ科学の方法論に則っていません。
自然選択論は思い込みと錯覚に依って支えられているのです。
前適応、適応放散、共進化、遺伝的浮動、淘汰圧、これらの曖昧な理解、不正確な用法、様々な理解のミスリードをもたらすこれらの用語も進化論学会の惨状をよく示しています。
誤解を与える、更に言えば言葉によって欺く。
現代の総合説は進化の真実を何一つ説明出来ていません。
何一つ、です。
そのベースとなっている自然選択論からしてダーウィンの妄想に過ぎないのですから、その上に成り立っている総合説が正しかろう筈もありません。
この科学の方法論に則らない学問分野が成立している自体が極めて嘆かわしいですね。
中立説自体は基本的に科学的な手法に則っていますが、それを進化殊に自然選択論と無理やり接合しようとするともうデタラメです。
何故こんな惨状を呈しているのか。
ひとつは進化が再現検証が殆ど不能であるという事実です。
その状況に付け込んでレトリックを弄して言いたい放題、言葉では何とでも言える世界です。
もう一つは彼らが宗教的と考える事柄にたいする強いアレルギーです。
一種の科学信仰ですね。
これは進化論学者以外の科学者にもある程度共通するものです。
そしてこれも理由が不明ですがダーウィンに対する強い思い入れがあります。
このダーウィン崇拝が止まない理由が何処にあるのか、それは彼らに自問してもらうしかありません。
自然が他の何者の介入もなしにそれ自体で成し遂げ得る、それを説明し得るのは
実際の所自然選択論位しかないんですね。
それが未だに多くの人たちが自然選択論にしがみ付いている理由でもあります。
ダーウィンはマルサスの人口論によって自然選択論を着想を得たわけですが、
マルサスの真意は宗教的道徳的人口の抑制であり、社会科学理論としても
現在有用性は全くありません。
自然選択論が実はそれ自体が極めて非現実的な構想であることの理由は他にも
山の様にありますが、そもそもその着想の時点から躓いていると言えます。
ダーウィン進化論が何ら実証されていない単なる空想に過ぎない事。
その上に成立している現代の総合説も全く同様である事。
さらに存在する全てのこの世界の事実は極めて明確に設計者の存在を示唆している事。
これらを議論の余地のない程度まで繰り返し論証して来ました。
この周辺問題は膨大です。
引き続きその話を続けます。
>地動説には、恒常的な風が吹かないという、天動説にはない矛盾があった
その時は矛盾だと考えたけど、慣性の法則を知ってからは、矛盾ではなくなった。
>波動説には、鉄より硬い媒質という、粒子説にはない矛盾があった
その時は矛盾だと考えたけど、量子力学によって粒子と波動の二重性が明らかにされることで矛盾ではなくなった。
事実の積み重ねによる解釈の変遷という、典型的な「科学的知の発展」ですね。
さて、
>主張の根拠は、複雑すぎる進化。私(Ken)の場合は、鳥の進化の力学
それらの進化は、自然選択でも説明できる(私は、鳥の進化は自然選択では難しいと考えますが、ここでは説明できるものとします)
地動説、波動説と異なり、物理法則を否定する矛盾は、IDにはない。
地球上で起こった生物史が、地球上の物理法則に反するわけないじゃないですか。自然史の解釈と物理法則とは無関係です。
こういうカテゴリーエラーに無関心、無理解であることが、詭弁に陥る理由です。
>品種改良を行える生物は、物理法則と両立できるが、風を受けずに動ける物体も、あらゆる空間を充たす物質も、その時代の物理法則と両立できません。理解すべきポイントはここです。
物理法則に従うのはあたりまえ。生物史の理解にとって重要なのは、地球の時間軸に従って実際に起こったと考えられる事象の因果関係を、客観的に明らかにしていくことです。
これまで積み上げられた事実に基づく自然史解釈はデザイナーの存在を要請するどころか、デザイナーを排除したところに成立してることを知ってください。それが近代以降の人の知の歴史でもあります。
デザイナーが生物進化を司ったというなら、その仕組み自体を客観的に証明することが必要です。
進化学を科学という土俵の外から非難したり、無理やり公教育に押し込もうとしたり、カテゴリーエラーを無視して詭弁をふるうなんて行為は、自然を正確に理解するという目的にとっては何の役にも立たないということを理解してほしいと思います。
テネシー州議会下院は今日、学問の自由に関する法案を72対23で可決した。この法案は、生物学的進化、気候変動、ヒト・クローンなど論争の多い科学的問題について、批判的思考と客観的議論を奨励しようとする教師や学区を保護するものだ。
「この法案は、科学教師の学問の自由を保護して進化論のような論争の多い科学的テーマを十分かつ客観的に議論できるようにすることで、健全な科学教育を促進します」とディスカヴァリー研究所のCasey Luskinは述べた。ラスキン氏はさらに次のように述べた。
この法案が科学ではなく宗教を奨励していると批判する人々は、法案を読んでいないか、あるいは異なる科学的意見を検閲するという彼らの目的から注意を逸らすために、煙幕を張ろうとしているのです。
法案は次のように明白に述べている。この法案は
いかなる宗教的または非宗教的教義をも奨励するものではない。
本項は科学情報の教育活動を保護しているに過ぎず、いかなる宗教的または非宗教的教義をも奨励せず、特定の宗教的信条または非信条、宗教または非宗教に対して賛成または反対の立場で差別を奨励するものではない。
テネシー州議会上院はすでに超党派の圧倒的支持でこの法案を可決していた。テネシー州の法案は、2008年にルイジアナ州で採択され「ルイジアナ科学教育法」(Louisiana Science Education Act)として知られる学問の自由政策と類似している。
進化理論の科学的長所と短所の両方を教える教師を保護するため、今年四つの州が学問の自由に関する法律の制定を検討した。その法案の多くが、オンラインでwww.academicfreedompetition.comに掲載されたモデル法令を含め、ディスカヴァリー研究所が起草した法律サンプルを参考にしている。
現在少なくとも九つの州の州政府や自治体が、ダーウィン進化論を支持または支持しない科学的証拠について教師が議論することを擁護し、奨励し、場合によっては義務付ける政策をとっている。
自然選択論に基づいたダーウィン進化論が完全に証明された科学であると信じ込む頑迷なダーウィン教徒でなければ、上記法案は妥当であると考えるのが極めて常識的な判断でしょう。
それに反対するのは、つまり頑迷固陋のダーウィン教の信徒という事です。
>>290
>あいかわらず、具体例のない抽象論で決めつけるのが多いなあ。やはり、一番具体論にはいれそうなのは、これですかね。
>>その二つは当時も科学の手順に逸脱していません。
>このように、説明抜きで結論だけ出すのをやめてほしいから、>>213 で3つの仮説を整理しました。再掲します。
異論があるなら、その二つが当時、科学の手順をどう逸脱していたか具体的に述べて下さい。
それだけ言うのなら具体的に述べてから言って下さいな。言えるはずですよね。具体的に。
>品種改良を行える生物は、物理法則と両立できるが、風を受けずに動ける物体も、あらゆる空間を充たす物質も、その時代の物理法則と両立できません。理解すべきポイントはここです。
大量破壊兵器を造る生物も物理法則と両立できますね。
私が大富豪のKカップ美少女に惚れられて求婚されることも物理的矛盾はありませんね。
これらがあり得ると思いますか?
物理的に矛盾が無ければ何でもありな訳ないですよ。
何度も言っていますが、それはかもしれない論法の誤謬です。可能性の有無と蓋然性の高低を混同している詭弁です。
んで、これも何度も言いますが矛盾があれば即却下にはなりません。
矛盾のように見えるだけかも知れませんし、そもそもの今までの物理法則の概念が違ったかも知れません。
繰り返しますが、大事なのは‘そこから”どう検証するかです。
>このように整理することで、現在のID論とかつての地動説、光波動説を比べ、支持できる理由が弱いのは、むしろ地動説と光波動説の方だと言いました。
これももう一度言いますがIDの場合、システムとなります。
それが許されるなら波動説の媒質も普段は柔軟だが伝わる瞬間だけ硬化する樹脂のようなものとか言うのも可能です。(実際にそう言う説もあったみたいですね)
そもそも鉄のように硬いってのも推測であり絶対的なモノじゃありません。
何を持ってIDより当時の地動説や波動説の方が支持できる判断出来るのか?
それはひとえにそちらで考えた方が確かな観察事例や実験結果があったからです。
粒子でも説明は出来るのは事実でしたが波動の方が無理が無かった。だから非主流ながら研究を続ける科学者がいたのです。
IDは現状、IDの方が確かな観察事例がありません。(少なくとも専門家が認める例は現状ありません)
それはそれとして、何かまた話がずれていっていますね。
私はIDの根拠は当時の波動説の根拠と比べ質の上で遙かに劣ると思っていますが、それ自体はどうでもイイんです。
どんなトンチキな説でも仮説を立てるのは正しい行為ですからね。
大事なのは‘そこから”です。
光の波動性が観測された。媒質が存在するんだろう。→鉄みたいな硬い媒質になっちゃうよ。おかしくない?
→でも波動性はあるし媒質が無いとおかしいから媒質に穴空いてるんじゃね?→
って感じで議論が進んだように
自然選択では難しい現象がある。何かの知性の介入かも?→性選択とかで説明できない?
