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近現代史綜合スレ

38magenta:2004/12/18(土) 15:19
>>36
実は私、元参院議員の萱野茂氏の主張にはかなり共感しているんですね。
(二風谷ダム問題など)
排除の論理に陥らず独自の文化を残していくのが望ましいというのが主張の中にあったはずです。

39名無しさん:2004/12/18(土) 17:45
>>36,38
北海道は日本の「植民地」ですから…
アメリカインディアンやアボリジニらと同様に、
収奪した土地に対して返還や補償をするのが本来はスジなんでしょうけどね。

40とはずがたり:2005/01/05(水) 18:45
安全保障スレや政治思想スレにも関連しそうだが取り敢えず現代史と云う事でこちらに。

【南京大虐殺関連資料】

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/535/1038323808/405-406
カマヤンさんとこから転載

405 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 05:48

↓このサイトを作った方を、褒め称えます。すげえ大変なんだ、こういう作業は。

南京事件資料館
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/
★このホームページの目的
* 「南京事件はでっちあげ」という主張を,一次資料に基づいて検証します。
* 「歴史修正主義」に反対する人に,一次資料を提供します。
* 「自由主義史観」が欧米の「歴史修正主義」の日本版に過ぎないことを検証します。

資料一覧
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/sub1.html

南京事件論争史
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/ronso_history.html

南京事件FAQ
http://www5.tok2.com/home/JOHNVOID/nankin_faq.html


406 名前: カマヤン 投稿日: 2004/12/02(木) 06:15

南京事件の真実
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ  

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/

41とはずがたり:2005/01/05(水) 19:03
>>40
厳然として日本軍の虐殺はあったのだ。
大東亜戦争中のアメリカの日本市民への無差別空襲や広島と同じく。

中国や朝鮮が謝罪と賠償を要求し続けるのはただ一つ自民党政治家が戦後続けてきた妄言のせいであるに尽きる。
なんであんな昔の事でギクシャクしなければならないのか,国益を損ねる莫迦な発言を発信し続けた売国奴・国賊の自民党政治家どもの猛省を促したい。

42とはずがたり:2005/01/14(金) 10:11
おお,鮎川義助の孫!名門鮎川家の御曹司が44迄独身でいいんかね?×1?

杉田かおる極秘挙式で逆転勝ち
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050114-00000031-nks-ent

 自称「負け犬女の代表」が、チョ〜玉のこしに乗っちゃった。女優杉田かおる(40)が、日産グループ創始者、故鮎川義介氏の孫で投資会社「テクノベンチャー」の鮎川純太社長(44)と電撃結婚していたことが13日、分かった。ファクスで、11日に入籍を済ませたと報告。12日夜には都内で挙式・披露宴も行った。男と酒が大好きで借金持ち…大胆奔放な発言で世間を楽しませてきたが、名家の御曹司を射止めて人生を一発大逆転した。
 杉田は、結婚発表ファクスに「ウソのような本当の話」とつづった。「今までも、ドラマチックな人生を歩いてきた、私らしいと受け止めていただけましたら幸いです」。文面から、御曹司との結婚に、自分も驚いている様子が浮かんだ。
 あけっぴろげなキャラだが、人生最大の勝負のとき。慎重にコトを運び、見事着地させた。公には結婚話は12日に浮上。杉田はほとんど姿をみせず、珍しく沈黙を守った。杉田の母親も13日、都内の自宅でインターホンで「はっきりしたら娘が説明すると思います」と話しただけ。夕方にファクスを流したが、会見予定もない。鮎川氏も12日から、取材対応せず。テクノベンチャー社も「連絡がつきません」と繰り返した。
 しかし、2人は、杉田が11日朝に週刊誌の直撃取材を受けると、その日のうちに入籍。12日夜には都内でごく内輪だけで挙式・披露宴を行っていた。披露宴のもようを撮影したTBS「中居正広のキンスマ」によると、杉田や妹が号泣し、鮎川氏は「これまで本当に頑張ってきたこの3人の家族ですが、これからは自分が加わり、4人でやっていきます。どうぞよろしくお願いします」とあいさつしたという。くしくも同番組のスポンサーの1つは日産自動車。
 関係者によると、昨年8月、杉田が100キロマラソンに挑戦した日本テレビ「24時間テレビ27 愛は地球を救う」の打ち上げに、鮎川氏の姿があり、ワインを持参して、完走を祝っていたという。ちなみに同番組のスポンサーの1つも日産自動車。
 杉田なりに、世間への地ならしはしていた。昨年12月、著書「杉田かおる語録」の発売イベントでは「新しくできた恋人と別れました」と発言し、“その男性”とは100キロマラソン走破直後の昨年9月から交際し、3カ月で破局したと説明。一方で「来年は玉のこしに乗ります。今年で負け犬は終わり。来年は勝ちに行きます! 」と宣言していた。3カ月で破局したと言った相手が実は鮎川氏だったのでは、とも言われている。
 波瀾(はらん)万丈の半生だった。名子役として国民的人気になる一方で、私生活は10代から荒れた。両親の離婚、借金地獄も味わった。酒におぼれ、けんかを繰り返し、仕事もうまくいかず、恋も成就しなかった。しかし、30代半ばからはそれを逆手に取って「負け犬」になりきり、再び上昇機運に乗った。昨秋には、母親、妹と暮らしていた郊外から、都心の高級マンションに転居。事務所の倒産で抱えた借金も、返済のめどがついたといわれる。
 そしてついに負け犬人生と決別。杉田は結婚後も仕事を続ける。今度はどんな顔をみせるのか。セレブ・キャラに変身しちゃうのか。まだまだ楽しみだ。
(日刊スポーツ) - 1月14日9時23分更新

43とはずがたり:2005/01/14(金) 18:09
2005年01月13日(木)
杉田かおる玉の輿、日産コンツェルン御曹司の評判
http://news.goo.ne.jp/news/fuji/geino/20050113/20050113-f-21.html?C=S
(夕刊フジ)
 大ヒット曲「鳥の歌」をリリースし、最近は“負け犬”キャラとして人気の女優、杉田かおるさん(40)の結婚話が急浮上してきた。お相手は日産グループ創始者、鮎川義介氏の孫というのだから仰天だ。事実なら、それこそ“玉の輿”だが、財閥創業者の直系に当たる御曹司の評判は−。

 「義介氏は昭和初期の超大物です。そのお孫さんが、杉田さんと結婚ですか?! 最近は、鮎川一族の話など聞いたことがないから、大物の亡霊が出てきた感じだ」。財界関係者は驚く。

 杉田さんの結婚情報を“仰天スクープ”として掲載した週刊文春が「超玉の輿婚」と報じた相手は、ベンチャー企業向け投資などを行う『テクノベンチャー』会長兼社長、鮎川純太氏(44)。

 同社は、東京・築地本願寺近くの10階建て雑居ビルの4階にある。周辺には米穀店や青果店が立ち並び、下町の風情が残る。受付電話で、純太氏に面会を求めたところ、女性社員から「社長は不在です」との答えが返ってきた。

 普段から多忙で、あまり出社しないという純太氏の社長としての仕事ぶりには、「守秘義務がありますので…」と口を閉ざした。

 杉田さんとの婚約話について、社員らは12日、初めて知ったといい、「マスコミの問い合わせが殺到しているが、答えようがない」と困惑を隠せない様子だった。

 一躍、脚光を浴びることになった純太氏は昭和35年、米ボストン生まれ。成蹊大学経済学部卒業後、ボストンのマサチューセッツ工科大学経営大学院を修了。平成元年に山一証券入りし、4年2月から現職を務める。

 純太氏の友人は「山一時代、M&Aを担当し、仕事はそつなくこなしていた。お坊ちゃまタイプでなく、芯のしっかりした男だった。米国にもハイレベルな人脈がある」と話す。

 同誌によると、「中肉中背で、端整な顔立ち」「趣味は狩猟と日本刀の収集」というから、一般人とはケタが違う。

 信用調査会社によると、同社は昭和24年創業。業界内全国2648社中928位、社員7人、昨年12月期の売り上げは6億円と、それほど大きな会社ではない。

 だが、「超玉の輿」とされるのは、理由がある。純太氏は、日本史の教科書にもその名前が載っている「日産コンツェルン」を一代で築いた鮎川義介氏の孫に当たる超一流の大御曹司なのだ。

 「最近は、経団連で、ベンチャー投資の講演で講師として招かれるなどの活躍もしている」(関係者)。同社の大株主にも新日鉱ホールディングス、日立製作所、日産自動車など、かつてのコンツェルン内企業がズラリと並ぶ。

 祖父・義介氏の長男が、純太氏の父、弥一氏にあたり、弥一氏の弟は参院議員も務めた鮎川金次郎氏。「弥一氏が本邦初のベンチャーキャピタル企業としてテクノベンチャー社を創設し、純太氏が後を継いだ」(同)

 義介氏の大叔父は井上馨元外務相、純太氏の母方の祖父も宮内庁の侍従長を務めた人物。親族には日立製作所の創業者らがおり、家系は折り紙付きだ。

 そもそも、日産コンツェルンは日本15大財閥の1つ。第一次世界大戦後から昭和初期までに台頭した新興財閥で、日窒や理研などとともにコンツェルンと呼ばれた。

 不況で経営危機となった久原財閥を引き継ぐ形で誕生した日産コンツェルンは昭和13年、政府の要請もあって満州に移転。満州重工業開発株式会社として、満州鉄道に代わる重化学工業をほぼ独占支配した超大物企業だった。

 「戦後の財閥解体でコンツェルンは解散されたが、その後も日産や日立などグループ企業の結びつきは強く、『春光懇話会』という親睦・情報交換会があります」(財界関係者)

 12日、結婚話について口を閉ざした杉田さん。昨年末は、「負け犬は今年で終わり。来年は勝ちにいきます。玉の輿を狙います」と宣言していただけに、2人の今後が注目される。

44とはずがたり:2005/01/21(金) 00:21
日本との断交も視野 朴大統領暗殺未遂で韓国が文書公開
http://www.asahi.com/politics/update/0120/004.html

 韓国外交通商省は20日、74年8月にソウルで朴正熙(パク・チョンヒ)大統領(当時)が在日韓国人青年に銃撃された暗殺未遂事件(文世光事件)に関する外交文書を公開した。犯人が偽造の日本旅券で入国した上、日本の警察から盗んだ短銃が使われたため日韓関係は極度に悪化。韓国側が断交まで視野に入れて、日本側に特使派遣などを強く求めた当時の状況が明らかになった。

 文書は韓国政府の公電や日米との会談記録、捜査関連資料など計15件、約3000ページ。作成後30年たった外交文書を公開する情報公開原則に基づいて開示された。

 朴政権は対日世論の悪化を背景に、事件に対する日本の謝罪と韓国側捜査で関連が指摘された在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)など北朝鮮関係団体の取り締まりを強く日本政府に要求。佐藤栄作元首相、大平正芳元外相、椎名悦三郎元外相ら「大物級」特使が田中角栄首相の親書を持参するよう求めた。

 日本の国民世論を背に「謝罪特使と思われる」と渋る日本側に韓国の態度が硬化。同年9月5日には金東祚(キム・ドンジョ)外相が駐韓米大使代理と会い、「日本が誠意ある措置をとらなければ韓国としても国交断絶、大使召還まで含む措置を考慮せざるを得ないだろう」と述べ、「田中首相か木村(俊夫)外相に米側の関心を表明して影響力を行使できないか」と持ちかけた。

 だが、韓国の要求に対し米側は最後まで「等距離」を強調し、日韓に冷静な対応を促した。

 結局、椎名氏が特使を受諾。同年9月19日に訪韓して遺憾の意を表明するとともに田中首相の親書を朴大統領に手渡し、政治決着した。

   ◇

 〈文世光事件〉 74年8月15日にソウルで起きた朴正熙・韓国大統領暗殺未遂事件。偽造旅券で入国した在日韓国人の文世光・元死刑囚が、独立記念式典で演説中だった大統領に向かって短銃を発砲。大統領は無事だったが、壇上にいた陸英修夫人が被弾して死亡した。韓国政府は「北朝鮮の指令を受けての犯行」と発表した。元死刑囚は同年12月に刑を執行された。

(01/20 12:03)

45とはずがたり:2005/01/21(金) 00:23
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1043205301/772-780
日本植民地支配の徴用 「韓国政府が個人補償」 外交文書
日韓条約交渉文書、一部を初公開=韓国での個人補償問題に影響も
−日本と朝鮮半島関係資料集
など

46とはずがたり:2005/01/23(日) 00:31
日本側の朝鮮総連への腰の引けた態度が目に付く気がするが。。
しかし王道楽土の社会主義建設を進めていた北朝鮮と軍事クーデターで政権簒奪の韓国ではねぇ。

文世光事件:韓国政府・外交文書公開 日韓捜査に食い違い
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20050121ddm007030045000c.html

 ◇韓国側、不満あらわ−−「総連への捜査を忌避」

 【ソウル堀信一郎】20日公開された文世光事件の外交文書のうち、韓国法務省の資料で、両国の捜査結果の食い違いが浮き彫りになった。特に焦点の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関与について韓国側は「日本は朝鮮総連の捜査を忌避している」と指摘し、日本側の捜査姿勢に不満をあらわにしている。事件発生から死刑執行まで、わずか4カ月。文書が公開されても、謎は残されたままだ。

 ◆指令があったか

 文元死刑囚がいつどのように犯行を決意したかについて、韓国側は「73年9月に朝鮮総連地方幹部が指令した」と断定。一方、日本側は「73年9月初めに在日本韓国青年同盟が8・15朴政権打倒のスローガンを掲げた時」とし、単独で決意したと結論づけている。

 ◆贈答の意図は?

 日韓とも文元死刑囚が朝鮮総連地方幹部から朝鮮ニンジン酒などを受け取っていたことを突き止めている。しかし、韓国側が同時に「革命のために努力しろというメッセージ」が伝えられたと明らかにしているのに対し、日本側は「異例なことではあるが、それ以上の関係は不詳」と結論付けた。

 ◆謀議はあったか

 韓国側は「朝鮮総連の指示により、地方幹部が文氏を扇動し、朴大統領狙撃や韓国政府転覆、共産革命を謀議した」と当時書類送検された朝鮮総連地方幹部との謀議を明確にしている。だが、日本側は「(同幹部による)狙撃教唆や陰謀の確証はない。同幹部を被疑者とみる捜査はできない」と共謀性を否定した。

 ◆資金協力は?

 韓国側は「74年5月中旬、文元死刑囚が朝鮮総連の地方幹部に犯行計画を報告し、7月25日に同幹部から現金80万円を受け取った」と断定した。日本側はこの地方幹部を資金提供者とは決めつけず、「マエダ」という名の正体不明の人物が75万円の犯行資金を提供したと推定している。

 ◆入院の理由は?

 文元死刑囚は74年2月に東京都内の病院に入院したが、韓国側は費用29万円を朝鮮総連の地方幹部から受け取り、「偽装入院した」と断定。「入院中に共産主義教育と狙撃要領の訓練を受けた」と結論づけた。日本側は入院費用の出所は不明としながら「病室は7人部屋のため、特別学習には適さない」と偽装を否定した。

 ◆万景峰号乗船の目的

 文元死刑囚は事件前、大阪港に停泊中の北朝鮮の万景峰(マンギョンボン)号に乗船していた。韓国側は「74年5月3日、文氏は朝鮮総連職員の案内で万景峰号に乗船し、北朝鮮の工作指導員から朴大統領の暗殺指令を受けた」と断定した。日本側は「日時は未確認だが、乗船したことは明白だ」としながらも、北朝鮮の指令伝達には触れていない。

47とはずがたり:2005/01/23(日) 00:32

 ◇米通じ対日圧力−−韓国

[ソウル堀山明子] 韓国政府が公開した文世光事件の外交文書では、朴正煕(パクチョンヒ)政権が朝鮮総連に対する取り締まりを日本に実施させるため、米国カードを使って圧力をかけようとする外交戦略の実態が浮き彫りにされた。事件の背後に北朝鮮の指示と朝鮮総連の協力があったとみる韓国は、朝鮮総連に対する規制を最大の外交目標にしていた。

 韓国外務省作成の狙撃事件特別外交計画案(8月26日〜9月15日)によると、韓国政府は、対日外交の重点として▽強制捜査の催促▽日本の陳謝▽犯罪人引き渡し▽朝鮮総連など反韓国団体の活動抑止−−と明記したリストを作成していた。

 さらに実行された項目の横には手書きで日付が書かれており、「日本側の態度に我々政府が納得できない場合、強硬な対日抗議を行うとの文書を発送」の横には椎名悦三郎自民党副総裁が特使として訪韓する直前の「9月14日」の日付があった。別の文書には日本が朝鮮総連に対する規制を取らない場合、国交断絶も含めた5段階の対抗策を講じるシナリオが記されており、こうした韓国政府の強い意思を日本側に伝えたとみられる。

 同計画案の対米課題には「米国政府要人を通じた対日圧力交渉」という項目があり、▽外相の訪米▽米国要人への直接説明▽駐米大使への特別訓令−−などのリストが挙げられ、9月中旬の日付が書かれていた。

 また、9月9日作成の対日交渉対策案によると、米国を通じて対日圧力をかけた経過について、▽外相が米国大使代理にわが国の理解と支持を求める(9・2)▽駐米大使に米国が対日影響力を行使するよう、交渉を指示(9・3)▽フォード米大統領、キッシンジャー米国務長官が訪米する日本の首相と外相に影響力を行使するよう、駐米大使に特別交渉を指示(9・3)−−と、日誌形式で掲載されている。

 日韓両国は当時、9月19日に再発防止のテロ対策で合意する方向で田中角栄首相の親書を作成中で、朝鮮総連規制をどこまで明記するかをめぐり攻防を続けていた。韓国政府は、田中首相が19日に訪米する計画である点に着目。米国を通じて、朝鮮総連への規制が具体的に確約されるよう働きかけていたとみられる。

 ただ、当時のフォード米政権は、日韓関係の悪化は北東アジアの安保体制を弱体化させると懸念しており、むしろ仲介役となって日韓関係改善を促していた。韓国の駐米大使から外務省への9月11日付公電は、米国務次官補から「韓日間の事態に深刻な関心を持っており、早く事態を収拾するよう要請された」と報告している。

 ◇最後に「バカでした」−−文・元死刑囚

[ソウル堀信一郎] 文世光元死刑囚は、1審(74年10月19日、死刑判決)、2審(同年11月20日、控訴棄却)とも起訴事実を認め、12月17日の大法院(最高裁)で上告を棄却され死刑が確定。12月20日に死刑が執行された。文元死刑囚は公判の中で自分の思想を語り、最後には「バカでした」と悔いながら死刑台に消えたという。

 韓国紙「朝鮮日報」出身の金泰浩(キムテホ)氏の著書「終わらない審判」(韓国・三民社)によると、文元死刑囚は「いつから共産主義思想を持ち始めたのか」との裁判官の質問にはこう答えている。

 「高校1年の時からだ。韓国人なので民族差別を受け、べっ視された。こうした民族的なコンプレックスを解消するために共産主義の本を読んだ」

 公開された外交文書「狙撃事件の真相と背景」によると、文元死刑囚は、高校在学中から「共産党宣言」「金日成(キムイルソン)選集」「毛沢東語録」など共産主義関係の本を読んだ。

 その過程で、日本の資本主義社会構造と、在日韓国人の不満を解消するには、全世界が共産主義社会になることだという考えに至ったという。高校2年で中退する際には「勉強すべきことは全部した。だからやめる」と話していたという。

48とはずがたり:2005/01/23(日) 00:33

 1審の判決公判によると、死刑の代価を払うことになった、国立劇場での狙撃はわずか7秒間の出来事だった。▽座席で銃を取り出そうとして1発目が誤発▽通路に移動して舞台に向かい、約20メートルの距離から撃った2発目は演説台に当たった▽舞台に近づいて発射した3発目は不発▽約18メートルの距離から発射した4発目が、陸英修(ユクヨンス)夫人に命中▽聴衆の足に引っかかって倒れながら発射した5発目は演壇後ろの国旗に当たった−−と明らかにされている。移動距離は約19メートルだった。

 死刑場には、たばこ、コーヒー、麦茶が用意されていた。「私はバカでした。韓国に生まれていれば、こんな罪を犯さなかった。朴大統領に心から申し訳ないと伝えて下さい。国民の皆さんにも申し訳なかったと伝えて下さい。(死亡した)陸女史と(流れ弾に当たって死亡した)女子学生の冥福をあの世に行っても祈ります。だまされて過ちを犯した私がバカで、死刑になっても当然です」

 死刑執行直前の言葉は、嗚咽で何度も中断したという。

 ◇事件の74年、南北朝鮮の対立が先鋭化−−韓国で民主化闘争、激しさ増す

 文世光事件が起きた74年は、南北朝鮮の対立が先鋭化する一方、韓国では朴正〓大統領の「維新体制」に反発する民主化闘争が激しさを増していた時期だ。

 韓国と北朝鮮は72年7月、自主・平和・民族大団結をうたった「南北共同声明」を発表した。しかし、南北分断後、初めて政府間レベルで行われた対話と交流は、統一への希望どころか双方の体制固めの転機になった。

 韓国は水も漏らさぬ北朝鮮の強力な統治体制に驚き、北朝鮮は韓国の発展ぶりに危機意識を募らせた。朴政権は「南北対話を進めるため総力体制を準備する」と非常戒厳令を宣布、国会を解散させ、同12月、維新憲法を公布した。強大な権限が大統領に集中し、言論・政治活動が厳しく制限された。

