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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

1125Leo:2003/12/08(月) 02:12
(補足です)
>ヒエロニムスのエピソードとして有名なのは(モーゼに関連して)
>「光」と訳すべきところを「角」に訳してしまったためにモーゼに「角」
>があるとされてしまたということがあります。

ヒエロニムスは旧約聖書(ヘブライ語)と新約聖書(ギリシャ語)をラテン語訳しました。
「モーセの角」のエピソードは旧約聖書部分(「出エジプト記」)です。

1126Leo:2003/12/08(月) 02:25
>羅什が方便品の十如是部分を意訳したことは指摘されるところですが

一方、羅什には「舌」の伝説がありますね。「羅什三蔵は舌焼けず」

1127三吉:2003/12/08(月) 07:45
<しかしそうなると、新約聖書の成立は4世紀以降のことになるということになります。
偶然といえるかどうか。羅什が生きた時代でした。>

現在の形で纏められたのは、そうなるのかもですが、イエス運動が「キリスト
教」化したのは、パウロですので、「救世主思想」としては、イエスの死後に
弟子になったパウロの廻心をもってキリスト教は成立したといいうるかと思い
ます。
つまりパウロは、肉体をもったイエスよりも、瞑想であったキリストに価値を置いた。
キリストに対する信の強調路線が一方で深くキリスト教に刻まれた。
もういっぽうで逆に信仰のみのパウロ主義を批判したマタイ教会は、「愛の実践」をパリサイ人以上に求めます。信仰だけでは救われない。愛の実践は神の意思であり、実践するものだけが救われるのであると説きます。
そしてマタイの愛の実践も観念的であったので、律法を完全に守るということでは
パリサイ人は凄く真面目でいっしょのことを言うてるにもかかわらず、彼らに批判
的でありえたし、パウロ主義の後継者たちの「病癒し」はイエスの伝統を引くもの
でもあるのにイエスの実践と切り離して批判しえたのも観念的であったからです。
外部の私からみますキリスト教とは「パウロ的信」と「マタイ的な愛の実践」の二つを
含むように思います。
ここの議論の流れでいえば、「愛の実践」が「菩薩道」に近似した概念にな
りますが、「実践してないやつはだめ」という意識があれば、「裁き」(キリ
スト教概念−「裁くな」から)になりますので、「実践」はあくまでしたい人
がすればよいというスタンスがええと思います。

1128顕正居士:2003/12/08(月) 07:46
>>1124 Leoさん。

>新約聖書が正典として確定したのは、4世紀中頃とのこと。

新約聖書を仏典と比較すると、編纂に幾百年が経過したのは同じです。違うところは。
伝承を取捨選択して正典をあんだこと。正典の中のイエスの言葉はほぼ正しい伝承であり、
外典として外された中のは違うらしい。また確実なパウロの書簡を含んでいる。仏典には
正典はなく、幾千年の間の有名な著述を集成したのが大蔵経(三蔵)であるに過ぎない。
インド大乗仏教は龍樹や世親が事実上の開祖であるから、彼らの発言にもとづいて考え、
無名氏が釈尊に仮託した経は重視しない。対して中国では経の全部を釈尊が説いたとし、
自説の擁護のために任意に経を引用する習慣がはじまった。その悪弊は日本の日蓮に
おいてきわまっただろうか?ギリシア人が新約聖書を正典として確定したことは、その後
のキリスト教と仏教の歴史を大いに違えたのではないだろうか?

*1-ギリシア人-ギリシア帝国のギリシア語をあやつる人達。
*2-大乗仏教は龍樹や世親が開祖であって、釈尊の仏教とは別の宗教なのであるが、
彼らは戒律を同じくし、僧院に雑居したらしい。キリスト教と比較すれば、オーソドックスが
グノーシスを区別しなかった。
*オーソドックス-グノーシスと区別して形成される東西カトリック教会の信条。
*グノーシス-ギリシア帝国全域にひろまった心身二元の思想で、あらゆる宗教に影響を
与え、特定のグノーシス教というものはない。世界史的には東方はこの思想の影響下に
あり続けた。制御した西方から今世紀には逆にその文明に関心がもたれるようになった。

1129三吉:2003/12/08(月) 08:00
2-大乗仏教は龍樹や世親が開祖であって、釈尊の仏教とは別の宗教なのであるが・・

んとね、だったら正確には南伝は5Cのブッダゴーサや12Cのアヌルッダが
開祖で、釈尊とは別の宗教です。仏像も呪文も釈尊はしませんから

1130顕正居士:2003/12/08(月) 08:27
>>1129 三吉さん。ひさしぶりです。幾年かも。

>南伝は5Cのブッダゴーサや12Cのアヌルッダが開祖

トマス・アクィナスが西方カトリック教会の開祖とはいわないでしょう。その辺で形が決まって
あと変わらないけれど。大乗仏教は「釈尊に仮託した別の宗教」、つまり、「イエスに仮託した
別の宗教」(キリスト教グノーシス派)と同じといいたかったのです。大乗仏教もキリスト教の
グノーシス派も釈尊やイエスを取り込んだので、彼らの歴史上の人格はみずからの宗教には
中心的に重要ではないからです。

1131犀角独歩:2003/12/08(月) 08:44

皆さん、活発な横レス、大いに参考になりました。
有り難うございます。

Leoさん:

ご紹介のサイト、よくまとまっていますね。
“角”の話、書き落としましたが、A師も話しておりました。
羅什のことも含めて、誤訳、意訳も数千年生き残り、独自に展開していく…、考えさせられる一面です。

三吉さん:

> 「パウロ的信」と「マタイ的な愛の実践」の二つを含む

これは「なるほど」と。参考になりました。

> 「実践」はあくまでしたい人がすればよい

仰るとおりですね。実践に強制や、義務があっても意味を持ちませんね。
いちおう、弁明です。わたしがここで宗教の実践を言ってきたのは『創価学会の功罪を考える』のスレッドで、「創価学会は世界平和を貢献している」という会員が口にすることにつき、まるで実体がなくお題目だけではないかという指摘からはじまりました。
いわゆる「宣伝に偽りあり」はカルトの特徴をなすことで、この嘘に騙されると個人、並びに社会的な弊害が起きます。そこで「何を信じているかではなく何をしているかで宗教の真価が問われる」という注意予防の見極め方を呈示したわけでした。それが“菩薩”をどのようにとらえるかという活発な議論に発展したわけでした。また、7兆円/800万人、あるいは1兆円/10万人規模の資産と人的資源を持っている団体が社会還元もせず、自宗内に閉じ籠もるのは不健全かつ社会的な責任からしても嘆かわしいという論調でわたしは主張しました。けれど、信仰自体、各人の基本的人権、信教の自由に基づくわけですから、そこから導き出される実践は誰からも強要される筋合いのものでないことは明らかですね。


顕正居士さん:

聖書の仏典の比較、また、箇条書きに整理いただき、理解の便宜に資させていただきました。

> 大乗仏教は龍樹や世親が開祖であって、釈尊の仏教とは別の宗教

南伝については三吉さんがご指摘くださいました。
さっぱりと、このように考えてしまえばよろしいわけですね。
そして、その認識のうえで、シャキャムニにはじまるところを、すべて包括して仏教と括ろうと。


ここ富士門流信徒の掲示板でありながら、キリスト教にも皆さん、実に詳しい。
愚鈍凡夫さん、アネモネさんが聖書に係る記述をされていたわけですが、Leoさん、三吉さん、顕正居士さんからも、これで勝れた投稿をいただけたことをたいへんにうれしく思います。

重ね重ね、皆さんに御礼申し上げます。

1132三吉:2003/12/09(火) 16:58
顕正居士さん ご無沙汰しております。
デビュー当時、多大なるご指導ありがとうございました。

一見、南伝は、イコール初期仏教に見えるし、信仰上南伝の人はそう主張されるけど、実は、南伝も「釈尊に仮託した別の宗教」で大乗とその点は変わらないというのが私のスタンスでございます。(信仰上、私にとってはそうだというのは南伝・大乗ともによいと思います。)
第一、経典は大乗伝承の阿含のサンスクリットは、1C後半です。現存パーリ仏典が纏められたのは5Cです。伝承ではパーリの注釈をスリランカ現地語でしてたのを、ブッダゴーサがパーリに書き換えたとなってますが、おそらく(つまり根拠なく私の想像では)仏典のパーリ化も同時期です。でヨーロッパでさえ、パーリに比べ、漢訳阿含に古層がみられるときづいているそうです。
第二、「釈尊の史的な人格」をありのままに問題にしなかったのは、たぶん大乗誕生前です。32相などの神格化など。その後、クシャーナ朝の世界的性格は、大乗を発展させ、部派をも変質させました。仏像など。
第三、史的イエスは、パウロには意味を持ちませんでした。霊的なキリストとの出会いがパウロをイエス運動弾圧側から改宗させました。つまり「キリスト」とは、「法身」です。「生身より法身」という法華寿量品と同じことをパウロはし、キリスト教が生れたと言えます。つまり、キリスト教もまたはじまりから「イエスに仮託した別の宗教」であります。(パウロ以前は、イエス運動)
第四、そもそも正典化も聖典でもいいのですが、つまるところは「史的な人格」より大事な「宗教的なエトバス」の実体化ではないでしょうか。

蛇足。「正典の中のイエスの言葉はほぼ正しい伝承」とのことですが、色々な研究があり、例えば「イエス・セミナー」は、『五つの福音書』(1993)で、約500あるイエスの言葉のうち、本当の言葉を13、それに類することをイエスが言ったが77で、後は、イエスが言ったは疑わしい、言うはずがないだそうです。厳しく見るグループでは20%足らずです。

蛇足2  有名な「自灯 法灯」が釈尊の言葉かどうかはともかく、これを語る直前、釈尊は自分が教団のリーダーなどではそもそもないと語った上で「自らを灯火にし」でございます。この言葉が、史的釈尊の表明であるならば、釈尊の人格を仏教の中心にそえようという弟子の尊敬の念は釈尊の期待を裏切るものかもしれません。とはいえ、尊敬の心が悪いわけではありません

あいかわらずの暗愚でございますので、斯様に考えております。
ご無礼は宥恕願います。

1133三吉:2003/12/09(火) 17:31
※その後、正統派はイエス復活を現実的肉体の復活と見、グノーシス派は、
霊的な復活と見るそうだが、徹底的に弾圧されたらしいが、詳細事情はしらない。

正統派が現実的な肉体の復活に拘った意味が私にはわからないのだが、
根底には、グノーシス派の霊的な復活の背後にある汎神論的、あるいは、
悉有仏性的な思考に対して、イエスの特別性(神の子)に拘ったためなのであ
ろうか・・・。わからない。

1134MILD SEVEN:2003/12/10(水) 05:14

<ごくあたりまえの事>

無からは、何も生まれない・・・・・無。

神がいた・・・・・完全だから・・・・・いた・・・・・永遠に・・・・・いる。

永遠の神が、無限の努力をして・・・・・ある時、自らの知恵を・・・光を・・・表現した・・・真理 真実。

神には、永遠の経験がある・・・・・だからこそ、尊い。

信じるほどに・・・わかってくる・・・はっきりと。

神には、親は・・・・・いなかった。

妻、息子・娘・・・・・我らの主と共にあって・・・母・父と・・・創造された。

主は、キリストと共に、完全の上の完全。

神は父として、真理の産みの親。

聖なる存在。
                         24.9.1999

上記は、少し時間をかけ、想像しながら読む事をお勧めします。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

我らの主はイエス様

イエス様は主の本宅、本宮。

主「神」=「愛」はイエス様と共に、「愛情」を完成された。

私は、信じています。いや、確信しています。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/page005.html

1135顕正居士:2003/12/12(金) 01:29
>>1132 三吉さん。パウロはグノーシスとユダヤ人教会の中道をとったともいわれます。

>「正典の中のイエスの言葉」…厳しく見るグループでは20%足らずです。
仏典はスッタニパータやダンマパダの20%でしょう。アーガマ全体では2-3%だろうから
それでもおおきな違いがあるのではないでしょうか。

>正統派が現実的な肉体の復活に拘った意味が私にはわからないのだが、
グノーシスについては以下のサイトが詳しいです。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/contents.html