→性選択でもちょっと生存率が下がり過ぎそうじゃね?→
みたいな議論が進めば何の問題も無いんです。
とにかく真っ当な科学的手法を行って欲しい。私の主張はそれ一点です。
先に述べてるサイクルを逸脱さえしなければIDだろうがホメオパシーだろうが武器軟膏だろうが立派な科学です。
IDだからダメじゃないんですよ。
科学の方法論を全く踏襲していないのが自然選択論ですが、何故か自然選択論は科学的であると主張されその様に信じ込んでいる人たちがむしろ多数派だと言うのは大変理解に苦しみます。
繰り返し述べてきましたが、ダーウィン自身科学と言う言葉を殆ど使っていません。
ダーウィンが科学の方法論を正しく認識していた形跡もありません。
彼の主張は基本的にこの様に考えれば説明できると言う彼の想像の世界での話です。
その後1930年代の集団遺伝学者と称される人たちによって科学の体裁を整えたかのように錯覚されますが、これも何一つ科学の方法論に則っていません。
自然選択論は思い込みと錯覚に依って支えられているのです。
科学は最新が最も正しい。
過去に比べて、と言う話です。
日々新しい事実の発見、新しい理論の発見によってその知見は更新されます。
新しい理論は事実に依って検証され、更に事実に依って書き替えられます。
それはつまり未来に亘ってはその理論が書き替えられる可能性があることも意味します。
その様に日々事実に依って検証されるのが科学理論です。
自然選択論を正しいと主張するなら、検証に曝されなければなりません。
そして驚くべき事に、より適応的な変異が生じればそれが自然選択の証明であると言う極めて飛躍した論理が横行しています。
自然選択以外にその様な変異が存在し得ることに目を向けようとしない、そもそも自然選択論の工程を全く理解していない、その結果です。
160年以上前のダーウィンの思い付きの空想を今猶信じ続ける研究者たちの存在は異様です。
この話は今までもいやと言う程繰り返してきましたが、それでも現状を見るとまた同じことを言わざるを得ません。
競争原理によって進化がもたらされると言う誤った思い込みは多くの人たちに本能レベルで刷り込まれています。
自然は競争原理と言う極めて非効率な手段は採用しません。
その刷り込みの元凶はやはりダーウィンと言うべきでしょう。
ダーウィンの功績はゼロ、進化論を迂回させている罪は重大と言うべきです。
現代の主流説とされる総合説とID論を比較してみましょう。
先ずID論から行きましょうか。
ID論は科学的な知見に基づく推論です。
その推論はあらゆる科学的知見からロジカルに導かれます。
そういう意味では科学的な仮説と言って差し支えないでしょう。
しかし他の科学的仮説と大きく異なる点は知性と言う科学的な定義がかなり困難なものをその前提に置く点です。
これは知性の解釈と言う人間の意識にも関わる複雑な問題を提供します。
しかし知性をどう定義しようと、因果律をもたらすアルゴリズムの存在は否定の仕様がありませんね。
その様なアルゴリズムは何故生み出されたのかという事です。
答えは背理法に依って明確に導かれます。
一方の総合説ですが、これはずっと述べてきた通り、あまりにお粗末です。
多くの人たちはそれを科学と信じているようですが、これも繰り返し説明した来た通り全く科学理論の体をなしていません。
先ず事実に依る実証が皆無です。
都合の良い変異が起こりさえすればそれが自然選択だとするトンデモナイ誤解と極め付けが横行しています。
それは選択と言う自然選択における最も重要なフェーズを無視していることになります。
そして膨大な選択されざる者たちを生産し続けなければならないそのシステムのロジック自体が自家撞着であると言えます。
その様な誤解が生じる大きなポイントは、選択という事象に対する無理解です。
この自然選択論の最も根幹の部分の事象がロジカルに理解出来ないでいる訳です。
その最も肝心な部分の検証を完全にパスして、それを科学理論と称している訳です。
自然選択論の科学分野における正しい位置づけは、ダーウィンとその追従者によって提唱され信じ込まれている科学的な実証が全く伴わない淘汰されるべき仮説です。
都合の悪い事からは目を背ける。
正に宗教的な態度ですね。
設計者の存在が極めて明示的に示されるのがゲノムの暗号情報です。
四文字でコーディングされた巨大なプログラムです。
さらにその遺伝子は修飾されています。
その驚くべきアルゴリズムが生命と生命活動を生み出します。
それが偶々出来てしまったと考えることが如何に愚かしい事か、普通の分別があれば当然のように分かるはずです。
それがそうではないんですね。
RNAワールド仮説がありますが、これも当然コーディングが必要です。
何故どーやって知的なコーディンが行われたのか、この問いに答えられる者は誰もいません。
ただ知的な設計なしには存在し得ないことは極めて明白です。
そんな明白な事実から徹頭徹尾目を逸らします。
それで科学を名乗ろうとする、それは厚顔無恥と言う話です。
現在もダーウィニズムを支持する多くの研究者たちに何故支持するのか理由と問えば、
恐らく多くの研究者はそれが科学的であるから、と答えるでしょう。
しかしどこがどう科学的なのか、と問われれば多分明確に回答できる人は少ないでしょう。
それが主流説だから、学会的に支持されているから、権威付けされているから、
多くの人が信じているから、コレが実は根源的な理由です。
もう一つの理由はダーウィンニズムを否定すると最終的に宗教に至る、と言う懸念があるからです。
そんな科学とは相容れない世界には足を踏み入れたくない、という動機です。
そしてそれらは何れも理由として成立していません。
先ず、ずっと言ってきたことですがダーウィンニズムに科学的な裏付けはありません。
これは科学的な手続きに無知である、と言うレベルです。
そして権威はなんら真実を担保しません。
更に、ダーウィンニズムの否定と宗教は全く別の事柄です。
これらに対する無理解が混乱を呼んでいる訳です。
つまり科学を知らずに科学、科学と叫んでいる訳です。
従って科学的根拠、科学的証明の意味も分からない。
ダーウィニストが自然選択論が科学的に証明された科学だと主張しているのはその典型的な例ですね。
ではどの様に科学的に証明されたのかと彼らに問うても絶対にまともな答えは返ってきません。
そもそも自然選択の原理を厳密に理解していないのだから、話になりませんね。
ただ漠然と、みんながそう言ってる様なので、と言う様な理由だけで信じ込んでいます。
突っ込まれればしどろもどろ、妄想を口走りだします。
一度胸に手を当ててよく考えてみましょうね。
>物理的に矛盾が無ければ何でもありな訳ないですよ。
そんなことは言ってません。ただ、物理法則との整合性は、仮説を検証する1丁目1番地です。物理的に矛盾がないだけではセーフになりませんが、物理的に矛盾があるものをセーフにするのは、知識体系を根底から覆します。1億年前の品種改良どころの話ではありません。
>波動説の媒質も普段は柔軟だが伝わる瞬間だけ硬化する樹脂のようなものとか言うのも可能です。(実際にそう言う説もあったみたいですね)
そんな物質の観測例は1つもありませんが、品種改良には現生人類の観測例があります。おっしゃるところの「蓋然性の高低」の問題ですよ。
>そもそも鉄のように硬いってのも推測であり絶対的なモノじゃありません。
大気よりも水、水よりも鉄と、硬い媒質ほど波が早く伝わる観測例と、なぜそうなるかの力学的説明が、あります。これに反する仮説は、過去の品種改良などより、よほど無理があるだろうと言ってます。物理的に矛盾があることほど、蓋然性を下げる条件はありません。品種改良の実行者が発見されないなんてレベルの話ではないのですよ。
吹くはずの風が吹かない、地動説の矛盾も、忘れないでくださいね。
>自然選択では難しい現象がある。何かの知性の介入かも?→性選択とかで説明できない?
→性選択でもちょっと生存率が下がり過ぎそうじゃね?→
みたいな議論が進めば何の問題も無いんです。
今のID論は、特定の進化を観察し、なぜ自然選択より、人為的な干渉に合理性があると考えるのか、その理由を述べています。疑問や反論があるなら出せばよいので、もしID側が、それらの疑問や反論を無視するなら、それはIDそのものではなく、そのID論者の行為が正しくないことになります。
ですが、スレッドの本質に関わるのは、これですね。
↓↓↓↓
>その二つが当時、科学の手順をどう逸脱していたか具体的に述べて下さい。
分かりませんか? 私は、あなたがおっしゃるところの「科学の手順」なるものを、検証しているのです。このサイトでずっと、科学と疑似科学を判別する基準を検証してきたのと同じです。あなたの「科学の手順」で地動説と波動説を検証するのではなく、地動説と波動説で「科学の手順」を検証しています。
そして今は、あなたの「科学の手順」とは、物理的に矛盾のない品種改良よりも、物理的に矛盾のある、かつての地動説や光波動説が、蓋然性が高いと結論するのですか? と尋ねております。
むろん、16世紀の地動説と18世紀の波動説ですよ。17世紀にケプラーの法則が登場した後の地動説と、19世紀に2重スリット実験が行われた後の光波動説なら、風や媒質の矛盾が未解決でも、私だって支持するでしょう。天動説と粒子説では到底説明不可能な事象であり、天動説と粒子説の方が、より重大な物理的矛盾を抱えることになったのですから。
議論を進めるために、1つ仮定を置きましょう。私は、鳥の進化を自然選択で説明するのは困難と考えますが、今は、あなたがおっしゃるように、自然選択で説明できるものとします。
たとえ、そうであっても、物理法則と矛盾する地動説や光波動説は、物理法則と矛盾しないIDよりも、はるかに蓋然性が低いと結論するしかない、と言っております。
>矛盾があれば即却下にはなりません。
はい。地球が動くのに風が吹かない矛盾も、硬い物質が空間を充たすのに物体が動き回る矛盾も、いつか解消される可能性は考えられたでしょう。現実に、前者はガリレオによって。後者はマクスウェルによって、解消される日がきました。
過去に品種改良があったのなら、なぜ実行者が見つからないのかを「矛盾」と見なすなら、いつか実行者が発見され、その矛盾は解消されるかもしれません。
しかし、物理における矛盾と、生物における矛盾を、同じ重さで見ることはできません。物理は生物よりも根源的な知識体系で、そこに矛盾があれば、はるかに広範な体系を崩壊させるからです。生物の知識体系も崩壊します。
たとえば、対立する2つの仮説があり、一方は生物の知識体系と整合し、他方は物理の知識体系と整合する場合、物理の知識体系が優先され、生物の知識体系が、修正を迫られます。
鳥の進化の走行モデルは、よい例です。化石の証拠をみれば、鳥の先祖は地上を走る2足恐竜と思われるので、その恐竜が走りながら飛行能力を進化させたと考えたものです。生物の知識体系の中では、走行モデルには理があるのです。
しかし、力学を考えると、恐竜が走りながら羽ばたいても、飛行には至りません。物理の知識体系は、走行モデルを否定します。では、どちらの知識体系が優先されるか?
物理の知識体系です。化石から導かれる生物学の仮説が、力学という物理の仮説を覆すことはできません。修正を迫られるのは、生物学の方です。走行モデルに修正を加えた結果が、駆け上がりモデルであり、飛びかかりモデルです。
地動説と光波動説が、IDよりも蓋然性が低い理由は、ここにあります。物理は生物よりも重いのですよ。
進化はゲノムの突然変異、つまり単塩基置換、ゲノム重複、そして遺伝子の水平伝播、取り込み、共生とそれによる遺伝子取り込み等によってもたらされます。
これらはエラーではありません。
エラーは基本的に有害、ゲノムは強いエラー修復機構を有しています。
それらの変異の原因、何故その様な変異が生じたかについては現在の所殆ど分かっていません。
しかし説明不能だからと言ってまさかその想定が非科学的だとは誰も言わないでしょう。
しかし実際殆どそれと同じ事を言ってるのが自然選択論者です。
それらの変異は跳躍的な進化をもたらします。
自然選択論者、ダーウィンは進化は全て漸進的であると主張します。
全く事実と反する訳です。
ダーウィンが唱えた自然選択論は以下の2点においても完全に否定されます。
進化が漸進的であるどころか全ての化石証拠は進化が飛躍していることを示している。
進化の過程において進化が選択された結果である証拠が全く存在しない。
微細な変異が生じる。
その変異が環境によって選択される。
その微細な変異が積み重なり進化が起こる。
これがダーウィンモデルです。
この全ての過程の化石証拠が存在しません。
存在するのは階段状に跳躍しながら進化を重ねる化石証拠たちです。
よく混同されますが、ダーウィンが想定した微細な変異が連なる事と中間種の化石の存在は別の事です。
中間種の存在はそれ自体不連続であり、微細な変異を過程を全て埋めるものではありません。
つまり飛び石状に存在している訳です。
あくまで存在しているのは点であり、決してそれは繋がって線になることはありません。
ダーウィンは線状に絶え間なく連なると主張します。
そしてその化石証拠が存在しないことに対して様々な言い訳を考えます。
そもそも化石にならなかった、化石証拠はまだ見つかっているのはその一部、そもそも変異前の種は生存競争に敗れて絶滅した等、自説の正当化に心血を注ぎます。
情けない事には現代の総合説論者もその言い訳を否定できないでいる訳です。
現在も多くの研究者たちが自然選択論もしくはその残像を引きずっています。
進化は選択された結果である、偶々環境に適応できたものが生き残って進化に繋がった、こういった発想です。
この選択も偶々の適応も全く事実に反します。
繰り返し述べていますがその様な化石証拠は存在しません。
この発想は進化の真実から目を遠ざけます。
進化の実体は前述したゲノムの変異であり、それをもたらしたシステムは未解明。
その解明が進化の実体の解明です。
それを微細な変異の選択による積み重ねによる説明に逃避していたら、その解明は進みません。
何らかの未知のシステムが存在する訳です。
ずっと黙って見ていましたが、なんだか論点がすり替わっていませんか?
Ken様の議論スタイルを見ていると、特に抽象論が理解できなくなると、具体論と言って論点をずらすケースが多いように思います。
>>307
これは仮設の蓋然性をどう判断するか、という話ですよね。
そもそもの論点はこちらではないですか?
>>55
>よろしいですか。この人々は19世紀の強い証拠が見つかる前に、波動説に明かな矛盾があった時に、真剣に追及していたのです。
>それが可能だったのは、光波動説が伝えられたからで、それが次の時代を開きました。
>特定の理論を教えるのをやめさせる害悪は、ここにあります。あなたは>>49 で、
>>根拠も薄く取り上げてそれが優位な説と同等かそれ以上と騙る
>行為を「有害」とし、ドーキンスを支持されましたが、私に言わせれば、有害なのは彼の行為です。ドーキンスはIDの問題点を指摘してるだけではないのです。
>IDを教えるな、教育の場から排除せよと主張しているのですよ。
とりあえず様の真意とは少し異なるでしょうが、こういう整理はどうでしょうか?
世の中には大きく分けて3通り、少し細かく分けると4通りの人たちがいます。
1.○○を学びたい・教わりたい人、もしくは子どもに○○を学ばせたい親
2.○○を学びたくない・教わりたくない人、もしくは子どもに○○を学ばせたくない親
3.○○を学びたいのか学びたくないのか・教わりたいのか教わりたくないのか判断できない人
もしくは子どもに○○を学ばせたいのか学ばせたくないのか判断できない親
2.は更に2通りに分けられます。
2-1.○○を学ぶこと・教わることを拒否できる人、もしくは子どもに○○を学ばせることを拒否できる親
具体的に言えば、学校で○○が教えられるなら学校に行かない(行かせないで)家庭教師をつけるとか、あるいは学校で○○を教えない別の地域に引っ越すとかできる人です。
2-2.○○を学ぶこと・教わることを拒否できない人、もしくは子どもに○○を学ばせることを拒否できない親
上記のような対応をするだけの経済力がなかったり、住み慣れた地域を離れることの問題があったり、上記の行動を取ることによる別のデメリットが大きすぎて行動できない人です。
1.の人に○○を教えるのは問題ありません。学びたい・教わりたいのだから勝手に学べばよい。
問題は2-2.と3.の人たちです。
公教育の場で教えるというのは、この人たちに対して強制的に教えるということです。
○○が専門家の間でコンセンサスが得られないうちは、2-2.と3.や人たちに教えるな、というのが、とりあえず様やドーキンスの主張でしょう?