 一方、北朝鮮も新憲法を制定し、金日成氏が新設された国家主席に就任した。南北とも独裁的な支配が強まった。

 朴政権の強権政治は、日本社会も巻き込んだ。朴大統領の政敵、金大中氏は非常戒厳令宣布により、帰国を断念し、日本など海外で民主化闘争を展開したが、73年、滞在中の東京のホテルで、韓国の情報機関に拉致された。金大中事件である。

 同事件に絡め、北朝鮮は、南北対話を忌避する姿勢を鮮明にした。統一への展望が失われつつある中、韓国では学生運動が活発化し、維新体制撤廃運動が行われる。朴政権はこれに徹底した弾圧でのぞみ「政府転覆を企図した」として学生、知識人らを連行・起訴する「民青学連事件」(74年)が起きている。

 韓国政府は、日本で「金大中救援運動」など「反朴運動」を展開していた在日韓国人組織に対しても敵意をむき出しにした。「日本が北朝鮮の対南工作の中継基地」と警戒心を強め、在日韓国人留学生や研修生を次々とスパイ容疑で逮捕した。「在日社会」では、朴政権の強権政治に動揺、危機感を深める在日韓国人青年が多かった。

 文世光事件は、金大中事件の翌年に起きた。当時の韓国・捜査当局の発表によると、文世光・元死刑囚も「金大中救援運動」を行っていた。

 70年代、朝鮮半島情勢は、南北共同声明の「明」から金大中事件、文世光事件へと暗転する。この二つの事件を機に南北朝鮮の対立は決定的になった。北朝鮮による日本人拉致事件が多発するのは、文世光事件から数年後のことだ。[薄木秀夫]

49とはずがたり:2005/01/23(日) 00:33

 ◇「北朝鮮の関与、不思議でない」−−小此木政夫・慶応大教授

 私は「文世光事件」が起きた1974年8月15日の朝、2年間の韓国留学を終えて帰国したのだが、当時は、朴正煕政権が厳しい国際情勢の中で必死に生き残りを図ろうとしていた時代だった。翌75年にサイゴンが陥落した時には「いずれ韓国も北朝鮮に解放されてしまうかもしれない」という危機感があふれていた。

 米ソ緊張緩和(デタント)の影響を受けた南北対話も73年には終わり、南北対立は激化した。南北は激しい体制間競争を行っていたし、同年の金大中氏拉致事件で韓国の国際的な評判は地に落ちていた。北朝鮮側には、朴政権を倒しさえすれば北朝鮮主導で統一できるという発想があったのではないか。韓国側捜査結果のように、北朝鮮がこうした事件を起こしたとしても不思議ではない。

 日本と朝鮮半島の関係では、韓国が65年の日韓国交正常化以降、日本の資金を導入して経済発展を始めていた。北朝鮮とすれば、日韓関係にくさびを打ち込み、韓国の経済発展をなんとか止めなければならないという発想があったのではないか。

 そうした観点から見れば、在日韓国人である文世光元死刑囚を使ったのは、暗殺に失敗しても日韓関係を壊せるという思惑があったかもしれない。その点では、ある程度成功したともいえる。

 事件後の日韓関係を悪化させた(「北からの脅威はない」という)木村俊夫外相の発言は、一種のデタントぼけだろう。当時の田中政権内のデタント派は「日中国交正常化の次は北朝鮮だ」程度の認識で、朝鮮半島で深刻な闘争が行われているとは考えていなかったのではないか。だから、朴政権が朝鮮総連取り締まりを要求しても、「それは行きすぎだ」という話になった。

 今回の外交文書からは、韓国側の認識を改めて確認できる。だが、韓国側の文書だけでは日本側の見方がはっきりと分からない。日本も早く関連文書を公開すべきだ。[澤田克己]

 ◆文世光事件関連の動き(すべて1974年)◆

 7・18 大阪市の派出所から拳銃盗まれる
 8・15 文世光事件。韓国大統領夫人が死亡
   16 大阪府警、偽造旅券取得に協力した疑いで日本人女性を逮捕
   17 韓国、北朝鮮工作員と朝鮮総連関係者に犯行を指示されたという「自供」内容を発表
      朝鮮総連、関与否定の談話発表
   18 「自供」で名指しされた朝鮮総連関係者が「韓国発表は根拠がない」と否定会見
   19 大統領夫人の国民葬に田中角栄首相出席
      日本、日韓首脳会談で捜査協力を約束
      北朝鮮、「事件は朴政権延命のための陰謀」と反論
   20 韓国首相が演説で「日本に責任ないと言えぬ」と主張
   27 韓国が捜査結果を発表
      韓国外相、国会答弁で対日政策で「最大の覚悟」と言明
   29 木村俊夫外相、参院での答弁で「(朝鮮半島において)北朝鮮からの脅威はない」と発言。この発言で、韓国の反日デモが激化
   30 朴正〓大統領、駐韓日本大使に「(事件は)日韓関係に重大な影響与える可能性ある」と通告
 9・ 6 デモ隊の一部がソウルの日本大使館に乱入
   19 椎名悦三郎・自民党副総裁が特使として訪韓
10・ 7 ソウル地裁で初公判
   19 ソウル地裁で文世光被告に死刑判決
12・17 上告棄却で死刑確定
   20 死刑執行

 ◆事件前後の国際情勢◆
1961・ 5    朴正〓少将が軍事クーデター
  65・ 6    国交正常化の日韓条約締結
  68・ 1    北朝鮮武装ゲリラがソウル侵入
  70・ 3    「よど号」ハイジャック事件
  71・10    中国が国連加盟
  72・ 2    ニクソン米大統領が訪中
      5    米ソが第1次戦略兵器制限条約(SALT1)調印
      7    統一に関する南北共同声明
      9    日中国交正常化
     12    韓国、大統領権限強化の「維新憲法」公布
  73・ 8    金大中氏拉致事件
      9    金正日氏が労働党書記に
  74・ 2    北朝鮮、金日成主席後継者に金正日氏指名
      8    文世光事件
  75・ 4    サイゴン陥落し、ベトナム戦争終結
      7    日韓外相会談で金大中事件に政治決着
  78年ごろから? 北朝鮮が日本人を拉致
  79・10    朴正〓大統領暗殺される
  83・10    全斗煥韓国大統領狙ったラングーン爆弾テロ事件
  87・11    大韓航空機爆破事件
毎日新聞 2005年1月21日 東京朝刊

50とはずがたり:2005/01/23(日) 00:37
【文世光事件】>>46-50

日本人の在日韓国朝鮮人への差別意識がこの事件の遠因にあるとするならば我々日本人は日本人の名誉のためにこういう差別意識を持った日本人同胞を莫迦にし差別せねばなるまい。。
・・って差別する方もなんらかのコンプレックスを抱いているのだろうし在日問題や同和問題は難しいですなぁ。差別と恨みの連鎖は何処かで断ち切らねばならないのに。。

51とはずがたり:2005/01/27(木) 22:15:02
困窮、岸田劉生…お金 必死に工面 大阪で手紙発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050127-00000024-san-soci
自分の絵 分割でいいから買ってほしい
 『麗子像』などで知られる近代日本の代表的洋画家、岸田劉生(一八九一−一九二九年)が、関東大震災で避難していた京都から大阪の知人にあてた手紙が二十七日までに、大阪市内の古書店で見つかった。自分の絵を分割でもいいから買ってほしいという切羽詰まった内容で、困窮ぶりがひしひしと伝わってくる。当時、関西には多くの文化人が震災を逃れて移り住んでおり、彼らの被災生活を知る貴重な資料だ。
 手紙は、大阪府東成郡田辺町(現・大阪市東住吉区)の久米利助という人物にあてたもので、大正十二年十月二十一日付、京都・聖護院局の消印が押されている。
 内容は「この前、春陽会に出した椿花篭の図(五百円)をもしよろしかったら二度払い位にてとって頂けませんか、今二百円、来年の正月頃あと三百円で」と、自作を分割払いで買い取ってくれないかと、申し入れている。
 後半では、自分の絵を買ってもらえない場合、自ら収集している葛飾北斎の浮世絵の購入についても打診。「北斎の富士三十六景の中十五、六枚、その中一枚二百余円のものあり。(中略)それらをまとめて五百円に」などと書いている。
 大正末の物価は、冷蔵庫約三十円、自転車約七十円、新聞の月決め購読料が一円の時代で、五百円は相当な金額になる。
 『劉生日記』によると、結局、この手紙の相手である久米利助は十月二十九日に劉生宅を訪れ、「麗子像」の素描を百円で購入しただけだった。
 関東大震災は大正十二(一九二三)年九月一日に発生、家屋の焼失などで死者・行方不明者約十四万人の被害が出、都市機能もマヒした。このため作家の谷崎潤一郎や直木三十五らが関西に避難した。
 当時、劉生は、神奈川・鵠沼(くげぬま)(現・藤沢市)に住んでいたが自宅が半壊し、名古屋を経て、十月三日に京都・南禅寺に転居。翌日、志賀直哉のところに借金を申し込みに行ったが断られている。
 岸田劉生の京都時代に詳しい高知県立美術館の篠雅廣館長は「劉生は着の身着のままで逃げてきたうえ、関東に住んでいたときから古美術の趣味があり、東洋画や浮世絵など相当高価なものをずいぶん購入していた。こうしたいろいろな要因が重なって、当時はかなりお金には困っていたのだろう。手紙には、お金を工面するときの劉生の細やかな性格などもうかがえ、価値のある資料」と話している。
 ■岸田劉生(きしだ・りゅうせい) ジャーナリスト、岸田吟香(ぎんこう)の4男として東京で生まれる。武者小路実篤と知り合い、柳宗悦、バーナード・リーチら『白樺』同人と交流。大正7(1918)年、長女の麗子をモデルにした制作を始めた。昭和4(1929)年、満州(現・中国東北部)旅行の帰途、山口県徳山で病に倒れ、急逝した。代表作には『麗子微笑』(東京国立博物館)、『切通しの写生』(東京国立近代美術館)がある。いずれも重要文化財。
(産経新聞) - 1月27日15時5分更新

52とはずがたり:2005/01/28(金) 17:45:55
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/179.html?c=0
岡山生まれ。司法官僚、政治家。父は津山藩士。明治21年(1888)東京帝国大学法科卒業。東京控訴院部長、大審院検事、司法省民刑局長等をへて44年(1911)司法次官。大正元年 (1912)検事総長。8年(1919)臨時法制審議会副総裁。10年(1921)に大審院長に就任。12年(1923)第2次山本内閣司法相となる。翌年貴族院議員に勅選、枢密顧問官に任命される。また同年から復古的日本主義を唱え、国本社を主宰。のち枢密院副議長、議長を歴任。昭和14年(1939)首相。戦後A級戦犯として終身禁錮刑となった。

平沼騏一郎
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/ww2/jinbutu/hiranuma.htm
 1867.10.2〜1852.8.22。 岡山県出身。
 1888年帝大法律学科卒業。司法省に入り判事。1905年大審院検事、06年民刑局長。日糖事件の摘発を指揮する。07年大逆事件を捜査。11年第2次西園寺内閣で司法次官。12年検事総長、14年にはシーメンス事件を総指揮。21年大審院長。23年第2次山本内閣で法相。24年貴族院勅選議員。枢密顧問官となり、また国本社を創立。26年枢密院副議長。27年の若槻内閣や30年の浜口内閣など政党内閣を攻撃する。この結果元老西園寺公望に嫌われ、首相候補に推挙されず。34年の帝人事件や35年の天皇機関説事件にも背後で関わったと見られる。36年枢密院議長、同年国本社を解散。この頃から新米英派と妥協するようになる。39年に大命降下で組閣。国民精神総動員運動を展開する。しかし8月、ソ連との関係が悪化している中で、突如独ソ不可侵条約が締結されると、総辞職。「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉は流行語になった。40年から41年に掛けて国務相。45年枢密院議長。ポツダム宣言受諾に反対した※。48年A級戦犯で終身禁固刑となり、52年病気仮釈放直後に死去。

※他の資料と矛盾するがこちらが誤りか。

53とはずがたり:2005/01/28(金) 17:46:43
http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm
「国体明徴運動」
 貴族院勅撰議員・美濃部達吉法学博士の学説「天皇機関説」に対して、貴族院における菊池武夫議員が提出した質問に美濃部が反論したことによって、発生した運動。
 本来美濃部の「天皇機関説」は政党政治に法的解釈とよりどころを与えるものとして一般に通説と解されてきた。また、美濃部の東大における師は、枢密院議長の一木喜徳郎であったから、西園寺公の秘書であった原田熊雄などは、
「大体において美濃部博士は当て馬であって、要するに一木枢密院議長攻撃が目的である」
 と考えていた。その動きを後ろで操っているのが、右翼団体「国本社」の総帥にして、かねてから枢密院副議長にとどめられて憤懣を燃やしていた平沼騏一郎であると原田は考えていたのである。
 ところが、この機関説攻撃に政党までが与するようになった。当時多数を握りながら野党に置かれて苦悶していた政友会は、山本悌二郎を中心として美濃部を攻撃。衆議院はついに国体明徴に関する決議を採択した。
 野にある退役軍人会もこれに呼応し、軍部、特に皇道派が機関説排撃に動き、美濃部と一木枢府議長はますます窮地に追い込まれた。四月九日、美濃部の著作が発禁処分を受けた。
 内閣は美濃部博士を訴追することを防ぎたかったので、美濃部が貴族院の議席を拝辞することを希望していた。また、特定の学説を排撃することも希望しなかったので当初は国体明徴の声明を出すことを拒んだが、陸軍内部はどうにもおさまらなくなり、陸相を通じて国体明徴を声明する要請がたかまった。八月三日、政府は国体明徴を声明。翌月十八日、ついに美濃部は貴族院議員を拝辞した。
 しかし翌日、新聞紙上で美濃部は、
「私が貴族院議員を拝辞したのは混乱を収めるためであって、学説を放棄したわけではない」
 と語り、紛議が再燃した。大角海相などは岡田首相に、
「(もう一度)声明をしてくれ、声明をしてくれないと何が起こるかわからん」
 と依頼した。閣僚らは、軍部の動きは政友会などの岡田内閣倒閣派と連動していることを見抜いていたから非常に憤慨したが、陸軍の代表者である陸相自身の腰が定まらないものだから、事態は紛糾し、十月十五日、「天皇機関説はわが国体に反する」旨を再度声明することになった。
 さきにのべたように、機関説は政党と政党政治を是認化する憲法学説であったから、政友会の行動はまさしく自らの足元を掘り崩したものだとしか言いようがない。

一木枢密院議長はこの運動の最中、何度も辞意を洩らしていたが、西園寺にそのつど止められ、果たせなかった。しかし今度は牧野伸顕内府が老齢の故を以て内大臣拝辞。この後任として斎藤実が就任したが、その斎藤はこの直後に起こった二・二六事件によって射殺されるのである。

54とはずがたり:2005/01/28(金) 17:47:08
>>53-54

「国本社」

国本社会長・平沼騏一郎 大正十三(1924)年発会し、昭和十一(1936)年解散した、右翼思想団体。
 主催したのは司法官僚の巨頭平沼騏一郎である。平沼は国本社創立に先立ち辛酉会を主催していたが、これを母胎とした。また、竹内賀久治が創刊し、流行の民本主義に対抗する雑誌「国本」を機関誌として発足した。
 会長には平沼が、副会長には東郷平八郎、山川健次郎が就任。役員は顔ぶれの変動はあるものの、ビッグネームだけ挙げれば司法官僚系では原嘉道、鈴木喜三郎、山岡万之助、塩野季彦ら。内務官僚では後藤文夫ら。海軍軍人系では加藤寛治、末次信正、小笠原長生、有馬良橘ら。陸軍軍人では宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国昭、四王天信孝らが加わっている。
 目的は社則に依れば、「国本を固くし国体の精華を顕揚する」ことであり、日本国粋主義を高々と標榜する右翼団体であった。機関誌「国本」も、そういった傾向を持ち、同時に反共・反欧米・反デモクラシー的な論文を掲載した。
 国本社自体の活動はともかく、その人脈は平沼騏一郎の政治運動の大きな一部であったと見なされている。
 特に政党内閣期とその後において平沼は幾度となく首相候補に挙げられ、それを官界・軍部におおきな影響を持つ国本社のメンバーが陽に陰に支援した。従って平沼を中心とする人脈の動きは常に元老西園寺公望とその周辺から「ファッショ」、国本社は日本ファシズムの牙城と目されて平沼は総理の座を逸し続けた。
 思想結社としての国本社の規模は、昭和十年に内務省警保局調査によれば全国道府県に三十九支部、会員数は一万七千人以上といわれる(翌年、内務省刑事局の調査によれば倍増どころではなく、十一万余といわれる)。
 昭和十一年二月、青年将校決起の二・二六事件が発生し、鎮圧されると宮中人事の刷新があり、一木喜徳郎枢密院議長が内大臣に転じ、平沼副議長の議長昇格となった。平沼はここで国本社会長を辞任、それにともない国本社自体も解散した。のちに西園寺は平沼を「エラスティックだからね」と評している※が、それはこのときに国本社解散を件を踏まえているからであろうか。

※戦争末期に終戦派として工作する等確かに実に柔軟ではあるな。

56とはずがたり:2005/01/28(金) 18:05:49
【平沼騏一郎特集】>>52-56

http://www.hiranuma.org/japan/
http://www.hiranuma.org/japan/talk.html
「平沼邸炎上す」
「父のこと」

なかなかドラマが有るねぇ。小説の題材に十分なりそうだ。
しかし右翼の巨頭としての平沼の姿は赳夫の目にはこう映っていたようだ。
> 西園寺公に、平沼は神がかりで、迷信家であると、嫌われた祖父。
>明治維新以後、西洋礼讃で、日本本来の姿が失われつつあるのを嘆じて、
>自ら国本社を興し当時のマスコミによりファッショの首魁とされていた祖父、
>この祖父のために弁解させてもらえば、騏一郎は、神がかりでも、ファッショでも、右翼でもない。
>強いて言うならば、神を信じ、神ながらの国日本を誇りとし、
>日本の伝統と文化をこよなく愛した愛国者だったのである。

>長年親交の深かったグルー米国防長官代理に一生懸命働きかけて、何んとか戦争になるのをくい止めようとしていたのであるが、
>これが軍に洩れ、「鬼畜米英に内通する国賊」とまでいわれ、その命をねらわれ、軍の意を体した右翼の神官が、
>騏一郎の郷里美作出身の代議士の紹介状を持って現れ、面談中の騏一郎めがけて、至近から、首から上をねらい、拳銃弾を浴びせかけ、五弾が顔面から首にかけて命中、騏一郎は瀕死の重傷を負った。
>七十歳を過ぎていたにも拘わらず、奇跡的に一命を取留めたのであるが、このことは平沼家にとっても一大事件であって、父にとっても大変なことであったと想像出来る。

平沼騏一郎は右翼の大物でしかも複雑怪奇と云って辞めた無能なイメージがあるが,開戦にも反対し,最終局面では無条件降伏派として活躍したのか,知らなかった。
それにもかかわらず戦争へ至る過程での指導的立場によりA級戦犯として服役したのか。。まぁ東京裁判の基準も全然公平なものではないだろうしね。

司法官僚のボスとしてまた観念右翼の大物として暗躍した姿と戦争回避に動く姿は被らないが,親米反共右翼だったと云う事なのか?それとも軍部と結んでの政党政治の排撃は権力闘争の一環であったか?
神憑りではあったが戦争が仕事の軍部と司法官僚出身者との違いが此処にあったのか?

57とはずがたり:2005/01/28(金) 18:56:12

http://www.t-kyoichi.com/Profile.htm
津島家系図

http://www.yosano.gr.jp/yosanoke/index.html
与謝野家の人々

http://www.mitsu-net.com/profile/grandpa.html
下条みつ
下条康麿・下条進一郎・石川一郎(初代経団連会長・元昭和電工株式会社社長)

http://www9.ocn.ne.jp/~senyou/keizu2.html#7
岸・安倍・佐藤・松岡

>>56
平沼家 <中川>恭四郎
 <飯田>包亮 ||――赳夫―広子・慶一郎・正二郎
<平沼> ||――節子
晋┬淑郎―広 (一家で騏一郎の養子となる)
  └騏一郎

http://www.hatoyamakaikan.com/family/index.html
鳩山会館

あと政治家で先祖自慢してた奴いたっけかやあ?

