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素朴な疑問
3439
:
顕正居士
:2007/07/09(月) 11:13:22
>>3438
本尊抄のその語句は顕密体制や皇道思想とあいまってそういう解釈が室町時代に形成される。
そして明治維新後にまた国柱会によって復活する。しかし日蓮が言及している賢王は明らかに
クビライ・ハンのことである。誡責愚王は元寇以外の何物でもない。
そうした閻浮提闘諍の時代には出家といえども武器を帯びて自衛することも許される。実際に
日蓮は刀(数珠丸)を帯していた。そういう出家のあり方もまた折伏と称される。
このことは北嶺南都においては常識になっていた。ただし学生、がくしょう、ほんものの出家は
十戒だけは守り、堂衆、どうしゅう、学生の従者が武装して護衛するのを建前とする。
(実際にはこの建前も守られなかった。学生も妻帯し、時には天台座主自ら戦陣に立った)
鎌倉幕府はこの武装寺社勢力を関東において認める気はなかった。初歩的な政教分離の
思想へ進歩していたといえる。しかし関西では公然と行われている思想なのだから、日蓮の
処置には十分慎重であった、比叡山や興福寺との対立は避けなければならなかった。
3440
:
犀角独歩
:2007/07/09(月) 19:43:19
一字三礼さん
重ねてご返答、まことに有り難うございます。
3437〜3438に記されておられるところ、ほぼ同意いたします。
わたしの日蓮=上行論の最大の疑問は、真蹟から鑑みられないことも、もちろんですが、この菩薩の特質に拠ります。
釈尊五百塵点成道初発心弟子にして、已来大地の虚空に住したこの菩薩は、不軽菩薩の如く、畢える罪があるわけもなく、その偉容は「是諸菩薩 身皆金色 三十二相 無量光明」といいます。「或被軽易或形状醜陋 衣服不足 飲食麁疎求財不利生貧賎家邪見家或遭王難」などという有様とは次元を異にしています。以上の次第ですから、日蓮が自身を上行再誕と考えていたとは、とても考えづらいと思うわけです。
『立正安国論』の提出は、仰るような次第であると、わたしも思います。
承元元年2月の後鳥羽上皇の念仏の停止をモデルにして、いまでいう新興宗教、それも京都を睥睨した鎌倉の暫定武家政権に対して、物を申したというのが、当初の有様であったのではないでしょうか。
この時点で、日蓮が王難を覚悟していたか?と問われれば、わたしは、寧ろ、国師の待遇で迎え入れられるような夢想もあったのではないかと思う節はあります。しかし、結果は歴史の如くでした。その中で仏滅後の成仏のモデルを不軽菩薩、覚徳比丘に求めていったのではないかと考えています。
当初は、法華復興を基調にした考えであり、寿量仏/四菩薩本尊といったモデルも出来上がったいなかったのではないかと思えます。その意味で、初期『立正安国論』執筆段階で四菩薩出現を想定したとは考えづらいように思えますが、どうでしょうか。
しかし、その後の迫害に遭い、寿量仏/四菩薩信仰が徐々に闡明になっていったという経緯ではないでしょうか。『本尊抄』にいう四菩薩賢王は顕正居士さんが仰るとおり、クビライ・ハンを指していたと、わたしは思えます。ただでは、行摂受成僧は具体的に誰を指すのかという問いは残ります。
金色三十二相を具す無量光明を放つ菩薩の出現を日蓮は待っていたのか、実はわたしは待っていたと思います。待っていたからこそ、その四菩薩を像に刻むことを『本尊抄』に述べ、漫荼羅にも記したのだろうと思えます。
このような視点から日蓮の漫荼羅を眺め直すと、虚空に浮かぶ宝塔中の釈迦多宝、脇士四菩薩を娑婆土から仰視し、妙法蓮華経の五文字を受け取る日蓮という相関図とも見えます。それが合っているかどうかは別として、そのような観点からの日蓮解釈は十分に可能であると、わたしは考えます。
なお、「日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました」とのことですが、この点では、わたしは少し違う見解を有しています。
『開目抄』に「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)…末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし。」
では、日蓮は日本国を如何なる国かと言ったか、
『開目抄』に「‘悪国’悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」、『富木殿御返事』に「諸天善神去此‘悪国’故」、『曽谷入道殿許御書』に「其外閻浮守護天神地祇或去他方 或住 此土不守護於‘悪国’」と、日蓮は、日本国を悪国であると書いています。
ここで先に挙げた『開目抄』の文を整理してみます。
┌無智悪人の国土…=悪国は摂受
└邪智謗法の者多時=破法は折伏
となれば、日蓮は末法日本国では「摂受を前」といっていることになりませんか。だからこそ、その摂受をしない自身への批判を『開目抄』に弁明しているのではないでしょうか。ただし、それは日蓮が折伏の人ということではなく、安楽行品摂受からの逸脱を、あくまで摂受=僧の立場から論証しているのであって、僧が折伏という意味ではないわけです。
ちなみに「邪智謗法の者多時は折伏を前とす。(常不軽品のごとし。)」の文において、仮に()内の一文があったところで、折伏(暴力によって)折り伏せられることに遭った不軽菩薩ということですから、不軽菩薩が摂受である点は動きません。摂受は、常に折伏との対置して両輪の如く両者あって成り立つからです。
無知悪人:不軽菩薩=折伏:摂受
無智悪人:覚徳比丘=折伏:摂受
無智悪人:日蓮聖人=折伏:摂受
という論旨で一貫しています。
以上のようにわたしは考えますが、この点についてもご賢察を承れれば有り難く存じます。。
3441
:
一字三礼
:2007/07/09(月) 23:35:53
犀角独歩さん
レスありがとうございます。
どう頑張っても‘賢察’とはいきませんが、少し記させていただきます。
仰るところの上行菩薩の特質からのご考察、賛同します。
上行菩薩は、その六万恒河沙の眷族と共に「寿量釈尊の証明」と「神力品の別付属」を役割とする菩薩です。
その特徴を日蓮が「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩也。」(観心本尊抄)と言うように、寿量釈尊と同じ世界に住するという特殊性のため、一品二半の中で観心として把握されるべき菩薩格ではないかと思います。
それに対して覚徳比丘と不軽菩薩は、始覚釈尊の前生として、その性質・働きが非常に具体的に表現されており、上行菩薩の特徴と比較すればかなり単純な印象さえ受けます。
現実に苦難を乗り越えて生きた日蓮にとって上行菩薩は、自身と重ねるというより、内面的に把握される存在ではなかったか、と考えます。
>この時点で、日蓮が王難を覚悟していたか?と問われれば、わたしは、寧ろ、国師の待遇で迎え入れられるような夢想もあったのではないかと思う節はあります。
私もそうではなかったかと思います。
>初期『立正安国論』執筆段階で四菩薩出現を想定したとは考えづらいように思えますが、どうでしょうか。
たしかに仰るとおりですね、ここのところで私は時系列を考慮に入れておりませんでした。
顕正居士さんもご指摘されておりました、賢王=クビライ・ハンという構図は、日蓮が日本の為政者に絶望した後の発想なのではないでしょうか。
つまり、もともと日蓮は、「立正安国論」が時頼に採用されると考えていたのでしょう。そうなれば時頼が‘賢王’に見立てられたのではないでしょうか(ご指摘のように、この時点では賢王=四菩薩の思想はなかったでしょう)。
ところが、三度諫めてもこれを用いない幕府・執権を諦めたとき、他国に賢王の存在を求めたのではないかと思います。
>金色三十二相を具す無量光明を放つ菩薩の出現を日蓮は待っていたのか、実はわたしは待っていたと思います。
私も同様に思います。
前で記しましたように、上行菩薩は、寿量釈尊と同世界に住む存在なので、分別を超えた観心で把握されるべき、抽象的な存在です。
おかしな言い方になりますが、その神聖にして抽象的な菩薩が、現実に現れると日蓮は考えていた。
矛盾する概念を渾然一体として把握するのも日蓮の魅力ではないかと思います。
>なお、「日蓮は、当時を折伏による布教の時代と捉えていました」とのことですが、この点では、わたしは少し違う見解を有しています。
挙げてくださった遺文では、たしかに日本=悪国=摂受というのも成り立ちますし、日蓮は「摂受を前」といっているように思えますが、これはどうでしょう。
少し長くなりますが、引用します。
「余に三度のかうみやう(高名)あり。一には去し文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向て云く 禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事おこりて他国にせめられさせ給ふべし。二には去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向て云く 日蓮は日本国の棟梁也。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚をゆひのはまにて切らずは、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三には去年[文永十一年]四月八日左衛門尉に語て云く 王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古国を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、」(撰時抄)
三度ともに、為政者に対する‘折伏の勧め’とは読めませんでしょうか。
私には、日蓮は、為政者が折伏によって(権力・武力・法等)、邪宗はを取り締まるのを待望していたのではないかと思います。
3442
:
顕正居士
:2007/07/10(火) 00:44:58
>>3440
犀角独歩さん。日蓮は聖僧としての上行菩薩の近未来出現を期待していたと私も考えます。
日蓮の王仏思想は北嶺南都のジハド思想そのままで、これが完全に片付くのは織田信長を
待たねばならない。同様の思想に依然停滞していたカトリック勢力も追放し、豊臣秀吉により
世界最初の政教分離国家日本ができます。
日蓮の王仏思想はそのように時代遅れのものでしたが、一閻浮提闘諍の世界を直感したのは
素晴らしかった。当時、ユーラシアの真ん中にクビライ・ハンの世界帝国が成立していました。
豊田有恒さんの小説のように、もし四汗国の分裂抗争がなければ、13世紀に地球は統一され、
数百年早く文明が進歩した可能性は否定できません。実際にはナポレオン帝国と同様に
各地の民族主義を昂揚させ、別の形で文明の進化を促した。
クビライ・ハンの世界帝国は商業帝国であり、グローバライゼーションのために商業と相性のよい
インド大乗仏教を国教とした。帝師パスパはほぼ日蓮と同時代の人。摂受を行う聖僧と折伏を行う
賢王は実在したのですね。
なお悪国とか破法とかに深い理屈はなく、北嶺南都の常識がまず動かないものとしてあった。
章安荊渓の釈を引く大乗涅槃経折伏(ジハド)思想です。法華思想とは整合しませんから、
日蓮の言説は検討すると論理的にあいまいですが、乗急戒緩の思想がもう常識だったでしょう。
3443
:
顕正居士
:2007/07/10(火) 03:02:53
日蓮は預言者であり、一見理屈っぽいが、実は直感の人でした。
彼の理屈は破綻しているが、神秘的な感性を有しており、
大元帝国の位置と国際情勢を自己心中に投射したのです。
この点では北条氏は全然だめでした。元の国書は今日的には政権の承認を求めたものです。
中国の正統政権とは日本政府は常に公式とは限らないが修好していました。
日宋関係は非公式のほうです。日本政府が事情に疎いと考え、行った示威行為が文永の役です。
次の段階では宋はすでに滅亡しています。日本政府に修好を拒否する理由がありません。
しかるに外交官を斬殺した行為をむろん、日蓮は批難しています。
弘安の役は実際に威力をもって国交を要求する計画でした。これが失敗したのですが、
元が中国の単一政権であることはもう事実なので、商人は貿易を盛んにおこなうようになり、
幕府も禁止しませんでした。それで3次侵攻計画もありましたが、まあよいかとなりました。
幕府は愚行によって崩壊の運命が定まる。国際情勢の直感では幕府は話になりませんでした。
3444
:
犀角独歩
:2007/07/10(火) 06:08:06
顕正居士さん
ご教示くださった当時の世界情勢と日本の位置、そして、その背景から見える日蓮像は、たいへん参考になりました。神話化された日蓮物語を、貿易はもちろんのこと、実際的な人の営みの延長にある国の、世界の情勢から見直すこと。何と生き生きとした現実感かと思えました。有り難うございます。
一字三礼さん
> 三度ともに、為政者に対する‘折伏の勧め’
そのとおりだと思います。
わたしは従来の摂折論は、いくつかの思い違いに基づいていると考えます。まだ、思惟の段階で整理しておりませんが、いくつか挙げてみます。
まず、摂受・折伏のいずれかという選択論。これは違いませんか。
摂折は水火の相違と日蓮は言いながら、しかし『本尊抄』の王/僧の対比の如く、車の両輪の如く、セットされた考えです。その典型が、有徳王/覚徳比丘の物語ですね。日蓮が『開目抄』に言っているのは、どちらが‘先’かということであって、いずれか片方、それで折伏だといった選択論ではありませんよね。先を言うのは、後があることを前提にした立論です。摂受・折伏、どちらが先かということであって、結局は摂折両立であるわけです。
日蓮は仰るとおり、為政者に対して、『涅槃経』、また、『止観』から導かれる武力統制、すなわち折伏を勧めています。では、僧である日蓮はいえば、あるべき安楽行品における摂受をまず前提にして、「見壊法者」を引用し、身に宛てます。これは一貫した日蓮の在り方でした。「若能駈遺呵責挙処」、また、不軽菩薩の撃於毒鼓、申つをら(強)りは、折伏か。この点は過去に論じましたので繰り返しませんが、それが強説であれ、説法であれば、それは「弘持正法」なのであって、摂受の域です。つまり、日蓮は当時の安楽/摂受といった僧侶の襟度から、涅槃「見壊法者」を鑑み、強言説法といった摂受の限界に挑んだのではないでしょうか。つまり、『開目抄』で展開される摂折論において、日蓮が自身に宛てて論じているのは摂受の範囲内ではないかということです。
この日蓮の摂受を前として、為政者に対して折伏を勧めた。つまり、ここで、日蓮の言説が先行するわけですから、摂受が先になっている。そして、その後に為政者の折伏が続くという道程を日蓮は想定していたと思えるのですが、どうでしょうか。
3445
:
犀角独歩
:2007/07/10(火) 07:19:00
御礼を申し忘れました。
一字三礼さんのご賢察、日蓮非上行論、摂受論は示唆に富み、大いに刺激されました。感謝申し上げます。有り難うございます。
いずれにしても、日蓮門下の折伏論とは、『如説修行鈔』(文永10年5月)を真筆と扱うかどうかで大きく意見が分かれています。
わたし個人は、身延曽存、後5月の『顕仏未来記』、また『富木殿御返事』などと比して、文体が著しく異なり、メンタリティにも格段の相違があると感じます。
一字三礼さんは、この書にどのようなご見解を有していらっしゃいますか。
3446
:
マターリ
:2007/07/10(火) 10:21:06
行敏訴状御会通を見ると、弟子等を殺害に及ぶこと数百人と書いてあります
。しかし、日蓮聖人の伝記を見る限りでは、小松原の法難の際に、鏡忍坊、
工藤吉隆が戦死、あとは熱原の法難で神四郎・弥五郎・弥六郎の三人が殺害
されたことくらいしかわかりません。
数百人という膨大な数の殉教者は、どの法難で出たのでしょうか?