西方カトリック教会の元祖はアウグスティヌスですが、この人はもとマニ教を信じていた。
霊肉二元の思想と霊肉複合の思想が対立していたのだとおもいます。使徒信経に
「Credo…carnis resurrectionem,vitam aeternam 肉身の蘇りと終わりなきいのちを信じ奉る」
とあります。たしかにパウロによってイエス教でなくキリスト教ができたのですが、キリストの
「法身」を信じたのでなく、霊肉複合のイエズス-キリストであって、仏教にたとえれば「報身」で
ないでしょうか。『コリント前書』はパウロの真正の書簡とされています。その中にこうあります。

「汝らに伝えた第一の事柄とは、余が経験したことであって、聖経にいうとおりにキリストは
我らが罪の為に死し、かつ葬られて、三日後に聖経にいうとおりによみがえり、ケファスと及び
十二人に現れたことである」 *ケファス−ペテロのこと
3 tradidi enim vobis in primis quod et accepi quoniam Christus mortuus est pro peccatis
nostris secundum scripturas/4 et quia sepultus est et quia resurrexit tertia die secundum
scripturas/5 et quia visus est Cephae et post haec undecim/(Vulugata)

パウロのダマスコ途上の回心はキリストの光に打たれたのであるが、コリント書では彼は肉身を
もってよみがえったイエズス-キリストをいっている。パウロの体験が何であったかはわからないが、
彼が信じたのは純霊のキリストではなかったとおもう。

1136三吉:2003/12/13(土) 13:56
顕正居士さん。
仏典と比較したら20%なら多いのはそのとおりです。ただ「ほぼ」という語に反応してみた。

そうですね、パウロは中間的だと思います。主観的にもパウロは「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言っています。ただ、「グノーシスとユダヤ人教会」というより、広く異邦人的世界観とユダヤ的世界観かもしれません。具体的にはギリシア的な「魂不滅思想」、エジプト神話的「永遠の生」と、ユダヤ的終末思想の止揚を企図したのやもしれません。
ローマ市民権を持っていて、しかもローマ的知識人でもあり、ユダヤ的伝統方面においてもユダヤ教の宗教者であったパウロは、キリスト教の国際化、つまりグレコローマン化を図ったわけです(割礼なしの異邦人-ユダヤ人意外-もキリスト教徒になれる。保守派は反対するが拡大解釈でパウロは乗り切る)。
コリントでパウロの布教は成功を収めます。パウロがいわば自分の信徒に送ったのがコリント書ですね。コリント前書15.3〜5を引用されておられますが、そう、そのイエス復活を巡って、<写本の裏づけがあり最も早いキリスト教文章と見なされる後50年代のパウロの書簡>の一つコリント書は、「肉身をもってよみがえったイエズス-キリスト」をいっていないのです。「死人の復活もまた同様である。朽ちるもので撒かれ、朽ちないものでよみがえり、卑しいものでまかれ、栄光のあるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものでよみがえり、肉体のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである」(コリント前書15.42〜44)
パウロが語る主キリスト・イエスの復活は、「肉のからだ」ではなく、「霊のからだ」の復活なのです。
残念ながら「使徒行伝」はパウロの活躍に遅れること80年後に、使徒たちを神話化する目的をもって書かれたものです。そこでは、その後のキリスト教正統派が継承した「肉体の復活」が書かれています。「使徒行伝」をもって神話化されたパウロを語るのと、パウロ書をもってパウロを語るのでは自ずと「パウロ像」は変わります。
ただパウロは純霊を信じたわけではないと思います。「霊肉二元の思想と霊肉複合の思想」という分け方でいえば、二元ではなく複合ではないかとも感じるのですが、私にはよくわからないというのが正直なところです。ただコリント書から明白に言えることは、その後のキリスト教正統派の「肉体の復活」ではなく「霊のからだの復活」とパウロは言っているということです。

仏教と比較するなら「法身」より「報身」がより近似していると思います。ただ後50年代のパウロの書簡(写本の裏づけのある最も早いキリスト教文章)と、世紀前後の法華経の祖師に対する把握の共通点を強調してみました。(コリント前書15.12〜58)

1137愚鈍凡夫:2003/12/18(木) 18:20
雑阿含経に命を繋ぐために我が子を殺し、その屍体を両親が食するという、ショッキングな譬えがありますので紹介します。

「世尊告諸比丘。有四食資益衆生。令得住世攝受長養。云何爲四。謂一.麁摶食。二.細觸食。三.意思食。四.識食。云何比丘觀察摶食。譬如有夫婦二人。唯有一子。愛念將養。欲度曠野嶮道難處。糧食乏盡。飢餓困極。計無濟理。作是議言。正有一子。極所愛念。若食其肉。可得度難。莫令在此三人倶死。作是計已。即殺其子。含悲垂涙。強食其肉。得度曠野。云何。比丘。彼人夫婦共食子肉。寧取其味。貪嗜美樂與不。答曰。不也。世尊。復問。比丘。彼強食其肉。爲度曠野嶮道與不。答言。如是。世尊佛告比丘。凡食摶食。當如是觀。如是觀者。摶食斷知。摶食斷知已。於五欲功徳貪愛則斷。五欲功徳貪愛斷者。我不見彼多聞聖弟子於五欲功徳上有一結使而不斷者。有一結繋故。則還生此世。」(雑阿含経)

世尊は諸々の比丘に告げられた。
「四食がある。衆生を助け、衆生を養っている。四食とは何か。麁搏食・細触食・意志食・識食の四つである。
どのように搏食を観察するべきか。
たとえば、夫婦二人があって非常に可愛がっている一人の子供がいた。ところが荒野の難所を渡ることになったが食料が尽き、餓死寸前になり助かる見込みはなかった。彼らはこのように考えた『ここに愛する子供がいる。もし、この子供を食えば三人が死ぬことだけはまぬがれる。』こうして、泣きながら子供を食い、荒野を渡ることが出来た。
比丘、この夫婦は子供の肉が美味しいと思って、たべただろうか」と。
答えて言った「そんなことはありません。世尊」と。
「比丘、荒野を渡るために、強いて食べたのではないか」と。
答えて言った「その通りです。世尊」と。
仏は比丘に告げられた「搏食を食する時は、このように観じなさい。このように観察すれば、搏食を断ずることが出来る。搏食を断ずれば、五欲の中の欲望と愛着を断ずることが出来る。多聞の聖弟子は一結の愛結も断ぜられていないものはない。もし、一結でもあれば、還ってこの世に生ずるのである。

「阿含経の解釈 第一章雑阿含より 四食(子肉経)」
http://www1.ocn.ne.jp/~shodesi/agomenu.htm

いやはや、現代の常識的な倫理観を超越してますね。いくら経典の言葉といえど、
「譬えがちゃうんとちゃうかなぁ。譬えなんやったら、他に譬えようがあるやろうが」
(`ヘ´) プンプン。
というのが正直な感想です。

1138心者雖念不直相鴨:2003/12/19(金) 04:06
愚鈍凡夫さん:

中国で食人の風習があったことは、劉備が猟師の妻の肉を食べる挿話からも有名ですが、これを禁忌とする文化が多いことは、宗教以外の何らかの理由があったような気がします。
われわれは、「食人」をたいへんおぞましく感じるのですが、私たちの若い頃に「アンデスの聖餐」という映画にもなった、ショッキングな事件がありました。当事者の青年たちは、聖書を引いて、その「食人」を正当化しています。

「キリストが人類の救済のために、その肉体と血をお与えになったように、ぼくたちの仲間は、その肉体と血でぼくたちの生命を助けたのです」と。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11574/story.html

かつて、大変話題になった狂牛病ですが人間が人間を食べた場合も同様な症状が発生します。パプア ニューギニアでは、BSEと同様の症状を呈するクールー病が、1955年に400例を超えていたのが、食人(かって宗教的意味合いから人肉を食する習慣がありました)の風習をやめてから漸減し、1980年以降は年間50例以下となっています。
http://www.sciencemag.org/feature/data/prusiner/medium/se3875740002.gif

食人によるヤコブ病の発生に関しては以下のサイトで詳述されています。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gtm/eizuhatomoguikara.htm

昨日は、輸血によるCJD(クロイツフェルト・ヤコブ病)の可能性が示唆されました。
http://www.asahi.com/international/update/1218/002.html

エホバの証人というキリスト教の教団があり、教義上の理由から輸血を拒否しています。

「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」。(創世記 9:3,4)「[あなた]はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない」。(レビ記 17:13,14)「淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう(に)」。(使徒 15:19-21)1

わが国でも、当初はこれを奇異なこととしてみる向きが多かったのですが、上記の事実を見ると、「輸血拒否」の主張に対する、科学的な根拠が強くなってきたように思われます。

1139MILD SEVEN:2003/12/19(金) 05:10

話が変な方向へ行きませんように・・・。
http://www.bigcosmic.com/board/f/board.cgi?id=xvssv&id=xvssv

1140愚鈍凡夫:2003/12/19(金) 05:40
皆さんお早うございます。

>>1138: 心者雖念不直相鴨さん、レス有り難うございます。
MILD SEVENさん御指摘のように、話がオカルト的方向にそれそうですね。 (・・;)
「話振ったんお前やろが」(by 管理人) (`ヘ´) プンプン。

「子肉経」とは関係ありませんが、中国の人肉食について、こんな論文があります(春秋時代まで遡れるそうです)。ただ、出版された昭和2年という時代背景を考えると、多少プロパガンダ的色彩を感じないこともありませんが。青空文庫で公表されていますので、興味のある方はどうぞ。

(「支那人の食人肉風習」 桑原隲藏)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/card4270.html

1141心者雖念不直相鴨:2003/12/19(金) 06:32
皆さんおはようございます

言葉足らずで、MILD SEVENさんや愚鈍凡夫さんにはご心配をおかけしてすみません。
極限時の行動を平時の道徳で裁いてはいけないという意味で書き込みをいたしました。

また、こうした極限時の行為に対して救済を与えるような心理的装置を用意することが宗教には求められていると思います。聖書ではそれがお示ししたような方法で可能であったし、仏教でも「子肉経」のような依経をひくことでそれが可能になるということを知り安堵したしだいです。

1142菱村正敏:2003/12/19(金) 07:40
>われわれは、「食人」をたいへんおぞましく感じるのですが、私たちの若い頃に
>「アンデスの聖餐」という映画にもなった、ショッキングな事件がありました。
>当事者の青年たちは、聖書を引いて、その「食人」を正当化しています。

 当事者たちは単に生きるために遺体を食べた。奇跡的生還後に、自らの遺体を
食べた行為に、悔悟の念をもった。それが生きるためには不可欠だったと分かっ
ていてもです。いろいろなストレスが彼らにダメージを与えた。それに対して聖
職者が、当事者たちの立場を正当化してあげることで、彼らは救われたというこ
とだったと思います。

1143愚鈍凡夫:2003/12/20(土) 00:26
菱村正敏さん、始めまして。愚鈍凡夫です。
仰る通りだと思います。
小生が腹立たしく思ったのは、「子肉経」の「即殺其子」の一節なんですよ。
要するに、「食べる目的で我が子を殺す」ということです。
不慮の事故で死んだ我が子を生きんが為に食するのではありません。はっきりと、食糧にする目的で殺害することを言っているのです。

スレ違いですが、玉光順正師の「死刑制度と仏教 いのちは何故尊いのか?」の中の「歎異抄の第三章、悪人正機、悪人正因」は、次の文証だと思います。

**************************************************
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
(歎異抄 第3章)
**************************************************

1144犀角独歩:2003/12/23(火) 19:23

1140 愚鈍凡夫さん:

やや後れての横レスで恐縮ですが…。

> (「支那人の食人肉風習」 桑原隲藏)

いつも吃驚しますが、本当に資料に通じていらっしゃいますね。
読む耽ってしまいました。

「中国の薬膳研究で門外不出のレシピがある、それは胎児料理だ」、しばらく前にそんな話を聞いていました。女帝が不老長寿の薬膳としたという話でした。一種の奇譚と風聞したのですが、それより、肉屋で人肉が公然と販売される事実のほうがはるかに凄惨な話と受け止めました。

1145福田里敏:2003/12/25(木) 21:29
空き缶さん

PCが壊れていたため、いただいた質問が、消えてしまいました。申し訳ありませんが、もう一度、メールをください。お願いいたします。

1146菱村正敏:2003/12/26(金) 00:32
 中国では本草綱目のなかに「人部」がもうけてあるように、人肉は動物の肉など
と同様に食べる目的をもって考えられていたようですね。