58とはずがたり:2005/01/28(金) 18:59:55
河野家

http://www.yohei-kono.com/profile/profile.html

河野太郎 長男 昭和38年1月10日生
河野 香 同妻 昭和40年2月25日生

河野二郎 次男 昭和39年10月26日生
河野典子 同妻昭和44年12月4日生

河野治子 長女 昭和43年11月2日生

故河野治平 (祖父:神奈川県議会議員、県議会議長)
故河野一郎 (父:衆議院議員、建設大臣、農林大臣、経済企画庁長官)
故河野謙三 ( 叔父:参議院議員、参議院議長)

田川誠一 (従兄弟:衆議院議員、新自由クラブ代表、自治大臣・国家公安委員長)
河野太郎 (長男:衆議院議員)

59とはずがたり:2005/02/07(月) 16:40:47
http://www.geocities.jp/since7903/
History of Modern Japan

60とはずがたり:2005/02/07(月) 17:49:53
箱庭的アジア植民地資料中心
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1429/colo/menu.html

61片言丸 </b><font color=#FF0000>(/3J5SzQQ)</font><b>:2005/02/11(金) 19:49:26
真珠湾攻撃 最後通告に相違 日米保管の文書、25カ所
http://www.sankei.co.jp/news/050207/sha037.htm

 昭和16年12月8日(米国東部時間7日)の真珠湾攻撃当日に、在米日本大使館の野村吉三郎、来栖三郎両大使が、米国のハル国務長官に渡した対米最後通告と、日本が保管している対米最後通告に、25カ所の相違があることが6日、分かった。米国が受け取った最後通告の中には、日本で保存している文書にはない単語が含まれている部分もあり、新たな議論を呼びそうだ。

 昭和史を研究している徳島県小松島市の米国パシフィック・ウエスタン大学名誉教授、茶園義男さん(79)が相違を指摘した。

 茶園名誉教授は、米国立公文書館に保管されている対米最後通告の写しを入手し、日本の外務省が外交文書として公表している最後通告と、開戦当時に日本が在米大使館に送った最後通告の暗号電文を米軍が傍受し解読した「マジック」文書の三つを比較検討した。

 その結果、アルファベットや数字の大文字、小文字、コンマなどを含め、25カ所の相違を確認。単語部分は21語で、活字数で83字の相違を数えた。数字以外の相違の9割は、日本が公表している文書と米国が保管している最後通告との相違で、日本の公表文書と米軍の「マジック」の間では、相違はわずかだった。

 日本から14部に分けて打電された最後通告の8部目には、米国が受け取った文書にだけあり、日本の公表文書や「マジック」にない単語も見つかった。日本政府として反論するため米国政府からの申し入れを引用した部分「両国政府が第三国と締結しているいかなる協定も−」の「第三国と」の表現が、日本の公表文書は「with any third powers」だったが、ハル長官が受け取った文書では「with any third power or powers」になっていた。

 茶園名誉教授は「日本が公表している最後通告と米国が受け取った最後通告は同じであるべきなのに、相違があり、一方で米軍が傍受したマジックとよく似ている。そのからくりを解く必要がある」と話している。

                  ◇

 ≪対米開戦の通告遅れ≫昭和16年12月8日(米国東部時間7日)、日本の最後通告が真珠湾攻撃より約50分遅れ、米国から「だまし討ち」と非難された。開戦約30分前に在米日本大使が米国務長官に最後通告を手渡す予定だったが、在米日本大使館でのタイプ清書が間に合わなかった。その原因と責任の所在について、現在も議論が続いている。

【2005/02/07 東京朝刊から】

62とはずがたり:2005/02/12(土) 19:13:19
冷徹に現在の岐阜県出身と記述すべし。
親父の任地の旭川でたまたま生まれただけの井上靖が北海道出身になっているのは納得が行かないぞ,俺は!!


島崎藤村は何県出身?生地・長野の村は岐阜に越県合併
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050212-00000305-yom-soci

 長野県山口村が13日、県境を越えて岐阜県中津川市に編入合併される。

 同村出身でこれまで辞書などで長野県生まれと表記されてきた島崎藤村(1872―1943年)の出生地をどう表記するか。出版社や地元の人たちに、戸惑いの声も出ている。

 藤村が生まれたのは、当時の筑摩県馬籠(まごめ)村。同村の区域を含む筑摩県東部は1876年、長野県に統合され、馬籠地区は1958年の合併で山口村となった。藤村は、9歳で上京したものの、馬籠宿を舞台にした「夜明け前」など古里への思いが詰まった作品も数多く残しており、「信州人」という認識が定着している。

 岩波書店は広辞苑で長野県生まれと表記しており、改訂間近だけに対応に苦慮しているという。編集部は「岐阜県とした上で、旧国名や旧県名をカッコ書きする案もあるが、字数の都合や各人物が持っている雰囲気もあり、難しい問題」と話す。

 大辞林を出版する三省堂も「文化的なものには一般化された認識がある。いきなり(越県合併という)新しい状況を書いても理解されない」と、困惑気味だ。

 「長野県歴史人物大事典」など、藤村を扱う書籍を数多く出している郷土出版社(長野県松本市)は「藤村は信州人、という精神風土に合わせた表記が必要だが、改訂の際は、越県合併にも触れないわけにはいかないのでは」と話している。

 表記が変更される可能性について、山口村・馬籠宿にある「藤村記念館」関係者は「藤村自身はどう思うだろうか。越県合併しても、藤村が生まれたのは信州であることに変わりはない」と指摘する。

 藤村の孫の妻で、馬籠宿で土産物店を営む島崎黎子さん(68)は「藤村が信州を描いたのは確かだが、作品が変わるわけでもなく、馬籠も変わらない。(藤村が反対運動の象徴となった)昭和の合併のころとは、時代が違う。岐阜になるからといって、どうこう言う時代ではない」と話す。

 山口村教育委員長の小川洋一さん(71)は「藤村の古里が馬籠であることに変わりはない。信州の藤村でも岐阜の藤村でもなく、今や作品が外国語にも訳されている『世界の藤村』ですから」と話す。
(読売新聞) - 2月12日14時43分更新

63とはずがたり:2005/02/21(月) 17:10:18
クリック20世紀
http://www.c20.jp/index.html

64とはずがたり:2005/03/02(水) 10:40:52
http://www.rs.kagu.sut.ac.jp/~infoserv/museum/si/keisan.html
計算尺

http://www.concise.co.jp/store/rule/
CONCISE計算尺ネット販売

<計算尺>復刻へ 滋賀県職員がネットで呼びかけ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050302-00000025-mai-soci

 かけ算や割り算、三角関数などさまざまな計算に使え、技術者の必需品だった計算尺の復刻計画が進んでいる。電卓やコンピューターが普及し、教育現場から姿を消して30年余。40代以上でなければ見たことのない計算機だが、アナログ式の計算用具の魅力を知る人たちの間で、価値が見直されている。[西脇真一]
 インターネットで「計算尺愛好会」を運営する大津市の滋賀県職員、木村悟さん(43)が全国の愛好者に復刻を呼びかけた。木村さんは学校で計算尺を習わなかったが、中学時代に先輩の持つ計算尺にあこがれていた。10年ほど前に中古品を手に入れて以来、さまざまな機種を探し求め、現在300種類以上を所有。自分が携わる農業関係の仕事でも使うことがあるという。
 計算尺は、有効数字が3けたで、概算値を素早く知るには便利なため、電卓の登場まで盛んに使われた。日本商工会議所は54年から検定試験を実施し、最盛期の65年ごろは年間40万人以上が受験。学校に計算尺クラブができるほど普及していた。
 しかし、高校では70年、中学は77年に学習指導要領が改訂されて教育現場から消え、検定試験も82年を最後に終了した。
 木村さんらが復刻を依頼したのは、最盛期に年100万本以上を生産していたトップメーカーの「ヘンミ計算尺」(本社・東京)。同社は70年代に一般用の生産を打ち切り、特殊用途向けだけを扱っていた。木村さんが1月からネットで1本4500円で希望者を募集したところ、179本の申し込みがあり、200本を発注した。
 購入を希望する理由は、「懐かしい」「企画がおもしろい」がほとんどだが、「講義で使いたい」という大学教員もいる。木村さんは「若い人に計算する感動を味わってほしい。簡単な機能の子供用も作ってみたい」と語っている。
 純国産ロケット「H2」の生みの親で国の宇宙開発委員会参与、五代富文さん(72)の話 かつては計算尺や手回し計算機、そろばんを使い分け、ロケットの軌道や強度などの計算をしていた。計算尺は一目で概算値が算出できる。数学の面白さが分かるだけに、ぜひ残してほしい。
 ◇ことば=計算尺
 17世紀に英国で発明され、日本には明治中期に伝わった。一般的な形は、定規のような棒形で、円形もある。固定された上下二つの本尺と、真ん中をスライドする滑尺、表面上を動く縦のラインが入った透明のカーソルがついている。目盛りは対数スケールで、滑尺を移動させるとカーソル上に答えが出る仕組み。
(毎日新聞) - 3月2日10時17分更新

65とはずがたり:2005/03/05(土) 15:41:01
日本は帝国政府の官僚機構がそのままに横滑りなった。1940年体制と云われる由縁である。
一方,独逸は首都決戦を経験し帝都伯林は蘇連に依り解放され,ヒトラーは伯林の地下壕で服毒自殺を図っているが,その際海軍元帥デーニッツを後継に首相兼国防軍総司令に指名,ヒトラーの指名ではなく自らの意向で政府を組織し体裁を整え,総司令部をフレンスブルクに移して終戦交渉に当たる。ヒトラーの後継にしては戦後懲役10年で済んでいるのもの終戦時の斡旋が利いてるのか?
第二次大戦早々イギリスへ逃げた(?)ヘスが精神異常ながら終身刑を喰らってるのと比べてなんかアンバランスな感じがしなくもない。

http://www.uraken.net/rekishi/syusen10.html
第2次世界大戦〜終戦までの4ヶ月
本筋6:ドイツ降伏〜ヒトラー側近達のその後〜

http://www.geocities.jp/showahistory/history1/16c.html
ヘス謎の単機投降

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
第二次大戦資料館

http://members.at.infoseek.co.jp/hitler/
あまりにドイツ的、人間的な人物
アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/bormann.html
マルティン・ボルマン(官房長官)Martin Bormann(1900-45?)
 ベルリン陥落時にヒトラーの地下壕からの脱出に失敗して死亡したとされる。死体が発見されなかったため、南米への逃亡説も流れた。46年のニュルンベルク国際軍事法廷では欠席裁判で「住民と捕虜の殺害」などの罪で絞首刑の判決を受けた。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/germany/ha/himler.html
ハインリヒ・ヒムラー(全ドイツ警察長官) Heinrich Himler (1900-1945)
−第二次世界大戦でもっとも忌み嫌われた男−
 1934年7月に、突撃隊隊長レームとほとんどの幹部やシュトラッサーを筆頭とするナチス純理論派を粛正した親衛隊は、その後、突撃隊にとって代わり、ナチス党の軍事部門としての地位を確固たるものとした。ヒムラー自身も1934年には国家秘密警察長官(いわゆるゲシュタボ)に就任し、1936年には全ドイツ警察長官に就任。
 敗戦間際の1945年4月に、ヒムラーは自分の身と親衛隊を救うため、ヒトラーを見限ることを決め、西側連合国と単独交渉を計画し、スウェーデンの赤十字代表フォルケ・ベルナドッテ伯爵に接触した。西側連合国はこの申し出を拒否し、この背信行為ととも言えるこの行動をラジオ放送で暴露した。総統官邸の地下壕でそれを知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーをナチス要職のすべてのポストから罷免する。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
カール・デーニッツ(最終階級:海軍元帥)Karl Doenitz(1891-1980)
−ヒトラーの後継者−

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/index.html
ヘルマン・ゲーリング(最終階級:国家元帥)
Hermann Goering(1893-1946)−国家元帥まで上り詰めた戦争政治屋−
39年、ヒトラーはゲーリングを後継者として指名し、40年には彼のために国家元帥の名称を創設した。しかし…40年の空軍力でイギリスを屈服させることに失敗したことを皮切りに、43年のスターリングラードで包囲されたドイツ軍への物資空輸作戦の失敗によって、ゲーリングの名声も権力の失墜も決定的となった。44年までにはナチス首脳部の実質的な決定機能から退き、絵画コレクションに傾倒するとともに、薬物への依存が高まり、常軌を逸していた。45年には再び野心を露わにし、ヒトラーの後継者としての立場を確かめる電報をヒトラーに送った。これが、マルティン・ボルマンによって裏切り行為としてヒトラーに伝えられ、激怒したヒトラーはゲーリングを逮捕、すべての地位を剥奪した。

66杉山真大 </b><font color=#FF0000>(sB4AwhxU)</font><b>:2005/03/31(木) 00:07:59
これを時代錯誤と言わずして何と言う!しかも何を考えているんだ民主党は!!!

4月29日を「昭和の日」に 今国会で祝日法改正へ
http://www.asahi.com/politics/update/0330/007.html
2005年03月30日23時42分

 「みどりの日」にあたる4月29日が「昭和の日」に、「国民の休日」とされていた5月4日が「みどりの日」に変わることになった。祝日法改正案が今国会で成立する見通しとなったためで、実際に変わるのは07年からになる。

 改正案については衆議院内閣委員会が30日の理事会で4月1日に採決することで合意。自民、公明、民主各党は賛成する方針で、今国会で成立する運びとなった。

 同改正案は過去2回、衆参両院のいずれかを通過しながら、衆院解散に伴って廃案になった。自民・公明両党が昨年の通常国会に共同で再提出し、衆議院で継続審議になっていた。

[My HP] http://politics.mtcedar.com/

67とはずがたり:2005/03/31(木) 13:17:22
戦争で中止、幻の1940年万博入場券 一宮の青山さんが保存
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050331-00000009-cnc-l23

[愛知県] 1940(昭和15)年に東京と横浜の2会場で開催予定だった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」の抽選券付き回数入場券を保存している、一宮市西島町の織物業青山恭一さん(64)が、入場券の一宮市への寄贈を検討している。日本万博は日中戦争の影響で中止となったのに伴い、入場券の大部分が払い戻されており、博覧会協会によると回数入場券を1冊丸ごと残していた例は珍しいという。

 回数入場券は12枚つづり。1冊10円で、表紙の通し番号が抽選番号になっている。当時、東京に住んでいた青山さんの父・洋さんが購入したもので、万博中止後の44年、戦争激化に伴い一家で蒲郡市に疎開した後も、入場券はそのまま保管していた。

 70年の大阪万博の際、中止した日本万博の入場券と大阪万博の入場券の交換が可能となったため、洋さんは「家族で万博に行ける」と喜んだが、開幕前年の69年、念願を果たせないまま66歳で亡くなった。

 その後、入場券は名古屋市に住む青山さんの兄が保存していたが、愛・地球博(愛知万博)の開催に合わせて「愛知万博の盛り上げに利用できないか」と青山さんが譲り受け、一宮市への寄贈を打診中。

 既に、愛知万博の会場を訪れたという青山さん。父親が「大阪万博に行ける」と入場券を眺めながら喜んでいた顔を思い出したと言い、「父の夢がかないました。戦争で中止された万博から65年。無事開かれた万博に平和を実感した」と話している。 (広瀬和実)
(中日新聞) - 3月31日10時51分更新

68とはずがたり:2005/04/14(木) 21:11:04
ナチスがらみでは一儲けした印象のあるスイスの銀行だが。。

ナチス被害遺族へスイスの銀行は23億円支払え 米裁判
http://www.asahi.com/international/update/0414/009.html
2005年04月14日19時33分

 ナチスによる大量虐殺(ホロコースト)の犠牲者家族らが、UBSAGやクレディ・スイス・グループなどスイスの複数の銀行に対し、預けた資産を勝手にナチスに供出したなどとして起こした損害賠償訴訟をめぐって、ニューヨークの連邦地裁は13日、2人の犠牲者の遺族14人に対し2190万ドル(約23億円)の支払いを認めた。AP通信などが伝えた。同地裁は数千人のユダヤ人遺族らへの計15億5000万ドルの支払いを98年に命じており、その分配を特別の法廷に委託していた。

 同通信などによると、オーストリアの製糖工場の大株主だった犠牲者らは、ナチス・ドイツによる同国併合が迫ったため、株をスイスの銀行に移したという。銀行は合意なしに株を売却することはないと約束したものの、犠牲者やその家族が逮捕されたり、国外に逃亡したりした間に、圧力に屈してドイツの投資家に株を譲り渡したという。

 ロイター通信は、この訴訟をめぐってこれまで約3000件の支払いが認められたが、1件あたりの平均は12万9千ドル、としている。

69とはずがたり:2005/04/16(土) 11:49:51
日露戦争の真の功労者児玉源太郎特集

乃木希典なんて無能よ。

http://www.c20.jp/p/kgentaro.html
http://www.c20.jp/1904/12203ko.html
業を煮やした児玉源太郎は、乃木希典司令官からその指揮権を強奪し、わずか半日で二〇三高地の占領に成功した。 正確には、80分+30分で、だ。 そして、奪った二〇三高地を観測点として、この日のうちに旅順港内のロシア艦隊に砲撃を開始し、ほどなく壊滅的打撃を与えている。

http://www.jacar.go.jp/cloud_kodama.htm

http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/77.html?c=0

http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kodama_ge.html

70とはずがたり:2005/04/16(土) 12:08:47
奉天会戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%A4%A9%E4%BC%9A%E6%88%A6

目先の勝利や戦争拡大の雰囲気に惑わされず、講和への道を開いた兒玉源太郎は、翌年7月、日露戦争に気力の全てを注ぎ込んだかのように脳卒中でこの世を去った。

71とはずがたり:2005/04/16(土) 12:19:35
児玉源太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%92%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E

なんと。。>菅直人元民主党代表の長男・源太郎は、彼にちなんで名付けられた。

72とはずがたり:2005/04/25(月) 20:48:53
こんな仕事というか芸能者がいたんですねぇ。昔なりの社会保障制度だったのでしょうか?

最後の越後瞽女・小林ハルさん、105歳で大往生
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050425-00000506-yom-soci

 最後の越後瞽女(ごぜ)として知られる新潟県黒川村の小林ハルさんが25日午前2時10分、老衰のため、同村内の特別養護老人ホームで亡くなった。105歳だった。

 告別式は28日午前10時から同県荒川町坂町1750の1、ベルホール会津屋荒川で。喪主はなく、特養ホームを運営する社会福祉法人「愛光会」理事長、高沢正樹氏が葬儀委員長を務める。

 瞽女は、三味線を抱え家々を巡り歩きながら、民謡や小唄などを披露する盲目の旅芸人。冬場の娯楽が少ない雪国の「越後瞽女」は名高く、一時は500人を超えたとされる。戦後、急速に姿を消した。

 新潟県三条市の農家に生まれ、生後100日で白内障のため失明。4歳で瞽女に入門し、8歳で初めて旅に出た。1973年まで各地を歩いた。78年、文化庁から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の技芸者と認定され、79年に黄綬褒章を受章。2002年には吉川英治文化賞も受けた。
(読売新聞) - 4月25日11時47分更新

73とはずがたり:2005/05/05(木) 01:17:25
>6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」
やべぇ,歴史好きを自認してる筈なのに一つも知らんわ。。昔から年号とか覚えるの苦手やったしましてや日付をや。
当日はgoogleに頼んでバナー変えて貰いましょうよ。

「銃後」「御真影」知らず 大学生、沖縄戦の日も
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050504-00000084-kyodo-soci

 「銃後(じゅうご)」「御真影(ごしんえい)」といった言葉を知っている学生が減り、近代史に関する日付として6月23日を「沖縄戦終結」、9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」と正しく記憶している割合も低下していることが、教育史研究者の岩本努さんの調査で分かった。特に加害の歴史については理解不足が目立った。
 岩本さんは「中高校で近代史を十分教えず、マスメディアもあまり取り上げない。中国、韓国で反日運動が高まる中、歴史を正しく知らなければ、本当の意味の友好関係を築くことはできない」と話している。
 岩本さんの講義を受けている中央大の44人、法政大の79人を対象に4月に調べた。
(共同通信) - 5月4日16時41分更新

74とはずがたり:2005/05/08(日) 13:23:25
秀吉の朝鮮出兵「抵抗の碑」返還の可能性 調整本格化
2005年05月08日09時46分
http://www.asahi.com/politics/update/0508/001.html?t5

 20世紀初頭に旧日本軍の将校が朝鮮半島から運び去ったとされ、現在は東京・九段の靖国神社境内にある「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」が、朝鮮半島に返還される可能性が出てきた。豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、地元の義勇軍が活躍したことをたたえた石碑で、韓国と北朝鮮が返還を求めるための調整を開始。日本政府も靖国神社側との仲介に乗り出す考えだ。同神社も「韓国と北朝鮮の調整がつき、日本政府から正式に要請があれば応じる」(社務所)としている。

 日本政府関係者によると、韓国の李海●(イ・ヘチャン)首相と北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)・最高人民会議常任委員長がジャカルタで4月下旬に会談した際、碑の返還方法や保管場所をめぐって意見交換した。これを受け、6日の日韓外相会談で、韓国の潘基文(パン・ギムン)外交通商相が「返還が実現すれば日韓関係のみならず、南北関係の改善にも寄与する」と要請。町村外相は「靖国神社側とよく話をしながら、誠意を持って対応したい」と応じた。

 この碑は18世紀初頭、現在の北朝鮮・咸鏡北道内に建てられた。義勇軍の子孫が韓国側に多いことから、返還する場合も、どちらに返還するか、韓国と北朝鮮の調整が必要とされていた。(●は王へんに賛)

75とはずがたり:2005/05/15(日) 00:01:38
米国防総省:ポーツマス条約ゆかりの海軍工廠も閉鎖
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20050514k0000e030026000c.html
[ワシントン及川正也] 日露戦争を終結させたポーツマス講和条約ゆかりの歴史的な米海軍基地が消える?−−。米国防総省が13日発表した国内基地統合・閉鎖リストの中に、今年で100年を迎える同条約調印の場所、ポーツマス海軍工廠(こうしょう)(米メーン州)が含まれた。

 同条約は1905年、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で小村寿太郎、ウィッテの日露両全権代表の間で署名。米側が交渉場所として提供したのがニューハンプシャー州ポーツマス市の隣町にある同工廠「ビルディング86」の一室。

 交渉は8月8日に始まり1カ月後の9月5日に調印。ルーズベルト大統領はこの功績でノーベル平和賞を受賞。同ビルには交渉当時の写真を飾った記念室もある。

 同工廠は、ロサンゼルス級原子力潜水艦の整備などに使用されている。閉鎖により約4000人の基地従業員の職が失われるため、地元選出議員らが反発している。

 調印100年記念行事を計画している「ポーツマス講和条約記念委員会」広報責任者のステファニー・シーコードさんは「工廠は歴史を象徴する場所で、ポーツマスの人々も誇りに思っている。閉鎖は最終決定ではないし、議員らも反対している」と語り、基地存続を訴えた。
毎日新聞 2005年5月14日 11時00分