>>257
>私は「教わりたい人に教える」と言ってるではないですか。判断能力のない子供の場合は、親が判断するのです。
>当然、教わりたくない人には、教えません。
>要するに、何かを教えろ、何かを教えるな、という制約をかけるな、ということです。
このようにKen様は、2-2.や3.の人たちに教えるな、という話を1.の人に教えるな、という話にすり替えているのです。
例えば○○教室を開いて広く生徒を募集する。そして集まってきた人たちだけに教える。
それなら問題ないわけです。集まってくるのは1.の人たちだけなのだから。
公教育で教えたら、どうしても2-2.と3.の人たちに強制的に教えることになります。それは制約をかけるべきです。
さて、
>>260
>言っておきますが「しっかりした根拠」なんて、1人の仕事で作られるものではありません。
>多くの人の協同 と後継者へのリレーによるもので、それは「教える」という行為がなければ、成立しません。「しっかりした根拠」はその結果です。
>教えるのが先で、根拠の確立が後。地動説はそうしてケプラーの法則にいたり、光波動説は、そうしてヤングの実験に至ったのですよ。
地動説や光波動説、あるいは大陸移動説が、2-2.や3.の人たちに教えられたのでしょうか?
1.の人たちにだけ教えられたのではないですか?
Ken様の主張「教えることに制約をかけるな」を裏付ける根拠としては、専門家のコンセンサスが得られていない取るに足りない仮設が2-2.や3.の人たちに強制的に教えられ、それが結果的に科学の発展に寄与したという実例を“具体的に”示すことです。
テネシー州議会下院は今日、学問の自由に関する法案を72対23で可決した。この法案は、生物学的進化、気候変動、ヒト・クローンなど論争の多い科学的問題について、批判的思考と客観的議論を奨励しようとする教師や学区を保護するものだ。
「この法案は、科学教師の学問の自由を保護して進化論のような論争の多い科学的テーマを十分かつ客観的に議論できるようにすることで、健全な科学教育を促進します」とディスカヴァリー研究所のCasey Luskinは述べた。ラスキン氏はさらに次のように述べた。
この法案が科学ではなく宗教を奨励していると批判する人々は、法案を読んでいないか、あるいは異なる科学的意見を検閲するという彼らの目的から注意を逸らすために、煙幕を張ろうとしているのです。
法案は次のように明白に述べている。この法案は
いかなる宗教的または非宗教的教義をも奨励するものではない。
本項は科学情報の教育活動を保護しているに過ぎず、いかなる宗教的または非宗教的教義をも奨励せず、特定の宗教的信条または非信条、宗教または非宗教に対して賛成または反対の立場で差別を奨励するものではない。
テネシー州議会上院はすでに超党派の圧倒的支持でこの法案を可決していた。テネシー州の法案は、2008年にルイジアナ州で採択され「ルイジアナ科学教育法」(Louisiana Science Education Act)として知られる学問の自由政策と類似している。
進化理論の科学的長所と短所の両方を教える教師を保護するため、今年四つの州が学問の自由に関する法律の制定を検討した。その法案の多くが、オンラインでwww.academicfreedompetition.comに掲載されたモデル法令を含め、ディスカヴァリー研究所が起草した法律サンプルを参考にしている。
現在少なくとも九つの州の州政府や自治体が、ダーウィン進化論を支持または支持しない科学的証拠について教師が議論することを擁護し、奨励し、場合によっては義務付ける政策をとっている。
自然選択論に基づいたダーウィン進化論が完全に証明された科学であると信じ込む頑迷なダーウィン教徒でなければ、上記法案は妥当であると考えるのが極めて常識的な判断でしょう。
それに反対するのは、つまり頑迷固陋のダーウィン教の信徒という事です。
>テネシー州議会下院は今日、学問の自由に関する法案を72対23で可決した。この法案は、生物学的進化気候変動、ヒト・クローンなど論争の多い科学的問題について、批判的思考と客観的議論を奨励しようとする教師や学区を保護するものだ。
そ
2012年のテネシー州法のことですね。
法の規定は、「生物進化と生命の化学起源と地球温暖化とヒトクローンを含むが、これらに限らず、既存の科学理論を理解・分析・批判・レビューを生徒たちができるよう支援する」
・2011/02/11 テネシー州下院にHB368登場(2011年に提案された6番目の反進化論州法案)
・2011/04/07 テネシー州下院本会議通過
・2011/04/22 テネシー州上院の反進化論州法案は2012年へ先送り(事実上の廃案)
・2012/03/15 先送りなっていたテネシー州上院の反進化論州法案が復活
・2012/03/19 テネシー州上院本会議可決
・2012/03/26 テネシー州下院本会議可決
当時の州知事は、
「私はHB368/SB893の最終表記をレビューし、州法の影響を評価した。同時に私は州法案への懸念についても評価した。この州法は我々の学校で教えられている理科教育基準および、我々の教師たちが使っているカリキュラムを変更するものではないと私は考えている。しかし、既に我々の学校で受け入れられない何かを達成するものだとも、私は考えていない。
この州法案は、3対1の大差で下院と上院を通過し、超党派の強い支持を受けた。しかし、良い法律は明快であるべきで、混乱をもたらすべきではない。私の懸念は、この法案は、この目的を満たしていないことにある。そのため、私は法案に署名しないが、私の署名なしに州法となることを容認する。」
その後、進化学そのものについて、なにか変更があったでしょうか。科学理論に変更をもたらしたというなら、教えてください。
>>306
>そんなことは言ってません。ただ、物理法則との整合性は、仮説を検証する1丁目1番地です。物理的に矛盾がないだけではセーフになりませんが、物理的に矛盾があるものをセーフにするのは、知識体系を根底から覆します。
あくまで検証時の根拠の一つでしかありませんよ。
んで繰り返しますが本当に矛盾なのかの検証が必要になります。
だって矛盾があるにもかかわらずそれを示す結果があるんですから。
観察やら実験結果も無いのに矛盾している物理現象を肯定しているものと訳が違うのは理解しましょう。
>>波動説の媒質も普段は柔軟だが伝わる瞬間だけ硬化する樹脂のようなものとか言うのも可能です。(実際にそう言う説もあったみたいですね)
>そんな物質の観測例は1つもありませんが、品種改良には現生人類の観測例があります。おっしゃるところの「蓋然性の高低」の問題ですよ。
あるよ。わざわざ樹脂って言ってるでしょ。
他にもダイラタント流体なんかその手の性質ですね。
>大気よりも水、水よりも鉄と、硬い媒質ほど波が早く伝わる観測例と、なぜそうなるかの力学的説明が、あります。これに反する仮説は、過去の品種改良などより、よほど無理があるだろうと言ってます。物理的に矛盾があることほど、蓋然性を下げる条件はありません。品種改良の実行者が発見されないなんてレベルの話ではないのですよ。
なんども言いますが鉄より固いと言うのも過去に品種改良があったと同じで推論でしかないですからね。
何かエーテルが鉄より固いのが決定した絶対的事実として勝手に決めて話を進めるのは間違いですよ。
繰り返しますがそれ以上に重要なのが波としての観察事例の存在であり、それに伴うエーテルの存在可能性です。
エーテルの存在が否定できないからその矛盾をどう解消するかの研究へと至ったのです。
矛盾がある、じゃあその理論は間違いだ。と捉えるか
矛盾がある、じゃあその矛盾が間違いだ。と捉えるか
どちらも考えられることでありそのどちらが正しいか検証する。それが科学です。
当時の人もそれを行った、それだけです。
>今のID論は、特定の進化を観察し、なぜ自然選択より、人為的な干渉に合理性があると考えるのか、その理由を述べています。疑問や反論があるなら出せばよいので、もしID側が、それらの疑問や反論を無視するなら、それはIDそのものではなく、そのID論者の行為が正しくないことになります。
そうです。
それを無視した行為が公共教育にねじ込む行為です。
それがなければ普通の議論であり私の望む状態です。
>そして今は、あなたの「科学の手順」とは、物理的に矛盾のない品種改良よりも、物理的に矛盾のある、かつての地動説や光波動説が、蓋然性が高いと結論するのですか? と尋ねております。
蓋然性の高低は直接的証拠の有無です。
何度も何度も何度も言いますがどんなトンチキなものでも仮説を立てるのは自由だし正しい行為です。
そしてこれも何度も何度も言いますが科学議論は根拠バトルです。
当時の地動説や光波動説は根拠バトルで後れをとった、だから非主流となった。それは正しい科学の手順です。それだけの話です。
結果的に非主流が正しかったとかどうでも良いんです。それは後知恵です。
正しい手順を逸脱するのを良しとする理由にはなりません。
良しとするのが正解だと示したいなら一般論でその正当性を示して下さい。
つづき
>しかし、物理における矛盾と、生物における矛盾を、同じ重さで見ることはできません。物理は生物よりも根源的な知識体系で、そこに矛盾があれば、はるかに広範な体系を崩壊させるからです。
これもいい加減理解して欲しいんですが、だから即矛盾と切って捨てず矛盾が無い状況を考えようと当時の科学者も色々検討したんですよ。
即切りしたくてもそれを示す事例があるから考えざるを得なかったんです。
で、どうにもならない場合はそれをとりあえずそのまま一旦受け入れます。
繰り返しますが量子の二重性や光速度不変って古典物理にとって大矛盾ですからね。
>鳥の進化の走行モデルは、よい例です。生物の知識体系の中では、走行モデルには理があるのです。
>しかし、力学を考えると、恐竜が走りながら羽ばたいても、飛行には至りません。物理の知識体系は、走行モデルを否定します。では、どちらの知識体系が優先されるか?
>物理の知識体系です。化石から導かれる生物学の仮説が、力学という物理の仮説を覆すことはできません。修正を迫られるのは、生物学の方です。
物理学も修正が迫られる意見は出ています。当時の大気組成の違いによる空気の粘性を考慮する意見とかね。
突拍子も無いのだと昔の重力弱かった説とかありますね。
走行モデルも離陸速度を超えさえすれば物理的に十分可能です。走行モデル支持者は如何に離陸速度に到達できるかを色々工夫しています。
自説の根拠固めにいろいろな方向からアプローチする。正しい行為です。
IDも科学のルールの上でそうすりゃいいだけなんです。
Kenさんの提唱するID論も科学的に正しい行為だと思います。
それにGBさんとかから反論があり、それに対しKenさんがまた反論する。正しい議論です。
その議論を放棄してKenさんが自説を公共教育にねじ込んだら、そりゃ叩かれるでしょ?
問題はそう言うことです。
まず、エーテルの矛盾に関連する、この話から。
>あるよ。わざわざ樹脂って言ってるでしょ。
>他にもダイラタント流体なんかその手の性質ですね。
流速が原因で粘性抵抗が増えるという話ですか? 我々が動く程度の速度では柔らかいままだが、光くらいに速いと硬くなるから、光を伝える媒質になれる、と論を立てたいのですか?
でも、よく考えてください。我々は光の中を動きますよね。
光が伝わると硬くなる不思議物質が空間を充たすとして、光の中の我々は、なぜ硬くなった物質の抵抗を受けないのですか?
光の有無で空間の硬さが変わるなら、音速も変わるはずですが、なぜそうならないのですか?
その不思議物質は、物質のくせに重力の影響を受けないのですか? もし受けるのなら、大気のように、地表に近づくほど密度が上がるのに、なぜ光の速度は変わらないのですか?
それと、波動を伝える物質の「硬さ」とは、ばねと同じく、釣り合いからの変位に比例する復元力で、速度に比例する粘性抵抗の「硬さ」とはまったくの別物です。ばねの硬さがなければ波は伝わりません。粘性は波を減衰させるだけです。
以上、必ず突っ込まれますよ。エーテルはなんと答えますか?
風が吹かないという、地動説の矛盾も忘れないでくださいね。
>んで繰り返しますが本当に矛盾なのかの検証が必要になります。
>だって矛盾があるにもかかわらずそれを示す結果があるんですから。
私が問題にしてるのは、16世紀の地動説と18世紀の光波動説ですよ。地動説と波動説の「それを示す結果」は、天動説と粒子説にとっても「それを示す結果」でした。しかもこちらは、初めから矛盾がありません。観察事象の解釈の蓋然性は、他の観察事象との矛盾が少ないほど、向上します。
>繰り返しますがそれ以上に重要なのが波としての観察事例の存在であり、それに伴うエーテルの存在可能性です。
私も繰り返します。18世紀までの「波としての観察事例」とおっしゃる事象は、「粒子としての観察事例」という解釈が可能でした。さて、ID論は、過去の特定の進化を「品種改良としての観察事例」と主張し、IDを否定する側は、同じ進化を「自然選択としての観察事例」と主張します。同じ構造でしょう。
両者の違いは、品種改良は、エーテルのような、物理法則と矛盾する条件を必要としないが、光波動説は必要とすることです。
>繰り返しますが量子の二重性や光速度不変って古典物理にとって大矛盾ですからね。
量子力学も特殊相対論も、どういう場合に効果を現し、古典物理と異なる結果を示すかが、明らかになっているから、矛盾はありません。鉄より硬い物質の中を、物体が動き回るのは、矛盾です。
>それを無視した行為が公共教育にねじ込む行為です。
>その議論を放棄してKenさんが自説を公共教育にねじ込んだら、そりゃ叩かれるでしょ?