3447
:
顕正居士
:2007/07/10(火) 15:02:09
なぜ中世では聖戦思想が当たり前だったのか?
大乗涅槃経の折伏思想は頻繁に支配民族が交代する中央アジア、インド北部で起こったのでしょう。
インド仏教末期の折伏思想はむろんイスラームに対するものです。
しかし中世の日本や欧州では平時に聖戦思想が当たり前だった。異民族に対するものですらない。
これはなぜか?
中世の寺社は封建領主で、小作料が主な収入です。それで土地の支配権はどうやって維持するか。
中央政府が小さい封建社会では領主は軍事、警察、司法を自分で行う、自分の土地は自分で守る。
そうしますと外交関係が特にこじれている他宗他派の寺社とは常時聖戦状態になります。
延暦寺と三井寺のように。実力がない中央政府や地方政府が干渉してきますとこれとも聖戦です。
聖戦によって僧侶の日常経済生活が成り立っているのですから、一方ではいくらでも戒律の話は
並べられるが、なんら現実生活とは関係しません。人は成り立っている経済生活の基本を疑わない。
せいぜい、末法だからねでおわりです。まあ、そういう事情であったと想像します。
3448
:
マターリ
:2007/07/10(火) 16:15:24
私の質問には、答えていただけないようですね。
3449
:
顕正居士
:2007/07/10(火) 16:23:28
>>3448
その数百人というのは凶徒の人数のことです。
3450
:
犀角独歩
:2007/07/10(火) 19:05:52
顕正居士さん
実に参考になります。経典を神秘的な呪文のように考えがちなところを、そこに描かれたストーリーから、モチーフになった事実を探ることは、新たな視点を生みますね。かつて、わたしは、地涌菩薩の物語を読んだとき、これこそ、この経典を創った人々自身をモデルにしたものであると思ったものでした。
教理経説としてではなく、創作者が自分たちを肯定する為に紡いだ物語であると考えるとき、「折伏」の意味も、より具体的に見えるわけですね。
有り難うございます。
3451
:
顕正居士
:2007/07/10(火) 19:51:27
下は有名な武装寺院根来寺についてルイス・フロイスが記した書簡です。
はじめに「この国に45の宗派があり、各々一大共和国の如きもの」とまず述べています。
いわば宗教戦争先進国であった日本事情の一端が伺えます。
宣教師ルイス・フロイスが耶蘇会総長に書き送った手紙
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2215/motto/ruis.htm
3452
:
一字三礼
:2007/07/10(火) 22:11:09
犀角独歩さん
もう何年も前から、ご教示いただき続けているのは私の方です。こちらこそ御礼申し上げます。
>まず、摂受・折伏のいずれかという選択論。これは違いませんか。
仰るとおりであろうと思います。
涅槃経の有徳王と覚徳比丘にしても、同時代に生存しているわけですよね。同じ時に、有徳王は折伏を現じ、覚徳比丘は摂受を行していた、という設定が摂折選択論ではないということを表していますね。
>日蓮は当時の安楽/摂受といった僧侶の襟度から、涅槃「見壊法者」を鑑み、強言説法といった摂受の限界に挑んだのではないでしょうか。
>日蓮の言説が先行するわけですから、摂受が先になっている。そして、その後に為政者の折伏が続くという道程を日蓮は想定していたと思えるのです
まさしくその通りと存じます、お説に賛同します。
「如説修行抄」についてですが。
私はこの書の来歴について、以前、れんさんにお聞きした事がありました。
興風談所の研究で、茨城県富久成寺蔵・伝日尊筆「如説修行抄」古写本は、前半部と後半部では、筆跡が異なり、奥書の署名は、静岡県伊豆実成寺蔵の日尊自筆書状の筆跡とは異なるというご教示をいただいた、と記憶しております(もしも記憶違いがありましたら、れんさん、訂正をお願いしますです)。
文献学的に考えて、日尊は、日蓮の孫弟子ですから、確かな日尊古写本が存在したとしても、もとより、身延曾存遺文・日興等六老僧古写本と比べて、信頼度は格段に落ちます。
ところが、「如説修行抄」は、とてもその孫弟子の写本とも認めることができる代物ではありません。
今成師の説を加えずとも、「如説修行抄」は、日蓮遺文を考察する上で、考慮にいれるべき書ではないと考えます。
3453
:
マターリ
:2007/07/10(火) 22:30:41
>顕正居士さん、教えていただき、ありがとうございました。昔の文章は
なかなか理解しずらいですね。古語は苦手でしたから・・・。
ルイス・フロイスというと、織田信長が連想されますね。
NHKの特集で見ましたが、織田信長が暗殺された本能寺は、日蓮宗の寺院で
した。当時の本能寺は、種子島法華宗ルートの鉄砲の集積地であり、地下に
は蓄積された硝煙蔵まであったそうです。
本能寺が炎上したとき、普通の火事ではなかった、との記録があり、硝煙蔵
が燃えた可能性が高いと思われます。
信長の死体が発見されなかったのも、その辺の事情が影響しているのでは、
ないでしょうか?
また、本能寺には、鉄砲などを複数の実力者に斡旋していたらしき記録が残
されているようです。
>一字三礼さん、
>有徳王は折伏を現じ、覚徳比丘は摂受を行していた
秋元御書を読むと、「覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・・・」とありますの
で、覚徳比丘も、折伏をしたのではないでしょうか?
3454
:
一字三礼
:2007/07/10(火) 23:22:42
顕正居士さんのご投稿を読みながら考えたのですが。
悪僧・僧衆(僧の集団もこう呼ぶ)とは、大きな荘園を有する、興福寺・延暦寺・東大寺等の大寺院に所属する、身分の低い・学の無い堂衆が、武装して寺院の財産を守り、他に略奪に出かける武装集団だと認識しております。
しかし、日蓮の場合は、延暦寺の出世コースを自ら放棄し、寺も持たず、当然、荘園も持たなかったので、武器を持ち人に対する理由は見当たりません。
日蓮が、どこかで剣技を身につけていたとは考えられませんし、数の知れた弟子の僧達も、弁慶とはいかなかったでしょう。
日蓮の知力から考えて、鎧・兜も着さず、ろくに使えもしない太刀一振りを持ち、少数の弟子とクーデターを企むとはとても思えません。
日蓮が武装していたとするならば、その理由はなんでしょうか。
日蓮所持と伝わる刀は、日蓮宗では、身延が貰い損なった尼崎本興寺の「数珠丸恒次」であるとし、富士派では「三条小鍛冶宗近」(当然、初代ではないでしょうが)としますが、しかし、これは伝承の域ではないでしょうか。
3455
:
一字三礼
:2007/07/10(火) 23:54:15
マターリさん、はじめまして。
こちらの掲示板では、日蓮の著作を挙げるとき、まず真筆遺文であることが基本になります。
そこからケース・バイ・ケースで、来歴のはっきりしている身延曾存や古写本も含めて論じていくこともあります。
このように慎重にせずに、来歴の不確かな写本遺文も含めて論じてしまった場合、もしその写本遺文が偽書であったら、議論している土台がすでに崩れていることになってしまい、議論すること自体が無駄になってしまいます。
このような理由から、ご指摘の「秋元殿御書」(筒御器鈔)は考慮にいれておりませんでした。
3456
:
マターリ
:2007/07/11(水) 00:53:42
>一字三礼さん、初めまして。こちらこそ宜しくお願い致します。
レスありがとうございます。「秋元殿御書」が真蹟でないとのことで、了解
しました。以前にも注意されながら、忘れていました。
>日蓮が、どこかで剣技を身につけていたとは考えられませんし、数の知れ
た弟子の僧達も、弁慶とはいかなかったでしょう。
初期の在俗信徒のほとんどが武士でした。富木五郎・太田金吾・曾谷左衛門
尉・工藤吉隆・池上宗仲・宗長親子・四条金吾・波木井六郎など。
武士の仕事は「殺人」です。彼らが、襲撃される危険性の高い日蓮聖人に、
武芸の基礎を教えた可能性は、多少でもあるのではないか、と思われます。
太刀は、かなりの重さがありますが、日蓮聖人は大柄だったとのことですの
で、振り回すことはできたと思います。
>日蓮の知力から考えて、鎧・兜も着さず、ろくに使えもしない太刀一振り
を持ち、少数の弟子とクーデターを企むとはとても思えません。
聖僧ですから、鎧・兜を着していては、さまにならないと思います。鎧は、
切られるときは安全ですが、刀の切っ先で突き刺されると、つなぎ目から
入ってしまうので危険です。
また、鎧・兜などを着用していると、戦意があるとみなされ、かえって
標的にされてしまうのではないでしょうか?大刀を持ち、防御の構えを見せ
ていた方が、敵の戦意を多少とも和らげるかも知れません。
敵が大刀で切りつけてきたとき、小刀では質量からして、大刀に押し返され
防ぎきれないと思います。
>日蓮が武装していたとするならば、その理由はなんでしょうか。
あくまでも自衛のため、だけだったのではないでしょうか?武器は、反日蓮
の徒の襲撃から、身を守るのもおぼつかない程度のものだったと、推察され
ます。
3457
:
顕正居士
:2007/07/11(水) 01:42:48
>>3454
一字三礼さん。
日蓮は僧兵によって守られた寺院に起居していたわけではないからこそ護身の武器を帯していた
と想像します。剣技というほどのものは訓練していなかったでしょうが、安全に武器をあつかう程度
はこの時代は多数の人が幼年時代に学習したでしょう。兵農分離も刀狩もずっと先のことです。
しかし鎌倉幕府は僧侶の武装を禁じていましたから、このことが後の流刑の一原因になっています。
三條小鍛冶宗近は北条弥源太から贈られたもので礼状が残っています。但し三條小鍛冶宗近と
いう名はありません。数珠丸のほうも旧国宝、現重文であり、この天下五剣の持ち主に日蓮以外
の名が挙がらないのですから、相当に信用できる伝承ではないかと考えます。
いわゆる僧兵はほんものの僧侶(官僧、学僧)の従者ですが、延暦寺の学僧といえども、良源が
定めた最小限十戒護持を放棄していたようです。中に証真のような反時代的学僧はいたでしょうが。
日蓮は関西の常識を関東に持ち込んで臆さなかったのではないでしょうか。日蓮の反感は戒律の
復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。後者は国際情勢に関して偽情報を
幕閣に伝えていると考えたのかも知れません。ともかく鎌倉幕府の武装寺院を認めない方針は
十分成功し、関西のような物凄いものは出来ませんでした。
ところで梵語学の開拓者である南条文雄は少年時代は本願寺僧兵だったそうです。神仏判然令
に対して急遽僧兵を復活、奥羽列藩側に参戦予定の教練に召集されたのだそうです。
3458
:
一字三礼
:2007/07/11(水) 22:45:08
身に命の危険が迫った時、はたして日蓮は、太刀を履いていたか、また、その太刀を護身のために使ったのでしょうか。
文永元年八月二十七日の松葉ヶ谷法難と呼ばれる、念仏者から襲撃された事件があります。
「念仏者竝びに檀那等、又さるべき人々も同意したるとぞ聞こへし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ。」(下山御消息 建治三年)
鎌倉の市内は、険しい山に囲まれた土地柄、襲撃されて助かった例はほとんどありません。
日蓮が、なぜ逃げることができたのかを考えた場合、予め逃走路を用意していたか、山道を熟知した者の助けがあったか、そのどちらかしか考えつきません。
少なくとも、日蓮が太刀を振るって応戦していたら、たとえ敵が数十人であったとしても、衆寡敵せず、瞬く間に討ち取られていたのではないでしょうか。