77とはずがたり(1/2):2005/05/26(木) 10:07:21

「クリスマス・プレゼント」と称して日本へ復帰
奄美群島 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/japan/amami.html

旧アメリカ領
1946年2月2日 北緯30度以南の奄美諸島が日本の行政権から切り離され、米軍の統治下に入る
1952年2月4日 サンフランシスコ平和条約に基づいて、北緯29度以北(トカラ列島の十島村)が日本へ復帰
1953年12月25日 奄美諸島が日本へ復帰

2002年は沖縄返還30周年でマスコミなども特集を組んでいたが、2003年は奄美返還50周年。でも全国的にはあんまり話題にならないでしょうね。

沖縄はアメリカ軍の占領とともに日本から切り離されて米軍の統治下に置かれたが、翌46年2月2日には北緯30度以南の奄美諸島の行政権も日本政府から米軍へ移された。発表はわずか4日前。奄美諸島では戦時中に空襲は受けたが米軍が上陸したことはなかった。終戦から半年経って突如日本から切り離されるなんて、奄美の住民たちにとってはまさに晴天の霹靂だ。

ただしアヤシイ兆候は敗戦直後からあった。奄美大島にいた日本軍の武装解除にやって来た米軍が携えてきた降伏文書にはNorthern Ryukyu(北部琉球)と書かれていたため、日本軍司令官は「ここは琉球ではなく、九州・鹿児島県に属する奄美群島である」と署名を拒否。すったもんだの押し問答の末、米軍側はマニラの司令部と相談してAmami Gunto Kagoshima Ken(鹿児島県奄美群島)と文面を訂正し、ようやく日本軍が降伏手続きが行われるという一幕があったのだ。

奄美諸島は鹿児島県だが、もともと沖縄の文化圏で言葉は琉球方言だし、かつて琉球王朝の統治下に置かれた歴史もある。17世紀初めに薩摩藩が琉球を征服した時に薩摩の直轄領に移された。アメリカは沖縄上陸の前から「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族である」と分析し、米軍の占領が終わっても沖縄は日本へ返さず、韓国のように独立させることも検討していた。そこで奄美諸島も「もともとは琉球の領土」とみなし、日本から切り離して沖縄の一部に加えるのが当然と考えたようだ。

アメリカは軍政府の下に琉球人による民政府を作り、限定的な自治を行わせることにした。しかし沖縄本島は激しい地上戦で破壊され交通・通信は壊滅状態だったので、沖縄、宮古、八重山、奄美の4つの「群島」に分け、それぞれに自治政府を作った。

こうして奄美では46年3月に本土出身の「日本人」が公職から追放されて鹿児島へ強制送還され、10月に「奄美人」による臨時北部南西諸島政庁が発足、50年11月には奄美群島政府に昇格し、ちょっとしたミニ国家のようになった。米軍の指令によって、本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生した。群島政府知事や群島議会の選挙に先駆けて、協和党や社会民主党などの独自政党が生まれ、地下組織として結成された奄美共産党は当初「奄美人民共和国の独立」を掲げた。

78とはずがたり(2/2):2005/05/26(木) 10:07:43
>>77-78

しかし、4つの群島知事選の結果はいずれも「日本復帰の実現」を公約にした候補が勝利したため、不愉快になったアメリカは51年4月、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止することを決定。翌52年4月に琉球政府を発足させた。琉球政府のトップである主席は公選ではなく米軍からの任命で選ばれ、親米派の元英語教師を主席に据えた。こうして奄美の行政は沖縄と一体化することになった。

1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約では、琉球列島(日本式に言うと南西諸島)は正式に日本から切り離されてアメリカの施政権下に置かれた。平和条約の調印を前にして本土復帰運動が急速に盛り上がったが、なかでも激烈だったのが奄美。復帰要求の署名運動では、14歳以上の住民のうち99・8%もの署名が集まり(沖縄本島では72%)、数千人規模で村ぐるみの断食祈願(つまりハンガーストライキ)が繰り返された。

なぜかというと、日本と切り離された打撃は沖縄より奄美の方が大きかったから。アメリカ統治が始まってから本土との往来は禁止され、後に緩和されはしたものの本土へ行くにはパスポートが必要になったし、渡航許可は那覇を経由して申請したので手続きに数週間かかる。本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられたため売れなくなり、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップしたうえ、アメリカからの援助は沖縄本島の復興が優先されたので奄美にはほとんどまわってこなかった。このため奄美住民の生活は困窮し、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。

ところでその頃、すでにアメリカによる沖縄統治の目的は変わっていた。サンフランシスコ平和条約ではアメリカによる施政権を認める一方で、日本の潜在主権も認められ、将来的に琉球列島(南西諸島)が返還される道を残したものになった。アメリカが施政権を保持するのは、当初のような「少数民族である琉球人の独立のため」ではなく、朝鮮戦争以降の東西冷戦の中で東アジアにおける軍事拠点を確保するためになった。そうなると、基地がない奄美諸島を占領し続けてもアメリカにとってメリットはない。むしろ復帰運動が激しいことでマイナスになった。

かくして53年になると、アメリカは奄美諸島を日本へ返還する方針を明確にした。一時は沖縄に近い与論島と沖永良部島を除外する案も出たが、小中学生が血書の嘆願状を出したり、「奄美と一緒に返還されないのなら島民全員で移住する」と決議するなど激しい反対運動が起きたため、結局すべての奄美諸島を返還することに決定した。返還日は12月25日だったので、アメリカはこれを「クリスマス・プレゼント」だと自画自賛した。

奄美の人たちは本土復帰が決まって万事メデタシかと言えば、新たな問題も生まれた。沖縄で働いていた3万人の奄美人は、奄美復帰とともに琉球人から日本人、つまり法的には「外国人」になってしまった。沖縄で仕事を続けるためには居住許可が必要となり、政治的権利は剥奪され、公務員にもなれなくなり、また土地所有権の取得が認められないなど、沖縄に住む奄美人は様々な差別を受けることになったのだ。こうした「民族分断」がもたらす矛盾が解消されたのは、72年に沖縄が日本へ復帰して、本土人も沖縄人も奄美人もみんな同じ「日本国民」になってからのこと。

79とはずがたり:2005/05/27(金) 17:59:12

旧日本兵:「数十人生存」情報も 半数が帰国希望
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050527k0000e040098000c.html

ミンダナオ島ダバオ市北方50キロの山々。この山中に元日本兵が生きている可能性が高いという=昨年12月、寺嶋会長らの捜索隊が撮影

 フィリピンに出征した旧日本兵らでつくる「曙光会」の近藤敏郎さん(83)によると、昨年12月20日にフィリピンから帰国した厚生労働省の遺骨収集団から、ミンダナオ島のキバウエ東方で中内続喜(つづき)さん(85)=高知県明治村(現・越知町)出身=ら3人が生存しているとの連絡が入ったという。近藤さんは「3人は現地のモロ族という部族に保護されているらしい。同島には旧日本兵の生存者が57人おり、半数が帰国を希望していると聞いた」などと話した。

 ◇未帰還者は21人

 厚生労働省によると、戦死情報がなく家族などの話から判断した旧日本兵の未帰還者は今年4月現在、21人。中国16人、旧ソ連2人、樺太とビルマ(現ミャンマー)、ベトナムの各1人で、フィリピンはゼロとなっていた。ただ、ミンダナオ島については、旧日本兵26人が集団で住んでいるという情報があり、72年8月と73年11月に現地を捜索したが、確証が得られなかった経緯がある。
毎日新聞 2005年5月27日 15時41分

80とはずがたり:2005/05/27(金) 18:31:21
精鋭の豹兵団、80%が戦死…元日本兵2人が所属
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050527-00000305-yom-soci

 防衛庁防衛研究所や戦友会の戦跡記録によると、ミンダナオ島で生存していた元日本兵と見られる2人が所属していたとされる旧陸軍第30師団は、1943年(昭和18年)6月、朝鮮半島の平壌で編成された。

 「豹(ひょう)兵団」と呼ばれ、総員約1万6000人、20歳代前半の兵士が主力だったが、80%が戦死したという。

 当初は対ソ連戦に備えていたが、南方の戦局悪化により、44年4月、ミンダナオ島防衛のため出動を命じられた。

 2人が所属していたとされる同師団捜索第30連隊は、車両などを備えた約470人の偵察部隊。同年6月、同島に到着し、ジャングルや山岳地帯で活動したという。

 第30師団の戦友会「豹の会」会長の市川豪一さん(89)(大阪府東大阪市)によると、同師団は「豹兵団」と呼ばれた精鋭部隊だった。

 しかし、戦場は米軍の制空権の下にあり、各地で激戦となった。同年10月にはマッカーサーが北のレイテ島に上陸、第30師団からも主力部隊が投入されたが壊滅した。45年3月には米軍がミンダナオ島上陸を開始。部隊は散り散りとなり、ジャングルなどでのゲリラ戦に突入した。同師団の戦死者・生死不明者は1万2000人を超え、日本に帰還したのは3000人程度に過ぎなかった。

 豹の会の戦跡記録によると、捜索第30連隊は、上陸した米軍と速射砲などでの激しい戦闘となり、劣勢の中、切り込み作戦などで応戦した。大勢が決してからは、飢えと病に苦しみながらジャングルの中を進み、投降が始まったのは9月になってからだった。

 同連隊では、在籍473人中、287人が戦死したという。
(読売新聞) - 5月27日13時38分更新

81ぽんこ:2005/05/28(土) 00:05:52
今朝、ドイツのラジオで日本海海戦のことを言っていました。
それはニュースではなく100年前の今日の出来事と言った感じでした。
ドイツでは3紙のうち1紙のみウェブ上で取り上げていました。
しかし英米の新聞のウェブではどこもやっていないようでした。
かなりの大事件だと思うのですが、やはりロシア(あるいは欧米全体)にとっては恥で、その配慮があるのかもしれません。
http://www.asahi.com/national/update/0527/TKY200505270145.html
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&amp;searchHILI=1

82とはずがたり:2005/05/28(土) 00:28:26
>>81
おお,情報提供感謝です。
そういえば対馬海峡での慰霊祭にロシアから初めて参加者がとか云うニュースもどっかで見ました。

白人が黄色人種に負けたという意味ではとてつもない衝撃的事件だったでしょうからねぇ。

83とはずがたり:2005/05/28(土) 00:30:34
日露戦争の日本海海戦100年 ロシアで水兵追憶の式典
2005年05月27日18時28分
http://www.asahi.com/international/update/0527/013.html

 日露戦争の日本海海戦から100年たった27日、ロシアでは海軍が「水兵追憶の日」として全艦艇で式典をするなど、各地で催しがあった。だが、海戦史上最大の敗北とあって、受けとめ方は様々だ。

 極東の太平洋艦隊ではこの日の朝、母港ウラジオストクに停泊中の全艦艇上で水兵たちが黙祷(もくとう)をささげた。海戦参加者の墓にも、艦隊の幹部らが献花をした。

 バルチック艦隊の本拠地だったクロンシュタット軍港に7月、海上自衛隊の練習艦隊が初めて友好訪問するなど、日ロの防衛交流も進んでいる。ザハレンコ海軍司令官代理は、最近訪ロした先崎一統合幕僚会議議長に「東郷平八郎連合艦隊司令長官を尊敬している」と語った。

 しかし、ロシアのメディアには、主力艦がほぼ壊滅した海戦にいろいろな評価が出ている。

 国防省機関誌「赤い星」は27日、海戦の敗因に「艦隊建設計画のずさんさ、砲撃力の弱さ」などをあげ、「いまも予算不足で老朽艦ばかり。状態は変わらない」と強調した。

 一方で、現代のロシアの歴史教科書は海戦を「戦史上、恥辱の一ページであり、民族の誇りに痛切な打撃を与えた」と位置づける。

 愛国主義的な志向を強めるプーチン政権下のロシアでは、海戦をタブー視する傾向もある。週刊紙モスクワ・ニュースは「忘れたい歴史でも、忘れると同じ失敗をする」と警告した。

84とはずがたり:2005/05/28(土) 00:35:10
ドイッチュ語じぇんじぇんわからん・・。

Aus dem Gedachtnis: Erster in Asien
http://www.welt.de/data/2005/05/27/723522.html?search=japan&amp;searchHILI=1

Vor 100 Jahren versenkten die Japaner bei Tsushima die russische Ostseeflotte. Gerade 40 Jahre hatte Japan gebraucht, um sich nach seiner Offnung durch die Flotte des amerikanischen Commodore Perry von einem isolierten, in uralten Traditionen verharrenden Land in eine moderne Macht mit entsprechenden Interessen zu verwandeln. Weil man in Tokio Einflusgebiete auf dem chinesischen Festland gewinnen wollte, kam es 1894 zum chinesisch-japanischen Krieg. Doch alle Siege fuhrten nicht zum gewunschten Erfolg, legte sich doch der russische Zarenstaat dazwischen. Er besetzte die Mandschurei, durch die die Transsibirische Eisenbahn verlief, und pachtete den Hafen Port Arthur.

Keine zehn Jahre spater fuhlte sich Japan stark genug, diese Scharte auszuwetzen. Am 9. Februar uberfiel seine Flotte das russische Ostasiengeschwader in Port Arthur. Zwei Tage spater erst erklarte es den Krieg.

Um die Niederlage auszugleichen, beschlos man im Juni 1904 in St. Petersburg, die Baltische Flotte nach Wladiwostok in Marsch zu setzen. Doch erst am 15. Oktober konnte sie unter dem Kommando von Admiral Roshdestwenskij aus Liebau auslaufen. 34 000 Kilometer lagen vor ihr. Es wurde eine Reise in den Untergang.

Viele der 36 Kampf- und neun Begleitschiffe waren veraltet, andere nicht im besten Zustand. So blieb die Marschgeschwindigkeit langsam. Auch muste, weil kein Land das Anlegen erlaubte, die Kohle auf See ubernommen werden - die Hamburg-Amerika-Linie sicherte sich den Auftrag, entsandte 60 Kohledampfer und konnte von dem Gewinn ihre Luxus-Schiffe "Amerika" und "Kaiserin Auguste Victoria" bauen.

Als der russische Verband in die Tsushima-Strase zwischen Japan und Korea einlief, erwartete sie dort bereits die japanische Flotte unter Admiral Togo mit Schiffen, sie schneller und starker gerustet als die russischen waren und taktisch besser gefuhrt wurden. Die Folge der zweitagigen Seeschlacht war eine Katastrophe. Lediglich drei kleineren russischen Schiffen gelang der Durchbruch nach Wladiwostok. Acht Schlachtschiffe, neun Kreuzer und die meisten Begleitschiffe wurden versenkt oder auser Gefecht gesetzt. Mehr als 4000 russische Seeleute kamen um, 7300 und drei Admirale gingen in Gefangenschaft. Japan verlor drei Torpedoboote und 116 Mann.

Angesichts dieser Niederlage akzeptierten der Zar wie der Meiji-Kaiser - Japan hatte sich finanziell ubernommen - das Vermittlungsangebot der USA, das am 5. September 1905 zum Frieden von Portsmouth (USA) fuhrte. Japan erhielt die Mandschurei, Port Arthur und Korea als Einflusgebiete. Damit war es als erste asiatische Nation zu einem weltpolitischen Faktor geworden. Peter Dittmar

Artikel erschienen am Fr, 27. Mai 2005

85とはずがたり:2005/05/28(土) 00:35:44
>>84
=Translated by Alta Vista=
http://babelfish.altavista.com/

From the memory: First in Asia
Before 100 years the Japanese sank the Russian Baltic Sea fleet with Tsushima. Straight 40 years Japan had used, in order to transform after its opening by the fleet of the American Commodore Perry of an isolated country remaining in age-old traditions into a modern power with appropriate interests. Because one wanted to win in Tokyo spheres of influence on the Chinese mainland, it came 1894 to the Chinese-Japanese war. But all victories led not to desired success, put nevertheless the Russian Zarenstaat between them. He occupied the Manchuria, by which the Trans-Siberian railway ran, and leased the port haven Arthur.

Japan did not feel ten years later strongly enough to out-sharpen this scharte. On 9 February its fleet attacked the Russian Eastern Asia squadron in haven Arthur. Later only it explained two days the war.

In order to adjust the defeat, one decided in June 1904 in pc. Petersburg to set the Baltic fleet after Wladiwostok in march. But only on 15 October it could run out under the command of admiral Roshdestwenskij from Liebau. 34,000 kilometers lay before it. It became a journey into the fall.

Many of the 36 combat and nine consort ships had become outdated, others not in the best condition. Thus the cruising speed remained slowly. Also had, because no country permitted the creation, which are taken over coal on lake - the Hamburg America line secured itself the order, sent 60 coal steamers and could from the profit her luxury ships "America" and "empress Auguste Victoria" build.

When the Russian federation ran into the Tsushima road between Japan and Korea, it expected there already the Japanese fleet under admiral Togo with ships, it faster and than the Russian were more strongly prepared and were tactically better led. The consequence of the two-day sea-battle was a disaster. The break-through succeeded to only three smaller Russian ships at Wladiwostok. Eight battle ships, nine cruisers and most consort ships were sunk or put out of action. More than 4000 Russian sailors died, 7300 and three admirals went into shank. Japan lost three torpedo boats and 116 men.

In view of this defeat accepted the Zar like the Meiji emperor - Japan had financially taken over itself - the offer of mediation of the USA, which led on 5 September 1905 to the peace of Portsmouth (the USA). Japan received Manchuria, haven Arthur and Korea as spheres of influence. Thus it had become as the first asiatic nation a world-political factor. Peter Dittmar

Articles appeared at the Fr, 27 May 2005

86とはずがたり:2005/06/05(日) 03:28:16
歴史教科書 扶桑社版の誤り指摘
高嶋琉球大教授 「沖縄戦など5カ所」
http://mytown.asahi.com/ehime/news02.asp?kiji=4926

 歴史教科書の問題に取り組んでいる琉球大学教育学部の高嶋伸欣教授が3日、県庁で会見し、県内の県立中学校などで使用されている扶桑社版の歴史教科書について、「記述の誤りが14カ所あり、(今春の検定に通った) 改訂版でも5カ所残っている」 と指摘した。また、今夏の中学校教科書採択に向けて「慎重に教科書を選んでほしい」 と訴えた。

 高嶋教授は教科書問題について講演するために来県し、これに先だって会見した。 沖縄の視点を採り入れた公民の教科書づくりに取り組んでいるほか、扶桑社版教科書の内容に反対する講演活動などをしている。

 高嶋教授は、扶桑社版の歴史教科書には 「太平洋戦争での沖縄戦の開始時期を45年4月と記述しているが、実際には3月下旬から始まっている」 など誤りが14カ所あると指摘。 02年に同社に対して指摘したが、今でも直っていないという。

 今夏の教科書採択の対象となる改訂版でも 「沖縄戦の記述などに誤りが5カ所残っており、扶桑社の教科書づくりに対する姿勢が問われる」と話した。同社の公民教科書(改訂版) についても「改憲が当然のテーマとして記述されている」 と、問題点を述べた。

 そして、「愛媛では誤った記述がある教科書で子供たちが学んでいる。 これは教科書を採択した社会の責任だ」 と訴えた。 高嶋教授は4日に県美術館(松山市堀之内) で、5日は歴史文化博物館(西予市) で講演する。

 一方、扶桑社版歴史教科書の執筆者の一人である拓殖大学の藤岡信勝教授や俳優で前衆院議員の森田健作氏が講演する 「歴史教科書シンポジウム」 (教科書を改める愛媛1000人委員会主催) が5日、県民文化会館(松山市道後町2丁目) で開かれる。
(6/4)

87とはずがたり:2005/06/05(日) 11:32:36
またぞろなんか言い出したぞ。。
どーでもいいけど「自由主義史観」って名前は不正確なんじゃないの?