1147愚鈍凡夫:2003/12/27(土) 08:47
>>1144:犀角独歩さん、レス有り難うございます。

同一種同士で共食いするのは、チンパンジーとヒトだけと聞いたことがあるように思います。
動物は、知能の発達と共にモラルを失っていくのでしょうか。 (__;)
逆説的に、宗教を必要とするのは人間だけかもしれませんね。

1148心者雖念不直相鴨:2003/12/27(土) 10:53
愚鈍凡夫さん:

横レス失礼します。
共食いはいろいろな動物の間で、広範に見られる現象です。

まずは原生動物
http://web.kagakukan.sendai-c.ed.jp/gensei/33ph1.htm
イカなどの軟体動物
http://dns.fish.metro.tokyo.jp/tokyowatching/umi/ikanokossetsu.html
カマキリで有名な昆虫は省略します。
脊椎動物では、まず魚類
http://www.ne.jp/asahi/iwana-club/smoc/bass-sub05-1-b.html
また、蛙やサンショウウオなどの両生類
www.setuyaku-kakeibo.com/3_1_danna/dan15.htm
http://albatross.biodic.go.jp/reports/2-3/a199.html
恐竜も共食いをしました。
http://www.h5.dion.ne.jp/~sujaku/news-si/news-si39.html
鳥類
suzume.lolipop.jp/enji/amaki.htm
有袋目
http://www1.kcn.ne.jp/~antler/glider5.html
霊長目では、ほかにボノボ。
http://plaza.rakuten.co.jp/majyo/003010
高等動物だけでは、ないのでどうぞご安心ください。空腹で、そこにえさがあれば誰でも食べるといったごく単純な現象です。

1149犀角独歩:2003/12/27(土) 13:28

> 心者雖念不直相鴨さん:共食い…空腹で、そこにえさがあれば誰でも食べる
> 愚鈍凡夫さん:共食い…逆説的に、宗教を必要とする

お二人まとめたレスを続けて恐縮です。
共食いはたしかに各種に見られるのですね。その意味では心者雖念不直相鴨さんの仰ることはわかります。けれど、人間にとってもっとも凄惨に見える出来事である故、愚鈍凡夫さんのご意見があろうかと存じます。

生物的な特徴を観察分析する心者雖念不直相鴨さんの投稿と宗教的視点の愚鈍凡夫さんの投稿を逆時に読むとき、当板の仏教的見地から展開となるように思えました。

1150心者雖念不直相鴨:2003/12/28(日) 18:29
食人に関して、宗教的な見地から論じた書を紹介します。

まず、食人(カニバリズム)の動機については、以下の3つがあるとされ、人を食うという「野蛮」と「聖餐」という文化があるとされます。

*************** 引用開始 **************
1、食通的食人一人肉がうまいから喰う一。
2、儀礼的・呪術的食人一死老の霊力や性格などを吸収したり、死者と一体化したりするため、死んだ近親や生賛、敵の首長や勇者を殺して喰う)。
3、生き残るための食人一食料不昆などの危機的状況のもとで、通常は禁じられている人肉を喰テ一。の三つに大別できる。
大和岩雄:魔女はなぜ人を喰うか、pp10、大和書房、1999
*************** 引用終了 **************

その典型的な例が「子供を喰う」といわれた聖餐に述べられています。

*************** 引用開始 **************
「子供を喰う」といわれた聖餐
『ヨハネ福音書』一6:14一には、
もし人の子の肉を食べず、その血を飲まないなら、あなたがたは生命を得られないとある。「人の子」はイエス・キリストのことだから、「聖体」の肉を喰い、血を飲むのであって、一般の人の子(赤子)の肉を喰い、血を飲むのではない。(中略)紀元前一世紀頃のアレキサンドリアでは、ユダヤ人は儀礼として子供を殺し、子供の肉を喰い、子供の血をすするといわれていたが、キリスト教はユダヤ教を母胎としている。キリスト教・ユダヤ教などエルサレムの一神教の神ヤハウエの祭(過越の祭)に捧げられる生蟄は、仔羊だが、本来は人間の初子(ういご)の男子であった(「出エジプト記」13:2)。
パレスティナでは初子の男子をモレク(セム族の神)に捧げたが、『旧約聖書』(「列王記。下23:10」にも「むすこを火で焼いて、モレクにささげ物とする」とある。ウォーカーは、「モレクはソロモン時代のユダヤ人によって崇拝されていた。ユダヤ人はモレクとヤハウェを同一視していた。彼らは初子を火にあぶってモレクに捧げたが(レビ記。18:21)ヤハウエもまた初子を生贄として捧げることを要求している」と書いている。
大和岩雄:魔女はなぜ人を喰うか、pp36、大和書房、1999
http://www.daiwashobo.co.jp/books/ISBN4-479-75034-7.html
*************** 引用終了 **************
(続く)

1151心者雖念不直相鴨:2003/12/28(日) 18:30
(1150からの続き)

また、やすいゆたかは本説をさらに発展させて、イエスが実際に聖霊を宿した肉と血を弟子たちに食べさせることにより、弟子たちに聖霊を引き継がせることができると考えたという大胆な仮説を展開しています。

*************** 引用開始 **************
 ところで「ヨハネによる福音書」では聖餐は比喩的だったが、それはイエスの死に際しての本当の聖餐を否定してはいないのである。むしろ比喩の形でイエスに対する聖餐を肯定的に表現することで、聖餐の意義を強調し、聖餐があったことを暗示しているのである。聖餐の事実は「福音書」には書けなかった。それは殺人と共に最もおぞましい犯罪とされていたからである。人の肉を食べたり、血を飲んだりする者は、人間ではなく、鬼か悪魔のごとく思われたので、弟子たちがイエスを食べたことが露見するとキリスト教徒たちは皆殺しにされていた可能性が大きいのだ。
やすいゆたか:キリスト教とカニバリズムーキリスト教成立の謎を精神分析する、三一書房、1999
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/jesus.html
************** 引用終了 **************

聖餐は古代においては宗教的な儀式として洋の東西を問わず広く行われたこと、また「喰う」は生かすために殺すこと。人食いはもともと「神を喰う」ことであったこと、など慮所とも、興味深い記述にあふれています。また、熊を食うアイヌのイオマンテ、吸血鬼ドラキュラ、鬼子母神の食人などもこの文脈において考察されるべきであるとされます。

1152愚鈍凡夫:2003/12/28(日) 20:06
以下の引用は犯罪心理分析に関するサイトからの引用です。あまりお勧めできませんのでサイト名は伏せます。悪しからず。 m(_ _)m

**************************************************
イギリスの犯罪学者コリン・ウィルソンの著書「殺人の哲学」には、15世紀ジェームズ1世時代のイギリスで1500人を殺して食べていたソニー・ビーンズという男が妻と共に洞窟に住んでいたという話が載っている。
ウィルソンによれば、殺人は3段階で変化する。一段階が食物の争奪、二段階が欲望と衝動の開放、三段階が倦怠を持て余して存在証明を求める殺人だ。著者の立場は以下の言葉によく表れている。
社会の底にフラストレーションが沈殿している時、その度合いを社会に告げるのは犯罪者である。まったく新しい身の毛のよだつ犯罪が発生した時、これを単に奇怪な一事件と片づけることはできない。それは新型の病気の発生を医学的に奇異な現象として片づけられないと同様である。犯罪研究者にとって、それは社会全体を予知する貴重な窓となる。

殺人の哲学 コリン・ウィルソン 竹内書店 1970.11

(中略)
 心理学の専門家によれば、「何より先に暴力に訴えることは、脳の大脳辺縁系か前頭葉に微細な損傷」が原因であることをCTスキャンで確認できるという「ジョエル・ノリス(シリアルキラー)p44」。他にも著者は栄養失調、不安定な家庭環境、亜鉛やカリウム不足によるホルモンバランス、鉛・コバルトなどの環境汚染物質、動物の虐待などが暴力的傾向を助長するとしてしている。
 ただ「認識が対象を決定する」という言葉の通り、人間の頭脳は自らの認識によって対象を再構築してしまう。つまり、社会的に悪とされている事象を目の前の現象に当てはめてしまうのだ。母親の売春、虐待、同性愛、アルコール依存症、果ては環境汚染物質や栄養失調に至るまで、原因として挙げられている事柄は、アメリカの社会問題の面と、キリスト教的な悪徳の側面とがある。いわば自らが問題だと思っている現象を、猟奇殺人の原因として勝手に措定しているとはいえないだろうか?
(中略)

猟奇殺人の系譜

猟奇殺人の歴史は古い。15世紀フランスの侯爵でジャンヌ・ダルクの部下だったジル・ド・レー(Gilles de Rais)は、農奴の子供を数百人、ただの娯楽のために殺した。16世紀にはドイツのPeter Stubbeなどが知られている。かれは子供を襲い、切り裂いて食べた。恐るべきことにStubbeは自分の子供の体を切断し脳を生で食らった。(The A-Z Encyclopedia of Serial Killers Harold Schechter)
魔女とされた女性を生きたまま公衆の面前で火あぶりにするといった非常に残酷な事件が西洋には多いのは、聖書の影響が大きいだろう。聖書では"悪"とされるものを神が裁くという話に満ちている。イスラム原理主義の指導者オサマ・ビン・ラーディン氏のように、信仰を守るためには手段を選ばなくてもかまわないという考えが、一神教を旨とする人々には一般的だったためだろう。
ただ、漢の高祖の妻呂后が若い妾に嫉妬し、高祖の死後、その妾を囚人に輪姦させ、手足を切断、目をつぶし目鼻を削ぎ落として生きたまま便所の壺の中に入れたという話がある。日本のような宗教戦争のおきたことがない多神教国でも、キリシタンへの処刑は逆さ吊りにして脳の血管が破裂するまでじわじわと苦しませて殺害したということもあった。
こうした点から考えると宗教は人間の残酷な行為の原因ではなく、正当化の理由や意味付けとして使われており、すべての人間はもともと残酷な性質を持っていると考えたほうがいい。ルソーは「エミール」のなかで、人間の本性は無垢で善良なものであり、その天性を素直にのばすことが教育だといったが、これは人間に対する認識を根本的に誤っているものというべきだろう。
19世紀 スティーブンソン(Robert Louis Stevenson)は「ジキルとハイド」を著したが、人間のこうした矛盾した性質は、地元名士として成功しながら30人以上の少年を殺害し床下に埋めていたゲーシーのみならず、どんな人間にも備わっているものだ。実際に猟奇的な殺害に至る人間は稀だが、両者の違いは残酷な狂気を抑えることができるかどうかという点にしかない。
カナダの人類学者エリオット・レイトン(Elliott Leyton)は、「原始社会では殺人の対象が知らない人間になることは極めて稀だった」としているが、現代になって目立って増えている快楽殺人(Lust Murder)は概して明確な動機がなく、犠牲者は大部分が犯人とはまったく面識がない。
**************************************************

宗教が人間の残虐な一面を正当化する手段ではなく、抑止力として働かないかぎり、その存在自体が「邪悪」となってしまうように思います。

1153犀角独歩:2003/12/30(火) 12:04

1150〜1151 心者雖念不直相鴨さん:

カニバリズムからの(キリスト教ではなく)イエス集団解き。これは実に興味深いものでした。最後の晩餐がイエス食いの予行演習。さもやありなんという感じです。

以前、洗礼者ヨハネが蝗と野蜜を食べて荒野で生きていたという記述を読んだとき、「蝗は昆虫と雖も生物」と思え、仏教徒の殺生感と大きく異なっていると思ったものでした。ところが、それどころか、イエス集団がさらにカニバリズムを前提にしていた…、大胆な推論ながら、否定しきれない面白さを感じました。

古代インドで言えば、仏教の採り入れられた鬼子母神もまた食人風習をモチーフにした物語でしたね。

不殺生、殺人、その延長に、宗教儀礼的な食人風習が連なっているという視点。実に深いものがあります。

1154犀角独歩:2003/12/30(火) 12:20

1152 愚鈍凡夫さん:


猟奇殺人その他、いわゆるサイコパスと呼称される人格障害の視点から分析する試みの話を過去にいたしましたね。わたしも『宅間守と日蓮正宗との相関性をどう感じる』スレッドの313〜315に掛けて一部紹介しました。
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1055067234/r313
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1055067234/r314
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/364/1055067234/r315

あと、既にお読みになっておられるかもしれませんが、以下の本は参考になりました。

『サイコパスという怖い人々』
あなたの隣にもいる
仮面をかぶった以上人格者の素顔とは――
KAWADE 夢新書
ISBN4-309-50185-0 C0247 Y667E
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309501850/ref%3Dnosim/inktomi-jp-asin-books-22/249-6062772-1564311