もう一つは、同じく文永元年十一月十一日の小松原法難があります。
「今年も十一月十一日、安房国東條の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられて候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要にあうものはわずかに三四人也。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなずまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自信もきられ、うたれ、結句にて候し程に、いかが候けん、うちもらされていままでいきてはべり。」(南条兵衛七郎殿御書 文永元)
伝承では、相手の太刀を数珠で受けたとされており、その数珠が正中山法華経寺に残っています。この時、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆は従者と共に切り死にしたとされております。
数珠で太刀を防いだことが事実ではなくても、太刀を抜いて応戦していれば、やはり容易く討ち取られる状況ではないでしょうか。
この時も日蓮は、ただその場から逃れた、としか考えられません。
もうひとつ、五郎入道正宗以前の太刀は、実践向きではありませんでした。
元寇の時に、日本軍の太刀が蒙古軍の鎧を貫けずに、折れることが頻繁に起こったそうです。(実戦で、鎧を着けた相手に対して、刀は切るよりも突く武器であった)
いわゆる、古刀の「猪首切先、腰反りが高く、柄元に踏ん張りがある」太刀姿は、鑑賞する分には非常に美しいのですが、実践向きではなかった。
正宗は、実戦向きに「猪首切先」を止めて、切先を長くして刺さりやすいと形状にし、反りを少なくし、柄元から三つ頭までの刃幅をほとんど同じにして、厚重ねの太刀を打ちました。
正宗以前の刀は、護身用は護身用でも、悪霊や病から身を守るためのものでした。
籐四郎吉光や、正宗の師匠と言われる新籐五国光らは、短刀の名手であり、彼らの打つ刀には、魔除けを刻んだものもあります。
顕正居士さん
>日蓮の反感は戒律の復興を志す僧と南宋からの亡命僧に向かっていましたから。
日蓮は、「末法無戒」と称しながらも、自身は「南山律」を守っていた。ということは、以前、顕正居士さんがご指摘されていたことでしたね。
それなのに、何故、戒律の復興を志す僧を嫌ったのでしょうか。
南条文雄といえば、昭和2年まで生きていた方ですね。
そんな近代に僧兵の経験がある人がいるとは驚きました。
3459
:
顕正居士
:2007/07/12(木) 20:03:24
今日、仏教僧は多少種類の違いはあるが具足戒(250戒)を持っており、これを持っていれば
一大仏教サンガの成員とみなされます。例外は日本仏教の僧侶とチベット仏教ニンマ派の
僧侶だけです。ニンマ派というのはチベット固有の宗教ボン教と習合した宗派です。
この点、日本仏教はやはり日本固有の宗教神道と習合した宗派であるといえましょう。
神道は母系制社会の宗教の性格を色濃く残しており、外来の父系制社会の宗教と根本的に
相容れない面があります。しかし日本人は和魂洋才、神本仏迹という原理で外来文化を
変形して受容して来ました。日本仏教が戒律を放棄したのもその変形受容の一つと考えます。
日本仏教の思想としては理戒、事戒ということがあります。具足戒は事戒であり、釈尊の時代
の共同生活の決まりであり、仏教僧はこれを原則今日まで維持して来たわけです。
日本にはインドのような教団生活が最初からありませんでした。僧侶は外国文化を学習輸入
する役人としてはじまった。共同生活の場合、酒を飲んで暴れる人がいるとたいへん迷惑です
から、飲んでも静かな人も酒を飲まない決まりを受け入れます。でも共同生活を離れたら、
別でしょう。それで理戒という考えができます。暴れたり、記憶喪失したりがいけないんで、
酒を飲む、飲まないは個々の場合によるとするのです。最終的にはいつも正しい生活を行え
という一個の精神的戒律しかなくなります。これを一大円戒といいます。
日蓮は確かな遺文では無戒という語は一回も使っておらず、一大円戒の立場でありました。
無戒ですと三大秘法になりません。しかしそれは言葉だけで無戒も円戒も変わらぬといえば、
大衆的には変わらなくなります。結局、個々の宗派、寺院が社会生活の決まりは作るのだし、
それが個々ばらばらで一大サンガというものが存在しない、日本仏教が宗派間戦争の弊害に
陥った理由です。ともかく日蓮は事戒の復興は時代の潮流に反したものであると考えました。
3460
:
犀角独歩
:2007/07/15(日) 08:46:57
一字三礼さん
御礼が遅くなりました。『如説修行鈔』に関するご回答、有り難うございました。
3461
:
みれい
:2007/07/18(水) 19:49:43
こんにちは。
どなたかご教示ください。
神国王御書、妙法尼御前御返事、顕立正意抄、千日尼御前御返事、について、
真蹟かどうか、
また、こちらで「臨終の相」について議論されているスレッドがありましたら教えていただきたいです。
今でもこのような話で他宗批判の連絡をしてくる方がいらっしゃるとのことで、私のほうに問い合わせがありました。
内容に関してはここでは信じている方もいないと思いますが、ある意味デリケートな時期にデリケートな内容なので、
日蓮正宗系団体、および日蓮宗、あるいは日蓮系信者の現在の御遺文の取り扱いなどを調べております。
3462
:
再挑戦者
:2007/07/18(水) 19:55:28
失礼します。
昨今の今、ソゾロ素朴な疑問です、。
仏教・修行の中では、修行の姿勢を決め込むことが肝心で、その姿勢・==修行行動さえ、有れば、念仏宗、=禅宗、、含むその他の宗教?、、と言う、言説が通論になりかけていますようです、、。
これは本当に許容して、、??、、よろしいのでしょうか、?? 人間釈尊、、人間日蓮が世相の不幸・惨めな惨状からの脱皮を思い、人間らしく生き、人間らしく死ぬ為への、、考察・思索・思い、、などは、現今の、金儲け主義一本道の悪漢どもとの戦いに、いかに対処したらエエンでしょうね、、!!! 人生は不可解、、宗教も依然として混沌・不可解、、でしょうか、、!!、、??
3463
:
再挑戦者
:2007/07/18(水) 20:48:36
失礼。 補足させて戴きたく存じます、。
「四固の格言、」、、「、念仏をナニユエ,、いけない教え、人間にとり不当なよこしまな教えと断じた、日蓮さんは、???」、、釈尊でさえ、法華経以前の教えは「ビル建設の足場丸太だ、、!!」、とのべています、、??
現実は、、釈尊〜日蓮も、、教えの浅い〜深い〜重い〜軽い、、などを、事細かく、文書で残していますでしょうか、??
どの文書が偽書で、、どれが真蹟かの疑問はございますが、、 「、どの教えでも良い、??」、、などという発言は、日蓮信奉の内輪では、、いかがなものでしょうか、?? 疑問は999%、、以上にも実感しますが、、???
3464
:
犀角独歩
:2007/07/18(水) 23:40:00
みれいさん
以下のサイトに真蹟遺文のデータがあります。
ご自身で確認されてください。
死後に、固いだ・柔らかいだ、思いだ・軽いだといった日蓮の遺文は、たしか真蹟ではなかったかと記憶します。
ただし、このような発想は、日蓮以前から継承で、要は、インドを侵略し、褐色有色人種を支配したアーリア人が白人であったから白がよく、死後、天に昇れば神(天)に行くというバラモンの五道二火説だかの伏線があるから、天に昇る=軽い・地獄は地下=重いと下がるという連想から生まれたお話でしょう。
この点について、葬儀社の勤務された経験を記された『納棺夫日記』に青木新門師の記述を、かつて紹介したことがあります。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033276317/786
3465
:
犀角独歩
:2007/07/18(水) 23:40:57
失礼、真蹟遺文データジャンプを落としました。
以下のとおりです。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/ibun_shi.htm
3466
:
パンナコッタ
:2007/07/19(木) 12:26:39
神国王御書 建治三 8月頃 真蹟あり(ただし本文末尾欠)
妙法尼御前御返事 弘安元 7/14 臨終正念の該当記述部分の断簡あり
弘安元 7/03 刊本録外 真蹟なし
弘安四 刊本録外 真蹟なし
顕立正意抄 文永11 12/15 録内 日春写本
千日尼御前御返事 建治三 刊本録内 臨終色白等の記述 真蹟なし
弘安元7/28 真蹟完存
弘安三7/02 真蹟完存
デリケートな事項については、元監察医上野正彦氏の著述が非常に有意義ですので
是非ご参考に。
3467
:
みれい
:2007/07/19(木) 21:00:35
>犀角独歩 さん
真蹟遺文データ紹介ありがとうございます。
表記の案内を読んでも調べ方がいまひとつわからないのですが、
覚え次第、私が今持っているものと併せて、使わせていただこうと思います。
臨終の相がまさかアーリア人の時代まで遡るとは思いませんでした。
けれども徹底してみるとインドの起源まで発想を遡るというのは納得いきます。
>『納棺夫日記』
併せて参考にさせていただきます。
私が子どもの頃に流れたご本尊にまつわる残酷童話のような罰の話が、
大人の学会員の間でまかり通っていたのを思い出します。
>パンナコッタさん
各項目のご案内ありがとうございます。
真蹟であっても、それらの御遺文がどういった場面でどのようなつもりで語られているか、
ということが肝心になってきそうですね。
>「元監察医上野正彦氏の著述」
上野氏の本は数冊読んだことがあります。
最近はブログで、特殊清掃の方の記事を知り、
一般にはなかなか知りえない場面においての肉体の変化と、
周囲に残された側の人間模様と、
読んだ方のコメント欄なども垣間見ています。
3468
:
端くれ
:2007/07/19(木) 21:21:57
初めて聞き込みします。よろしくお願いします。
初心者ですが、素朴な疑問ということでここに書かせていただきます。
十界曼荼羅についてお尋ねします。
知る限りですが、正宗・創価学会の曼荼羅のみに、余計?な文字が
見られるようです。
(為現当二世、若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号 授与之等など)
他にもあるようですが、それは何故でしょう。単に他宗との差別化のためか、
それとも他に意味があるのでしょうか?
どうぞ教えてください。
3469
:
マターリ
:2007/07/19(木) 21:44:14
端くれさんの質問の直後で申し訳ありませんが、ご教授のほどお願い致し
ます。
このところずっと、安楽行品と勧持品の差について考えています。
安楽行品では、釈 尊 の 言 葉 として身安楽行、口安楽行、意安楽
行、請願安楽行が説かれています。釈尊自身の戒めですから、最重要視し
なくてはいけないと思います。
勧持品では、菩薩たちが誓言をしています。菩薩たち自身が、未来におい
て色々な 難 を 受 け る か も?知れないが、不自惜身命で布教
をします、と述べています。ですから、勧持品には、、菩薩の未来予測と
誓いが述べられていると思います。安楽行品のように、釈尊自身の戒めは
書いてありません。
安楽行品に書かれている戒めを守っていけば、勧持品に書かれているよう
な難を、ほとんど避けられる。しかし、戒律を守っていても難に遭った場
合は、・・・そのときは、不自惜身命で耐え忍ぶ、ということではないの
でしょうか?