「集団自決強要は虚構」 自由主義史観研
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050605-00000007-ryu-oki

[東京] 新しい歴史教科書をつくる会副会長の藤岡信勝拓殖大学教授が代表を務める自由主義史観研究会は4日、都内で緊急集会「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」を開催。5月下旬に座間味村、渡嘉敷村で実施した聞き取り調査などを基に「旧日本軍による集団自決の強要は虚構」として、教科書・教材から削除を求める決議を採択した。

 決議は(1)文科省に教科書検定方針を改め、「集団自決強要」の記述を削除する指導を求める(2)教科書会社やその他の出版社に、教科書や教師用指導書、副読本などから記述削除を求める―といった内容。
 藤岡代表は座間味村で海上挺進隊第一戦隊の梅澤裕隊長(当時)の伝令の役目をした男性、渡嘉敷村の集団自決で生き残った男性ら3人の証言をビデオにまとめて紹介し、「今回の調査で自決が強要されていないことが明らかになった」とまとめた。
 さらに「戦争の悲劇は忘れてはいけない。肉親の中で最も弱い者から殺された事件の重さに比べて、軍命は一割の比重かもしれない。しかし、自決を軍命とするのは、旧軍のみならず日本人、日本国に対する侮辱だ」と語り、聴衆に賛同を呼び掛けた。
 集会では横浜市内の中学校に勤める服部剛教諭が集団自決は軍命ではないとする考え方を導く、模擬授業を再現した。
(琉球新報) - 6月5日11時17分更新

88とはずがたり:2005/06/20(月) 17:50:08
国際法上は東京大空襲も原爆投下も明白な違反だよな。
日本が生産能力の85%を破壊されてもまだ戦い続ける狂った状態にあっとしてもだ。
勿論操縦士にも航法士にも何の責任も罪も無かろうが英雄でも無いことは確かだな。

広島原爆:
投下機の元航法士「自分の仕事をしただけ」
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050620k0000e040076000c.html

[オークリッジ(米テネシー州)國枝すみれ] 広島に原爆を投下したB29型爆撃機「エノラ・ゲイ」の元航法士、セオドア・バン・カークさん(84)は19日までに、毎日新聞との単独会見に応じた。「原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った」と持論を繰り返す一方、「核兵器廃絶が理想だ」と話した。

 ジョージア州ストーンマウンテン在住で引退生活を送るバン・カークさんは、オークリッジで開かれた原爆開発計画「マンハッタン・プロジェクト」60周年記念行事に招かれていた。戦後60年たち、エノラ・ゲイの乗組員12人のうち、現在まで生存しているメンバーは、バン・カークさんを含め3人に減っている。

 −−原爆投下の瞬間の気持ちは。

 ◆うまくいった、よかった、と思った。不発だったらと心配した。爆弾を投下し、爆発した。作戦は成功だ。マンハッタン・プロジェクト全体も成功だと思った。これで戦争が終結する、少なくとも終戦が早まると思った。5年間の従軍で、戦いに疲れきっていた。家に帰りたかった。我々はみなプロの兵士集団というより、むしろ軍服を着た民間人だった。

 −−60年たって、同じ気持ちですか。

 ◆全く同じだ。変わりない。

−−原爆投下は必要なかったのでは。

 ◆原爆投下前の段階で、日本の生産能力の85%は破壊されていた。論理的な人間ならずっと前の段階で降伏していたはずだが、日本は最後まで戦うと主張し続け、多くの人々が連日死んでいた。日本本土への侵攻作戦が実施されていたらもっと犠牲は増えた。私は真実を知っている。原爆は戦争終結を早め、多くの命を救った。疑いの余地はない。

 −−核兵器についてどう思いますか。

 ◆核兵器は廃絶されるべきだと思う。誰もが核兵器を持っていない状態が最も理想だと思うが、もし他国が核を持っていたら、米国はそれより1つ多くの核を持っているべきなのだ。

 −−米国ではエノラ・ゲイの搭乗員を英雄視する向きもあります。

 ◆私の仕事は単に(太平洋西部の)テニアン島から広島に飛行機を飛ばし、爆弾を落とし、旋回して家に帰っただけ。自分を英雄だとは思わない。第二次大戦に参加した兵士は全員がそれぞれの役割を果たし、私も自分の仕事をしただけだ。
毎日新聞 2005年6月20日 15時00分

89とはずがたり:2005/06/23(木) 11:48:45
時効はないみたいですが収監されるとも限らないんですね。
ナチスもひどい事してたんだなぁと思いますが日本の三光作戦の実体と比べてどうなんでしょうかね?>村民560人の虐殺事件
更にはアメリカの空襲や原爆なども非戦闘員への無差別攻撃であって国際法違反である。新型爆弾に関しては知らないが空襲に関しては戦争中に日本政府はアメリカに抗議している。
勿論ソ連は日ソ中立条約の規定を破って参戦した上にシベリア抑留で日本兵は辛酸を舐めた。
我々は当時の気の狂った列強の行動をきちんと後世に伝えて行かねばなるまい。

61年前の村民虐殺で終身刑 元ナチス親衛隊10人
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20050623/20050623a3740.html
2005年 6月23日 (木) 08:45

[ローマ23日共同] イタリア・ラスペチアの軍事法廷は22日、1944年8月12日にトスカーナ州で起きたナチス親衛隊(SS)による村民560人の虐殺事件で、元隊員10人に終身刑を言い渡した。被告はいずれも80歳以上でドイツ在住。高齢のためもあって裁判には出廷せず、収監されるかどうかも未定。

長年ローマで埋もれていた関連書類が発見されて実行犯が判明したため、トスカーナ州など5団体が訴えを起こし、昨年4月に裁判が始まった。

判決によると、被告らは同州サンターナ・ディ・スタゼマ村で、農民などで組織された非正規軍であるパルチザンの隠れ家を教えるよう教会の司祭に要求。司祭が「パルチザンはいない」と答えると、村民のほぼ全員、560人を射殺しガソリンをかけて燃やした。10歳以下の子ども72人が含まれ、腹を割かれた妊婦もいたという。

90とはずがたり:2005/07/30(土) 04:42:36
宮脇(俺が宮脇と云ったら俊三の事である)の親爺さんは長吉という元軍人ながら軍部の増長を快く思ってなかったようだ。
黙れ事件という事件のの当事者だったらしい。
また宮脇の奥さんは彫刻家で離婚したらしい。本に出てくる奥さんは再婚相手か?二人ぐらい娘が居たと思ったがどっちとの子だ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E9%95%B7%E5%90%89
宮脇長吉(みやわきちょうきち 1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の軍人・政治家。紀行作家宮脇俊三(1926年 - 2003年)の父。

香川県の農家の四男として産まれる。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家三土忠造(漢学者だった三土家の養子と
なった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想し
た)がおり、地元では優秀な兄弟として知られていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89
http://hamayan.livedoor.biz/archives/10775031.html
帝国議会「黙れ事件」
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/rare/rare-army-satoh.htm

Wikiの説明はなかなかつぼを心得てるね。宮脇の文章に慣れたら植村なんて不味くてとても読めたもんじゃねぇ。。
>地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高い文章、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。熱心な鉄道ファンであ
りながら、鉄道ファン特有の嫌味さがほとんど無い飄々とした文体は多くの人々に受け入れられ、鉄道ファン以外にも多くのファンが存在す
る。「鉄道紀行」を文学の一ジャンルにまでした、と評されることもある(しかし、「鉄道紀行文学」で宮脇並みのレベルの作品を生んでいる
人物はその後誰もいない、とも言われている)。

91杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2005/12/17(土) 14:01:32
授業で「赤紙」配布 戦争拒んだ生徒に「非国民」 福岡
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1116734086/129

92とはずがたり:2006/01/07(土) 10:24:23
スクリュー音聞き分け 12歳“軍人”死と直面
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200601060019.html
2006年01月06日

 「戦艦大和の犠牲のおかげで生き残った」。小学校を卒業したばかりで軍の極秘訓練を受け、12歳で戦争に投じられることを運命づけられた旧海軍「少年研究生」の一人は、自らの生還の経緯をそう振り返った。六十数年前の少年たちは、10代の大半を死と向き合いながら生きていた。

 「機雷学校少年研究生(給仕)」。神奈川県横須賀市に住む榊原勇さん(78)の海軍時代の履歴表には実態を隠すためか、したこともない「給仕」が加えられている。

 「海軍が研究生を募集するらしい。詳しくはわからんが、勉強もできるし手当も出るようだ」

 66年前、小学6年の2学期。担任教師の言葉は、経済的に余裕がなかった榊原さんには魅力的だった。2年の「研究」の後、高校や大学へ進学する夢もふくらんだ。

 現在の同市田浦町にあった海軍水雷学校で試験を受けた。合格した榊原さんら15人は翌春から、研究生と教官らしか出入りを許されない同校の木造2階建ての建物で生活し、訓練を受けた。

 2階の講堂にはピアノと、米国で発明されたばかりで当時の日本では非常に珍しかった電子オルガン。教官の軍人がそれらを弾き、少年たちに音階を答えさせた。

 「わからねえのか、これが。でくのぼうっ」。元研究生の一人、同市佐原1丁目の三上金次さん(78)は、答えられない研究生への教官の怒声を、よく覚えている。

 訓練はしだいに実践的になった。ビルの屋上から電車の音を聞いて音符で再現したり、録音した米海軍の空母や潜水艦のスクリュー音を聞き分けたり。榊原さんは「実験動物に対する過酷なテストのようだった。訓練の目的も、だんだん分かってきた。『訓練に大金が投じられている』とも聞かされ、軍人を目指さざるをえなくなった」と語る。

 少年水中測的兵となった研究生らは、太平洋戦争末期に海へ出た。榊原さんの乗った巡洋艦は、米軍の機雷で封鎖された北陸沖の海を強行突破。爆沈を免れた直後の45年春、絶体絶命の命令が下った。

 「米軍が上陸した沖縄に水上特攻する」

 榊原さんは死を覚悟したが、間もなく特攻は中止に。先に出撃した戦艦大和が途中で撃沈されたためだった。別の駆逐艦で沖縄に向かうはずだった同市上町4丁目の元研究生、高橋豊さん(78)は「大和の犠牲がなかったら、今ごろ私たちも海の底だった。助かったのは奇跡的だ」と話す。

 元研究生のうち2人は、台湾に向かう途中で船が撃沈されるなどして帰らぬ人となった。

93杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/01/11(水) 18:22:40
この辺りは興味深いですねぇ。現在の女性運動にも通じるところがあるか!?>「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」

東条内閣蔵相と市川房枝氏の証言を公開へ 国会図書館
http://www.asahi.com/national/update/0110/TKY200601100390.html
2006年01月11日14時24分

 日米開戦時に東条内閣の蔵相を務めた故・賀屋興宣(かや・おきのり)氏と婦人参政権運動の最前線で活躍した故・市川房枝氏の証言の録音テープと速記録が、13日から国立国会図書館の憲政資料室で公開される。

 賀屋氏は東京裁判でA級戦犯として終身刑を受けたが、10年間の服役後に仮釈放されて政界に復帰。その後、法相や自民党政調会長などを務めた。

 自らの戦争責任について「当時の閣僚で、事実上の開戦・和平の決定機関であった大本営政府連絡会議のメンバーでもあり、日本人として最も重大な責任を感ずべき一人だ」と言及。東京裁判については「侵略戦争を罰するという国際法の概念がない中で、事後法による戦争裁判は不当きわまりない」と不満を述べつつも、「苦痛をなめた多数の日本人に対する道義的責任はあり、巣鴨に収監されることには納得していた」と語っていた。

 市川氏は、日本で最初の女性運動団体「新婦人協会」の結成から解散に至る苦労話に触れて、「一癖も二癖もある人が多くて、団体としてまとまって活動していくのが難しかった」などと述懐した。同協会を一緒に作った女性運動家の故・平塚らいてう氏についても、「金銭感覚の違いなどから次第に違和感を覚えていった」と話している。

 今回の証言は、現代日本政治史上、重要な役割を果たした10人を対象に、国会図書館が聞き取りをしたものの一つ。

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94小説吉田学校読者:2006/01/14(土) 12:18:44
>>92
音感で敵味方のスクリュー音って聞き分けられるんでしょうか?
昔は内燃機関も騒音でしたが・・・・
>>93
市川は、奥むめをの悪口も言ってるんでしょうか?祈全文テープ起こし。


それはそれ。
この「文芸春秋」記事、私も読みましたが、ただの観光記事でありました。元捕虜の怒りも当然。
でもなんで、ユダヤ人団体が?
あと、読売のロサンゼルス駐在記者の記事の悪文ぶりも酷い。「当地」ってロス?アリゾナ?紀尾井町?バターン?
なんで、上段では「月刊『文芸春秋』」なのに下段は「月刊誌『マルコポーロ』」
(「月刊文芸春秋」なんて雑誌はないぞ、あるのは「文芸春秋」)

「バターン死の行進」記事、ユダヤ人団体が文春に抗議
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060114i504.htm?from=main5

【ロサンゼルス=古沢由紀子】日本軍が捕虜米兵らを炎天下歩かせた「バターン死の行進」についての月刊「文芸春秋」の記事が「歴史を誤って伝えるものだ」として、ユダヤ人人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)は13日、当地で抗議の記者会見を開き、文春側に元捕虜らへの謝罪を求めた。
 記事は、同誌の昨年12月号に掲載された「『バターン死の行進』女一人で踏破」。ジャーナリストの笹幸恵さんが、フィリピンで行進のルートを4日間かけてたどり、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と報告。「日本軍による組織的残虐行為」との批判に、疑問を投げかけた。
 行進を体験した元米兵でアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テニーさん(86)は、文春側に抗議文を送付。会見で、「水や食事をきちんととって歩いた彼女の行程は、当時の状況とかけ離れている」と批判した。
 同誌編集部は「抗議文などを見ておらず、現段階ではコメントできない」としている。
 同センターは1995年、文芸春秋社の月刊誌「マルコポーロ」の「ナチスのガス室はなかった」とする記事に抗議し、同誌は廃刊になった経緯がある。
(2006年1月14日11時3分 読売新聞)

95杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/03/01(水) 21:54:07
ちなみに「平和荘」はこちら → http://www.linkclub.or.jp/~k-nomura/retro/sumida/RIMG0513.jpg

大空襲の証人、取り壊し 東京のアパート平和荘
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060301/eve_____sya_____009.shtml

 一九四五年三月十日未明の東京大空襲で焼け野原となった東京都墨田区で、奇跡的に戦禍を逃れた鉄筋二階建ての建物が今春、取り壊される。空襲前は税務署だった建物に家を失った人々が住み始め、戦災被害者の願いが込められて「平和荘」と名付けられたアパートだ。

 建物を管理する財務省関東財務局東京財務事務所によると、二八年に建てられた。保存されている四一年の地図には、両国橋税務署と記録されている。

 鉄筋づくりで、当時としてはよい建物だった。戦中戦後の混乱で人々が逃げ込みアパートとして使われ始めたため、税務署は移転したとみられる。

 取り壊しのきっかけとなったのは、昨年十二月三十一日夜の火事。住民六人のうち二人が軽傷を負った。半焼だったが倒壊の危険があるため、住民らは親族に身を寄せたり、区の住宅に移り住んだりした。財務局は、今春にも建物を取り壊し更地にし、入札する予定という。

 火事で別のアパートに移った川崎忠雄さん(64)は、自宅を空襲で焼き払われ、たどり着いたのが平和荘だった。当時は三歳ぐらいだが記憶は鮮明だ。「荷車に家財道具を載せ小岩(江戸川区)から歩いてきた」。一面の焼け野原を父親が荷車を引っ張り、母親が後ろから押した。

 入居時には同じような境遇の家族五、六世帯が生活していた。その後、二、三十世帯に増えたが、東京五輪があった六四年ごろから公営住宅へ転出する人が増えた。周りに高層マンションが建ち始め、屋上から見えた隅田川の花火は、今はもう見えない。「取り壊しはやっぱり切ないね。六十年も住むと愛着が出る」と寂しそうだ。

 知人が住んでいたという東京空襲犠牲者遺族会の事務局長星野弘さん(75)も「保存して空襲の記念の場所にしたい、と言っていたのだが」と残念がっている。

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96杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/03/22(水) 16:16:17
偏っているのは被爆者の発言を偏っていると非難する学校教育の現場の方では?

「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋
http://www.asahi.com/national/update/0322/TKY200603220146.html
2006年03月22日12時52分

 長崎市の外郭団体・長崎平和推進協会(推進協)が証言活動をする被爆者に「政治的発言」の自粛を求め、波紋が広がっている。関係者は「言論の自由の侵害だ」と方針撤回を求めるが、推進協は拒んだままだ。

 1枚の文書が発端だった。タイトルは「より良い『被爆体験講話』を行うために」。推進協が1月20日、継承部会に所属する被爆者29人を集めた総会で手渡した。

 「意見が分かれる政治的問題についての発言は慎んでいただきたい」と記し、具体例として(1)天皇の戦争責任(2)憲法(9条等)の改正(3)イラクへの自衛隊派遣(4)有事法制(5)原子力発電(6)歴史教育・靖国神社(7)環境・人権など他領域の問題(8)一般に不確定な内容の発言(劣化ウラン弾問題など)の順で示している。

 危機感を抱いた被爆者らがつくった「被爆体験の継承を考える市民の会」は今月13日、推進協に方針の撤回を求めた。

 代表の舟越耿一(ふなこえ・こういち)長崎大教授(60)は「原爆は戦争という時代の中で落とされた。いま日本は戦争への準備を始め、核戦争の脅威も迫る。『政治』を抜きに語れない」。8項目を選んだ理由も不透明だと指摘する。

 推進協によると、以前から被爆者の証言について「話が聞きにくい」「主張が偏っている」という声が、学校などから寄せられていた。丸田徹事務局長(60)は「このままでは話を聞いてもらえなくなるし、中立性を保つことが必要だと考えた。文書は撤回しない」と話す。

 推進協は83年、原水爆禁止運動の分裂をきっかけに官民一体の幅広い組織を目指して生まれた。政治的に意見が違っても、核兵器の廃絶と平和の実現という「最大公約数」で団結しよう。今回の要請はその方針の再確認が狙いだったという。

 だが、推進協の設立に深くかかわった前長崎市長の本島等さん(84)は「一つの価値観への忠誠を強いて戦争へと突き進んだかつての道が現れた」と危機感を示す。

 88年12月に市議会で「(昭和)天皇の戦争責任はあると思う」と発言。90年1月、右翼団体のメンバーに市庁舎前で銃撃されて胸に重傷を負った。「民主主義は少数の意見も尊重し、議論を交わせること。社会全体が言論の自由を軽視するようになるのは心細く、寂しい」

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97とはずがたり:2006/03/25(土) 03:18:39

杉原氏の「懲戒処分なし」 政府、答弁書で表明
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/seiji/20060324/20060324a1490.html
2006年 3月24日 (金) 18:42

 政府は24日、ナチス・ドイツに追われたユダヤ人難民に日本通過査証(ビザ)を発給して約6000人を救い、「日本のシンドラー」と呼ばれた元外交官の故杉原千畝氏に関し、「定説」だった外務省による懲戒処分はなかったことを明らかにした。同日の閣議で決定した鈴木宗男衆院議員の質問主意書に対する答弁書で示した。

1940年に在リトアニアの領事代理だった杉原氏は、殺到するユダヤ人難民に独断でビザを大量発給。このため47年の帰国後、訓令違反として処分を受け退職に追い込まれたとされていた。

これについて答弁書は「(外務省の)指示要件を満たさない者にも発給した」と「違反」があったことは認めた。ただ外務省の保管文書で確認できる範囲では「懲戒処分が行われた事実はない」とした。

98とはずがたり:2006/03/25(土) 11:51:57
日中和平探った近衛文麿の自筆23枚、鏡台引き出しに
http://www.asahi.com/politics/update/0325/004.html
2006年03月25日08時02分

鏡台の鏡と台の間に引き出しがあり、その中に終戦工作の記録が隠されていた=東京都港区で

 太平洋戦争の末期、近衛文麿元首相(1891〜1945)が中国の蒋介石政権との間で和平交渉を模索したことを示す資料が見つかった。近衛が書き写し、家族の鏡台に隠していたもので、交渉の可能性を探るため北京で行われた会談の内容などが記録されていた。

 近衛の娘の山本斐子(あやこ)さん(74)が、昨年秋に発見した。母の縫子さんが使っていた三面鏡の、鏡と化粧台の間に外からは分からないように作られた引き出しに隠されていた。便箋(びんせん)23枚に万年筆で書かれていた。斐子さんら家族によれば、すべて近衛の筆跡だという。

 近衛家に伝わる文書類などの保存にかかわってきた東郷神社(東京都渋谷区)宮司の松橋暉男さんらが解読した。その結果、北京にあった燕京大のレイトン・スチュアート学長を仲介役にして、蒋介石政権と和平交渉ができないかを模索した記録とわかった。内訳は、スチュアートから近衛への手紙の訳文など39年のものが2点、近衛の側近がスチュアートの秘書と会談した45年5月の記録が2点。スチュアートはルーズベルト米大統領、蒋介石と親しいことで知られていた。

 45年5月の2点は、会談の内容が一問一答の形で記録されていた。「和平問題に蒋介石は自由に対応できるのか」と日本側が尋ねると、「直接全面和平は希望するところだが、日中和平は対米関係とは切り離せない」との回答。「中国を圧迫、侵略する必要も力も日本にはもうない。疑うのをやめてほしい」と日本側が話すと、「その通り。戦争をやめよう」と答えていた。

 戸部良一・防衛大学校教授(政治外交史)によると、交渉の存在は知られていたが、内容が明らかになったのは初めて。スチュアートは日本軍に拘禁されていたため、日本側が接触できたのは45年8月11日になってだった。すでに手遅れで、スチュアートにできたのはポツダム宣言の受諾を勧めることだけだったという。

 敗色が濃厚になった45年、軍部は終戦工作に警戒を強めていた。近衛が隠し場所を探していたので、鏡台のからくりを教えると、とても喜んだことを斐子さんは母から聞いていた。「憲兵隊の家宅捜索などに備えたのだろう」と斐子さんは思っている。

 発見された記録は松橋さんらが「近衛文麿『六月終戦』のシナリオ」(毎日ワンズ)としてまとめ、来月4日に出版される。

99小説吉田学校読者:2006/03/26(日) 06:53:13
蒋介石について「(日本にとって)忘恩の裏切り者」とか何だかんだ言っている人もいますが、
この記事読むと、満州事変の後には抗日戦は念頭にあったんだなと思う。国土統一に並々ならぬ野望が見てとれる。
北伐→国共→抗日というのが蒋介石のプランだったのではないかと私見。

「雪恥」対日戦へ決意の文…蒋介石日記、米大で初公開
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060325it05.htm