(以前にも紹介したかもしれませんが)

1155無徳:2003/12/31(水) 19:34
先日早稲田の古本屋で『日蓮聖人の法華色読史』(蛍澤藍川著)なる本を買いました。

その中に龍象房の食人に関する記述がありましたので、参考までに紹介します。

長文になりますので2回に分けて投稿させていただきます。

建治三年の春、鎌倉に不思議な事件が出来した。それは人肉をたべる事が流行した
事とである、埋葬したばかりの死人の墓をあばいてその肉を食するは素より、甚し
いのになると、死者を運搬する途中などで、ついて居るものゝ眼をかすめて死者の
腕を切取るなどの乱暴もあった。

其當時「龍象房」といふ僧が京都から下って鎌倉に来て居た。この龍象房は比叡山
の僧で、「天台座主記」に龍象上人とあるので見ると相當の地位を占めて居た僧で
あるらしい。
     
処がこれが何かしら非常な不始末を演して比叡山を出奔した。其事は「天台座主記」
の建治元年の條に

 四月廿七日、山門衆徒群下、集會東光寺差遣公友丼犬紳人於寵象上人住房焼払
 之、於中山住房者犬神人等破取之

とあって、住房を焼却するといふ位だから餘程の悪事に違ひないが、その悪事の性
質に就は何とも記載がない。それが日蓮聖人の記述によると、此龍象房は人間の肉
を食したことが露顯したので京都に居る事が出来なくなって逐轄したといふ事であ
る。

聖人が後に四條金吾の潟に認められた「頼基陳状」の中に

 彼龍象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由令露顕間、山門の衆徒蜂起
 して世末代に及で悪鬼國中に出現せり、山王の御力を以て對治を加むとて住所を
 焼失し、其身と誅罰選とする処に、自然に逃失し行方を不知処に、たまたま鎌倉
 中に叉人肉を食之間情ある人恐怖せしめて候に云々

とあるので、其露顯の機會もほぼ知られてわる。

尤も其當時人肉を食するといふ事は龍象房ばかりの問題ではなかった榛である。

聖人の遺文によれば、龍象房などがこの方の先達ではあったが、實は真言の邪法か
ら出て、ついには一般に人肉をたべる事を何とも思はなくなったのである。

今日本國亦後 如 是、真言師禅宗持齋等人を食する者國中に充満せり、是偏に真言
の邪法より事起れり、龍象房が人を食ひしは萬が一顯れたるなり、彼に習て人の肉
を或は猪鹿に交へ、或は魚鳥に切り雑へ、或はたゝき加え、或は鮨として売る、食
する者数を知らず。

続く

1156無徳:2003/12/31(水) 19:40
続き

日本國数年の間打續きけかちゆきて衣食なく、畜類をば食つくし、結句人をくらう
者出來して或は死人、或は小児、域は病人等の肉を裂取て、魚鹿等に加へて売しか
ば、人是を買くへり。

とも記されて、連年の大飢饉で全く食料の欠乏を愬へたといふ事も人肉を食べる一
原因になっにのであるが、そういふ思想を輸入した張本は寵象房などであつだのだ。

ただし龍象房の食入事件は、はじめは誰とも分らなかったが、ある時小袋坂のそば
で、非人が死屍の肉を切取って居るのを、當時其問題がやかましかった為にその犯
人を物色してゐた役人の見るところとなって捕えられた、糺明して見ると意外にも
其非人は、人肉切取りの依頼人が龍象房なることを申立てた。

そこで早速龍象房を糺問すると、龍象房は全く知らないといふことであったので、
更に其非人を取調らべると、今度は化粧坂の燈炉堂の法師にたのまれたという事を
白状した。

その後の記録が不幸にしてないからどうなたか分からぬが、此の奇怪な事件は富木
入道のきくところとなってすぐ様身延へ報告された。

冨木入道の書翰は『四信五品抄問目」といふ名を以て後世に傳へられたばかりでな
く、富木入道の草案が、今も尚中山法華経寺に残って居るそうであるが、それは名
の示す如く「四信五品」の法門を聖人に教示を請ふのが主であるが、そのはじめに
異聞として、前記の龍象房と燈炉堂の法師の事が記されてある。
 
 畏言上、近日稲荷社、八幡宮供人肉事出來候、又有下僧於小袋坂切取葬送死
  人肉之時見付之於由井濱政所加糺問之処、依龍象房之長誂今取之由、令白
  状之間、相尋龍象房之処、全以無其儀之由、依令申、猶被推間彼下僧之処、
  ケハヒ坂燈炉法師之誂令申侯間、又被尋之由風聞候、奇異勝事侯、委細之旨、
  四條金吾定被言上候歎、兼又大進阿闇梨御房下人之便宜令進上愚欣侯シハ令
参着候哉、不預御返報侯間不審侯

恐らく此燈炉堂の法師が動機となって.龍象房の食人は露顕したのであらうが、龍
象房は不敵な人物である上、容易ならぬ侫奸の僧であったから、巧みにこれを瞞過
したものと見ゑて、間もなく彼は鎌倉の宗教界に飛躍する事となった。

1157無徳:2003/12/31(水) 19:48
このように、仏門にある身でましてや高僧とも称される僧侶においても、食人の疑
いが掛けられる程に鎌倉時代は、「立正安国論」の冒頭を思い起こさせるに十分な
危機的状況にあったと言うべきでしょうか?

1158MILD SEVEN:2004/01/22(木) 02:07

悲しき全体主義・北朝鮮問題についても検討しましょう。

http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

1159MILD SEVEN:2004/02/03(火) 05:28

<自衛隊のイラク派兵問題について>

「敵だけど友達」これは以前、イスラム教徒に言われた事。
もちろん私は、キリスト教徒と名乗った上での事。
実際、どのイスラム教徒とも仲良くやって来ました。
相手が真剣ならなお更、深いところでも・・・暗黙の了解はあるのです。

私は現在、<良識の競い合い>をネットワークで提案しています。
世界のイスラム教徒に。

また、後手の対応でも、主にあって先手を用意しておく事は可能です。
主の導きと共に。

http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html

1160トリビアの種:2004/02/24(火) 02:40
ある本に、この世で一番最初にサイコロ賭博をやったのは
お釈迦様だと書いてありました。
バクチをやって人を集めて、そこで説教したそうです。
なのでバクチ場で動くお金のことを寺銭と言うとありました。

もう少し詳しく知りたいので、ご存知の方がいらっしゃいましたら
ご教示ください。
ちなみに手持ちの辞書で調べたら下記のように書いてありました。

寺銭 てらせん

博徒が経営する笛博場で笛金に応じてとる手数料のこと。語源については諸説あるが,江戸時代に取締りがゆるやかだった寺社奉行支配下の寺社の境内に,仮設の笛博場をつくり,賽銭勘定場と称し,手数料のもうけを寺へ寄進する形式をとったことに由来するという。のちに一般の笛博場でも寺銭というようになった。関西ではカスリともいう。さいころ丁半笛博の笛場では,勝った客が取得する金額の5%を寺銭とし,2個のさいころがゾロ目といって同じ目になったときだけ,10%の寺銭をとった。笛けをする敷物を盆茣蓙(ぼんござ)といい,その計算が迅速にできないと〈ぼんくら(盆暗)〉といわれた。第2次大戦後はバッタマキという花札3枚ずつでする笛博で,3枚の札の数の合計が10あるいは20になるとブタといい,そのときだけブタハンと称して50%の寺銭をとり,他は寺銭なしの笛場もあった。なお,尾佐竹猛《笛博と掏摸の研究》では,寺銭の〈てら〉はどてら(褞袍)などの〈てら〉と同義で布とか蒲団の意味を包含し,転じて盆茣蓙の意となり,盆すなわち笛博権の使用料,あるいは笛博開帳料となったのではないかと思われるとしている。

1161不安居士:2004/02/26(木) 05:39
(先ほどの投稿はスレ違いでした。ご削除をお願いいたします)
ヤフーBBに加入のみなさん。ご注意ください。

以下の記事を読みました。こうした、匿名の掲示板を通じての書き込みが、たとえば創価学会の関係者により監視されているのでは?との、危惧があります。

……同じく逮捕された竹岡誠治は元創価学会員。産経が報じた通り、共産
党盗聴事件の実行犯でもある。」
http://great.mailux.com/mm_search.php?sh_mm_id=MM3D9411DEDEAA1

「『クレジット情報の流出はなし』と、BBは記者会見で繰り返していま
すが、そんなのはデタラメ。クレジット情報どこから、ホストコンピュー
タの中身を丸ごとぶっこ抜かれているんです。(中略)問題のデータを持っている人間はすでに100人を越えているはずです。2ちゃんねるにデータがバラ撒かれるのも時間の問題だと思います」(中略)
 そして、今、犯人一味に、総会屋と創価学会元幹部がいたことも発覚。
事件は大爆裂寸前なのである!!」
http://by3fd.bay3.hotmail.msn.com/cgi-bin/getmsg?msg=MSG1077722571.7&start=584229&len=11716&msgread=1&imgsafe=n&curmbox=F000000001&a=2d3767d0f4153509547f987155ee9d9d

私の単なる妄想で済めばよいのですが…….

1162Terrible 1:2004/02/28(土) 19:56
1161殿、 小生もヤフー掲示板の政党、選挙スレッドの創価関連に投稿しました。あの大先生がケチョンケチョンに一蹴された言言には、これこそ民主主義の醍醐味だと実感しましてガンガン批判しました、。がしかし、これからは、弾圧が怖くなりました、。 S会にとっては度し難い輩の一員にリストアップされたことになった訳です、。 イヤな時代に逆戻りでしょうか、、?

1163アホー111:2004/02/29(日) 00:13
1162様、、、ご心配はイカガかと存じます、、。  残念至極ながら、、あなた様の住所とPC接続状況は一切合切すべてが創価本部に筒抜けが実証されました、、。 ヤフーの海外=ニュウス欄が昨年末総て削除に成ったのは、、??でしょうか、、? 内部に協力者=創価員が存在すればコソ、、??  ヤフー子会社SST=社長=竹岡氏は副会長級の大大超幹部とは創価内部では周知の様です、、。 つまりは「創価の組織グルミの犯罪、、」の様ですか、、??!!

1164MAX:2004/03/03(水) 03:52
他サイトで見つけたもの

ヤフーBB460万人名簿流出&ソフトバンク40億円脅迫事件あらまし
http://ahiru.zive.net/joyful/img/914.jpg (週刊ポスト)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/900.jpg(赤旗)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-03-01/15_01.html(日本共産党HP)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/914.jpg(週刊新潮)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/916.jpg(週刊朝日)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/901.jpg(日刊ゲンダイ1面)
http://ahiru.zive.net/joyful/img/902.jpg(日刊ゲンダイ2面)
http://www.sankei.co.jp/news/morning/25na1001.htm(産経新聞)

今回のヤフーBB460万人流出データによる脅迫事件は、最高裁でジャニーズのセクハラが認められながらもテレビで語られないのと同様、大マスコミでは語られない。。
34年前の共産党委員長宮本宅盗聴事件=竹岡(実行犯)神崎(検事)浜四津(弁護士)
同事件は2審まで行き、学会側敗訴。3審控訴も後棄却→宮本に賠償金を払い和解
竹岡はヤフーBB460万流出&脅迫事件前まで、学会幹部(豊島区分区副区長。事件後辞任)
竹岡は宮本宅盗聴事件以降急激に出世、全国副青年部長まで上り詰める(トップ10)。本部勤務経験後、現在聖教新聞広報部部長
竹岡の娘もその夫も学会人。結婚式には神崎、野中両氏が祝福。
竹岡の息子は学会本部勤務。
循環型社会推進議連(浜四津が会長代行)に竹岡が講師を呼んだ経歴あり。
もう一人の実行犯湯浅は北海道のゾーン長か副ゾーン長(現役。今回の事件後辞任)
学会本部に電話すると、両名が学会人であることを認めたが、すでに本人の意向で役職を辞任していることを強調した。

1165エル:2004/03/21(日) 14:35
お数珠について教えてください。
房の数が左右で違いますが、これはいつ頃からでしょうか。
富士宗学要集や日興上人所持の数珠などを見ますと、左右同房
となっています。つまり左右とも2房です。