論点を拡散させず、1つずつ片付けるために、まず最も具体化しやすい、地動説と波動説の矛盾の話を選びました。教育の話は、私の考えをすでに述べましたが、必要ならあとから継続しますから、今は矛盾の話に集中してください。
>18世紀までの「波としての観察事例」とおっしゃる事象は、「粒子としての観察事例」という解釈が可能でした。さて、ID論は、過去の特定の進化を「品種改良としての観察事例」と主張し、IDを否定する側は、同じ進化を「自然選択としての観察事例」と主張します。同じ構造でしょう。
光の性質を問うことと、生物進化の仕組みを解明することは別の問題です。
現生人類が品種改良を行っているという事実から、1億年前に品種改良を行った生物が存在したという結論を、どのような手順によって導けるのでしょうか。
現在、進化にはその都度ある特定の遺伝子が関与していることがよく知られています。
その一定部分はゲノムの取り込みによって生じます。
ウイルスの遺伝子の取り込みによる重大な進化も良く知られています。
真核生物の誕生もそうですが、劇的な進化は遺伝子の取り込みによってもたらさることが少なくありません。
もう一つの重要な要因はゲノム重複です。
全ゲノム重複は進化の大イベントで観察されます。
進化は階段状であり、漸進的な進化が観察された例は存在しません。
それは化石証拠に依っても実験においても、同様です。
ダーウィンが構想した漸進的な進化は理論的にも破綻します。
少しずつ同方向の変異が連続して起こる、これが彼の構想です。
変異をラマルクと同様に捉えていたダーウィンがそう構想したのはそこまで不自然ではありません。
しかし総合説が主張する様に変異が全てランダムな突然変異であるとするなら、そうなる確率は極めて低い、ゼロと言いていいでしょう。
これは少し考えれば簡単にわかる話です。
これもいやと言う程書いてきましたね。
それも突然変異がエラーであるなら、有利な突然変異が起こる確率自体が殆どゼロと言っていいレベルです。
ましてやそれが連続して発生し続けられる訳もありません。
進化はあるタイミングで階段状で劇的に起こります。
人間の脳容量の増加も階段状で起こっていることが化石証拠によって示されています。
少しずつ徐々にと言う漸進的な変異が化石上で観察された例はありません。
キリンの首も全く同様です。
キリンの首が長い事にはやはりいくつかの特定の遺伝子が関与していることが知られています。
首が徐々に少しずつ長くなっていった化石証拠など何処にも存在しません。
工業暗化もタスマニアデビルの腫瘍耐性獲得も数世代以内に速やかに発生しています。
ダーウィンが構想したような長期にわたる漸進的な変異では勿論ありません。
自然選択論は裏付ける事実が全く存在しない虚構の上に成立しています。
速度一定説に対する批判ですか?
ダーウィンは存在する化石群が不連続である事、また例えばカンブリア紀に突然一斉に出現する多様な化石群がそれ以前の地層には全く存在しないことを認めています。
これは地質学者としては当然の態度です。
しかしそれにも拘らず彼は変異は全て連続的であり、カンブリア紀以前にもそれ以降と同様に生物の進化の連続が存在していた筈と主張します。
ただ化石証拠がいくつかの理由により存在してないだけ、発見されていないだけというのが彼の言い訳です。
つまりそれは全て彼の空想です。
カンブリア紀に至るそれ以前の連続した変異は現在完全に否定されていますね。
彼はスノーボールアースを知りません。
全ての中間種を埋め尽くす微細な変異の連続も未だ発見されていません。
自然選択論はつまりこの様なダーウィンの想像に完全に依存しています。
そしてその証拠が存在しないものを科学と称したりします。
それに対する反論を非科学的と非難したりもします。
呆れ果てますね。
それが現代進化論の主流とされる立場です。
この愚かしさは一体何なんでしょうね。
>>318
>まず、エーテルの矛盾に関連する、この話から。
正直、この話に拘る意味が分りません。
>以上、必ず突っ込まれますよ。エーテルはなんと答えますか?
知らんがな。と言うのが正直なところです。
実際にエーテルが樹脂だとかダイラタント流体だとか言ってるわけじゃないですよ。
媒質が必要なら存在するはず、と言うところから始まってるお話と言うだけです。
>私が問題にしてるのは、16世紀の地動説と18世紀の光波動説ですよ。地動説と波動説の「それを示す結果」は、天動説と粒子説にとっても「それを示す結果」でした。しかもこちらは、初めから矛盾がありません。観察事象の解釈の蓋然性は、他の観察事象との矛盾が少ないほど、向上します。
で、何度も言いますが だから当時地動説も波動説も主流にならなかったと言うことです。
>私も繰り返します。18世紀までの「波としての観察事例」とおっしゃる事象は、「粒子としての観察事例」という解釈が可能でした。さて、ID論は、過去の特定の進化を「品種改良としての観察事例」と主張し、IDを否定する側は、同じ進化を「自然選択としての観察事例」と主張します。同じ構造でしょう。
違います。それについては後述します。
どちらにしても根拠で負けてるから非主流と言う立場になったと言うだけです。
非主流であっても人によってはそれに対し信じるに足るものがあり研究を続けた。それだけのことです。
Kenさんにとっても矛盾があったとて即棄却ではないんでしょ?
当時の人もそれ故に研究を続けただけのことです。
エーテルの矛盾に対してしつこく突っかかってますが何のためですか?
矛盾がある故、粒子説の苦しい説明も完全に突っぱねられ無く根拠バトルで後れをとり非主流になった。
その歴史的事実はずっと否定してないでしょ。
本当にこの話に拘る意味が分りません。
エーテルに矛盾があったから当時の科学界から完全に棄却されるべきだったとか言う主張ですか?
違いますよね。何か本質を見失ってるように思います。
>量子力学も特殊相対論も、どういう場合に効果を現し、古典物理と異なる結果を示すかが、明らかになっているから、矛盾はありません。鉄より硬い物質の中を、物体が動き回るのは、矛盾です。
ここも本質的にはどうでも良いことですが、一応突っ込んどきます。
‘当時は”明らかになっていません。後知恵です。歴史学者の誤謬です。
それに現代もなぜそうなるかは明らかではありません。繰り返しますがそう思うなら具体的に説明してご覧なさいな。無理ですから。
>論点を拡散させず、1つずつ片付けるために、まず最も具体化しやすい、地動説と波動説の矛盾の話を選びました。教育の話は、私の考えをすでに述べましたが、必要ならあとから継続しますから、今は矛盾の話に集中してください。
でこの話で何をしたいのでしょうか?矛盾があるのに研究するのはけしからん、とかですか?
矛盾があろうとそれ以上に信じるに足る根拠があったから研究を続けた、それだけの話ですよ?
IDもそうすりゃ良いじゃない、とこちらは言ってるだけです。
はい。では
>さて、ID論は、過去の特定の進化を「品種改良としての観察事例」と主張し、IDを否定する側は、同じ進化を「自然選択としての観察事例」と主張します。同じ構造でしょう。
の同じ構造では無い点を説明します。
自然選択や波動性などは性質やルールを表します。「自然選択としての観察事例」などは今も昔も未来も基本的に変わらない普遍的、必然的関係から導き出されたモノです。
一方、品種改良はそれを行う生物などのシステムの存在を推測するモノで過去や未来に存在した、する可能性は否定できませんが、あくまで可能性だけです。
サイコロで1が出る確率は今も昔も1/6です。
でも今サイコロを振って1が出たから昨日振った時も1が出たとは断言できませんよね。
そんな違いです。
遺伝的浮動(genetic drift)とは 集団の大きさが小さい場合,あるいは季節,飢餓などの要因によって集団が小さくなったとき,
偶然性によってある遺伝子が集団に広まる現象をいう.
この様に解説されています。
Wikiでは、
遺伝的浮動(いでんてきふどう、genetic drift)とは、無作為抽出の効果によって生じる、遺伝子プールにおける対立遺伝子頻度の変化である。[1]機会的浮動ともいう。
この対立遺伝子頻度の変化には自然選択の効果は含まれていない。
こんな解説です。
勿論ここには突然変異の話は何処にも出てきません。
それが総合説とやらでは自然選択と並ぶ進化のエンジンになっている、と説明されたりしています。
中立説の説明でも
生存に有利な変異が自然選択されるだけでなく、自然選択に対して中立な(有利でも不利でもない)変異が偶然的要因である遺伝的浮動によって集団内に蓄積し、
これが進化の主要な要因とみなされるという考え。
と説明されたりしています。
こんな事は木村博士は言っていません。
中立的な分子進化と表現型の進化の関係は不明と言っているのです。
つまり大嘘ですね。
全ゲノム重複はゲノム変異上のビッグイベント、それは取りも直さず進化上のビッグイベントであり、
原生動物のDNAの解析から、
「4億5000万年以上前に2種の魚類が交雑し、その過程で2倍の染色体数を持つ新たな雑種が生まれました」
それが多様な有顎脊椎動物の誕生を生んだ。
という主張もなされています。
ゲノム重複、重複遺伝子はスペア、つまりゲノムの冗長化であり、それが生物の劇的な進化をもたらした、
と考えられますが、実際その詳しいメカニズムは未解明です。
重複遺伝子が環境適応性を高度に高めることは現在よく知られていますが、進化において
実際具体的にどのように作用してきたのかも未解明です。
何れにしろその辺りの過去におけるゲノム上に発生した一連のイベントが進化のカギを
握っているとみて間違いないでしょう。
"On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life"
これが「種の起源」の原題ですね。
『自然選択という手段、または生存闘争の中で好ましいとされる種が保存される事による種の起原について』
これはWikiに記載されている和訳ですが、当初の訳があまりに稚拙だったので、こちらが編集して修正した訳です。
編集は誰でもできますからね。
ここでダーウィンは生存闘争、自然選択、という基本概念を提示しています。
それによって「種の起源」がもたらされると言っている訳です。
生存闘争、自然による選択、ともに競合者が必要ですね。
そして何度も言ってきたように、今日選択されなかった、つまり敗れ去った競合者が存在したという証拠はダーウィンが提示てきていないのみならず、化石証拠はもとよりあらゆる現象の中で観察された事実はありません。
進化論vsID論と言う対決構図は、より正確に言い換えれば進化の過程に設計者が介在するかしないかと言う議論になります。
設計者が介在するかしないか、これ以外の選択肢はないですね。
1かゼロかです。
従って、その設計者の実体が一体何のか、その介在の方法がどんなものか、それらは議論の論点ではありません。
介在したかどうか、その判断が問題の核心であり、議論すべき論点です。
それを実体は何だ、どの様な方法で介在した、それを示せなければID論は成立しない、この様に主張するのは論点のすり替えでしかありません。
ID論の本質は、設計者の存在を示す事であり、その実体や介在方法を示すものではありません。
ソレに関して言えばそれは不可知論の範疇です。
重力の本質が示せないのと全く同様の話です。
言い換えれば、知性の本質が不可知であるのと同様の事です。
ID論否定論者は知性に対する理解自体が不足していますね。
学術分野にも色々ありますが、進化論に関して最も大きな問題は科学では無いものが科学だと信じられている事です。
現在主流とされる総合説もダーウィン進化論がベースになっています。
それを科学だと主張している訳ですから、それはつまりダーウィン進化論を科学だと信じている訳ですね。
この空想と科学の区別が付けられない致命的な誤謬を長年にわたって犯し続けています。
かれらはID論を非科学的だ、宗教だと言って排撃する訳ですが、では彼らの信じているダーウィン進化論の一体どこが科学なのか。
自然選択が観察されたとする数少ない実例であるダーウィンフィンチにしても工業暗化にしても、全く厳密に自然選択を説明できるものではありあません。
繰り返し説明してきた通り、それは単に都合の良い変異が起こりさえすればそれを自然選択と極め付ける、自然選択の工程に対する完全な無理解が生むものです。
自分達が科学でなく癖に相手を非科学と論難する。
それが彼ら進化論者の採っている態度です。
科学の方法論に対する無知、無自覚。
長くに亘ってアカデミズムで科学的と主張されてきたからと言って、それが科学である根拠にはなりません。
科学であるためには、どうしても科学であると主張したいなら、科学の方法論に則って、事実に依る証明を行ってもらいましょう。
「矛盾」に関して、
>‘当時は”明らかになっていません。後知恵です。歴史学者の誤謬です。
>それに現代もなぜそうなるかは明らかではありません。繰り返しますがそう思うなら具体的に説明してご覧なさいな。無理ですから。
「矛盾」という言葉を誤解しておられます。あなたは、ある観察事象があり、原理が未解明の場合を矛盾というのですよね。それは矛盾ではありません。量子の二重性も、光速度の一定も、観察事象として一貫してるからです。>>255 では、量子の二重性を認めるのに、
>エーテルに関しては許さない理屈が通りませんね。
と言われました。なぜ、量子の二重性は認めるが、エーテルは認めないのか。理由は以下のとおりです。注意して、思い込みを排して、読んでください。
粒子と波動の二重性は、それが成立する条件(量子レベル)と成立しない条件(量子より大きなレベル)が分けられており、両方の観測事象が整合できるのです。
よろしいですか。二重性が成立する法則と、成立しない法則は、適用範囲が異なり、それを分ける基準が、量子レベルか否か、「∆x∆p = ħ/2」の∆xと∆pを無視できるか否かです。この基準自体が、再現性がある観測事象です。想像の産物ではありません。
なぜ「∆x∆p = ħ/2」なのかは未解明でも、「∆x∆p = ħ/2」に従うことは疑われません。どういう条件で二重性が現れるかは分かってるから、トンネルダイオードのような工学応用ができ、技術者は自分が設計した製品を、自信をもって送り出せます。動作を予見できるからです。
ところが、エーテルは、非常に硬い物質が空間を充たす、というだけです。
18世紀の波動理論では、光波動も、質量と弾性を持つ物質(エーテル)の振動なのです。ばねを伝わる波と同じです。質量と弾性をもつ物質なら、我々を含むすべての物体と変わりませんから、接触すると当然抵抗が生じます。ゆえに、エーテルが硬いことと、我々がエーテルの中を自由に動くことが、両立できません。
光が伝わる → エーテルは硬い
我々が動く → エーテルは柔らかい
もし「∆x∆p = ħ/2」と同様に、エーテルと他の物質を分ける基準があるなら、話は別ですよ。同じ「硬い物質」でも、我々に干渉する鉄と、干渉しないエーテルを区別する基準があるなら、矛盾ではありません。でも、そんな基準の存在を示す観察事象はありませんでした。
結局、その基準は19世紀に発見された電磁波が確立しました。光は媒質のない波であり、空間を充たす硬い物質が不要になりました。しかし、その知見がない18世紀のエーテル理論は、適用範囲を分ける基準もなく、「硬い」と「柔らかい」という、対立する事象を両立させていたのです。
これが、私がいう「矛盾」です。あなたがいう「矛盾」との違いが分かりますか?