【パロアルト(米カリフォルニア州)=古沢由紀子】毛沢東と並ぶ現代中国の指導者、蒋介石(1887〜1975)が長年にわたってつづった日記の原本が24日、当地のスタンフォード大フーバー研究所で、初公開された。
 日中戦争の導火線となった満州事変(1931年)をめぐる心情や、当時の中国の最高実力者としての本音などがつづられており、中国近現代史や日中関係史の第一級資料として注目される。これまで台湾の研究者が日記の写しから一部を抜粋、引用してきたが、蒋介石自筆の原本が公開されるのは初めて。
 蒋介石が1917年から、75年に台湾で死去するまでつけていた日記は昨年、遺族から、台湾研究で知られる同大に寄託された。歴史資料としての価値が高いとして、大学が遺族に公開を要請したという。
 この日は、原本の一部が国民党関係者や研究者、報道陣に公開された。
 公開された日記は原本とコピーの計5日分。満州事変の約3週間後の10月7日の日記は、「雪恥」(恥辱をぬぐい去る)という2文字から書き始めている。「(対日関係は)戦争の勝敗にあるわけではなく、民族精神の消長と国家の存亡にある」「私が持っているのは、良心、人格、そして革命の精神主義だけだ」「もしも倭寇(わこう)(日本)が、わが政府を追いつめて、わが民族の独立と存続の余地をなくそうとするならば、もはや、勝敗や利益を考えている場合ではなく、自ら犠牲によって、国家の格を示し、民族精神を発揚しなければならない」などと記され、対日戦に向け徐々に決意を固める様子がにじんでいる。

100杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/04/01(土) 20:05:23
この種のリサイクルって結構昔から行われてたんですね。

明治期のレール大量発見、大阪三越の解体現場から
http://www.asahi.com/national/update/0401/OSK200604010053.html
2006年04月01日19時41分

 昨年5月に閉店した旧三越大阪店(大阪市中央区高麗橋)の解体現場から、明治時代に近畿一円の鉄道で使われたレール約500本が見つかった。1917(大正6)年に完成した7階建ての同店の建築時に、古レールを鉄筋として再利用したとみられる。日本最古で現存例が少ない「幻のレール」も数多く見つかり、各地の博物館や研究者から引っ張りだこになっている。(四倉幹木)

 大阪・北浜の堺筋に面した約1300平方メートルの敷地地下で、解体工事を進める長谷工コーポレーション(東京)によって発見された。

 同店は、れんが製土台に載せられた高さ約3メートルの鉄筋コンクリート製の基礎柱が、建物の骨組みとなる鉄骨を支える構造になっていた。基礎柱は全部で19柱あった。

 解体の技術顧問を務める柴山建築研究所(大津市)の高嶋三郎さんが調べたところ、それぞれのれんが土台の下にレール14本ほどが格子状に敷かれていたほか、基礎柱の鉄筋としても1柱当たり8〜10本が使われていた。レールの長さは2.5〜3.5メートルだった。

 さらにレールの刻印から約100本の製造者や製造時期が判明。大半が19世紀末の英、米、独などの外国製だが、20世紀初年に九州の官営製鉄所(後の八幡製鉄所)で生産されたものもあった。後に東海道線となる官設鉄道や旧山陽鉄道、旧関西(かんせい)鉄道など、近畿各地で明治期に開業した7路線以上の鉄道で使われたものらしい。

 三越の建設当時は鉄が貴重で高価だった時代。古レールは強度が高いため、三越でもすり減った古レールを集めて建築用に転用したとみられる。

 発見されたレールの3割ほどは、1870年代前半に英国でつくられた「双頭レール」だった。断面が上下同じ形のI字形で、一方が摩耗したら上下を逆さにして使う珍しい形状。双頭レールに詳しい「新日化環境エンジニアリング」(北九州市)の大石徹さんによると、初期のごく一部の鉄道にしか使われなかった「幻のレール」で、「こんなに大量に見つかる例はまれだ」という。

 このうち最も古いものは1870年製。1872年に日本で最初に営業運転した東京の新橋―横浜間か、続く74年開通の大阪―神戸間で使われたものに違いないという。

 レールはすでに交通科学博物館(大阪市港区)や八幡製鉄所の跡地にできる北九州産業技術博物館(北九州市八幡東区)=仮称・07年春開館予定=、日本工業大学工業技術博物館(埼玉県宮代町)などに贈られた。また、基礎柱1体も先月から大阪市立大学杉本キャンパス(大阪市住吉区)に展示されている。

 交通科学博物館の高井洋文課長は「諸外国製や国産の非常に早い時期のレールがそろっていて鉄道や製鉄技術の変遷をたどるのに十分な史料だ。詳しく調べたうえで公開したい」としている。

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101杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/14(日) 22:07:21
かの金大中も、李承晩の独立運動家としての功績を認めながらも後年親日派を登用し独裁政治に陥ったことを批判しているんですよね。こうした論争ができるようになった分だけ韓国も"戦後"が終わったということなんですかね。

李承晩をめぐる韓国学界の熱い論争
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/04/30/20060430000031.html

 現在韓国で巻き起こっている保守・進歩間で繰り広げられている論争は、より具体的に考察すると初代大統領、李承晩(イ・スンマン)をめぐるものといえる。特に昨年は「李承晩研究ブーム」が起こったという点で、その傾向は顕著だ。直接的な論争にはなっていないが、互いに違った立場から膨大な量の研究書を通じて論争を繰り広げている。

 まず左派進歩陣営の徐仲錫(ソ・ジュンソク)成均館大教授が昨年2月に『李承晩の政治イデオロギー』(歴史批評社)を出版した。左右合作路線を支持する徐教授は、李承晩の政治イデオロギーは当時の安浩相(アン・ホサン)文教部長官が主張した「一民主義」だとし、それはファシズムに似たものだとの自説を展開した。徐教授は李承晩の路線を「反共極右独裁」だったと評価している。

 昨年6月には呂運亨(ヨ・ウンヒョン)研究を専門とする木浦大の鄭炳俊(チョン・ビョンジュン)教授が、中間左派的な立場から李承晩を批判的に考察した『ウナム・李承晩研究』(歴史批評社)を出版した。これは徐教授の研究より実証的な分析が際立っていると評価されている。

 また西江大社会科学研究所のキム・スジャ研究員は、昨年9月に韓国建国当時の李承晩の政治姿勢を批判的に分析した『李承晩政権初期の権力基盤研究』(キョンイン文化社)を出版した。興味深いのは、李承晩を批判する側の理念的な傾向は左派で、みな韓国史学を専攻している点だ。

 これらに対する反撃は10月、元老政治学者の李庭植(イ・ジョンシク)慶煕大客員教授から始まった。李教授は長年の研究成果をもとに、『李承晩の旧韓末改革運動』(培材大出版部)を出版した。近代思想を率先して受け入れた改革派の政治家として李承晩を考察したものだ。南時旭(ナム・シウク)教授の研究は、李承晩に関する研究書という形ではないが、李承晩が「開化派第3世代」の代表的な人物であり、「韓国右翼保守勢力の始祖」という点を思想家的に立証したという点で、いわゆる「李承晩論争」の域を脱していない。

 2004年に出版されたが、日本統治時代の李承晩を考察した浦項工大の高珽休(コ・ジョンヒュ)教授の『李承晩と韓国独立運動』(延世大出版部)と、釜山の政治運動を新たに分析したジャーナリストのチョ・ヨンジュン氏の著書『大統領の無血革命』(ナナム)も、右派陣営の貴重な研究成果だ。ジャーナリスト出身の孫世一(ソン・セイル)氏が『月刊朝鮮』に5年間連載している「李承晩と金九」も、全9巻で出版が予定されている。

 李承晩体制をナポレオン体制と比較した論文で学位を取得した成均館大の金一榮(キム・イルヨン)教授(政治学)は、「現在の韓国政治勢力の大部分が民族主義から左右に分かれた時に生じた陣営に起源を発しているため、李承晩を取り巻く論争が激化している」とし、「これまでの実証的な研究もある程度終息しているため、今後は本格的な論争が起こるだろう」と見ている。

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102小説吉田学校読者:2006/05/14(日) 22:34:31
>>101
金大中は、日韓人脈に対する批判は凄かったですね。反共の下に、李承晩政権と日本右派(岸信介とか)の大同団結は朝鮮半島統一を妨げる、こういう文脈で親日派批判がなされていました。これはこれで一理あると思いますね。

103小説吉田学校読者:2006/05/20(土) 10:39:44
日本政府も辻政信の死亡を検証するくらいの度量が欲しい。

インド最大のミステリー ボース台北事故死の定説覆す
http://www.sankei.co.jp/news/060520/kok006.htm

 【シンガポール=藤本欣也】インドの独立運動の英雄、チャンドラ・ボース。第2次大戦終戦直後に台湾で飛行機事故死したことになっているが、同国の調査委員会はその定説を真っ向から否定する報告書をまとめた。日本で保管されている「遺骨」も「ボースのものではない」と結論付けている。ボースは死なずにどこに行ったのか。60年以上にわたり続くインド最大のミステリーに幕は下りそうもない。
 ボースは1945年8月18日、台北の松山空港で中国・大連に向かう際、搭乗機が離陸に失敗し炎上、全身火だるまになって病院で48歳の生涯を終えたとされる。遺体は台北で荼毘(だび)に付され、遺骨は日本に移送されたというのが定説だ。
 これに対し、1999年に組織された政府の調査委員会は今月17日、報告書を公表。(1)ボースは台北の飛行機事故で死亡しなかった(2)よって日本に保管されている遺骨はボースのものではない−と結論付けた。
 その理由として調査委員会は「しっかりとした状況証拠がある」と説明する。事故があったとされる45年8月18日とその前後に、台北で飛行機事故が発生した記録がないというものだ。調査委員長を務めたムケルジ元最高裁判事は、「台北市長(馬英九氏)と台湾の外交部(外務省)が確認した」とインドのメディアに語っている。
 これまでにも、政府の調査委員会が56年と70年に組織されたが、いずれも医師や事故の生存者の証言をもとに「ボースは台北の飛行機事故で死亡した」と結論付けている。初めて定説を否定した今回の報告書についてインド政府は、「細かく吟味したが、その結論には同意できない」とする異例の意見書を付けて、報告書とともに国会に提出した。今後、国会で論議を呼ぶ可能性もある。
(05/20 01:09)

104杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/05/24(水) 22:52:17
早速壺に屯しているネトウヨどもがファビョってますよ。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1148467283/

「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴
http://www.asahi.com/national/update/0524/TKY200605240390.html
2006年05月24日20時39分

 旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬(ぎ)り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ名誉を傷つけられた」などと訴えた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であった。遺族は毎日新聞社、朝日新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者を相手に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めていたが、石川善則裁判長は請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持。遺族の控訴を棄却した。遺族側は上告する方針。

 焦点は「何が真実かをめぐって論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現が、故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害したか」だった。判決は、違法に侵害したと言える前提として「摘示された事実の重要な部分が全くの虚偽であることが必要」との基準を示した。そのうえで、それぞれの記述は全くの虚偽とは言えないと判断。遺族側の主張を退けた。

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105杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/06/08(木) 23:12:18
試しにググってみたら、当の中澤教授のエッセーが「萬晩報」に載ってました。
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://www.yorozubp.com/0502/050228.htm

ネットで流行「アインシュタインの予言」、人違い?
http://www.asahi.com/science/news/TKY200606070141.html
2006年06月07日

 アインシュタイン博士が日本をべた褒めしたとされる「アインシュタインの予言」という文章が、ネットや一部の書籍で広まっている。だが実は、博士とはなんの関係もない言葉が孫引きで広まっただけだと、東京大学の中澤英雄教授(ドイツ文学)が主張している。調査でたどり着いたのは、シュタインという法学者の言葉とされていた文章だった。

 「神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」といったくだりがあるこの文章は、多少の相違はあるものの、1950年代から軍人や宗教家の書籍で紹介され始め、最近は日本文化を誇る「ちょっといい言葉」としてネットで引用されることも多くなった。

 だが出典が常にあいまいで、内容も博士の思想とは相いれないのではと疑問を持った中澤教授が、この言葉のルーツを追ってみた。その結果、アインシュタインの言葉として引用されている例として一番古いのは、56年の書籍であることがわかった。

 さらに戦前にさかのぼると、文意がよく似た文章が28(昭和3)年の『日本とは如何なる国ぞ』という本のなかに記されているのが確認できた。著者は、戦時中の日本の国体思想に大きな影響を与え、「八紘一宇」という言葉の提案者である宗教家の田中智学だった。

 ただし、この本では予言を語った人物はローレンツ・フォン・シュタインという明治憲法成立にも大きな影響を与えたドイツ人の法学教授だとされていた。

 中澤教授は、田中智学がこの言葉を知るもととなったシュタインの講義録などにも当たってみたが、該当する文章を見つけることはできなかったという。

 結局、起源はシュタインの言葉でもなく、田中智学が自らの思想をシュタインに寄せて語った文章の可能性が高いと中澤教授は見る。それが孫引きを繰り返されているうちに、どこかで「アイン」がついて、アインシュタインの予言だということにされてしまったらしい。

 中澤教授は「海外からみたらアインシュタインをかたってまで自国の自慢をしたいのかと、逆に日本への冷笑にもつながりかねない事態」と心配し、安易な孫引きにくぎを刺している。

 ■博士の言葉として流布「日本という尊い国に感謝」

 例えば、『世界の偉人たちが贈る日本賛辞の至言33撰(せん)』(ごま書房、2005年)には、アインシュタイン博士の言葉として次のように記されている。

 「近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴(いただ)いていることが、今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一カ所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。そのとき人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄ではなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国をつくっておいてくれたことを」

     ◇

 〈アインシュタイン研究者の板垣良一・東海大教授(物理学史)の話〉 この言葉は、アインシュタインのものではないと断言できる。彼はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもなく、「神」にこだわらない人だった。日記や文献を詳しく調べてきたが、彼が天皇制について述べた記録はない。

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106杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/06/12(月) 22:07:52
>>105
ネットを慫慂してみたら、中澤教授とは別に"アインシュタインの予言"なるものを検証しているblogがあったんですね。熱湯浴の言説に一つ一つ根拠を示しながら冷静に検証していく姿勢、見事です。
#でも中澤教授って「九条の会」の参加者だったんだな
  ,,,,,,,,
 ミ ・∀・ミつ http://alberteinstein.seesaa.net/

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107とはずがたり:2006/07/02(日) 20:14:10
色々酷いなぁ。。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年 消極姿勢際立つ藤岡町 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060626-00000059-mailo-l09

 藤岡町を貫く渡良瀬川のほとりに、足尾鉱毒事件に生涯をささげた田中正造の銅像が木々に囲まれて建つ。人目につかないその姿は、同町の正造への態度を表しているようにも見える。鉱毒事件を郷土史の欠かせない一部として伝える茨城県古河市や埼玉県北川辺町などに比べ、藤岡の消極姿勢は際立っている。[塙和也]
 ◇薄れゆく記憶に危惧も
 谷中村が1906(明治39)年に廃村となった際、合併先の藤岡町には古河市に次ぐ66戸が移り住んだといわれる。明治政府の買収に協力する「役場派」と、あくまで村に残ることを主張した「正義派」。廃村前から谷中村民は分裂した。
 役場派は廃村後も「裏切り者」と後ろ指をさされ、正義派も、正造を政府に盾突いた「国賊」と見る町内外の人たちから批判の的にされた。さらに、「谷中上がり」と呼ばれた子孫への差別が戦後も続き、次第に町民も旧村民も鉱毒事件に口を閉ざすようになった。
 昨年から今年にかけ、谷中村の子孫らが中心となり、廃村となった7月1日の記念日化を求めて藤岡町議会に請願や陳情を出した。だが、いずれも不採択。「廃村を語るなんて寝た子を起こすようなものだ。公害なんて暗いことは掘り起こさない方がいい」。採択に反対した岡田安雄町議は強調した。一方、谷中村残留民の末えいでもある島田稔町議は「議員という立場上、(自分の)意見は控えた」と苦しげだが、残留民らで続けてきた「田中霊祠」(正造を祭る神社)の例祭などは「子々孫々まで守るつもりだ」と言い切る。
 廃村100年の節目でありながら、町が独自に主催する催しはない。国土交通省によるイベント「谷中メモリアル100」も、鉱毒事件より、遊水地開発に向けたアピールの場となる可能性が強い。国は明治時代から、谷中村の廃村は鉱毒ではなく洪水の問題だと主張してきた。旧村民が鉱毒被害を語らなくなったことで、第二貯水池の掘削問題でも「遊水地の目的はあくまで治水対策」とする国交省側の主張のみが公の場で語られる。
 藤岡町はかつて町史の一部として谷中の資料を編さんするなど、記録作業に貢献したこともあった。それだけに、現状を危惧(きぐ)する人も多い。「今の町の姿勢では谷中の記憶は薄れていく。遊水地に30以上もある団体が、活動で一つになれないのも残念だ」と、谷中村民の菩提(ぼだい)寺「赤麻寺」の仙田光俊住職は語る。
 古河市で教育委員会とともにさまざまな行事を立案する「田中正造を後世に伝える会」の佐々木斐佐夫会長(76)は「合併先である肝心の藤岡町があまりにも消極的だ。『公害の原点』としての廃村は右も左もない歴史的事実。語り継がないのはおかしい」と憤る。(随時掲載します)

6月26日朝刊
(毎日新聞) - 6月26日12時3分更新

108杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/07/03(月) 23:16:45
特攻だったんですな・・・・・何と愚かしいことをしたことか怒りを感じたくなる。

沖縄特攻直前の戦艦大和の写真、米公文書館で見つかる
http://www.asahi.com/national/update/0703/OSK200607030062.html
2006年07月03日21時36分

 太平洋戦争末期の山口県徳山沖で、沖縄海上特攻作戦に向けて準備中の戦艦大和をとらえた米軍の偵察写真が米国立公文書館で見つかり、広島県呉市の大和ミュージアム(市海事歴史科学館)が3日、発表した。出撃の5時間前の写真という。国内での最後の姿をとらえた資料とみられ、年内に同館で展示される。

 同館の依頼を受け、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議・米軍資料研究会」代表責任者で、山口・徳山高専教授の工藤洋三さん(56)が今年3月に探し出した。

 写真は45年4月6日午前10時、米軍のB29偵察機が高度約9300メートルから撮影した。一緒に特攻に向かった巡洋艦矢矧(やはぎ)なども写っていた。写真説明には「戦艦『大和』級1、重巡洋艦1、駆逐艦6」とあった。同館によると、沖縄特攻の対空戦に備え、大和が主砲塔などに機銃を増強した様子が分かるという。

 大和を旗艦とする第2艦隊は撮影直後の6日午後に出撃。大和は翌7日午後、東シナ海で米軍機の攻撃を受けて沈没した。

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109杉山真大 ◆mRYEzsNHlY:2006/07/08(土) 18:01:57
岸壁の母ならぬ「引き揚げの母」ね・・・・・

平和祈願・万国戦没者慰霊の会元会長の田端ハナさん死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/0708/001.html
2006年07月08日02時35分

 田端 ハナさん(たばた・はな=平和祈願万国戦没者慰霊の会元会長、引揚を記念する舞鶴・全国友の会顧問)が7日、老衰で死去、99歳。通夜は8日午後7時、葬儀は9日午後1時から京都府舞鶴市倉谷1720の4の西舞鶴シティーホールで。喪主は長女の泉朝子さん。自宅は同市南田辺71の3。

 舞鶴港で戦後、同市連合婦人会長として多くの引き揚げ船を出迎えたことから、「引き揚げの母」と呼ばれた。

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110小説吉田学校読者:2006/08/03(木) 07:13:54
カストロも広島訪問した。ゲバラも訪問した。広島と革命家を繋いだのは「反米」か「反覇権主義」か「反大量破壊兵器」か「平和主義」か。

ゲバラが撮ったヒロシマ 地域誌が掲載
http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000000608010001

 キューバ革命を指導したエルネスト・チェ・ゲバラ(1928〜67)が47年前に広島を訪れた際、爆心地近くの平和記念公園で撮影した未公開のモノクロ写真がキューバで保管されていたことがわかった。存在を知った広島の出版社が「被爆61年を前に公開を」と遺族に求め、地域誌に掲載された。研究者は「伝説的革命家が核の脅威に強い関心を寄せていた証しではないか」と話している。(武田肇)
 写真を保管していたのは、ゲバラの遺族が運営する「チェ・ゲバラ研究センター」(キューバ・ハバナ)。03年に革命の同志であるキューバのカストロ議長が広島を訪問したのを機に、広島市の出版社「南々社」が足跡を検証。写真の存在を知って遺族と交渉し、発刊する地域誌「がんぼ」で7月末に特集を組んだ。
 同センターによると、撮影は59年7月。平和記念公園のアーチ形の原爆死没者慰霊碑の前で人がたたずむ姿をとらえ、原爆ドームや完成まもない広島市民球場も見える。ゲバラが同公園で撮影した別カットの1枚は海外など一部で公開されたことがあるが、今回の1枚は未公開という。
 ゲバラは革命政権が成立した直後に経済使節団長として来日した。池田勇人通産相(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望。1泊して慰霊碑に献花し、平和記念資料館(原爆資料館)や原爆病院を訪れた。
 遺族があわせて南々社に提供した「原爆の悲劇から立ち上がれ、日本よ」と題した手記(帰国後キューバで新聞掲載)には、「痛ましいのは原爆が投下されて14年たった今年も後遺症で多くの人が亡くなっていることだ」「資料館では、胸が引き裂かれるような場面を見た」と訴えている。
 旧ソ連ミサイルのキューバ配備をめぐり、核兵器使用の一歩手前まで緊迫した「キューバ危機」が起きたのは来日3年後の62年。直後にキューバを訪れ、工業相だったゲバラを撮影した写真家の近藤彰利さん(77)=東京都=は、現地の子供でさえ広島で起きたことを知っていたことに驚いた。「その陰にはゲバラの広島訪問があったかもしれないと納得した。一見平凡な写真だが、込められた意味は深い」
 チェ・ゲバラ研究センターの担当者は朝日新聞社の取材に「様々な困難を乗り越えた広島市民の勇気に敬意を表し、写真を公開することにしました」と説明している。
 《関係者を取材し71年に「チェ・ゲバラ伝」を著した作家の三好徹さんの話》 当時ゲバラは国内であまり知られておらず、報道はほとんどなかった。日本政府も使節団として受け入れながら、米国への配慮から広島訪問に難色を示していた。広島行きを強行したのは、多数の非戦闘員を一瞬で殺傷した原爆の残虐性に関心を持っていたからだろう。写真好きは有名で、ゲリラ活動中もカメラを持ち歩いたほど。新たに公開された写真はゲバラの関心がどこにあったか考える材料となり興味深い。
 《エルネスト・チェ・ゲバラ》1959年、キューバの指導者、フィデル・カストロ国家評議会議長とともにキューバ革命を成功させたアルゼンチン生まれの革命家。その後、大臣の地位を捨ててアフリカ・コンゴの反政府勢力にゲリラ戦を指導し、67年、南米・ボリビアでも革命を指導している途中に国軍に銃殺された。