法華経の作者たちは、自作の経典が永久に残ることを期待していたはずで
す。法華経を信奉する教団が、壊滅して、法華経が忘れ去られないよう、
戒めを書いたのだと思うのです。
権力者に近付いたり、他宗教を排撃したりしないように、つまり常識的な
行動をとり難を避けるよう、説得しているものと思います。
ですから、素直に両方の経典を見た場合、安楽行品の方を、より重要視し
なくてはいけないと思うのです。しかし、日蓮聖人は安楽行品を無視され
ました。
これには、何か深い理由があると思われるのですが、不勉強のため、よく
わかりません。その辺を教えていただければ、と思います。
通説によりますと、勧持品に書かれている、未来に起こると思われる数々
の難は、法華経の作者たちが、伝統的仏教者から迫害を受けた歴史的事実
の記録ではないか、ということでした。つまり、予言の名を借りてはいる
ものの、実際に起こった悲しい出来事の記録ということです。
釈尊の名のもとに、全く新しい経典を創作するのですから、伝統的仏教者
から、迫害を受けるのは、ある程度、想像できます。
これについても、まだ確信がもてませんので、ご教授のほどお願い致します。
安楽行品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-14-1.htm
勧持品↓
http://comet.endless.ne.jp/users/fnwo/h-13.htm
3470
:
パンナコッタ
:2007/07/19(木) 23:00:54
端くれさん、
これは富士系文書の"御本尊七箇相承"の
七 日蓮と御判を置き給ふ事如何 〜 上行無辺行と持国と浄行、
安立行と毘沙門との間には・若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号と之を書く可し、
経中の明文等心に任す可きか
に、よるものですね。 差別化の意味合いは、あったように感じられますね。
3471
:
顕正居士
:2007/07/19(木) 23:21:17
>>3469
マターリさんのおっしゃるのは13章菩薩の決意に対して14章弘教の心得が述べられているのでは
ということですか。当然、そうだとおもいますが。
日蓮などにはなぜそう素直に読めなかったのかということですか。当時の関西の多数の仏教者の
ようにすでに戒律を放棄している以上、それは無理でしょう。何事も事実が先行し、理屈はあとで
ついて来るものなのですから。
3472
:
マターリ
:2007/07/19(木) 23:51:54
>顕正居士さん、レスありがとうございます。日蓮聖人に限らず、関西の
仏教者は戒律を放棄していたんですね。日蓮聖人が特別な例でなかったと
わかり、納得いたしました。
その辺が、現代人の常識では理解しがたいところなんですね。
3473
:
犀角独歩
:2007/07/20(金) 00:23:46
日蓮は戒律の放棄などしていなかったでしょう。
顕正居士さんも先に書かれていましたが、戒律を放棄したのであれば、後に三大秘法といわれたうちの一つ本門戒壇など不要と言うことになります。日蓮が会談を想定した以上、戒律は放棄されていません。
放棄されたのは、いわゆる小乗戒であって、伝教が比叡山戒壇を期した大乗戒が放棄されるはずもありません。
これも既に議論されたことですが、「末法無戒」とは、真蹟遺文には見られません。この無戒とは小乗戒についてであって、大乗戒のことであるはずはありません。ところが、そのうち、誤解が生じ、大乗戒までないことになってしまったわけです。
おかしなことに、無戒を言いながら、本門戒壇、三大秘法を言い、戒名をいっているわけです。
さて、マターリさんの疑問ですが、日蓮が安楽行を重視しなかったのは、それが他土の菩薩に係るからではないでしょうか。安楽とはスカバティ、つまり極楽の旧訳です。安楽行とは極楽の修行の在り方といえば、極論となるかもしれませんが、此土の修行ではないという思いがあったのではないでしょうか。
では、勧持品に現れる菩薩はといえば、同じく、娑婆弘教を託された菩薩ではないのですが、日蓮は不軽菩薩との脈絡で、これをとらえていったのでしょう。
ちなみに、不軽菩薩は折伏などといわれますが、『文句』に「不輕之説是口業。故往禮拜是身業。此三與慈悲倶。即誓願安樂行也」といいます。安楽行品を日蓮は摂受に配当し、かつ、台釈では、不軽の行は三因仏性、四安楽行に配当されます。つまり、摂受行でした。
日蓮は、この文句の文を知らないはずはありませんから、安楽行摂受を我が身当たらずという問いを起こしながら、不軽菩薩を引くあたり、この文句の不軽=安楽行=摂受という伏線を意識してのことであろうと、わたしは考えます。ところが不軽は折伏という固定観念に囚われてしまうと、この日蓮の心憎い賢察が見えなくなってしまうわけです。
3474
:
犀角独歩
:2007/07/20(金) 00:24:44
【3473の訂正】
誤)日蓮が会談を想定
正)日蓮が戒壇を想定
3475
:
れん
:2007/07/20(金) 10:54:29
端くれさん、初めまして。富士系の漫荼羅にある「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」の天台宗文献の言葉の書き入れですが、その範は日蓮その人に遡ります。現存真蹟では弘安元年八月から弘安二年十月までの御筆漫荼羅数幅に「讃者積福於安明・謗者開罪於無間」とともに書き入れがあります。日蓮が漫荼羅に書き入れた経釈文を見ますと、法華経の持者に対する讃謗の果報としての罪福を説いた文が多いようですので、日蓮の書き入れもその意でしょう。日興の漫荼羅書写の定本は、殆どは彰往考来さんの御考察に示されるとうり日蓮の弘安元年八月の御筆漫荼羅ですので、富士門祖の日興も、書写の漫荼羅には上記の釈文の書き入れをしております。富士系では時代の変遷も例外も当然ながらありますが、祖形は門祖の漫荼羅様式にならっているようですので、あの書き入れは門祖以来のシキタリみたいなものでしょうね。
取り急ぎ、ご参考まで。
3476
:
マターリ
:2007/07/20(金) 19:02:47
>犀角独歩さん、レスありがとうございます。安楽行が極楽の修行であり、
現実世界での修行でない、ということで、納得いたしました。
「娑婆即寂光土」という思想を強調された、日蓮聖人ならではの考え方、と
感じました。
日蓮聖人=折伏という既成概念がありますが、実は摂受をされたわけですね。
3477
:
譚溺
:2007/07/20(金) 20:37:45
>>マターリさん
安楽行品には権力者以外に施陀羅に近づくな、とあり、
また、他にも職業差別が書かれています。
これらは実在のゴータマの行動とも思想とも相反しているし、
手放しで賞賛すべきものではないでしょう。
日蓮は施陀羅が子と称し、
国主にも積極的に働きかけています。
これは安楽行品を無視しているのではなく、
むしろ対決姿勢をとっているのだと思います。
3478
:
マターリ
:2007/07/20(金) 21:26:25
>譚溺さん、レスありがとうございます。私の記憶違いかも知れませんが、
譚溺さんには、以前に「スッタニパータ」の事を教えていただいたような気
がします。
私は安楽行品の全文を読んでいませんが、差別思想が書かれているような
ので、釈尊の思想に違背しますね。
安楽行品は、釈尊の教えに沿ったものだと思っていましたが、考え違いを
していたようです。
法華経は、西暦前後頃から三百年にかけて、インド北西部のガンダーラ地
方で編纂されたようですね。
当時のガンダーラ地方は、さまざまな人種・政治・文化・宗教が入り乱れ
ていたので、犀角独歩さんがおっしゃるように、他土の菩薩が書かれてい
たりと、多くの民族の宗教・思想が統合されているんですね。
3479
:
一字三礼
:2007/07/20(金) 23:00:58
マターリさん
>私は安楽行品の全文を読んでいませんが、差別思想が書かれているようなので、釈尊の思想に違背しますね。
根本仏典で釈尊は、自らの出自(ゴートラ)身分を誇り、パーリア(賎民)の定義を説きます。
仏典・論書等のテキストをどう扱うか、ということは実は大きな課題です。
1、テキストを、それが作成された時代の社会・文化を考慮に入れ、作者と同じ視点に立って評価をする。
2、テキストを現代の価値基準で判断し、否定される個所は削除し、肯定される部分のみ採用する。
3、テキストを個人的な価値基準にのみ照らして、評価する。
上記のうちで、どれが正しくテキスト(仏典・論書)の価値判断をしたことになると思われますか。
私は、1〜3のどれも間違いであるとは言えないのではないかと考えますがいかがでしょうか。
日蓮が、なぜ安楽行品を重視しなかったか、については「開目抄」がその回答になると思います。
この書の執筆動機のひとつは、法華行者でありながらなぜ難に遭うのか、にあります。
「疑て云く、念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり。修羅道にや堕つべかるらむ。又法華経の安楽行品に云く_不楽説人。及経典過。亦不軽慢。諸余法師 等云云。汝、此の経文に相違するゆえに天にすてられたるか。」(開目抄)
この疑問を解決したのが、毒鼓の縁の功を織り交ぜた‘受難による罪障消滅’の考え方です。
正しく法華経を行じながらも難にあった不軽菩薩の‘其罪畢已’を我が身に当てはめたのでしょう。
安楽行品は迹門、不軽品は本門ですから、日蓮が本門の法門によって、迹門の疑難を乗り越えたのでしょう。
3480
:
端くれ
:2007/07/20(金) 23:13:33
>パンナコッタさん、れんさん、
丁寧に教えてくださいまして、ありがとう御座います。
資料写真を見比べての、素朴な疑問だったのですが、辿っていくと
初心者には難しい話になってます。時間がかかりそうですので、
先に、御礼だけ申し上げます。
御本尊七箇相承を辿ってみましたら、少々微妙に感じましが、
しかし、日蓮聖人の現存真蹟にも、同様の書き入れがあるということは、
初めて知りました。
これは、日蓮聖人の現存真蹟にもまったく同じ曼荼羅様式がある
ということですか?
それとも、祖形、曼荼羅様式は違うが、同様の釈文は書いてある
ということでしょうか?
3481
:
パンナコッタ
:2007/07/21(土) 01:02:18
端くれさん、
れんさんご教示の品は、
http://www.lbis.jp/gohonzon/053.htm
この辺りの事ですね。
3482
:
マターリ
:2007/07/21(土) 09:30:15
>一字三礼さん、丁寧に教えていただき、ありがとうございます。
>私は、1〜3のどれも間違いであるとは言えないのではないかと考えま
すがいかがでしょうか。
私も、どれも間違いとは言えないと思います。
そのうえで、順番を付けるとすると、まず当時の時代感覚を考慮にいれた1
を重視し、次に現代人の視点から2を考えます。1と2の視点からみて、違和
感の無いものが、人類普遍の真理と言えるのではないでしょうか。
3は、個人個人、考えが違いますので、補足的なものと考えます。
>安楽行品は迹門、不軽品は本門ですから、日蓮が本門の法門によって、
迹門の疑難を乗り越えたのでしょう。
そうでしたか。開目抄と不軽品を見てみたいと思います。
3483
:
れん
:2007/07/21(土) 17:51:17
端くれさん
昨日の書き込みはやや雑に書きましたので、やや訂正の意を含めて書きます。
先ず、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」に関しては、パンナコッタさんが貼ってくださった弘安元年八月の御筆漫荼羅のように、蓮師自身が書き入れされている例があります。ただし、蓮師の場合はこの語句が記入される場所は後世の富士門の漫荼羅のように一定化しておらず、オーダーメイドですから場所はまちまちです。ですが、これに関しては蓮師から始まったのことと言えましょう。次に“授与之”に関しては、石山の形木の漫荼羅にありますが、それ以下に授与者の名がないのは石山において形木の漫荼羅は仮本尊の位置付けであり、法主直筆の常住本尊ではその下に授与者の氏名がはいるでしょう。仮信徒に授与の形木に氏名が無いのはまあ、正式に信徒と認められた者に授与される法主直筆の常住本尊との差別化の意図があるのでしょう。
蓮師の漫荼羅にも、たとえば蓮師御筆の石山日目授与の漫荼羅には「釈子日目授与之」また四条金吾授与の漫荼羅には「俗日頼授与之」とあるように個人授与の漫荼羅には授与書きがあり、「授与之」の語句については特に異とするところではないと存じます。
しかしながら“為現当二世”の語句については、蓮師の御筆にはその例はなく、石山に於いて最高の本尊と位置付けられている彫刻にのみ見られるもので、彫刻が作成されたと思われる室町末期から江戸初期以前の石山住職の漫荼羅にも「為現当二世」の語句は無く、私の管見では石山四十八世日量の漫荼羅が初見で、“現当二世”の句に限っては、彫刻に倣って江戸時代から石山法主が書写の漫荼羅に付け足したものと言えましょう。
以上のことから、「若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号」「授与之」は蓮師まで遡れるが、「為現当二世」の語句に関しては、彫刻の腰書きに引きずられて、江戸時代以降の石山住職が付け足したものということです。
またまた凡長な文になってしまいましたが、ご参考になれば幸いです。
3484
:
大縫 薫
:2007/07/21(土) 23:32:43
為現当二世は、江戸後期が初見なのは間違いありません。
明日、独学徒さんの掲示板の方に写真を投稿しますので確認してみて下さい
3485
:
犀角独歩
:2007/07/22(日) 09:01:12
真蹟遺文で、毒鼓が出てくるのは、たった2カ所です。
『曽谷入道殿許御書』に「彼不軽菩薩出現於末世令撃毒鼓之時也」
『秀句十勝鈔』に「信者為天鼓 於謗者為毒鼓」
天鼓毒鼓は信・不信(謗)に分立して述べる文句・玄義の釈に従うところです。台釈では、毒鼓は天鼓とのセットされますが、日蓮門下で、摂折二門で折伏いっぺんとうのように、ここでも毒鼓を採って天鼓を忘れています。
「不軽…令撃毒鼓」という件を勘えます。この毒鼓の譬えの載る涅槃経(南)に遡ってみます。
「譬如有人以雜毒藥用塗大鼓於衆人中撃令發聲 雖無心欲聞聞之皆死 唯除一人不横死者 是大乘典大涅槃經亦復如是 在在處處諸行衆中有聞聲者 所有貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡 其中雖有無心思念 是大涅槃因縁力故能滅煩惱而結自滅。犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱。除不横死一闡提輩」
この段は、涅槃経信者と一闡提(不信)の対比で信経の利益を述べていく段にあります。簡略して文意を記せば、毒を鼓に塗って撃つと、その声(おと)を聞いた人は、みな死ぬという件から始まります。ここだけを切り文して読むと、たしかに毒鼓の声を聞いた者は死んでしまうと即断したくなります。ところがここにただ一人横死しない者がある、それは一闡提であるとあります。つまり、死ぬのは信者のほうであるということです。一見すると、この件は奇妙なのですが、ちゃんと読めばその意味はわかります。つまり、ここでいう「死」とは「貪欲瞋恚愚癡悉皆滅盡…能滅煩惱…自滅…犯四重禁及五無間聞是經已亦作無上菩提因縁漸斷煩惱」に係り、つまり、煩悩などの三毒を滅尽を死と言っています。しかし、一闡提は、この煩悩を死(ころ)せないというのが、この文意です。
これは涅槃経の所説ですから、煩悩を死す経は涅槃経なのですが、「法華涅槃」を括る天台‘マジック’では、これが法華経を説くことというアクロバット技が展開します。
具体的には不軽菩薩と関連づけられていくわけです。
わたしは法華涅槃を括る台釈には反対の立場で、ですから、それを受容する日蓮の在り方にも賛同しかねます。それはそれとして、しかし、では、台釈を日蓮はどのように受容したかを考えることは、現行の日蓮門下教学の誤解を考えるうえでは通過点となりますので、考えなければなりません。
『文句』に「本已有善釋迦以小而將護之 本未有善不輕以大而強毒之云云 … 雙明信毀果報 …神通力是‘身’業淨 樂説辯力是‘口’業淨 善寂力是‘意’業淨云云」
この「不輕以大而強毒」は、不軽折伏の根拠とされる釈文の一つですが、これはまったくレトリックです。なぜならば、ここで言われる不軽菩薩の有様は上に挙げるとおり、身口意の三業に配当されています。この点をもっと端的に述べるのは、同じく『文句』に「不輕之説是口業 故往禮拜是身業 此三與慈悲倶 即誓願安樂行也」と明記されています。
つまり、不軽菩薩の有様と、安楽行品に示される四安楽行(身・口・意・誓願)であるというのは台釈です。つまり、不軽の行は安楽・摂受の行です。
安楽行品はたしかに迹門であり、不軽品は本門です。ですが、釈尊の前世、不軽の菩薩行と安楽行品に出でる他土菩薩の行は倶に四安楽行の範疇で異なりません。
以上の脈絡を六大部を精読・精査された日蓮が知らぬはずはありません。
となれば、日蓮は、不軽の行を採って我が身に宛て、安楽行品に自身が違背しないことを証したと見なすほうが至当であるとわたしは思えます。
つまり、『開目抄』において、日蓮が安楽行品に自身が当たらないという批判に不軽の行を以て論じる脈絡は以上の如くであり、その結論するところは安楽行品にも当然、違背しないという日蓮の自意識が息づいていると、わたしには思えます。
3486
:
犀角独歩
:2007/07/22(日) 09:02:16
3483 れんさん
このご賢察は、たいへんに参考になりました。
有り難うございました。
3487
:
犀角独歩
:2007/07/22(日) 14:10:29
摂受折伏につき、台釈・日蓮教学を見ると、いくつかの留意すべき点があると、わたしは考えます。この意味は、もちろん、従来言われてきたことについての疑義です。
・法華折伏?