理解の一助として、エントロピーの起源問題も説明します。これは、熱力学第2法則から出発して、ロジックを詰めてゆくと、矛盾を含む結論に達してしまうという、純粋な論理の問題です。しかし、今の我々が観測する事象は、1つの例外もなく第2法則に従うから、事象としての矛盾はありません。ファインマンたちが、論理矛盾を承知の上で、第2法則を支持する理由は、ここにあります。
粒子と波動の二重性:不整合に見えても、区別する基準があるから不整合ではない
熱力学第2法則:観測事象に不整合はない
エーテル:観測事象の不整合があり、区別する基準がない
ゆえに、エーテルのみが、私がいう矛盾なのです。
>自然選択や波動性などは性質やルールを表します。「自然選択としての観察事例」などは今も昔も未来も基本的に変わらない普遍的、必然的関係から導き出されたモノです。
>一方、品種改良はそれを行う生物などのシステムの存在を推測するモノで過去や未来に存在した、する可能性は否定できませんが、あくまで可能性だけです。
*自然選択が起こる条件があれば進化が起こる
*品種改良者がいれば進化が起こる
どちらも、再現性のある観測事象だからルールだと思いますよ。そして、どちらも過去に起こったことは、観測できません。
個別の進化が、どういう自然選択だったのか、それとも品種改良だったのかは、むろん可能性の話です。どうせ過去の進化の仮説は、可能性を論じるものです。羽ばたきながら木の幹を駆け上がる恐竜が鳥に進化した、というのも可能性です。
16世紀の地動説と18世紀の光波動説は、問題の性質が異なります。この2つには、上記のような物理レベルの矛盾、つまり他の観測事象と両立できない問題があるが、品種改良にはそれがありません。1億年前に品種改良を行う生物がいても、それと両立できない観測事象はない、ということです。
そうなると、仮説の蓋然性は、IDより、地動説と光波動説の方が、相対的に低いという結論になります。
マイヤーは、インテリジェント・デザイン論を次のように説明する――
前提1:徹底的な研究がなされたにもかかわらず、大量 の特定された情報を生み出す能力を示すいかなる物的原因も発見されていない。
前提2:知的原因は、大量の特定された情報を生み出す能力をこれまで示してきた。
結論:知的デザインが、最上の、最も因果論的に有力な、細胞の中の情報の説明を構成する。
マイヤーは、IDに対してこれまで向けられたさまざまな議論を検討するのに2つの章を割いているが、私はある人たちが言っている、IDは反証不可能であり「テスト可能な予言をすることができない」から科学ではない、という反対意見を手短に取り上げることにする。マイヤーは、この反論は完全に間違っている、その理由は特に「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」ことを示すだけで、あるいは特定された情報が「生命体の中に存在していなかった」ことを示すだけで、現実に反証できるからだと言う。予言については、IDのほうが、対抗する唯物論的進化理論よりも「ジャンク」DNAの価値を、よりよく予言できたことをマイヤーは指摘する。
つまり、
「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」
事があり得ない事が証明されれば、背理法に依ってその情報に知性が介在することが証明されます。
それを否定するためには逆に上記条件の下にその結果が生じる事が証明できればいい訳です。
どうしてもID論を否定したければ、それをやってもらいましょう。
アインシュタインが最後までその存在の同意を拒んだ量子世界にける因果律では説明しきれない諸現象は現在事実として認められ、それらは世界認識のパラダイムシフトを要求しかねない状況にあります。
人間の想像力はまだ事実に全く追い付けていません。
それが理解できないでいると結局科学も理解できないことになります。
どちらにしても自然選択論者はそもそも科学者ではありませんが。
ラマルクはダーウィンより50年以上前に生物進化を主張し、彼の描いたグランドデザインは
ダーウィンより余程優れたものです。
彼の主張した獲得形質の遺伝も、遺伝子の発見により基本的に否定されていますが、現在エピジェネティクス
(遺伝子修飾)は遺伝することが現在認められています。
エピジェネティクスは後天的に獲得され、それは遺伝子自体の変異ではありませんが、
遺伝子発現のオンオフを制御します。
それが遺伝することが現在確認されています。
さらに彼の構想は生物が単純なものから複雑なものへ進化するというもので、これは
進化の実態を正確にとらえたものです。
「生物学」(biologie)と言う言葉を最初に用いたのもラマルクで、その生物学の観点からも
殆ど無意味どころか進化論の混迷を招いているダーウィンに対して、本来遥かに意味のある存在です。
批判されながらも確固たる地位を築いたダーウィンに対してラマルクは不遇の生涯を送りました。
この不公平感は如何ともし難いですね。
>>329
>よろしいですか。二重性が成立する法則と、成立しない法則は、適用範囲が異なり、それを分ける基準が、量子レベルか否か、「∆x∆p = ħ/2」の∆xと∆pを無視できるか否かです。この基準自体が、再現性がある観測事象です。想像の産物ではありません。
波動性も再現性がある観測事象ですよ。
適用範囲が異なる?でしたらエーテルも光に限定する適用範囲にすりゃいいじゃないですか。
そもそも適用範囲が異なると言うのも後知恵です。ミクロの世界では古典物理が通用しないって当時の人間が手放しで理解してたと思いますか?
>同じ「硬い物質」でも、我々に干渉する鉄と、干渉しないエーテルを区別する基準があるなら、矛盾ではありません。でも、そんな基準の存在を示す観察事象はありませんでした。
光が波動性を示すと言うことがまさにその観察事象です。
>理解の一助として、エントロピーの起源問題も説明します。これは、熱力学第2法則から出発して、ロジックを詰めてゆくと、矛盾を含む結論に達してしまうという、純粋な論理の問題です。しかし、今の我々が観測する事象は、1つの例外もなく第2法則に従うから、事象としての矛盾はありません。ファインマンたちが、論理矛盾を承知の上で、第2法則を支持する理由は、ここにあります。
光の波動性も当時ロジックを詰めていくと貴方の言う矛盾を含む結論に至ります。
しかしながら我々が観察する事象は例外なく我々が自由に動ける状態で光が伝わります。当時の波動説支持派が矛盾を承知で支持する理由ですね。
>粒子と波動の二重性:不整合に見えても、区別する基準があるから不整合ではない
>熱力学第2法則:観測事象に不整合はない
>エーテル:観測事象の不整合があり、区別する基準がない
>ゆえに、エーテルのみが、私がいう矛盾なのです。
粒子と波動の二重性:不整合に見えても、区別する基準があるから不整合ではない
熱力学第2法則:観測事象に不整合はない
エーテル:観測事象の不整合はなく、区別する基準もあると言えばある
ゆえに、エーテルのみが、除外するのは違うと判断します。
んで、もう一度問いますが、このやり取りに何の意味があるんですか?
私が仮にエーテルは矛盾があるから棄却するべきだったと認めたところで何になると言うのですか?
当時の人の多くも同様の考えで粒子説を主流に取り上げたと言うだけですよ?
私がエーテルを科学的思考として取り上げるのを間違いでは無い、と言っているのは当時の波動説支持派の思考に則ってのことです。
当時の非主流の方々が研究を続けたのは科学的に真っ当なことであると言ってるだけです。
当時のエーテル研究者は頭悪いとか、そう言うことが言いたいんですか?