111小説吉田学校読者:2006/08/05(土) 11:37:14
すでに歴史的風景となったロッキード事件。
今月号の月刊「現代」によりますと、全日空ルートの灰色高官とされた14名中12名の実名が掲載されております。
私の推測ではなく、記事そのまま書きますけれども、灰色高官は、二階堂進、佐々木秀世、加藤六月、福永一臣は既報されておりますが、そのほかには村山達雄、竹下登、木村睦男、関谷勝利、大橋武夫、佐藤守良、中川一郎、西村直巳の8名。いずれも運輸族、防衛族のお歴々であります。これはサラっと書いておりますが、歴史の空白を埋める作業でありまして、月刊現代と坂上遼はよくやったと思います。

で、中曽根サンが灰色とされたP3Cルートはもっともっと解明された方が良かったですが・・・

ロッキード事件:対潜哨戒機P3C事件化、東京地検断念
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20060727k0000m040180000c.html

 対潜哨戒機を巡っては72年2月、海上自衛隊の次期対潜哨戒機を国産化すると政府が閣議決定しながら、同10月の国防会議議員懇談会(議長・田中角栄首相=当時)で白紙撤回。74年12月に輸入の方向が強まり、ロ社のP3C輸入につながった。丸紅は72年11月、ロ社とP3Cの売却手数料授受契約を結び、73年7月には児玉誉士夫・元ロ社代理人(故人)とロ社との間で「50機の確定契約があった場合、ロ社は児玉に25億円を支払う」との誓約が結ばれた。
 当時の捜査関係者によると、76年2月の米議会での事件発覚直後、実際にP3C関連を専門に調べる検事が特捜部内におり、防衛庁関係者らを参考人聴取するなど、捜査を進めたという。
 同年4月、米証券取引委員会(SEC)から提出された全2860ページに及ぶ資料が日本の検察当局に届けられ、この中には「Tanaka」をはじめ政府高官名が記された人脈図などが含まれていたが、P3Cの対日工作を示す資料は見当たらなかったという。
 また、児玉元代理人の脱税を巡る捜査でも、P3Cに関するロ社側からの資金提供を裏付ける証拠はなく、かなり早い段階で、トライスター機導入を巡る捜査に重点を置いたという。
 1機当たりの金額は当時、トライスター数十億円に対しP3Cは100億円前後と言われ、採用された場合の導入機数もP3Cの方が多く見積もられ、ロ社にとってP3Cの方が「うまみ」は格段に大きかった。このため、田中元首相への資金提供があれば、P3Cの受注工作資金との見方が当初あった。
 一方で、日米安保条約という国策も絡むP3C疑惑の立件見送りは「米国謀略説を裏付ける」などさまざまな憶測を呼んだうえ、「事件の本質に迫れなかった」などとロ事件の評価につながる議論の下地にもなっていた。

112小説吉田学校読者:2006/08/12(土) 22:02:31
評価分かれるいうか、私はまったく否のほうで、「私兵特攻」の一件において、特攻で涙してしまう小泉首相とは歴史的認識を異にする私である。悲しみじゃなくて怒りがわかないか。

「宇垣特攻」最期の真実、親族女性が遺品調査
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060812i104.htm

 終戦を告げる1945年8月15日の玉音放送後に、海軍の宇垣纏(まとめ)中将が若い兵士を率いて出撃した「宇垣特攻」について、厚生労働省非常勤職員の吉田紗知さん(27)(東京都葛飾区)が、独自の調査研究を続けている。
 吉田さんは宇垣隊の一員だった親族が戦死しており、終戦記念日は61年目の命日となる。
 今年になって別の隊員の遺品が米国の博物館に展示されていることを知り、今月、博物館から遺品のノートのコピーを手に入れるなど、謎の多い宇垣特攻の最期に一歩ずつ近づいている。
 吉田さんの曽祖父の弟で、当時21歳の大木正夫・上等飛行兵曹(上飛曹)は8月15日夕、海軍大分飛行場を沖縄に向け飛び立った11機、23人の1人。大木上飛曹ら8機17人は戦死した。特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官で、終戦後に「最後の特攻」を率いた宇垣中将については、「部下を道連れにした」との批判が多い。
 吉田さんは、戦争の話をよく聞かせてくれた祖父が2年前に亡くなったのを機に、「大木さんの生きた証しをたどりたい」と思った。今年2月、戦争体験を紹介する日本のホームページを通じ、米オハイオ州の国立空軍博物館に、宇垣特攻の搭乗員だった後藤高男・上飛曹(当時26歳)の救命胴衣の一部などが展示されていることを知った。入手した写真には、救命胴衣に「後藤上飛曹」と記されていた。
 救命胴衣などの遺品を博物館に提供したのは、終戦時、沖縄にいた元米兵のフィリップ・トンプソン氏(80)だった。吉田さんはトンプソン氏と文通を続け、その中で、後藤機が、米軍キャンプのあった沖縄・伊平屋島の砂地に激突後、爆発炎上したことを知った。
 吉田さんは、福岡県八女市で暮らす後藤上飛曹の弟、照男さん(79)を探し当て、今年4月、自宅に訪ねて写真を渡した。「兄貴は砂地に突っ込んだから、遺品が残ったんじゃのう。ありがたい」。照男さんは、そう感謝しながら吉田さんの話に聞き入った。
 博物館は、宇垣隊の別の隊員のノートも保管している。吉田さんは、宇垣中将の最期の様子や、大木上飛曹についての記述があるのではと、コピーを博物館に頼み、今月7日、全12ページ分が郵送されてきた。ノートは後藤上飛曹の同乗者のもので、残念ながら任務に関する記録ばかりだった。
 休日を利用して自費で関係者を訪ね歩くなどしている吉田さんは、「これからも調査を続け、将来は記録に残したい」と決意を新たにしている。

(「宇垣特攻」を知りたい人は)
松下竜一その仕事〈第21巻〉私兵特攻―宇垣纒長官と最後の隊員たち (単行本)  松下竜一著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/430962071X/sr=1-2/qid=1155387571/ref=sr_1_2/249-8232065-9478756?ie=UTF8&amp;s=books

指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく (文庫) 城山三郎著
http://www.amazon.co.jp/gp/product/410113328X/sr=1-3/qid=1155387623/ref=sr_1_3/249-8232065-9478756?ie=UTF8&amp;s=books

113とはずがたり:2006/08/12(土) 22:21:48
>>112
なるほど,こんなことがあったんですねぇ。近現代史もドラマですな。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/宇垣纏

特攻隊で死んだ者(更には戦死者も)には悲しみではなく怒りをという吉田学校氏の認識に共感。
国のために死んだ英雄ではなく無能な国家首脳の哀れな犠牲者なのだ。為政者に騙されちゃいかん。

114とはずがたり:2006/08/17(木) 21:13:58
【第一次大戦】
http://ww1.m78.com/index.html
第1次大戦と20世紀サイト

昭和天皇と事変の拡大
http://ww1.m78.com/topix/emperors%20decision.html

【大東亞戰爭研究室】
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

帝国陸海軍 人事挿話集
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinjiotu/jinji2-annai.html

近代日本戦争史概説
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-annai.html

115とはずがたり:2006/08/21(月) 00:11:44

戦後の軍隊に宇垣一成を引っぱり出してくる辺り何とも云えず時代錯誤な感じもするが,当時の感覚だとなかなかの配役って感じになるのでしょうか?

幻の「新日本軍」計画 旧軍幹部、首相に提案  2006/08/20 21:39
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&amp;d=20060820&amp;j=0023&amp;k=200608204880

[ワシントン20日共同] 旧日本軍幹部が太平洋戦争後の1950年前後、「新日本軍」に相当する軍組織の設立を独自に計画していたことが20日、機密指定を解除された米公文書で判明した。構想は連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下で進み、河辺虎四郎元陸軍中将(故人、以下同)らが立案。最高司令官には宇垣一成元大将(元陸相)を想定しており、当時の吉田茂首相にも提案していた。

 戦後史に詳しい複数の専門家によると、服部卓四郎元陸軍大佐ら佐官クラスの再軍備構想は知られているが、河辺氏ら将官級による新軍構想は分かっていなかった。毒ガス隊など3部隊の編成を目指した河辺氏らの構想は最終的に却下され「幻の計画」に終わった。

 文書は、GHQや中央情報局(CIA)の記録を保管する米国立公文書館で見つかった。

116片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/08/21(月) 08:11:39
>>115
そういえば、下のニュースが最近ありましたね。GHQは戦前からの日本軍の人的蓄積を反共陣営強化のために使おうとしたんでしょうね。その代わりに、処罰や断絶は不徹底になったと。
日本の戦争総括・戦後体制は国際情勢次第でいかようにも変わりえたのでしょう。

GHQ資金で反共工作 旧軍幹部の「河辺機関」
http://kumanichi.com/news/kyodo/index.cfm?id=20060812000208&amp;cid=main

 【ワシントン12日共同】太平洋戦争後に日本を統治した連合国軍総司令部(GHQ)が河辺虎四郎元陸軍中将(元参謀次長)=故人、以下同=ら旧軍幹部を中心に編成した反共工作組織「河辺機関」が、GHQの資金提供で日本国内の情報収集のほか旧ソ連と北朝鮮への工作員潜入を計画していたことが12日、機密指定を解除された米公文書で判明した。秘密工作は「タケマツ作戦」と名付けられていた。

 「河辺機関」の存在は関係者の証言などで伝えられていたが、計画の詳細が米公文書で初めて確認された。河辺氏はじめ機関の主要メンバーは戦犯訴追を免れており、文書は冷戦に直面した米国が旧軍幹部の訴追よりも反共工作を優先させた軌跡を物語っている。

「河辺機関」に関する米公文書の要旨 
http://www.topics.or.jp/Gnews/news.php?id=CN2006081201003480&amp;gid=G15

 【ワシントン12日共同】「河辺機関」に関する米公文書の要旨は次の通り。

 ▽1949年5月20日付メモ1(秘密、発信者、受信者はなお機密扱い)

 一、「タケマツ」は連合国軍総司令部(GHQ)の参謀二部(G2)が進める秘密情報作戦のコード名。国内の情報活動(マツ)と国外での情報活動(タケ)からなる。

 一、活動全体がG2の資金で賄われる。

 一、タケマツ作戦の中心人物は河辺虎四郎、有末精三、辰巳栄一各元中将ら。米側の作戦指揮者はウィロビー少将、レイシー大佐ら。

 一、48年9月25日にレイシー、河辺、辰巳らが会談。河辺は活動経費8万7000円を要求。

 一、48年10月9日にレイシー、河辺らが会談。第1回の支払いとして3万7000円を河辺に支給。

 ▽49年5月20日付メモ2(同)

 一、48年11月20日、レイシー、河辺、有末らが会談。

 一、河辺がレイシーに南日本でのタケ作戦の概要を説明。

 第1段階 (山口県)防府を拠点に工作員を南朝鮮(現在の韓国)へ派遣、38度線を越え、北朝鮮と満州(現在の中国東北部)の情報を伝える。防府のビジネスマンの貿易ルートを利用。

 第2段階 対馬への情報拠点設置が可能。南朝鮮からの密貿易に使われており、日本人工作員の南朝鮮潜入に利用。ソ連船の情報獲得のため対馬の漁民を工作員に雇うことも可能。

 第3段階 米の無線機を使用。中国、朝鮮、ロシア語の放送を傍受。

 一、レイシーは必要な機材を用意すると約束。

 一、河辺は南日本での半年間の経費として390万5000円を提示。

 一、河辺は北日本でのタケ作戦の概要を説明。

 (1)北日本での作戦は49年4月に開始。本部を北海道・美唄に、支部を札幌、函館、礼文島に。

 (2)樺太(現在のサハリン)在住の信頼できる日本人に接触。(樺太や千島からの)帰還者を工作員にして送り返す。万年筆や時計の密輸ルートをソ連領内に開拓。意図的に船を難破させ船員をソ連領内に送る。周辺海域を高速艇で監視。無線傍受を実施。

 一、河辺は北日本での半年間の経費として596万2000円を提示。

 ▽49年5月20日付メモ3(同)

 一、48年12月3日にレイシーが河辺らと会談、ウィロビーが北日本の作戦に集中することを求めていると説明。ただ朝鮮への潜入も了承。

 ▽53年1月16日付の情報報告(秘密)

 一、G2が52年12月、河辺に次年度には関連予算が計上されないと通知。河辺は突然の決定に憤慨、機関の活動を公にする意向。

 一、河辺は機関解体を見越し、G2の決定前に、15人を保安隊に入隊させていた。

 ▽有末元中将の個人情報データ(59年9月15日付、秘密)

 一、48年末ごろ、ウィロビーが河辺機関として知られることになる情報組織創設を要請。下村定、河辺らが参加。

117名無しさん:2006/08/28(月) 22:12:53
渡嘉敷島集団自決、軍命令を否定する証言
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha047.htm
http://www.sankei.co.jp/news/060827/sha048.htm

≪元琉球政府の照屋昇雄さん≫

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。

 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。

 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。

 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。

 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。

 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)

118片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/08/28(月) 23:27:19
>>117
> −−ではなぜ集団自決をしたのか
> 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」

そういえば、高校生のときに読んだ大岡昇平の『野火』を久しぶりにまた読みました。
食べ物に窮乏したため、手榴弾を使って味方を殺し、人肉を食うってのは、考えさせるシーンでした。
戦争、特に孤島という状況だと、考え方も極限まで追い詰められてしまうものなんですかね。

しかし、まあ、こうやってなんたら陣営が相対立してる状況があるんですね。戦争は災難の連鎖を生むのかね。戦争とは別に、カネというものの魔力か。人間はそういうものだとは謂えど。

119とはずがたり:2006/08/29(火) 03:49:44
旧日本軍を神聖化する動きは真実がどうであれ,警戒する必要があると思う。
軍隊が日本国民を大いなる不幸に陥れた元凶であることは間違いないのであって,南京で実は虐殺はしてないとか,島民に自決を強制してないとかは些細な話。
なんかそういう背後に旧日本軍は立派だったみたいな風潮にしたい意志を感じる。戦死者は国を守った英霊なんかではない。惨めな犠牲者なのである。神様にして貰って遺族が救われると云う機構が弔いに成るだけなら良いが,国の為に死ぬことが崇高なことだとしたい連中が居るんじゃないか?自分らは戦争で死ぬ心算がない癖に,国民は為政者の私益の為に死ねと思ってる連中が。
靖国を神聖視するネット右翼を始め踊らされた間抜けな庶民どもが勝手に死ぬ分にはかまわんが,戦争は他の国民も犠牲にする迷惑なものである。更に本当に心穏やかに死者を弔いたいならお偉い議員の先生方に参拝させて悦に入ってるじゃねーよと思う。政治家みたいな俗な連中の参拝など断れや。

120小説吉田学校読者:2006/09/02(土) 09:39:01
昨日産経本紙に載っていましたが、ネットにはあがっていませんでした。
このメモ問題、私としましては、秦氏の見解と同じで、これを基にして靖国分祀論だ何だかんだと盛り上がるのは反対です。

メモといっても、巷間仄聞するところによれば「政治的な箇所はごく一部にとどまる」「食べ物、植物、戦前、戦争直後の苦労の話が多い」らしいです。となれば「「原田日記」「牧野日記」だけが昭和天皇か?」というのが富田氏の備忘の動機だったのかもしれない。
それと「とてもおもしろくて」の部分、私はこういう奥さんを持てた富田氏は幸せだったと思う。こういう奥さん、好きだなあ、俺。

メモ公表した富田元宮内庁長官夫人の真意とは
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/showa_emperor/story/01fuji320060901016

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯の合祀(ごうし)に強い不快感を示されたとされるメモを富田朝彦元宮内庁長官(故人)が書き残していた問題で、富田元長官の妻(81)は産経新聞の取材に応じ、「こんなに大騒ぎになるとは思わなかった。日記やメモを公表したのは、昭和天皇のお人柄を伝えたかったから」と語った。
 妻によると、メモや日記は元長官が平成15年11月に亡くなった後、東京都内の自宅寝室の奥に残されていた。
 「読んだらとてもおもしろく、まるで富田が生きているみたいで…」
 元長官は生前、日記やメモの扱いについて何も言い残していなかった。だが、彼女自身は「いずれ発表できる機会があればいいと考えていた」という。
 その理由については、「陛下は口数が少ないといわれていましたが、実はお話し好きでした。日記やメモには、富田が知らないことを(昭和天皇が)教えてくださったことがつづられていました。いろんな歴史も教えてくださったそうです。ユーモラスな方でもあって、そのお人柄をみなさんにもお伝えしたかった」と説明した。

121片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/02(土) 12:47:10
讀賣新聞のお盆の戦争検証特集は立派だと思いました。
軍の一部が先走ってしまい、非軍人もそれをコントロールできなかった構図(それがいろんな局面で起こる)が浮き彫りになっています。
しかし讀賣も、天皇に関する部分の検証がぽっかり抜けてるように感じました。
先代ってことで、検証はまだしにくいか・・・。

靖国神社の問題も、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1114775789/237-239
↑と似たところがあるんですよね。
当時、「靖国」に殉じた人の想いをどうするかってところで。
終戦後の殉職者は、戦死ではないということで受け入れていないようですから。
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20060825/1156477427

ところで、山口県護国神社合祀訴訟というのがかつてありましたが、
あれは戦後の殉職者(公務死者)について、各県の護国神社が受け入れているということですよね。
どこの自衛隊も、一律に護国神社で祀らせてるんだろうか?
東京都と神奈川県には護国神社がないようだけど・・・。

ともかく、新しい殉職者たちが靖国神社にどんどん合祀されていってる状況がないところは、不幸中の幸いというか。
仮にそんなことになっていると、将来の我々の選択も雁字搦めになりかねなかった。
平成の殉職者(公務死者)・靖国神社・天皇 この3者が密接にかかわる状況でなくて良かった。

靖国神社の扱いは難しいものがあるけれど、将来に向けてやるべきことはあると思いますね。

(調べつつ書きながら、なんて知らないことばかりなんだろうと思った・・・)

122片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:18:52
>>120
驚くべきバイタリティ...