日蓮の真蹟には一度として引用されない『文句』の「法華折伏破権門理」は法華経が折伏の教説であること証拠として常に引用されます。これはまた、たぶん、偽書に違いない『如説修行鈔』で末法折伏を主付ける証拠として上げられるところからも、そうなのでしょう。
しかしながら、真蹟遺文から見る限り、日蓮は、法華経を折伏とは言っていないわけです。たとえば『開目抄』では
止観云 夫仏両説。一摂・二折。如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖乃至斬首是折義。
と法華折伏とは裏腹に法華経安楽行品を挙げて摂受、大経(涅槃経)を挙げて折伏というのであって、「法華折伏破権門理」とは逆の釈を採っています。
ついでながら、記せば、
無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。
の「不軽品のごとし」が原文にあったかどうかは、決着がつかず、折伏論者はあったといいます。わたしは日蓮のように文脈を大切にする人であると考えています。もし、ここに日蓮が「〜のごとし」と入れるとすれば、先の止観を受けた形で書くはずですから、「大経のごとし」とするほうが相応しいだろうと考えます。
さて、摂受と折伏、どちらが先かという問いとして
悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし
と問いかけます。この問いは、「若有更為当断其首。如是等文 並是折伏破法之人。」、つまり破法=折伏を受けた文でしょう。となれば、日本が破法の国であれば折伏ということになります。
┌悪国=摂受
└破法の国=折伏
ここで、(この点は既に記しましたが)日蓮の他の真蹟を見ます。
『開目抄』に「‘悪国’悪時これなり。具には立正安国論にかんがへたるがごとし」
『富木殿御返事』に「諸天善神去此‘悪国’故」
『曽谷入道殿許御書』に「其外閻浮守護天神地祇或去他方 或住 此土不守護於‘悪国’」
以上、日蓮は、日本国を悪国であると書いています。
ならば、日本は摂受が先ということにならないでしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/3440
ただし、日蓮は摂受か・折伏かという二者択一を説いたのではなく、どちらが先かを言ったのでした。
3488
:
犀角独歩
:2007/07/22(日) 14:11:11
―3487からつづく―
・不軽折伏?
従来、不軽菩薩は折伏という前提で記されていますが、台釈から涅槃経に帰って読む限り、この根拠は揺らぎます。この点については、3485に記しましたが、四安楽の説から不軽を釈する台学において、不軽は摂受と考えざるを得ません。
・摂受は、折伏の摂受?
もっとも嘆息を禁じ得ないのは『本尊抄』の「此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」という四菩薩僧の摂受を「折伏の摂受、つまり折伏」と枉げて論じる暴挙です。日蓮は『開目抄』に「夫摂受折伏と申法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。」とまでいうわけです。
『本尊抄』における摂受を折伏と言うことは、水を火という、白を黒と言いくるめる暴論というほかありません。
また、この文では「弘持正法」を摂受であるといいます。すなわち、言説を以て法を弘めることを摂受であるというのです。これを日蓮がしばしば引用する「見壊法者」の一節を宛てれば、まさに言説=而強毒之は摂受、僧侶の配置されているわけです。
ただし、日蓮は摂受一辺倒に論じているのではなく、一字三礼さんがご指摘されたとおり、為政者は折伏を表に立てています。また、顕正居士さんが誰よりも早くかなり以前から指摘されているとおり、蒙古王を四菩薩の折伏と見なしているわけです。
日蓮が言う折伏は、在家王のなすところであり、武力を以て、時には斬首を厭わないものでした。蒙古王が法華経の弘持を日本に求めたことがないのは言うまでもなく、一方、摂受の僧は法を弘持した役割の相違があります。
概ね日蓮折伏をいう人もしかし、日蓮非武力はいうわけです。
では、刀杖を持つわけでもなく、武力を行使するわけでもなく、斬首するわけでもないのに、不軽、日蓮が折伏だというとき、この論者たちは、つまり、相手を毒するほど、強く説くことが折伏なのだいうわけです。つまり「言説が折伏である」ということです。ところが、日蓮が真蹟遺文中に挙げる折伏に言説は含まれていないことは、その資料を俯瞰すればすぐにわかります。
「言説が折伏」であるというのであれば、まず、この証拠を挙げることが始めればよいことになります。わたしは、この根拠を見ません。故に、僧侶摂受・為政者折伏というのが日蓮の摂折論であると結論しています。
ちなみに、これを今日的に当て嵌めれば、僧侶は摂受を以て経・釈・書と題目漫荼羅を弘持し、為政者は折伏を以て、軍備増強、死刑断行ということになるのでしょう。ここで日蓮が勧める軍備は自衛などではなく、攻撃能力を持って軍隊ということになるのでしょう。
日蓮門下一般がいう戦争反対、平和憲法擁護とはかなり歪みがある点を注視する必要もあります。
3489
:
端くれ
:2007/07/22(日) 14:26:23
>パンナコッタさん、わざわざありがとう御座います。
>れんさん、大変によく分かりました。
詳しく教えてくれまして、ありがとう御座います。
お二人には心より感謝申し上げます。
これからも程度の低いことを、お尋ねするかもしれませんが、
その時は宜しくお願いします。
3490
:
犀角独歩
:2007/07/22(日) 19:12:35
れんさん
彰往考来さんのご賢察で、日興が原本とする日蓮漫荼羅が弘安元年の頃であるという点は、素晴らしいご賢察であると思います。
この点について、何ら否定などする意図はないのですが、(1) この弘安元年は、弘安2年の可能性はないのでしょうか。あれば、『御伝土代』の記述と一致することになります。
もう一点、この点は先にもお尋ねしたことがあったかも知れませんが、(2) 筆法から見るとき、日興の「本尊」はまったく弘安元年と類似しません。特に不動・愛染の相貌は、寧ろ文永年間に似、建治・弘安から隔たりがあります。このような相貌と年代の不一致は如何なる理由によるとお考えでしょうか。
3491
:
れん
:2007/07/22(日) 22:09:19
犀角独歩さん
(1)につきましては、ご質問の可能性については、かつて当掲示板や独学徒さんの所の掲示板で推論を述べたことがありますが、原本と断定できる日蓮御筆が曽存を含めて確認出来ないので、推定で終わってしまうのが難点ですね。“可能性”そのものは一応あるだろうというところです。
(2)につきましては、日興は諸尊の名号は弘安元年八月の日蓮漫荼羅を祖型に用いるも、その筆法は年代が下るほど日興独自ということは、少なくとも日蓮から日興に、筆法については何等の指示や指導はなかったということを物語っているのではと思います。この点は他の日蓮の弟子も同様で、筆法は弟子の諸師が思い思いに書いている印象ですから、筆法における“相貌と年代の不一致”の理由は、日蓮から弟子に筆法について何等の指定的な指示がなかったため、弟子が思い思いに所持している日蓮のある年代の御筆から筆法をチョイスしたり自分の書き癖で独自の筆法を確立していったことに起因するのではと考えております。
3492
:
犀角独歩
:2007/07/23(月) 08:19:03
れんさん
筆法については、日蓮は何ら伝えることがなかったというご見識は、遺る派祖の「本尊」から考えても、仰せのとおりかと存じます。
先に「為現当二世」の書き込みにつき、また、「日蓮在御判」「奉書写之」などの定型文も、後代の定着であり、結局のところ、日蓮から「本尊」書写で秘伝された、まして、日興唯授一人の本尊書写筆法などなかったということは明らかになりました。
ご教示有り難うございました。
3493
:
れん
:2007/07/25(水) 19:18:56
初期石山歴代の漫荼羅を見ますと、日道以降日有までの漫荼羅に勧請の諸尊座配等は全く派祖日興の漫荼羅に拠っており、弘安二年中に日蓮が図示した十余幅の御筆漫荼羅と何の脈絡も無いのは、石山上代に「弘安二年」の揮毫に係る日蓮御筆漫荼羅が存在していなかったことの証左だと考えます。
「日蓮在御判」も派祖日興の漫荼羅を見ますと「日蓮聖人」「日蓮聖人御判」「日蓮在御判」「日蓮御判」表記が様々であり、室町初期の石山住持の日時・日影は「日蓮聖人在御判」と自筆漫荼羅に書いています。「書写之」も初期石山歴代で確認出来るのは派祖日興と日道のみであり、目・行・時・影・有の書いた漫荼羅に「書写之」はありません。
よって、資料から細かく検討しますと「日蓮在御判」「奉書写之」も、これが石山において定型として定着するのは、犀角独歩さんがかねがねご指摘の通り、明らかに後世に属することであり、これらのことからも、石山が主張する意味での日蓮から日興への“書写”に関する唯授一人の相承なるものは無かったと見るのが当然だと存じます。(石山には伝日興撰文献として、係年が弘安五年とされる首題点画秘抄なるものがあるそうですが、江戸中期の日因写本とのことですし、本文未見でもあるため考察の埒外に置きました)。
3494
:
犀角独歩
:2007/07/26(木) 11:03:40
れんさん、ありがとうございます。
これは、たしか独学徒さんとの議論で、話題にしたことであると記憶しますが、石山における「本尊」書写において、もっともわたしが注目したことは、日興と日目の本尊の書き方の違いでした。つまり、ここに本尊相伝はないと見なさざるを得ません。一方、今回のご教示のとおり、日道には脈絡があり、北山(西山)でいえば、日代に脈絡があり、さらに日郷にあります。
日興が日目を一中一といい、この文言が、日興 ― 日目 ― 日道と系列していくことと、「本尊」の、殊に書(写)とは軌を一にしていない点は注視に値します。
やや横道になりますが、日蓮は漫荼羅を図(示)というのに、日興は書写ということは、図示されたものを書き写したという自認に基づくのであろうと思います。
一方、日目が、図とも書(写)とも記さないのであれば、そこには、それなりの自意識が働いていたと見なすべきであると、わたしは考えます。
3495
:
れん
:2007/07/26(木) 19:55:07
犀角独歩さん、ご教示有難うございます。
日興の漫荼羅で、日目と同じく「日蓮聖人」の表記で「書写之」をも記さなかったものが一幅だけあります。それは正応三年十月八日付けの僧日仙授与のものですが、日目が漫荼羅の書式において、日興が確立していった漫荼羅書写様式に拠らず、日興の初期の極めて一時期の書式を採用したことは、それなりの自意識が日目にあったとともに、現在言われるような特別の漫荼羅“書写”の相伝が無かったことの証拠と言えますね。
日郷の漫荼羅は管見では二幅写真で拝見してますが、日目と同じく「日蓮聖人」「書写之」無しの書式で、日目の弟子で日目の漫荼羅の書式を継承したのが日道ではなく日郷であることは興味深い事実ですね。
日目自身の教学はその教学的な自筆の(とされる)著述が石蔵で公開されていないものが数種あるので、その全貌は今もって明らかではありませんが、おそらく、尊師実録や日郷の弟子日叡著述の「類集記」や「後信抄」の内容と大差は無いのではと考えております。
何れにせよ、日目は日興から「一中一弟子也」と特記されるも、漫荼羅の書式が日興の確立した書式を用いないこと、日興直弟の自筆漫荼羅を見ても、日興の書式だったり、日目が用いた書式だったりと、本山住持は結構思い思いにやっている印象ですので、石山に限らず、この時代には漫荼羅“書写”の特別な相伝などというものは未だ成立をみてなかったのではと考えます。
3496
:
犀角独歩
:2007/07/26(木) 20:22:36
れんさん、こちらこそ、ご教示ありがたく存じます。
日郷のこと、補完いただき、この点も感謝申し上げます。
日仙授与とは『日興上人御本尊集』P44所載のものですか。
このわずか5日後に書いた、通称「譲座本尊」には「写之」とあるのに、これすら、日目は踏襲しなかったわけですね。
おっしゃるとおり、「思い思い」、特別な相伝はなかったのだと改めて思いました。
3497
:
再挑戦者
:2007/07/27(金) 23:00:30
3491のれんさん。
貴方の言い分は、核心を突いているようです、?