また、現在でも創価学会と宗門とでは、持ち方が逆なのでしょうか?
どなたか、よろしくお願いします。

1166愚鈍凡夫:2004/03/21(日) 16:01

エルさん、初めまして。質問の答えになっていないと思いますが、日蓮宗系の数珠の資料と、一般論としての数珠の資料です。
ご参考までに。

「数 珠」
http://www.kosaiji.org/hoyoshiki/jyuzu.htm

「数珠の歴史(1) 呪文や念仏を数える」
http://www.miyagawa.com/syuha/5101.html#2

「お数珠について」
http://www.hokkeshu.com/hyakkajiten/ojyujyu1.htm

日蓮正宗係の数珠の資料です。

「伝開山日興上人御所持半装束数珠」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/750/602.htm

「袈裟数珠の事」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_14.htm

「当家三衣抄」
http://nakanihon.net/nb/rokkann6.html

1167エル:2004/03/22(月) 19:17
愚鈍凡夫さん お返事ありがとうございます。

日因抄を読むかぎりにおいては、3房が右で2房が左にくるようですね。

ただ、いつから2房が3房になったのかが未定のままでした。(^^;
日因師の時代までは、まだ両方2房のようですね。

1168愚鈍凡夫:2004/03/22(月) 20:07

エルさん、レス有り難うございます。
数珠の意義などの資料はあるようですが、房の数の由来に関する資料は以外にないものですね。
エルさんが房の数の謎を解いたら、是非ご教示ください。

1169エル:2004/03/23(火) 05:07
現在、左右2房は要法寺型のみで、その他の日蓮宗・日蓮正宗は皆、
2+3房ですね。ウーム、謎ですね。(^^;

1170愚鈍凡夫:2004/03/23(火) 08:49

エルさん、少しずつですが、数珠の房の意味がわかってきました。
各房についている珠を「記子(きし)・弟子珠」と呼び、10個(2連の房に5個ずつ)の珠は十波羅蜜あるいは十大弟子を表わしているそうです(2つ房の親玉が淨明珠(釈迦如来)、3つ房の親玉が緒留(多宝如来))。この記子の末端の露の形をした珠を「記子留」と呼ぶそうです。そして、この記子留にも意味があって(諸説あるそうです)、例えば菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)や福・智の意味を表わしているそうです。また、記子と達磨の間に小さい珠が一つ付いています。これを「補処(ふしょ)の菩薩」と呼ぶそうです。補処とは仏の後継者を意味します。
さらに、日蓮宗系の3つの房がある方の10個珠がついている房を「数取り」と呼ぶそうで、108個の珠を1周するごとに珠1つを送っていくのが本来の用途のようです。

詳しくは、下記のHPを参照してください。

「お数珠の持ち方」
http://www2.117.ne.jp/~daishoji/q&a2.html

「お数珠のこと」
http://www.myouhou.com/joshiki/02juzu.html

「念珠の知識」
http://village.infoweb.ne.jp/~fwit3959/nenju6.html

1171犀角独歩:2004/03/23(火) 10:28

愚鈍凡夫さん:

横レス、失礼します。

> 108個の珠を1周する

数取りの時、ぐるぐる一定方向に珠を繰っていくのは念仏の在り方のようで、これを法華系は忌避します。この点を示す文献には以下のようなものがあります。

「母珠を越ゆべからず」(対俗三衣談)
「数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は仏の如せよ、勢至經に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云」(有師物語聴聞抄佳跡上)
「我か遺弟は必す円形の念珠を用ゆべし、次第を超越する者は因果妄語の罪に依つて当に地獄に堕すべしと云云」(同)
「行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に地獄に堕つべし、亦復母珠を超ゆること勿れ」(六巻抄当家三衣抄第六)

数珠両端二つある珠を親珠(父珠・母珠)ですね。
この数取りの仕方は、所属していた寺院住職が数珠を取って、実際にやりながら教えてくれました。三つ房側の父珠から数えだし、母珠に至ったら、そこから珠を越えずに引き返して繰っていきます。この際、四菩薩は数えないことも教えられました。

また、三つ房の五つずつの珠は題目百編の数え珠で一往復ごとに一つ上に上げ、五つずつ計十個が上がったら、それを全部下げて、十個珠の房を一つ上げ、千編の数を取るわけです。全部上がれば一万編で、ここまで数を取れるように工夫して、二房が三房に作り直されたのだろうとわたしは想像しています。

まあ唱題一万編用にあつらえたということなのでしょうね。

1172犀角独歩:2004/03/23(火) 10:32

↑おっと、間違えました。数取り側が母珠でした。
 父珠は心一境法性珠があるほうです。
 失礼、訂正します。

1173愚鈍凡夫:2004/03/23(火) 12:46

犀角独歩さん、ご教示有り難うございました。

上記>>1170の「念珠の知識」にも

> なお、念珠を繰るときは緒留を越えて一周するのではなく、緒留まで繰ると再び同じ五十四珠を繰って達磨に戻ります。

とありますから、勘違いですね。有り難うございました。

1174エル:2004/03/23(火) 13:44

愚鈍凡夫 さん、情報ありがとうございます。数珠の玉の解釈は、宗派
によって色々違いがあるようですね。ただ、日興上人御所持の数珠は左
右2房づつですから、後世になって、1房付け足したとみる方が正解で
しょうね。

数取り用ですか。学会?では、左右2房は両手両足、残り1房は頭で、
人間の体を現わすと言っていましたね。では、興師の両2房の数珠の解
釈はどうなるのでしょうか。

正宗系の書籍には、2個の大珠は、釈迦多宝の二仏、又は、境智の二法、
4個の小珠は四菩薩、左右の房をつらぬく30珠は、一念三千の諸法を
現わすと書かれてありますね。でも、実際は計40玉あるわけですから、
一念四千になっています。まぁ、数取り用の玉はカウントしないのかも
しれませんが。(^^;

犀角独歩さん はじめまして。

法華講と学会とで持ち方が左右逆転していたと思うのですが、何か理由
を御存知でしょうか。よろしくお願いします。

1175犀角独歩:2004/03/23(火) 17:12

エルさん、はじめまして

> 法華講と学会とで持ち方が左右逆転

わたしは創価学会に35年、法華講に5年おりました。
ですから、数珠の掛け方に関しては、あとから掛け直したわけです。
法華講というより、それは石山僧俗に亘る在り方です。法華講は僧侶の指導に従っているわけです。

ある学会員が「猊下が戸田先生に対面して、手に掛けていた数珠をそのまま、掛け渡した。向かい合っていたので左右逆になった」と言っていましたが、これはどうでしょうか(笑)

石山の役僧に聞いたら「学会の間違い」と一言。
法具その他は石山が本家ですから、まあ、そうなのかとわたしは思ってきました。

勤行でも、学会は鈴(りん)三打で題目三唱・お経でしたが、石山は元より題目三唱してから鈴七打で「妙法蓮華経方便品第二…」と始まります。また、お経から題目に入るときも鈴には石山特有のリズムがありますが、これを学会は踏襲することはありませんでした。

用語の読みにしても、大石寺(たいせきじ)を「だいせきじ」、日寛(にちかん)を「にっかん」、聖教(しょうぎょう)を「せいきょう」などなど、初期の間違いがそのまま、いまに至っている例はたくさんありますね。もっとも「だいせきじ」は一次紛争以降は訂しましたっけ?

こう言っては何ですが、数珠左右の掛け違い、そんなたいそうな意味はないと思います。

1176エル:2004/03/23(火) 17:37
犀角独歩さん お返事ありがとうございます。

> 法華講というより、それは石山僧俗に亘る在り方です。法華講は僧侶
> の指導に従っているわけです。

 御意。

> ある学会員が「猊下が戸田先生に対面して、手に掛けていた数珠をそ
> のまま、掛け渡した。向かい合っていたので左右逆になった」と言っ
> ていましたが、これはどうでしょうか(笑)

 これが事実なら笑っちゃいますね。

ところで、先ほど、学会員とバッタリ出会ったので聞いてみました。
その方がいうには、昔は確かに3房が左にくるように持っていた。し
かし、途中から右3房に変わった。昭和60年くらいの事だったか。
と言われていました。で、現在は右3房で統一されているようですね。
でも、なんで宗門と逆の持ち方をしていたのか、その点は分からずじ
まいでした。

1177犀角独歩:2004/03/23(火) 18:27

エルさん:

「素朴な疑問」を一つひとつ解いていくのは、案外面白いですよね。
エルさんの問題意識は大事だと思います。
この手の謎解きでは愚鈍凡夫さんの右に出る人はいないとわたしは個人的に思っています。

1178愚鈍凡夫:2004/03/23(火) 20:03

犀角独歩さん、からかわないで下さい。 σ(^◇^;)
お話中のところ失礼します。まだ資料があったものですから。

**************************************************
日蓮宗の念珠は、宗祖日蓮上人以来、華厳宗などの南都六宗で用いられている古い形式のものを使用していたが、室町末期頃より現在の形のものも用いられるようになったといわれる。
以後、広く日蓮宗各派に用いられる基本形となり、顕本法華宗、仏立宗、などの各派、祈祷用の各種のものなど、房の組み方の違いがみられるぐらいである。
「念珠の歴史」より
***************************************************
とのことでした。

「念珠の歴史」
http://www.nenjudo.co.jp/page/nenju-rekisi.htm

数珠の歴史に関しての追加資料です。

「念珠経典」
http://homepage3.nifty.com/koyasan/nenju2.html

「念珠とは」
http://www.juzz.net/nenju_towa.html

そうすると、日蓮宗系の2房の方(父珠・釈迦牟尼仏)の小さな輪は何を意味しているんだろうと考えたりしますね。 (^_^;

「もうええっちゅうねん!!」(by 外野席)

1179エル:2004/03/24(水) 08:54

愚鈍凡夫さん 情報ありがとうございます。

南都六宗のものが、念仏の平念珠や天台のソロバン念珠と違い、形から姿から、
もっとも法華の理をよく現わしていたのかもしれませんね。

ただ、興尊の数珠と現在の数珠は、例の1房の有無だけで、その他に大きな違
いはありませんね。あと、房の色は、日蓮正宗は白ですが、他の日蓮宗は赤と
か紫とか茶とか色々ありますね。

> そうすると、日蓮宗系の 2 房の方(父珠・釈迦牟尼仏)の小さな輪は何を意味
> しているんだろうと考えたりしますね。 (^_^;

父珠が釈迦牟尼仏になるのでしょうか。父珠というのは、心一境法性珠がある
方ですよね。日因抄を読めば、

「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」

とありますね。という事は、2房が右にくるように持つという事でしょうか??

1180犀角独歩:2004/03/24(水) 11:00

エルさん:

> 興尊の数珠

の話題が出ていますが、これは石山で展示されたことが何度かあります。
わたしは七百遠忌の時に見ましたが、七宝造の色も鮮やかな大きなものでしたよ。
見た瞬間、「これじゃ、中指に掛けられない」と思いました。

あと三房はどこかの日蓮系の宗派も使っていた曖昧な記憶があります。
むしろ、わたしが石山の数珠との違いを感じたのは房の色でした。他派は紫とか色付きですが、石山は白でしょう。この白房が最も大きな違いと見えます。

> …父珠…心一境法性珠…日因抄…右手に之れを掛く

同類の記述は、因師の2代あとの芳師(元師)『対俗三衣談』にもあります。
わたしはこれを昭和56年10月14日にはじめて読んだのです。その読後記に

「去る9月21日に総本山参拝(七百遠忌)の砌、富士重宝展を観ず内に興師蔵の数珠有り。形は此れ392頁の図(以下、リンク)に似る。然し末代我等の数珠、其の形異なる。其の由来全く知らず。当今、心一境法性珠ある父珠のを左中指に掛くる事、元師の時とは異なるか」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/juzu.gif

と自ら記してありました。いみじくも今エルさんの疑問を、わたし自身20年以上前に懐いていたことがわかります。しかし本日に至るまで、納得の行く説明を聞いた試しはありません。慣習というのは案外、そんなものなのかも知れません。

中指に掛けることも、宥・寛・養・詳・東・教師いずれもそうであったと芳師は記し、併せて因師もそうであったわけですから、ほぼこの時代にはそのように行われていたのでしょう。けれど、興師の数珠を見る限り、中指に掛けられる大きさの珠ではありませんでした。合掌した両親指に掛けるのが至当と思えました。また郷門我師は人差し指と中指に掛けていたというわけで、同じ興門でも相違があることがわかります。さて、どこから変わったのでしょうか。

