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近現代史綜合スレ

123片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2006/09/03(日) 17:29:10
鎮霊社『靖国』の回答検証
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060829/mng_____tokuho__000.shtml

 靖国問題は自民党総裁選の中で数少ない争点の一つになっている。今月12日付の『こちら特報部』では、この靖国神社の一角にある鎮霊社にスポットを当てた。その後、読者の方々から「もっと詳細を」という要望をいただいた。前回は多忙を理由に取材に応じなかった神社側も、今回は本紙の質問に書面で答えてくれた。再び鎮霊社を舞台に靖国問題を考える材料を提供したい。 (浅井正智)

 【『こちら特報部』からの質問(1)】

 一八六九年に靖国神社の原型、東京招魂社が創建されて九十年以上たった一九六五年に、鎮霊社が建立された理由は何か。

 【靖国神社広報課の回答(1)】鎮霊社は、時の筑波藤麿宮司の発案で、戦なき平和を願い創建された御社。嘉永六(一八五三)年以降の戦争・事変にて非命に斃(たお)れ、職域に殉じ、病に斃れ、自ら生命断つなどして靖国神社に祀(まつ)られない御霊(みたま)と、同年以降の戦争・事変に関係し、死没した諸外国の御霊、二座を鎮祭している。

 一八五三年という年は何を意味するのか。この年以降の戦争で死亡した人を祀ることは、鎮霊社のみならず靖国神社本殿にも共通している。

 日本文化総合研究所の高森明勅(あきのり)代表はこう説明する。「靖国神社(当時の東京招魂社)が最初に祀ったのは戊辰戦争の官軍兵士。一八五三年のペリー来航から国難が始まり、明治維新につながったという認識があり、後にそこまでさかのぼって祀ることになった」

 【質問(2)】A級戦犯の本殿への合祀(ごうし)を避けるため、鎮霊社を建立し、以後、合祀された一九七八年まで、実際に祀られていたという指摘がある。これは事実か。

 【回答(2)】学者にはいろいろな推論もあろうが、御本殿の御祭神と鎮霊社の御祭神では全く性格を異にしている。鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象と認識している。

 このA級戦犯の事実上の分祀説を採る日大講師で現代史家の秦郁彦氏は、靖国側が「学者の推論」と直接答えていない点について、「肯定はしていないが、否定もしていない点が重要だ」とみる。

 「神社側は一時的にでもA級戦犯が鎮霊社に祀られていたなら、否定はできない。だが、肯定すれば、A級戦犯は鎮霊社から分祀して本殿に移されたと認めることになる。これは靖国を深刻な矛盾に直面させる。つまりA級戦犯の本殿からの分祀を拒んでいる靖国自身が、分祀した過去を認めることになるからだ」

■『顕彰ならば 政治的行為』 

 鎮霊社の霊が「奉慰」の対象で、本殿の霊が「奉慰顕彰」の対象と差のある点についても注目される。

 筑波大学の千本秀樹教授(現代日本史)は「慰霊ならば宗教的な行為といえるが、顕彰というのは国のために死んだ人をたたえるという政治的な行為だ。靖国神社は政治的な施設であり、しかもA級戦犯を顕彰の対象にしていることが明確になった」と指摘する。

 【質問(3)】鎮霊社はだれを祀っているのか。「朝敵」や「逆賊」の怨霊(おんりょう)を鎮める役割を担っているのか。

 【回答(3)】御本殿で祀られていない全世界の戦争犠牲者であり、具体的な名前を挙げての鎮祭ではない。(怨霊論は)学者により説はさまざまあろうが、神社としては(1)で述べた通り。

 千本氏は、鎮霊社が戊辰戦争で官軍と戦った会津藩白虎(びゃっこ)隊や西南戦争で明治政府と戦った西郷隆盛らの「逆賊」の恨みを鎮めるためにつくられたという見解を採る。

 これに対し、高森氏は「鎮霊社と怨霊はおよそ結びつかない」と強調する。

 「怨霊を鎮めるというのは、不遇の死を遂げた人が現世にたたりをもたらすという発想に基づく。そうならば、この霊を祀らないとたたりがくるという具体性が示される必要がある。だが、全世界の戦没者を祀る鎮霊社にはこうした関係を考えることはできない」


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