日興さんは日蓮さんに、常在しつつ、御給仕たて祀った方 == 日興さんでさえも、 日蓮さんの本心を御理解不可能であった、??ようでしょうか、??
ソバにいながら、結構、「、日蓮さんにイチャモン=要求事項も存在か?」、有ったようでが、一番大事===肝心なる{本尊===本尊===本尊===本尊」、に関しまして、他者には、一体、、、全体、、、」「相続の欠陥==欠如??==手抜き、エエカゲンサ、、??」、とも、取れる後世への疑義防止への配慮不足!!! これへの配慮の欠如、、???、、これは、「後世への信者の成仏への核心」、に対する大いなる「反逆行為、?」とも思えますす、。 金儲けだけの「悪漢どもと== のようですか」、???
ここにいたっては、金儲けの悪漢どもと別離こそが、最善かも、、?? されど、、どの、、、いかなる、、対象・本尊が無害???か、、??? トホホ、。
3498
:
偶ロム偶ログ
:2007/07/30(月) 03:44:13
>3497 再挑戦者さん
>日興さんでさえも、 日蓮さんの本心を御理解不可能であった
たぶん蓮祖は天才であったのです。「理解不可能」というよりも直弟であっても
「理解不十分」であったということでしょう。
>後世への疑義防止への配慮不足
>配慮の欠如
これはどうでしょうか。直弟にあっては問題はなかったと思います。
いわゆる「本尊論」は孫弟子・曾孫弟子くらいから起こったのではないでしょうか。
つまり、他師・他派・他山との対抗上、正統性を誇示して他との差別化を図るために
各師・各派・各山が独自の「本尊論」を展開しはじめた、というふうに思います。
>いかなる、、対象・本尊が無害???か
どのような信仰をしているかによって、合致する本尊とそうでない本尊が現出します。
信仰を持たないひとにとっては、どのような本尊であれ無害なものです。
つまり、日蓮正宗の信仰者は日蓮宗の信仰を持っていないのですから、日蓮宗の本尊は
無害なものといえます。
有害なのは、「教団の教え」「教団の解釈」でしょう。
日蓮系の信仰者にとって大切なことは、どのように蓮祖に向かい、どのように法華経に
向かうか、ということなのではないでしょうか。
3499
:
再挑戦者
:2007/08/02(木) 21:21:23
3498 偶、、さん。
御提言には深く、感じます点が数点ございます。 ドーモでした。
疑問な点は「、日常に繰り返される物事には、意識が希薄になることも在りましょう、。」、例せば、日蓮さんが「紙不足の時代の中、真筆本尊の作成の時を、日興さんは少なくても百ニ十数回ほど御検分・検証なさっていた」ようでしょうか、?
その環境の中、何ゆえに「真筆本尊様の偉大さ?・崇高さ?・尊厳さ、?」などを感知?され無かったのでしょうか、??(単なるお手紙程度の分析力か、、??)
タダ、真筆とは言え、中世の文物的(博物館内の、、)な、見方しか出来ない方方には情けなく、思いますが、。 今後とも、貴方の言の「、日蓮さんにどのように向かい、法華経(教主釈尊)にどのようにむかうか、、」、? と言う御提言には、ご賛同を禁じ得ません、、。 謝謝、、。
3500
:
大縫 薫
:2007/08/03(金) 20:08:27
れんさん、ご指摘の江戸後期書写の為現当二世の写真を独学徒さんのHPの
談議所の方に写真をアップしました。四十六世日調上人筆です。
3501
:
れん
:2007/08/03(金) 20:41:59
大縫さん、先程独学徒さんの掲示板に投稿されました画像を拝見させて頂きました。この度はご所持の貴重な石山本尊資料より、石山本尊の「為現当二世」に関する資料の画像をUPして戴き有難うございます。先日の石山本尊における「為現当二世」の書き入れは江戸後期からというご指摘とともに、学恩を深く感謝申し上げます。
私の場合は限られた資料からの推定でしたが、大縫さんのご指摘により、それが事実と分かりましたことは一つの収穫でした。「為現当二世」が江戸後期からということは、やはり大弐日寛以降、特に石山本尊論の中核に位置付けられた彫刻の「(右)為現当二世」の腰書きを意識してのことだったのでしょうね。
取り急ぎですが、右お礼申し上げます。
3502
:
大縫 薫
:2007/08/03(金) 21:26:16
こちらこそ、感謝申し上げます。為現当二世の初見はおそらく調師前後の歴代
が初見だと思われます、何故にそれ以前の歴代は為現当二世を本尊に書写され
なかったのでしょう?日寛上人以降百年は為現当二世は歴代に書写した形跡が
写真では確認は取れませんでした。
3503
:
大縫 薫
:2007/08/03(金) 21:50:24
あと、最近になって隠居日顕上人書写の本尊の讃文に仏滅後二千三百三十余年
之間と書写していた筈なのに、最近になって日蓮門下共通の仏滅度後二千三百
三十余年之間と書写が変化しているのに気がつきました。度とは、かぎる又は
定めると云う末法に特に時を定めた(如来神力品第二十一)ことによりますが、
歴代の大半が仏滅後と書写をしていて、度を讃文に入れた歴代は数える程度し
か存在しません。大石寺歴代書写は他の富士門流七山と比べても、書写に統一
性を欠く事を証明していると言わざるを得ません。
こちらも、写真を独学徒さんのHPの方に公開していますので、併せてご覧下
さい。
3504
:
れん
:2007/08/03(金) 22:00:31
大縫さん、重ねての御教示有難うございます。
何故、調師前後以前には「為現当二世」を写さなかったのか…真意の程はわかりませんが、恐らく調師前後の歴代で初めて「為現当二世」を書き入れた書写の本尊が案外石山本末のご信者さんに好評で、それなりの“需要”があったが故に石山本尊における「為現当二世」の書き入れが次第に定着していったのではないかと想像します。
彫刻を根本本尊とする教学を確立した寛師以降の、かつ調師前後以前の石山の歴代の本尊に「為現当二世」が写されてないというのは、恐らくですが「為現当二世」は特に彫刻に係るものと認識されていて、その間の歴代には自己が書写する本尊に「為現当二世」と書き入れるという発想が無かったことを示しているのではと愚考しております。
3505
:
れん
:2007/08/03(金) 22:35:09
大縫さん
>3503
顕師が何故、「仏滅後…」から「仏滅度後…」に変えた理由は、それこそ顕師のみぞ知るところでしょうね。石山上代の本尊讃文では公開されている写真を見る限り興師は「仏滅後」(初期のみ)「仏滅度後」「如来滅後」の三種、目師は「仏滅度後」「如来滅後」の二種、道師以後有師までの歴代は「仏滅度後」ですね。彫刻が「仏滅後」ですから、その成立以降「仏滅後」が定着したのでしょうか?あまり、他山の本尊の変遷についてはあまり知りませんが、石山に限らず様式の時代時代における変遷はあるものと思っていますので、それ程異とすることは無いと存じます。
3506
:
犀角独歩
:2007/08/04(土) 03:01:57
大縫さん、れんさん、実に有意義な論攷と画像のアップ有り難うございました。たいへんに参考になりました。
富要で「現当二世」を検索すると、以下のような結果でした。
・有師物語聴聞抄佳跡上「右為現当二世造立如件」
・化儀秘決(私記)「夕朝は一門内に於いて現当二世、令法久住の内経」「王臣一同現当二世の所願を成就あるべし」「只題目を唱へ申し当施主現当二世の諸願皆令満足、殊には心中の所願成就などと申し上ぐべきか」「現当二世所願成就、其の外云云、南無妙法蓮華経と唱ふるなり」「当大迄嫡々口唱の南無妙法蓮華経、滅罪生善、現当二世所願成就…」「…還来帰家し冥覧を加へ、受持の者を擁護し現当二世の所願を成就なさしめ給へ」「現当二世安穏なるべしと思ふは一念の信心にあらざるか」「殊には現当二世所願成就、年中所願皆令満足なんどと申すべし」
・袈裟数珠の事「…数珠を用ひて現当二世を咒願するなり」
・有師談諸聞書「現当二世の所願を我れ彼れに与へんと念願し・共に成就せんと朝暮に祈祷すべき」
・百五十箇条「信心を致し現当二世の所願決定円満せしむべきなり」
・撰時抄愚記下(日寛)「…大禍は現当二世にのがれたくこそ候はんずらめ」
・妙法曼荼羅供養抄見聞筆記(日寛)「…末法の我等が現当二世を成就する秘法の中の大秘法なり」
・寿量品談義(日寛)「所詮此の寿量品は釈尊の御本意、一切衆生現当二世を成就する大甚深微妙法」・祖師伝(日辰)「末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属し玉ふ」
・富士門家中見聞(家中見聞下)日精「…末法利益の為に寿量長遠の妙法蓮華経の五字を弘通し、一切衆生の現当二世を済度すべきの由之れを付属す」・富士大石寺明細誌「現当二世の為め造立件の如し」
・日寛上人伝(日量)「是の記見聞の信者をして現当二世の祈願を忝地満足せしめたまへ」
大縫さんのご投稿を拝読したとき、石山歴代が「本尊」に「為現当二世」と書いたのと、彫刻本尊の成立が、あるいは時期が重なるのかと思ったのですが、聴聞抄佳跡上の日因は31代で、46代日調よりかなり前ですね。ただ、日量は48代ですから、時代は近いと思えました。
検索の結果、「現当二世」という成句の活用は、石山より、保田、京都のほうが先行しているのでないかと思えました。
3507
:
犀角独歩
:2007/08/04(土) 08:38:18
少し信じられない気分ですが、中国天台初期文献には「現当二世」の使用はありませんでした。『伝教大師全集』では、『六天講式』の「大黒天講式」に1カ所のみでした。
「祈現當二世悉地 其旨趣如何者 爲父母孝養 奉仕師長 興隆佛法 濟度衆生也」
真蹟遺文では、『下山御消息』に1カ所のみ。
「教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五巻を以て日蓮が頭を打、十巻共に引散て散々に[足+(日/蛺)]たりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(定1343)
写本、疑偽書では『真言見聞』『当体義抄』、富士方では馴染みのない『末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文』に、その使用がありました。
先の検索も同様ですが、祈祷文に使用される語彙であり、これが「本尊」に書き込まれれば、祈祷本尊の意味合いは強いことになりますが、彫刻本尊からの転載が、日調以降、一般化するとも見ることもでき、はたまた他門影響の与/受など、ご賢察を窺えればと存じます。
3508
:
マターリ
:2007/08/04(土) 14:55:09
こちらのスレッドに書いて良いものかわかりませんが、鎌倉時代について、
3冊ほどの本を読んでみましたので、感想を述べさせていただきます。
日蓮聖人を歴史上の人物として客観的に考えるには、まず鎌倉時代につい
て調べなくてはならないと思いました。
まず、鎌倉時代の武士についてですが、3通りに分けられるようです。
1.荒々しい武士
2.貴族化した武士
3.信仰を求める武士
1.荒々しい武士については、国立博物館蔵、男衾三郎(おぶすまさぶろう)
絵詩によく表れています。男衾三郎は鎌倉時代末期の、武蔵国の武士です。
彼は、美しい妻を迎えた武士は命が短いと考え、八ヶ国の中で最も不美人
を嫁に迎えたいと探します。そして迎えた妻は、髪は縮れ毛で、鼻が大き
く、口はへの字に曲がっています。原文によると、「顔には鼻より外、又
見ゆるものなし」と書かれています。
男子3人、女子2人の子供が生まれましたが、女子は二人とも母に似て不美
人で、「偏に鬼にぞ似たる」という有様でした。つまり、母も女子も鬼に似
ているような、恐ろしい顔をしていたということです。
これは現代人にも通じると思います。男は、美しい妻を迎えたいと願います
が、美人薄命という言葉もあり、不美人の方が、たくましい生命力をもって
いるとも考えられます。また、美人の妻がいることで、他の男性から、ねた
まれる恐れもあります。
男衾三郎の兄は、美人の妻を迎えましたが、旅行中、三郎と共に山賊に襲わ
れ、三郎は助かりましたが、兄は亡くなりました。
私もこれから結婚をする身ですが、不美人と結婚しなくてはならないと
180度、考えが変わりました。
また男衾三郎は「馬庭の末に生首たやすな」と称し、門前を通る乞食や修行
者を捕まえ、犬追い物の犬に代わる的とせよ、と命じました。武士の屋敷
の門前は、武士のテリトリーであり、通る人々は、まさに「獲物」だった
ようです。
現代からは、全く想像できないような別世界が、広がっていると思いまし
た。日蓮聖人も、この時代に生きていたわけです。小松原の法難のさい、
武器を身につけた弟子を引き連れていたのも当然と思います。
また、日蓮聖人の場合、初期の信徒に武士が多くいました。師匠と弟子は
お互いに影響しあうものです。日蓮聖人が武士の気風に影響され、教義的
な面でも、武士風の激しいものに変わっていった可能性もあると思います。
次に鎌倉幕府の宗教観についてです。国民の尊敬を得るには、戦に勝って