1181エル:2004/03/24(水) 11:44

犀角独歩さん お返事ありがとうございます。

> わたしは七百遠忌の時に見ましたが、七宝造の色も鮮やかな大きなものでしたよ。
> 見た瞬間、「これじゃ、中指に掛けられない」と思いました。

日興上人御所持の数珠は、七宝と半装束の2つが現存しているようですね。
そのうち、七宝をご覧になられたということですね。 それだけ巨大だと、
荘厳念珠でしょうか。(^^;

> あと三房はどこかの日蓮系の宗派も使っていた曖昧な記憶があります。

 両2房は不授不施派と要法寺系で、その他日蓮宗は3房のようです。

> むしろ、わたしが石山の数珠との違いを感じたのは房の色でした。他派は紫
> とか色付きですが、石山は白でしょう。この白房が最も大きな違いと見えま
> す。

 たぶん、白房にも薄墨衣と同じように深い意味があるのでしょうね。

> と自ら記してありました。いみじくも今エルさんの疑問を、わたし自身 20
> 年以上前に懐いていたことがわかります。しかし本日に至るまで、納得の行
> く説明を聞いた試しはありません。慣習というのは案外、そんなものなのか
> も知れません。

恐縮でございます。m(__)m

どうやら、伝に混乱が生じているようですね。日因抄には、昔は数珠伝があ
ったが、火事で焼けたみたいなことが書かれてありますね。残念無念。

>けれど、興師の数珠を見る限り、中指に掛けられる大きさの珠ではありませ
>んでした。合掌した両親指に掛けるのが至当と思えました。

ますます尺六の荘厳数珠のようですね。尺六とは一尺六寸の意で、主に儀式
用で使う念珠です。現在でも、真言とか念仏とかでも使っていますね。

半装束の数珠の方は、写真では大きさがよく分かりませんが、みるかぎり通
常の大きさのようですね。しかし、今回同じような疑問を感じた方がおられ
たという事が分かっただけで、大きな収穫でした。(^o^)

1182愚鈍凡夫:2004/03/24(水) 21:03

エルさん、どうも。
蓮祖は天台宗の僧でしたから、修行僧時代は天台宗の数珠を使っていた可能性が高いですよね。それを、「華厳宗などの南都六宗で用いられている古い形式のものを使用していた」というのは、何故でしょうか?
この記述が正しいとすれば、ちょっと不思議な感じもしますね。理由は何でしょうか。
日本天台宗の変遷に対する抗議の気持ちからなのでしょうか・・・・・。(`ヘ´) プンプン。
たとえそうだとしても、南都六宗で用いられる数珠を使用する理由にはなりませんね。
それと日興師の数珠ですが、重須での生活の方が長いわけですから、重須には伝わってないのでしょうか。伝わっているのであれば、石山のものと比較してみたいですね。
また、房の色が白いのは、

「其の色薄墨なる事は名字即を表する也、謂く泥色の中に於て六即を分つ、但だ是れ白色なるは理即也、薄墨なるは名字即也乃至黒色なるは究竟即也。」(「法衣供養談義」 富要3-283)

これは衣の色に対するものですが、意義付はこれと同じでしょうか。

数珠のかけ方の左右の件ですが、
右手が清浄(仏)、左手が不浄(凡夫)という解釈から言えば、釈迦牟尼仏は右手というのが作法としては正しいような気がします(因みに小生は左利きですが σ(^◇^;))。
こんなふうに、数珠一つをとっても色々と疑問点が浮かんでくるものですね。

1183エル:2004/03/25(木) 17:14

愚鈍凡夫さん こんにちは

> 日本天台宗の変遷に対する抗議の気持ちからなのでしょうか

天台宗の数珠は特殊ですからね。ソロバンの玉のような形をしています。

「円形は是れ法性の妙理を表するなり。」の仰せとは程遠いです。

天台大師が、あのような形の数珠を所持していたとは思えないのですが。(^^;

> 右手が清浄(仏)、左手が不浄(凡夫)という解釈から言えば、釈迦牟尼仏は右手
> というのが作法としては正しいような気がします。

ただ不思議なのは、日因抄には、

「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」
「故に右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり」

とあります。これでは2房の方が多宝で、3房の方が釈迦という事になります
よね。つまり、四菩薩側が多宝で、反対側が釈迦という矛盾が生じています。

それとも、釈迦=母珠、多宝=父珠という事なのでしょうか???

1184愚鈍凡夫:2004/03/25(木) 18:51

エルさん、どうも。

「緒留は等覚位なり達磨は妙覚の故に妙覚極果を越えず則之れに過くる上位之れ無き故なり」(袈裟数珠の事)

房が3本ある方の親珠が「緒留(母珠・多宝如来)」で、2本ある方の親珠が「達磨(父珠・釈迦牟尼仏)」ですから、右手側が2本であることは間違いないと思います。

エルさん引用のこの文証とも矛盾しませんが。
「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」

「袈裟数珠の事」を改めて読み直してみて、次の文証があったのには驚きました。

「又、類雑三(五十六)に数珠経を引いて云はく母珠を越ゆべからず驀過越罪千万なり数珠は仏の如くせよ、勢至経に云はく平形を以ゆる者此れは是れ外道の弟子なり我か弟子に非らず、我か弟子必す円形の念珠を用ゆべし、次第を越ゆる者は妄語の罪に依り当に地獄に堕つべし文。
日因云はく此の中の数珠経は金剛瑜伽念珠経の文なり而るに引文甚だ謬りなり、母珠を越ゆべからすの句之れ無し、又千万の二字之れ無し、又勢至経と云ふ経録に之れ無し、口伝に平形念珠経を引くなり。」(袈裟数珠の事)

「数珠教を引いて云く母珠を越ゆべからす驀過越法罪千万云云、此の経は金剛瑜伽の文なり、然るに不応越母珠の句之れ無し、又慎莫の二字を置いて而も千万の二字を加ふる甚だ謬りなり、但し録外御書四(四十五)数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は如せよ仏の、勢至教に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云、此勢至経の文何れに在りや、又数珠経に云はく不応越母珠等の二句之れ無し(更詳)、今之れを案するに義引なるべし、」(袈裟数珠の事)

では、「母珠を越ゆべからず驀過越罪千万なり数珠は仏の如くせよ」、「平形を以ゆる者此れは是れ外道の弟子なり我か弟子に非らず、我か弟子必す円形の念珠を用ゆべし」とは、いったい何経からの引用なんでしょうか。日因師は義引と仰せですが。

「袈裟数珠の事」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_14.htm

「天台宗(数珠と掛け方の図解あり)」
http://www.butudan.co.jp/page03810.html

1185七師外道:2004/03/25(木) 21:12
房の数は2×2が本来のもので、父・母(佛・経)の輪(法輪=教)を子が掛ける姿である。
掛け方も中指に掛けるというのは近世になってからの事と思われる。
蓮祖及び上代においては台家と異ならぬ掛け方であったと考えるべきである。
また「信徒は留房(玉房)、僧侶は払い房」などと云うものもあるが真俗の別もの無い。
興門において数珠の房の白きは幣束の義意を持つが故である。
また珠も塗り珠を用いてはならないが、これも同様の意を持つ。
因みに三門の朱きは鳥居の義を事に表している。

1186七師外道:2004/03/25(木) 21:27
訂正
真俗の別もの無い⇒真俗の別も無い

猶、蓮祖、興門の真義については不明であるものの、御真跡管見記、明星口伝、十の口伝、等から推察が出来よう。
又、丑寅重視も同様である。
現今、他門は云うに及ばす石山においても蓮祖、興尊の神佛義の会通は不可能であろう。

1187エル:2004/03/26(金) 08:46

愚鈍凡夫さん こんにちは

> 房が3本ある方の親珠が「緒留(母珠・多宝如来)」で、2本ある方の親珠が「達
> 磨(父珠・釈迦牟尼仏)」ですから、右手側が2本であることは間違いないと思
> います。エルさん引用のこの文証とも矛盾しませんが。

えーとですね。

●房3本 母珠 多宝 左手
●房2本 父珠 釈尊 右手

という事ですよね。ところが、日因抄には、

「右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり、一珠は無数
位なり既に無数位一つなり、又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、然
れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種
波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」

とあって、これが矛盾ではと思ってるわけです。つまり、房の21珠の方、も
う少し詳しく述べますと、心一境法性珠のある方を左に掛けよと言われている
わけです。心一境法性珠のある方は2房の方ですから、これでは、房2本が左
手にこなければおかしいですよね???

1188愚鈍凡夫:2004/03/26(金) 12:09

エルさん、こんにちは。

「次に左右の露は行者の一身を表す、卅一珠は但是十波羅密、分別して卅一珠と為す、其の故記憶珠子なるが故に右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり、一珠は無数位なり既に無数位一つなり、又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、然れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」(袈裟数珠の事)

仰る意味は分かります。
でも、そうなると四菩薩から遠い方が釈迦牟尼仏で、四菩薩に近い方が多宝如来ということになってしまいます。個人的に違和感があります(小生は数珠を手に掛ける場合、無意識に2房の方を右に掛ける習慣がありますから。)
この辺の処、どう思われますか。

「然れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」
これって「右の十の記子」、「左の廿一」と数えておいて、「皆三十一種波羅密を表して」ではなく、「皆三十種波羅密を表して」とし、「卅即一珠」とするのは結構苦しい解釈だとは思いませんか。「三十種波羅密」とするのであれば、何故「右の十の記子」、「左の廿」と数えないのでしょうか。その上で「数取り珠」を加えて「卅即一珠」とするほうがすっきりすると思うのですが。まあ、五字七字に引っかけて5×2=10、7×3=21と言うことでしょうかね。

1189エル:2004/03/26(金) 16:04
愚鈍凡夫さん お返事ありがとうございます。

> この辺の処、どう思われますか。

いやですから、日因上人はなぜ矛盾した事を言われているのか、それが??な
のです。

で、愚鈍凡夫さんは、右手2房のかけ方をしてらっしゃる。私は逆で右手3房
です。まぁ、そのように指導をうけたから掛けているだけなのですが。(^^;

日因抄には、先代は皆作法に迷えりみたいな事が書かれてありますが、日因上
人は日寛上人より後ですから、先代のなかには日寛上人も入っているのですよ
ね。ある意味スゴいですね、この発言は。(^^;

1190愚鈍凡夫:2004/03/26(金) 21:19

エルさん今晩は。
結局、石山では数珠の掛け方は口伝として伝えてきたということでしょうか?
日蓮宗と逆なのは何故でしょうね。それぞれの珠の意義から言えば、日蓮宗の掛け方の方が理に叶っていると思うのですが。 (゜ペ)ウーン
いやはや小生が驚いたのは、真偽未決書とはいえ「戒法門」の文証に真っ向から喧嘩売ってるような記述ですね。ある意味、凄い度胸だと思います。 (・・;)

「日因云はく此の中の数珠経は金剛瑜伽念珠経の文なり而るに引文甚だ謬りなり、母珠を越ゆべからすの句之れ無し、又千万の二字之れ無し、又勢至経と云ふ経録に之れ無し、口伝に平形念珠経を引くなり。」(袈裟数珠の事)

「数珠教を引いて云く母珠を越ゆべからす驀過越法罪千万云云、此の経は金剛瑜伽の文なり、然るに不応越母珠の句之れ無し、又慎莫の二字を置いて而も千万の二字を加ふる甚だ謬りなり、但し録外御書四(四十五)数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は如せよ仏の、勢至教に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云、此勢至経の文何れに在りや、又数珠経に云はく不応越母珠等の二句之れ無し(更詳)、今之れを案するに義引なるべし、」(袈裟数珠の事)

とくるわけですから。

1191エル:2004/03/27(土) 11:14
愚鈍凡夫さん こんにちは

ようするに、日因上人は、母珠も数に入れて数えて、母珠にいきあたったら、
引き返さずに繰り越せ、そして、数珠を一巡しろ、それが正しいやり方だ。
と言われているのでしょうか。なんかそのように読めるのですが。(^^;

これが事実だと、犀角独歩さんが僧侶から教わったというやり方と、真っ向
から対立しますね。

> 結局、石山では数珠の掛け方は口伝として伝えてきたということでしょうか?

資料はあったが焼けたみたいなことが書かれてありますね。

> 「行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に
> 地獄に堕つべし、亦復母珠を超ゆること勿れ」(六巻抄当家三衣抄第六)

ところで、ここで述べられている「次第」とは何のことでしょうか?四菩薩
の事?