目的を述べて下さい。
何か本質を見失ってるようにしか感じませんよ。
>*自然選択が起こる条件があれば進化が起こる
>*品種改良者がいれば進化が起こる
>どちらも、再現性のある観測事象だからルールだと思いますよ。そして、どちらも過去に起こったことは、観測できません。
自然選択は普遍的規則です。過去も未来も変わらぬ法則であり性質です。
品種改良者の存在は物質的なものでそれの成り立ちに再現性はありません。
存在した証拠がないものを認めることこそ無理筋です。他に代替案がないならそれもアリでしょうがね。
「物理的矛盾に‘見える”ことがあろうが確たる証拠があるもの」と「確たる証拠のないもの」、貴方の考えはどうあれ、多くの人間は前者の方を支持してると言うだけです。
科学の方法論を全く踏襲していないのが自然選択論ですが、何故か自然選択論は科学的であると主張されその様に信じ込んでいる人たちがむしろ多数派だと言うのは大変理解に苦しみます。
繰り返し述べてきましたが、ダーウィン自身科学と言う言葉を殆ど使っていません。
ダーウィンが科学の方法論を正しく認識していた形跡もありません。
彼の主張は基本的にこの様に考えれば説明できると言う彼の想像の世界での話です。
その後1930年代の集団遺伝学者と称される人たちによって科学の体裁を整えたかのように錯覚されますが、これも何一つ科学の方法論に則っていません。
自然選択論は思い込みと錯覚に依って支えられているのです。
ダーウィンが唱えた自然選択論は以下の2点においても完全に否定されます。
進化が漸進的であるどころか全ての化石証拠は進化が飛躍していることを示している。
進化の過程において進化が選択された結果である証拠が全く存在しない。
微細な変異が生じる。
その変異が環境によって選択される。
その微細な変異が積み重なり進化が起こる。
これがダーウィンモデルです。
この全ての過程の化石証拠が存在しません。
存在するのは階段状に跳躍しながら進化を重ねる化石証拠たちです。
自然選択論を振りかざす人たちは例外なくその自然選択によって進化がもたらされる工程を正確に理解していません。
これは本当に驚くべき事です。
変異⇒選択⇒集団中に固定と言う各工程全ての理解が全く不十分です。
それだけいい加減に考えていながら尚科学であると主張しているその神経は理解を超えます。
極めて安易にそれが成し遂げられると考えているんですね。
それを初めから前提と考える、つまり宗教です。
そしてそれが宗教的な態度であることに全く気付きません。
特に安易に考えているのが変異が選択される過程です。
それはある特定の変異だけが選択される必要があります。
この選択される工程が成立する為にどんな条件が必要とされるか、そこに全く考えが及んでいません。
致命的な想像力の欠如です。
その工程が具体的な事実と照応して確認されなければ、科学としては成立しません。
そこが理解できないんですね。
進化には方向性がないと言う自然選択論者が良くいますが、トンデモナイ大嘘です。
進化の実相を見れば一目瞭然です。
方向性が存在しなけれあらゆる進化は成立しません。
これは極めて自明、議論の余地がありませんね。
進化の不可逆性、種の分化、複雑化、多様化、これら全ての説明が付きません。
人間がサルに戻ったり、鳥が恐竜になったりすることは決してありません。
A地点からB地点へ、種の変異には必ずスタート地点とゴールが存在します。
突然AからBに変異するのであればその過程は必要ありませんが、漸進的に移行するのであればその中間地点は全て埋められなければなりません。
あっちに行ったりこっちに来たり、ウロウロしながら辿り着ける筈もないし、勿論そんな化石証拠も存在しません。
ダーウィンの描いた系統樹のスケッチですら、点と点を結ぶ線が必要です。
線は方向性が定まらなければ引く事は出来ません。
分子進化系統樹でも変異の過程で方向性が存在しているのは明らかです。
方向性がないと言いう主張は全く進化の態様を頭に描くことが出来ない、つまり決定的な想像力の欠如の産物でしかありません。
最底辺が理解できないのは当然の話ですが、高名な研究者たちも事実が全く理解できないのには驚きますね。
自然選択は当然そのプロセスが必要です。
科学的であるためにはその検証が最重要であることは言うまでもありません。
この最も基本的な事実が彼らには十分理解できていない。
これは何時も書いていることですが、真に驚くべき事です。
先ず自然選択の緻密なプロセスを彼らは明確に頭に描くことが出来ません。
極めて曖昧な概念しか持ち合わせていないにも拘らず、それを科学的と信じ込みます。
環境に有利な変異が起こればそれを自然選択と無検証に称します。
これもずっと言い続けている言事ですが、環境に有利な変異の原因は自然選択以外にも説明の手段が存在します。
この基本的な事実を見落としている、若しくは見て見ぬ振りをする。
その部分の検証を飛ばしている訳です。
これもずっと言い続けてきましたが、それは宗教的な態度です。
それに気付かない、或いは気付かない振りをする。
その上に現代の総合説は成り立っています。
総合説の主張は殆ど全て妄想です。
事実による正確な裏付けがない事柄を妄想によって正しいと強弁します。
これは正にダーウィンが取り続けた態度ですね。
彼らは先ず自然選択のプロセスの精密なモデルを作成するところから始めなければなりません。
その上で検証がスタートします。
それが理解できないと彼らは決して袋小路から脱出できません。
どうしてもそれが出来ないのであれば、先ず進化とゲノムの変異を正確に学習しましょう。
事実を客観的に予断に囚われずに正確に観察することです。
それが科学です。
科学の意味をしっかり理解しましょう。
科学者を名乗りたいのであればね。
進化はゲノムの突然変異、つまり単塩基置換、ゲノム重複、そして遺伝子の水平伝播、取り込み、共生とそれによる遺伝子取り込み等によってもたらされます。
これらはエラーではありません。
エラーは基本的に有害、ゲノムは強いエラー修復機構を有しています。
それらの変異の原因、何故その様な変異が生じたかについては現在の所殆ど分かっていません。
しかし説明不能だからと言ってまさかその想定が非科学的だとは誰も言わないでしょう。
しかし実際殆どそれと同じ事を言ってるのが自然選択論者です。
それらの変異は跳躍的な進化をもたらします。
自然選択論者、ダーウィンは進化は全て漸進的であると主張します。
全く事実と反する訳です。
科学は事実を解明する学術分野である、と定義することが出来ます。
事実の対極にあるのは、虚構、想像、信仰、と言った概念になります。
科学とはそもそも基本的に西欧文明によりもたらされたものです。
そして、西欧文明を中世までの西欧文明を覆っていたのはキリスト教です。
キリスト教は宗教であり信仰です。
つまり、中世までの文明は事実と虚構の区別が曖昧な状態だったわけです。
その事実と虚構の区別が曖昧なカオス状態から脱却する先鞭をつけたのが、
ガリレオからニュートンに至る近代物理学の系譜です。
それは事実を数理的に説明する、と言う普遍性を持つ試みでもあります。
ファーブルの見解は自らの昆虫の観察に基づいており、つまり基本的に事実に立脚しています。
彼は「本能は、獲得されるものではなく、もともと具わっていたもの」と明言します。
ダーウィンの様に、本能の本質から敢えて目を背けるようなことはしません。
ジガバチの話は有名ですね。生まれながらに麻酔の名人、という話です。
ガの幼虫の極めて限らた一点に針を刺し死に至らしめず食用にする話です。
それはダーウィンが述べるように何らかの過程を経て獲得されたものでは無くて、最初から生まれながらに本能として
備わっている本能だと言う主張です。
極めて詳細な観察の結果であり、正しいでしょう。
これに対してダーウィンが有効な反論したという記録はありません。
ファーブルはダーウィン進化論の痛烈な批判者であり、昆虫記のターゲットはダーウィン進化論です。
ダーウィンと同時代に主張されたファーブルの批判は未だにダーウィニストによっても
克服されていません。
ファーブルは昆虫の狭食性も問題にしています。
パンダが笹しか食べない、これも同様に自然選択論では説明困難です。
>*自然選択が起こる条件があれば進化が起こる
>*品種改良者がいれば進化が起こる
>どちらも、再現性のある観測事象だからルールだと思いますよ。そして、どちらも過去に起こったことは、観測できません。
過去に起こったことは直接観測できないのだから、1億年前の品種改良も再現性のある観測事象ではないですよね。
現在、品種改良は確認できていますが、1億年前にそれがなされたとするためには何が必要なのか考えてみましょう。
進化学のように自然史を扱う科学の場合、過去に起こったことは観測できませんから、化石や塩基配列など間接的な証拠を積み上げます。j
直接的な観測が可能な物理・化学の領域でも、波動、粒子両説が矛盾をはらんだように、一筋縄ではいきませんね。
でも、両者に共通するのは、判断がなされる時点で、客観的に確かだと思われることを基盤にしている、ということです。
自然理解というのは「人間の解釈」です。
科学という手法は、人間の解釈が過去いかに不十分だったかという認識・了解をもとに方法論として組み立てられたものです。
まずは人の認識能力を疑い、「事実とは何か」という問いを携えながら、少しでも「確かさ」を求める方法です。
インテリジェントデザイナー論は、そうした科学の方法論を踏まえていません。
波動説、粒子論、量子論も地動説も大陸移動説も、少なくともその当時確認された「事実」をもとに主張され、その後は、とりあえずさんの言う根拠バトルを通して確かさを確認していきます。
でも、インテリジェントデザイナー論にはそれがないんです。
せいぜい論理的な整合性という方向での主張、自然選択と1億年前の品種改良を等価に置き、どちらも再現性のある観測事象だと思弁的に捉えるしか方法がない。
そんなことでは、誰も理解できず、納得できません。
インテリジェントデザイナー論が基礎に据えるデザイナーの意思が客観的に確認できない以上、科学理論ではありえないんですから。
科学の方法論を全く踏襲していないのが自然選択論ですが、何故か自然選択論は科学的であると主張されその様に信じ込んでいる人たちがむしろ多数派だと言うのは大変理解に苦しみます。
繰り返し述べてきましたが、ダーウィン自身科学と言う言葉を殆ど使っていません。
ダーウィンが科学の方法論を正しく認識していた形跡もありません。
彼の主張は基本的にこの様に考えれば説明できると言う彼の想像の世界での話です。
その後1930年代の集団遺伝学者と称される人たちによって科学の体裁を整えたかのように錯覚されますが、これも何一つ科学の方法論に則っていません。
自然選択論は思い込みと錯覚に依って支えられているのです。
都合の悪い事からは目を背ける。
正に宗教的な態度ですね。
設計者の存在が極めて明示的に示されるのがゲノムの暗号情報です。
四文字でコーディングされた巨大なプログラムです。
さらにその遺伝子は修飾されています。
その驚くべきアルゴリズムが生命と生命活動を生み出します。
それが偶々出来てしまったと考えることが如何に愚かしい事か、普通の分別があれば当然のように分かるはずです。
それがそうではないんですね。
RNAワールド仮説がありますが、これも当然コーディングが必要です。
何故どーやって知的なコーディンが行われたのか、この問いに答えられる者は誰もいません。
ただ知的な設計なしには存在し得ないことは極めて明白です。
そんな明白な事実から徹頭徹尾目を逸らします。
それで科学を名乗ろうとする、それは厚顔無恥と言う話です。
自然選択論者に共通している特徴は決定的な想像力の欠如なので、そういった事にすら考えが及びません。
彼らの自然選択論に対する思い込みは正に宗教者の態度ですから、そもそもそもそう言った事柄に対して想像を巡らそうとする意志が存在しないんでしょうね。
その点において完全に科学者失格と言われても彼らは何も抗弁できない筈です。
ゲノムだけに限定して観察してもその驚くべき周到さ、計算され尽くした複雑さ、精密さはそれ自体人智を遥かに超えるものです。
現在急速にゲノムのメカニズムは解明されつつありますが、それはまだゲノムの持つ巨大なシステムのほんの一部にしか過ぎません。
そんなものが自然選択の結果で説明できる訳もありあせません。
そんなことにすら、彼らは想像が及ばない訳です。
彼らのそんな存在自体、想像を絶するものですね。
自然選択論者に共通している特徴は決定的な想像力の欠如なので、そういった事にすら考えが及びません。
彼らの自然選択論に対する思い込みは正に宗教者の態度ですから、そもそもそもそう言った事柄に対して想像を巡らそうとする意志が存在しないんでしょうね。
その点において完全に科学者失格と言われても彼らは何も抗弁できない筈です。
ゲノムだけに限定して観察してもその驚くべき周到さ、計算され尽くした複雑さ、精密さはそれ自体人智を遥かに超えるものです。
現在急速にゲノムのメカニズムは解明されつつありますが、それはまだゲノムの持つ巨大なシステムのほんの一部にしか過ぎません。
そんなものが自然選択の結果で説明できる訳もありあせません。
そんなことにすら、彼らは想像が及ばない訳です。
彼らのそんな存在自体、想像を絶するものですね。
自然選択論は極めて稚拙です。
それに対して進化の過程は極めて複雑で精妙です。
とても偶々の変異とそれに対する環境による生存率の制限で説明できる代物ではありません。
自然選択論において自然が行使できる唯一の力は生存率の制限です。
それによって全てが成し遂げられるとダーウィンは言っている訳です。
それが科学的であると主張し信じ込んでいる人たちが未だにアカデミズムの中央に陣取っているんですから呆れます。
中立説は自然選択論に対立こそすれ補強しないものであることは言うまでもありませんが、それがあたかも自然選択と折り合って説明可能であると言うデタラメなレトリックが弄されます。
まず何が必要か、それは自然選択論を一度完全にリセットして素直に進化の事実と向き合う事です。
それが出来ない限り、進化論が科学として成立することは決してありません。
ID論が声高に叫ばれているのは米国です。
背景には多くのプロテスタントの存在があります。
米国大統領もID論に言及しています。