腕力を見せつけるだけではだめです。世界で流行している最新の物を日本
にもってきて、最初に人々に見せる必要があります。
当時の宋は、世界最先端の国でした。そして、宋の宗教は禅宗でした。
禅の中核にはもちろん教義がありますが、それに付随した文化がありまし
た。水墨画・お茶・生け花・文学などです。
鎌倉幕府は、禅宗とともに、付随した世界最先端の文化を輸入したのだと
思います。幕府は、宋から多くの中国人の僧を迎えて、優遇しました。
日本の禅宗、曹洞宗を開いた道元が、鎌倉を訪ねて北条時頼に会いました。
しかし時頼は、渡来僧を重んじ、道元に冷たかったようです。
鎌倉幕府から見れば、法華経は聖徳太子のころから重要視されてきた経典
ではありますが、既に古い教えと考えたのではないでしょうか。
幕府は、中国の最新文化とともに、最新仏教である禅宗を、重んじたと思わ
れます。日蓮聖人の仏教に対する深い洞察力・行動力・勇気・予知能力には
大いに感銘したと思います。
しかし、仏教を求める考え方の次元が、日蓮聖人と幕府では全く違っていた
ため、立正安国論ほかの名著をもってしても、その差を埋めることはできな
かったのだと思います。
3509
:
みれい
:2007/08/06(月) 01:49:45
マターリさん
時代の背景と言うのは私こそ、日本宗教の歴史を学生時代にまったくといっていいほど学んでこなかったので、
興味を持ちました。
よろしければ、その読まれたご本のタイトルなど教えていただければ幸いです。
また、ウィキペディアでざっと、鎌倉各宗祖を年代順にまとめてみました。
http://mirei2007.blog88.fc2.com/blog-entry-45.html
(まちがいあればご指摘いただければ幸いです)
鎌倉時代といっても、各宗祖の生まれた年代にかなりばらつきがあることが(今更ながら)わかってきました。
当時将軍に近かった禅宗は臨済禅(栄西)、また今は亡き日本達磨宗(能忍)のようですね。
曹洞宗は目立つのを嫌い、地味に暮らしていた模様。
ちなみに臨済宗では法華経は扱わず、曹洞宗では法華経を扱います。
こうして並べてみると、日蓮の出生はかなり後半であり、ゆえに他宗派に批判のしやすい土壌であったこともみえました。
また当時の仏教と政治権力の親密さも垣間見える気がします。
3510
:
犀角独歩
:2007/08/06(月) 08:18:10
史学的視点は、事実認識には大いに役立ちます。
さらに、それぞれの主立った活動場所としていたところなどの考慮も必要でしょうね。日蓮の真蹟遺文で、みれいさんが挙げた諸師たちを検索すると、以下のような結果となります。
法然…100回
栄西… 0回
親鸞… 0回
能忍… 0回
懐奘… 0回
道元… 0回
つまり、日蓮は法然以外は意識していないか、その存在も知らなかったかように思えます。また、「鎌倉時代」ということですが、これは武家が勝手に開いた幕府であり、このとき、京都は閉鎖していたというわけではないですね。教科書で習った歴史は、この点で信用できず、また、視点を鎌倉地域に絞ってしまう憾みがあります。
また、いまでこそ、鎌倉新仏教(新興宗教)の祖師と謳われるものの、生存当時、一天下にその名前が知れ渡っていたのかといえば、上述の日蓮の引用から見ても、どうやらそうでもないのでしょう。これは日蓮も同様で、ほとんど、流罪生活を送っていたわけですから、初登高座から逝去までの30年間で日蓮を知っていた人は、どれほどいたか、かなり少なかったのではないでしょうか。むしろ、その没後、徐々にその名が知れていったのだと思います。この点は日蓮に限らず、親鸞しかり、その他も同様ではないでしょうか。
また、武家に招来された禅僧は、パトロンたち(武士)の間では、有名であっても、では、庶民はといえば、禅を組み生活の余裕があるはずもなく、その名すら、聞くこともなかったのではないでしょうか。
なお「日蓮が折伏をした」という表現には異論があります。また、日蓮は京都という日本の本拠地で、その最高学府(比叡山)で学び、しかし、その権力構造に入らず(「入れず」が至当か?)、それでも、武家の暫定政権の地、鎌倉にやって来て、伝教の往古を仰ぐ、いわば天台原理主義のような活動を行った法華宗(天台宗)“天台僧”からの出発でした。また、日蓮の根本といわれる「本尊」もその現存は130舗ほど、実際にどれほど図示されたかはわかりませんが、それでも数百を超えることはなかったでしょう。となると、日蓮を知り、「なむめうほうれんぐゑきゃう」と口伝えに唱えた人々にとって、その本尊はないに等しい存在であったと類推されます。
情報通信で、もっとも早いのは、陸では馬、海では船、人の移動は徒歩、さらに身分制度の時代で、その身分ごとの生活内容は、他からはほとんどブラックボックスのような関係、また、武士といっても数人に1人しか識字能力がなく、渡来僧が、では、日本語に堪能であったかと言えば、そうは思えない等々、わたしたちが単純に考え「歴史」としてまとめられた‘物語’と事実は、大きく異なっているのだろうと思えます。
そんな実像を見る、第一歩として、みれいさんのまとめは足がかりになるでしょう。
> 当時の仏教と政治権力の親密
政教一致は中国からの一環で、神仏習合は聖徳太子?の時代から。
いまの仏教と政治の関係が、ここ2000年からみて劇的変貌ということでしょう。
3511
:
マターリ
:2007/08/07(火) 20:36:02
>みれいさん、借りてきた3冊の本ですが、1冊は「梅原猛、日本仏教をゆ
く」です。聖徳太子から明治の僧まで説明してありました。他の2冊は、
図書館に返してしまいましたので、タイトルは覚えていません。「鎌倉時
代と武士」だったような気がします。
犀角独歩さんがおっしゃるように、日蓮聖人在世とうじ、鎌倉と佐渡の
わずかの人たちが、日蓮聖人を知っていただけだと思います。六老僧を
はじめとした、弟子が教えを広めて、相当な年数(百年単位)をかけて
日本全国に知れわたるようになったのではないでしょうか?
武士の識字能力ですが、鎌倉時代は、ハイレベルの武士しか文字を読めな
かったようです。例えば四条金吾の四条は中流以下ですので、本人は日蓮
聖人の手紙が読めなかった可能性が高いと思われます。
なお、京都の人から見た鎌倉は、単なる田舎に過ぎなかったようです。
源頼朝が兵を起こしたときも、山奥で山賊が乱を起こしたくらいにしか
みていなかったとのことです。
また、京都の人たちは、東国の武士を、東夷(あずまえびす)と呼び、恐ろ
しがっていました。
蒙古襲来の危機が迫ってきても、京都の公家たちは、どこ吹く風で、
源氏物語のような、王朝絵巻の世界にひたっていたようです。
3512
:
富士川一郎
:2007/08/07(火) 21:40:41
横レスです。
四条金吾さんは、純粋な武士ではありません。元来は公家の四条家です。
一条、二条、三条、四条などは全て公家です。
四条さんは薬師であり、京八流の流れを汲む武術の達人でもありました。
四条家は、宮将軍と共に鎌倉にやってきた一族のようです。
ですから、江間家の「正式な家臣」では無く「かかりびと」であったと言うのが史実のようです。
それが日蓮門下では宗祖の御妙判には単なる武士としか無いから、いつの間にか武士だと誤認されたようです。
ですから、当時の最大の有識者です。
そもそも字が読めなければ漢方の書籍が解読できませんので、薬師に文盲などは考えにくいですがね。
また、当時の京方では、武士は侮蔑の対象で、狂犬を恐れるように武士を恐れていたに過ぎません。
鎌倉幕府の実質的な支配者である北條家には相模守しか与えず、官位は与えなかった事がそれを物語ってます。
3513
:
犀角独歩
:2007/08/07(火) 22:33:20
面白いですね。日本史で「鎌倉時代」とされる歴史の表舞台の役者が、京という視点からすると、これだけ違っています。
日蓮が鎌倉へやって来たのは、どのような心境だったのでしょうか。
「誰をか法華経の行者とせん。寺塔を焼て流罪せらるゝ僧侶はかず(数)をしらず。公家・武家に諛ひて、にくまるゝ高僧これ多し。此等を法華経の行者というべきか。仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり」
公家・武家にもへつらわなかった日蓮として、評価できそうですね。
さらに天皇を嶋の長として、釈迦の下に置いた日蓮の気風は豪快と言うほかありません。
3514
:
富士川一郎
:2007/08/07(火) 23:20:09
厳密に言うと鎌倉時代と言う表現方法が間違っているのです。
当時の法制史では「御成敗式目」をもって、法度としましたが、式目の適用範囲は武家のみで、公家は公家法、荘園の中では本所法が効力をもっていました。
江戸時代に武士は全体の7%に過ぎなかったと言いますが、鎌倉時代も似たり寄ったりでしょう。
つまり、武士の社会などと言っても、全体の1割にも満たないわけです。
その1割にも満たない階級を中心に歴史を紐解いても真を得ていないのは当然でしょう。
3515
:
パンナコッタ
:2007/08/08(水) 22:54:31
四条金吾は手紙が読めないどころか、蓮祖に文章を送っていますね。
四条金吾釈迦仏供養事 「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云」
該当部分真蹟欠
四条金吾殿御返事 「はるかに申し承り候はざりつればいぶせく候いつるに
かたがたの物と申し御つかいと申しよろこび入つて候 又まほりまいらせ候、
所領の間の御事は、上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ」
該当真筆断簡現存
武士と言っても古来より土着の豪族の子孫もいれば、摂関時代あたりからの
中央から地方に下った貴族の末裔もいるわけですし、一概には語れないですね。
頼朝の旗挙げは治承四年(1180)ですが、皇嗣争いが発端で京都御所周辺で武力衝突した
保元の乱(1156)、清盛の留守を狙ったクーデターの平治の乱(1159)での
中心人物・義朝の伊豆へ流された三男ですし、後白河法皇の"寿永の宣旨"などでも判りますし
(権謀家の処世術ではありますが)単なる田舎の山賊ではないでしょう。
元寇時の亀山上皇は、伊勢神宮に勅使を送り敵国降伏をを祈願していますね。
又後に出家して、離宮を禅寺にしたのが南禅寺の起源みたいですね。
3516
:
マターリ
:2007/08/08(水) 23:50:41
>富士川一郎さん、犀角独歩さん、パンナコッタさん、レスありがとうご
ざいます。四条金吾は、文章が書けたんですね。
四条金吾については、深い意味で書いたわけでは、ありません。四条とい
う名前が中レベル以下の家柄を指す、と書いてありましたので、想像をた
くましくしてみた次第です。
>富士川一郎さん、
>つまり、武士の社会などと言っても、全体の1割にも満たないわけです。
その1割にも満たない階級を中心に歴史を紐解いても真を得ていないのは
当然でしょう。
私は図書館で、鎌倉時代に関する本を探してみました。しかし、天皇と公家
、鎌倉幕府と武士、そして僧侶に関する本ばかりでした。一般庶民に関する
本が無いので、調べようが無い状態です。
日蓮聖人の初期の在俗の信徒に、武士が多いので、そこから日蓮聖人との師
弟関係を考えてみました。
鎌倉幕府は文化的な面で、京都の文化に対して、大変なコンプレックスを
抱いていました。
そのため、中国の宋から禅宗と、それに付随する文化を輸入し、京都文化
に対抗しようとしたようです。
>パンナコッタさん、
>武士と言っても古来より土着の豪族の子孫もいれば、摂関時代あたりか
らの中央から地方に下った貴族の末裔もいるわけですし、一概には語れな
いですね。
おっしゃる通りです。1.荒々しい武士 2.貴族化した武士 3.信仰を求め
る武士と3種類に分けられるようです。
男衾三郎(おぶすまさぶろう)について書きましたが、彼は荒々しい武士で
す。しかし、兄は貴族的な武士でした。近くに住んでいる兄弟でも、天と
地ほどの差があったようです。
信仰を求める武士についてですが、やはり源平合戦の、むごたらしさに
無常を感じ、念仏で往生することを願う武士が続出したようです。
鎌倉の武士の多くは、禅宗でしたが、亡くなる前は念仏を唱えていたと
いいますので、念仏の影響力はすざまじいものだったと思います。
3519
:
きゃからば
:2007/10/11(木) 14:35:44
本当に素朴な質問です。
『弘法大師の法華経』大倉隆浄氏著を今頃になって読みました。
そしてその口絵に梵字の法華経がありました。
説明には「平成7年8月、東京に建立された平和観音像に刻まれた法華経真言題目の拓。」とありました。
そこでちょっと実物を拝見したいと思い、連絡先に電話しましたが現在使われていないようでした。
どうかこの東京の平和観音像についてどなたか教えてください。
いったいどこにあるのでしょうか?