> 日蓮宗と逆なのは何故でしょうね。それぞれの珠の意義から言えば、日蓮宗の
> 掛け方の方が理に叶っていると思うのですが。 (゜ペ)ウーン

大石寺は日蓮宗と逆の持ち方をしてますね。という事は、日因上人の教えに
反してる?? 戸田城聖氏は右2房だったらしいですね。それで、一時期、
学会は大石寺と逆の持ち方をしていたらしいです。

1192愚鈍凡夫:2004/03/27(土) 12:22

エルさん、こんにちは。

> ようするに、日因上人は、母珠も数に入れて数えて、母珠にいきあたったら、
> 引き返さずに繰り越せ、そして、数珠を一巡しろ、それが正しいやり方だ。
> と言われているのでしょうか。なんかそのように読めるのですが。(^^;

そうではなくて、日因師は数珠経に「不応越母珠」の文は存在しないと言っているのだと思います。"母珠を超えろ"とは言っていないと思います。

>資料はあったが焼けたみたいなことが書かれてありますね。

言いたかったのは、統一されたマニュアルのようなもを代々伝えなかったのだろうかと言うことです。

日寛師がここで「次第」と言われているのは、エルさんが引用されている文証の前文の、

「夫れ数珠とは此れ乃ち下根を引接して修業を牽課するの具なり〜(中略)〜此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。」(当家三衣抄)

を指していると思います。
信者は、これらのことを良く理解して弁えなさいとの意味だと思います。

確かに、日因師の御指南を額面通り受け取ると、右手に3本房の方を掛けなさいと言っているように思いますね(珠の数からいって)。

右手に3本房を掛けるとして、「右の十の記子」が気になるんですが、これは「数取り珠」を指しているのでしょうか、それとも、「10大弟子」を指しているのでしょうか。どちらなんでしょうね。

1193犀角独歩:2004/03/27(土) 23:10

横レス失礼。

> 一子を過ごすべし

の「一子」は「一期」、すなわち、一期生のことであろうとわたしは読んできましたが、お二方いかがでしょうか。
間違ってますでしょうか?

1194エル:2004/03/28(日) 06:10

ちょっとググってたら以下の発言を見つけました。いやー、皆さん同じような
疑問を持たれてますね。

http://www.sfken.com/fujinomiya/pslg4083.html

でも、ここでも諸説いろいろあって、ハッキリとしたことは分かりませんでし
た。

1195愚鈍凡夫:2004/03/28(日) 13:02

犀角独歩さんのご質問の狙いが何処にあるのか分かりませんが、「一子」を小生も「一生涯」との意味ととらえています。

エルさんがご紹介下さったHPの4117に

> この中に、念珠の図が載っているのですが、なんと、左と右も房は2本!!!( 富士宗学要
> 集1巻 359ペ−ジ )
> 当時( 江戸時代後半 )の念珠が、今と違っていた証拠です。

とありますが、これは犀角独歩さんが>>1180に紹介下さった数珠のことだと思います。そうすると、日因師が「左二十珠即千万億の記子なり」、「左の廿一は千万億無数の記子なり」と記述しているのは何故でしょうか。
日因師の時代には、3本房が存在した証拠ではないかと思います。

1196愚鈍凡夫:2004/03/28(日) 13:06

訂正
絵の右側に20珠がきているので小生の勘違いでした。

(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ

1197エル:2004/03/29(月) 07:02

ざっと、まとめてみました。m(__)m

■数珠の7不思議

1、父珠をどちらに掛けるのが正しいのか。その理由は?
(文献には、父珠を右に掛けるということだけで、なぜ右に掛けるのかとい
う理由・根拠が明らかになっていない。

 虚空会の儀式に従えば、インドは右尊左卑だから右側が尊いこととなる。
御本尊をみても、釈迦は右側に位置している。我々から見ると左側。また、
右遶三匝の意もある。そのためか。)

2、そもそも、どっちを父珠と呼ぶのか。その理由は?
 (富要集の念珠の図は日因抄と反する。)

3、途中から1房増えたのは何故なのか。
(数取り用だからと云われているが、そもそも数珠は数取り用の意味も含め
て作られているのだから、新たに1房増やす理由にはならない。では、両
2房の時はどうしていたのか。)

4、房が増えれば当然珠の数も増える。
(日芳師は、左右の房の30珠は諸法の三千を現わすと云われているが、
現在は40珠で、すでにこの義は崩壊している。)

5、房の形が出家と在家で違うのは何故なのか?
(戸田氏は出家と在家の区別をするために左右逆転したと云われているが、
すでに房の形が出家と在家で違うわけだから、新たに逆持ちをする必要は
ない。それとも戸田氏の頃は房の形は同じだったのか。それとも、これは
作り話なのか。)

6、日興上人の七宝の数珠には房がついていない。荘厳念珠だからか。

7、繰っていて、母珠にたどりついたらどうするのか?
 (日因抄では、教典にそのような内容はないと云っている。)


ところで、日因抄には父珠という言い方は出てきませんね。二つとも母珠とい
う言い方をされてますね。

1198エル:2004/03/30(火) 14:33

また別の質問に参りました。よろしくお願いします。

大石寺では、江戸時代から客殿一カ所において五座の勤行が行なわれるように
なりましたが、それ以前は、以下のそれぞれの堂にて勤行が行なわれていたと
聞きます。

1. 天堂    初座
2. 本堂    二座
3. 御影堂   三座
4. 客殿    四座
5. 墓所    五座

で、質問なんですが、天堂にも御本尊が祀られていたのでしょうか?
それとも、堂の中は何もなく、今日の我々がするように、東天に向かって唱題
していたのでしょうか。 よろしくお願いします。

1199エル:2004/04/01(木) 17:01
大聖人から日興上人へ授与されたと云われる、以下の御本尊について教えてく
ださい。

執筆年月日 「文永九年大歳壬申正月元旦」
授与文   「問答第一行戒智徳筆跡付法の沙門日興に之を授与す」
所蔵    「要法寺」

これは、御真筆なのでしょうか? よろしくお願いします。

1200三学無縁:2004/04/01(木) 17:43
横レス失礼します。

さきほどまで独歩さんとお会いしていろいろと話していました。
その場でもビックリマークが互いに飛び交ったのですが、別れた後、連絡をいただき、さらにビックリということになりました。
ネットで公表可能かどうかの判断は独歩さんにお任せしたいと思いますが、石山はまさにビックリ箱の大蛇、誤変換です、王者でした。
鮮明な弥四郎マンダラの写真がないのが残念ですが、相貌・座配が活字化されたものだけでも大きく異なっていました。
もっともそのうちのひとつは、活字ではなく、古文書に記された相貌図なのですが。
謎が謎を呼ぶ、石山には明瞭なモノは皆無なのかもしれません。

あわてて途中下車し、ネットカフェに飛び込んで少々興奮しながらカキコしています。

1201犀角独歩:2004/04/01(木) 18:34

三学無縁さん:

先ほどはどうも有り難うございました。
いつもながら、蘊蓄には深く頷かせていただくと共に、今更ながらの新発見に時の経つのを忘れました。

それにしても、四半世、紀石山・学会問題に関わって来られた三学無縁さんに、ここまでびっくりしていただけるとお話のし甲斐もあろうという者です。まあしかし、「素朴な疑問」なんてものではないので、投稿するのであれば、該当するスレッドを選ばなければなりません。さてしかし、記してよいかどうか。

取り敢えず、先のお話の分析表はファックスします。
…私信を公開の場で失礼しました。
半分はわたし宛のレスト云うことでご勘弁ください。

それと「弥四郎マンダラ」、漢字で書けば「弥四郎漫荼羅」、たしかに造立者の名にちなんでいてこの記述はなかなか。わたしも使わせていただこうと思います。

1202れん:2004/04/01(木) 21:30
エルさん、初めまして。お尋ねの要法寺蔵の文永九年の曼陀羅は、私もお筆写真を見たことがないので分かりませんが、安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるものでしょう。この外要法寺には建治二年太才丙子正月元日、附法沙門日興授与之とある曼陀羅が伝承されていますが、これも真偽の問題があるものでしょう。あとは身延山に弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之とある蓮師曼陀羅がかつてあったそうです。こちらは、身延山で出した年表に出ているので、一応信頼してよいと思います。右参考まで。m(__)m

1203れん:2004/04/01(木) 21:47
エルさん。話が前後しますが、初座の天拝が行われていた天経は、上代では御堂としての立派な建物があるわけではなく、土を踏み固めた土壇が本体だったようです。主師の代に天堂が建立されたようです。初座は蓮師の時代から行われていたようで、身延山三世日進師の口述をまとめた「日進聖人仰之趣」に蓮師の逸話として「一、聖人ハ天ノ御為二番々ツモツテ老僧連二御経ヲ読セ玉フ二、ハヤク来ル者ヲハニクシト、ヲソクヨメト仰セラルル也云々」とのエピソードを伝えております。右ご参考まで。m(__)m

1204愚鈍凡夫:2004/04/01(木) 22:46

蓮祖には、外で三光天子を拝む信仰形態があったことが広く知られています。
清澄山における立教開宗の唱題誓願のときも、暗いうちから拝み始められ、まず月天・明星(虚空蔵)を、そして、昇りゆく日天を拝まれたと推察できます。

この三光天子を拝む信仰形態を記した文を遺文から引用すると、

「夜もひる(昼)も高き山に登て、日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。」(種種御振舞御書)

「御日記ニ云ク、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕させ給ふ事。〜(中略)〜日月天の四天下をめぐり給フは仏法の力なり。〜(中略)〜法華経の序品には普香天子とつらなりまします。〜(中略)〜日蓮モ又此ノ天を恃たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。」(四条金吾釈迦仏供養事)

「日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。」「日蓮モ又此ノ天を恃たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。」とあります。

1205犀角独歩:2004/04/02(金) 00:18

れんさん、愚鈍凡夫さんのご紹介にもあったとおり、蓮師に天拝思想があったように思えます。けれど、通日蓮宗の勤行にその名残は見られませんね。わたしが不思議に思っている点の一つです。

1206地名:2004/04/02(金) 03:56
「天を拝む」というのは、神道の方の関係からでしょうか。

1207地名:2004/04/02(金) 04:17
1200、1201について・感想

「弥四郎曼荼羅」というのは非常におもしろい表現です。

>相貌・座配が活字化されたものだけでも大きく異なっていた。
>もっともそのうちのひとつは、活字ではなく、古文書に記された相貌図なのですが。

三学無縁さんの、ここの部分の記述はかなり深い内容のような気がします。

1208地名:2004/04/02(金) 04:25
「天を拝む」について、

1186の七師外道さんの「現今、他門は云うに及ばす石山においても蓮祖、興尊の神佛義の会通は不可能であろう。」という記述、特に日蓮、日興の神佛義といわれるものとの関係について思いを致しました。

1209エル:2004/04/02(金) 09:06
れんさん はじめまして。

> 安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるもので
> しょう。この外要法寺には建治二年太才丙子正月元日、附法沙門日興授与之
> とある曼陀羅が伝承されていますが、これも真偽の問題があるものでしょう。

 なるほど、そうですか。しかし、両本尊とも元旦というのが気になりますね。
 私の記憶では、元旦のあとに日食とかの文字があったと思うのですが、定か
 ではありません。(^^;

 ところで、要法寺の建治二年の御本尊は現存しているのでしょうか?

> あとは身延山に弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之
> とある蓮師曼陀羅がかつてあったそうです。こちらは、身延山で出した年表
> に出ているので、一応信頼してよいと思います。

 わかりました。情報ありがとうございました。(^o^)

1210エル:2004/04/02(金) 09:11
れん こんにちは。

>上代では御堂としての立派な建物があるわけではなく、土を踏み固めた土壇
>が本体だったようです。主師の代に天堂が建立されたようです。

ということは、相撲の土俵のような感じだったのでしょうかね。私は、天堂の
本尊というのがあったと、かつて聞いた記憶があるのですが、建物のなかには
御本尊はなかったということですね?