上坂冬子さんの富田夫人訪問記余話
http://oshimas.iza.ne.jp/blog/entry/33351/

上坂さんの文章を若干紹介すれば、7月22日付で投函された元宮内庁長官、富田朝彦夫人からの分厚い封書が自宅に届いた。富田夫人とは面識はなかったが、あけてみると、便箋4枚にぎっしり書かれた質問が14項目もあった。夫人は81歳だが、女子大生のような勢いのいい字だったとか。なぜ、富田夫人は、上坂さんに質問状を送ったのか。経緯はこうだ。
「富田メモ」の記事が出たのが7月20日。翌21日の産経新聞「正論」欄で、すばやく上坂さんは、「富田メモ」を第一級の資料なみに扱おうとしている風潮を批判した。この記事を富田夫人にみせたのは、同居している大学教授の息子さん。富田夫人はそれを読むやいなや、近所の書店にかけつけ、上坂さんの新刊『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)を買って、一晩で読み終えて、質問状を書き上げた、という次第のようである。 「ともかく行動的な人らしい」と上坂さんは書いているが、このくだりをゲラで読みながら、おもわず笑みが浮んでしまった。というのは、上坂さんご自身が、とびきり行動的な人だからである。何度も、上坂さんには、本誌で連載をお願いしているので、自信をもってそういえる。

123片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:29:10
鎮霊社『靖国』の回答検証
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060829/mng_____tokuho__000.shtml

 靖国問題は自民党総裁選の中で数少ない争点の一つになっている。今月12日付の『こちら特報部』では、この靖国神社の一角にある鎮霊社にスポットを当てた。その後、読者の方々から「もっと詳細を」という要望をいただいた。前回は多忙を理由に取材に応じなかった神社側も、今回は本紙の質問に書面で答えてくれた。再び鎮霊社を舞台に靖国問題を考える材料を提供したい。 (浅井正智)

 【『こちら特報部』からの質問(1)】

 一八六九年に靖国神社の原型、東京招魂社が創建されて九十年以上たった一九六五年に、鎮霊社が建立された理由は何か。

 【靖国神社広報課の回答(1)】鎮霊社は、時の筑波藤麿宮司の発案で、戦なき平和を願い創建された御社。嘉永六(一八五三)年以降の戦争・事変にて非命に斃(たお)れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命断つなどして靖国神社に祀(まつ)られない御霊(みたま)と、同年以降の戦争・事変に関係し、死没した諸外国の御霊、二座を鎮祭している。

 一八五三年という年は何を意味するのか。この年以降の戦争で死亡した人を祀ることは、鎮霊社のみならず靖国神社本殿にも共通している。

 日本文化総合研究所の高森明勅(あきのり)代表はこう説明する。「靖国神社(当時の東京招魂社)が最初に祀ったのは戊辰戦争の官軍兵士。一八五三年のペリー来航から国難が始まり、明治維新につながったという認識があり、後にそこまでさかのぼって祀ることになった」

 【質問(2)】A級戦犯の本殿への合祀(ごうし)を避けるため、鎮霊社を建立し、以後、合祀された一九七八年まで、実際に祀られていたという指摘がある。これは事実か。

 【回答(2)】学者にはいろいろな推論もあろうが、御本殿の御祭神と鎮霊社の御祭神では全く性格を異にしている。鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象と認識している。

 このA級戦犯の事実上の分祀説を採る日大講師で現代史家の秦郁彦氏は、靖国側が「学者の推論」と直接答えていない点について、「肯定はしていないが、否定もしていない点が重要だ」とみる。

 「神社側は一時的にでもA級戦犯が鎮霊社に祀られていたなら、否定はできない。だが、肯定すれば、A級戦犯は鎮霊社から分祀して本殿に移されたと認めることになる。これは靖国を深刻な矛盾に直面させる。つまりA級戦犯の本殿からの分祀を拒んでいる靖国自身が、分祀した過去を認めることになるからだ」

■『顕彰ならば 政治的行為』 

 鎮霊社の霊が「奉慰」の対象で、本殿の霊が「奉慰顕彰」の対象と差のある点についても注目される。

 筑波大学の千本秀樹教授(現代日本史)は「慰霊ならば宗教的な行為といえるが、顕彰というのは国のために死んだ人をたたえるという政治的な行為だ。靖国神社は政治的な施設であり、しかもA級戦犯を顕彰の対象にしていることが明確になった」と指摘する。

 【質問(3)】鎮霊社はだれを祀っているのか。「朝敵」や「逆賊」の怨霊(おんりょう)を鎮める役割を担っているのか。

 【回答(3)】御本殿で祀られていない全世界の戦争犠牲者であり、具体的な名前を挙げての鎮祭ではない。(怨霊論は)学者により説はさまざまあろうが、神社としては(1)で述べた通り。

 千本氏は、鎮霊社が戊辰戦争で官軍と戦った会津藩白虎(びゃっこ)隊や西南戦争で明治政府と戦った西郷隆盛らの「逆賊」の恨みを鎮めるためにつくられたという見解を採る。

 これに対し、高森氏は「鎮霊社と怨霊はおよそ結びつかない」と強調する。

 「怨霊を鎮めるというのは、不遇の死を遂げた人が現世にたたりをもたらすという発想に基づく。そうならば、この霊を祀らないとたたりがくるという具体性が示される必要がある。だが、全世界の戦没者を祀る鎮霊社にはこうした関係を考えることはできない」

124片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:38:01
 【質問(4)】鎮霊社はなぜ鉄柵で囲われ、一般参拝者が近づけないのか。

 【回答(4)】過激派の活動が盛んであった昭和四十年代に、警備上、御本殿をはじめ、元宮、鎮霊社を守るために鉄柵を設けたのであり、鎮霊社だけを囲っているわけではない。また、現在、拝殿脇より誰でも参拝できる参道を設ける計画を進めており、十月には竣工(しゅんこう)予定だ。

■謎めいた存在10月には公開

 千本氏は「九〇年代まで天皇制に関心がある人でも、靖国神社を問題視する人はほとんどいなかった。かつての『靖国神社国家護持法案』に反対したのもキリスト者が中心で、日本の左翼は何もしていない。過激派対策のための鉄柵というのは、後から取って付けた理由としか思えない」といぶかる。

 秦氏は「靖国は分祀論にからんで、鎮霊社に関心が向くことを好まない」という見方を示す。今後、参道を設けるという点についても「一般の人が近づけず、しかも分祀論と結びつけられると、鎮霊社はいよいよ謎めいた存在にみられてしまう。むしろオープンにした方がよいという判断が働いたのでは」と推測する。

 【質問(5)】

 鎮霊社の例祭日(七月十三日)には、どのような方式で祭事が行われるのか。

 【回答(5)】

 他の祭事同様、神道の儀式で行われている。

 キリスト教やイスラム教などの一神教は他の神を認めない。このような信者を鎮霊社に祀り、国家神道方式で祭事をするのは、彼らの宗教心を冒涜(ぼうとく)することにはならないか。

 靖国自身は「名前を挙げての奉慰ではなく、戦争犠牲者全般の鎮祭であり、日本古来の神道形式で他国の戦争犠牲者全般の魂を鎮めることが、必ずしも冒涜にあたるとは認識していない」と補足して説明する。

 高森氏も「靖国神社がその一神教を国家権力と結びついて弾圧するのでない限り、独自に祭祀(さいし)対象を設定することを第三者が妨げることはできない。仏教系教団でも類似した例はあるが、それが問題になることはない」と靖国側を擁護する。

 これに対し、千本氏は「靖国が宗教法人である限り、祭祀対象を自由に決めることができる。しかし靖国がもつ強い政治的性格を考えると、純然たる宗教法人とはいえず、祀られることを拒否できないのは問題がある」と主張する。

 総じて今回の靖国側の回答は抽象的で、極めて慎重だった。そんな姿勢の背景を千本氏はこう分析する。

 「靖国神社自身がこれから戦没者を顕彰する政治的な施設として存続していくのか、慰霊・追悼に絞った宗教施設になるのか、自身の中で解決されていない。そのことが、外部に対して意見を明確に打ち出せないことにつながっている」

<メモ>鎮霊社 靖国神社の本殿脇に1965年、ひっそりと建てられた。現在は鉄柵で囲まれ、一般参拝者は存在にすら気づかない。本殿とは対照的に、明治維新の“逆賊”やイラク戦争などで亡くなった「万邦諸国の戦没者」も祀っているとしている。本殿でのA級戦犯合祀を回避するため、A級戦犯を一時的に祀っていたという指摘もある。

<デスクメモ>

 “逆賊”たる会津武士の末えいで、戦後右翼の大物だった故田中清玄氏は生前「(靖国参拝とは)長州藩の守り神にすぎないものを全国民に拝ませているようなものなんだ。ましてや皇室とは何の関係もない」と言い切った。靖国問題は「右左」で語れるほど単純ではない。まずは事実の把握が何より大切だ。 (牧)

125とはずがたり:2006/09/07(木) 16:58:56
嘘つけ!平安時代は結構色んな名前を付けてた筈>皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

新宮さま誕生、命名も秋篠宮ご夫妻で
秋篠宮家 男児ご誕生
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060906ic03.htm

 秋篠宮家に新宮さまが誕生した。7日目の12日には「命名の儀」が行われ、お名前が決まる。誕生に伴う儀式の流れは――。

  ◆賜剣(しけん)

 新宮さまが誕生した6日、天皇陛下からさっそく守り刀が贈られる(賜剣)。皇太子ご夫妻の長女、愛子さま(4)の時は、反りのない刀身約26センチの白サヤ短刀だった。女子には袴(はかま)の目録が添えられる。職員が病院の枕元に置き、守り刀として生涯、身近に置かれることになる。

 ◆お名前とお印(しるし)

 皇室の名前は、男子は「仁」、女子は「子」で2文字が原則。例外はあるが、858年に即位した清和天皇以来の伝統という。

 皇太子ご夫妻の長女、愛子さまの場合は、学者3人が天皇陛下に複数の案を上申し、陛下が皇太子さまの意向を聞いて決められた。陛下が決めるのは自分の子や皇太子の子の場合で、宮家は宮さまが決定される。秋篠宮さまは長女の眞子さまも、二女の佳子さまも、ご夫妻で相談して決められた。

 一方、身の回りの品につけるお印は、眞子さまは「木香茨(もっこうばら)」、佳子さまはハイビスカスの一種「オオハマボウ」の沖縄地方の呼称「ゆうな」。ともにご夫妻が好きな花を選ばれた。
 「命名の儀」は、お名前とお印が記された2枚の和紙をご夫妻で確認されたあと、宮務官が白木の桐箱(きりばこ)に納め、お子さまの枕元に置く。

 ご夫妻は、男女それぞれのお名前を考えられていたという。

 ◆皇統譜登録

 新宮さまのお名前は、官報に掲載されたあと、皇室典範の規定に従って皇室の戸籍である「皇統譜」に登録される。皇統譜は天皇、皇后両陛下を記載している「大統譜」と、その他の皇族用の「皇族譜」があり、新宮さまは、皇族譜に名、父、母、生年月日と誕生の時刻などが記され、羽毛田信吾・宮内庁長官と折笠竹千代・書陵部長が署名する。正本は宮内庁、副本は法務省で管理されている。

 ◆賢所皇霊殿神殿(かしこどころこうれいでんしんでん)に謁(えっ)するの儀

 誕生から50日を過ぎたころ、紀子さまに抱かれ、皇居内の賢所皇霊殿神殿にお参りする。一般の「お宮参り」で、新宮さまには白羽二重の産着が用意される。

 ◆初参内

 「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」を終えると、新宮さまは紀子さまに抱かれて御所を訪ね、天皇、皇后両陛下にあいさつされる。

 ◆お箸初(はしぞめ)

 一般のお食い初めと同様の儀式が120日目ごろに行われる。
(2006年9月6日14時10分 読売新聞)

126名無しさん:2006/09/07(木) 22:41:34
>>125
当初は仁の方が例外的で、11世紀ごろに増えだし、
14世紀ごろにようやく定着といった感じですね。

足利尊氏に名を与えた後醍醐天皇は「尊治」でした。

http://nekhet.ddo.jp/people/japan/jpn-emp.html

127片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/07(木) 23:23:59
そういえば、年号も、M T Sと来て、アルファベットをかぶらないようにHにしたという話がありますね。
修文や正化ではSになり、もうその略称が使えなくなりますから。
修文のほうが引き締まったいい年号のようにも思えますがねぇ。

O K N Y J D あたりでしょうね、次は。

>>125>>126
護良親王とかいましたねー。
例外なのか原則でさえなかったのかよくわかりませんけども、当時はどういう意識だったんですかね。
伝統慣習重視の命名者が仁をつけて、型破りな思考の者がつけなかったりしたんだろうか。

かぶらないで「○仁」ってつけるのは大変だな。即位した人だけならまだしも、即位してない人も合わせると・・・。

孝仁、常仁とかですかね。思いつきですが、樹仁(みきひと、たつひと)なんてのはどうでしょうか。

128とはずがたり:2006/09/07(木) 23:49:44
例外はあるかもしませんが
醍醐天皇の皇子は○明(安和の変で失脚した源高明が有名)
村上天皇の皇子は○平
後醍醐天皇の皇子は○良
で統一してあったり,結構天皇毎の特色が出たりしてましたね。

129とはずがたり:2006/09/16(土) 12:23:22
素晴らしい対応だ,(新)津市。合併によるメリットはかくありたい。

旧明村役場庁舎が国登録文化財に
芸濃で解体の危機免れる
http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060916/lcl_____mie_____006.shtml

 15日の国の文化審議会の答申で、津市芸濃町林の「旧明(あきら)村役場庁舎」が登録有形文化財(建造物)になることが決まった。旧芸濃町が解体しようとしたが、合併後に津市がストップをかけ、間一髪で貴重な文化財が守られた。大正初期の官庁庁舎は珍しいという。

 同庁舎は1916(大正5)年の建築。木造2階建て瓦ぶき。下見板で張った壁、上げ下げ窓など洋風デザインで、明治と大正の様式を融合させた。角地の立地を生かして玄関を建物の角に配置。ポーチを張り出し、その2階部分をバルコニーにするなど玄関部分を強調した特色ある構造となっている。旧津署の外観を参考にしたといわれている。

 56年の合併で芸濃町役場明支所となり、71年から町資料館として使用してきた。旧芸濃町は昨年、老朽化のため解体を決めたが、合併で工事の執行を引き継いだ津市が一転、保存することにした。県内の登録有形文化財は建造物で58件目。 (矢野修平)

130とはずがたり:2006/09/27(水) 03:51:22

福島市は福島県の県都としては明らかに北に寄り過ぎており,福島県を福島県とするのは余り適切ではない様な気がしてた。県の地理上の中心なら郡山だし,若松の歴史も古い。福島に県庁を置いたのは会津の影響を成るべく小さくしたかった明治政府の意向があったのではないかと思ってたけど,福島市が長らく東北の地方中枢都市機能を仙台市と分担しており,可能性としては今の仙台市の様な位置に成長した可能性もあったというのもあったのではないか?とちょっとこの記事を読んで思った。

東北電力福島営業所ただ壊すには惜しい
http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kennai/20060925/ronsetu.html

 福島市は歴史的な建築物をまたも失ってしまいそうだ。同市置賜町の東北電力福島営業所社屋で、解体・撤去への動きが進んでいる。平成7年から行われている都市計画道路・栄町―置賜町線の拡幅に伴い、敷地と社屋の約半分が事業対象となっているためだ。保存や移築は極めて難しい現状だという。

 同営業所社屋は昭和2(1927)年に福島電燈(でんとう)株式会社本社として完成。その後、東北配電―東北電力に受け継がれた。コンクリート製一部石造りで洗練された外観。車寄せや玄関が撤去され、内部が大幅改修されているものの、昭和初期の面影を残した貴重な建築物と言える。本県の産業発展を支えた電力供給の拠点として近代化遺産の価値もある。また、庭園は大正時代に酒造業を営んでいた加賀屋総本家の別邸の庭だ。樹齢100〜150年のナシの古木が枝を伸ばす。

 同市内には、かつて日本銀行福島支店や県農工銀行(第一勧業銀行支店)など明治・大正期の建造物があった。しかし、改築などによって相次いで姿を消した。一方、花の写真館(旧日本電気計器検定所福島試験所)や御倉邸(旧日銀福島支店長役宅)など、古い建築物を保存・活用する動きも広がっている。市民の中から社屋保存を求める声が上がるのも当然だろう。

 拡幅事業はJR福島駅の東側一帯の慢性的交通渋滞の緩和や市街地の回遊性促進などが狙い。栄町―置賜町線は県道と13号国道を結ぶ延長220メートル。現在7〜8メートルの幅員を22メートルに広げ、両側に広めの歩道・自転車道を新設する。車道は交互交通に切り替え、駅前を発着するバスが迂回(うかい)せずに直進できるようになる。電線を地中化し、ミニ公園を設ける予定だ。総事業費は約42億円で、22年度完成を目指す。

 拡幅事業に異議を唱えるつもりはない。しかし、拡幅地を道路反対側に設定したり、営業所敷地を迂回することはできなかったのだろうか…。市によれば、拡幅はバスプール移転など駅前整備と密接に関連しており、反対側を拡幅すればバスプールからの道が「鍵形」となって円滑な通行を妨げかねない。迂回策も、道路延長が短いため「無理な形になる」としている。

 社屋をそっくり後退させる案もこれまでに検討された。背後地が狭い上、費用が新築以上にかかるため断念せざるを得ないという。地権者の多くが既に立ち退きを済ませており、現時点での変更は協力を無駄にする結果を招く。

 現在、市と同社が協議を重ねており、市は20年度にも工事に入りたい考え。「ナシの古木などは移植を含めて保存を検討したい」としている。近年は建物の外観や一部を残しながらビルを建設したり、イメージ・デザインを受け継ぐ開発も試みられている。建物についても、何らかの形で保存したり、“記念物”を残す努力を望みたい。約80年の県都の歩みを見つめてきた建物をただ壊してしまうのは、やはり惜しい。
 同市に限らず県内には貴重な建築物はまだ多く、今後も同様の事態が起こり得る。計画時には配慮を求めたい。何より「壊して建て直す」から「生かしながら再開発」への転換が必要だろう。(鈴木 久)

131小説吉田学校読者:2006/09/28(木) 20:57:05
>>130
明らかに道路の邪魔でもありました。建物を壊さずに道路をギリギリに広げる福島市の街づくりがダメなのであります。おかげで狭い路地ばっかり・・

福島の位置は確かに変で、「郡山遷都論」もありますが、「福島県はオーストラリアに形が似ているんだから、シドニーとキャンベラみたいに政治と経済がある程度分離していてもいいんじゃないか」論もあるのも事実ではあります。
「行政、農政は福島、経済は郡山」みたいな区分けが地元に染み付いて、もう慣れているのも確かではあります。でも、経済発展は阻害しているよね。。

132とはずがたり:2006/09/28(木) 21:27:34
>>131
どんちゃんさわぎをした友人どもには理由を話して見に行くの付き合って貰ったのでしょうか??とまれ乙っす。

>行政、農政は福島、経済は郡山
行政=福島,商業=郡山,工業=いわきのイメージでしたが,最近福島は仙台に買い物客迄取られて衰退してるのではないでしょうか?
嘗ては東北一の人口を有する福島県の県都にして山形にも仙台にも近いという地の利が結局活用されませんでしたねぇ。

>でも、経済発展は阻害しているよね。。
県都がその政治力故に県内で一方的に発展するという構図は不健全だと思いますのでまぁこれでも良いのかもしれません。。

133小説吉田学校読者:2006/09/28(木) 22:21:17
>>132
いやあ、福交飯坂線のわびしさ最強。
東北電力福島支店は福島駅のすぐ近くにありますよ。
まあ、それはそれでありまして、福島の地の利は「山形にも仙台にも近い」んですが、どちらも山を越えなきゃいけないのがきついところですね。

134とはずがたり:2006/10/21(土) 12:32:23

角栄時代は遠くに成りにけり??

<田中角栄元首相>中越地震で破損の胸像、修復されずに2年
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061020-00000020-mai-soci

 新潟県中越地震で破損した小千谷市の故田中角栄元首相の胸像(銅製、台座を含む高さ2.5メートル)が、地震から2年たつ今もそのままになっている。修復の話も出たが、建てられた当時の関係者の多くが亡くなっており、資金が集まらないという。ロッキード事件で元首相が逮捕されてから30年。地元では「角栄先生の威光も昔話」とのぼやきが聞かれる。
 胸像が建てられたのは元首相が蔵相当時の1964年。当時の市長ら有力支持者が発起人となり資金を募集、市内の彫刻家に依頼し、信濃川を見下ろす神社に建てた。
 地震では土台のコンクリート部分が崩れ、台座も横に約30センチずれた。地元や長女の田中真紀子衆院議員の後援会関係者らから修復の声が上がったが、管理者が分からず、費用負担の協議もまとまらなかった。いまだに修復費の見積もりすらされていないという。
 同後援会の幹部は「(真紀子氏の)事務所に修復や移転を要望している」と話すが、長岡市の同事務所は「小千谷市の有志が作ったもので、直接関係ない」と当惑顔だ。
 胸像の向かいで、元首相がよく訪れた料亭を経営していた内山芳郎さん(76)は「地震で小千谷はめっきりさびれた。田中先生が生きていれば、復興はもっと良くなったはず」とさびしげに話した。【前谷宏】
(毎日新聞) - 10月20日13時26分更新

135今亜寿 ◆nlHjMum/8M:2006/10/22(日) 09:18:58
>>134
角栄銅像といえばJR浦佐駅のものかとおもったら小千谷市ですか。
当時の市長って星野某ですかねえ。

私は北陸ツーリングにいったとき、銅像が長岡駅にあるかと思って駅前で
掃除してた老人に聞いたところ「みんなここ(長岡)にあると思って
聞くんだよなー」といわれましたw

136片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/11/23(木) 23:50:54
この資金提供って、どれくらいの意味合いがあったんだろう。

ライシャワー勧告で中止 自民党への秘密資金工作
http://www.sanyo.oni.co.jp/newsk/2006/11/23/20061123010003271.html

 ワシントン23日共同】1950年代後半から60年代にかけ、日本の保守政権安定と左派の弱体化を狙って自民党有力者らに資金を提供していた米中央情報局(CIA)の「秘密資金工作」は、工作発覚により日米関係に重大な支障が出ることを懸念した故ライシャワー駐日大使(当時)の勧告を受け、中止が決まったことが23日、分かった。関連文書の内容を知る米政府高官が共同通信とのインタビューで語った。

 自民党有力者と、旧社会党右派を指すとみられる「左派穏健勢力」に秘密資金を提供していた同工作をめぐってはことし7月、国務省刊行の史料集「米国の外交」で存在が確認された。しかし関連文書は公開されていないため、中止に至る経緯は分かっていなかった。

 高官はまた、米政府が秘密工作の中止に至る経過を伝える公文書3点の開示が、在日米大使館とCIAの反対で見送られたことを明らかにした。開示に踏み切った場合の日米関係への影響を危惧したとみられる。

 高官によると、ライシャワー大使は64年1月、国務省の要請を受け、秘密資金工作に関する意見を伝達。(1)日米関係が成熟し、親米政治家への資金提供の必要はなくなった(2)工作発覚時のダメージが大きい−ことを理由に中止を勧告した。

 高官は、ジョンソン米政権が最終的に工作中止を決める際、この勧告が「非常に決定的だった」と解説した。

 今年7月に国務省が出した「米国の外交」第29巻第2部「日本」は、秘密工作に関するライシャワー氏のホワイトハウスあて書簡など関連公文書を掲載せず「編集者による注釈」として秘密工作の概要だけを説明した。

137名無しさん:2006/11/25(土) 08:18:36
>>136
一番大きな効果は、社会党分裂・民社党結党('59〜'60)でしょう。


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