3520
:
きゃからばあ
:2007/10/11(木) 14:37:41
つまらないところで間違いました。
×名前:きゃからば
○名前:きゃからばあ
3521
:
とんび
:2007/10/21(日) 20:44:34
みなさん、こんばんは。とりあえずここに書きます。
十一界論の推奨
昨年でしたか、熱心な法華講から聞いた話の再度の紹介です。
彼は、はじめ11界論を話し、その後16界論をのべるのですが、さすがに16界論になると
ついていけません。
10界論では、観心の本尊抄だったかな、仏界ばかりはげんじがたし...で、私自身のこころを
よく感じると、地獄界から菩薩界までは、感じ取ることができるのですが、さすがに仏界...と
なると、わかりません。正宗では、お題目をとなえれば「仏界」がゆげんする...
御本尊に縁をすれば、「仏界」がゆげんするとなるのでしょう。
11界論では、法華経観、涅槃経観を取り入れて、仏界よりも「諸仏界」が上なのだ...と
いうことになれば、ペットや草木国土を含め、「私自身」よりも「他の人が上」なんだ...と
いうことになります。
というと、不軽菩薩の「24文字」に繋がりまた、「南無妙法蓮華経」にもつながります。
ここでは、幸福の科学の信者さんは、ロムしていないだろうと、思い発言しますが、やはり
12界論で「南無妙法蓮華教界」を最上位にしてしまうと、大川隆法さんなんていう人が、出て
きてしまいます。
「諸仏界」なら、だれでも「ああ他人や自然を尊敬・敬う気持ちぐらい持っているよなあ..」
とだれしもが、思うと観じます。
顕正居士さんなど、犀角独歩さんなり、博学な人に、後生に伝えてもらいたいような気が
致します。
さすがに、11界論は、いまでも、お見事..と思っています。
3522
:
とんび
:2007/10/23(火) 06:57:13
訂正です。
御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えれば、仏界がゆげんする..あらわれる..
ということでしょうか。
しかし、顕正会時代に、一度でもあらわれたかどうか、はなはな疑問でわかりません。
3523
:
しゅんかん
:2007/11/19(月) 21:21:23
日蓮宗電子聖典と云う物が在るそうですが購入方法・購入資格等、
ご存知の方おられますでしょうか?
3524
:
犀角独歩
:2007/11/19(月) 21:51:57
> 日蓮宗電子聖典
わたしが応えるのは何ですが、わたしは、現宗研から受け取りました。
受け取りに際し、住所・氏名他の告知をした記憶があります。
日蓮宗僧侶に、配布したもので、それ以外では、受け取りの証を残して受け取るもののようです。
現宗研、もしくは、宗務院、または、日蓮宗僧侶の方に問い合わせてみてはいかがでしょうか。
3525
:
しゅんかん
:2007/11/19(月) 23:43:33
独歩さん
早速のご教示ありがとうございます。
知人のご僧侶の方に問い合わせてみます。
3526
:
きゃからばあ
:2007/11/22(木) 14:24:37
素朴な質問をさせてください。
「題目」「唱題」「題目を唱える」
これらの英語を教えてください。できればスペルも。
日蓮系の外国の方々に通じる英語を希望します。
よろしくお願いします。
ちなみに「御本尊」「勤行」はそのまんまと聞いていますが、他に英語があったらこちらもお願いします。
3527
:
犀角独歩
:2007/11/22(木) 19:26:40
わたしが創価学会や、SGIのサイトを紹介するのは変ですが、きゃからばあさんの疑問に以下のサイトはある程度役立つかも知れません。
ただし、こちらの英訳はこちらの英訳ですから、他との比較はもちろん必要だと思いますが。
http://www.sgi-usa.org/
3528
:
きゃからばあ
:2007/11/23(金) 09:04:09
独歩さんへ
毎度、ありがとうございます。
「唱題」は「chanting」となっていました。
海外では唱題は歌う感覚なんですね。
3529
:
犀角独歩
:2007/11/23(金) 17:41:17
きゃからばあさん
英語に関しては、人に語る知識がありませんので、応答は控えさせていただきます(笑)
3530
:
偶ロム偶ログ
:2007/11/23(金) 19:31:23
貞永さん時代のNSAの合言葉は「もあ ちゃんていん(ぐ)」でしたよ。
日本国内でも、米軍基地のある地域の組織では普通に使っていました。
唱題は、おそらくゴスペルのような感覚で受け止められていたのではないでしょうか。
マントラもchantingだったと思います。
3531
:
eigo
:2007/11/23(金) 22:21:15
「chant」には、繰り返して同じ言葉を唱えると言う意味があります。例えば街頭デモで「○○反対」と繰り返し唱えたり、スポーツ競技で応援する選手の名を連呼するのも「chant」です。
3532
:
ABC
:2007/11/24(土) 06:38:06
ご本尊の安置はinstallでした。
当時installはパソコンにあたらしいソフトをインストールするときしか使わなかったので、
??と思いましたね。
3533
:
きゃからばあ
:2007/11/24(土) 10:53:07
偶ロム偶ログさん・eigoさん・ABCさん、貴重な御教示ありがとうございます。
きっと英訳御書を和訳すると、原文とは違ったものになるのかもしれませんね。
3534
:
いちりん
:2007/11/25(日) 05:58:14
むかし、とっくに出た質問かもしれませんけど。
日蓮さんは、たくさんの消息文を残していますよね。
日本仏教の祖師たちのなかでは、おそらくこれほど手紙を書き送った人はいないんじゃないでしょうかね。
そして、これほど後世に手紙が残っている方も珍しい。パウロや蓮如と比べても、はるかにその数は多い。
で、ひとつ疑問なんです。
日蓮さんのこれら手紙というのは、弟子檀那の手紙、あるいは贈り物に対する返事が多いですよね。
ところが、弟子の手紙というのは、おそらく一つも伝えられていない。現存しているものも、書き写されたものも残っていないんじゃないでしょうか。
数編くらいは、あるのかなあ……。
どうして、弟子の手紙が残っていないのでしょうか?
・当時の日蓮さんには、紙がなかったので、弟子の手紙の裏に返事を書いたからだとか?
・紙を漉きなおして、手紙にしたからだとか?
・たくさん手紙があったが、後世の弟子たちが、これは大切じゃないとして、捨ててしまったからだとか?
あるいは──。
後世の人が、日蓮さんの手紙に仮託して、いつくか勝手に偽書をつくったから、弟子の手紙がのこっていると具合が悪い、とか。
3535
:
パンナコッタ
:2007/11/25(日) 14:22:36
いちりんさん、
弟子の書簡は、かなり流用された可能性が高いようですね。
仮託した偽書の存在は、むしろ蓮祖直筆の方が被害を受けているかもしれません。
蓮祖宛の書簡ではないのですが、ご参考に紙背文書の紹介。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/yuasa/yuasa97.htm
3536
:
犀角独歩
:2007/11/25(日) 16:04:34
れんさん パンナコッタさんほか 諸賢
『日蓮宗教学史』に「日代の本尊論に就いては、日代が上行日尹、並に保田の日郷へ与へた書状に依つて窺はれる。大曼荼羅を以て仏像造立の解説図と見做し、戒壇の本尊には仏像本尊を主張してゐる。また修行論に於ては一部唯本の立場から、本迹二門の読誦を行体の用とし認める。且つ日満記に依れば、日興の遷化に当つて、その増道損生の為め、自ら書写したる一部の石経を埋納したといふのである。これを要するに日代の教学は一致派教学に近いものがあり、上野系の教学と異なりがある。こゝに日道一派からは本迹一致の迷乱と評せられた所以も存するのである」(P42)という記述があります。
ここでいう書状とは具体的に何を指すのでしょうか。また、その原文はどのような内容でしょうか。ご教示いただければ有り難く存じます。
3537
:
れん
:2007/11/25(日) 18:32:52
犀角独歩さん
お尋ねの資料については日代消息「葦名阿闍梨御房御返事」だと思います。日興門流上代事典によりますと日蓮宗宗学全書第二巻所収本並びに石山蔵古写本(東大影写本)では宛名を“宰相阿闍梨”としますが、西山蔵の日代真筆には“葦名阿闍梨御房”と明記されているとのことで、“宰相阿闍梨”は伝写の誤りで“葦名阿闍梨”が正しいと思います。ですから、“教学史”が本消息を日郷師宛てと解するのは誤認に属すると考えます。
さて、本書には「佛像造立事本門寺建立時也、未無勅裁、国主御帰依之時三ケ大事一度可令成就給之由御本意也、御本尊図為其也」とありますから、“教学史”の言うところは上記の文と思います。
現在、西山の一部?では房山蔵の文永十一年十二月の日蓮自筆“大本尊”を戒壇本尊としておりますが、当の西山開山の日代師は三位日順師の心底抄における見解とほぼ同様の本門寺造立時の“仏像造立”であって、私としては、何時から西山が漫荼羅を戒壇本尊と位置付けるようになったのかが“素朴な疑問”です。
3538
:
れん
:2007/11/25(日) 18:57:41
追記です。
“葦名阿闍梨御房御返事”は、日尊門流の京都上行院の日印からの質問に対する返状で、内容としては、先に引用した文の通り、広宣流布時の本門寺における日蓮が図した大漫荼羅による仏像造立と、日興筆の御遷化記録にある日蓮の“御遺告”を引用して「一体仏、大聖御本意ならハ墓所傍被棄置哉、又造立無過者何大聖時、此仏四菩薩・十大弟子不被副造哉、御円寂之時件漫荼羅被出尋奉懸事顕然也、勿論也、惣して如此事等、御書始末を能々可有御了見候歟」と記して、未広布時においては大漫荼羅正意とすることを示しています。
以上ご参考まで。
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