従って、裁判でその教育問題が取り上げられるような事態になる訳ですね。
ここで一つの誤解と混同があります。
ID論は別に進化自体を否定していないんですね。
その様に主張しているのは聖書原理主義者たちです。
従って、進化論vsID論と言う対決構図は誤解を招くものです。
ID論は謂わば有神論的進化論です。
進化の事実は認める、科学的な知見は全て受け容れる、それがID論者の姿勢です。
つまりID論が非科学的と言われる根拠は何処にもありません。
知性ある設計者の想定は、逆に科学的な知見からロジカルに導かれるものです。
それは背理法であり消去法です。
そのロジックが非科学的だと言ったら、数学の証明は成り立ちませんね。
ドーバー裁判の判事の判断は、それらが全く理解出来ない偏見に基づいています。
彼の論拠はID論批判者のID論は宗教であると言う一般的な見解をそのまま口移しにしているだけで、彼自身が思考して判断したものではありません。
元より科学的な知見の乏しいこの判事にはこの裁判を裁く資格はありません。
鞭毛モーターの問題も全く検証できずにID論教育違憲の判決を下します。
それをあたかもID論裁判のスタンダードであるかのように見做すのはとんでもない誤謬ですね。
マイヤーは、インテリジェント・デザイン論を次のように説明する――
前提1:徹底的な研究がなされたにもかかわらず、大量 の特定された情報を生み出す能力を示すいかなる物的原因も発見されていない。
前提2:知的原因は、大量の特定された情報を生み出す能力をこれまで示してきた。
結論:知的デザインが、最上の、最も因果論的に有力な、細胞の中の情報の説明を構成する。
マイヤーは、IDに対してこれまで向けられたさまざまな議論を検討するのに2つの章を割いているが、私はある人たちが言っている、IDは反証不可能であり「テスト可能な予言をすることができない」から科学ではない、という反対意見を手短に取り上げることにする。マイヤーは、この反論は完全に間違っている、その理由は特に「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」ことを示すだけで、あるいは特定された情報が「生命体の中に存在していなかった」ことを示すだけで、現実に反証できるからだと言う。予言については、IDのほうが、対抗する唯物論的進化理論よりも「ジャンク」DNAの価値を、よりよく予言できたことをマイヤーは指摘する。
つまり、
「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」
事があり得ない事が証明されれば、背理法に依ってその情報に知性が介在することが証明されます。
それを否定するためには逆に上記条件の下にその結果が生じる事が証明できればいい訳です。
どうしてもID論を否定したければ、それをやってもらいましょう。
まあ、何を言っているかを理解できればの話ですが。
インテリジェントデザイナー論の根拠といえば、ベーエの有名な「還元不能な複雑性」ですが、そのココロは、生物を含むあまりにも複雑な自然が、デザイナーの意思なしに存在しうるわけがない、ということでしたね。
そう、ペイリーの荒野の懐中時計という譬えが示すものと同じです。
科学は、その可能性を否定しません。というより、方法論的に否定できません。
ドブジャンスキーのように、信仰を持ちつつ進化理論を基礎づけた科学者がいるのもあたりまえのことです。
「事実」に基づいて自然を解釈しようとするなら、事実とされるものが本当に事実なのかということに焦点があたり、科学者個人の思いとは異なる客観的な検証になりますから。
「還元不能な複雑性」は既に却下されていますが、なおデザイナー論を主張するとすればデザイナーそのものを客観的に証明するしかないでしょう、…
というのは無理筋で、そもそもデザイナーの意思は人知を超えてるんだから、人間が関われない領域ですもんね。
なんか面白くないことを書いちゃったな、とは思いますが、要するにデザイナー論は科学理論ではない、ということをわかってもらえれば十分です。
そうそう、Kenさん、デザイナー論による自然の捉え方については、神って誰さんが繰り返し示してくれているので、参照してくださいね。
マイヤーは、インテリジェント・デザイン論を次のように説明する――
前提1:徹底的な研究がなされたにもかかわらず、大量 の特定された情報を生み出す能力を示すいかなる物的原因も発見されていない。
前提2:知的原因は、大量の特定された情報を生み出す能力をこれまで示してきた。
結論:知的デザインが、最上の、最も因果論的に有力な、細胞の中の情報の説明を構成する。
マイヤーは、IDに対してこれまで向けられたさまざまな議論を検討するのに2つの章を割いているが、私はある人たちが言っている、IDは反証不可能であり「テスト可能な予言をすることができない」から科学ではない、という反対意見を手短に取り上げることにする。マイヤーは、この反論は完全に間違っている、その理由は特に「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」ことを示すだけで、あるいは特定された情報が「生命体の中に存在していなかった」ことを示すだけで、現実に反証できるからだと言う。予言については、IDのほうが、対抗する唯物論的進化理論よりも「ジャンク」DNAの価値を、よりよく予言できたことをマイヤーは指摘する。
つまり、
「大量 の機能的に特定された情報が純粋に化学的・物理的先行条件から確かに生ずる」
事があり得ない事が証明されれば、背理法に依ってその情報に知性が介在することが証明されます。
それを否定するためには逆に上記条件の下にその結果が生じる事が証明できればいい訳です。
どうしてもID論を否定したければ、それをやってもらいましょう。
まあ、何を言っているかを理解できればの話ですが。
勿論このスレの投稿者のレベルでは到底答えられる話ではないのは言うまでもありあせん。
ID論の証明は、従来の科学的証明とは異なります。
その理由は「知性」を証明する必要があるからです。
この知性の存在自体が従来の科学の方法論には馴染みません。
知性の定義自体が科学的には中々説明しづらいものだからです。
だからと言ってそれを非科学的と非難するのはお門違いですね。
では、人間の持つ知性は一体どう説明するんでしょう。
我々は人間の持つ知性に対してさえその実体に十分な説明を与えることは出来ません。
しかし「知性」が無ければ文明が成り立たない事は誰でも理解できる紛れもない事実です。
逆にこの文明を成り立たせているものが知性であると定義することも出来るでしょう。
ではその知性の由来は一体何処から来てるのか、それを完全に説明することが出来る人は誰もいないでしょう。
しかし「知性」が存在するのは紛れもない事実ですね。
それを否定する人は誰もいないでしょう。
それを理解するのがID論の理解にとっても極めて重要な事です。
>当時のエーテル研究者は頭悪いとか、そう言うことが言いたいんですか?
>目的を述べて下さい。
>何か本質を見失ってるようにしか感じませんよ。
これだけ言葉を尽くしても分かりませんか。目的は、現在のID論より、16世紀の地動説や18世紀の光波動説の方が、相対的に蓋然性が低いと論証することです。これは科学の進歩に巨大な貢献をした地動説・光波動説を評価することにもなります。「スパモン」などより比較対象として、よほど意味がありますよ。
18世紀の光波動説について、私は次の2点を言ってきました。当時の知識体系では、
(1)波動説が根拠とする観測事象は、粒子説でも説明できる
(2)波動説に必要なエーテルは物理的な無理がある
過去の品種改良に(2)の問題はありません。ゆえに、光波動説と比べて相対的に支持しやすい理論である、というのが私の主張です。16世紀の地動説(なぜかこちらは無視を続けられますが)との比較でも、同じことがいえます。
>適用範囲が異なる?でしたらエーテルも光に限定する適用範囲にすりゃいいじゃないですか。
だめです。よく考えてください。エーテルを特別扱いする基準がありません。
*二重性が成立するかしないかを分けるのは? → 量子レベルの大きさか、そうではないか
*エーテルと他の物質を分けるのは? → エーテルか、それとも他の物質か(???)
前者は、量子レベルのいろいろな対象を調べて、二重性が成立するかを検証できるし、それは実際に行われています。光に見られる二重性は素粒子ならなんでも観測できるとド・ブロイが主張してから、多くの検証実験が行われてきました。ゆえに不整合の有無を判定する基準として使えます。
後者は基準になりません。18世紀の波動理論では、エーテルといえども質量と弾性をもつ「ばね」なのです。そうでなければ波を伝えることはできないからです。しかし、それでは観測事象と矛盾するから「エーテルは何が違うのか」と問われます。その時「違いはエーテルであること」と答えますか?
それでは、いかなる矛盾も矛盾でなくなり、合理性を検証する意味がなくなるでしょうが。
そんなことをするより、粒子説でも説明できるのだから、粒子説で説明すればよいではありませんか。粒子説では説明できない事象が発見されたのは19世紀で、18世紀にその知見はありませんでした。歴史家の誤謬に陥ってるのは、ご自身ですよ。
>そもそも適用範囲が異なると言うのも後知恵です。ミクロの世界では古典物理が通用しないって当時の人間が手放しで理解してたと思いますか?
まだ「基準」と「理解」の違いが分かってません。
ミクロの世界という切り口ができた時点で、適用範囲を分ける基準ができています。なぜミクロの世界は異なるかを「手放しで理解」はできなくても、そこには基準があり、ド・ブロイが提唱したように、その基準は検証可能です。
もし、二重性が成立する条件と成立しない条件を分ける基準を尋ねられて、両者の違いは、二重性が成立するかしないかで決まる、という回答があれば、それは基準になりません。エーテルを光に限定するという、あなたの主張の同類になります。
>「物理的矛盾に‘見える”ことがあろうが確たる証拠があるもの」と「確たる証拠のないもの」、貴方の考えはどうあれ、多くの人間は前者の方を支持してると言うだけです。
どうしても、この主張に戻ってきますね。ですが、粒子説でも説明できる事象では、確たる証拠になりません。光の波動性の確たる証拠が登場したのは、2重スリット実験です。もしかして、2重スリット実験の意味するところが、分かっていないのですか?
>自然選択は普遍的規則です。過去も未来も変わらぬ法則であり性質です。
>品種改良者の存在は物質的なものでそれの成り立ちに再現性はありません。
「自然選択」と「品種改良者」を比較するのが誤りです。比較するなら。
自然選択と品種改良 (どちらも、進化のメカニズム)
品種改良者と、自然選択で進化した生物 (どちらも、メカニズムの体現者)
品種改良でも進化は起こりますから、自然選択が普遍的規則なら、品種改良も普遍的規則です。
品種改良者が物質的な存在なら、羽ばたきながら駆け上がった恐竜も、物質的な存在です。進化の仮説に登場する生物すべてに言えることですよ。
ただし、冒頭で述べたように、今は、IDと自然選択ではなく、IDとかつての地動説・光波動説を比較しています。そこに集中してください。エーテルの説明は当然必要ですが、地動説も無視しないでくださいよ。
馬鹿げた自然選択論にしがみ付くのが如何に愚かか、それを少しでも理解できれば簡単に了解できます。
ダーウィン自身が認めた自説の弱点は結局何一つ克服できないばかりが、現実に見出されているのは全ての反証です。
彼に追随する信奉者たちは結局種の起源をよく読みもせずに極めて表面的な自然選択論に追随しているに過ぎません。
ダーウィンは自説の難点を自ら色々あげつらってそれに対して都度言い訳を述べていますが、難点の記述に9割以上を割いており、自説の擁護はごく短く、化石証拠の不存在こそ同じような言い訳を並べていますがその他の難点に関しての反論は極めて簡略でひたすら微細な変異の積み重ねねによって全て説明可能と述べるに留まります。
微細な変異の連続する化石証拠が存在しないことは彼自身種の起源の中で繰り返し言及しています。
その状況は現在に至るまで全く変わっていません。
どころか現代科学の知見はその全てを否定します。
つまり彼の追随者は種の起源をまともに読んでいない、という事です。
まさか化石知見に無知な研究者はいないでしょう。
自然選択論に科学的な証明が皆無であることは繰り返し述べてきましたね。
進化の証明は化石証拠に依るしかありません。
ダーウィン自身が繰り返し「種の起源」の中で述べている様に、化石証拠は存在しません。
現在に至るも状況は何も変わっていません。
もう一つは実験的証明です。
これは進化自体の証明にはなりませんが、分子レベルの進化に関して重要な示唆を与えます。
一つの例が有名なレンスキーの大腸菌培養実験です。
多くの人は誤解していますが、何か環境に有利な変化が起こったとしても直ちにそれが自然選択の結果であることの証明にはなりません。
環境に有利な変異は自然選択以外にも起こり得ます。
これも繰り返し述べてきましたが、ゲノムの環境応答性です。
エピジェネティクスでは環境によって遺伝子の発現がコントロールされそれが遺伝することが現在よく知られています。
それ以外にも未知のシステムが存在する可能性が十分にあります。
逆にそれが自然選択の結果であることを証明するためには自然選択の各工程が存在したことを証明する必要があります。
殆どの人たちがそれをよく理解できていません。
そもそも自然選択の起こる工程が理解できないでいますね。
つまり環境に有利な変異がおこればそれが自然選択の結果であるとするのは無知と無理解によるものでしかありません。
全ゲノム重複は表現型における進化の発現が急激にもたらされた事を示唆します。
それは逆に遺伝子変異が徐々にもたらされそれが逐次発現したとしたら進化の実現が困難である事を意味します。
キリンの首の話でも明らかなように、馬の形状からキリンの形状に変異するためには膨大な遺伝子上の同時的変異が要求されます。
ダーウィンが目の進化について一旦は自然選択では困難と否定的な見解を述べておきながら、その後続いてそれも微細な変異の積み重ねで可能との例の妄想を述べたてます。
その根拠のひとつとして、中間的な形態でも有利なものが存在し得ると言う訳ですが、あり得るではダメなんですね。