>初座は蓮師の時代から行われていたようで、

ただ、日鎮上人の書かれた「堂参御経次第」という書物には、当時の勤行の様
子が書かれていて、天拝は初座ではなく二座に行なわれているのです。

-----------------------------------------------------------------
大永三年癸未 五月一日 夜の部
1、本堂   十如是・寿量品・題目百返
2、天御経  十如是・寿量品・題目百返
3、御影堂  十如是・寿量品・題目百返、再度、寿量品・題目三百返


大永三年癸未 五月二日 朝の部
1、御影堂  十如是・寿量品・題目三百返
2、天御経  十如是・寿量品・題目百返(祈念申候)
3、本堂   十如是・寿量品・題目百返(奉祈願候)
4、御影堂  十如是・寿量品・題目百返(祈念申候)
------------------------------------------------------------------

以上の順番となっています。これが疑問なんですよ。
驚くことに、夜も天拝を行っています。(@_@)

我々は、天拝は朝のみと教わりましたが、「初座 天拝 朝のみ」という形式
は、近年になってから生まれたものでしょうか?

日亨上人によりますと、五座三座の分配、十如是・寿量品長行・自我偈の区別
等の細目については、第九世日有上人が定められたと云われていますね。とこ
ろが、うえに述べた日鎮上人は日有上人より後の猊下です。初座天拝という化
儀は、承知徹底されていなかったのでしょうかね。

あと、江戸時代の頃は以下の順番だったと云われていますが、

1. 天堂    初座
2. 本堂    二座
3. 御影堂   三座
4. 客殿    四座
5. 墓所    五座

この中の、本堂にはどの御本尊が祀られていたのでしょうか?客殿は、今日の
ように御座替りの御本尊だと思うのですが。

1211エル:2004/04/02(金) 11:28
歴代法主全書を読んでみたいのですが、現在でも販売されているのでしょうか?

それとも、どこかに電子データとしてアップロードされてますでしょうか。

よろしくお願いします。m(__)m

1212犀角独歩:2004/04/02(金) 11:34

1208 地名さん:

わたしもこのような視点は重要だと思います。
日本は近代において2度の神仏分離を経ていますから、その都度、まるで法門・法式の解釈が変わってしまっていますね。明治の神仏分離令・廃仏毀釈、昭和20年以降尊皇国体の崩壊で佛教教団は脱神道で徹底されてきたわけです。
しかし蓮師の鎌倉時代から明治に至るまで神仏習合をさっ引いて仏教を論じることなどできようはずがありませんよね。

関連しますが、天堂は、れんさんがお示しのように露座土壇での天拝から変遷である可能性はあると思います。が、天堂というと、天主堂、あるいは天照大神の垂迹堂を意味する可能性もあると思うわけです。そうなると、諸天善神への法味供養という側面とは別個に尊皇感情と天照大神崇敬の意味合いがあったと類推したいことになります。ここら辺は戦後完全にスポイルされてしまっていますから、戦後世代にとって感覚的にピンとこないところはありますが、蓮師とその門下教学の祖型を掌握するためには通らなければならない部分でありながら、掌握が難しいところですね。七師外道さんのご指摘に頷けるところです。

1213犀角独歩:2004/04/02(金) 12:27

『富士大石寺明細誌』を見たところ、

「天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す神躰は板本尊。
 垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本尊。」

とありました。亨師によれば同書は「先師も曽て怪奇の書と貶せられた」というものでその証憑性は如何ばかりと判断しかねますが、天王堂の天王は大日天王・大月天王を言う如くで、垂迹は天照大神・八幡大菩薩(神)となります。

しかし、いまの石山感覚からすると「神躰」という語彙にぎょっとさせられます。
ここに「勧請」の2文字があり、板本尊とあるわけですから、特に日月天、天照八幡を特図するような漫荼羅であったのかと想像を逞しくしたくなります。

1214エル:2004/04/02(金) 17:08
愚鈍凡夫さん こんにちは

> 蓮祖には、外で三光天子を拝む信仰形態があったことが広く知られています。

> 「夜もひる(昼)も高き山に登て、日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。」(種種御振舞御書)

ですよね。私は、なぜ天拝が朝だけなのかが分からないのです。上記の大聖人
の御振舞を拝せば、夜の勤行の時も天拝をしてもいいと思うのですが。 実際、
日鎮上人の時は、夜のお勤め時も天拝を行っています。

やはり、朝のみは近代になってからなのでしょうか。

1215れん:2004/04/02(金) 19:19
エルさん。歴代法主全書ですが、正宗内ではまだ販売していると思います。エルさんが宗外の方でしたら、東京神田神保町の仏教関係の古書を扱っている東陽堂書店で、運がよければ買うことが出来ると思います。m(__)m

1216三学無縁:2004/04/02(金) 19:25
>1198 エルさん

私は次のように考えています。

天堂     日天・月天・明星天などの諸天善神を勧請。板マンダラには当然勧請されていない。
垂迹堂    天照大神・八幡大菩薩(神)を勧請。板マンダラには当然勧請されていない。
御影堂    御影に向かっての供養・おそらくマンダラは無し。
客殿     所謂「紫宸殿本尊」に向かって広宣流布祈願。
墓所     五輪塔に向かっての霊供。

石山の所伝によれば、御影堂で弥四郎マンダラを「御開帳」していた時代があります。
弥四郎マンダラは広宣流布までは秘仏として宝蔵に安置されていたわけです。では、この時、本堂はあったのでしょうか。あったとしたら、どのマンダラを掛けていたのでしょうか。
つまり日精時代以前は御影堂こそが本堂であった。これは「当宗の本尊日蓮聖人に限」るという有師の言から導かれます。
日精後、弥四郎マンダラを宝蔵に戻したでしょうが、そうすると石山にはマンダラを掛けた本堂がなくなってしまいます。
現に石山では正本堂まで本堂はなかったことになっているはずです。本堂と御影堂を別立したのは日精んらという気がします。
客殿の最も大切なお客様は、一般信徒ではなく皇家であります。そこに「御座替り」のマンダラを掛けては義儀ともに外れてしまいます。

歴代全書は市販されてはいません。某古本屋では15万円くらいの値段がついているのではないでしょうか。
ネットでは、nbさんのサイトにごく一部アップされていますが漢字の問題でテキスト化はWinでは困難でしょう。Macでは3水・4水までOKですからまだましですが。
ストレスなしに書いたり読んだりするには「超漢字」に乗り換えるしかありません。

>1202 れんさん

>安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるものでしょう。

真偽問題のほかに、寺院側で写真撮影は不敬と考え許可しなかった、というケースもあります。
また、不敬とは言わずとも、寺宝として御開帳以外には一般公開しない、という考え方もありました。
安国会の御本尊集に収録されているマンダラだけが真筆、というわけではありませんし、収録されているマンダラでも疑問視されているケースが少なからずあります。

>1206 地名さん

>「天を拝む」というのは、神道の方の関係からでしょうか。

それもあるでしょうが、日蓮・日興のスタンスに淵源を求められるのではないでしょうか。また、要法寺の影響も十分に考えられると思います。


>1213 独歩さん

>ここに「勧請」の2文字があり、板本尊とあるわけですから、特に日月天、天照八幡を特図するような漫荼羅であったのかと想像を逞しくしたくなります。

逆に「日月天、天照八幡を」図示しない、ということは考えられませんか。勧請したうえにマンダラにも勧請されていたら二重勧請ということになります。

朝拝は日天拝で日の出と共に、月天拝は本来夜拝ではなく夕拝で日没と共に、と老僧が昔言われたのを聞いたことがあります。
文献的な根拠があるのかどうかはわかりませんが、丑寅勤行は明星・北斗七星への祈願拝ということのようです。

1217犀角独歩:2004/04/02(金) 19:38

三学無縁さん:

ちょっと言葉の使い方がわからないのです。
漫荼羅に図顕せず、勧請するというのは具体的にどのようになるのでしょうか。

かんじょう くわんじやう 【勧▽請】
(名)スル
(1)神仏の来臨を請うこと。
(2)神仏の分霊を他の場所に移しまつること。宇佐神宮から分霊を迎えて石清水八幡宮をまつったことなどはその例。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

1218三学無縁:2004/04/02(金) 20:01
>独歩さん。

>漫荼羅に図顕せず、勧請するというのは具体的にどのようになるのでしょうか。

はいはい、つまり本尊の勧請方式で、マンダラの前に祖師像を置く方式がありますよね。
それと同じで、諸天善神を後ろに勧請し、前にマンダラを配する、と考えるわけです。
独歩さんが引用された文からは、そのように考えることが自然であると思われます。
正宗教学的には思いつきませんが、その予断を抜きにして考えると、そういうことになるのではないでしょうか。

1219エル:2004/04/02(金) 20:19
れんさん こんにちは

> 歴代法主全書ですが、正宗内ではまだ販売していると思います。
 
そうですか。ただ、書店経由では購入できないのですよね? 大石寺か富士会
館まで行かないと売ってくれないのですよね?

> エルさんが宗外の方でしたら、東京神田神保町の仏教関係の古書を扱ってい
> る東陽堂書店で、運がよければ買うことが出来ると思います。

 こちらもあたってみます。情報ありがとうございます。(^o^)

1220れん:2004/04/02(金) 20:35
三学無縁さん。返レスありがとうございます。仰ることは重々承知しております。安国会版御本尊集には掲載されていない蓮師の曼陀羅もまだまだありますでしょうし、反対に御本尊集に掲載されていても真偽の問題があるものもあることは承知しております。ただ要法寺蔵の曼陀羅はNO.58が安国会版御本尊集に収録されており、それ以外の要山蔵の蓮師曼陀羅が収録されてないのは、実見された山中師らによって真偽の問題があるものと判断されたと見るのが至当と存じましたので、あのようにレスした次第です。m(__)m

1221三学無縁:2004/04/02(金) 20:54
れんさん。
いえいえ、れんさんは当然ご承知のことと思っていました。れんさんを批判するつもりは毛頭ありませんでしたが、私の舌足らずのためご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。
心からお詫び申し上げます。
私としては、こちらの掲示板をロムしている方たちのなかにも、あまり事情をご存じない方たちもおられるでしょうから、蛇足のようではありましたがカキコさせていただきました。
本尊集に収録されたものに対する偽作の論評は大昔ですが、当時立正佼成会教学部長だった鴨宮成介氏が複数のマンダラを偽作と主張していたと記憶しています。
日蓮宗のひとたちは他の寺院に対して営業妨害になるような言動はしませんが、本尊集収録のマンダラについてプライベートな場ではいろいろと仰っているようでもあります。
また日蓮宗の有名な寺院にもいくつか真筆と鑑定され尚且つ未収録・未公表のマンダラがあるようです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

1222れん:2004/04/02(金) 20:55
それから蛇足ながら、石山十四世日主師筆の大石寺図絵を見ますと、本堂を中心に右に天経、左に御影堂が記されており、十四世日主師の代までは石山では本堂と御影堂が別棟であったことが判明します。その後、精師の代に焼失したそれまでの本堂・御影堂を一つにして「本門戒壇本堂」(精師筆棟札、今の御影堂)が新たに建立されています。精師が「本門戒壇本堂」建立当初は弥四郎曼陀羅を安置した様ですが、天和年間に弥四郎曼陀羅は宝蔵に戻され、現在は精師が開眼した蓮師筆曼陀羅の摸刻板曼陀羅を安置しているとのことです。m(__)m

1223三学無縁:2004/04/02(金) 21:09
れんさん。

>主師筆の大石寺図絵を見ますと、本堂を中心に右に天経、左に御影堂が記されており、十四世日主師の代までは石山では本堂と御影堂が別棟であったことが判明します。

じつはこのことがわからないのです。
石山の所伝では、本堂建立は「三堂一時」ということだったと思いますが、建立時期はいつごろまで遡れるのでしょうか。
しかも「三堂一時」は広宣流布の時、ということではなかったでしょうか。
かりに当時本堂があり、そこに弥四郎マンダラが安置されていたとしたら、それは非信徒にも公開されていた、ということになります。
石山では達師の言にあるように、広宣流布の時までは謗法多きゆえ公開しないとされていたはずですが、これについてはどのように考えるべきでしょうか。
石山本堂の初見についてもご存知であればぜひお教え下さい。

1224れん:2004/04/02(金) 21:11
訂正。
誤)精師が「本門戒壇本堂」建立の当初は
正)精師が「本門戒壇本堂」を建立した当初は

三学無縁さん。日蓮宗の有名寺院所蔵で蓮師真蹟と鑑定されながら「御本尊集」等では未公開の曼陀羅が存するとのこと、ご教示ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願い申し上げます。m(__)m
エルさん。歴全は宗内では信仰・教学が進み末寺住職に認められた檀徒さんにのみ購入が許されます。ですから宗外では東陽堂が一番確実でしょう。m(__)m


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