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近現代史綜合スレ

107とはずがたり:2006/07/02(日) 20:14:10
色々酷いなぁ。。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年 消極姿勢際立つ藤岡町 /栃木
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060626-00000059-mailo-l09

 藤岡町を貫く渡良瀬川のほとりに、足尾鉱毒事件に生涯をささげた田中正造の銅像が木々に囲まれて建つ。人目につかないその姿は、同町の正造への態度を表しているようにも見える。鉱毒事件を郷土史の欠かせない一部として伝える茨城県古河市や埼玉県北川辺町などに比べ、藤岡の消極姿勢は際立っている。[塙和也]
 ◇薄れゆく記憶に危惧も
 谷中村が1906(明治39)年に廃村となった際、合併先の藤岡町には古河市に次ぐ66戸が移り住んだといわれる。明治政府の買収に協力する「役場派」と、あくまで村に残ることを主張した「正義派」。廃村前から谷中村民は分裂した。
 役場派は廃村後も「裏切り者」と後ろ指をさされ、正義派も、正造を政府に盾突いた「国賊」と見る町内外の人たちから批判の的にされた。さらに、「谷中上がり」と呼ばれた子孫への差別が戦後も続き、次第に町民も旧村民も鉱毒事件に口を閉ざすようになった。
 昨年から今年にかけ、谷中村の子孫らが中心となり、廃村となった7月1日の記念日化を求めて藤岡町議会に請願や陳情を出した。だが、いずれも不採択。「廃村を語るなんて寝た子を起こすようなものだ。公害なんて暗いことは掘り起こさない方がいい」。採択に反対した岡田安雄町議は強調した。一方、谷中村残留民の末えいでもある島田稔町議は「議員という立場上、(自分の)意見は控えた」と苦しげだが、残留民らで続けてきた「田中霊祠」(正造を祭る神社)の例祭などは「子々孫々まで守るつもりだ」と言い切る。
 廃村100年の節目でありながら、町が独自に主催する催しはない。国土交通省によるイベント「谷中メモリアル100」も、鉱毒事件より、遊水地開発に向けたアピールの場となる可能性が強い。国は明治時代から、谷中村の廃村は鉱毒ではなく洪水の問題だと主張してきた。旧村民が鉱毒被害を語らなくなったことで、第二貯水池の掘削問題でも「遊水地の目的はあくまで治水対策」とする国交省側の主張のみが公の場で語られる。
 藤岡町はかつて町史の一部として谷中の資料を編さんするなど、記録作業に貢献したこともあった。それだけに、現状を危惧(きぐ)する人も多い。「今の町の姿勢では谷中の記憶は薄れていく。遊水地に30以上もある団体が、活動で一つになれないのも残念だ」と、谷中村民の菩提(ぼだい)寺「赤麻寺」の仙田光俊住職は語る。
 古河市で教育委員会とともにさまざまな行事を立案する「田中正造を後世に伝える会」の佐々木斐佐夫会長(76)は「合併先である肝心の藤岡町があまりにも消極的だ。『公害の原点』としての廃村は右も左もない歴史的事実。語り継がないのはおかしい」と憤る。(随時掲載します)

6月26日朝刊
(毎日新聞) - 6月26日12時3分更新


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