その微細な変異の全ての過程で有利である必要がある訳です。
そしてその方向性の変異と選択が連続して累積し続けなければなりません。
その具体的な過程を示せなければ駄目なんですね。
それが可能だと考えるのは、あまりに貧弱な想像力、これもまた自然選択論者に共通しています。
デカルト懐疑論の根本は思考の完全孤立です。
つまり自己認識の排他性の話です。
意識の個別性が認識できるのは自分でしかない、という事です。
そこに意識の本質があり、解明不能の理由でもあります。
簡単に言えば自分の意識を意識して深掘りでない人にはデカルトの懐疑論は何時まで経っても理解出来ないと言事です。
この個別性、単一性はまた物質では到底説明が付きません。
意識が遍在したら個別の意識は存在しえません。
物質ではその意識の局所性の説明が全く付けられません。
説明が付くと考えるの論の根本は思考の完全孤立です。
つまり自己認識の排他性の話です。
意識の個別性が認識できるのは自分でしかない、という事です。
そこに意識の本質があり、解明不能の理由でもあります。
簡単に言えば自分の意識を意識して深掘りでない人にはデカルトの懐疑論は何時まで経っても理解出来ないと言事です。
この個別性、単一性はまた物質では到底説明が付きません。
意識が遍在したら個別の意識あh存在しません。
物質ではその意識の局所性の説明が全く付けられません。
説明が付くと考えるのは、自然選択同様単なる妄想に過ぎません。
デカルト懐疑論の根本は思考の完全孤立です。
つまり自己認識の排他性の話です。
意識の個別性が認識できるのは自分でしかない、という事です。
そこに意識の本質があり、解明不能の理由でもあります。
簡単に言えば自分の意識を意識して深掘りでない人にはデカルトの懐疑論は何時まで経っても理解出来ないと言事です。
この個別性、単一性はまた物質では到底説明が付きません。
意識が遍在したら個別の意識は存在しえません。
物質ではその意識の局所性の説明が全く付けられません。
説明が付くと考えるの論の根本は思考の完全孤立です。
つまり自己認識の排他性の話です。
意識の個別性が認識できるのは自分でしかない、という事です。
そこに意識の本質があり、解明不能の理由でもあります。
簡単に言えば自分の意識を意識して深掘りでない人にはデカルトの懐疑論は何時まで経っても理解出来ないと言事です。
この個別性、単一性はまた物質では到底説明が付きません。
意識が遍在したら個別の意識あh存在しません。
物質ではその意識の局所性の説明が全く付けられません。
説明が付くと考えるのは、自然選択同様単なる妄想に過ぎません。
人間の視覚の脳内補正機能も驚くべきものがあります。
決してあるがままにものを見ている訳ではありません。
それは時として錯覚錯視として現象化します。
それは脳機能のエラーではなくて、必要であるからその様な補正機能を備えているからであり、その不都合な部分が偶々現出したのが錯覚錯視である訳です。
それは生命活動を営むため、つまり生存のために必要という事です。
自然選択論者はまたそれを自然選択の結果そうなったと主張する訳ですが、その僅かの齟齬も生物を簡単に死に絶えさせます。
そのプロセスに対する圧倒的な想像力の欠如、むしろ想像してみようとするする意思にすら欠ける。
怠慢と無能、残念ながらその様に表現せざるを得ません。
AI(コンピューター)はものを「見る」ことが出来ません。
彼らに出来るのは画像をデジタル処理することです。
モニターに画像を結像させることは出来ますが、別に彼らがそれを見ている訳ではありません。
それを「見る」ことが出来るのはモニターを見ている人間だけです。
画像処理の技術、画像のデジタル的な解析、それらは全て演算上のものです。
コンピューターは計算機ですからね。
脳機能もこれと同様の事が言えます。
脳内の電気信号によるデジタル処理は言ってみれば演算です。
デジタル処理された画像を見ている意識は脳内視覚野に限定されて存在している物ではありません。
思考する意識体もその所在を特定することは出来ません。
それにも拘らず、意識は個体にたった一つ、唯一の単体として存在します。
脳機能をいくら分析してみたところで、それが意識の実態に迫ることにはなりません。
それらの脳機能を統合している「何か」が意識です。
それが理解できないのに意識の存在を論じるのは無意味ですね。
設計問題を最も顕在化させるのがゲノムの暗号情報です。
暗号と言うと秘匿性と解釈する人たちもいますが、そうではなくて言ってみれば言語化です。
限られた文字で秩序立てられた意味を生成する。
アルゴリズムに基づく膨大な叙事詩です。
ゲノム情報の暗号性をコドンとアミノ酸の対照のみに限定して捉えようとする人たちもいますが、それは文法の基礎の基礎。
その文法に基づいて長大なストーリーが展開されます。
それを読み解く作業が現在急速に進められていますが、まだほんの端緒についたに過ぎません。
ストーリーを展開するためには勿論知性が必要です。
それも極めて明確な目的を持ったストーリーです。
知性が介在することなしに何故そんなストーリーを展開することが出来るのか。
それでも出来ると信じ込めるんですね。
これも呆れ果ててものも言えません。
地動説も波動説も粒子説も証拠があったから主張されたんです。
しかし品種改良説には証拠がありません。いま品種改良が行われているからといって、1億年前にも行われていたという主張の証拠にはなりません。
農作物の栽培は何千年も前から行われているんだから、1億年前にも行われていたに違いないという主張と変わりません。
「一億年前にも、確かに品種改良が行われていた」という証拠が必要です。
「鳥が飛翔能力を獲得するのは物理的に不可能なんだから、品種改良が行われたに違いない」なんて思弁じゃダメなんですよ。
光の波動説や粒子説、大陸移動説を生んだものと同様の、客観的に確かだと言える証拠が必要なんです。
>「自然選択」と「品種改良者」を比較するのが誤りです。比較するなら。
>自然選択と品種改良 (どちらも、進化のメカニズム)
どちらも生物自身がもつ性質に基づくものですが、違うところがあります。
自然選択は、変異に基づく環境との関わりが子孫の多寡に影響するという自然現象ですが、
品種改良は「品種改良を行う存在」が必要になります。
>品種改良者と、自然選択で進化した生物 (どちらも、メカニズムの体現者)
>品種改良でも進化は起こりますから、自然選択が普遍的規則なら、品種改良も普遍的規則です。
自然選択はもちろん「品種改良を行う存在」を措いていないので、自然選択と品種改良がともに普遍的規則だというなら、
デザイナーの存在が普遍的規則だということになりますね。
量子論における観測問題は様々な問題を提起します。
黙って計算しろ、と言う言葉は量子論の実用性を示すと同時に解釈問題に解決がない事を示しています。
解釈問題は量子論が発見されて1世紀以上が経過した今も全く解決されていません。
それは重ね合わせや量子もつれと言った現象としては事実として確認されている事象が一体何によってもたらされるのか、その先にどんなメカニズムが潜んでいるのか、それが全く知ることが出来ない事によります。
アインシュタインはそれらを事実として認めることを最後まで拒み、何か見落としている因果律があると考え続けました。
結果としてアインシュタインは敗れる訳ですが、かれの苦悩はそのまま解釈論の混迷を表しています。
観測問題が提起するものは複雑です。
シュレディンガーの猫は量子論に対するアンチテーゼとして提案されたものですが、波動関数が観測によって収縮するタイミングが機器の検知時点と考えればそこで猫の状態は確定する訳であり、何も悩む必要はありません。
それにも拘らず、収縮のタイミングをめぐる議論は一向に収束しません。
2重スリット実験とその様々なバリエーションによって提起される観測問題は意識の意味と深くかかわります。
波動関数は観測された時点で収束しますが、そこで言う測定とは観測して量子の動きが特定可能な状態がセッティングされた状態に置かれる事です。
そのタイミングで必ずしも人間が見ている必要はありません。
ただ人間が観測可能な状態である事が必要です。
観測用のカメラのスイッチを切った状態では波動関数は収縮しません。
それはあたかも量子がその観測可能な状態を何らかの手段により認識しているように見えます。
それはつまり量子が何らかの意識を持っていると言う可能性すら示唆します。
また、観測された時点で時間を遡って波動関数が収縮している、という状態も観察されます。
観測されなかったら波動関数のまま、観測された時点で過去の波動関数状態が書き換えられている、と言う訳です。
しかし収縮のタイミングに関しては解釈に混乱があります。
また、人間の意識により量子の動きに偏りが生じることも観測されています。
これは量子もつれが関係している可能性がありますが、そもそも意識の正体が不明なのでそれ以上解明の仕様がありません。
解釈問題が決着しない背景にはこの様なそれ以上の検出不能性、つまり量子を測定し観測する以上の事が現時点では全くなしえないと言う状況があります。
従ってそれは言ってればレトリックの世界になるので、あらゆる憶測が成り立ってしまいます。
そしてロジックの厳密性はないがしろにされがちです。
レベルは全く異なりますが、どこか進化論を想起させるものがありますね。
>>358
>これだけ言葉を尽くしても分かりませんか。目的は、現在のID論より、16世紀の地動説や18世紀の光波動説の方が、相対的に蓋然性が低いと論証することです。これは科学の進歩に巨大な貢献をした地動説・光波動説を評価することにもなります。「スパモン」などより比較対象として、よほど意味がありますよ。
はあ、左様ですか。
波動説とかの方が蓋然性が低いとか現状微塵も思いませんが、それを論証したところでどうなるんですか?
それでID論の蓋然性が高くなるわけでも何でもありませんよ?
誰それが私より身長低いと証明したところで、私の身長が伸びるわけでもありません。
もう一度言いますが本質を見失ってませんかね?
>前者は、量子レベルのいろいろな対象を調べて、二重性が成立するかを検証できるし、それは実際に行われています。光に見られる二重性は素粒子ならなんでも観測できるとド・ブロイが主張してから、多くの検証実験が行われてきました。ゆえに不整合の有無を判定する基準として使えます。
主張して‘から”なんでしょ?
それにエーテルも検証しようと色々行われてたでしょ?
>そんなことをするより、粒子説でも説明できるのだから、粒子説で説明すればよいではありませんか。粒子説では説明できない事象が発見されたのは19世紀で、18世紀にその知見はありませんでした。歴史家の誤謬に陥ってるのは、ご自身ですよ。
当時の人も粒子説でも一応説明できるけど波動説の方がシンプルだと思う部分があったから研究を続けた人たちがいました。
歴史学者の誤謬でも何でもありません。
そもそもその理屈なら自然選択とかで説明できるのだからIDなんか持ち出すなとも言えます。
>ミクロの世界という切り口ができた時点で、適用範囲を分ける基準ができています。
エーテルも光においてのみと言う基準があります。
>どうしても、この主張に戻ってきますね。ですが、粒子説でも説明できる事象では、確たる証拠になりません。光の波動性の確たる証拠が登場したのは、2重スリット実験です。もしかして、2重スリット実験の意味するところが、分かっていないのですか?
はい。繰り返しますが、だったらIDも自然選択でも説明できるので確たる証拠なし、となりますよ。
>「自然選択」と「品種改良者」を比較するのが誤りです。比較するなら。
そうです。誤りです。
だから品種改良者は蓋然性で著しく劣るのです。
「普遍的ルール」に対し「そのルールに従い存在した‘かも知れない”モノ」、ですからね。
>品種改良者が物質的な存在なら、羽ばたきながら駆け上がった恐竜も、物質的な存在です。進化の仮説に登場する生物すべてに言えることですよ。
そこで物質的存在を考える場合、その存在確率を予測する必要があります。
貴方が中生代に大量破壊兵器や国際宇宙ステーションを作り上げた知的存在を品種改良者より下に見る理屈と同じです。
駆け上がり説が積極的に否定されていないのは普通に当時の生物の体の構造上不可能では無いからです。
>ただし、冒頭で述べたように、今は、IDと自然選択ではなく、IDとかつての地動説・光波動説を比較しています。そこに集中してください。エーテルの説明は当然必要ですが、地動説も無視しないでくださいよ。
別にそこを話すのは良いですが、私は意味を全く感じません。
それらを比較してどちらかがより蓋然性が低い高いをお互いコンセンサスを得たところで、どちらの説も主流に根拠バトルで負けており非主流である立場を受け入れるしか無い状況は変わりませんから。
これ意味あります?
そもそもエーテルなんか存在しないことも地動説が正しいことも当然分ってますよ?
当時の非主流派が科学的手順に則った状態で考えを捨てなかった理由であろうことを答えているだけです。
正直、このやり取りで貴方がどう持っていきたいのか分りません。
それにしても、現代進化論のお粗末さ加減は形容の仕様がないですね。
未だにダーウィンを引き摺っています。
種の起源で科学的に証明されているものは皆無です。
ダーウィン自身、科学と言う言葉は殆ど使っていません。
これは繰り返し述べてきた通りです。
それにも拘らず、これもしつこく書いてきた通り、あたかもそれが科学の如く継承されています。
その戦犯は1930年代の集団遺伝学者たちです。
これもずっと書いてきました。
数学的に証明されたなんて言う話も勿論真っ赤なウソです。
そもそも彼らは自然選択の取るべきステップを正確に理解していません。
現代の総合説が中立説を取り込んでいる、或いは折り合っていると言うのも勿論デッチアゲの絵空事です。
中立説は表現型の進化に対しては何の説明も与えていません。
遺伝的浮動がどうのこうの言うのも全く空想の話に過ぎません。
中立説が示しているのは分子進化が中立である事のみです。
そして未だに多くの研究者がダーウィンを引用しています。
勿論肯定的にです。
呆れ果てますね。
そして彼らはその自らの宗教的な態度に気付こうともしません。
極めて無自覚なダーウィン教の信徒たちです。
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